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 前回に引き続き、きょうも、深井智朗著 神学の起源 社会における機能 のご紹介をいたし度。実は、近代日本の成立、特に、啓蒙時代を経たヨーロッパ世俗社会システムの影響を受けた大日本帝国の成立と神学の深いかかわりをご紹介したいかなぁ、と。 

ドイツナショナリズムと宗教改革

 ドイツナショナリズムと神学、特に宗教改革とのかかわりについて以下のようにお書きになっておられる。
 実は、16世紀の宗教改革こそが中世の終わりで近代の始まりであるという主張、あるいはカトリック的な中世に対するルターの宗教改革によって生まれたプロテスタント的な「キリスト者の自由」という主張が近代のはじまりだという見方は、極めて政治的な命題で、19世紀になってようやく国家統一を果たしたドイツの「政治神学」として採用された比較的新しい見方であるといってよい。つまりこの命題自体がドイツのナショナリズムの産物である。(p.107)


 ってお書きである。え、じゃ、高校以来思ってきたことや当たり前田のクラッカーと思ってきたことは、ドイツのナショナリズムから生まれたことだったのか。うーん。

てなもんや三度笠 「あたり前田のクラッカー」の前田製菓提供


16世紀ドイツには信教の自由は
存在しなかったかも?

 じゃ、実情としてはどうだったのか、について、縷々ご説明があるのであるが、それをぶっ飛ばして要点だけを取り出す(よい子はこれをしてはいけません。ちゃんと著者のご主張に丁寧に耳を傾けましょう)と、こんな感じになるだろう。

 それにもかかわらず、ドイツの人々は、宗教と社会の関係からいえば、この1555年の決定によってはじめて宗教の自由を手にしたのだと主張するのである。選択の自由を与えられたということである。カトリックかプロテスタントか選べるのだから。しかし既に述べたとおり、この時代の人々は選択できていないし、選択もしていない。さらに言うならば、この時代も結局、宗教を選択しているのは、支配者としての領主だけである。「領主の宗教がその地の宗教になる」というのはそういうことである。これでは中世の社会と宗教の関係を、地域ごとに細分化しただけである。(中略)
 ここで人々が手に入れたのは思想における「自由」であったとしても、具体的な人間や社会を動かす力としての「自由」ではなかったのである。(同書pp.125-6)
とお書きである。

 つまり、「信教の自由というのは、案外古く、中世の終焉とともに終わった」という学校で教わったことは十分疑問を挟んだ方がいいのではないか、それは16世紀ではなく19世紀的な現象ではないのか、ということをご指摘なのである。確かに概念レベルの信仰と個人を考える枠組み自体はルター先生にまでさかのぼれるけど、社会全体でみた時の信仰と個人の問題となっていく、つまり地域共同体と個人と教会との関係が分離し、個人にとっての地域共同体=教会となったのは、西ヨーロッパでは割と最近のことらしい。我々は西洋哲学を個人主義的なものと簡単にいいがちだし、キリスト教を個人的なものととらえがちなのだが、それは、存外西ヨーロッパでは、最近の出来事らしい。

明治の日本政府がモデルとした
プロイセンという国

 近代日本史も、近代西洋史も高校でみっちりやったわけでなく、地理と政治経済で共通一次を受けたミーちゃんはーちゃんは、娘の入試問題にナンチャラ条約がいっぱい出てきたときに、かなり頭を抱えたが、その昔、岩倉使節団の米欧回覧実記は、高校生のころ暇にあかして読んだのでなんとなくわかるが、当時の新興国家であるプロイセンの法制度、特に行政法関連法などはプロイセン法をかなり模倣している。なお、この米欧回覧実記を書いた久米さんというのは、日ユ同祖論の関係者である。中央集権国家を目指そうとした明治国家では、フランスが当時代表的な中央集権国家であったこともあり、民法なんかはフランスの法制度が導入されたりしたとかいう話を、大学時代の民法概論かなんかの授業で聴いた記憶もある。大分怪しいけど。違ってたらスマソ。陸軍は、当初幕府陸軍がフランスから兵操典を導入していたこともあるらしいのだが、明治期当初はフランス風であったが、後年、ドイツ風に変わっていく。なお、日本の大学モデルは国立大学(特に理系や医学系)は当時破竹の勢いであったドイツ式になる。

 これ以降神学は、ドイツ語圏では、主権者の政治と深く結び付くことになる。中世の神学がインターナショナルなものと結び付いていたとすれば、宗教改革以降の神学はナショナルなものと結びつくようになった。(pp.127-8)

とあり、このナショナリスティックな概念が、明治期の天皇制やら神社政策をはじめとする宗教政策に影響し、現在もなお、日本に影響しているように思われる。実は、現在の右翼的な人々のナショナリスティックな傾向というのが、プロイセンの神学由来だとすれば、なんともはやである。日ユ同祖論のところで、水谷さんが靖国神社で演舞をご披露されたキリスト者集団のことをご紹介しておられたが、実は、その背景にドイツ神学があろうとは、誰しも思わないかもしれない。

日本のナショナリズムの遠景としての
ルターの宗教改革?
 明治期の国家建設の理念とドイツ、あるいはプロイセンとのかかわりについて、同書では次のように記されている。

 ちなみにこの時代のドイツ、正確にはプロイセンを視察し、この華々しい政治神学の力を見て帰国したのが岩倉使節団であった。彼らにとってはプロイセンの試みや、その後のドイツといういつ、そして「神に選ばれた」皇帝ヴィルヘルムとそれを支えるドイツ・ルター派のナショナリズムと結びついた政治神学は、天皇を中心とする国家のグランドデザインを描くためには大いに参考になるモデルであり、国家元首たる王を処刑台に送ったことのあるイギリスやフランスよりも頼りになるものだったはずである。その意味ではナショナリズムと結び付く神学というこのドイツ的モデルは、近代日本の国家設計を読み解くための一つのヒントであるかもしれない。(pp.131-2)
 こう見ていると、近代日本のナショナリズムは、実は、明治のころからドイツ由来で、大学教育が世俗系の学問(自然科学や医学)がドイツ系であったり、法学(特に国家運営関係の法律である行政法)の一部がドイツ法学を範に取っていたろうし、哲学もドイツ系哲学が結構幅を利かせているとすれば、プロイセンという国で、ドイツ系哲学に必死になって神学的立場から物を申して作り上げられていったドイツ神学の結果生まれたナショナリズムが日本の国粋主義に影響を与え、そしてその挙句の果てに第1次世界大戦から第2次世界大戦に移行する直前に庶民レベルにまで影響を及ぼし、(特に米英系の)キリスト教会排撃運動を起こしていったことを思うと、考え込んでしまった。しかし、日本の戦前のキリスト教会がドイツ系宣教師によるドイツ型教会がメジャーだったら、その後の日本のキリスト教会はどうなっていたろうか、という歴史家にはゆるされざる妄想をしたくなる。

 なお、このドイツ神学が生み出していったナショナリズムが、その後ナチスドイツにもつながっていくが、それは、別の話題ということで。



礼装姿のウィルヘルム2世    と 礼装姿の明治天皇


イスラエルの大学の日本語学科での「恋するフォーチュンクッキー」 
明治天皇の御真影の前で踊っておられるイスラエル人学生・・・



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コメント:近代社会の成立に影響した神学と社会とのかかわりがわかりやすくてよい。

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コメント:当時を知る一次資料として極めて重要と思う。実は、この本の著者の久米さんは日ユ同祖論の関係者でもある。

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 ずい分前に買っておいた本なのであるが、積読になっていた本を読んだ。深井智朗著 「神学の起源 社会における機能」 新教出版 2013年6月 である。

この本が生まれた背景と
ミーちゃんはーちゃん的にとっての長所
 
 同書のあとがきを読むと著者が、名古屋の自主的な勉強会でお話しされた内容を原稿にまとめて出版されたものらしい。フスト・ゴンザレスのキリスト教史なんかも読んだが、どっちかっていうとキリスト教内の歴史にかなり強調があり、ヨーロッパ社会の成り立ちにどのように影響したのか、そもそも、教会と世俗さ社会との緊張とか、なぜ、啓蒙主義と教会、あるいは神学が緊張関係にあるのか、ということは、何となくこうだろうなぁ、と思ってたことが一挙に文章化されて、あ、やっぱりそうだったんだ、ということを示してくれる本であった。

 一部若干、面白いと思った部分などを紹介しながら、書いていきたい。

神学の発生

 まず、神学の出発点としてどのように発生してきたかに関して、深井さんは次のように指摘している。

 重要なことは、キリスト教がこの時代の社会的、政治的、そして、文化的な枠組みの中で自らを展開し、そのために自らの存在についての説明責任を果たすようになったということであろう。神学はそのために必要とされたのである。そしてそれは同時にこの時代の時代精神を形成するものとされたのである。(同書 pp.58-59)


 つまり、神学というもの、聖書からの理解は、ある面時代依存であり、その時代に生きた人々の現実的な課題に対して、聖書から説明しようとするものであるのではないか、とご指摘のようである。時代に説明するばかりではなく、時代とその社会、政治、文化そのものを変えていき、さらなる神学的思惟というか聖書理解を生み出していくものではないか、とご指摘のようである。

ヨーロッパのキリスト教化の二つの鍵

 ヨーロッパ社会のキリスト教化に関して、深井氏の興味深いを指摘を拾ってみると、次のようなものがある。

 キリストこうはどのようにして西ヨーロッパをキリスト教化したのだろうか。これも簡単に説明は出来ないが、重要な点が二つあるのではないか、と思う。一つは、時間の支配ということである。(中略)
 もう一つ教会がヨーロッパをキリスト教化し支配するために行ったのは、死の支配ということであった。あるいは天国の支配といってもよいかと思う。目に見えることに関しては、教会はヨーロッパではもともと郊外にあった墓地を市中に、あるいは教会の庭に移動させた。それは、教会の管理のもとにある人間の生と死の象徴であった。(同書pp.75-77)

 ということで、教会歴による支配と、死者の管理者(生死記録を管理する存在)としての教会という組織が明確に人々に浸透していく中で、神とのかかわりで生きることを示す教会歴が人々に浸透していく中で、日常生活の中にも、教会、いや、聖書理解が入り込み、しみ込ませていくための手段として用いられたようである。そして、キリスト教と社会が一体化した幸せな時代があったようである。いまの日本では考えがたいことであるが。

この二つのものの支配はいわゆる西ヨーロッパをキリスト教化するための推進力になった。そのことは第6講で扱うが、それから何百年もたってフランス革命が始まったときに革命政府が行った政策がヨーロッパをキリスト教化するために教会が行ったことへの裏返しであったことを考えるなら、教会によるこの二つのものの支配の社会的意味を理解することができるであろう。(p.80)

 という表現にも見られるように、実は、この生死の管理と時間(暦法と教会歴)の管理というのは実は、農業社会であった当時の西ヨーロッパでは非常に重要であった。この習慣はいまなおアメリカでも行われ、イースター前になるとイースターエッグ用品がスーパーやクラフトショップには並び、ハロウィーン前には、ジャコランタン(Jack O’Lantern)用のカボチャが並び、クリスマス前には、サンクスギビングの終了直後に毎年死者数名を出しながらも特売セールをやり始める。そして、ヴァレンタインデー前には、カードコーナーにカードが並ぶ(アメリカではチョコレートではなく紙のカードが一般的)。その意味で、アメリカではスーパーとテレビ番組は教会歴に従って割と番組を流している。今日は●●聖人の日(ヴァレンタインはちょっと前までは聖人であった)、というのは見たことがなかったけれど。

科学の出発点としての神学
 マクグラスの自然神学シリーズや、神の科学などでも指摘されていることであるが、以下の指摘は面白かった。

 この時代の神学を第2のサンプルとしてみておきたいことは、神学がいまのことばで言えば「自然科学」でもあったということである。既に神学が超越の世界の問題ではなく、この世の現実の営みと深くかかわっている学問だと述べたが、そのことは、この時代の神学が熱心に取り組んだ「自然」についての研究のことを考えてみるとよくわかる。近代人の視点から見ると神学と自然科学、あるいは宗教と科学は全く異なった領域だと考えるかもしれない。前者は非合理的な世界を取り扱い、後者は合理的に世界を説明する、と。
 しかし、自然科学は、おそらくキリスト教的な世界、より広く見て聖書的な世界、そして、キリスト教が生み出したある特定の学問的精神を持った人たちの前でしか生まれなかった。例えば日本人という民族は自然を愛し、自然をともに生きることを重要視する民族だと言われるが、自然を哲学したり、研究したりということはあまりしなかった。なぜ、キリスト教が自然について神学の対象として研究したかといえば、それは自然が神なのではなく、神の被造物と考えたからである。(pp.93-94)


自然と日本人のかかわり方
 このご指摘には少し問題があるかもしれない。確かに日本人は、自然を神であるとか、科学的な対象として、あるいは学問分野としては研究しなかったが、自然を研究はしているのである。鎌倉時代から、河川改修や河川の洪水防止策、あるいは水田の水流傾斜角度の取り方、などの修正が行われる際や、城壁を建築する土木工学的な意味での研究は文章にはされてないけれども、実質的な研究は結構されている。平安朝には、虫を愛づる姫という虫に取りつかれたかのような姫はでてくる。まぁ、虫をめづる姫は、研究したわけではないだろうけど。(堤中納言物語)

 蝶めづる姫君の住みたまふかたはらに、按察使の大納言の御むすめ、心にくくなべてならぬさまに、親たちかしづきたまふことかぎ限りなし。          
 この姫君ののたまふこと、「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ」とて、よろづの虫の、恐ろしげなるを取り集めて、「これが、成らむさまを見む」とて、さまざまなる籠箱どもに入れさせたまふ。
中にも「烏毛虫の、心深きさましたるこそ心にくけれ」とて、明け暮れは、耳はさみをして、手のうらにそへふせて、まぼりたまふ。
土木工学的工夫としての自然研究
 ここでは、自分の専門分野とちょっぴり化する土木工学の例をとって話したい。まぁ、基本、日本の前近代的な土木工学って、基本、現実対処問題をどう考えるか、その体系化、って部分で生まれてきたので、それを研究というかどうかは別問題だけど。ただ、自然災害箇所に、神社が置かれているのは、結構有名な話。

 典型的には、京都の下賀茂神社辺りは、もともと、洪水調整地だったと思われる。また、あそこは地下水位が異常に高いので、じめじめしてて、水田など以外に使い道が過去には中田氏、水田を造ったところで、洪水被害に遭いやすいから、というのもあるとは思うが。大体地面から泉が湧いているということからして、地下水位が高いことを示すのだが。まぁ、貴重な水源でもあるので、汚染防止、共有地化しておいて、水源の独占防止というのもあるだろうけど。


京都市発行による水災害ハザードマップの一部の拡大図


 次回へと続く





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コメント:非常に分かりやすくヨーロッパ社会と教会、神学との関係がうまい表現で書かれている。ご一読をお勧めしたい。文章も読みやすい。

  これまで、教会をやめたい、という方々について、教会が信仰の付帯事項について説明不足かもしれないこと、教会はやめられること、なぜ、教会の伝統が生まれるのか、伝統とは何か、伝統を作り出していくこと、守るべきものと変えるべきものを考えながら、何を自分たちの価値をしていくのか、ということを説明してきた。これまでの記事は、以下の通り。

教会をやめたいで当ブログに来られる方が多いこと(第1回)
でも、教会はやめても、
キリストと共に生きること、キリストを信じる人々ともに生きることが大事なこと(第2回)
教会は休ませてくれないかもしれないこと、休ませてくれるのは神との関係であること(第3回)
一種の教会内迫害が起こっているとしか思えないほどの流出ぶりであること(第4回)
私も、別の人も、誰一人として義ではないこと(第5回)やめたくても、教会をやめさせてくれない教会(第6回)
伝統についてのマクグラス先生の所論(第7回)
を守りながらも、変えていくべきところは変えていく、という伝統の守り方(第8回)


最後の最終回として、今日は今回のシリーズを振り返りながら、本シリーズを軽くまとめていきたい。

他人がどうこう言おうが
キリスト者でいられるよ
 教会は、やめれるし、やめたければ、やめればいい。転会の方法というのもあるし、無教会という方法もある。しかし、あなたが神に愛されていることを知っている以上、キリスト者はやめられないだろうし、おやめになりたいとも思われないだろう。あなたが神と共に生き続けたい、キリスト共に生き続けたいと心の片隅でもいいから思っていて、神の元に戻り続ける限り、あなたは他人がどういおうと、キリスト者であり続けると思うし、神はご自身の民として受け入れたもうと思う。牧師や教会の人や、教会役員が何と言いつのろうとも。

教会のいう「聖書的」はある時代には
「聖書的」と考えられただけだっただけかも?

 教会の側は、無意識に過去の歴史的経緯でできてきたことを、自分たちのしていることは聖書的だと思い込んでいて、無批判に過去から継承してきたことをそのまま続けている場合が多いことも紹介した。しかし、教会の前提条件としている社会や個人、個人の生き方が聖書的であると思ったことが成立した時期のものと異なったり、変わったりしている以上、制度自体も見直しが必要であり、変更が必要なのではないか、と思う。

大体普通の人が聖書が読めるようになって、
200年前後じゃないですか?
 そもそも聖書が読める人(というよりは文字が読めて、ある程度正確に意図が理解できる人)が普遍的に存在するまでは、聖書は聖職者にお願いして、説明してもらう方がよかったわけではあるが、印刷術が西洋に流入し、社会の基幹技術の一つとして普遍化し、商工業の隆盛や、初等中等教育の普及が進み、実用の学として読み書きが普及したからこそ、普通の人が聖書を読むという習慣が生まれたし、また、聖書が各国語に翻訳され、翻訳聖書が普及したからこそ、様々なキリスト教の理解の多様性が広がってきたといえよう。

 その意味で、一般人が聖書を読む、読まなければならない、読む特権にあずかれる、という伝統は比較的最近に生まれた伝統であることがわかる。西洋でも、普通教育が始まる19世紀以降の伝統なのである。

絶えざる変化を続けてきた教会

 つまり、こうやって見たならば、キリスト教の伝統とは、社会の現実の変化に対して、内部からさまざまの問題意識を持った人々が陸続と生まれ、従来の考え方にチャレンジし、そして、それらのチャレンジを受けながら、柔軟に対応したり、しなかったりしながら、残すべきもの、あるいは、共有すべき共通性は維持しつつも、たえざる変化を遂げてきたといえるのではないか。

 であるとすれば、まぁ、教会での魔女狩りにあっているとか、隅っこにおかれたとか、迫害を受けたとか、いじめられたとか、いびられたとか、そういうことが起きていたとしても、我らがキリストにあって、あるいはキリストを通して、キリストにおいて、神に立ち戻ろうとする以上は、キリスト者であることには変わりがないといえるのではないかなぁ、と思うのだなぁ。教会を流浪の民のようにふらふらと動いていたとしても。

「分派だ!」といいたがる教会も
もとはどこかからの分派だったりして

 ところで、これまでのあり方を変えようとか、変えたいとかいうと、すぐ、「分派だ」とか「分裂を生ぜしめる」とか「教会を軽く見ている」とか、既存教会の方はおっしゃるかもしれない。ところがちょっと待ってほしい。そうおっしゃる教会ですら、どの程度以前かは別として、どこかのグループからの分派の結果生まれたものであるのではないだろうか。今、このキリスト教界の戦国時代状況に近い群雄割拠状態のために、キリスト教会は、特に日本のキリスト教界は、尊敬するAさんによれば、

日本の教会は、
神学的ごった煮状態。やみ鍋状態

らしいですから。教会から離れたい皆さん、残念だけど、教会から離れちゃった皆さん、どこかに、あなたに合う教会は意外と近くにあるんじゃないか、と思います
。あなたがご存じないだけで。トラウマから解放されたら、ちょっとだけ覗いてみるのも悪くないかもよ。

最初に出会った教会だけが教会じゃないよ

 最初に出会った教会だけが、教会のすべてではありません。世の中にはいろんな教会が、同じ神をキリストにおいて or キリストを通して or キリストによって、近づこうとしているだけで、その方法論が、その教会のグループの設立時期やその設立時期の環境、その後の歴史的経緯とその教会が通ってきた歴史によって、違っているだけだと思いますよ。一つでつまずいたから、ほかでもそうなるとは必ずしも限らないんじゃないですか?

他の教会を紹介してほしいかなぁ?

 そして、牧師先生方や神学者の方々には、もう少し他派の方々の動きや、聖書理解にも目配りいただいて、君には、こっちの方が合うかもね、みたいな他の教会を推薦するような、教会運営があってもいいかなぁ、と思いますし、そういうところをお願いしたいところです。自分のところだけで考えないで。

教会内
霊的バイオレンス?
 個人の特性によって、合う、合わないというのはあると思いますので。あわない教会で、躾と称する信徒が新入会員に対する嫁イビリまがいの対応や、旧大日本帝国陸軍も真っ青のいじめに近い初年兵ならぬ初年信徒教育(さすがにビンタはないと思うが、カルト化した教会では罵声を浴びせる、くらいはあるかもしれない)をしてみたり、ヒソヒソ話で他人を変えてみたり、説教で変えようとしてみたり、というのは、一種の教会内霊的バイオレンス(ICSV:In-Church Spiritual Violence )ではないかなぁ、と思うのです。これは、かなり言い過ぎかもしれませんが。

 最初に出会った教会がそこの教会だからその教会から抜けられないと主張するのは、DVでも何でもいいから、暴力で死ぬまでその夫婦が分かれられなくするというのと同じであり、一種の教会内霊的バイオレンス(ICSV)の温床になるかもしれません。こういう話は、こちらでも日本語変換をしたときにちょろっと書いた

未熟なキリスト者が未熟なキリスト者を世話する
のが教会かも

 そして、牧師先生、教会員、神学者を含めたすべてのキリスト者の方にお願いしたいことは、よくわけのわからないような整理されてない未熟なキリスト者を圧力や力や躾、無言の威圧、あるいは、「これは伝統だから」、「(私が信じる)聖書的なことだから」という理由でその行為に至った自らの背景や歴史的経過を考えることなく押し切るのではなく、未熟なキリスト者の皆様を同じ未熟なキリスト者として(どうせ、経験があるといっても、高々70年程度でしょ。神様の人間の世話してる期間は少なくとも数千年単位じゃないですか)温かく見つめ、見守りながら、お互いに聖書に照らしながら、どう考えるのか、教会の現状で何が変えられないもので、何が変えられることなのか、現在行っている様々な教会運営をめぐるその伝統や方法論が生まれてきた背景がなんであったのかということを考え、その歴史的経緯を照らしながら、聖書という共通の土台にあって、整理しながら、考え、そして、新しい伝統を作ることに、これまでの宗教改革者(あるいは前々回ご紹介したマクグラス先生の用語によれば、たぶん福音主義者)のように、勇気をもって向かっていただきたいなぁ、ということでございます。

最後にニーバーの祈りを、変わること、かえること、ということで、覚えたい。

    God, give us grace to accept with serenity
    the things that cannot be changed,
    Courage to change the things
    which should be changed,
    and the Wisdom to distinguish
    the one from the other.

    Living one day at a time,
    Enjoying one moment at a time,
    Accepting hardship as a pathway to peace,
    Taking, as Jesus did,
    This sinful world as it is,
    Not as I would have it,
    Trusting that You will make all things right,
    If I surrender to Your will,
    So that I may be reasonably happy in this life,
    And supremely happy with You forever in the next.

    Amen.

  神よ、あなたの恵を私に与えて下さい
  静穏のうちに変えられないものを受け入れ
  変えるべきものを変える勇気を
  そして、変えられないものと変えるべきものを
  峻別する知恵を私に与えて下さい

  一日を瞬間瞬間生き、
  一瞬を瞬間瞬間楽しみつつも、
  平和への小道としての困難を受け入れることができるように。
  ちょうどイエスがその小道をたどられたように、
  この罪深い世界をそのままに受け入れることができるように、
  私が罪深い世界を自らの世界とすることがないように、
  あなたが全てを義とされる方であることを、私が信じることができるように、
  あなたの御思いに身を委ねることで、
  私が受け取るにふさわしい幸福さの中での人生を過ごせますように、
  そして、あなたの隣に私をおらせ、
  これからも、これ以上ない幸福を永遠に味わうことができますように。



 あー長かったですが、思う存分書いてみました。

 お付き合いいただき、ありがとうございました。


次回は、本稿の記事をうまくまとめた本が見つかったので、それを紹介したい。


評価:
アーサー・ミラー
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
¥ 3,300
(2006-02-10)
コメント:社会的熱狂のもたらす悲劇を開拓時代のニューイングランドの魔女裁判を事例に描いた名作。批判の対象は反共主義時代のマッカーシズムの模様。

 いつも拝読している水谷さんのブログ記事に、面白い記事があったので、思うところを述べてみたい。

キリスト教会もキャラ弁禁止?(上)
キリスト教会もキャラ弁禁止?(下)

本日は、緊急公開である。

キャラ弁的教会状態

 キャラ弁と教会のの詳細な関係については、水谷さんのブログ記事に譲るが、要するに、水谷さんのご主張をおまとめしていけば、「(キャラ弁的教会とは、)信徒や非信徒に『ウケ』のよい聖書理解の提示をしようとするあまり、本来普遍的であるべき聖書理解の本質論を忘れ、『ノリ(海苔ではない)』の良さだけで突っ走り、人気や注目を浴びようとする教会群」のことと定義できよう。

 要するに本分を忘れ、見栄えの良さだけに走った教会のことといえるであろう。そして、見栄えの良さだけに走るあまり、本質論を忘れていく教会群とその問題についてご批判である。何、ミーちゃんはーちゃんがキャラ弁的アプローチをしてないか、と言われれば、そういうアプローチをとったことがあるし、現在もなお、そういうアプローチと誤解されかねないアプローチは、その危険性を十分承知しつつも、多少は取っている。まあ、子供向けキャンプで替え歌歌ったり位ですけどねぇ。w

キャラ弁大会状態の
日本キリスト教界の根源
 ここで突っ込みたいのは、そこではない。
 日本では、1980年代から、こうした教会の多様化が本格化してきたように感じています。そして、1990年代には、そのマイナス面も深刻化したように記憶します。「キャラ弁化」は差別化でありますから、教会は信徒によって比較・評価され、間違った競争原理が働いて、いわゆる「教会移動」や「教会ジプシー」が起こります。

とお書きであるが、ここに納得しかねる部分がある。現実としてはそうかもしれない。しかし、実は、そもそも論として、教会のキャラ弁化の根は、もっと根源的な問題だと思うのである。この根源、古くは、英国で国教会の分離派としてのピューリタンと呼ばれた人々が分離したことにはじまるようなのだ。

ヨーロッパの国家と国教会
 詳しくは、深井智朗さんの神学の起源という最下部のリンクで紹介する本で読んでほしいのだが、もともと、ドイツでは、ルター先生ご一行様が諸般の社会的、政治的状況の中でカトリック教会から分離したとはいえ、領主の宗教が地域住民でもある一個人の信仰を支配した。そもそも、信仰の自由(国教会をもたない、もうちょっと拡張して言うと、宗教的信仰スタイルの選択権が国家によって規制されない)ことなんて、ワイマール憲法ができるくらいまでは存在しなかったらしい。

 フランスでは、フランス革命は、当時の領主化して人民を苦しめていた、けしからん当時のカトリック教会と思い込んでしまった啓蒙主義者たちの反乱という形でもあった。

 英国では国教会分離派であるピューリタンが分離し、選択的に信仰を明確化するまで、ユニバーサルサービス(いつでも、どこでも、同じものが提供される)としての教会があり、王家の信仰が英国民の信仰であるという形が、ピューリタン革命まで維持された。

 しかしである。これらの革命の季節やら、社会変化の季節を経て、ようやく、それぞれの教派が独自に存立できるようになったことが、深井先生の「神学の起源」には、後半の章で書かれている。

『国教会を置かない=信教の自由』
としたアメリカ合衆国憲法修正第1条
 これが、非常に明白になったのが、明確な自らの信仰の独自性や純粋性を国教会から離脱することで追求しようとしたという意味でピューリタンとよばれた、国教会離脱派の人たちが渡ってできていったアメリカという国家である。ちゃんと、アメリカ合衆国憲法修正第1条の条文は、

Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the Government for a redress of grievances.
議会は、自分たちの宗教的な基盤(平たく言うと教会)を定める法律を作らない、また、宗教上の自由な行為の実施を禁止する法律を作らない、発言の自由を奪うような法律を作らない、・・・

となっている。つまり、この教会に従って全部やってね、という一種類の定食しかないような教会と国家との関係、つまり、全員がそれに否が応でも一つの国家と結びついた教会の言うことに従えというような法律は議会としては作らない、という宣言をしたにすぎない。

 つまり、「自分たちに、ああしろ、こうしろと言いがちな国教会はご免こうむる」というのが、本来のアメリカ合衆国における信教の自由が言うところなのである。そのため、アメリカでは、実に多様なキリスト教会が、実に多様な違いを見せながら、実に多様な信仰形態を見せていき、ちょうど、こちらには、ジバニャンがいれば、こちらには、ピカチュウがおり、こちらには、キティちゃん、こちらには、ふなっしーがいる幼稚園状態であるような教会の百家争鳴状態がアメリカで生まれ、それがそのまま戦後すぐに日本に持ち込まれた、ということなのだと思う。

キャラ弁ってこんなの


ジバニャン            ピカチュウ

アンパンマン         ハローキティ

ふなっしー

 ちなみに、息子がアメリカの小学校に在学中に、日本航空の機内誌当時はWindsに記載されていた日本の弁当文化とキャラ弁文化を日本文化の一端として担任の先生にご紹介したところ(当時小学小学生のお子さんをお持ちであった)、「自分は日本人でなくてよかった、日本人の母親にならなくてよかった」と感慨をおもらしであった。なお、上記の画像は、クックパッドからサンプル用に拝借した。

日本文化としての弁当文化

 これが日本文化の行きついた先でもあり、日本にしかない光景だと思うのだが。世界に冠たる日本の弁当文化である。とはいえ、この源流は、この松花堂弁当にさかのぼると思うのだが違うだろうか。


松花堂弁当

ちなみに、我が家では、正月のおせち料理は、弁当料理といわれて、子供からは大層不人気である。大体、おせち料理と称する重箱に入れて供される料理の内容は、煮物が多くなるので、普段の弁当の中身と大差ないからである。


中学生が家庭課の宿題で作ったというおせち料理 まるで普段の御弁当の中身



某刑務所でのおせち料理はこんならしい。
でもうまそうだからと言って犯罪に走ってはいけない。


 刑務所料理に詳しくなったのは、下記リンクで紹介した『破獄』を読んだからである。

 閑話休題。

キャラ弁の原風景としての
アメリカ合衆国のキリスト教会

 教会の多様化、市場競争化は、18世紀アメリカ合衆国で、国教会をもたないことから始まり、教会の自由競争が始まったことを、深井智朗先生はご指摘である。日本では、キリスト教会の戦国時代群雄割拠状態の太平洋戦後の体制のなかで、交通手段や情報手段が不便であった時代に維持されてきたキリスト教会幕藩体制が崩壊し、個人の自宅に電話がある、テレビがあるのが普通になり、キリスト教伝道放送等が盛んになり、フォークソングブームを背景にしたゴスペルフォークの登場、それに伴う教会文化の二極化をもたらしたキリスト教界における昭和維新をきっかけに、若者文化と高齢者文化が教会内で二極化し、その上、交通機関が発達した結果、交通不便、多様なキリスト教情報の不足時代には、それらの結果移動できなかった信徒の移籍が可能になったのだろう。また、一部の海外情報に触れられる牧師先生レベルでしかありえなかった多様な教会文化のあり方が情報技術の登場により、広く伝播拡散し、知られるようになったと言えるのではないだろうか。それがたまたま日本で表面化したのが1980年代ごろだと思うのだ。

『神学の起源』に見る
アメリカ社会と教会
 ところで、先に紹介した深井先生の「神学の起源」では、アメリカ社会の中における教会は次のように表現されている。

 町のメインストリートにいくつもの教派の教会があって、人々はその中から自分の教会を選ぶのである。この市場の中で自分に最も良き宗教的指針を与え、また、魂のよりどころとなり、宗教心を満たして訓練してくれる礼拝と聖職者を求めて、教会を選び、移動するのである。
(中略)
 全ては市場での自由な競争であるから、一つの教会が市場の全てを独占しまうほどに勝利をおさめることもある。(同書pp.190-191)

となっている。このことは、日本のアメリカ駐留軍配下で、日本での地域割伝道が進められた時点で、教会キャラ弁化はある面方向づけられたといえよう。そもそも市場志向型、個人が教会を選択する社会しか知らないアメリカ人宣教師たちが、各教派教団に割り当てられた地域に宣教師を派遣し、伝道しまくったのであるから、所謂太平洋戦争前から存在したカトリック教会と日本キリスト教団以外の教会が存在しないなかで、自分たちの教理を前面に打ち出し、宣教していったのであるから、そもそもその時点で、日本の教会、特に福音派ではキャラ弁大会化は決まっていたといえよう。

『不必要な添加物』が
基礎的食材化したキリスト教
 しかし、アメリカの教会も、もともとはイギリスやドイツ、スカンジナヴィアをはじめとするヨーロッパ諸国で、米国への移民が発生した時点での、母国の特定の時期の特定環境化の中で生まれた宗教的伝統に乗って発達したキリスト教がさらに米国で洗練されたものであるから、その時代特有の癖というか、独自性(キリスト教会もキャラ弁禁止?(下)で指摘された『不必要な添加物』)がそもそもから含まれている可能性が高い。戦後日本で伝道してくださった有難い宣教師の方々の中では、それは『不必要な添加物』ではなく、そもそもそれがキリスト教だと思い込んでおり、抜いてはならない基本的な食材と理解されて語られていた可能性も高いのではないだろうか。

 たちが悪いのは、この『不必要な添加物』と本来の基本的な食材である基本教理とが区別がつかない方もおられるので、自分が基本食材と思っているこの『不必要な添加物』がないと、それは真正なキリスト教ではない、ということになり、「教会間のいじめ」が発生しかねないことになる。

フランケンシュタインだった日本のキリスト教会
ゾンビのようになった日本のキリスト教会
 そもそも、日本の教会は、もともと、15年戦争期(所謂太平洋戦争期)に戦争遂行のため、国家総動員法的な背景の中で、一度は教会合同して無理やり作り上げた、フランケンシュタインというか、サイボーグのような存在を経て成立しているのであり、戦争が終わって、教派を無理やり縫合していた糸が解けてしまったために、一部に関してはばらばらになっており、キリストの体(コルプス クリスティアヌム)どころか、バラバラ殺人事件の遺体の一部がゾンビのように、あちこちでうごめいている実に猟奇的な状態を見せているだけのような気がする。パウロ先生ではないが、「手」が「足」に文句を言い、「目」が「手」に向かって、「もうちょっと聖書をよく見て勉強すれば」といい、「手」は「目」に向かって、「もうちょっと、伝道するためにちゃんと世の中に入って行って伝道しろ」と言い合っている状態であり、いま流行りの妖怪ウォッチ以上に気色の悪い状況なのではないだろうか。

ゾンビ状態を戒めるパウロのことば

 そのことに関して、パウロ先生は次のようにご発言になっておられる。

第1コリント
 12:14 実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。
 12:15 もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。
 12:16 また、もし耳が、わたしは目ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけではない。
 12:17 もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。
 12:18 そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。
 12:19 もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。
 12:20 ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。
 12:21 目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。
 12:22 そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、
 12:23 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、
 12:24 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。
 12:25 それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。
 12:26 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。
 12:27 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。
                     (口語訳聖書)
ゾンビや、妖怪ウォッチじゃあるまいし、もうちょっと、キリストの体らしくなりませんかねぇ、キャラ弁大会状態として始まった日本のキリスト教界は何とかならんかなぁ?

 日本の教会今何時? 「一大事!」 げらげらぽ〜〜〜〜。とふざけている状態ではないかもしれない。


  



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コメント:キリスト教会と社会の歴史を、初代キリスト教会から現代アメリカに至るまで概観できる。非常によい。

 これまでの7回の連載で、まず最初に、教会をやめたいで当ブログに来られる方が多いこと(第1回)、でも、教会はやめても、キリストと共に生きること、キリストを信じる人々ともに生きることが大事なこと(第2回)教会は休ませてくれないかもしれないこと、休ませてくれるのは神との関係であること(第3回)一種の教会内迫害が起こっているとしか思えないほどの流出ぶりであること(第4回)私も、別の人も、誰一人として義ではないこと(第5回)やめたくても、教会をやめさせてくれない教会(第6回)伝統を守りながらも、変えていくべきところは変えていく、という伝統の守り方(第7回)で、議論の参考になるマクグラス先生のご本の記述を紹介したが、今回は、時代に伴って変化していく社会に対して、教会がその時代ごとに解釈を変えてきた伝統の上に乗っていることについて、触れていきたい。

教会のグループごとの特性

 教会は、それぞれ個別のキリスト教集団ごとに、さらに、個別教会ごとにある種の癖がある。それはその教会が成立し、存続していく過程の中でうまれた必要悪ともいうべき伝統というものが影響するからである。聖書理解にしてもそうである。ルター派にはルター派の特殊性があり、改革派には改革派の特殊性があり、カトリックにはカトリックの特性があり、東方教会には東方教会の特性があり、それぞれのグループの中でも、その教会ごとに微妙な文化というか伝統があるように思う。特に、儀式などやプログラム、細かな行動様式とその細部などにその影響が表れる。とはいいつつも、一つのグループの中の個別教会の比較をしようとすると、一つのグループの中では、その教会の司牧の考え方やその境界の過去の歴史的経緯の結果、それぞれがかなり個性的であり、かなり多様性がみられることもまた事実ではある。

組織文化と伝統

 ところで、それぞれの儀式やプログラムが繰り返されていく中で、伝統がつくられ、習慣が生み出される。このことは教会に限らない。最近、ある方が、ツイッターで、どこぞの銀行から出向で赴任して来た人の例として、
 ●●銀行(当時)から出向していた人の「何々致度」にはびっくりした覚えがある。
という表現があったのであるが、こういう文書表現などは、一種のその銀行の伝統をそのまま継承してしまったことだと思う。まぁ、日本のビジネス慣行は、藩政時代のお武家さまの習慣というか慣行を日本の企業文化にそのまま横滑りさせているので、こういうことがまま起こる。例えば、商談をしに行く際に日本では二人していくのは、戦国時代から江戸時代に他所を訪問した際にそこで攻撃を受けた際に、一人が攻撃を一手に引き受け、もう一人の足の速い方を逃す伝統に依拠している、と思う。戦国時代や江戸末期の殺伐とした環境での習俗を延々、明治維新後も続けているところがねぇ。

継承すべき伝統

 では、残すべき伝統というのか、継承すべき事柄とは何であるか、というと、これまでその教会が行ってきたことすべてを継承するのではなく、明確に聖書に記載されていることはそれを継承し残し、そして聖書にキリスト者が立脚するというところは残すべきだと思う。その意味で、基本聖書を中心にしていきたい、とミーちゃんはーちゃんは個人的に思っている。

 ところで、個々人、そして、教会の構成員が共同体として残すべきだと、聖書に基づいて考えてきたことはある程度残すべき候補には上がるが、聖書に基づいて考えたから、いわゆる「聖書的だから」と表現されることだから、残すのではなく、それに対しての不断の検証をしながら、どうするのか、変えていくのか、変えていかないのかは考える余地があるのではないか。ある時期には、それが聖書的であると考えられたことでも、ある時期では、聖書的でなくなることは結構あるからである。

アフリカ系アメリカ人奴隷問題を
例とした聖書理解の変容

 わかりやすい例を挙げると、アフリカ系アメリカ人奴隷のご先祖様と聖書理解に関することである。詳細は、参考文献であげた西岡(2014)をご覧いただきたい。

 ある段階まで、アフリカ系アメリカ人を奴隷とすることは是とされていた。というのは、所有者がヨーロッパ系移民ばかりであったからである。キリスト者が、キリストを知らないアフリカから連れてきた人々を働かせながら伝道対象にもできるから、奴隷制度は聖書的だとか、聖書に奴隷が出てくるから、聖書的だとか訳わからない論理もあったようだ。

 しかし、アメリカのキリスト教会が奴隷廃止に向かっていく議論のきっかけは、実は、人道的な理由というよりは、ネィティブ・アメリカン(アメリカ原住民)の酋長クラスが奴隷をもったまま、キリスト教会に入信することができるかどうかが発端になって、アメリカの奴隷制度とキリスト教の相克が起きたことが、今年の日本基督教学会の報告であった。

 まぁ、その報告をお聞きする限りは議論がいろいろあったらしいが、「ネイティブアメリカンの酋長クラスが奴隷を持ったまま、キリスト教会員になれるかどうか問題」が焦点化するまでは(ヨーロッパ系移民が管理、監督、所有する限り)奴隷の所有は、あまり深く考えられたり、議論されたりすることなく聖書的であると一応判定されていたが、「ネイティブアメリカンの酋長クラスが奴隷を持ったまま、キリスト教会員になれるかどうか問題」を出発点とする議論がなされた以降では、奴隷所有は聖書的でないという判断がされるになったらしい。私の研究ではないので、よくしらないが、詳しいことをお知りになりたい方は、西岡みなみ(2014)『19世紀前半のアメリカ合衆国における北部聖職者の奴隷制理解』の論文を著者の西岡氏にご依頼して、お受取りいただいて、ご検討いただきたい。

 この例はかなり極端な例であるが、聖書的とされるものが、時間の経過とともに変化した例である。つまり、奴隷を持つネイティブアメリカンの酋長がキリスト教に改宗するという新しい現実が発生して初めて、それがきっかけとなって聖書理解や「聖書的」が指し示す内容がはじめて検討され、変わっていった事例である。

ある聖書理解が生まれた背景と
その時代背景

 この事例に示されるように、聖書的であると判断されたら、未来永劫まで、それは聖書的でないかもしれないのである。時間とともに聖書をもとに、個人であれ、信徒個人からなる教会であれ、教会群からなる教派であれ、それぞれが置かれた状況の中で、不完全ながらも、聖書に基づいて考え、行為を行っていくということが伝統を守る、伝統を残すという意味であり、伝統とその理由を考えず、また、その意義も考えずに、単純な行為や思索、理解の継承とその墨守をすることが保守的だというわけでもないし、伝統の重視ということでもないと思うのだが。我々も年を取っていくし、社会も変化していくし、教会も構成員が変わっていくし、我々の言葉の使い方も変わっていくし、聖書の言葉の奥にある神の御思いの原則は変わらないにしても、聖書のことば自体も、翻訳聖書だけではなく、翻訳の底本になるべきものもわずかではあるけれども、微妙に変わっていくからである。

 だって、神様だって、あんまり納得できない事柄に対しても渋々ながら、応じてやれ、と言っている事例だってあるからである。

Iサムエル
8:5 言った、「あなたは年老い、あなたの子たちはあなたの道を歩まない。今ほかの国々のように、われわれをさばく王を、われわれのために立ててください」。
 8:6 しかし彼らが、「われわれをさばく王を、われわれに与えよ」と言うのを聞いて、サムエルは喜ばなかった。そしてサムエルが主に祈ると、
 8:7 主はサムエルに言われた、「民が、すべてあなたに言う所の声に聞き従いなさい。彼らが捨てるのはあなたではなく、わたしを捨てて、彼らの上にわたしが王であることを認めないのである。
 8:8 彼らは、わたしがエジプトから連れ上った日から、きょうまで、わたしを捨ててほかの神々に仕え、さまざまの事をわたしにしたように、あなたにもしているのである。
 8:9 今その声に聞き従いなさい。ただし、深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない」。
 8:10 サムエルは王を立てることを求める民に主の言葉をことごとく告げて、
 8:11 言った、

(中略)

 8:19 ところが民はサムエルの声に聞き従うことを拒んで言った、「いいえ、われわれを治める王がなければならない。
 8:20 われわれも他の国々のようになり、王がわれわれをさばき、われわれを率いて、われわれの戦いにたたかうのである」。
 8:21 サムエルは民の言葉をことごとく聞いて、それを主の耳に告げた。
 8:22 主はサムエルに言われた、「彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ」。サムエルはイスラエルの人々に言った、「あなたがたは、めいめいその町に帰りなさい」。
 こういうことを思いめぐらしながら、守るべきものが何か、ということを定期的に点検しながら、変えるべきものは何か、ということを考えることは重要なのではないかなぁ。

過ぎ越しの祭りの継承と説明

 過越しの祭りに関しても、次のようにおっしゃっておられる。

出エジプト記
 12:24 あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。
 12:25 あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。
 12:26 もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、
 12:27 あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。
 ここで、過ぎ越しの犠牲をささげる理由を子供たちが問うた時、問答無用で守れとは言わず、その理由をきちんと説明し、自分たちが何者であり、なぜ、それをするのかを子供たちに説明してやれ、そして、子供たちにそのことの意味と意義を解き明かしてやれ、とおっしゃっておられる。子どもたちに説明する前に、自分たちで思いめぐらすこともあるであろう。儀式とその根源に繰り返し繰り返し触れ、そして、考え、そして伝える(Traditio)ということは案外大事なのではないか。そういうことをしないと、キリスト者から教えられたことを守った結果、キリスト教徒は知らないまま、儀式だけを継承した、(子なる神である)フィリオに「肥料」を当て、ユーカリスト(聖餐)を「八日の七夜」という文字を当てた日本のキリシタンと同じことになってしまうのではないか。


 個人的にはそう思う。ちょうど下のネスカフェ・ゴールドブレンドのちょっと前のCFにあるように。

まもりならがも変えていく が印象的なネスカフェ・ゴールドブレンドのCF

 次回、最終回に続く。

参考文献

西岡みなみ(2014)『19世紀前半のアメリカ合衆国における北部聖職者の奴隷制理解』 日本基督教学会第62回学術大会 発表 2014年9月9日

http://nc-gakkai-kg.webdeki-blog.com/data/nc-gakkai-kg/file/file20140802014720_7cdce.pdf
 



 これまでの6回の連載で、まず最初に、教会をやめたいで当ブログに来られる方が多いこと(第1回)、でも、教会はやめても、キリストと共に生きること、キリストを信じる人々ともに生きることが大事なこと(第2回)教会は休ませてくれないかもしれないこと、休ませてくれるのは神との関係であること(第3回)一種の教会内迫害が起こっているとしか思えないほどの流出ぶりであること(第4回)私も、別の人も、誰一人として義ではないこと(第5回)やめたくても、教会をやめさせてくれない教会(第6回)について触れきた。今回は、伝統を守りながらも、変えていくべきところは変えていく、という伝統の守り方を触れていきたい。

マクグラス先生のお書きになられたものから

 この辺りのことに関しては、何度か触れてきたが、今回は、マクグラスの講演とマクグラスが引用している文章を手がかりに考えてみたい。  

ミーちゃんはーちゃん自身は、過去この記事「ミーちゃんはーちゃんと聖書無誤論」で示したように、かなりクラッシックな聖書無誤論に立っている。超保守的と言ってもいいほどである、とは思う。個人的に伝統を割と重視している、というか保守的な人間だと思っている。能天気に何でも変えればいい、新しければ、新奇であればそれでいい、とは思っているわけではない。それは、「伝統について、地に手をつけて考えた」の記事でふれたとおりである。

マクグラス先生の経歴の面白さ

 まず、アリスター・E・マクグラス先生は、もともとマルクス主義者、唯物主義の分子生物学を学ばれ、大学期にキリスト教の伝統を知らずに過ごすのはまずいかな、相手のことも批判する以上はよく知っておくべきだ、ということからキリスト教の歴史をおっかけ始め、結果的に信仰を持ち、神学者になってしまったというミイラ取りがミイラになっちゃったような経緯をお持ちの方であったと記憶する。(違ってたらすみません)

マクグラス先生の伝統観

 A・E・マクグラス(2004)「ポスト・モダン世界のキリスト教 21世紀における福音の役割」(稲垣久和監訳・教文館)の中から伝統の部分を少し長くなりますが引用してみたいとおもいます。元は、英語の講演内容を稲垣先生のグループが翻訳されているものなので、多少言語依存の部分があるとは思います。

「伝統」という語は、「譲り渡す」「残す」「伝える」といった意味を持つラテン語traditioという言葉からきています。ある意味では、それは完全に聖書的な考え方です。パウロも、彼が他の人から受けたキリスト教信仰の確信を彼らに伝えているのだ、ということを、読者に思い起こさせているのですから(Iコリント15・1−4)。この言葉は、他の人に教えをつたえるという行為と−それは教会内でなされなければならないとパウロが主張したことですがー、このようにして伝えられた教え自体を意味しています。このように伝統は教え自体と考えることもそれを伝える過程と考えることもできます。特に牧会書簡は「あなたにゆだねられたよいものを守る」ことの大切さを強調します。(IIテモテ1・14)。しかし新約聖書は、「伝統」という概念を否定的な意味においても用いています。それは「聖書に基礎をおいていない人間の考えや実践」といったことを意味します。そういったわけで私たちは、主が、神のことばと相反する、ユダヤ教の人間的な伝統を公然と批判されているのを見出します(例えば、マタイ15・1−6、マルコ7・13参照)
 一見したところでは、福音主義の人たちは、少なくとも新約聖書が肯定的に用いている意味では、伝統と言う概念に異議を唱えるとは思えません。しかし、福音主義の中ではこの問題に関しての懸念があり、これらを識別し、考慮することが重要です。二つのことが特に重要です。

1 神のことばに対比して、伝統は人間が作ったものとみなされることができます。新約聖書は、確かにこのタイプの伝統について記しており、そのような伝統とそれがもたらす結果の両方を強く批判しています。この考えをさらに発展させて、トレント公会議は人間の伝統と聖書に同じだけの重きを置いているようだと注意を促す福音主義者もいますが、そうであるならこれは聖書を優先するという宗教改革の強調とは相容れません。これは重大な問題であり極めて真剣に扱う必要があります。このため、あとからわたしたちは、宗教改革で論じられたこの聖書と伝統に関する論争を注意深く考察します。

2 伝統には伝統主義者と言う意味も含まれています。それは以前の世代のプレッシャーであり、私たちが以前の世代の人たちとまったく同じように考え行動し続けることを要求します。そのようにして福音主義を16,18,19世紀の世界観に閉じ込めてしまうのです。「伝統」にどのような形であれ、権威を与えることは、福音主義が死者と夢中歩行することを強要することであり、それは現代のサンフランシスコで18世紀の服装をするのと同じほど滑稽なことです。キリスト教が人々からどのように見られているかに非常に敏感な時代に―「求道者に配慮した」礼拝が増えているのを見てください―、伝統への関心は全く場違いであるように思えます。伝統は同時代性に真っ向から対立するのです。

 J・I・パッカーにとって「伝統」とは、聖書が過去どのように読まれてきたかを考慮しながら聖書を読む意欲です。それは長期にわたって存続するキリスト教信仰の共同体的側面に気づくということであり、多くの福音主義者たちの浅薄な個人主義に疑問を投げかけます。聖書の解釈には、一個人が識別可能なものを超えたものがあります。伝統とは、信仰における私たちの先人がどのように聖書を理解してきたかに積極的に十分な重きを置こうとすることです。それは、聖書解釈を含み、キリスト教信仰の共同的性質を強く思い起こさせることになります。 (pp.81-83 太字はミーちゃんはーちゃんによる)
と書いておられる。個人的な理解に最も近い伝統理解と聖書解釈の理解だと思っている。

マクグラス先生の福音主義は、
普通の福音主義じゃないかも

 なお、マクグラス先生がおっしゃっておられる『福音主義』とは、通常、現代の欧米、日本で使われている『福音主義』とは違う可能性があることを触れておかねばならないだろう。ルターやカルヴァンら宗教改革者の伝統に連なる『福音主義』という可能性があり、プロテスタントの総称として使われている可能性が高い。その意味で、米国で使われているEvangelicals あるいはEvangelicalism、その訳語である『福音主義』とはかなり違う可能性があるような印象を受けている。ミーちゃんはーちゃんのような浅学のものが指摘するまでもなく、先学のどなたが既に指摘しておられるとは思うのだが。

 次回 伝統を守りながら変えていく教会(後篇) へと続く。



評価:
A.E.マクグラス
教文館
¥ 1,944
(2004-06)
コメント:よい、とおもいます。現代のキリスト教を考える手がかりをくれると思います。

 これまで、教会をやめたい方がおられること(第1回)、でも、教会はやめられるけどキリストとともに生きることが大事なこと(第2回)教会は休ませてくれないかもしれないこと、休ませてくれるのは神との関係であること(第3回)一種の教会内迫害が起こっているとしか思えないほどの流出ぶりであること(第4回)私も、別の人もだれも正しくないこと(第5回)と進んできたが、今日は、やめたくても、教会をやめさせてくれない教会について、触れていきたい。

市役所のようだった
ヨーロッパの教会の役割

 いまは、市民社会とそれをめぐる法制度が成立しているので、市民社会に関係する行政情報は、地方自治体が、基礎自治体(普通の人が一番身近で、自分が管轄する法的な役割と権限を与えられている組織、市とか、町とか、村)に付託された(やってね、って法律で定められていて、建前上は国民から負託を受けた国が自治体にお願いしたことになっている)責務(市町村役場がいやでもしなければならない事柄)として、出生、死亡、転居、所在所情報、婚姻状況の把握(住民基本台帳記載事項)の管理を、国民からの届け出制にのっとって、やっていることになる。一応、届け出制であるから、時々それに漏れが生じて、戸籍のない日本で生まれた子供がいて、教育を受けそびれたりする。あるいは届け出してないために、内縁関係とかいう言葉が生まれたりする。そういえば、ついちょっと前に話題になったが、160歳を超える江戸生まれの人が生存者として、戸籍台帳に乗っていることがあったりした。さすがに住民基本台帳ではなかったようであるけど(おそらく、住民基本台帳の方は職権で削除されたのだろう)
 Aged200_2010
岐対馬で書類上200歳の人が戸籍上生存していたことを伝える朝日新聞ウェブ版の記事

 自治体は、基本的に業務として、申請されたものを申請された通りに、淡々と、かつ粛々と処理を進めていくのであるから、死亡届が出ない限り、100歳超えても記録し続ける。市長がテレビに出るため(失礼、御長寿の方の長寿を祝賀していることで全市民が喜んでいることを市民を代表してテレビで伝えるため)に御老人のところにお伺いする時に、妙に嫌がられない(死亡届を出さず、生きていることにして年金をもらっているケースもあるらしい)限り発覚することもないだろう。親族が「市町からの祝福などはいいですから、ほっておいてくだされ」と言っている以上、よほどのことがない限り、役所的には放置するしかないし、発覚しないことになる。異常値のチェックをやるメリットも役所的には、あまりないし(だって、住民基本台帳から計算される人口が減ると翌年度以降の地方交付税交付金に響くことがあるらしい)。年に1度くらいやるデータチェックではチェックすることはあったとしても。


百歳の方のご自宅を訪問する牛久市長さんの動画

 ちなみに、この動画が検索の最初に出てきただけで、別に牛久市長がどうのこうのということを言いたいわけではない。牛久は美しい牛久沼がある非常にいい街である。


 本論にもどすと、ヨーロッパで近代国民国家ができるまでは、ヨーロッパでの出生死亡、婚姻の記録をつかさどってきたのは、国家や王ではなく、教会であった。つまり、国においてするのではなく地域における最小限の共同体としての村々の小さき教会が教会教区の業務の一環として仕方なしにしていたのである。王様は、何人兵隊が取れるか、ってことはあんまり何も考えずに、村に行っては、兵隊となる若者や壮年を強制徴募してきていたのである。

 まあ、近代国家以前は、王様同士が姻戚関係というのもあり、そのあたりの圧力も微妙に戦争の勃発や収束に影響を与えているという面はあるけど。

国家間戦争と
近代国民国家と教会

 ところが、大部隊展開型の近代戦をやるとなると、兵隊が何人くらいいそうか、ということの見当をつけるために、人口統計が重要になり、国家が国民の人数を把握しておくことが必要になる。この辺は、下記で紹介するAgainst the Godsという本に記載があったと思う。実は、いまの住民基本台帳やら、戸籍は、兵隊徴募(昔で言えば、赤紙発行)のための制度であり、ヨーロッパでは、教会から国家が強制的に取り上げたものなのである。

 ヨーロッパで近代国家が成立したちょうどその直後に日本は明治維新をやったもので、フランスに対する戦争マシンみたいだったプロイセン、プロイセンに対する戦争マシンみたいだったフランスの双方を見比べて、自分たちに都合のよいフランスの法制度を導入したと思われる。まぁ、フランス革命を経て、割とカトリック教会に冷たかったフランスの法制度、というのもあったのかもしれないが。

 その意味で、近代国家が登場するまでのヨーロッパ諸国において、その解領域を支配する地方自治体というものが明確に定義されておらず、個人の身分証明を出す機関は、国や自治体ではなく、教会であった位、地域と教会というのは一体のものであった。教会の制度って言うのは、その当時は、選択できたり、改編できたりするものではなく、生まれたら教会で登録されて、結婚したら、教会で登録されて、死んだら、教会で登録されるという人間のライフイベントはすべて教会で記録され、地域の人々の行動文化を支配するシステムになっていたようだ。いまも、日本の教会の多くはその時代の教会事務管理システムを若干手直ししながら、流用している場合も少なくないのではないか、と思う。

 住民の移動や居住地選択の変更能力が低かった時代以前、地域とは教会の教区(パリッシュというらしい)そのものであり、教会とは地域そのものの中心であり、個人にとっては、居住地選択やら職業選択やらがないのと同様に、教会の選択の余地がない世界であったようだ。しかし、19世紀になり近代市民国家とその制度が整う中で、地域と教会の紐帯(結びつき)は緩やかなものとなり、その地域住民と地域と教会の強制的な結びつきが消えてゆき、個人が信仰形態をさまざまな宗派の教会の中から、限定付きでも選べるようになったのだと思う。その自体を経てからは、ヨーロッパ大陸や、アメリカ大陸では、地域の教会ではなく、地域にある移動可能な領域に存在する様々な教会の中から、どの教会に属するか、という教会が選ばれて行く存在になっていったようである。

 その意味で、有無を言わせず、1つの定食しか出せない定食屋のような選択の余地のない(つまり、その教会のルールがすべてを支配し、それに否が応でも従うことになる)教会から、選択の余地のある(ルールの比較検討が可能で、一番よいと思うルールの教会を選べる時代の)教会になってしまっているのだが、教会の各種システムはそれに合わせて、教会の側で変更されているのか、と考えると、どうだろう、と考え込まざるを得ない。

 選択の余地がそもそもないのだから、近代国家が出来るまでは、やめたくてもやめられない教会しかヨーロッパにはなかったと思う。そもそも、職業選択の自由もなければ、居住地の自由、移動の自由、教育の自由は限られた時代でもあったので。

 今回取り上げたいのは、そういう教会ではない。

やめたくてもやめさせて
くれない教会
 
 今回と次回で取り上げたい教会は、前近代国家時代の教会ではなく、選択される対象になっているにもかかわらず、やめさせてくれない、やめさせないための仕組みを持っている教会のことである。

信徒愛のため辞めさせない教会?

 一つは、自分たちの信仰が優れている(ほかはダメということが暗黙に想定されている場合が多いようだが)教会である。つまり、いいものを触れておいてもらいたいという愛情からゆえに辞めない方がいい、という方がおられる教会である。 

 とはいえ、合わないと思っているにもかかわらず、そこにいなければいけない、と言われるのは、言われる方にしたら、言われる方はつらいのではないか。水谷氏のブログ記事での

自分本位で関係破壊的なのに、その自覚もないキリスト者の他者愛

等の例であればまだかわいいが、相手のため、と言いながらも、結果的には、相手のためではなく、どこかで自分たちの教会の論理が優先しているという、自分本位で関係破壊的なのに、その自覚もないキリスト教会の信徒愛となっていないだろうか。

 個人的な感想なのだが、自分のところ以外に正しいものがないから、という理由で、囲い込みを始めると、カルト化しやすい素地を教会内に作り上げる可能性が非常に高いと思うのだが。

ババ抜き教会?

 もう一つは、教会員がこれ以上減ると困るから、やめたくてもやめさせてくれない教会があるとすれば、もうそれは、最後に残った人にドンと負担の来る状態、つまりババ抜き状態となるのであり、末期的状況を指し示しているのではないだろうか。

 教会員が減ることは結構深刻な影響を個別教会、個別教派に与えるので、実はかなり深刻な影響を持つのだが、現下の日本では、この状況に直面している教会が地方部、都市近郊部で続出しているような気がしなくもない。都市部(特に郊外部)でも、間もなくこのような状態を迎える教会があるのではないか。

 これまで、このための備えを個別キリスト教会がしてきたか、と言われると実に心もとないのではないだろうか。人口の高齢化、若年人口の減少は、すでに、日本の地域のキリスト教会が直面する地域の人口変化とすごく大きい方が教会に集う聖書的教会が評価される社会へ と 日曜学校におちいさい皆さんが減った理由 でふれたとおりである。

 その面で、個別教会も、これからの人口減社会にどう向き合っていくのか、どう自分たちを変えていくのか、ということは考えていった方がいいかもしれない。もう右上がりで人口が増え、教会にもどんどん人がやってくる社会は来ないので。

 次回、第7回 伝統を守りながら変えていく教会(前篇) 守るべきものと変えていくべきもの をお送りする予定。






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コメント:データ化や確率、リスク分散をどう図るか、といった技術の背景について書かれた本。日本語訳もあるけど、読んでないので何とも。

 今日は、この間あったN.T.ライトセミナーというか、座談会というか、ディスカッションの会の概要をご紹介する。

 前半の紹介はコチラ
     第3回ライトセミナーに行ってきた。前半

N.T.ライトの翻訳本をめぐるよもやま話

 冒頭、ディスカッションの口火を切る形で、小嶋先生から次のような趣旨のご発言があった。
「N.T.ライトの翻訳で、Simply Christianが出て、それに続く本が何冊か本が出ると、読む本として選択肢ができる状態になっていくだろうし、そう遠くない未来に、The New Testament and the People of Godの邦訳本が出るといううわさもある。このThe New Testament and the People of Godは、ライトの聖書理解に関する根幹を示す基礎的(入門的ではない)な本で、多くの人に読まれてほしいと思う。この本はアカデミックな英書でも最初の本である。全18冊シリーズのEveryoneの出版も検討されており、これらの出版が行われれば、ライトが広く日本に浸透するのではないか。」

 そうか、睡眠導入剤のがわりのNew Testament and People of Godを読まんといかんのか。あの小さな字で、ぎっしりの文章が書かれたあのおっきな本が必読。気分がめげそう。日本語翻訳がいいのがでると、いいなぁ。

 現在翻訳中のほんの一部の紹介や、現在英国にお住まいのThe New Testament and the People of Godの翻訳作業にあたっている方から、その一部の抜粋の紹介もあった。ミーちゃんはーちゃんが聞きとったことの中から、抜粋の抜粋とその印象をまとめてみるとこんな感じかもしれない。

ーーーーー抜粋の概要ーーーーーーーーーーー
 近代の啓蒙主義は、キリスト教を批判しようとしてきた(し、その点でキリスト教の起源に批判的な目を向けてきた)。ところで、キリスト教の起源を探ろうとすると、自分自身の信仰の内容にも疑いの目を向けることにもなりかねず、それを回避してきたのではないか。あるいは、キリスト教の成立史を知ることで、自分たちの信仰の基盤が揺らぐことにならないかと気にしすぎではないのか。歴史をきちんと知らなければ、結局自分たちの理解に合わせたイエス像に無理やりに合わせてしまうのではないか。そのため、歴史ときちんと向き合うのではなく、素朴な信仰が我らにはあるという形で対応しようとしてきたのではないか。聖書の中にある「超自然的」な聖書記述に対応するために、「合理性」に対して「超自然性」を言い募ることは、結果として近代合理主義の追認をしていることになるのではないか。

 現代はポストモダニズムの世界であるが、それは近代合理主義に一定の抑止力とはなっているものの、(近代を前提としているという意味で)近代主義への正面切った反論とはなっていない。そして、幅広い人たちとの聖書や自分たちが信じている内容についての説得や正当化ではなく、対話をしていかないといけないのではないか。(茶色字部分はミーちゃんはーちゃんが思ったことやミーちゃんはーちゃんによる挿入)。
ーーーーー抜粋の概要ーーーーーーーーーーー

N.T.ライトは、多くの人と
話したいんじゃないかなぁ

 この抜粋を聞きながら、護教というのか、弁証学というのかも大事だけど、それって、本来的には、キリスト教会内外の人々や社会との対話だったはずなのに、どっかで、相手を論破する方向に行ってしまい、余裕のある対話というか対論になってないこと、ミーちゃんはーちゃん自身を振り返ってみても、結構あるよなぁ、と思うてしもうた。多分、余裕がないというのか、神への信仰が足らないんだろうなあ、と思うことしきりであった。

周縁と継承

 出版の準備状況などの紹介があった後、ある出版社の方からは、出版に至る経緯というか背景が紹介され、日本語として読める翻訳にするための困難さや、タイトルをどうつけるかが重要であること、日本では、英米やヨーロッパ大陸の聖書関係の良書の翻訳があまりなされておらず、世界のキリスト教界の主要潮流から取り残されたガラパゴス化(正倉院化)が起きている可能性があるのではないか等のご発言があった。

 しかし、この、ガラパゴス化というのか、正倉院化というのは、実は周縁学などでも取り上げられており、周辺のかなり古い形の習慣や文化、信仰の形態などが、周辺にこそ残っているということは実はあったりする。その有名な事例が、以下の図で示す日本アホバカ分布図である。このアホバカ分布図の成立略史とその後の学会における影響に関しての松岡正剛氏の紹介記事はこちら。 松岡正剛氏は、編集に関してめちゃ有名人になってしまわれた。


日本アホバカ分布図


 わがキリスト者集団を振り返ってみると、出発点となったブリテン島とその周辺諸島では文化や行動様式、他派との交流の結び方はかなり変化しているのに、日本や、中国、ニュージーランドや、オーストラリアなどでは、いまだに19世紀のキリスト教のわがキリスト者集団の行動様式がきっちりと残ってたりするしなぁ。周辺であるが故に残ってしまう(取り残されざるを得ない)ということの意味を改めて感じる。

出版社と読み手との関係

 その後のディスカッションでは、出版社や販売店が読者を育てるという側面もあったのではないか、これまで翻訳書の世界では、読者側は、受け手のみの役割として想定されており、読者側の視点がなかなか反映されてこなかったことがあるのではないか、という指摘がなされ得ていた。

 これを聞きながらミーちゃんはーちゃんが思った感想であるけど、悪くいえば、「ほれ、翻訳してやったから、読ませてやるぞよ」的な部分はあったような気がする。特に悪訳ともいうべき翻訳書を見ると、その企画自体は尊いけど、英語で読むほうが楽な本が多いなぁ、と思う。悪訳の存在は、キリスト教書でも、他の専門書でもかなり同じだと思う。そーいえば、昔I●MのGP●Sというシミュレータのコンパチのシミュレータのマニュアル、ひどかったなぁ。もろ、機械翻訳かけました、以上終わり、見たいなすごくえげつないマニュアルをありがたく拝読させていただいた時の怒りが今よみがえる。

 他の世俗の学問分野の翻訳書の例であるが、「せんせ〜、院生の1年坊主に翻訳させたでしょ?」と聞いたら、「ばれた?」と言われたこともあった。

 閑話休題。

読者が出版に関与するために
 読者が出版に関与する方策を考えないといけないこと、アマゾンなどの書評では、翻訳の問題と内容の問題が区別されずに書かれているので、潜在的な購買者や読み手の中で、混乱が生じかねないこと、これまでの日本国内のNTライトの議論は、本をきちんと読まずに議論がされてきたのではないか、という疑惑があることなどの話題が出た。

 また、キリスト教書の流通問題に関するディスカッションとして、図書販売に当たっては口コミが結構影響力を持っていること、教会図書としての購入はよいのだが、結局本として買わずに回し読みして終わりになるのではないか。牧師を含め、かなり広範なキリスト者の層が本を読まなくなっているのではないか、という指摘があり、そして、出版点数はあるものの、諸般の発行部数は下がり、出版社も減少し、キリスト教専門書店も減少している、電子書籍もあるがそれ特有の問題、のご指摘などもあったんだなぁ、これが。

 特に、九州・北海道では書店数自体がかなり悲惨な状況になりつつある様な雰囲気があるなど、キリスト教書全体にまつわるディスカッションも聴かせてもらえた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

感想

 思うところの多い、セミナーというかディスカッションの時間となった。

 しかし、コミケとかで売っているあまり人気のないうっすい本や、中学校の適正規模校の生徒数の中央値(15クラス大体600人)より発行部数の少ない本が多いらしいキリスト教書の現状って、どやさ、って思ってたけど、それが改めて、それがキリスト教書の実情なんだ、と思ってぞっとした。

 地方のキリスト教書店さんがご努力されているのはわかるし、涙ぐましい努力をして、教会への訪問販売とか、店頭での良書紹介しておられるのはわかるけど、そもそも、従来の書籍流通という形での情報の伝達が現在、限界にきているのかもしれない、という思いを新たにした。

 しかし、悩みの多いキリスト教書業界なんだなぁ。





評価:
価格: ¥2,808
ショップ: 楽天ブックス
コメント:文化や言語の伝承、保存、空間関係にかかわることについて、まとめられた本。参考になる。

 ここの所、厳しいネタが続いているので、ちょっとほっこり、にんまりするようなネタも。

 教会から、追いやられてしまった人、追いやれもなお、イエスが好きな人を覚えて、ロス・インディオス&シルビアの「別れても好きな人」の替え歌で、「別れても好きなイエス」の不謹慎系の替え歌を作ってみた。曲も、結構シブ好みだが、かなり流行った歌なので、どっかで聞いたことがある、とおっしゃる方もいるだろう。

離れても好きなイエス


離れた教会入った 離れた渋谷で入った
離れたときと同じ 雨の朝だった
傘もささずに新宿 思い出語って富士見坂
一人の信者にかえって 福音書をよんだ

やっぱり忘れられない 変わらぬやさしい言葉で
私をつつんでしまう だめよ弱いから
離れても好きなイエス 離れても好きなイエス

歩きたいのよ高輪 鐘がなっている鐘楼(タワー)
おもいがけない日曜の 神との再会ね
ちょっぴり寂しい四谷 いつもの新宿通り
ここでさよならするわ 雨の朝だから

やっぱり忘れられない 変わらぬやさしい言葉で
私をつつんでしまう だめよ弱いから
離れても好きなイエス 離れても好きなイエス
離れても好きなイエス 離れても好きなイエス


まぁ、これ、教会やめたい? シリーズの延長ってことで。

笑い飛ばしていただけたら幸甚。


ロス・インディオス シルビアによる元歌「別れても好きな人」


元歌詞はこちらから。
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=31944




 冒頭、この読書会の世話人代表の小嶋先生から、

来年にかけてライト元年になるのではないか。やっとSimply Christian が出版されるというところまできた。日本でライトが広く浸透するまでにかなり時間がかかっているが、翻訳書が出てくると変わるかもしれない。今回は、交流を主体にディスカッションを主体に行いたい。

というご挨拶があった後、早速パネルディスカッションの1に移った。

ライトの聖書理解、ってどう思う、座談会
 第一部は、パネルディスカッションというよりは、ライトについて何でもありの一般読者から見たNTライト座談会という感じのセッションであった。20代から30代の神学生の方と男性信徒とと女性信徒の方がパネラーとして話してくださった。

 まず、1999年ごろから読み始められた司会者の小嶋先生とライトとのかかわりのご説明があり、まだ日本であまり読んでいる人がなく、何となく、イメージ先行、評判先行という側面があるのではないか。ライトの聖書理解に関して誤解があるのでは。無理解がかなりあるのではないか、と問題提起された。
 
 以下のおまとめは、ざっとしたまとめなので、以下お読みいただく方は、読者の方はその点お含みおきいただきたい。

ライトの名前を聞いたのは、いつ?そして、その印象は

 読書会のマクグラスのキリスト教神学入門を読む中で、史的イエスとサンダースとの関連で、ライトが言及されていたので知った、という方もおられましたし、NTライトのFacebook上の読書会で、面白そうなことをやっているなぁ、読書会の話が面白いと思って見ているとおっしゃる方もおられましたし、神学校で学んでいる中で、近年の義認論の修正の議論の中で知ったこと、従来語られている福音よりも、ライトの主張ははもっと広いのではないか、という印象を持っている、というお話がありました。

ライトって、どんなイメージの人?

 司会の小嶋先生からは、「欧米のものを翻訳して用いられることは多いが、翻訳が普及し、人気が出るとマクグラスが典型的だが、一挙に著作がまとめて出る傾向がある。英米の神学者でも、翻訳されてない著者も多く、著作が日本語で翻訳されも日本で定着する人は少ない。そんな中での、ライトのイメージはどんな感じでしょうか」という問いかけがありました。

パネラーのイメージ
 「組織神学のクラスで最近の英米系の神学者の議論を読んでいるが、影響力がすごくある人ではないかと思う。義認だけではなくて、聖書の見方を新しくして行こうとしているように感じる。そして、非常に幅広い人ではないか、と思う」というご発言もあった。

 「別の方からは、これまでキリスト者として持ってきた概念に揺さぶりをかける感じがある。聖書の主張だ、と思いこんでいることに対して、揺さぶりをかけられている感じがする。とはいうものの、普段教会で聴くメッセージとライトの主張は、そこまで大きく違うのか、というと、あんまり変わらない気もする」というご発言もあった。

 また、「ある方のライトの批評を読んだ印象からでしかないが、ある神学傾向に対して、ライトは聖書神学の立場から聖書から解釈をする場合、このあたりの整理が足らないんじゃないか、と指摘しているような気がする。あと、ライトさんは、特定の聖書理解はお好きではないなんだ、ということは伝わる。」と応答があった

ライトの聖書理解の印象ってどんなの?
ポイントって何?

 司会の方から、「ライトの聖書理解は、信用していいのか。ここがポイントではないか。というあたりでどう感じておられますか、義認論以外の部分で、どこがポイントだとおもいますか。ライトの聖書理解はこんな感じではないかというあたりについてはどう考えておられますか」という発題があった。

パネラーのイメージ
 ある方から、「聖書が神のことばという時に、神が示したという側面と、人が書いたという側面があり、その両方を持って聖書を見ているような印象がある。ライトは、(リベラル派の方が否定する)復活の際に、肉体の復活や、超自然的なことも重視し、否定しているわけではない。新約聖書を読んでいく時に、中間時代を重視しており、当時のユダヤ教にこだわっている感じがある。Simply Christianの中に現れた天と地の理解などは、あまり考えたことがなかった。天と地が一つになることが新約聖書に示されているという指摘は非常に印象的であるが、その様な理解にいまだ十分に批判的になれてない」というご発言があった。

 別の方からは、「所謂無誤性、無謬性には、あまり触れておらず、むしろ、聖書の全体像のナラティブを重視している印象がある。特定の聖書理解では、この世界をネガティブにみる傾向があり、この世界についての神のみこころの実現という側面が抜けやすいのをストップさせてくれるという側面がある、という印象を持っている」というご発言もあった。

 また別の方からは、「現在消化できていないのは、サンダースの言ったような理解をどうとらえるのか、というあたり。契約の民とユダヤ教文書と新約聖書との取り扱いをどうしたらいいのか、というあたりがよくわからない。サンダースについては、自分としては、少し警戒する部分もゼロではない。NTライトの議論は、すごく参考になると思いつつ、ちょっとだけ警戒心を持っている感じ」という主旨のご発言もあった。

NTライトに直接聞いてみたいことは?

 司会者から「ライトがいたら、これを聞きたいとかいうことはどんなものがありますか。あるいは、ライトの本が来年にかけて、出版されるのだが、これをもっと知りたい、といったことはどんなもの?」という発題があった。

パネラーからの質問

 ある方は、「NTライトは、いろんなことに対して書いていて、いろんなことを書きたい人であることはわかるのだが、ライトにとって何が中心テーマか、ということが聞いてみたいかな?ライト自身の歩みを知りたい。」というお話しがあった。別の方からは、「聖書をどうとらえているのか。聖書論でしょうが聞いてみたいかなぁ。刑罰代償説について、実際そこを聞いてみたい。」というご発言があり、また別の方からは「まず、日本語で読みたい。地に住みながら神の前に誠実に生きる、という生き方について、もっと知りたい。この地の生き方と、将来の永遠のいのちとの連続性について聞いてみたい」という話が出ていた。

 司会者の小嶋先生から、「フロアからの感想や疑問について、お聞きする前に、ライトの自叙伝はないが、自伝的な文書がNTWright.comにあり、カナダにいたころ、世界観的アプローチをするようになり、この世を大事にしようと主張し始めている。ライトは、自分のことを講演などでは、結構しゃべっている印象がある」と応答があった。

フロアからのご発言要旨
 ある牧師の方から「史的イエス研究では、シュバイツァーが有名であるが、ライトは、その人たちとも対話しようとしている雰囲気がある。聖書を読んでいく時、イエスの主張の中には、王として、イスラエルの王としての側面があるが、これは政治的なメッセージでもあった。イエスはこの地上で、内側から変えていくのかということを説かれた方ではないか。しかし、あるグループでの伝統的なキリスト者理解は、この世にたして預言者的、批判的な立場をとるように教えられてきたが、それ以外の立場の取り方があり得るかもしれないと思うようになっている」というご発言があった。

 このご発言に対して、小嶋先生からは、「パウロと史的イエスがN.T.ライトにとっての大きなテーマであるとおもう。The New Testament and the People of Godの後に、イエスと神の勝利などがあり、キリスト教と政治の問題を扱っている。政治とキリスト教は分離しているのはまずいのではないか、と思っている節がある。」という趣旨のご発言があった。

 別の方からは、「ライトを一読者として見ていると、ストーリーやものがたり、Narrativeという要素が強くあると思う。これまで、信仰のみ、といった時に、神の国の関与という側面、特に行いと信仰の一体化というような部分が意識されてないのではないか?とライトが主張している印象がある。」というようなご発言があった。

 また別の方からは、N.T.ライトという存在を教義学者だろうか、聖書学者と捉えるのが良いのだろうか。」という問いもあった。
 この問に対して、司会の小嶋先生から「新約聖書学者といえよう。史的イエスとパウロ研究では指導的学者であると同時に、教会人でもあり、キリスト教界の指導者としての側面もある。さらに、専門書を書く教師・学者でもあるが、一般向け著書も多い。現代の脱キリスト教化しつつあるヨーロッパをもう一度、キリスト教の世界に引き寄せようとする印象がある」という応答があった。

 というあたりが、第1部のおまとめです。第2部については、もうちょっとしてから公開します。

 ネ、面白そうでしょ。はしょった部分もかなりあるので、それは参加しないと、わかんないかも、です。ぜひ、次回は時間が許せばご参加いただきたく。






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コメント:買ったけど、睡眠導入剤になっている。字が小さい、分厚い、重い。日本語訳が出ると嬉しいなぁ。

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コメント:割と読みやすかった気がする。The New Testament and People of Godに比べての話しであるが。キリスト者とはどういう存在か、ということを示した本。


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