2017.10.21 Saturday

ふるさと納税ならぬふるさと教会献金(1)

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    今日は、これまで3回にわたってご紹介してきた人口減少社会の地域とその中の教会に関する記事のスピンアウトである。今回と次回はふるさと納税制度とふるさと教会献金と題して書くことにしたい。今回は、まずふるさと納税について少し説明しながら、地方における今の現状について、少しお話してみたい。

     

    ふるさと納税という制度

    最近はあまり新聞、雑誌、テレビやラジオで言わなくなったが、ふるさと納税すると、かなりの地域の特産物がもらえる上に、減税措置があるというので、一時期話題になったことがあった。今でも、地域の返礼品と減税を目当てに、この制度を利用している人は一定数おられるようである。

     

    兵庫県西脇市のふるさと納税返礼品 http://www.city.nishiwaki.lg.jp/kurashi/furusatokifukin/furusato.html

     

    ふるさと納税制度の動画(西脇市)

     

    政府による制度の公式説明

    総務省のふるさと納税のサイト(http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/jichi_zeisei/czaisei/czaisei_seido/furusato/policy/)によるこの制度の意義として、次のようなことが書かれていた。

     

    ふるさと納税には三つの大きな意義があります。

    • 第一に、納税者が寄附先を選択する制度であり、選択するからこそ、その使われ方を考えるきっかけとなる制度であること。
      それは、税に対する意識が高まり、納税の大切さを自分ごととしてとらえる貴重な機会になります。
    • 第二に、生まれ故郷はもちろん、お世話になった地域に、これから応援したい地域へも力になれる制度であること。
      それは、人を育て、自然を守る、地方の環境を育む支援になります。
    • 第三に、自治体が国民に取組をアピールすることでふるさと納税を呼びかけ、自治体間の競争が進むこと。
      それは、選んでもらうに相応しい、地域のあり方をあらためて考えるきっかけへとつながります。

     

    一応、まぁ、なにか制度設計の本音を隠しながら、本制度をかなり美化してお書きになっておられる様に思う。意義の一つ目として、納税者が寄付先を選択できるというのは、地方財政学の地方公共財の提供における受益者(居住者)負担の原則からみれば、地方公共財の受益とその提供コストの負担の原則からいって、おかしな制度であるように思う。まず、その意味で、この制度は、今後、国による地方交付税交付金制度をやめるつもりの前提として導入される制度なのではないか、と勘ぐりたくなったのである。地方も財政難であるが、国も財政難である。赤字国債の発行、その他の特殊会計や基金を取り崩している状態であり、景気対策、景気浮揚策ということで財政出動がこの20年前後続いており、一時的に瞬間風速的にプライマリバランス達成はしたものの、それ以降、10年以上、国の財政は、慢性的な赤字体質(所謂借金漬け)になってきていることは、下の財務省のグラフをご覧になって頂くと、おわかりいただけるであろう。糠の古漬けもあまりに古くなると食用に適さないのと同じように借金の古漬けも食えなくなる。

     

    http://www.mof.go.jp/tax_policy/summary/condition/004.htmより

     

    どうも、このふるさと納税制度というのは、地方振興を目指して、厳しい人口減少社会に直面しつつある地方自治体にふるさと納税で金をぶち込み、さらに、それで自治体が地元の農家(1次及び6次産品を扱うようなかなり大きめの農家とか農事法人)とか、食品工場とか、地元の小規模商工業者の商品を自治体が購入することで、政府の消費を増やすことで、その自治体の企業や住民に還流する資金を増やそうというような政策としか思えない。つまり、もう、国は地域間での公平な発展を図るために設けられた、地方交付税交付金(一種の地域間均衡政策、ナショナルミニマムの達成政策)の存在を軽くすることで、国の負担を軽くするとともに、人口減社会における地域での個人や家計による消費増がおきることで、仮想的な人口増に近いふるさと納税政策を採用することで個人(家計部門)の力でちゃんと地域間の公平を図るようにしてもらえないか、と言い出したように見えて仕方がない。ある面、地方自治体の側からみたら、国の責任放棄と言われても仕方がない政策であるように思える。多分、総務省の言い分は大分違うだろうけれども。財務省と総務省の言い分がどうも微妙に温度差があるようであるが。

     

    もし、仮に、このふるさと納税だけになり、国が、交付税交付金を全くやめてしまったら、それは、国家(財政当局)が地方を見限ったというのか、見捨てたということである。つまり、国ないし中央政府が地方の困っている自治体を見捨て、どうせ税金なんだから、交付税交付金を国民の自主的な意思に従って自分で考えて再配分してください、というようなものである。従って、交付税交付金を国が制度的に全くやめてしまう、とは思わないが、既にふるさと納税のような制度に、弱小の地方自治体の切り捨てとは言わないが、弱小地方に対する冷たい視線を感じてしまうのは、読み込み過ぎだろうか。

     

    地方交付税の推移のグラフ

    http://www.soumu.go.jp/main_content/000399803.pdf より

     

    町村合併で起きたこと

    それと同時に、平成の町村合併で、基礎体力の弱い弱小の自治体へは合併特例交付金や特別債権の発行ということで、町村合併が進められ、もともと3200ほどあった市町村がいまでは、1700ちょっこし程度にまで減っている。同じ地域にありながらも、かなり地域特性の違う市町村が、合併して巨大な市域を持つ自治体になっていて、それで、独自性を出せとか、地域の特殊性に応じた行政とか言われても、かなりそれは無理なのではないか、と思っている。このあたりの肌感覚は、地方部にすまないで、大都市圏の合併していない自治体あたりでずっと過ごしていると、肌感覚としてはわかりにくいのではないか、と思う。というのは、大都市圏では既に、一定数の人口があるので、あまり町村合併が発生しなかったからである。しかし、このような町村合併によって、地域の住民にとっては、そもそも、その自治体では長く続いてきたために、当然のことと思っていた行政サービスがなくなったり、あるいは、思っても見なかった行政サービスがある日突然利用できるようになったり、あるいは、従来は地元の役場で住んでいた話が遠方の合併後の本庁舎に行かなければならなくなったりと、これは案外いろいろな生活の側面においてかなり影響が及ぶ話なのである。それはそれで、合併した効果の一つとして、自分の地域の行政を考え直すきっかけになるのかもしれないが。良いか悪いかは別として。

     

    教会合併で起きること、教会閉鎖のその後の調査

    まぁ、教会合併でも同じ教会でも、教会ごとに形成されてきた文化があり、その文化が違うと、摩擦が起きることはあるだろう。その辺の摩擦は不可避でもあるので、教会合同をあえて選ばず、教会閉鎖のようなかたちでの推移はありえるだろう。そして、閉鎖された教会の人々が、類似のキリスト教会(場合によっては、かなり毛色の違うタイプの教会の場合も少なくないようであるが)におそらく吸収されていっているという経緯があるように思う。

     

    ところで、閉鎖や解散など、なくなった教会の信徒のその後の追跡調査(これは結構厳しいことに関する調査であるが)とかは、今後の教会の閉鎖とか廃止を考えた時に、今余裕があるうちにやっておいたほうが良い調査かもしれない。そして、今後の閉鎖とか廃止を考える際に参考にできるようにすることも大事かもしれない。

     

    北海道地区での話から

    ところで、聞いた話によると、どうも北海道地区は、江戸幕府が蝦夷地開発を始める前には、そもそももとからそこに住んでいる人びとがアイヌと呼ばれた北海道原住民の皆さんのみで、大半の皆さんは明治以降に北海道に流れ込んで来た住民が大半であることからか、寒冷地であるため、協調できずに孤立したら、下手すると死を覚悟しないといけないためなのからかは知らないが、割りとこのような文化的な違いがあっても、対等に付き合える文化があると聞いたことがある。ただし聞きかじった話であり、直接実地調査したわけではないので、その点での限界があることはここで認めておく。

     

    しかし、本州になると、自治体の合併でもそうだが、あそこはもともと城下町だから、あそこはもともと農村だから、一体いつ頃の話か、と思われるような江戸期以前に遡る因縁話が続々と出てきて、まとまる話がまとまらないなんてことは結構あるが、おそらく、教会の統合とかやろうとすると同じような話が、もうちょっと短い明治以降の歴史のことにかんして、わんさか出てくるのだろうなぁ、と思ったりもする。

     

    返礼品目当てのふるさと納税って、どうよ

    もともとの話に戻れば、ふるさと納税は、自治体内に住む人々で定義される人口とそれに基づく自治体の地方税の収入が地方部にある自治体では少ないため、どうしても税収が少なく、財政力が弱い地方の自治体が国民としての地方自治体での最低限の行政サービス(水道や道路、図書館や教育…)を受けるために、国から地方自治体に提供されていた交付税交付金以外にも自治体の独自収入を増やし、自治体の財源の多様性を増やす制度である。その意味で、フルさと納税制度にとっては、返礼品は、本来二の次の話であるはずであるが、テレビや新聞、雑誌などをパラパラと見ていると、時折、その返礼品目当てにふるさと納税して税額控除を増やしましょうとかというわけわからない話や、ふるさと納税で豊かな生活をとか、どうも妙な話が出てくる。

     

    もし、本気で地域に納税で貢献したいなら、住民票を移してしまう方がいいかもしれない。そうなると、ふるさと納税とかいう中途半端で、税の基本概念から見ても、かなり怪しそうな制度に載るよりも、住民登録すると、交付税交付金を決定する際の積算根拠になる基礎的行政需要を決定する際の住民数も増えるし、さらに、納税者として投票するために現地に行けば、それこそ、そこで色々消費もするので、地方の経済の活性化にも資することになると言うのは冗談であるが、選挙での投票は現実的ではなくなるものの、都市部に住みながら、地方部に住民票を置くということも、地方自治体にとってはありかもしれない。ただし死亡届などの問題が出たりするので、あまり簡単に非居住地以外に住民票を写すことは進められはしないが。

     

    それはそうと、この話のきっかけになったのは、神戸で教会をご案内したある方と、車で神戸市内の幾つかの施設を巡りながら話したときの雑談の中で出てきた話が、今回の連載の根底にある。それについては次回で述べる。

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    2017.10.18 Wednesday

    人口減少社会と地方部と教会の悩み(その3)

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      この連載は、一応、本日で、最後にしたい。お付き合いいただいた皆様に感謝申し上げたい。

       

      そもそも論として、日本は人口減少社会の中にある。特に、これまで2回の連載で、地方部が先行してその人口ピラミッドの形状が、人口ピラミッドが起伏に飛んだものであったものから、年齢層にかかわらず、概ね平板な状態へと変容し、さらに90歳以上の女性の高齢者が飛び抜けて大きな人口を占めるであろうと予測されていることを、厚生労働省の過去の人口統計結果と、市区町村別の人口予測結果をもとにひなたGISが勝手に作成してくれる人口ピラミッド図でお示ししてきた。

       

      地域の人口構成が教会にも反映するはず

      人口ピラミッド図が多くの町村部でこのような構造になるということは、基本的に従来経験したことのないような人口構造に地方部での人口構造が変わってしまう以上、地方の町村部の中では、都市部以上に少数者である可能性が高くなる地方部(特に町村部)でのキリスト者の人口構造も、結果的には当然変わってこざるをえないように思う。

       

      教会の人口構成が地域の人口構成を一定程度反映するとすれば、地域の人口変化に応じて、教会の人口構成も変化するのが当然だし、変化するであろう。すると、以前は、あるイベントをやらなくても、退屈しきっていた地域に定住している人は何事か面白そうなことがあると思えば教会に集まっただろうし、イベントをやれば、教会が人であふれた(たとえ、その中で、その後も継続的に教会に訪れる人はほとんどいなかったとしても、一応、福音を伝えた、宣教ができたという自己満足はできたのではないだろうか)のに、今では、その教会の存続している市域や周辺の領域の人口構造がそもそも変化しているので、地方部で、何かイベントを打ったところで人は集まらない。

       

      昭和30年代の日本の姿 

       

      ここで上の動画で指摘されているように、1分間に3人も生まれる社会で、テレビも各家庭にない状態であれば、そのような状態の昭和30年代中期には、日曜日の朝の日曜学校はほっておいても満員になったであろう。

       

      関東と地方の情報感度の違い

      今は、東京の小さな教会に転任された牧師先生は、非常にユニークな方であり、先日、東京にも行ったときに話をお聞きしにお伺いしたのだが、以前の地方の任地は、九州の地方部の工場城下町の教会であったり、四国の地方部での地場産業だけがあるような街であった。これらの地方部の副牧師をしたりと地方部を回られた経験の中で、もちろん、普段奉仕している教会での礼拝でのメッセージや、無牧になった教会に月一回程度訪問しての礼拝やらはしておられるなかで、葬儀の説教はかなりの経験があっても、結婚式の司式や、バプテスマを授ける経験がないまま過ごしたことをお話になられた。

       

      地方におられた時期から、ツィッターもしていたし、フェイスブックといったソーシャルメディアネットワークにも積極的に投稿しておられたのだが、「ツイッターで反応があるのは極端なことを言ったときだけ、それもその反応は、地元から帰ってくるのではなく、東京や大都市のツィッターをしている人から帰ってくるだけで、ツイッターのその方の発言を見て教会に来ることはなかったなぁ」と印象深そうにおっしゃっておられた。ところが、東京でツイッターとかで写真をあげたり、Facebookでメッセージの要約をブログとしてあげたり、説教の録音をあげたりすると、かなりの反応があるとおっしゃっておられた。ツイッターとかブログとかの反応の中には、「長年、そちらの教会の前を通勤で毎日通っていたのですが、教会があることにこのツイッターを見るまで、気が付きませんでした」とか「ツィッターで説教を流しているその牧師さんは、どんな人なのかなぁ、と思って…来てみました」とか、という人が来られる、という趣旨のことをおっしゃっておられた。「こんなツィッターなどの反応がダイレクトに帰ってきて、教会にそれをきっかけにして人がくるようになった、これは地方ではちょっとなかったことだなぁ」と感慨深げにお話されたおられたのが印象的であった。

       

      そもそも、地方の人は、ツイッターもあまりしないし、地方在住者で、ツイッターをしている人たちというのは案外偏った人が多くて、そこでいくら発言したとしても、それが伝道につながらない、ということをおっしゃっておられた。そのお話した時にちょっこし出た発言の中で、ツィッターで話題になっていることの大半は、地方の住民に直接あまり関係のないことが多いので、そもそもツィッターで拡散されても、地方部ではそれが大きな運動につながらない、というところはあるんじゃないかなぁ、ということをお話しておられた。

       

       

      人間関係(口コミ)で情報が伝わる地方

      人間関係が希薄だからネットで情報が伝わる都会

      その時に話題になったのは、地方部の人々にとっては、人間関係のネットワークが密である(人間関係の紐帯の束が太い状態である)ので、必要な情報は、人間関係のネットワークからまずもって入ってくるのであって、別にツィッターでの情報をキャッチしなくてもよくなっているとか、ツィッターで流れる情報は芸能人関係の情報以外(それも、大抵は誰ぞがくっついた、別れた、痴話げんか中だの)という本来、犬も食わないはずの話なのに、なぜかテレビ局のワイドショーでは国際ニュースで流すべき話があるはずにもかかわらず、特集を組んでくれたり、雑誌ではやたらとお知らせしてくれるので、いつの間にか、国民の関心事になっていて、お天気の話程度の話題の一つになっている。そもそも、街のスーパーの特売情報は新聞折込が教えてくれるのであって、ツィッターやネットでは教えてくれないので、基本、ツィッターなるものは田舎の人にはあまり関係ないメディアらしい。まぁ、どこそこで、韓流スターのコンサートがあるだの、外国の有名オーケストラや有名演奏家のコンサートに行ったのだのというような情報を垂れ流しにされても、他人をうらやむ原因にこそなれ、自分がかえってみじめになるだけ、いけなかったことを悔しく思うその思いを深めるだけに過ぎない。

       

      このような東京との連動性のなさは、情報化社会の現代でも、500kmという距離で隔てられただけの、関西でも同じようなものかもしれない。首都圏、関東圏では、SEALDsの動きが起きたとしても、東京での盛りあがりはかなり盛りあがりがあっても、関西では、それに連動した動きはちらちらと見られたものの、安保闘争の時のような大騒動や大衆運動とまでにはならなかった。その背景は何か、ということを考えてみると、どうも、学生や世間の側の関心が、昔は反対運動にしても単純であり、明確な路線対立があったこと、もう二度と戦争は嫌だというそれぞれの個人の戦争での悲惨な個人的経験が社会全体に広く存在していたことなどがあり、その観点から、安保反対で、一本化できていて、学生運動や労働運動など社会のさまざまな運動体が反戦争、反安全保障条約を目指して運動が一体化しやすい状況があったようにおもうのだが、現代では、理解関係が本来の複雑さを持ったものとしてみられ、社会の各層の関心事が多元化していて、妥当すべき対象がうっすらと焦点がぼけてしまっていることに加えて、戦後すぐの貧しさを経験していない若者(60年安保反対運動に関係した人々は、戦後すぐの貧しさを個人的体験として、かなり体験していたと思われる)にとって、現状に特段の不満があるわけではない、といった側面もあって、SEALDsは大衆運動たりえなかったし、秘密保護法に関してだって、現状で仕事がない、飢えているなどの現実的な個人に関する生存の危機が起点になっていない以上、社会的な運動とはなりえなかったように思うのである。そういえば、交通ゼネストというのが年に2階はミーちゃんはーちゃんが小学生くらいの頃まではあって、先生が出勤できない、というようなことがあったのだが、そんなことも今はほとんど記憶の中にしかない。

       

      1969年の難波のデモの模様

      http://www.takanoetsuko.com/sub19690615.html から

       

      その意味で、空間は差別で気であり、空間がある以上、それが交通手段の発達で移動の摩擦抵抗やネットの存在で、情報伝達の辞さの抵抗がかなり軽減されたとはいえ、空間ごとに特徴が生まれ、よって、地理屋と地図屋の飯の種は減らないのである。ありがたいことである。空間は一様なふりをしているものの、実は、ちょっとした地表の凸凹や空間的な距離は、社会において多様性を生み出す母であり、地図屋にとっての飯の種を生んでくれるありがたい存在だと思っている。

       

      対立を覆い隠しうる豊かさ

      対立を助長する貧しさ

      「金持ち喧嘩せず」という俚言があるが、豊かさ、というのは、社会の安定要因になるのである。ヨーロッパ生まれのムスリムが過激化する背景には、仕事がない、仕事があっても、社会の底辺の仕事しかさせてもらえない、受けた教育を活かせない、人種的な違いによる差別待遇を受ける、言葉にどうしても、鉛が残ることによる差別とか、その差別がコンプレックスを生み出すというの複雑な要因で過激化しているに過ぎないのであって、ムスリムだから過激なのではない。それが証拠にサウディアラビアのムスリムのあるグループは過激思想を持っていることで有名であるが、国内において、豊かさを享受しているので、テロ活動はあまり見られないように思う。むしろ、貧しい国、豊かさが享受できない人々がいる国の中でこそ、過激派と過激派の行動が生まれるように思う。

       

      日本は、昔貧しかったので、決死隊的なSuiside Mission(自爆行為)、典型的にはKamikazeと呼ばれる自殺行為的な作戦に遂行に若者は参加できたが、豊かさを享受した人々にはそのような作戦に参加する意義はほとんど見出せなくなるのではないだろうか。同じ、軍歌のメロディーでも、2010年頃の若者にとっては、こんな替え歌になってしまう。

       

      加藤隼戦闘隊の替え歌

       

      元歌の加藤隼戦闘隊

       

      先に、少し60年安保闘争に触れたが、それは絶望的な貧しさがあったからこそ、ある種自殺行為的に近い反政府運動ができたのであり、社会が豊かになった70年代安保では、思想的な反対運動であったが、内ゲバは見られたものの、自殺行為的な反対運動にまではならなかったのではないかと思うし、もっと豊かになった80年代には、闘争そのものが下火になり、三里塚闘争を最後に、このような闘争自体が下火になってしまったように思う。

       

      これまでの地方部での拠点型宣教と

      これからのキリスト教の定着

      ところで、明治期以来、日本では、外国人宣教師により、日本での拠点型での宣教活動が行われてきた。そして、その後日本人宣教師が、そのパターンを踏襲しながら、外国人宣教師たちと強調する形で、地方での拠点型形成型宣教が行われてきた。それは、ヴェネツィアの海軍基地戦略、イギリスの海軍基地戦略、ポルトガルの領土戦略、あるいは、15年戦争期(日中戦争期)の帝国陸軍の中国侵攻計画でもそうであった。このタイプの戦略は、投入できる資源、ことに人的資源が少ないので、どうしても橋頭保を形成し、その橋頭保となる拠点を守り、極力その勢力を保持するために耐久型、ないし持久型作戦しか取りようがないという問題がある。面的、ローラー的に広げることは、物理的に不可能なのである。となると、拠点を抑えてしまって、その後、拠点からの影響力を期待しつつ、時間をかけて浸透していくしかないように思う。それが一番無理がない(合理的)であるように思う。こういうことを考えると、日本のキリスト教も、面的に拠点間を結ぶような連携策をとって、広げていくような、急拡大を目指すのではなく、都市部の橋頭保にこもりながら、400年計画位の感じでじわじわと広がっていく戦略の方が、人的資源の面でも、物理的資源の面でも、適切なのかもしれない、と思い始めている。この拠点形成型タイプの場合、戦略拠点を抑えることで、一見支配領域が広がったように見えるものの、実は、拠点は橋頭保のような存在でしかないので、面的な広がりの面で安定性に欠けることである。日本のキリスト教は、これまでもこの橋頭保型の教会形成がなされてきたように思う。それが最も日本社会への合理的な対応戦略であったから、そうなったのかもしれない。

       

      あと、このタイプの問題は、ヴェネツィアにしても、ポルトガルの植民地にしても、帝国陸軍の大陸侵攻にしても、日本のキリスト教会にしても、外国や都会からの宣教師という来て帰る人達による運動と運営であって、それらの人が現地化のしないところにメリットがあったし、来る人は定住しないことが合理的であった。もし、本格的な地域や地方での定着を目指すのなら、どこかから来て帰るのではなく、定住し、定着できるかどうかが地元の人からは問われているのではないか、と前回、前々回の記事をめぐるFacebook上のやり取りをする中で思った。このような現在の宣教モデルがどのような合理性があり、どのような方向性で宣教モデルがこれまで組みあげられてきたか、というのは案外反省してみる必要があるのではないか、と思った。今後、日本でキリスト教が面的な広がりを持とうと思ったら、信徒が定住する社会での存在を大事にしたキリスト教でないと、面的な広がりを確保できないのではないか、と思った。その意味でも、これからの地方でキリスト教が広まるためには、信徒さんの人間関係の束というか、人間ネットワークに依存した伝道しかないのではないか、とも思うのだ。

       

      地方の地元に残る人々の特性とキリスト教会

      あと、Facebook上での対話で面白かったのは、長崎のN先生の前回の記事へのコメントである。地元に残る若者(ないし地元にUターンしてくる若者)の特性である。地元に戻ってくる、ないし地元から元々出ていかない若者は、基本体育会系、運動部系の人々が多く、文化部系のオサレさんたちは、都会に行ったまま、基本返ってこない、というご指摘があった。これまで、キリスト教は、文化部系の文字を読んだりするのが好きなオサレさんを多く含む層への伝道を得意として、それに取り組んできたように思う。そして、地元に残るような文字を追っかけるより、ボールを追っかけたいと思うような、ちょっこしやんちゃな部分のある体育会系の人への伝道はどうも二の次、3の次になっていたのではないだろうか。とすれば、高校生や中学生のころに分化部系の人々に熱心に伝道した結果、それらの人々が大学や就職で大都市に張り付き、東京などの首都圏や大都市圏では、やたらと教会ができ、キリスト教人口が集中し、地方での教会の礼拝出席人数が一けたになるという構造はある面、当たり前の様な気がする。

       

      ところで、この基本大都市に出ていったままの文化部系の人々は、都会に出たら、年に盆暮れ正月だけには都会に出てきた人々は戻ってきて、その時期限定で、地元での消費を増やし、地元で活発な消費活動を行うので、地元で人口が起きるのは、盆暮れ正月だけだ、というのである。でも、これは事実だと思う。しかし、この盆暮れ正月消費にしたって、地方部の商業活動の売り上げが急増するのではないか、という指摘が出てきたのであった。これは、非常に大事なのである。要するに、地方部で都市部の住民からの消費を通じた所得移転が店や商工業者やその時期にも働く地元の人々も所得増で多少は潤うものの、その消費支出の大半は千葉の幕張メッセに本社を置くAEONさんにその大半を巻き上げられてしまうというどうしようもない構造が、現代の日本には渦巻いているように思われてならない。

       

      いずれにしても綴浦々にまで、キリスト教が伝わるのには、あと数百年かかるかもしれないが、そして、現状での効果は見えにくいかもしれないが、50年後、100年後にキリスト教の花が咲くように、数先年の歴史を超えて花を咲かせた大賀ハスのように神が花を咲かせて下さるものとして、今日も、明日も愚直に生きていきたい、と思っている。というのは、ミーちゃんはーちゃんには、それしかできないからであるが。w

       

       

      この連載、今回で終わりにしたい。

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      2017.10.16 Monday

      人口減少社会と地方部と教会の悩み(その2)

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         今回の連載は、地方都市、というよりは、町村部における地域社会とそこにある教会ということについての記事であるが、前回、少し、教会について触れてきたので、今回は地域社会の側について、ウェイトを置いてもう少し書いてみたいと思う。

         

         

        地方都市以下の町村部の悲哀あるある

         最近は、テレビやラジオ、インターネットがあるので、これらのメディア経由で入ってくる情報が遅れるということはないのだが、雑誌や書籍は、確実に時差というよりは、流通日差(時差)がある。例えば、東京のある雑誌販売店では、雑誌は発売日前日に入る販売店もあるのに(なぜだか、タバコ屋のようなお店であるのに発売日の夕方に売っている店があるのは知っている)、神戸あたりで当日販売であっても、兵庫県でも山陽本線沿線から外れると、発売翌日販売になるところもあるらしい。昔仕事を一緒にしていた先生の情報によると、福岡市内あたりでも、1日から3日、長崎県内では、2日から3日は確実に遅れると聞いている。

         

        大都市住民にとってみれば、一日2回新聞が配達されるのが当たり前かもしれないが、案外そういう地域は少ないのだ。新聞が一日2回発行され、配達されるためには、それだけの需要があるということであり、それだけの需要がないところでは、長官のみのところが案外多いのではないか、と思う。また、新聞にしても、人口稠密地帯だと、自宅まで配達してもらえるが、地方部だと、その地域の住民数件分の皆さん向けの新聞受けが集落の入り口にあるのみ、というところもある。最初にそれを見たときには何のことかわからなかったが地元の人に聞いて、それが当たり前だという社会が存在しているということを数年前に知った時にちょっとびっくりした。

         

         

         あるいはノーベル賞候補として話題に登る村上春樹本なんかでも、地方部は配本が遅れる。あるいは販売当日に配本がない書店も結構あるだろう。まぁ、新刊書や雑誌や新聞メディアに乗っている本を手に取るのが一日二日遅れたところで、どうってことはないのだが、そもそも、今、町村部の書店数はどんどん激減しており、地方部での書店は絶滅危惧ビジネスの一つであり地方部の町村部で書店飲みの営業で存続している書店はかなり少ないのではないだろうか。先日お伺いした兵庫県の北側の牛とカニの名産地の近くの街の公民館に「本を読みましょう」というのぼりが立っていた。帰りがけに町の新しいバイパス沿いの商店街の中心地(商工会館の近く)の書店の一つを道路上から見たら、書店という看板をかけながら、おそらく冠婚葬祭向けと思われるカタログギフトショップや喫茶店も併設して営業しておられるご様子であった。書店だけでは経営が苦しいのかなぁ、という様子が伺われた。

         

         

        旧道の沿道の商店街の書店

         

        バイパス沿いの書店(ギフトショップと喫茶店が併設された書店)

         

        写真は、いずれも、Google Mapのストリートビューで見た訪問先の書店の外から見た画像である。

         

         

        「本を読みましょう」という標語をみて

        ところで、世俗の仕事(会議)があった役所近くの公民館にはその地域の住民向けの標語が掲げてあって、「挨拶をしましょう」ともう一つの標語(何だったか忘れた)と並んで「本を読みましょう」という標語が掲げてあった。

         

        その町には、先にも述べたが、書店は2軒あったらしいが、そのうち一つの書店は、書店と喫茶店とカタログギフトショップであることを考えると、書店で、販売されている書籍のバラエティはおそらくかなり少ないだろうし、その中から自分の趣味に合う本を選べと言われても…ということもあるかもしれない。こう考えると書店経由での書籍へのアクセスは、かなり厳しいと思わざるをえないので、「本を読みましょう」という標語を掲げておられるということは、多分、そこの町の公民館に併設されていると思われる図書館には、きっと本がたくさん置いてあるのだろう、とは思った。あえて公民館に入って確かめることはしなかったが。

         

        ちょっと気になったので、地方部の現状を確かめるべく、兵庫県の市区町村別図書の蔵書数を確かめて見ようと思ったが、検索で引っかかってこなかった。そこで検索した際に見つかった岡山県のデータが見つかったので、岡山県の市区町村図書館の情報を調べてみることにした。それで、人口一人当たりの市町村別蔵書数という地図を作ってみた(こういうのを作ってそれが何を表していて、このような地図から何が言えそうなのかを考えることが、本業である)。

         

         

        市町村別公立図書館所蔵図書数

         

        まず、全体の図書館の保有数では、人口がある程度大きく、財政的に豊かだと思われる岡山市がトップで、さらに、倉敷市がそれに続いている。しかし、全体で見てしまうと、都市域が広い死には、分館などもある可能性が大きいので、都市規模が大きい年のほうが有利になる。そこで、人口一人あたりで考えてみるとどうなるのか、ということでその指標で、作ったのが以下の図である。

         

        一人あたりで見ると、どうも人口の少ない町部では、母数になる人口が少ないこと、どうしても最低限の図書は置かなければならないこともあり、必置図書数というものがあるので、そうなると、人口が少ないほうが一人あたりの図書数で計測した場合、有利になる。

         

        岡山県市町村別人口一人あたり図書冊数

         

        上の図でもなんとなくは分かるが、実際の一人あたりの本の数がどの市町が多いのかをわかりやすくするため、3次元化してみたのが以下の図である。こうなると、どうも人口の小さそうな市町間でも、指標値である、市町村の一人あたりと諸冊数自体にはかなりの差があることがわかるようになる。

        岡山県市町村別人口一人あたり図書冊数(3D化) 

         

        では、新規の図書等の資料購入に各自治体の人口一人当たり、年間に、どれくらい費やしたかを平成27年度について、図にしてみるとこんな感じになった。こうやって見ると、最も多いのは県東部の瀬戸内市が1位890円弱であり、ついで、2位は高梁市で770円前後、図書館がない村を除けば、県東部の市町では年間一人あたりの資料購入費用が150円以下の市が2市ある。こうやって見ると、図書館の資料の整備状況まではわからなくても、同じ県で、ここまで差があるのか、ということが分かってしまう。

         

        平成27年度の市町村別人口一人あたりの資料購入費用
         

         

         

         

        文化的なイベントへの限られたアクセシビリティ
        地方部では、美術や音楽などのアクセシビリティが限られる。CDやDVDで音楽鑑賞などができるとは言うものの、会場で生み出される一種独特な雰囲気は楽しめない。また、今はネットで様々な絵画や彫刻が見られるとはいえ、2Kや4K画像フォーマットでは、かなり詳細に、確認できるとは言うものの、現物にはかなわないところがある。

         

        キリスト教に関しても、有名講師の講演会があり、一般に公開されているとは言うものの、それに参加するためには、大抵の信徒にとっての業務日の月曜日(牧師の休業日なので、この曜日がイベント開催日として、選ばれることが多い)が多いし、更に東京でのみ開催されることが多いので、交通費はかかるは、下手をすれば、1泊になるわ、地方在住者にとっては、参加がためらわれる感じのことが多いし、おまけに、この手のイベントは、ネットでライブ配信されないことが多い。また、後日DVDが発売されても、その情報は会場にいない人には流れてこないことが多い。このような点では、東京周辺の南関東の信徒さんは、アクセシビリティの点でかなり恵まれているようには思う。

         

        空間というか、距離というのは、差別的ではある。アクセシビリティ(参加しやすさ)に、距離は確実に影響するのである。そして、距離は人の間に格差を生み出し、近い人は、影響を受けやすいし、遠くの場合、影響を受けにくくなるのであり、空間は差別を生み出したり、差別を強化するためにも用いられたりする。聖書の中で、イエスの親族がイエスに向かっていった発言にも、それは現れている。イエスは周辺と呼ばれたガリラヤでその活動の大半の時期を過ごし、イスラエルの失われた羊のところを回られたように思うのだ。

         

        【口語訳聖書 ヨハネによる福音書】

         7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った、「あなたがしておられるわざを弟子たちにも見せるために、ここを去りユダヤに行ってはいかがです。
         7:4 自分を公けにあらわそうと思っている人で、隠れて仕事をするものはありません。あなたがこれらのことをするからには、自分をはっきりと世にあらわしなさい」。

         

         

        話を元の話に戻し、キリスト教の世界以外の部分での様々な文化的なイベントについても目を転じると、人数が少ないゆえに集客が期待できないからと、クラッシック音楽系だと、有名音楽家のコンサートに接する機会も極めて限られる。J-ポップのコンサートはあっても、ジャズなんかでもコンサートはなかったりする。また、美術館で、展覧会の巡回先になることも限られている。映画にしても、結局劇場で見ることができない作品も地方部では多い。

         

        こういうことを考えてみると、先程図書館について、簡単な分析を試みてみたが、それと同様のことを文化的なイベントについてやってみると面白いかもしれない。そのためには、美術や、音楽などのイベントへの支出を各自治体の決算書から取ってきたり、その文化的行事へのイベントの参加者数のデータを入手しなければならないが、これらのデータが入手できれば、それぞれの基礎自治体(市町村)がどのような文化行政に重点を置いているのか、どのようなことに各自治体の住民の関心が高いかということが多少はわかるかもしれない。

         

        次回へと続く

         

         

         

         

        2017.10.14 Saturday

        人口減少社会と地方部と教会の悩み(その1)

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           以前お小さい方シリーズで、教会の中に若者がいないシリーズ、教会学校が成立しないシリーズをやったが、今回は人口減少社会と教会シリーズをちょっとやってみようか、と思う。と言うのは、ここ1週間で、地方のドサ回りをすることが多かったので、そこで色々、地方に行ってみて思ったことがあったから、という単純な理由である。

           

          岡山の研修会で(参加者の高齢化に恐れ入りました)

           先日、いのりフェスティバル2017 in Okayamaの前に、天満屋岡山本店のちかくの岡山教会での講演会にいのフェスの際の機材設置位置等の下見を兼ねて参加してきた。そこで参加者の皆様方のご様子を見ながら思ったことは、宣教委員会なのか、伝道委員会なのかはすっかり忘れてしまったが、全体に参加者の年齢層がかなり高い、ということであった。


          そこで話された内容は、教会は興味があっても入りにくいし、行ってみようという気になっても、いつ、どんな格好で、何を持って、何をしに行ったらいいのか、わからない。キリスト教には、興味関心があるが、教会にはどうも、と思っている人が多いのではないか、そして、自分たちとしては、当然とおもっていることが、キリスト教界以外では案外当たり前ではなく、あるいは、自分たちが自分たちの教会環境にあまりにも慣れてしまっていて、それが持っている異彩さと言うか、世間から見たらちょっとドン引きするような状態になっている、そして、そのキリスト者にとって当たり前と思っていることが、その協会以外の人をドン引きさせてしまう、というような実例を紹介しながら、「こういうのはマズいんじゃないですかねぇ、では、もうちょっと考えて、「こんな風に変更してみたらいいんじゃないでしょうか?」といったようなことを考えるためのヒントをちょっとご紹介する、というイベントであった。

           

           そして、三連休の頭の土曜日で、翌日に日曜日が控えているとは言え、そこに来ておられる人達がどう見ても60歳以上の皆様方が大半で、40歳台以下は、牧師さんたちだけではないか、と思われる状況であった。こうなると、役員さんか、牧師さん以外は、役員さんから頼み込まれて動員されてきた方ばかりなのかなぁ、という印象が会った。宣教とか伝道に責任ある立場だから高齢の皆様方が多いのは致し方ないのかもしれないが、おそらく、それは、教会の人口の年齢構成の無作為サンプリングした結果とあまり変わらないのではないかなぁ、と思う。

           

          いのフェスでの一言が火をつけた

           日曜日を挟んで、翌月曜日には、祈りフェスティバル2017 in Okayamaに、広島市の北側の三好という町からきてパイプ・オルガンで開始前の前奏と賛美歌と終了前の後奏をドラゴンクエストのテーマを適当に混ぜながら演奏してくださった牧師先生がふっと発言なされたご発言がなにより印象的であった。「教会のドアを開けていても、誰も入ってこないし、だいたい、人が教会の前を歩いていない」広島市に隣接する北部でもそうなのか、と思うと同時に、地方の現状は概ね、もう、道路を日中人がほぼ歩いていないし、教会のドアを開けておいても、入ってくれるのは都会だけなのだろうなぁ、と実感をもって思ってしまった。ほぼ同じ内容のことが、最新号のMinistryに書いてある。というのは、その号に乗っている方のお一人が今回パイプ・オルガンを演奏してくれたのだ。ありがとうございました。この場を借りて、御礼を申し上げます。

           

          そこで、ある地域の人口ピラミッドを簡単に作成してくれるアプリ(ひなたGIS )を宮崎県の職員の方がRESASデータを使って、割と簡単に動くものを作っちゃって、公開してくれているので、それを使ってオルガンを弾いてくださった先生の教会のある三次市の人口ピラミッドを1980年、2000年、2020年、2040年(2020年と2040年は、厚生労働省の人口予測データの模様)で作ってみるとこんな感じになった。今から20年後の三次市の人口は、今でも人が道を歩いていないのだとすれば、あと20年後は、もっともっと、約2/3程度へと相当減る模様である。その中で、教会を維持するということは、本当に大変だろうなぁ、と思った。

           

           

           

          図1 1980年の三次市の人口ピラミッド

           

          図2 2000年の三次市の人口ピラミッド

           

           

          図3 2020年の三次市の人口ピラミッド

           

          図4 2040年の三次市の人口ピラミッド

           

          図5 ひなたGISのインターフェース

           

          結構1980年代当時はかなり凸凹していた人口ピラミッドが、かなり上手な大工さんが必死になって槍鉋で鉋をかけた感じにかなり平板になっているというのは、実は人口がめちゃくちゃ減っているということなんだと思う。これでは教会の維持が精一杯ではないか、と思う。人口減少の中での教会参加人数の地方部での拡大というのは、もともと地方部での人口がこれだけ減るのだから、教会人口も減るざるを得ないだろう。

           

          聞くところでは、一部で日本の教会をコンビニ数並みにという暴論もあるやに聴くが、コンビニすら、もはや、このあたりの地域では激減するのではないだろうか。コンビニは、まだ、トラック運転手さんたちや営業職の人なんかの通過交通による需要が存在するが、通過交通としての礼拝出席者というのはほぼないので、かなり存続は厳しいなぁ、と思ってしまった。

           

          世俗の仕事で行った某県北部地域で

           そして、今週の木曜日には、某県の北の方の自治体職員の皆さんと企業の皆さんとの情報化に関する研究会に出てきたのだが、その中で少し話題になっていたのは、人口減少社会の中で、あと10年で、15歳から65歳までの生産年齢人口が40%減となってしまうという予測データ(図6)と人口ピラミッドにおける20歳から30歳人口の極端な減少があるという現状(図7)が示され、それに対してどのように対応しようとするのか、ということについてちらっと話になった。

           

          図6 某県の北部地域の人口推移

           

          図7 冒険北部地域の人口ピラミッド(2016年)

           

          ただでさえ、もともとそう多くない生産年齢人口が40%減するということは、非常に厳しい状況である。その地域には、割と全国的に有名な温泉(泉質と染料の多さで有名な温泉)があったり、冬の日本海の海産物で結構有名な産物があるのだが、どうしてもそのような観光産業の場合、シーズン依存型の産業構造であり、定住人口が安定的に存在しない状況があるようだ。定住人口が少ないために消費支出が少なくなっている部分(経済活動が減少して、人口が減ったままの部分)を、なんとか観光客の支出で不足分を旅行者などの旅行の際の支出で埋め合わせようという対応ができないか、と考えられていると聞いた。人口減少分とその速度の速さを考えると、実に厳しいし、たまたま、その地域はそういう天然資源や観光資源があるので、対応できるかもしれないが、そのようなもののない地域では、ほぼ絶望的、ということになるのだろう。

           

          人口が増えるのは簡単ではない地方と教会
          その地域でも定住人口を増やすために、移住者人口を確保するために、産業振興とかして、一部移住者が増えているが全体からすると、ほぼその増加は微々たるものなので、影響がない程度、ということらしい。定住人口を増加させるために、いろいろ、スモール・オフィスやホーム・オフィスあるいは、サテライト・オフィスとかでネットで仕事を外から受託してきて・・・言う方法もあるが、どうもうまくいかないし、それが成功し、ある程度の集積ができるためには、同じ業界のそれもある程度のノウハウが有る人が一定数の人数が小さな地域に存在しないとうまくいかないらしい。

           

          大体、こういう目玉的なことをやったとしても、あとは、同じようなアイディアをほとんどすべての自治体が競ってやろうとするので、そうなると、こういう核になる人物と人材の取り合いになり、その結果地域の成長の産業集積と言うか核として一定の規模に達せず、おそらくは、全部が発展軸になる規模を超えられずに五月雨的に崩壊していく、各戦線でのその場限りの人的資本の逐次投入、すなわち、戦力の逐次投入になってしまい、最終雨滴にはダラダラとこのような本来核となることが期待されたものがだんだん崩壊してきそうな気がする。皆自分の地域は良い地域、と思っているから、同じようなことをやったら、自分ところには絶対に来ると希望的観測で想定しているのではないか、と思ってしまう。

           

          そういうことを考えると、実に地方は、もう急速な人口減少社会、個性も特徴もない地域になり、非常に無力感に苛まれそうになる状況の中に入っているのかもしれない。


          日本の地方部の教会は、そのような人口減少社会の中にしかなく、まさか、サクラダ・ファミリア・クラスのよほどの施設でもない限り、観光客相手に教会運営もできなさそうなので、地域の人口減と同様の人口減を前提として教会運営をしていく必要に迫られているということのように思う。

           

           

          次回へと続く

           

           

           

           

           

           

           

          2017.10.11 Wednesday

          シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語 を読んでみた(8)

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            さて、今日もいつもの様に『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』を読んでちょっこし考えてみたことを考えてみたい。そんなに分厚くないこの本に、8回も連載記事を費やしたのは、この本がそれに値する名著であるからであり、さらに言うと、この本が聖書の全体像をある面から聖書の構造をつかんでいて、聖書全体が何を言っているのか、ということを分かりやすく述べた本だからである。この本が示そうとしていることは、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』、『シンプリー・ジーザス』、『How God Became King』『クリスチャンであるとは』『Surprised by Hope』等でN.T.ライトが書いている諸概念の要約になっているような感じがする。

             

            絵画的に描かれている終末

            今日ご紹介する部分は第17章、ゴールと題された、いわゆる終末論に関連する部分である。

             

            人間の歴史の終焉が近づく時に起こる出来事について、聖書はさまざまに語っている。これらの記述は私たちの経験を超える事柄について扱っており、言語を用いて説明するには難しい内容である。したがって、聖書は時にその出来事を絵画的に描いて表現する。そのような表現の解釈は非常に困難である。不幸にも、クリスチャンはいわゆる「終末」について多くの議論をかわしてきた。しかし、もし私たちがその絵画的描写をもっと注意深く解釈し、未来について現実離れした推論や予測を持ち込まなければ、そのような議論を避けることができたであろう。(『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』p.167)

            黙示録でかかれた内容が、黙示として示されたものであるということは、人間はその前に「黙」し、「静まり」、受け止めるしかない、本来、人間のことばでは表現しえない部分である。ある種の神秘的な世界ではある。しかし、聖書にあることで、それを何とか理解可能な形で表現したい、理解可能な形で説明したい、という気分になる人々は多かったし、今でも多い。しかし、どういったところで、それを本来は理解可能なかたちでは提示できない、しきれないものではないか、と思うのだ。しかし、引用部分で、「不幸にも、クリスチャンはいわゆる「終末」について多くの議論をかわしてきた。」と書かれているが、それは本当に不幸で不毛な議論であり、それは今なお続いているように思う。そして、「未来について現実離れした推論や予測を持ち込まなければ、そのような議論を避けることができたであろう」と書かれている部分に付された原著訳注では、次のように書かれていた。

             

            (ダービーから始まり、スコフィールド聖書で普及した)いわゆるディスペンセーション神学の立場を私たちは採用しない。

             

            これは、ある意味で、この本の著者の立場であるし、脚注であるとはいえ、このようなことが書いてある本が、日本メノナイトブレザレンの教会系の神学校の先生方が程度評価して、出版されたということは、ある種日本メノナイトブレザレン教団も少し変わってきた、ということの証左なんだろうと思う。同じような名前を持つ、ダービーがその基礎に大きな影響を与えた英国の分離派グループの一つであるプリマス・ブラザレン派でも、少しは変わってきている気配はあるが、しかし、基本的には、キリスト集会派では、このディスペンセーション神学の立場に立つ人々は多いように思う。最近はどうなっているのかは関係が薄くなったので、詳細に知るところではないが。

             

            ところで、図形的なものを言語で表現するのは、案外困難なのである。例えば、空間的関係を表す言語として、人間が会話に用いる自然言語(それは日本語でも、英語でもそうだが)には、決定的に不利な点がある。それは、情報が1次元的にしか流れていかず、二次元的には説明ができないのだ。例えば、以下の絵画で表現されている表現をできるだけ具体的に視覚障害を持つ人にわかるようにあなたの母国語の自然言語で説明せよといわれたら、結構めんどくさいのではないだろうか。

             

             

            http://www.artinsociety.com/titian-prudence-and-the-three-headed-beast.html から

             

            時間を置いて、何度か言語表現してみると、毎回その表現が安定しないことを実際にご体験いただけるのではないか、と思う。その意味で、図や絵画は、ある種有益で情報量の多いコミニケーション手段であることがご理解いただけようか、とは思う。もちろん、言語もコミュニケーション手段としてかなり有効ではあるが、限界もあるのであり、そのあたりはある程度理解しておいた方がいいかもしれない。

             

            終末(神の支配が完全になる時)のプロセス

            さて、絵画的に描かれる終末の話は、2回前の連載  シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語 を読んでみた(6)でもすでに、パルーシアという語についての記述(6回目の記事の一番最後の部分)で少し触れたが、それがもう一度ここで、指摘されている。

             

            すでにその絵画的表現の一つを私たちは見てきた。公式訪問としての王の到来と人々の歓迎である。この絵画的表現はイエスの再訪を描いている。確かに、人間がその最大の努力を果たす中でゆっくりでも確実にこの世界が完全な社会になる、そのような期待をクリスチャンは抱いていない。同時に聖書は、未来へ希望のない大惨事による世界の終焉など予告もしていない。そうではない教会は主の来臨を待つだけである。主は完全で最終的な神の支配をもたらす。この確信によって、クリスチャンは現在を生きる。(同 p.168)

            ここで、「人間がその最大の努力を果たす中でゆっくりでも確実にこの世界が完全な社会になる、そのような期待をクリスチャンは抱いていない」という部分についてであるが、これは一種社会進化論に近い考えて、時間がたてば世の中進化なのか進歩なのかはよく知らないがよくなるという概念は、うっすらとであるが、現代人に染み込んでいるように思う。でなければ、CMでラーメンが進化したとか、そんな生きてないものが進化するはずは、生物学的な進化論ではないはずだし、物理学ではエントロピーが増大する方向にしか熱力学では動かないこと(このエントロピー概念はのちにシャノンによる情報学関連でも援用されている)になっているはずなのだが、それを人間がとめうるというような考えでもある。個人的には人間が努力によってできることは、エントロピーの増大のスピードを多少遅らせる程度のことであり、そんな劇的に状況が改善するはずはないのだ、とおもう。なお、キリスト者が最も気に留めておかないといけないことは、次のことである。

             クリスチャンたちは、「人間によって、人間の努力によって、この世界は完全な社会になる」とは考えていないと思う。そもそも、人間が不完全で、ダメな存在であり、人間によってはどうにもこうにもならないから、キリスト、キリストと言い出すわけで、もし、人間によって何とかなるなら、神はそもそも論として必要なくなるので時間をかけて完全にはならないというのが、聖書の主張だと思うのだが。

             

            何年か前、創世記における人間の役割とビジネスの意味とかいうことをお話しした時に、当時60歳前後の長く福音派的信仰をお持ちであることが察せられた女性のクリスチャンから、「この地球は核戦争で滅びるんじゃないですか、どうして地をケアする必然性があるんですか」とお話が終わった後に、真顔で詰め寄られて、「この地は崩壊して滅びるんですかねぇ」といったら「だって、新天新地ってそういうことでしょう」と言われて、非常に当惑したことがある。もう、議論しても無意味だと思ったので、「そうかもしれませんねぇ。そういう聖書理解の説は聞いたことがあります」とスルーしたことがある。こういう方々に、「そうじゃないかも」とそれまでお話しした時に紛糾したり、気まずい思いで終わることが多いので、そうしているというだけである。まぁ、そのあと、そのグループからは声がかからなくなったので、お呼びがないならいかなくてもいいよねぇ、と決めたのだけの話である。以前は、ディスペンセイション説バリバリのグループの中にいたが、聖書を読んでいるうちに、終末についての個人の聖書理解が「未来へ希望のない大惨事による世界の終焉など予告もしていない」という理解に変わったからである。そのことへの気付きのきっかけになったのは、確かにN.T.ライトのさまざまな本やバーバラ・ブラウン・テイラーの本を読み始めたことによるけれども。

             

            そして、「主は完全で最終的な神の支配をもたらす。この確信によって、クリスチャンは現在を生きる」ということを共有しているほうがよほど大事であり、人間には理解力には限界があるので、それ以外の細かな聖書理解における解釈論というか、解釈の細かな違いは、基本誤差の範囲であると思い始めたので、スルー力がついたからである。

             

            その新天新地は、現在の天地とは別世界のどこかにあるかもしれない問題だって、「主は完全で最終的な神の支配をもたらす」ほどの神ならぬミーちゃんはーちゃんにとっては確認がしようがない(想像することはできるが)以上、非常に確実でないものについて、議論をし始めたところで、基本堂々巡りに終わるのが関の山であるからである。

             

            その新天新地について、著者は次のように書く。

             

            ヨハネによれば、私たちの目的地は新しい創造、新天新地である。死は克服され、涙はもうない。新しいエルサレムが天から地に降ってくる。地に住む民は、この神の町で永遠に平和に共に暮らす。もちろんこれは絵画的表現である。(同 p.170)

            確かにヨハネでは、地は紛争で満ち溢れるようには書いてあるし、新天新地に至る前に起きるとされている、地での悲惨が描かれはしているけれども、地球が爆発するとも、核爆弾が降ってくるとも、聖書の一部には書いていなかったように記憶するのであるが、それをある点で、確実たる根拠をあまりおかない、思い付きに近いような推量とか、推測で黙示録の内容と現在の状況を延長した内容で黙示としてしか書かれてない内容をよりわかりやすく(誤解しやすく)する内容で埋めてしまっている人々は多いのかもしれない。であるからこそ、ここで著者は、絵画的表現で黙示として示された内容を言語では実際にうまくは表現できないことを示しているのではないか、と思っている。

             

            終末までの期間を生きるキリスト者

             前回も、「終末を生きる神の民」という後藤敏夫さんの本をご紹介したが、その続編ともいうべき、『神の秘められた計画』という本についてのインタビュー番組をCGNTVというところが制作・公開していたので、一応検索の手間を省くために乗せておく。

            CGNTVの『神の秘められた計画』についての後藤敏夫さんのインタビュー

             

            なお、この『神の秘められた計画』という本に関しては、このブログでも取り上げており、後藤敏夫著 『神の秘められた計画』を読んだ シリーズで紹介している。そのブログ記事でも書いているが恵泉塾とそこでの生活については、合う合わないがあるので、個人的にはすべての人に「素晴らしいところです」と必ずしも自信をもってお勧めできない部分もあることを一言触れておく。大体、それはミーちゃんはーちゃんがそこに属していないということを言及するだけで十分であろう。

            神のプロジェクトの実現がイエスの到来によってすでに始まっていると私たちは考えている。キリストの再臨によってこのプロジェクトが完成すると私たちは考えている。従って、既に開始された神のプロジェクトに生きるように、私たちは個々人また教会として召されていると考える。冷静に神のプロジェクトが完成した幻想にも生きない。なぜならば、イエスが再び到来することを私たちは信じ、神のプロジェクトの実現が私たちだけで達成されるのではないことを知っているからである。ただ、確信と熱心をもってプロジェクトに参与する。それは、イエスが私たちの生き方にかかわっているからである。聖霊が私たちの心に神のシャローム・プロジェクトのビジョンを植え付けたからである。(同 pp.171-172)

             

            さて、ではどう生きるのか、というと、一つ大事なことは、「神のプロジェクトが完成した幻想にも生きない」という側面ではないか、と思う。現実が苦しいと、幻想に走りたくなる人が出てくるのは避けられない。しかし、幻想だけを頼りとして生きるようになっていると、どうも生き方に実際性というか現実観が薄い人たちが出てきて、終末が起きて、ご破算になっても自分たちだけは天国と呼ばれるところに入るからいいの、と現実社会での生の意味を軽んじる人々が出てくるのである。ここまで書いた段階で、お気付きかもしれないが、同じことをオウム真理教は実際にやりかけたのである。

             

            というのは、オウム真理教は極めて日本的な習合型の宗教であったがために、ディスペンセイション神学を期限に持つ特殊なキリスト教終末論が入っており、彼らは神の王国、神の支配の代わりにヴァジラヤーナの実現ということと習合させてしまい、国家権力と対立していったのである。恐らく、イエスが、神の王国と言い出した時に、キリスト教の存在は、現代日本におけるオウム真理教的な扱いを受けたのだろうと思う。

             

             それに関連して、上記の引用部分の中での「神のプロジェクトの実現が私たちだけで達成されるのではないことを知っている」ということは大事ではないかと思う。もちろん、地で行われることであるし、キリスト者が神のプロジェクトに関与している以上、そして、創世記にかかれているように、この地を神が人間にケアするようにこの地を任された以上、それは人間のプロジェクトでもあるのだが、人間の関与が強調されることによって、神が最終的な主権者としておられることを無視するような人たちが出てきたり、例えば、エルサレムに第3神殿を作るなどというような人間のより積極的な関与によって、神の国の到来というよりは、終末の到来を早めようとするというようなお考えを持つ人々が出てくるのが困るようにも思うなぁ。あくまで、神のプロジェクトは、神により始められ、神が共に関与され、神ご自身のプロジェクトであるはずであり、人間は関与者、参与者に過ぎないはずなのだが、人間は罪を犯し、神の王座を簒奪しようとし続けてきた側面があるので、神のプロジェクトであるものを自分たち人間のプロジェクトにしやすいということなのだと思う。

             

             

            そして、「確信と熱心をもってプロジェクトに参与する。それは、イエスが私たちの生き方にかかわっているからである」という部分は、「キリスト者とは何者か」ということを理解するうえで、案外私たちが忘れがちな神と人との共同体としての生き方、つまり、キリスト者とは、キリストが、あるいはイエスが、キリスト者にとって本来どういう意味を持っているのか、を厳しく問う一文であるようにも思う。たしかに、日本は宣教地であり、その意味ではキリスト者はかなり少数者ではあるので、なんとなくつながっているという意識で占められたようなキリスト者は少ないだろうが、ヨーロッパでもアメリカでも、あまりに分化の中にキリスト教がロックインされていて、スーパーのチラシにもそういうのがそこはかとなく漂ってくる社会だと、文化基盤としてのかかわりでのキリスト者という存在がでてくるのは致し方ないようにも思う。そうなると、確信と熱心をもってプロジェクトに参与している人々、すなわち、かなり真剣にキリストと積極的な関与して生活をしていないようなキリスト者も出てくることは避けられない。もう少しいうと、すなわち、ガチ勢として熱心に神のシャロームプロジェクトに関与しているようなキリスト者として生きる生き方をしていないにもかかわらず、自らをキリスト教徒とする人々も時々出てくることも、ある面致し方ないようにも思う。しかし、神は、ガチ勢としてのキリスト教徒を求められているようには思う。

             

            ということで、この連載は終了である。今回、大事なことを書いているとは思いつつも、意図的に抜いたところがいくつかあるので、是非、本書をお買い上げいただいて、実際にお読みいただければ、と思っている。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

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            コメント:薄いけど、非常に良い本。聖書全体を流れる主要な概念を丁寧に解説した本

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            コメント:薄いけれども大事なことが書いてある本

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            コメント:臼井が非常に良い本。キリスト者の歩みについて考えさせる。

            2017.10.09 Monday

            シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語 を読んでみた(7)

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              さて、今日もいつものように『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』から、少し引用しつつ、考えたことを書いてみたい。今日はクリスチャンのこの地における生き方の部分についてであるが、この部分も非常に印象的な記述が満載である。

               

              クリスチャンの生き方はどのようなものか

               人は神に出会い、神と共に生きようと思う。その神と共に生きようとする思いのことを、「悔い改め」といったり、「神を信じる」といったりする。あるいは、「神を信じる決心をした」と呼ぶ人々もいる。どのように言おうが、それは神を信じるという思いを持つということは、これまでの神を離れた生き方ではない生き方をしようと思う、ということであるので、その思いはある種の決心である。ところが、困るのは、人間が完全に神とともにいきるという生き方が常にできない、またはそのような思いだけで生き続けることがかなりやりにくいというところである。そして、決心をしたのに、紙から離れてしまい、やっぱりダメだったと落ち込んでしまって、時々立ち上がれなくなる人々もおられる。心が後に揺らごうとも、決心は決心ではある。しかし、近代のように均質性が重視される社会において、この様な決心が揺らぐことや一貫性がない行為というのは批判されることが多いが、人間にせよ、神にせよ、人格を持った存在は、機械的な判断をしないので、こころを変える、あるいは揺らぐということはよくするのである。それは、旧約聖書を見れば、いくらでも例は見つかる。この辺、計算機とか、人工知能とかはあまり賢くないから、定められたルーチンに従って動くので、このあたりの柔軟性がない。あるいは、例外事例がかなりの数入力され、メジャーな事例とならない限り、人工知能の反応が変わるというようなことは、この世界で時々出てくる遺伝的アルゴリズムで用いられるような乱数を用いたような攪乱操作を組み込んでない限り、起こしたくても起こしようがない。

               

              実は、人格を持つということは、上で述べたようなある種の柔軟さを持つということであり、準なんな意思決定や判断という操作がかなり自由に自己の責任においてできるということなのではないかなぁ、と思うのである。

               

              さて、以上は以下の文章の前置きである。

               

              クリスチャンにとってバランスを保つことは困難であり、この緊張関係に生きることの難しさを実感する。古い世界がクリスチャンの考えを支配し、復活とペンテコステが忘れられることがある。そうなると、クリスチャンは古い世界の現実に戻ってしまう。新しい世界への待望に生きようとしなくなる。復活の力にもはや信頼せず、新しい時代の到来を経験しようとしなくなる。霊の力にもはや信頼せず、霊の力を通して神がもたらした「すでに」を経験しようとしなくなる。

               一方別の極端に走ってしまうクリスチャンのグループが常に存在する。もう既にゴールに達していると考えてしまうクリスチャンたちである。今すぐに約束されたものを獲得しようとする。誰かが回心をしたとしたら、その人のことをすぐに完全に新たにされたと考える。そのような考え方によれば正しく信じて祈ればすべての病は癒されることになる。(『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』pp.158-159)

               

              ここに二つの極端が書いてあるが、人間はこの二つの極端の間で揺らいでいる存在なのかもしれないように思う。先にも述べたように、人格を持つということは、自己が一人の人格として責任を引き受け、そして、その人格において行為をするということであり、機械ではないので、揺らぎを含めて人格において受け止めるということである。ロボットや人工知能なら、迷わずプログラムされた通り、設計通りに動くので、揺らぎはあまり起こりえないし、揺らぎが起きているということは、大問題が起きているということでもある。人間は人格を持っているが故に揺らぐし、揺らぐが故に緊張関係を持たざるを得ないように思うのである。人間は、神の復活を忘れやすい存在である。

               

              https://www.quora.com/What-is-the-reason-behind-my-website-ranking-fluctuation

               

               

              揺らぎを考えるためのフラクタルの例(マンデルブローのフラクタルの例)の動画

               

              復活と神との関係を忘れないための聖餐という側面

              だからこそ、毎日、週に数回(ミーちゃんはーちゃんはこれくらいの回数)、週に1回、月に1回、年に数回、年に一回なのか、いろいろ教会によって回数はあるが、イエスが最後の晩餐で言われたように、パンとぶどう酒を満たしたコップをとり、「私を覚えて、これを行え」といわれ給うたのである。要するに、飯を食わねば空腹になるように、生きていると生き方や人生の歩みはどうしても揺らぐから、神に対する空腹というか人生における不在を覚えざるを得ない。ミーちゃんはーちゃんは、忘れっぽいので、すぐに神との関係を忘れてしまう。どれくらい忘れっぽいか、というと、アメリカ滞在中に、ミーちゃんはーちゃんの作業部屋のあったフロアの秘書さんから、Truly Absented Minded Professor という真正の鳥頭人間の称号を頂いた位であるからである。従って、神の人生における意識の欠落することは個人的には十分承知しているがゆえに、神との関係を満たしたくなるのであって、人生における神の不在を覚えるのに、ミーちゃんはーちゃんにとっては、聖書も参考になるが、聖餐に与り、紙との関係を再確認することで、忘れっぽいミーちゃんはーちゃんでも多少は覚えることができるという話である。そして、その聖餐の前に神の前に反省することが忘れっぽいミーちゃんはーちゃんにとって、実に有効だ、というだけの話である。

               

              なお、ミーちゃんはーちゃんは、自分自身が揺らぐことも知っているし、ミーちゃんはーちゃんの揺らぎは人間から見たら大きいのかもしれないが、神から見たら、誤差範囲であるとは思うが、それでも、ミーちゃんはーちゃんの日々の人生の中で、時折、神の不在は覚えるので、神との関係における空虚さという形での神の関係における空腹を覚えるので、聖餐に与れる際にはありがたく、預かりたいとは思っている。この聖餐は、確かに「すでに」神の国が来た、神が人の間に来られたことを、忘れっぽい人間が記憶するための手段ではあるのではないか、と思う。

               

              クリスチャンはゴールに達した人なのか

              ところで、先に引用した部分に「もう既にゴールに達していると考えてしまうクリスチャンたちである。今すぐに約束されたものを獲得しようとする。誰かが回心をしたとしたら、その人のことをすぐに完全に新たにされたと考える」という記述がある。確かにこのタイプの人びとがおられることも確かである。このタイプの人は、お友達の大頭さんによれば、アメリカンタイプのきよめ派系統の人に多いらしい。つまり、信仰を持ったら、あるいは改心というか決心をしたら、瞬間に二階級特進どころか、兵士の世界から将官の世界にロケットエンジン並みの推力をもって、霊的世界のウルトラ大転換が起きるために、完全になるとかいうタイプの信仰らしい。別にそれがおかしいとか、それが本物でないとか否定はしないが、ミーちゃんはーちゃんのような真正鳥頭人間であり、揺らぎ続けて止まらない人間には、ある時で完全に変わるなどということは、「無理なこってござんす」なのである。それよりは、揺れるからこそ、また神との関係において欠乏が起きる(腹が減る)からこそ、聖餐に与りたい、自らの不甲斐なさを思い直す機会がほしいとは思うのである。

               

              しかし、この「ゴールに達していると考えてしまうクリスチャンたちである。今すぐに約束されたものを獲得しようとする。誰かが回心をしたとしたら、その人のことをすぐに完全に新たにされたと考える」というタイプというのは、あるグループの日本のプロテスタント教会の病理というような気がする。そのグループにおけるのこのタイプの考えは、伝染病なのではないか、と思いたくなるほどである。「そのような考え方によれば正しく信じて祈ればすべての病は癒されることになる。」という極端な物言いをする教会は割と少数派であるようには思うが、確かに信じれば、聖書を読めば、そして、祈れば、少なくとも問題は解決したという証言を利かせてもらった教会もある。といっても、テストに合格したとか、バイト先が見つかったとか、お給料が払えるから献金できるようになったとかである。なお、聖書を読んで祈って、バイト先が見つかったという話の直後に、これでバイトして教会に献金ができるようになった、と真顔でお証と称する貴重な証言をされる方のお話を聞くという奇跡的な出来事があったことがある。なお、バイトが見つかって、献金ができると嬉しそうお話になられる若い女性信徒さんのお話(お証とか、証言とか、Testimony)と呼ばれるものをお聞きしながら、「その教会では献金できない会員は、どうも二級教会員扱いされるのかなぁ?」と、正直その話を聞記ながら思った。なお、この教会は、若い信徒さんばかりで、腰痛持ちの爺さまのミーちゃんはーちゃんには、ついていくのがかなり厳しい教会(腰痛に悪い教会)で、実際、教会として使っている集会施設のコンクリの床が、信徒さんが他の賛美の際に飛んだり跳ねたりすることで数ミリは確実に上下動する教会であった。

               

              宣教と伝道の目的とは何か

              さて、先週の土曜日いのふぇすの会場下見を兼ねて出席してきた、岡山の日本キリスト教団主催の講演会でのディスカッションが面白かった。来場歓迎だとチラシに書いてあったので、出席してきたわけであるが。その講演会で、「求道者といういい方は、以前からいかがかと思うのだが、なにかいい言い方はないものか、と思うっている」と、牧師先生が言いだされたあたりの対話が面白かった。その講演者と牧師さんの対話で面白かったのは、「基本的に『伝道』とか『宣教』の教会にとっての目的とは何か?」ということが問われているのではないか、という点に焦点が当たった対話があったことである。、対話(ダイアローグ)が別の方向に行ってしまった。『伝道』の目的が、「バプテスマを受けること(信者にすること)」なのか、そうでないのか、というあたりは、もうちょっと日本の教会は考えた方がいいかもしれないなぁ、とその話を聞きながら、正直思った。

               

               教会に来た人(来会者)に説教して、説得して、解説して、知識を増やして、教会での振舞い方をいろいろな経路を通して教えて、聖書を読むように勧めて、「信仰を持ちました」といわせて、バプテスマを受けさせることが「宣教」や「伝道」の目的だとしたら、それはあまり目的とするにはちょっと残ではないか、と思う。それでは詰まらないのではないか、と思う。それが神の国や神の支配そのものなのだろうか、と思う。なんだろう。

               

              バプテスマは、確かに信仰生活の割と大きな通過点の一つだと、個人的には思っている。ある皆様方によると、バプテスマは信仰生活の出発点だといい方をされることもある。それには確かに一理はある様には思う。確かにバプテスマを受けることは、かたちを通して信仰を表明する出発点といえなくなはいということはないわけではないが、実際の信仰の出発点は、バプテスマの前後になっている人々の場合も、自分自身の長くはない信仰生活を振り返ってみても、案外多いのではないか、と思う。

               

              しかし、教会に人が集まり、人が「宣教」と呼ばれることをなし、「伝道する」と呼ばれることをなす、ということの目的はいったい何なのであろう。個人的には、この神のシャローム・プロジェクトがあり、その存在を示し、その存在を単に示すだけではなく、そのプロジェクトメンバーとして、そのプロジェクトに関与し、そのシャローム・プロジェクトのプロセスのプロジェクトにかかわりたい人々、シャローム・プロジェクトにこれまでかかわってきた先人と共にかかわっていく、参与していく、関与していくなかで、神との関係を深めていくことなのではないだろうか、とは思っている。まぁ、いろんな意見の方があるだろう。それは、それで尊重したい。

               

              とはいえ、結構少なくない教会が「伝道」とか「宣教」といわれる言葉で示されることそのものが目的化しているように思う。例えば、「宣教委員会」とか組織に名前を付けてしまった段階で、その組織の目的は、宣教と呼ばれることを目的とするようになる。実に人間と社会というのは、扱いに困る存在だと、つくづく思う。かと言って、名前を付けないわけにもいかないので、本来「手段」であるはずのものが「目的」と化してしまっている組織は多い。例えば、会議を減らすための会議のための事前会議とか、メタメタ概念とすぐになってしまっていくので、訳が分からなくなってしまう。w

               

              どう考えても、バプテスマをゴールにするというのは、まずいのではないか、と思う。そうやって、バプテスマ前のラブシャワーで来られた方がたの神経を麻痺させておいて、バプテスマを受けた瞬間に労働力として利用しようとするような、教会の人々にないざいする怪しさを来会者はうっすらであるが、きちんと見ているということは、もう少し認識されてもいいかもしれない、と思っている。その意味でも、もう少し、「誰かが回心をしたとしたら、その人のことをすぐに完全に新たにされたと考える」とお考えの皆様には、信仰を持つ前から、信仰をもって歩んでいく間のじっくりとしたプロセスとしての信仰生活という側面は、もうちょっと考慮していただきたいなぁ、と思うのである。

               

              プロセスとしての信仰生活

               『終末を歩く神の民』という本を後藤敏夫さんが書いておられるが、我々は、その本でも書かれている通り、神の終末に向かって歩いている民であり、同じ後藤敏夫さんは『神の秘められた計画』という本の中でも、神のシャローム・プロジェクトのことを神の秘められた計画と呼んでおられるように思う。キリスト教徒ないし、「クリスチャンとして歩むことは、聖書を読んで、祈って、教会に行って、献金すること」そして「伝道すること」、即ち言葉で説得したり、「教会に人を連れてきて、牧師の説教を聞かせること」であると理解している人はほとんどおられないとは思うが、では「キリスト教徒やクリスチャンは、いったい何をする人たちのか?」と問われて明白に答えられる信徒さんは、あるいは牧師さんは、どれだけおられるのだろうか。そのあたりのことに関して、本書では次のように書く。

              私たちは「終末の時代の間」を生きている。私たちの現在の経験は、完成の「しるし」ついて意味付けられる。その意味は次の通りである。新しいことが現実に開始した。その新しさを私たちは経験できるし、見ることもできる。一方で、その新しさとはこれから到来する事柄のしるしでしかない、それも事実である。神の霊によって新しさを私たちは経験しているが、それは完成ではなく、到来することがらを指し示すしるしである。(中略)私たちは神の支配の原則によって今日を生きている。それは完成していなくとも、しるしなのである(pp.159-160)

               

              昨日早朝7時から行われた聖餐式に参加した時に読まれた聖書では、「私たちの本国は天にある」という表現があったが、これを読んだ時に、あぁ、なるほど、我々は、この地という植民地というか衛星都市に派遣されていて、基本的に神の支配がある天に我々は属しているのだなぁ、ということなのだろうと思う。それは、我々は神の使者、あるいはエペソ人への手紙の中にある「福音のための使節」であり、この神の存在とその意図を代理人、神の国の外交官として、本国政府ないし本国の王である神の意図を伝える存在なのであろう。

               

              それを指し示す聖書のことばであるが、口語訳聖書では、

               

              【口語訳聖書】ピリピ人への手紙 

              3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。

              の部分であり、聖餐式で読まれたのは、植野口語訳ではなく、以下にお示しする新共同訳の部分であった。この本国という訳語の方が、国籍という訳語よりも、ある面で神の国が、死後に行く世界の天国との理解の混同を避けるうえでは有効かもしれないと、読まれる聖書箇所を聞きながら、そのように思った。

               

              【新共同訳聖書】フィリピ人への手紙
              3:20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

              また、似たような例として、神の思いを伝える存在であるものとして、次のことばがあり、ここでは、神が望んでおられるシャローム・プロジェクトが、神の和解であり、神の側からの和解であることが、より明白に示されている。

              【口語訳聖書】コリント人への手紙 第二
              5:20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。

               

              これらのことを踏まえると、「神の霊によって新しさを私たちは経験しているが、それは完成ではなく、到来することがらを指し示すしるしである」ということを考える際に、神の国が将来到来することを指し示すのは、何も言葉だけで指し示すとは限らないということも考えた方がいいのではないか、と思ってしまう。ことばを使う際には、概念の共有や前提知識の共有とそれが多少の誤差があるにせよ、同じ言葉が指し示すものについての話者と聞き手の間に大きな差がないことが前提になる。ところが、宣教地で神のことを伝えようとするうえでの最大の困難は、同じ言葉であってもそれが指し示す内容が話者と聞き手において大きく違ってしまっていて、混乱を起こし、混乱を起こしたまま、相互に同じことを理解していますよね、ということの確認もないまま、ずるずると話が続いていくところにあるのではないか、と思うことは多い。

               

               

              http://moziru.com/explore/Gods%20clipart%20reconciliation/ より

               

               

               

               

               

              次回最終回へと続く

               

               

               

               

               

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              コメント:ものすごくよい本。大事なことが書いてある。

              2017.10.07 Saturday

              シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語 を読んでみた(6)

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                今日も、ここのところ、紹介を続けている「シャローム神のプロジェクト」を読みながら、いつものように、たらたらと思ったことを書いてみたい。本日は、イエスについての障害に関する部分の15章からである。

                 

                複数の意味を持った主 キュリオス

                 皇帝との戦い、と題された15章の中で、「イエス・キリストは主」とタイトルのついた部分から引用してみたい。以下では、日本語の新約聖書で、主とか「」とかで表現される五についての部分である。

                新約聖書には、ギリシア語で「キュリオス」という単語が使われ、通常『主』と翻訳されている。一世紀においてこの単語はいろいろ議論となる言葉であった。ユダヤ人たちはこの言葉を神ヤハウェを指すのに用いた。しかし、それだけではない。ローマ帝国では、「キュリオス」は皇帝の称号として用いられた。初代教会のクリスチャンたちはナザレのイエスをキュリオスと呼んでいたが、ある人にとって、それは挑発に映った。(中略)パウロは当時知られていた世界を旅し、ローマ帝国でない人物を「キュリオス」として宣教していたのである。(『シャローム神のプロジェクト』pp.144−145)

                我々は、小学校、中学校、高等学校での歴史教育の結果かどうかはよくわからないが、古代を前から見ず、後ろから見る習慣ばかりがついているために、ローマとかいうと、最初から大帝国でないにせよ、そこそこの領域を持った国家であると思い込みがちの皆さま方が多いようと思う。ところが、ローマはそもそも、地中海世界では後進地域であり、そもそもはギリシアの都市国家程度の都市国家の一つであった。

                 

                そして、ローマ帝国の成立期直前の時期において、貴族やいまでいう上院議員層からなる人々の間での古代ギリシア風の議会制民主主義もどきのようなものがあったのであって、皇帝はいなかったと記憶している。共和制出会った都市国家のローマの上院ないし貴族院ないし元老院から「おまいさん、ガリア(今イタリア北部からフランス、ドイツあたり)に戦争に行って来て」といわれて、当時の野蛮人の地(フランスやドイツ辺りは、今では先進国であるが、当時は野蛮人の地だと思われていた)に出かけたユリウス・カエサルではあったが、ガリアの地で多数の戦勝をおさめたら、戦勝したで、「おまいさん、どうも共和制ローマの脅威になりかけているから、将軍として首にしてやるからローマに帰ってこい」と言われて、ローマに帰りかけるものの、「そんなあほなことでけるか?ダボどもがぁ」(なぜか播州人風)といったかどうかは知らないが、引率する部隊と共に武装解除せずにローマに軍を進めて、ローマは内戦状態になってしまう。その中で、内戦状態のごたごたを治めるためとはいえ、終身独裁官になり、すべての権力を終身独裁官であるユリウス・カエサルに集中する体制を武装部隊を背景にローマの政体としてしまうのである。ある意味での戒厳令政体での政権であった。その終身独裁官ユリウス・カエサルが「ブルータスと仲間たち」によって暗殺されたのち、カエサルの親族であったオクタィアヌス君が、ユリウス・カエサルの養子というか、カエサルを後見人としている関係になっていたこともあり、ユリウス・カエサル君の後継者になっていく。その後、なんやかんやあって(関西方言の非常に便利な表現)、のちにアウグストゥスと呼ばれるオクタウィアヌスとアントニウスとレピドゥスの三名ですることになる三頭政治といったごたごたを経験した後、結局この三頭政治の3人の中で勝ち抜いたオクタウィアヌスは、元老院から、アウグストゥス(偉大なるもの)という称号をもらった。ローマ皇帝は、このアウグストゥスという称号をオクタウィアヌスがもらったことに端を発して、ローマ帝政が始まっていくのである。以降、ローマ皇帝の名前の中には、ほぼ必ずこのアウグストゥスという語が含まれることになる。

                 

                それはさておき、このオクタウィアヌス君、アウグストゥスと呼ばれることで、ローマ帝国の皇帝になっていくわけだが、これが、イエスの誕生の時に住民登録を求めたことになっている人物と比定するのがおそらく時代的に言っておおむね妥当であろうとは思われる。つまり、最初のローマ皇帝(当時は地中海世界が全世界であったから、全世界の支配者)が生まれてしばらくしたころに全世界の支配者(神の国の支配)を主張するキュリオスとしてのイエスが誕生する。あるいは、ないし少なくとも神の国、神の支配を主張するイエスとアウグストゥスが共存していた、というのが、イエスが生きた時代であり、パウロは、そのような時代の雰囲気が色濃く流れていた中で生きていた、と考えるとき、このギリシア語の王、ないし、偉大なるもの、あるいは権威あるものというキュリオスというギリシア語が持った意味は、当然のことながら当時の地中海世界の覇王(日清食品さんの「ラ王」ではない)であったローマ皇帝の別の呼び名ともおそらくなっていたし、それをキリスト教徒は、別な意味で使っていくことになっていくと考えるのが妥当ではないだろうか。

                 

                図解にするとこんな以下の図のような感じだったかもしれない。

                 

                人の属性とキュリオスが指すものの関係

                 

                このように人々がある語を多様な意味で用いるし、それが可能であるからこそ、すくなくとも混乱をキリスト教徒(狂人のようにキリスト、キリストと事あるごとに言う輩、という意味でつけられた別称がクリスチャンの語源)は当時のパレスティナの地域にもたらしたともいえるだろう。

                 

                 

                オクタウィアヌス

                https://en.wikipedia.org/wiki/Augustus#/media/File:Statue-Augustus.jpg より

                日清さんのラ王

                https://www.nissin.com/jp/news/4789 より

                 

                ところで、使徒言行録にあるように、当時のユダヤ人社会は、ヘブライ語が使えない人々も混じったユダヤ社会であったために旧約聖書も、基本的に70人訳と呼ばれるギリシア語翻訳で読む人々も多くいて、そこでの聖四文字なる方、神ヤハウェ(発音するときはアドナイと読むのが一般的)についてもギリシア語翻訳で読む人々にとっては、キュリオスという称号が用いられていたはずだと考えられる。つまり、それらのギリシア語を使うシナゴーグに集まって聖書を聴く(読む)人々にとって、イエスについてキュリオスという語を用いることは、めっちゃ罰当たりな行為である。今の日本の仏教寺院において仏像にお尻を向けて激しく踊る狂う行為に等しいようにも思う。あるいは、このタイプの父兄行為は、PIPというアイドルグループ(偶像グループw)が、聖堂に類似した講堂で歌い踊る行為があたかも聖堂(お御堂)で、十字架を背を向け歌い踊ったかのような現象に近い不敬行為ととられかねない行為であり、実際にそれがお御堂(ご聖堂)で起きたと誤解されて炎上したことがある(実際には教会のお御堂や聖堂ではなく、早稲田奉仕園の講堂ではあったのだが)。ま、こういう誤解を招きやすい父兄行為は、社会の中でぐに炎上するし、当時も、炎上しただろうと思う。

                 

                「てらぱるむす」のみなさま

                 

                早稲田奉仕園でのいのふぇすに登場したPipという今はどこに行ったか分からなくなったアイドルグループ

                 

                その意味で、イエスをキュリオスと呼ぶ行為は、皇帝カルトとN.T.ライトが呼ぶところのローマ市民社会の人々の神経を逆なでし、YHWHをアドナイと呼ぶユダヤ人の神経を逆なでし、奴隷がキリスト者になって、奴隷の所有者より優れたキュリオス(ご主人)がいるとする奴隷に対して、その奴隷の所有者たちの神経を逆なでしたのだと思う。そして、有力者も奴隷も関係なく同じ部屋に集まり、聖餐にあずかるとか聞いた日には、当時のキリスト教会のその姿は、当時のギリシアローマ社会の連綿と続いてきた社会秩序を崩壊させるものと映ったに違いない。、今、イエスは主であるという表現を聞いても、今日の西洋社会や、キリスト教界では、あまりに「当たり前ぢゃないですか」になってしまっていて、その革新性というのは、ほとんどないかもしれない。このあたり、もう少し詳しく読んだり、考えたりしたい皆さんには、シンプリー・ジーザスを読まれることをお勧めしたい。

                 

                諸力という概念

                 今年の春の福音主義神学会で「諸力としての罪」ということで、山口さんという方がキーノート講演をされたのだが、この諸力という概念は重要だとこの本で以下の紹介されている部分を見て、改めて思った。

                 

                パウロが生きた世界は『諸力』によって影響され支配されていた。もちろん、私たちも同じである。たとえば、宗教は人々に忠誠を求める。(中略)宗教は人々を束縛する。政治権力は世界を支配する。(中略)政治家は人々を支配し、従わせようとする。(中略)哲学者も人々の生活に強く影響を与える。(中略)恐怖を作り出し、人々の生き方をコントロールしようとする宗教的な力、迷信、影響力は現に存在する。

                 人間の生き方に影響を及ぼすそのような力を、パウロは「権威」や「諸力」といった言葉で表現している。現実に経験可能な権力構造の背後に悪の力があることを、パウロは理解していた。(同 pp.145−146)

                人間は、ローマ時代でも、ギリシアの世界の住民であっても、現代人であっても、キリスト教徒であっても様々な力、すなわち『諸力』に支配されているというのはあるとは思う。例えば、「キリスト教徒らしく」とか、あるいは「日本人らしく…であるべきだ」、「…する(しない)ことなどは恥ずかしいことだ」とか「…することは常識だろう」とか「…していないなんて、キリスト教徒としておかしい」とか、御自身が神でないのにおっしゃる方もおられる。物理的な力による恐怖ではないものの、人々の名を騙り、時に神の名を騙り、自分の思い通りにしようとする神から離れて人々を操ろうとする状況がある。その意味では、即ち諸力による支配の構造があちこちで、教会のあちこちでも頻繁に起きているようなことはないだろうか。まぁ、すきに行ったらいいのだけれども。日本国では、諸力の一つである憲法によって、言論は自由なのだから。

                 

                典型的には、社畜とか、ブラック企業なんかは、出資者の利益のためなのか、上司の利益のためなのか、社長の利益のためなのかはよくは知らなけれども、働く人々から収奪し、極限まで働かせ、やせ細らせようとするような力が現実に働いている。そして、そのような状況では、会社の現状を疑うことが許されず、今のまま、あるがままを受け入れることが求められる。そういう会社では、会社の現状の働き方に疑念すらさしはさむことを許さない雰囲気があるらしい。

                 

                あるいは、聖書理解にしてもそうである。本人が聖書を素朴に読んで、こうかもしれない、と思ったことで、従来のその教会の理解と少しでも違うようなことを言おうものなら、「そんな理解は聞いたことがない」として教会から排除する、ないし無視するような雰囲気が教会には全くないだろうか。たとえ、その説が多少ある個別教会の伝統や継承してきたものと違っていたとしても、キリスト理解と違っているということだけで切り捨ててしまい、一顧だにせず、はなから排除しているということはないといえるだろうか。個人的には、かなり怪しいとは思うが。

                 

                キリストのみがキュリオス

                その意味で、上の部分で触れた、様々なものに(もう少し、ありていに言ってしまえば自分の御心に)無理やりに従わせようとする諸力が社会や現代社会の一部である教会に存在するということは、神に栄光や忠誠をささげているのではなくて、肉なるもの、鼻で息するものに従わせるために神の名が騙られているということであり、偶像崇拝に近いように思うのだが、違うだろうか。

                キリストを知るものは、天地に存在するいかなる力にも忠誠を果たす必要はなくなる。彼らが示す礼拝と名誉は、「キュリオス」である主イエスのみにささげられる。彼らの告白は、イエス・キリストは「キュリオス」であり、これのみである。(同 p.146)

                さて、この直上で、引用した言葉の冒頭にある「キリストを知る」ということは、日本では、誤解されていることが少なくないと思う。この本の著者は、詳しくは書いていないが、この「キリストを知る」とは、キリストと人格的交流が存在するということに他ならない。ある面で、日本の場合は、このキリストと人格的交流があるので、キリスト者であるということが重視されず、教会に来ているから、その信仰の内実がどうであっても、キリストと人格的交流がなくても、キリスト者とされている例が案外多いのではないだろうか。このあたりのことを知りたい方には、J.I.Packerさんの『神を知ること』を読まれるとよいだろう。

                 

                 世間の常識や、その地域の常識や、教会における声の大きい人(教会で人々を恫喝する人々)の思いなどを含めて、ある人の思いを優先的に従うようなことになっている場合、世間や、地域の常識やある人を「キュリオス」としていることに他ならないのではないのか、ということをちょっこし、この部分を読みながら考えた。

                 

                新約聖書のイエス関連用語にみる

                神の主権性のビビッドさ

                 イエスに関する用語には、一般に使われた単語でありながら、ある種の意味合いを持って使われていて、イエスの王権性を豊かに絵画的に、というか象徴的に示している語がある。それについて、著者は、次のように書いている。

                イエスの主権性が当時の政治用語で表現されているように、教会もやはり当時の政治用語で特徴づけられれている。王が市民を集めるときに、市民たちは王の「エクレーシア」と呼ばれた。同じように教会も人々の集まり(エクレーシア)である。この人々は暗闇の支配からイエスの支配に呼び出された。それが新約聖書における「神の民」である。イエスは、定期的にその市民と会い、神の支配にある生き方について語りたいと願っている。(同 p.148)

                イエスが神の国(神の支配、ないし神の都市国家)といったのは、都市国家がある種の運命共同体であったし、都市の市民は運命共同体として、この都市国家がどうするかの際には、対話をした。その時に直接民主制によって、市民共同体としての意見集約をするための議会が「エクレーシア」とここで書かれていることなのである。それは、王とともに市民がある状況に対してどうするかを決める場であり、王とともに運命共同体であることを確認する場面でもあった。それが、今の日本語聖書で教会と訳されている語である。つまり、王と民との市民的共同体として、教会は語られているのであり、そこでの中心的な人物はギリシア世界では、王と呼ばれる存在であり、市民共同体と王との関係は、ある面、さし向かいの緊張関係を含むものであったようである。

                 

                その意味で、古代の王たちあるいは首長たちは、ヨーロッパの昔話や日本の天皇制とはかなり違った形の政治体制であったのではないかと想像する。そして、このエクレーシア、神との都市国家における市民的運命共同体が、「新約聖書における「神の民」である。イエスは、定期的にその市民と会い、神の支配にある生き方について語りたいと願っている」という表現にはしびれてしまった。結局、市民と王は運命共同体であることを確認し、そしてともに生きるものである。神と人との運命共同体が、神のシャロームにかかわる民となり、神が人との運命共同体になるという実に神秘が起きるのだ、ということなのだろうなぁ、と改めて思った。

                 

                イエスが再び来られること、イエスが地に来られること、再臨とか来臨とかいう日本語で表されることが多いが、それについて、著者は、あることをヴィヴィッドに印象付けるような絵画的表現をなしているとして次のように言う。

                ある日、イエスは自らの支配を完成させるために戻ってくる。(中略)ここでも、パウロは、この未来の経験を説明するのに当時の政治的な状況から描いている。パウロは「キュリオス」の「パルーシア」といっている。この言葉「パルーシア」は、王が公式訪問先に到着するときに使用される用語である。(中略)町の市民は王にあいさつするために列をなし、王は人々の祝福の中を町に入る。同じような意味で、パウロは主の到来を語る。(同 p.149)

                 

                ここで、パルーシアと書かれている語は、 παρουσία であって、力を持つ来ること、到着することを表している、あるいは、王が植民地や支配地域の都市国家に入場するときの語である著者はいう。我々は再臨という言葉に慣れすぎていて、イエスが来られるという語が出ると、再臨のイエスがすぐさまに問答無用思い浮かぶが、当時のギリシア世界の人々にとっては、それよりも、権威者が権威を伴って、到来することを意味したらしい。

                 

                そして、市民の代表たちも、そして市民もその王の帰還を出てきて、それを迎えるという、まさにお祭り騒ぎが起きたのである。特に、その有力者が戦勝した王である場合、王の入場はその年に突然の好景気と戦利品という富をもたらす非常に喜ばしいことであった。つまり、先勝した王が返ってくるということは、大量の戦利品、金銀財宝、そして、遠い国からのあまり見たこともないような肌の色や顔つきが違う人々が到来し、このような敗残兵になったあまり普段目にしないような人々が、奴隷として、当時の戦利品として一番使いがってがあったのが敗戦してとらえられた戦時捕虜となり、自らを開放するための資金が払えなかったがゆえにとして奴隷となった人々が多かったようであるが、そのような人々が奴隷として引き連れてこられたのである。ある面、それは、中東文化というか、当時の地中海文化では、この戦時捕虜が奴隷となるということがごく普通に行われていたことのようである。また、このように敗戦したユダヤの人々はバビロンに奴隷として捕囚されていったように思うのである。

                 

                ところで、ローマ共和制時代の戦勝将軍の帰還(パルーシア)は、去年の広島における広島東洋カープ球団の久しぶりの優勝パレードの時のような気違い状態を何十倍にしたかのようなで乱痴気騒ぎでは、あったであろう。あまり野球とかを見ないミーちゃんはーちゃんとしては、「数十年ぶりとはいえ、何が、何故そんなに狂喜乱舞するほどうれしいのだろうか」とニュースなどを見て個人的には思っているが、まぁ、当時のパルーシアは、以下の動画に示す広島の優勝時の騒ぎを数十倍ほど大げさにした感じだったのではないか、と思っている。

                 

                 

                ハドリアヌス帝を迎えるローマの上院議員と民会の議員たち

                https://www.pinterest.jp/pin/354799276864163109/

                 

                2016年の広島が優勝した時の状態

                 

                同じく優勝した時の町の状態(ハイタッチの連続で頭おかしい状態である)

                 

                ところで、このパルーシアには有力者の帰還という意味もある。個人的には、指輪物語の文庫版に高校生の頃にはまって以来何度かトールキンの指輪物語を読んできたが、まぁ、あの指輪物語の王の帰還を映像で表すとこうなるのか、というのが、映画『王の帰還』The return of the Kingを見たときに思った。まさに、あの映画の最後のシーンのアラゴンの戴冠シーンは、おそらくはイエスの再臨の時に起きることの模型というのか、その不完全な再現というか、ある種のパロディみたいなものに過ぎないのかもしれないだろうなぁ、と思いながら、あの映画の最後のシーンを見ていたことを、改めて思い出した。

                 

                 

                ロード・オブ・ザ・リング の王の帰還のアラゴン王の戴冠

                 

                次回へと続く

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                コメント:今までと、別のイエス像に戸惑うかもしれないけれどもいい本。

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                コメント:名著さと思います。神との関係を考える際に大変参考になります。

                2017.10.04 Wednesday

                シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語 を読んでみた(5)

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                  今日もいつものように、たらたらと、『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』を読んで思ったことを書いてみたい。ちょっと短めかも知れないが、お付き合い賜われば、実に幸甚である。

                   

                  和解としてのシャロームと神の民

                  『神の民』ということに関しては、『新約聖書と神の民』という、このブログで紹介しかけて、途中辞めになっている本(名著ではあるが、さすがに、結構記号論理学のようなことが多いので書くほうがつらいし、あの連載をやると読者数が確実に激減するので途中で放棄している本)があるが、ここのところ紹介している『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』では、『神の民』について以下のように書かれている。

                  パウロは新約の教会を新しい人間と理解している。この新しい人間とは、神と和解し、互いに和解しあった人々を意味する。新しい神のシャロームの民である。驚くべきことに、新しい神の民はもはや一民族(ユダヤ人)にとどまっていない。どにょうな国々、民族、人種、文化に属する人々もともに集められた互いに和解する。そればかりでなく、性別、主従関係、家族関係で対立していた人々が一つの新しい人間として集められ、和解を経験する。パウロによれば、これらのことはすべてイエス・キリストが完成したのである。(中略)

                   教会においてこの新しいシャロームの民の始まりを見ることができる。これこそが、神がパウロに与えた驚くべきビジョンである。パウロが「キリストのからだ」と呼んだのは、このシャロームの民、この新しい共同体のことである。(『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』 p.138)

                  さすがに、誤訳だとは言いかねるが、ここの部分では、おそらくPeopleにあたる部分を人間という訳語を当てているために誤解が生じかねない表現がある。たとえば、「パウロは新約の教会を新しい人間と理解している。この新しい人間とは」は、「パウロは新約の教会を新しい民(追記 人類 オリジナルは humanity)と理解している。この新しい民とは」のほうがまだわかりがいいかもしれないし、「一つの新しい人間として集められ、和解を経験する」は「一つの新しい民(追記 人類)として集められ、和解を経験する」のほうがよかったような気がする。

                   

                  なぜ、こうなるか、というと、このPeopleにあたる適切な表現が日本語にないからである。Peopleとは、Four score and seven years ago our fathers brought で始まるゲティスバーグ演説の最後の一番有名な部分 that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth の Peopleであって、この場合は、人民の人民による人民のための政治と訳されるが、日本語の人民とはこれまた大げさな用語で、下の国歌の国が思い浮かぶかもしれない。

                   

                  中華人民民主主義共和国の国歌

                   


                  朝鮮人民民主主義共和国の国歌 

                   

                  ラオス人民民主主義共和国の国家

                   

                   

                  たまたまアジア圏で英語名にPeople(人民)がつく国名を思いつくまま選んで、その国家を乗せただけである。深い意味はない。

                   

                   さて、ここまで見たように、現代の英語でいえば、Peopleとは、上記で紹介した国家の名称に含まれる、いかつい言葉である人民というよりは、ある特定のコミュニティの構成員といった程度の意味だからである。民とか人民とかいうと民族主義がイメージされたりするが、それを超越した何らかの共通項にまつわる人々の集まり、ないしコミュニティの構成員全員と理解したほうが良いように思う。ところで、アメリカ合衆国憲法の前文は、We the people から始まる。その意味で、近代におけるアメリカ文化やアメリカ社会の言語における、Peopleは民族というよりは、集まってきてしまったコミュニティの成員というような含意が強いように思う。


                   

                  http://dailysignal.com/2016/05/12/what-does-we-the-people-really-mean-a-constitutional-scholar-explains/

                   

                   

                  アメリカ合衆国憲法に関する歌

                   

                   

                  アメリカ合衆国憲法に関する歌(歌詞表示)

                   

                   

                  ところで、神の民ということば、すなわち、People of Godと聞いた時、真っ先に思い付いたのは、おおむねいつも参加しているチャペルの聖餐式の際の式文の表現である。というのは、アングリカンの北米の祈祷書で、聖餐を示す語に、

                  ”The gifts of God for the people of God,"

                   

                  という表現があるらしく、このタイプの式文が、今ほぼ常時参加しているチャペルでは時々用いられる。この表現は、聖餐台の準備ができ、聖餐机に人々を招き、聖餐机に近づく時に用いられる表現である。聖餐は、神の民に対する神からのギフトだ、と最初に聞いた時、ちょっと鳥肌が立った。考えてみれば、これこそ、神のギフト(一方的に与えられるもの)の象徴だ、とこのような英文の式分で言われたとき、聖餐について、別の理解が生まれた。

                   

                  そして、この神のギフトは、神に属する人々、神の民のものなのだ、と言われたように思う。その意味で、民としてのキリスト者は、聖餐を共通項とした人々の集まりで中心とした人々であり、イエスを共通項とする人々の集まりであり、教会とは、イエスを共通項とする神の民であり、神とともに生きる人々のコミュニティということになるのではないか、と思うのだが。

                   

                  そして、また別の機会に、その聖餐に連なるコミュニティの成員そのものも、神からのギフトでもある、と思ったときに、一種の衝撃が走ったことがある。むろん、そういう式文があったからではあるのだが。

                   

                  人々の間の障壁を無効にしたキリストの復活と神の民

                   イエスの十字架の死は、罪の贖いの側面だけが強調されて語られてきたようにも思うが、本書は、イエスの十字架が与えたインパクト、会見の天幕が避けたそのインパクトは、それだけにとどまらないことを次のように示す。

                   

                  キリストは反抗的な人間に対する裁きを引き受けただけではない。キリストは神との和解を人間にもたらしただけではない。(中略)キリストは新しい人間の基礎を作る。この人々は、分断をもたらしてきたすべての壁(文化、国家、人権)の崩壊を経験する。(中略)神は世界的視点で新しい人々を打ち立てる。(中略)

                   このような観点からすれば、キリストの体に属するクリスチャンが、不寛容な人種差別、国家主義、自らが生きる文化への自己陶酔、そのような態度をとり続けることができるだろうか。(同 p.138)

                  キリストは、神と人との和解をなすことがまずもって目的であるが、それだけで終わらなかったことは、イエスの旧約聖書理解からも明らかである。イエスは、律法と預言者をまとめて言うと、次の二つに要約できるという。「神を愛せ、あなたの隣人を愛せ」これに要約できるといっている。まさに、神との和解(神を愛すること)、と人々との和解である(あなたの隣人を愛せ)。その律法には、あなた方の間にいる在留異邦人に親切にすべきだ、と大書してあって、それらを排除しろとは書いていないのである。その意味で、文化や出身地や、背景は、人間にとってはわかりやすい識別子で、それを過大視しやすいが、果たしてそれが神の前で本当に意味があるのか、と旧約聖書は問うているような気がする。また、ガラテヤ署3章では、次のように書かれている。

                  【口語訳聖書 ガラテヤ人への手紙】 3章 26−28節
                  あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

                   

                   現代の某超大国の大統領自らが、移民に対してヘイト発言まがいの発言をするとかいうような状況の中で、「キリストの体に属するクリスチャンが、不寛容な人種差別、国家主義、自らが生きる文化への自己陶酔」があるのは、1940年以降のナチスドイツで起きたことへの著者の反省が垣間見られるように思う。というのは、この本の著者は、ドイツの隣国スイス生まれでもあり、もともと、この本がドイツ語で書かれていた、ということもあるのかもしれない。ある面、多くの難民、移民が行き交い、その結果として、難民や移民への反発する動きが渦巻いてきたヨーロッパが抱える問題をキリスト者がどう考えてきたのか、あるいは、今後どう考えていくのか、ということを問うているように思うし、これは、日本でも同様であろう。キリスト教会の中でも、自文化、自言語、自国のキリスト教中心主義のようなものが仮に見られるとすれば、それはいったいどういうことだろうか、と思う。それは、井の中の蛙状態ではないか、とも思わなくもない。

                   

                  これまでも、いくつかの教会を行き交う中で、韓半島からの人々のおられる教会、あるいは、アフリカからの留学生のいる教会、あるいは、インドネシアからの留学生のいる教会など、多民族が混じって、ともに神を礼拝する教会に参加したときに感じるある種の礼拝について、特別な気持ちになったことがあるが、そして、今、海員が集まるチャペルで、水曜日の夜のフィリピン人の海員などとともに預かる聖餐にあずかっていると、将来、神の国が完全に成立した状況では、こういう状況が起きるのだろうなぁ、と思うことがある。その意味で、様々な人々との礼拝は、別種のものがあるような気がする。それは気のせいであるにしても。

                   

                  次回へと続く

                   

                   


                  追記

                   上で誤訳とは言わないが・・・、と書いた部分について、交野市の田中先生からのご連絡で、ここの原文の英語がわかりました。田中先生、ありがとうございます。大変参考になりました。

                  He (Paul) sees the New Testament church as a new humanity in which people are reconciled to God ans also to each other. They are God's new Shalom people.
                  パウロは、新約聖書の教会を神と人が和解し、さらに、様々な人々が互いに和解しているような新しい人類(人間としての属性を持つ人々のの集合体)とみている。そして、神と和解した人々(民、またはキリストと和解し、そして互いに和解し合った人々の共同体)こそが、神の新しいシャロームの民なのである。
                  という感じではどうかなぁ、と思う。いずれにしても、Peopleは、人と言うよりは、民と言うか、人々の共同体のほうが雰囲気は近いような気がするけど。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

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                  コメント:高いけどいい本

                  2017.10.02 Monday

                  シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語 を読んでみた(4)

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                    今日も引き続き、『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』から読んでみて思ったことを書いてみたい。今日もやや長めである。

                     

                    神との和解としてのシャローム・プロジェクト

                     律法の世界で、というよりは古代オリエントの社会で、契約を破ることは死を意味したし、自分が契約を破るとどうなるかを覚えるためにも、契約には動物の死がともなったことは、古代オリエントの粘土板や考古学的な出土品をはじめとして遺物カラもどうも分かるようである。それだけ、契約とは重いものであった。そうまで言わなくても、ノアの箱舟から出たときにも全勝のいけにえはささげられているし、エデンの園から出るときに毛衣を作るためとはいえ、血が流されている。当時のオリエント社会での契約の重さはそのような重大事であった、ということが本書のこれまでの部分では、示されていた。そのうえで、著者は次のように書く。

                     

                    神は人類に何をしようとしたのか?人間は神に逆らった。神はプロジェクトをあきらめて、人類を滅びにままに放置することもできた。だが神はその道を選ばなかった。神はシャローム・プロジェクトに新たな章を開いたのである。それは大胆な行動であった。神が肉となり、人間となったのである。父は子を派遣した。イエスを見ることは、父を見ることである。イエスの声を聞くことは、神の声を聴くことである。イエスにおいて神は人間となった。(『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』 p.124)

                     

                    ここで、「人間は神に逆らった」とあっさり一文でかかれているが、これは死なねばならない行為であったのだ。そもそも、エデンの園でアダムが行ったことは、「神に逆らった」ことであり、アダムと神との契約の結果、当然のごとく、人間には死が付きまとうことになった、というのが旧約聖書のいうところである。つまり、神の「最初の」シャローム・プロジェクトが、人間側の不具合により、一方的に破棄されてしまったのだし、その結果として人間はすぐに滅びなければならなかったのであるけれども、それがそうはならなかったのである。人間と神が、もともともあった契約の段階(エデンの園の状態)に戻ることができるということが、ちょっとづつではあるが旧約聖書にいくつもの事件や何人もの預言者を通して示されていたものが、イエスによって一気にドンとやってきたのがイエスであったし、それを示したのがイエスの生涯を通して起きたことであったといえるだろう。

                     

                    ここで、「父は子を派遣した。イエスを見ることは、父を見ることである。イエスの声を聞くことは、神の声を聴くことである」となんとなくかかれているが、これは、実にとんでもないことなのである。確かに、エデンの園では、人間は父なる神を見ていた。エデンの園では、神の声を少なくとも聞いていた、と創世記の冒頭では記されているし、頃もあろうに、神と人は対話していたのである。少なくとも出エジプト時代には、神を見たら死ぬとされていて、民は神を見ることを恐れたにもかかわらず、である。つまり、神と人との和解(Reconciliation)がイエスが存在し、神が人として地上に存在する中で起きた奇跡は、神との和解のちらっと現実で起きることを見せられたことであったというように考えてもよいかもしれないと思う。つまり、将来に起きる終末、新しい創造、天が地に突入する現象、なんといってもよいが、イエスの地上での歩みは、週末に起きることのその予告篇という位置付けであったのであろう。その意味で、イエスは神の支配、ないし、新しい点がこの地に突入した現象であったのであろう、と思う。

                     

                    エデンの園の放逐 https://en.wikipedia.org/wiki/Expulsion_from_the_Garden_of_Eden から

                     

                    神のシャロームプロジェクトの転換点としての十字架

                     さらに、先ほどまでの記述は、福音書の記述を中心にしたものであったが、近代から現代のキリスト教の中で、やや過剰な位置を占めさせられていると個人的には思っているパウロの記述を通しても、この本の著者は、シャローム・プロジェクトの新しい側面について語る。

                     

                    パウロは簡潔に復活について語る。「もしキリストがよみがえらなければ、私たちの説教も信仰も意味がなくなる。」パウロにとって、すべてのことが復活によってたちもすれば倒れもする。もしイエスがまだ墓の中にいるとすれば、イエスは私たちの記憶にとどまるだけの偉人あるいは預言者でしかなくなる。しかし、イエスは生きている。イエスは神の子である。神はイエスを死から復活させた。死は最後ではない。悪が勝利することはない。パウロは喜び叫んだ。「死は敗北した。勝利が完成した。」従って、復活自体が大きな転換点となったのである。神のシャローム・プロジェクトの新しい章である。(同 p.127)

                    ここで、著者は、第1コリントの二つの聖句を基礎に置きながら、木にかけられた、即ち、神から呪われたものであるはずのイエスが、復活することで、契約違反の結果もたらされるはずの、「死」そのものが無効になることで、古い契約の前の段階に戻ることを「死は最後ではない。悪が勝利することはない」という表現で示し、人間にはどうやっても、理性では理解できないことが起きたのだ、ということを示しているように思う。その表現を通して、復活の重要性、とりわけ、著者のいう「神のシャローム・プロジェクト」における重要性と不可思議であることを示そうとする。なお、十字架にかけられたイエスとその死からの復活については、人間にはどうやっても理解不可能であることを著者は認めており、それに関しては、各章末につけられた読者への手紙みたいな部分で、触れているが、それについては後に触れる。

                     

                     

                     

                    Christ Lord Risen TodayというCharles Weslayによる復活を示す賛美歌

                     

                    だいぶん編曲は違うが同じ賛美歌

                     

                    イエスの復活を見た、復活に意味があると思った人は、なにをするのか

                    弟子たちは、イエスの復活を見てしまった。それまでは隠れ家に隠れ、ひっそりと見つからないように暮らしていたイエスの弟子たちは、復活のイエスがどこでもドアを持っているかのように、ドアをすり抜けてやってきたイエスを見て腰を抜かしかねなかったように思う。そして、そこで復活のイエスを見た弟子たちは、イエスを語り始めていく。また、エマオの途上でイエスに出会って、食事をイエスとする直前まで言った二人の弟子たちは、エルサレムに立ち戻っていく。変容が起きたのである。それほどの事件であったようである。

                     

                     新しい時代が開始した。その保証として復活に意味があったし、今でも意味がある。それまでの人類の歴史の中で、神はそのような(復活という)方法では歴史に介入してこなかった。神の力がこれほど明確な形で現れたことはかつてなかった。イエスにおいて始められたことは、全く新しいことであった。イエスは新しい人類の初穂であった。期待されたようにイエスは新しい人間のモデルであった。(中略)イエスに信頼して生きるものは、既に新しい復活のいのちを経験し始めている。

                     (中略)パウロをはじめとする使徒たちは、イエスが転換点となる時をもたらしたと理解した。イエスは歴史の中心となった。イエスにおいて神は人間となり、それまでにはなかったほどに人間に近づいた。(中略)イエスにおいて、すべてのことが新しく始まる。神のシャローム・プロジェクトの新しい基盤が据えられた。

                     しかし、変わらないこともある。自らの意思で神に立ち返り、神の働きをしようとする、神はそのような人々を求め続けていることである。(同 p.128)

                     

                    今回も中略部分が多い。そこには大事なことが書いてあるので、是非、お買い上げいただいて、お読みいただきたい。全部引用したら、引用部分が多すぎて、このブログ記事を読んで、わかった気になってもらっては困るから、敢えて略している部分があることは、ここで認めておこう。

                     

                    さて、処で、引用部分で、「イエスにおいて神は人間となり、それまでにはなかったほどに人間に近づいた」というのは、先にも書いたように、人々は神に近づくことはできなかったにもかかわらず、神の方から人間にイエスという形で人間に近づいてきたのである。あくまで、それは、人間の側ではなく、あくまで、神の側であり、人間のシャローム・プロジェクトではなく、神のシャロームプロジェクトであることは忘れてはならない重要なことだと思う。

                     

                     そして、大事だなぁ、と思うのは、「変わらないこともある。自らの意思で神に立ち返り、神の働きをしようとする、神はそのような人々を求め続けていることである」という点である。大事なことは、「自らの意思で神に立ち返り、神の働きをしようとする、神はそのような人々を求め続けていることである」という部分である。神は無理やり神に立ち返らせることもできたが、しかし、人間の側の主権も認めておられるということであり、ロボットやボットのように、神の言いなりには人間をされないのである。その点は重要だと思う。ある意味で被造物に過ぎない人間の思いを神が尊重されている、というようなことは、理解しがたいことであるが、そうであっても、神がそうされているように思えてならない。

                     

                    昨日だったか、一昨日だったか、Facebookの中で、先週終わったひよっこで、アイドルになった時子というキャラクターのつぃっぎー・コンテストで時子が言ったとされる言葉「女の子の未来は、私に任せて!みんな私についてきて!」が取り上げられていたが、それはイエスの言ったことにほぼ近い。ただ、時子は女の子に向けていったことである。しかし、イエスは「人間の未来は、私に任せて!みんな私についてきて!」であったように思うのであるが。あとは、イエスについていくことが問題なのであって、さて、それを我々はどうするかが問われているように思う。

                     

                    ひよっこでの時子の演説シーン(リハーサル部分)(2分30秒あたりから)

                     

                    では、イエスの弟子は、なにをするかといえば、イエスがこの地に突入したことで、すでに、神のシャローム・プロジェクトが発動(それは神の国、天の国、とイエスが表現していることであり、神の支配のことであるとは思うが)したことを示したので、その神のシャローム・プロジェクトに関与することを求めておられるのだと思う。

                     

                    昨日の日曜日の説教で、司祭が、毎週集まって、君たちは、式文を読んでいるし、それを口に出して言うだろう。でも、その重みをどれだけ理解しているんだろうか、口先では、式文を読んで、以下のたとえ話の弟のように父の言いつけに従うふりをしているかもしれないが、それを本当に、自分の課題としているか、反省してみてほしい、という趣旨のことを言っていたが、これは結構インパクトを受けてしまった。ヒットポイントが高く、「それを言われるとつらいなぁ」と確かに思ったことはここで正直に述べておこう。

                     

                    【口語訳聖書 マタイによる福音書】
                     21:28 あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。
                     21:29 すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。
                     21:30 また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。
                     21:31 このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
                     21:32 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。

                     

                    なお、その時に司祭が読んだ祈祷書の部分は以下のようなConcluding prayerの部分(太字の部分は全員で声に出して言う 細字の部分は司祭が言う)も含まれていた。

                     

                    In gratitude, in deep gratitude

                    for this moment,

                         this meal

                         these people,

                    we give ourselves to you

                     

                    Lord, as we go from this service in church,

                    strengthen us for service in the world:

                    that the words of worship

                    may be expressed in our daily lives,

                    to the glory of your holy name

                    Anen

                     

                    リアリティのない言語ゲームと化した神学研究

                    先にもちらっと紹介していたことの中に、この本書13章の巻末の読者(想定読者は神学生)への手紙の部分で、次のように書いている。死者の復活や、軌跡などは、そもそも人間には知的には、理解不能であるという部分について、少し紹介してみたい。

                     

                    実際、これらの歴史的経験を扱った神学研究が、その経験の躍動感とは全く反対の効果をもたらすことがあります。初代教会の経験は、現代人にとっては知的に理解することが難しい事柄です。(中略)難しい概念がそこにはあります。復活というが、実際には何があったのか?それは文字通りの復活だったのか?(中略)ティーリケによれば、神について神学的に語るとき、二人称発話から三人称発話への変換がすぐに起こります。「あなた」から「彼」へ、神とともなる語りから神についての語りへ、近い距離にある人格的関係から遠い教理にある研究の客観的対象へ。(同 p.132)

                     

                    そもそも、信じて受け入れるべきもの(信仰により受け入れる)を、頭でっかちになっている現代人は、あまり受け入れたくないので、それについて、理屈をこねくりまわす。すると、更に訳がわからなくなる。受け入れるか、受け入れないか、信仰により受け止めるか、受け止めないか、のいずれかであるはずのものを、言語をこね繰り返す言語ゲームをやり、実際にはどうしていいかわからないほど、訳わからなくしてしまっているのではないのか、という指摘である。

                     

                    それはナンセンスだとはミーちゃんはーちゃんは言わないが、それは、果たして信仰生活に有益か、と問われれば、有益だとはあまり思えない。ましては、ここで、ティーリケが指摘するように、信仰を「近い距離にある人格的関係から遠い教理にある研究の客観的対象へ」と変質させてしまうのであれば、それこそ、無意味だし、そんな客観的対象であるとするならば、リアリティを生きる信徒にとっては何も意味をなさなくなってしまうようにも思う。

                     

                    神学の営為は、個人的には人間側の努力において神をできるだけ理解しようという意味においては、参考になるし、意味があるし、尊いものであると思ってはいるが、しかし、もし、説教がその様々な所説の提示だけで終わってしまっていて、リアリティがない状態にあるとしたら、あるいはリアリティが説教と称して行われる、説教者の先週の業務報告や先週一週間に思った所管のようなもので埋め尽くされるなら、そんなに30分も40分もの長い時間をかけた長いものでなくていいから、リアリティ、すなわち「近い距離にある人格的関係」を感じさせるものであってほしいなぁ、とは思う。説教者も人間ではあるので、新しいおもちゃ(神学的思惟の結果)を持ってしまえば、遊びたくなるのが人情であるのはわかるとはいえ、そんなものは説教としてはできたら、お断りしたいと思う。それより、福音書を丹念にじっくり味わうように読んでもらう方が、個人的にはうれしいかもしれない、と思っている。

                     

                     

                     

                    次回へと続く

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    2017.10.01 Sunday

                    2017年9月のアクセス記録とご清覧感謝

                    0

                      皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、先月の記録のご紹介と参りましょう。

                       

                       先月は、20,547 アクセス、平均で、日に  684.9 アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

                       2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
                       2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
                       2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
                       2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
                       2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
                       2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
                       2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
                       2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)
                       2016年第2四半期(4〜6月)   66709アクセス(733.1)

                       2016年第3四半期(7〜9月)   65916アクセス(716.5)
                       2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4)

                       2017年第1四半期(1〜3月)    56858アクセス(631.8)

                       2016年第2四半期(4〜6月)   76117アクセス(836.5)

                        

                       2017年07月      18,416 アクセス (594.1)

                       2017年08月      16,262 アクセス (524.6)

                       2017年08月      20,547 アクセス (684.9 )

                       

                      先月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

                       

                      現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 

                      アクセス数 676 

                       

                      Ministry Vol.34 を読んでみた(1)

                      アクセス数 577 

                       

                      キリスト教記者クラブ 第34回 オフ会に参加してみた 

                      アクセス数 498 

                       

                      2017年8月の関西牧会塾に行ってきた(1) 

                      アクセス数 353 

                       

                      結婚相手としての牧師の厳しさ

                      アクセス数 352

                       

                      先月は、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 が第1位になっています。こういう、あとは、先月、先々月中のイベント参加報告の記事 Ministry Vol.34 を読んでみた(1)や、キリスト教記者クラブ 第34回 オフ会に参加してみた あるいは、2017年8月の関西牧会塾に行ってきた(1) が、2位から4位までを占めました。また、5位には、結婚相手としての牧師の厳しさ で、再び浮上してきました。ロングテイルということを改めて感じました。

                       

                      今月もまた、御清覧いただければ幸甚でございます。

                       

                      先月の御清覧、ありがとうございました。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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