2018.07.22 Sunday

工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(7)

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    さて、これまで第1章部分について

     

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(1)

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(2)

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(3)

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(4)

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(5)

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(6)

     

    ということでご紹介してまいりましたが、今回からは、第2章『強い人と弱い人』ー人間の強さと弱さ と題された章の紹介に移ってみたいと思います。

     

    強さを求める近代人という悲劇

    いきなり、工藤さんはこう書き始めます。

    人間は”強さ”を求める存在である。

    というのも、生きることは戦い(戦い)であり、実際私たちは”力”またある種の”強さ”がなければ生きていけない存在であるからである。

    かくして、”老いも若き”も”強さ”を求めて生存競争に明け暮れることになる。

    (中略)

    というのは、”まちがった強さ(見せかけの強さ)”の獲得やその思考はその生をむなしくし、その人自身にも社会にも大きな混乱をもたらすからである。(工藤信夫著『暴力と人間』p.98)

     

    ここで、本章を「人間は”強さ”を求める存在である」という表現で、工藤さんは書き始めていますが、これは日本を含め、西洋近代におけるある行動様式論が支配する世界においては、そうであった、ということに過ぎないのではないか、と思うのです。

     

    つまり、人間はすべからく強さを求めるのか、というと、どうもそうではないように思います。この強い人として他者を出し抜いてまで生き抜くことが生き方として発生してはいないことが、南洋の未開集落(このような言い方は、大変失礼なものの言い方で、より正確には、南太平洋地域でのウルトラ伝統的な集落という方がよろしいような気がするのですが)についての文化人類学研究からある程度明らかになっているような印象があります。

     

    そして、この南の国ののんびりとした時間を求めて、北米大陸などに住むストレスフルな競争に疲れた人々は、南のリゾートに行くのではないでしょうか。おそらく日本人には、耐え難いとは思いますが…。のんびりとしたライフスタイルが南の島で行われているということが、たとえ、単にロマンティックな西ヨーロッパ人の思い込みに過ぎないとしても…。

     

     

    おそらく、下の絵のような作品を残したゴーギャンなんかは、そのタイプの人のように思えます。

     

    https://www.art-prints-on-demand.com/a/paul-gauguin/natives-of-tahiti.html から

     

    まぁ、レイモンド・チャンドラーの以下の画像のような言葉のような言葉である、「私たちは”力”またある種の”強さ”がなければ生きていけない存在である」という表現を見て、あぁ、ここにも近代の病弊が…と思ってしまいました。2018年7月に西日本を襲った集中豪雨、洪水、土砂災害を上げるまでもないとは思いますが、本来、人間はか弱い、あるいは、はかない、脆弱な(Valunerable)ものであるようには思うのです。それを、近代社会は、技術を開発し、人間の能力以上の対応能力を膨大なエネルギーを使用することで、可能にしようとしてきたのです。ただ、その技術には限界があるために、この限界の閾値を超えた瞬間に相手の圧倒的な力量がむき出しで、人間を自然災害が襲ってしまっただけのことなのではないか、とも思うのです。なくなった方、被災された方には慎んで哀悼の意をここで表しますけれども。それほど人間の技術はもろく、人は儚いものであることは、もともと土木技術者を目指していたものとしては思います。

     

    「If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」の画像検索結果

    レイモンド・チャンドラーの名言

     

     

     

    老いは若さを求めグルコサミンを今日も飲む…

    しかし、最近の以下のようなCMを見ると、工藤さんの「かくして、”老いも若き”も”強さ”を求めて生存競争に明け暮れることになる」という表現そのものの姿を見せつけられ、かえって痛々しいような気がします。そして、挙句の果てに、老いは”若さ”を求めて、若作りを始めるとか、筋トレを始めるとかするわけです。

     

    年寄りは年相応とか、年寄りの冷や水という言葉があるのを忘れて…実に残念な傾向ではないか、と思うのです。年寄りには、年寄りの実力というか、余裕があるはずなのに、それがなくなってきているからかもしれません。余裕がなくなっているのでしょう。108歳で、20歳に見えたら、それこそ、アーギュメンツ#3 の波勢論文の解説 アーギュメンツ #3 を読んでみた(5) で記載した内容ではないですけれども、現代における怪談になってしまうように思います。以下の動画が両方サントリーさんなのは、サントリーさんの広告がたまたま目につくことが多い、ということであって、別にサントリーさんに悪意を持っているわけではありません。その意味で、サントリーさんの広告戦略は成功しているということでしょう。認知を得ているわけですから。

     

    サントリーのセサミンのコマーシャル

     

    サントリーのグルコサミンのCM

     

    まちがった強さを求める悲劇

    そして、猫も杓子も(実際にネコはそんなことはしませんが…にゃ〜)力を求め、力の象徴である若さを求め、若作りをしているのが現代であるにせよ、結果的に、『”まちがった強さ(見せかけの強さ)”の獲得やその思考はその生を空しくし、その人自身にも社会にも大きな混乱をもたらす』のは確かであるように思います。そんなことはないはずだ、そんな例が知りたい、とおっしゃる方には、『人生の後半戦とメンタルヘルス』をお読みいただければ、大変たくさんの強行突破型の人生、背伸び型の人生をお過ごしの方の事例が出てまいります。その一部分に関しては、 『人生の後半戦とメンタルヘルス』 藤掛明著 を読んだ(2)(終わり)  でもご紹介いたしておりますので、よろしければどうぞ。

     

    実際にミーちゃんはーちゃんの職場の周りにも、このタイプの『強行突破型』の皆さんが結構おられまして、締め切りが金曜日の夕方なら、月曜の朝まで大丈夫なはず、とタカをくくり、本来的には、最後の手段、The Last Resortのはずなんですが、それを無視して、常態的な締め切りやぶりをされたり、お願いしておいても、「そんな話は初めて聞いた」「きちんと教えていない先生が悪い」とか、なんだかんだと理屈をこねくり回し、いろいろと無理なことをお願いされたりということを繰り返されるお方がおられまして…(お察しください)実際にそのとばっちりを受ける側にいることが多いミーちゃんはーちゃんとしては、実に悩ましい日々を過ごすことが多いことは確かです。

     

    それでは、その意味とは全く関係のないEaglesのThe Last Resortをお聞きください。w

     

     

     

     

     

     

    強さを子に求める親子関係
    あまり夜遅く自宅に勤務先からは戻らないようにしているのですが、たまに夜遅くに電車に乗ると、明らかに塾通いと思われるN学園とか、N能研とかと思われる小学生4年生とか5年生に出会うことがございます。そのような小学生を拝見しますと、おかわいそうに思うし、そんなに今から頑張らなくてもええやんか、と思ってしまうミーちゃんはーちゃんがどこかにいることは確かです。

     

    人生、そんなに行き急いでもあんまり変わらないように思うのですが…他人の敷いたレールに乗って、町特急で通り過ぎる人生のどこがおもしろいのでしょうか、と個人的には自由業に近い生活をしているので、思うことがございます。

     

     

    まぁ、数学とかは基本お点前と同じなので、お点前というか、同じような問題をたくさん解くという作業をやった場数が大事です、ということはよくわかるのであるのですけれども。

     

    私が驚いたのは”強さの思想”が外向きはともあれ、身近な親子関係にもおよびこの若い母親が”人生を勝ち抜き”ととらえ、弱さを排除した生き方を子供に強要しているらしいということであった。

    これは、なんという不自由な恐ろしい思想なのだろうか。というのは、人間は元来強くなろうとする存在であるから、この発想はあながち間違いではないであろうが、この”強さ”は人との比較、優勝劣敗に重きを置くためにいつも闘争的、不安定で決して人に本当の安心、平安を与えるとは限らないからである。
    このことはいつ追い抜かれるか、いつ負け組に転落するのかの不安、緊張感を考えたらわかりやすいことである。(同書 p.100)

     

    人生が勝ち抜きゲームにしてしまっているということを批判した映画に、「私がクマに切れた理由(ワケ)」(原題 Nanny Diaries)というラブコメディがありますが、まぁ、そのオープニングが実に印象的で、アメリカのニューヨークの金持ち(米国トランプ大統領もそのなかに属するようです)という種族のわけわからない習俗を自然史博物館の展示をメタファーに人類学的に描くとこうなるよねぇ、と批判して見せています。

     

    私がクマに切れた理由のオープニングシーン(英語版)

     

    私がクマに切れた理由(日本語版予告編)

     

    上の日本語版予告編動画の中で、Someone can have everything installed, still miserable(全部のものを持っているのに、それでも残念な状態に見える人がいる 字幕では、セレブなのに幸せに見えないのはなぜ?と翻訳されている)と主人公に述べさせている部分が、59秒あたりにありますが、まぁ、アメリカ人の生活、金持ちの人たちの生活は、おそらくそんなものなのではないだろうか、とも思うのです。まぁ、傍から見てても大変ストレスフルなのが米国社会のようです。

     

    遺伝子組み換え人間…

    そして、工藤さんは、子供が生まれてから人生を勝ち抜きとか、おっしゃっていますが、現実に一部のアメリカ人はそんな生ぬるいことは考えてないかも、と思ってしまったのでした。というのは、人気者になりそうな、あるいは頭脳明晰な遺伝子を持つ子供を求め、それを与えてくれる生殖医療を行う、そして、子供がこの世に生まれ出でる前に遺伝系の疾患や重度の疾患がなさそうかを調べ、もし、その可能性が見えたとしたら、出生そのものを取りやめるなどという、もはや人間は何様なのか、と言いたいなぁ、と思うような医療行為が米国では模索されているようです。そのうち、ゲノム解析して、ゲノムを事前に全部チェックして生まれる遺伝子組み換え人間が生まれかねない状態もそう遠い話ではないかもしれません。実際に、クーリエ・ジャポンの記事に「遺伝子組み換えによって、自分の思いどおりにデザインした子供をつくれる時代がやってくる」というものがありました。こういう時代が、もう、その先の曲がり角のところにまでこの世界では来ているようです。

     

    ストレスフルな優勝劣敗の社会

    工藤さんは、「”強さ”は人との比較、優勝劣敗に重きを置くためにいつも闘争的、不安定で決して人に本当の安心、平安を与えるとは限らない」とお書きですが、実際にアメリカカリフォルニアで1年ほど過ごしたのですが、まぁ、カリフォルニアも、かなりこんな感じでした。とにかくストレスフルな人生が過ぎていて、まぁ、目まぐるしいこと目まぐるしいこと。勝てば官軍、勝てば何でもあり、みたいな感じがしたことは確かでした。そして、寄留者として過ごしながら、本当にこれが幸せなのかなぁ、とも思っていました。

     

    ヘンリー・J.M.ナウエンという人は、東部のアイビーリーグでの競争社会に疲れ、そして、その世界からドロップアウトをし、南米のグアテマラで、司祭をしたりして、そして、最後には、ジャン・ヴァニエという人が始めたラルシュ・コミュニティ(箱舟という意味を持つ 障碍者のコミュニティ)の司祭として過ごし、障碍者の世話をしながら自らがケアされるという経験を持ち、それを基に文筆活動や講演活動をした人です。アメリカの東部名門大学で教鞭をとっていた時代のナウエンは「いつ追い抜かれるか、いつ負け組に転落するのかの不安、緊張感」にさいなまれたようです。

     

     

    そういえば、結構、ストレス対策の商品化がなされてますよね。

     

    スーツとか

     

    サプリとか

     

    コーヒーとか

     

    そんなお互いにストレス、ストレスって言い合って、みんなでストレス高め合って、挙句の果てにストレス対策の服着て、サプリ飲んで、コーヒー飲んで、本当に一体全体何が面白いんでしょうかねぇ、と最近は正直思います。まぁ、各社はもうかるから、いいのかもしれないけど…

     

     

    次回へと続く…

     

     

     

     

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    コメント:大変よろしいか、と思います。

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    2018.07.20 Friday

    アーギュメンツ #3 を読んでみた(5)

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      さて、これまで、アーギュメンツ#3という雑誌に収録された論文を手掛かりに

       

      アーギュメンツ #3 を読んでみた(1) では、

      第3風景という造園学上の概念を手掛かりに、近代社会が崩壊し始めている地方に目を向け、そこでの経験や宮崎アニメにあふれている第3風景の問題から、現代日本と今後のポストモダン社会における日本を考え、

       

      アーギュメンツ #3 を読んでみた(2)  では、日本に伝わったキリスト教とその受容、その広がりとのかかわりを第3風景を考えながら日本人の主体の問題と、西洋近代文明との違いを考察し、

       

      アーギュメンツ #3 を読んでみた(3)  では、民俗学と他の近代諸学の比較、西洋的近代諸学における普遍性の問題、プロイセンで発達したドイツ神学とその傾向、世界各国の異人譚、そして、異界との交差点としての教会について論述し、

       

      アーギュメンツ #3 を読んでみた(4)  では、啓示と怪談、物語神学との係わり、聖書解釈の一意性の問題、近現代東アジアとバビロン捕囚のかかわりとして、ダニエル書の記述を考える

       

      ということで、述べて参りました。

       

      今回で、一旦、このアーギュメンツ #3のご紹介と、それに基づく論及は、少しお休みをいたします。また、後日、この論文集というか、批評雑誌とその掲載論文については、論及を再開いたしますが、今回はここまでにしたいと存じます。

       

      ダニエル書の近代的理解の限界

      本論文の最終節、結論部分に当たる”太平洋弧に立つイエス”と題された説で、波勢さんは次のように書いています。

       

      僕にはイザヤ書やダニエル書が示す解釈の難しさが、むしろ、聖書自身が多声性を保存しようとした痕跡にも見える。果たして「主体」と「弱い主体」を再生産し、「弱い主体」を圧殺し続けることが、神の御心にかなうことだろうか。怪談の想像力においては、西洋近代的自我による主体的区分による解釈は、恣意的でグロテスクな切断となるのではないか。(『アーギュメンツ #3』p.34)

       

      先の記事、アーギュメンツ #3 を読んでみた(4) では、モノフォニー、ホモフォニー、ポリフォニー、ヘテロフォニーを紹介したが、ここでは、多声性という言葉で、ポリフォニーとしての理解を聖書が我々に伝えようとしたのではないか、ということで、ダニエル書やイザヤ書理解を伝えようとしています。

       

      ある種の機械的な合理性で、(強い)主体」「弱い主体」を圧殺することを、ヘブライ聖書がしてこなかったことを伝えようとしておられようです。そして、近代の聖書解釈そもののが、近代的自我を前提とする以上、そこでの聖書の「解釈は、恣意的でグロテスクな切断」となっている可能性を指摘しています。これは、大事な指摘だと思いました。

       

      というのは、多くのプロテスタント系のキリスト者の中で、「旧約の神は、怒りの神であり、人を罰する恐ろしい神であるのに比し、新約の神は愛の神であり、われらのそばに住む友なる愛のお方である」という、実にみょうちくりんな解釈をお聞きすることは少なくないのです。その結果、「旧約聖書を読まず嫌い」になっておられて、旧約聖書をほぼ読まないような実に残念なキリスト教関係者の方が、存外多いように思います。

       

      本来同じ神様のはずなのですが、このように分裂症のような神様のイメージとなっている背景には、神様側の問題というよりは、聖書を読む人間側が「恣意的でグロテスクな切断」を無意識的にしていることによる問題のような気がしてなりません。

       

       

      中世日本に紹介されたイエスがどう認識されたか

      上に続く部分で、波勢さんは、中世日本、織田豊臣時代に日本に伝来したキリスト教がどのように認識されていたのかについて、次のように書いています。

       

      そもそも日本においては、元来、キリスト教は「怪談」として理解されてきた。キリシタンは妖術使いとして何度も描かれている。(中略)近代日本もキリスト教も、この江戸時代以来の怪談の想像力を拒否して棄却してきた。(同書 p.34)

       

      確か、井上章一さんの『日本人とキリスト教』という随想集には、そのような記述があったように記憶している。まぁ、普通に考えればそうであろうとおもいます。

       

      奇跡譚を当然のことのように語り、処女降誕、死者の復活というありえないことを当然のごとく当たり前のこととして語るキリスト教とキリスト教徒は、アテネ人をして、”ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言(【口語訳】使徒17:32)”わしめたのです。となれば、当たり前の感性を持つ中世の日本人にとって、これらのことを語るキリスト教徒は、妖術使い、幻術使い、手品師にみえたにちがいない。そして、毎週集まっては、肉食(実はホスティアと呼ばれるウェハースであったと思いますが)をし、生き血(実はぶどう酒やぶどう果汁)を飲んでいるようにみえることを、少なくとも行っているわけだし、外見的にはそう見えるわけであすから、妖術使いに見えたとしても、当時の人の無知を責めるわけにいかないようには思います。

       

      そして、明治以降、近代日本に入ってきましたプロテスタント系の教会の多くは、近代社会の科学思想、啓蒙思想を経たキリスト教として日本に伝わったために、この辺りの神秘的な要素(怪談の要素)を聖書理解の中から閉め出したかたちで日本に持ち込まれてきた部分があったように思います。その結果、プロテスタント派では、かなり頭でっかちの理性的なキリスト教となってしまっている感じもします。

       

      そんな頭でっかちのキリスト教理解が幅を閉める教会のかなりの部分では、イエスの死と復活を覚えないキリスト教となっている教会も全くなくは、ないようです。それでも、キリスト教といえるのかなぁ、という素朴な印象も個人的には持っては居りますが。

       

      バベルの塔と帝国

      ところで、旧約聖書の中でも、比較的多くの人々に知られているお話の中に、バベルの塔の記載があります。このバベルということばの子音部分(語根) BBLという語根は、基本バビロンと同じ語根を共有しているようです。その意味でも、イスラエル人には、忌まわしきバビロン帝国が、この話のイメージには付きまとうのではないか、と思います。

       

      ただ、このバベルの塔のお話にはわかりにくい部分があります。そこについて、どう理解するか、どう解釈するかについて、波勢さんは次のように書きます。

      「バベルの塔」は、創世記10−11章にかけて記されている。10章では、各部族が各地方で各言語を話していたとあるのに、11章では全治が一つの言語を使用していたとある。キリスト教学者・芦名定道によれば、この二つの荘の齟齬を解決するのは帝国である。帝国とは、一元化の論理だ。多様な言語と文化を画一化して「主体」という名で奴隷化する力である。バベルの塔はその象徴であった。しかし、神は、常に言語と文化を奪われたものの側に立ち上がる。ゆえにバベルの塔は阻まれた。

      本稿を振り返るならば、神は奪われ、排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史の境界で「主体」と「弱い主体」を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが表れた。(同書 p.35)

      ここでも、帝国という一様化に向けた権力構造とその失敗、それによる言語的側面での「第三風景」が、バベルの塔とそれを建てようとした帝国の喪失とともに生まれ出でた結果の世界が、現在の世界であるということが、旧約世界が語る、この世界の多言語世界の理解、世界観でもあるようです。

       

      ここで、波勢さんは、「神は奪われ、排除されたものの側に立ち上がる。歴史と非歴史の境界で「主体」と「弱い主体」を隔てる壁は消失し、ありうべからざるものが表れ」ると、書いておられますが、この、排除された側が生息する領域が「第三風景」を形成するとするならば、この見捨てられた第三風景の中に住むすべての被造物世界に、哀れみに満ちたまなざしを向け、その修復に向けて立ち上がるのが、約束されたメシアであり、それが「ありうべからざるもの」として立ち上がるのが、ナザレのイエスという人であったと思うのです。

       

      ナザレそのものが存在したのかという議論はさておき、確かにイエスは、イスラエルの周縁部、ガリラヤ湖とユダヤの周辺、ことによっては、異国人であるカナン人のところ、あるいは、狂人が追いやられた地であったり、ガラタ人の地といった第三風景のような地を歩んだと、その言行録である福音書記者は、事実の当否はさておいて記載している。また、イエスは好んで、見捨てられた地、荒野、砂漠、つまり第三風景に出かけていることに気がつかれる方も多いのではないか、と思います。その意味で、イエスは、寂しさの漂う「第三風景」の中にたたずむ人物でありました。

       

      第三風景」にたたずむイエスのイメージ  https://www.pinterest.nz/pin/428545720787111864/

       

      そして、この「第三風景」にたたずむイエスという人物は、隣人を愛するという、旧約聖書のレビ記という、儀式規定や聖者に関する規定が多数の記載されているイスラエルというかユダヤの生活基本指針が記載されている書物の中から、マタイの福音書及びマルコの福音書、ルカ福音書によれば、律法学者との対話の中で、「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。(口語訳聖書 レビ記  19:18 )」を取り出してあえて、隣人愛が律法の根幹であることを、ユダヤ人に再確認させています。そして、ルカ10章では、そのあとによきサマリア人のたとえが触れられています。

       

      トナリビト、在留異国人、交換可能性

      波瀬さんは、自他の交換可能性ということについて、この隣人「トナリビト」という言葉に着目し、次のように書きます。

      ぼくはそれを「隣人」という言葉に求めたい。なぜなら聖書において隣人とはまさしく自他の交換可能性を示す言葉だからだ。隣人が表れるとき、「神を愛せ、己を愛するように隣人を愛せ」という声が聞こえ始める。(同書 p.35)

      実は、この解釈は、交換可能性、意見の交換可能性、金銭的な可能性というよりは、自他の地位というか、立ち位置の交換可能性のことと理解した方がよいと思うのです。というのは、この他人を愛せ、というレビ記規定(19章18節)の後に、いろいろ奴隷や家族に関しての禁止規定があり、そのあとに、このような記述があるのです。

       

      【口語訳聖書】レビ記
       19:33 もし他国人があなたがたの国に寄留して共にいるならば、これをしえたげてはならない。
       19:34 あなたがたと共にいる寄留の他国人を、あなたがたと同じ国に生れた者のようにし、あなた自身のようにこれを愛さなければならない。あなたがたもかつてエジプトの国で他国人であったからである。わたしはあなたがたの神、主である。

      と、レビ記規定に、自分たちが他国人として過ごした以上、ユダヤ社会の中でその立場にある人との交換可能性を思え、という記述があるのです。つまり、隣人として立ち現れてくる他国人に対して、神は愛している、ということを示すためにも、神の愛を示すことが神の意図である、とレビ記規定は、説くわけです。

       

      時々、旧約の神は、イスラエル人の神であり、異国人には祝福がない、あるいは劣ったものである、したがってか何の力排除すべきである、といったご理解やご主張をされる方を時々お見かけしますが、そのような方に、「このレビ記規定をどう読んでおられるのですか?」ということは素朴にお伺いしてみたい気がしております。

       

      神の憐みと隣人であること

      そして、ナザレのイエスが、「神と神の愛からの断絶について人類の最終的な解決」(すなわち、救い)があることを、復活により示したことについて、波勢さんは次のように書きます。

      すべての罪は十字架にかけられ、隣人が復活する。ありうべからざるものとして、自己と他者がよみがえり、神のヘセドが揺らめきあがる。自他の弱さを前提にした自己否定。他者と世界肯定の論理が立ち上がる。誰もが隣人となる。(同書 p.35)

       

      ここで、神のヘセドと書いてあるのは、ヘセドとは、ヘブライ語で、神の深い憐みを表す言葉のようです。ギリシア語では、それに対応する言葉として、スプラングニッゾマイ(腸がよじれるほどの心の痛みを伴った深い同情心、あるいは憐み)があるのかもしれません。

       

      人間自身が、現状の神からの距離が非常に遠くなっている、「神と神の愛からの断絶」という問題からの解決は、神の憐みにより、神の側から人間に近づいてくださったゆえに、神は人間の隣人になってくださったのであり、それによる解決なのだ、ということが聖書の主張のように思います。

       

      さらにいいますならば、神が、人の隣人になってくださったがゆえに、人は神の隣人あるいは友になるのであり、神がすべての人間に近づき、人間の隣人になろうとするがゆえに、他者を肯定し、そして、すべての被造世界を肯定する世界がこの神と人との隔ての壁、あるいは断絶の幕が十字架とともに無効になり、その解決の可能性が十字架のイエスのゆえに生まれるのではないだろうか、というのが、波勢さんの理解なのだろう、と思います。

       

       一部のキリスト者においては、自己の属するキリスト教会とその信徒さんの存在だけを尊いものとして肯定し、他のキリスト者、隣日との存在を否定するとまではいいませんが軽く見るという態度の教会や、そのタイプのキリスト教徒の方もおられるやにお聞きします。あるいは、キリストを信じていない自分たち以外の人々の存在を、伝道の対象としての存在としてしか肯定されない方もおられるやに聞いておりますが、「それは、キリスト者としてはどうなのだろうかなぁ」ということを、この部分を読みながら思いました。

       

      教会、ありうべからざる者たちとの公共圏・シンポジウム

      結論部分で、波勢さんは、次のように書きます。

      そもそも福音は、エルサレムのどくろ山で十字架にかけられた政治犯が死者の中からよみがえったという声、怪談だからだ。イエスの声は、死刑囚の丘から近代が本質的に包摂できない、ありうべからざる者たちの公共圏を宣言し呼びかける。(同書 p.35)

      確かに、近代が支配している社会では、死者の声が聞こえるというのは、ありうべからざることですし、そのような声が聞こえる方は、精神科の病院の受診を進められるか、新興宗教の教祖になられるか、はたまた、占い師をやるか、あるいは、恐山にこもられるとか、という世界が待ち受けているように思います。

       

      ネット界隈では、『イタ□芸人』とも呼ばれる日本で超著名な方の書籍のご紹介CM

       

      しかし、教会では、死んだはずのイエスのことばが教会共同体として聴かれる場所という意味で、ありうべからざる者たちの公共圏を形成しているはずですし、プロテスタント系教会では、ほぼ失われてしまった伝統ですが、伝統教派では、亡くなった方々たちのことに毎週思いを馳せる式文の表現があります。例えば、今参加させてもらっているアングリカンコミュニオンの式文では、聖餐に入る直前のIntercession(黙想)の時間の後に、このような文章が読まれます。

       

      Remembering all who have gone before us in faith,

      and in communion with all the saints,

      we commit ourselves, one to another,

      and our whole life to Christ our God;

      Amen.(太字部分は、全員で声に出して言う) 

      まさに、この文章などは、死者との公共圏が今ここに立ち生まれていることを覚えているように思えますし、まさに、ある物の見方からすれば、これは、ありうべからざる者たちとの公共圏がここにこれから立ち現れるということを示す表現伴っているように思います。しかしながら、この主張は、理性が重要となった啓蒙時代を経た近代から見たら、怪談話に近い世界ではなかろうか、と思います。

       

      近代で大きく変化した、あるいは変質してしまったプロテスタント系のキリスト教会では、この種の近代的な理解に一致しない部分をどうもあっさりと切り捨ててしまって、自分たちが理解できるかたちでのキリスト教理解、聖書理解にこだわろうとされておられるように思えてなりません。波勢さん風の言い方をすれば、「恣意的でグロテスクな切断」ということになるのでしょう。

       

      そして、この式文にあるように、私たちは相互にかかわり合い、一人が他の人にかかわり合い、そして、私たちの人生そのものを神にかかわるものとするということを覚えているように思うです。これは案外大事なことのように思います。これは、私も、長い基督者人生の中で、このような神に関与していく生の歩みについては、ある程度視野の片隅位にはありましたが、アングリカンの聖餐式に参加させてもらうようになってから、より強く意識するようになりました。

      私の知人のアングリカンのある日本人司祭(Y司祭)の方が、以前このように話してくれたことがございました。「貧乏人もいれば、金持ちもいる。王族もいれば、乞食もいる。いろんな国の人々もいて、旅人もいたり、移民もいる。それらの人々に等しく、Draw near with faithと言い、ともに聖餐式を祝うことができることが、司祭としては一番いい教会だと思うなぁ」と。何気ない会話で出てきた言葉だったので、多分、その司祭の方の本心であったし、今も本心だろうなぁ、と思います。その意味で、異人たちの集まりが、教会だとでも言いたいかのように。

       

      それって多分現代社会にとっての「怪談」ですよね。どう考えても。ある種社会内部での均質性、同質性を目指そうとした近代において。

       

      しかし、パウロが、

       

      【口語訳聖書】ガラテヤ人への手紙
       3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
       3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
       3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

       

      と書いたとき、階級社会で男性中心社会で、さらに奴隷制度に支えられた社会であったローマ社会にとっては、「教会(絵クレシア:呼び出され、それに呼応した人々の群れ)」の存在そのものは、危険思想でした。奴隷と市民の区別がない社会、それを教会は模索したのです。ローマ社会にとって、まさに「怪談」、変な話、非常識とでもいうべき社会の姿を掲げ、それが、ここに存在すべきだ、と主張したことになるように思うのです。このインパクトを、我々はどこか忘れ去ってはいないか、ということを波勢さんの論文を読みながら、素朴に考えさせられました。

       

      シンポジウムというと、今は何人かの学者を寄せ集めて、勝手なことを語り合う会(失敬…)をさすことが多いわけですが、もともとのギリシア語的な使い方からすれば、呼び集められたものが、ともに集まり、ともに食事をし、ともに楽しい時間を過ごす「饗宴」をさしていました。まさに、それは、聖餐ではないか、と思うのです。神に呼び集められたもの、有賀鉄太郎氏がいうカハル構造が実現し、ともに喜びを持って、時間を過ごすのが、聖餐であり、それが行われる場を教会と呼ぶのではないでしょうか。もう一度、日本のキリスト教関係者、特に、プロテスタント教会の皆様には、牧師先生だけでなく、信徒の皆様にも、ぜひ、この奇怪な隣人が集まっているシンポジウムが行われている場としての教会とは、いったいどのようなものであろうか、ということをお考えいただきたいなぁ、と思いました。

       

       

      最後に、聖餐にかかわるとっても素敵な式文に曲を与えた曲(聖餐をめぐるカンファレンスのテーマソングでもあった曲 Thema song for the International  Eucharistic Congress- Dublin June 2012)を紹介して、終わりたい、と思います。

       

       

       

       

      次回からは、工藤信夫さんの本『暴力と人間』の応答に戻ります。

       

       

       

       

      2018.07.18 Wednesday

      アーギュメンツ #3 を読んでみた(4)

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        前々回は、アーギュメンツ#3の波勢論文から、日本列島へのキリスト教の到達とその日本での定着、前回は、キリスト教と日本列島の文化、そして異人譚と周縁、そして、近代日本の特殊性と近代社会の特殊性についての随想を書いてみました。今回は、聖書と啓示と多言語の併存、言語の支配について、少し考えてみたいと思います。

         

        黙示と怪談

        今回は、まず、「怪談の形式 啓示の形式」と題された部分からご紹介してみたいと思います。

         

        日本の伝統宗教である神道に、明確な言語文献による啓示はなく、啓示というよりは事象の発生を以て神の意志を見る、あるいは事象に神の意志を読み解くという習慣がある傾向があるように思います。このために、日本人には、啓示という概念が馴染みにくい、言語による論理的コミュニケーションが、そもそも、もとからあまり苦手であったのかもしれない人たちだったのかもしれない、とも思います。

         

        ところで、聖典宗教であるキリスト教やイスラームでは、この啓示について極めて大事にします。仏教は、ある種の聖典である仏典が存在するには存在するのですが、それがあまりに多数あり、また、正統性の点で、どの経典が聖典とすべきであるかの確定ができていない、未だに議論が続いているという話なので、ちょっとびっくりしたことがあります。ある若手のチベット仏教の研究者の方とお話したとき、キリスト教では、Strong Numberというものがあり、コンピュータがない時代に、聖書のどこの場所に、どのような単語が使われているのか、ということが確定していて、一語一語に数字が付されていて・・・とかいうお話を申し上げたところ、「仏典では、それは無理だなぁ…やれたらすごいけど…」というお話を聞いて、へぇ、仏典てそんなに奥が深いんだ、と素朴に驚いたことがあります。

         

         

        愛用させてもらっているBible Hubのインターリニア聖書(ローマ書7章) 

        上側についている青い数字がStrong Number これである語の他のテキストでの用例の検索などができる。

         

        さて、啓示について・・・波勢さんは次のように書きます。

         

        啓示とは、ある宗教における中心的な「神の声」の形態である。キリスト教における啓示は、通常二つある。一つは神のことばである聖書、もう一つは神が創造したこの被造物世界である。当然ながら両者は相補的に機能して、キリスト教徒の世界認識の仕方を規定する。(『アーギュメンツ#3』p.31)

         

        日本人の多くの人々にとって、啓示という物があるとすれば、この被造物世界、いやもっと有り体に言えば、被造物世界での個別の出来事、例えば、災害とか、不幸な出来事が起きたとか、たまたまラッキーなことがあったとか、と言った出来事、あるいは現象そのもののことをさすのではないだろうか、と思います。

         

        日本書紀とか古事記とかは、ヘブライ語聖書とか、クルアーンのようなものとはひと味もふた味も違うので、根本的にこれらの聖典を大事にする人々と、日本の人々では、異なる世界認識というか世界観(ウェルタンなんたら・・・)が生まれているような気がして、その辺、そもそもの世界理解の体系というか世界理解の振る舞いがかなり違うから、日本で受け入れられたキリスト教も違ったものになるのではないか、という気がしています。だからといって、西欧のプロテスタント型のキリスト教が旧約聖書というよりは、ヘブライ語聖書の世界理解の体系と共通の体系を持っているとも思えないところがありますが・・・。これ以上言うと、炎上騒ぎになりそうなので、触れないでおきましょう。

         

        啓示は人間にとって完全に理解可能なのか?

        さて、キリスト教徒は、啓示の書である文字で書かれた、旧約聖書、新約聖書に基づいて考えたり、なんとなくであるにせよ、行動の指針、判断の指針としていることになっているはずなわけです。でも、その啓示の書は本当に理解されているのか、というと、これは、別物かもしれないなぁ、と思います。聖書を読んでさえいれば、その内容は理解されるのでしょうか?仮に、聖書を読み理解していると思っていても、本当に理解されているのか、というとどうも怪しいのではないか、と時々思う事例に出会うのです。

         

        似たような例として、SNSの世界があるかもしれません。文字だけでコミュニケーションが行われるSNSの世界では、それぞれ置かれた環境や状況が違う中で、コミュニケーションが行われるため、時々衝突や、誤読、誤解が起きていることは多くはないでしょうか。とすれば、根本的に次元が違う神と人との間において、文字や言語という限界がある中で行われるわけですから、自ずとコミュニケーションに限界があるのは、当然のように思います。

         

        あるいは、英語など、他の言語を話す話者との間で話していると、どうやっても翻訳不可能なことばがあるのは、よく経験されることがあるかもしれません。あるいは、方言などでも、同じことが起こります。日本語話者どうしても、地方語には、独特の語感というものがあるように思うのです。例えば、京都方言などの「はんなり」と言ったことばは、標準語になりにくいことばかもしれません。

         

        そして、その啓示の解釈不能性の問題について、波勢さんは、次のように書きます。

         

        しかし、その啓示も解釈不可能性は宿っている。例えば、旧約聖書イザヤ書の冒頭一章の解釈は非常に難しい。聖書学的な一切を省いていえば、イザヤ書の一章では、主語を特定できえも、その指示内容を確定できない。現存する最古の写本を三つ並べ、それぞれの朗読の伝統を比較すると、指示代名詞がそれぞれ別の固有名詞を呼び出すのだ。誰が話者なのか確定できない。預言者本人か、神か、または異教徒なのか、主語が明確であっても「主体」は不明である。

        (中略)

        むろん、主体的にテキストを区切り、学問的操作を施すなら、ある程度の可能性は絞れる。しかし、聖書自身に、すでに確定できない「弱い主体」の声が混在しているのだ。「啓示」と向き合うとき、西洋近代的自我が直面するのは、強い中心性をもって対峙するものを構造化し、統一化する原理としての「神の声」であない。むしろ、不明瞭にあいまいなままに立ち上がる、明確に主体になりえないものが繰り返す反響である。(同書 p.31)

         

        先にも書きましたが、文字文化が普及した現代において、テキストさえあれば、正確に翻訳された聖書テキストがあれば、聖書理解ができるかのような誤解がキリスト教の一部において生まれていると思いますが、それは本当なのでしょうか。

         

        逐語霊感とか、聖書無誤説とか、聖書無謬説とか、様々な議論が1960年代には相当議論されていたのだが、まぁ、一応、それぞれの説はそれぞれの説として、尊重はできるし、尊重致しておりますが、それがあくまで、読み手の側の内部に再構成された解釈の体系までの無誤だとか無謬だとかまでは保証し得ないことは、もう少し認識されてもいいかもしれないなぁ、と思います。

         

        というのは、もともと、理解不可能だから、黙示として神は人間に提示されたのであって、それを文字化した瞬間に、そもそもの黙示とは違う可能性もある上に、さらに、それを翻訳した瞬間にもバイアスは発生してしまう可能性があるし、更に、その翻訳したテキストを読んだ人と翻訳者が提示しようとした理解との間にもバイアスが発生する可能性があるように思います。実は、文字通りの聖書解釈とかおっしゃられる方のお知り合いが多いのですが、その「文字通りの聖書解釈」ということばだけが独り歩きしていて、そのことばの周りに起きている様々のことを捨象されている可能性があるなぁ、とこの部分を読みながら、思いました。

         

        啓示の一意性

        つまり、この課題は、文章解釈の一意性(ある文章が、一つの意味しか持ちえないこと)の問題ともつながっていますが、自然言語では、一意に定めにくいのが現実のように思います。つまり、自然言語そのものが、一つの音かなる音楽のような単声Monophonicではなく、ある音の近傍に複数の音からなる多声の音楽(Polyphonicまたは、Hetrophonic)のようなものだと思うのです。

         

        あるいは、啓示は、ある面、モノローグ(一人語り)というよりは、ダイアローグ(対話)、あるいはポリローグ(議会などでの多面的な意見交換)、ディスコース(ディスクルス)のようなものかもしれません。啓示には、発話者と受け取り手の双方を必要とするという意味で、少なくともダイアローグ的な側面を持つと思います。

         

        モノフォニー、ホモフォニー、ポリフォニー、ヘテロフォニーについての解説動画

         

         

        啓示(ダイアローグ)と怪談(ポリローグ)で考える聖書預言

        さて、聖書は発話者である神と、基本的に受け取り手、ないし、読み手の存在を前提するという意味において、少なくともダイアローグとしての側面を持ちます。個人的には、聖書を読むということをそのように長らく考えてきました。しかし、波勢さんの以下の文章を読んで、確かにそうだよなぁ、と思い、実は非常に多声的なあるいは異声的な、あるいはポリローグ的側面を持つという、ということに改めて気が付きました。

         

        音楽でいうと、聖書は神のソロコンサートというよりは、数多くの登場人物が参与して初めて完結するオペラとかオペレッタのようなものである、という認識です。

         

        それは、ある面、ソロコンサート的な理解をとろうとしてきた、これまでの聖書無誤論とか聖書無謬論的な一方向通行的な聖書理解をするよりも、ことに預言理解や旧約聖書、少なくとも新約聖書の福音書や使徒言行録あたりまでに関しては、多面的な聖書理解に近いのではないか、ということになろうか、と思います。このあたりにどうも『物語』神学を考える際のきっかけがありそうな気がします。

         

        さて、前説はこのあたりにしておいて、波勢さんの論文の記述に参りたい、と思います。

         

        「怪談の形式」は、死者と生者が共鳴反響する「ある場所にまつわる声」であり、「死者と生者の交換可能性を担保する場所の記憶」である。(中略)

         ダニエル書は、キリスト教でいう旧約聖書、または本来、古代イスラエルの宗教文書で「諸書」に収められた巻物である。(中略)ダニエル書は黙示録と同様に難解なことでしられている。理由が2つある。

         一つは、2つの言語で書かれている。一生が全体の序章であり古代イスラエルの母語としてのヘブライ語、2章4節から7章の終わりまでは当時の国際公用語であるアラム語、8章から終章に至るまでが、再びヘブライ語で書かれている。なぜ、二ヶ国語で保存されてきたのか聖書学上の問題であった。もう一つの理由は日本語でいう5ー7ー5のように洗礼され、織り込まれた文学構造の解釈だ。すなわちに各国語で書かれながら、明らかな文学的技巧が凝らされている。これをどう解釈するのか、ということが難解さの原因である。ぼくは、怪談として聖書を見直すことで、この問題に応えたい。(pp.32−33)

         

        波勢さんは、預言理解に関して、波勢さんが「怪談の形式」と呼ぶ形式で、空間と過去と現在と未来という時間と、異なる空間をつなごうとしているのではないか、ということを、「死者と生者が共鳴反響する「ある場所にまつわる声」であり、「死者と生者の交換可能性を田んぼする場所の記憶」である」と表現しておられるようです。共鳴反響しているということは、それだけでホモフォニックないし、ポリフォニックであるということになりそうな気がしています。少なくとも、一方的なモノローグではない、ということになろうか、と思います。

         

        ダニエル書とディスペンセイション的聖書理解

        ここで、諸書(ケトビーム)と呼ばれる部分に含まれるダニエル書を取り上げていますが、旧約聖書(タナッハ)は、基本的に、律法(トーラー)と預言者(ネビーム)がメインであり、(イエスも、時々、律法と預言者にかかっている、という表現、例えば ルカによる福音書 16章16節 "律法と預言者"とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。(口語訳聖書)という表現をしています)それに含まれなかった詩篇や雅歌、箴言などの知恵文学、ルツ記などと同様にその他扱いされた諸書、ケトビームに含まれているのがダニエル書です。

         

        しかし、「ダニエル書は黙示録と同様に難解なことでしられている」という表現を見たときに、あぁ、なるほどなぁ、と思ったことがあります。というのは、この部分を必要以上に読み込もうとされる方々ディスペンセイション主義者の皆さんたちとキリスト者人生のかなりの部分を過ごしてきたからです。イエスの言行録である福音書はもちろん、開かれているため、その部分のページの周辺が膨れて聖書のその部分が分厚くなっている聖書をお使いのキリスト者の皆さんが一般には多いのですが、このタイプの方々は、それ以外にも、ダニエル書と黙示録、あとエゼキエル書の部分が特に膨れ上がっていることが多く、この部分の記述と合わせると、その方々は、日本語聖書を使いながら、えらい難所ばかり解釈をしようとされるチャレンジャーの方々であったのだなぁ、という感慨を改めて抱きました。

         

        そこで、このダニエル書の解釈の困難さについて、波勢さんは、その言語テキストや文学的構造からダニエル書の理解の視点を与えるために、時空間がひずみうる形式として「怪談」という意表を突く語、あえてキリスト教とあまり相性が良くないことばを用いています。ミーちゃんはーちゃん風の用語でいえば、それは「物語」ということになるのではないだろうか、と思ったのですが。

         

        ダニエル書の背景としてのバビロン捕囚

        以下の記述は非常に面白いと思いました。

         

        第1の問題は、2つの言語の問題である。二ヶ国語で帰された事自体が、テクスト内に込められた「場の記憶」を呼び覚ます。ダニエル書が読まれるとき、人々はこの書の「場の記憶」たどることになるだろう。

         ヘブライ語部分は、当然母語として音読される。聞き手は、敗戦亡国の記憶とともに祖国に倒れたままの同胞の亡骸と自己の交換可能性を思わずにはいられないだろう。次に来るのはアラム語部分だ。アラム語は新バビロニア帝国で通用した公用語である。つまり異教の帝国下に通用した公用語である。つまり異教の帝国下に連行されて、名前を奪われたアラム語名で呼ばれる同胞の物語が、他国の言語で披瀝される。言語と文化を抑圧され、帝国という一元化の原理に組み込まれて「主体」化されたダニエルたちの声が聞こえてくる。

        (中略)

        第2の問題、文学構造はどうか。ある文章が文学構造を持つことは、ごくと音韻の対応を意味している。すなわちダニエル書は朗読を前程している。当時、それぞれがテクストを所有し、各自で黙読する現代のような文化はなかった。特定の家や場所での朗読によって、神の声を聞いていたーーそれは、朗読の共同体を要請するのだ。(同書 p.33)

         

        ここに、ダニエル書の出来事の背景というか概要が書かれています。神がわが民族イスラエルについているという思いゆえに、当時の超大国、世界最強のバビロニア帝国を相手に戦っても、敗戦の憂き目に会うとは全く思っていなかったイスラエル人が敗戦し、捕囚に合うという憂き目にあったという背景が提示されています。これは、大事なポイントだと思うのです。今のキリスト者としても。そして、この事をメタファとする、バビロンの川辺で嘆き悲しんだユダヤ人の姿についての絵画作品を、かなりの画家が残しているようです。

         

        バビロンの川辺で嘆き悲しむユダヤ人を描いた絵画
        http://www.19thc-artworldwide.org/spring14/ribner-on-a-repainting-by-millet

         

        バビロンの川辺で嘆き悲しむユダヤ人を描いた絵画

        https://imagejournal.org/2016/02/23/poetry-in-a-season-of-lament-part-2/より

         

        東アジアとバビロン捕囚

        このユダヤ人のバビロン連行は、ちょうど、太平洋戦争期の日本と類似の関係と思えば、そう遠くはないかもしれないなぁ、とも思います。日本の天皇が米国陸軍に逮捕され、米国に移送されたり、日本の指導部がそのまま、米国に移送されたりはしなかったのですが、何人かの陸海軍の将官は極東裁判にかけられ、ある面、戦陣訓で書いてある通りの「生きて虜囚の辱めを受けず 死して罪過の汚名を残すなかれ」を何人もの帝国陸海軍の将官が、まさに地でそれを経験する羽目になってしまったのです。さらに、マッカーサー元帥と天皇が並立して撮影された、以下にお示しするその写真は当時の国民に大きな衝撃を与えたのです。

         

        http://mikuriyan.hateblo.jp/entry/2018/01/09/005542 より

         

        このダニエル時代を考えるには、太平洋戦争期の韓国人徴用工問題をお考えいただければよろしいか、と思います。一応、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(昭和40年条約第25号)とそれに付随する日韓請求権協定要綱でこの徴用工問題は、国家同士の協定により、解決済みになっていることになっているとはいえ、いまだにこの問題は時に触れ、息を吹き返します。国民感情として、そんなに簡単に解決のつかない問題でもあるように思うのです。

         

         

        韓国釜山での徴用工像設置問題

         

        特に、この朝鮮半島の日本支配(日帝支配と韓国系の人々は呼びますが)の時には、朝鮮半島の人々は、創氏改名を迫られ、日本名を名乗らされ、日本語教育を受けさせられます。そして、日常生活でも、母語である韓国語を使うことは原則許されず、日本語を使うよう強いられていったという悲劇にあいます。ハングルでの個人固有の名前を奪われ、言語を奪われたのです。その痛みや悲しみは想像するに余りあります。

         

        日本人が、JohnやMikeと米兵から無理やり、本人がいやであろうがなんであろうが名乗らされ、英語でしか会話してはならない、といったような感じではないかと思うのです。今のキラキラネームブームや英語喋りの人々のエリート意識を考えますと、さほど気にならないかもしれませんが、万次郎がいつの間にかジョンになったら、さすがに衝撃は大きかったのではないだろうか、とは思います。実際にダニエルは、バビロンで、ベルテシャザル(新改訳、新共同訳ではベルテシャツァルと表記)というペルシャ語風の名前で呼ばれることになります。

         

        ところで、日韓関係の話に戻りますと、現代のキリスト教と無縁ではないように思います。あくまで、これは想像の域を出ない話ですが、韓国系のキリスト教関係者(異端を含む)が、日本でのキリスト教の宣教成果の結果としてのお粗末さをとらえ、宣教の方法指南したがる傾向の背景には、この日帝支配にもかかわらず、韓国でキリスト教が一応隆盛していることになっている(韓国キリスト教の内実には、いろいろあるようですが、そのあたりは、以下で紹介する『市民K、教会を出る』が参考になろうか、と思います)ことが影響しているように思えてなりません。

         

        歴史を共同体験として記憶する共同体と聖書

        このような韓国人にとって思い出したくない記憶のようなものを、日本語で聞かされる、読ませられるという悲劇と同じ印象を、このダニエル書の言語構造、すなわち、アラム語で書かれた部分を会堂、シナゴーグで聞くたび、聞かされたり、読まされたりするたびに、ユダヤ人は感じるのかもしれません。確かに諸書扱いであるとはいえ、ヘブライ語聖書の一部としてダニエル書を読むときに、そして、シナゴーグの中で、ダニエル書が読まれ、人々が聞くことになるときに、ユダヤ人たちには、ある種の祖先たちが経験した苦難の歴史が、後世のユダヤ人たちの記憶のうちにも刻まれることになるのでしょう。ちょうど、アウシュビッツの記憶と同様に。

         

        まさに、波勢さんがお書きになるように、「他国の言語で(自分たちの祖先たちの置かれた状況が)披瀝される」ことで、「言語と文化を抑圧され、帝国という一元化の原理に組み込まれて「主体」化されたダニエルたちの声」を後世のユダヤ人たちは聞かされ続けることで、この過去の黒歴史を、自分たちの問題として身体的に記録し、記憶しているのかもしれません。それが、歴史に生きる民としてのユダヤ人の姿であるのかもしれない、と思います。

         

        多分、バル・ミツバーでのトーラーを読むシーン

         

         

        イザヤ書53章のヘブライ語読み(英語と中国語で対応関係になっている)

         

        そして、「当時、それぞれがテクストを所有し、各自で黙読する現代のような文化はなかった。特定の家や場所での朗読によって、神の声を聞いていたーーそれは、朗読の共同体を要請するのだ。」と波勢さんが書かれているように、いまだにユダヤ会堂、シナゴーグでは、巻物の聖書が読まれています。そして、読まれた聖書を共同体で聞くことを通して、聖書記述が個人の記憶にとどまる以上に、共同体の記憶になっていく、という歴史を現代も生きる民として継続しているように思います。

         

        日本の多くの現代のプロテスタント教会のキリスト者にとって、聖書は残念ながら、聖書は「各自で黙読する」ものになってしまいました。いえ、もう少しいうならば、「各自で黙読」せねばならないものの扱いとなってしまいました。その結果、病人であろうが、障害を抱えていようが、個人で内容が理解できているかどうかは問わないまま、ありがたく「各自で黙読する」ことが習慣化している部分があるように思います。

         

        その結果、キリスト者の共同体性は薄れ、共同体としての聖書理解をプロテスタント教会では失いかねない状態になってしまっているのではないか、と思います。それは、伝統教派で長く時間を過ごす中で思うようになりました。伝統的なキリスト教の伝統では、毎週日曜日の礼拝で、少なくとも、旧約聖書から1か所、使徒書から1か所、福音書から1か所がそれぞれ読まれ、それを聞くという習慣になっています。この伝統に触れるうちに、このような遺産をプロテスタント教会、より正確に言うならば福音派系の教会では、捨てていたのだなぁ、と思うようになりました。

         

        次回で、波瀬論文の紹介は終了し、また、工藤信夫さんの本の紹介に戻りますが、また、その後、この本に含まれる論文には、是非、紹介したいと思っている論文がありますので、改めて紹介したいと思っています。

         

         

        次回へと続く

         

         

         

         

         

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        コメント:非常に印象的でした。

        2018.07.16 Monday

        アーギュメンツ #3 を読んでみた(3)

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          さて、今日も引き続き「アーギュメンツ #3」から、読んで考えたことを述べてみたい、と存じます。しつこく、波勢論文に食い下がってみたい、と思っております。前回は、キリスト教と日本到達とその日本社会での消化不良というか、未定着についての部分についてご紹介いたしました。今回は、より、日本(というよりかは沖縄を含む列島線)の文化と民俗とキリスト教との関連に焦点を当た部分から紹介し、考えてみたいとおもいます。

           

          民俗学的見地から見たキリスト教

          波勢氏は、日本というものをとらえるにあたって、民俗学(Folklore)を取り上げています。ところで、関西には、日本民族学博物館という、民俗学と一種共通した視点を持つ博物館があるのですが、あちらの方は、日本語としての音は(みんぞくがく)で同じでも着目視点が、より広く広範で、どちらかというと分類学的性質を持つように思います。その意味で、上からの普遍を目指すのが民族学であり、下からの普遍を目指そうとするのが、民俗学(より正確に言えば、民話学)だとおもいます。波勢さんのアプローチは、この下からのアプローチ、時に民俗学のような上からのアプローチでは時として零れ落ちるような対象にも目を向けているように思います。

          「世界民俗学とキリスト教」と題されたセクションで、波勢さんは次のように書きます。

           

          ほぼ近代化が進んだ現代では、口頭伝承世界のような土着の声は、雑や残余として扱われることになる。しかし、近代化とキリスト教に直面した直後の柳田國男はそうは考えなかった。彼は、近代化に際して取りこぼされて行くもの、排除されるようなものに目を留め、それらの可能性として、世界民俗学を構想していた。

          (中略)

          柳田はこのかたち(ミハ氏註:時と場合に出現する巫女の託宣を基礎とする多種多様な信仰の展開と温存、現世の幸福を求める宗教の姿)で、日本語が世界の民俗学研究に独自の貢献をは明日と考えた。近代化が遅れたからこそ残存した民族事象は、西洋中心の神話学や民俗学への発展的貢献の足掛かりであった。またキリスト教を「文明」とし、前代の民俗信仰を「野蛮」とした西洋社会の価値観に染まっていない日本人こそ「固有信仰」への客観性を持ちうると考えた。

          (中略)

          (ミハ氏註:柳田國男)の構想は、言語を解釈し、社会と歴史を記述して形成するプロテスタンティズム的主体の集合による普遍性ではなく、ただ消えゆく可変的な姿勢の声が反響し残響し続ける世界の可能性を示しえてはいないだろうか。柳田が、固有信仰と民俗学で以て、キリスト教徒近代を包摂しようとしたその先には何があったのか。(『アーギュメンツ #3』p.28)

           

          ミーちゃんはーちゃんは、網野善彦先生の本の影響をかなり受けているので、個人的には、柳田国男という人物は個人的には、関心領域にあります。しかし、世界民俗学を構想していたことまでは、これまで知らず、波勢さんの論文で、今回初めて知りました。

           

          近代社会とモデル

          ところで、波勢さんは、雑や残余(おそらく、Residual 統計解析で残差あるいは残差項)と呼ばれる部分とされた民俗学が対象とする領域に着目していきます。実は、この雑、残余、あるいは統計学でいう残差という概念は、多変量解析では非常に重要な概念の一つです。世俗の仕事では、多変量解析や統計解析などを多用して仕事をしているのですが、例えば、線形回帰分析とか、重回帰分析を実施する際には、この残差を見ることで、モデルの当てはまりの良さ、モデルの良しあしを判断するのに使います。

           

          以下の図は、単回帰分析での残差分析を描いた図ですが、XとYの関係を直線で引いた線(モデル)とのずれが残差になります。この残差が大きければ大きいほど、モデルは当てはまりが悪い、モデルがあまりよくない、ということになるのは直感的にご理解いただけると思います。

           

          回帰分析と残差(雑・残余)

           

          ある面、近代という時代は、共通モデルを無理矢理にでも強引に当てはめ、当てはまらない部分は無視する、あるいは、誤差として一括処理するという性質をも持ってきたように思います。本来、その誤差とか残渣とか残余の部分に何かしらのものがあるにしたとしても。

           

          民族学にしてもほかの諸学にしても、大雑把に言えば、こう見える、というある理解(モデル)を提唱しているのが近代的な学問だと思います。そこには、当然個別事情で、ある理解(モデル)では、説明できかねる部分が存在するわけです。その説明部分は無視していいのか、ということを相互批判する中で、近代的な学問はより詳しく、より一般的に、あるいは、包括的に、より網羅的に説明しようとしていこうとする、という性質を持っています。とはいえ、どうしても人間がすることですから、限界があります。どうやっても説明できない部分が存在せざるを得ないのです。どうしても、残差、雑、残余と呼ばれるものが生まれ出てしまいます。それを、近代社会はあえて見ないことにする、無視するという態度を取り続けたようにも思うのです。

           

          ところで、日本は後発国でありました。ありていに言えば近代西洋社会から見れば、後進国として、西洋近代社会に比肩する社会や国家を形成しようとしたように思います。そのため、日本では、陸軍は、フランスへの戦争マシンのような陸軍国であった当時の新興国プロイセン、今のドイツから、芸術は、フランスから、海軍は世界最強の海軍を擁する英国から、民法はフランスから、刑法と神学や医学はドイツから、怪物のフランケンシュタインの体よろしくパーツパーツでバラバラに輸入し、それを接合することで迅速かつ効率的に近代化を図ろうとしました。

           

          和魂洋才というモデル

          そして、和魂洋才という言葉で、和魂(やまとだましい)を必死になって残そうとし、その象徴が国体と呼ばれたものだったようには思いますが、西洋文明のうち、和魂で説明できない部分、和魂からは受け入れたくない(あるいは受け入れにくい)部分を残余として西洋文明からキリスト教的な理解を切り離し、方法論としての側面、テクニカルな側面を受け止めるという社会的、精神的モデルを造り上げ、築き上げてきた、と言えるかもしれません。

           

          ちょうど、それは、GoogleやAppleが会社として注目しているマインドフルネス(Mindfulness)がその根本思想にあるテーラワーダ的仏教理解を切り離し、方法論としての側面だけを受け入れて、本来の他者への視線というものを全く無視した精神の集中力を高める技法としてのみ受容していることと対応関係にあるのかもしれません。このあたりは、香山リカさんの『迷える社会と迷えるわたし――精神科医が考える平和、人権、キリスト教』に詳述しておられますので、ご覧になるとよろしいか、と思います。

           

          ところで、波勢さんは「キリスト教を「文明」とし、前代の民俗信仰を「野蛮」とした西洋社会の価値観に染まっていない日本人こそ「固有信仰」への客観性を持ちうる」と書いておられますが、「キリスト教を「文明」とし、前代の民俗信仰を「野蛮」」とする構造は、宣教の現場で時に見られたものです。そして、大きく日本人の感情を毀損することにもなった部分があります。

           

          例えば、仏壇を偶像に属するものとして「キャンプファイア」をしたとかいう宣教師の方の公刊された手記の中に現れる無意識の表現にも、この種の価値観の反映を見ることができるかもしれません。あるいは、神社、仏閣などにいい匂いのするオリーブオイル(香油)をまいたり、液体をふりまいたりされた方もおられるようです。でも、文化遺産、歴史的遺産に勝手なことをするとかなるとどちらが「野蛮」な行為Vandarize(この語自体ヨーロッパ人にとっての野蛮人であったバンダル人由来ですが…)のなのかはよくわからなくなるように思います。

           

          前代の信仰が劣ったものなのかどうかはミーちゃんはーちゃんにはわかりませんが、たまたま現状として発生しているいわゆる「文明」と呼ばれる状態を、より優れているものとする「文明」史観は少なくとも再検討し、もう一度その妥当性が見直されるべきかもしれません。ポストモダンの多元的な価値の併存が追及される現代の社会において。

           

          プロイセンという後発国とプロテスタンティズム

          さらに、「言語を解釈し、社会と歴史を記述して形成するプロテスタンティズム的主体の集合による普遍性」は、ある面、西ヨーロッパ型、とりわけドイツ型のプロテスタンティズムが目指したものであるような気がします。第1次、第2次世界大戦でヨーロッパ世界を敵に回したプロイセン(現ドイツ)という国は、もともと後進国であり、その分、その精神において、世界標準、あるいは、普遍的であろうとした可能性を追求した部分があるように思います。そして、自らが普遍なものであろうと、強く意識していたような印象があるのです。

           

          その意味で、「プロテスタンティズムの倫理と精神」はマックス・ヴェーバーというプロイセン人から生まれなければならなかったように思います。その意味で、ドイツ系の神学が典型的にそのようであるように、言語を厳密に解釈し、その解釈定義された言語を駆使して、社会と歴史を記述してきた国家がドイツという国家であり、そして、それが普遍だ、と思い込んだフシがあるように思います。そして、それが、英国に渡り、それが北米大陸に渡り、米国人の持っている妙な普遍意識、自国中心主義とが合体して、現代の国際社会があるように思うのです。

           

          アメリカ人は、アメリカ基準と同一でないと、すぐに、世界標準ではないとか言い出したり、挙句の果てに貿易障壁だとか、インチネジでないといけないとか、左ハンドルでないとおかしい、とか言い出すので、ちょっと困ったちゃんのような気がしています。例えば、この方とか・・・世界的に度量衡としてインチ採用の国のほうが少なくても…

           

          不公正貿易取引を主張するトランプ大統領

           

          化物、異人、怪人と社会

          どの社会でも、社会の内部と外部の間のどちらでもない境界領域が存在する事が多いようです。それは地理的な場合もあるでしょうし、社会構造そのものの場合もある用に思います。日本にとっての地理的周縁は、沖縄であったり、九州であったり、北海道(蝦夷地)です。

           

          欧州にとっての地理的周辺は、スペインやポルトガル、アイルランドや、スカンディナビア半島、あるいはドイツや東欧、ロシア、北アフリカであったり、トルコであったりします。この辺が、トルコのEU加盟問題などとも深く結びついているように思います。

           

          古代中国圏にとってのは、中国という名前が示すとおり、自分たちが中心であるという国家意識が無意識的にあり、その地理的周辺は、日本であったり、ベトナムであったり、マレーシアあたりだったりします。

           

          日本社会にとっての社会的な境界領域は、漂泊民と呼ばれた遊び女、海洋民、あるいは流れ者の商人と言った人々であったようです。あるいは、各地に残る天狗伝承、あるいは、鬼伝説、酒呑童子、なまはげ伝承などが異人伝として、「物語」または「ものがたり」としての民間伝承として記憶されています。これらの人々は、街外れ、と呼ばれる雑種地、あるいは、新地、第三風景の中に置かれていったのです。

           

          酒呑童子絵巻 https://twitter.com/hashtag/%E9%85%92%E5%91%91%E7%AB%A5%E5%AD%90%E7%B5%B5%E5%B7%BB から

           

          そして、ヨーロッパ社会にとっての周縁にでてくるのが、ユダヤ人であったり、アラブ系の人々であったり、ロマ人(昔は、ジプシーと呼ばれていました)だったりしたのです。あるいは、奇形の人々でした。その意味で、ディズニーアニメの、『ノートルダムの鐘(原題:The Hunchback of Notre Dame)』は異形の奇形児として生を得たコジモドとロマ人のエスメラルダの物語なのです。

           

           

          『ノートルダムの鐘』(原題:The Hunchback of Notre Dame)のディズニーアニメの予告編

           

          このあたりのことに関して、”怪談、「ジーマー」”と題された節で、波勢さんは次のように書いています。

          本来、プロテスタンティズム的な歴史記述がそうであるように、近代はその本質ゆえに怪談から煙立つ声を包摂することができない。なぜなら、怪談は「ありえた可能性」という存在しないものを語っているからだ。ゆえに歴史を生きない。歴史上に存在しないものは「ありうべからざるもの」なのだ。近代社会は、唯一無二の、出生登録と死亡証明に規定される力動的人格を前提にする。(同書 p.30)

           

          近代の裏側には、所謂”自然科学”の支配がありました。観察できるもの、観察可能なもの、定義可能なものが全てである社会の概念で支配しようとしたのです。もう少しいうと、考えたくない事柄に関しては、排除の法則を取り、社会を衛生化(Sanitize)しようとし他側面がありました。それは、伝染病等の疫病を排除しました。消毒という概念で、病的なまでの無菌状態を生み出そうとしました。ハワード・ヒューズという映画王、航空機王として知られた人物を描いたアヴィエーターという映画では、それがよく表れています。それは、社会からの周縁、あるいは第三風景を社会から排除しようとする動きにつながり、ナチスドイツでは、その結果として、精神病者やユダヤ人の大量殺害計画が計画され、それが実施されていったように思います。それがアメリカで現れると、マッカーシズムという名で知られる共産主義者とされた人々を追放しまくっていった動きになるのだと思います。

           

          映画アヴィエィターの予告編

           

          自然科学が、近代のそのコアの概念として社会を支配したゆえに、「近代はその本質ゆえに怪談から煙立つ声を包摂することができない」ということを波瀬さんは書いておられますが、それ故に、見たくないものとしてこれらの怪談が語ろうとすることを、非近代的あるいは非科学的であるとして、これまでの社会は、一刀両断に切り捨て、無視したように思います。

           

          ところで、波勢さんは、それに続き、「近代社会は、唯一無二の、出生登録と死亡証明に規定される力動的人格を前提にする」と書いておられることは、実に印象的なのです。実は、この出生登録と死亡証明こそ、近代社会が教会からとりあげ、行政体、政府に付与したことであったからです。これが起きたのが、フランス革命で国民国家が成立した時期です。本来、出生と死亡という本来神秘に属し、神秘を内在するはずのものを、非宗教化し、行政的出来事にしてしまったのです。そして、法学的には、「自然人」という、人格を持った法的能力を有する存在、法的力動を持つ存在と規定していくことに近代社会ではなっていったように思います。

           

          携帯電話会社の異人譚

          ところで、最近の携帯会社のCMの登場人物は非常に印象的です。本来最新技術を売り物にしている携帯会社が、CFにおいて、異人譚のメタファーを登場させているのは、その意味で印象的な出来事です。それは、携帯会社が提供している技術が未来的なものであり、これまでの社会にとっての異物だからなのかもしれません。より具体的には、ソフトバンクは、白戸家として、お父さん犬や、アフリカ系のお兄ちゃんなど現代的な存在を登場させ、異人端を地で行っている感じがありますし、AUに至っては、三太郎(桃太郎、浦島太郎、金太郎)という昔話風の異人譚の登場人物をCFに登場させています。

           

          ソフトバンクのCF 白戸家 「予想外な家族」

           

          AUのCF 三太郎シリーズ

           

          中東圏での異人譚

          アラビア語圏、ムスリム圏に異人譚がないかといえば、実は、根強く残っています。それが、ディズニーアニメーションの「アラジン」などに現れる、ジニーと呼ばれる壺から出てくる魔法使いの存在です。本来この種のものは、イスラーム社会にとって異物のように思うのですが、イスラーム社会は、それこそ、チグリス・ユーフラテス川周辺に発達した古くからの地域とそこでの文化や地域で生成された世界理解を内包するため、この種の伝承も内包し、イランなどでは、このジンと呼ばれるある種類の化物に関する伝承が残っています。そして、それがディズニーに渡ると、アラジンに現れる青いジ二ーになるようです。そもそもこのような青い体は、人間の死骸をおもい起こさせるので、ある種の死者ないし死者の霊との関わりがあるような気がいたします。

           

           

          死者と生者との交差点としての教会の特殊性
          このもともと民間伝承(Forklore)として存在している異人譚を始めとする伝承とキリスト教の関係について、波勢さんは次のように書きます。

           

          この「怪談の形式」こそが、柳田が見た世界民俗学の先にあるもの、太平洋孤における現地語の思想的可能性、または日本語でキリスト教を問うことの意味だと考える。神の指の隙間に満ちる人類の恐れや哀切、ありうべからざるものを包摂するもの、死者と生者の交換可能性を語る、今のキリスト教の外側にある「別なる普遍性」それは場所を必要とするのだ。(同書 p.30)

           

          ここで、「死者と生者の交換可能性を語る、今のキリスト教の外側にある「別なる普遍性」それは場所を必要とする」という部分は、少し引っかかりました。たしかに、日本で教派数と教会数だけは多い、現在のプロテスタント教会では、死者と生者が交換可能性であるという立場に立つ教会群は少ないですが、しかし、伝統教派では、この地上での死者と生者の交換可能性は語らないかもしれませんが、共存可能性は考えているように思えてなりません。

           

          なぜなら、死者のことを伝統教派では、式文の中で覚えるという伝統を持ちますし、死者に対して、聖人に対して思いを馳せるからです。また、そもそも、古いキリスト教会は、教会そのものが墓所であるという側面を持ち(それであるからこそ、臭気を避けるためにも香をたくのですが)、その意味でも、死者と生者が交差する時空間ともなっている一種の特殊な場所が確保されているように思います。

           

          しかし、近代を生み出し、近代西洋社会の中で大きな役割を果たしたプロテスタント教会群の末裔てとして日本で存続している教会群の一部では、教会は墓所となっているところがあるでしょうが、その多く教会群では墓所を別に持っているようにも思います。その意味で、現代日本の多くの教会(伝統教派を含む)は、死者と生者が交差する空間すらその教会内に内包しないことになっているようにも思います。

           

          そもそも、イエスの語った伝承を聞き、旧約聖書時代の人々のことに思いを馳せ、そして、その場にいないイエスの死と復活を覚える場が教会であるということ自体が、死者と生者が交差している空間である、ということになるはずなのですが、そのあたりがプロテスタント系教会では、どこでどうなったかはよくわからないのですが、残念ながら、大きく捨象されているようにも思えてなりません。

           

          その意味で、本来の教会としての機能を果たしていない教会のほうが日本では多いのかもしれません。

           

          あと、数回、この波勢論文の紹介とそこからの随想が続きそうです。そのような意味で、この本は、読み手に相当の内実と体力を要求する本ではないか、と読んでいて思いました。ある種の怪物、異人譚ともなっている書籍だとは、紹介しながら思っています。

           

           

           

           

           

           

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          2018.07.12 Thursday

          アーギュメンツ #3 を読んでみた(2)

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            さて、前回は、『アーギュメンツ#3』から「第三風景」とポストエコロジーに関する巻頭論文をご紹介いたしましたが、今回は、そのポストエコロジー時代におけるキリスト教を扱った第2論文、波勢邦生論文 「トナリビトの怪」を何回かに渡って、「第三風景」との係わりを意識しながら、取り上げたい、と思います。

             

            神と接触した人類

            聖書の旧約聖書の創世記では、この地球ができたときの『物語』あるいは『歴史的な事実』として、神が「光ある」という『ことば』に始まり、『ことば』のみにより天地万物を創造し、人類もその被造物に含まれ、男と女が創造されたとなっています(ミーちゃんハーちゃんは、「聖書」の権威性については、極めて尊重しているということだけは申し上げておきたいと思います)。ここで、それが『物語』なのか、『ものがたり』なのか、『歴史的現実』なのかは、ここで議論する意味はないと思うし、その場にふさわしい場でもないし、それを議論し、論証する実力と時間が、筆者のミーちゃんハーちゃんにはございませんので、議論はこれ以上深入りしないことにしたいと思います。しかし、同じ創世紀の冒頭では、アダムとエバ(Adam and Eve 土人と母(アダムは、土人という意味であり、エバは母という意味の語とヘブライ語の語根が共通なので))はエデンの園から追い出され、神との関係を失ったさすらい人になるのですが、旧約聖書(あるいは、ヘブライ語聖書、タナッハ)によれば、神と人とはすれ違うように、時々、様々な時代の様々な場所ですれ違うのです。例えば、ノア先輩は、大洪水の前に箱船を作るようにと通りすがりにいうかのように、神から言われていますし、アブラハム先輩は、アブラムと呼ばれた時代に、父祖の地から出ろ、と神から問答無用で言われて、それにしたがっていますし、モーセ先輩は、燃える柴の前で靴を脱げ、と言われたり、石の板をもらったりしてますし、エリア先輩とは、声なき声として神とすれ違います。

             

            シャガールによる燃える柴の前のモーセ先輩(角が生えたモーセ先輩は、ヘブライ語のラテン語誤訳?に基づくもの)

            https://www.marc-chagall-paintings.org/Moses-and-the-Burning-Bush.html から

             

             

            そして、ナザレのイエス(ヨセフの息子のイエス)時代の人達は、リアルな存在としての神の子、「人の子」と出会っていくわけです。他の人たちが割と短い時間でしか遭遇していないのですが、弟子たちはかなりの時間共に過ごします。パウロにしたって、盲目となったときに、神の声に導かれる経験をしています。それ以降の人々は、イエスの弟子たちの伝えた『ことば』によって、そして、そのイエスの弟子の弟子の弟子の・・・・・弟子たちの伝えた『ことば』によって、あるいは、弟子たちが残した言葉を編纂した『ことば』あるいは『新約聖書』という言葉を介して、神という存在と接触していくことになります。

             

            こうやって、人類は、世界各地の様々な時代に神と人格的に接触、あるいはすれ違っていきます。不幸にして、時代や空間、政治的制約、歴史上の制約を通して、接触できかねた人々もいるわけですが、その人々は、理性や自然を通して、神と接触している、すれ違っているかのように出会っている、とも聖書は主張しているようです。

             

            このあたりのことを踏まえて、波勢さんは、次のように書きます。

             

            人間の5指の形と役割が違うように、人類と世界は、各伝統の中で神と接触した。神の5指は6大陸文明史の動態において積極的にも消極的にも機能した。『教会史を見直せば、環地中海地域の時代、環大西洋地域の時代、そして環太平洋時代と区別されるであろう。そこには中心の移動があり、問題領域の拡大がある。しかし、環太平洋の時代は最後決定的』だという意見もある。

             

            神の掌を地中海沿岸弧とすれば、5指の頂点をつなぐ弧が太平洋の形となる。2016年夏、コプト正教会が京都で正式に教会を開いたことで、5大教区の伝統が日本列島に到達した。しかし、いずれのキリスト教であれ日本において浸透しているとは言い難い。つまり日本の文化と言語は、神の掌と向き合うように指の隙間にある。(『アーギュメンツ#3』p.25)

             

            この部分を読みながら、こんな感じかなぁ、画像合成して描いてみたのが、次の図です。ちょうど、エルサレムあたりに掌のくぼんだ部分を置き、それから、北の方にほぼ陸続きの大陸を書くと、たしかに指先に当たる部分はは弧のようになります。

             

            波勢さんのイメージする手のイメージと太平洋弧

             

            ここで、波勢さんは、『教会史を見直せば、環地中海地域の時代、環大西洋地域の時代、そして環太平洋時代と区別されるであろう。そこには中心の移動があり、問題領域の拡大がある。しかし、環太平洋の時代は最後決定的』と書いておられますが、これは、ヨーロッパを立脚点にしてみた場合の世界理解、あるいは教会史理解であり、ある面、そのヨーロッパの出身者が別の大陸に流入した結果形成されていったアメリカ合衆国を中心とした北米大陸で、独自に展開した『教会史』的なものの見方という部分もあるのではないか、と思います。

             

            西廻りと東廻りのキリスト教

            ヨーロッパ人は、アメリカ大陸に西廻りで、西側からアプローチをし、北米大陸を自分たちの領域化していきました。それは、ネイティブアメリカンにしてみれば、収奪の歴史でもありました。そして、ヨーロッパから到達した移民とその子孫の皆様は、さらに西へ、西へとWild Westを目指します。このような西向きの動きが彼らに啓示されていた運命であることを示す言葉に、マニフェスト・デスティニィという言葉があります。ヨーロッパからの移民の彼らにとって、西部開発は神が公言された、啓示された(マニフェスト)運命の場所(ディスティニィ)であると思っていたようです。とはいえ、いつまでも西へ西へと移動はできなくなる時期が来ます。そして、一旦はカリフォルニアで太平洋の海という、どでかい溝に直面します。しかし、その頃に蒸気船が発明され、カリフォルニアからハワイ経由でアジアに向かう太平洋航路が開発され、そして、ペリー艦隊が日本に到着し、中国を始めとするアジア諸国が西廻りにヨーロッパ人とその子孫たちが、到達可能な地域となりました。そして、かなりの明治期からの日本のプロテスタント系の教会の多くは、西廻り(もちろん東廻りもありますが)で日本に入ってくることになります。

             

            逆に、織豊期(戦国時代)と江戸末期には、太平洋を渡るのではなく、インドのゴアを経由したり、マラッカ海峡を経由し、マカオや中国本土を経由して、スペイン語系、ポルトガル語系、フランス語系(ザビエル先輩、あるいは、ハビエル先輩は、パリ大学のご出身・江戸末期に日本に来たのはパリ宣教会)のラテン語圏のカトリック系の人々が伝えたキリスト教が、キリスト教として日本に伝わることになります。一部には、ネストリウス派の一部と想定されている大秦景教が、ちょうど空海さんの中国留学中に流行していたこともあるので、空海経由で日本に入ってきていているという説はあるのは存じ上げておりますが、結局空海が伝えたのは密教(真言密)であったように思いますので、個人的には、キリスト教の伝来とするのには、論としてもかなり厳しいものがあるのではないか、と思います。

             

            さて、東廻りできたのは、ローマ教区由来のカトリック教会、ハリストス正教会(ロシア系)です。ロシア系正教は、基本、コンスタンティノーポリ教区・イェルサレム教区・アンティオキア教区由来です。これらの者は、カトリック教会は、東まわりとはいえ、インド、食う語句経由で、ハリストス正教会は東廻りとはいえ、シベリア経由で日本に来ています。コプト正教会は、アレキサンドリア教区と由来だと存じますが、現在の日本コプト正教会は、オーストラリアのシドニー司教区扱いだと聞いておりますので、これまた南太平洋経由の東回りでの日本への到来です。

             

            神の右手と左手が交差した指のあいだの日本?

            ところで、西廻り(アメリカ経由)できたものの多くは、ローマ教区の分家筋に当たる所謂プロテスタント系教会が多いように思います。その意味で、日本の教会は、東廻りと西回りのキリスト教が交差する交差点のような状態であり、その両手の指先が触れあっているあたりが太平洋弧ということになるのだと思います。

             

            波勢さんは「いずれのキリスト教であれ日本において浸透しているとは言い難い。つまり日本の文化と言語は、神の掌と向き合うように指の隙間にある。」と書いておられますが、ミーちゃんはーちゃんとしては、東回りできた神の右手と西廻りできた神の左手の間にすっぽり落ち込んだのが、日本列島という気もしています。神様の手の指が5本だとは、聖書のどこにも書いてないので、この辺は想像の域を出ないのですが。

             

            先日、水曜日の夜のチャペルの聖餐式で、ちょうど似たような話をしておりました。Kenさんというミーちゃんはーちゃんのお友達によれば、日本は、信仰告白という意味でのキリスト教化した社会にはなってはいないが、文化という側面でのキリスト教化は、確実に定着しているとおっしゃっておられました。

             

            確かに和魂洋才という声を上げて、明治期に必死になって近代西洋に追随するために、脱宗教化した西洋文明を吸収した結果だとは思うのですが、たしかに、様式論的には、霊的世界の内実という意味での信仰という側面を除けば、キリスト教的な世界観が知らず知らずに、日本人を支配していることは確かです。

             

            すると、英国人の司祭が、個人的経験を振り返りながら、日本は表面的なリチュアル(Ritual 儀式)的な側面へのこだわりがものすごく強くって、お辞儀の仕方とか、手の合わせ方とか、そんなことにこだわりがあるからちょっとつらいこともあるよねぇ、とかいう話となり、そこでなんとなく話が終わってしまいました。

             

            宗教的第三風景が広がる日本

            閑話休題。

             

            こう考えてみると、宗教的な意味でも、「アーギュメンツ#3」の第一論文の、山内論文で取り上げられていた「第三風景」が、信仰とか霊的内実、精神世界の面でも起きているのが、日本という国なのかもしれません。

             

            必死になって西洋文明というものを吸収しようとしたものの、結局日本やほかの海外の精神的、霊的、文化的植生が混じりこみ、ある種のキリスト教や、特定の仏教的世界観が支配的な社会とはなっていないようにも思うのです。そして、ある種の品種や設計で統一的に支配された空間支配が行われていないという意味で、霊的な世界、あるいは精神的な世界における「第三風景」が成立しているのが、日本という国に住まわれておられる多くの人びとのお姿なのだろうと思います。

             

            つまり、クリスマスには教会に行き、墓参りはお寺で、新年は、神社に初詣という一般化したスタイルや、あるいは、大阪の釜ヶ崎の素敵なオジサマたちのように、生きている間は、教会さんか、天理さんにお世話になって、死んだらお寺さんにお願いしたい、ということがなんの矛盾もなく言えるのが、日本という宗教的な「第三風景」が広がる社会なのかなぁ、と思いました。

             

            その意味で、日本は、「第三風景」に風土的にも、精神世界的にも、霊的にも適合的な社会なのかもしれないと、この2本の論文を比較しながら思いました。

             

            弱い主体の集合体としての日本人

            キリスト教と弱い主体と題された節で、波勢さんは、次のように書いています。

             

            神の指と太平洋弧でせめぎ合う問題は、西洋的なるものーーキリスト教と近代化ーーである。ぼくは、太平洋弧における「遅れた近代」を考えている。ある言語・文化圏における遅れた近代化とキリスト教受容の仕方は、その社会が西洋近代的自我を「主体」としてインストールしてゆく過程と、軌を一にしている。「超越・啓示・主体」という社会的形式。そこに「主体」隣り得なかったものの存在を捉えようと思う。それを、ここでは便宜的に「弱い主体」としよう。

             

            「弱い主体」とは、近代市民社会を構成する「主体」になりえずに排除されたもの、または主体化以前の人間性である。たしかに、創世紀のエデンにおいて、神は人に問うた。「あなたはどこにいるのか」。「神の声」としてのキリスト教が現象するとき、必ず「主体」が問題になる。それは近代的自我として想定されやすい。しかし「神の声」が要請するものが、自我と責任を引き受け、行為と意思の「主体」としての西洋近代的自我だけとは限らない。西洋的なるものを普遍として騙るキリスト教の一部は、これを西洋近代的自我として、まさに喧伝してきた。しかし、別の形もありうるのではないか。

             

            日本語キリスト教はその歴史故に「主体」的にならざるを得ない。なぜなら、そこでキリスト教は近代化のための文化的表彰として、卓越した近代人の宗教として喧伝され、他の宗教を貶めるような形で輸入されたからである。(同書 p.26 )

             

            この「弱い主体」というのは、強い自己主張を持たない日本人、あるいは、場の空気に支配されやすい現代日本人を表すのに、実に適切な表現だと思います。アメリカで大学院生のクラスを担当していたときには、彼らの自己主張の強さに辟易したことが何度もあります。とりあえず、アーギュメント(主張)を述べてなんぼというところがあり、大きな視点から見た場合、かなり論理矛盾していようが、自己の信念に基づきガンガン主張してくるので、本当に参ってしまった経験がございます。

             

            大陸系の人たちと強い主体

            今は、中国大陸系の学生を主に大学院で指導しているのですが、彼らも自己主張が強く、というよりは、人の話を聞いておらず(これはアメリカ人も同様)、時々、「質問に答えなさい」、「私が聞いた質問の内容に答えてない」と指導の過程で言わないといけないことが多いのです。その意味では、彼らは、強い主体の系譜に属する人びと、といえるでしょう。

             

            どうも、いろいろな方のお話を聞いておりますと、それよりもすごいのが、中東人あるいは地中海圏の人々であるらしく、アラビア語圏の人たちにしても、イスラエル人にしても、イタリア人やギリシア人にしても、「我も我もと出てきて自己主張をする」という構造が中東や地中海世界では一般的な傾向のようです。『紅の豚』のマンマユート団の皆さんのように。

             

            マンマユート団の皆様がかなり映っているYoutube動画

             

            弱い主体の現れとその背景

            その意味で、「キリスト教が現象するとき、必ず「主体」が問題になる」ことに適合的なのは、中東人、地中海圏の人々、あるいは大陸系の人々ということになるのかもしれません。これは、移動可能性・移住可能性とも関係が深いかもしれません。日本列島をとって考えてみますと、目前の太平洋には黒潮が猛烈なスピードで走っており、日本からその外に出るのはそれほど容易でもありませんし、元寇の例を引くまでもなく外部から日本に来るのも、そう容易ではありませんでした。となると、どうしても内向きにならざるを得ませんし、何か、不都合が起きても、大陸諸国のように、移動、移住することによって、前歴を消し、人々の記憶から消えていくということが簡単にできない部分もあるが故に、そのような社会で、強い主体として、主張する場合、人々に強烈な記憶を残し、履歴や禍根を残すことになるようにも思うのです。

             

            これらのことを考えると、近代国家の中で、「弱い主体」の集合体としてかろうじて主体を形成していているのが日本社会であり、その結果として空気に支配されているのが日本人ということなのかもしれません。

             

            「弱い主体」は、共同体を形成して(群れをなして)生きるという集団主義的な行動パターンが、最適戦略であることは、ゲーム理論の研究から導出されるところでもあります。であるからこそ、日本では、護送船団方式、傾斜配分方式といった政府主導型の社会主義国家も真っ青な国家主導の計画経済風の疑似資本主義社会が生まれ得たのかもしれません。ただ、その集団主義は、大量生産、大量消費を前提とした近代経済社会には、実に適合的なライフスタイルでもあったことは事実ではないか、と思います。

             

            西洋的なるものは普遍なのか?

            ところで、波勢さんは、「「神の声」が要請するものが、自我と責任を引き受け、行為と意思の「主体」としての西洋近代的自我だけとは限らない。西洋的なるものを普遍として騙るキリスト教の一部は、これを西洋近代的自我として、まさに喧伝してきた。」と書いておられますが、これは、アメリカ経由のキリスト教により顕著なように思います。というのは、アメリカ人の多くのみなさんが、自分たちが「世界標準」であると思い込み、「西洋近代の体現者」であると思いこんでいるフシがあるからです。アメリカ合衆国にお住まいの多くの方々は相対化があまり得意でないとも言えるとは思います。

             

            だからこそ、他国の政策を土足で踏みにじるような真似や、他国への内政干渉もどきのことを平気でやってのけられるという部分があるようにおもいます。それは、まさに、「西洋的なるものを普遍として騙る」というよりは、「アメリカ的なるものを普遍として騙る」行為であったとも思います。まぁ、他国のことを認識する能力に大きな欠陥があるという意味で、「アメリカ人はおおいなる田舎っぺ」という名言をご紹介くださった、アメリカでの交換教員時代にお世話になった日本人の大学教員のおっしゃることは、概ね妥当しているように思います。

             

            そのうえで、波勢さんは、「しかし、別の形もありうるのではないか」と問題意識を提示しておられます。これは、大変興味深いご指摘だと思います。というのは、カトリック、正教会、聖公会などの伝統教派と呼ばれるキリスト教は、共同体概念を重視してきました。それは取りもなおさず、「弱い主体」の共同体としての神への応答であったと思います。このあたりに関しては、波勢論文についてのミーちゃんハーちゃんからの応答の中で、お答えしてまいりたい、と思います。

             

            今、ミーちゃんハーちゃんの家人の一人が、イスラム経済の一つの特殊系のイランの経済システムの勉強に着手したばかりところなのですが、その家人いわく、このイスラム経済の研究パターンとして、西洋近代が普遍であるとしてその観点からの差異を述べるタイプの論文が、所謂西側のイスラム経済研究ではかなり見られるのですが、その視点では語りきれていない部分があるのではないか、とか言い出していて、なかなか面白いことを言うなぁ、と思って、時々この家人とこの視点から、学的対話をしております。

             

            このあたり、地域研究における案外重要な視点とつながっており、個別地域の社会システム研究(それは宗教学的研究をも包摂しうると考えますが)では、案外重要な視点であるようにも思います。

             

            次回へと続く。

             

             

             

             

             

            2018.07.12 Thursday

            アーギュメンツ #3 を読んでみた(1)

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              同人誌もいろいろ…

              お若い友人の一人が寄稿しているということで、出版記念パーティにでて、そして、この本を入手してきました。支援の意味で、友人に誘われるまま参加した出版記念パーティで、買ってきました。この本というか、雑誌は、ある意味で、同人誌と言っていいと思うのですが、以下のようなコミケで売っているような、うっすい本という別名を持つような同人誌とは内容的には異なっていました。

               

              うっすい本と呼ばれる同人誌の例

              http://buyee.jp/item/yahoo/auction/x541061060 から

               

              どちらかというと、太宰治が出していた『蜃気楼』という同人誌に近いかもしれないなぁ、とおもいました。文芸評論雑誌というよりは、哲学評論雑誌に近いのではないか、とおもいましたが、これが、実にいい雑誌というか、ムックでした。何がいいかというと、哲学的に、あるいは芸術批評的にインターネット時代と、その後の時代、ポスト・インターネット時代をどう考えるのか、ということに関する雑誌でした。

               

              太宰治が出していた同人誌『蜃気楼』

               

              いくつか、この本の中から、気になった表現を拾っていきたいと思います。まずは、山内朋樹さんの第一論文『なぜ、なにもないのではなく、パンジーがあるのか ー浪江町における復興の一断面』からご紹介したと思います。

               

               

              アーギュメンツ #3の写真

               

              日本のあちこちにある第三風景

              浪江町に見る自然と社会の相克がもたらす、緊張関係を、現代文化という視点から、近代で課題となったエコロジーという視点から、どのように見るか、の論文でした。もともと都市計画屋を目指して大学に入り、図学のセンスの無さに設計側の人間となることを早々に諦め、都市や地域の数理的解析の側に回った人間になったのですが、阪神大震災で被災地で勤務し(と言っても現場勤務ではなかったですが)、空間情報技術を専門にし始め、現在はJAさんや、農事法人さんなどと一緒に研究を進め、農業でのIT支援業務(耕作放棄地対策)なんかのお手伝いをしている側の人間からすれば、ここに書かれていることは、中山間地域(山がちだけれども、ぎりぎり条件悪い中で農業がかろうじて営まれているような地域)で支援業務をする際によく目にする光景でもあるので、なんとなく印象深いなぁ、と思いました。

               

              窓や戸口にコンパネが打ち付けられたままのコンビニの駐車場には多数のクラックが生じ、一つ一つのひび割れからはセイタカアワダチソウなどが密に吹き出している。田畑だった乏しき放棄地の植生推移は、草刈りがなされている場所も混在しているはずなのに、すでにヤナギを始めとした木本類のパイオニア種が草本類よりも優勢になっている。

               悲劇的な風景ではある。とはいえ衝撃的ではない。人口減少にあえぐ地方の放棄地や自然界の撹乱地を繰り返し観察してきた目にとって、それは十分に予想された風景だ。ところが、こうした現状にこうするかのように、そこには唐突に色鮮やかなパンジーの寄せ植えがあった。

              (中略)

              人が関わりを持たなくなった放棄地や空き地、道端に生い茂る植物。非人間的で悲劇的であるが故に、少なからず美的でもあるような風景。フランスの庭師ジル・クレマンなら、それを「第三風景」と呼ぶだろう。

               この区域やその周辺のほぼ全域に第三風景のようなものが広がりつつある。

               

              「第三風景」[…]は、人間が風景の進化を自然だけに委ねた空間全体を指す「第三風景」は都市や田舎の放棄地、つなぎ目の空間、荒れ地、湿地、荒野、泥炭地に関わっているばかりではなく、道端、河岸、線路の土手などにも関係している…。[…]人間の制御と開発に従った領域の全体と比べるなら、「第三風景」は生物学的多様性を受容する特権的な空間を構成している。

              (アーギュメンツ #3 pp.2-3  下線部は、もともと傍点)

               

              ここで、「悲劇的な風景ではある。とはいえ衝撃的ではない。人口減少にあえぐ地方の放棄地や自然界の撹乱地を繰り返し観察してきた目にとって、それは十分に予想された風景だ。」というのは、この種の絵面に営農支援組織の研究でお伺いするたびや、阪神間から自動車で1時間ほどで行ける領域でも、もはやあまりに普通になっていることを経験したためか、もはや、衝撃性を持たない、というご意見に関しては、おぉ、仲間がおられた、という印象を抱きました。

               

              30年近く前、まだバブル経済の余韻に日本が浸っていた頃、研究会で、海外の地域科学の研究者が来られたときに、地域研究の立場から言えば、「東京は日本ではなく、日本全体から切り離して考えるべきである」という旨のご発言があって少し驚いたことがあるのですが、実際に地方(とはいえ、太平洋ベルトコンベア地帯の隅っこ)に住んでみて、数十年経つと、本当に東京って異常だなぁ、と思います。数年に一度生え変わるかのように林立するビル群、いつ言っても迷子になりそうな、東京駅を始めとするターミナル駅…地方では、ビルが生え変わるのではなく、セイタカアワダチソウやクサネムがヤナギに生え変わりはするのですが・・・・

               

              なお、クサネムが、下の画像のように、水田に収穫時期に大量発生すると、困りものなのです。下の写真のように生えていると、(大型)コンバインで収穫しようとしたら、コンバインの刈り取り用の刃がかける、コンバインに詰まりが発生するとか、いろいろ面倒なのです。そして、こうなった場合には、収穫前の水稲もろとも、小型の火炎放射器みたいな草焼バーナーで燃焼させてしまうことになります。残念ですが・・・

               

              水田に生えるクサネム(色の濃いやつ) https://www.jataff.jp/satoyama/summer/37.html より

               

              コメリさん提供の草焼きバーナーの使い方の動画

               

              余談はさておき

               

               

              宮崎アニメと第三風景
              ここで、著者はジル・クレマンという作庭家のアーギュメントである第三風景という、概念を取り上げます。多分、第三風景とは以下のような光景のことを言うのでしょう。この第三風景のメタファーは、宮崎駿アニメの定番の風景でもあります。ラピュタでは、人類の欲望が行き着いた先の天空の城ラピュタのラピュタのメタファーとして出てきますし、『風立ちぬ』でもラストシーン直前のシーンで飛行機の墓場の光景として、まさに第三風景が現れます。

               

              打ち捨てられた昭和の洋館 https://ameblo.jp/fury99/entry-11335636023.html より

               

               

              天空の城ラピュタ https://www.amazon.co.jp/dp/B00005GF78 より

               

              風立ちぬに現れた戦闘機の墓場のシーン https://www.pinterest.jp/g900708/animate-background/ より

               

               

              あるいは、『もののけ姫』のシシ神は変容することで、第三風景の主祭神あるいは祭祀者としての役割を同作品中では担っています。宮崎アニメには、この第三風景がメタファーとして非常にたくさん現れます。その意味で、日本という風土が、この第三風景に適した風土であるというのはあるかもしれません。

               

              アメリカの飛行機の墓場や、旧開拓村が放棄地に残るのは砂漠がおおいのですが、日本では、なぜだか、植物がそれを覆ってしまうという現実を宮崎駿氏がよく知っているからかもしれません。

               

               

              もののけ姫 海外版の予告編

               

               

              アメリカの飛行機の墓場 https://www.airplaneboneyards.com/davis-monthan-afb-amarg-airplane-boneyard.htm から

               

              アリゾナ州TuscanにあるDavis-Monthan Air Force Base  部品をとったあとか、まさに、バラバラにされたB52の機体

               

              アメリカの西部の放棄された開拓村 http://capitolhstudios.com/ より

               

              都市は、自然をコントロールし、人々の行動をコントロールしようとする一種の権力(Power)とも呼ぶべき強力な力が行使される権力空間であると言って良いように思います。自然をコントロールするからこそ、ラスヴェガスのような砂漠のど真ん中に強力な灌漑用水を用いて無理やり作り出した人工の遊興都市を作れるのだと思います。そこでの人間は、巧妙に誘導されることで、自らがコントロールされていると思わずに生活をすることで、実態的には行動をコントロールされているように思うのです。

               

              どうコントロールされているか、って?例えば、信号、鉄道の時刻、テレビ番組の時刻、飛行機の搭乗時刻…実に多くの制約が課されているのです。こういう拘束構造を嫌うからか、アメリカ人はどこでも自動車で移動するのかもしれません。片道100キロ(1時間半くらいの運転)をフリーウェーで時速75マイル (だいたい時速120キロメートル)で、気軽に車で運転して移動するのがアメリカ人で、それも当たり前のように言うのです。最初は驚きましたが。

               

              第三風景とは、その都市の権力構造というか人間の力の行使が弱まったところに、たち現れるものであるということになるのでしょう。

               

              原発事故と第三風景

              そして、本論文の著者の山内朋樹さんは、震災以降、というよりは原発事故以降の浪江町を題材に取りながら、次のように書きます。

               

              確かに、第三風景は、20世紀後半のエコロジーを批判的に拡張し、あらゆる終焉的な場所に自然保護区と同等の機能を設定する試みであった。とはいえ眼前の風景は保護すべき多様性の避難所だろうか。とりわけ震災以降、経済的停滞や人口減少に由来する都市や地方の減圧が目に見え始めた現在の日本において、こうした風景はいたるところに蔓延しつつある。

               この概念が持つラディカルな意識はすでに蒸発してしまったのではないだろうか。

               

              (中略)

               

              本稿は第三風景を20世紀的エコロジーのリミットととして捉え直し、特定の地域をモデルとしながらも、現在日本のいたるところで生じつつある一つの状況を描き出すことを目的としている。

               それは豊かで純粋な共生のエコロジーを見出すことでもなければ、貧しく不純な共生なき反エコロジーを見出すことでもない。そうではなく、生態系未満の所持物がひしめき合う、エコロジー以降のポストエコロジー世界を想像する試みだ。

              (同署 p.4)

               

              ここで、「20世紀的エコロジー」という言葉が出てきますが、これは本論文のキーワードの一つでしょう。いろいろお考えはあると思いますが、「20世紀的エコロジー」とは、ミーちゃんハーちゃんが思いますのに、「20世紀」という国民国家、産業社会、大量生産大量消費、近代という時代を背景としたエコロジー理解ではないか、と思うのです。ところが、もう時代は、いいか悪いかどうかは別として、現実には、ポストモダンの時代に入り込んでおり、その意味で、ポストモダン的時代に生じた、「生態系未満の所持物がひしめき合う、エコロジー以降のポストエコロジー世界」ということを扱う必要があるのではないか、というご指摘です。つまり、それが、第三風景であるというご指摘ではないか、と思うのです。

               

              そして、ここで、通常これまで言われてきた「純粋な共生のエコロジー」という概念に変わる概念が必要なのではないか、というご指摘は重要ではないか、と思うのです。要するに秩序立たない世界を内包する必要性があるのではないか、というご指摘です。

               

              これは、里山運動などと深く関わっていると思います。日本では、里山と呼ばれる集落界隈にあるある種の放棄地が共同管理されることで、照葉樹林を形成し、エネルギー源となったり、水源の涵養装置となったりするということで注目されていますが、里山自体は、かなりの長期間に渡る綿密な管理があってこそのものだとされています。とすれば、人間の手(あるいは力、権力)が関与してはいないけれども、ある種の生態系未満の状態を生み出している第三風景を考察するようなポストエコロジーとは何か、ということを考える試みの重要性があるように思います。

               

               

              これは、ミーちゃんハーちゃんが深く関与してきたキリスト教でも同じようなことが言えるかもしれません。これまでは、建物としての教会を舞台といいますか、建物とか組織と言った入れ物を前提にしたキリスト教会という人の群れを中心とした形でのキリスト教形成における集合体の形成が目指されてきましたが、現在では、中国の「家の教会」、House Church Movement, Taize…といった従来の枠で捉えられないキリスト教が目指されているという側面があるように思います。これについては、工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(6)で、すでに触れたところではあります。

              もし、時代が、「秩序立たない世界を内包する必要性があるのではないか」というご指摘の内容を欲しているとすると、教会もまた、「秩序立たない世界を内包する必要性がある」ようにも思うのです。そして、教会も、どの程度かは別として、「秩序立たない世界を内包する必要性」を少しは考えてみたほうがいいのかもしれません。

               

              ポストエコロジーと亜生態系
              現代を特徴づけるものとして、本論文の著者の山内氏は、ポストエコロジーと亜生態系という概念を提唱しておられます。
               エコロジーからポストエコロジーへーーポストエコロジーは共生や自然保護を歌うものではない。それは、気泡化し、空き家や廃品や植物の集積に呻吟する都市や地方から導かれた状況であり、その構成要素は第三風景に似て非なるものとしての亜生態系である。
               第三風景から亜生態系へーー亜生態系は、人間が立ち入らない非人間的風景や植物が多様性を回復させる奪還の過程ではない。ここでは都市同様に部分としての自然もまた奇形的な変質を蒙りながら、都市と自然は互いの本性を蚕食しあい、なし崩し的に混濁している。偶然隣り合う非固有なものたちからなる生態系未満の生態系こそがそれである。

               

               かつて、こうした特徴を持った場所が「造成居住区」と名指しされたことがある。(同書 p.8)
              この部分の議論に見られるように20世紀を特徴づける言葉は、エコロジーであった用に思います。それまでは、エコロジーや、エコシステムとい雨概念が声高に叫ばれ、環境保護への関心はそれほど強くなかったように思うのです。なぜなら、20世紀に入るまでは、未だ自然の力が強く、人間がそれに拮抗することはほぼ不可能であったからかもしれないと思うからです。20世紀になってはじめて、人間の力が自然の力を凌駕しうる、つまり、自然に対して圧力をかけ続け、自然をある領域の中に強力な圧力によって、閉じ込めることで、山内氏のいう「気泡化」を抑止してきたように言えるのかもしれません。非常に大きなエネルギーを消費しつつではあったかもしれないけれども。

               

              そして、あまりのエネルギーの必要性への反省から、そのままのあり方を続けうるのが望ましいことなのか、ということがエコロジーという考え方であったり、河川改修において、強大な堤防を構築する河川改修ではなく、水害の危険性の増加の懸念をはらみつつ、水辺へのアクセスを図るような河川改修への転換など、自然共生型の河川改修へとの転換が行われてきたように思います。結果として、「都市と自然は互いの本性を蚕食しあい、なし崩し的に混濁している」という状況が生まれているように思うのです。そして、都市が都市としての権力構造、圧力構造が人口減社会の中で維持しきれなそうな状況を迎える中、日本の国土全体が、「生態系未満の生態系」となり、亜生態系化へと移行しつつあるのかもしれない。

               

              この問題は、現状の移民政策とも重なるかもしれないなぁ、とおもいました。日本は、戦前から、長らく、ハワイや南米、北米に移民を移出する側であったことは確かです。しかし、今、日本は、ある種の経済的移民を受け入れなければ、現状の経済活動の維持が困難な国になっているようです。そのことは都市部の夜のコンビニエンス・ストア、ファミリー・レストランに行くと、体験的に感じることができるのではないでしょうか。もはや、日本は日本人だけからなる純粋な国や地域とは、言い難い生態系を呈しているように思います。

               

              田中角榮氏の列島改造論の時代以降、日本中に「造成居住区」がパッチ状に形成される国になり、都市環境の面でも、「生態系未満の生態系」がまだら状に生じる国になっていったということはあるでしょう。その象徴が下のドラえもんのアニメだったのかもしれないなぁ、と思うのです。そして、今、その「造成居住区」のインフラストラクチャーが建設から一斉に50年から60年経過し、道路に穴が開いたり、水道管が破裂して吹き出したり、と逆襲を食らっている国になっており、「生態系未満の生態系」へと、その面でも向かっているように思われます。

               

               

              「造成住宅区」の象徴、土管(ヒューム管)でコンサートをするドラえもんのジャイアンとのび太くん

               

               

              各地で水道管が破裂して洪水・浸水が発生する事案の一例のニュース

               

              この論文は、実に印象深い論文であったように思います。

               

              なお、この本は、このアーギュメンツのグループの手売りでしか手に入らない稀覯本です。2,000円は高いかなぁ、と思ったのですが、読んでみますと、2,000円でも安いくらいだと思います。もし、このブログ読者の方で、読んでみよう、とご所望の方は、まず、”アーギュメント#3”で検索して、直接著者の方々から買う機会をお探しになるか、コメント欄で連絡先等いただきますと、販売者の方におつなぎいたします。

               

              次回からも、もう少し、この本からこの論文の次の論文の内容をご紹介いたたいと思います。

               

               

               

               

               

              2018.07.10 Tuesday

              「落ち込んだら 正教会司祭の処方箋171」を読んでみた

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                この本との出会い

                またまた、ヨベルさんの本のご紹介をいたしたいと思います。この本がいい本だったのです。昨年11月のアドベントから、今年の3月ごろ、レントが明ける直前のころまでは、この本を読む体力すらなかった抑うつ状態でしたので、買ったまま、そっとおいておいた本の一つでした。本の役者の松島司祭の奥様の松島マリアさんからお勧めされていた本だったからです。レント期間中は、深刻な状態でありましたが、とはいえ、レント期間が終わりイースターを迎える頃には、ようやく体力を回復したのですけれども。

                 

                そして、イースター(復活大祭)を迎えた後、この本を読み始めたのですが、非常に参考になった良い本であったなぁ、と読み進めながら、思ったのでした。

                 

                この本の美点

                とはいえ、ガチの抑うつの症状にある時には、この本すら読めない状況にあったことだけは確かです。そして、回復した今、読んでよかったなぁ、と思っていますし、自分自身が抑うつに陥ることの意味を深く思いめぐらす本となりました。抑うつとなった主な原因は、華人学生の妙な日本語の修正に追いまくられ、華人学生との要領を得ないコミュニケーションに疲れ果てていたから、ということが最大の原因だったことは確かですが。

                 

                さて、この本は、1章1章というか、一つの処方箋が見開き2頁か、長くても3ページなので、短くて読みやすいという意味でも、非常に印象的な本でした。

                 

                ところで、この本のタイトルに「正教会司祭」とはあるのですが、この本の中で取り上げられている人物や記載されている言葉は、米国系の人物による言葉が多く、正教臭くないのが良いなぁ、と思いました。もちろん、多く出てくるのは、正教会さんで大事にしておられる教父、師父の皆様方なのですが。

                 

                ところで、正教会では、礼拝のなかで香炉が回って来る教会(極端な例では、香炉をガンガンブンブン振り回す教会もございます)ですので、実際には、お香臭くはあり、最初に同行した家人が、ここはお寺ではないか、と思ったほどであったということも、ひとつの現実ではございます。個人的には、正教も多少は本を読んで知っていたので、あぁユダヤ神殿、あるいは、幕屋時代の礼拝儀式に忠実なのだ、と思い、特段の違和感はなかったのではありますが。

                 

                 

                至聖所で、香を焚き、香炉を回して香を様々なものに振りかけておられる正教会の司祭の模様

                (これはなかなか信徒でも見られない貴重な光景…のハズ)

                 

                 

                さて、この本の中で、いくつか印象に残ったものからご紹介してみたい、と思います。

                 

                人生の目的と実存をめぐる意味

                まず、手始めに、28「どうして自殺しないの?」から紹介してみたいと思います。

                 

                ヴィクトール・フランクル博士は、ひどく落ち込んでいる患者にしばしば、「あなたはどうして自殺しないんですか」と尋ねました。フランクル博士はナチスの強制収容所の恐怖を体験した人です。生命を粗末に考えるような人ではありません。

                彼が望んでいたのは患者たちに自分の落ち込みに意味を見つける手助けでした。患者たちがなお生命にしがみ続けている理由を発見する手助けです。

                (中略)

                博士はやがて気が付きます。あるものは自分の子供たちを愛しているから生きる方を選びます。また別のもの多氏はその宗教的な信念によって苦境に耐えます。他にも様々なたくさんの理由がありました。それのどれもが患者を奈落の底から逃れされる一筋の導きの糸でした。その答えはいずれも皆、人が新しい人生へと立ち上がるための、最後に残った意味でした。(「落ち込んだら 正教会司祭の処方箋171」p.58)

                 

                 

                ここで、同書の中に含まれる「その答えはいずれも皆、人が新しい人生へと立ち上がるための、最後に残った意味でした」という言葉に激しく反応してしまいました。人生の意味を見失ってしまうと、人には、生きる希望が無くなってしまう存在でもあるようです。つまり、人生に意味がなく、存在していても、存在していなくても同じことになる、と思った瞬間に、人は生きる希望を失うことになる様です。それは個人的に体験してきたことでもあります。

                 

                刑務所とか、ナチスの強制収容所では、収容者を番号で呼ばせていましたし、今もなお、刑務所では番号で、収容者を呼ばせています。それは、人から固有の名前を奪うと同時に、人間を記号化・オブジェクト化・対象化する行為でもあるように思うのです。マイナンバー制度は、役所の納税額と納税の進行状況の補足には便利な制度であることは間違いがありませんが、今一つ、なんだかなぁ、と思うのは、このあたりの人間のオブジェクト化と関係があるようには思います。個人にとってマイナンバーを記憶する意味も、マイナンバーカードを取得するメリットも、実は、現行法制度下ではほとんどないように思うのです。(実際にマイナンバーカードは取得していない…w)

                 

                ウサギ上のマイナちゃんを出そうが、この制度をめぐるうさん臭さはしばらくなくならないと思います。

                 

                記号そのものである数値の羅列には、意味がないですし、意味を持ちえないように思うのです。なぜなら、記号は、対象を指し示すための固有識別番号であるとはいえ、単なる意味のない数字の羅列にすぎないからです。しかし、名前には意味があるのです。お友だちの手島イザヤさんではありませんけれども。名前で個人が呼ばれること、それが重要なのですし、その名前に付けられた意味を見出すとき、あるいは、神から「アブラハム」あるいは「サラ」のように名前を与えられ、名前を呼ばれるところに、実は、人生の意味があるのではないか、とも思います。

                 

                心の貧しいものは幸い…

                先日参加させていただいたご近所の教会では、通読のためか、マタイ5章の山上の説教が取り上げられて、お話がありました。そこで、心が貧しいとはどういうことか、というお話があったり、そのことのディスカッションがあったのですが、その時、心貧しきものとは、この詩篇のことばではないか、とお話ししました。

                 

                【新改訳改訂第3版】詩篇 51:17
                神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。

                 

                そのことに関連する記事が、本書 84 砕けた魂 には次のようにありました。

                 

                私たちが砕かれ、押しつぶされた時ほど、主が寄り添っていてくださるときはありません。主は私たちのために砕かれた断片を集め、ご自身の目的にかなうより良い姿に作り替えてくれます。ある聖人が言いました。「私はイエスに砕かれた霊をささげます。主はそれをとり、新しい、美しい人生を私に与えなおしてくれるから」と。

                 

                砕かれよう。より美しくなるため、よりきよきものとなるため、よりへりくだれるため、より思慮深くなるため、より細やかな受容力を得るため、神の恵みに心をより開くために。

                 

                がっかりすることは何もないよ。キリストが何もかもに打ち勝ったからね。アダムを起こし、エヴァを説き、死を殺したのだ――サーロフの聖セラフィム   (同書 p.152)

                 

                正教会になじみのない人からしたら、サーロフの聖セラフィムとか出た瞬間にドン引きされるかもしれませんが、この聖セラフィムさんの言っておられることは、間違ってはいないはずですし、私たちの信仰の核心であるイエスの死と復活と永遠の生のことを言っているのではないでしょうか。

                 

                まぁ、この砕かれるという経験をしたころのことは、このブログの4月2日の記事「金継ぎ」 または 「金繕い」 と「復活」 でお示しした通りです。この時には、まだ、この本は読めてなかったのですが、4月の中旬に本書のこの部分を読んだときに、あぁ、同じ経験をした方もおられるのだなぁ、と改めて感慨深く思った次第です。

                 

                砕かれている当時は、本当にいけるバラバラ死体になったような感じで、ろくでもない経験であったのですが、今振り返ってみればそれは、「主は私たちのために砕かれた断片を集め、ご自身の目的にかなうより良い姿に作り替えて」下さるために必要な作業であったように思っています。とはいえ、2度と経験したくない、とは個人的に思っていますけれども。

                 

                勇気をもって悲しむこと

                人は、勇気をもって、悲しむことが必要だ、ということをこの本を通して教えられました。勇気を持てば、悲しみなんかへっちゃら、というのが、ある種、西欧近代社会(ことにアメリカ社会)での理想とされてきた姿、あるいは工藤信夫さんの言うこれまでのキリスト教の姿かもしれません。ある面、近代西洋型の力を志向する社会では、力を持てば悲しむことは起こりえないことになるはず、というのが、近代西洋型の人間理解かもしれません。しかし、正教会的伝統を含む、伝統教派では少し味わいが違うようです。そのことを、本書の”90 悪魔の攻撃への抵抗”に記載された言葉から拾ってみたいと思います。

                 

                「悲しむな」と言いたいのではない。それは私たちの力に余ることだ。「悲しみにあなたの心を引き渡し、煽り立てられるに任せてはいけない」と言いたいのだ。その悲しみが心の境界を超えて入って来ないように、急いでそれをやわらげ抑制しなしあ。あなたが分別を持って考え、正しくふるまうことを悲しみに邪魔させないためである。―― 聖山アトスの聖ニコデモス(p.160)

                 

                聖山アトスの聖ニコデモスとか言われたり、以下のイコンを見せられたりすると、ドン引きするプロテスタント教会の関係者の方は多いでしょうが、この聖ニコデモスのご主張になっていることは大事なことだと思います。悲しまないことは、私たちの力に余ること、という指摘は重要だとおもいました。

                 

                 

                聖山アトスにかんするアメリカCBSのドキュメンタリー

                 

                聖山アトスの聖ニコデモス http://www.orthodoxchurchquotes.com/category/sayings-from-saints-elders-and-fathers/st-nicodemus-of-the-holy-mountain/ より

                 

                とくに、「その悲しみが心の境界を超えて入って来ないように」という表現は大事なのだと思います。人間の心の境界のうちでいくら悲しみが暴れようが構わないのですが、心の境界を越えて、神の霊が座しておられる「霊」の世界に越境して、暴れ始めたりするとろくなことにはなりません。「あなたが分別を持って考え、正しくふるまうこと」が霊の世界で、できなくなってしまうからです。人間って、実に微妙な世界で生きているはかない(Fragile)な存在であるということを認識させてもらうことができたように思いました。そして、神との関係を「悲しみ」が邪魔し、神への怒りや神を試みることにに向かわせるように思うのです。その意味で、主の祈りでの

                 

                われらを試みに合わせず(われらがあなたを試みることがないように)

                悪からお救いください。

                And lead us not into temptation,

                but deliver us from evil

                 

                という祈りは大事なのだと思うのです。

                 

                落ち込みの意味と復活大祭

                このブログの2018年4月2日の記事「金継ぎ」 または 「金繕い」 と「復活」 では、私自身が落ち込みの中にあったこと、それも聖書を読むことすらできない状態の日々を過ごしたことは、2018年5月4日の記事、先日のチャペルのブルティンから 成文祈祷の強み し、お示しした通りです。ちょうどその5月上旬のころに、この本の 139 癒しとしての聖書(続き)という文章の中の言葉に出会いました。

                 

                ここで思い出してほしいものです。落ち込みに痛めつけられている時には、聖書を読む気になどとてもなれませんね。なんであれ集中力を持って取り組めなくなってしまっているのです。かろうじてテレビを見ているだけです。

                 

                そして、もしクリスチャンであるなら、彼らの聖書すら読めなくさせてしまうほどの落ち込みには宗教的な意味があるかもしれません。

                 

                しかしながら、落ち込みが去っていた後、ないしは助力を得て落ち込みが和らいだ後、彼らは神のことばから、もっと大きな慰めと力を受け取ることができます。

                 

                神への信頼の告白は、ニケア信条が表しているように、希望の叫びで極まります。「われ望む死者の復活並びに来世の生命を」。(同書 p.237)

                 

                まさに、聖書も読めなくなり、かろうじて、とりあえず通勤はしてましたが、ここに書いてあるように、かろうじてテレビを見ているだけ、という状態でした。

                 

                たしかに、「落ち込みが去っていた後、ないしは助力を得て落ち込みが和らいだ後、彼らは神のことばから、もっと大きな慰めと力を受け取ることができます。」ということは、実際に経験したことです。今年のレント期間ほど、復活のパスハの讃美歌の意味を深く感じたことはありませんでした。

                 

                パスハのトロパリ

                 

                 

                落ち込みの経験は、ろくでもないものでしたが、確かに、実際に正教会のレント食(基本肉抜き野菜のみ、青みの魚やチーズも禁止)を実践し、食事制限し、20Kg近く痩せ(さすがに、レント期間中正教会に毎日通い、毎日晩課に参加することまではできませんでしたし、より正確に言えば、致しませんでしたが)、レントの意義を覚えながら毎日、イースター(復活大祭)を心待ちにする日々を経過して、実際にイースターを迎えたその日のこの喜ばしかったこと、これは大きかったです。プロテスタント教会の皆様にも、ぜひともお勧めしたい経験であったとは、申し上げたいと思います。

                 

                本当に、「神のことばから、もっと大きな慰めと力を受け取ることができ」たことは、確かです。

                 

                今回、この本の一部だけからご紹介しましたが、ほぼ毎ページ、印象的な表現に満ちた表現に充ち溢れております。もっともっと、ご紹介したいのですが、これ以上、ご紹介すると本が売れなくなると困りますので、ご紹介は致しませんが、ぜひとも、手にとって、お読みになり、お買い上げになられることをお勧めいたしたい、と思います。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                評価:
                アントニー・M. コニアリス
                ヨベル
                ¥ 1,728
                (2017-12-01)
                コメント:大変素晴らしいし、読みやすい。おすすめしております。

                2018.07.08 Sunday

                工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(6)

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                  さて、これまで

                   

                  工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(1)

                  工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(2)

                  工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(3)

                  工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(4)

                  工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(5)

                   

                  と第1章部分をご紹介してきましたが、本章の最後に、これからのキリスト教の目指すべき方向性と、これまでのプロテスタント系キリスト教が、意図せずに持ってきた問題がある部分に工藤信夫さんは切り込んでいきます。それをまずご紹介したいと思います。

                   

                  雑魚の群れとしてのテゼ共同体

                  本論にいたる前に、工藤信夫さんは、トゥルニエの印象的な文章を引用し、そこから想起されたことをお書きになっていました。それは、次のような引用部分でした。

                   

                  今や、いたるところに、貧しい教会や預言者たちが目立たず、組織もまとまりもなく、整った深い教義もなく、まさに福音書の言う、目があっても見えぬ形であまた出現してきているではないか。(中略)若い人たちの数知れぬ福音的集いがそれである。それでは、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教徒、共産主義者の違いなど全く問題にされない。そこではイエスとの出会いと兄弟的な交わりだけが問題なのである。(314頁 傍線部は筆者)

                   

                  <組織もまとまりもなく><整った深い教義もなく><イエスとの出会いと兄弟的な交わりだけが問題>という表現が私の心をひく。

                  というのは、宗教者の力・暴力は<組織><教義>と深く結びつく可能性があるような気がするからである。(『暴力と人間』p.62)

                  この部分を読みながら、思ったのは、Taizé という礼拝共同体のことでした。詳しくはリンクを張ったテゼ共同体(←ここをクリック)のWikiの記事を見てもらうとお分かりいただけるかと思いますが、まさにここに書いている通りのことが実現しているように思います。賛美を中心とした共同体を形成しながら、まさに、<整った深い教義もなく><イエスとの出会いと兄弟的な交わりだけが問題>ということが、問題を内包しつつも、その運営が行われているようにも思います。とはいえ、このテゼのコミュニティがこういう形で形成可能なのも、内部の構成員が流動的でも、運営可能(ミハ氏註:追記しました)であり、入れ替わりがある程度あっても運営可能なこと(ミハ氏註:追記しました)激しいこと、が前提になっているということであり、さらに、賛美を中心としたコミュニティだからこそ、このような形での(ミハ氏註:追記しました)運営可能な部分もあるだろうなぁ、と思うのです。

                   

                   

                  テゼの様子

                   

                  組織構造と組織内暴力

                  世俗の学で、組織論なんかも関心領域の中でありますので、工藤信夫さんの記述、「宗教者の力・暴力は<組織><教義>と深く結びつく」という部分は、宗教だけでもないように思うのです。確かに、組織ががっちりしている、あるいは固定的であろうとする組織であればあるほど、宗教者の力と暴力は激しくなる傾向にあるようにおもいます。ちょうどこの記事を書いている前日の2018年7月6日に、麻原彰晃こと、松本智津夫死刑囚の死刑が執行されましたが、あの組織でも警視庁による家宅捜査が上九一色村の施設で行われる前後にその力と暴力は頂点に達し、オウム内での麻原尊師の高弟と呼ばれる人たちへの実効的権力が非常に強まっていたのではないか、と観測しています。

                   

                  ただ、工藤信夫さんのご指摘の組織内権力構造と暴力の問題は、宗教的組織に限った話ではなく、一般的な組織論においても、おおむね妥当する原理ではないか、とおもうのです。つまり、「指導者の力・暴力は<組織><組織の形成原理>と深く結びつく」と思うのです。古くは、日中戦争期の帝国陸軍内の暴力事件、最近では、大阪私立桜宮高校のバスケットボール部およびバレーボール部監督の暴力事件なども、基本的に同じ構造を持っていますし、電通の労働基準監督署の立ち入り調査事件(高橋まつりさん関連諸事案)も、基本的にこのような構造があると思います。もう少しいえば、家庭内暴力の問題も、同じ構造を持っていると思います。

                   

                  組織論を学としてかじったものの感想から言えば、問題は、結局組織の閉鎖構造、組織からの脱出可能性の多寡にあるように思うのです。組織が閉鎖的であればあるほど、指導者ないし宗教者は相手が逃げないわけですから、力の行使が可能になります。ところが、組織が開放的であり、他への脱出可能性があればあるほど、いくら力をかけたところで、組織内圧力は高まらず、力の行使の効果は薄まるように思うのです。その意味で、組織の閉鎖性の程度がこの問題を考える際に、きわめて重要なのではないか、と思います。

                   

                  包摂的なキリスト教

                  トゥルニエがややもすれば、領域の壁を作りがちな分断的構造を持つ科学と信仰の世界を自由に行き来したことを取り上げた記載についてのある方のレポートを引用された後、工藤先生は次のように書いておられました。

                  私にはこのレポータの指摘は、私が再三再四強調しているようにトゥルニエの紹介はもう十分に、日本のキリスト教会への貢献ではないかとか思えてくる。つまり、分断的なキリスト教ではなく<包括的なキリスト教>である。

                  換言すれば、細事にこだわる神学を語って良しとするキリスト教ではなく、この世の中で実際生きることに悩み迷うキリスト者に寄り添って、大局的な見地から多くの示唆を与えるキリスト者の生き方である。(同書 p.78)

                  学問の世界に半分以上身を置いているので、学問の世界が、分野横断とか、学際性とか、学環とか、わけのわからない用語(業界内にいる人間ですら、この種の用語の粗製乱造ぶりには辟易している…)を粗製乱造しつつ、その閉鎖性をぶち破ろうとしているのではありますが、キリスト教の世界は、教派間の壁を取り除くことは、御法度であるのではないだろうか、と思いたくなる部分もあるようにも思います。

                   

                  先月末の記事「大阪ハリストス正教会の講演会「東方への旅、正教に導かれて」にいってきた 」でもご紹介しましたが、伝統教派は基本的に包摂的なキリスト教でもあります。もちろん、その分、正教会の皆様の一部もお認めのように、ボロボロであったり、外部者から見るとごみのようにしか見えないような過去の遺産もたくさんお持ちではありますが、Unityというか、一体性というか、一つであることへの意識は、いわゆるプロテスタント教会とは比較にならないほど、強くお持ちという現実はあるように思います。

                   

                  対話の成立が時々困難な福音主義神学会…

                  それに比較し、プロテスタント教会は、純粋と言いますか、分裂志向と言いますか、少し残念な傾向があるように思います。現実にそれを強く感じるのは、福音主義神学会に参加しているときです。この学会に参加させてもらって、いつも思うことは、多数のキリスト教の所謂福音派と言われる教団からのご参加者がおられるためか、教団ごとに用語と語の用法にかなり明確かつ大きな違いがあるのですが、その学会の討論で用いられている単語が、それぞれ微妙に違った意味合いで同一の語が用いられているために、お互いが同じ意味を理解していると思いつつも、実は、同じことが意味されて対話されていないという、意図しない形でのミスコミュニケーションと言いますか、非常に具合の悪い対論と言いますか、ディスコース(対話・ディスクルス)がかみ合っていない状態が発生していることがままあります。

                   

                  そもそも、対話として成立していない状態が成立していることを拝見します。同じ日本語ですよ。お使いの言語は。日本の学会ですから…。教派が違うと、一つの同じ語に付与された意味が、ここまで違うのか、と思うほどの違いがあることを、その学会に参加させていただく中で、見聞してまいりました。そのことばの用法とそのことばに込められた意味というか、理解というか、コンテキストをそれぞれの対話者側が譲らないものだから、妙なことが起きるのですね。さすらいのキリスト者のミーちゃんはーちゃんからしてみると。ほとんど、通訳して差し上げたくなるほどでございます。時々、見るに見かねて、やりますけど…w。

                   

                  ところで、工藤先生は、<包括的なキリスト教>とお書きですが、個人的には、包摂的なキリスト教ではないか、と思うのです。他者を含みこみ、受け入れ合う存在、すなわち、下の讃美歌の冒頭のThough we are many, we are one body、すなわち、多様性Diversityと一様性Unityを持つ存在が、本来キリスト教のはずですから、それは、包括的であるのは本来当たり前であるのですが、それができない原因を考えますと、やはり、他者に対して包摂的である必要があるように思うのです。Anglicanの今寄留させてもらっているチャペルでは、聖餐の部の冒頭に、必ずこのThough we are many, we are one bodyを声に出して、確認しています。それを繰り返し声に出し、言葉にする中で、この多様な存在を包摂する、その包摂性の大事さをミーちゃんはーちゃん個人は、感じるようになりました。

                   

                  The International Eucharistic Congress- Dublin June 2012 のテーマソング

                   

                  そして、工藤さんの「細事にこだわる神学を語って良しとするキリスト教ではなく、この世の中で実際生きることに悩み迷うキリスト者に寄り添って、大局的な見地から多くの示唆を与えるキリスト者」という言葉に異常に反応してしまったので、次回はこのことを扱った同じヨベルの「落ち込んだら 正教会司祭の処方箋171」を紹介することにいたしました。

                   

                  ところで、これまでの記事 工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(3)でもご紹介してきたところでありますが、結局口の悪いお友達のMさんによれば、砂のように細分化されたプロテスタントは、ある意味「細事にこだわる神学を語って良し」としすぎてしてきてしまったために分裂を繰り返し、もはや、何が何だか状態になっている部分があることは確かであるように思います。そして、「細事にこだわる」がゆえに、これだけまさしく支離滅裂に分裂できた、という側面はあるように思うのです。いい方はあまり適切ではないとは思いますが、ある面、これだけ分裂した結果、一発屋の集合体というか寄せ集めみたいなものが、プロテスタントとして総称されているように思うのです。そうであるがゆえに、先に紹介したように福音主義神学会では、対話の成立のための通訳が時に必要となるのであるようにも思います。ただ、通訳が入らないケースが多いので、そこはお互い意味が分からないまま、言いっぱなしに終わっていることが多いのが、残念ですけれども。

                   

                  祈りの右手と左手の違い

                  そして、工藤信夫さんは、ナウエンのレンブラントの放蕩息子の帰郷というエルミタージュ美術館の至宝の作品からインスパイアされた『放蕩息子の帰郷』という名著(まだお持ちでない人は、急ぎ、読まれた方がいいですよ)の中の、神を表すとされる放蕩息子の父親の手の形状の記載に触れておられます。

                   

                  ”神の二つの手”という発想は(トゥルニエ著)『暴力と人間』という本の中で私がことさら驚きを持って読んだ箇所である。

                  ちなみに私は当時『放蕩息子の帰郷』(片岡伸光訳 あめんどう 2003年)という本に出合い、その本の中で、レンブラントがその父親の両手が左右で違うように描いているという指摘を読んで、ナウエンの観察力の鋭さに驚くとともにトゥルニエとの一致に驚いたことがあった。

                   そしてその本の中でナウエンの指摘、つまりキリスト者の究極の目的はこの両手(父性・母性)を兼ね備えた父親に近づくことであるという指摘にも驚いた。そして、そこで私はようやく私ども信仰者の目指すべきゴールが理解できたということになる(167頁)(同書 p.82)

                   

                  放蕩息子の帰郷の父親の両手の拡大部

                  https://www.pinterest.jp/mchstalwol/nt-przypowie%C5%9Bci/ から

                   

                  先日、兵庫県立美術館で開かれていたエルミタージュ美術館に指導している大学院生を引率していってきたのですが、これでもか、というほど(ちょっとやりすぎな感があるのがスペイン絵画w)のスペイン絵画がやたらとあり、その中に、宗教画が数多く含まれていたのですが、これが非常に面白かったのでした。手のかたちに着目してみていくとき、そこに雄弁に物語る手の形、所作が表れていたのでした。院生向けにこの手のかたちについて解説していると、遠足というか校外学習というか、大阪北部で起きた地震の震災直後で動員数が不足しているために駆り出されたのかもしれないような小学生の群れにも、スペインの宗教画の解説をPourする(垂れる)羽目になったのでした。必死になってメモとる小学生がかわいくて、ゼミの時間にメモすら取らないうちの院生に、学ぶ態度とは斯様なものであると、もちろん、あとで訓戒を垂れることにしました。w

                   

                  https://web.pref.hyogo.lg.jp/bi01/prado.html から

                   

                   

                  プロテスタント各派では、聖餐式がいい加減なやり方でされるうえに、リタジー理解もかなりいい加減なので、司式者(牧師)の所作、手のかたちがかなりめちゃくちゃになっていることが多い(そして、個人的にこのあたりがかなり気になるのもあって、伝統教派のほうが親近感を抱いている部分がございます)のですが、パンを裂き、分けるときの所作、祝福を祈るときの所作、それぞれ手のかたちや位置を含めた所作そのものにもいのりが込められているはずなのですが、かなりの部分のプロテスたん派では、所作があまりにいい加減で、見てて、「なんともはや…」という気持ちになることとも多いのです。その意味で、このあたりのことが理解されるかどうか、ということはすごく不安なのですが、プロテスタント一般に、祈りの手の形にしても、固く結んだ祈りの手しかないのは、本当に残念だと思います。

                   

                   

                  個人的には、以下で紹介するデューラーの祈りの手のような祈り、左右は違っていて、不完全な形でありながら、神に受け入れられるものであることを願いつつ、神に向かって開かれた手で、神の恵みを受け取るように、祈るようなものでありたい、とは思っております。

                   

                  https://www.thoughtco.com/praying-hands-1725186

                   

                  なお、このデューラーの『祈る手』には、非常に美しいお話があるようです。本当かどうかは知りえないことではありますが。英語ですが、詳しくお読みになりたい方は、こちらのリンク https://www.thoughtco.com/praying-hands-1725186 をどうぞ。

                   

                  最後に苦しみの中にともにいてくださるイエスを覚える祈りの言葉をもって、終わりたいと思います。

                  Almighty Father,

                  whose Son was revealed in majesty

                  before he suffered death upon the cross:

                  give us grace to perceive his glory,

                  that we may be strengthened to suffer with him

                  and be changed into his likeness, from glory to glory;

                  who is alive and reigns with you,

                  in the unity of the Holy Spirit,

                  one God, now and for ever.

                   

                  (レントに入る直前週のCollectから)

                   

                   

                  1章は、これで終わりです。次回は、予告通り、「落ち込んだら 正教会司祭の処方箋171」のご紹介をいたしたく。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

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                  コメント:お持ちでない方は、急ぎ入手を。名著です。

                  2018.07.06 Friday

                  工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(5)

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                    さて、今日も、工藤信夫さんの「暴力と人間」からご紹介してまいりたいと思います。さて、これまでの記事は、以下の通りです。

                     

                    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(1)

                     

                    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(2)

                     

                    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(3)

                     

                    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(4)

                     

                    若い人々と新しい価値観

                    若い人々と新しい価値観について、工藤先生は、トゥルニエが期待を寄せていたということをトゥルニエの友人の例に基づきながら説明しつつ、若い人々が革新的なことを成し遂げていくということをご説明しておられます。

                     

                    こうしてトゥルニエは今日の若い世代に新しい価値観を持った人々が出現していることに注目し、彼らに大きな期待を寄せる。(321頁以下)

                     彼らは”力を押下する社会ときっぱりとたもとを分かち、金と力だけではなく、学歴の力とも縁を切った(切りつつある)世代”だというのである。

                     そしてトゥルニエは、友人フリードマンが自分の自由を確保するためにソルボンヌ大学の教授の座や政府機関の重要なポストを断った例を引き合いに出す。

                     もちろんトゥルニエは「人々がこの価値観に到達するために長い間の模索が必要だった」と付言するのも忘れない。

                    (『暴力と人間』 p.58)

                    若いみなさんが変革の力を持ったということをトゥルニエ先生のお友達のフリードマンの例を持ち出すまでもない様には思いました。ほかにも、ごまんと類例がございます。例えば、今視聴率がどのようになっているのかは、あまり気にもかけてはおらないのですが、今年の大河ドラマ『西郷どん』の時代の変革に関与したような主要な登場人物には、年寄りの方は、ほとんど切られ役以外で登場しないのではないでしょうか。

                     

                    実際に、それで大きな役割を果たしたお年寄の方は、お調べいただけるとわかるのですが、ほとんどおられません。ある種、若気の至りで突っ走る若者だらけの暴走集団であった勤王の志士と呼ばれる皆さんや、その内実をよくわかっていたかどうかかなり怪しい尊王攘夷という言葉を旗印に、単に時流に乗って騒いだだけではないかと思いたくなるような、地方(西国諸藩)出身の下級藩士の皆さん方が勢いで明治維新を起こした、という気がしてなりません。後先もあまり考えず…。

                     

                    西郷どん

                     

                    これはキリスト教でもほぼ同じで、だいたいイエスさまだって、若者と呼んでよい存在であったのではないでしょうか。今風の表現をすれば、30過ぎのガテン系風のそこらにごろごろおられる『にいちゃん』のような存在だったに違いなく、よぼよぼの長老のような人物ではなかったはずのように思います。

                     

                    ガテン系の雑誌らしい

                     

                    おひげを蓄えた保守派のラビ(イエス様はこんなではなかったと思うのですが…)

                     

                    キリスト教界隈をもう少し見てみましても、過去のムーブメントを起こした人物は、みなお若い方が多いようです。カトリック改革に大きく貢献したイエズス会を設立した時には、イグナチオ・デ・ロヨラ君は43歳、小学生男子の日本史の教科書におけるアイドルのフランシスコ・ザビエル(ハビエルと発音したと思うのですが)28歳であった様でございます。

                     

                     

                    ロヨラくん

                     

                    ザビエルくん

                     

                     

                    ウェスレー・ブラザーズがメソディストの運動体の母体になるHoly Clubという学内クラブ活動というかサークルを作ったのは、20代後半でございますし、クリスチャントゥディという非常に紛らわしい名前を持つキリスト教系ウェブメディアと時々混乱している方がおられるアメリカの超高名な福音派系雑誌クリスチャニティ・トゥディという雑誌をビリー・グラハム先輩が1956年に創刊した時には、まだ40前のはずであったと記憶してございます。こうやって見ておりますと、みんな若さと勢いで、「やっちゃえ日産」よろしく、「やっちゃえイエズス会」「やっちゃえメソディスト」みたいなノリで、やんちゃした人々が今のキリスト教に大きく影響しているように思えてなりません。

                     


                    やっちゃえ日産のCF

                     

                    そういう意味で言うと、若さと若さゆえの無鉄砲さが世の中を変えていく原動力になりえるというのが、古今東西のある意味での普遍的なことなのだろうなぁ、と思いました。お年寄りの皆様方からのお小言はありがたく小耳にはさみながらも、馬耳東風でスルーできるからこそ、やれる改革ということもあるのもしれないなぁ、と正直思いました。

                     

                    若さゆえの本質をかぎ分ける感受性

                    トゥルニエの文章の引用があった後、工藤信夫さんは、次のように若者参加というか、キリスト者がもう少し、精神的に若くあるべきではないだろうか、ということについて、次のようにお書きでした。

                     

                    この文章を見ると<若さ>というのは素晴らしいものであることに気づく。

                    新しい価値、生き方を直観するからである。そしていつの時代にも若者の感性が、その若さゆえに何か本質をかぎ分けるのかもしれないと思うとき、私たちは次世代の若き人々に大きな期待を抱くと共に、その精神において私たちもいつまでも若くあらねばならないのではないか、と思ったりもする。(同書 pp.60−61)

                    このブログの筆者のミーちゃんはーちゃんは若い学生の皆様と授業という場を介して、お付き合いいたしてしておりますが、学生さんとお付き合いしている中で、いつも思うのは、「若さ」ということは、これらの方々が、基本的には無知である、ということ直結していることを感じます。それと同時に、その無知であることが許されるという特権をお持ちであること(年寄りで無知でしたら、それは、残念な人に過ぎなくなりますから…)を感じます。そして、「若さ」ということは恐れを知らないFearlessということでもあるようですし、「若さ」ということそのものが無謀なことの実現を可能にするように思います。時々、ジジイのミーちゃんはーちゃんからは、怒られたりはするかもしれませんが。まぁ、早い話が、若さゆえに、王様は裸だ、といえる部分があるのではないでしょうか。

                     

                    懐かしのツムラのバスクリンのCM

                     

                     

                    まぁ、精神的に若くあっていただくのは、一向にかまわないのではありますが、とはいえ、人間には年相応というものがあるようにも思うのです。年寄りの暴走族は、痛いだけです。お年寄りの冷や水は、下の動画でご紹介する『団塊ボーイズ』(原題 Wild Hogs)というコメディロードムービーの世界だけにしてほしいと思うのです。

                     

                    団塊ボーイズの予告編

                     

                    今、若づくりのためらしい、美容成分コエンザイムQ10とかプラセンタとか、CMがあちこちで流れマクリングなのですが、年相応の姿というものがあるんじゃないかなぁ、と思っています。豚の胎盤抽出物を美容のためとはいえ、薬に加工して飲むとか、もはや、鬼畜に近い世界ではないでしょうか。おやりになられたい方は、おやりになったらよろしいんですよ。

                     

                    個人的には、もともとが何かがわかれば、お避けになられる方も少なくないんじゃないか、とは思います。プラセンタというから、きれいそうな印象がありますが…。本来は、ヘブライの伝統にしたがえば、地に埋めるべきものだとは思うのです。


                     

                    プラセンタのCM(これ、チャンネルを変えさせる気持ちしか既に起こさない…)

                     

                    ところで、そういえば、昔ブルース・ウィリスとメリル・ストリープが出演していた「とわに美しく」(原タイトル Death Becomes Her)というスプラッタ映画風のコメディがございましたが、今の若見せ美容の世界は、まさにそれもどきの世界だなぁ、と眺めております。もちろん、おやりになられたい方はやられたらよろしい、とは思うのです。個人的には、若く見せるためにそこまでして、というのはお断り申し上げたく思います。40歳代に見える70代とか、気色悪いような気がしてなりません。CMに出演している方には申し訳ないのではありますが…。まぁ、すべての女性の方に「湯ばあばのようにおなり遊ばされては、いかがでしょうか・・・」とは申し上げかねますけれどもが…

                     

                     

                    とわに美しく の予告編

                     

                    湯ばあば  黒柳徹子女史に悪くないか?

                     

                    閑話休題。

                     

                    工藤信夫さんが言いたいことも分からなくはないのではあります。以下の動画で紹介するまともに大学を卒業していないスティーブ・ジョブスがスタンフォード大学というアメリカの名門大学で講演した動画の最後の部分で、締めのことばとして述べた "Stay Foolish, Stay Hungry" という、常識にとらわれない生き方をキリスト教徒はなさるべきなのではないですか、ということをおっしゃりたいのだろう、とは思います。安閑な安全極まりない場所と地位に身を置いて、評論家然として生きるような生き方は本当に、キリスト者としてふさわしいのでしょうか、ということをおっしゃられたいのではないか、ということを思いました。

                     

                    あるいは、世の中を「神の国」に変えていく存在がキリスト者であるとするならば、アップルの初期のCFのように、キリスト者はクレイジーな人たちのはずだ、とおっしゃりたいのではないか、ということを思います。もともと、キリストクレイジーな人たちが、キリスト者、クリスティアノス、クリスチャンなはずなのですから。

                     

                     

                    スティーブ・ジョブスの伝説の卒業式でのスピーチ

                     

                    Appleの伝説のCF

                     

                    上沼昌雄さんのブログ記事から

                    尊敬してやまない上沼昌雄さんの Japanese Bible Theology Ministry というブログがございますが、その中で、ウィークリー黙想とする記事として「新世代クリスチャンは、、、」2018年6月15日(金)と題する以下のような記事がございました。工藤信夫さんがおっしゃりたかったことを、上沼昌雄さんの表現にすると、以下のようなものになったのではないか、と思います。

                     

                     今回の5週間の日本の旅の最後に、かつて親や教会に反発していたが、今はクリスチャン二世として同じような二世に伝道している方と、しばし意見を交換する機会がありました。親や教会に反発している二世は、戻ろうと思っても戻るところがないとあっさり言われました。なるほどと思うと同時に、クリスチャンとしては他の生き方があるのか分からなかったこともあり、衝撃的でした。

                     

                    (中略)

                     

                     ベビーブーマーとミレニアムズのそれぞれのクリスチャンのイメージが異なっていることを統計を下にまとめた本を義樹が紹介してくれました。その詳細に入ることはできないのですが、六つのテーマで新世代クリスチャンが抱いている親たちの教会に対する視点を紹介しています。すなわち伝統的な教会とクリスチャンのことです。

                     

                     1.偽善的である

                     2.信者の獲得だけに焦点を当てている

                     3.同性愛者に蔑視的態度をとる

                     4.過保護である

                     5.余りにも政治的である

                     6.人を裁きやすい

                     

                     これらの視点に対して新世代クリスチャンの姿勢を紹介しています。それについては改めて取り上げてみたいと思いますが、どうして伝統的なキリスト教がそのような姿勢を取ってしまうのかに同世代人として関心があります。伝統的にはこの世を離れて霊の世界に生きて、そこでの理想的なあり方が可能なものとしているのですが、新世代クリスチャンはそこに偽善性を見抜いているのでしょう。

                     

                    すると約一週間後にも、「新世代から見るキリスト教は、、、」と題する続編の記事が出ておりました。

                     

                    前回、新世代クリスチャンから見る六つのテーマを、 統計的にまとめた本を下に紹介いたしました。その本は、 unChristian (by David Kinnaman and Gabe Lyons, Baker Books, 2007) というタイトルのものです。 どのように訳するのが良いのか迷いますが、non- Christianであれば、「クリスチャンでない」 ですみますが、unChristianは、「 真のクリスチャンでない」と意味合いになりそうです。 刺激的なタイトルで、ベストセラーになったようです。

                     

                     最初の2章で統計的な説明をして、 3章から六つのテーマを取り上げて、 伝統的なキリスト教理解と新世代クリスチャンの理解を紹介してい ます。この本の特徴は何と言っても統計に基づいていることです。 単に著者たちの視点や経験ではないのです。 ここでは参考のために、 その六つのテーマについての伝統的と新世代の視点をそのまま紹介 します。

                     

                    1.偽善的である

                    伝統的:クリスチャンは言うことと、行いとが別々である。

                    新世代:クリスチャンは自分たちの至らなさを隠すことがなく、 まずは行動し、その上で話す。

                     

                    2.信者の獲得だけに焦点を当てている

                    伝統的:クリスチャンは本心で生きてなく、 信者の獲得だけに焦点を当てている。

                    新世代:クリスチャンは、 人が神に心底変えられるように交わりと状況を整える。

                     

                    3.同性愛者に蔑視的態度をとる

                    伝統的: クリスチャンはゲイとレスビアンの同性愛者に蔑視的態度を示す。

                    新世代:クリスチャンはすべての人に、 生活スタイルにかかわらず、同情と愛を示す。

                     

                    4.過保護である

                    伝統的:クリスチャンは退屈で、知的でもなく、旧態依然として、 現実からかけ離れている。

                    新世代:クリスチャンは現実に関わり、必要な情報を身に着けて、 人々が直面する問題に洗練された方向を提供する。

                     

                    5.余りにも政治的である

                    伝統的:クリスチャンはしばし政治的なことに動かられ、 右寄りの政策を応援する。

                    新世代:クリスチャンであるとは、人を尊敬し、聖書的に考え、 複雑な問題に解決を見いだすことで特徴付けられる。

                     

                    6.人を裁きやすい

                    伝統的:クリスチャンは自負心が強く、 すぐに人のあら探しを始める。

                    新世代:クリスチャンは人の良い点を見つけ、 キリストに従う者になるための可能性を認めることで、 恵みを示していく。

                     

                     これはアメリカの教会の取り組みですが、 すでに真剣になされていることが分かります。 子供たちの知り合いで、信仰は持っていても、 親の信仰スタイルを拒否しているケースを知っていますので納得で きます。それでも二世たちは苦しんでいます。 親に受け入れられないとうめいています。

                     

                     日本でもクリスチャン二世たちに対する取り組みがなされているこ とを、今回の旅の最後で知ることになりました。 戻りたくても戻るところがないという彼らのうめきが聞こえてきま す。 少なくとも彼らの居場所と生き方を認めてあげることはできます。 そのように取り組んでいる教会もあります。

                     

                     伝統的なキリスト教がどうして偽善的で、人を裁きやすく、 自分たちの殻の中に閉じこもってしまうのかは、 前回も書いたのですが、 同世代として放っておくことができません。 何がそのようにさせてしまっているのか、 聖書理解にまで遡って考えさせられます。 その意味での責任を感じます。転じて、新世代クリスチャンがもたらす聖書理解に敏感でありたいと願います。

                     

                    まさに、上沼さんの表現の中にあった「新世代クリスチャンがもたらす聖書理解に敏感でありたいと願います」という認識に、高齢化し始め、動脈硬化が激しくなりかけている日本のキリスト教会が、どこまでこの認識に立てるか、ということを工藤さんは本書の第1章でわれわれにお問いになったのではないか、と思うのです。

                     

                    そして、上沼さんは、「伝統的なキリスト教がどうして偽善的で、人を裁きやすく、 自分たちの殻の中に閉じこもってしまうのかは、 前回も書いたのですが、 同世代として放っておくことができません」とお書きですが、案外、ガチ勢の伝統的なキリスト教(正教会、カトリック、聖公会)のほうが、あまりに偽善的にもならず(なぜかというと、これらの教派では、毎週、礼拝の前に「私たちは罪びとです。どうぞ神様、ご慈悲によって、御子のゆえにお許しを・・・」、ってお祈りを準備の祈りとしてしますから、偽善的にはなりようがない部分がありますし…)、自分たちの殻にこもってない活動が割と自由にできるように思います。その意味で、ここでの「伝統的なキリスト教」は、より正確に言うと、「(福音派における)伝統的なキリスト教」と表現する方が、よろしいのではないか、と思うのですが…

                     

                    例えば、伝統教派に近いという印象を持っております、東京のルーテル教会には、ロッケン牧師の関野さんという方がおられるのですが、とてもとても殻の中に閉じこもっておられる方ではないようです。とはいえ、ジィさまになったミーちゃんはーちゃんは、この方の真似は、到底できないなぁ、と思っていますが。えらいなぁ、と思って拝見いたしてはおりますが。

                     

                    牧師ロックスの関野牧師(ルーテル派の牧師さん)

                    画像は、https://ameblo.jp/callaghan/entry-12380092912.html より

                     

                    今の粋な若衆気質

                    ところで、先月の本ブログの人気シリーズ、

                     

                    クリスチャンn世代の若者からのお願い(1) 勝手に期待しないで・・・ その1

                    クリスチャンn世代の若者からのお願い(4) 勝手に期待しないで・・・ その4

                     

                    でもご紹介しましたように、お若い方は、お若い方の感性で生きておられ、他の方々がご敷設になられたかのようなレールの上を唯々諾々と歩まないのが、これまでこの投稿記事の中でご紹介した若者の姿であったわけです。そう思ってある日の新聞を読んでおりますと、2018年7月2日月曜日 日本経済新聞 オピニオンページの「核心」 というページで、『経営を問うデジタル化』(解説委員長 原田亮介)という記事がございました。そこで目に留まったのが以下の記述です。

                     

                    日本のアクセンチュアは3年で社員が2倍に増え、1万人を超えた。「今の若者のやる気の源は、自由に仕事ができること、自分が成長できること」。一度やめてもまた戻ってくればいい。「人材輩出企業と言われても結構」と割り切っている。

                     

                    アクセンチュア、というのは企業コンサルでは超有名企業です。コンサル会社の社員の方が1万人超というのも大変驚くべき数字なのですが、それよりも、アクセンチュアの関係者の「今の若者のやる気の源は、自由に仕事ができること、自分が成長できること」という趣旨のご発言でした。今、教会は、こういう若者を相手にしている、いや、しなければならないのであって、お年寄りの言辞に、素直に唯々諾々としたがってくれない人が、勢いのいい、いわゆるイキのいい人材なのだ、ということをどの程度、ご認識なのだろうか、と思うと、この記事を読みながら、暗澹たる気持ちになりました。

                     

                    江戸の粋なお兄さん

                    https://www.fashion-headline.com/article/7925/81098 から

                     

                    そして、それと同時に、「一度やめてもまた戻ってくればいい。「人材輩出企業と言われても結構」と割り切っている」という鷹揚さを教会が示せるかどうかが問われているように思うのです。「一度やめてもまた戻ってくればいい…」、この表現は、神の我々への変わらぬ呼びかけではないでしょうか。「わが子よ、戻って来い。イスラエルよ、わが元に戻れ」。神のように、教会は「若者」に対して、言っているでしょうか。それとも、「この教会の枠から出るな、何があっても」と言ってはいないでしょうか。

                     

                    そして、「人材輩出組織と言われても結構」と構えていられる教会がどの程度日本にあるか、ということを思います時、かなり厳しいのではないかなぁ、と思いました。以下の祈りを覚えながら…

                     

                     

                    O GOD,

                    the Creator and Preserver of all mankind,

                    we humbly beseech thee for all sorts and conditions of men;

                    that thou wouldest be pleased to make thy ways known unto them,

                    thy saving health unto all nations.

                     

                    Grant to all in authority wisdom and strength to know and to do thy will.

                    Fill them with the love of truth and righteousness;

                    and make them ever mindful of their calling to serve the people in thy fear.

                     

                    MORE especially we pray for thy holy Church universal.

                    Send down upon our Bishops, and other Clergy,

                    and upon the Congregations committed to their charge,

                    the healthful Spirit of thy grace;

                    and, that they may truly please thee,

                    pour upon them the continual dew of thy blessing,

                    that thy Church may be so guided and governed by thy good Spirit,

                    that all who profess and call themselves Christians may be led into the way of truth,

                    and hold the faith in unity of spirit,

                    in the bond of peace,

                    and in righteousness of life.

                     

                    AND we commend to thy fatherly goodness all those who are any ways afflicted,

                    or distressed, in mind, body, or estate.

                     

                    Remember in pity such as are this day destitute, homeless,

                    or forgotten of their fellow-men.

                     

                    Bless the congregation of thy poor.

                    Uplift those who are cast down.

                    Mightily befriend innocent sufferers,

                    and sanctify to them the endurance of their wrongs.

                     

                    Cheer with hope all discouraged and unhappy people,

                    and by thy heavenly grace preserve from falling those whose poverty tempteth them to sin;

                    though they be troubled on every side,

                    suffer them not to be distressed;

                    though they be perplexed,

                    save them from despair.

                     

                    Pardon those who have done or wish us evil,

                    and give them repentance and better minds.

                     

                    Comfort and succour all prisoners,

                    especially those who are condemned to die.

                     

                    Give them a right understanding of themselves,

                    and of thy promises;

                    that, trusting wholly in thy mercy,

                    they may not place their confidence anywhere but in thee.

                     

                    Relieve the distressed,

                    protect the innocent,

                    awaken the guilty;

                    and forasmuch as thou alone bringest light out of darkness,

                    and good out of evil,

                    grant to these thy servants,

                    that by the power of thy Holy Spirit they may be set free from the chains of sin,

                    and may be brought to newness of life.
                     

                    (This version of Morning Prayer - commonly called The Sedona Rite - is in accordance with the rubrics of the 1928 Book of Common Prayer.)

                     

                    次回へと続く

                     

                     

                     

                     

                     

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                    コメント:よろしければどうぞ

                    2018.07.04 Wednesday

                    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(4)

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                      Pocket

                       

                      さて、これまでの3回の連載をしてきましたが、過去記事へのリンクは、以下の通りです。

                       

                       

                      工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(1)

                       

                      工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(2)

                       

                      工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(3)

                       

                      さて、今日は、工藤信夫さんの牧師養成上の課題キリスト教会の部分について、書いてみたいと思います。

                       

                      牧師の養成上の問題

                      ウィリアム・バークレーの『希望と信頼に生きる』という本の引用があった後、工藤信夫さんは次のように書きます。

                       

                      ここで注目すべき一文は、「今や、力の獲得が問題なのではない。力の使い方これが問題なのである」と言って、バークレーは、力を所有する人々の”性格”と”品性”を重要な問題と考えていることである。そして、この二つに共通するのは権力を行使する人の”人間性"である。とりわけ、トゥルニエの次の指摘は至言である。

                       「つまり力の行使は本来、人に高い精神性・成熟性を要求するのであるが、現実にこの抑制が効かない」(同書(『暴力と人間』と思われるがはっきりしない)p.245)

                       私はこの点に関して『これからのキリスト教』(いのちのことば社 2005年)のなかで”牧会者の資質”に加えて日本の神学校の問題点を取り上げた。

                       つまり日本の神学校教育においては、その入学に際して受験者の”人格的要素”とか”人間的資質”が問われることが少なくないのではないだろうか。

                      記号でさえ、その入社において、職業適性程度の簡単な心理テストを志向するというのに…(pp.55-56)

                       

                      これを読んで、考え込んでしまいました。現実のプロテスタント系の教団の各派立の神学校の実情に近いところを見聞きすることが多くなってきて、そこで知りえたことと照らし合わせてみたからです。そして、工藤信夫さん、現実、ご存知なさすぎ、と思ってしまったのです。

                       

                      現実の神学校や聖書学校と呼ばれる学校は、どこもかしこも定員割れ状態、若い人は数が少なく、どう見ても、早期退職されたと思しきおじさま方が案外多かったり、若い人がいたとしても、日本の高等教育機関では箸にも棒にも引っかからず、仕方なく、神学校と呼ばれる学校でお勉強しておられるのではございませんか、と思いたくなる方もお見かけします。また、いわゆる名門私立ミッション大学の神学部は、本格的に神学を学ぼうと思って熱意を持ってこられる方ばかりではなく、文学部に不合格だったから、大学名に惹かれて、一番入りやすい神学部を選択した、という学生が一定数おられたり…という惨状なのではないでしょうか。そして、神学部系は不人気学部なので、文学部に吸収合併されて一学科となってればまだいいほうで、教室単位になっていたり、というところは案外多いようです。

                       

                      カトリックでも、日本人司祭志願者は数が少なく、司祭は、フィリピン、ベトナム系の方にガーナ人とかの方も結構おられますし、シスターにいたっては、日本人は、おばさまと呼ぶよりは、おばあさまとお呼びしたいようなシスター方が多数おられ、少女漫画の世界に出てくる、お若い日本人シスターの方にはお目にかかったことがとんとない…というのが現実であったりいたします。シスターのうち、お若い方は、フィリピン系とかの方が多い模様です。結構、ミーちゃんはーちゃんは、大阪地区のカトリック系のイベントにも出没しておりますので、この辺の感覚が実情なのではないでしょうか。

                       

                      花ゆめコミックスでシスターでGoogle検索したら、出てきた画像

                       

                      お知りあいの良い司祭の方にお伺いしたところによると、司祭希望者の中には、カトリック系の有名大学(その学校には、物理を教える司祭とか、日本史を教えている司祭とかがおられる学校ですが)の教員になりたくて、司祭志願をする人もおられるそうです。とはいえ、哲学を4年、神学3年修めることが求められますし、そういうある種の野心を持っている場合には、地方のカトリックの教育機関の教員をさせるなどして、徹底的にその献身の純粋性とその姿勢が問われる、ということをお伺いし、スクリーニングがすごい、と思ったものでした。

                       

                      世俗の大学での状況

                      ところで、世俗大学をとって考えてみましても、入試で選抜できなくなっている大学(名前が漢字でかけるだけで入学できるのではないか疑惑が取り沙汰されている、いわゆるFランク大学)では、うーん、この人たち、大学でお勉強したいのだろうか、と思われる人々を数多くお見かけします。

                       

                      まぁ、定員充足しておかないと、理事会から、教授会は文句を言われますし、私立大学の場合、理事会は文部科学省から、定員充足率が低いといろいろと教育的指導を賜われるようです。ありがたいことに。こうなると、選んでいる場合ではなく、来るもの拒まず、ということで、誰でも合格できてしまうという一種夢のような世界が拡がるわけですが、大学で教えている側からすると、これで、どうやって、大学教育を受けるの、という方をお見かけして、士気が下がるというのか、やる気が失せるというのか、勤労意欲が減衰する状況に陥ります。分数ができない大学生とか、そんなに珍しくもなくなりました。

                       

                      Eランク大学で非常勤教員をしてみたときには、あまりにもひどいので、1年で、非常勤講師をやめさせていただきました。また、今大学院には、このタイプのEランク大学からも受験してこられますし、大学院も定員割れてしている様な組織では、よほど課題がある方以外には、お受け入れせざるを得ず、エクセルで関数機能を触ったことがないのに、表計算アプリケーションの操作が問題なくできますといけしゃあしゃあというとか、ワードプロセッサでの文書の中で、フォントが和文の一文の中に複数混在していても気にしないとか、コピーペーストでレポートを作成しても何も感じない(なぜわかるかというと、PDFファイルをコピーペーストすると文字がおかしくなるのだけれども、それを全く気にせず張り付けたまま…)とか、表面上、とりあえずやった様に見えるけど、ちょっと突っ込んでみると、全く理解できていないとか、もう、教育って何なのだろう、と思いながら、日々を過ごしておられる先生方は、案外多いのではないでしょうか。

                       

                      こういう学生には単位を差し上げないことが基本的に望ましいとは思っているのですが、実際には、指導教員の方からお願いが入ったり、いろいろありまして、仕方なく、単位を差し上げる、ということも時に行わざるを得ない場合があるのが、実際ではないか、と思っております。

                       

                      若き日に私に哲学の手ほどきをしてくださった法政大学の故湯川先生のように、

                       

                      「あなたのような方に、卒業にこの単位が必要だからといって、単位を差し上げて、卒業させることにご協力することで、日本の産業界の水準をこれ以上下げたくはございませんので、単位を差し上げることは致しません」

                      といってみたいものだ、と思っています。

                       

                      神学校入学者の状況

                      世俗の大学でこのような、入試のスクリーニングが効いていない状態ですから、定員割れ、応募者なしが続いている日本の神学校、聖書学校では、「受験者の”人格的要素”とか”人間的資質”」等は問うている場合、問える状況ではないのです。来てくれるだけで、ありがたいという神学校、聖書学校関係者は多いのではないか、と思うのです。

                       

                      ある巡回伝道者の方をお招きして、前にいた教会(プリマス・ブラザレン系のキリスト集会)でお話をお願いした時のことですが、その直前に大阪府下の神学校で教えたときに、旧約時代の比較的有名な人物の家族関係について聞いたところ、その学校の神学生と呼ばれる方々があまりにもご存じなくて驚かれたのか、そのプリマス・ブラザレン系の教会で聞いたところ、全員が知っていて、違う意味で驚かれたた、という印象的な出来事がございましたが、日曜学校で教える程度のことも知らないままの献身者が、ある神学校ではどうも数多くみられる様です。

                       

                      こうなると、もはや、「受験者の”人格的要素”とか”人間的資質”」を問うということは、太平洋を手漕ぎボートで横断しようというようなものの様な気がします。不可能ではないですけれども、相当の難事業ではないか、と思うのです。

                       

                      そのような方が、短いところだと2年、長いところで3年強で、神学校を卒業し、牧師となられるわけですから、カトリックの司祭育成課程でのスクリーニングと比べれば、もう、何と申し上げるべきか、と彼我の差を感じざるを得ません。

                       

                      力を行使をめぐる問題について

                      さて、トゥルニエさんは「力の行使は本来、人に高い精神性・成熟性を要求するのであるが、現実にこの抑制が効かない」とお書きの模様ですが、力の講師と未熟性の問題ということは、日本の歴史、世界の歴史を見れば、非常に明らかではないか、と思います。いわゆる悪政、ということや未熟な人々が篇に力を持つとろくなことが起きないことは、論を待ちません。旧大日本帝国帝国陸海軍部上層でも、下層部でも人々は経験することになります。全員が全員高い精神性・成熟性がなかった、という一般化したいい加減な議論に与する気は毛頭ございませんが。

                       

                      であるのだとしたら、キリスト者はどうすべきなのでしょうか。パウロはテモテに向けて次のように書いています。

                       

                      【口語訳聖書】テモテの手紙 第1

                       2:1 そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。
                       2:2 それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。
                       2:3 これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。

                       

                      もちろん、これは、世俗の権力者についてのことですが、それは何より、教会内でもそうではないか、と思います。教会内で力を持たざるを得ない人々が、成熟に向かって歩み、高い精神性を持つように、祈るべきだと思うのです。今、アングリカンのチャペルに通う中で、これはいいなぁ、と思う式文に次のような教会内で力を持つ人々に対しての祈りがあります。細字は、司祭か信徒代表がいい、太字の部分 Hear us, O Christ. は全員が言います。

                      Enlighten  your  bishops,  priests  and  deacons  (especially  _______)
                      with knowledge and understanding, that by their teaching and
                      their lives they may proclaim your word.

                       

                      Hear us, O Christ.

                       

                      教会の説明責任と透明性

                      以下の動画は、Grande Prairieカウンティというアメリカの地方自治体のOpen Dataをめぐる動画ですが、この動画が非常にわかりやすいので、載せておきます。英語でしか表示されず、字幕がないのは申し訳ないのですが、オープン・データ(自治体などが持つデータを市民に公開すること)は、市民が自治体とコミュニティに参加していくうえで、基礎であり、組織の透明性と呼ばれるトランスペアレンシーと、組織の説明責任(アカウンタビリティ)とのために必要であるということを述べています。

                       

                      日本語でわからないではないか、とお嘆きの貴兄・貴姉には、動画を再生した時に表示される右下の歯車マークをクリックし、まず、字幕の文字のところをクリックし、英語(自動生成)を選び、その後、自動翻訳の文字部分をクリックし、表示される言語の中から、最下部にある日本語をクリックすると、まぁまぁ、内容が理解できる程度の日本語字幕になります。ありがたい時代になりました。

                       

                      Grande PrairieカウンティのOpenDataについての動画

                       

                      今、どのような組織でも、この、説明責任と透明性はステイクホルダーStake Holderと呼ばれる、その組織と取引をしたり、その組織を形成している関係者が求められている時代になっているわけです。教会も例外ではありません。特に、訴訟社会の米国(それが必ずしも良いとは思っていませんが)では、このことは重要になっていますし、日本でも、市民オンブズマンの皆様などが典型的でいらっしゃいますが、透明性や説明責任といったことを比較的熱心に問題にされるようです。

                       

                      問題発生を防ぐうえで必要だという論理構成は理解できるのですが、これ、あまりにガチガチやりますと、現場は面倒だけが増える感覚になるように思います。そして、余分な書類仕事が増え、本業に注力ができない、というようなこともまま起こります。特にこの10年、思い付きで様々な制度化がなされた結果、書類作成仕事が非常に増えてきて、もうちょっと、本来業務をさせてほしい、と思うことが多くなったなぁ、とは思っております。時代なのだと思って、あきらめて作成することにしておりますが。

                       

                      さて、このあたりの牧師の不祥事、問題行動について、工藤信夫さんは、次のように書きます。

                       

                      また近年企業責任の問われる時代に突入して、日本社会でもようやく事件・事故の監視機関や第三者委員会など設定され”労務管理”つまり働く人を指導する立場にある人の管理能力が問われるのだが、日本の宗教界は相も変わらず事なかれ主義で、当事者である牧師や教職の加害責任を問う場もなければ世に問う”任命責任”も皆無であるに違いない。(同書 p.56)


                      これを読んだ時に、いくつかの牧師と呼ばれる人々の不祥事事件のことが思い浮かびました。静的不品行事件は、カトリックでもありますし、それで多大な賠償金の支払い責任をアメリカのカトリック教会は抱えております。これも、自浄作用が聞いたのではなく、一般のマスコミが調査報道で取り上げ、それでようやく内部調査がきちんと行われるようになったという部分もあります。

                       

                      「スポットライト 世紀のスクープ」という司祭のレイプ事件を暴いた史実に基づく映画

                       

                       

                      「ダウト あるカトリック学校で」カトリック学校での司祭のレイプ事件関連をモティーフとした映画

                       

                      日本でも、アエラが報じた事件だけではなく、それ以外にも、裁判になった事例を含め、多数あります。私が最近頻繁に通っているアングリカンの日本側の対応組織の日本聖公会の京都教区でも、ろくでもない事件が起きています。司祭教育、司祭育成で細心の注意を払っても、結果としては、牧師の不品行は起きる、というのは避けがたいことなのだろうと思います。

                       

                      それはそれで、司祭も人間であり、神ではない存在であることを認識をするためには、意味があるのかもしれませんが、そのためだけに犠牲者が出るのはどうか、とも思います。

                       

                      主教制度をとっていて、教団制度がきちんとしている教会であれば、牧師が問題行動を起こしても、それに対するそれなりの対応手段をご用意の教会はあるとは思いますが、友人の口の悪いMさんの表現によれば、もう浜の真砂のようにバラバラになっているプロテスタント教会では、バラバラなので、対応も取りがたく、また、よその教会のことには口を出さない牧師業界の不文律がプロテスタント教会には、存在するのかどうかは良く存じませんが(たぶん、各個教会主義を言うなら基本的にこの不文律が存在するはず)、問題行動を起こす牧師に対する対応策はほとんど絶望的にない、ということになり、悲惨な目に合わなかったのは、「神の哀れみによる」としか言いようがなくなります。

                       

                      日本のキリスト教メディアも、このような教会の問題行動等の報道使命もあるはずなのですが、実際には、この種の問題行動がキリスト教メディアが出発点となって、日本のキリスト教世界に知られることになることはまずまれで、実際には、大手新聞社や大手テレビ局の報道が先行して、それをキリスト教メディアが追う、ということが一般的な形と思います。

                       

                      わからなくはないのです。キリスト教メディアは広告主が、基本的にキリスト教界隈の人々ですから、それに対して批判的なことは書けない。できて、広告掲載を断る程度のことしかできないのです。先日行われた対談会に参加されたある牧師の方が、2018年6月30日にこんなことを書いておられました。

                       

                      小川寛大×松谷信司『宗教問題』読者の集いに参加。宗教におけるジャーナリズムの必要性について、大いに学ばせて頂く。左派、右派のジャーナリストによる妥協なき対談であった。


                      仏教諸派の関係者やジャーナリスト、カトリックやプロテスタント、ムスリム、そしておそらく無宗教の方など、多様な背景の方々が参加しておられた。皆さんそれぞれの文脈のなかで、宗教における諸問題とその解明について想いを馳せておられたと思う。


                      宗教に限らず機関紙というのはその業界内にスポンサーを持つので、業界の不祥事を暴くには相当な力量が要求されるということを学んだ。そして業界におもねっていいことばかり書いても結局は読み物として退屈になり、その肝心かなめの業界内部での売り上げが落ち込んでしまうことも。

                       

                      まさに、この問題なのだと思います。「宗教に限らず機関紙というのはその業界内にスポンサーを持つので、業界の不祥事を暴くには相当な力量が要求される」これに尽きると思います。

                       

                      これは、宗教者以外のプロフェッションでも同様で、医療過誤裁判が、基本的に大変なのは、同僚の意思を窮地に陥らせることを医療関係者がやりにくい、という問題でもあります。実際に素人である患者が、医療過誤を訴えるのは、ハイヒールで、エベレスト登頂を目指すようなものかもしれません。

                       

                      医療過誤の問題を扱った「評決」という名画

                       

                      医療にしても、宗教業界にしても、このような状態ですから一般の信徒にとっては、仮に教会において問題行動が起きていて、被害が明確な場合で、教会内で解決がつかない場合には、最後の手段である法的救済の手段に出るしかないのです。たとえ、パウロが

                      【口語訳聖書】ローマ人への手紙
                      8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。

                      とか

                      【口語訳聖書】コリント人への手紙 第1
                       6:1 あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。
                       6:2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。

                      と書いていようとも、聖徒の間である教会内で、相互対応ができ、何らかの救済ができないのであれば、正しくない者であっても何であっても、救済を求めて、世俗の法的救済を与える機関に訴え出るしかないと思うのですが、それは間違いなのでしょうか。その意味で、教会の責任は重いはずのですけれども、その責任を果たしているかどうかは、議論の余地があるようにと思います。

                       

                      この投稿を締めくくるにあたり、次のように祈りたいと思います。

                       

                      Enlighten  your  bishops,  priests, pastors, representatives  and  deacons 
                      with knowledge and understanding, that by their teaching and
                      their lives they may proclaim your word.

                       

                      Lord hear our prayer.

                       

                       

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                      コメント:大変よろしい、と思います。

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