2009.02.09 Monday

みんなが、本当にほしいもの

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    昨日の日曜日、みんなが、本当にほしいもの、というテーマでお話

     

    しました。

     

     ある牧師さんのがブログに書いておられるお話を面白く読んでい

     

    ることが多いのですが、その牧師さんは、九州の延岡で、牧師をし

     

    ておられる田崎さんという方です。この牧師さんが以前公開してお

     

    られたブログに書いておられた記事に面白い記事がありました。


     この田崎さんは、ある結婚式場で、キリスト教式の司式もする

     

    牧師さんで、もともと結婚式の偽牧師の話を検索している途中で

     

    みつけたのです。牧師は、日本では国家資格ではないので、誰

     

    でも『自称牧師』、で結婚式場の牧師ができたりします。外国人

     

    でアングロサクソン系の方であればだれでもいいようなところが

     

    結婚式場の側であって、結構、偽牧師がしている式場もあるよ

     

    うなお話も聞きます。

     

     田崎さんが、司式したある結婚式での話をブログに書いておられ

     

    ました。その結婚式には、明らかに服装から、特殊な雰囲気を持

     

    った非常に美しく着飾った女性の一団が友人として参加しておられ

     

    たそうです。多分新婦がキャバレーだったかな、女性の見た目の美

     

    しさを売り物にしたサービスの業界の方々だったようで、新婦の友

     

    人達がそろった結婚式だったそうです。


     いわゆるキリスト教式の結婚式では、聖書の言う永遠の愛を誓い、

     

    その後、聖書からお話があるのが普通なのですが、その時、聖書

     

    からどんなお話をされたのかはあまり詳しく書いていなかったので、

     

    分からないのですが、確か、永遠になくならない愛について話した

     

    ようです。そうしたら、参加者のきれいにお化粧をした新婦の友人の

     

    キャバレーで働いておられる若い女性達が一斉に泣き始めたそうで

     

    す。田崎さんは普通に、聖書の神が示そうとした愛の話をした見た

     

    いですが、何事がおきたのか、と一瞬思われたそうで、・・・


     田崎さんは、その状況を見ながら、擬似恋愛感情を売り物にして、

     

    お金儲けをしている人たちも、本当は、本物の愛が欲しいだ、なくな

     

    らない愛が欲しいんだ・・・と思われたそうです。

     

     この結婚式の新郎・新婦は、元々、あるキャバレーかな、そこに通っ

     

    ていたお客さんと、そこで働いていた女性とお客さんが本当の愛に変

     

    わって、結婚されたそうです。何より、残念なのは、この記事がすでに

     

    見られないこと(田崎さんが、この記事書いていたブログ閉鎖しちゃっ

     

    たんで・・・)

     

     ある聖書の記事を思い出していました。それはヨハネ4章4-30節の

     

    スカルの井戸の女の話です。


     このスカルの井戸のところに出てくる女性は、幸せな結婚を目指した

     

    みたいですが、うまく行かなくてどんどん相手を変えていった女性です。


    原因はよく分からないが、本当の愛を求めて、色々やってみたのかも

     

    しれません。今度こそ、今度こそうまく行く、と思って失敗した結婚の

     

    連続だったのかもしれません。女性に問題があったのか、男性に問題

     

    があったのかは、聖書は何も言わないのでよくわからないのです。

     

    ただ、このような結婚のあり方は、当時の社会からは適切な行動と思

     

    われていなかったことは確かです。この女性は、肩身の狭い女性だっ

     

    たようです。というのは、通常、井戸の水汲みは、早朝または夕方なの

     

    です。なぜかというと、暑いからというのもありますが、素焼きのつぼに

     

    朝水を入れておくと、お昼ごろには、水が冷えるんです。

     素焼きのつぼに入れておくと、水が冷えるのは、地中海地方やサマ

     

    リアは、砂漠がすぐそばで、空気が乾燥しているので、水を素焼きのつ

     

    ぼに入れておくと、蒸発熱(気化熱)でつぼの中の水の温度がかなり下

     

    がります。まさに、冷蔵庫がない時代の智恵です。


     ちなみに、カナの結婚式で使った水がめは、石なので水が冷えません。

     

     イエスと女性は、対話していますが、最初はサマリアの女にイエスは水

     

    を求める、お願いしているのです。聖書には、こう書いてあって、あなたの

     

    していることは、間違っている、とは言わなかったのです。


     このヨハネ4章の記事の中には、サマリア人とユダヤ人は付き合いをしな

     

    いと書いてありますが、なぜ、ユダヤ人はサマリア人を軽蔑したのかという

     

    とユダヤ人は、バビロン捕囚から帰ってきた・元貴族や金持ち達を中心とし

     

    た人々だったことと、ユダヤ人の血統を守ったという自負があるからです。


     ところが、サマリア人はバビロン捕囚されなかったやや貧しい人々で、現

     

    地の人々との婚姻関係(現地の人々との結婚はよくないとされている)の

     

    ため、混血だったこともあり、ユダヤ人に引け目をもっていたようです。


     細かな話は省略しますが、イエスは女性と対話して彼女が自分から自

     

    分自身の問題に気が付かせたように思います。聖書からいきなり、あなた

     

    は間違っているとは言わなかったのです。その対話の中で、彼女が大変な

     

    思いをしている水を例にとりながら、なくならない水、満たすだけでなく、あ

     

    ふれる水ということからお話を始めています。


     

     ところが、女性のイエスが話した水の理解は、水がどんどん出てくるつぼ

     

    のようなものだった可能性があります。その理解では十分でないので、イエ

     

    スはこの女性に彼女の夫を呼んでくるように言います。このように言うことで、

     

    彼女の本当の問題に自分から気付くように直面させているようにおもいます。

     

     その中で、彼女が本当に欲しかったもの、なくならない愛の大切さに

     

    気付かせているようです。


     

     聖書の言う愛は、その人のうちからでてきてなくならない愛で、その人を

     

    より豊かになる愛であり、人を愛し、自分を大切にする気持ちなのです。

     

    聖書の中に、こんな表現があります。第2コリント5章14節には、キリストの

     

    愛が私たちを取り囲んでいる、といっていますし、第1コリント13章8節では


    愛(神の愛)は決して絶えることがありません。人々が欲しいものは、多分、

     

    本当の愛が欲しいということは、このジョ聖も私達も変わらないと思います。


    でも、普通に世の中で言われている愛には、限界があるのも確かです。

     

    特に、現代では、恋愛=愛とするという誤解があるように思います。


     愛と恋愛は別ものだと思います。それをごっちゃにして、本当の愛が見え

     

    なくなっている人々もいらっしゃるようです。擬似恋愛がビジネスになって

     

    いてそれにお金が介在してしているわけです。そんなビジネス化した愛は、

     

    fake(まがい物、パチ物)あいです。もちろん、田崎さんが司式したご夫婦の

     

    ように、本物に変わる可能性もないわけではありません。だからこそ、まが

     

    い物と分かっていてもかすかな期待を人々は持つわけですし、それがビジ

     

    ネスとなっていってしまうようです。

     

     ところで、神が与えようとするものは、実は、人々が本当に欲しがってい

     

    る愛だというのが聖書の主張の一つです。神は人々を愛していますし、愛

     

    を人々に与えようとしているのです。そのことを聖書は次のように要約して

     

    います。有名な聖書のことばなので、ご存知の方も多いでしょう。


    『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは

     

    御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためで

     

    ある。』(ヨハネ3章16節)


     

     もう、ご存知だと思いますが、この神の愛が、キリストの愛が、私達を取り

     

    囲んでいるのです。私達をくるむように。私達が気付いていないだけかも

     

    しれません。

     

     イエスは、サマリアの女と対話するように、直接的な形ではありませんが、

     

    聖書を通して、私達と私たちのペースにあわせて対話しようとしている、と

     

    私は思います。是非、このイエスとゆったりと対話してみてくださいますよう、

     

    お勧め申し上げます。

     

    2009.03.08 Sunday

    ヨナ書2章から ヨナの祈りと私の聖書研究の方法

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      ヨナ書2章
      2009年3月1日

      ヨナ書2章 その前におはなししておきたいことですが、ある方には、機械的な聖書の読み方(理知的な信仰、機械的な感じがする)というご意見を受けるかもしれませんが、今日もパワーポイントのスライドを使います。
      何故、スライドを使っているか?ですが、アメリカの教会にいったとき、スライドがあるだけで、話がずいぶんわかりやすかったという件家印があります。私自身お話しするとき、アイディアを整理するうえで便利だからということもあります。しかし、私は話すスピードが早いこととと内容的に、必要以上にボリュームを入れて、消化不良になりやすいのでスライドを使うと、生理がしやすいというのもあります。
      聖書のお話について、記載しているブログがあって、それに転載するでの、基礎資料となるのでということもあります。ブログの記事にするために、後は書き加えするだけでよいからということもあります。
      昔は手書きのメモを作成した上で、お話していましたが、今は手書きのメモのわかりに使っています。
      私の聖書の学びをする仕方ですが、基本、場所を決めてするほうが好きです、なぜか?というと
      以前は、結構あちこちをしていたのですが、テーマを決めないと、どうしても断片的な理解の寄せ集めになりやすく、まとまって、深く考えるということをしにくいという側面があります。一つの場所を決めてすることで、皆さんに体系的な知識を与えようとか大それたことを考えているわけではないのです。ただ、職業が教師なので、教師くさいのはご容赦いただければと思います。

       

       私が考える聖書理解とは知識の体系や断片の寄せ集めではなく、聖書を通して聖霊の示しにより、神から受けたこと、洞察といってもよいと思っています。決して、どっかのものの本のコピーではなく、オリジナルだと思います。
      私が準備する上で、まず、聖書だけ読んで骨格の理解を作ります。意外と、電車の中で、祈るというのか、聖書について考えていることが多いです。私にとって、祈ること、考えること、お話の準備することは実は全て礼拝だと思っていてあまり区別していません。
       聖書に言葉について、ちょっと特殊な解釈かなぁ、と思うところは、一応注解書でチェックをかけるけれども、一般的かなと思うところに関してはかけないことが多いです。

       ただ、若干こだわるとすれば、日本語の聖書で読んでわからないところは、かなりこだわって調べることもあります。英語の聖書だと、平行訳聖書というものがあり、ギリシア語と英語・ヘブル語と英語が並べて書かれている聖書を使って、引っかかることばを特定し、その語のほかの場所での用例を調べることがあります。例えば、このヨナ2章の場合だと、『誓い』・『救い』『聖なる宮』といった表現に引っかかりました。
       後、他の事例との対比を考えてみることも大事かもしれません。ヨナと範なの祈りを比較してみると、ヨナの祈りをかんがえてみると、ヨナが握りしめていたものは自分のライフスタイル・自分のしたいことだったわけです。選手はハンナの祈りをしましたが、ハンナの場合は子供を生むということでした。ヨナが手を開くきっかけは、暴風で難破して、死にそうになることで、ハンナの場合は長らく子供が与えられない状況だったわけです。ヨナも、ハンナも神の前に祈っていますが、2人とも、神の主権を認めているだとおもいます。
      ヨナが自分自身をどのように表現するか(証)
      クリスチャンと罪(クリスチャンでも神を避け、罪を犯す場合もある)
      不幸を通しても、聖書の言う神とであった船員達
      聖書における公正さ

      ヨナ書2章その前に
      罪や不信仰の結果としての災難
      私達はそう考えやすい
      罪を犯したから、災難が発生した
      必ずしもそうではない
      ヨナの場合はそう見える
      ヨナは確かに神を避けた
      船員達は?他の乗客は?

      ヨナ書2章その前に
      罪や不信仰の結果としての災難
      イエスも厳格に否定
      ヨハネ9章1-3節
      ユダヤ人にとっては、きわめて自然な考え方

      不幸には原因がある
      原因がある場合も、原因がない場合も
      ヨナ書2章その前に
      短絡的な思考の例
      われわれは、聖書にいう神を信じる
      したがって、神の祝福がある
      したがって、問題ない人生が過ごせる

      聖書が約束するのは、神との関係、永遠のいのちだけ
      最初の時代から、多くの迫害・不幸があった事実
      ヨナ書2章その前に
      不幸がおきるのは
      祈りが足らないから
      私達が不信仰だから
      私達が罪を犯しているから
      線路的な信仰の誤り
      単線に乗って、天国一直線という考え方
      徴(しるし)を求める信仰生活の危険性

      ヨナ書2章
      ヨナがしたこと(1節)
      「彼の神に祈った」

      2009.06.02 Tuesday

      エッ?スティーブン・ジョブズって、望まれなかった子だったの?

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        あー、いいたい。いいたい。

         

        こんなすごい記事があるぞぉ。

         

        HATTORI先生の晴耕雨読の日々のブログの記事

         

        スティーブン・ジョブズ(アップルコンピュータ(マックとかiPhoneとか

         

        iPodとか作っている会社ね。)は望まれなかった子供で、養子に出

         

        された子供であったことが、書かれていました。

         

        もし、彼の命が奪われていたら、Macは世の中には無かったかもし

         

        れないし、25年以上前からDOSだのIBMコンパチだのにハマッテい

         

        たあっしにはあまり関係もない(とはいいながら、マックをまねた

         

        擬似WYSWYG環境(あまり聞かなくなりましたねぇ)やらWindows

         

        3.0(あったんですよ。日本では売り出してませんでしたが)から

         

        始まって今のWindows Vistaに至るIBM-PCコンパチの世界で

         

        うっすらとは関係があったりします)世界とはいえ、彼はPixarの

         

        創業者でもあるので、彼がいなければ、Toy StoryだのMonsters

         

         Incだの(私は好きだが、あまり子供のウケはよくない)が生まれな

         

        かったかも知れない。

         

        人の命は、本当に大切。子どもの命は、とっても大切。

         

        この記事の中で紹介されているスタンフォード大学での

         

        ジョブズのYouTubeで公開されている講演

         

        内容がいい。英語がちょっと早いが、全部聞いた。

         

        本当に感動した。

         

        途中のところで、スティーブン・ジョブズが彼の死生観について、語

         

        っているところがありますが、感動もの。

         

        若いということ、老いるという事、死ぬということ。Looks Nouwen!

         

        (ナウエンみたい!)と思わずつぶやいてしまったほどのノリです。

         

         

        途中で、Faithを失ってはいけない、という表現が出てきますが、

         

        多分、これは、自信といったほどの意味だとおもう。『聖書で言う信

         

        仰』では無いんじゃないかろうか。ただ、ほとんどいっていることは、

         

        「叩きなさい、そうすれば開かれます。求めなさい、そうすれば、与

         

        えられます。」という聖書の表現に通じるものがある。ちょっと、自己

         

        中心的なのは、アメリカのスタンフォード大学の卒業式なんでしょう

         

        がないかなぁ、と思う。しかし、多分に聖書の表現を意識してしゃべ

         

        っていると思う。(多分、いいたいことは、彼が考えたことばだけれど

         

        も、スピーチ・ライターの手が入っていそうな気がする。)

         

         

        詳しくは、

         

        HATTORIさんのブログ、晴耕雨読の日々 

        2009年5月29日 (金)タイトル 『いい話だ!』

         

        をお読みください。 

         

        ぜひ。ぜひ。(ダイハツの、仲間 由紀恵のCM風で)

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