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 今回の記事は、緊急公開。次回には、きちんとキリスト教書流通を扱った内容を記事にします。キリスト教界における電子メディア言論と、紙メディア言論について触れてみたい。

 これまでの記事は、

日本のキリスト教書業界の現状など思うこと(その1)

では、この問題の出発点と現在の読者層の問題について触れ、

日本のキリスト教書業界の現状など思うこと(その2)

では、発行部数が小部数であり、非常に出版や書籍販売の現場がかなり疲弊している可能性について触れた。

Facebookのコメントから

 そうしたら、南の国のコメント王子の久保木先生から、日にアクセスが200以上あるクリスチャンブロガーが本を出す意味ってあるんでしょうか、ってコメントを頂いた。

 一応、それには、

(大量アクセスのあるクリスチャンブロガーが出版する意味は)ほとんどないです。
はっきりいって、200View超えるを誇るようなクリスチャンブロガーが出版する意味は『ほとんどない』のですが、出版することには

1)ブログを読まないラストワンマイルの方々にも届ける、

2)そっとプレゼントできる、という意味

3)電子物は、電子関連業界が言うほど保存に強くないので、紙媒体にして残る、残す、国立国会図書館に保存してもらう


という意味しかない、とおもっております。正倉院は電子物だったら、100年持たなかったでしょう。
とお答えした。これは、本心である。

案外保存性の弱い電子データ

 半分電子業界に片足突っ込んでいる人間が言うのも何であるが、実は、電子データというのは、案外時代の変化に弱いのだ。

 今、手元に、大型計算機時代の磁気テープに入ったプログラムがあるが、これを今のハードディスクに落とすのは大変(作業は大変でないが、コストは結構かかるの)である。あるいは、8トラックの音楽テープがあるとして、それを再生するのは考えたくない作業が待っている。


8トラックの音楽テープ GREESEの写真の男性は、トラボルタ


3.5インチのフロッピーディスク(今の15歳以下は認識できない可能性がある)はまだしも、5.25インチの2DDのフロッピーディスクや8インチのフロッピーディスクなど、作動するドライブと、そのためのインターフェースのためのボード探すのが苦労しそう。昔、PioneerというメーカーさんがLD(レーザーディスク)なる機器を出していたが、今、レーザーディスクはあっても、それを再生するための機器の入手が困難だし、Sonyが売り出していたベーターフォーマットのヴィデオテープ、見ることが現在では非常に困難なのである。CDのデータ耐用年数は条件が良くて30年くらいだろうと言われている。

昔懐かしいフロッピーディスク(8インチ2D 5インチ2HD 3.5インチ 2HD)


 その意味で、今はインターネットがあるから、「そこで」っていうことはできるのであるけれども、それは、5年から10年くらいの技術標準であると思っていたほうがよい。技術標準はどんどん変わるものである。そうでないと、情報技術屋はもうからない。

 皆さんが、より早く、より大量に、より表現力豊かに、より美しく、ということを望めばのぞむほど、過去の遺産(これをレガシーと呼ぶ)はデータとしては移行するものの、その大半は捨てていかざるを得ないのだ。今なら、まだ、デジアナ変換してテレビが見れるけれども、アナログテレビは間もなくレガシーになり、使い物ならなくなっていくのだ。

使い捨て情報(フロー情報)としてのブログ
ストック情報とフロー情報

 その意味で、ブログは使い捨てである。いわばフロー情報である。情報には、二つある、と思うのだ。残していくべきストック情報と、使い捨てられていくべきフロー情報である。

 会社で考えると一番わかりやすい。

 ストック情報は、損益計算書や貸借対照表で、その会社の状況を固定化して残そうとする情報である。あるいは、メーカーにとっては製品である。

 フロー情報とは、日々の伝票であったり、出張報告書であったり、起案書だったりする。メーカーでは、取付金具の取り付けの手順書だったりする。製品寿命とともに賞味期限が切れるタイプの情報などである。

 教会だと、そうですねぇ。

 個別教会の歴史とか、歴代牧師の氏名とかは、ストック情報でしょう。
 毎月の会計報告とか、イベント情報などは、フロー情報でしょう。

説教はフロー情報か?

 牧師先生の説教は、ストック情報?フロー情報かどう思う?って?

 ヤなこと聞きますね。

 個人的には、ストック情報に近い、ストック情報としたほうがよいのではないか、と思ってます。

 だって、使い捨ての説教って、結局信徒にとって、あまり意味持たなかった、ってことでしょう。そんな、牧師先生方が心血を注いで、金曜日と土曜日の晩には、呻吟しながら一生懸命取り組んでおられるがゆえにツィートをしないといけないほど、必死で取り組んでおられるような知的資産を、軽々しく使い捨てにはしてはならんのではないか、と思うのですね。だからこそ、説教集とかいうものを本として出す意味があるのです。

 ただ、ロイドジョンズのローマ書に関する説教集の訳者あとがきのどこかに書いてあったと思うのだが(記憶が定かでないので済みません)、説教は、会衆と 説教者の間で作り上げられていくものなので、説教集に限界があることも確かだというのは、教会の現場にいるものとして思う。沖方牧師のようなコピペ説教は まずいとおもうのだなぁ。

 小説、沖方晴夫牧師全話はこちらから http://zios.seesaa.net/article/394450283.html


旧型メディアの強さ
 その意味で、残すべきストック情報は、ストック情報としてのふさわしい待遇である書籍で残す、あるいは印刷物で残す、ってことが大事なんじゃないかと思うのですよ。はい。

 その意味で、意外と古いメディア、粘土板とか、石とか、紙とかに書き込むって方法は、案外保存性は強くって、どのような形であっても何とかして記録が読める、読めなくなるようになる、読めなくなりにくい、という意味で、書籍って偉大だと思う。

 その意味で、尊敬してやまない千葉のS先生が常々おっしゃるように、とりあえず使い捨てメディアであるウェブとかブログとかで一定程度書いておいて、それを取りまとめて、結晶化したものを本として残す、ってことが今後のキリスト教書業界にとっては、意味があるのではないか、と思うのですね。

成功哲学本は嫌いです

 しかし、現在は、一般書でも、「こうしたら、うまくいく」みたいなマニュアル本なのか成功哲学みたいな本が多すぎで、また、それが売れるから、一般書の出版社がそういう本をやたらと出す習慣、なんとかならないかなぁ、もっと生きるということで大事なことはいっぱいあると思うのだが、と、大学院にだいぶ前に社会的入院してしまったものとしては思えてならない。w

 私に哲学の基礎を与えてくれた、湯川先生なら「哲学というものは、成功哲学とか、野球哲学とか、そういう軽々しいものではありません」って一喝しそう。

 次回、きちんとキリスト教書流通について思うことについて触れます。






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前回の記事

日本のキリスト教書業界の現状など思うこと(その1)

では、この問題の出発点と現在の読者層の問題について触れた。今回はなんでたくさんの本が出るのかということについて触れたい。 

 不況なのに、出版点数が出る訳について、今日は考えてみたい。前回の記事でも触れたが、おおむね一般書籍では単行本の採算ラインが1万部程度である。しかし、キリスト教書業界では、どうやったって、そんな部数が出たら、世俗の本で言うところの100万部突破並の快挙である。

「福音の再発見」の出版経験から

 福音の再発見が、発売初月に初版が900部程度が流通に乗り、発売2週間で、再刷決定が打たれた時、半ば哄笑気味にキリスト教書取次店の方から「予想外」って、Facebookでつぶやかれてしまった。ミーちゃんはーちゃんは勝ち馬投票券を買い入れたりして、中央競馬会に献金した経験がないのであるが、情報番組というで聞く限りは、ダークホース、あるいは、大穴勝ち馬投票券のような『色モノ』扱いされてしまった。www

 あれは、キリスト新聞社に出版をお引き受けをお願いした私費出版なんで、「出ても初月100部程度じゃね」と取次側は踏んでおられたようである。それがあれよあれよ、段ボール単位で出ていくもんだから、相当お慌てになったらしい。そりゃーねぇ、読み手視点で企画したし、ネットで事前に告知し、「出るぞ、出るぞ」という誘惑(確かに、Seductiveであったことは認める。そういう行為がまともな従来型の商慣行を順守したものであったかどうか、は別として)をし、キリスト新聞社さんには、Ministryでも、キリスト新聞でも広告を打っていただいた。ありがとうございます。

ネットの力も借りた
「福音の再発見」のマーケティング

 まず、クリスチャン系のブログのアクセスの多いサイトから口コミを出しておいていただいて、クリスチャンブログをしているネットでの言論リーダー的な存在の方に集中的に書評をよかったらお願いできると嬉しいなぁ、と言いながら、本をご献呈し、ご献呈した先生方が、お時間をとっていただいて、お読みいただき、高評価いただいたことが功を奏したと思うのですね。この場を借りて、御礼申し上げます。本当にありがとうございました。再度心から御礼申し上げます。

 こういう販売戦略も、この出版にかかわったチームで、それは相談しながら進めていった。

訳者も大切

 もちろん、訳者を中村佐知さんという超有名人にお願いできたことも非常に大きい要素である。大変感謝している。中村さんにお願いできたのは、ミーちゃんはーちゃんのKing Jesus Gospelのちょっとした引用部分の日本語変換が機械翻訳並に酷かったから、見るに見かねて、ということで大変な翻訳作業をお願いできた部分もある。無論、出版チーム(キリスト新聞の編集の方も含む)の中で、「ここはこうした方がよいのではないか」、「ここはこういう訳語を使った方がよいのではないか」とFacebook上で議論をすすめながら、翻訳の大変な作業をお願いしながら、対話していった。中村様、この何年か、もう、アメリカに足を向けて眠れてません。

実は、私費出版本に近い本が多いかも

 出版点数が多い背景に関しては、私費出版本という、著者やら訳者やらに負担を強いる本が多いかもしれない。

 実は、出版点数が多いのには、この私費出版的な出版体制に近い体制がかなりのキリスト教書でとられているということがあると思うのである。もちろん、出版社丸抱えでしておられる出版物も多数あるであろうが、出版企画として持ち込まれた際に、出版に伴うリスクが受けきれないような本の場合、自社企画としてしているのではなく、売れ残りは著者(訳者)、出版社に持ち込んだ側が引き受ける、出版費用の一部(または全部)を著者(訳者)が引き受けるという契約慣行が残っているようなのである。つまり、出版社のリスクが軽減されているから、出版できるというのがあると思うのだ。自社企画本であっても、私費出版的に近い体制が取られている出版物もあるようだし。
 その意味で、かなり著者とか翻訳者の権利者に負担を強いながらの単発ものの本が、やたらとたくさん出ているという感じがする。

中古書業者の御活躍
 こうなると、もう、いい本でも版元品切れになってしまうと、もう中古で買うしかなくなるのだ。それを見越したかのように、この業界をマークしている中古本業者がいて、異様に高い値段で中古本価格を付ける。なんせ、まだ出版社に在庫がある出版後2週間の段階で、ある業者は、「福音の再発見」に4000円近い価格を付けてくれた。ありがたい限りである。

学術書以上に希少すぎる初版部数

 あと、出版社と出版物によるであろうが、神学校や聖書学校のテキストで利用されるとか、図書館で買ってくれるのが期待されるとか、教会図書として購入されるとか、そういうことで数が見込めるというのは、ある。それでも200₋300冊程度であろう。その意味で、キリスト教書の出版の初版の印刷部数のミニマムはその程度であることになる。出版社はそれで赤字が出ないような価格設定をすることになるのである。その意味で、ほぼオンデマンド出版物並な発行部数なのである。コミケで売っている人気本から言ったら比べ物にならないくらい少ない初版印刷部数のことが多いようなのである。

 学術書が出るのは、どこぞの奇特な財団から出版助成をもらっているとか、私立大学のマンモス校の先生で、教科書に指定することができ、年に数千単位で在庫が一気に減るから、とか、テレビに出ている先生の本だから、とかいう本しか出せないのが、現状なのである。 

小部数だからこその悲惨な状況

 当然、そうなると1冊の販売単価は高いものとならざるを得ない。通常の出版会社で市場流通にお願いしているところからすれば、考えられないほどの価格で出版署が販売されているのには、組版(書籍を作成するための原版)の内生化や涙ぐましいほどのコスト削減(というよりは社員泣かせの労働慣行、蟹工船?と思いたくなるお話もちらちらと聞く)、書店への突込み販売(とりあえず書店や流通在庫にしてしまう。一応出版社側は売れたことにできる)など、ブラック企業並みか?と思いたくなるほどの劣悪な環境に耐えて下さる関係者(社員、流通を含め)の皆さんがいて初めて、あの価格なのであり、通常のビジネス感覚で言えば、出版社も、書店も、事業撤収を考えた方がいい段階に来ているような気がする。

 その意味で、関係者の皆様が歯を食いしばって、耐え難きを耐え、忍び難きを忍んでいるからこそ、出版点数が稼げ、本が続々と出版されているというのはあると思う。

 企業の存続条件だけから言えばの話ではあるが。おそらく、今の倍の価格でないと元は取れない出版事業のはずだと思う。しかし、そんな値段付けたら、売り上げが激減するのは見えている。

 まさしく、今の書店業界は、大東亜共栄圏を目指したものの、連戦連敗だった戦争末期の大日本帝国状態のように見えてならない。

 「欲しがりません勝つまでは
   (我慢して待っていたら、負けてしまった)


大政翼賛会の名入ポスター


 「肉をたたせて骨を切る
  (肉をたたせたら、残ったのはごくわずかで帝国陸海軍部は瓦解してしまった

 「いざこいミニッツマッカーサー
   (本当にマッカーサーが厚木基地に来たら、地獄に逆さ落とし食らったのは日本だった)


いざ来いミニッツマッカーサーの歌詞がある「比島決戦の歌」


等とよく似ていると思うのだな。「パーマネントはやめませう」ではないが、パーマネントどころか、東京では戦後のタケノコ生活状態を強いられた多くの国民がいたことを忘れてはなるまい。何かそれに似ているような気がしてしょうがない。まさに「貧すれば鈍す」になりかねないのではないだろうか。それを奉仕精神というか矜持でかろうじて持ちこたえている状態だと思う。精神論が横行するのは、末期的状態を示す日本の組織でよくある話といううわさもないわけではない。

 それに輪をかけているのが流通の問題だと思う。


 次回、「ふしぎなキリスト教書」の経験的流通の世界のお話をしたい。



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コメント:若い方や教会を離れた2世の方に是非お勧めしたい。


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 さて、2014年も終わりになる。今年は、いろいろあったが、出版企画に参加させてもらった『福音の再発見』がキリスト教書店大賞のノミネート作品に選ばれるなど、まぁ、面白がって一年を過ごせたと思う。まぁ、キリスト教書店大賞は、「もっと教会に行きやすくする本」であった。妥当な受賞だと思う。心からお喜びしたい(いまですか?というなかれ。タイミングを失っていただけである)。

同じ著者の本が別の日本の出版社から
出るのは何故?

 ところで、この間ツイッターを見ていたら、バウンダリーズシリーズのクラウド・タウンゼンドの本が、いろんな出版社で出ていることに気付かれた方がおられて、 なんでこうなっているんだ、と素朴な質問を呈しておられた。そりゃ、そう思うよねぇ。普通。

 同じ著者でありながら、あるものはキリスト教系出版社のA社、別のものはキリスト教書出版社のB社、また別のものは完全に世俗の出版社から出ている。「なんでこうなるんや」ということをつぶやいておられた。

 そこで、「キリスト教書業界は経営的に厳しく、まとめて出せないみたい」とレスポンスしたら、まとめてその状況の原因とか書いてくれ、というレスポンスを頂戴したので、ちょっと書いてみたい。

キリスト教書業界の厳しさ

 日本のキリスト教書業界は、端的にいって、経営が厳しい。それをキリスト教書出版の経営側と社員とモティベーションと長年の商慣行に大きく依拠してもたせている、といっても過言ではないだろう。ここ数年で、ヨルダン社が倒産したらしい(こちらを参照)し、トンと出版をしているのを聞かない出版社もチラチラあるし、優れたキリスト教書を出しておられた「すぐ書房」さんも業務停止しておられる(こちらを参照)し、ともう秋の状況を超えて、冬の状況に近くなりつつあるのが残念。

 「なに、これはいまに始まった話ではないだろう」というご指摘も、そのツィートされた方からは頂いたが、ここ数年で悪化の状況は加速度的に悪くなっているのではないか、という印象がある。とはいえ、出版点数はそこそこあるので、出版社は儲かっているかのように見えているものの、経営の危機感が一般信徒には認識できないだけであることが、出版イベントにかかわる中で多少分かってきたが。

 同じ傾向が学術書籍でも言えるのだ。出版点数はある程度あるものの、売れない本は学術書の専門出版社の倉庫に山積され、その倉庫の維持費用だけで悲鳴を上げかねない状態にある出版社もあるやに聞く。

  日本のキリスト教書業界では、専門書業界の同じ本が山積みという状況ではなく、多様な種類の本がちょっとづつ山積みという状態だと思う。

日本の出版業界の構造的問題

 まず、ネットの普及によって従来の主要ターゲット層であった若者層が本を読まなくなったことがまず挙げられるであろう。読書時間が減衰しているのだ。

 もちろん、私に付き合ってくれる奇特な若者の方で、膨大な蔵書をもち、購入している奇特な方は皆無ではないが、少ない。

 そもそもからして、日本国全体で、読書量は減少傾向にあるらしい。文化庁の国語調査の結果を以下に紹介するが、調査対象者の60%以上が、以前に比べて読書量が減ったとしており、特に30歳代では多忙のため読書する時間がないとしている。それはそうだろうと思う。

出展 平成25年度「国語に関する世論調査」の結果について より

 さらに、減っている理由で、近年大きな変化をしているのは、上から3番目の情報機器で時間がとられるという点である。前回調査からいえば、11.5ポイント近く上昇している。そのいみで、一般の読書に限っても、スマートフォンやタブレット、PCの低価格化と普及、WiFi接続の普及に伴い、情報機器で時間(と予算)が減少している人々が多いものと思われる。


出展 平成25年度「国語に関する世論調査」の結果について より

 これは、若い人々も含まれた上での全年齢の回答者の集計結果であるから、若年層では、この情報機器で時間が取られてしまい、もっとこの傾向は多いのではないか、と思う。といいつつ、このブログで駄文を並べるミーちゃんはーちゃんは「ドヤさ」と批判されても、お返しすることばはない。

日本のキリスト教業界特有の構造的問題

 いまの主要なキリスト教書の購買層でボリュームのある層は、40代から60代の女性であるらしい。ありていに言ってしまえば、このボリュームゾーンが、星野富弘本、渡辺和子本の読者層であり、このゾーンだけが、本を読む時間、本を買う時間、そして、他者に本を買い、贈る資金源を持っているようなのである。つまり、一般ビジネス書のボリュームゾーン(一番の購買層)が30-50代前半くらいまでの男性であったり、結婚誌のボリュームゾーンが20-30代前半までの女性であったり、女性ファッション雑誌のボリュームゾーンが18歳以上40歳までの女性であるのと同様に、あるいは、百貨店にとってのボリュームゾーンは、18歳から40歳までの女性客そうであるように、キリスト教書にとってのボリュームゾーンは40から60歳代の女性層である。露骨にいってしまうと、昼間に日本橋の三越などのちょっとクラッシーな百貨店にいるマダムの皆様方なのである。

 ボリュームゾーンがそうである以上、出版社の側としては在庫を抱えるリスクをあまり抱えたくはないので、そのボリュームゾーンに向けての出版はしやすいが、それ以外の層に向けての出版はしにくいのである。そうであるからこそ、そういう層に向けた本だけが陸続と出版されやすい傾向にある。

そもそも市場規模が小さい
キリスト教書市場

 また、キリスト教人口はカトリック、プロテスタント合わせて、日本全体の人口比0.8%前後でしかなく、ざっと80万人前後であると思ってよいだろう。その中で、真面目に毎週教会に通う層が、通える層が約半分として40万人、本を買う層は、その2%として、高々8千人程度ではないかなぁ。多分。どうやっても、日本のキリスト教書で、10万部突破なんてことはありえないのである。大体、一般書の価格で採算ラインは、出版社によっても違うが、総発行部数が単行本で1万部であろうと思う。それを考えると、日本では、そもそも論からいって、出版社としての採算ラインを割った出版部数を前提に仕事をしなければならないという非常に悲惨な環境にある。

 したがって、渡辺和子先生の「置かれたところで咲きなさい」のような一般受けのする可能性のある本であれば、世俗の出版社も出してくれるが、よい本であっても総発行部数数1千部レベルの本は世俗の一般書店ではまかり間違っても出版されないのである。
 
 次回 出版点数があるのになぜ不況なのか?



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コメント:案外な盲点を指摘してくれる本。Ministryの連載から書籍化した、2014年キリスト教書大賞受賞作。


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 日本でのキリスト教と結婚にまつわる話を発端編(その1)、儀式編(その2)、離婚と再婚編(その3)と考えてきたが、今日は(その4)第4回目として、キリスト教教派間結婚問題を考えてみたい。一応、今回で終わりの予定。

これまでの連載はこちら

結婚式と日本のプロテスタント教会(その1) 問題の着想 (11/15)

結婚式と日本のプロテスタント教会(その2) 問題の整理 (11/17)

結婚式と日本のプロテスタント教会(その3) 離婚と再婚の問題 (11/19)

キリスト教 教派間の信徒同士の結婚

結論から言うと、

 ミーちゃんはーちゃんとしては、キリスト教の教派間結婚、大賛成である。
 祝福したい。


 なぜかというと、キリスト教徒のカップルの婚姻の妨げになるものはない、と思うからである。もちろん、カトリックとプロテスタントの場合、カトリック側の司祭の判断によるとは思うが、カトリック教会への転会、カトリック教会で定めるところのイニシエーションが求められることになる可能性が高いけれども。以前は、結構カトリックへの改宗というのか転回を求められるなど、厳しいと聞いた。

 ではプロテスタントの異なる教派間のカップルの場合の結婚ではどうか。個人的には、別にかまわないはずだ、と思うのだが、時に、

IIコリント
 6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
 6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。

を拡大解釈して、自派間、自教会内での結婚を進める向きもある。しかしねぇ、「自分とこの教会以外教会じゃないんですかい」、「他所の信徒は信者ではないんですかい」、「他教会や他の教派の信徒を不信者扱いすな」といいたい。あ、いっちゃった。

他教派間の結婚が起きにくいわけ

 ただ、自教会の中に未婚の女性信徒が大量におられる教派の方や、そこの責任者、未婚の女性信徒が数多くおられる教会内では、他所から女性信徒を配偶者で迎えるとなると、苦しい立場に置かれる責任者や牧師先生はおられるだろうとは思う。しかし、そうであっても、個人的には、もし、他の教会の信徒と結婚したいといわれたら、「どうぞ」と申し上げたい、とは個人的に思っている。ほかの教派の方であれ、多少聖書理解の違いがあれども、キリスト教界の多様性の誤差の範囲であり、キリストのからだであるからである。

結婚はそもそも異文化経験

 そりゃ、もちろん、キリスト教会ごとに文化や用語や習俗や習慣が異なるから、戸惑うことは、結構多いだろうけれども。その意味で、教派間をまたぐ結婚は、異文化体験をより強烈なものとしやすい。そもそも、教派が同じでも、家庭が違うから、食事の仕方、みそ汁の味、食事の味付け、どのような食品を多く使うか、など様々な生活の細かな方法論とその背後にある考え方が異なるので、そもそも異文化体験であるのに加えて、教派間の違いというのは聖書理解にも影響を与えるので、異文化体験としての側面は、時に深刻となりやすい。だから、教派間結婚に消極的になれとはミーちゃんはーちゃんは親切ごかしには、絶対に言わないし、言いたくない。

 ところで、以下の動画は、以前にも紹介したMy big fat Greek wedding からの動画で、結婚する二人の家庭の文化的背景とその理想が大きく違う例を示す動画である。男性がアングロ・サクソン系の核家族を理想とし、静かに暮らすことをよしとするプロテスタント系の家庭であり、女性側がギリシア系の家族で、大家族を理想とし、にぎやかに一族郎党で踊る歌い喜ぶことを善とするギリシア正教系の家庭という設定になっている。まさに異文化が相克する現象をうまく描いた映画である。何が面白いかというと、両方共が、それぞれが正しいと思うことが違っていて、他者をおかしいと思うという点であり、メタ思想ができず、それぞれが「自分たちのやり方がよい、正しいと思う」ということを言い続ける点なのである。


My Big Fat Greek Weddingのワンシーン

 教派の違うカップルの場合、これと似たようなことが起きるだろう。だからと言って、そのことで、結婚自身の祝福が奪われるであろうか。そうは思わない。それこそ、神が結び合わせたものだとするのであれば、それを人間側の理由で引き離すのはどうなんだ、とは思うのである。

周囲がこじらせることも多いんじゃない?

 たいていの場合、本人たちが問題を感じる、というのではなく、その周囲が問題視して、問題を必要以上に大きくし、問題をこじらせてしまうのではないか。例えば、他の教派から来られた女性信徒さんに対して、年配の信徒さんなどが…

「やはり他所から来られた方はわかっておられない…。ヒソヒソ」
「私たちのやり方でしてもらわないと…。ヒソヒソ」
「あの方がこういうことをされるのは…。ヒソヒソ」

こういう本人たちは悪気なくしているかもしれない会話が、ご結婚を機に移ってこられた若い知り合いの少ない女性信徒さんを苦しめることもあるのではないか。個人的には、「やかましい!」・「そんなんアカンのとちゃうか」と播州弁で騒ぎたくなる。「ローカルルールや、自分のルールでしかないものを、ユニバーサルルールであるはずの『キリスト者がともに扱い愛し合う』というルールをガン無視するとは、どういう了見なんじゃぁ?」と聞きたくなってくるぞ。

不変でない文化やローカルルール
 文化やローカルルールは、不変のものではない。メンバーが変わり、時代が変われば、文化も変わるし、ルールも変わっていくのだ。それは、このシリーズのもととなった記事【】でも書いたとおりである。つまり、変わっていくということは、その教会が生きているという証拠であり、変化しているということは、その教会が生き生きとしているということではないか。それが、ある文化が固定化することは、その教会がすでに死んでいるということを示すのかもしれない。人は生きている限り、変化するように、教会も生きている限り変化していくものだとミーちゃんはーちゃんは思うのだが、違うだろうか。まぁ、変化したって、神の目から見たら、誤差の範囲だと思うのだ。

 前にも文化や、伝統について考えた記事でも、また教会に行きたくない?の最後の記事でも触れたが、変えていくべきものは変えていき、残すべきものは残す、そして新たな文化を常に神と共に作り変えていく、ということが大事なのではないか、と思うのだけどなぁ。

 このシリーズ終わり。





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 このブログのリンク先にも少し前から掲載している、このブログが面白い。


I don't know who I am というブログである。一番最近のブログ記事で、ををを・・と思ったのが、クリスチャンの若者をどう育てるか、という話 の記事と、クリスチャンの若者をどう育てるか、という話・その2  の記事である。

 まず、このシリーズについて思うことがあるので、書いてみたい。

若者主体のキリスト教界の動きへの素朴な感想

 若者による、若者ための、若者に向けてのミニストリーということばが指し示すものの結果、キリスト教業界で発生しかねない課題を取り上げておられる。個人的にこの記事を読みながら、まず思ったのは、「子供十字軍と紅小兵とクメール・ルージュと同じじゃないかなぁ」ということなのである。




お近くの国の大将軍様がいまだに影響受けておられる模様の中国の紅小兵

中国共産党万歳、毛主席万歳、万万歳、って書いてあるかな(一応党が優先)



聖書ならぬ、毛沢東語録を持つ凛々しい紅小兵の皆様が描かれたポスター



昔、ベリカードを集めるのが流行ったころに
「民主カンボジアの声」が放送されていた時期の
クメール・ルージュの少年兵の皆様



 「子供は純粋だ、無垢だ。だから素晴らしい」と思い込みたい、じいさんばあさんの検証されてない帰無仮説が先にあり、統計的検定はおろか、実態的検証、検討すらされずに、子供たちのなした成果と副作用はどうであれ、「子供が何かやれば、それも一生懸命やればそれが素晴らしい」と思い込むところが人間にはある。このような思想は、フランスの啓蒙思想家、ジャン=ジャック=ルソーの思想あたりから、生まれてきた概念であり、それが日本で変質した結果であると思うが。

「かわいい」で何でも許すのはねぇ

 スクールジーのようないじわる爺さんを絵にかいたミーちゃんはーちゃんにとっては、個人的には、やなこったである。やることのレベルが低いから、かわいくみえるだけなののであり、未熟であるから、「かわいい」とし、許されてしまうのだ。成熟のなさが見るに耐えないことも少なくない。歌舞伎などは典型的にそうだと思う。

 事実、大人が子供と同じ事したら、じいさんばあさん連中から「かわいい」とは評価されない程度の代物でしかないのだ。逆に、妙にレベルが高ければ、逆に、おとなおとなしすぎて、気色悪い。Jesus Campの冒頭に出てくる子どもたちはそんな感じをもった。


Jesus CampのTrailer

検証されない『無垢ならよいはず』という帰無仮説

 先のご紹介したブログ記事でご指摘のような「傲慢さ」を大人から評価された結果、子供が持ちやすくなる、という欠点以上に、子供であるが故の歯止めのなさ、一種の残忍さ、痛みを知らないが故の残酷さ、を生むからである。それを以下に示す子供十字軍の版画は示しているように思われる。ミーちゃんはーちゃんは、「子供=無垢」という検証されない帰無仮説が独り歩きした歴史の悲惨を思うがゆえに、「若者による、若者のための、若者の礼拝を、大人が喝采する」という絵面は、どうもしっくりなじめないのだ。

 親や、祖父母を喜ばせたいというのであれば、まだ納得もするが、こういうことに過度に期待したり、評価したりするのは、世代を超えた共同体構成のバランスを壊してしまうような気がする。


子供十字軍の皆様 水の中の遺体が痛々しい

 恐らく、この「若者による、若者のための、若者の礼拝を、大人が喜ぶ、という絵面」を単純に喜ばない理由の一つが、教会の時間を超えた共同体というのか、歴史性のある共同体というか、伝統的な聖書理解の継承や教会の成熟を大きく痛めつけたり、破壊しかねない側面があるからではないか、とも思うのだ。

そのブログの最近のヒット作
痛い若牧師先生編


 最近、この方のブログで受けたのは、この記事である。

クリスチャンの「あるある」的に書いてみた(若手牧師篇)

 いやぁ、個人的には、ドレスコードはあまり気にしない(多少は気にする)人ではあるのだけれど、それ以外の部分が痛すぎで、笑ってしまった。

 「日本の(キリスト教界の)閉塞感が・・・」


 失われた10年以来もうあらかた20年近く閉塞状態なのだけれども、その分析も、考慮もすることなく、格好として、「ヘイヘイ、自分は若者の代表や代弁者だぜ」ということや「自分でバンバン」せずに、若者を焚き付け、若者を道具にして若者にやらすことは大人がすることではないと思った。まず、「閉塞感が・・・」というのなら、ご自分で考えて、閉塞感を打破することをご自分でまずやられればよろしい。それは、ご老人の方でもそうだ。私考える人、あなたやる人、って面白くないじゃないですか。


 「神様に〇〇と導かれている」≒「自分が〇〇したい」
 

 これ、面白すぎ。こういう傾向を持つキリスト教界の信徒さんは、牧師先生や教会の大人たちがどういう背景でそう言っているのかを見抜いているのか、お若い皆さんも、「すぐ○○さんとの結婚に導かれました」といとも容易に導かれてしまう方が多い。


 スマホ、タブレット、小さいノートパソコンと一通り持っている。


 持ち物でしか自分を表現できないとしたら、説教者失格ではないか、と言われても仕方がない気もしなくもない。無論、産業化社会を経た社会の中に日本社会があるのだから、近頃の若いもん相手に、流行に乗っていることを「モノ」とか「食いもん」であらわす社会風潮があるのはわかる。日経Trendyとか、Mono Magazineとかがあるくらいだから。そういえば、その昔、トレンディドラマというのがあった。


明石家さんまと片岡鶴太郎を起用したその昔のトレンディドラマ 痛々しい。


 しかし、それ以上に、説教者は「ガジェット2番、説教一番」でないと、ねぇ。アフラックのCFではないが、「よーく考えよぉ、説教は大事だよ。」である。



アフラックのCF

 

 サッカーとかテニスとかの趣味があり、その話になると長い。


 別に趣味があるのは悪いとは言わない。そこで、牧師という肩書をはずすことができ、他者と同じ土俵に立ち、他者から素朴に学ぶ、そして、自分自身を相対化できるというのであれば、それはどんどんやればよい。しかし、自分が中心になれる(中心にしてもらえる)教会というフィールドの中で、自分を中心であることを確認するためだけに、信徒をご自分の趣味に付き合わせるのは、ご勘弁願いたいし、また、それをみた電波なおばさまやおじ様たちが、牧師をほめたたえるのはやめたらどうか、と思う。ほめたたえられるべきお方は、我らにとって、YHWHなるお方のみではなかったのではないだろうか。


 ご興味のある方には、この「I don't know who I am 」というブログをご覧いただくことをお勧めしたい。





評価:
唐 亜明
岩波書店
---
(1990-03-09)
コメント:多分入手困難だと思うので、図書館で読まれるとよいと思う。



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これまでの記事は以下の通り。


 これまでは前哨戦であり、今回からが本論なのですね。しかし、今週月曜日の記事(その2)が皆さんの反応が58「いいね」をいただいて、ちょっとびっくり。

結婚式と日本のプロテスタント教会(その1) 問題の着想

結婚式と日本のプロテスタント教会(その2) 問題の整理

 今回は、教会と結婚式でも、教会と離婚、死別と再婚を巡る問題を考えてみたい。高齢化社会をこれから日本社会は迎えるし、教会はその先行っているとおもうので。

高齢化社会を迎えた日本における
プロテスタント系キリスト教会と婚姻をめぐる問題

 日本のプロテスタント系キリスト教会では、これから問題になる問題として、離婚や信徒の死別というに伴う再婚問題をどう考えるか問題というのは重要な課題として存在するのではないか、と思う。もちろん、若い信徒同士の離婚と再婚の問題もあるが、今日は高齢化が進む中での日本でのプロテスタント系キリスト教会の信徒の死別と再婚、そのあたりのことを考えてみたいと思う。

 信徒になって、教会で結婚式を挙げて、離婚というケースも様々な事情から起きる。望ましくないことではあるが。それは、絶対にダメとはミーちゃんはーちゃんは言えないのではないか、と思っている(と書くから、リベラル派というありがたいラベルを張っていただける)。望ましくないが、どうしても駄目なものを無理やりに不幸になると分かっていて、『婚姻関係を維持せよ(特にDV関係のある場合など)』というのは非常に問題ではないか、と思うのである。

アメリカ合衆国南部でのDV問題と
キリスト教を描いた映画

 Fried Green Tomatoes というアメリカ南部のキリスト教徒の女性の自立問題を扱った映画があるが、そこでもDV夫と離婚の問題とキリスト教の問題が取り上げられていた。かなり性的な描写やグロテスクな事件のぞっとする隠喩の描写があるので、どうかなぁと思う部分はあるが、まぁ、面白い映画だと思う。

 個人的に、この映画の中で痛いなぁ、と思ったのは、この映画の中で貨物列車に乗り込み、貨物列車内に置いてあった食料のカンヅメをホームレスの皆さんに配ろうとしたじゃじゃ馬のような女性が、両家のお嬢様で盗んだカンヅメをホームレスに配ろうとすることに二の足を踏む友人の女性に「教会の中の人は、神に祈ってばかりで、困っている人がいても何も行動しない」というじゃじゃ馬のような女性の教会人への皮肉ともいうべき発言であった。

 ちなみに、米国の教会では福音派の一部でも小中学校でも、Thanks Giving Day付近には、Food Driveという形で、信徒からカンヅメを集めて、ホームレス施設での配給に使うような習慣があり、「教会の中の人も行動している」場合があることは触れておく。


Fried Green Tomatoes のTrailer

DV家庭を維持させる枠としての
アメリカのキリスト教会と結婚
 本論をもとに戻すと、この映画の大きなテーマの一つとして、アメリカでは、教会での離婚をあまりよしとしていないがゆえに、家庭内での暴力(夫から妻へのDV)の発生しやすい環境が、ある程度醸成されやすい環境にあることをうまく描いていると思う。もともと、アイルランドやアメリカでの禁酒法も、飲酒を原因とするDV防止の目的で設立されたはずであったと記憶している。

 しかしDV夫は、飲んでいようがいまいが、DVを繰り返すことは、割と知られているので、聖書が離婚を勝手にするものは、姦淫の罪を犯させることになるとは言っているものの、厳密に言えば、禁止しているわけではないようである。

 イエス自身も口語訳聖書のマルコの福音書の例を引けば、

 10:2 そのとき、パリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして質問した、「夫はその妻を出しても差しつかえないでしょうか」。
 10:3 イエスは答えて言われた、「モーセはあなたがたになんと命じたか」。
 10:4 彼らは言った、「モーセは、離縁状を書いて妻を出すことを許しました」。
 10:5 そこでイエスは言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、あなたがたのためにこの定めを書いたのである。
 10:6 しかし、天地創造の初めから、『神は人を男と女とに造られた。
 10:7 それゆえに、人はその父母を離れ、
 10:8 ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。
 10:9 だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
 10:10 家にはいってから、弟子たちはまたこのことについて尋ねた。
 10:11 そこで、イエスは言われた、「だれでも、自分の妻を出して他の女をめとる者は、その妻に対して姦淫を行うのである。
 10:12 また妻が、その夫と別れて他の男にとつぐならば、姦淫を行うのである」。

とイエスは言っておられるが、自分たちの理不尽な都合での結婚までを、神が結んだとするのはどうか、ということを含んでモーセに言及しておられるようだし、DVの結果、死亡に至るまで、その婚姻を神が合わせられたものとして、継続すべきといっておられるかどうかは、かなり疑問なのではないだろうか。まぁ、そうであっても婚姻を継続すべきというキリスト者の方のお立場は尊重する。

DVがもたらす悲劇

 しかし、現在に至るまで、アメリカの中西部では、このような聖書理解に基づく婚姻の継続の結果、悲惨な死を迎える女性が時々現れる。そして、DV夫は、DVの結果、妻の死別により再婚しても妻を殴り続ける例が多い、とアメリカで聞いたことがある。日本では、死亡例に至らなくても、その対応を考えるべきではないか、という指摘も以前のMinistryではされていたように記憶している。また、そのことに関しては、このブログでも、教会と家庭内暴力または家庭内の虐待についてという記事で触れている。

 こういう悲惨な例は別としておいて、「離婚」は絶対ありえないこととするか問題は結構頭の痛い問題であることは確かで、ケースバイケースの対応が求められる事例が多いのではないだろうか。

  以下のThe Rainmaker(日本語タイトル、レインメーカー)は、話のメインは、アメリカのろくでもない保険会社の話であるが、その伏線として、DVの問題が出てくる。こういうえげつないDVは、結構アメリカではあるように思うのだが。


DVが伏線になっている映画レインメーカーの予告編


死別による再婚をキリスト教会でどう考えるか?
儒教的な婚姻観が支配する日本で

 それ以上に、日本で問題視されやすいのが、死別に伴う再婚問題である。聖書の文言がどこまで婚姻に当てはめるのか、という問題である。日本では、儒教的な倫理観があって、「死別であっても再婚するべきでない」という傾向はあると思う。実は、この問題を考えさせられたのは、日本ではなく、海外でもう10年以上前に個人的に直面した事例であるのだ。

 カリフォルニア州南部のEvangelical Free Churchを自称しておられる教会に行っていた時、高齢の再婚された信徒のご夫妻にその教会のスモールグループ活動で親しくしていただいたご夫妻が発端である。

 まず女性の信徒さんの配偶者の夫の方ががんでご逝去された方と、もともとは中南米で、伝道者のための物資の空輸する伝道奉仕団体でのパイロットをされていた方で奥様をがんで亡くされた男性信徒さんが、かなりご高齢で再婚された事例である。もともと、この女性信徒さんが、男性信徒さんの奉仕とお人柄をよくご存じで、献金等で支援していた関係もあり、死別されたものどおし、再婚されたケースである。

 恐らく日本の教会だと、非常に対応に困るし、戸惑いを感じられるケースであろうが、結構普通にあけすけに「自分たちの結婚の経緯はこんな感じだったんだ」とお二人とも、お話ししてくださった。お二人によると、両方のご家族とも当初、「えぇぇぇ〜〜」という感じであったらしいが、数年がたちなんとなく、落ち着いて、お話しをお伺いした当時は御親族も、「再婚して、よかったね」という感じだったらしい。

 この例にぶち当たった時、このような死別されたキリスト者社会の中での死別に伴う再婚をどう考えるのか問題ということは問われたのですね。そして、自分自身が持っていた死別後再婚せずをよしとする考え方は、意外と儒教的な世界観に基づくもので、イエスの言葉と一致してないかもしれないことを、以下の聖書の言葉を思い出してしまったのだ。

マタイ
 22:23 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、その日、イエスのもとにきて質問した、
 22:24 「先生、モーセはこう言っています、『もし、ある人が子がなくて死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。
 22:25 さて、わたしたちのところに七人の兄弟がありました。長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。
 22:26 次男も三男も、ついに七人とも同じことになりました。
 22:27 最後に、その女も死にました。
 22:28 すると復活の時には、この女は、七人のうちだれの妻なのでしょうか。みんながこの女を妻にしたのですが」。
 22:29 イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
 22:30 復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。


長寿社会における日本のキリスト教界での
再婚理解はどうなっている?
 長寿社会を迎えた現代のキリスト教界において、死別により発生する再婚問題といったようなことをどう考えるのか問題ということは、もう少しキリスト教界できちんと理解が考えられてもいいかもしれない、とは思っている。もちろん、初婚同士での誤解が大きく十分な理解ができていない、そして不幸な結果を生む可能性の高い若い世代向けの結婚観に関する聖書理解の提示も大事である。しかし、DV環境下におかれた婚姻の継続をどう考えるか、についてと同様に、高齢者の再婚問題についても考える必要が出始めているかもしれない。

 その意味で、日本のキリスト教は、儒教的思想の背景で、結構物事を考えたり、聖書から得られた理解だとして、語ったりしていないであろうか。日本では、これまでこの種の例が少なかっただけではなく、十分蓄積がされていないのではないか、とは思う。

 この辺、ぜひ、今後の高齢化社会を踏まえ、水谷先生あたりにもお考えをお書きいただきたいところではある。

 次回は、教派間婚姻について



評価:
価格: ¥3,078
ショップ: 楽天ブックス
コメント:アメリカのあこぎな弁護士とアメリカのあこぎな保険会社のバトルがメインテーマ。アメリカの社会に潜む問題を扱っている。面白かったよ。


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  前回の記事では、結婚式と日本の教会を巡ることを考える発端になったAさんとの対話を紹介し、日本のプロテスタント系キリスト教会では、結婚式というのは聖式、聖なる儀式と呼ばれるサクラメントではない、とするところが多いのではないか、ということに触れた。

サクラメントってなんじゃらほい

 サクラメントとは、松山市と姉妹都市関係にあるカリフォルニアにある市のことではない。



サクラメント市にあるサッター砦州立記念公園の写真


 サクラメントとは、教会法ないし教会の規則に明文として示された聖なる儀式として行うことになっている儀式のことである。日本のプロテスタント教会と呼ばれるところのかなりの部分では、サクラメントは、礼拝、礼拝説教が行われる日曜日及び聖餐式とバプテスマだけではないだろうか。その意味で、結婚式や葬儀はサクラメントではないことになる。全数調査したことがないのでよくわからないが。

教会法は世俗法に優先するか?

 その意味で、本来教会は、憲法および民法典を超えて、個人の結婚式に関して口をはさめるのか問題というのはある。但し、民法は、公序良俗に反しない限り、という但し書き付ではあるが、民間における慣習を尊重はしているので、慣習はある程度の効果は持つので、教会法や教会のルールは慣習法としての一定の効力は持つ。民法だけから考えれば、まぁ、結婚しようと思ったときに、民法規定上は相談しなくてもよいはずであるとはいうものの。ただし「よいこ」のキリスト教会の皆様にはおすすめしない。ただ、民法は、個人間の慣例的な規約は、公序良俗に反しない限り、尊重するということは触れておく。個人間のことに国ないし裁判所がとやかく言わない、というのが憲法規定の国民主権から導かれる、というのがおおむねの理解だろうとは思う。

結婚を巡る教会との対話は、しんどいよ

 結婚式を巡って、教会や教会を巡る組織と個人が不必要に対話するのは、疲れるし、めんどっくさいし、個人の方が弱い場合が多いので、相当な覚悟をもってやる気でない限り、そして、カルト化してたり、あまりに教理からの逸脱が見られない限り、おすすめはしない。してはならないというのではない。したらいいと思う。ただ、めんどくさいことだけは確かである。

 ただ、絶対に教会とのバトルや話し合い、対論してはならない、信徒に説明する必要がない、とか言い出している教会は、黄色信号か赤信号点滅の教会である可能性が高いから、ご注意召された方がよい、ということだけは申し上げておく。

結婚式教会の神秘

 ところで、過去の記事でもある「『愛』をめぐる一断章(3・おまけ)永遠の愛のハイパーインフレ」の記事でも紹介したが、日本の結婚式場教会は、結構いい加減なので、びっくりさせられることが多い。Wedding Parkというサイトによれば、ホーリーザイオンズパーク セント・ヴァレンタインという福山市にある、新幹線の福山駅からも見える巨大な教会型結婚式場は、

イギリスの文化遺産でもある「ウエストミンスター寺院」をはじめ、世界5つの教会と「ワールドワイドフェローシップ(世界祈りの提携)」を結ぶ本物の教会。
でいらっしゃるらしいが、同結婚式場名と牧師で検索しても、Google先生でも引っかかってこない。そんな本物の教会ってあるのかしらん。しかし、そこ行って、「ここは教派としてはどこにご所属ですか?」、「主任牧師はどなた?」「主任司牧の方は神学校はどちらを?」。あわせて、「信徒数は何人で何人くらい礼拝または聖餐式、またはミサに参加しておられますか?」、「主要な教義はどのような…?信仰告白は使徒信条で?」、「讃美歌集は何をお使いで?」って厭味ったらしく聞いてみたくもなるのがねぇ。ミーちゃんはーちゃんの悪趣味なところ。www

 しかし、クリスチャン新聞さんかどこかで、突撃インタビューしてくださらないだろうか。「ホーリーザイオンズパーク セント・ヴァレンタインに行ってみた」とかいう特集記事、無理だろうなぁ。真面目だから。


Google Mapsのストリートビューによる北西側から見たホーリーザイオンズパーク セント・ヴァレンタインというタイトルの自称「本物の」教会 w

 結婚式教会の神秘については、下記の結婚式教会の誕生、ご参照いただけるとよいと思う。一番最後の結婚式場教会の経営主体とその思想の話が、ものすごい面白いですよぉ~~。

教会の慣習法って?

 しかし、Aさんのご指摘によれば、教会の慣習(法)に反して「牧師に一言もなく結婚式すると言ったら、怒りだす牧師がいそう」ということであるが、なんとなく、それはミーちゃんはーちゃんもそうだろうなぁ、と思う。

 それは教会が、教会法や教会の規定の明文規定にないにもかかわらず、慣習法的に結婚式は教会でするもの、と思い込んでいることがあるかもしれない。あるいは、そのことを信徒が入信する時に、教会法の研修会や、教会規定の講習会をどこまでしているか、というとかなり怪しいと思う。本来は、それがあってもいいと思うのだが、意外とこういう説明会がなされてない教会が多いのではないか?と思う。

 少なくとも、教会が公的認証を受けた法人組織であり、自発的社会(ボランタリ・ソサエティ)である以上は、それは信徒になる前に信徒になることを希望するものに公開してあるべきだし、そのことは触れておくべきことだろうとは思う。しかし、どこまでの組織が、教憲教規をウェブサイトなどで公開しているか、というとどんなもんだろう。このご時世、それくらいは公開していても罰が当たらないように思うのだが。本来は、監督官庁に行くか、その組織か、参加教会か、その組織の本部に行くと見せてもらえるものになっているはずであるから。

慣習法のややこしさ

 文章として公開されていない慣習法がややこしいのは、慣習であり、明文化されてないことが多い点である。内部にいる人は、慣習として、その行為を当たり前としているものの、それが外部からその社会、あるいは集団に参加しようとする際には、説明されない、その背景を含めてきちんと説明できないことも多いのである。また、慣習そのものが個別案件に対応する中で、作り直されていくという側面もあり、成文化、明文化になじまない、という側面もある。そのあたりがあるからいやらしいのである。

 その意味で、慣習法といっても、過去から未来永劫一定、という訳ではなくかなり流動的なモノとならざるを得ない。その意味で、聖書に基づかない、慣習法というか伝統が、その軽重は教会ごとに違うとはいえ、教会には存在する、ケースバイケースでの積み上げをしていく、という側面があることをある程度教会は信徒に説明しておいた方がいいかもしれない。

慣習法と前例踏襲主義

 結婚をどう考えるのかは、この流動的な慣習法に基づく部分に由来する、前例を参照しながら考慮されるものの、かなり教会にとって本来自由度の高い対応ができる儀式ということができるのではないだろうか。その分、その教会の司牧と教会員で、よく相談しながら、進めることができるというものであるはずなのだが、長年その教会に通っている人々には、前例のデータベースから、「こうするものだ」という思い込みが発生しやすいものが現実ではないか、とは思う。

 それが、恐らく、「かくありたい」という結婚式を挙げる側の思いと、「当教会での結婚式(それがいつの間にかプロテスタント教会での結婚式は、に一般化されることはまま観察されることではあるが)は儀式としてはかくあるべきである」という思い込みとの間にずれが生じているのではないか、と思うのだ。

まずは、お問い合わせから

 それが、教会(の牧師)と信徒の間での結婚を巡る問題の根にあるのだと思う。そのためにも、教会で結婚式をする際には、どうするのか、どうなるのか、ということに関しては、そういうことを思ったときに思い込まずに、牧師や責任者と相談しておいた方がもめごとは少ないし、もめごとの解決も早い、というのは事実だろうと思う。

 教会で結婚式をしなかったからというだけで、後ろ指をさされる原因や、教会のミーちゃんはーちゃんをより悪趣味にしたうるさがたの皆様からあーだ、こーだ言われる原因となりやすいので、それを避けるためにも、一応、事前に教会にご相談することをお勧めする。それぞれの教会で教会の慣習法が違うからである。どうでもいいことだが、ミーちゃんはーちゃんは割とさばけているので、聖書に書いてなきゃ、それはその時々のこととは思っていて、割とどーでもいいと思っているし、相談されたら相談に乗って式文を変えるくらいのことは平気でする。まぁ、それなりの理念系はないわけではないが、それに固執しているわけでもない。この辺がリベラル派とありがたいラベルを張っていただける一員となっているのかもしれない。ありがたいことではある。そのラベルを張ると、偽装表示扱いになりかねないとは思うけど。w

最後に、割と儀式的には、古いスタイルを守りながらも、斬新な取り組みの動画を紹介したい。どうもリアルであったアイルランドでの結婚式の事例のようである。なお、ここまでする歌唱力はミーちゃんはーちゃんにはない。ちょっとやってみたい気もするけどw。


結婚式で歌うえらい歌がうまい、アイルランドの司牧の方

 次回、離婚、再婚と、教会の移籍などとの類似性などについて


評価:
五十嵐 太郎
春秋社
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(2007-08)
コメント:結婚式場教会を建築学的に見ると、如何におかしいかがわかる本。おすすめ。


  
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教会やめたい? シリーズの第1回、教会には暗黙の決まりやしきたり、多いんじゃないのと指摘した記事をいつものようにFacebookでご紹介したところいろいろやり取りがあって、ミーちゃんはーちゃんが真面目に尊敬するある方(仮にAさん)さんとのやり取りがこの問題を考えるきっかけになった。Aさん、ありがとうございます。なお、このAさんも、キリスト教会、キリスト教業界にかなりお詳しい方であることは付言申し上げる。

日本とアメリカの福音派系キリスト教会と信徒と結婚式

 まず、そのやり取りを紹介して、この問題を考えるきっかけとして、ご紹介したい。

Aさん)
 多分、結婚式を所属教会の許可なく、他の式場、他の牧師で挙げてしまって事後報告したら、所属先の先生は身を震わせて激怒か寝込んでしまうでしょうね。

 アメリカなんかでは、所属教会以外の場所で結婚式をあげるのは許可されるでしょうか?
 考えてみると、一種、親代わりですよね。日本の場合。しかもそれは決まりとして聞かされてない。
(下線部はミーちゃんはーちゃんによる)

ミーちゃんはーちゃん)
 アメリカだと、市役所で、結婚式するという抜け穴がありまして。

 あと、厳密にどうだこうだと、言わないかもしれませんねぇ。日本みたいに。

 最悪、リノか、ラスベガスというところに個人の宗派に合わせてしてくれるコンビニ型教会で結婚式を挙げることもできますし。



Aさん)
 
米国の一般人はそうでしようが、所属教会の牧師に事前に相談、了承は不要ですか?

ミーちゃんはーちゃん)
 
どうでしょう。一応牧師に言うのでしょうかね。
 熱心な人だと、一応教会の牧師の了解取るでしょうね。多分。


 教派をまたぐやつとか、ユダヤ教とキリスト教とのカップルとかは結構ありそうです。それでも、共生している(結婚生活が維持されている)例を何例かは、リアルで知っていますが。滞在中には、(結婚式を)体験しなかったので何とも。

 別教派をまたぐと、基本的に女性の側の教会が優先かもしれませんねぇ。

 そういえば、My Big Fat Greek Weddingでは、男性がギリシア正教に改宗するシーンがあって、子供用の空気入れるタイプの簡易プールでバプテスマするシーンがありまして、洗礼してましたねぇ。

My Big Fat Greek Weddingのポスター


その中のシーンはこちら。

My Big Fat Greek Wedding(ギリシア語字幕付き)からギリシア正教会でのバプテスマのシーン(かなりカリカルチュア化がされている可能性あり)


カリカルチュア化されていない、正教会(?)のバプティスマ 英語式文による
(2分くらいから動画になります)
Aさん)
 何百人、何千人の教会は担当牧師が了承、認定するのでしようかね。電話一本で。
 日本でよく聞く、「自分の葬式の司式はぜひ何々先生に」ということで、休暇先や出先から急遽、トンボ帰りで帰らねばならない牧師さん。いつも気の毒だな〜と思うのですが、その辺のウェットな関係は、外国にはあるのでしようか?
 日本のお寺の住職も、年間100を超える葬儀で、ほとんど温泉に夫婦でも行く暇もないとか聞きました。その辺も似ています。


ミーちゃんはーちゃん)
 
あー、メガチャーチの場合は、かなり分権的な制度があり、レイパスター(副牧師)がいるので、それで事務処理の対応がされている感じでした。(サンディエゴ近郊のいくつかの教会の場合)

 西海岸しかいたことがないので、アメリカ全体、ってことは難しいのですが、この牧師さんじゃなきゃ、ってのはない感じでしたね。説教のうまい下手はかなり気にしてた感じはありますが。

 西海岸だと、住民というか信徒も7−8年で、転居するし、牧師も、10年前後でどんどん場所とその人のミッション(伝道方法)を変えていくような印象を持っています。日本型の一所懸命型(石にかじりついてもこの場所で牧会するんだ、って感じ)の人は少ない感じですね。

 そうなると、何々先生にお願いしなきゃ、ってことはないようですね。割とドライな関係が信徒と司牧の間にあるような感じでした(ただし西海岸に限る)


 日本だと、何々先生に、って属人的なつながりを言う方多いですよね。年長の人がいい、みたいな。有名な人とかに集中する傾向。逆に日本はべたべたすぎる感じがします。これでは、若い副牧師格は育たない感じがしますねぇ。

 あと、日本では、外国人宣教師に司式をしてもらいたがる人、意外と多い感じがします。うちの外国人宣教師を派遣してほしいというお願いがご近所のホテルからのお願いがありました。
 そいう言えば。
 即座にお断りしましたが。

 本来的には、多くの(アメリカ系の)プロテスタント系キリスト教では、結婚はサクラメントからはずしているはずなのに・・・。


日本の福音派系教会と
結婚式に関して
ちょっこし
思うこと

 この会話の中で、「
一種、親代わりですよね。日本の場合。しかもそれは決まりとして聞かされてない。」というAさんのご意見がかなり気になった。日本(の福音派)の教会では、結構いろいろなことに、親切心からとは言え、教会が個人の生活に口出ししてくれる(あるいは、しようとする)。その一種の暑苦しさというか、厚かましさの背景には、いまだ宣教地であり、日本では、社会の隅々まで、聖書理解に基づく生き方というのか、キリスト教の世界が十分定着していない、という側面があるからなのだろう。

 しかし、個人的には、個人の結婚に関して、親に加えて、教会がうじゃうじゃ言いたいのであれば、ちゃんと、教会のサクラメントの中に結婚式入れといてほしい、ってのは、暴論かもしれませんが。

 もちろん、教憲・教規に、結婚式は教会の管轄事項であるサクラメントである旨が明記されておられる教会群の皆様に関しては、それはそれで立派であると思いますので、きちんと
教憲・教規に従って、定められた手順に従って、粛々とご実行いただければ、とは存じます。

 とは言え、結婚とか個人の生活に教会が関与することに関して、少なくとも、何らかの内部ルールがある場合には、文章にして渡せとは言いませんが、これからバプテスマを受けようとする人や、これから結婚を考えようかという信徒さんに対して、そのことも噛んで含めるように説明しておかないと、まずいかなぁ、と思う。

 昔みたいに察するとか、一を聞いて十を知る、見たいなことが減っているので。以前からいる人には当然だけど、あとから来た人には当然ではなくて、事が起きてから、「聞いてないよぉ」ということにならないようにするためにも。

 以上がこの一連の記事の端緒である。

 次回、(その2)問題の整理 へと続く。






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 本日は例外的に緊急公開。

 さて、昨日の記事で、日本のキリスト教会が正倉院化しているかもしれない、ということは指摘した。しかし、その原因はあまり触れていなかった。

 お友達になっていただいているありがたい南の島のオカリナがお得意な牧師の方から、Facebook上で、異教社会の中にあって、その信仰を守り通そうとするかたくなさ(頑固さ)が多様な教派的伝統を固守した結果生まれ、結果として、非常に古い形を残したままのキリスト教が、割と保存状態のいい状態で、現在もなお残っているという、正倉院化を生んだのかもしれない、というご指摘(大意)があった。


橋頭堡(空挺堡)確保作戦を強いられた
日本のキリスト教会

 つまり日本という伝統宗教社会の中にあって、キリスト教の教会はキリスト教の橋頭堡(空挺堡)状態におかれたために、よって頼るべき信仰を堅く守ろうとして、ある時代に伝えられたものを守るしかなかったのではないか?という御説である。

 なお、橋頭堡(空挺堡)というのは、渡河作戦または上陸作戦、ないし空挺作戦において、一番最初に確保する陣地確保作戦であり、上陸地点で、後続の部隊の安全な渡河または安全な上陸、集結を容易にするための確保するための仮陣地のことであり、この橋頭堡(空挺堡)は、敵の激しい攻撃にさらされる一種のSuiside Mission(自殺行為的な作戦)であるため、この設置作戦においては、一種の無謀さ、野蛮さと強靭な精神力を求められることとなる。米軍では、この種の作戦は、米国海兵隊が最も得意とするところであるとされる。有名な作戦は、D−Dayやらインチョン上陸作戦やら、沖縄戦である。


Saving Private Ryan の予告編 橋頭堡確保作戦が非常に厳しいことがわかる


 確かにそういう側面もあるだろう。

キリスト教にとって宣教地(橋頭堡設置地域)で
あり続けた日本社会と日本のキリスト者

 確かに、戦国期のカトリック教会にとって、長崎は地域的にも橋頭堡であったし、京都や堺は地域的にも橋頭堡(というよりはショールーム)であったであろう。また、豊後大分は大規模な橋頭堡の一つであった模様である。しかし、川村先生のご指摘によれば、九州キリシタンベルトのように、キリシタンが帯状に、大分や別府から、中津、日田、久留米、菊池、玉名と結ぶところには、キリシタンの拠点地域が分布しており、ちょうどヴェネツィア商船や海軍船が地中海のヴェネツィア海軍基地(港)をたどって地中海を航海したように、これらを拠点としながらヴァリニャーノのような司祭がぐるぐる各地の教会を励まして回ったらしい。

 ヨーダー本の紹介で、日本社会は、保守化と国際化をおおむね20年周期で繰り返しているという古谷先生という所説が記載されていたが、国際化の時期には、西洋のキリスト教を示すショールームの役割を教会は果たし、国粋化の時期には、キリスト者たちが日本社会からの諸批判を受けたときに一息息がつけるような前線基地(まさしく橋頭堡の役割)を果たしたと言えるのであろう。社会が国際化した時には、国際化の雰囲気を求めて訪れる人たちに、神のことばを語ったと言えよう。もちろん、その時代に来られる方々は、国際化の雰囲気を求めてきているだけの方もおられるので、社会の国際化の波が引いていくと、それと共に消えていく人々も少なくなかったように思われる。

 その意味で、その中で、社会の中で自分に与えられた地域の中で、橋頭保を維持しようとするあまり、頑迷と見える行動を取らざるを得ず、周囲の橋頭保の様子を知ることもしにくい環境の中で、周囲から押し寄せられる異論への対応のために、戦闘的体制を取らざるを得ず、外部からの増援や連携した行動が期待できない中で、手持ちの資源である過去の聖書理解に頼るしかなく、また、ヨーロッパやアメリカ社会の中でのトップレベルでのキリスト教界の協調行動が難航したり、日本での超教派活動という連携行動での問題に直面していく中で、個別教派、個別教会という橋頭保の中にこもって、隣接橋頭保である他の教派、他の教会との協調活動ではなく、個別の教派・教会のみでの戦闘態勢を継続するという方法を取った教会も多かったのかもしれない。それはそれで、いたしかたないことかもしれない。しかし、メディアが多様化し、教派を超えた個人間関係ができていく中で、従来の制度(教派など)による枠とは少し違ったキリスト教社会が生まれていくかもしれない。

近代社会と日本の教会の対応

 深井先生の神学の起源シリーズのところで紹介したが、フランス革命期には、教会は世俗の社会の近代化の動きへの対応を迫られたように、日本においてもキリスト教は、世俗社会を支配した啓蒙主義下の科学主義の影響を受け、その対応を進めていく。ある教会群は、科学主義の影響を受け、科学と矛盾しない形で聖書を受け入れようとし、ある教会群は、科学主義に社会、そして教会が支配されることに反発し、進化論に反発する形で聖書を用いようとしたりする。あるいは、それが行きつくと、創造論を科学の枠内として語ろうとして、時に聖書の主張しているような創造論を矮小化しかねないような言説がみられることもないとは言えないような気もする。

確認できない起源を『葵の御紋』とする傾向

 日本では、精神世界は形式化することで保存しようとする傾向が全くないとは言えないのではないか、と思う。なぜ、こう思ったかというと、埼玉県の最近お知り合いになった牧師先生からは、次のようなコメント(大意)をいただいた。

 日本人キリスト者「起源」という言葉に弱いので、「起源であるか否か」が「正当かどうか」になってしまう。そして、起源に暴力的なほどにこだわり、そして、宗教改革や西洋のある一時期のある地点での特定のキリスト教が置かれた社会的文化的コンテキストでの聖書理解を起源と設定し、それを”葵の御紋”のようにしてしまい、正倉院化を産んだのではないか。

 えー、うちだけじゃなかったんですね。絶対正確に確認できない(つまり、どうとでも言える)起源の原型とそれを生み出されたコンテキストや環境とのかかわりに迫るのではなく、その起源その者のみを使いつつ、正邪論争するなんて。うちは、極端な聖書主義に立つので、パウロの書いている内容の背景をガン無視して、聖書にこう書いてあるのだから、とか、我がキリスト者集団こそ、使徒性の継承や東方諸教会の霊性はガン無視しているにもかかわらず、新約時代の使徒時代の姿を(目指すとか、再現しようとしているのではなく)継承しているのだ、とか主張する方いるからなぁ。

『道』化しやすい精神世界

 上のコメントを拝見しながら思ったのだが(したがって、思い付きのレベルを超えない。いつもだ、という話はあるけど)、日本では多く精神世界が『道』化しやすいのではないか、と思ったのである。例えば、神道は神『道』であって神『教』ではない。仏教は仏『道』とも言うとも聞く。ちょっと考えてみただけでも、書や、華、茶、剣、柔、合気、修験・・・いずれも、初期の段階では、型とか「形(なり)」が大事にされる世界であり、原型あるいは起源が示されていると考えられる「形」を習得することで、その原型というか期限に迫ろうとする精神的傾向があるように思えてならないのだ。

 その意味で、聖書理解を追求するのではなく、キリスト教の「かたち」、キリストを追及している方も少なくないのではないか、という部分もないわけではないかもしれない。大体、教会でも、わけわからん求道者([きゅうどうしゃ]と読む)という用語が用いられるし。しかし、この求道者という言葉、だれがいい始めたのだろうか。求道は[ぐどう]とも読むしね。


日光の修験道関連の書籍らしい(読んでない)

 しかし、華道や、空手道や、剣道や、茶道のように形からキリスト教の世界というか聖書の世界に入ってもいいけど、本質をつかんでくれる方がなるべく増えるといいなぁ、と思っている。ある時代にある地域である環境に対応しようとしたかたち、あるいは形、伝統を守るのに頑固あるいは頑なになるのではなく、あるいは橋頭保としての教会状態がいまなお続く日本社会の中で、自己の信仰防衛、自己の信仰理解を必死で守ろうとるために伝えられた形(かたちや、なり)に頑なになるのではなくその奥にある神との関係において頑なであってほしい、と思うのではある。そう考えると、イスラエルが「うなじの強い民」であることは、両方の意味があるのかもしれない、と思ってしまう。偶像崇拝的な傾向に関しても、そちらに引き寄せられやすく、そこから抜けにくいのと同様に、神とのの関係に関しても、預言者の様に何があってもそこから一歩も退かない「うなじの強さ」があったのかもしれないかなぁ、と思うのである。仮に日本のキリスト教が、キリスト道のようなものであるとしても、「なりやかたち」は、真似しやすいけど、その奥にある「神との関係」というのは存外真似しにくいものかもしれない、と思ったりしている。








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 今年もまた、秋になると始まる関西の恒例行事、奈良の国立博物館で正倉院展が始まっている。そして、奈良国立博物館は、正倉院御物を見ようとされる方々が黒山の人だかり、という言葉がふさわしいほど、多くの人々が集まる。参加者によるとシルクロードを介した東西交流史などへの歴史ロマンが感じられるそうだ。なお、一応今日まで正倉院展は開催中らしい。

正倉院展2014
2014年の正倉院展のポスター

 奈良に帝のお住まいがあらっしゃいましたころ、当時のシルクロードと呼ばれる大陸の交流路やインド洋を回って、マラッカ海峡を越えてきたかどうかわわからないが、とにかくアジア大陸の西方から渡ってきた、当時の舶来の文物の高級品や国内の産物で貴重な高級品で宮廷にあったものが、東大寺の正倉院と呼ばれる超大型倉庫に寄付や保管されたりしたものを、年に1度だけ、奈良の国立博物館で拝見することができるらしい。人が多いのは嫌いなので、最近は、あまり行っていない。

瑠璃ガラス
正倉院御物の瑠璃杯

ガラパゴス化?正倉院化?
 最近、あるセミナーに参加した時、日本のキリスト教がアフリカ、南北アメリカ、ヨーロッパや、他のアジア地区の聖書理解が伝えられないために、どこかガラパゴス化している可能性があるのではないか、という話が出た。個人的にそもそも進化論を信奉はしてないし、それについて目くじら立てて何が何でも論争しようなぞと思わないが(実質的に利益がないと思っている。論破したところでキリストの弟子となる方は増えないと思うので)、ガラパゴス化というのはあまり適切ではなくて、正倉院化だと思うのだ。

ガラパゴス化

 ガラパゴス化は、非スマートフォン型の携帯電話が日本独自の仕様を突き詰めてしまった結果、世界標準がスマートフォンになってしまったがために世界市場での市場支配力を失った現象をさす時に使われた言葉であると記憶する。IT辞書バイナリーでのガラパゴス化の説明が秀逸なので、一部引用する。

ガラパゴス化とは、市場が外界から隔絶された環境下で独自の発展を遂げ、その結果として世界標準の流れからかけ離れていく状態を揶揄する表現である。
 日本のキリスト教は、隔絶されている。世界標準からもかけ離れてきつつあるかもしれない。しかし、携帯電話におけるi-modeのような国内独自の発展は遂げていないと思うのである。(しかし、どこ行ったんでしょうね、docomoさんのi-mode)麦わら帽子と一緒に谷底に転がっているかもしれない。

「あの麦わら帽子…」が有名になったの野生の証明の予告編

 しかし、日本のキリスト教は、ガラケーのオサイフ携帯やi-modeの独自仕様のように、独自に発展しすぎて、世界標準の流れから離れて行ったのではなく、独自に発展しなさ過ぎて、というか、もともとの形を固守した結果、世界の動向から切り離されてしまって、化石化が進んでしまって過去に世界中のどこかであった歴史的なキリスト教様式の博物館状態になっているのではないかと思うのだ。その意味で発展もしてないので、正倉院化という方が適切ではないか、と思うのだ。どうも、ツィ友の発言によると、インドもそうらしいが。

 まぁ、よく考えれば日本の仏教も似たようなものかもしれないが、それなりに時間を経ている分だけ、日本で独自に発展している部分はあるように思う。妻帯の問題等を含め。

現地化せずに、伝えられたままが
日本で残っているキリスト教文化と行動様式

 それは、ミーちゃんはーちゃんが片隅に生息させてもらっているキリスト者集団を見て、個人的に思うところである。我がキリスト者集団は、19世紀前半にアイルランド島でのキリスト教復興運動が英国に飛び火し、中国インランドミッションを飛び石として、戦前、戦後に日本全国に広まった平信徒主義運動を母体としているが、この中国インランドミッション関係者が英国や、北米を出たころのキリスト者としての行動様式論や文化が若干日本風にアレンジされながらも、日本で定着しそれがキリスト者としての行動様式論や文化的標準となっている。

 しかし、英国本土やアメリカ合衆国本土では、19世紀末から20世紀初頭の行動様式はすでに廃れていて見向きもされていなくとも、日本国内では、厳然とその行動様式や文化が見事に残っているので、それを標準と思って米国や英国に行ったら違和感が存在した、とか、割と若い米国や英国からの短期宣教者が日本に来たら、あまりに母国と違っていて違和感を感じたとか、軽い摩擦が起きた例を知っている。まぁ、英国や米国とのつながりは細々と、かつ断続的にあるので、『デウス』を『出臼』、『ヒィリヨ(御子)』を『肥料』と当て字をしたキリシタンほど断絶はしていない。

結構あちこちであるのかも?

 こういう事例は、ミーちゃんはーちゃんが所属しているキリスト者集団だけだと思っていたら、こないだ関西の牧師先生を中心とした研修会で、無謀にも講師役を務めさせていただくというありがたい経験をさせていただいた。その講演後の参加者の先生方とのディスカッションの中で、これは、我がキリスト者集団だけのことではなく、かなり広く戦後日本に宣教師によって伝えられた聖書理解に固守する傾向が相当一般的に他のキリスト者グループでも観測される、とのことが言及があったんだなぁ、これが。お話しをお聞きしながら、「え、マジッすか?」と思ってしもうた。

 宣教師の日本定着が長くなると、母国のキリスト教文化や聖書理解の動きと切り離され、母国に帰って今浦島になる事例は多々あるのは知っていたのだが、それと同じようなことが聖書理解でも起きているらしい。

 ディスカッション中に御教示頂いたことによれば、ある教派の神学校や聖書学校で『これが聖書的だ』と教えこまれてきた人が、いざ御本人が「さぞやその研究が進んでいるだろう」と思ってその分野で過去有名だった海外の神学校に行ってみると、日本国内で教えられた内容がガン無視されている事例に結構出会うようなのである。

有名どころだけがおっかけられ、
無名になるとガン無視される傾向

 また別の例でいえば、仲よくしていただいている牧師先生は重要なことをお話しされているオランダの神学者を一生懸命個人的におっかけていらっしゃっるのだが、なにぶん、日本では、他の人が無視してたり、国内でほかの研究者が「オッカケ」していないという理由であるがためだけの理由の故に無名であり、その重要性が認知されず、何となくなんだかなぁ、という思いをしておられるような印象がある。ご本人はそうでもないかもしれないけれど。

 そういえば、日本では、アジアの他国の聖書理解や霊性の特徴は、ほとんど知られておらず、アフリカ諸国の聖書理解や霊性の特徴はほとんど顧みもされていないのではないか。その辺がアジア圏からの宣教者が起こしてしまった最近の不幸な出来ことの一因にもあるように思うのだ。

 東方教会もそんな感じがある。東方教会の聖書理解や霊性は、ミーちゃんはーちゃんは、最近東方教会の司祭様とヴァーチャルなお友達になっていただくまで、身近に感じることができなかったのも事実である。福音派の片隅にいたので、正直言うと、イコンは偶像か?と思うほど無知であったのである。同じ東方教会でも、アフリカの温かいところに行くと涼しさを感じる青系統の原色系が多用され、ロシアとかの寒いところに行くと温かさを感じる赤系統の原色系が多用されるような傾向があるところなどは、非常に面白かった。


エチオピア正教のイコンとビザンチンのイコン
図像的には似ているのに聖母子の着ている服の色に違いがあったり
天使の顔の肌の色が、エチオピアでは褐色で、ビザンチンでは白っぽいのが面白い。

 正倉院御物として伝来したのは東西交流がかなり盛んに行われたシルクロードとその周辺の文物ばかりで、アラビア半島やら、ヨーロッパやら、あるいはフィリピンやインドネシア、東南アジア諸国やアフリカ諸国の文物がたくさん含まれているか、というとそうではない。一部、沈香のように中国経由で入った香木はあるけど。その意味で、今の日本のプロテスタント教会では、教派間の交流が妨げられた結果、150年から40年くらい前までのアメリカとイギリスとドイツで起きた宗教思想がそのまま、動態保存されているような正倉院化が進んでいるような気がするのだが。


何のために本を読むか

 基本的に、ミーちゃんはーちゃんは、結構何でも読む。もちろん、あうあわないはあるので、結構好き嫌いはする方であるが、キリスト教書を読むのは自己を正当化するために読んでいるのではない。多様な概念に自己と自己の抱える概念をさらし、比較対象してみて、うーん、この人の主張と自分の考えとの違いは何かなぁ、この辺は合うけど、この辺は違うかなぁ、その違いはどこから来るのか、特に聖書的な概念の違いはどのあたりにあるのだろうか、と思いながら、自分自身を見直す為に読んでいる。

 おそらくこの作業をやめたら、考えなくて済む。断定的に、これが真理だと言えば済んでしまうから。しかし、そんなことを言えるほど、ミーちゃんはーちゃんは偉くないことは知っているので、そういうことはいわないし、言いたくない。ただ、自分はこう思う、というのが精いっぱいである。独断的な、独尊的な生き方、その方が幸せな生き方かもしれないが、しかし、共同体という中で生きている、ということを考えた瞬間にその共同体の多様さを考えると、どうしても独尊的になれないと思う。その意味で、いろんな考え方を知りたいと思う。

 ミーちゃんはーちゃんにかまってくださるありがたい先生方は、こういうのがいいよ、こういうことを考えているのなら、こういう本があるよ、とブログやFacebookで教えてくださる方が多いのだが、英語で書かれた本が多いのがねぇ。

正倉院化した日本のキリスト教界の今後と
信徒のための聖書理解の充実
 これから、信徒が少なくなることが予想される中、司牧を経済的に支えることがどんどん困難になる中で、信徒が中心にならざるを得なくなるのではないか、そうなったときにまともな本、そして、信徒レベルが読んで意味がある本(わかりやすいとは言わないけれども、悪訳でなく、著者の主張がきちんと伝わり、自分自身の信仰が問い直されるような本)の出版が、これまで以上に大事になるのではないか、と思う。

 その意味で、売れる本を出すことも大事だけど、売れるだけでなく、読む意味がある本を発見して、それを日本に持ち込む努力をキリスト教界の先生方には、定番商品化しやすい超有名人の本や読みやすい本だけでなく、いろんな本や考え方をご紹介してほしいかなぁ。と言って、キリ書業界関係者の首を絞めるような発言をしてみた。

 そして、信徒の皆さんには、これはなんとからだから、(たとえば、リベラルな考えだから、不敬虔な考え方だから、聖書的でない考え方だから)と便利なお札(ラベル)を張って、終わりにするのではなく、もうちょっと対象そのものをちょっとは色眼鏡で見ててもいいから、批判の対象そのものと向き合う努力をする人が増えてくれたらうれしいと思う。

 ラベルの張り合いの愚に関しては、北の百姓トンちゃん様のブログ内のこの記事をご覧いただきたい。

千社札
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