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怪獣もいろいろ

シン・ゴジラは見に行っていないが、ゴジラは太平洋のどこかで放射能汚染で突然変異が起きて、ゴジラになったという設定のはずである(メカ・ゴジラは違うとかいわないでね)。まぁ、ビキニ環礁での水爆実験があり、第5福竜丸事件があり、世の中公害問題が非常に悲惨で、メディアなどに取りあげられ始め、公害等の社会的外部性の問題が経済学でも意識に乗り始めたころ、そして、世間が何となく環境破壊に敏感になり始めたころ、カリフォルニア州で道路上に空き缶などのゴミの投げ捨てに罰金が科されるための検討が行われたり、今の排ガス規制の原型がカリフォルニア州で議論され始める遥か以前にゴジラの原作が登場したはずである。その意味で、突然変異種がゴジラであるが、フランケンシュタインという怪物は突然変異種というよりは一種の改造人間であり、昔のアメリカ映画で広くそのイメージが定着したように思う。


1931年版 映画「フランケンシュタイン」

 

これが、日本に来ると、完全に人間が機械になっていくサイボーグ化するから、面白い。例えば典型的にはミーちゃんはーちゃんが子供だったころのアニメ、8マン(ハチマンとか八幡ではなくて、エイトマン)やキカイダーなんかがその典型である。

 

8マン(短銃の射出初速の方が新幹線より早いとは思うが、新幹線とかけっこしているのは御愛嬌)

 

 

人造人間 キカイダー

 

オブジェクト指向プログラミングと人造人間

最近でも使われているソフトウェアの開発技法の一つに、オブジェクト指向プログラミングというのがあるが、これは、簡単に言ってしまえば、部品化による開発手法の発想であり、計算機ソフトウェアを一貫したものとして最初から全部コードとして書き上げてしまう(80年代前半までの昔の開発手法はそうだった)のではなく、入力と出力を定めておいたうえで、様々な部品(オブジェクト)に分け、部品化して部分化したものを組み合わせてプログラム全体を作りあげる手法である。コードのエラーの間違いが見つけやすいとか、開発工数が少なくて済むとかいいことも多いのだが、エラーが出たときの追及が難しくなることもある。

 

この手法は、ある意味でブロックをくっつけていって、非常に大きなプログラムを作るような方法論であり、大きなプログラムでも、きちんとした部品をつないでいき、必要に応じて、必要なブロックの部品のような感じで、ブロックを持ってくればよいので、割と簡単に大きなプログラムというか必要なことができるのだ。

Legoを使って作ったピザ

 

 

キカイダーとか、エイトマンとか、ほとんど人体をオブジェクト化しているといってもよいかもしれない。部品の具合が悪くなれば、具合の悪いオブジェクト(部品)を取り換えれば済むことになる。ある種、モダニズム、近代の思想というか世界観が非常に良く反映されたアニメーションというか、特撮ものだと思う。人間に関しても最近の医療は、悪いところを取り換えて、灰以上終わり、とか言うところもあり、全体との適合性の問題も生んでいる場合がないわけではないように思う。

 

ところで、現在も時々ご依頼に応じてシステム開発することがあるのだが、その時にもこのオブジェクト指向型の手法で開発することは多い。ただ、基本的に、オブジェクトに引き渡す変数や変数値がきちんと定義されていて、変数と変数名の使い方に混乱が生じないという条件はあるのだ。その意味で、変数を引き渡すやり方(インターフェースといってもいい)がきちんと定義されていて、それが問題ないことが必要なのだ。例えば、レゴ同士のインターフェースはきちんとしているからこそがちっとつながるが、レゴと違うくっつけ方の基準(くっつけ合わせるためのピンの感覚や太さやサイズ)といったものが微妙に違うブロックは、たまたまくっつくことはあるだろうが仮にくっついたとしても非常に不安定で、すぐに外れたり、ガタガタしたり、そもそもくっつかないことの方が多い。そうなると子供たちは、粘土を持ってきたり、テープを持って来たりで、くっつけようとする。

 

実は、日本とアメリカでボルトとナットの企画が違うのだ。アメリカは、インチが基本寸法になっているので、インチねじと呼ばれるねじが使われ、日本では、メートル法なので、メートルねじが用いられ、パッと見その違いはわからないが、ねじがはまらないとか、ちょっとだけは止まる感じがするのだが、どうもうまくはまらないとか、結構不具合を起こすことが多い。このように、基本的なインターフェースが違うと、ねじのような簡単だと思えるもの(ねじの製造事業者や関連事業者に言わせると、そんなに簡単なものではなく奥の深いものらしい。確かにものすごい種類のねじがあるのは知っている)でも、合わないし、うまく接合しないという問題が発生するのだ。

 

霊性についてのFacebook上でディスカッションから

で、何が言いたいか、というと、先日、『舟の右側』と『Ministry』という雑誌で霊操というものが取り上げた記事 『Ministry Vol.30』と舟の右側 Vol. 32 を買ってきた をいつものようにFacebookで取り上げたところ、結構反応があって、霊操は大事だ説とか、軽々しく取り入れる人はいないのではないか説とか、霊の飢え渇きが無いとだめ説とか、ちゃんと指導者は、時間をかけて簡単にできるとは言っていない説とか、プロテスタントの中でも福音派でも、そこで育まれた霊性があるはずだ、とか、そもそもプロテスタントがこの霊操に取り組めるのか説とか、基本的な霊性が違い過ぎていて無理ではないか説とか、軽々しくこういう大事なことを雑誌に乗せるべきでない説とか、まぁ、いろいろあった。非常に活発なご議論が行われたのだが、皆様のご発言とご議論、大変参考になった。コメントをくださったみなさま、またご清覧くださった皆様、ほんとうにありがとうございます。

 

教派間の違いとレッテルの張り合い

それで、いろいろ皆様のご意見を拝聴しながら思ったことがあるのだ。確かに、現在のプロテスタント(マクグラス先生が福音派と呼ぶ範囲)側の霊性の関心には、これまでの方法論での不具合があるのだと思う。メインラインの教会の影響の強い教会では、社会派と教会派に分かれ、教会内で政治闘争(外部者からは、教会内の政治的闘争に見える)を行い、この200年で多様な教派が生まれ、発展してきたいわゆるファンダメンタルとメインラインの皆様からラベルがはられるような福音派(ミーちゃんはーちゃんは、もともと、ここで過ごした時間が長い)は、福音派内ではなんとなくちょっと緊張感を走らせながらも、そこそこ仲良くしている様なふりをしているような気がする。さらに、この200年の間に成立した福音派(新興プロテスタント)の人々は、メインラインの皆様にリベラル、悪魔の手先、頭でっかちというレッテル張りにいそしむような人も中にはおられ、さらに、カトリックの皆様に対しては、悪意を持った発言を繰り出し、偶像崇拝的だとか、あらぬ批判を浴びせかける人々もおられる。対話するのではなく、相手に対する敬意というものを一切払わず、その価値を認めず、いきなり折伏というのか、折福(相手の理念が折れるまで、福音と称するものを問答無用で浴びせかける)するのが伝道だ、という方もおられる。そして、自分と意見が一致しないと、悪魔の手先扱いとか、悪霊につかれていると簡単におっしゃってくださる方もある。

 

カトリックに拒否反応を示す福音派の方も

ところで、実際、私が関係したことで、このような経験をしたことがある。ある方の書かれたものにカトリックの司祭が書いたものが大量に出てくるので、この人は話手として適切ではない(それは、カトリックの方の引用が多いその講演者の著書が、 その人にとってのこれまでの信仰生活との間に不適合を起こしただけだと思うのだが)と苦情をつけだし、別の教会で行う予定だったあるイベントがお流れになったことがある。個人的には、いろいろ事前に調整して回っていたので、イベントがお流れになったのは非常に残念だったし、まぁ、ちょっとめんどくさい経験もした。

 

まさに、このイベントが不幸な結果で終わったことにより明らかになったように、この苦情を付けた方の福音派的(新興プロテスタント的)な信仰のインターフェースと、講演者の著書に含まれていた信仰のインターフェースが合わず、不適合を起こしたのだ、と思う。生体臓器移植でも、誰かれの臓器を持ってきても適合しないタイプの臓器もあるように、下手をすると聖書理解においても、別の伝統で育まれてきた概念というのか、聖書理解というのか、霊性(ここでは霊操)の移植は案外簡単に行かないのではないか、と思うのだ。この信仰のインタフェースの不適合を起こした方は、不適合にとどまらず拒否反応を示されたのであろう。

 

かなり違うキリスト教諸派の霊性

基本、サクラメント、聖餐や祈りに関する概念が、かなり違うところがあるのは、実際に、礼拝の場に出席させていただく中で思うし、また、プロテスタント諸派、とりわけ福音派の諸派の礼拝というか説教に参加させてもらいながら、同じプロテスタントといってもだいぶん違う。若い人しかいない教会の訪問記 若い人しかいない教会参加記 や  若い人しかいない教会で気づいたこと  で以前書いたように、ノリノリでウェーイ風の教会もあれば、説教が極めて学問的な教会もあるし、高齢者の多い教会もある。実に多様なのである。そしてその多様性は、無論、霊性にも及ぶ。

 

ところで、以前、教会移譲式をめぐってちらっと考えたで福音派の教会からコプト正教の教会堂に委譲された会堂委譲式に参加した記事を書いたが、クワイヤーというよりは聖歌隊といった方が近いような方々が歌う讃美歌と、アラビア・中東風の音楽に近いコプト正教の讃美歌では、全く違うし、儀式を重視するオーソドックス系の教会と、アジテーションとまではいかないけれども、結構テンションの高い福音派の教会では、教会の構成が違うし、そこに働く霊性もかなり違うような気がする。その辺すべてを含めて、その教会の系譜につながる伝統に加え、その個別教会のこれまでの蓄積した霊性が違うこともあるので、慎重さが求められるように思う。

 

レクティオ・ディヴィナ、何それおいしいの、という人々が、いいといっている著名な人がいるから、雑誌で紹介されているから、ちょっと指導を受けたから、といって霊操を簡単にやったところで、消化不良を起こす様な気がする。あるいは、さきに紹介したカトリックの引用が多い著者の人に信仰プロテスタント派の信徒さんが、拒否反応を示したように、拒否反応を起こすのがせきの山であろう。

 

霊操をする以前に、霊操を支えている精神世界、あるいは、世界観、ストーリ、仮説というか前提条件まで含めて受容し、考慮し直し、自分自身の聖書理解を作り変える必要があり、何が、どこで、どんな風に、根本的に違うのかということを熟知しておいた方がいいと思う。 カトリックの霊性を表面的にものまねするのは無理があると思う。

 

ところで、前回の記事でも書いたように、霊操とかは、一人で勝手にやるとおかしくなることも多いものでもあるので、きちんと指導ができる方で、もし可能であれば、プロテスタントの表現方法で、カトリックの理解が通訳してお話できる人を指導者と長期間にわたって体験的に習得するのが良いとは思う。プロテスタント(とりわけ新興プロテスタント派)の用語と用法と意味とその周りの意味合いとカトリックの用語と用法と意味とその周りの意味合いは、日本語と英語以上違う印象がある。その意味で、カトリックの世界観をプロテスタント派のことばで説明できる人とは出あうのは相当難しいかもしれない。とはいえ、できれば、両方の霊性をかなりご存じの方の指導を受けながら、心の中で神のことばを静まりの中で見つめつつ神との対話をしていくことができればいいと思うが、下手するとそこに至る前にこういう方法論への拒否反応が出る人の方が多いような気がする。

 

そのようにうまく調整できずに物まね、ポイントだけ表面だけ剽窃し、そして、くっつけるような形で実施しようとすれば、霊性というオブジェクトに対するプロテスタント諸派の多様性が存在するインターフェースと、カトリック諸派のインターフェースの違いが存在するので、うまくくっつかないと思う。それでも、敢えて無理やり、ガムテープや粘土のようなものでブロックをつなぐ様にしてつなぐこともできなくはないだろうけれども、それは、ご自分の信仰と、霊操とかいったカトリックの霊性のオブジェクトを無理やり維持でもつないだような形になってしまうのではないだろうか。人造人間キカイダーやエイトマン程度の接合状態ならまだしも見るに耐えられるが、フランケンシュタインがまだかわいらしく、きれいに見えるような非常に無様な何かが出来上がると思うのだが。してはならないとは言わないが、どうせやるなら、きれいに接合できるよう、急場しのぎではなく、慌てず、焦らず、じっくりと取り組まれることをお勧めしたい。その結果、プロテスタント(とりわけ、新興プロテスタント)の信仰ではなくなるかもしれないことを覚悟の上で。

 

借り物で霊性は育つか?

そもそも論として、以前のライトさんの「新約聖書と神の民」で遊んだ記事N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(12)でもご紹介したが、基本的なストーリーというか理論というか仮説というか世界観に矛盾が見つかると、借り物のストーリー(理論、仮説、世界観・・・)を利用させてもらって急場をしのぐことはできるが、それは、その人全体が持っている個人としてのストーリー (理論、仮説、世界観・・・) と拒否反応を起こしてなければまぁ、急場くらいはしのげるし(一応、一時的なものに過ぎないことに注意)、いろいろやっているうちに、借り物のストーリーやその人全体が持っているストーリーが変わってくることもあるのだが、借り物は借り物であり、ある人の霊性にとっては異物に過ぎない。うまく接合できず異物になってしまった時に、それをどう見直していくのかが問われることになる。

 

この時に、別の体系(たとえば、カトリックで育てられてきた体系)で行われていること(たとえば霊操)を批判的にとらえつつも、自分自身の中に取り込むにあたって、かなり時間をかけ、急場しのぎでなくなるように、自分自身の聖書理解を場合によってはかなり変えつつも、その人のストーリーと適合的に見直していく必要があるように思うのだが。

 

個人の信仰の大きな変容を迫るかもしれないという意味で、いつも遊んでくださる津のH先生がご指摘のように、霊操とか、一般のクリスチャンに取って18禁(R18指定)どころか、C4プラスチック爆薬のような危険物指定にし、有資格者の取り扱いを必須にするとか、劇薬指定にして、鍵のついた金庫においておき、有資格者でないと取り扱えないようにしておかないといけないものであるように思う。それは、個人の信仰と聖書理解を破壊的に変えてしまう可能性があるからである。

 

とはいえ、それを、『Ministry』とか、『舟の右側』が紹介してはならんか、というと、そこは別ではないか、と思う。何とかに刃物を渡すな、という議論はわかるが、刃物という概念が存在することは、公共的な知識として重要だと思うし、それを知らない人々にそのようなものがあるから、それに関して長時間かけてでも指導を受けながら研修することの意味はある、ということ位を示すのは大事だと思うし、まぁ、まともな指導をされるかたは、「1日や2日研修を受けたくらいでは済まないものなのですよ」ということはきちんとおっしゃるし、そういう関連の本には、そのあたりのことがきちんと書かれている。その意味で、 『Ministry』とか、『舟の右側』 で紹介された別のストーリー(仮説、世界観、伝統、概念)をこれを機会にきちんと学ぶ機会にしさえしていただければいいのではないかと思う。そして司牧も信徒も十分な時間をかけた、信仰生活の歩みと見直しというご研鑽をおつみいただきたいのである。

 

3歳児が運転する連結トレーラートラック並みの場合も

しかし、問題は、そういう十分な自己研鑽並びに指導者の下での十分な研鑽を経ずに、勝手にやりだしてしまう人々の存在である。これは、どのようにしても排除し切れないし、そういう事例がプロテスタント系、ないし米国経由の新興プロテスタント系の牧会者と呼ばれる人々には時々おられるように思うのだ。神学校と呼ばれるような機関での研修期間が長ければ長いほどよいというものでもないが、神学校でも、短いものでは2年でそれも通信課程とか、下手をすると、単立教会ではほぼOJT(現場に彫り込んでの実践教育)が1年ほどだけで、司牧と人様から呼ばれる役割を果たす人もおられる。こういう人がすべて、司牧としてふさわしくないと主張する気はないし、まともで、大きく用いられた方がおられるのは熟知している。さらに、イエスの弟子だって3年半OJTだけだったではないか(これは違うと思うが。彼らはイスラエル人として、旧約の教育は当然受けている)という人々のご意見も分からないではないが、この200年前後の新興プロテスタント派を見る限り、その結果としてろくでもない事案がかなり発生したことにも現われていると思う。むろん伝統教派でも問題が発生していることは否定しない。

 

少なくとも500年の伝統があるものと、それを支えた1500年の伝統があるものをいきなり無視して、表面だけ繕うのは、弥縫策といわれても仕方がないし、先述したように、フランケンシュタインがかわいらしく見えるほど、奇怪なものを生み出すと思う。それをまた、聖書しか読まない、あるいは読むことをゆるされていないような信徒が軽々しくあつかっていいものではないように思う。そもそも、聖書は共同体で読むべきものであり、それをかってに個人が読んで、その一部だけを切り取り、あぁ、そうか、そういうことを言っているんだ、と思いこむような人が霊性の問題に手出しするのは、足漕ぎのおもちゃの自動車(アンパンマン号)すらまともに扱えない3歳児に20トンのフル積載のコンテナをダブル連結した大型トレーラーのキーを渡して、ほら、勝手に乗って遊んでいいよ、というようなものである。危なくて仕方がない。

 

アンパンマン号

 

20トンのダブルコンテナ結合したトレーラー

 

霊性は大事だけれども、誰に指導を仰ぐか(指導者との相性もあるので)、誰と共同体を組んでやるか、どんな本(なんでもいいわけではない。本に関する選択眼が重要だと思う)を読むか、自分がどんな霊性を持っているのかをきちんと把握しつつ慎重にやらないと、まさに3歳児が運転する20トンコンテナを多重けん引するトレーラートラックが走り回る中状況の中にいるようなものだと思う。そのような3歳児が運転する20トンコンテナのダブル連結トレーラートラックが走り回る中にいるかの様な状態に、身をゆだねる(ほとんど経験がないその人の生き方にかかわる霊性の指導者に一生身をゆだねる)ということは、大きな事故に巻き込まれない奇跡を願うことをほぼ意味するようなものではないか、と思う。

まぁ、そういう環境の中でも、神が守ってくださる、経験が浅くても私たちの指導者は素晴らしいという強烈な信仰というか確信をお持ちの方には、何も申し上げることはございませんが、どうぞろくでもないことになりませんように、と心からミーちゃんはーちゃんは祈念しております、と申し上げたいと思います。

 

 

この項、前々回記事の補遺で単発である。

 

 

 

 

 

 


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さて、今日もまた、N.T.ライト著『新約聖書と神の民』からご紹介してみたい。一応2週間ほどこの連載はお休みして、近日中に再開する予定(予定は未定)であるが、一休みしたい。今日は、本章(2章 本書の概要についての部分) の「4節 結論」の部分 からご紹介してみたい。

 

人間として大事なこと

この部分で、ライトさんは、人間が人間であるとはどういうことであるのか、人間が人間として生きるとはどういうことななのかの一部、そして最も大事な部分について次のように書いている。

ここまで示してきたように、必要なのはきめ細かい認識論であり、本書の制約と自らの知識の限界を知った上で、私はそれを提示している。しかしさしあたってキリスト教徒の世界観に関して、少なくともこれだけは明言できる。それは知識とは、人間と想像された世界との相互関係を扱うものだということである。このように知識を理解することは、「人間は創造主のイメージに想像され、またその結果として人間は想像された世界の秩序のもとで懸命に自己の責任を果たすという任務が託されている」という聖書的信仰の領域で知識について考えることになる。人間は観察者でもなければ、創造世界の略奪者でもない。この観点からすれば、知識は管理者責任の一形態だともいえる。(『新約聖書と神の民』p.98)

ここで、「(聖書を読んで、それを議論しようとするためには) 必要なのはきめ細かい認識論で」ある、ということをライトさんは書いている。では、全てのキリスト者に、ライトさんの言うような「きめ細かい認識論」がいるか、といわれたら、それは要らないと思う。それに耐えがたい人もいるだろうし、「きめ細かい認識論」といったところで、「それは鉛筆ですか?」「いいえ違います」「それは何ですか?」と英語の中学1年生の英会話の単元で習うようなことを言いだす人もいるだろう。

 

陣内智則氏の一人コント「英会話」

 

その意味で、「きめ細かい認識論」がいらない人の方が圧倒的だし、そんなものがなくても信仰者として生きることはできるが、きちんと聖書を向き合いたい、本当に聖書を理解するとはどういうことか、ということを考えたり、思う様な方には、「きめ細かい認識論」について考えることは必要だし、それと同時に、異なるストーリーというか、異なる価値観というか、世界観というか、異なる仮説というか、他者性を持って現れる何か、に向かい合う勇気というものはいると思う。

 

ただ、ここで重要なのは、「人間は創造主のイメージに想像され、(中略)人間は想像された世界の秩序のもとで懸命に自己の責任を果たすという任務が託されている」という部分であろう。これはすべての信仰者にとって重要な指摘だと思う。ただ、注釈を付けるとするならば、ここで、「自己の責任と呼ばれるものは、人それぞれに違うものが御与えである」ということではないか、と思う。ところが、近代という時代では、人間は同質的均質的、YDK(やればできる子)として認識されているので、「他の人と全く同じように全く同じことをいろいろ、YDKとしてしなければならない(たとえば献金とか奉仕とか)」ということをご主張の向きがあるが、それは違うだろう、と思う。

 

YDKってねぇ。個人的には"さぼろー"に近いので

 

あと、「人間は観察者でもなければ、創造世界の略奪者でもない。この観点からすれば、知識は管理者責任の一形態だともいえる」というライトさんの表現には、ビビビッと来てしまった。観察者というよりは傍観者という表現の方がよかったかとも思うが、人間は神がなすことを指を加えてみているだけの存在でもないし、逆に超アグレッシブに地球や他者を利用して、そこからボッタクリをする存在として作られたわけでもない。創世記の初めに神は人間を作り給いし時に「地を支配せよ」とはおっしゃったが、それは、「地を適切な状態となるよう適切に関与せよ」という感じの意味であって、銀行強盗の様に銃を突きつけたり、下の動画のように、相手の貧しさなどの弱みに付け込んで搾取していいという意味ではない。

 

The Simpsons で経済的な弱者に劣悪な作業環境を自分たちの作品が生み出していることを揶揄するオープニングシーン

 

決してクリスチャンたるもの、上品な生き方をせよ、人格的に優れたものとして生きよ、ということを聖書はメインの主張として、主張しているのではなく(派生的にそのようになるということはあるかもしれないが)、そもそも、人間とは何か、人間として生きることは何か、人間が創造された目的とは何か、人間が創造された目的に従って生きるとは何か、そして、神を信じる者として生きるとはどういうことか、ということを聖書はいっているし、そのあたりのことを、上記の引用分の中でライトさんはさらっと言っているに過ぎない。このあたりについてご関心のある向きは、あめんどう刊の「クリスチャンであるとは」をお読みいただきたいし、このあたりの事に関しては、本書よりは詳しくかつ分かりやすく書いていると思う。それは本の目的が違うからであり、当然のことだと考える。

 

なにより、「知識は管理者責任の一形態だともいえる」という表現は、一応知的生産にかかわっていることになっている(まぁ、それは職分として十分以上とはいえないかもしれないものの、一応”さぼろー君”なりに果たしているつもりだが)ものとしてはうれしかった。というのは、ミーちゃんはーちゃんがこれまでの人生で、かなりの期間通ったキリスト者群では、

【口語訳聖書】  使徒行伝
 4:13 人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。

【口語訳聖書】第1コリント
1:20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。

ということを説教の中や、信徒聖会(千人前後が集まる信徒大会)などで、滔々とのたまう方がおられるので、これらの聖書箇所が言及されるたびに、冷たいものを引用された前後の話者の言葉の中に感じ、肩身の狭い思いをするのが、常であった。中には、聖書にこう書いてあるため、無知なものがいいのだ、無学こそが素晴らしいのだ、教育は要らないのだ、と逆手に解釈される方もおられる。違うと思うのだが。

 

まぁ、日本語聖書を読んで、ご自分の語感でご理解されている分には、ご勝手に、という範囲で済むのだが、これを発言する方は割と学歴コンプレックスというのか、ルサンチマンに満ちておられるのではないか、というノリの話がたいてい後からくっついてくるので、「それって、どうなんすかねぇ」といいたくもなってしまう。その割に、宣教師とか巡回伝道師には、この聖書箇所がどうのこうの、って聞いているのを見ると、小学生や中学生じゃあるまいし、何でも「えらい人に聞いて済まし、(鳩のように素直に)それを丸のみする」のではなくて、ちゃんとそれなりの本をお読みになられたら、と思ってしまう。そもそも、それをしていることは「聖書のみ」では少なくともないし、下手をすると聖書より誰かえらい人の聖書理解を優先させることになっているだけではないか、と思うが。

 

 

知るということと関係性

知るということは、関係性があることを最初に個人的に知ったのは、J.I.Packerの”Knowing God”(日本語版『神について』最近改訳版が出たらしい)である。そして、Packerのこの本の中で、知るということが性的関係とも深い関係にあることも学んだ。そこらあたりの事に関して、ライトさんはこう語る。

知るということは、知られるもの(the known)との間に関係が生じることを意味する。これは、「知られるもの」が自分の期待し、望んでいたものとは異なっている可能性を「知る人」が受け入れなければならないことでもある。しかし同時に、「知られるもの」を単に遠くから眺めるだけでなく、「知る人」はそれに適切に応答するべく準備をする必要があることを示唆する。(同書 pp.98-99)

日本語の標準的な用法としての「知る」には、性的な関係性において他者との関係を持つ、ということは通常含まれない。しかし、英語の用法としてのKnowには、性的な関係性において他者との関係を持つ、という意味が含まれる場合があり、使用に注意が必要な語の一つではある。

 

 

それと、今回読んで、あぁ、と思ったのは、”「知る人」はそれに適切に応答するべく準備をする必要”という部分である。単に観察する人、知る人は、対象を客観的に見ているわけではなく、それとかかわっていく、ということなのだろう。個人的には、陶器類が好き(茶陶に限らない)なので、それを見ながら、その中に載る料理、その陶器の使い方、陶器をどう味わうのか、ということが結構好きなのだ。その意味で、ちょっと高めの料理屋さんに行って(というかより正確には、連れていってもらって)、陶器がうまく使われている場に出あうと、ちょっぴりうれしい。

 

「器は宇宙がある」という説もあるが、それは個人的にその表現には首肯する。つまり、その表現は、陶器を見ていることで、さらに、陶器に入れられた料理を味わうものが適切に応答できて初めて、いえる言葉であるかもしれないとも思う。

 

例えばこんな器の使い方は、なかなか

 

 

知識の断片と「知る」ということと教育

世俗のお仕事として、知的生産活動や教育活動に携わっていると、ICT( Information and Communication Technology 情報通信技術の3文字表現)の普及に伴って、共に時間を過ごすことによる教育ではない教育の方法論が求められることになり、遠隔教育とか、通信教育に近い教育の方法論への対応を求められることもある。やったらわかることではあるけれども、このICTを使った遠隔教育は結構面倒である。特に教室での対話型の教育には、如何にICTが進もうともできないライブ感というものがある。遠隔教育とか、通信教育だと、知識の断片は与えることはできるが、教員との質疑応答、それを介した受講者のコミュニケーション、そして受講者間のコミュニケーションの成立の可能性ということが大きく妨げられる感じがする。

 

まぁ、こういう教室型の質疑応答の時間でも、質問と称して講義の内容そのものとほとんど関係のなきことに関して、延々と自説を展開する方々がおられる(結構高齢者に多い傾向がみられるようである)が、それは、ご本人はその講演者や講義者の時間を占有できていいのかもしれないが、それは個人的には公害に近いのではないか、と思う。学会でもこういうことが起きるが、あまりにひどければ、その時には座長として、「どうぞご意見はセッション後に個人的にお願したいと思います。どなたかほかのご質問は?」とタオルを投げ込むこともある。まぁ、無限に時間があれば対応は可能だが、そうではないことが多いので、そのような対応をとる。

 

大抵のばあい、こういったご質問というよりは、質問と称して意見のご開陳をなされる方の場合、質問というよりはご意見そのもの論理の筋がそもそも論としてかなり悪く、本人も何を言おうとしているのかを整理せずに質問しておられることがおおいようにおみうけする。対論の素材となったご意見や論文、ご見解とはほぼ関係なく、意見というか個人のご感想の開陳をされる方が多くおられるので、大抵困るのだ。

 

余談に行ったが、知るということに関して、ライトさんは次のように書いて居られる。

私が提示している批判的実在論は、その本質において「リレーショナル」な認識論であり、孤立した認識論とは対極にある。人が現実を正しく認識するために、ストーリーはその道筋を提供してくれる。ストーリーとは、人間と、人間が観察する対象(それには他の人間も含まれる)との相互関係についてものものだ。(中略)批判的実在論は、「客観主義者」の主張する近く情報によって得られる知識よりも、もっと大きな知識を得ることを可能にする。同時に、「主観主義者」 の指摘する、知るという行為における知る人の役割の重要性も正しく認識させてくれる。(同書 p.99)

「知る」というのは、テレビ番組的なクイズ番組のような回答を知っているという理解の方も少なくないが、それは知っているというよりは、単に歴史の年号だけとそれにつけられた名前を覚えるように断片化された情報を記憶しているだけではないか、と思う。丁度聖書の(暗唱)聖句を覚えてはいても、それがその人の人生に中に反映されていない状態、といったら言い過ぎかもしれないが。知っているとは、記憶している以上のことだ、とライトさんは言っているようであり、そのことについて「リレーショナル」という表現を用いておられるのであり、それゆえに「大きな知識を得ることを可能にする」という表現になるのであろう。

 

歴史の年号の話が出たが、うちの家人と話していて、ある家人は日本の歴史の年号とその時の出来事とされる名称は入試に必要なので覚えているとしても、それがもたらした意味とか、それがその後の日本の歴史をどう変えていくことになったのか、ということは理解していないことが多い。専門でないから、それでいい、というのはあるかもしれないが、それって本当に歴史教育を中等教育で受けた意味は何、と思いたくもなる。例えば、鎌倉幕府が成立した時期はわかっていても、それが、それ以前の日本の歴史で存在した墾田永年私財法、あるいは、荘園制度、守護地頭の成立などとどうかかわっているのか、東北地方開発に鎌倉幕府の存在はどのような意味があったのか、ということの理解がない家人がいる。これらをバラバラで知っていても、それがつながっていないのだ。

 

個人的には、歴史学とは、このようなコンテキストの変化をとらえる学問体系であるはずなのだとおもっている。無論、歴史学関係の入試では、年号とそれに対応する歴史的な出来事名称を特定できないと合格はできないものの、大学に入って歴史学研究をはじめたら、それが何の役にも立たないことを知って、唖然とする学生は案外多いらしい。こないだ、ツィッターで、そういうことを書いていた方がおられたが、それはそうなのだと思う。

 

それは、数学でも同様で、高校の数学IIIとかの授業で覚えた知識は大学の微積分学でほぼ無意味になってしまうので、それにけつまずいて、理学部数学科に進学していても、数学科そのものが嫌になる人も時におられる。この辺、日本は知るということよりも、情報の断片を記憶させることに教育の意味を過剰に見出しているのではないか、と思う。知るということは、情報の断片を持つことではないからこそ、知るという行為、そして、その知っている人、知ろうとする人の知るという行為に意味があるように思う。

 

小学校、中学校までの初等教育+アルファの部分は、確かに今の学会で定説とされている理解のコンテキストをわざわざ断片化したものとして覚えさせることが教育でもよいとは思うが、本来、中等教育、高等教育での教育は、違うと思う。同じ教育といいながらも、全く別のものであり、どちらかというと、能力開発、コンテキストの発見、コンテキストの自分での見極めと、それをどう体系化していき、より高次な理解を作りあげていくかの能力開発の側面が強いように思う。知識を生み出すこと、それを総合的に使う力を付けることが、高等教育、能力開発の意味ではないか、と思っている。

 

仮説の検証と経験主義によるトートロジー

もし、人が経験だけから考えるとすれば、経験していないもの、見てはいないもの、確認できないもの、捕捉できないものはすべからく意味がないことになる。しかし、以下の図で示すように観測できない重力波というものを考えることができたのであり、それは経験主義の枠を出ることで考察できるようになるのだと思う。アインシュタイン先生のころには、重力波はあるだろう、論理的にはあるはずだが、観測の方法がなかったので、観測ができず、仮説として示されていたに過ぎない。しかし、最近、いろいろ観測機器を工夫した結果、観測ができるようになって、朝日新聞の下の号外のようなことになったらしい。

そのあたりの事に関して、ライトさんは次のように書いて居られる。

批判的実在論は、外部の現実に関するすべての知識が、ストーリーを本質的要素とする世界観という枠組みの中で得られると認識しているからだ。この理論は、世界一般について、またそこでの具体的な事象について、それらを説明してくれるストーリーを仮説として提示する。そして、その仮説的ストーリーが目の前の現実と「適合する」のかどうかを観察し、検証する。では、私が提案しているこの理論が正しいことを示すための決定的な議論を求められた場合どうすべきだろうか。経験主義的な観点からこの問いにこたえようとすれば、明らかに自家撞着的になってしまうだろう。(同書 p.99)

20世紀は科学(というよりは、経験主義的な意味での科学の部分集合、言い方は悪いが一般にわかりやすくした一種の疑似科学的思考)が多くの普通の市民の間で支配的な価値を持った時代であったように思う。しかし、「世界一般について、またそこでの具体的な事象について、それらを説明してくれるストーリーを仮説として提示する。そして、その仮説的ストーリーが目の前の現実と「適合する」のかどうかを観察し、検証する」というのが、基本現代の科学的なアプローチの基本であり、その仮説的ストーリーというのは現在の定説、学会の標準的な理解とされていることを疑うのが、標準なのである。何かをある仮説を定説として、理論を発展させた場合、その仮説が崩れたら発展させた理論はすべて崩壊することになるので、その意味でも仮説から疑う必要があるのである。

 

 

シンプルで説明範囲が広がる仮説が意味のある仮説かも?

流体力学など、非常に複雑な翼面の揚力に関する渦をシンプルな連立微分方程式で示すことができる。あの複雑な渦を、たったこれだけの式で表せてしまうのだ。

 

これを最初知った時には、をををを・・と個人的に美しいと思った。

 

すべての認識論は仮説として論じられなければならない。それらの有効性は、あらかじめ合意が得られている事柄との一貫性によってではなく、他の仮説と同じように、その簡潔さや、様々な経験や出来事をうまく説明できる能力によって試される。(同書 p.100)

学問に取って、定説はない、ということを「すべての認識論は仮説として論じられなければならない」という表現でライトさんは表しておられるようである。仮説の有効性は、基本的に簡潔さにあるというのは極めて重要であると思う。上の微分方程式は非常に短く簡潔であり、そして実際に飛行機を飛ばすうえで、役に立っていて、現実をうまく説明できている。その意味で、理論として優れているように思う。

 

聖書理解でも、シンプルなもので旧約聖書から新約聖書まで説明できる様な理解は、非常に優れていると思うが、逆に騙さているかもしれないという部分もある。それゆえに、かなりきめ細かな検証が必要な場合もある。しかい、逆に、きめ細かなところだけに合わせて微調整微調整を繰り返した様な聖書理解の方法は、一種フランケンシュタイン的であり、どこかに無理がある部分があり、なんだかなぁ、と思うこともないわけでもない。それが学問かといわれれば、それも学問の一部であるとは言うものの、どちらかというと退屈な学問の様な気がする。それは、無限に続くかのようなパッチ当て、補修作業であるからだし、土台の仮説が崩れると意味がなくなる作業だからである。

 

 

怪物君に出てくるフランケンシュタイン

 

 

さて、第3章に入る前にこの連載については、しばらく休憩に入りたい。記事としては、単発ものをしばらく続けます。

 

 

 

 

 

 

 

評価:
N・T・ライト
あめんどう
¥ 2,700
(2015-05-30)
コメント:非常によいので、おすすめしております。

評価:
J. I. Packer
Hodder & Stoughton Ltd
¥ 1,071
(2005-01-17)
コメント:大変よいと思います。

 

 

 

二つの雑誌ともあった方がよいかも

いずれそのうちきちんとご紹介する予定であるが、今回、同じ日に二つの雑誌を買ってきて、あぁ、こういう時代が来るのかなぁ、と思ったことがある。それは、割と執筆者にプロテスタント系の人が多い、Ministryという雑誌と、聖霊は、きよめ派、ペンテコステ系を中心とした読者層を持つ『舟の右側』という雑誌の両方に、英 隆一郎神父がご登場だったことである。

 

時期を同じくして出版されたこの両雑誌(『Ministry』は季刊、『舟の右側』は月刊)に、なぜ、この神父様がご登場になったのかは、よくわからないが、恐らく、牧会塾というキリスト教関係者の方が割とよく集まっているところでの『霊操』に関する講演会があったからかもしれない。舟の右側の方は、牧会塾の特別講演会(行きたかったが、最近世俗の仕事が忙しく、農繁期のど真ん中でシステム運用のサポートが持ちあがる可能性があり、行きたくても行けなかった)の模様のダイジェスト版であった。こういうダイジェスト版でもいいから上がるのはうれしい。

 

そして、Ministryの方は、その霊操そのものの背景について、より詳しく、そして現代社会と意義とか、より広い背景について、Ministryの編集主幹の平野さんがインタビューした記事(恐らくそのダイジェスト版)である。

 

その意味で、この二つの雑誌は両方とも、買ってよかった、と思ったのである。まだ、一方しかお買い求めでない方、また、両方ともお求めでない方で、『霊操』なるものにご関心のある向きは、是非ともお買い求めされることをお勧めする。

 

霊性の重要性

近代の日本、とりわけ現代の日本のプロテスタント系の信徒さんに取っては、霊のこと、聖霊のこと、神のこと、となった時に、どうしても、個人の魂の平安、個人のこころの安定というか安寧としてこれらの問題を見るという習慣が付きすぎてしまっていて、どうしても、自己中心的な霊性になりがちであるが、Ministryの記事を読む限り、特に、英神父のインタビューでは、より広い範囲でこの聖霊の働きをとらえていて、社会全体の中での霊性ということまで含めてお考えであることがわかる。これに対して、『舟の右側』という雑誌では、どちらかというと個人的な経験や、個人に関する霊性という関心が強く、両誌の性格の違いをよく表しているという感じがした。どちらがいいとか悪いとかいうのではないが、両者の読者層の関心の違いを表しているかのようであった。

 

この世とかかわることにも必要な霊性

この世とのかかわり、というのは霊性を考えるうえで、案外重要なことのかもしれないと思うように最近はなってきた。どちらかというと、数年前までの霊性とのかかわりは、かなり『舟の右側』の世界に近い概念の中に生きてきた。ある面、自分の霊性だけを考えて居ればよい、という概念に近いところで生きてきたといってもよい。そういう意味で言うと、聖霊と私、というよりは私と聖霊というストーリー、それを異様に重視する前提というか概念の中で生きてきた、ということを思う。 

 

ところが、ジャン・ヴァニエの本を読み、ナウエンの本を読み、ライトの本を読み、マクナイトの本を読み、オートバーグの本を読み、霊性を見直していく中で、何のために、神の霊が我々の内に内在するのか、神の国があなた方の中にあるという意味は何か、この世の中に我々が神の霊に伴なわれて生きるということは何か、ということ、それは何のためか、ということを問われていく中で、従来の仮説というかストーリというか前提ではまずいと思い至るようになってきた。

 

「霊操」は勝手にやるとかなりまずいかも

個人的にこの霊操ということは大事であるが、基本的に個人だけでやるのはまずいのだなぁ、ということを改めて思った。共同体で霊性を受け止めること、それが教会の意味でもあるし、教会と信徒との関係を考えるために聖霊というのは重要だと思う。聖書は、そもそも個人で読むというより教会で読むものであったし、教会に与えられたものであったのと同様に、聖霊は、教会という共同体に与えられたものでもあるように思う。しかし、プロテスタントでは、とりわけ近代に生まれたプロテスタント系の教会では、共同体というよりは個人という側面が強いためか、個人主義的な観点から考えることが多いように思う。また、理性や言葉での説教が重視され、経験の積み重ねが軽視される(瞬間的な経験が個人的なコンテキストの中で極端に重視されるところはある)ところもあるので、より難しいように思う。さらに、このような霊性といったことに関して体系的に考える伝統というか習慣がないため、形だけ、あるいは、言葉だけの『霊操』というのは、かなり妙なことになりがちだと思う。実際、カトリック教会や正教会といった伝統的な教派でも、勝手に指導者を付けずにやってしまっておかしくなった人が出たかのような話を聞いたことがある。その意味で、この種の伝統を持つある程度霊的指導の経験を持つところでやらないと、おかしくなる危険性があるのだろうと思う。

 

たしかに、このことに関する本を書いたロヨラ さん (ザビエル君の友達で、上智大学の学修システムの名称にもなっているらしい)は、本を書いたのは、世界で初めてかもしれないが、それまでのカトリックにおける修道院の伝統に乗っているからかけたという部分もあると思う。今、霊性が流行りだから、といって過去の歴史的伝統、教会の伝統を持ちえないプロテスタント諸派でこの指導を受けてない人、教会の伝統を受け継いでない自称『霊的指導者』が安易に始めていいものでもないように思う。長年の経験から積み上げられたものには、無意味なものもかなり含まれるが、しかし、その背景を知れば、その意味はかなりあるのだ。

 

ロヨラ

 

もちろん、神から与えられた才能というかタラントをお持ちの方もおられることは否定しないが、ネコでも杓子でも『霊的指導者』というか、『霊的同伴者』はなれるものでもないことは確かである。しかし、『霊的指導者』を持つことを考えたい人が、『霊的指導者』に対する『霊的識別』(霊的指導者がすべきこととされていること)を経験がないのに持たないといけない可能性が高いというのは、何とも残念なことである。まぁ、一部のプロテスタントにとっては、カトリックは○○(自粛のため伏字)らしいので、その意味でも、こういうことに手をお出しにならない教会群も多いだろうし、自称『霊的指導者』には、十分注意された方がいいのは、『預言者』にも、『偽預言者』が大量に出たことと似ているかもしれない。

 

 

また、この両者の雑誌に関しては、別に記事を書いてみたいと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Pocket
 

今日もまた、N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読みながら、たらたらと考えたことを書いてみたいかなぁ、と思う。

 

ストーリーとその検証について

凡そ、学問というものは大方の予想に反して、思い付きでするものではない。若い大学生クラスの学生さんの中には、この思い付きだけで勝負をかけようとする猛者がいるが(その一種の無謀さというのか、若者特有の勢いというのは評価はするが)、それは美玖から「無知です」、「勉強が足りません」、ということを暴露したり、吐露するようなものだ。その思いは買うけど、自分が思いつくこと位、大体100年以上前に(あるいは2000年以上前に)誰かが思いついているのだ。

 

学問が学問である以上、まず、これまでの研究を調べて、自分と同じことを言っている人がいないかどうかを確かめた上で、そのうえで、自ら、多分こうなっているだろうという仮説を立て、その仮説が他者を含めて、立証( そのことが自分以外の他者からも 「同じ認識を持っていた、あるいは、その認識に到達され、その認識が妥当であることが複数の人によって検証された」ということ)されて初めて、仮説が立証された、ということになる。そのあたりの事に関して、ライトさんは次のように書く。

 

ここで私たちは、仮説とその検証という概念に戻ってきた。通常仮説が「立証」されたとされるのは、その仮説がある種の単純さですべてのデータを含み、そして目の前の観察対象を超えた広い分野でも有効であることが立証された場合だ。だが、ここまで私たちは、仮説とは実際何かという説明と、立証において何が重要なのかという説明との溝を埋めようとしてきた。十分な説明には、「疑問」、「仮説」、そして「仮説の検証」が含まれる必要がある。

 まず初めに「疑問」が生じ、それにこたえられるための仮説が立てられる。疑問は何もないところから突然表れるのではない。それはどんな場合でも自分自身についてのストーリーから浮かび上がってくる。ある人が疑問を抱くのは、その人の現在のストーリーに何かしら不可解な点があるからだ。(『新約聖書と神の民』pp.95-96)

個人的な経験で恐縮だが、例えば、聖書の中で日本語聖書を読んでいるだけで意味がどうしても分かりにくい「裁き」という概念があった。日本語の通常の語の概念(つまりストーリーや仮説)で読んでいると、どうしても「崩壊」とか「滅亡」と強く関連付けて理解してしまいやすい状況があった。このような方向の理解で考えると、どう考えてもしっくりこない部分があったしし、さらに、自分自身が理解している範囲での神の概念や聖書の概念とどうもしっくりこなかったということがあった。

 

とりあえずこの理解での居心地の悪さというか、落ち着きの悪さ、疑問を放置しながら、それでも聖書を読み、キリスト教徒のはしくれとして生きてきた部分がある。そしてまた、いったんは放置して手も、聖書を読む中で、「裁き」という概念に出会い、また、様々な注解書にあたったり、聖書関連の本にあたったりしていく中で、考え続けてきた。しかし、ある時この本の著者であるライトさんの別の本の中での記述と出会って、「あぁ、なるほどそういうこともあるのか、それに合わせるとうまくフィットするぞ、そして、それ以外の部分も何となくうまく統合的に対応でき、有効かもしれない」と思ったことがある。まぁ、聖書の語の理解でこういう経験をすることはこれまで、案外少なかったのだが、これと似た経験は、F.F.Bruceのへブル人への手紙の注解書を読んだり、ロイドジョンズの「山上の説教」にかんする注解書(説教を書籍にしたもの)を読んだ時にも経験したことがある。この2冊は、ミーちゃんはーちゃんに取って実に衝撃的な本であった。

 

このように、ある仮説で生きていて、「わかんないなぁ、しっくりしないなぁ」という疑問が生じたときは、実は非常に重要なのである。それで、いくつか仮説を立てたりはするものの、どうもしっくりいかないままであっても、世の中には、それを取り扱うことができるストーリーがある。それがわかれば、他のストーリを用い、どのような視点からアプローチしたらうまく行くのか、といういろいろな方面から確かめてみて、あぁ、このようにアプローチして考えてみれば、ある程度は、うまく行くのもしれない、ということに至ることはよくある。確かに、今持っているアプローチの方法では、解釈がうまくいかないからこそ、別のストーリーが必要だというのはあるかもしれない。その意味で、ある理解への違和感というのか、他の理解との間に齟齬が生じたときは、新しい知見への入り口なので、それを押し殺したりすることなく、それに取り組むよい機会なのかもしれない。

 

しかしながら、世の中には、最初に出会ったもので満足してしまい、全く疑問を持たない方々や、新しいものを試すことは犯罪行為に等しい、とお考えなのではないか、と思われる方々もおられる。そういう方はそういう方で、一つの生き方であるとは承知申し上げているが、こういう人は、最初のものを大事にして、一切そこから動かないし、疑問を持って生きることはダメな生き方であるとでも思っておられるようにお見受けする。まぁ、素朴な生き方ではあるけれども、ある面、頑固という表現、がある意味相応しいのかもしれない。案外、福音派と呼ばれるキリスト者軍の信徒さんの中に多いような気がする。福音派の極端な人々の中には、牧師とか年長者の言うことを疑ったらダメとかいって居られる牧師さんなんかもどうも一部におられるらしい。ちなみに、そのような生き方はミーちゃんはーちゃんには無理でござる。

 

乱立するストーリーにどう対応するか

世俗の学問の中で、過去のストーリーに基づいて、研究を進めていても、うまく説明ができない時、まずすることは、これまでにどのような伝統的なストーリーの亜種があるのかを調べ、それを包含するようなシステムがつくれないか、ということを考えていくことがある。

 

例えば、1次式の連立方程式で解けないことが、より高次の方程式にすることで、割とあっさり解けたり、静学(時間変化がない世界)で解けなかったものが、動学(時間変化がある世界)で微分方程式体系に変化させることで、あっさりと解ける場合がある。大抵の場合、ある理論がうまくいかないときに、処理する次元をあげてやること(メタ概念に立って問題を見直すこと、あるいはライトさんのことばを借りれば、より広い世界を統合的に扱うようにするため、理論の世界を広げること)をすると、うまく行く場合が結構ある。

 

ところで、本来、ある理論に凝り固まっていて困っておられる人々に、こういう考え方もあるのではないか、と、理解の幅を広げる役割の触媒を果たすのがコンサルタントやカウンセラーの役割であり、その腕の見せ所なのだが、今のコンサルは、そのコンサル企業の特有のコンサル手法(正直言って、コンサルタント先の会社が変わっても勧めてくる内容は別の会社とほぼ同じことが多い)で攻めてくる人が多いから、かなわない。本来コンサルタントは、クライアントのお悩みに対して、別のストーリーを提示し、クライアントをお悩みから脱出させる役割を持つはずの存在なのである。

 

そのあたりの事を含め、ライトさんは次のように書いている。

 

疑問を促すストーリーがあり、説明が提供するいくつかの新しいストーリーが表れ、そのうちの一つのストーリーが、全ての関連したデータと明快で単純な枠組みの中に含めるのに成功し、そうして他のストーリーのもっと良い理解に資することになる。(中略)この極めて単純な知識のプロセスの記述は、「仮説と検証」モデルに含まれるものを明示し、それを世界観の特性とその中でのストーリーの位置付けを示す地図(これについては5章でより深く論じる)の上に位置づける。そのことは、特に歴史について論じる際に極めて重要になるのだが(4章参照)、そこでは「検証」プロセスについてのより詳細な問題について論じることにする。(同書 pp.95-96)

 

ここで、地図という語が出てくるが、この地図という概念は、案外大事だと思う。地図に表現すると、対象間の関係が少なくとも1次元ではなく、2次元表示(ないし3次元表示)が可能になるという意味で、1次元から比べればよりメタな視点を提示しやすいからだ。文章だと、どの言語で、も割と1次元的にならざるを得ない(言葉は前から後ろに向かって流れるという徳性を持つため)が、図ならば、4次元は無理にせよ、3次元くらいは表記可能である。知り合いの数学者は、4次元とか5次元の図を平気で書けるから困ることもあるのだが。

 

まぁ、今は、Google Earthや下の到達時間動画のような時間を入れた3次元表記もさらに、時間を入れた動学的表現も可能であるし、お金さえかければいろんな表現、視覚かが可能になってきた。

 

 

東京からの到達時間

フラクタルの3D表現(長いので、最初の数分見れば十分と思う)

 

ストーリーの中で生まれる認識

認識したり、理解したり、疑問を持ったり、生活を容易に過ごすためには知識というか、ストーリーが必要な場合は多い。あるいは、不可欠とさえ言えるかもしれない。

 

例をあげてみよう。大阪・神戸では、エスカレータの歩き追い抜きは左側と決まっている。左側が負い抜きレーンの役割を果たす。ところが、関東では右側がエスカレータの追い抜きと決まっている。あるいは、お正月の雑煮に入れるのは、関西地方では丸餅派が多い。関東では角餅である。なお、徳島県の一部では、雑煮の中に餡入りの餅を使う地域がある。そして、自分と違う習慣を持っている人にあって、時にびっくりすることがあることは皆さんもご経験があるだろう。

 

ところで、ある地域では、雑煮の餅は丸餅だ、という地域文化の中で、自分が経験してきた範囲の中で、雑煮の餅の形状は、長年をかけて「丸もちである」と実証されてきた人がいるとして、その人の「雑煮には丸もちであるという事実」だという認識はその文化の中で育っていること、つまり、雑煮には丸もちという世界(あるいは文化)があるからこそ、雑煮はすべからく丸餅であるという認識が生まれているのである。時に、テレビ番組とかでそうでないものが紹介されたり、身近な人が違うものを持ってきて初めて、あぁ、そうでない仮説というかストーリーで生きている地域もあるのだ、ということを認識できるのだ。それを格調高くライトさんは次のように書いて居られる。

細かな知覚による認識は、ストーリーの中でのみ生じる。それだけではなく、個々の認識は、ストーリーの中でのみ生じる。それだけではなく、個々の認識はストーリーの中で検証される(それらがストーリーに含まれていればだが)。理解すべき重要な点は、実証主義的な伝統が「事実」だと見なすものは、それに付随する理論と共に現われるということだ。そしてその理論とは、「事実」を含む枠組みとしてのストーリーなのだ。「事実」について言えることは、そのまま「対象物」にも当てはまる。「対象物」もまた、ストーリーを伴って現れる。(同書 p.96)

別の例をあげてみよう。関西人が東京で困るのは、薄口醤油で出しをとるという文化があるが、水の硬度の関係で、関東に薄口醤油で調理する文化が存在し。関東で薄口醤油で出しを作っても味がどうしても違う。それは、河川水利に依存している関東圏の水の硬度が関西と根本的に違うかららしい。こういう例は他にもたくさんある。

 

関西人が夏に喫茶店に行って、失笑を買うことがある。冷たいコーヒーを「冷コー(れいこーと発音する)」と呼んだりしてしまったりするときだ。あるいは遊園地に関しても、「遊園地といえば、ヒラパーやんなぁ」といってしまったりすることだ。

 

 

そもそも、認識が成立するためには、その前提となる理解システム(世界観)が必要で、その理解システムが世の中は実に多数なのだ。日本語では、もともと青と緑の区別がなかった(青でひとくくり)という話を聞いたことがあるが(だから、「青によし奈良の都は…」となるらしい)、言語システムという表現システムに我々の思考も認識もどうも制限を受けているらしい。

 

 

アラビア語だったか、あのあたりの中東系の遊牧民を背景とした言語体系では、羊の年齢階層ごと、ラクダの年齢階層ごとに別の語で表現する(日本ではツバス → ハマチ → ブリ といった出世魚という文化がそれにあたる)らしいが。日本語ではラクダはラクダであり、それ以上の表現をしようと思えば、形容詞を付けて表現するしかないことになる。つまり、中東圏と日本では、ラクダに伴って現れるストーリーが根本的に違うらしいのだ。

 

 

もう少し深刻な例で言えば、近代では、ヨーロッパ型の人権思想と、アメリカ型の人権思想、中国を中心とする人権思想と、日本の明治期の人権思想、大正期以降の人権思想、昭和前期の人権思想と、平成期の人権思想、それぞれが異なっている。それで『文明の衝突』という本で言われたことが起きているのだ。文明の衝突、それは、ストーリーの衝突でもあるといえよう。

 

 

ひらぱー(ひらかたパーク)をごり押しするV6の岡田君

 

 

 

知識と公共性

ポストモダンに関して言えば、知識ですら、個別化され個人の枠内で語られることが多い。しかし、それではすまない問題がある。世の中には、個別のストーリー、世界、言語に分割されていないものがあるのだ。例えば、数学の世界では、数式の処理と表現方法の共通化が図られており、数学を使い慣れれば、言語よりも数式の表記と論理の展開だけは基本的には共通なので、数式展開で追っかけていき、共通理解に達することができる。

 

たまたま、経済学関係で今の近代経済学がほぼ数学が必要不可欠な学問体系になっていることをあるきっかけでご存じになり、大変驚いておられたご年配の方がFacebookにコメントしておられた。

たしかに、いまの国公立大学での学部レベルの経済学でも、数学なしには澄ませることは極めて難しい。なぜ、そんなことになったかというと、それは、世界中での普遍性(本来、各国経済は特殊性を持つものであるのだが、それを言っていると普遍的理解を追及する研究ができないので、特殊性はかなり無視され、誤差港のような扱いを受け、世界各国で共通部分だけに縮約して分析することになった)を求めていき、数学モデルが多用されることになったのである。その結果、今の経済学では、数学が欠かせない。その意味で、理論経済学や数理経済学の中では知識の公共性は相当確保されている。

 

そのあたりの事に関して、ライトさんは次のように書いている。

西洋知識が知識を「客観的」なものと「主観的」なものとに区別する以前の時代ならば、「公共的」と「個人的(プライベート)」という知識区分の観点から考えることができただろう。ある種の知識の公共性は絶滅に瀕してはいない。それは、ある人々が知っていることを実践しているという事実によって、より強固なものとされる。(同書 pp.97-98)

まぁ、数学や数理経済学・理論経済学の例を持ちだすまでもなく、関西では、「アイスコーヒー」は「レイコー」であり、遊園地といえば「ひらかたパーク」であり、鉄道ヲタクといえば、中川家と相場が決まってる。それまた、物語であり、大阪における知識の公共性なのである。


 

中川家の鉄道ネタ

 

このようにある限られた範囲の人々が同じような行動、理解を持つことで、ローカルな公共性を持っているのであるが、それが、より広いグローバルな公共性とぶつかる時、違和感を感じた利居心地の悪い思いをするのである。

 

まだまだ続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

評価:
N.T. ライト
新教出版社
¥ 6,912
(2015-12-10)
コメント:お勧めしています。

評価:
F.F.ブルース
聖書図書刊行会
---
(1978-10)
コメント:最初に衝撃を受けた本

評価:
D.M.ロイドジョンズ
聖書図書刊行会
---
(1970-03)
コメント:これも名著。最初読んだ時は、自分は山上の説教から何を読んでいたのか、と思った。

 

 

 


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引き続き、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』を読んだ時に思ったことを書いてみたい。

 

社会の中で競合するストーリー・仮説・物語

前回の記事で、新約聖書が成立する時代に、神の民だと自分たちが思っている人々の間でさまざまなストーリーが存在し、それに基づく歴史記述がなされ、その中では、神の人間に対する介在の存在、ということが共通してみられたことはお話した。今日のところはもう少し現在の社会に近いところに関する部分になってくる。そこについて、N.T.ライトさんは (v)競合する「ストーリー」 という部分で、次のように書いている。

(v)競合する「ストーリー」

複数のストーリーが互いに衝突しあう理由は、世界観とそれを特徴づけるストーリーが原理的に「規範的」だからである。ストーリーはすべての現実の意味を明らかにすると主張する。すべての人の意見は、まったく正反対の意見ですら等しく正当なものだと信じる相対主義者ですら、現実についての彼らの基本的なストーリーには忠実なのである。(『新約聖書と神の民』p.92)

ポストモダン社会になって、多様な仮定、社会の前提、社会における常識、物語、仮説の併存が認められるような社会になってきた。モダン社会やプレモダン社会では割と社会の仮定や常識とされていたことはかなり強固であり、そレを変えることは、そんなに簡単には行かなかったのだ。役者は、割と洋の東西を問わず公序良俗の維持の名目のもと、女性は役者や舞踊家になれなかった時代は長く続いた(日本では、歌舞伎、能が典型)し、セクシャル・マイノリティや異性装者(これまた演劇と結びついている)はヴィクトリア朝時代の英国では、ほぼ、そのままの姿で生きることはできなかった。その意味で、ライトさんがここで書いている「 世界観とそれを特徴づけるストーリーが原理的に「規範的」だ 」ということがそのまま実現されねばならない社会であったのであり、それだけにその社会に生まれ付いた以上、国境どころか、その生まれ育ったコミュニティからすら移動ができなかった時代であり、当然、そのコミュニティの中での規範に問答無用で従わざるを得なかったし、移動ができない以上、別の概念で生きている人々が存在する、ということは想像もできなかったのである。

 

ここで面白い指摘だと思ったのは、ポストモダン社会の中でのポストモダンを生きている多様性を重視する人々も、その多様性を重視する社会であるべきという概念からは抜け切れておらず、そのストーリーに忠実である、ということである。何、これは、共産主義社会でも起きた。共産主義社会での「かっこいい物語」は「前衛」(共産党の理論雑誌名でもある)であるということであった。しかしその前衛は、共産主義のストーリーを世界に広げていくという意味での前衛ではあったが、共産主義自体の変容の前衛になるという意味ではなかった。それと同じことである。

 

 

ライトさんによれば、「 ストーリーはすべての現実の意味を明らかにすると主張する 」とここで書いて居られるが、それは事実でもあるまい。 「ストーリーはすべての現実の意味を明らかにすると主張する」 とかなり無理筋な主張をする人々が時におられる、ということなのではないか、と思う。

 

この無理筋の主張との関連で言えば、割と、キリスト教業界でも存在するように思う。時々、「聖書はすべてのことを明らかにする」という主張の方がおられる。しかし、この「聖書はすべての明らかにする」という主張は現実にはあり得ないのではないか、と思う。出題者以外は誰も、来年行われる大学入試センター試験の出題問題を明らかにできないのではないだろうか。もし、聖書はすべてのことを明らかにしてきたのであれば、国公立大学生のキリスト者比率はむちゃくちゃ高いはずであるが、世の中そうはなっていないようである。個のような現実の存在から言って、「聖書はすべてのことを明らかにする」という命題の「すべてのこと」及び「明らかにする」の定義がWell Defined(明確に定義できている)という訳ではないことがわかる。このあたりの日常語を取り巻いているある種のいい加減さ、多義性が混乱を起こしているのである。まぁ、これを避けようと思ったら、ややこしくて仕方がないが。

 

全世界の公共的なストーリーとしてのキリスト教

多元化した現代社会において、宗教も多元的であり、相対化される傾向にある。その意味で、キリスト教も「あなたがそう信じていること」の一つになるし、仏教も「あなたがそう信じているにすぎないこと」の一つとなってしまう。まぁ、ポストモダン時代のキリスト教にとって、つまり、確固たる規範を持つことを良しとしない、あるいは自己の持つ規範を共通のものだといいきれるだけの無謀さを持たない時代において、個人的な関係の中にキリスト教を押し込める例は少なくないのではないか、と思う。つまり、Christ and Me(というよりは、むしろMe and Christ)のキリスト教になっている例は少なくない。しかし、聖書の主張は、アブラハムとその子孫を通して、全世界のすべての人々、国民への祝福が成就するということである以上、それは、個別的なもの、個人的なものというよりは、むしろ、公共的、全ての人々にかかわるものだということだろう。まぁ、これを言うと万人救済とか言いだす人がいるからかなわないが、一人として失われることを神が望んでないことは確かであろう、とは思うので、やはり、キリスト教は公共性があるとは言えると思う。そのあたりについて、ライトさんは次のように書く。

 

現代社会の多くの人々は、キリスト教とは個人的な世界観であり、一連の個人的なストーリーだとみなしている。あるキリスト教徒は、明らかにこの罠に陥っている。しかし、キリスト教の本質は全世界のストーリーとしてのストーリーを提供することにある。それは公共的な真理だからだ。さもなければキリスト教はグノーシス主義の亜種と化してしまう。(同書 pp.92−93)

 

ここで、グノーシス主義の亜種という悪口がかかれているが(このあたりが、ライトさんがブラックジョーク好きなBloody Briton風だなぁ、と思うところであるが)、要するに、Christ and Meのキリスト教にしてしまうと、自分だけ、ないし自分の家族だけ信仰を持てばいい、ということになってしまい、私だけが、私たちだけが真理ないし真の霊的な知識を持っているということを主張してしまったグノーシス派の皆さんと大差なくなるのではないか、というご指摘のようである。案外、この200年間に生まれたキリスト者集団とその周辺には、自分の正統性と正当性を示さねば、信徒獲得ができないという焦りなのかどうかは知らないが、自分たちこそ真理を持っている、他は間違っているというご主張をお持ちの向きもないわけではないように思う。しかし、それを主張した瞬間、「それってグノーシス主義ちゃいますのん?」とのご批判を浴びかねないのかもしれない。

なお、仏教は基本は個人の解脱というか涅槃への到達というか、悟りの境地への到達がそもそも論としての課題であるので、ミャンマーとかに伝わる上座部系の仏教では、個人の悟りが最優先課題であり、公共性の要素は薄い信仰というか宗教であるといえる。これに対し、これでは衆生の悟りの境地への誘導ができないという形で対応している日本形の仏教では、多少公共性というものが意識されているようには思うが、基本は衆生一人ひとりという意味での個人の悟りに関心があるのではないか、と思う。

 

ストーリー間の衝突
次に、ライトさんはストーリー間の衝突は、よくよく見ていると、結構世の中のあちこちで起きている。典型的には選挙なんかや政治に関して起きる。よくあるのは、世代間のストーリーの違いにおける衝突である。老人世帯は、水戸黄門やその他時代劇(そういえば、新作時代劇をNHK以外では、あまり見ないことから、民放各局はやめたのかもしれない。キッチュな演劇でもある時代劇では、視聴率が稼げないから)のストーリーが好きな方が多いし、若い20代女性(CMのターゲット層)は、ラブストーリーや、オフィスでのOL成長物語(『スチュワーデス物語』という新人CAさんの成長を扱った大映ドラマがその昔あった)が大好きなので、今の9時台から10時台のドラマは、わりとこの手のドラマで占められている。今はテレビが低価格化したことに加え、様々な地上波テレビの視聴方法があるので、この手の番組を巡ってのチャネル権争いはないが、80年代頃家庭内ではまだ、あったと思う。

 

スチュワーデス物語(今、スチュワーデスは性差別的用語法なので、航空業界では既に死語)
このころ、主人公の常套句「私はのろまなカメ」という流行語が流行った
男女7人夏物語 この番組がきっかけで、明石家さんまと大竹しのぶは結婚することになったはず

 

あるいは、若者音楽を巡る様々な事実ではない思い込み(これまたストーリーであるが)を巡って、ヘビメタ系、ハードロック系(悪魔の音楽という人がいるが、日曜学校の子供向け讃美歌と称した昔の子供向け讃美歌にも結構おどろおどろしい歌詞のものはないわけではないことだけは付言しておく)と教会音楽系の間での対立などは、時に深刻な議論を家庭内、ないし、教会内で巻き起こすこともないわけではないらしい。

 

あるグループの語る世界についてのストーリーが、他のグループの語るストーリーと遭遇するとき何が起きるのだろうか。(中略)その出来事が納得できるものになるために、私は自分が抱いてきた「根幹となるストーリー」(the controlling story)を捨てざるを得ないのかもしれない。この場合、私は現状を説明できるような新しいストーリーを見つけなければならない。そうではなく、目下のところ私を混乱させている出来事についてもっと合点がいくような他の共同体のストーリーを借りてくるのである。(同書 p.93)

ここでライトさんが言っているのは、『男女7人夏物語』とか『スチュワーデス物語』とか言ったお話としての物語というよりは、そこに投影された、モノの見方、生き方、価値感、表明される意見のことを総称として、ストーリーと呼んでおられるようである。たとえば、 天の国をこの地にもたらすこと以外 に、「クリスチャンらしい生き方」や「クリスチャンとしてふさわしい生き方」があるとおっしゃる方がおられるのは十分存じ上げているが、それは普遍的なストーリーといえるかというと、どうもそうでもないように思う。こういう意見の違い、つまり、ストーリーの違いがあると、基本、人は自分が信じてきて、そこに価値を置いてきた「生き方や行動を支配するストーリー(本書では根拠となるストーリーと訳されている)」に衝撃が走り、時に捨てることになるとはいうものの、捨てたといいつつ、人は案外その破片を大事にどこかに隠し持っていることが多い。そして、この破片が結構悪さをし、教会内でもめごとを起こしたり、ツイッターで炎上事件を起こすのである。

 

人は完全には、一時的であれ、その人の行動と生き方を支配したストーリーは完全に捨てられないのであり、どこかから借り物として別のストーリーで、一時的な応急処理をするが(計算機業界では、パッチを当てるという)、それは所詮パッチであるにすぎず、度々このようなストーリーの崩壊が起きたら、それこそ、思想のパッチワーク状態になってしまうのであり、パッチの当て方がまずいと何とも言えないパッチワークになるが、パッチの当て方がうまい人は、まさに上質なパッチワークのような思想作品を見せてくれる場合がある。たいていそういう人は、どこかの教祖様におさまっておいでになっていることが多いようだが。

 

 

 

 

ちょっと前に出版された『文明の衝突』という本があったように記憶しているが、これもまた、ある文明と別の文明という異なるストーリーを持つ社会間の衝突が現代において起きているということを明示的に示した書籍であったように思う。まぁ、ISIS団とEUやアメリカ合衆国との衝突をある意味、予見していたともいえなくもない。基本、社会のAssumptionというか、社会の基本の論理構造が違うから、ぶつかると困ることが起きるのだが。

 

まぁ、明治という時代は、「攘夷」というストーリーと「尊王」というストーリーを無理やりくっつけて挙句の果てに、「尊皇」を強調することで、列強による文明の道具による支配というストーリーに対応するため、「和魂洋才」というわけのわからないストーリをぶち上げた、非常に面白い時代であったかもしれない。そして、それは、大日本帝国滅亡の日まで続く。基本、「出てこいミニッツ・マッカーサー」という標語自体、「尊皇」というストーリーに乗っているから意味があるのであろう。

天皇の人間宣言という国民に衝撃を与えた事件でも、「国民に開かれた西洋の王室」というストーリーを借りてきて、結局「尊皇」というか国体の護持を図ったともいえるのではないか、と思うのである。

 

借り物競争以外の方法、ストーリーの前提を疑う方法

ストーリーが競合するのは、現実世界では、関係する人々の間に緊張を走らせ、混乱を生み出すので、実に困るのだ。こうなると何とかしてだまくらかしたくなるのである。その時の対応方法としてよく用いられる方法論について、ライトさんは次のように書いている。

このように二つのストーリーが衝突してしまう場合に、自分を納得させるための別の方法が一つだけある。それは、疑問を投げかけるストーリー(the challenged story)の証拠が実際にはあてにならないことを説明してくれる、別のストーリーを見つけることだ。これは科学(「実験がうまくかない。だから、予期しない変数が手順の中に紛れ込んでいるに違いない」)、歴史(「テクストが事実とうまく符合しない。だから、誰かが歴史的事実をゆがめてしまったのだ」)、そして他の分野でも非常によく見られる手段だ。実際の場合は、この両極端の間のどこかということになろう。私たちの目にする出来事や対象物は、私たちが抱いてきたストーリーに修正を迫ったり、覆したりする。証拠は常に検証されるためにあるが、それについての中立的な、または客観的な立証などは存在しないのだ。私たちの抱く世界についてのストーリーが、他のライバルとなるストーリーとの比較で、全体的にも細部においてもより優れているのかどうか、それが問題なのである。全体像の単純さ、細部においての簡潔さ、ストーリーがすべての情報を含んでいること、目の前の現実を納得ゆくものにしてくれるかどうか、そうしたことが重要になる。(同書 p.94)

 

個人的には、このような問題解決法を酸っぱいブドウの問題解決と呼んでいる。要するにイソップ童話に出て来る、キツネとブドウの話に代表されるような解決法である。

 

ブドウを食べたいという現実に生きているキツネが、どうやってもブドウに到達できないという現実に直面した場合、あのブドウは酸っぱかったのだ、と自分を言い聞かせるあのおなじみのお話である。あるいは、大学受験に失敗した人が良くやる方法論である。より具体的には、あの学校は自分にはふさわしくなかったのだ、というかなり無理な論理立て(じゃぁ、初めから受験しなければいいではないか、とミーちゃんはーちゃんのように言い放っては、いけない。実もふたもなくなる)をして、あきらめているふり(そのストーリーに生きている)をしている人たちの解決方法である。そうはいいながら、いつまでもその大学へのこだわりをことあるごとに出す人々がいる。いくら別の解決策を与えるような物語を持ってきたとしても、その物語の破片をその人は隠し持っている例である。こういうことをおっしゃる方は、個人的にはうっとうしいなぁ、とは思う。

 

とはいえ、生きていると、案外このタイプの人にであうことも確かである。個人的には、そういう方には、仏教にご入門いただいて、大いなる諦念の境地、諸行無常の境地、悟りの境地を開いていただいて、涅槃に到達された方がいいのかもしれない、とも思う。

 

しかし、ライトさんが面白いなぁ、と思うのは、「中立的な、または客観的な立証などは存在しないのだ」といいきってしまうところである。この辺ヨーロッパの厚みを感じるなぁ。どこぞの国の中立、公正、公平、客観的とか大ウソをいいながら、自分の意見を言いまくっているマスコミの皆さんにお聞かせしたい。 そもそも、そんなものはない。そうではなくて、そもそも、人は「私たちの抱く世界についてのストーリーが、他のライバルとなるストーリーとの比較で、全体的にも細部においてもより優れているのかどうか、それが問題なのである。全体像の単純さ、細部においての簡潔さ、ストーリーがすべての情報を含んでいること、目の前の現実を納得ゆくものにしてくれるかどうか、そうしたことが重要」と判断して生きている生き物なのだ。つまり自分の理解に合うかどうかが重要なのだ。だからこそ、マスコミはある傾向を持った報道しかできないし、所詮そんなものなのだ。放送法では、放送法の免許の条件が、一応、不偏不党ということになっているので、政治家はそのことを言いたがるが、それは、その政治家が、このあたりの世界観やストーリー、人間の理解システムへの考察が足らないだけなのだ。マスコミ人も、その理解が十分とは言えない。

 

そもそも、テレビは放送法の制約があるが、新聞や書籍に至っては、本来何を書こうとその社の勝手なのである。まぁ、それをしていいかどうか、という倫理的な概念は問われるべきではあるが。気にいらなければ、その本とか新聞とか雑誌とかは買わなければいいのである。それを話題だからといって買う人がいるから、その出版社とか新聞社とか雑誌者がつけあがるだけのことではないか、と思うのである。放送法は日本には確かにあるが、新聞法は日本においては廃止され、国家からの独立を果たし、検閲権を国家は持たなくなったはずである。

 

 

まだまだ続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本日は、万国博覧会とオリンピックについて思うことを書いてみたい。


ニュース番組と称する番組は、どこを見てもオリンピックのニュースと称するものを放映していて、もう、誰かの陰謀でエンドレステープ流しているんじゃないかと思うほど、デジャブ感 しかない。従って、つまらない。デジャブを日常的に感じるとしたら、それこそ、ニュースでもないことになる。

なぜ、国別なんだろう…という素朴な疑問
なぜ、国別でオリンピックを競うのか、というと、なんかその背後に國威發揚という語がちらついてしょうがない。いくら努力しても、間違ってもミーちゃんはーちゃんはウサイン・ボルトにはなれない。個人と国家との関係が何か透けて見えるような感じがして、なんとなく感じが悪い。

変なオリンピック競技もかつては…
もともと、オリンピックはギリシアの都市国家間の戦いを戦いにちなんだ競技をすることで、実際に戦闘するのではないかたちで戦争の代わりをやってしまおう、というところから来ているはずだと思う。まぁ、スポーツというかなり安全側に振ったものでの形を変えた戦争ということがあるのかもしれない。まぁ、そうはいっても、昔は芸術競技とかいう今から考えたら訳のわからない競技もあったらしい。まぁ、そういうのは平和でいいなぁ、と思う。

今日は、ポツダム宣言受諾日
おまけに今日は、そのことが交差するポツダム宣言受託日でもある。こっちの方は、血を流すことでやる政治である戦争で無条件降伏、自主的に武装解除(要するに軍事的には負け)したこと、そして、多くの国民と他国民の職業軍人や、非戦闘員とされる人々に多大の犠牲が出たことを覚える日である。職業軍人は、それが職業である以上ある面仕方がないが、勝手に赤紙と呼ばれる召集令状で招集された非職業軍人にとっては、ろくでもない話であったと思う。

職業軍人と強制徴募された軍人の違い
軍人といっても、非戦闘員に近い強制徴募された軍人と職業軍人とは基本的に性質が違うような気がする。このあたりの事は、もう少し考えた方がいいのかもしれない。

現代のイスラエル国でも、職業軍人は存在するが、どうも現在のイスラエル軍では、基本的に強制徴募された(徴兵された)兵士たちと、職業軍人はどうもだいぶん違うらしい。まぁ、もともと、イスラエルでは、北朝鮮のマスゲームみたいな、一糸乱れぬ行進というのはどうもできる人がかなり限られているらしく(そもそもまとまって何かをするのがものすごく苦手な人が多いらしい)、基本的に古代イスラエルの軍隊は、もともと職業軍人みたいなものはなく、戦闘があると、鎌や農具を武器代わりになんとなく集まってきた軍隊らしくない軍隊であったはずだし、職業軍人らしいのが登場するのは、ダビデ王朝くらいからではなかったか、と思う。

そもそもまともな武器を持たない弱小の人々の中から、さらに人数を減らして、神の介在を求めつつ戦っていったのが、旧約時代のイスラエルの戦い方であり、馬(今で言うジェット戦闘機やジェットヘリに相当)に頼らず、神に頼る人々であったように思う。それも、勝手に戦端を開いていいわけでもなかった。

オリンピックとダビデとゴリアテ
オリンピックでは、実際に相手の息を止めるというダビデとゴリアテのような衆人環視の元での殺し合いが実際に行わるわけではなかった。まぁ、全軍の被害を回避で来たという意味では、まぁ、戦闘よりはましかもしれない。ダビデとゴリアテのような実際に血を流す一種のみせものとしての戦闘ではなく、血を流さない武闘というかたちのスポーツが国(都市国家)の間で行われることで、国家としての優位性が争われているのかなぁ、と思わないでもない。特に、レスリングとか、槍投げとか、円盤投げとか、砲丸投げとか、ハンマー投げとか、サッカーとか、ラグビーとかを見ていると、まぁ、血を流さないスポーツという戦闘をやっているように見えてならない。

その辺が、ニュースと称する番組でのデジャブ感と相まって、なんだかなぁ、と思ってしまうのである。

今日のは、まぁ、簡単に言えば、愚痴である。愚にもつかない愚痴にお付き合いいただいた方には、こころからの御礼を申し上げる。


 

 

 


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今日もまた、いつものようにN.T.ライト著『新約聖書と神の民』を読みながら考えたことを、ちょっとばかしシェアしてみようか、と思う。

 

希望の成就と世界観の表明方法

世俗の仕事で論文や申請書の書き方指導することがある。その中で、時に思うことだが、人によって得意な表現方法が実に異なっている。かなりの違いがあるので、見ているだけで非常に面白い(そう思って添削していないと、やってられない)。

 

役所的な文章を書くのがものすごく好きな人、やたらと論文でも大言壮語する傾向がみられ、「じゃ、君自身は何やったの」と聞きたくなるような論文、あるいはレポートを書くのが大好きな傾向がかなり見られる中国人留学生諸君、やたらと受動態を使いたがる日本人の英語論文とか論文の英文アブストラクト、学部学生のレポートの一部に、感想文の様な論文とかレポートとかがあり、事実を書くのではなく、自分の感想を書くのがレポートとか思っているとしか思えない答案、レポート、論文とかに出あうことが多い。まぁ、技術系の人間が、経済学とかの文系に分類される学科を教えているのがおかしいのかもしれないが(一応、修士で経済学を何科目か履修し、ちゃんと単位をもらっているし、昔はその系統の論文を書いていたので、文科省の許認可行政的には問題がないはずである)。

 

日本の国語教育では、感想文を書かせることは多いが、数学2以上(あるいは微積分学)が必要でない学生には、科学的な論文あるいはレポート作成技術を教えず、高校生レベルでは、他人の論文とかの引用の方法や、参考文献リストの作り方も教えないことが多いので、こういうことは大学で教えるしかないのだが、大学でもそいうことに配慮が回らない教員と付き合っていることが多い学生さんだと、こういう教育は受けないまま終わってしまう。

 

新聞とかでも、どこまでが事実で、どこからが記者の感想なのかが分かりにくい記事も結構多い。テレビは何をかいわんや。そういえば、まぁ、戦争中の大本営発表の提灯記事でも大体そうである。まぁ、日本の文系諸学の教育を受けた人々の世界観の表明方法は、その意味で事実性の追求というよりは、話者の感想というか感情文が尊重される、ということかもしれない。

 

 

 

事実に関する冷静な記述よりも感想文というか感情文が重視される教育が幅を利かせた結果、経団連の関係企業がこのタイプのきちんと事実と感想を分けていくという教育をまともに受けてない若者が何名か入社すると、自分たちで自分たちの企業風土に合うような文章がそれも電子媒体で作成したものを再配布できるようなものとして書くための再教育をしなければならないため、たちまち大学は何やってんだという発言に結びつき、挙句の果てに、人文系諸学不要論というあほな議論にすぐになる。実に心寒い限りである。

 

そもそも、大学教育の前に、初等中等教育での国語教育の感想文教育、情操教育中心(だから読書感想文が必ず夏休みにある。文学部の陰謀としか思えなかった)、文学鑑賞の優先性を何とかする方が、話が早いと思う。それをするためには、国語教育の変更と国語科教師の物語というか、ストーリーというか、仮説を変更してもらう方が早いように思う。

 

中途半端な英語教育やプログラミング教育を、英語教育やプログラミングについてはアマチュアというよりはむしろずぶの素人である小学校教員にさせている様な段階ではないのではないか、と思う。それよりは、日本語でのコンテンツの生成とコンテンツの処理方法をきちんと編集して、相手と事実にまつわるコミュニケーションするためのコンテンツをいかに生成するのか、という部分の教育をきちんとした方がよいと思う。

 

 

しかし、そういう話や教育は、かなりめんどくさいし、学習指導要領順守を旨とするこれまでのやり方とはかなり適合的ではないので、恐らく実現しないのではないか、と思う。その掛声はかかるものの。教える側に才能と機転がきくことが求められるのだ。そレがなされなくて、そのような教育がグ可能であると判定された結果、唯々諾々として従来の感情重視の国語教育が行われ。結果として大学(特に何をやっているのか分かりにくい人文系の学関係者)への産業界の風当たりは強いままで終わるのかもしれないと思うと、ちょっとぞっとする。

 

 

大体経団連傘下の企業の皆様方の方ですけどね、体育会上がりみたいな、あまり論理的思考が苦手で、感情だけで突っ走る傾向にある人たちをかなり大量に採用しておいて、こういう義理人情がわかる人たちこそ大事だ、とかいって営業職させてきたのは。


iv)「ストーリー」、そして「新約聖書」という部分では、初期キリスト教の人々の表現方法と、世界観(世界の解釈の方法論)について、次のように書いて居られる。

つまり新約聖書において、これらのことから得られる結論は以下のようになる。1世紀のユダヤ人グループの一つは、世界観の一つを取り上げ、それを称揚しようと願っていた。彼らが表明しようとしたのは、「私たちの世界観を特徴づける希望は、ある一連の出来事において成就した」という確信だった。彼らがその核心を言い表すために選択した最も自然で、明らかにユダヤ的な方法とは、ストーリーを語ることだった。そうすることで、これまでの世界に見方を覆そうとした。他のすべての人々と同様、1世紀のユダヤ人は世界とそこでの出来事を、「解釈と期待」というグリッドを通じて認識した。彼らのグリッドの中心には、世界は善なる全能の神によって創造され、その神がイスラエルを彼の特別な民として選んだという信仰があった。彼らは、自分たちの歴史や共同体で伝統的なストーリーが世界の中での出来事を認識するためのレンズのような役割をも果たした。(p.91−92)

 

要するに初代教会の人たちは、自分たちの世界観を価値付け、希望の根源となっているのは、「イエスの十字架の死と復活であり、その一連の出来事を通して完全に旧約聖書に預言されていたメシアによる回復と神の支配(神の国、神の支配、神がおられる天と呼ばれる所からの支配)が成就した」ということであり、これこそが、驚くような、天が鳴り響くような、喜びに満ちた使信、すなわち、福音である、ということを指摘しておられ、そのために、微妙に内容が異なり、微妙が内容に異なることで、天の国の支配とイエスが神であったし、人に見える王としてのキリストであることを示したのではないか、とおっしゃりたいようである。このあたりに関しては、”How God Became King”という本をライトさんは書いている。また、使徒行伝もある面、初期のキリスト者たちが自分自身が何者で、何故、自分自身が信仰しているナザレのイエスを神であるとして信じたのか、それをどのように地中海世界で紹介していったのか(伝道あるいは宣教していったのか)、というあたりを、旧約聖書の歴史書風の記述形式(ストーリー)として紹介したといえよう。ある面、使徒行伝ないし使徒の働きとタイトルが翻訳されている文書は、非常にユダヤ的なあるいは古代の地中海文化で標準的に用いられていた表現方法に則ったものである、といっておられるようである。

 

四福音書と使徒行伝で描かれた内容は、「(旧約聖書と旧約聖書に基づく出来事の)解釈と(使徒やその弟子たちの)期待」ということは恐らくそのとおりだと思う。彼らが、旧約聖書に基づいて、彼らの目の前で起きた出来事をどのように解釈したのかを物語として語り、そして、彼らが将来について、神の国の到来について、どのような期待を持っていたのか、ということを示しているといえよう。

 

このような物語による現実の表現方法は、戦争中の日本でも起きたように思う。日本が戦闘で負けそうになると、突然それまでに言うことのなかった「神風」とか言う物語を登場させ、一発逆転の物語が語られることになったりする。その意味で、事実の解釈として、日本でも、ストーリーとして語られることは多いのではないだろうか。高校野球やプロ野球のゲームそのものなども、その中継などでは、誰がどうしたか、という事実だけが語られるのではなく、これまでの努力がどうであったとか、この選手の背景はどうのとか言ったストーリーが語られることが多い。近大、あるいはポストモダンという時代においてもストーリーが用いられているし、説教の中でも、ここで、このような”泣き”があり、次いで”笑い”を誘発するのが通例という、ある特定のパターンが見られるような説教では、それもストーリーをなしているといえるようなきがする。

 

そして、その昔から慣れ親しんだストーリーを懐かしむ聞き手の信徒の方々がおられるのは事実ではないか、と思われる。そして、自分たちが慣れ親しんだ、ある特定のパターンの説教を聞いて安心する方々もおられるようである。何度聞いても、落語の名人芸のような安定の説教、というのがあるのだろう。

 

思ってみれば、日本の古代以来続く表現方法とは何だろうか、と考えてみると、それは、5−7−5−7−7といった日本風の音節に導かれた詩形式ではないか、と思うのだ。敢えて全部を埋めようとして語るのではなく、相手に想像の要素をかなり大量に残して、敢えて全部を語らない、理解に関する相手の関与を求めていくタイプの文学形態の様な気がする。随想なんかもそうであるし、考えてみたら、敢えて全部を書かないタイプのラノベは伝統的な文学形態なのかもしれないと思う。まぁ、その辺はミーちゃんはーちゃんの妄想ではある。

 

 

イエス時代の多様な物語とひとひねり

キリスト教徒は、キリスト教徒のことだけを考えるという残念な傾向(まぁ、人間一般にそのような傾向があることも確かだが…)があるため、そして、時に自分が属する社会が世界のすべてであると勘違いすることがあるため(日本では、キリスト教徒は少数派なので、そういう人は少ないが、アメリカあたりだと、すべての世界はキリスト教で覆われている、あるいは覆われているべきであるとかいうことをおっしゃる方に時々出あう)、イエス時代ないしその直後の弟子たちの時代には、実際には多様なユダヤ人の物語というかストーリーがあり、実に多様なバリエーションというか変奏曲があったはずなのだが、自分以外の変奏曲は案外無視される傾向にある。

 

事実、大学生の初年度くらいまではミーちゃんはーちゃんは結構なおバカであったし、そんなことは知らなくてもいいといわれていたので、当時のユダヤ思想の多様性を新約聖書を読みながら、考えることはなかったが、実は、新約聖書を読んでいるだけでも、細部にかなり注視してみれば、イエス様の時代に、また、その弟子たちの原始キリスト教時代に、神について、そして、救い主について多様な考え方があったことがわかる。

 

あんまり詳しくは書いてないから、分かりにくいが、サドカイ派とか、パリサイ派は有名だし、そこまで行かなくても、熱心党とか、他にもローマに反乱を使用とした人物とか、いったような動きや人々の名前のきれっぱしが出てくる。しかし、これらの人々はこれらの人々なりに、イスラエルの国と神の国との関係を考えていた(それぞれなりに違いがあったけれども)ことはおそらく否定はできないし、また、それぞれ別の物語として、共感する人々が存在したといえるだろう。でなければ、区別される名前として、これらの名前は出てこないし、その一つとしてキリスト者という名前も生まれることはなかったろう。そのあたりの事に関して、ライトさんは次のように言う。

 

同胞のユダヤ人に異なる考え方をするように促そうとした人々は、同じストーリーを語りながらも話の末尾に予想外のひねりを加えた。エッセネ派の人々は、新しい契約のひそやかな始まりについての物語を語った。ヨセフスは、ローマ人の側に立ってしまったイスラエルの紙ついてのストーリーを語った。イエスは、農夫たちの不忠実がブドウ園の主人の息子の死と、彼ら自身の地方を招くだろうというストーリーを語った。原始キリスト教徒は神の国とイエスを通じた神の国の始まりのストーリーを語った。しかし、たった一つ、彼らが決してしなかったことがあった。彼らは、自分たちの神が想像された世界や彼の民の運命について無関心だったとか、関与しなかったという世界観を決して表明しなかった。(同書 p.92)

 

現状を変えたい、現状の仮説あるいはストーリー、ものの見方、世界観、常識とされていることが本当に妥当なのか、ということは、時に問われることがある。例えば、日本の安全神話というのは、だいぶん怪しくなっているし、日本製品の安全神話、職人による技能が支えてきた品質みたいなものは、もはや、過去のものになりつつあるのが、現在の環境のようである。

 

農業者の皆様とお付き合いさせていただいていると、これまで世帯経営をすることで農業者に代々蓄積されてきた微妙なノウハウが後継者に伝承されなくなりつつある現実を時に垣間見ることがある。特に、定年帰農者が増えつつある現状において、定年帰農者への技術伝承が進んでいないようなのだ。農業は、1年に1回しか、田植えや収穫という農作業ができないことを考えると、このノウハウを確立するためのその機会は案外多いとはいえないのだ。そして、気象条件は毎年違っているし、それを統合化していわゆる知識、ナレッジまで、昇華させるのは案外難しいのである。

 

基本的に1世紀前後のユダヤ人とユダヤ教徒(異邦人でユダヤ会堂にいた人人)にとっては、旧約聖書が社会にとっても、個人にとっても、信仰の面においても、確かに基本的な土台となっている。旧約聖書をもとに、「あなた方が読んでいる聖書はこのような物語(あるいは主張)を述べていると考えられるのではないか」とイエス様も、また、弟子たちも語っているというのはそのとおりだと思う。

 

その傾向は、使徒行伝において、かなり明白に見られる。無論、パウロは、アテネの町では、アテネの物語に乗っかかりつつ、知られなかった神にささげられた祭壇を持ちだし、アテネの人々をはじめとするギリシア人にとっては知られなかった神であるYHWHとして紹介し、ギリシア人のストーリー、ものの見方、世界観、常識を疑う概念をぶつけたが、残念ながら、その時には、その試みは成功せず、このおしゃべりは死者の復活のことを話している様だ、とギリシア人からはスルーに近いあしらいを受けて終わっている。

 

大学生時代にヨセフスのユダヤ古代史(山本書店版)や、ユダヤ戦記などの著作を読んだことがある。それを読んだ時、なるほど、このような旧約理解も可能なのか、と案外旧約聖書そのものを読むよりは、ある面、わかりやすいなぁ、と思った記憶がある。まぁ、一人の人が、旧約聖書をダイジェストしたり、当時のユダヤの近代史(今ではまかり間違いなく古代史だが)をしたのだから、ある面わかりやすいのは当然であった、と思う。ローマ人にユダヤ社会を少しは理解してもらおう、そして、ローマ人の指導者層のユダヤに関する理解やストーリーを変えてもらおう、といったヨセフスの試みが成功したかどうかは知らないが、当時のラテン語話者である人々にとっては、旧約聖書のギリシア語翻訳そのものを渡されるよりは、ヨセフスのイスラエルの歴史の概略を述べるようなユダヤ古代史を読むほうが、多少はましだったのではないだろうか、とは思った。

 

 

フラウィウス・ヨセフス

 

 

ところで、当時のユダヤ人がしなかったことは、人間と無縁に生きる神ということである、という指摘は案外大事だと思う。いやむしろ、神は人間との関係を求めて生きる存在として、旧約聖書以来、そして、現在においても、それぞれの時代において神は生きておられると確信しているからこそ、現代でも、ある部分のユダヤ人の皆様方に取ってモーセの律法は生きたものである。如何に近代合理主義的な社会から考えたら、おかしな規則であるとしても、一部の厳格派のユダヤ人たちは、安息日(金曜日の日没から、土曜日の日没まで)には、エレベータのボタンを押せなかったり(火を使うことに相当するらしい)、事前に冷蔵庫の庫内灯のバルブを緩めておかないと、冷蔵庫が明けられなかったり(冷蔵庫を開けて、電球が光ると火を使ったことになり、安息日を聖としなかったことになるといけないから)するらしい。バルブを緩めるのを安息日の日没前に忘れてしまった場合、ご近所にいる非ユダヤ人を訪ねて、冷蔵庫の庫内灯のバルブを緩めてくれる様に頼むらしい。神が人と無縁に生きて居られないがゆえに、その関係を大事にしておられるということなのだと思う。その意味で、保守的なユダヤ人に取って神と人との関係は深くて、非常に近いということなのだろう。

 

 

 

 

保守派のユダヤ人ラビの皆さん(厳格派よりゆるいらしい)

 

しかし、現代の日本に生きるキリスト教徒の一人であるミーちゃんはーちゃんに取って、このように神との関係の深さと近さを感じているか?といわれれば、かなり怪しいように思う。それを考えると、保守派のユダヤ人と比べると、神との関係、神とのつながりの近さと深さはだいぶん違ったものになっているのかもしれないなぁ、とは感じている。

 

 

 

まだまだ続く。

 

 

 

 

評価:
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HarperOne
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(2012-03-13)
コメント:めちゃよかった。

 

 


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今日もまた、N.T.ライト著『新約聖書と神の民』から読みながら考えてみたことをお示ししてみたい。だんだん、コアな部分に近づいてきた。要するに、福音書記者の表現の問題、何を表現しようとしてきたのか、その表現様式や、パウロとパウロの主張をどう考えるか、というあたりに近いところをの議論の頭だしみたいな部分になってきている。

 

物語にまとめていくのが普通だった新約時代

 物事には、語り方の様式があるものがある。日本では、伝統芸能にそれが残っている。いわゆる能や狂言では、いわゆる登場人物は自己紹介をする形で始まるものがあるし、落語なども別の形の語り方の様式を持っている。というのは、いわゆる”枕”とか客いじりとか呼ばれる部分である。この幕らと呼ばれる部分で、本論に入る前の観客の緊張を解き、噺家(演者)と、聞き手の距離を詰めていったり、今日の客層の笑いのツボを認識していくことが多いようだ。

 

別の語りの様式として、大学の授業なんかもある。大学の授業とかの場合には、「はい。これから授業をはじめます。テキストの何ページをお開けください」といきなり本題を切り出すタイプの語り方の様式を持つ場合もある。

 

大河ドラマでも、前回のおさらいとか、今日の概要をちらっと見せて、主題曲になり、いよいよ本題に入っていくタイプの様式もあれば、いきなり、主題歌を流し、そして、前回のおさらいをやって、その回の本題に入っていくものもある。

 

ii)「ストーリー」と「ユダヤ人の世界観」と題された部分では、ユダヤ人の世界観に相応しい語り口、表現方法の独自性があることを以下のような文章で示している。

ストーリーが世界観の基本的な特徴だという事実は、ユダヤ人の世界観とその多様な変種に優れた実例を見いだせる。それらは一連の信条には単純化できない。もっともことわざ的で警句的なものでさえ、ユダヤ人の文学は契約の神、世界、そしてイスラエルについてのユダヤ人のストーリーという、根本的な土台の上に成り立っている。1世紀の大部分のユダヤ人にとって、ストーリーという様式は間違いなく彼らの世界観を表明するための自然で至極当たり前の手段だった。(『新約聖書と神の民』 p.88)

ここでの主張は、ポイントにまとめ上げられ、箇条書きのような表現方法をそもそもユダヤ社会で形成されていったキリスト教は持っていたわけではなく、もっと語りに近い形式、物語に近い形式で聞き手や参加者をその世界に引き込んで、その世界では、神の存在と人間のかかわりがある物語の様な世界で語られていた、ということをご指摘になられたいようだ。

 

つまり、現代のキリスト教の一部のように、自分たちの信じていることの箇条書きのような形で信仰を確認するのではなく、物語のかたちで神と人との関わり合いが語られ、そして、そのストーリーのいろんなところに神が顔を出し、そして、人間と関与し、人間が神に関与してく様な物語として語られたのではないか、というご指摘である。その意味で、神の存在は普遍的存在であり、いつでもどこでもそこにいるかのような存在として語られることが多いのは、そのとおりである。

 

また、確かに新約聖書のストーリーは、マクナイトが『福音の再発見』でも指摘したように(というよりはライトの見解に沿ってその記述をしているように、という方が正確だと思うが)旧約聖書の世界とユダヤ人の世界に乗っていることは間違いなく、新約聖書と旧約聖書の間の隣接関係は非常に深い。ある面で、旧約聖書がわからねば、当時のユダヤ人の背景がわからねば、新約聖書はわからないといっても過言ではない。

 

その意味で、新約聖書と旧約聖書の連続性が強いことを考えると、キリスト教徒と呼ばれ始めたころには、ユダヤ教徒とキリスト教徒の両者は、完全に別種のものであった、といいきれるかどうか、ということに関してはかなり検討が必要であろう。もちろん、パウロの語りにはギリシア的な語り口(レトリック)もあるだろうが、それと同時に、ユダヤ的なものでもあったことも忘れてはならない。そもそも、パウロの伝道は、もともとユダヤ会堂で行われていたのであり、街角や路傍で伝道していたわけでもなく、教会でのみ伝道したり、新約聖書のみを解説していたわけではなく、むしろその多くを旧約聖書に依拠して語っていたことを忘れてはなるまい。

 

みんな大好き、物語?

iii)「ストーリー」の持つ力と題された部分では、ライトさんは学者の間でも、好まれていることを語る。

ストーリーは子供たちや純粋に楽しみのためにそれを読む人々の間では決して人気が衰えないものだが、それは学者の間でも、特に聖書学者たちのギルドの中で近年人気を博するようになった。(p.88)

まぁ、物語が割と愛好されているのは、ディズニーランドやUSJを見てみれば、わかる。ディズニーランドや、ディズニーシー、ディズニーワールドにしても、USJにしても、そこには物語の登場人物が描かれており(たとえ、その舞台の実情は、ほぼ書き割りと薄いベニア板で構成された舞台装置の上での演技であるにしても)、それを大人も子供も楽しんでいるのだ。アメリカでは、大人も割と単純にディズニーランドを楽しむ人々がいる。カリフォルニアに住んでいたころ、ディズニーランドに何度も行ったが、ある時、ゆりやんレトリィバァの様な体型のアリスのコスプレをしたアトラクションのオペレータ(船に乗って進んでいく、物語周遊の様な船の乗務員がたまたまアリスの格好だったが、それがかなり豊満な体系の方で…)に出会ったことがあり、結構ドン引きした記憶がある。いわゆる興ざめしたのである。

ディズニーランド
ゆりやんレトリィバァさん

 

ところで、学者も物語が好き、という表記があるが、学者で物語が好きだった人物は多い。古くは、『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルは数学者だったし、近代でもC.S.ルイスは『ナルニア物語』を書いているし、『指輪物語』を書いたトールキンは学者であった。いまだに米国では、文筆家というか作家は、基本的に英文学者であることが多い。

 

学者でない文学者が多い日本とアメリカでは、文学に関する考えが違うことが多いのかなぁ、と思うことが多い。なぜなのかは良く知らないが。

 

物語と読者の関係

物語は、物語として、解析的に分析され、それを理解可能なように分解し、組み立てられたものとして読むことをここでは、「翻訳する」とライトさんは呼んでいるようであるが、近代という時代は、物語であれ、何であれ、解析して、ばらして、理解できる形に「翻訳する」ことで、一応理解可能にしない限り、納得できないし、納得しない時代であったように思う。しかし、それがいかに無味乾燥であるかは、例えば、桂米朝師匠の話芸をどれだけ分析して、さらにそれを部分に分け、組み立て再現したところで、桂米朝師匠の話芸と同じものができるか、というとできないことからも分かるように思う。その意味で、総合的に味わうことが重要なはずなのだが、それを容認しなかったところが、近代という時代ではなかったか、と思う。

物語を何か別のものに「翻訳する」代わりに、私たちは今こそ物語をあるがままに読み、その者として理解するように促されている。文学的にも神学的にも、これは素晴らしい展開だろう。もちろんある程度のチェック・アンド・バランスは必要だが、大筋ではもろ手を挙げて歓迎すべきだろう。
さらにこの探求において、ストーリーがそれ自体で、また他のストーリーとの関連で、どういう働きをするのかを考察する。ストーリーはその内部に、構造、プロット、登場人物を含んでいる。ストーリーには様々な修辞的技法が用いられるが、それらはナレーション様式(ナレーターは劇中の登場人物の場合もあれば、すべての出来事への特権的洞察を持っている場合もある)、アイロニー、葛藤、「フレーミング」のような異なる物語様式、などなどを含む。ストーリーは「理想的な読者」と呼ばれる読者層を想定している。つまり、ストーリーそのものが読者にある種の適切な読み方をするように促していることになる。これらすべては読者のストーリー理解に特有の影響を及ぼす。(同書 pp.88−89)

 

ところで、翻訳は内容を解析、分析し、それをくみ上げたものといえるのではないか、ということを引用文の前で紹介したが、如何なる翻訳であれ、翻訳である限り、いかに正確な翻訳を心掛けたとしても、基本的には、バイアスが入る。少なくとも翻訳者のある言語で書かれた作品の解釈の際に紛れ込むバイアス、翻訳者が別言語で翻訳していくうえで生まれるバイアスがはいる。この段階で二段階のバイアスが入っている。さらに、翻訳された文章の読み手の言語の語彙のバイアスももちろんあるし、どのような環境で読むかによっても、読み手の意識が変わるので、そのような意味で、読み手の意識レベルでのバイアスが生じることがある。

 

理想的な読み手が想定されているという問題に関しては、いきなり聖書では、大変だろうから、まず具体的に、俳句の英訳を考えてみればわかりやすいかもしれない。日本人の心象世界(ストーリー)が共有されていない英語話者のために、俳句を英語でどう表すのか、結構難しいことは少し考えてみればわかるだろう。その意味で、俳句のストーリー、文学的背景、心象世界に取って、日本人は理想的な読者であるし、ジブリアニメの中でも、ベタ塗りをしない日本型アニメ『かぐや姫の物語』にとって、日本人は理想的な鑑賞者であり、それを想定して作られている。

 

かぐや姫の物語

 

映画や物語には、劇中劇の構造を持つものや、構造の複雑な入れ子構造、カットバック(実はその5日前に…とか、ストーリーラインを構成するポイントとなるイベントを後出しじゃんけんのように表現することでし)により、現代から過去に話と時代を少し巻き戻しながら、表現をすることがある。

 

また、「赤頭巾ちゃん」の物語では、おばあさんを食べたおおかみと赤ずきんちゃんが対話するし、「アンパンマン」の世界では、あんパンと人間や、カバや、ウサギや、カレーパンやバイキンや、ガイコツが対話する世界なのであるが、それが完全に共存し対話するのである。昔の漫才師”人生幸朗・生恵幸子”師匠なら、

 

さて、皆さん、今の世の中、訳の分からんことが多すぎる。ご存じですか?え、アンパンマンという漫画。私は、あれに無性に腹が立つ。

(何いうてんねん、この泥ガメ)

あれね、アンパンやら、カレーパンやら、食パンが空を飛んだり、話をしたり、実にけしからん。ばかもん。

(お話の世界やないの)
お話の世界とはいえ、あんなにアンパンやら、カレーパンやら、食パンが空を飛んだり、大声で話をされては、パン屋がうるそうてかなわんなるわ。
(子供さん、楽しみにしてはるんやから、そないいわんと。)
そんなあほな話がおますか。子どもの教育にようない。どこの世界に声出して話したり、空を飛んだりするパンがございまっか?どないなっとうねん。責任者出てこ〜〜〜い。《この責任者出てこいが、この漫才師の定番のオチ》
とか突っ込んでいるところだろう。要するにアンパンマンの中でのアニミズム的な世界に近代人としてツッコミを入れることになるのだ。

 

人生幸朗・生恵幸子師匠のマンザイ(歌謡曲をくさすのが得意であった)

 

文化が違うと、同じ作品でもそれが別文化に移植され、作り替えられる中で、かなり変わることがある。

 

例えば「東映戦隊もの」は米国で「パワーレンジャー」として焼き直されているが、日本の作品では、悪を倒すことに焦点がかなりあっているにもかかわらず(これは時代劇と同じ構造を持ったストーリー)、米国では、人間的成長とか、個人の成長、チームの行動とそこでの友情がテーマとして作り替えられていることが多い。たまたま、幼稚園児だった長男が見たギンガマンを1年後にアメリカでPower Rangers Lost Galaxyとしてリメイクされた作品を見たのだが、かなり解釈が違うのは、文化の違いが表れていてかなり面白かった。

 

ギンガマン(日本版)

Power Rangers Lost Galaxy(アメリカ版)

 

アメリカの映画でも、コメディ物は特にアメリカを同時代で体験していないとつらいことがある。例えば、アメリカ映画のコメディ物は、その年の流行言葉やCMなどのオマージュをしていることもあるので、そのオマージュのソースがわからないと、一体何が面白いのやらになってしまう。このブログにも時々登場するシンプソンズもそんなところがあって、アメリカ文化の中で初めて意味を持つギャグというのがないわけではない。その意味で、サブカルであれ、メインストリームの文化であれ、このあたりのストーリーを適切に読み解く能力を求められる作品は案外多いような気がする。

 

古代人が、古代人のために書いた文書

高等学校時代にミーちゃんはーちゃんが最も嫌いだったのが古文である。同じ日本語のようにみえるのに、意味が通じないし、何でこんなややこしい表現をしないといけないのか、と思ってしまう。しかし、古典は古典としてのレトリックで書いていたので、ミーちゃんはーちゃんにはわからなくとも、古代人には、キチンと意味が通じていたのである。それと同様なことが聖書でも起こりうるはずだとは思う。古代文書である聖書を、現代の基準や感覚で無理に読もうとすると、妙な理解や、無理な理解が生じているのかもしれない。

 

古代のテクストを扱う際に、古代の修辞学の解説者が物語のもたらしうる様々な効果について完全に把握していたことを私たちは忘れてはならないし、すべての福音書記者がそのような知識について無知であったと考える必要もない。(同書 p.89)

古代社会と現代社会の環境は異なるし、そこで語られるストーリーは当然の如く違う。民族が違えば、語られるストーリー(理解)とその背景にある世界観は当然異なる。経験が同じであっても、所属する社会集団が違う二人の同時代人の中で、そのストーリーの意味は違って語られることがある。

 

移住者としてヨーロッパに来たアメリカ人は、移住者としてのアメリカ人の視点で西部開拓史を語るし、原住民としてかなり以前から住んでいたアメリカ人(ネイティブ・アメリカ人、昔風の言い方をすると、アメリカ・インディアン)はアメリカ・インディアンの視点で、追いやられた自分たちの歴史として西部開拓史を語る。韓国と日本国の間で懸案となっていた従軍慰安婦問題も、韓国に住む人々は韓国人の視点から大日本帝国による抑圧の一環としてこの問題を語るだろうし、日本人は日本人で、単なる軍に付随した民間の売春事業者の問題として語る人々もおられるし、アメリカ人はアメリカ人で、移動の制限があったということから、Sex Slaveの奴隷問題、あるいは、人身売買という人権問題の一環としてこの問題を見るだろう。その意味で起きたことは一つであっても、実に多様な物語が語られ、真実が何であったかとは別に、それに関する物語がつくりあげられていくのである。最後の例は、以下のライトの文章を理解するうえで、非常に有効な例かもしれない。

 

ライトは、ストーリーと自己の世界に対する理解(世界観)の関係について、次のように書いている。

ストーリーが他のストーリーとの関連でどのように機能するのかを検討するとき、人間がストーリーを語るのは、私たちがどのように世界を認識し、実際に係わるのかについて語るためだということに気付く。(同書 p.90)

物語と世界観に関して、現代のほかの事例で言えば、日本人に取って明治時代をとるのがよいかもしれない。明治政府は、その上位思想、復古思想、原点回帰の原点としての奈良朝を想定し、明治維新というストーリーを組み立て、その挙句の果てに仏教を排斥しようとした。その結果として、現代でもよく日本で聞かれる誤解であるが、一神教と比べ多神教は平和的である、というストーリーまで、多神教的な日本の古代思想を美化するために持ちだされることがある。そのことが本当か、ということを確認するためには、残存数は少ないとはいえ、風土記の残存部分や、古事記を読んだりすれば、必ずしも古代社会が平和な社会であったということはそう容易ではないことがわかるとは思うのだが。

 

人は、実経験したことさえ美化するとすれば、その場にいなかった歴史に関しては、もっと美化する傾向があるのではないか、と思うのだ。

 

ストーリーの基本的構造

ストーリーによく見られる基本構造として、ライトさんは次のように書いている。

ストーリーは「問題と葛藤」、「それを解決するための試み、失敗」、そして「最終的な結末」(それが良いものであれ、悪いものであれ)といったパターンを持っている。(同書 p.90)

物語の構造として、この問題が発生し、解決するための様々なイベントが何やかんやあって(落語家が話しの長さを短縮したい時に使う便利な表現)、最終的な結論が提示されるというパターンはほぼ多くの演劇、大衆演劇から、テレビドラマ、そして、シェークスピアでも、演劇は大体そうなっている。

 

出エジプト記などは典型的にそうである。大きなストーリーとしては、出エジプト物語がそうである。具体的には、イスラエルの民がエジプトで苦役に苦しむという「問題と葛藤」があり、それを解決するための試みとして、イナゴの害があったり、ナイル川が血の川に変わったり、・・・そして、憂い語が殺される事件があり、紅海を渡ろうとして、間一髪で助かったり、食糧不足があったり、十の戒め(ことば)をもらったり、蛇にかまれたりという「解決するための試みと失敗」(何やかんやで表すこともできる)そして、「最終的な結末」としては、カナンの地に入っていくという形で大団円になるが、その中には、先にも触れたような小さな話(ファラオがエジプトからの脱出を禁じる、ファラオによる追尾が行われる、食用や水を求める・…)入れ子細工の様に入っており、構成されている。その意味で、非常に重層的な物語を構成しているし、イスラエルの歴史全体から見れば、この出エジプト記ですら、その中のサブ集合、あるいは、その中の入れ子の中に入っている物語の一つに過ぎない、という構造をも、もっている。

 

ストーリーの効能

ストーリーの効能とは、他人に別の現象が存在しえた可能性を提示できる点で、実に極めて有効ではある。ところが、このような物語化は、歴史家には通常許されない。とはいえ、「もし○○だったら」ということを考えさせることができれば、別の可能性が歴史に存在した可能性などを考えさせることができる。ストーリーには、一種の現実世界のシミュレーションをしてみる力があるように思う。

 

実際にストーリーは、別のストーリーとその世界観を修正し覆すのに際立った威力を発揮する。真っ向からの批判ではらちが明かないところに、たとえ話は鳩のような素直さの陰に蛇のような英知を隠し持って聞き手にすっと忍び込み、普段なら安全に隠されている聞き手の通念に変化をもたらす。(ダビデへのナタンの話があり)ストーリーには比喩的な効果がある。比喩は二つのアイデアの橋渡しをし、聞き手が直感的にそれら二つを結び付けられるようにする。しかしそれら二つのアイデアは重ねあわされることもなく、一方が他方の意味を明らかにするように作用する。そして聞き手の見方が変えられていく。(中略)そして聞き手の意識のすべてが一変させられる。(同書 p.90)

 

世俗の仕事の一環として、シミュレーション技術を利用したこともあるし、学校でシミュレーション技術を教えたことがあるし、共著だが書籍を出したこともある。

 

コンピュータ・シミュレーションは、現実に起こすと大きな問題屋被害を生み出しそうなことを計算機という仮想現実(VR:Vertual Reality)を使うことで、実験し、その実験の結果に基づき、現実の仕組みや製造物における対応をさせるために用いられる。良く知られているシミュレーションとしては、自動車事故を計算機の中で意図的に、且つ実験的に発生させ、どのような車体の構造やデザインが望ましいのかを検討し、現在のアイディアと別のアイディアとの比較をすることがある。こうすることで、既存の製造物のデザインや、現状の問題の意味を明らかすることができる技術の一つではある。とはいえ、最終的に安全性を確認するためには、以下のような実際の無人車を使った実験もしているが。

 

まぁ、実際の首都高速道路でこんな運転をされたのでは、いのちがいくつあっても足らない。

 

実機を使った衝突実験(衝突シミュレーション)

 

最近では、エスカレータの歩行を禁止する方が、エスカレータの歩行を認めるよりは、より多くの人数を単位時間に運ぶことができるとかいうシミュレーション結果が出たが、この場合の価値基準は、一定時間にあるエレベータが、どれだけ処理するか、という評価基準(ストーリー)に関するもので、エスカレータ利用者の中で、早く移動したい人の個別の移動速度をどうすれば早くできるか、という評価基準(ストーリー)からの検討がなされてはいない。

 

これらの両者の比較で、考えるべき価値基準、あるいはストーリーが違っているので、どちらがよい、ということは一概にいえなくはなるが、全体の処理のことを考えると、エスカレーターで歩かない方がいいかもしれない、という意識の変容が起きるかもしれない。とはいえ、関西人はイラチ(速度に関して評価が高く、遅いこと、のんびりとしていることへの寛容度が低い人)が多いので、あのような報道があっても、エスカレータで歩く人は無くなるということはなかった。

その意味で、ストーリーにせよ、数値シミュレーションによる実験という形のストーリーにせよ、人々の行動の変容をもたらすためのものであるとは言えよう。

 

まだまだ続く。

 

 

 

 

 

評価:
N.T. ライト
新教出版社
¥ 6,912
(2015-12-10)
コメント:ミーちゃんはーちゃんにとっては面白い。

評価:
スコット・マクナイト
キリスト新聞社
¥ 2,160
(2013-06-25)
コメント:よろしければ。こっちの方が読みやすいかも。

 

 


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JUGEMテーマ:アニメ感想

先日地上波テレビで、「もののけ姫」をやっていたのだが、前半部分は、作業をしながら見ていたので、あんまり正確な記事ではないが、ご容赦いただきたい。

 

もののけ姫の最後のシーンが印象的…

まぁ、ちらっと見たのは、最後のシーンである。ちょうど、シシ神様の首が切られて、だいだら法師状になられて、首を捜しまわって、溶けだした科のように見えるからだの一部が、たたらをぶっ壊し、自分の首を持って移動する人間たちを追いまくっていたあたりのシーンだけ、ちょっと見た。

 

首が伸びていくシシ神様

 

だいだら法師に変態する前後のシシ神様

 

切り取られ鉄桶に入れられたシシ神様の首

 

切り取られた首を捜すだいだら法師(変態後)様


これを見ながら、あぁ、日本の自然理解、日本の神理解がよく表れたアニメだなぁ、と思ったのである。結局だいだら法師様に変態したもの(遺体なのか、死亡後の流動化した遺体の一部なのかは定かではないが)が、地表上を覆い、そして、たたらを壊してしまう。

 

宮崎アニメにおける回復

ところで、だいだら法師様の遺体の液状化したようなものに触れると、やけど状の傷が身体的には残るとういことのようなのだが、だいだら法師様の遺体の液状化したものを大量に浴びることになる主人公二人は、その液体状のものを大量に浴びた後、その傷が回復するようなのだ。さらに、この液体状の何かが、大地を覆った後、大地に緑を変えていき、もともとたたらの鉱害被害なのか、燃料としての木の切りすぎなのかわからないが、自然破壊されていった大地というか土地が、緑に覆われ、回復されていったところが、実に印象的であった。

 

破壊されていた自然

 

だいだら法師の遺体なのか、遺体の液状化したものなのかによって回復された土地

 

この宮崎アニメで特徴的だったのは、シシ神ないし、だいだら法師の液状の遺体によって覆われることによる回復があるということであった。非常にアジア的な、一種輪廻思想というのか、仏教思想にもどこか通じるものを感じさせるというか、ある種の諸行無常というのか、自然の前では一種人間的な努力や工作物の無力さというか、ほとんど有効でないこと、それを上回る自然の力というか、植生や植物的な生命体を中心とした自然への信仰、がどこかテーマになっている。

 

ジブリ映画の宮崎アニメのラストシーンでは、緑に覆われた”何か”が出て来ることが多い。天空の城ラビュタの最後のシーン付近で登場する巨神兵は緑に苔むしているし、風の谷のナウシカも自然の回復がテーマであるし、風立ちぬでは、戦争で破壊された航空機が苔むした形で出てくる。紅の豚では、流石にこういう自然が覆う形での回復というモティーフは使われなかったが、回復が隠しテーマになっているようである。回復という意味では、千と千尋の神隠しも回復がメタファーとはなっている。ポニョとかアリエッティとか見てない作品も多いので、どういう傾向にあるのかは、明確に言えないが、最近の作品では回復がテーマになっているものも多いような気がする。

 

さらに言えば、宮崎アニメの終末観というのか、終末論は、植物的な緑による回復、自然界の力による回復と癒しが語られる。最近の宮崎アニメのラストシーンが植物に半分覆われた人工物が描かれていることからも、その癒しの主体は植生を中心とした植物的な終末であり、植物的な回復である。

 

しかしながら、聖書全体に通底する終末観というのか、聖書全体に流れる終末論は、神の力、神の主権の回復、神と人との回復であり、神が人と共に住まうということに焦点があるような気がする。その神は、人との対話なく、人の意思とは無関係に、人間とその社会を包み込もうとする植物ではなく、人と対話する人格的な存在である神とその対話に焦点が当たっているような気がする。

 

宮崎アニメに表現されたストーリー・世界観

その意味で、宮崎作品の背景となっている思想というか宗教思想というか、その背景にある日本型の宗教思想、日本型の信仰は、自然信仰なのかなぁ、と思った。所詮漫画に過ぎないアニメ作品に思想があるか、とおっしゃる方もおられようが、別連載でここのところ取り上げているNTライトの『新約聖書と神の国』の隠しテーマであるストーリー、物語、世界観、ウェルタンなんちゃら、何と呼んでもいいが、それがアニメ作品にも表れているということを言いたいのである。宮崎アニメのストーリー、物語、世界観としては、人間が何をしたところで、結局それを圧倒的な力で回復する自然が存在する、という一種の自然信仰なのだろうと思った。アニミズムとは別種の自然というある種の西洋的言語で表示される概念による救済ということへの確信が表れているのだと思う。

 

この自然というわけのわからないもの、人間にとって他者性を持っており、生と死を併せ持つ存在のシシ神、時に回復神となり、時に祟り神となる存在による回復というテーマは、キリスト教的な理解とは違う。もちろん、かなりの部分のキリスト教徒にとって、そして、かなりの部分のユダヤ教徒に取って、また、大半のムスリムにとって、神、YHWH、アッラーは回復神である。自然そのものではない。ここが宮崎アニメに表現されている日本的、あるいはアジア的な世界観と聖書における世界観が断絶している点ではないか、と思うのである。

 

なお、なお、このあたりの事をお考えになりたい向きには、当ブログの記事では、『富士山とシナイ山』に学ぶのエントリーないし、日本人神学者で世界的に評価を受けた存在である小山晃佑さんの『富士山とシナイ山』を直接お読みになることをご推薦する。聖書は西アジアで生まれた宗教的文書であるが、東アジア的な思想と断絶した部分があるのである。

 

N.T.ライトのいう認識のためのグリッドとしての

世界観の共通ノードがあるのか?

つまり、聖書の世界とそれに関連する世界観を共有する世界(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教)におけるストーリーと現代日本アニメである宮崎アニメとの間には、ネットワークが形成しがたい、一種異質なものであるということになる。同じ神の物語であるとはいえ。その意味で、N.T.ライトさんが言う「人間が現実を認識するためのグリッドとしての世界観」として、共通のグリッド、ないし、ネットワーク理論で言う共有ノードがない可能性が高いということであろうと思う。

 

もちろん、様々なものを包摂する母なる大地ないし地母神という概念については、ヨーロッパや近東の土着型信仰にあるのは知ってはいるが、回復という概念まで含むのかどうかは良くわからない。あることは確かであるが、日本型の包摂と同じかどうかに関しては知らない。しかし、聖書の神は、植物の様に人間と人間が生み出したものを有無を言わさず包摂することはない。人格的な対話を求めていく神である。人間に生きよ、と明治、神との主体的な対話を求める神であるように思う。有無を言わさず、問答無用で「従え」という神ではないような気がする。あくまで、人の意思の存在とその意思を重要視する神であるように思うが、宮崎アニメの世界のシシ神ないしだいだら法師の包摂は、有無をいわさないタイプの包摂観に彩られているように思う。

 

これらのことを考えると、日本人の宗教理解である、どの道をたどっていっても基本的に同じ(したがって、神道も仏教も、キリスト教も、儒教も、イスラムも、ユダヤ教も同じ)というかなり荒っぽい宗教理解は、かなり無理があるように思う。さらに、だいだら法師が人間の世界の主人公二人を飲み込むかのように包摂していったように、全ての信仰や思想的なものを問答無用で、さらに、有無の言わさない形で、「どの宗教も同じ」と何でもかんでも丸呑みしてしまう、その猛烈さが、最後のシシ神、ないしだいだら法師が地域全体を飲み込んでしまうストーリーにかかわっているのではないか、と思った。

 

この全てのものを包み込んでしまおうとする論理は、割と新宗教(概ね第2次世界大戦前に成立した日本型宗教)、新新宗教(概ね第2次世界大戦以降に成立した日本型宗教)と呼ばれ、分類される宗教群でも、共通であるが、詳細に眺めてみると、その信仰の前提というか、その信仰の背景となるかなり深い部分でこの論理が破たんしているような気がするが、

 

ブタが神の表象なのはおかしい?

ちょうどこの映画を見ているときに、バリ・ヒンドゥー教の世界(家庭では、バリ・ヒンドゥー教)と、キリスト教の世界(初等教育では、カトリック学校)で育った長女の友人が一週間ほど、関西観光で宿泊していたのだが、このアニメの乙事主というイノシシないしブタが神の表象(メタファー)となされているのをみて、「え、なんで、ブタが神様?なんか変」とインドネシアなまりの在る英語交じりの日本語でしゃべっていたのが、とても印象的であった。

 

なぜ、ブタが神様なのがおかしい、と彼女が思ったのか、その理由を聞き忘れた。

 

言われてみればそのとおりなのだが、特に、ユダヤ教、ムスリムのブタに対する忌避感を考えると、ブタが神であるのは確かにおかしい。まぁ、所詮、日本の物語だから、とミーちゃんはーちゃんは特段、そこまで変だとは思っていなかったものの、どう考えても、おかしいと思う。

 

その理解の背景にあるのが、それぞれの民族ないし個人、ないし社会が持っているストーリーや世界観であり、これらのものがいかに人間の理解(ミーちゃんはーちゃんの理解を含め)に影響しているのか、ということを感じた。

 

そして、日本のアニメが世界を席巻する中、宮崎アニメのユダヤ世界の若者や欧米居住のイスラム圏出身の若者における、学問の対象としての受容とか理解とはどうなるのだろう、と思ってしまった。まぁ、これはミーちゃんはーちゃんだけがニタニタしている妄想に過ぎない。

 

乙事主様

 

 

まぁ、この記事は、前回やった「N.T.ライト著 『新約聖書と神の民』を読んでみた(9)」で出てきた、世界観、ないし、ストーリーの強固さを、もののけ姫を見たときに感じたことをやってみたに過ぎない。その意味で、日本人の理解の文脈としての世界観やストーリーがこのもののけ姫に現われているなぁ、と感じたのである。

 



トトロの英語版予告編


トトロの原型とされるトロール  ”こんばんわ! (ヨン・バウエル, 1915) Wikipediaのトロルのサイトより

 

 

両者は似ても似つかないなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 


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今日も、一部のコアなファンの皆さん方とともに楽しむため、N.T.ライト著『新約聖書と神の民』を読みながら、考えたことについて少し書いてみたい。

 

ストーリー、あるいは世界観、そして知識

今日からの部分では、人間の認識に影響を与えると思われるもの、つまり、ストーリー、あるいは世界観と呼ばれるもの(モノの見方である)と、その世界観、あるいはストーリーの中で構築される知識との関係についてである。このあたり、ミーちゃんはーちゃんが大学生のころになる10年から20年くらい前にサイバネティクスという人間の認知に関する議論が流行ったので、その名残がまだ大学の中で渦巻いており、この理論にまつわる話を大学の授業で聞いたことがある。そして、そのことを、世界観、Worldview ウェルタンなんちゃら ピューリタン『的』 そして 聖書『的』という記事で2014年6月に書いていた。これは、時々鋭いコメントをくださり、励ましてくださる「のらくら者の日記」の方の記事からインスパイア受けたものであった。

 

余談はさておき。

 

ストーリーに乗って行われる会話

ここで、(i)「ストーリー」と「世界観」と題する部分で、ライトさんは次のように書いている。人間の発言は完全には予見不可能ではあるけれども、会話をしているとき、会話において、ランダムな単語の羅列をしているわけではなく、何らかの共通理解において会話をしているのではないか、ということを述べておられる。どうも、マッキンタイアという人の所説をもとに、書いておられるようだ。

 

ところで、以下の動画の3分50秒くらいからは、文脈やストーリーを抜きにセンテンスとしては初歩的な文法に従っている文章を、発語内容は、発語までのそれまでの文脈とは無関係に並べるとどうなるか、ということを一人コントとして陣内智則氏が示したコントの動画である。

 

3分50秒位からの会話になってない会話が秀逸である。これは、ストーリーや世界観抜きに音声言語が述べられているからおかしく感じられるのである。

 

そのあたりの事を、ライトさんは次のように書いている。

ストーリーは人間生活の最も基本的な在り様の一つである。私たちは行き当たりばったりの行動をして、あとからそれを理屈付けようとはしない。人がそのように振舞えば、彼らは酔っているか、正気を失っていると思われるだろう。マッキンタイアーが論じるように、人間行動一般は、そして特に会話は「演じられる物語」なのだ。この物語が私たちの生活の基本的な枠組みであって、人々の行動や各人物はその文脈の中でのみ理解される。( 『新約聖書と神の民』 pp.85-86)

この本の脚注を見ると、この部分はマッキンタイア―の1985を参照するように指示がある。この本が困るのは、その本が何であるのかが、この本ではわからないところである。引用文献リストが下巻では付いてくるのだろうが(期待したい)、上巻では参考文献リストが見えないのがこの本が一番困るところなのである。恐らく、マッキンタイアーの1985とは、MacIntyre, Alasdair. 1985 [1981a]. After Virtue. A Study in Moral Theory. London: Duckworth. ではないか、と思われる。確証はない。

 

まぁ、軽いクレームはさておき、ここで重要なのことは、会話は、演じられる物語」であるという点である。これが電子メールやSNSでいちばんこまる点なのだ。ごくわずかの時間差のみを伴い、空間的、社会的コンテキストにおける断絶の中で(相手に関する現状がわからない中で)、電子メールやSNSという限られた情報伝達手段、より正確に言えば、プアな情報伝達、即ち、必要最小限の情報しか伝達できない手段(このことをメディアという)を介して会話のようなものをしている場合、突然人間関係が崩れることがある。あるいは、炎上と呼ばれる現象が起きる。従って、電子メディアゆえに生じやすい、その人間関係における破たんの回避に気を使うことがネット時代では求められるのだ。ある発話者本人は冗談を言っているつもりなのが、受け取られたメッセージとしては、強烈な批判的文言ととられることがある。この辺の言語表現の落差に伴う感覚が、案外インターネット経由でのコミュニケーションでは難しく、特別な配慮と技法が求められることになる。つまり、この配慮の部分で手を抜くと、下手をすると、お互いコミュニケーションする際の参照枠(世界観とかストーリー)が崩れてしまい、「何が言いたいのかな?」程度ならまだよいかもしれないが、こじらせると「気に食わない人だ」とか、「出入り禁止」とか、ブロック、とかにすぐになってしまう。

 

ところで、案外福音派の人が、世間一般から煙たがられたり、世間一般から遊離して見えるのは、福音派の一部の方の言語ゲームというのか、演じられる物語が、世間一般の演じられる物語とは、かなり遊離しているという部分があるからではないか、と思う。

 

もう少しいうならば、伝道がなされる状況なら、少々の無理はしても良い、と土足で人の家の床の間に上がり込むように、人のこころの中やプライベートな部分にずかずか入ってきて、挙句の果てに、「あなたは罪人である」「悔い改めないと裁きに合う」「神を怖れよ」「地球は滅びる」と結構強烈なことを言い始めるからではないだろうか。ちょうど、先の動画の5分0秒あたりの豹変したダニエル君の様な物言いをするからであろう。

 

ストーリーは実は強力

人間は、暗黙のストーリーとは、たとえば、「英国人らしく生きる」とか、「日本人として生きる」というような生き方や話し方を求められたり、明快に示されたストーリーとは、たとえば、日本で自動車は道路の左側通行とか、アメリカでは、自動車は道路の右側通行とか、日本では、自転車は歩道通行が許されていた時期が長かったが、今では原則自転車は車道通行となった。10年前くらい前には、カリフォルニア州で、日本人の留学生や旅行者が歩道通行するので、結構問題になっていた。

H.M.S. Pinafore: "He is an englishman"

(本日はオリンピック開会式があるらしいが、オリンピックつながりで言うと、この歌が『炎のランナー』でも、パリ・オリンピック大会に向かうときの歌として出てくる。)

 

 

The Simpsons の登場人物Sideshow BobによるH.M.S. Pinafore名場面集

(1分くらいから、He is the English man.の曲になる)

 

人々は暗黙の、または明快に示されたストーリーを土台としており、それによって形成されているといえる。ストーリーは、「人が自分自身について、あるいはお互いについて語り合うため」に必要なものなのだ。「(中略)だが、ストーリーなど使わなくても、言いたいことは伝わるのだ」という一般的な通念とは相いれない。ストーリーはしばしば、「抽象的な真理」や「ありのままの事実」よりも劣るという不当な評価をされて来た。もう一つの不満足な見方は、ストーリーを修辞的な格言やそれに類するもののショーケースと見なすものだ。ストーリーは人間生活の基本的な構成要素である。(同書 pp.86-87)

 

 

この部分を見ながら、ストーリーと呼ばれるものは、日本では会話の(非身体的な言語使用における論理世界における)お作法とでもいうものなのかもしれない、と思った。

 

たとえば、かなり論理的なことを語るためには、順序を追って語ることが必要なのだ。例えば、数学なんかの話をしているときには、ほぼ無関係と思われるようなところから話をはじめないといけない場合がある。

 

そういえば、私の若い友人がある所で書いていたことに、学者とかオタクとかは、話をはじめるために、相当遠いところから話さないと話せない、という傾向があることを指摘していた。彼曰く、学者とかオタクとかは、遠いところから話し始めて、興が乗ってくることは、大事なことを話し始めるためのスイッチなのではないか、ということを書いていた。

 

まぁ、これは人によるかもしれない。ある程度教養というか、業界で共有されている前提条件(恐らくそれがストーリーということだと思うのだが)が共有されている場合には、話の確信に行くまでの距離はかなり短縮できる。

 

例えば、水理学や流体力学を話す際に、ナビエ・ストークスの連立方程式の基本コンセプトを知っているかどうかで、だいぶん話の長さは違ってしまうのだ。但し、ナビエ・ストークの連立方程式がわかるためには、差分方程式ないし微分方程式ということがわかっていないとだめであり、そのため、微分や差分という概念が分かっていないといけないし、また、連立方程式がわかってないと議論ができないことになるのである。一般の文系的な意味とのストーリーとは違うが、理系でも、一種のストーリーは存在する。

 

 

ナビエ・ストークスの方程式

 

しかし、近代という時代において、物語とか、ストーリーというと、荒唐無稽な物語や、冒険活劇のストーリーラインや、神話と同一視する文化ができてしまったので、ライトさんがここでいうように、「 ストーリーはしばしば、「抽象的な真理」や「ありのままの事実」よりも劣るという不当な評価をされて来た 」といってよいと思う。しかし、ここでストーリーといっていることは、議論の前提条件だと思う。例えば、「死後にいのちがある」とか、「神は人間と関係なく存在する」とか、「神は人を愛している」も議論の前提であるという意味でのストーリーである。例えば、日本正教会では、イースターの時に、司祭が「ハリストース、復活」といったことに対して、会衆は「実に復活」と返すのだが、その前提として、「イエスは十字架にかかったが、復活して、今も生きている」というストーリーが共有されているからこそ、この呼びかけと応答が意味を持つのである。

 

あるいは、もう少し卑近な例で言えば、神社が聖域や神域という概念があればこそ、神社でPokemon GO!をすることを避ける人々がおられるのであって、神社が聖域や神域という概念というか物語、あるいはストーリーが共有されていないからこそ、神社でも、お寺でも、どこでも、Pokemon GO!ができるのである。あるいは、神社が聖域とか神域という概念がない、あるいはその概念を無視して生きているからこそ、ある種の福音派の人々は、初詣でのころに、人での多い神社の前に行って、「悔い改めなさい」、「信じるものは救われる」「死後に裁きがある」とかいう黒背景に白字や黄色の背景に黒字(阪神タイガースカラー)のプラカードを掲げたり、そのような文言を車に大書した車から、ラウドスピーカ―で聖書の中から、ここまでおどろおどろしい表現をよく選んできましたねぇ、と思うほどの聖書のことばを大音量で放送しておられる。

 

キリスト看板の方々の放送車

人人が多いところに出没するキリスト看板の皆さんと群衆の皆さん

 

 

価値の連鎖としての世界観

先ほど、Pokemon GO!やキリスト看板の人々を例にして、ストーリーあるいは世界観が共通であるかどうか、前提条件のネットワークに人々がつながっていることや、前提条件として人々の間で共有されているかどうかが結構重要であることをお話してきたが、そのことが人間の精神世界の案外根深いところにあることについて、ライトさんは次のように書いている。

これから見ていくように、人間が現実を認識するためのグリッドとしての世界観は、人間の「信仰」や「目的」 という形で意識に上ってくる。それらの信仰や目的は原則的に議論の対象となる世界観を表明するための役割を果たす。そのため、世界観そのものを特徴づけるストーリーは、人間の知識という地図の上では、神学的信条の様な定式化された信仰よりも、さらに根源的な地点に位置づけられる。(同書 p.87)

差別意識や民族意識、自民族中心主義や、中華思想的なものなどと、ストーリーや価値感はつながっている。あるいは、根拠のない自信、といったものも、ストーリーにかなり近いものだと思う。ちょうど、知識が表層とすると、ストーリーや価値観は岩盤というか、マントルレベルの深さにあるものというようなものである。つまり、人間の認識世界そのものの、基底(Base)を為しているものということなのではないか、と思う。マントルやマグマが、地の底の見えないところで動いていて、つながっていて、それが相互に影響していて、時々、それが、火山の噴火のように吹き出し、極端な場合は、地表のかたちを一瞬にして変えてしまうようなことが時に発生するように思う。そして、このような地表面の変動は、後に地図に表現されることになるが、この地表面の激変により、地表上に独特の地形というか風景を作り出す、ということと似ているかもしれない。

 

懐かしのマグマ大使(本文とほぼ無関係、日本の特撮の出発点 )

 

古代のストーリー、現代のストーリー

どの民族でも、 割と歴史の出発点への理解を保有する傾向があるのかもしれない。なぜならば、自分たちが何ものであり、自分たちを定義するものと、自分たちの社会運営のやり方の正当性の根拠が、かなり壮大な仮説でも必要なのである。そのような壮大な仮説の根拠は要しないし、その仮説の成立は、そもそもかなり昔のことだから、根拠を言ったところで始まらないし、タイムマシンでもない限り、確認のしようがないからである。そして、現代でも、このようなストーリーというのか、前提条件が暗黙に用いられる。

言うまでもないが、世界観をもっともわかりやすい形で具体的に表しているストーリーは、未開で素朴な世界の住民たちの語る、世界全体や特定の民族の起源について説き起こす創世神話である。(中略)しかし、現代においても似たようなストーリーを見出すことができる。例えば政治論争で物語が活用されている。(中略)テロリズムについてのストーリーは、テロ撲滅を叫ぶ右派政治体制を正当化するために使われる。 (同書 p.87)

たしかに、わかりやすいものとして、神話の世界というのか、自分たちがどこから来たのか、というようなストーリーは、自己の存在の正当性、自分たちがここに住んでいる正当性の根拠として、必要なのであるので、様々な形でそのことが言及されることがある。ただ、その正当性あるいは正統性の歴史をどこまで引き戻るか、が問題になることが多い。

 

パレスティナの話で考えてみれば、そのことは理解しやすいのではないか、と思う。アブラハムがカランを出て、カナンに来るまでは、アブラハムないしその子孫が、カナンと呼ばれる地に定住していなかったわけで、イスラエル民族の存在の正当性の根拠はかなり怪しくなる。あるいは、根拠としてさかのぼる時間をダビデ・ソロモン王朝期に合わせれば、現代のイスラエル人のカナン定住は一部にかなり無理筋があるとはいえ、根拠があるとも言えるかもしれない。しかし、荒野をモーセとイスラエル人が歩いていたころに照準を合わせれば、イスラエル人のカナン定住は根拠が急に怪しくなる。アブラハム時代に合わせて、神のアブラハムへの約束を考えれば、また、その根拠には一部かなり無理筋があるとはいえ、根拠がなくもない。その意味で、どの時代の状況、あるいは社会的な状況を根拠とするストーリーで考えるのか、ということを考えてみることは、案外大事なのである。

 

このストーリーの例を近代に求めるなら、アーリア人優等民族説とか、をあげることができるだろう。あるいは、この1年間に起きた大量殺人事件の報道では、大量殺人事件をすぐテロリストと結びつけ、そして人々の恐怖をあおり、新聞や雑誌の売り上げのための道具に使われる。このような報道は、テレビに人をかじりつかせ、テレビでの広告料は跳ね上がる。ある面、意図的にテロといっているのではないか、何でもかんでもテロにしているのではないか、とも思いたくもなる。

 

イラク開戦なんかは、大量破壊兵器というストーリーに皆さんが関与して言ったことは忘れてはならない。イスラム関係者恐怖症(Islamophobia)は、ある意味で、近年の出来の悪いマスコミ発のストーリーなのではないか、と思われる。

 

大量破壊兵器があるといったブッシュ君のスピーチ

 

共同体が生み出し、共同体が強化し、共同体を強化し、

他者を排除しかねないするストーリー

共同体に選択的に、あるいは、機会的に参加することで、世界観は外生的に与えられ、そのコミュニティにいる以上、それを尊重することが求められることが多い。企業内での特定の学校の同窓会などの組織は企業内の利権組織として働くこともあることなどに見られるように、その組織と世界観が、常によいものであるとは言い難い。そして、このような組織や共同体の存在が、すべての人に、良い影響をもたらさないことは、談合組織や業界団体などで見られる現実を思えばかなり明らかではないか、と思う。

それは家族、職場、同好会、またはカレッジにおいて共有されている世界観を体現し、強化し、恐らく修正するものだ。そのため、ストーリーは世界を体験するために不可欠な枠組みを提供する。ストーリーは、世界についての在る見方に疑問を呈するための手段ともなりうる。(同書 p.87)

人は、自分が話している母国語に愛着があることもあり、自国語を優先し、他の国で利用されている自然言語を使うグループに対して差別的な、あるいは区別的な対応をとることがある。もちろん、それは自然言語のみで起きるのではなく、人造言語であるプログラミング言語でも、自分が使うのが得意な言語とか、自分が使っている言語を誇るところがある。マニアックな世界の話で恐縮あるが。古くは、マシン語族や高級言語族が生まれ、高級言語族がさらに細分化され、フォートラン族、Basic族、COBOL族とかが80年代くらいまでは、寡占状態であった。その後、PL/I族、Pascal族、Java族、C++族、C#族、Python族、Ruby族などと多様な高級言語族が生まれ、現在は、情報技術を利用する分野によって使われる言語が異なるほど、分野でのすみわけが行われている。つまりは、高級言語の群雄割拠状態ではある。

 

この傾向は、OSになるとさらに顕著で、iOS族、DOS族、Windows族(これには、Windows NT族とか、いろいろ支族がある)、マック族、リナックス族、Free  BSD族、といった感じで、OSごとにファンがいて、この間の溝は埋めるのは難しい。しかし、多様なOSが存在することで、初めて見るOSが存在することで、自分たちのOSの限界に気が付き、そして、自分たちのストーリーが見直されていって、劣化コピーとか悪口を言い合うこともあるが、どのOSの世界でもグラフィカルな表現能力が向上していることは実に喜ばしい限りではないか、と思っている。

 

 

次回、水曜日公開予定。まだまだ続く。

 

 

 

 

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