これまで、日ユ同祖論について、その起源と聖書とのかかわり、オウム真理教とのつながり、洋行組が罹患した日ユ同祖論とその背後にある彼らのトラウマについてご説明してきた。本日の記事は、その大団円。今日は長め。


日ユ同祖論というトンデモ理論について その1

日ユ同祖論というトンデモ理論について その2

日ユ同祖論というトンデモ理論について その3


 
明治期のキリスト者をめぐる
ミーちゃんはーちゃん的与太話

 以下は、学問性のない与太話である(いつもだという説も濃厚)。

  日ユ同祖論という奇説にとらえられなかった人物にも明治期の海外在学組の悲哀の痕跡はうっすら見いだせるような気がする。内村鑑三の無教会の原点には、札幌農学校時代の宣教師たちからの傷があるだろう(ざっと知りたい方は、鈴木範久先生のNHKこころの時代〜宗教・人生〜 道をひらく 内村鑑三のことば NHK出版をご覧いただきたい)し、その結果、彼の場合、二つのJ(Jesus と Japan)へとつながっていく。新渡戸稲造の場合は、武士道という著書につながったのではないか。内村の教会内の写真をマーク・R・マリンズのメイド・ イン・ジャパンのキリスト教で見た時には、男女7歳にして席をおなじゅうせずという儒教以来の伝統というのか、を見せつけられたような気がした。

http://www.imaikankyoyukai.or.jp/public_html/image/imai_top008.jpg
この写真だったかな

 その意味で、日本はユダヤ人の子孫であるがゆえに、従来型の神道的な背景をもつ「神州(神の国、神風の吹く国)」というものではなく、キリスト教的な背景を持つ西欧列強と比肩するキリスト教的な背景を持つ従来的な意味ではない「神州(神の国)」にしたかったのであろうし、いやむしろ、それキリスト教的な神の国より優る「神州(神の国)」理解に到達するためには、ユダヤ教的な世界観を持ち込むしかなかったと思われるのである。まぁ、このあたりのことは、内田先生ご指摘の通りである。

 ところで、メイド・イン・ジャパンのキリスト教にも紹介されているキリストの幕屋というグループが日本には存在し、世界史的にもまれと思われる儀式形態論に独自に日本での聖書研究から到達したグループが存在しているが、そのグループの聖書理解の発展と現在の姿との関連も、このような背景をもう少し踏み込んで調査研究してみる必要があるかもしれない。

先任主義が生み出した日ユ同祖論かも?
 以前の記事で、帝国陸軍を支配し、現在も一部の社会で現役で活動中の先任主義(先に入隊したものが実力や能力と無関係に偉い、先に生まれたものが実力と無関係に偉いとする、態度)が日本のキリスト教界においても表れている可能性を指摘したが、ここでもその先任主義が顔を出しているように思えてならない。

 イエスはユダヤ教の会堂にかよったし、福音書の登場人物であるペテロやヨハネも会堂に通っていたユダヤ人であったし、パウロは、自分でも書いているようにローマ市民権を持ちながらも、ベニアミン族出身であるユダヤ人であると主張しておられる。その意味で、キリスト教にとって、ユダヤ教は先任関係にあたり、先任関係で考える限りにおいては、ユダヤ教のほうがキリスト教より偉くなるという構造があるのではないだろうかそして、もし、日本人の祖先、日本文化がユダヤ教由来のもので、その多くを失っているとすれば、日本人がユダヤ人だとすれば、自分たちの方が、自分たちをいじめ抜いた、自分たちに嫌なことを言ったキリスト教徒を自称する、西洋人やアメリカ人より偉いとなるではないか、と歪んだ劣等感の裏返しへと儒教理解をベースにするときに、容易につながることはなんとなく想像できそうである。


日ユ同祖論が正しいならば、
日本人とサマリア人類似説

 しかし、ユダヤ人にしてみれば、ユダヤ人としてのその本質、旧約聖書のことばをまもることを忘れ、少しでも異教化した「ユダヤ教のようなもの」は大変嫌われたことは新約聖書のサマリア人へのユダヤ人たちのあしらいを見ればすぐに理解できるはずであり、正統的なユダヤ人、捕囚から帰還したユダヤ人の末裔から見たら、けがらわしい存在でしかないように思うのだが、違うだろうか。なに、我等は善きサマリア人を目指すのかもしれないが。イエス様が善きサマリア人をほめてくださったので。日サ類似論って、だれか言い出さないかなぁ。

 日本人とユダヤ人がかなり違うことは食物への対応ですぐわかるのではないだろうか。大体、新約聖書で、パウロがペテロと大喧嘩してまで主張しなければならなかった食物規定に違反するイカ、エビ、タコ、カニ、親子丼(イスラエル在住のレビ先生から親子丼はOKとの旨のご連絡をいただいたので、親子丼は大丈夫な模様)をこよなく愛する日本人がユダヤ人と同じ祖先であろうはずがないようにおもうのだな。これらの食物のどこがNGか、すぐにわらかないようだと、モーセ5書を読みなおしたほうがいいよ。多分。食物規定は、結構伝承として残りやすい、とは思うけど。

日ユ同祖論が正しいとして、
なぜ主要な儀式が日本で消えたのか?

 あと、日本人がユダヤ人と同じ祖先だということをご指摘になられたい方には、ユダヤ教の人々がどんな迫害の中でも守りきった、現在もなお非イスラム的なアフリカ諸国においても維持されている割礼儀式や申命記6章のシェマー・イスラエルを唱える習慣(ローマ帝国時代のユダヤ人ラーバイのベン・アキバは迫害下において殺される時、このシェマー・イスラエルを唱え続けたとされている)がなぜ同祖であるとすれば日本において失われ、それ以外の周辺的な紋章や儀礼のみが残ったのか、ということをぜひ系統立ててご説明をお願いしたい、とは思う。それとも、日本のどこか秘境に、いまだにこのシェマー・イスラエルを覚え、そして新生児に割礼をし続ける村でもあるのだろうか。

 日本人は、シェマー・イスラエル(申命記6章)すら唱えることのないほど、サマリア人以上に異教化している日本であるように思うので、その様な状況を踏まえた時に、ユダヤ教の方にとって見て、お世辞にもユダヤ人と祖先が同じかも、とは言いにくいだろう。

 そもそも、母方が3代続いてユダヤ人じゃないと、正統なユダヤ人と、シナゴーグでは認めてもらえないらしいし。彼らは、同族での結婚にこだわり続けたことは、旧約聖書のヨシュア記、士師記、それ以降の歴史を見れば明らかではないか。そもそも、アブラハム、イサク、ヤコブの神であることを誇りにするのが、ユダヤ人ではないか。まぁ、ユダヤ人とは何か問題というのはあるけれども。それは内田先生の本に詳しい。

儒教とキリスト教
 井上先生の「日本人とキリスト教」の中で、江戸期中期以降、陽明学が日本に伝来する中で、キリシタンと陽明学が混乱して受け取られた部分があるらしい。ある程度学のある(文字が処理でき、典籍に沿って文章が書ける)武士たちの中で、幕府公認の公式の学である朱子学に対抗して、西国諸藩(辺境)の下級武士を中心に陽明学が学ばれて行く(上級武士は自己保身のため、そんなことはしない。殿からにらまれて、お家取りつぶしになるとかなわないので、そんなことはまずしない)。

 時に、西郷隆盛とか坂本竜馬とか、幕末の志士たちが聖書を読んでいた、ということがキリスト教界の中で時に高唱されるが、それはおそらく陽明学の関連で、その関係を見極めようとして漢籍(世界の古典)を読む延長というのか、漢籍そのものを読む感覚で漢訳聖書として読まれた可能性もあるのであり、聖書(漢訳聖書である聖経)を信徒として信仰の書として読んだ、のではないのではないか、と思う。

 なお、日ユ同祖論者が園理論が好きな背景の一つではないかと考えられるユダヤ教のキリスト教への優先が、日ユ同祖論を愛好する理由になっていることは、帝国陸軍の行動原理を支配した先任主義は、儒学からも影響を受けていた結果の一つでもあるように思う。祖先という先任者が偉いというのが儒学の根本原理だからである。

聖書を読んだら即クリスチャン関係者扱いの問題
 ところで、幕末の志士が聖書を読んだくらいで、幕末の志士は、キリスト教と関係するとご高唱されるのであるならば、無神論者で鳴らしたドーキンス博士はキリスト教徒を最近は名乗っておられる(それを伝える大英帝国のテレグラフ紙)ようなので、自称キリスト教徒とおっしゃっておられる「あのドーキンス先生は、キリスト教と関係する!」とわれらは、もっと大騒ぎで言わないといけないだろうし、某出版社にはもっとその事実を高唱するような書籍をお出しいただいてですね、広くこの事実を日本のキリスト者の皆様に普及させていただかないとまずい、のではないだろうか。ドーキンス先生ご本人がキリスト者だって、そうおっしゃっておられることだし。

 以下は、アメリカのアニメ The Simpsonsに出てくるドーキンス先生(角の生えた鍋かき回している人物)。これもひどいとは思うけど、ま、参考にご紹介。




シンプソンズに描かれたドーキンス博士

 
 余談に行きすぎた。明治末期の人々、特に下級武士階級の人々、その中でも陽明学の影響を受けた人々は、強大な仁者(倫理的に高潔で、人格的に優れた人物)としてのナザレのイエス理解でイエスを理解すれば、まさに儒学の枠組みでイエスの発言とキリスト教をとらえることは可能であるが、そこに根源的に抜け落ちるものがある。それはイエスが神であるということと、イエスの神性を補強するイエスの復活である。

現代日本のキリスト教会の
儒教化と土着化について 

 キリスト教界の帝国陸軍との相似性などもこれまで述べてきたが、おそらく、日本におけるその帝国陸軍と教会との類似性問題の本質は、おそらく日本では、儒教の影響だと思う。

 ギリシア風哲学、西洋哲学の影響をうけたキリスト教を受け入れるにあたってヨーロッパでギリシア哲学を発展させてきた所謂西洋哲学やギリシア哲学特有のバタ臭さを抜こうと努めた結果、ギリシア哲学や所謂西洋哲学がしみ込んでいた後の部分に儒教の構造をしみこませているところにあるのではないか、とも思う。そして、その結果、儒教に基づく倫理的・道徳的な行動こそが聖書の主張であるかのごとく言い募って、信徒を日本型の儒教理解の上で聖書理解として語り、信徒を儒教的な倫理で縛るキリスト教ができるのではないか、とも思う。イエスは、すべての人を解放するメシア(=キリスト)であったのではないかなぁ。

 個人的に、日本における聖書理解の定着の結果、土着化してはならんといいたいわけではない。いや、むしろマクグラス先生が総説キリスト教でご指摘の通り、積極的に土着化(というよりは定着)すべきだと思う。しかし、キリスト教がどのように定着(土着化)したのか、ということを考えていくことはキリスト者として重要だと思うのだ。そして、常に聖書に立ち返りながら、反省し、軌道修正が必要だと思うのだ。再出発が可能だということを示しているのが、旧約聖書なのではないだろうか。その意味で、日本におけるキリスト教の定着(土着化)の問題を考えるうえでは、儒学とのかかわりをどう考えるのか問題との取り組みと反省がおそらく必要不可欠になってくるだろう。

 そのために、牧会者、信徒とも求められることは、一にも二にも、われらの原点である聖書(日本語聖書でもよいが、その場合は複数の訳文を参照するのがよいと思う。翻訳にそれぞれ癖があるように思うので。)にもどり、神のことばを味わうこと、そして神の御思いに思いを巡らすこと、それとともに、これまでの日本人の思惟の背景と体系を敬しつつもそれを冷徹に見つめ続け、その中で神の御思いを聖書に尋ね求めることではなかろうか。

プロテスタントの信徒の基礎とは何か
 神学校に行ったこともない(遊びに行ったことは何度もあるが、そこで勉強したことはない)人間が言うのも変だが、そもそも、我らがプロテスタントのキリスト者だというならば、
 
Sola scriptura(聖書のみ)
Sola fide(信仰のみ)
Sola gratia(恵みのみ)
Solus Christus(キリストのみ)
Soli Deo gloria(神の栄光のみ)

に立つ者たちなのではないのだろうか。それを、
 
わけわからん伝承のみ
類似性に基づく誤解のみ
政治的意図を持っているかもしれない外国人の評価のみ
わけわからん象徴の共通性のみ
自民族と自分自身の栄光のみ

 
を重視したり、これらに立脚するって、そもそも論としてキリスト者としてどやさ、と思う。非キリスト者でも、かなり恥ずかしい厨二病(わかんない人はこちらを)なのではないか。まぁ、人様のことだからどうでもいいし、人様のことを言えた義理ではないので、どうでもいいけど。

 これまでも指摘したように、また、水谷さんの記事でも指摘しておられる通り、これには指導者たちのダークサイドが影響していると思う。このダークサイドは誰にでもあるのだ。無論ミーちゃんはーちゃんにもダークサイドはある(この本がよいよ。リーダーシップのダークサイド)。基本、ミーちゃんはーちゃんを検証したところ、共依存的なのであり、決断が付きにくいのだ。

最後に聖書から思うこと
 しかし、自分自身が完全に義なるものではなく(これは、地上ではいつまでたっても人間には実現しえないと個人的には考えている)、自分自身のうちに悪の面があって自信がないからといって、それを残念がる必要もない。自分の中のダークサイドをケアすれば(治めれば)いいのだ。そのために、神がカインにお話になっておられることを思い出すべきではないだろうか。
 
創世記
 4:6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
 4:7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

 

 このシリーズ以上で終わり。あーあ、このシリーズ、大分書きたいことを書いちゃった。w


 
 

  これまでの記事では、日ユ同祖論について、明治期のキリスト教とのかかわりをさらっとおさらいし、酒井勝軍というキリスト者を紹介し、そして、この理論がオウム真理教につながり、オウム真理教とキリスト教、そして現代日本に生きるキリスト教などについての与太話を申し上げた。

 これまでの記事

日ユ同祖論というトンデモ理論について その1

日ユ同祖論というトンデモ理論について その2


 今回の記事では、もう少しなぜ、キリスト者にこの奇説が受けたのか、この奇説が受容されて行ったのか、なぜ、この奇説に取りつかれやすいのか、というあたりの日本人の精神構造とその背景について、考えてみたい。

日ユ同祖論にはまった
明治期のキリスト教会人たち

 内田先生の本によると、この奇説にはかなりの明治期のキリスト教会人がはまっている。中田重治(ムーディ聖書学院)、佐伯好朗(トロント大学)、小谷部全一郎(イェール大学)、酒井勝軍(ムーディ聖書学院)と、結構外国行き組みの当時の新進の人士とも呼ぶべき人たちが引っ掛かっているのだ。

 その背景に関して、少し長くなるが、内田先生の私家版・ユダヤ文化論から引用したい。

 しかし、当時の日本青年としては例外的なアメリカ留学という特権的経験を通じて近代国家を実見したにもかかわらず(あるいは彼我の決定的な実力差を骨身にしみて味わったせいで)、彼らは「神州不敗」や「世界に冠絶する神国」というような夜郎自大な妄想を抱くようになった。その時彼らは「神国日本」の世界史的な卓越性を「ユダヤ人との同一化」という妄想的な理路によって論証しようとした。なぜ三人が三人とも、魅入られたように、かかる論理的アクロバシーを選択するようになったのか。そこのはある種の論理が働いているはずである。私はその「論理」に強い興味を覚える。
 同祖論者の「本音」を勝井勝軍(1870-1939)は次のようにはっきりと吐露している。「之は同時に、我日本も亦極東の一孤島否一異教国なる不名誉なる地位よりして、一躍世界の神州帝国たる地位に昇り来たり、基督教を奉ずる欧米諸国を眼下に見下すべき権威直ちに降り来たるべし、何となれば彼等は日本は神の秘蔵国にありしを発見すべければなり」(酒井勝軍『世界の正体と猶太人』)(ミーちゃんはーちゃん註 山形、富山、石川、奈良の四県を除くお近くの公立図書館でここから見られるらしいです。)
 酒井は日本の国際関係上のポジションが「極東の一孤島否一異教国なる不名誉なる地位」であることははっきり認めている。それを認めたうえで、その一異教国が「キリスト教を奉ずる欧米諸国を眼下に見下す」様な起死回生の理説を探し求めたのである。
 日同祖論のロジックとは、一言にして言えば、西欧において「罪なくして排斥せらるる」ユダヤ人とわが身を同一化することによって欧米諸国の犯罪性を告発する側に滑り込むというものである。(pp.69-70)
ということで、どうも、一応日本は、神国であるという日本人(というよりはお武家さま出の人物としての)の自負と西欧と比肩するほどの国(になったはず)であるにもかかわらず、不平等条約を抱え、西洋列強からいいようにされている状態にありながらも、キリスト教国とそこから来た人々に対して見返したいという思いから、こういう理解が出てきたらしい。要するに「偏狭なるナショナリズム」というのか、自分自身と自分がしょって生まれた日本という国への自信を確保したくて、この理論に走ったというのである。

厨二病患者もどきのご発言
 概ね、内田先生のご指摘は正しいとおもう。酒井勝軍の「一躍世界の神州帝国」とか、「欧米諸国を眼下に見下すべき権威」とか、重篤な厨二病患者もどきのご発言を見ると、どうも日本人としての誇りをもって、欧米人を見下したいという願望に駆られた結果、としか思えない。ネトウヨの皆さんと同じ精神構造なのかもしれない。そうそう、日清戦争終結の時の喜びは、朝献国(江戸期の日本)が実態としての宗主権を持っていると思っていたアジアの雄である国家(清朝中国)に勝利したという喜びをもたらしたという側面もあろうし、日露戦争終結の時の喜びは、いわゆる欧米の一角を占める国(いまだに、彼の国とヨーロッパの西側と文化が共有されてないことは最近のかの国の言動を見れば・・・・)に勝利した(というよりは、まぁ相手が一方的に戦意喪失ちゃった感が強いので、たなぼたで、まぐれでなんとなく判定勝ちしちゃった)ことの喜びは、当時の日本と日本人にとって大きかったのだろう、と思う。

米国留学組のキリスト者が
なぜ、走ったのか…
 よりにもよって、アメリカ・カナダに渡った当時新進の気風に富むはず人々が日ユ同祖論という奇説に走ったのかは、彼らが自信がなくなりかけていた以上に彼らがその中におかれた当時のキリスト教界の状況があったものと思われる。

 もちろん、彼らは不平等条約下の日本という国を嘆いたという側面もあるだろうが、しかし、そうであっても、海外に行った人たちが、こうなったということに関しては、おそらくアメリカ、あるいは北米での黄禍論(アジア人は迷惑な奴ら的な雰囲気の社会論調)的な背景が蔓延するなか、彼らは留学時代を過ごしたのであろう。

 アジア人といえば、当時のアメリカ人にとっては、クーリー(苦力)であり、社会の底辺、黒人以下の人間とみなされない動物扱いの中、在外生活を送るのだ。



英語のみ、2分15秒あたりから、クーリーの話しが出てくる。

 今でもサムライジャック(というトンデモアニメ)ではないが、日本人は、ちょんまげという奇妙な習慣をもつ人間のような動物という認識であったであろう。実際、ネイティブアメリカンは、動物扱いであり、アメリカの国勢統計局(Census Bureau)では、人口統計調査、調査対象外とされていたのだ。それと同じと一般のアメリカ人のかなりの部分には認識されていた(もちろん、すべてがそうだとは言わない。例外はある)可能性はある。




Samurai Jack

在外学習組が背負う
トラウマ
とその影響
 15年戦争敗戦後、神に守られ、神に養われバイオラ大学で学ぶのだと希望に燃えて、アメリカに渡られたある牧師先生がアメリカ滞在中に差別的発言を受けてまいったことを書いておられた(現在そのサイト閉鎖中)が、それと似たような経験をこれらの明治のころの神学校への留学経験者たちは経験したのではなかろうか。

 彼らの多くは、多大なる漢籍の知識を持ち、陽明学的、あるいは朱子学的教養で育成された教養人の士族であるにもかかわらず、彼らから見たらちょっと前まで彼らが毛唐とか呼び、忌み嫌い(尊王攘夷だったですし、一応の国是は)、アジア以外の国から来た人々(夷人)としか見えなかったアメリカ人から、キリスト教を知らない、理解が十分でない、身にしみていないということで思いっ きり馬鹿にされた経験があるのだろうと思う。これは、現在の我らには理解不能なほど、彼らに深い精神的なトラウマを与えたものと思う。

 そのトラウマは、あまりに深く何とかして日本的なるものとキリスト教を融合させたいと思ったように思われる。そして、自分自身が持ってきた文化的背景に自信を持ちたい、それを正当化したいという思いにとらわれたのではないだろうか。そして、その背景の中で日ユ同祖論はアメリカ人のキリスト教よりも先にあり、御先祖様に当たるすごいユダヤ教と日本人はつながっている、だから、日本が優れているのだ、という理解につながっていったように思われる。


次回【最終回予定】へと続く



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コメント:文化史的な観点からみた日本人がキリスト教をどう見てきたかの俯瞰図を与えてくれる。

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コメント:近代以降のユダヤ社会と日本とヨーロッパの俯瞰図。近代以降のおさらいをしたい方には、どうぞ。

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コメント:近代の日本型のキリスト教、日本へのキリスト教の定着(西欧型からすれば異形のものが中心)を丹念に描いた学術書。


  前回の記事「日ユ同祖論というトンデモ理論について その1」では、日ユ同祖論が意外と古い見解であること、それが旧約聖書のバベルの塔理解から出ていたり、ユダヤ人のバビロン捕囚を根拠にしながら、ユダヤ人の失われた支族の一つであるという議論があり、東方見聞録で日本が知られるようになって、そして、大航海時代へと、そして、それが日本へのロマンを巻き起こし、そして、南蛮人への日本の渡来へとつながったり、インドへの西回り航路開発につながっていたことと、そして、類似性に基づく同一認定の論理のようなものが展開され、そうかな、と思わされるけど、実はそうではないかも、というミーちゃんはーちゃんの考え等を示した。

 何の気なしに書いて投げたら、水谷先生にご紹介されるなど一部の皆様に受けたようで、2日で100いいね 越え。皆さんご関心が高そうなので、本来土曜日公開予定だったのですが、本日緊急公開と致します。次回は土曜日を予定。


明治以降のキリスト教会における「日ユ同祖論」
 明治以降のキリスト教界の指導者で、この日ユ同祖論という「麻疹」にかかった人は少なくないし、現在も麻疹の流行のように、いったん終息したと思ったら終息せずに、社会の片隅に潜伏していて、時に息を吹き返し、オフィシャルな場にこの理論は、顔を出す。中には、この「日ユ同祖論」という「麻疹」をこじらせ、重症化したままの方や重症化しつつある方も現在でもおられる。

明治期の「日ユ同祖論」が
受けたわけ

 明治期のキリスト教界に、これを持ち込んだのは、MacLeod(マックレオドと一般に言うらしい)という宣教師であり、このマックレオドは、オランダ人ケルペルの所説の影響を受けていると井上先生の「日本人とキリスト教」(下記リンク参照)で指摘しておられる。おそらく、宣教師からこの説が伝えられたことで、海外から持ち込まれたキリスト教理解の一部として、この日ユ同祖論を受け入れたのと、当時の西洋列強に比肩したいという思いがこの日ユ同祖論が普及していく素地になる。これらのことが、かなり丁寧に、井上先生の本と内田先生の本で詳しく書かれている。

 おそらく、この理論が日本人キリスト者に受けるわけの一つは、この理解が日本の内在的なものから出たのではなく、マックレオドという宣教師(そのソースとなったケルペルというオランダ人)やそれ以前の西ヨーロッパで流行した理解から出ており、聖書理解の一環として、日本とユダヤが近いということで親近感が醸成されるから、あるいは一部のイスラエル人(イスラエル国の関係者、ヘブライ人の代表選手や大半のイスラエル人がそうだ、というわけではない)から好意的に受け止められている、ということだと思うのだ。好意的に受け止められている背景には国際的に孤立しやすい行動を取る某国の国益が隠れているかもしれないけどね。あんまり言ったらいかんとは思うけど。テッド・ハガード(アメリカの失墜したテレビ伝道師の一人。Jesus Campにも登場中。詳しくは、下記のリーダーシップのダークサイド参照)なんかをなんか中近東にある某国が抱きこんだのと同じじゃんか。

 ところで、明治期以降の日本のキリスト教界にこの日ユ同祖論が流行した背景の概要は、内田先生の「私家版・ユダヤ文化論」にある程度詳しく述べられている。中田重治先生のことや他の人々のことが出てくる。一番びっくりしたのは、酒井勝軍という人物である。この人物は、どうもムーディ聖書学校の出身で、伝道者というか牧師であった人物らしい。この人たちがなぜ、日ユ同祖論に走ったのかの背景は、その3で記すことにする。

酒井勝軍というキリスト者
 ところで、この酒井勝軍という人物の名前をミーちゃんはーちゃんが初めて知ったのは、オウム真理教との関係である。オウム真理教は、東北でヒヒイロカネを探索しているその背景になったのが、この酒井勝軍の影響であるらしいことを、オウム真理教だったか、カルトの特集かなんかの別冊宝島の記事で知った。なんか、学研(その昔、ミーちゃんはーちゃんは、科学と学習という学習雑誌の科学にお世話になった)という出版社が出しているオカルト雑誌ムーに、オウム真理教(当時)の麻原尊師(こと、松本智津男)さんは寄稿しているらしい。証拠はこちら。

 最近になるまで、ミーちゃんはーちゃんは、この人酒井さんというご仁は、竹内文書と一緒に出てくるので、てっきり神道系の人かと思っていたのですが、この方、キリスト者だったって、今月知った。 

オウム真理教とキリスト教
 しかし、オウム真理教の麻原彰晃氏はある段階から、キリストを自称し始める。そして、血のイニシエーションとか言い始める。最初のオウム真理教は、ヨガという身体性をもった一種の思想としてあくまで、「自分たちはチベット仏教の後継なのだ」とか、「ダライラマとの関係が深いのだ」と言っていたようなのだが、いつのころからか、多様な宗教を取り込み、宗教の曼荼羅状態とういのか、多様な宗教間がちりばめられた合体ロボとでもいうべきか、ヒンドゥ、キリスト教等、割と大きな宗教グループの思想と世界観、儀式をかなり自由に(悪く言えば、無節操に)取り込むようになって、その教義を大きく変質させていく。

 ミーちゃんはーちゃんは、過去から現在まで、まじめなオウム真理教ウォッチャーではなかったし、研究者でもなかったので、いつごろから、そしてどのような背景でオウム真理教が血のイニシエーション(おそらく聖餐式のパロディ)といいだしたのか、麻原彰晃キリスト説(事実これは主張していたと記憶する。たぶん衆院選に落ちて、武装化に向かうあたりから。)を言い出したのか正確に分からないが、ひょっとして、この酒井勝軍のヒヒイロカネ伝説に取りつかれて、一応日ユ同祖論的な理解の影響をもち、自らの優越性の担保として何でもいいから世界宗教との融合をはかったのではないか、とも思う。そして、聖書まで自分たちの教義に取り込もうとしたのだろうと思う。

 あるいは、オウム真理教のロシア進出とも関連があるかもしれない。この辺りは、宗教学、近代史からのキメイラ的存在であるオウム真理教についての総合的検証は必要ではないかと思う。どうも、教祖様にまともなインタビューすることは現在では不可能になっているが、当時書かれた物や語られたことを総合的に分析するくらいのことをする研究がないと、あのキメイラ的存在を生み出した国としてはまずいのではないかと思ってはいる。何に、どのように触れ、どういう経緯で、キリスト教すら彼らの教義に取り込もうとしたのか、という問題は宗教学、ないしは宗教社会学の問題としては、面白いとは思うのだけど、

 さすがに、イスラムとの同化は避けるくらいの知恵というのか、そこらの感覚はオウム真理教の皆様にもあったようではあるが。そんなことしたら、ねぇ、狙われちゃいますし。


全く関係ないけどナウシカ様とオーム(安静状態)



現代日本へとつながる日ユ同祖論

 こう考えると、日ユ同祖論は明治大正期に流行した奇説ではなく、近代にいたってもなお、オウム真理教の皆様のみならず、ムーの愛読者で陰謀史観大好きな皆様のみならず、キリスト教界の中の一部にひそやかにこの奇説を真実と理解しておられる方もおられるし、いつまでもなくなりはしないだろう。しかし、安易にそれに踊らされてはならんと思うのだ。この奇説、根絶する気もないし、する意味すらないと思うのだが。言い過ぎかも知らんけど。

 次回以降、なぜ、この奇説が斯くも明治期の指導的役割とも言うべき日本のキリスト教徒をひきつけ、引き付け続けてきたのか、というそのあたりの背景を述べていこう。まぁ、内田先生の本で大体分かるんだけど。内田先生の記事の補論を次回と次次回で述べてみたい。
 


 
 

評価:
井上 章一
角川学芸出版
¥ 907
(2013-10-25)
コメント:日本人におけるキリスト教理解がどう作られてきたのか、の日本文化論による丁寧な入門書。

評価:
価格: ¥810
ショップ: 楽天ブックス
コメント:ユダヤ人という存在と日本人のかかわりの大学での講義の講義ノートの拡大版。明治期以降の日ユ同祖論の展開はこちらの方が詳しい。

評価:
ゲーリー・L・マッキントッシュ,サミュエル・D・ライマ
¥ 2,052
(2013-06-06)
コメント:よいよ。男性信徒は読んでおいたほうがいいかもね。特に召命で悩んでいる人にはお勧め。女性もだけど。。もちろん。


 直前の記事が、公開から2日以内で、100「いいね」を突破したが、それでも気にせず、2014年7月5日に上智大学大阪サテライトキャンパスでおこなわれた公開講座「キリシタン版の全て」と題して行われた豊島正之先生の内容の概要の続編を公開しようかと。

 この前の記事「 上智大学大阪サテライトキャンパス 公開講座 2014年7月 キリシタン版の全て(その1)」は、こちらから。

キリシタン版の用紙について
 日本は紙の種類が非常に豊富な国である。麻紙、雁皮紙等、様々な和紙がある。
 麻紙(いろんな植物繊維をたたいて造るかなり硬くて、繊維がなくなるほどたたいて作る紙)であり、かなり高級な紙である。

 楮は日本固有の紙であり、和紙の中でも、雁皮紙(斐紙)はかなり高級な紙である。重要なものを印刷する際には、この雁皮紙が用いられる。そして、この紙の厚みが重要であり、高級な紙は厚みがある。それを判断する際に、一万円札がゆうこうである。現行一万円札は、0.1mmであり、それを基準に薄い、厚いを触りながら判定する。触ってみると、0.1mmより厚いかどうかの雰囲気はつかめる。どのお札でもいいのだが、一万円札は周辺に印刷がなく、でこぼこしてないので、判断基準としやすい。これをやると、たいていヨーロッパの図書館や博物館の人はびっくりする。

 現在、印刷用紙の研究する際には、龍谷大学高倍率の顕微鏡で非破壊調査するのが一般的で、顕微鏡で写真を取って、研究が国立京都博物館、パリ大学、大英帝国(敦煌本)などと希少本の紙の研究で広がっていった。楮紙は、チューブ状の繊維が顕微鏡写真で確認できるが、雁皮紙(斐紙)か安全に崩れて潰れていて確認できない。浄名玄論(706)の顕微鏡写真を見ると、流し漉き傾向であったことが確認できる。宮廷本でも、唐紙(麻紙)は顕微鏡写真を見ると、中途半端な流し漉きであることが確認できる。宮廷写経写本の敦煌本は偽物がない(できないほど)紙の質が特殊である。同じ写経本でも、宋版なると竹紙であり、非常に壊れやすいというものである。宋版の貴重な典籍が大英帝国の書庫には大量にある。このように紙の研究からでもかなりのことが分かる。


キリシタン本と紙について

 キリシタン版が和紙に活字プレスの最初の印刷本である。リスボンで最初に和紙にプレス印刷する形で印刷された本であり、日本語でのカテキスモであった。そこに、漢字活字で、ジェズス(世主子:右)、マリア(満理阿:左)と印刷している。



ヴァリニャーノの「日本のカテキズモ」の表紙 マリア と イエズス が漢字

 同じ活字で、紙を変えて印刷しているものが残っている。和紙に印刷したものが、Escola Passos Manuel(ポルトガル)に、洋紙に印刷したものが、サラマンカ大学に残っている。
印刷した際には、紙をぬらして印刷されており、紙の収縮が感想と共に起きるので、サイズが微妙に火がうことになる。それが両者の間で違いがあることが確認されている。本の表紙に押されている紋章(エンブレム)があるのであるが、それが両者で違うので、後で、ゴム印みたいなものを押したのではないか説があるが、それはそうではなくて濡れた紙の乾燥に伴う収縮率の違いによるものである。

キリシタン版の活字

 キリシタン版の活字は誰が造ったのであろうか。日本初の活字印刷は欧州で造った。前期キリシタン版に活字作成の技術はあったか、という問いにはどうもなかったようである。その証拠として、慈悲の「悲」と非道の「非」を比較すると、悲の下部の「心」を削って造っていることが印刷から確認できることから、活字鋳造の技術はなかったと思われる。その意味で、1593年まではヨーロッパ製であり、後期版になると、和製活字が混じり始めている。当初はイタリック体がなかった(これが後の議論の根拠になる)。8年かかって和英活字が混じっており、1594にイタリック体が入った印刷が、日本で行われている。

活字の版下はだれの字か
 活字の版下を書いたのはだれか、欧州には仮名も漢字も書ける人がいない。また、天正少年使節は文字が書けなかったことが分かっているので(そんな奴らを送る感性がわからん)、随行日本人である、ジョルジュ・デ・ロヨラのみが文字を書く能力があった。このロヨラは、伊東マンショの文字を常に間違えており、伊東と書くべきところを伊藤と書いている。

 また、当時の滞在先に感謝状を書いているが、大友宗麟、大村純忠の書状も全てジョルジュ・デ・ロヨラの筆跡であり、その筆跡と活字を比較すると、キリシタン版の版下を書いたのはロヨラと想定するのがだ王であろう。しかし、かれらは、リスボンで活字を造ってないし、当時のリスボンにはそういう技術が当たり前のものでなかった。となると、プランタンのアントワープか、フランスのリヨン、ベネツィアでしかない。ベネツィアは、最初の活字を造った都市であり、おそらくそこではないか。当時は、アントワープとベネツィアが2大印刷、出版拠点となった都市である。

 なお、天正少年使節団がヴェネツイアに到達した日は本来聖マルコの日(聖マルコはヴェネツィアの守護聖人であるが、なぜなら、一応、ヴェネツィアには、聖マルコの骨とされる聖遺物があることになっているらしいので、そのことを記念する日)だったので本来休日だったが、ヴェネツィアのドージェは市民に仕事をさせた。おそらくその時に、印刷工場を見学し、そして、活字を購入することを検討したと思われる。アントワープにまで言ったとは記録されてないので、その意味で活字は、ヴェネツイア製ではないか。

カトリックと印刷
 カトリックと印刷ということを考えてみると1593年に印刷聖書として、ウルガータ版が印刷されており、1585年に天正使節団がローマに行っている。この時期、カトリックのラテン語で印刷された聖書はない。しかし、1600年には、日本にウルガタ版が日本に到来している。

キリシタン版の楽譜について
 キリシタン版の楽譜日本で最初の楽譜印刷であり、1605年にはその楽譜が見られている。5線4角黒ネウマ譜と呼ばれる楽譜である。そして、Evoraには現役の最古のオルガンがあり、そこには、天正少年使節が演奏した楽譜が残っている。

 楽譜印刷は活字でなされており、1473ドイツの5線印刷がおこなわれており、5線の上に♪を印刷する形で、本文、楽譜、5線に分けての三度刷りがなされている。ペトルッチの楽譜本は、当時の最高技術をした楽譜本であり、5線は赤色でEngravingにより印刷されており、黒色で、本文が印刷されている。活字化するために、分割活字でする方法を考えた人がいたけれども、うまくいかず、結局、リトグラフが開発され、分割活字の問題を回避するために作られた。

 ここで、講義は時間が来たので、終わりになった。

質問の時間から

 質問の時間があったので、キリシタン本の印刷が和紙の上にヨーロッパでされたとすれば、それは後からもってきたのか、それとも、彼らが持参したのだろうか、とお尋ねしたところ、「日本から大量に持ち込んだと考える。なぜかというと、日本にとって、幕藩体制期を通して、日本からの主要輸出品の一つであり、レンブラントの版画は、日本製の和紙がなければできないほどであった。「レンブラントと和紙」という本が出ており、そこに解説がある。」ということであった。




 また、「天正少年使節は、お礼状かきなどのため紙をたくさんもっていったので、印刷ができたのであろう。そして、カナ活字ができている背景であるが、活字は、240字が標準である。ところが、初期キリシタン版イタリックの活字がない。おそらく、イタリックの活字とカナ活字が入れ替わっていて、イタリック体のところに、カナ活字を入れたものと思われる。」ということであった。

ミーちゃんはーちゃん的感想

 あー面白い、実にインフォーマティブな公開講座であった。

 ところで、日本というのは、非常に紙の種類が豊富である。それは現在においてもそうなのだなぁ。サイズもそうだし、材質や用途が非常に豊富なのだねぇ。大体、B版というのが日本の伝統的な紙のサイズ、半紙のサイズが基準になっている。これに対して、A版は、洋紙系のサイズ(厳密な意味では違うけど、A版をもう少し幅広にしたのが、アメリカでのレターサイズ)であり、それをさらに伸ばしたのが、リーガルサイズ。さすがに日本でリーガルサイズの用紙を手に入れるのは難しいけど、とは言いながら、これだけサイズがあるのは世界広しといえどもあまりないと思う。

 また、活字印刷の本や書店がいま、日本のキリスト教界において危機に直面しているという現状を考えると、幸せな時代に生きていたのだなぁ、と思う。

 しかし、画像がなくて残念だったが、各地に何人かの大名から送られ、それぞれの地に残された感謝状の署名以外があまりに同じだった(おまけに全部伊東マンショの字が、伊藤になっていた)のには笑った。まぁ、昔の大名は自分で字を書くんじゃなくて、祐筆(筆記専門の秘書みたいなお侍)に書かせる、という文化があったから、本文を書いてないのはいいのだけれど、しかし花押(筆でかくはんこの代わり)まで偽造したとなるとちょっと問題かなぁ。どこ行くかわからんのに、出発前に書いてもたせたとも思えないから、えーい、ままよで書いちゃったんでしょうね。


福井市立郷土歴史博物館で販売中の
歴代福井藩主の花押クリアフォルダ

 一番びっくりしたのが、レンブラントの版画の用紙が和紙だったということ。これは、へぇへぇへぇ、でした。いやぁ、本当に勉強になった。




 なんか、最近、日本人とユダヤ人が同じだとか、君が代がヘブライ語で読むとわかるとか、弘法大師は東方キリスト教の行きついた景教から影響を受けて「いろは歌」を造ったとか、香ばしい話題をお知らせしてくださる方が増えてきたので、この背景について、最近最下部リンクの井上章一先生の本と内田樹先生の本で学んだので、ちょっと書いておこうかと。

日ユ同祖論について
 まず、日ユ同祖論について述べておこうか、とおもう。これは、日本人がユダヤ人と同じ祖先をもつ、とか、日本人がユダヤの失われた11部族のその支族の一つではないか、という理解である。

 例えば、神社の赤い鳥居は、出エジプトの鴨居に血を塗ったものを形としてあらわしたものだとか、天狗の風俗はユダヤ人司祭の姿であるとか、諏訪大社の主祭神が守屋山なので、モリヤ山とおんなじだとか、まぁ、調べれば出るわ出るわ、ちょっとしたゴロ合わせとか、ちょっとした類似からひょっとして日本人とユダヤ人は同じではないか、ということを言う人々がおられる。

歴史ロマンとして楽しんでる分には…

 歴史ロマンとして、勝手に妄想をしておられる分には構わない。そのロマンは個人で楽しんだり、何人かの人々で、「自分たちだけが知っている」とか言って陰謀大好き、陰謀ですべてを理解しようとして楽しんだりしている分には構わない、とは思う。言論は自由だし。どんなトンデモ理論でも、「どうぞ、お好きにご発言なさってもよろしいのではないでしょうか(まぁ、このブログもトンデモ理論いっぱいなので、ひとのことは言えた義理ではない)」、と申し上げたく存じますが、それが確実なもの、歴史的事実とご主張になさったり、聖書に比肩するものとして、キリスト教徒の中で、いわんやキリスト教会でまことしやかに語られるこの状況は何とかならんかなぁ、と思う。

いつ頃生まれたか

 内田先生の私家版・ユダヤ文化論では、明治維新の直後のアメリカ人宣教師MacLeodとしておられるが、井上先生の本では、もっと以前だとご主張である。その根拠として、

 たとえば、16世紀末から日本に滞在していたペドロ・モレホンの指摘を、見てみよう。モレホンは、『日本中国見聞録』(1621年)という記録を書いている。その中で、日ユ同祖論に言及し、否定的なコメントをよせていた。(p.184)

と結構古い。この説が日本発ではどうもなさそうであり、海外由来でありそうである。その背景について、

 日本人はユダヤ系であるとする通念が、彼の同時代に存在したからであろう。ありもない議論に、くってかかってもしょうがない。日ユ同祖論は間違いだと、否定して見せる意義がある。この議論はそれだけ広く浸透している一般的な見解として、意識されていた。(p.185)

バベルの塔由来か?
 このような『奇説』が出てくる背景として、バベルの塔の言語混乱とその後世界各地に広がっていた記述がどうも基礎にありそうであることを同書では指摘されている。そして、引用はもうしないので、ぜひ同書をお買い上げいただきその最後の章をお読みいただきたいのだが、17世紀末に長崎にいたオランダ人ケルペルにおいても日本人はバビロン由来であるという説が維持されていたことをケルペルの『日本誌』を引用しながら記載しておられる。

奇説の背景としての東方見聞録
 このような奇説がヨーロッパで出てきた背景には、おそらくマルコ・ポーロが戦争に負けて投獄されているときに、暇つぶしに彼の『東方見聞録』の話をしたものを口述記録したものが出版されて、当時のヨーロッパにとって、未知の領域であるアジアについての一大アジアブームを生み出し、コロンボ(コロンブス)が西回りでもインドに行けんじゃね、とスペインから出航したりと、まぁ、いろんな影響が出ている。余談になるが、マルコ・ポーロが戦死してたら、ひょっとしたら、アフリカ人奴隷貿易がおこなわれることもなく、アフリカ系アメリカ人が生まれることもなく、と世界史は大きく変わってたかもしれないと思うと、まぁ不思議な感じもする。
 日本が存在としてヨーロッパ人に認識されるのは、マルコ・ポーロの東方見聞録がおそらくはじめてだろうと思われる。

大航海時代の夢とロマン

 インターネットもなく、CNNもなく、新聞もなく、海外通信社もなく、という時代では、噂、伝聞情報だけが独り歩きする。それはそれで真実と嘘(ノイズ)や歪曲(ツィスト)が混じるのであるが、ノイズやツイストだらけだろうが、真実も一部含まれるからややこしい。
 どうも日本人や中国人という人々がいるらしい、とヨーロッパ人が認識したのが『東方見聞録』であり、そのことを認識したヨーロッパ人とすれば、当時の世界観を形作った聖書の中で、どこが関連付けられるかということを考えたくなるのは人情であろう。するとと、バベルの塔の話か、バビロンに捕囚された挙句、わからなくなったユダヤ人ではないか、という歴史ロマンが出ても不思議ではない。バベルの塔だと、その物語と一致しているので、あまりに説としては面白くないだろう。そして、混乱がその主要ポイントなので、痕跡とは言え、一致性を言うのは困難になる。また、バベルの塔を根拠にすると古すぎるということもあるし、旧約聖書の出エジプト記以降の記述を拾えないので、ヘブライ語聖書に詳しくない日本人に引っ掛かるためには、いったん捕囚されてわけわからなくなった捕囚の民の末裔であるとすることが選択肢としては魅力があることになる。

この奇説の困った論理構造
 この奇説は、類似性のあるものをたくさん集めてきて、これだけ類似性があるのだから、双方は同じ根源をもつ、とするのは当然ではないか、という論理構造に立ち、一見科学的な方法論を持つかに見える点である。

 この論理を用いると、コンビニに売っているおにぎりと文具店に売っている三角定規は、同じ祖先をもつことになるのではないか。おにぎりも、三角定規も、△のかたちをしているし、真中が空いているし、厚みの違いもあるものの一定の厚みがあるし・・・ほら、三角定規とコンビニに売っている三角のおにぎりは同じ祖先をもつんじゃないですか、ってことを言えちゃうじゃないですか。誰もそうは言わないけど。

次回は上智大学の公開講座の受講記録に戻すので、来週土曜日辺りにこの奇説が日本のキリスト者に受けるわけ、について書いてみたいと思う。 



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コメント:日本文化論の専門の学者による学問の香りのする入門書。日本人がどうキリスト教を見て、どうかかわってきたのかを著した名著。

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コメント:内田先生のヨーロッパでのユダヤ人社会とその特殊性を説明した入門書。

  2014年7月5日に上智大学大阪サテライトキャンパスでおこなわれた公開講座「キリシタン版の全て」と題して行われた豊島正之先生の内容の概要を公開しようかと。今日は短め。

 冒頭で、Cardoso 作曲のレクイエムが冒頭流された。天正少年使節団がポルトガルを訪れ、ジェロニモ修道院に到達した頃の修道院長が、このCardosoであったそうである。



イエズス会の言語研究について
 ともにバスク人であるロヨラとザビエルがパリ大学で出会う。バスク人でも、サンセバスチャン(美食の町)で生まれたのがザビエルであった。バスク人であり、言語マイノリティとしてのロヨラとザビエルがいる。そして、イエズス会は言語マイノリティがその設立に深くかかわっている。それもあるためか、イエズス会は、言語教育への固有の熱心さをもっている。イエズス会は聖書・教義書と文法書と辞書という、3点セットをアフリカだろうが南米だろうが宣教地のどこでも佐久瑛している。

 例えば、タミル語の活字を造って活字印刷しているし、ケチュアは、ケチュア語をアルファベット表記で作成している。このような特徴は、他の修道会にはないイエズス会特有の特徴といえよう。

 アレッサンドロ・ヴァリニャーノが日本に巡察師として来た時、その時のイエズス会総長は、パドバ大学時代の同級生であった。

当時の活字印刷

 この時期行書・草書体の活字が造られ、印刷がなされている。たとえば、『ひですの教(おしえ)』等の書籍が出版されている。この時期の印刷活字は、現在のような楷書ではなく、行書、草書体である。なお、楷書のひらがなは明治になって出来たのであって、新聞に印刷されて普及していくことになる。当時は、ひら仮名の行草体しかない。フォントとしてのひらかなの楷書体というのは、本来矛盾であろう。もともと漢字を崩して造られたのが、平仮名である以上、草書、ないしは行書体が本来のあり方であろう。

キリシタン時代に印刷された書物と
その印刷方法

 印刷されたキリシタン文書は、教義書・典礼書、修徳署、語学書、文学書などである。

 整版(木版)で両面印刷したのではなく、日本版本と国字本は見た目には同じだけど、実は違う。たとえば、『ひですの経』(ハーバード大学所収本)は裏を見たら陰圧がわかり、木版でない印圧の強さであり、金属活字版印刷の痕跡が実物から確認される。
 当時の印刷技術を知るには、アントワープにある印刷博物館に18世紀の印刷工場が現在でも動態保存されている。Plantinという印刷業者の会社の運営する博物館で、当時、プランタン社は、アルド社(ヴェネツィア)と並ぶ2大印刷業者であった。このプランタン社の一族で、もっとも有名なプランタンは、キリシタン時代の同時代人である。

 当時の印刷業者の絵をみると、印刷部屋と校正部屋には、カラー(襟巻のような襟)があるのは、親方、校正、組み版の作業者であり、カラーがない労働者、作業者が印刷工である。


 当時の印刷技術は、紙を複数枚積んで印刷する形式の印刷である。フリスケットという工具を使って印刷をする。1枚刷る時間は、最短15秒/枚であった。

 当時のプレス印刷特有の事故がある。同じ方向に同じだけ文字だけが2回ずれて、印刷されているページなどがあり、それがプレス印刷の特徴でもある。 1枚目の紙の上から活字が抜かれて、印刷されることがある。これに比して、木版印刷の場合、バレン印刷の事故があり、これでも、すりブレが起こるが、文字が完全に外れた形でのブレではなく、重なる形でのブレである。

日本の印刷手法
 日本最古の木版印刷は、770年の百万塔陀羅尼であるが、どのように刷ったかわからない。版偽も何種類あったのかもわからないほど、あまりにたくさん残っており、何枚残っているかすらわからない。これも、すりブレがあるが、バレン事故の場合、特定行の特定文字のみ起こる。 紙が水分を含んで、波打ちが起きるので、すりブレが発生する。 



陀羅尼経

キリシタン版での印刷のずれ
 プレス事故特有のすりブレは、一方向にしか出ない。それをImpression Slurとよぶが、それは、紙が斜めに吸い込まれるが故の事故であり、キリシタン版でもImpression Slurが見られて、プレス印刷の特徴がみられる。

 「こんてんつすむんぢ」のばあい、バレンのすりブレがみられる。この書籍の印刷技術は、プレスとバレンのハイブリッドの可能性があり、どれが木版印刷で、どのページが金属活字プレス印刷なのかが、虫眼鏡でディテイルを見ないと判定がつかない世界である。

ヨーロッパでの印刷の発展形としての
エッチング印刷

 ところが、ローラプレスと呼ばれる方法がその後開発され、別名、版画印刷友呼ばれる方法であり、銅版画の印刷技術である。ところで、このローラプレスで用いられるエッチング的な手法が、日本ではなかった。木版は線をクロスさせた表現が印刷としてできないので、陰影のある絵が描きにくく、そこは着色で補っている。

 次回へと続く


 NTライトの著作に関するある読書会(Facebookに事前に登録していることが必須)に参加させてもらっていて、NTライトの本でミーちゃんはーちゃんが読んで、こんな感じかなぁ、とおまとめしたものをご紹介してくれ、というある方からの、奇特なご要望があったので、ご紹介します。

 その読書会で、今読んでいる本は、Surprised by Hopeという本の早くも14章 Reshaping the Church for Mission (1): The Gospels and Actsの第1回目の部分なんですね。ページ数で言うと、その本のHarper Oneバージョンでpp.234-237 までの部分のおまとめのご紹介。

 以下、おまとめした内容。本文中の【】の中は、ミーちゃんはーちゃんが読みながら思ったことです。見出しは、適当にミーちゃんはーちゃんが付けた見出し。ミーちゃんはーちゃんが思ったことだけ読みたい方は、こちらから

四福音書の重要な主張
 四福音書の中においてくっきりと浮き彫りにされているイエスの復活の最も重要で最も明白な意義は、神の支配を主張し、イスラエルを代表するもの【この代表、という言葉は、へブル書における大祭司を意識しているかもしれないと思う】として死したイエスがメシア【=キリスト=全世界の王】であることの真正性を神が示された点にある。


全世界の王イエスが王座に就いたのが十字架と復活
 誰でも福音書を読み通すならば、イエスは その発言通り、よみがえったことが示されている。別の言い方をすれば、イエス自身のみわざ【なさったこと Work】を通して、御国が来たことを、そして、イエスがその死と復活という画期的な出来事を通して、神の支配が本当に始まったことを示されたである。


復活は、死後のいのちへの希望を与えるそれ以上のもの
 復活は、単発の神の力が示される超自然的な奇妙な出来事や、死後に天が待っているということを示すものでもなく、神の国【というよりは神の支配】が天においてもあるように地においても本当に始まったのだということを示す決定的な出来事であったのだ。


地上に遣わされたエージェントとしての弟子、そしてわれら
 彼らが復活のイエスに出会い、拝した(それでも一部は疑っていた)時が、キリストについての福音書において示された最高潮に達した段階であり、イエスがインマヌエル【神がわれらと共におられる方】であることが立証された時である。天においてもそうであるように、地においてもイエスが神としての権威を持ったからこそ、弟子たちを神のエージェント【手の者】として派遣する根拠となったのである。マルコではそれほど明確でなかったがマタイではより明らかになっているが、イエスの復活はこの地上からの離脱を意味するものでなく、イエスのこの地に対する王権に基づくミッション【任務】なのだ【この辺、スパイ映画のメタファーが使われている模様】。マタイは、復活はイエスが天と地の御座に着座されたことを明確に示しているのだ。


もし、復活がなかったら
 復活は、分水嶺のようなもので、復活がなければ、聖書の物語は未完のイスラエルが希望を混沌とした世界の中でも持ち続けることになる、エマオへの下向の二人が語るように悲劇でしかなかったのである【実は、映画ノアの監督が描いて見せた物語】。


全てのものがひっくり返ったのがイエスの復活
 しかし、復活を認めれば聖書全体を見通せる話になるのであり、 すべてのものがひっくり返ることが始まる点なのだ。全ての過去の約束が実現する、すなわちダビデの王権が立てられ、イスラエルが最大の流浪から帰還し、マタイ、ルカ、ヨハネでは明らかに示されているが、アブラハムの末によりすべての国民への祝福が実現した時点だったのだ。


そもそもユダヤ教徒であった弟子たち、初代教会の人々
 弟子たちがイエスの復活後、喜びにあふれたのは、彼らが信仰心にあふれるユダヤ教徒であったからであり、イエスの復活がなければ、彼らの希望を持つ要因はその時点で何もなかったのだ。イエスがメシアであり、神の福音を伝えるものであり、アブラハム、モーセ、ダビデ、そして多くの預言者への神の約束を実現するお方であるからこそ、クリスチャンにとって旧約聖書がキリスト教文書として見られるべき必要性があるのだ。ルカは、イエスが本当に復活したからこそ、 イスラエルの古文書である旧約聖書が、イエスにおいて旧約聖書はその最高潮に達する物語として読まれるべきであり、そして、イスラエルのみでなく、イエス の弟子たちにおって、全世界が適切な実を結ぶ物語として読み直されるべき物語として示している。


ルカの福音書24章
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

 これはユダヤ人の希望以上のものであり、まさに新約聖書神学の不動の中心概念のひとつなのだ。


2種類の信仰、宗教
 もし、イエスの復活がなければ、2種類の信仰あるいは宗教が併存することになる。その2種類の信仰とは、イエスにおいて神の世界へのアクセスが可能とな るというクリスチャン信仰と、イエス以外のメシアを通して神の世界へのアクセスが可能となるユダヤ人信仰である【映画ノアで監督が描いて見せた世界】。これら両者は、本物のキリスト信仰でもないしユダヤ的な信仰でもないし、こうであるとすると、ユダヤ教徒とキリスト教徒という二つの信仰者の集団に対して、両者は多くの宗教のうちの一つ、あるいは霊性のかたちのうちの一つとしてしまうという暴挙に出ることになるのだ。復活が存在したからこそ、詩篇作家と預言者たちが待ち望んだ、すべての国々が神に油注ぎを受けたイスラエルのメシアに忠誠を誓い、服するときがやってきたのだ。【p.237まで】


ミーちゃんはーちゃん的感想
 以上の部分については、おまとめしただけなので、間違いもあるでしょうし、理解ぶそっくの点もあると思います(何せ本人でないので)ので、コメント欄でご質問をいただいてもお答えしかねる部分もあるので、まず、本文をお読みいただいてから、お願いしたいです。以下の部分については、お答えいたします。


God's Agentについて
 この話を読んだ時思い出したのは、サンタバーバラの教会に通っていたときに、日曜学校から子供がもらった、FBIの身分証明書もどきのカード型の証明書である。その時期、丁度スパイキッズという映画が流行っていて、それにAgentって言葉が結構出てたのだ。
 子供がもらった証明書もどきには、FBI Agentではなく、God's Agentと書いてあった。つまり、日曜学校に来ている子供ですら、神のエージェント(捜査員、かっこいい捜査官)みたいなものだってことらしいのだ。これを見たとき、ふ〜〜〜〜ん、と思ってしまった。実にアメリカ人らしい。なんか、そんなのっていいよね。しかし、日本の日曜学校の先生は、こどもを子供扱いするの好きだから、この種の芸当は無理かなぁ。

イエス=キリストの意味
 意外と忘れやすいのは、キリスト=イエスと読んだり、イエス=キリストと読んだり、発音してしまうことで、それらの語がそもそも持っていた「イエス、すなわちメシア」、「イエス、即ちわれらの王」、「イエス、即ち全世界の王」、「イエス、全てのものが膝をかがめ拝する存在」というその意味の方である。なんだろうなぁ。キリストはキリストです、とか、キリストはメシアです、では説明になってないのだが。イエス=キリストというときには、こういう背景説明まで全部含んでいる言葉のはずなのだが。

イエスの復活がなかったら問題
 映画『ノア』もそこそこ観客動員を稼いだようなので、まぁ、ちょっとネタばれ覚悟で。
 どうも、あの監督、ユダヤ人であり、ユダヤ的な見方でノアの物語と旧約聖書と、現代までを無理につないじゃったから、旧約聖書聖典に出てくるノア物語を期待していった人からは総すかんを食っていて、「なんも希望はないじゃないか」という話になるのだが、それは当たり前。だって、監督の彼の頭の中では、我々にとって全てをひっくり返したはずのナザレのイエスは、キリストでも、メシアでもないのだから、希望がないのだ。応答されない神をそれでも神はわれらを愛したもうという期待の目で見上げ続ける物語なのだから、希望もないし、救いもないのだ。

 しかし、我らにはナザレのイエスという希望があり、キリスト、メシア、全ての王、王の王、主の主がが地上にやってきてしもうた、のだから、我らには希望があり、あの映画ノアで描かれた希望のない世界からの脱出をさせられたのだ、という構造になっているのだね。これが。それがわかってみれば、あぁ、そういうことか、とキリスト者なら分かってもらえるけど、そうでないなら、ハーマイオニーおっきくなったね、かわいくなったね、という映画でしかない。

十字架の死・ノアの洪水・ソドムとゴモラ
 しかし、この3つに共通するものがあるというの???、ということをおっしゃる方がおられると思うが、なんとなくではあるが、この3つに共通するものがあると思うのだ。実は、混乱とそのあとの神の介入としての神による神の御思いに従った秩序の確立(救い)が旧約聖書から新約聖書を貫くストーリーでこれら3つにも(もちろんそれ以外にも)共通するものなのだ、と思う。十字架の死、ノアの洪水は普通にわかるかもしれない。しかし日曜学校的には、ソドムとゴモラは悪人に対する神の裁きの話、と思われるだろう。でもそれだけで理解してはならんと思うのだなぁ。

 というのは、この前うちの信徒さんの一人が、このソドムとゴモラの話をしておられたのだが、その中で、創世記19章29節の中の「滅ぼす」、「破壊」という言葉という言葉が、もともとは「ひっくり返す」という意味であることを説明しておられたのだが、まさに、十字架の死という混乱、ノアの洪水の混乱、ソドムとゴモラの混乱、そして、そのあとに出現する、復活、乾いた地、そして神とアブラハムとの関係、それこそが神の秩序の確立という構造なのだなぁと思ったのだ。

 その意味で、たといこの地は混乱と流血に満ちていようが神がその主権者として、地を支配しておられるという意味で、すでに地に神の支配、神の国があることの意味を覚えたい。




評価:
N. T. Wright
HarperOne
¥ 2,137
(2008-02-05)
コメント:面白い本だが、結構衝撃的かもしれない。

 昨日の投稿記事が受けたので、今日は短めに。でも痛いかな。

山本七平氏の「一下級将校の見た帝国陸軍」で
面白かったこと
 山本七平氏の「一下級将校の見た帝国陸軍」には、旧帝国陸軍の部隊の参謀たちの上官のお気持ちの勝手なお察しに基づくとんでもない作戦命令以外にも、面白い特徴があることが記されている。それは、「員数主義」という奇妙な行動パターンである。この員数主義とは、この員数主義の存在によって、現実をガン無視が可能になる魔法のような思考法であり、それが割と日本の社会の中で多数あるのではないか、と思うのだ。

員数主義について

 ここで、員数主義を簡単に説明すると、

 兵隊(部隊)は、きちんと支給されたものをきちんと持っていることで、定量的に兵隊(部隊)の兵力が測定可能です。そして、測定(予測)される兵力に応じて作戦参謀は作戦計画を立案し、その実行を現場の部隊に求めます。

という考え方だったはずなのだが、旧帝国陸軍では、支給されるものは天皇陛下のものなので、兵隊はきちんと維持していて、減ったり、紛失したりするはずがないことになっている(なので、減ったり紛失したりするとまずいので、部隊内での同僚兵から窃盗が発生したり、古参兵からの私的制裁が待っていたらしい)ことから、

 兵隊(部隊)は、きちんと支給されたものをいつまでも持っている(たとえ武器弾薬を使い、食料を消費したとしても)ので、兵隊(部隊)は持っているはずのもので戦うだけの力があるはずです。そして、作戦参謀は、測定(予測)される兵力に応じて作戦計画を立案し、その実行を現場の部隊に求めます。

になり、最後には

 兵隊は(部隊)は、きちんと支給されたものをきちんと持っていない状態でも、創意と工夫で努力し、兵隊(部隊)は持っているはずの支給品を持っているかのごとく、同じ戦力で戦わなければならないのです。そして、実態がどうであろうと、完全装備状態を想定して、作戦参謀は、測定(予測)される兵力に応じて作戦計画を立案し、その実行を現場の部隊に求めます。

となる。

 それで、食べ物も武器弾薬も無くなっていても(武装や食料が足らないなどということを司令部や作戦参謀に言ったら、「泣き言を言うな」、「貴様、それでも帝国軍人か」、「みんな同じでそれでも戦っとる」と言われたらしいし)、武器が壊れていようが、作戦計画を実施せよ(要するに竹槍でも何でも持って戦え、ということらしい)ということが求められる残念な状況にまでなったようです。

 その極みが、防空訓練で、焼夷弾や1トン爆弾ぶちまけるB29スーパーフォートレス(今のボーイング747とか777とか787のご先祖様)に向かって、竹槍をもって戦え、となったり、「特攻精神で、銃弾がなくても、戦え」となるようです。マシンガンや戦車やB29に精神主義で勝てると思うところが、ねぇ。


SeaTac空港のご近所のボーイング社の飛行機博物館に所蔵されているB29


 ところで、員数主義の背景には、悪しき普遍主義があり、数があれば同じ、質的条件は無視してよい、という近代の背景があると思うのですね。それが海軍だと予科練とか、陸軍少年非行兵とかを前線へ、って発想に…。頭痛い。

教会に員数主義はないでしょ?って

 確かに、教会には員数主義はないですよね。多分。
 でも、本当でしょうかねぇ。でもよく考えてみると、地方部の教会が員数主義の弊害を受けているのではないかなぁ、と思うのですよ。オルガンの「ミ」と「ソ」の音が出なかったり、オルガン自体が壊れてようが、そこは創意工夫で賛美をしましょう。教会堂が雨漏りしてようが、そこは、創意工夫で、なんとかしましょう。必要な活動にふさわしい予算がなくても、そこは創意工夫で何とかしましょう。地方の人口減、高齢化、少子化を前にして、それでも、そこは祈りで信徒数を増やしましょう。貴教会からも、献金をもっとお願いします。ちょっと、貴教会からは献金が少ないですね。もっと祈りましょう。捧げましょう。○○教会ではこうやって信徒さんが増えたようです。こうすれば、貴教会も信徒も献金が増えるんじゃないですか。

 個別の教会の実情を把握することなく、いとも簡単に表面をちょろっと見て、数字をちらっと見て、そしてその場での思い付きのことを言い放って立ち去っていく旧帝国陸軍の参謀本部にいた作戦参謀のような人たち。

 よもや、日本の教会にこういう人はおられないと思いますが、もしおられるとすれば、なんか、旧帝国陸軍の員数主義や現場を知らない作戦参謀が現場ガン無視で勝手に員数主義で建てた作戦計画の遂行を求めたことと、なんとなく似てませんかねぇ。

自治会でもはびこる員数主義

 自治会に対して、某自治体関連機関は、○○の募金とかでも、目標額勝手に設定して、募金をこれだけ出せって言ってくるらしいから、まぁ、教会だけの問題でもないようだけど。地域の状況も踏まえずに、人数割りで同じだけ出せ、ってってねぇ。PTAとかでもあるんじゃないですかねぇ。よくは知らないけど。

実体を踏まえた上での取り組みと
員数主義の残念な結果は違うかも

 もちろん、下部のリンクで紹介したロイドジョンズ先生のリバイバルという本にもあるように、リバイバルが起きる前には、その地域で熱い祈りがあったことも確かでしょうし、リバイバルを神が起こされる前には、祈りによる準備があったとは思う。しかし、それは地域の現実(特殊性や特徴)をも踏まえた上で、そして、地域も、そして、日本全体のキリスト者も、祈り、整えられ、そして、リアルな現実を踏まえた上で、それでも、それぞれの地域とその実態に向かっていく(伝道する、あるいは、神の支配が来た、というイエスのことばを宣言する)ことではないか、とも思うのだなぁ。

 それを、向き合うべき社会やその実態のことを全く考えもせず、これでやればうまくいく、といってほかの人やほかの教会がやって、ちょっと成功したのと同じことをやっていくことを求めることは結局、現地の消耗と疲弊と、モラルハザード〔やる気の喪失〕だけを招くんじゃないかな、とも思うのだなぁ、これが。

員数主義、悪しき普遍主義の結果の例

 最後に、員数主義と悪しき普遍主義で思いつく事例をご紹介しますね。もう、実態としては非常に印象が薄い地域が多いと思うのですが、駅前にあるような商店街には、昔は、○○銀座と名前が付けられ多商店街があったものです。そして、日本全国に数えられない程の本物の東京都中央区の東京駅南側にあるような銀座とは程遠いミニ銀座ができました。
 そして、ミニ銀座には、傘をささずとも買い物ができるという触れ込みの麗々しい触れ込みのアーケード(たぶん、銀座そのものにはアーケードはこれまでなかったのではないか、と思いますが)ができました。商店街はアーケードや歩行者専用歩道を設け、歩道をカラー舗装をすることで、経済的に繁栄するはずでした。しかし、「今、現実はどうなっているのか」は、皆さんご存知の通りです。

まとめ
 日本のキリスト教会は、悪しき員数主義や普遍主義に毒されておられない、と確信しておりますし、そして、祈りをもって、地域の現状をしっかりとにらみつつ、神の祝福に備えておられるものと存じ上げます。そして、ミーちゃんはーちゃんも、神と共に歩むものとして、神の民の末席にいるものとして、日々のキリスト者としての皆さんの存在そのものがMissionalな存在であり、今は結果が見えなくても、将来豊かな実を結ばれることを期待しつつ、「御国が来ますように。み旨が成りますように」と祈っております。





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コメント:面白い。帝国陸軍の思考パターンが行動に表れているのがよくわかる。

評価:
D.M. ロイドジョンズ
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(2004-10)
コメント:ロイドジョンズのリバイバル論。


 水谷潔さんのいつものブログ記事 察することのできない夫と察しすぎる妻(例外編) を見ていて、はたと気が付いたことがある。日本の男性の行動が、キリスト教界においても、帝国陸軍の思考と行動パターンというのか、幕藩体制下の藩政時代のお武家様の皆さんの思考と行動パターンを見事に踏襲していることなのだ。そして、封建制度の生活文化というか、封建制度そのものを維持しているという現実である。以下引用する。

水谷潔氏のブログ記事から

 地位や序列を察しすぎてしまうあまり、男性たちは、心の深い交わりを失ってしまうのです。

男性たちは、サラリーマンだったりすると、宴会でも「無礼講」と言いながら、それは建前に過ぎません。ちゃんと役職順に奥から座ったりします。女性からすれば「どこが無礼講やねん!」と突っ込みたくなるような、矛盾した行為を当たり前にとるのです。言うまでもなく、こうした交わりの中では、本音を出しての心からの交わりなど望みえません。

 それは、教会でも同様です。男性たちは、主にあるフラットな交わりが困難です。年齢や信仰歴、社会的地位や学歴などにこだわり過ぎて、心を裸にした交わりできないのです。涙を流して祈り合う女性クリスチャンから見ると、男性クリスチャンたちは、恐ろしく貧しい交わりに生きているように見えてしまいます。

 以上のように、地位と序列については、「察しすぎる男性」と「察する気もない女性」と言えそうです。男性は、「権力関係における地位についての察し」はし過ぎてしまう一方で、「人格関係における心情についての察し」はできないのです。
あれ、帝国陸軍と似てないか?
 とくに、「権力関係における地位についての察し」というのが、実は、旧大本営から、旧帝国陸軍参謀本部から、旧帝国陸軍の末端に至るまで、先任関係(どちらが陸軍入省が早いか)という地位関係が優先されるのである(吉本興業などお笑いの世界でもそうらしい。一日でも入門が早ければ、入門時期の早い弟子が小学生でも、入門時期の遅い大卒の人間が、小学生捕まえて、「兄さん」と呼ばないといかんらしい。一日でも経験が長い人間に徳がある、ってこれ儒教的徳治政治やないですか。あほらしい)。つまり、平たい言葉で言えば、出生順であれ、入門順であれ、入省順であれ、先輩が能力の有無に関係なく偉い、という支配構造が生きているということであったのだ。これは、現在の中学生のクラブでも生きているらしい。なんじゃ、そら。そして、そのうえでの情実人事、情実に基づく判断が横行した模様である。そのあたりのことは失敗の本質に描かれていたように思う。

「察し」が原因の226事件かも

 そして、この「察し」というのは、「権力関係における上位者の意思の察し」なんてことも行われたりするが、その副作用も大きいと思うのだな。例えば、「お上(統帥権を持つことになっていた天皇)はこう思っておられる」 ということで、勝手に自分の思いをお上の思いへと重ねていくことになる。そして、青年将校は、226事件で暴発し、「昭和維新断行・尊皇討奸」と掲げてクーデターをやってみるものの、「勅命下る」で昭和天皇の不興を買ったと分かるや否や自滅へと向かっていく。まさに、神の「みこころ」が自分の「おここころ」に重ねられ、勝手に解釈されて、実行させられていくのは、基本的に帝国陸軍そっくりだし、はっきり語らない殿の「みこころ」が、自分の「おこころ」に重ねられて、家老や年寄、中老などの重臣などによって語られ(あるいは、騙られて)ていく。

教会婦人部 大奥説?
 と思っていたら、この前、面白いツイートでつかまえたブログ「しろうと哲学者トリス氏の生活と意見」で「あるカトリック教会における無教会クリスチャンの祈り」という記事を見た。

 わたしの母教会では、ここで幼児洗礼を受け半世紀以上も通い続けている婆さんたちに権力が集中していた。カトリック教会には人事異動があり、長くても十年くらいで神父はよその教会に移るが、信徒は転居しない限り同じ教会に通い続ける。したがって、備品のありかや雑務の段取りなどについては、婆さんたちが いちばんよく知っていて、神父も頭があがらないというわけである。新人クリスチャンのわたしなどは、しばしば上から目線で命令されたものだ。奏楽担当のお嬢さんも、よくいじめられていた。彼女には留学経験があり、外国人の神父や修道士と英語で話したりするのが、無学な婆さんたちの癪に障ったのかもしれない。わたしは引越しを機にこの教会と縁を切ったが、あのお嬢さんはどうしているだろう。聖体拝領のときにまたアメージング・グレイスを弾いて、それはプロテスタントの曲でしょと叱られたりしているのだろうか。
 まさに、家老や年寄りや中老が権威を持ち、大奥で、上臈御年寄、小上臈、御年寄、中年寄が力を持つ構造と同じではないか。頭が痛い。結局日本の教会では、ミニ江戸城、ミニ○○藩、ミニ大本営、ミニ陸軍参謀本部、ミニ陸軍幼年学校の再現が繰り返されているではないか。

教団総会、神学校も帝国陸軍の再現中?
 ところで、神学校の内実や、牧師会がどういうものかはそういうところに出たことがない平信徒のミーちゃんはーちゃんは知らない。また、教団総会とか、教団本部とかの人事がどうなっているかも知らない。しかし、いろいろ聞かせて下さるありがたい方のお話を総合すると、どうも、いずれも結構いろいろあるようであるし、ミニ陸軍参謀本部やミニ陸軍幼年学校の再現が繰り返されているという側面が全くないとも言えないようだ。これを書きながら吐き気すら感じてきた。

 某団体の教団派・社会派闘争(当事者でないのでよくは知らない。知りたい方は、キリスト新聞のバックナンバーをお読みくだされ)だって、下手すると、構造としては、お上の「おおみこころ」をお察し申し上げ、青年将校が暴発した226事件と構造は同じではないか、とすら思えてくる。なんだろう。これは。(ト、トイレ〜〜〜!)

繰り返される歴史・歴史に学ぶ必要
 かくて、帝国陸軍で起きた歴史が、日本の教会でも反省もなく繰り返されているかに見える(同じとは言ってないから、読者は注意されたい)現状を思うとですねぇ、これが実に残念だし、なんだかなぁ、になるのですよ。ミーちゃんはーちゃんとしては。

 なお、第3帝国末期のドイツでもヒットラー総統のおこころの類推で作戦が繰り出されたことはあったようだし、また、それをうまく使ってヴァルキューレ作戦が行われた形跡もあるので、まぁ、これはどうも日本に限ったことではないようである。どこの国でも、こういうことをする人はいるのだろう、とは思う。

 我々は、もうちょっと歴史に学んだ方がよいのではないか、と思うのだ。だって、旧約聖書はある程度歴史に学ぶ書でもあると思うし。

どっちみち人間は所詮ダメなんじゃね?
 まぁ、トリス氏の願いと祈りはわからなくはないが、恐らく、トリス氏の願いの通りにはならないだろうとは思う。残念だけど、それは申し上げたい。それは、この地において、人間が神の前に完全に神と共に一体となれないから。ごくごく荒っぽい言い方をすれば、罪ある存在だから。罪ある存在が、神にあって、神の霊にあって一つにまとめられたのが、教会の一断面だから。
 旧約聖書に繰り返されている歴史は、そもそも論として、人間はダメなんじゃないか、ってことを示しているように思えてならないんだなぁ。映画ノアの監督もそれが言いたかったので、ノアの物語をパロって旧約聖書の物語の幕の内弁当にしてみました、をしただけなんだと思う。このあたりをお考えになられたい方には、拙ブログの以下の記事もあわせて参照たまわりたく。

上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半
上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 後半

ノア 約束の舟 をみてきたよぉ。あなたがどんなクリスチャンであるかを問う映画かも?

それでもその教会を愛し給うた「頭」なるイエス
 一人ひとりは聖でなくとも、そして、如何に残念な人々であろうと、それでも、神は愛したもう、そこが大事だとは思った。そして、ナザレのイエスは、この教会を愛し給うたがゆえに十字架の上でのその神の支配(=神の国)の王座にメシアとして、あるいは、キリストとして、神の子(皇帝)としてご着座され給うたのではないかなぁ。目の前の現実も大事であるが、時に目の前の現実ばかりを見ていると、現実をクイックフィックスとも呼ばれる当面の方策とか関与で何とかしたくなる。その気持ちは、技術者としても生きているものとしては非常によくわかる。しかし、現実ばっか見ていると、現実のその奥にあるものが見えなくなるし、その奥の構造も見えなくなる。それではアカンのではないか、とも思うのだ。最後に口語訳聖書に記載された、マタイの福音書での主の祈りを引用して終わる。

天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
 この記事の読者に神との平和、共にあらんことを。そして、神のみこころを勝手に察して、勝手に自分で、自分たちでどうのこうのするのではなく、神の御手にあることを確信しつつ、悪をも用い、アッシリア、バビロンすら用いたもうた神の御手に委ねてまいりたい。ミーちゃんはーちゃんとしては。

 お立場もあるんでしょうが、このあたりのこと、本当は牧師先生にもわかりやすくお示してほしいなぁ、と。ちょっとおねだり。

 生々しくって、書けないって? そうでしょうねぇ。多分。 

 ま、今政権政党の皆さんが、道徳教育の復権とか、「とりもろす」とか、慌てていっているんだけど、まぁ、もう間に合わんと思うので、「権力関係における地位についての察し」や「権力関係における上位者の意思についての察し」ができない人がどんどん増えていけば、多少は教会も変わるんじゃないかと。その前に、自分や自分の考えだけが正しい、と思う人が減ればいいんだけどね。 

 続編 

   続 日本のキリスト教会と帝國陸軍の類似性(これで終わり) 

もよろしければどうぞ。



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コメント:下士官として前線におかれた山本氏の視点から見た帝国陸軍の姿。

 土曜日なので、軽め(中身は軽くないよ)で、短めだけど、強烈な記事をおひとつ。

あるツィッターの投稿から
 
 ある福祉関係者が、ツィッターで次のように呟いていた。

多くの福祉屋って、昔のことはどうでもいいから(理論とか歴史とか嫌い)、今、クライエントさんの役に立つものを!みたいな短絡的な思考で動く傾向があるから、そういうところはあんまり好きじゃない。でも、私がそう思うだけなのかもしれない。


これを見ながら、次のように思ってしまった。


多くの福音派って、昔のことはどうでもいいから(理論とか歴史とか嫌い)、今、信者さんや未信者さんの役に立つものを!みたいな短絡的な思考で動く傾向があるから、そういうところはあんまり好きじゃない。でも、私がそう思うだけなのかもしれない。


って変えたら、両者があまりによく似ている。(爆)


福音派についての
マクグラス先生のご指摘
 そーいやぁ、A.E.マクグラス先生も、キリスト教の将来と福音主義(いのちのことば社)で次のようにご指摘である。


「福音主義者は、自分たちのルーツを知らず、そのルーツが現代の教会に提供できる豊かな宝に気づいていない。」(p.179)

「我々は、急を要する問題として、霊性の過去の形態 ー 清教徒と関連して思い描くもの ー をわかりやすく、実現可能にするべきで、それが福音主義に対するのと同時に教会全体に対する責任である。
(中略)
なくした銀貨を見つけた女の人が喜んだように、我々は先祖が知っていたがその後なくしてしまった霊性を再発見する喜びをともにすることができる。キリスト中心の、聖書に基づいたキリスト者生活の送り方が、ほかにも発見され、育てられるのを待っているはずである。我々の務めは過去を再発見するだけでなく、将来を形作っていくことなのである。」(pp.180-181)


ですって。ミーちゃんはーちゃんが言っているんじゃないですからね。マクグラス様がおっしゃっておられる。ちなみに福音主義って、今日的な意味でマクグラス先生おっしゃっておられない可能性がある模様。要注意。


ミーちゃんはーちゃんにとって
大事だと思うこと

 ミーちゃんはーちゃんが思うのは、福祉やも福音派、両方にとって実践(伝道)も大事、昔のことも大事。両方大事…って、なんて、Britain風・・・

大英帝国United Kingdomについて

 ところで、大英帝国は、パンクロックとか出すくせに、現代クラッシックも結構面白かったりと、実に両極端を併存・併記させて、バランスとってナンボ、って癖があるよねぇ。2大政党で、極端から極端に政策がぶれているように見えても、なんとなく、それでいて、現実に表れる面での政策はそれなりに一貫してるし、社会にいろんな問題はあるものの、なんとなく連続的に国が運営されている。おまけに英国国教会は、極端から極端までの人を含みながらも、基本Via Media(中道)というのが、エリザベス1世以来の伝統だし。

 なんとなく社会で、こういう極端から極端までに見事に併存するという、ややこしさを併呑できるブリテン島での特質が維持できる背景には、もちろん、大英帝国時代(いまだに継続中という話もある)にコモンウェルス(共通の豊かさと呼ぶかMJD)と呼ばれる以前植民地にした国や地域からかなりの長期間にわたって分捕ってきた膨大な資産(それ、過去からのプレゼント)で国が持っているという節もあるけど。日本は、将来の若者からぶんどってこれるかもしれない将来からの国債という(それ、将来からの無理にお願いしてのプレゼント)の大量発行による将来資金の先貰い(給料の先払いみたいなもの)をしてもらって、現状での日本という国を運営しているとみると、彼我の違いは大きいかな。また、余談でスマソ。

説教者のための祈り

 それはさておき、明日、教会に新しい来会者がなくても、再来週の日曜日に教会に新しい来会者がなくとも、毎週同じメンバーであっても、明日の説教、再来週の日曜日の説教の時間は、聖書の中にある、我々が見失ってしまった銀貨を探す手がかりを探す時間であり、銀貨そのものが見つかる時間になるはずだと思う。そして、過去にも、そうやって見つけた人がいて、そして、それで過去の霊性が形作られたものだと思うし、それを今日も再発見して人々と分かち合うことは重要ではないかと思う。

 それが、「福音の再発見」を出そうかと思った理由である。ここに書いてあることは当たり前だ、という批判を恐れずに「福音の再発見」を出した理由でもある。(この段落ステマ)

 明日の説教、毎週日曜日の説教は、確実に将来の教会を、将来の来会者への神の支配を形作るものとミーちゃんはーちゃんは存ずる。明日、教会で語られる言葉に祝福あらんことを。





評価:
アリスター・E.マクグラス,島田福安
いのちのことば社
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(2003-04)
コメント:翻訳の読みにくさを超えて、内容大絶賛!!

評価:
価格: ¥842
ショップ: 楽天ブックス
コメント:まぁ、大英帝国の不思議さ、面白おかしさを、日本滞在中の大英帝国ジンが書いた新書。楽しく読めます。

スコット・マクナイト
キリスト新聞社
¥ 2,160
(2013-06-25)
コメント:ぜひお買い上げを


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