2017.03.25 Saturday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その46

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    今日も、たらたらと、『クリスチャンであるとは』を読んで思ったことを書いてみたい。本当は『シンプリー・ジーザス』も出版されているので、そちらのご紹介もしたいのはやまやまだし、『シンプリー・ジーザス』はめちゃくちゃ面白いので、ぜひご紹介したいところである。近日中にまず全貌についての記事を書いて、同書をご紹介したいと思っている。

     

    それでは、気を取り直して、今日も『クリスチャンであるとは』のなかの、聖書についての部分について、ライトさんの記述からご紹介してみたい。

     

    古典学文献の中での聖書テキストの特殊性

    もともと、一介の技術屋にすぎないので、古典学の知識はほとんどない。日本人だが、日本の古典文学は高校生時代の鬼門であったし、西洋古典も大学生になって日本語で拾い読みして、読んだ程度の知識しかないが、ここでライトさんが書いておられることについて少し思いを巡らせてみたい。

    強調すべきことは、新約聖書本文に関する証拠は、どの古代文書の証拠とも全く異なるという点である。ギリシャの有名な著作家であるプラトン、ソポクレス、そしてホメロスの文書でさえも、ほんの一握りの写本が知られているに過ぎない。
    (中略)
    それに引き換え新約聖書に含まれる書のある部分、またはまるまるすべてについては、文字通り何百という初期の写本が残っている。それらを研究することは比較にならないほど聖書本文の信頼性を高める。すなわち、写本にある僅かなことばの違いから、原典がどうだったかを極めることが可能なのだ。(『クリスチャンであるとは』 pp.252-253)

     

    聖書の写本は多いし、古代人(初期キリスト教時代)のキリスト者の手紙の中にも、新約聖書の記述が部分的に引用されているものが大量に残っているという意味で、そこからだけでも、もともとの記述をある程度推測可能であるのが、聖書記述である、ということらしい。要するに、プログラムなんかでも、コードの断片から、その昔のプログラマが書いた元のコードを再現してみることを時にしてほしい、ご依頼などがあり、そうすると、断片的なプリントアウトされたコードから、再現しなければいけないことがある。まぁ、ある程度、何をやっているのかがわかると再現できることは多い。とはいえ、こんな依頼が来た日には、ドキュメントを残してない元開発者を「責任者出てこい」と人生幸路師匠のように叫びながら、召喚したくなることが多い。まぁ、召喚したところで、大体最初のコードを書いた本人もうろ覚えなので、こんな依頼が来た日には、仕様を固めていただいて、一からコードを書き直させてください、とお願いすることにしている。

     

     

    大体、昔のコードをそのまま動かそうなんて、そもそも、非常にめんどくさすぎる。そういえば、昨年末、10年以上前にミーちゃんはーちゃんが作成したコードのプリントアウトを学生が持ってきた。そのプログラムのリストは、同僚が、自己理解で、コメントをむちゃくちゃに書き替えた形跡のあるマクロ言語で書いたプログラムコードであった。そのコードのリストを、ある学生が持ってきて、「書いてある通り打ち込んだけど動かないんです」(昔の雑誌マイコンベーシック時代とかの世界ではないけど)と、苦情をつけてきたので、ロジック説明して、「自分でコード書いたら?」とご忠告申し上げたけど、結局、そのコードをそのまま流用した模様である。「半角、全角気をつけてね、カンマとコメント、そしてコメント行には注意しようね」と知恵をつけたら、それでうまくいったみたいである。

     

    プログラムコードが乗っていた時代のマイコンベーシックマガジン
    (昔は雑誌に書いてあるコードを必死で打ち込んだものだった)
    画像は、http://soratobucan.blog60.fc2.com/blog-date-20090329.htmlから 

     

    結局、そのマクロ言語によるプログラムが動かない原因は、半角スペースを使うべきところに全角スペースを同僚が入れてしまったために動かなかったという、ウソのような本当の話であった。プログラムコードの、半角全角スペースの違いは、言語形態によっては致命傷なのである。

     

    余談に行ったので、本論に戻すと、現代のデジタル時代でも、先にも述べた10年前のプログラムのように、プログラムなどのものは流用されるときに、全角、半角、カンマとピリオドなどのミスによって混乱で動かない状況が生じるのだが、デジタル技術、複製技術が限られる世界で、新約聖書に関しては、幾つかの誤りを含む複製から原本が復元できるということ自体、実際には驚くべきことだと、技術者としては思う。まぁ、それは自然言語の柔軟さ、というようなこともあるのだろうけれども。計算機はもともとが石頭なので、これぐらい許してくれよぉん、と思いながらも、その石頭に付き合っていることも多い。

     

    このあたりの新約聖書の古代写本にまつわることは、伊藤明夫先生の『新約聖書よもやま話』に面白おかしく(でも学問的な根拠をもって)、いろいろ書いてあるので、そちらを参考にしてほしい。

     

    聖書が成立する過程

    最近のことが、あまりに普通に当然と思っていて、古代のことどころか、明治のころのことぐらいでも分からなくなっている例はたくさんある。

     

    たとえば、つい現代人は、明治のころにも今の日本人が食べている白ご飯と同じような白ご飯を食べていると思っているかもしれないし、コメはコメだろうという人もいるが、そうではないのである。多くは、明治後半から昭和時代、ある場合は平成時代に開発されたのが現代のコメの品種なのである。サツマイモだって、品種改良が進んでいるのである。

     

    あるいは、明治のころから現在のような平かな漢字交じり文で日本語が書かれていたと思う人がいるかもしれないが、明治初年のころは、カタカナ漢字交じり文であったのであり、現代の基準は、ちょっと前の時代にすらあてはめられないのである。

     

     

    最近何となく聞かされることの多い教育勅語の最後の部分 (しかし、張り紙で修正してあるあたりが…)

    http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/modean_state/contents/education/photo/saikasho/imgs/i_pop01.jpg より

     

    権威ある文書リストの確定を教会に迫ったのは、今日言われるように、社会的、政治的に受け入れ可能な神学を提示したいからではなかった。確定のための神学論争は、断続的にではあるが、激しい迫害を受けていた間になされた。(同書 p.253)

     

    ここで、重要だなぁ、と思うのは、生存に必死にならなければならないほどの、激しい迫害を受けていた時代に、正典論争がなされ、その中で、新約聖書27巻の書物の確定がなされたという、ライトさんが指摘しておられる事実である。聖書学では当たり前のことであるらしいけど。

     

    その意味で、命からがら状態で、逃げまわりながらも、必死で写本を残そうと努力し、たくさんのコピー(写本)を命からがら、自筆で手書きコピーしまくりんぐ、を当時の人々は、していたのである。今、街の本屋に行けば、聖書は、それも日本語化されたものがすぐに手に入るし、小学校や中学校の校門のところで聖書を配布すれば、その日のクラスのごみ箱が聖書であふれる世界に我々は住んでいる以上、当時のキリスト者たちの必死さは、なかなか理解できないように思う。そもそも論として、文字化される聖書テキストが羊皮紙という当時の超高級品に筆写されていく以上、聖書は、そんなカジュアルな感じで扱うようなものではなかったことだけは確かのようである。

     

    聖書翻訳について

    先にも少し触れたが、今では聖書といえば、翻訳聖書がまずイメージされるようになった。情報へのアクセスという意味では、印刷技術の進展と、その後に生まれた情報技術の進展で、玉石混交状態とはいえ、この社会の中にある情報量とそのエントロピーは爆発的に増加したし、検索エンジンの存在により、情報へのアクセシビリティは飛躍的に向上したのである。

     

     

    その意味では、インテリゲンちゃんにはつらい時代ではある。昔であれば、どの文書のどこに、どんな表現で書いてあるというのは、以前ならば、その本を読みこなし、その本にじっくり取り組んだ人しか知らない情報だったのが、今は適切に近い検索語をGoogle先生のサイトでぶち込めば、Google先生がBotと呼ばれるサイバー空間上をしらみつぶしに調べて回る電子空間上のロボットを駆使して、調べてくれる。その結果、今では「忘れられる権利」という語ができるほど、Bot君は頑張っているのである。

     

    教会史上、東方教会は聖書をギリシャ語で読み、西方教会はラテン語で読んできた。16世紀の宗教改革の偉大なスローガンの一つは、聖書はすべての国民に対し、自国の言語で提供されるべきだ、というものだった。それは今日、すべてのキリスト教世界で一般的に認めらている原則である。この聖書翻訳のうねりは、十六世紀、とくにドイツの宗教改革者マルティン・ルターと、イギリスのウィリアム・ティンデルがもたらした。そして1611年、英語圏で、欽定訳(「キング・ジェームス版」)聖書が採用されたことで、その流れは十七世紀の終わりまでに落ち着いた。(同書 p.254)

     

    翻訳されて、自分の身近な言語で読めるのは、ありがたいといえばありがたいが、ただ、それは聖書理解にバイアスが生じかねない、という側面をも持つのではないだろうか。古代語の意味を現代の別の言語による再現は、厳密な意味では、不可能であろう、と思う。現代の語であっても、単語、名詞ですら、人によって、地域によって、ある具体的な対象を指す語が違うからである。極端な例が、日本では出世魚であろう。なお、聖書には、出世魚は出てこない。

     

     

     

    出世魚の関西および関東での呼び方の違い

    画像は http://www.padi.co.jp/visitors/column/sakana_7.asp から

     

    アラビア語では、これは、鱗のある魚というごで翻訳するのがせいぜいだろうが、逆に、アラビア語では、ラクダを表す言葉には数種類あり、日本では、ラクダは雌雄ともにラクダという語しかなく、オスとかメスとか、おとなしい、といった形容詞をつける事はあっても、オスのラクダとかメスのラクダを、それぞれ一語で表す語などはないのである。

     

    言語の基本となる単語ですら、このような状況ならば、翻訳されたものとは、ある意味で近似でしかない、と言っても過言ではないかもしれない。ただ、近似だからと言って意味がないわけではない、

     

    近似であると思って、自分の理解の助けに翻訳聖書を使うのと、それは翻訳聖書でも額面通り、全く誤りを含まない神の言葉だ、神の言葉そのものだ、と思って翻訳聖書を用いるのとでは、かなり違うように思うのである。

     

    アメリカにいたとき、N.I.V. を使っていた教会で、そこのPastorがふざけて、「N.I.V.は、聖別された聖書翻訳であるから、みなさんも、ぜひこのバージョンの聖書をお使いいただいて・・・」といって、笑いを取っていたことを懐かしく思い出す。

     

    ところで、聖書の言葉と日本語との関係については、岩波書店から出ている鈴木範久先生の名著『聖書の日本語』という名著があり、翻訳聖書が持つ問題などにご関心がある向きには、そちらをご覧になるとよいだろう。一応、日本語の聖書翻訳については、入門レベルとして適切な書籍ではないか、と思う。

     

    あと、聖書翻訳者であるウィリアム・ティンダルに関しては、非常に煩雑で、読みづらいとさえいえるほどの翻訳者註のついた『ウィリアム・ティンデル』という訳書もあるし、福音派的な聖書理解の問題にも少し関係する『捏造された聖書』という誤訳に近い邦題の付けられた書籍もある。ライトさんの著作でいえば、新約聖書をどう読むのか、に関しては、このブログでも、ちょっと前まで紹介していた『新約聖書と神の民』なども、非常に面白い。

     

    ところで、「信仰の書」としての聖書という側面もあるので、すべての聖書について書いた本に書いてあることに、同意はできないし、無理に同意する必要はないとは思うが、このあたり、自分自身の聖書理解を少し引いた立場から、いわゆるメタレベルから、なんとなく見ておくと、それはそれで楽しめると思う。まぁ、そういうことを楽しめない方は、無理してまで楽しむ必要はないので、今のお考えで、よろしいかと思う。より具体的には、「聖書はまったくもって正しい」というご主張をあえて変える必要もないだろう。「正しい」とはどういう意味か、ということもいい加減にしたまま。あるいは、「聖書に何でも答えがある」というようなお考えもまた、それは、それでよろしいのではないか、と思う。ただ、ミーちゃんはーちゃんの生き方とは違うだけではある、ということだけは申し上げておく。

     

    どうせ、何が正しいのかは、人間が集合的に決めたところで(いわゆる”科学的な、間主観的な対話による手法”で議論したところで)、本当のところは絶対にわからないのであって、基本、科学の世界で、妥当である(あるいは正しい)としていることだって、当面の議論を進めるうえでの合意事項として、互いに承認しているにすぎない仮説とか公理とか、定理の域を出ないのだろうと思っている。これらのものは、想定する世界とその前提が変わると、割とあっさり変わるものなのであり、ある前提の世界では安定的であるとはいえ、別の世界では、その”真理”と呼ばれるものが成立しないということは非常に多い。あまりこの種の科学の世界のことがお得意とはいいかねるような文系の方々が思うほど、科学の世界では、安定的で、万代不易なるものではないように思うのである。

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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    2017.03.22 Wednesday

    大阪ハリストス正教会での講演会に参加してきた(異様に長いので閲覧注意)

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      今日は大阪ハリストス正教会で行われた春季セミナーで、ワシリイ 杉村太郎司祭がお話になられた講演会 「救いとしてのテオシス」というご講演の記録と、神戸外国語大学の清水俊行先生の「『聖人伝』を読もう、祈ろう、生きよう」というご講演の速記録から起こしたポイントをまとめたものを書いたいと思う。本日は、結構むちゃくちゃ長めであるので、面倒な方はお読み飛ばしいただきたい。

       

       

      当日会場となった大阪ハリストス正教会のご聖堂


      当日、会場でタイプを打ちながら、採録したメモをもとにしているので、当記事に纏わる誤りや誤解はすべて、要約者のミーちゃんはーちゃんによるものである。

       

       

      テオシスって何?
      まず、ワシリイ杉村司祭のお話からまとめてみる。ギリシア語のテオシスは、

       

      θέωσις,(ギリシア語表記)
      Theosis Deification (英語表記)
      神化(神秘主義) 神成(日本語表記)

      とさまざまに表記されるが、一般に、「神化」という語が独り歩きしているように思われる。更に神秘主義と表記されることで、ややこしい問題が生まれかねない。テオシスがとてつもない修行をした結果、日常生活から遠い存在、無関係なものとして理解されている傾向があるように思われる。その意味で、これらの誤解は、「神化」という語が独り歩きした結果であろうと思われる。

       

      「神成」という表記は、正教会固有の用語であり、これもそのままの文字を見た場合、誤解を招きかねない概念を含みやすく、実際に誤って用いられることもある。


      まずは、聖書及び聖師父から理解を進めていくことが重要で、ある面、聖書全部がテオシスのためのものだとも言える。聖書を読むということが、そもそもテオシスの中に巻き込まれていくということである。

       

      確かに、聖書の中にテオシスという語はないが 聖イリネイが正教会的伝統で、はじめて、テオシスを用いている。

       

      テオシスとは何か
      共通するテオシスの側面についてふれてみると、神の教育的配慮と人間の成長であり、これらが一つのキーワードであるといえよう。


      聖書を通して、正教会の祈祷文を通して出会う神は、抽象的、概念的な神ではなくて、我々が行きている歴史的世界の中に介入してくる神であるといえるだろう。この世界に介入してくる神が、聖書を通して、祈祷文(祈り)を通して示される神だといえよう。

       

      要約者註 

      ここでの、天(神の世界)と地(人間の世界)の関係は、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』で言う、選択肢<三>であり、天(神の世界)と地(人間が活動する世界)が嚙み合っているということなのだと思う。あるいは、その幕が薄くなり、天と地が交わる世界で実現すること、といってもよいと思った。

       

      教育という側面でいえば、祈り(要約者註 祈祷文)と機密(要約者註 教会での礼拝行為 痛悔と赦し、聖餐、祈祷・・・)を通して、神の教育的配慮(要約者註 人間が神との関係を回復するため、本来の神と語り合う存在としての人間の姿を回復するための教育)があり、その一つの手がかりとしての教会の存在とそこでの機密(要約者註 儀式と儀式を通しての生き方の見直し)と聖書があるといえよう。

       

      神に触れ、神のいのちに触れることとテオシス
      テオシスとは、神と出会い、神の生命に触れていくという二番目のテーマに触れていきたい。この中で重要なのは、神の像(ぞう)と神の肖(しょう)である。人は、神の像と肖によって創造されたという理解である。

       

      要約者註 この辺が正教会らしい理解であると思っている。この二つのものをある程度関連付けながら、分けて考えておられるらしい。この辺、聖化では厳密に分けて考えていない場合が多いような印象が、ミーちゃんはーちゃんにあり、この辺がウェスレー派的な聖化と正教会の伝統のテオシスとは違う、という理解につながるのかなぁ、と思った

       

      神の像と肖

      神の像とは何か。まず、像とは、像はそれだけで、それ一つだけでは存在せず(要約者註 というか意味をなさず)、必ず像には、その像が指し示すものがある。像は、何かの像であり、神の像(かたち)に作られたということは、神を表すために創造された、ということであろう。その意味で、人は神との関係の中で作られ、神に関係した存在として作られた。

       

      神の肖に作られた、とういことは、神と似た存在として作られたということであるものの、神のような存在ではない。ここが重要なポイントである。似た存在というよりは、似たものと成るような存在として創造された(要約者註 ここが、テオシスの根拠となるポイントではないだろうか、と思う)


      創世記の初めにあるように、徐々に似たようなものとして成るように被造されている。似たものとなるということは、全知全能なる聖三者(要約者註  三位一体の神)となるのではなく、神の関係性や神の性質を表現するものに成長していく、ということではないだろうか。

       

      人間の教育と人間の成長
      人間に対する教育的配慮は、神の性質に似たものと成るためのものであり、重要なのは、祈祷文と機密ではなく、その教科書としてそれらがあるのではない。そうではなくて、祈祷文と機密が何を教えるのか、祈りや機密を通して、何に与っているのかが重要なのである。教育はある方向性を与えるものであり、神は人間に対して、祈祷と機密によって、教育を与えてくれる。

      要約者註

      この辺、プロテスタントの人は、人を教育するのは、聖書のみなのではないのか、とすぐテモテ書を引用したくなるだろう。しかし、ここでの祈祷は、聖書全体を関係づけた成文祈祷であるし、機密は、神がこの地でなした聖書に描かれている内容の身体性を持って表現・体験可能にしたものであるので、聖書そのものと個人的には、どう違うのか、と思う。かえって、聖書のテキストを意図してないとはいえ誤読して、聖書から離れた主張が聖書の主張であるとして、ご主張される方のご主張が披露されることが時に起こることを考えていくとき、説教中心のプロテスタントに固有に発生しがちな問題もあるのではないか、と思った。いわゆるプロテスタントの説教にあたるものが、祈祷と機密であり、更に聖伝ないし聖人伝だと思う。

       

      見ず知らずの教会に行って、自分とは全く関係ない人物であるものの、その教会やその牧師が信仰を持つうえで重要な働きをしたかもしれない過去の人の貢献を講壇から聞かされることは、20数年前にその場所にいた信者さんや、あるいは、その牧師だけが聖人と認めた人物の聖人伝を語っていることにはなっていないだろうか、と思う。現代に生きていると思われる方の教会での苦労話を長々と拝聴するということをあるプロテスタント派の教会で実体験したことがあるので、今になって思えば、その牧師さんは、近代の教会の聖人伝を、説教として語ったに過ぎなかったのだろうなぁ、と思う。

       

      聖書を通して、祈祷文を通して遭遇する神
      聖書を通して、また、教会の祈祷文を通して、どのような神と出会っているかということであるが、その神は、癒しを与え、回復を与える神である。祈祷文や連祷を通して出会う神は、『生ける神』であり、我々の信じる神は、概念ではなく、生ける神であり、生命(いのち)を与える神なのである。

       

      神成(テオシス)ということは、誰かに超人的能力を与え、超能力者にしたりすることでもないし、ある人にだけ秘密の知識を与えたり、人に栄誉を与えるようなことではなく、神は人間に生命(いのち)を与える神であり、旧約から、新約聖書まで、生きている神が人間に手を差し伸べて、生きている神の証左が人間を通しても描かれているのがこの世界であると思う。このテオシスはある特別な人が起こすのではなく、難行苦行により起きるものでもない。

       

      聖書の中にその言葉が記載され、祈祷文の中で言及されている神は、すべての人に、生命への道を与える神であり、イイスス・ハリストス(要約者註 イエス・キリストのハリストス正教会的表現)を通してこの地に介入した神である。

       

      キリストが伝えようとしたもの
      ハリストスが伝えたものは何だろうか。イイスス(要約者註 イエス)の誕生から、十字架、復活にいたるまで民衆や人々との出会いがあることがわかるが、ハリストス(要約者註 キリスト)が伝えようとしたのは、何だったろうか。それは、「あなた方に新しい掟を授けるといわれた」ということであり、その掟とは、

       

       神を愛すること、隣人を愛すること

       

      であった。その意味でハリストスは、愛を教えたといえるだろう。そのことを受け、正教会では、祈祷文と機密を通して、愛を育てていくようにされている。それが、祈祷文の中に込められているメッセージであり、また、機密を通して高められていく方向性は愛といえるのではないだろうか。祈祷文と機密を介した教育で、愛が必要とされる、ということをしめしている。

      要約者註
      繰り返して言いたいことだが、伝統教派、正教会、カトリック、聖公会では、祈祷文だけであると誤解しているプロテスタントの方が多いが、実はそうではない。これらの伝統教派の教会での礼拝は聖書を中心で運営されているのであり、聖書が読まれており、その解説を兼ねたかたちで、個人の魂や心や精神や思いを神に向けることが、プロテスタントでは説教で行われる代わりに、祈祷文によって行われている印象があるように思う。祈祷文も基本的には、聖書の文言を中心に編まれており、聖書がその中心にあることは記憶しておいた方がよいように思う。

       

      愛によって何が連想されるか。皆さんは恋愛や男女の愛情、親子の愛情などのことを思われるかもしれないが、聖書の神の愛、ハリストスの愛はちょっと違うものであり、本来の愛であり、全てのものを包み込む愛である。

       

      成長や教育という語の中には、人間が応答するという意味、あるいは側面が含まれているのであるが、神成(テオシス)とは、神の呼びかけに対する人間の応答の結果であるといえるだろう。

       

      創世記の中の神の呼びかけ
      「あなたはどこにいるのか」という神の呼びかけは、アダムとエバの時からあり、すでにその時から、神は人間に対して呼びかけておられたのである。その呼びかけに応答するかどうかが、人間が成長していく上での機微をもつものであり、生命の道につながっていくか行かないかの微妙なところになっている。


      人間は、神から与えられた自由意志に基づいて その応答をするかどうかを決めるのである。ちょうど、学校で、教員の指示に対して、どう行動するかは生徒の自由意志によることと類似している。神を愛し、人を愛するという事は、人間の自由意志に委ねられているのであるものの、神の側の人間への愛は、変わらないものである。


      時に、教会に行く力も出ないかもしれない。そういうことはある。相田みつをの「だってにんげんだもの」ではないが、致し方のない部分がある。しかし、神の愛は変わらないので、そのようなことがあっても安心していていいし、我々人間への配慮を持って生きて、神は変わることのない愛をもって存在しておられるのである。その意味で、神は我らを見放さず、常に呼びたもうお方である。

       

       

      相田みつを氏の「にんげんだもの」https://twitter.com/aida_mituwo_

       

       

      神化、神秘主義とθέωσιςは違うことを言っておきたい。神化とか、神秘主義という用語を、正教会の研究者は用いるが、これらの表現は忘れてほしい。神の愛に与っていることそのものをテオシスというのであり、神のこの人間が生きている世界での道行きに参加することがテオシスなのである。

       

      その意味で、

      聖書は、神からの愛のラブレターであり、
      祈祷は、人間側のラブレターのお返しの手紙のようである。

       

      神はここまでするほど愛しているということを人間が覚えたときの反応が、祈祷であり祈りなのである。

       

      聖書の神であるハリストスは、人間の現実の肉体、この体をもって、神の愛に触れることができ、それが私達の目に見える形として、神の愛が明らかにされたものがハリストスである。具体的に神の愛に触れることができる、ということを伝えているのが正教会であり、機密(痛悔や聖餐式など)に与ること、祈祷文を唱えること、これらの身体性を通しての出来事で伝えているのである。手に届くところにあるものや具体的なものを通して、神の愛に触れるということを正教会では重視しており、それがテオシスという言葉である。これが一番伝えたいところである。テオシスということは概念でもなく、リアリティであり、リアリティを以て生ける神の愛に答えていく人間の姿がテオシスそのものであるといえる。

      要約者註

      具体的なものを通して、神の愛に触れるという意味では、正教会を含む伝統教派では、そのような具体性を持つスタイルで神のいのちに触れていくという性質をかなり強く残しており、また、日常生活を生きる中で、神の計画、神の御思いに信徒がみずから関与していくという側面も強く残していることはたしかである。プロテスタントの場合、具体的な形ではなく、言葉を用いる説教で、それを伝えようとしているような印象がある。その意味で、領聖生活と正教会の方が呼ぶものと、このテオシスは、一体のものと考えることができるように思う。

       

      神の世界に与るという意味では、ある面、神秘であるとはいえる。確かに、神の力は地上的なものを遥かに超えており、その意味では神秘であるといえるものの、一種、忘我的なエクスタシーとかいったものとは違う。むしろ、着実に、人間が生きている世界での日常生活を通して、神から与えられていくものがテオシスである。また、教会と教会生活を通して神の愛に参与していくのがテオシスということである。

       

      ところで、小祈祷書などはなんのためのものかといえば、日常生活の中で神への愛、人への愛を忘れないためのものであるといえるだろう。祈祷書はいつでも触れることができるものであり、神の愛にいつでも祈祷書を通して触れることができるためのものが小祈祷書であり、神の愛に答えるためのものである。

       

      神が人となられたということは、2000年前に起こった出来事だけではない。今も、この神が人となられた、ということは変わらない。復活に、今も変わらず、我らに復活の生命に与るべく神が招いておられるのである。パスハ(復活祭)は私達が肌で感いるためにその祭儀を実施するのであり、1回限りのものではない。教会が毎年毎年復活祭をするのは、神の愛が永遠の生命への道が与えられることを心と体を使って覚え、それに応答するためのものである。これが正教会の祈祷(要約者注 おそらく、祈祷及び機密、中でも聖餐式)の世界が示しているものであり、単に2000年前の出来事を記憶しているだけのものではない。神は変わらずに人間を神の世界に招いていることと、それに人間が応答することが今も許されていることを覚えるために、実施しているものなのである。

       

      エヒィエ・アッシェル・エヒィエ
      少しややこしい話をしたい。用語自体は気にしないようにしてほしいのだが、この部分は、「在りて在るもの」と訳されているが、この部分は、正教会的な理解から解釈すると、「在ろうとして、在る者」であり、最初のエヒィエの部分は、未完了形を示しており、完成していない神の愛の姿が、この未完了形の中に集約されているように思われる。とはいえ、この未完了形は、神が不完全なものとは解されるべきではないことは、記憶されるべきことである。


      神は超越的な高みから、この世界を眺めているのではなく、地上に現われ、十字架にかかり、復活の生命を示したお方であり、その意味で、外に出ていくという側面を持っている。

       

      ケノーシスという語があり、自己無化とか脱自的存在と訳されたりするが、神はある面で、脱自存在であり、高みにいて眺めているお方ではない。むしろ、この地上世界に下られ、人となった神であり、そこまでのことをしてご自身の愛を示された神である。その意味で、働きを持たれた神であり、人間のために神が働いておられるような神なのである。働きというのは、人間に対する愛の業を行っておられる、という意味であり、あなた方に働く神であるとこの未完了形の表現を通して、そしてモイセイ(要約者註 モーセ)を通して語りかけているのではないだろうか。

       

      要約者註

      N.T.ライトsあん風に言えば、噛み合っている神であり、人間の世界と神の世界がインターロッキングしているという理解だろう。友人の大頭さんは、その大頭さんががぶり寄りして無理やり友達になったに近い岩渕まことさんに、インターロッキング音頭まで作成させ、歌唱させているが、岩渕さんご本人は大頭さんのがぶり寄りに巻き込まれておられるのだと思う。とは言え、恐らく、善意とその得のゆえに作曲と歌唱をなしておらえるものと拝見しているが、これはどう見てもやりすぎの様な気がしている。

       

      インターロッキング音頭(作曲 岩渕まこと 歌詞 大頭眞一)

       

       

      ここでの未完了形を通して、生ける神であること、我々が、神の命に与っていくこと、そして、神の愛に噛み合っていく、関与していくことを望んでおられることを示しているのではないだろうか。


      神の愛の姿が、エヒィエ・アシェル・エヒィエ の表現のなかにしめされており、すべての人に関与しようとしていることを、神はハリストスを通して示したし、聖神(要約者註 聖霊のこと)を与えることを通して、時代を超えて神の愛を示しておられるといえるだろう。これ以上に神の愛が示されているものはないから、聖書は尊いものである。

       

      多くの人は、捨てられないラブレターを持っているかもしれないが、それ以上のラブレターが聖書なのである。神が人間を愛しており、それは変わらないことが示されている。そのことを具体的な形で伝えているのが、祈祷文と機密であり、その二つが我々が神の愛に最大限応えられるための手がかりであり、すべての人に開かれている手がかりであり、その意味で、神秘主義とは言えないように思う。


      司祭になって一年目であるからいうけれども、一人ひとりが聖人になることができる可能性をお持ちなのであり、聖人になるのは、誰にでも平等に与えられた可能性があるという意味では、すべての人は同じである。

       

      質疑応答
      Q 聖書によって表現が違うことがあり、口語訳、新共同訳、文語訳などがあるし、最近では新翻訳聖書も出版されると聞いているが、これらの諸翻訳に対する正教会の立場は、どのようなものだろうか。


      A 基本的には、正教会の立場とすれば、正教会訳を読んでほしいと勧めたいけれども、聖書にどんなことが書かれているかと知る機会は必要であり、その意味で、自分にあった訳語の聖書。他の訳語を用いた聖書に触れることは否定され得ないと考える。但し、訳語の用いられ方によっては、聖書の主張についての誤解を与えかねないものもあるので、全部鵜呑みにしないほうがいいかもしれない。とはいえ、いきなり正教会翻訳だと、今ひとつわかりにくいかもしれないので、聖書全体として、どんなことが書かれたかをまず知るためにもこれらの別訳を用いることは、妥当であると思う。

       

      Q プロテスタントで言う聖化という語や、 カトリックで言う完徳との違いは何だろうか。

       

      A まず、完徳について言えば、徳という語は、祈祷書などにも使われていることばとして存在し、非常に難しい。正教会が徳という場合には、神の生命に触れる生活のことであり、聖神に触れる生活から生まれるものであり、神の生命に触れたものが示されていくもののことである。その意味で、諸聖人の生活は、正にこれである。その神の生命に触れ、聖神(聖霊)と共に過ごす生活を、皆さんにも示されるかたちで生きた人々が諸聖人である。カトリックが徳の中にどの程度の意味を含めているのかによるが、場合によっては、非常に近い意味を持つものかもしれない。

       

      一方聖化について言えば、イギリス国教会の神学者である、ジョン・ウェスレーが主張したものであり、彼は聖師父や正教会の教えが含まれたものに触れており、その正教会の教えの中には、テオシスも含まれている。しかしながら、一方で、片足をプロテスタントに立脚しているところもあり、その範囲での表現を用いないといけないこともあり、聖化という語を使っている。この両者には、微妙に違うところがあるので、あえて、同じようなものだという必要はないかもしれない。

       

      Q 今もいつも世々に、という正教会の応答があるが、それは、エヒィエ・アシェル・エヒィエ を表すのだろうか。

       

      A 正にそうだと人間が言える応答のことばとして、そうでもある、ともいえるが、しかし、今もいつも世々には、神の側についての人間側の表現であることは忘れてはならない。

       


      要約者感想
      前半部分の、テオシスとか、神のかたち(像と肖)とか、祈祷書の解説、聖人とのかかわりの部分は、正教会的であるが、そこを除けば、福音派での聖書に関する説教聞いている感じがした。しかし、神のかたちとか、祈祷書と祈祷書による神への応答は、正教会や他の伝統教派の根幹をなすものの一つであるようなので、それをプロテスタント教会のように除くわけにはいかないだろう。


      丁度半年くらい前、今、定期的に参加しているアングリカン・コミュニオンの教会に行き始めたころ、説教の中や礼拝の一部として聖人の伝承が用いられたことがあり、個人的には、全く知らない世界だったので非常に印象深かった。(コメディアンの聖人がいるとか、という世界のごく簡単な手ほどきを受けた。なお、名前は失念したがそのコメディアンの聖人は、奇妙奇天烈な格好をして外部から社会の批判をすると同時に、金を稼いでは貧しい人のために用いたという聖人であったらしい)、最近はなくなってしまった。あれはあれで、非常に印象深かったことを覚えている。

       

      最後の聖書は神からのラブレターという表現は、昔教会(キリスト集会)で説教をしていた頃、何度か昔説教でこの路線に乗った説教をしたことがあるので、非常に懐かしかった。そして、神と共に生きるということの中に含まれる、ということや、神に従うものになっていく、という側面なども過去説教を担当していたときには、言及していたのである。元いた教会では、成文祈祷がないため、聖書を読むことと説教がその代わりとしておいてあったんだなぁ、と思う。ただ、質疑応答の中にあったように、翻訳聖書のみを通して聖書を理解しようとする場合、表面的な聖書翻訳の表現にこだわるがあまり、必ずしも、聖書が表象しようとする内容が適切に理解されないこともあり、かなり一方的な解釈も生まれる可能性があることを考えると、一人で聖書を読むということや、一人で祈りの生活に入ることは、ブレーキのない暴走機関車のような状態になる可能性もあるように思う。「聖書のみ」とは、いいつつも、それぞれの教会的伝統に支えられて生きる部分があることと考えた場合、正教会には正教会なりの聖なる伝統があり、プロテスタント教会には、プロテスタント教会なりの伝統があり、それぞれが聖書理解や信仰理解と行動についての行き過ぎを防いできた、ということなのだろうなぁ、という感想を持った。その意味で、プロテスタント教会の一部には正教会とかの伝統教派は正教会の聖なる伝統は否定するけど、自分の教派の伝統には、かなり無批判な気がする。外に出て初めて見えてきたことだけど。

       

       

      つぎは、後半部分である。

       

       

       

      聖人伝を読もう、祈ろう、生きよう

      神戸市外国語大学 清水俊行さんのご講演

      本日は、聖人伝の一つとして、エジプトのマリアの聖人伝を基準に考えてみたい。この聖人伝は、大斎の中でも5週目の木曜日の早課で、司祭が聖人伝を読む習慣がある。


      (ここで、大斎(要約者による注記 おおものいみ、と読む)が始まるときの鐘の音や大鐘が、徹夜祷の始まる前に流れる鐘の音のビデオ上映)


      ユニゾン(単声)で流れている賛美歌が歌われ、ハリセイで知られている讃美歌が歌われる。大斎の5週6週はピークが来る。生神女のアカフィストの土曜日、エジプトのマリアの主日、ラザロの土曜日の礼拝など、様々な要素が盛り込まれている。

       

      エジプトのマリアとゾシマが描かれたイコン

      https://jp.pinterest.com/edaviswatson/st-mary-of-egypt/

       

      木曜日の早課で、聖体礼儀がない日のノボスパスク修道院で行われる儀式で、3時間超の儀式であるが、この中で、聖人伝を前半部分と後半部分に分けて、説教のように、会衆に対面する形で、この聖人伝が読み上げられる。

       

       

      諸聖略伝とは異なっていて、ユリウス暦の4月14日に読み上げられる長いバージョンの聖人伝である。この、エジプトのマリア伝は、大斎と結び付けられて異なる写本がたくさん残っているのである。

       

      砂漠の修道院で修行していたゾシマという司祭によって、このエジプトの聖女マリアの記録がされたことで、実在したことが示される。この聖人伝には、マリアの悔い改めの深さが表れており、極めて特殊な形態となっている。そして、この聖人伝は、正教会のエジプトのマリアへの敬意の大きさを示している。

       

      では、この聖人伝は、何を示しているのだろうか。彼女の敬虔さの大きさを真似ることはほぼ不可能である。なぜならば、我々は罪深いものであり、そのような状態にあるのに、いきなりこの聖伝にあるような祈祷生活だけを持ち込んでも、意味を成さない。


      この聖伝によれば、エジプトのマリアは最初聖堂に入れなかったとされているが、荒野で過ごすという勇気と大胆さをもっていた人物である。

       

      5000人超の聖人

      ところで、現在、ハリストス正教会には、5000人以上の聖人がいて、2000年頃に、聖人数は2000人ほど追加され、それ以前にも2800人ほどいた。その中には、カトリックも正教会も共通する聖人がいる。これらの聖人について、聖人伝が書かれるのである。

       

      中世の時代を生きた人たちは、聖人が実施したとされる不思議なことを疑問視せず、「合理的に説明できないから、信じられない」などといったことを言いたくなることについて、それほどの誘惑はなかったのであり、より素直な生き方ができていた、と言えるだろう。その意味で、聖書にかかれている内容である福音と後代に当たる中世の人々では、その人々の生き方が直結するような生き方をしていた、と言えるだろう。


      痛悔をして許されているはずなのに、エジプトのマリアは、ポティル(聖体を載せている器)にたどり着くことができない。近づくことができない程罪深いものであったということが記述されている。

       

       見えざる力が働く、ということがあるのかもしれない。実際に、このような場面に講演者の方は出あわれたことがあったらしい。なお、エジプトのマリアは、正教的に理解し、彼女の罪のゆえに、聖体に近づくことができない、ということを知っていたということだろう。

       

      エジプトのマリアの聖人伝の位置付け

      このエジプトのマリアの聖人伝は、神は万人に対して、エジプトのマリアのようなどんなに罪深い人にも、悔い改めの道を示されることを示している。この悔い改めにより、神の神秘に近づけることこそが恩寵であることを知っていた。エジプトのマリアの話のポイントは悔い改めなのだが、後に彼女は、導かれて荒野に入っていく。荒野の暮らしの中に入っていくだけの決意や決心をもっていたといえるだろう。

       

      長いエジプトのマリアの聖人伝のバージョンでは、虫と戦ったり、地を転げ回ったりの伝承を含むものも在り、様々なバージョンのものが存在する。このような多様なものが存在するのは、聖者伝文学の中での多様性を示すものである。

       

      祈っているエジプトのマリアの体は、水の上を浮いていたなどのものもあり。罪あるものから義人へと変えられていった事例として、エジプトのマリアを示している。このエジプトのマリアの例は、信仰により、180度転換することができた類まれな例を示している。この聖人伝の中で、主が彼女に呼びかけたということを、我々は無視できないのではないだろうか。

       

      文字通り、エジプトのマリアの生きたような生活をすることはできないだろう。エジプトのマリアは欲との戦いに持ちこたえた人物であり、俗世からの隔絶をすることと肉体の衰弱、消耗を経験したといえるだろう。このようなことのためには、食事の量を減らして、仕事の量を増やすことで、この地の中で自らを聖なるお方へと心を向けていき、みずからを無にしていくこと、自己嫌悪すること。みずからの肉体を弱らせることで、聖なるお方にゆだねようとしたのである。このような信仰の在り方を、俗世に住む人間としてどう考えるのか、ということは、この聖人伝から問われているのかもしれない。


      それを具体的に俗世にいる人間がこのような俗世を離れるような経験を実現するためには、まず手始めに、生活様式を変えることで、俗世を離れることができるであろう(要約者註 正教会、カトリック、聖公会、プロテスタントのキリスト教徒の一部では、大斎の時期、レントの時期に、このような取り組みが行われることがある)

       

       生活を変え、みずからの姿を変えていくことが、アンドレイのカノンの内容として含まれており、俗世におけるみずからの生活習慣を捨て、行為を福音の命ずるように行うことを表している。

       

      聖人伝を日常生活で生かすには、生きるには

      では、実際にどうすればいいのだろうか。自分にあった方法、作法で見出す努力をすることでできるのではないだろうか。朝晩の祈祷もその一つであろうし、早課のカノンを家で唱えることや、エフレムの祈祷を唱えるのはできるのではないだろうか。あるいは、些細な出会いの中で、他者から頼まれた小さなことを、着実にこなしていく中で、そのことをこなすことが、神と共に生きる生活に関与することできるかもしれない。

       

      注意深く見ていると、自分の生活の中に神の御思いを実現するきっかけが転がっていることに気がつくように思う。その意味で、日常の生活の些細なことに注目していく。ちょっとした時間に祈りの時間を持つことや、他者に仕えるしもべとして、なすべきことを自分自身に課していくことなどが、神に仕えていくことになるだろう。

      要約者註

      このあたりの、日常生活を丁寧に生きることは、実にめんどくさいことであるが、キリスト者としての忠実に誠意を持って生きることから考えると、そんなに変なことではないし、さらに言えば、丁寧にこの地上の生を生きることは、最近の霊性の神学で強調されているポイントの一つである。また、N.T.ライトさん風に言えば、神の御業を神から与えられた賜物で実現し、地に神の平和をもたらすことに関与していくこと、ということになるのだろう。

       

      罪の歴史を聖書からたどるアンドレイの大カノン

      大斎の第5週の木曜日には、通してアンドレイのカノンが読まれる。このアンドレイのカノンをよく知ることで、どれだけ人間の罪があるのか、ということを理解することとなるように編成されている。このアンドレイのカノンは、罪という観点から見た旧約から新約に至る歴史の中での罪の歴史のなかで、すべての罪が書かれている。この人間の罪の歴史を思いながら、みずからの罪の悔い改めをするための手がかりであり、これらの歴史的な罪の記述を、単なる歴史的事実として回顧するのではなく、それらの事例に、みずからの罪ある状況に重ねて、悔い改めをするための手がかりとしているのであり、そして人間の歴史を振り返りながら、罪を悔い改め、神の世界への復帰を祈る、という構造になっている。みずからの魂の遍歴が大きなスケールの中で繰り返されていくことになる。

       

      その意味で、このアンドレイのカノンは、キリスト者全体に対してあらゆる罪を思い出させ、我々を悔い改めに誘う。カノンそのものは、我々を罪を定めるものとして、あるいは、罪を裁きの対象として示すのではなく、われわれの悔い改めによって転換していくような内容で、カノンの構造が構成されている。

       

      このアンドレイのカノンは、神が創造された世界での物語を逆に罪の側から描くものであり、良き福音の教えとは正反対に、人間が犯した罪からのよみがえり(回復)があることを描いたカノンになっている。その意味で、悔い改めによって、神と結びついていく世界を描いているものであるといえるだろう。

       

      このアンドレイの大カノンは、規模が大きく、聖書の物語を、人間の罪の歴史として読み直していて、別の物語として書き上げている。とは言え、この中で取り上げられている聖書の記述内容や個人名の中には、必ずしも有名なものばかりではないものが含まれる。

       

      ある面で、このアンドレイの大カノンを見ると、ある種の罪の百科全書と言う感じがするし、人間の罪の問題への嘆き、人間の弱さを描いている。当たり前のことだが、生まれてすぐの頃から成人になった人はいないように、聖人も生まれつきではない。罪のどん底から、神のかたちを取り戻した人、あるいは、蘇った人が聖人である。その意味では、聖人伝とは、人間の罪からの更正の物語であり、そして、罪からの更正は誰にでも起こりうるものであることを示している。

       

      福音書と関係づけられる聖人伝

      現在、ハリストス正教会では、5000人以上の聖者がおり、その聖者に関しては、まず聖人伝が作られ、その聖人伝からカノンが作られることになる。そして、福音経(福音書、とその記述)と結び付けられて、この聖者伝が語られる。聖者伝の教訓が、福音経(福音書)の中でどう位置づけられるか、という観点から考えられる。

       

      マルコの福音書の10章のエルサレムに登るときの説教で、エルサレムの宮登りで、弟子たちがイエルサレムに登って、イエスが世俗の国家の王となったときに、自分たちを左右の代表者に位置づけられることを願っているが、それはとんでもない勘違いであった。イエスが主張した神の国とは、霊的な国家であり、罪を隷属させることで、神の国を救済するというものであった。その意味で、神の支配とは、神の国とは、罪を隷属化させ、罪を取り除けということであり、罪から離れる自由を求めよということであった。その意味で、神の国のことを弟子たちもよくわかってない状態であると言えよう。我々が求めるべきものは、天の王国である。

       

      信仰や悔い改めが、行動に現れなければ意味がないのではないだろうか。心からの悔い改めがなければいけないし、罪から離れたかどうか、罪から癒やされるかどうかを確認する必要がある。その意味で、そのことは、神の意にかなった生活をする、つまり、ハリストスに倣って自己犠牲を通過していく事が重要だと考える。そのためには、まず、自分の罪を認める事が重要であり、人間の力によって完成の域に達する、というようには、なかなか実際には、起きないのである。

       

      聖人伝と聖書の人物の伝承の混乱

      エジプトのマリアとの関わりはルカ福音書7章36−50であるとされ、それは、涙でイイススの足を洗い髪の毛で香油を拭ったマリア(罪女)である。この罪深い女性であるとされた女性は、当時ありえないこととされていた、男性たちが食事をしている状態の中に無理やり入ってきた女性であり、当時の社会の中では許されない女性の行動であった。個々の話では、魂の食事と肉体のための食事が対比関係をなしている。 ここで、罪女が誰であるのか問題は、議論の余地がある。香油を持った女性たち(携香女)があり、マグダリーナは、7つの悪鬼を追い出された女とされている。

       

      そのマグダリーナについての西方の聖人伝の中に、このマグダラのマリアが荒野に行って修行することを記載するものがあるが、それは、エジプトのマリアの聖人伝からの流入があるのではないか、と思われるものがある。正教会の聖伝では、マグダリーナはローマで布教していて、ポンテオ・ピラトにあって話をしたことになっていて、このピラトとの話の中で、イエスは立派な人 であるとピラトが主張していた、と記録されている。そして、そのピラトとの対話の話を皇帝に伝えるときに、その皇帝のところに白い卵をもっていったのだが、ローマ皇帝が、そんな発言は、ここに持ってきたその白い卵が赤くならなければ信じないと、いったのに、その皇帝のところにもっていった卵が赤くなった、という伝承がある。現在でも、イースターの卵を赤く塗る伝統はここから来ていると考えられる。

       

      赤く染色されたイースターエッグ https://psalterstudies.wordpress.com/2009/04/07/red-easter-eggs/ から


      祈り(祈祷文)と聖体礼儀が、東方での祈りの構造を成していて、これらの祈りも福音の教えと関連付けられている。 そして、エジプトのマリアのように、遜りを獲得すること、罪の思いを冷静に見ることの大切さを伝えていくのが、聖人伝の一つの役割ではないか、と思われる。

       

      アンドレイのカノン

       

      このあと、アンドレイのカノンの一部が上映された。(当日上映されたのは、上の動画ではなかった)

       

       

      質疑応答
      その後の質問タイムでは、次のような質疑応答がなされた

      Q 教会スラブ語と現在のロシア語の違いはどのようなものですか。

       

      A 教会スラブ語は、スラブ人に伝えるための人造言語であり、もともと好戦的なスラブ人をキリスト教で強化することを目的として作られた人造言語であり、西スラブ、東スラブ、南スラブのスラブ語の中間的なもの。ギリシア語由来の言語もたくさんはいっていて、共通のキーワードが入っているものとして作られている。8割位は現在のロシア人が理解できるだろう。教会内では、各種のテキストは、教会スラブ語で読まれている。テキストとして提示すれば、現代のロシア人の半分くらいは理解できる。ちょうど、現代の日本で、ニコライ翻訳を初めて読む人が、その表現が日本語として分かりにくい、という程度の感覚だろう。

      要約者註

      この教会スラブ語に関しては、有賀力先生の『ヨーロッパとは』が現在の西洋に偏ったヨーロッパ理解やヨーロッパ意識とキリスト教理解を見直す上でも、非常に参考になるので、ご関心の向きには一度お読みになることをおすすめする。

       

      Q 現代のロシアでは、何パーセントくらいが正教徒なのだろうか。
      A ソ連崩壊後の現在では、7割位は正教徒か正教にシンパシーを持つ人々であるようである。現在は、国教というよりは、 憲法として信仰の自由が認められたことで、他の宗教と同等の位置をしめている。とは言え、ロシア文学やロシア文化の基礎としての正教があり、国教としての意味がなくなってはいるが、正教会の伝統が重要であることには変わりがない。なお、経済的な制度などでの管轄上の問題があり、ロシアは土地の私有という概念がなく、土地は国家のものであり、教会の土地に関しても国有地であるので、いくつか管轄上の問題が現れることもある。現在では、政治的指導者のプーチンも好意的で、時々、教会での礼拝に参加していることが報道される。その意味で、表立った争いはないものと考えられるであろう。


      Q 聖大ワシリイが示すように、一人ぼっちで修道するよりも、多数の方が謙遜を学べるのではないだろうか。そのあたりはどうお考えだろうか。

      A 共同体的な院修的な伝統もあり、このあたり、砂漠の師父、師母のような一人で何でもしなければならない伝統とバランスさせる、あるいは、かね合わせる必要があるだろうし、そもそも、修道院長などからのよほどの信頼がなければ本来、砂漠の中の単独の修行はさせられないものである。その意味で、経験のある人の判断を仰がないといけないし、そうであっても、修行に出ていった人で、砂漠で死んだ人はものすごくたくさんいる。改宗者イオアンは、外に出ていくことを制限的にとらえており、外に出ていくためには、ある種の徳の高さと精神力の強さが必要であるとしている。

       

      個人的な感想
      個人的には、全く聖人伝というものを知らずに、今日まで聖人伝を読んだことはないまま過ごしてきたが、今回参加して、ある面で、先輩たちが何をやって来たかを知ること、そして、聖人伝は自分自身の罪深さを考えるためのものであり、旧約聖書をプロテスタントは立派な偉人伝の光の部分だけを中心に見、その影の部分や負の部分をあまり見ない傾向があり、あるいは負の部分をあまり強調しない伝統の中で育ってきたのだが、今回のこの講演会に参加して、聖書などの登場人物が持つ、その負の部分をふくめて、神と人間の関わりを理解していく伝統を正教会はもっているのだ、ということを知ることができたことは、非常に意義深いことであった。


      それと、この世界の中で、神に仕えるために、自分自身をきちんと見つめていくことを学ぶという意味で、大斎は非常に重要であることを覚えた。さらに、現代のプロテスタント側の霊性を重視するグループで、日常生活をゆっくり、じっくり、細かなところにも目配りしながら、丁寧に生きることを問いているところともつながっている部分があり、このあたり、正教会からの伝統を受けていると思われる。このあたりのことを指して、マクグラスが、正教会と現在のプロテスタントの福音派との対話が可能なのではないか、ということを主張しているのかもしれないなぁ、と思った。

       

      また、アンドレイのカノンの話を聞きながら、大きな旧約聖書や新約聖書の中の物語の中に入っていく、という世界理解というか、聖書理解の体系は、物語神学と呼ばれるグループの聖書理解のアプローチや、ライトの聖書理解と近いし、ライトの聖書理解に触れた人たちの一部が、正教会の伝統とその世界に惹かれていくのは、ある面当然ではないかなぁ、とは思った。

       

      結局、宗教改革の精神で初代教会の理解に戻ろうと思えば、どうしても、現状の教会だけではなく、コプト正教や正教会の伝統も参考にせざるをえず、もともと、宗教改革が、原点回帰という方向性を持つ以上、そのことを考えるためには、正教会的な伝統を参考にすることも必要になるので、それはある面、理の当然という側面もあるだろう。

       

      聖人伝の教育性というのは意外と重要で、ちょうど日曜学校の教材で、プロテスタント教会の信仰の偉人たちを取り上げるのと、聖人伝は、ある意味、あまり変わらないし、それらが聖書の文言と結び付けられている以上、一種の現代の聖人伝となっている部分があるかもしれない。

       

      ただ、少し気になるのは、プロテスタントでは明白に聖人伝だとは言わないものの、印刷されている本の中に、近世のある種の聖人伝のような出版物「聖書を読んだサムライたち もうひとつの幕末維新史」のような本もないわけではない。あるいは、ユダヤ人にビザを発給し続けた杉浦千畝氏に対して、いわゆるプロテスタント派の教会で言及される際には、キリスト者であることは強調されるものの、反面、ハリストス正教会の信徒であるお姿と、その信仰の姿を正当に示しているか、というと、そういうことは適切に触れられないままのことが多いようなきもする。あるいは、大竹しのぶさんのお母様の聖人伝もどきのようなものが説教の導入部とはいえ、勝手に語られるとか、こんなことは、実に残念なことだなぁ、と個人的には思っている。

       

      このような実在の人物が、何かテレビで取り上げられたとき、十分な調査を集合的にして、充分な集合的検討を経ることもなく、個別の教会で現代の聖人伝が時々、教会内で人びととの人間的なつながりを持つためという正当化のもとで、作り出されているとしたら、どうなんだろうと思ってしまう。確かに、正教会が維持してこられた聖人伝の中には、現代人に理解不可能な荒唐無稽と思えるような表現があることも確かであるが、その古代の聖人伝を保有し、大事にすることを批判的にどうのこうのと言及してみたりすることはどうかなぁ、と思う。

       

      また、一部のプロテスタントがきちんとしたことも調べもせずにテレビで見た程度のことや、ネット情報をもとに、教会で語ることをどう考えるのだろうか、とも思う。そして、そのような教会で、正教会的な聖人理解や、聖人伝に関しても、批判的な言説が述べられたことを、あるプロテスタント系の教会で聞いたことはある。

       

      また、間もなく来るイースターで、卵を赤く塗る根拠も調べもせずにプロテスタント派で採用したりすることって、どうなんだろうと思う。

       

      以上で終わりである。この記事、単発。

       

       

       

       

       

       

       

       

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      コメント:別連載でおすすめしております。

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      コメント:最近第4版が出たらしい。

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      コメント:もうすぐ、改訂増補版がペーパーバック版で上下に巻で出る模様である。

      2017.03.20 Monday

      N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その45

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        今日も、いつものようにたらたらと、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読んで考えてみたことをお話してみたい。今日は、旧約聖書についての部分からである。

         

        旧約聖書の超入門

        旧約聖書は、キリスト教徒にとっても、お世辞にも読みやすいとはいえないものであり、人類の最初の殺人事件がこれまた、記録されていたり、レイプ事件はあるは、バラバラ遺体送付事件はあるは、ダビデ王のゲス不倫事件はあるは、大虐殺かと思えるような記述はあるは、実に読みにくい、その真意がなんであるかを図り難い書物でもある。新約聖書もそんなところがあり、ナザレのイエス殺害を画策する当時の宗教者の政治的陰謀の姿が記録されてあるは、乳児殺害し、国民に刃を向ける王の話もあったりするのである。

         

        その旧約聖書について、ライトさんは次のように書いている。

         

        ユダヤ人が聖書(バイブル)と呼び、クリスチャンが旧約聖書(オールド・テスタメント)と呼んでいる書物は、三つの部分に分類されている。最初の五つの書(『創世記』、『出エジプト記』、『レビ記』、『民数記』、『申命記』)は特別で、基礎となるものとしてずっと扱われてきたもので、トーラー(「律法」)として知られている。つぎのまとまりは「預言書」として分類されるが、普通は歴史書とみなされるもの(『第1、第2サムエル記』『第1,第2列王記』等)と同時に、大預言書(『イザヤ書』『エレミヤ書』『エゼキエル書』としょう預言書と呼ばれるもの『ホセア書』他)が含まれる。3番目の部分は、『詩篇』から始まる「諸書」として知られている。 (『クリスチャンであるとは』p.249)

         

        じつは、この旧約聖書は、現代の聖書がもっている書物の順序と、ヘブライ語聖書の順序は、実は違っている。この辺は、鎌野直人先輩が、タナッハ(TaNaKh)と命名しておられるサイトのウェブページ 旧約聖書三十九書の順序とその意味 で、このあたりのことを概観しておられる。参考になるのでご覧になることをおすすめする。

         

        今、聖書といえば、基本的に現代の本のように背綴じがしてあって見開きになるようなもののことを言う(これをコデックス版というらしい)が、ユダヤ社会の中では、儀式に用いるのは、巻物になったものらしい。その巻物になったトーラーが開かれるところに意味があるらしい。

         

        そういえば、アメリカに滞在していたとき、改革派ユダヤ教のシナゴーグでのヨム・キップルのお祭りに参加させてもらったのだが、そのときにも、小学校の教室二つ分をぶち抜きにしたくらいのホールの正面に、でっかい巻物がおいてあったことを思い出す。そこに、ユダヤ人達が大人で70人ほど集まっていた事を思い出す。

         

        スクロール版聖書(リトアニア・スクロール)http://scrolls4all.org/scrolls/ から

         

        トーラーを愛するラビ http://scrolls4all.org/scrolls/ から

         

        以下のお話のネタは、ヘブライ思想家の手島イザヤ先輩からの受け売りであるので、ミーちゃんはーちゃんの独自研究の成果ではないことをお断りしておく。

         

         まず、上のスクロール(巻物状)の聖書を見ていほしい。ここで、3つのコラムが表示されている。この開け方が、本来ヘブライのラビが会堂で聖書を読むときの正しい開け方だそうである。なぜ、三なのかは聞かないでほしい。そういうことだから、としか言えない。4カラム分見せているとか1カラム分しか見せてないトーラーの写真とか、絵画とかいうのは、多分よく考証がされていない、ということを示しているのかもしれない。

         

         そして、上のスクロールの文字を見てほしい。空白部分が適当に配置されている状態になっている。文字と文字の間が空いているのがわかると思う。これが重要なのだそうである。なぜ、重要なのかわよくわからないが、古い写本は、みんなこんなふうに空白が空いていて、勝手に文字を詰めていないのだそうである。そこに意味があるそうなのである。

         

         

        コデックス版聖書(アレッポ・コデックス)の一部

        http://www.biblicalarchaeology.org/daily/biblical-topics/hebrew-bible/the-aleppo-codex/ より
         

         

        ロボット筆者生によるトーラーの複製(これなら、羊皮紙をナイフで切ったりという手間は省けるよね)

        http://www.tabletmag.com/scroll/178935/torah-writing-robot-speeds-past-human-scribes より
        このロボットも空白を空けて文字を書いて(筆写とはいえないが…)いる。

         

         

        キャノンとしての聖書

        ここで、ライトさんは、聖書が正典(キャノン)であるとして、ある種の基準となってきた、聖なる書物としての基準であるということについて、触れておられる。

         

         

        トーラー、預言書、そして諸書のすべてで39巻になる。律法と預言者は諸書より早い時期にまとめられたようだ。どちらにしても、この三つの部分は、ユダヤの民の聖なる書物として正式に認められてきた。その正式に認められたものを、ギリシャ語で「キャノン(正典)」という。「規則」また「物差し」を意味することばだ。(p.249)

         

        現代の日本人だけではなく現代人にとって、Canonといえば、光学機器メーカーや事務機器メーカーのキャノンさんのイメージしかないだろう。

         

        CanonのEOS KissのCM

         

        ただし、光学機器メーカーのキャノンさんは、もともとKanon(観音)からであり、聖書の正典とかとは全く無縁のところから来ているらしい。どうでもいいことだけど。

         

        観音立像(興福寺 千手観音)http://deep.wakuwaku-nara.com/kokuhoukan/

         

        ついでなので、キャノンというと、カノン砲とか(加農砲)や、ガンダム世代のミーちゃんはーちゃんにとっては、カイ・シデン(紫電改から来ているらしい)くんが登場したガンキャノンである。

         

        ガンキャノン http://www.gundam.jp/tv/world/mecha/ef01.html から

         

        紫電改 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E9%9B%BB%E6%94%B9 から

         

        なんか、アニメとか、飛行機とか、ヲタク感満載になってきたので、このへんで。

         

        要するに、正典であるということは、ある面、その正典が、その正典からの複製品の基準を定めるという意味であって、勝手に適当にコピーし文字なんかを直して良い、ということにはならないことを意味するのである。たとえば、イエス様の山上の説教でのご発言の中でも、この正典性は認められている。

         

        【口語訳聖書 マタイによる福音書】

         5:17 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
         5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

         

        ここで出てきている律法や預言者という言葉があるが、これは旧約聖書あるいは、ヘブライ語聖書のトーラー(律法)と預言者の書であるネビーム(預言者)のことであるし、それは、条件付き(天地が滅び行くまで、という条件だが、それはありえないこと、永遠の未来を差すと思うのだが)ですたることはなく、全うされるのだ、という理解なのだろう。この天地が滅びるとか言うと、すぐ、「ほら、イエス様も天地が滅びると言っているではないか」と鬼の首をとったかのように言う終末論が大好きな方がおられるが、神の言葉が滅びるようだったら、イエスも滅びてしまうことになるではないか、と思うのである。

         

        外典って何?外典をどう考えるか問題
        もう30年以上前のことであるが、その頃通っていた教会で、「カトリックの聖書には、我々の聖書にない部分(ここで言う外典のこと)がついていて、実に聖書に加筆するようなことをしていてけしからん」とある説教者の方が語っておられたことを懐かしく思い出す。そのお話を伺って2年位して、大学の図書館に行ったら、教文館の外典偽典のシリーズが、ど〜〜んと並んでいて、おおお、と思って技術系の学生なのに、読み漁った記憶がある。今は、そこに何が書いてあったかの記憶も大分薄れているが。

         

        教文館の聖書外典偽典 シリーズ

         

        新改訳聖書にはこの外典部分が含まれていない。しかし、この部分は、ここでライトさんが書いておられるように、イエスが生まれる前の時代をしる上では、非常に重要なのだ。第二神殿期というらしい。そのあたりのことは、最下部で紹介する『中間時代のユダヤ世界』という本が比較的詳しい。

         

        このあたりのことに関しては、いのちのことば社のサイトでの、「中間時代を学ぼう! 新約聖書時代のユダヤ教世界」という伊東明夫先生の記事で、わかりやすくかつ簡潔に書かれている。なお、伊藤明夫さんの「新約聖書よもやま話」は以前個のブログでも紹介したが、名著である。おすすめしている。

         

         この外典について、N.T.ライトさんは次のように書いている。

         

        イエスの時代より200年かそれ以上前に、すべての旧約聖書が、おそらくエジプトにおいてギリシャ語に翻訳された。ギリシャ語を話すユダヤ人が増えてきたためである。彼らの作り出したギリシャ語の聖書は、異なった版があるが、初期のクリスチャンが使っていた。七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)として知られている。ラテン語の七十から来ているが、七十人の翻訳者が関わったという伝承に基づいている。
        この時期は歴史的に「外典(アポクリファ(隠されたもの)というのが原意)」が初めて出てきた時代でもある。その位置づけや有効性について、複雑な議論が初代教会で長く続いた。その議論は、十六世紀、十七世紀に再燃した。議論の結果、ある聖書はその外転を取り入れ、あるものは取り入れないことになった。取り入れた聖書は一般的に、旧約聖書と新約聖書との間に関連書(時には、他の幾つかの書も加えるが)としておいている。ただし、いわゆるエルサレム聖書と正式なローマ・カトリック版聖書は、外典をそのまま旧約の一部として扱っている。
        残念なことに、多くの人は外典を実際に読んだことがないばかりか、これらの書に議論があったことを殆ど知らない。ただし、少なくともこれらの書が(その当時書かれた死海写本やヨセフス著『ユダヤ古代誌』のように)、イエス時代のユダヤ人の思想や生活について多くのことを語っているのは確かだ。(同書 pp.250-251)

         

        この七十人訳聖書の中で最後まで、キャノンの中に含めるかどうかで揉めたのが、「エステル記」と「雅歌」だったという話を池田裕先生の授業で、授業中にお伺いしたことがある。たしかに、神という語が出てこないものを正典に残すかどうか、というのは、正典がその後の多くの人々に影響を与えると、確かに躊躇せざるを得ない。聖書は、39巻が一括で、どんと、人間に与えられたわけではなく、キャノンとしてどれを含めるか含めないか、ということが議論はされたのである。その議論の結果を我々は、キャノンとして受け入れている、ということはもう少し認識されてもいいかもしれない。だからといって、聖書無謬論や聖書無誤論が否定されるとはまったくもって、思ってもいない。この辺、もうちょっと、ゆったりとした物の見方ができたらいいのに、とは思うことはあるけれども。

         

        旧約聖書を用い会堂で語ったパウロ

        それと、新約聖書の関連で案外忘れがちなのだが、パウロは無計画に路傍伝道していたわけではない。基本的には、教会で伝導していたわけではない。地中海世界の、様々な都市の外側にあるユダヤ会堂として使われている場所や、ギリシア世界内の城壁内に入ることができなかったユダヤ会堂(シナゴーグ)で語り、基礎がある人々の中で、イエスが、あなた方が読んでいる聖書(旧約聖書)が語っているメシア、救い主がやってきたのだ、と説明したのである。

         

        【口語訳聖書 使徒行伝】
         13:13 パウロとその一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から身を引いて、エルサレムに帰ってしまった。
         13:14 しかしふたりは、ペルガからさらに進んで、ピシデヤのアンテオケに行き、安息日に会堂にはいって席に着いた。
         13:15 律法と預言書の朗読があったのち、会堂司たちが彼らのところに人をつかわして、「兄弟たちよ、もしあなたがたのうち、どなたか、この人々に何か奨励の言葉がありましたら、どうぞお話し下さい」と言わせた。
         13:16 そこでパウロが立ちあがり、手を振りながら言った。「イスラエルの人たち、ならびに神を敬うかたがたよ、お聞き下さい。
         13:17 この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び、エジプトの地に滞在中、この民を大いなるものとし、み腕を高くさし上げて、彼らをその地から導き出された。
        (中略)
         13:39 信じる者はもれなく、イエスによって義とされるのである。
         13:40 だから預言者たちの書にかいてある次のようなことが、あなたがたの身に起らないように気をつけなさい。
         13:41 『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。それは、人がどんなに説明して聞かせても、
        あなたがたのとうてい信じないような事なのである』」。
         13:42 ふたりが会堂を出る時、人々は次の安息日にも、これと同じ話をしてくれるようにと、しきりに願った。
         13:43 そして集会が終ってからも、大ぜいのユダヤ人や信心深い改宗者たちが、パウロとバルナバとについてきたので、ふたりは、彼らが引きつづき神のめぐみにとどまっているようにと、説きすすめた。

         

        この預言者たちの書、とは、ライトさんがいう、預言者(ネビーム)のことである。その意味で、彼は、律法学者として、預言者の聖典性を認めた上で、イエスのことについて旧約聖書から解説している。このような解説をしたら、当時の主要メディアである口コミに載って、会堂に人が殺到したことに関して、次のようなことが起きたと、使徒行伝は我々に伝えている。

         

        【口語訳聖書 使徒行伝】
        13:44 次の安息日には、ほとんど全市をあげて、神の言を聞きに集まってきた。
         13:45 するとユダヤ人たちは、その群衆を見てねたましく思い、パウロの語ることに口ぎたなく反対した。
         13:46 パウロとバルナバとは大胆に語った、「神の言は、まず、あなたがたに語り伝えられなければならなかった。しかし、あなたがたはそれを退け、自分自身を永遠の命にふさわしからぬ者にしてしまったから、さあ、わたしたちはこれから方向をかえて、異邦人たちの方に行くのだ。
         13:47 主はわたしたちに、こう命じておられる、
        『わたしは、あなたを立てて異邦人の光とした。あなたが地の果までも救をもたらすためである』」。
         13:48 異邦人たちはこれを聞いてよろこび、主の御言をほめたたえてやまなかった。そして、永遠の命にあずかるように定められていた者は、みな信じた。
         13:49 こうして、主の御言はこの地方全体にひろまって行った。
         13:50 ところが、ユダヤ人たちは、信心深い貴婦人たちや町の有力者たちを煽動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出させた。

         

        さらに、このような記事もある。

         

        【口語訳聖書 使徒行伝】

         19:8 それから、パウロは会堂にはいって、三か月のあいだ、大胆に神の国について論じ、また勧めをした。

         

        我々はヘブライ聖書や旧約聖書と聞くと、すぐさま、ヘブライ語聖書を思いがちだが、当時の地中海世界では、旧約聖書と言っても、ヘブライ語聖書ではなく、ギリシア語訳されたヘブライ語聖書が一般に用いられていたようであるし、アラム語ヘブライ語が主要言語であると思われがちのイェルサレムにおいても、ギリシア語聖書はかなり普及していたようである。それは、以下の部分にも見て取れるとおりである。

         

        【口語訳聖書 使徒行伝】
         6:1 そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。

         

        そのあたりのことを考えると、聖書がギリシア語に翻訳されていたというのは、旧約聖書、ヘブライ語と聞くと、すぐにヘブライ語聖書のみを連想しがちな我々にとっては、記憶しておくべきことかもしれない、と思う。

         

        そういう意味で言うと、外典とか、ヨセフスのユダヤ古代誌 ユダヤ戦記というのは、聖書そのものではないものの、その次代を考える祭の手がかりとなる案外大事な聖書外資料なのだと思う。とは言え、これらがあっても、その時代を実際に忠実に、性格に再現できるかどうか、というのは別問題であるけれども。

         

         

        次の記事では、大阪ハリストス正教会での講演の速記録をご紹介する予定。その後、この連載に戻る予定。

         

        次回へと続く。

         

         

         

         

         

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        コメント:おすすめしております。

        評価:
        J.ジュリアス スコット
        いのちのことば社
        ---
        (2007-12)
        コメント:この本、良かったんだけど・・・

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        コメント:薄いけどいい本。おすすめしています。

        2017.03.18 Saturday

        N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その44

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          今日も今日とて、いつものように。N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読みながら、たらたらと考えたことを書いてみたい。前回で”祈り”についての章のご紹介と底で思ったことが終わり、今回からは、第13章 神の霊感による書、と題された章を読みながら、聖書についての章について、書いていきたい。

           

          聖書はどんな書であるか
          聖書については、いろいろ言われる。世界最大のベストセラーだとか、聖書にすべて解決があるとか、聖書は理解不能だとか、聖書を読みこなすのが困難だとか。聖書は矛盾に満ちた書物だとか、いやいや、聖書には矛盾がない書物とか、色々言われることがある。とはいえ、教科書や参考書みたいに、わかりやすく書いてくれてはいない本ではあるので、一筋縄で扱いにくい書物であることも確かである。

           

          その聖書について、ライトさんは次のように書いている。

           

          聖書を手にするとき、自分にこう言い聞かせる必要がある。今私は、世界で最も有名な書物を手にしているだけではなく、人生を変え、社会を変え、世界を変えうる偉大な力を持つ書物を手にしているのだと。実際、今もそれは変わらない。
          (中略)
          聖書は、クリスチャンの信仰と生活にとって決定的で不可欠な要素である。聖書なしには何もできない。ただし、あまりに多くのクリスチャンが、聖書にどのように取り組んだらよいかを忘れてしまっているのだ。(『クリスチャンであるとは』pp.245−246)

           

          聖書には、人に影響を与え、人の人生に影響を与え社会を変え、この社会と世界で生きている人が変わることで世界に影響を与える力が書物であることは確かであると思う。

           

          とは言え、聖書は魔法の杖でもなければ、聖書はストレプトマイシンのような特効薬のようなものではない。聖書は、じわじわと効いていく漢方薬のようなものである。

           

          (硫酸)ストレプトマイシン https://www.qlife.jp/meds/rx40570.html から

           

          現代の社会と世界のなかで、人間と人間の関係は分断されており、普通の人の影響はほとんどないように思える。政治家や有名人の方が、社会に対する影響力があると思えるほどであるし、マス・メディアも面倒なので、こういう一部の目立つ人の動きを伝えるのが、マス・メディアの役目だと思っているのではないか、と思うほどである。それに踊らされている一般の人々も、さらに、テレビ、ラジオ、新聞といったマス・メディアで見たことを再言及することで、あたかもその世界にかかわっているかのような誤解をしているのが現代社会だと思う。

           

          それは、資本主義社会の中では、メディアであっても、組織が発行主体になる以上、お金をもらって経営できてナンボということになる。ミーちゃんはーちゃんは、そういうマス・メディアに乗らないもので、本を書いて印刷するほどでもないものを、このブログで壁新聞的にお出ししているだけであり、趣味として、このブログを書いているに過ぎない。そのような意味で、このブログには世界を変える力なぞ、なにもない。

           

          しかし、ミーちゃんはーちゃんは、聖書は神のことばであり、聖書には世界を変える力があると思っている。アパルトヘイトがやんだのも、聖書があったからである。聖書の誤読からとはいえ、KKKが過激な行動したのも、ナチスドイツが生まれたのも、聖書の誤読からとはいえ、聖書がその出発点では影響を与えている、という部分があるようにも思う。

           

          KKKの皆さん http://www.afpbb.com/articles/-/2538525 から

           

           

           

          聖書のないキリスト者なんて
          聖書は、キリスト者生活において必要不可欠なものである。それは聖書を読んでいるかどうか、ということではない。以前にもこのブログで紹介したが、お金持ちの一般人に聖書が物理的に読めるようになったのが、せいぜい印刷技術が始まって以降、この500年であり、普通の人が聖書の意味を解しているかどうかは別として、音読できる技術を持ったのが、この150年程度である。この世界の90%の人が、聖書を開いて読めるようになるために学校教育が必要だった。
           

           

          とはいえ、西洋の多くの人々が読めないにせよ、聖書に触れる機会はあった。それは、毎日行われていた教会の行事であり、教会堂そのものが聖書と聖書が指し示そうとする対象を示していたのである。現在は、聖書を万人が一応技術的にはその文字を追う形で、読めることになってしまったために、聖書は読まねばならないものになってしまった。それがよかったのか、悪かったのかは、何とも言えないように思う。

           

          聖書が読めるようになったから、よかったではないか、というのはもちろん物事のある面を示しているとはおもうが、むちゃくちゃな聖書解釈で、トラの威を借りるキツネではないが、聖書の権威を借りる悪人よろしく、人を不幸に巻き込む人々を増やしたという意味では、どっちがよかったのかわからない。まぁ、こういう人は聖書を読まなくても、別の権威を借りてきて、ろくでもないことをしていたに違いないから、あんまり変わらないのかもしれない。

           

          虎の威を借る狐のイラスト

          http://seiga.nicovideo.jp/seiga/im4334779

           

           

          聖書との取り組み方を忘れた現代キリスト者
          ここで、ライトさんは、あまりに多くのクリスチャンが、聖書にどのように取り組んだらよいかを忘れてしまっている、と書いておられるが、聖書にどのように取り組むべきなのだろうか。それは、聖書全体に対して自分との関わりがあるものとして真剣に取り組む、ということなのだろう。

           

          聖書のテキストから、カットアンドペーストするように、聖書の一部の切り取りをして、自分の都合の良いように我田引水的に聖書引用をする方のお姿を時にお見受けする。なに、これは、今に始まったことではない。かなり昔からあるのだ。ひどいのは、旧約聖書に触れる機会が全くないという場合も少なくないだろう。パウロが書いたものしか言及されない教会もあるやに聞く。イエス抜きのキリスト教もないわけではないだろう。旧約聖書抜きのキリスト教も十分にありうる。旧約聖書は、日曜学校の教材用として扱って(子供の好きな動物が出て来ることもあるだろうが)、それを大人向けに正面切って語る教会も少なくはないだろう。そして、旧約聖書をあれはユダヤ教のものだから、と軽く見ている部分が我々の中に何処かないだろうか。

           

          また、聖書が読めるから、と言って、1年に何回読んだか、回数を競うような読み方をする人々もいるようである。ただただ、単に数多く読めばいい、というものでもないだろうし、そのように回数を多く読むのが良い、となってくると、速読法よろしく、目を落とし、ページをめくるだけになってしまい、ページを捲っただけで読んだ気になっているだけの、読み方をしている人が、ひょっとしているかもしれない。

           

          聖典として旧約聖書を名目的には否定はしていないものの、実質的に否定しているキリスト者は案外多いのではないだろうか。実に残念なことである。

           

          聖書を巡る論争
          聖書そのものについての論争も多いが、聖書をどう読むかについていの論争は多い。典型的には、聖書は文字通り読むべきか、必ずしも文字通り読まなくても構わないか、とか、イエスの復活があったかなかったか論争や奇跡の有無論争や、聖書の各所の著者論争や、成立時期論争、異言の有無論争など、聖書を巡る諸々の論争がある。最近も、聖書信仰を巡って、いくつかの出版物についての反論本のようなもの(それはライトさんとも少し関係する)もでた。

           

          そこらあたりについて、ライトさんはあっさりと次のように書く。

          聖書を巡って非常に多くの論争があるのは、このためである。実際、聖書の記述についてと同じぐらい、今日、聖書についての論争がある。それらのあるものは、同じ理由から来ている。兄弟争いである。(同書  p.246)

           

          この後、アベルとカインとかの話も紹介しながら、聖書を巡って、争うということは、カインとアベルの話と似たようなものではないか、とライトさんは書くのである。まぁ、似た者同士の近親憎悪と言われたら、それに近いというところはあると思う。

           

          そもそも、プロテスタント世界の内部は、似たような教会がいっぱいあって、それぞれ独自性を出しているので、他所と自分がどう違うか、ということを言い募る傾向があるようであり、それが炎上体質、戦闘民族体質につながり易いのではないか、と思う。

           

          それは、ある時期の左翼運動の再現のようにみえるのだ。よく言えば、もうすぐ始まるセンバツのような甲子園でやる野球大会とか、野球を見る習慣のないミーちゃんはーちゃんにとって見れば、個人的には、ほとんどどうでも良いWBCみたいなものかもしれない。しかし、ご関心の向きには、それこそ、北朝鮮がミサイルぶっ放すかどうかより、重要な話題であると思っておられるのではないか、という印象がある人びともおられる。それこそ、外部の関係ない人から見たら、聖書を巡って争うキリスト教界の人々のことを、革マル対中核派の内ゲバ事件とよく似ているとか言ったらダメなのかも知らんけど。

           

          中核と革マル https://www.amazon.co.jp/dp/4061341839 より


          本来は外に向かって自分たちの正統性を主張するためのものが、キリスト教の内部の人同士、グループ同士に向かって使われ始めたときに、無意味な論争が起き、悲劇が起きるのだろうと思う。

          悲劇的なことに、キリスト教の歴史は聖書の読み方で散り散りにされてきた。それは結果的に聖書の口を封じることにもなってしまった。(同書 p.247)

           

          確かに、ここで、ライトさんが言うように、本来一つであるキリスト教世界であるはずのものが、キリスト教のここ200年位の歴史は、聖書の読み方にかんして、確かに引き裂かれた状態という印象があるような感じがするなぁ。

           

          そして、キリスト教界の外部から見たら、「内部で何を争っているんやろうか、何を論争してはるのか、よくわからんけど、なんや細かい、小難しい事言うてはるわ。よう、わからんけど。うちら、あんまり関係ないし。勝手にしはったら?」という感じなのだろうと思う。

           

          まぁ、本来、外から敵が攻めてきているのに、うちわ争いをしている状況のように思うのだが。まぁ、それが、キリスト教界の習い性なら、しょうがないけど。イエス様は、こんなことをおっしゃっておられるのを思い出した。

           

           

          【口語訳聖書 マタイによる福音書】
           12:23 すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。
           12:24 しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。
           12:25 イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。
           12:26 もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。
           12:27 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。
           12:28 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
           12:29 まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。
           12:30 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。
           12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
           12:32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。
           12:33 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。
           12:34 まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。
           12:35 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。
           12:36 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。
           12:37 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。

           

          まさに、上で引用した福音書から引用しているのが、現在のキリスト教界に近いかもしれない、という感じだろうと思う。現代のキリスト教徒は、集めないもので、散らすものになっているのなのかもしれない。残念ながら。自省を込めて。

           

           

          なお、ミーちゃんはーちゃんは、悪霊に取りつかれたものである、と同じ教会で同席していた方から、個人的にお手紙でご指摘いただいたことがあることも、ここに記しておく。

           

           

          次回へと続く

           

           

           

           

           

           

           

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          コメント:ミハ氏の活動もちょっとお好きでないようで。論評抜きで

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          コメント:個人的には、この本の主張に納得している。

          2017.03.15 Wednesday

          N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その43

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            今日も、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の12章「祈り」の部分から読んで、思ったことをタラタラと述べてみたい。一応本日で、第12ショウは終わりだが、この先に、なんと第13章、聖書が待ち構えている・・・一体いつ終わることか・・・。

             

            気を取り直して、書いてみたい。

             

            祈りと先人との関わりを持つこと

            世俗の仕事の関係で、技術コンサルタントもどきのことをすることがあるのだが、ご相談に来られる方は、そのご相談に来られる方の中で混乱していたり、困っていたりする人たちが抱える問題を、外部者の目から見ると、外部者の岡目八目的な発言で気づかれることが多いという経験をする。自分一人でうじうじしているために、かえって問題がややこしくなるということはあるのである。

             

            最近、日本のキリスト者の中でも一部の方々とのお話の中で、霊的同伴とか、霊的ガイドとか、スピリチャル・ディレクションと言うような単語が出てくる。舟の右側でもそういえば特集が組まれていた。

             

            舟の右側の霊的同伴の特集号 http://www.revival.co.jp/rj/legwork-diary/ から

             

             

            そのあたりのことについて、ライトさんは、次のように書いている。

             

            もちろん、祈りについてさらに言うことができる。しかし礼拝と同じく、大切なことは始めることである。多くの祈りの手引書が今日では手に入る。現代のキリスト教の健全なしるしの一つはますます多くの人が経験豊かなガイド(あるグループでは「霊的指導者」、あるいは、「霊的同伴者」という)と話すことが、大きな助けになると気づき始めたことである。霊的指導者は、時には安心感(「そう、それで大丈夫。多くの人も同じように感じているから」)を与え、時には新しい方向へと優しく促してくれる。

             

            私は同僚との関係で大変な困難に陥った時、霊的指導者のすすめで解放されたことをよく覚えている。それは、「主の祈り」を唱えることと、その祈りのそれぞれの部分を、とくにその同僚に当てはめて思い巡らすことだった。書物、リトリートでのリーダー、友人、牧師は、それぞれ助けになる。(中略)もちろん、人によって有益な方法やパターンは異なる。その人にあった、その状況に応じた道を示してくれる指導者は大勢いる。(『クリスチャンであるとは』pp.242−243)

             

            世の中には、形から入るのがお好きな方もおられるし、かたちではなく、心の赴くままに始める人々もおられる。ミーちゃんはーちゃんはどちらかと言うと、かたちからではなく、心の赴くままにはじめちゃうタイプである。それで、後から慌ててかたちを学ぶタイプに近いかもしれない。

             

            ところで、ここで、ライトさんは、現代のキリスト教の健全なしるしの一つはますます多くの人が経験豊かなガイドと話すことが、大きな助けになると気づき始めたことである、と書いておられるが、これは案外大事なことではないか、と思うのである。これは、教会内にコミュニティを生み出す、ということでもある。教会そのものというよりは、教会内での祈りのコミュニティを、形成するということなのかなぁ、とも思う。基本、霊操とか、スピリチュアル・ディレクションとかは、コミュニティ志向(少なくとも、神と、神の前にともに並びながら、ガイドする人とガイドとともに歩む人というコミュニティができる)でもあり、Me and My Godの世界とはちょっと違うと思う。

             

            このあたりのことについて、ナウエンの本から少し引用してみたい。

            Calling people together, therefore, means calling them away from the fragmenting and distracting wordiness of the dark world to that silence in which they can discover themselves, each other, and God. The organizing can be seen as the creation of a space where communion becomes possible and community can develop. (Henri J. M. Nouwen, The way of the heart, p.54)

             

            ミーちゃんはーちゃんの個人的日本語変換

            人びとを礼拝に招くことは、人びとがこの暗い世界のことばに満ちあふれた世界で、それぞれが孤立し、精神を集中させない状態から、それらの人々自身が本来の姿(神のかたち)を見出し、そして、お互いの本来の姿を見出し、神を見出す静まりの状態への脱出を呼びかけるようなものです。その意味で、(教会とその環境を)整えるということは、聖餐(コミュニオン)が可能になり、そして、コミュニティが生まれいづるような場所を作り出していくことと考えることができます。

             

            ミーちゃんはーちゃんが参加している教会でも、普段こんな感じでの聖餐式(コミュニオン)

            (写真はルーテル教会での聖餐式の写真 http://www.zion-lutheran.com/photos/easter-2014/gathered-around-the-last.html より)

             

            その意味で、現状の日本におけるプロテスタント教会関係者の間で、わりと、霊性や霊的同伴、スピリチュアル・ディレクションへの関心が高まりつつあるのは好ましい傾向としても、霊性とその教派の基本的な聖書理解や、聖餐理解をあまりに深く考えもせず、霊的ガイダンスやスピリチュアル・コンパニオンシップの部分だけ導入すると、大根の上にカリフラワーをつなぐようなことになりかねないのではないか、という懸念もある気がするなぁ。まぁ、大根とカリフラワーの両方ともアブラナ科という意味では、同類ではあるけれども。

             

             

            霊的ガイドとか、霊的指導者だとか言うと、霊的な意味で「ああせい、こうせい」と指導を受ける人びとにいろいろ注文を出す人を思いがちだが、どうもそうではないように思う。

             

            むしろ、霊的指導者、あるいは霊的同伴者とは、クライアント(指導を頼む人、あるいは、お願いする人)の支援者になるというのか、行き過ぎを防ぐ役割を果たす人、共に祈りの時間をとって、同じ方向を見る人、というニュアンスが強く、牧師が信徒を指導する関係というか、牧師が信徒を教える関係というようなものとはかなり味わいが違うように思う。

             

            それと、牧師についていえば、牧師になってしまうと、指導する立場ばかりのことがどうも多いらしく、他の人によって、支えられる経験というのは少なくなってしまうのではないか、と言う印象がある。そして、牧師が燃え尽きてしまい、大量の人的資源の浪費につながっているように思う。まるで、献身者ホイホイのように。献身者ホイホイの記事はこちらからどうぞ。

             

            これらのことをやってみようとすれば、まず、牧師の支援(集めての教室形式での集合研修とかいうかたちではないタイプの支援)というところから、変えていったほうがいいのかもしれない。

             

            カウンセリングや、法曹関係の相談でもそうだが、こういう相談事業は、利害関係のない第三者のほうが、その人達を縛って混乱を生んでいる原因やそれを生み出すマインドセットからの影響を受けないという意味で、都合が良い場合があり、それと同じことが、スピリチュアル・ディレクションやスピリチュアル・コンパニオンシップの場合にも同じことが言えるようなきがする。その意味で、ハンズオンや身体性を伴ったものを教室型の集合研修で学ぶというのは、入門としてはいいのかもしれないけど…とは思う。

             

             

             

            異言をどう考えるか

            以下で、ライトさんは異言と沈黙の祈りを取り上げている。個人的には沈黙の祈りのほうが相性がいい。異言に関しては、ミーちゃんはーちゃんには経験もないし、その世界観がないので、なんとも言えないが、否定もできないことも確かである。ミーちゃんはーちゃんがこれまでお見知り置きいただいた方々の中に、異言の祈りをしておられるということを教えていただいた方も少なくない。ところで、異言で祈るからと言って、キリスト者ではない、とも言えないように思う。ブリッジ・チャーチ、ブロード・チャーチを目指しておられるアングリカン・コミュニオンの性格を考えるとき、この辺のアングリカン・コミュニオンでの包摂性ということは大きいのかなぁ、と思う。

             

            そもそも、自分たちの身の回りだけ考えれば、周りの言葉は異言ではない事が多いだろうが、神の目から見たら、世界中に存在する各国語で祈られてしまっていることになるわけで、すべての人の祈りは神様にとっては、それぞれの人の祈りは、それぞれが、ある面、異言の祈りをしていることに近いことになるのではないだろうか。

             

            今、訪日外国人が昨年、2000万人を超えた中で、外国人の多い難波とか、大阪城付近や、京都の四条河原町や先斗町などの観光地などを歩いていると、日本語を聞こえてくることのほうが少ないということを考えると、異言とはなんだろうか、と思いこんでしまうことがある。

             

            さて、ライトさんの祈りに関する記述に戻ると、ライトさんは次のように書いておられる。

             

            クリスチャンの祈りには、さらに他の仕方もある。ある人にとって異言で祈ることは、具体的に何を祈ったらよいかわからないとき、あるいは、あまりに明白な課題やそのことで圧倒されて、どう祈ったらよいかわからないときに、その状況や人々の必要を思いながら、神の前に出るのに役立つ(もう一度、『ローマ人への手紙』第8章26〜27節に戻って欲しい)。沈黙の祈りは、かなりの人にとって実行が難しく、それを継続して行うとなると、殆どの人には困難である。しかし、良い意味での暗闇のように、信仰と希望と愛の種が人知れず芽生える土壌となる。(同書 p.244)

             

            個人的には、沈黙の祈りのほうが、異言の祈りに比べて、格段に好きなのである。沈黙の祈りにより、心のなかに大きく余白を拡げてゆき、日常生活の概念や、諸概念から離れ、神を迎えて行く場所を作り出すことのほうが、異言の祈りよりは馴染みがあるような印象がある。

             

            沈黙の祈りについて

            もともと、システム設計したり、コーディングしたりするときや、ドキュメントを書くとき、また、デバッグするときは、他者との関係を絶ち、そして、とにかく雑念を排除して、無音空間でやりたがる、という習慣がついているからかもしれない。とくに設計したり、コーディングしたりするときは、対象の抽象化という作業をすることでもあるので、似ている側面があるかもしれない。

             

            パワパフガールズでのCoding 作業
            https://www.n3rdabl3.com/2016/06/09/157251/cartoon-network-promote-coding-powerpuff-girls-episodes/ から

             

            基本的に非営利組織で働いている(ある面で言えば、社会に寄生している)ので、このような機関で、開発作業をすることは他者に仕えるという性格を持つこともあるのだろうが、この静まりの中で生み出されたものが、他者の生活の質をあげるとき、してよかった、と思うことは多い。
            でも、このことは、声を出して話を全くしない、ということではない。ナウエンは、このあたりのことについて、The way of the heartの中で、次のように言っている。

             

              After all, silence of the heart is much more important than silence of the mouth. Abba Poemen said: 'A man may seem to be silent. but if his heart is condemning others he is babbling ceaselessly. But there may be another who talks from morning till night and yet he is truly silent.'

            Silence is primarily a quality of the heart that leads to ever-growing charity. Once a visitor said to a hermit, 'Sorry for making you break your rule.' But the monk answered: 'My rule is to practice the virtue of hospitality towards those who come to see me and send them home in peace.'

            Charity, not silence, is the purpose of the spiritual life and ministry. About this all the Desert Fathers are unanimous.
            (Henry J. M. Nouwen, The way of the heart, p.54)
             

            ミーちゃんはーちゃんによる、個人的日本語変換

            結局、心を静めることは、ことばを話さないことよりもよほど重要な事なのです。砂漠の師父の一人、師父Poemenは、次のように言っています。ある人は沈黙を守っているようにみえるが、心が他者をさばいているようでは、彼の心は、とめどなく思いが湧き上がっているのです。しかし、朝から晩まで話している人でも、彼はほんとうの意味では静まっている人もいます。

             

             静まりは、まず第一に心の質のことであり、それは、とどまるところを知らない思いやりに導いていくものなのです。あるとき、ある訪問者が修道者に次のように言いました。「あなたが守っていることを破らせるような形になって申し訳ない。」しかし、その修道僧は次のように答えました。「私が守ろうとしていることは、接遇の美徳であり、それは、私に会いに来られた方が、神の平和のうちに、皆さんの世界に戻っていかれることなのです」

             

            静まりというよりは、思いやりの心こそが、霊的生活の目的であり、使えていくことの目的でもあるのです。これについて、砂漠の師父たちは一致しているのです。

             

             

            このあたりの表現を総合的に考えると、祈りは、自分自身の問題というよりは、他者に仕えるためのものという側面が案外強いのかもしれない、と思う。自分のための祈りはもちろん必要ではあるものの、それだけでは多少まずいのかもしれないと思う。外に出ていくための祈り、あるいは外に出ていく祈りというものが家に向かう祈りと同様に必要だ、ということだろう。

             

            以上で祈りについての章は終わりである。

             

            次回から聖書の章について移っていく。

             

            次回へと続く。

             

             

             

             

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            (2009-09-22)
            コメント:よろしいか、と思います。

            2017.03.13 Monday

            N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その42

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              今日も、また、いつものようにN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の第12章 『祈り』をたらたら読みながら、考えていることを、これまたタラタラと述べてみたい。

               

              讃美歌と集合的ないのり

              Collectも個人的には好きだが、恐らく、現在の多くのクリスチャン、特にプロテスタント系のキリスト教では、この集祷にあたるものが、賛美歌に変わっている様である。今英国でお仕事をしておられる、親切なある司祭の方が一昨日、教えてくださった。この方は実にありがたい方である。

              讃美歌も、多くはつくられては消えしているが、ある程度の期間残った讃美歌はそれなりのことがあるし、その意味で、Collectにあたるものを讃美歌として歌っているのだろうと思う。ただ、時には、これはどうにもまずいと思う讃美歌の歌詞が見られることがあるけれども。どうも、天国に行く期待だけを歌い上げるものもある。その代表例は、黒人霊歌などであろう。いまだとアフリカン・アメリカン・スピリチュアルズ(米国議会図書館には、その African American Spirituals の項目があった)などといわないといけないのかもしれない。ただ、アフリカン・アメリカンのご先祖さまたちが経験した、実際の労働環境の過酷さと差別の過酷さから、このように歌いたくなる心情は理解できなくないけれども、それを、そのような環境にない日本人が、大声で歌い、天国に行くことの希求をすることはどうなんだろうと思う。実際に、賛美歌はそれを歌う人々の聖書理解に影響を与えるからではあるけれども。

               

              African American Spirituals の名曲 Swing Low, Sweet Chariot

               

               

              African American Spirituals の名曲をサッチモさんで Swing Low, Sweet Chariot

               

              その意味で、改革長老派で賛美に用いられている詩篇を歌詞として用いる方法は、まぁ、全編聖書の詩篇から訪った讃美歌なんで、まぁ、問題は起きないだろうけど、詩篇には、結構そのまま歌うには適さない表現(呪いと考えられるもの)もあるので、その辺は、歌わないことでの対応かもしれない。ただ、詩篇だけで言い尽くせているか、というと、これまた問題がないわけではないように思うのだけれども。改革長老派のお立場は尊敬しておりますよ。そこに行く気は今のところ、いろんな事を考えるとしていないですが。

               

              伝統教派が持つ他のいのり

              さて、ここでお話を讃美歌から、祈りに戻すと、この祈りというのは、讃美歌同様、言葉のリズムが大事なんだと思う。英語で祈祷分を読むときのリズムは、韻をきちんと踏んでいて実になんとも気持ちがよくて、その世界に誘い込まれるような感じがするのである。個のリズムというのは、結構大事だと思う。日本語でも、リズムのいい文章はないわけではない。確かに、セブン、イレブン、いい気分、とか、昔の「恐れ入り谷の鬼子母神」などはなかなかできがいいが、なかなかそのタイプのものに教会の中では出会わず、どうも字余り感が強い。まぁ、これから、その辺はこれから、改善されていくんだろうけど。この辺が合わない服を着ている感覚、ってことにもなるのだろう。

               

              さて、本題に戻すと、その祈りのリズムの中に入っていくということについて、ライトさんは次のように語っている。

               

              主の祈りだけが、深く豊かな祈りの伝統を気づいてきたのではない。同じように長い間使われてきた他の祈りもある。祈りのパターンとして、あるいは繰り返し唱えることで、イエスにおける神の臨在の深みに入るために使われてきた。最もよく知られ、東方正教会で広く使われてきたものに「イエスの祈り」がある。自分の呼吸のリズムに合わせて、ゆっくり楽に唱えるのが良い。「主イエス・キリスト、生ける神の御子、罪人の私を哀れんでください。」

              (『クリスチャンであるとは』 pp.238-239)

               

              ここでイエスの祈りがあげられているが、それはこんな祈りである。

               

              イエスの祈り(主の祈りとは別物)

               

              どうも、この辺は、砂漠の師父たち(砂漠の洞窟の中に入って、沈黙の中で神との交わりを深めていった人々)の伝統に則っていて、これは、現在の日本のキリスト教の伝統が失っている重要な霊性についての理解の上にあるものだと思う。霊性の源泉として、敢えて神の前に沈黙する、敢えて神の前に静まる中に見ることが重要であるような気がする。そのあたりの事は、ナウエンのThe way of your heartの中にかなり詳細にかかれている。この分野に関心がある方は、まずは、The way of your heartを読まれるのがよろしいのではないか、と思う。

               

              ところで、イエスの祈りは、英語では、Lord Jesus Christ, Son of God, have mercy on me, a sinner.となるそうである。

               

              どれくらいのタイミングか、というのは、この動画である程度ご理解いただけると思う。現代のおしゃべりな時代の人間のミーちゃんはーちゃんには最初はつらい経験であった。多くの人にとっても、おつらいかもしれない。

               

              英語でのイエスの祈りのケンブリッジの関係者による説明

               

              英語でのイエスの祈りの砂漠の師父風の祈り方説明

               

              ロシア正教会の主の祈り

               

              アトス山でのギリシア正教会のイエスの祈り

               

              上の動画に見るように、イエスの祈り一つとっても実に多様であることがわかる。

               

               

               

               

              この繰り返しの祈りを単純に賛美歌の世界に置き換えることはできないが、ある種循環性という意味で、テゼの賛美とよく似ている。祈りのための音楽として、テゼがあるからなのかもしれない。

               

               

              循環といえば、この前、NHKの朝4時20分ごろからやっている「視点・論点」という番組を見るとはなく見ていたのだが、その中で、上智大学の植田先生という方が村社会が循環的な時間で考える習慣がある、という話が出てきていた。この話はある面、ヒントになるかもしれない。リンク先はこちらである。

               

              「人々はなぜ「むら」に住み続けるのか」(視点・論点)

               

              我々の生活は、循環論的な時間に支配されているのではないか、という思いを聞きながら持ったのである。そもそも、近代は、あまりに近代的な時間を直線的なものとして捉えすぎる側面があるようにも思う。本来、人間は、循環的な時間、あるいは再帰的な時間(recursive time)で生きる様に造られているのかもしれない。近代の時間概念が、その循環的な時間概念、再帰的な時間概念を失わせたのかもしれない。その際快適な時間は、リタージカルな世界を支配している時間なのかもしれない。太陽は沈み、太陽はまた登り、月は欠け、また満ち、大潮と小潮を繰り返し、高潮と低潮を繰り返す。その意味で、サイクリックな時間、ないし、再帰的な時間の中に人はい来ているし、そのように創造されているのではないか、と思いはじめている。その意味で以下の図に示すようなフラクタルな世界の中に人間は行かされているのではないか、と思う。それとリタージカルな生き方との関係を今考えている。

               

               

               

               

              いずれも、http://www.fractalsciencekit.com/ から

               

              最近までは、ミーちゃんはーちゃんは、直線的な人生観、つまり、始点から終点に向かって一直線上を問答無用で直進するような生き方をしてきた。しかし、どうもそれではいけないのではないか、ということを思い始めている。恐らく、年をとったということと無関係ではないのだろうし、近代の社会を支える原理の限界を感じ始めているということもあるのだと思う。
              その意味で、教会歴に沿って、再帰的に生きるという生き方、その中で迷うように生きる生き方、そして、繰り返しを経る中で、一日に数回祈るという生き方、週に二回、聖餐に定期的に与る生き方、といったことの大切さを学んだような気がする。まぁ、それが無理な人も世の中にはおられると思うので、別にこれがよいとか、かくあるべしだとか、これが正しいとか、主張しようというつもりは、毛頭ない。ただ、今のミーちゃんはーちゃんはそれで落ち着いている、というだけのことである。とはいえ、伝統的な宗教は、多くの場合、このような循環論的、あるいは再帰的な時間概念と、その再帰的な時間の中での祝祭(セレブレーション)がどこかに隠れている様な気がするけれども。こういう風に循環論的な議論をし始めると、すぐに、同じことの繰り返しで満足しているのではないか、というご意見をお寄せくださる方がおられる。個人的にはそれも違うかなぁ、と最近は思うようになっている。

               

              繰り返しと異邦人の祈りは同じか?

              そのあたりのことについてライトさんは、次のように書いておられる。

               

              この祈り(あるいは同様のもの)を繰り返し祈ることは、『マタイの福音書』第6章7節で、「同じことばを、ただ繰り返してはいけません」とイエスが避難している異邦人の祈りのことではない。もしそうなってしまったら、すぐに辞めて別のことをしよう。しかしそれは、これまで何百万人という人に役に立ってきたし、今でも役に立っている。すなわち、神に思いを向けたり、深く、広くはいっていくことで、どのような状態でも信頼できる方として、イエスにあって知る神に集中する祈りがなされてきた。(同書 p.239)

               

              同じ言葉をただ繰り返す、異邦人の祈りがどのようなものかは、ミーちゃんはーちゃんにとっては、定かではない。一種、宗教的な情熱に思いをとられ、とりあえず高速で同じ語を繰り返すような祈り方なのかもしれない。しかし、上の二番目の動画で、主イエスの祈りをお示ししたが、それと同じように黙して、神のみ思いを求めていくいのりは,どうも、どんどん精神的な高潮感、あるいは繰り返しによる陶酔感を求めるものではなく降りていくタイプの祈りであるように思う。我々は、どうも、高いところにばかり上りたがるのかもしれないが、イエスは、この地に来たばかりか、この地でも最低のところにまで下りて行った方でもあって、それを覚えるために、ぐるぐると旋回しながら、降りていくというタイプの祈りということを味わうことは案外重要ではないか、と思う。

               

              それは心を鎮める中で、神と出会っていくという事なのではないか、と思うのだ。だからこそ、人間側が、災害や戦争、痛みや苦しみの中で痛むときにも、ライトさんが言うように「神に思いを向けたり、深く、広くはいっていくことで、どのような状態でも信頼できる方として、イエスにあって」、深みに下ってことになるのではないか、と思うのである。

               

               

              シェマーの祈り 再訪

              「シェマーの祈り」ということばを最初に知ったのは、約5年位前であった。なぁーんも知らずに、福音派の中の過激派的な教会にいたときに、東京の巣鴨で行われていたN.T.ライト 読書会にお邪魔した。そのときの課題論文が確か主の祈りに関するライトさんがお書きになった説教だったか、論文だったかの文章の読書会であったと思う。その文章な中にシェマーという単語が出てきた。想像がつかなかったので、素朴に「シェマーって何です?」って聞いたら、タカ牧師を中心とした参加者の皆様方から、「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神」のことですよって、ご親切にご教示いただいた。今でも、シェマーという言葉を聞くと、その時の記憶がよみがえる。
               そのシェマーの祈りについて、ライトさんは次のように書いている。

               

              もう一つ、用いることのできるものがある。先に紹介したのと同じように、初代教会で用いられていたと思われるものだ。古代から現在のユダヤ教に至るまで、それは毎日三回祈られてきた。このように始まる。「聞け、イスラエル。ヤハウェは私たちの神。ヤハウェは唯一である。心を尽くしてあなたの神、ヤハウェを愛せよ」。『申命記』第6章4節から始まることばから採用されたものである。「シェマーの祈り」として知られている。ヘブライ語の「シェマー」(聞け)」で始まるのでそう呼ばれる。これが祈りだとは驚きかもしれない。命令を伴った神学的宣言のように見えるからである。それは会衆に教えるためではない。礼拝で聖書朗読がなされるように、神が成したことをたたえ、ヤハウェは真に誰であるか、その契約の神が何を望まれているかの源泉であり、それ自体が祈りであり、礼拝と献身の行為なのである。(同書 p.240)

               

              ここで、ライトさんは、このシェマーに関して、「命令を伴った神学的宣言」と言っているが、個人的には、まさにこれをライト読書会で読んだ、ライトさんの小論を読むまでは、祈りとは思ったことがなかったのである。昨日の日曜日、レントの式文に初めて今年使う式文を見ることになったのだが(先週は世俗の仕事の関係でお休み)その最後のページに、10のことば(いわゆる十戒)が書いてあった。その式文の最後のページて、このシェマーの部分が記載されていた。確かに、このレントの時期は神への献身をする時期であり、神のみ思いを祈りつつ、そして神の御思いの実現をしていくということなのだろうと思う。こういうレントと十のことばとのかかわりは、これまであんまり考えたことはなかったが、今日の式文Prayer bookの最後にシェマーから始まっている一連の10のことばがあった。その申命記の記述を見ながら、あぁ、本当にこれは大事だなぁ、特にレントの時期に覚えることは大事だなぁ、と思ってしまった。

               

              そもそも、根本は、主はわれらの神、心を尽くし、覆いを尽くし、力を尽くし、知性の限りを尽くして、われらの神である主との関係を求めていく、まさにここにあるのであって、それと同時にレビ記の規定である、あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ、(旧約聖書 つまり、律法(トーラー)と預言者(ネビーム)は、この二つに集約されるというのがイエス様のおまとめ)であるのだけれども、まさに、そのことが今の時期、レントのテーマであり、このレントの静まりの中で、神を愛する、神との関係を求めていくことの強化月間なのだろうなぁ、と思っている。そして、「ヤハウェは真に誰であるか(ヤハウェは真にどのようなお方であるか)」を追い求めていく時期なのだろうと思う。

               

              シェマーは、ヘブライ語で読むのを聞いていると、確かに祈りなのかなぁ、と思う。まぁ、アキバ・ベン・ヨセフも、殉教死するときにこの祈りを唱えていたという伝承があるけれども、イスラエルの民の信仰を形作り、キリスト教の初期の人々の信仰を形作ったいのり、というのはその通りだろうなぁ、と思った。

               

              様々なシェマーの祈りの動画を紹介して本日の記事を終えたい。、

               

               

              多分ユダヤ教の恐らく改革派のラビによる、シェマーの祈り方。手の形をShinの形にして祈ることなどが触れられている

              ヘブライ文字とその発音のインターリニア型の読み方の紹介動画

               

              銀の文字さし棒を用いながら読むのは、トーラーが尊いものであることに対する尊敬を表すということの表れであると思われる。

               

               

              次回へと続く。

               

               

               

               

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              評価:
              ---
              HarperOne
              ---
              (2016-07-12)
              コメント:大変よろしいか、と思います。英文も比較的平易です。

              2017.03.11 Saturday

              N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その41

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                今日もいつものように、N.T.ライトさんのクリスチャンであるとは、の中から、祈りについての部分について、たらたらと思ったことを述べていってみたい。

                 

                定式化した祈祷は、ある面ありかも

                現在、諸般の事情で、アングリカン・コミュニオンの一部である市内中心部にある船員(Seafarers)向け教会に通うようになったり、日曜日仕事でどうしても行けない場合は、朝7時からやってくれている聖公会の聖餐式に参加している。この7時からの聖餐式派、賛美歌も、説教もないが、キリストをうちに受け止める、ということを確実に思い起こさせてくれる教会の聖餐式に行っている。そこでの礼拝では、成分祈祷による祈祷と聖書朗読があり、そして聖餐式を中心とした礼拝である。誰が来るかは考えずに、毎週やっておられるのが、非常に印象深い。

                 

                ミーちゃんはーちゃんは、自由祈祷しかない(主の祈りすら礼拝の中で唱えない)教派的伝統の中で育ってきたこともあり、成文祈祷に対しては冷たい視線を向けてきた。まぁ、食わず嫌い王であったのである。成文祈祷そのものは読むことがあっても、それを集団で声を出して読むこと、唱えることが持つ、実際の環境の中でのみ経験されることに関しては、あまりにも無知であって、知らずに批判していたところがある。一番最初に、この概念を変えたのは、神戸市内のハリストス正教会に参加(見学)させてもらって、連祷に触れたときであった。あぁ、これ、聖書に出てくる内容を祈りとしておまとめされたものだ、と聞きながら思ったのである。まぁ、文語での祈りも、厨二病患者的には、非常に大好物で美味しかったが。

                 

                日本ハリストス正教会での大連祷

                 

                さて、このような定型化した祈りに関して、ライトさんは、次のように書いている。

                 

                ともかく、大切なことに触れておきたい。誰かによって前もって作られた形式の言葉を使うのは、何ら悪いことではない。実際、それを用いないほうが問題かもしれない。(中略)
                この申し立ては、すぐに気づく人もいるだろうが、ある特定な人たちを対象にしている。つまり、気づかないうちに現代の文化(すこし前で指摘したロマン主義と実存主義の合成品)を、それがあたかもキリスト教であるように吸収した多くの国の多数のクリスチャンに向けたものである。そのような人に私は言いたい。他の人によって昔に築かれた言葉、式文、祈り、祈祷文を用いることは、何ら悪いことでも劣ることでもなく、「行いによる義」でもない。(クリスチャンであるとは P.235)

                 

                この中で、「気づかないうちに現代の文化(すこし前で指摘したロマン主義と実存主義の合成品)を、それがあたかもキリスト教であるように吸収した多くの国の多数のクリスチャンに向けたもの」とライトさんはお書きであるが、まぁ、これを読んだ時、あぁ、まさしくミーちゃんはーちゃんは、確実にその「現代の文化(すこし前で指摘したロマン主義と実存主義の合成品)を、それがあたかもキリスト教であるように吸収した多くの国の多数のクリスチャン」の一人であったことに気が付いた。ここでは、現代の文化のことを、ロマン主義と実存主義の合成物と呼んでおられるが、それは啓蒙主義と人間を中心とした(露骨な言い方をすると、人間と人間の理解を尊重するがあまり、その理解と人間により生み出された概念を偶像とする)ものをキリスト教と思いこんでいた、という側面はある。神を中心としたい、神が与えたもうた聖書を中心としたい、という思いからであったのではあるのだろうけれども、聖書理解をことばで伝えたいということが、教会文化として定着していった結果、神がどこか隅っこに追いやられてしまっていて、教会の説教の中で『説教者の先週の業務経過報告とその感想」や、その教会にとっての過去の人の偉人伝とか、その場にいないその教会固有の英雄列伝とか、先週見た映画とかテレビのおまとめなんかが教会の中での説教の座のかなりの部分を占めることになる場合もあるようである。あるいは、音楽を繰り返しリフレインしながら、延々と絶叫型の賛美を続けたりとか(まぁ、たまには良いのだけど、何を謳っているのかが、聞いていてわからない人には、解き明かしもないので、異言よりすごいかもしれないと思うこともある)、もあるようである。要するに、日曜日の礼拝を一定の時間をかけたものとするために、余分なものが、入れられていくことになりかねないことになりかねない。ここまで来ると、ロマン主義と実存主義の合成品と揶揄されても、仕方ないかなぁ、と思う。

                 

                おそらくこのロマン主義と実存主義の合成品は、マクナイトの言う「救いの文化(サルベーション・カルチャー Salvation Culture)」のことだと思う。このあたりは、スコット・マクナイト著『福音の再発見』をお読みになられると、詳しいことがお分かりになるのではないか、と思う。なお、マクナイトさんは、最近は米国のアングリカン・コミュニオン(日本では聖公会)系の教会に移られた模様である。

                 

                日本ハリストス正教会やコプト正教会、カトリック教会、日本聖公会に行くと、説教はぐぐっと圧縮され、説教自体は、ものの5分か長い場合でも15分ほどであり、式分と祈祷と神への賛美と、イエスの生涯と十字架を記憶することが、その教会の礼拝の中心を占めていることを強く感じる。

                 

                 

                ところで、ライトさんは、「そのような人に私は言いたい。他の人によって昔に築かれた言葉、式文、祈り、祈祷文を用いることは、何ら悪いことでも劣ることでもなく、「行いによる義」でもない」と書いているが、ミーちゃんはーちゃんは、ここで言われている「そのような人」であった。「そのような人」が成文祈祷の文言に触れた時、打たれてしまったのだ。その広がりとその美しさの世界に。

                 

                とくに、先にも紹介したハリストス正教会の大連祷もそうである(神戸で人数が少ないときのものは、人数が少ないだけにちょっと残念な側面もあったが、まぁそれはしょうがないが、素朴な味わいがあったと申し上げておきたい)し、英文の祈祷書に触れたときもそうであった。聖公会の祈祷書も美しくはあるのだが、英文からの翻訳になっているところもあり、少し残念な部分もある。まぁ、英文と日本語の式文をちゃんぽんしているミーちゃんはーちゃんが、徹底的に悪いのだが、日本語の式文を聞きながら、英文の式文の原型を思い出してしまっている。

                 

                 

                あと、説教を中心とせず、このような定型化された式文と儀式を中心とした運営の強みは、言語を超える部分があるということであり、何をやっているのかが、ある程度言語の壁を超えて予想でき足り、理解できたりするということがあるのである。それは、ある程度今よく言っているアングリカン・コミュニオンの聖餐式に慣れてから、コプト正教会の献堂式にいったのだが、それが指し示そうとしている意味が、アラビア語風に読まれる英語で行われる聖餐式ではあっても、普段の聖餐式の対応関係から、完全に理解できたのである。それは実に印象的であった。

                 

                (44分位からが聖餐式)

                モダンなアルミニウムかステンレススチール製の、十字架の前でのコプト正教会式の聖餐式が印象的)

                 

                 

                よい式文を読むこと

                 よい式文を読むと、特に初めて読んだ時などは、鳥肌が立ちそうになる。まさに、何とも言えない印象が体中を走り回る感じ、という側面があるかもしれない。成文祈祷を聞き、声併せて祈るときに、そうそう、これが言いたかった、こう祈りたかった、とか、祈りたいことを言ってくれてありがとう、と思ったことは何度もある。

                 

                そのあたりのことをライトさんは次のように書く。

                良い式文は、恵みのしるし、また恵みを受ける手立て、また謙遜(自分が心から表現したいことを、別の誰かが自分より上手に言ってくれたことを受け入れる)と感謝を表す印となる。また、そうあるべきである。私は、比喩的にも文字通りの意味においても、夕暮れが迫った時、昔ながらの英国国教会の集祷文の祈りで、いかに多くの慰めを受けてきたことか。(同書 p.237)

                 

                集祷文とは、英語では、Collectと呼ばれるもので、特祷と呼ばれるものらしいのである。多くのプロテスタント派の祈祷では、これはあまり残っている教会に、これまであまりぶち当ったことがない。牧師のその週の代表祈祷がそれに当たるのかもしれない。多くの場合、聖書朗読の前に行われる。このCollectを司祭だけが読む場合もあるし、全員で読む場合もある。

                 

                たとえば、Lent1で読まれたものはこんな感じである。

                 

                Almighty god,

                whose Son Jesus Christ fasted forty days in the wilderness, and was tempted as we are, yet without sin: give us grace to discipline ourselves in obiedience to your Spirit;and as you know our weakness, so may we know your power to save; through Jesus Christ your Son our Lord, who is alive and reigns with you, in the unity of the Holy Spirit,one God, now and forever.

                Amen

                 

                ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換
                全能の父なる神よ、汝の御子イエスキリストは、荒野にて40日の断食で、我らと同様に試みに合われ、それでも罪に陥らざり。恵みにより、我らが聖神(聖霊)により訓戒を受け汝に服させたまえ。我らの弱さを汝知るが故に我らが汝が救出する実際の力を我らに知らしめよ。我らの主、汝の御子、イエスキリスト、汝とともに生き、統べ治める方、聖神(聖霊)と共に一つである神において、今も、永久に。
                実に。

                大体、こんな感じである。日本語にするとどうも締まらない。どうも冗長で、うーん、という感じがする。自分で変換しててもそう思う。

                 

                 

                こういうCollect(これが毎度毎度違う)を読んでいると、あるいは読み上げられるのを聞いていると、Amenといいたくなる感じがしてしまってしょうがない。良く寝られているし、聖書のことばが思い浮かんで、それが広がっていくのを感じてしまうのだ。ライトさんが言っているCorrectはどれかはわからないけれども。

                 

                 

                これとか、そんな感じかもしれない。
                That we should be saved from our enemies,
                and from the hand of all that hate us;
                To perform the mercy promised to our forefathers,
                and to remember his holy covenant;
                To perform the oath which he sware to our forefather Abraham,
                that he would give us,
                That we being delivered out of the hand of our enemies
                might serve him without fear,
                In holiness and righteousness before him,
                all the days of our life.
                And thou, child, shalt be called the prophet of the Highest,
                for thou shalt go before the face of the Lord
                to prepare his ways;

                To give knowledge of salvation unto his people
                for the remission of their sins,
                Through the tender mercy of our God,
                whereby the dayspring from on high hath visited us;
                To give light to them that sit in darkness

                and in the shadow of death,
                and to guide our feet into the way of peace.

                 

                補足 米国版には、Collectの原文が出てました。
                Lighten our darkness, we beseech thee, O Lord;
                and by thy great mercy
                defend us from all perils and dangers of this night;
                for the love of thy only Son,
                our Saviour, Jesus Christ. Amen.
                 
                ミーちゃんはーちゃんによる日本語変換
                暗闇を照らしたまえ、わが主よ。我らこれを希う
                ながあまりある哀れみによりて
                今宵の危険と危機より、われらを守り給え
                そは汝が御子、われらの救い主、イエスキリストの愛ゆえに
                実に

                 

                なお、Collectは、ここで見られます。
                http://www.bcponline.org/Collects/seasonst.html

                 

                その昔、結婚式の司式をした経験がある。平信徒主義の教会なので、お葬式から結婚式、バプテスマまでなんでも一通りのことはやった。その経験から言うと、式文があると締まるのである。それによく考えられている。以前の結婚式の時には、日本基督教団の式文(試用版)を参考にさせてもらった。今なら、日本聖公会の式文を使うところであるが、当時はまだ入手で来てなかったので、それを利用した。そのまま使わず、適当に用語とかは、自分たちのものに適切に変えたが、まぁ、余分なことを言いたくなることは避けられた。

                 

                現代のCollectに変わるものは何か、と考えてみると、それは讃美歌がその部分を担っているかもしれない。讃美歌を歌うことで自分の祈りにしておられる人々もおられると思う。そこに心を合わせ、心を一つにして、祈るという意味では、まさに、このCollectと讃美歌はパラレルな関係にあるように思う。

                 

                 

                生き生きとしていた伝統も

                時と場合に死加重に

                伝統というものはありがたいのである。というのは、先人たちが必死になって考えた神学的英知が含まれているからではある。しかし、その中に含まれる意味や神学的思惟が理解されないと、すぐに死んでしまい、ミイラ状態になる。なぜ、この式文でこういうのか、何故にそのような表現になっているのか、なぜ、このように表彰するのか、ということとのつながりが分かりにくくなり、とりあえず、これを言っておけばいいという呪文のようなものに化してしまうこともないわけではない。

                 

                問題は式文を使うのか、使わないのか、といったことではなく、そこにどのように参加しているか、ということなのだろう。そのあたりの事について、ライトさんは次のように書く。

                古代からの典礼と伝統的な習慣は本来、まさしく純粋な祈りを生み出し、謙遜な態度で神の臨在の前に出るのを助けてくれるものなのだ。何世代にもわたって伝えられてきた祈りが、徐々に自分自身の心からの祈りになって湧き上がるのに気づく。しかし、かつてのいきいきとした伝統も、すぐに死んだ重荷になってしまうことがある。ときには枯れた枯木を、新しい枝を伸ばすために取り除かなければならない。

                (中略)

                文化は変わる。変化すること自体が文化の特徴である。それ故、伝統的形式に困惑したり、不快に感じることになっても驚きではない。過去一、二年の間に出会った人だが、教会の会衆が新しい歌を採用し、会堂の通路で踊りだす人がいたのに驚き、その教会をやめてしまった。また他の人は、全く同じ理由からその教会に行くようになった。

                そろそろ目を覚ましてもよい時だ。人はそれぞれ、人生のそれぞれの段階に見合った異なる種類の助けを必要とする。それを認め、それに合わせて歩んでいくべきである。(同書 pp.237-238)

                 

                ミーちゃんはーちゃんがいたキリスト者集団は、儀式的な要素を教会内から極力排除させようとした教派というか、キリスト者集団であった。まぁ、これでもか、これでもか、というほどの排除ぶりであった。そのキリスト者集団の中では、以前は十字架を掲げることについても、偶像的だとして、排除するほどの忌避感があったほどのグループである。しかし、その中でも、儀式の意味とか、儀式に含まれている要素が重大だ、と感じていたこともあり、違和感は感じまくりであったが、今は、このあたりをバランスよく含む教会に居るので、今のところは非常に納得的であったし、大変そこにいることができてうれしい。

                 

                そんな集団の中で、ひとり、最初は主の祈りとか、ニーバーの祈りとか、ボンフェファーの祈りとか、ナウエンの本を読みながら祈りを考えていった。その中でこれらの本の中に出て来る祈祷文を覚えながら祈ったりしていた。それらの祈祷文をそのまま使うと差しさわりがあった。より具体的に言うと、「成文祈祷で、儀式的」とかいう批判をそのグループでは浴びやすいので、多少は現代風に文言を変えながら祈っていた。まぁ、ここでライトさんが言うように、徐々に自分自身の心からの祈りになっていくという経験をした。

                 

                確かに、成文祈祷の良さというのもあるのだが、中には、その意味を解せず、その世界にも入ってみることすらもせず、その文言をひたすら、百万遍(般若新教を百万遍唱えたところから来ているらしいが)般若心経を唱えるように、唱えるかのように言う人もいるのは確かだ。理解もせずただただ唱えるというような祈りが成文祈祷ではない。そのようなひたすら繰り返し、回数を競うような祈りと、ここでライトさんが言っている祈りとはちょっと違うように思う。義務的に般若心経を唱えることの意味は、よくはわからないが、儀式の先にあるものを考えずに儀式をやることは、死荷重(死んだ荷重は、Deadweightで死荷重ということがあり、ここでは死荷重としておく)や生命を失った枯木となっていることもあると思う。そして、それは、その形に人を閉じ込め、そして人を苦しめる場合があるのは確かだ、と思う。

                 

                宗教改革自身、その死荷重や、枯れ木となったものを除こうとした運動体であったという側面はあるだろうが、そこからも、偶像的なものを排するという形を重要視するあまり、儀式を大切にする人々や、その人たちが大事にしてきたものを排除するに至ったという悲劇を生んだような気がする。。

                 

                この部分を読みながら、あめんどうから出たリングマの本『風をとらえ、沖へ出よ』の記述を思い起こしていた。

                 

                物事が変わるためには、その出発点としてまず、人々の生活の中で伝統のなめらかな流れに裂け目が入るような、何かが起こる必要があります。疎外や失望の経験、より良い道の模索、教会史上のラディカルな運動について知ること、聖書に新しい答えを求めること、これらの、そしてまた他の多くの触媒が聖霊に用いられ、痛みを伴う模索が始まります。つまり、変革が一つの可能性となるのは、慣れ親しんだものがもはや信頼できなくなるときです。旧い選択肢がもう満足できないものになると、私達は新しい問いと選択肢を模索し、物事を新しい視点から見始めます。


                新しさを求める多くの人々の模索は、残念ながら正にその段階で終わってしまいます。伝統を問い直せば、自動的にオルタナティブなものが実現すると誤解しているからです。こうしたことは往々にして、ひどく勘違いされています。真に新しい答えやアプローチは、早々簡単に向こうからやって来ません。また、旧きをふるい落とすことは、私達が考える以上にずっと難しいのです。旧きは私たちの現在の価値体系の一部になっていて、それ故私たちの分別の一部であるため、そうとう執拗で頑固です。(リングマ著『風をとらえ、沖へ出よ』 p.135)

                 

                 

                ところで、ライトさんが、

                 

                「過去一、二年の間に出会った人だが、教会の会衆が新しい歌を採用し、会堂の通路で踊りだす人がいたのに驚き、その教会をやめてしまった。また他の人は、全く同じ理由からその教会に行くようになった。」

                 

                と書いていることは非常に面白い。それほど、教会と会衆というのは、非常に密接に関係しているし、教会というものは生き物である、あるいは生きているということなのだろう。教会は会衆に影響を与えるし、会衆は教会に影響を与えるものなのだろう。教会はその意味で、生きているということだし、固定されえないもの、ということをおっしゃりたいのかなぁ、と思った。我々は真理とか完全というと、それは固定されたものととらえがちだけど、そうでもない、ということなんでしょう。多分。

                 

                 

                心にしみたのは、ライトさんの「クリスチャンであるとは」から引用した文章の最後である。「そろそろ目を覚ましてもよい時だ。人はそれぞれ、人生のそれぞれの段階に見合った異なる種類の助けを必要とする。それを認め、それに合わせて歩んでいくべきである」というのは、50過ぎて教会放浪を始めた身には、実に心温まる一文であった。

                 

                 

                どうも近代の一貫性ということや真理観と言うことに苦しめられている人は、案外多いのかもしれない。早く、目を覚ましたほうがいい、本当にそう思う。もうすぐ、目を覚ます(ギリシア語での復活は、この意味を持つ語ないしは起き上がるという語がつかわれている)季節だからかもしれないが。今、伝統教派の教会で主日を過ごしつつ生きることを、個人的には実に喜んでいる。まさに、神の廃材にならずにすむように、神の配剤をいただいたのだなぁ、と思っている。どうせ、次の讃美歌のように、Though we are many, we are one body.なのだから。
                特に、Rachel Held EvansのSearching for Sundayを読んだときにもそれを思ったし、今度ロンドンに行かれるH先生から最近ご紹介されたEvangelicals on the Canterbury Trail: Why Evangelicals Are Attracted to the Liturgical Church - Revised Editionを読みながら、それを感じている。

                 

                 

                Though we are many, we are one body. という聖公会の式文で覚えた聖餐式の式文の一文がもとになった讃美歌

                 

                 

                 

                 

                インドネシアの教会

                 

                (↑ このサイトの画像を眺めると楽しいので、ご覧になることをお勧めする)

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 


                女性の美についての動画(美が文化依存していることを示した化粧の仕方についての動画)

                 

                 

                次回へと続く

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                評価:
                ---
                Thomas Nelson
                ---
                (2015-04-14)
                コメント:大変面白かったです。教派のお昼(愛餐会)の違いの辺の記述には吹いてしまいました。

                ---
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                ---
                (2013-01-01)
                コメント:非常に印象的な思いを抱きました。わが身に重ねながら読んでいます。

                2017.03.08 Wednesday

                N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その40

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                  今日も、いつものようにたらたらと、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の祈りについての部分を読んで、思ったことを考えてみたい。

                   

                  天と地が交わること

                  聖書の中には、人間の世界の中に時々天におられるはずの神が地に顔をお出しになった記事がかかれている。お友達の大頭さん風に言えば、神が人の世界に「はみ出してくる」ということになるらしい。典型的には、アダムがエデンの園にいたときがそうだし、ノアもそういうことを経験したろうし、アブラムも行き先を知らずにその父祖の地を出たときがそうだし、ヨブに「オリオン座のベルトを作ったのは誰か」と語り変えたときや、イエスの誕生のときにも、羊飼いにちらっと姿を見せているし、ステパノが息を引き取るときや、パウロがダマスコの途上で目が見えなくなるときも、神がこの世界にチラッと「はみ出してくる」瞬間だったのなのかもしれない。

                   

                  そのあたりのことについて、ライトさんは次のように書いている。

                  クリスチャンの物語(ストーリー)全体の中心点、すなわち、ユダヤ人の物語のクライマックスは、カーテンがすでに開けられ、戸が向こうから開け放たれ、ヤコブのように、天と地の間にかけられたはしごを昇り降りするメッセンジャーを垣間見ることである。『マタイ福音書』でイエスは、「天の王国が近づいた」と語っている。それは、その宣教以降、天に登ることのできる新しい道を提供したというわけではない。そうではなく、天の支配、天の真のいのちが、新しい形で地と重なっていることを告げたのである。(『クリスチャンであるとは』p.232)

                   

                  シャガール作 『ヤコブのはしご』

                  https://www.reproduction-gallery.com/oil-painting/1083726600/jacob-s-ladder-by-marc-chagall/ から

                   

                   

                  日本では、空が割れて出てくるのは、怪獣と決まっているが、聖書の世界では、天(それは文字通りの空という意味だけではなく、神がおられる場所、神のみ座、という理解になっているようだが)がわれたら、けっこう大変なことが起きるのである。

                   

                  空が割れて出てくる怪獣 バキシム http://blogs.yahoo.co.jp/dqmmc895/33719488.html から

                   

                  天がわれたとか、天が開けたとは書いてないが、エピファニーのときに覚える聖書箇所でもある、イエスがバプテスマを受けたときには天から声がしているし、変貌山のところでも、神の声が聞こえているという記述があるから、梯子を上り下しは見られなかったものの、神がニューっとこの世界に飛び出した、あるいは、この世界とつながった、あるいは、神がはみ出してこられた、ということになるのだろう。

                   

                  【口語訳聖書 マタイによる福音書】

                   3:16 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。
                   3:17 また天から声があって言った、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

                  このイエスがバプテスマを受けられた場面の場合は、天使がハシゴを上り下りはしてないが、聖霊が降りてきている。マサない天と地が繋がった瞬間であった。変貌山のうえでは、雲が覆っているし、そのため、ハシゴが見えなかったのかもしれない。個人的にはハシゴはメタファーであって、はしご車の上についている様なハシゴではないと思うけれども。

                  【口語訳聖書 マタイによる福音書】
                   17:1 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
                   17:2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
                   17:3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
                   17:4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
                   17:5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
                   17:6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。

                  Boston消防のはしご車チームとトラック 

                  https://americansecuritytoday.com/boston-fire-dept-dedicates-five-new-ladder-trucks-learn-video/

                   

                   

                  確かにイエスご自身が言い続けられたのは、「神の国が近づいた。だから、神の国に戻れ。あなた方が本来持つべき神との関係に帰れ。神と共に生きよ」といわれたのであって、「奇跡を起こせ」でもなく、「異邦の神々の宮に油をかけて、それを除け」でもなく、「献金せよ」でもなく、「伝道せよ」でもなく、「天国に人々を無理やり押し込め」でもなく、「癒しをせよ」でも、「天国に行く準備をせよ」なかった様に思う。只々、神のもとに戻れ、といわれているのである。案外忘れがちなことであるが、イエスは次のようにも言っておられることは思いだすべきかもしれない。

                  【口語訳聖書 ルカによる福音書】
                   17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
                   17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

                   

                  『炎のランナー』という映画の中で、実に印象的なシーンがある。雨の降る陸上競技場の説教の中で、その説教の最後を上のルカの福音書の聖書のことばで締めくくっている。

                   

                  『炎のランナー』の競技場でのリデルズの説教シーン

                   

                  その部分で、あなた方のただなかで の英語部分が、in you や among you ではなく、within you となっていることに気が付いた。日本語では「中に」という言葉でしか表せないのが実に残念であるが、このwithinという前置詞に今もビビビ・・・・という強烈な印象を受け続けている。in でもなく、amongでもなく、withinなのだなぁ、と思う次第。この聖書の箇所のこの前置詞にこだわって考えてみたいと思っている。

                   

                  まさに、ライトさんが言う次のことは、大事なのだと思う。

                   

                  「天の王国が近づいた」と語っている。それは、その宣教以降、天に登ることのできる新しい道を提供したというわけではない。そうではなく、天の支配、天の真のいのちが、新しい形で地と重なっていることを告げたのである。

                   

                  そう、我々のうち、within us に天の支配と天の心のいのちが重なっている、という理解なのであろう。それこそが、イエスが命をかけて伝えようとした「福音」であるのだなぁ、と思う。このあたりの事を考えられたい向きには、スコット・マクナイトの『福音の再発見』をお読みになられることをお勧めしたい。

                   

                   

                  祈り 地にあって天と地をつなぐもの

                  主の祈りの中で、いつも思うのが、「御心が天においてなるように地にもならせたまえ」(thy will be done on earth as it is in heaven )という部分である。祈っている場所は、この地上の教会やこの地上なのだけれども、神の国と訳されているが、神の支配そのものが地上で起きるということは、まさに、神の支配が地に及ぶ、我々のそばで起きるということでもあるのだなぁ、と思った。

                  クリスチャンの祈りは、二つに割れた断層の境目に断って祈るようなものである。それは、両側から引っ張られる二本のロープの端をつかみ、必死で結ぼうとするかのように、ゲッセマネの園でひざまずき、天と地を結びつけようと、産みの苦しみで呻くイエスによってかたちづくられている。(同書 p.233)
                   

                  ゲッセマネの園のイコン

                  https://jp.pinterest.com/pin/96334879507563953/

                   

                  ここの帯人さんの文章でも断層が出て来るが、基本的に断層はズレであり、それは、どのような人工物をもってもその断層を止めおくことはできない。圧倒的に断層の力積が大きいのだ。我々にできるのは、その断層(谷)に橋をかけるくらいのことしかできないのである。橋は、断層をつなぎとめているのではなくて、石橋を除いては、割と大きな橋でも、丸木橋がそうであるように断層や谷状の大地の崖の上にそっと乗せているに過ぎないのである。

                   

                  地上の橋ですら、谷間、あるいはギャップの上に、そっととだけ、載せたようなものではある。とは言え、それはものすごい効果を地域とその橋の周辺に住む人々にもたらすのである。淡路島は、ミーちゃんはーちゃんがいる場所から見えるところにあるが、明石大橋ができる前には、病人が出ようが何が起ころうが、台風や低気圧が来て風が吹けば、連絡船がでなくなり、島の外側には何があっても出られなかったのである。かなりの大風が吹けば、明石大橋も通行止めにはなるようだが。

                   

                  イエスのゲッセマネの園での苦しみは、想像を絶する苦しみであったが、弟子たちはすやすやお休みであったのである。高いびきをかいていたかどうかまでは、よくわからないが。

                   

                  ナウエンの「この盃が飲めますか」は、イエスの苦しみと孤独と、静まりの中で神と出会っていくことについての本であるが、一読をおすすめしたい。イエスの苦しみの杯と、弟子たち、そして私達の関係といったあたりのことに関することが書いてある。弟子たちは、イエスの杯のことを十分に知らず、「飲めます」と言ってしまったのだ。まぁ、我々も似たようなことはよくやるが、しかしそれでもイエスがこの弟子たちを弟子とし続けられたところに、我々の希望があるかもしれない。

                   

                  【口語訳聖書 マタイによる福音書】
                   20:20 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
                   20:21 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
                   20:22 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。

                  レントの期間だけとはいえ、イエスの杯を覚えることすら守れないときは守れないものなのである。

                   

                  自分でなんでもやりたがる病・・・

                  先日エホバたんの方が我が家にご訪問になられたらしい。その時、家人に対して、「講演会があって、何でもすべての問題が解決することが学べるのです」という謳い文句で、講演会にお誘いをしてくださったらしい。その話を聞きながら、「何でもすべての問題が解決がつく」のならば、「実際の自然河川に関するナビエ・ストークスの連立微分方程式(水理学に関する流体動的力学モデルを示す方程式体系)を解いてもらおうか」とか、「無料で英文の校正をしてもらうのもいいなぁ」あるいは「ローンの残高を減らすという大問題を解決してくれるのかしら」とか愚にもつかない事を連想して遊んでいた。

                   

                  現代人は、なんでも自分でやりたがるから、すべての問題がなくなる、とか言われると、フラフラついていく人もいるから彼らはそんなふうなかたちで伝道するだろう。その昔、自分たちのキリスト者集団群でも、そういうことをいわゆる伝道集会という場で、公式に「聖書の中にすべての解決がある」とおっしゃられた人がおられたことは、前に書いたかもしれないが、これもまた無理筋である。本来は、「聖書の中にすべての解決がある(ただし、個人の感想です)」とでも言うべきなのだと思う。理性でも解決できないものは解決できない事がある、と素直に自分の非力さを認めて生きるほうが、よほど素直で良いと思っている。それを、なまじ、啓蒙主義なのか、ロマン主義なのか知らないが、人間が解決できると思っているからややこしいことになるのだと思う。

                   

                  助けはとくに、私達の前に道を歩んだ人のうちにある。ここでの難しさの根底にあるのは、自分でことを行いたがる私達現代人の傾向である。誰かの助けを得ると、それは「本物」とは言えない、自分の心から出たものではないと心配し始める。そのため、別の誰かが祈った祈りを使用することに、すぐに疑いを持つ。あたかも、自分でデザインして服を作らなければ、正装としてふさわしくないと感じる女性のようなものだ。(同書 p.234)

                  世俗の仕事で、計算機をいじる仕事をしていると、「未だに計算機はなんでも解決してくれる、職場の人間関係まで解決してくれるのではないか」という美しい誤解をもってご相談をお寄せくださる方々がおられるが、その際、「計算機はそんなことはできません。いまご相談の内容で、計算機がご相談者の方のご苦労を減らすことにご貢献できるのは、ここまでです」と明確に言い渡すことにしている。

                   

                  もう、いい加減、計算機がかなりデキが悪いことは知られてもいいはずなのだが、最近は、またぞろ、新聞やテレビで、ビッグデータとか、A.I.(人工知能)だとかって言うから、そのことを聞きかじっただけでご相談に来られる方には、冷酷なようだが、人間にできること、計算機にできること、計算機にはできるが人間にはできないこと、計算機にも人間にもできないこと、とわけてご説明するようにしている。

                   

                  余談に行き過ぎたので、本論にもどすが、ここでの話題は、誰かの祈りを借りること、すなわち、成文祈祷でいのること、に関してである。以前は、『成文祈祷は心のこもってない祈りではないかという疑惑』を若気の至りゆえもっていたが、今では、そんなものはどっかに行ってしまった。成文祈祷が良くできていて、優れた式文に参った状態となっているのだ。

                   

                  今ほぼ毎週参加している教会では、伝統教派でもあるので、成文祈祷プラス自由祈祷プラス沈黙の祈りが適当にミックスされた構成になっている。成文祈祷はみんなで祈れる、女性も参加できるという良さがある。代表祈祷になると、代表祈祷で祈る教会では、祈る人だけは声を出して祈るが、他の人々は、聞くだけの役割、聞きながら心を合わせるだけの役割、聞きながら心を合わせているはずがいつの間にか、ゲッセマネの園の弟子たちよろしく眠りこけてしまう役割をはたすことになる。ミーちゃんはーちゃんがいたグループのキリスト者集団では、15分も20分も一人で祈る人がいて(祈ると言いながら、福音書注解をしている場合が実は多かった)、こうなったら、ゲッセマネの園の弟子たちの世界に、中高生時代はまっしぐらであった。

                   

                  また、ある教会にご訪問したときの出来事であるが、日曜日の礼拝行事を締めくくる、いわゆる祝祷に当たる直前の部分の祈りとなるのではないか、と思う祈りを女性信徒の方が頼まれてしていると思しき場面に出会った。とは言え、その中身が、実は、いわゆるCorrect あるいは 牧会祈祷に当たるものを延々と祈っておられるのだが、間違えたらいけない、ということなのか、祈るべき内容を原稿用紙にびっしりと書いたものを読み上げておられた。相当緊張しておられたのであろう、その祈るべき内容の書かれた紙を持つの手が震えるからか、紙が震えるたびにバリバリと鳴らしながらであった。いたたまれない気持ちになった。そんなんなら、成文祈祷をみんなで祈るほうがよほどいいのではないか、と思ったほどであった。まぁ、そこの教会はそのような一般の信徒さんに関与してもらう文化なんだなぁ、と思いながら、様子を拝見していた。

                   

                  祈りについての現代の活動って・・・一体?

                  近代になって分派を繰り返し、分裂を繰り返しているキリスト教プロテスタントグループでは、「祈り」がわからなくなっているのかもしれない。とくに沈黙で放置されると、恐怖を感じるようになっていることを、ナウエンはThe way of the heartで次のように指摘している。

                  One of our main problems is that in this chatty society, silence become a very fearful thing. For most people, silence creates itchiness and nervousness.  Many experience silence not as full and rich, but as empty and hollow.(The way of the heart. p.49)

                   

                  ミハ氏私訳

                  現代社会の重要な問題の一つは、このおしゃべりな社会において、沈黙は最も恐ろしいことの一つになってしまっているということだ。多くの人々にとって、沈黙は体をすぐ動かしたくなりそうになったり、落ち着かない気持ちになってしまう。多くの人々は沈黙を満ち満ちたもので豊かなものとして解するのではなく、空虚で怪しげなものと感じている。

                   

                  静まることは、あるいは沈黙を守ることは、不必要に空白を埋めないことと似ていると、以前にもこのブログ記事で書いたが、どうも西洋近代を経過した人間は、その空白、余白の世界にはいっていくのではなく、それを埋め尽くすという妄想というのか、埋め尽くさなければという強迫観念に現代人は捉えられているようだ。そして、黙って、座ってニコニコして過ごす時間を無意味なことばやゲームや音楽やラジオ番組の会話などで埋めることに必死になっているようである。現代人は、ことばで埋め尽くそうとするようである。アメリカの大学院で院生のお世話をしていたときに、一緒に指導していた年長の先生が、現地の大学院生のうち、なんでも手を上げて、発言する学生のことを、「彼らは、なんでも言いたがる。人の話を聞かない、考えていない、脊髄反応しているようで、まるで口から生まれてきたのではないか」と言う趣旨のことをおっしゃっていたが、現代の社会は日本社会でもそんなところがある。言ったもんがちみたいな世界である。

                   

                  そのあたりのことを念頭に置いてであろうが、ライトさんは祈りについて、次のように書く。

                   

                  率直に言えば、イエスが指摘しているように、心の深くから出てくるものは本物であっても、そう美しくない場合が多々ある。一世紀のユダヤ教の現実的世界から来る新鮮な息吹は、自己陶酔的な(究極においては高慢な)「本物」へのこだわりという霧を吹き払うのに足る。イエスに従うものたちが祈りを教えて下さいと訪ねた時、イエスは彼らをスモールグループに分け、自分たちの心の中を深く見つめなさい、とは求めなかったし、ゆっくりと自分の生涯の経験を振り返りなさいとも求めなかった。各自がどんなタイプの性格かを調べなさい、とも求めなかったし、みずからの隠れた感情に触れる時間を過ごしなさい、とも求めなかった。(同書pp.234-235)

                   

                  このなかで、「心の深くから出てくるものは本物であっても、そう美しくない場合が多々ある」ということは、おそらく次の聖書箇所が念頭にあるのではないだろうか。

                  【口語訳聖書 マルコによる福音書】
                   7:17 イエスが群衆を離れて家にはいられると、弟子たちはこの譬について尋ねた。
                   7:18 すると、言われた、「あなたがたも、そんなに鈍いのか。すべて、外から人の中にはいって来るものは、人を汚し得ないことが、わからないのか。
                   7:19 それは人の心の中にはいるのではなく、腹の中にはいり、そして、外に出て行くだけである」。イエスはこのように、どんな食物でもきよいものとされた。
                   7:20 さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。
                   7:21 すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、
                   7:22 姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。
                   7:23 これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。

                  まぁ、実際にそうだよなぁ、とは思う。さらにいえば、イエスの例え話に出てくる、パリサイ人の祈りも、彼の心の中から出たものであったのではなかったろうか。

                   

                  【口語訳聖書 ルカによる福音書】
                  18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
                   18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
                   18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
                   18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
                   18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

                   

                  現代では、祈りについて、様々な取り組みをするグループがある。それは、ある面、成文祈祷を捨ててしまい、そのような習慣を、現代のプロテスタント派の教会が宗教改革以降数百年断つうちに、捨て去ってしまったことにあるのかもしれない。そして、自己中心的な祈り、自分のうちにこそ本物の祈りと呼べるものがあり、その本物を神の前に出すべきであり、それ以外は真の祈りではない、という思い込みそれを揶揄してだろうけど、上の文章では、「自己陶酔的な(究極においては高慢な)「本物」へのこだわり」とかかいておられる。あるいは、次のように書いている。

                   

                  イエスは彼らを
                  スモールグループに分け、自分たちの心の中を深く見つめなさい、とは求めなかったし、
                  ゆっくりと自分の生涯の経験を振り返りなさいとも求めなかった。
                  各自がどんなタイプの性格かを調べなさい、とも求めなかったし、
                  みずからの隠れた感情に触れる時間を過ごしなさい、とも求めなかった。

                   

                  そうなのだ。まぁ、この部分は、ちょっと言い過ぎ、という気がするが。

                   

                  そして、上で示したものは、非常に現代的な祈りのパターン化の一部の例示であり、主の祈りに変えて、別のものを持ち込んでしまったのかもしれない。それも聖書の根拠があまりない、伝統にない新しい方法論やそれが始まった当時は新しいと言われた方法論を。(あ、決して、メソディスト派の人たちをディスっているわけではありません。尊敬してます。ホントですよ。)まぁ、それが今日は的伝統になっているのなら、それは仕方がないと思うけれども、もし、プロテスタントが聖書に忠実であろうとし、聖書信仰が云々というのであれば、まず、一旦は聖書に戻り、イエスが教えたことは何だったのか、に戻る必要があると思うなぁ。

                   

                   

                  次回へと続く

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

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                  ヘンリ・J.M. ナウエン
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                  ---
                  コメント:非常に良い。

                  2017.03.06 Monday

                  N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その39

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                    今日も、N.T.ライトさんの「クリスチャンであるとは」の中から、祈りと被造世界との関わりに関する部分を、いつものようにたらたらと読んでみたい。

                     

                    クリスチャンの祈りについて

                    主の祈りについて、ライトさんは次のように語っている。

                     

                    クリスチャンの祈りは単純である。小さな子供でも、イエスの教えた祈りを祈ることができる。しかし、その中身を実際に行おうとし、その要求を満たそうとすると難しい。( 『クリスチャンであるとは』p.228)

                     

                    確かに、イエスの『主の祈り』は子どもでも唱えられる。ご近所にカトリック系の幼稚園に行かれたお子さんがおられて、幼稚園に入った頃は、毎日のように子供らしい可愛らしい声で、主の祈りを唱えておられた。それを聞きながら、なんとも言えない気分になったことを思い出す。と言うのは、その可愛らしいお子さんの声で、主の祈りを祈られると、その祈りの通りをしているのか、と言われると結構厳しいものがある。

                     

                    とくに、

                    わたしたちの罪をおゆるしください。
                    わたしたちも人をゆるします。
                    とはなかなか言えないし、
                    み国が来ますように。
                    と言ってしまうと、「終末来た〜〜〜」になりそうだし、
                    みこころが天に行われるとおり
                    地にも行われますように。
                    みこころが行われるよりは、自分のお心が行われることを望みたくはなるし、みこころが地にも行われる、ということを考える時、そのための犠牲になるのはなぁ、と思ってしまいそうになる。
                    わたしたちを誘惑におちいらせず、
                    悪からお救いください。

                    誘惑にはすぐ負けてしまうミーちゃんはーちゃんは、実に残念な気分にならざるをえない。確かに、この祈りの内容を、実際に、我が身で実現することは、真剣に考えてみると、実際にそれが実現することに関与しようとすることはかなりいろいろ困難な事はあるよなぁ、とは思う。

                     

                     

                     

                    アラビア語での主の祈り

                     

                    アラム語での主の祈り

                     

                    アラビア語での主の祈りとインドネシア語での説明らしい

                     

                    ギリシア語での主の祈り

                     

                    スペイン語での主の祈り

                     

                     

                     

                    天と地が重なる地点と時点

                     神を信じて生きる人々にとっては、空間的な意味(この場合は時間軸が無視されることになる)において、その人のいる場所が、人間が生きている場所に、神の霊としての聖神が望むという意味において、その場所は、神と人が交わる地点となる。さらに、時間軸的な意味(この場合は、空間に関する3次元の軸が無視されることになる)において、神とともに人が生きるというその歴史的な時間軸での出来事(カイロスの意味での時間ということになるかもしれないが)において、神と人が交わる時点となる問ういことなのだろう。

                    時空間データベースの概念図 http://turbulence.pha.jhu.edu/
                    こう書かざるをえないのは、人間の時空間処理能力が限られているからであって、色々それを補完するツール(例えば時空間データベース)は生まれているが、まだまだ完全なものとはいえない。あと、空間と時間に関していば、空間の場合は3次元空間の高さ方向の移動は制限されるものの、人間にとっては、疑似2次元平面上での移動の前後左右、あらゆる方向での移動は可能であるものの、時空感情では、移動の方向性は限定的であり、歴史的不可逆性という制約を受けているようなきがする。Back to Futureはできないのである。

                     

                    Back to Futureのポスター http://pcwallart.com/back-to-the-future-poster-wallpaper-2.html から

                     

                    私たちは天と地が重なり合う地点で生きることに召されている。――この地は、来るべき日の到来までは完全には贖われない――そして、神の未来とこの世界の現在が重なり合う時点で生きることに召されている。私たちは、天と地、未来と現在が衝突し、地殻変動で地鳴りのするプレート上の小島に幽閉されているようなものだ。(同書 p.229)

                     

                     

                    ところで、ここで、目が止まったのはライトさんの次の一文である。「私たちは、天と地、未来と現在が衝突し、地殻変動で地鳴りのするプレート上の小島に幽閉されているようなものだ。」我々は激動する社会の中にいる。本来の神の国の論理である、天の論理、神の国で完成した暁に実現する未来の論理と、現在の社会の支配的な論理、地の論理とたしかにその間で押しつぶされようとする騒がしい日々の中で生きていることを強いられている。心の静粛はどこにあるのか、平和はどこにあるのか、という世界の中に我々は生きざるを得ないのである。この記事を見たときに、ここのところ思い起こしているエリヤが神の山で神と出会ったときのことを思い出した。

                     

                    あそこでは、雷鳴がとどろき、地震が起こり、大風が有り、火が現れた。この地の恐ろしげなる地震雷火事(親父はいなかったが、神は親父以上だったかもしれない)の中には神はおられず、親父殿である神は、これらの天変動地の中にはおられず、静まり、静粛の中で、エリヤに語られたのである。

                     

                     

                    【口語訳聖書 列王記 上】
                     19:8 彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。
                     19:9 その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
                     19:10 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。
                     19:11 主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
                     19:12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。
                     19:13 エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
                     19:14 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。
                     19:15 主は彼に言われた、「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。
                     19:16 またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。
                     19:17 ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。
                     19:18 また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。

                    こういう旧約聖書の場所を見ても、我々は、目の前に繰り広げられる天変動地にとらわれることなく、我々が神と出会う場所である静まりの空間を自らの中に用意することが必要なのだろうと思うし、そのための静まりの期間が、レントや大斎の期間であるし、更にいうと、日曜日は神と人々が出会うため、神のみ前に出て、聖餐を神の体なる教会の人々とともに味わい、我々は多くのものからなっているが、我々は神にあって一つである、ということを覚えるのであろう。ちょうど、先日、ナウエン研究会で読んだところには、このような文章があった。

                    Our task is to help people concentrate on the real but often hidden event of God's active presence in their lives. Hence the question that must guide all organizing activity in a parish is not how to keep people busy, but how to keep the from being so busy that they can no longer hear the voice of God who speaks in silence.

                     

                    Calling peole togather, therefore, means calling them away from the fragmenting and distracting wordiness of the dark world to that silence in which they can discover themselves, each other and God.  Thus organizing can be seen as the creation of a space where communion becomes possible and community can develop.  (The way of the heart  pp. 53-54)


                    ミハ氏私訳

                    司祭たちの仕事は、実際に存在するものの神が隠れておられるものの、生き生きとした実在の中に人々が集中できるようにすることである。したがって地域の中での活動を組織するときには、その活動が、人々を忙しくしているのか、という観点で見るのではなく、むしろ、教会員の皆さん達が忙しすぎるために、神が静まりの中で語られる声がもはや聞こえない、ということがないように注意しなければならない。


                    したがって、人々が一緒に集まるように教会に集めるのは、彼らがこの世のことばが過剰であるために人々が相別れ、対立し、集中できなくなっている世界から呼び出して、静まりの中で、人々が自分自身の姿と、他者の姿(訳者注 神のかたち)と、神のみ姿を見出すためである。よって、教会の中で環境を整えるということは、共に聖餐をし、ともに共同体を作り上げるためのスペースを作り出すことができるようにするためである。

                     

                    そう、ナウエンが言うように、牧師や、司祭たちが、天と地が合う場所や環境を整えることは、実に大事なことなのだと思う。

                     

                    とは言え、賑やかでエネルギッシュな礼拝が嫌いだ、というわけではない。明るい礼拝は好きだが、その中に静粛の一時、神と出会うためのひと時があるともっといいとは思っている。それを大きな音で満たすのは、神と出会う機会を大きく損なうことになるのではないか、と思っている。

                     

                    なお、この神と出会うと書くと「出会い系キリスト教徒」とか言われそうだが、そうではない。あくまで、神に明け渡し、神に心をひらいていき、そこで語られない神と向き合う、会えないかも知れないが向き合うための時間をとるという意味である。ある面で揺れ動く小島の中にあって、ブレることのないこの世界に働きかけられる神を見たいという思いを持つということである。ミーちゃんはーちゃんは、神が直接語りかけられるのを聞いたとは言わないし、言えない。あくまで、未来を見たい、神を見たいと思っているだけであり、神を直接、見たことがないことは明確に告白しておく。

                     

                    被造物の管理を任されたものが

                    被造物と、神の霊とともに呻く レントの季節に

                    先日のポストである 大斎の意味 という大阪ハリストス正教会での講演会に行ってきた でも少し書いたが、この時期は、自分の弱さを見つめ、その弱さに頼るのではな苦、神に頼るということを学ぶために大斎の期間を過ごす、というお話を伺ったことを書いた。その意味で、このレントの期間、大斎の期間、神の前に完全でない経験をすることは、自分たちがブレることのない力をお持ちの神に頼りながら生きるしかない、ということを、ちょうどバプテスマの前に学んだことを、毎年毎年繰り返す中で、何度でも自らの体験として身につけるために、身にしみて思い知るための期間なのだと思う。

                     

                    生物学者ではないので、なぜ、人類を霊長類に分類するかは知らない。人類は霊長類の中でも特権的な立場にあるということを、前提においた議論なのかもしれない。

                     

                    ある面、聖書は、神と語り合う存在として、神と共に生きる存在であるとして人類を描いている。その人類が、事もあろうに神の被造世界を台無しにしてしまい、その台無しにしてしまった影響をブーメラン効果よろしく、人間は自ら受けているのだと思う。人類は霊長だとは言うものの、霊長として神からのこの世界を管理せよ、という命令には完全に失敗しているような気がする。1タラントを与えられたしもべは、その1タラントを増えさせもせず、土の中に埋めたらしいが、人間は、1タラント与えられたのに、10コドラントにしてしまったようなものではないか、と思う。

                     

                    そして、この地との関係を破綻させてしまった挙句、人は額に汗して働かねばならず、モーセ爺さんの言い分ではないが、人は健やかであっても80年でこの世とおさらばせねばならず、おさらばするときには人は呻かざるをえないようなのである。しかし、神は、創世記での約束を忘れることなく、我らとともにいてくださり、世界の痛み、人類の抱える痛みと共鳴するかたとして、聖霊なる方(聖神)を我らにお遣わしになってくださり、その御方を、われらという仮庵の中にお迎えしているにすぎないのである。神と人との裂け目にモーセが立ったように、人間のうめきを神は、一部ご自身のものにしてくださっているのだろう。

                     

                    そのあたりのことを、ライトさんは次のように書く。

                     

                    この不思議な新しい約束(現在のこの地において、新しい世界が始まろうとする中で、苦しむ全被造物の世界の一部をなすものとしてクリスチャンがいること)は、クリスチャンの祈りの特徴であり、汎神論、理神論、その他の多くのものと一線を画す。それは、聖霊によって、神みずからが、世界の真ん中からうめいていることである。なぜなら、神みずからが聖霊によって、世界の痛みに共鳴する者として、私達の心に住んでいてくださるからである。(中略)

                     

                    その神は今や聖霊によって、世界の苦痛(理神論が決して思い浮かべもしない点だが)に届いている。それは、イエスにあって、また聖霊によって祈る私達のうちで、私達を通して、すべての造られた者のうめきが、私達の心を探る御父ご自身に届くためである。(ローマ8:27)(同書 p.230)

                     

                    たしかに、神はご自身から人の世界の中に、でしゃばるように出てくるように語られない方のように思う。それが出てくるときにはとんでもないときであることは、旧約聖書を見れば明らかだし、そこに立ち会うことは人間には不可能で、死ぬしかないことが多いようである。しかし、人間の痛みに直接言葉を持って、直接の介入をもって、われわれには答えられないかもしれないが、人間の痛みやうめきを聖神なる神が受け止めになられ、その人間の痛みやうめきを神が聞いてくださる、という期待はあるし、それを思うから、次のように祈ることができるのである。つい最近も、エピファニーのときの式文に、次のような式文があった。

                     

                     

                    Lord, in your mercy
                    hear our prayer.

                     

                    Lord, hear us.
                    Lord, graciously hear us.

                     

                    God of love
                    hear our prayer.

                     

                    Father of all
                    hear your children's prayer.

                     

                    In faith we pray
                    we pray to you our God.

                     

                    Lord, meet us in the silence
                    and hear our prayer.

                     

                    上の式文の太字の部分は、司祭も、参加者も共に声を出して祈る。この全員で同じ式分を言うときに感じる不思議な感じ、一つにされた感じはなんだろうか、と思う。確かに、昔は式文での祈りはつまらないものだと思っていた。成文祈祷をあまり尊いものとはしてこなかった。以前にも書いたように、成文祈祷は、石のような祈りと思っていたことは確かだ。

                     

                    しかし、司式者や、司会者や、司祭や牧師が祈っている内容に心を合わせているつもりではあったが、このようないのりを全員で声を合わせて祈る時、つまり、この共同で同じ文章を読む体験をするときには、その時とは違った一種独特のものがある。これは本当になんだろう、と思う。

                     

                    ところで、この部分を読みながら、天と地が交わるということを考えると、荒野で、アロンが死者と生きている人々の間にたったように、ちょうど聖霊なる神は、あるいは、キリストは、現在と未来の間で、天と地の間、神と人の間におられるのだろう。

                     

                    【口語訳聖書 民数記】
                     16:44 主はモーセに言われた、
                     16:45 「あなたがたはこの会衆を離れなさい。わたしはただちに彼らを滅ぼそう」。そこで彼らふたりは、ひれ伏した。
                     16:46 モーセはアロンに言った、「あなたは火ざらを取って、それに祭壇から取った火を入れ、その上に薫香を盛り、急いでそれを会衆のもとに持って行って、彼らのために罪のあがないをしなさい。主が怒りを発せられ、疫病がすでに始まったからです」。
                     16:47 そこで、アロンはモーセの言ったように、それを取って会衆の中に走って行ったが、疫病はすでに民のうちに始まっていたので、薫香をたいて、民のために罪のあがないをし、
                     16:48 すでに死んだ者と、なお生きている者との間に立つと、疫病はやんだ。
                     16:49 コラの事によって死んだ者のほかに、この疫病によって死んだ者は一万四千七百人であった。

                     

                     

                    次回へと続く

                     

                     

                     

                     

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                    2017.03.04 Saturday

                    大斎の意味 という大阪ハリストス正教会での講演会に行ってきた

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                      2017年2月26日に大阪ハリストス正教会で実施された、大斎(おおものいみ と読む)の意味と題された松島司祭の講演会に行ってきたので、今日はちょっとご報告してみたい。以下、わかりにくい点、あるいは、間違いがあるとすれば、当日現場で速記をとった、ミーちゃんはーちゃんによるものである。

                       

                      大斎(おおものいみ)の開始日に

                      講演会に参加させてもらった日が、乾酪(かんらく)の主日ということで、正教会の伝統では、この日が大斎の開始日に当たる主日である。西方では、灰の水曜日からレントが始まることになっているけれども、正教会ではこの日から始まる。なお、この乾酪の主日には、チーズや卵類を食べつくす主日ということになっている。(ミーちゃんハーちゃん註 その日はたまごサンドイッチがお昼ごはんに出たらしい)

                       

                      イースターの期間に向けての準備期間
                      この大斎の機関は、復活大祭(イースター 以下イースター)に向けて、心と体の準備をするための時間といえるだろう。復活祭への心と体の旅として覚える日々でもあるといえ、この時期は、一種の神との関係を深めるための特別強化月間ともいうことが言えよう。イースターの時期から始まる特別祝祭期間をよりいっそう深く味わうことができるように、より明るいものに変えるための準備の機関であり、イースターから、その前の7週間は司祭たちは黒い服を着る。その意味で、ある種の服喪期間であり、日本風に言えば所謂精進の期間であるとも言えるだろう。

                       

                      大斎とは、もともと、初代教会でのイースターを迎える前の断食は短い期間で行われたものだった。それが、次第に長くなり、4世紀には現在の長さになった、と言われている。また、この時期は、伝統的に復活祭にバプテスマを受ける人々へのカテキズムを学ぶ最後の期間となっていた。また、伝統的に断食を通してキリストの十字架とその復活の意味と受洗の前の教育で受けた内容を思い出す期間としても利用されていた。(ミーちゃんハーちゃん註 このあたりは、赤木善光さんという方の『宗教改革者の聖餐論』の中でも触れられていたように思う。)

                       

                      函館ハリストス正教会の大斎期間の写真 http://orthodox-hakodate.jp/info/2586.html から

                       

                      強制ではない大斎の断食
                      大斎の平日は、魚を含めて肉を食べない期間であり、乳製品や卵もとらない期間となっていた。なお、土曜日日曜日は、アルコールを取ることが許されるとされている。そのように食事帰省を守るかどうかは、本人の意志と主体的関与に関する問題ではあり、なお、教会ではこれが伝統であるということは言っており、決して、信徒に強制しているわけではない。授乳期間や、施設生活をしている人々は、例外となっているという側面もある。

                       

                      キリスト教会では、もう最近は、食べ物の節制ということは、あまり話題にならない。西方では、もっと言わないようになっている。カトリック教会では、以前ほど食べ物のことは強調されなくなっており、この節制の代わりに、レントには愛の行い、隣人愛の行いが勧められる事が多く、西ヨーロッパで成立したキリスト教では、レント期間であっても、それ以外の普段の生活とあまり変わらない生活になっていることが多いのではないだろうか。なお、カーニバルは、レント前に肉を食べつくすお祭りとして残っている。西ヨーロッパとかアメリカでは、カレンダーに四旬節と小さな文字が付いている程度、としてしか理解されてないことも少なくない。

                       

                      とは言え、正教会を含む東のキリスト教においても、濃度の違いで、その伝統の守られ具合に濃淡があるのは同じである。以下、正教会が辛うじて伝えてきた大斎の意味を考えてみたい。

                       

                      精神的なおすすめに変わる背景とその問題
                      食べ物の制限が守られないなら、せめて、聖書通読をすることや、病者への訪問することや、あるいは、テレビを見ないと行ったような、善い行いをすすめる事があるのだけれども、それで本当にいいのだろうか、と言う側面がある。食べ物の制限を通した、身体的な実践が精神的なもので埋め合わせができるとしているとしたら、それは精神が身体に優先していることになり、正教会の伝統とは少し違うと言わざるをえないのではないだろうか。

                       

                      イカ・タコ・エビはOK?
                      この大斎の期間は、タコやイカ、エビやカニは、普段の食事で食べていい事になっている。この部分の食物制限がない理由の背景には、ユダヤ教の伝統との関係から考えられるかも知れない(ミーちゃんハーちゃん註 ユダヤ教の食物規定では、これらはNGであるとされている側面はある)。肉体よりも霊的なこと、精神的なことが優先されていることが問題になっているように思われる。イカ・タコ・エビを食べて良いとするのは正教会の修道会の歴史のなかから生まれたのかもしれない。確かに、実際、青みの魚を食べることで、妙にエネルギッシュになってしまう修道士達が生まれたことなどもあるのではないだろうか。


                      肉体と精神の関係は本来一つ
                      精神よりも身体性が重要だということが強調されることはあるのだが、本当にそうなのだろうか。確かに、このようなことを考える根拠聖句として、「人は、パンのみにて生きるのではない」という聖書記述があるけれども、「パンなしで」とは聖書は言っていないことはもう少し考えたほうがいいかもしれない。そこでは、精神と肉体との対立の思い込みが、このような精神の肉体に対する優先というような読みの中に隠れている、入り込んでいるのではないだろうか。

                       

                      もう少し言うならば、この考え方の背景にあるのは、霊の世界は善であり、物質世界は悪という思い込みがあるのではないだろうか。あるいは、肉体的なものは悪、偽りであり、霊的あるいは精神的なことは永続的、という思い込みもあるかもしれない。その意味で、この大斎の機関は、我慢する力をつける、精神の向上を促すためのものとして大斎が用いられてきたのではないか、と思う。


                      正教会での食べ物の理解
                      正教会の食べ物理解を考えたい。キリスト教では、人間は神によって創造されたのである。神は人をどのようなかたちにでも創造でき、人間という存在をかなり自由に規定させることができたはずである。極端な話、人間が太陽光で光合成して食べ物を必要としないかたちで、創造することもできたはずであるが、そうではなく、食べ物をなぜ、人間が必要とするように創造されたのだろうか。

                       

                      ある家庭集会で、そのような話をしたときに、ある子どもが、「ごはんを食べるように作られたのは、ごはんが美味しいから」と言ったことがある。これは、正教会的には正しい答えである。ある面、神様は、ごちそうを人間に毎日食べさせたいから、そのように創造された、とも言えるだろう。

                       

                      正教会的には、物質の世界と霊的な世界は、密接に結びついているところがある。物質の世界と霊的な世界は本来一つであったが、人間が、本来一つであり、同じことだったものを、別のものとして扱うようにし、対立的な関係として扱わねばならなくなった。例えば、エデンの園のものは全て食べていい、と神はいっておられる。エデンの園では、感謝と喜びで食べ物を食べることができた。その意味で、エデンの園の状況は、神が「良かった」と言われているように、エデンの園での、神と私達と食べ物の関係は非常に良かったのであった。

                       

                      クリスマスなどが典型的だが、クリスマスにしても誕生日にしても、プレゼントは物質ではあるが、プレゼントそのものが、その送り主を示すことがある。

                       

                      象徴そのものではなく象徴が指し示す実体が重要
                      象徴といった時、象徴としてのもの、記号ではなくて、現実という側面がある。象徴とは、本来触ることができないものについて、この地上で現実化したのとして目に見えないものを指し示しているものが、象徴ということではないだろうか。象徴とは、真実を感知するための認識の手段だけではなく、認識そのものが実在に関与するためのものであるように、象徴は、目に見えないけども存在するものに関わるための手段であり、象徴があるところには、象徴しているものが実在するという理解が正教会の伝統的理解である。

                       

                      宗教改革期に、シンボルという語の使い方が、ないものを指し示す記号と理解が変質してしまったように思われる。象徴とは、神のみ思いに関与することとか、神のみ思いに、あるいは神の世界に、人間が参与するための手がかりの様なものであると言えよう。

                       

                      キリストの冒頭の二文字を示すシンボル  http://glasshousetheology.com/christian-symbols/ から

                       

                      象徴(シンボロン)とは 触る世界、モノの世界についてもも言えて、感覚でも知性でも捉えることのできないものを、絶対的な他者である神からプレゼントされたものといえるだろう。この世界は神からのプレゼントであったのではないだろうか。その意味で、食べ物を神が与えられたものとして体験して味わう世界があったはずである。神が人の使命として食べるようにされたとも言えるだろう。食物を食べて喜ぶことを人の喜びとするように、与えられたのが食べ物であり、そして、食べることで神に感謝して生きる生き方が、人間の創造されたときの本来の生き方であるといえるのではないか。その意味で、食べ物と霊的なことと一つであると思う。あるいは、食べるということが神との交わりの一つであるとも考えることができ、神から与えられたものを食べるということと生きることは一つであると考えることもできるだろう。ある面、人間は、この世界を食べて生きているのであり、神の被造物世界を取り込んで、人間は生きているとも言えるだろう。人が失ったのは、食べ物を神からの贈り物として受け取るという関係性だろう。その意味で、食べる場を神との交わりの場とするのではなく、結果的に、食べることを生存や快楽の手段とするようになった。

                       

                       

                      被造物の世界を横領し、簒奪した人間
                      人間が神からこの世界を横領して、切り刻んで、扱えるものにしてしまったものが近代と言えるだろう。食べることは肉体維持の手段になり、霊的精神的なことが神との交わりの手段になってしまった。それは、人間が被造物の世界を神から横領してしまったことになるのではないだろうか。(ミーちゃんハーちゃん註 スコット・マクナイト著『福音の再発見』では、人間が神のみ座の簒奪者になってしまった、という表現が出てくる。)

                       

                      キリスト教の中にも聖書、霊的なことだけを神からの啓示の唯一の手段としてしまう。パンとぶどう酒での聖餐式、聖体礼儀は受難の記念として実施しているに過ぎない、とする人々もおられるようだが、ハリストス(キリスト)が成し遂げたものは、ものの世界と、失われてしまった、神と人が交わる生き方を回復することであった。

                       

                      イエスは、ご自身をとって食べよ、とおっしゃった方であり、更に、盃を差し出して、これをとって飲めと差し出されているお方なのである。食べることの新しい意味を示された方であったのである。新たなる創造の世界を知らせようとされたのがイエスだったのである。その意味で、キリストの復活は新しい回復された世界を指す。この世界に生きることは、それ自体神との交わりの世界であり、生活そのものが、行きてこの世界に生きることが神への賛美であり、礼拝であるという生活であるといえるのではないか。それを、教会という神の国の先取りをした場で実現しつつある、と考えるのである。(ミーちゃんハーちゃん 註 なお、このことも、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』の礼拝や祈りのあたりの話として触れられている。)

                       

                      教会はイエスご自身のお体でもあり、その意味で、教会は、キリストの御体として、ご自身の体を差し出しているはずである。ちょうどエデンの園で、神ご自身がエデンの園のどの木から取って食べても良い、といわれたことが教会で再現されているようにさえ見えるのではないだろうか。正に、教会は神ご自身の体と血、神ご自身の御体になっている、と言われているのではないだろうか。

                       

                      領聖生活とは、聖なるものに領る生活であり、聖なるものを大事に味わって生きる生活である。我々の現在の日常生活は、食べ物に喧嘩腰に向きあっていくような生活になっっているのではなかろうか。食べ物を食い散らかすか、対立的に向き合うような生活になっている人間の姿ではないだろうか。自己中心的、人間中心的な情念により、神が与えたもうたこの世界や、神が与えたもうたこの世界と、そこから生まれる地の産物である食物と仲良くできなくなってしまっているのではないだろうか。

                       

                      大斎の機関、食事に関する制限するのは、もう一度贈り物としての食べ物を喜ぶためである。聖書にもあるように口に入るものである食べ物は心を汚すものではない。

                      【口語訳聖書 マルコの福音書】
                       7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。
                       7:15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。
                       7:16 〔聞く耳のある者は聞くがよい〕」

                       

                      食べないということを通して、食べることの素晴らしさを取り戻そうとしているのが大斎ということなのであり、もともとの世界の関係に大斎でに立ち返ろうとしているということでもあるだろう。あえて、食べなないことで、ほんとうの食べることの意味を取り戻そうとしているのが、大斎の世界である。

                       

                      救い(聞き手註:多分、『新世界の回復)の意味)のリアリティを取り戻すため、あえて食べず、祈りと物忌み(祈りと断食)によらないと奇跡は起きないという、ハリストス(キリスト)のことばもある。

                       

                      【口語訳聖書 マタイによる福音書】
                       17:20 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。
                       17:21 〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。

                       

                      ミハ氏註)))

                      新しい創造が起きる世界(いわゆる終末の完成)では、全てのこの地上の不具合についての回復があり、創世記一章で神が「良かった」とする世界の本来の姿が取り戻されるる世界を想定するので、ある種の奇跡は、完全な世界(それがどのようなかたちや姿のものであるかは別として)のこの地上で先行した実現となっている、という理解であることに由来するのだろうと思われる。このあたりのことは、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』でも繰り返し述べられるテーマである。

                       

                      とはいえ、断食したからと行って、奇跡ができるわけではない、と個人的には思っているし、奇跡を起こすために断食するのは、基本的に神の主権を認めていることにならず、人の主権を優先することになるように思うのだなぁ。

                      ミハ氏註)))

                       

                      断食による食べることの意味の回復
                       ところでなぜ、断食する期間を持つことは、食べることの意味の回復につながるのだろうか。私たちは食べ過ぎ。食べすぎた翌朝の厳しさはよく知っているのではないだろうか。

                       

                      断食をしていると、イライラしたり、余裕を失ったりするために、どうしても自分の弱さが露呈する。断食をすると、無気力になることもあり、これらのことを通して、どれほど、食べ物が我々の日常を支えているかを、実感を通して感じることになる。


                      大斎の期間を取ることは、この期間にある種の、しくじりをすることが大事なのであり、自分自身の弱さを通して、そして、肉体を通してそのしくじるさまを思い知り、神の前に立ち返ることに意味があるのである。とりわけ、しくじりの中で自分の弱さを知るのでだる。詩篇の中にあるように、砕かれた心、すなわち神の前に自らの弱さを認める心の大切さを覚えるためとも言えるのではないだろうか。

                      【口語訳聖書 詩篇】

                       51:16 あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても
                      あなたは喜ばれないでしょう。
                       51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を
                      かろしめられません。

                       

                      ウェア主教という、アングリカンから正教会へ移り、活躍した人がいるが、そのウェア主教は、大斎の意味は、神への依存を理解させるためであり、大斎の期間に感じる空腹と疲労は神への依存を気づかせるためである、と書いている。

                       


                      ところで、伝統宗教は空腹を経験させる。それは、人間の魂の渇きをとおして、魂の神と一体化する喜びを求めさせる部分があることの反映かもしれない。肉体の飢え渇きは、実際に、魂の渇きとつながっており、さらに、神への飢え渇きへと変わってくることを直感的に人間が知っていることに由来するのではないだろうか。

                       

                      奉神礼の祈りというのがあるが、この大斎の時期は、祈りのことばへの感受性が普段より深いものになってくることを経験する。ある意味で、断食が高める宗教的な感受性があるように思う。

                       

                      そして、この大斎の後には、神の食卓に招かれるという約束を具体的に象徴するイースターがあり、神の祝宴(セレブレーション)では、ものすごいごちそうが待っていることを味わうのだ。普段はなんの気なく食べている卵一個や、チーズのひとかけらが実に非常においしい、と感じるのである。あえて、食べないことで、食物の味わい深さを覚える大斎の期間の平日の準備が、日曜日の聖体礼儀において成就する、ということをより強く感じるのである。そして、日々の生活の意味(神の恵みに支えられている生活の意味)を感じる事ができるのである。なお、修道院では、一日が聖体礼儀で成就すると言うかたちで実現していく。

                       

                      その意味で、大斎の機関は、大斎のあとの成就としての到来する喜びの復活祭の準備機関でもある。ある意味、食べることは、食べるものを我々に与え、いのちのパンとして我々の御子を我々に惜しげもなくお与えになった、神との交わりでもあることを覚えることになるのではないだろうか。

                       

                      サクラメンタル・ライフ(機密的生活)という言葉があるが、それこそ、この神が与えたもうた、いのちに触れ、命をいただくことによって生かされている生活なのではないか、と思う。

                       

                      ミーちゃんはーちゃん的感想

                      概ね、講演の要旨をミーちゃんはーちゃんがまとめるとこんな感じになろうか、と。なるほど、伝統教派の世界とはこう言う構造なっているのか、と改めて感じ入った次第であった。

                       

                      このお話を聞いたときに思い出していたのは、アメリカにいるときは、販売されている生魚の処理がおっかなくて生魚の断食状態、お寿司の断食状態にあったときのことである。そういえば、納豆もなかなか美味しいのは食べられなかったので、冷凍され、輸入された納豆を時々食べていたが、そんなに美味しくはなかった。帰国した時に食べた回転寿司はこの世のものと思われないほど美味しかったし、帰国して最初に食べた、スーパーで売っている特売の納豆が、実に美味しかったこと美味しかったこと、そんな妄想がぐるぐる回っている状況の中で、お話を聞いた。

                       

                      あと、この講演でも明らかになったように、世界の新しい完成というか、新しい創造をこの世界で味わうというこの正教会の伝統的な考え方は、もともと、伝統教派がもっていたものであり、カトリックでも、これらの伝統がかなり変質してしまっている現状があり、プロテスタントでは、レントの期間がもはや認識されることすら少ない現状(まぁ、つい最近まで、ミーちゃんはーちゃんもそうだった)を考えると、N.T.ライトを読み、これらの概念に触れた方が、この講演会で述べられた正教会系の伝統に触れたら、いきなり正教会に転会とか転向はあるだろうなぁ、と思った。

                       

                      まぁ、ミーちゃんはーちゃんがアングリカン・コミュニオン系の教会に今、割と足繁く通っているのも、この辺の教会の伝統の重さと、その聖書理解と象徴との関係具合に触れてしまったからではあるのは確かである。もちろん、ミーちゃんはーちゃんが聖餐式マニアなのと、今足繁く通っている教会では、毎週どころか、週に二回も聖餐式に参加させてくださっているからではあるけれども。

                       

                       

                      回転寿司 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48327?page=3 から

                       

                      以上、参加した講演のご紹介でした。

                       

                      次回からは、N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』のご紹介に戻ります。

                       

                       

                       


                       

                      評価:
                      赤木 善光
                      教文館
                      ¥ 8,100
                      (2005-11)
                      コメント:非常に良かった。聖餐を考える際には非常に参考になった。

                      評価:
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                      コメント:おすすめしています。

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