Nixonをみた
幸せがおカネで買えるワケ アメリカの家族の形
この映画は、現代アメリカ人の生活と、現代アメリカ人の家族関係、現代のアメリカ社会の問題をキョーレツに皮肉った隠れた批判を行っている、その意味で、一種上質なブラックコメディになっている。あまりに面白くて、眠かったのにもかかわらず、つい2時間、引き込まれるように見てしまった。アー面白かった。
消費生活が重視型のアメリカ人、他人が持っているものがいいと思うとほしくなったり、自分の支払い限界を超えて物を購入したり、家族といいながら、個人主義が徹底したあまり、単なる与えられた家族の役割としてのペルソナ(仮面をかぶった時の役割)を果たす同居人の集合体になってしまっているちょっとおかしな家族の姿をうまく描いていた。アメリカのどこかの町には、この種の家族に似た家族がいるかも、と思わせるような映画であった。
このペルソナの問題は、キリスト者においてもあると思う。このペルソナと本人自身の実態がずれてしまったときの悲鳴が、キリスト者2世・3世問題でもあるのではないか、とふっと思ってしまった。(あー、もう2世・3世問題から離れる、と決めたのにぃ)
閑話休題。映画の話に戻そう。
企業から販促を依頼された企業(たぶんコンサルタント会社かなぁ)が、全くの赤の他人を4人集め、その世代に売り込みたい商品を日常生活で使用させ、見せびらかせることによって、売上を上げさせようとするための疑似家族(Pseudo-Family)を形成させ、その疑似ファミリーとその周辺の人物が巻き起こす、悲喜劇【中には笑えないものもある】を取り扱った映画である。ディズニー映画ではないので、死亡者が出たりするところや、裸のシーンがあるので、子供と一緒に見られない映画であるが、非常に皮肉の利いた映画になっている。
というのは、この疑似家族の生活スタイルが、アメリカ人の生活そのものであるからだ。以前、このブログで紹介したWhat would Jesus buy?を紹介した記事でも紹介したように、消費することによって、それもクレジットカードを限度枠いっぱいまで使い切ることで生きるところに追い込まれ、虚栄(見栄)を追い続けている人々への痛烈な批判となっているからである。
まず、この疑似家族(というよりは似非家族)の食事の姿が面白い。基本的に食べているものが、朝食は、シリアルに牛乳かけたものだし(あ、これ、まずいわけでは決してない。そこそこパリパリ感にはまるところはある。)、夜は夜で、TV Dinnerと呼ばれる一人で食べれるセットメニューになった冷凍食品だったり、デミ・ムーアがしている、この疑似家族の母親役が食べている夕食は、プロテインバー(日本だと、ソイジョイとか、カロリーメイトが有名)だったりする。そういえば、知り合いの大学教員に、夕食は基本的にNatural Madeみたいなサプリメント錠剤だけ、という剛の者もいたことを、ミーちゃんはーちゃんは思い出した。リアルにこういう人がいるのもアメリカ。それをみんなで、食べるのでもなく、テーブルに向って黙々と個人個人が食べるのである。Demi MoorがポップコーンやChipsだと思うのだが、ジャンクフードを一人ベッドルームでPCを触りながら、また、書類をめくりながら、ぼりぼりやるシーンが二回くらい出てくるが、これまた、アメリカである。
また、この疑似家族の構造で、一番のボス(チームリーダー)はだれか、というとこの家族の母親役(Demi Moore)である。アメリカでは、父親がリーダーということに一応文化的、思想背景的にはなっているが、実態は、母親がリーダーであることが多い、という強烈な皮肉になっている。この疑似家族のリーダーは、絶対に母親役であるのが重要なのである。
ところで、父親役が社会的通念でもあるペルソナに従って(この辺りが2重に皮肉になっている)、リーダーとしての雰囲気をうまくだしつつ、「一応家族なんだからさぁ、もうちょっと家族をまとまろうよ」と言いだすと、母親役のDemi Mooreがいらんことをするな、と言い出し、挙句の果てに、家族をUnitと言い出す始末。ちなみに、Unitとは、字幕では、チームと訳されていたが、実際には米軍用語で、最小戦闘単位を意味する。つまり先遣小隊、くらいの意味なのである。しかし、Unitねぇ。
昼間は昼間で、それぞれの仕事(?)である他人に見せびらかせ、他人に買いたい、お金を使って、理想と見えるものを手に入れたいという衝動を起こさせることに励んでいる。母親役のDemi Mooreはネイルサロンや、ヘアサロンに出没し、地域社会のネットワークのハブになっている人を捕まえる。それで、自分という存在ではなく、自分が身につけている商品を受け入れさせることに血眼になる。父親役は父親役で、プレゼント用の宝飾品や、ゴルフグッズ、高級自動車(Four Silver Ringsといったらわかりますよね。よく怒らんかったなぁ。)を見せびらかす。長女役は長女役で、女子高生に服飾品や、化粧品を使わせたり、携帯電話(スマートフォン、ブラックベリータイプ)を見せびらかしたりしている。長男役は、ゲーム機や自動車(カリフォルニア州では、保険料金をバカ高い金額さえ払えれば、高校生でも自動車で通学できるし、その時にどんな車に乗るかが、彼女ができるかどうかの分かれ目になるので、非常に重要とされる。高級外車(メルセデス・BMW・日本車では、ぎりぎりレクサスシリーズ、できれば、レクサスでもコンバーチブルが望ましい)かアメリカ車だと、ガソリンを捨てて走るハマーとか、リンカーンのコンバーチブルタイプとか、ビンテージスポーツカー(特にムスタングやカマロの60年代型など。間違っても、フォードの農作業に使うピックアップトラックに乗ってはいけない。完全に田舎者扱いされる。)がよいとされる。日本車は、基本馬鹿にされていた。特にカローラ、シビックあたりはおもちゃ以下の扱いである。この乗っている車で魅力的に見せかけようとするあたりがもうすでにおバカであり、「おまえはすでに死んでいる」(ケンシロウ君の声を想像してね)状態であるはあるとミーちゃんはーちゃんは思う。そもそものっている車で女の子と仲良くなろうという発想自体が発想の貧困であると思うのであるが。また、それに乗ってくるおバカなホルモンドバドバァ!といった感じの女子高生も少数ではあるが、現実にそれも確実にアメリカ社会にはいるのである。まぁ、似たような方々は、日本の高校生にもおられるが。なお、大多数の日本の高校生が堅実であるように、アメリカのティーンネイジャーの半分くらいは、堅実である、とは思う。
ホームパーティのシーンがまたすごい。基本、買ってきた冷凍食品を解凍させ、それも、外部業者(なぜか、ヒスパニックアメリカン)に皿に盛らせるだけ、ということが出ていたが、アメリカに行ってみて、なんでアメリカ人がホームパーティが好きで、ホームパーティを気楽に何気なくできるのか、と思っていたが、その背景には、膨大な冷凍食品市場とその製品群の存在があるのである。
アメリカには、Costco(お世話になっているので悪く言いたくはないが)やTrader Joe's(ここの冷凍食品は比較的おいしい)、Target・Walmartなどには、大量にパーティ用の冷凍食品がある。この映画の中では、冷凍食品の寿司(スゥシィーと発音する)が出てきたのは、びっくりした。Google 検索してみたら、実在した。
http://www.21food.com/showroom/506458/product/frozen-sushi-set.html
参った。
また、アメリカには、この手のパーティを請け負う専門のケータリング業者がある。そのケータリング業者については、Big Moneyなんかにも出てくる。
もう、ここまでくると徹底的にアメリカの現代社会の家族の在り方、コミュニティのあり方をバカにしているのか、と言いたくなるほど徹底的に批判している。
この似非家族の隣のご夫婦が哀れである。この似非家族の見せびらかしたゴージャスな家具や、パーティ三昧の生活、虚栄の生活にあこがれ、より大きなもの、より高いものを求めた結果、当初、奥さんを喜ばせ、一瞬夫婦関係が良好になりかけるのだが、結果的に無理な消費生活がたたり、信用枠いっぱいに使い切ってしまったために、クレジットカードが使えなくなり(業界用語で、Maxed Out与信枠の超過)、家を手放さなければならなくなり、そして、最後にご主人は、似非家族が見せびらかしたテレビ付きの芝刈り機(これ、本当にあるのではないか、と思ってしまった)に自身の体を巻きつけ、入水自殺してしまうのである。もう、悲劇的というしかない。
まぁ、この事やらほかのことに腹を立てた夫役が、この家族は似非だ、と地域の周辺住民にバラして一家崩壊となっていくのだが、それとても、ねぇ、と思ってしまった。
その意味で、この映画、質実剛健であった骨太のアメリカ社会への鎮魂歌になっているように思う。あの質実剛健であったアメリカ文化はどこに行ったのか、ということを示して見せた、ブラックジョークの利いた鎮魂コメディといっていい(そんなものがあるとすれば、ですけれども)。
結局、Demi Mooreとその夫役は普通の夫婦にどうも最後にはなりそうということを予感させながら、エンディングを迎えるのであるが、その途中で、この夫役がDemi Mooreに言うシーンのセリフがすごい。「いつまで、あなたはこの仕事を続けるのだ。いつまで、他人をだまし、ものを買わせ続けるのだ、あなたは、いつまで高校生の母親役が務まると思うのか、何人偽の夫を変えれば済むのだ、あなたが年をとった時、だれと一緒にいるのだ、その時もまだ、ものを見せびらかし、売り続けるのか、死ぬとき、そばにて手を握ってくれるのはだれか」というのである(スクリプトを手に入れていないのと、半分うとうとしながら聞いていたので、正確ではありません。ご容赦を)。強烈な皮肉である。実際にアメリカ人家庭の離婚率の高さや訴訟問題の多さと崩壊した家族間関係などを暗に批判している。スッゲー皮肉、と思ってしまったのである。
一般に若いお姉ちゃん向けの映画では、スリムな女子高生しか出てこない(ゴシップガールやグリーなんか)が、この映画では、結構、ふくよかな、という基準をはるかに超えたと思えなくもない女子高生も出てくる。このあたりのこだわりが、余計にリアルさを感じた。
さて、この映画を見た日の朝の朝刊の一面見出しが、これまたショッキング。米独でマイナス金利という記事である。マイナス金利といっても、短期インターバンク(銀行間取引)市場というマイナーな市場での出来事である。このことは、自国通貨に対して、自国の民間銀行から、この通貨には信用がない、ということを明白に言われた、ということである。つまり、自国の通貨は、紙くずとは言わんが、あまり信用ならない、だから、もちたくない、借りるためのコストは払えない、と銀行が言っているようなものなのである。アドベントの季節に、メサイアが来ることがくる日を待っていたFederal Reserve(連邦準備銀行)をはじめとする中央銀行の職員さんたちは、恐怖の大王が突然やってきた、という感じではないか、と思う。
これも、それも、アメリカの家計が消費に狂い、Maxed Outしているアメリカ経済のおかしさを金利という形で露呈させたことにすぎない。まさに、この映画が批判していたことが銀行間市場でも金利を介して認められたということだと思う。
さてさて、この映画、オリジナルタイトルは、The Joneses(ジョーンズ家の人々)というタイトルであった。Jonesというのは、Indiana Jonesに見られるように、ごく普通の名前なのである。日本でいえば、田中さんや前田さんのような名前である。どこにでもありそうな、ということがこの映画のポイントである。
この映画、評価をあちこちで見たが、あまりよろしくない。そりゃそうでしょう。アメリカ文化という、アメリカ現代社会という「ものがたり」(Narratives)を共有できない人々にとっては、どこが面白いん、そんな変なこともアメリカならあるかもね、という程度の映画に見えるのだと思う。しかし、アメリカ社会のおかしさ加減に気付いている人々にとっては、まさしく、「あるある体験」であり、「あるある探検隊、登場!」といった感じの映画である。アニメ番組のシンプソンズでは、意図的にそれを示すことがあるので、あの番組が好きだし、それを見て、思わず笑ってしまうのであるが。
家族関係、そして、現代社会を痛烈に皮肉った名作と、ミーちゃんはーちゃんは思ったのでした。なお、性的な関係の乱れもきちんと扱っていましたが、紹介するのはやめました。あまりに、ミーちゃんはーちゃんにとってもおどろおどろしすぎたので。
評価:
価格: ¥1,000 ショップ: HMV ローソンホットステーション R コメント:アメリカで過ごすとわかる痛烈なブラックコメディ。豊かさとは何か、家族とは何か、を社会派でもなく、コメディでもなく描いているが、確実にブラックコメディといえる作品 |
『黄金のアデーレ』 名画の帰還という映画を見た
さて、たまたま、テレビを付けたら映画をやっていたので、『黄金のアデーレ 名画の帰還』という映画を見ルトもなしに見始めた。すると、これが面白いのでたちまち引き込まれてしまった。この映画は、オーストリアでのユダヤ人迫害の仮定で起きた出来事を扱っており、映画の中心的素材として、『黄金の女』と呼ばれるクリムトの名画、作品をおき、その名画を中核として、様々な出来事が展開し、そして、そのうえで、和解を扱い、和解についても考えさせるような作品であったし、あぁ、ここまで聖書の出来事がこの人たちのメタファーとして用いられているのだなぁ、と思った。
「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」 ウィキペディアから
この映画について
この映画は、基本実話をもとに多少、創作が入った作品であるらしい。史実の面に関しては、色々あるらしいが、何より、圧倒されたのは、ヨーロッパの文化と歴史の厚みであり、その歴史が個人の様々な行動で編み上げられており、作り出されていることを感じさせる映画であった。
同映画の公式サイトは、こちらからどうぞ。
非常に簡単に言うと、グスタフ・クリムトの作品の一つ「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」あるいは、「金の女性」という絵画をめぐり状況から、ヨーロッパとアメリカの近現代史を背景に描き出した作品である。
同映画の予告編
このクリムトの作品は、第2次世界対戦前に、あるユダヤ人家族の所有のもとで、その一族が住んでいた家にかけられていた絵画だったのだが、ナチスドイツがオーストリアに流入、あるいは、実質上オーストラリアを併合し、ナチス・ドイツがオーストリアに進駐する中で、逃げ遅れた家族が住んでいた家にかけられていた絵画の一点であるようであった。ちょうど、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の描くトランプ一家がスイスに脱出する前後に起きた事件を扱った映画であった。
サウンド・オブ・ミュージックの予告編
登場する関係者がすごすぎ・・・
この映画の主人公は、この絵画が保管されていた家に住んでいた親族の一人で、クリムトの絵画のモデルのアデーレ・ブロッホ・バウワーの姪に当たる実在の女性、マリア・アルトマンである。この女性は、男性オペラ歌手と結婚し、ギリギリのところで、ウィーン(ヴィェナ)からドイツのケルンに脱出し、どういう経路を辿ったかは不明(詳しいことは映画の中では触れられていなかった)だが、アメリカにたどり着く。そして、このクリムトの作品のモデルとなった姪の老後を演じたのが、ヘレン・ミレン(ディム・ヘレン・ミレン)である。そして、このヘレン・ミレン演じる老婆であるマリア・アルトマンの代理人となった弁護士が、E.ランドル・シェーンベルグという人物だったらしく、このシェーンベルグさんは、おじいさんに当たる人が、オーストリアの近代作曲家で、12音音楽を確立したアルノルト・シェーンベルグであった。このアルノルト・シェーンベルグもナチス支配から逃れてカリフォルニアに移住する。
アルノルト・シェーンベルグの作品
もうこのへんで、なんだか、クリムトやシェーンベルグと言った19世紀から20世紀にかけての西洋絵画や音楽の有名人がかなりたくさん出てきてお腹いっぱい(おお、ヨーロッパは芸術文化の厚みが違うわい)感になった。
ところで、クリムトの「黄金の女」、あるいは、「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」は、ナチス占領下で、ナチス・ドイツに接収され、オーストリアの美術館に飾られることになる。ここでややこしいのが、この有名なクリムトの絵画のモデルになった人物アデーレ・ブロッホ=バウアーが、配偶者の死後、オーストリアの美術館にその作品を寄贈するという遺言を残していたことなのだが、その関係で、この所有権をオーストリア政府は自分たちにあると主張し、主人公のマリア・アルトマンは、この黄金の女性と呼ばれていた絵画は、略奪されたもので、本来の所有権者であるはずの自分に返せ、という主張をするのであり、その主張の間で法廷闘争、ありとあらゆる法廷闘争のマニューバーがこの絵画を巡って行われるのも、見どころの一つであるが、今回、この映画を見て、思ったのは、名前を奪うことの暴力性である。
名前を奪ったナチス・ドイツの精神性
どういうことかというと、第2次世界対戦後、このクリムトの絵画のタイトルとして、戦後オーストリアで展示されていたときには、そもそもこのクリムトの作品のタイトルであった「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」にかわって、無名性を持つようなタイトル「黄金の女性」というタイトルに変えてしまったところに、このマリア・アルトマンと弁護士のシェーンベルクくんが怒りまくるのである。そして、この美術作品を単なる「黄金の女」とすることは、この肖像画に描かれた一人の人物の人格を失わせる暴力行為に対する怒りをぶちまけるのである。
マリア・アルトマン(2010年当時)
つまり、それは何かというと、名前という人格と直結したものを奪った、ナチスドイツの暴力性と、それが極みまで発揮されたホロコースト、アウシュビッツやダッハウなどの強制収容所の暴力性にも、つながっているんだなぁ、ということが非常によくわかった。
あるものを一般化して、個人として見ることなく、ラベルを貼る、ラベルを張り替えることも、ある面暴力的な行為なのであろう。そして、貼られたラベルが独り歩きし始めると、さらに暴力性を増し、理解が独り歩きするようなことが起きやすくなる。これに関しては、直前の連載のルーテル・セミナーでの信仰義認のことばにまつわるご講演と礼拝説教の要約をご覧いただきたい。まぁ、恩寵義人としたところで、このように名前をつけてしまうと失われるものがあるので、これまた問題であるように思う。
その意味で、ある程度簡略化したラベルから理解するのではなく、常にオリジナルに当たり、その実像を確認するということは、面倒くさい作業ではあるが、その精神は大事だと思う。それは先人の努力に対する現代を生きる我々からの正当な評価にもつながっているのであろう、と思う。
和解について考えさせられた
詳しくはこの映画の他に、ドキュメンタリー映画が何本かあるらしいので、法廷闘争や、最終的な結論に至る過程が直接の関係者により触れられているようなので、そちらをご覧いただきたいが、この映画を見て、もう一つ面白いなぁ、と思ったのは、最終的な決定が出たあとの映画の役柄としてのマリア・アルトマンに言わせたセリフである。オーストリアの法制度に従った調停で、マリア・アルトマンに最終的にこの奪われた絵画「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」の所有権が移ることが法的に確定する。そこで、オーストリア政府のお役人が、あわてて、「この作品をオーストリアに残すよう、そのための相当の費用も払うから」と半ば懇願するのだが、そこで、このマリア・アルトマンというおばあさんは「これまであなた方に何度も和解の申込みをしてきたのに、そのチャンスがあったのにあなた方は、ドアをぴしゃっと締めてしまい、門前払いしてきたではないか。この絵画をアメリカに連れて帰る」と言い放つのである。実にかっこいいなぁ、と思ったシーンであった。
それを見ながら、和解には時があるし、和解しようとする側の態度が問われる、ということである。これは、神との和解においても同じことだろうと思ったのである。キリスト教やユダヤ教の最終的な神と人間との関係における最終的な終着点、あるいは目標は、神と人との和解である。その目標が和解である以上、我々側の態度は、やはり問題になるように思うのである。
あと、この映画の中で、駆け出し弁護士であったシェーンベルグの孫の弁護士くんが全てをなげうって何もない状態で、この裁判に取り組んだときに、オーストリア政府の代理人の弁護士だったか、お役人だったかが、「こんな少年みたいな弁護士で勝てるのかね」とイヤミをいうシーンがあるが、「この少年みたいな弁護士がいいのだ」とヘレン・ミレン演ずるマリア・アルトマンがいうシーンがある。
この台詞を見ながら、ゴリアテみたいなゴチゴチのオーストリア政府とその役人を、ほとんど何も持ってない少年ダビデが打ち倒したことになっているので、あぁ、この辺、ダビデとゴリアテをメタファーにしているんだなぁ、と見ながら、一人ニンマリして楽しんでいた。
歴史について考えるということ
しかし、この映画を見ながら、退廃芸術排斥運動と銘打ち、質実剛健、衛生思想といった自分たちの価値観に合わないものを排除していき、そして、繊細な芸術、美を求めていった芸術家を蹂躙していったに等しいナチス・ドイツの存在に代表される悪の問題、諸力としての悪の問題、そして、人びとの名を奪うこと、それは、生命を奪うことに等しいことの問題を考えさせてもらったような気がする。
日本でも8月15日には、千鳥ヶ淵戦没者墓苑での追悼式が毎年開かれるが、あれは、多くの人びとが市民を巻き込むタイプの近代戦の結果、なくなったことを考えると、致し方がないのである、とは思うが、本当は、一人ひとりに人生があったのであり、神の息吹として、神ご自身が吹き込まれた命と、その神の霊がおられるべきその座所が設けられていたはずであることを考えると、無名性ということと、近代の暴力性を、無名戦士の墓とかいう表現に感じてしまう。911事件のときの犠牲者が一人一人名前を呼ばれることや、映画『炎のランナー』などでは、オックスフォード大学関係者の戦没者名が読み上げられるシーンがあることなどを考えると、このあたりの感覚というのは、もう少し考える必要があるのかもしれない。
9/11 Memorial Ceremony 18分30秒あたりから遺族による犠牲者の名前の呼び上げが始まる
歴史といえば、著名人の起こした事件と時代のみを、我々は考えがちだし、わかりやすいので著名人が起こした事件とその当時の社会を中心に考えがちではあるが、それだけでは不十分で、そこには、我々が知り得ない多数の人々のその時代の多様な行動から生み出される多数の事件が、布の縦糸と横糸の交点のように積み重なり、そして、様々な織り文様を生み出すようにして、我々が見る大きな絵柄としての模様としての歴史が生み出されているのかもしれない、とこの映画を見ながら、改めて思った。
なお、現在「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」は化粧品メーカー、エスティ・ローダーの当時の社長、現会長のロナルド・ローダーが買収し、ニューヨークのノイエ・ギャラリーに展示されている。
今回、単発。
評価:
--- ギャガ ¥ 2,827 (2016-05-27) コメント:非常によろしかったと思います。 |
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