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その昔、世俗の仕事で、産業組織論とか、企業の組織論とか、企業内コミュニケーションとか、地域とコミュニケーションなどの分野に関心があったこともあり、ゲーム理論をある程度まともに研究したことがある。これがある程度ではあるが、教会と新来会者や教会員との関係を考えるときに有効なのではないか、と思うことが時にある。とりわけ、カルト化した教会とそこの新来会者との関係の分析には有効ではないか、と思う。

ゲーム理論って?
すごく単純化していくと、ゲーム理論とは、ある個人の行動により、他者の行動(社会を含む)がどう変わるのか、ということを考え、世の中で生まれる人々の行動がどのようなものになるのかを考える理論であり、経済学や産業組織論、行動科学、コミュニケーション論など様々の分野で用いられる研究である。

人と人の言動が、他人にどのような影響を与えるのか、ということをある程度(すべてとは言っていない)説明できるというところがこの理論というかモデルの一番いいところであるが、この理論には、基本的にある行動の結果には必ず評価可能な指標があるはずであり、それに従って合理的な人間は行動するはずであるという検証されていない仮定があり、この評価指標をどう考えるか、どう設定するかによって、実際に発生すると考えられる行動がある変わってしまうという問題はあるようには思う。その意味で、評価指標の設定はゲーム理論にとっては極めて重要だということになる。
 たとえば、通常の行動パターンを考えるならば、自己の経済的利益の最大化を考えて行動するということが想定されるが、社会の評価の方が、経済的利益よりも高い評価を持つというようなイスラム社会では、通常の経済行動を想定する限りは発生しないような名誉を重視した行動がとられることがあり(やたらと人をもてなすために大盤振る舞いするとか、 名誉殺人とか )、問題として定式化するときにどこまでを含めて考えるのか、ということが案外重要になるのである。

レモン市場の分析
このゲーム理論の経済学分野での有名な事例の一つにレモン(中古自動車などの書いてから品質が見えない市場)の例がある。これは、情報の非対称性がもたらす経済的な課題の例として非常に有名である。レモン市場については、こちらをご覧いただきたい(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A2%E3%83%B3%E5%B8%82%E5%A0%B4)

キリスト教とレモン市場
 キリスト教も、基本的に日本においては、レモン市場と同じ構造を持っているのではないか、と思うのだ。

というのは、米国においては、深井(2013)の『神学の起源 社会における機能』や森本(2015)の『反知性主義』で示されているように、キリスト教が国教会をもたいないという米国憲法修正第1条(通常は信教の自由と理解されているが、一般に日本で言う信教の自由とは意味が違う)により、米国では教会と信徒の関係が市場化(サプライヤーとしての教会、デマンドサイドとしての信徒という構造が発生)し、信徒側が教会を選択する社会構造になっている。

そして、「靴を履いたバプティストとしてのメソディスト」というような言葉に代表されるように、ある程度社会階層と信仰集団のグループの対応関係がついているのが米国であり、ある程度の教会の雰囲気の種別の認識がなされているところはある。Racheal Held Evansの本では、愛餐式の食事による違いが出ていて、サザン・バプティストのチリビーンズがどうのこうのというような記述が出てくる。なお、日本では、関東のカレー、関西のおうどんという地域差があることは認識されている部分もないわけではないが、教派的に愛餐式に出てくる食事の違いがあるのだろうか、と調査してみたい気持ちにはなっている。

Chilli Beans (なお、ミーちゃんはーちゃんの好物の一つである)

余談に行ってしまったが、アメリカでは、教会群に関する一般的な共通理解がある程度普及しているし、様々の教会の主張をメディアなどにも取り上げられること (キリスト教親イスラエル派などのことが多いので、これまた誤った理解を生みやすいのであるが) もあり、大体教会のニュアンスとその主要な主張はこのようなものが多い、というような認識が広く持たれているように思う。

しかし、多くの日本の方の場合、キリスト教には、カトリック教会と非カトリックとしてのプロテスタント(宗教改革くらいは中学高校で教えるので)に二分される(正教会はガン無視体系であるのがなんともだが…)というくらいの理解しかなく、普通の工事業者の人が教会に仕事でいった場合、会話の糸口として、ここは、プロテスタントなのか、カトリックなのか、という質問が入る程度である。牧師と神父の混乱は、普通の人にはつかないことも多い。ましてや、結婚式場教会というものもあるので、結婚式場教会と普通の教会との区別はつかないし、結婚式場教会は、象徴をうまくある程度消化しているので、プロテスタント教会の在る教派群と比べると、よほど教会らしい建物のなりをし、雰囲気を醸しだしていることは少なくない。
 つまり、日本人は宗教音痴(というよりは、あまり気にしていない、という方が正確だろうが)というところがあり、その中でも、キリスト教に対する造詣が深くない、という意味でキリスト教は多くの人々に取って未知の領域だろうと思う。『キリスト教のリアル』のように、それを牧師や神父視点で考えるとどうか、とうい視点で書かれた書物もあるが、それとて、キリスト教徒向けには「あるある」チックで面白くても、キリスト教の世界の全貌を示す世界地図というような感じにはできない、ならないほど、個別事例の積み上げの側面が強いような気がする。その意味で、暗黒大陸と呼ばれた時代のアフリカ大陸の地図の様な状態が一般の日本人の多くの理解であり、「聖書を大切にしていて、キリスト、ないしイエスという人物の主張というか思想というかを大事にしている(ある種倫理的に生きようとしている)人たちの集合体」を総称してキリスト教徒と呼んでいる感じは否めない。あながち間違いではないが、正確でもないようには思う。

 

古代ヨーロッパと関係の深かった北アフリカやナイル川流域は比較的性格にかかれているが、あとは暗黒大陸状態のトレミー図法によるアフリカの地図
https://anguscarroll.wordpress.com/2010/06/10/into-africa-the-search-for-the-source-of-the-nile/ より



最近のアフリカの地図  http://www.nationsonline.org/oneworld/africa_map.htm より


その社会の中で、どの教会も我こそは「正統的」とご主張してくださるので、普通の日本人にとっては、一体何が何だか、という 状況が多くの非キリスト教徒の日本にお住いの方々の間では生まれているのではないか、と思うのである。

まぁ、何事にも分析の精度、縮尺、スケール感の問題 (どの程度のスケールで物事を見るのかという問題) はあるので、何とも言えないところであるが、どう地図を描くのか、何のために描くのか、ということによって、地図の描き方は変わってくるし、本や雑誌、書籍でも、何を目的として描くのかによって、そこで描かれる内容は変わってくるように思われる。これは、人間がすべての問題を均等に評価できないという限界ともかかわっていることであると思う。ある面、これは仕方がないと思っている。

レモン市場としての教会と日本人との関係
さて、これまで述べてきたように、日本人には、キリスト教の全体像がつかめておらず(日本人キリスト者であっても、全体像がある程度語られる人は極めて少ないし、教会で一応指導的な立場にあると考えることができるかもしれない牧師や神父の方がそれができるかといわれたら、かなり怪しい場合もあるとだけ申し上げておこう)、キリスト教がどのようなものであるかが十分知られていないという状況下に現在もあると考える方が普通である。無論、いくつかの基本的な本を読めば、それなりに理解できることは確かではあるが、いくつかの本を読み、幅広いキリスト教の理解を拡げたところで、それから得られるメリットがほとんど何もないことが多い(テレビや映画、書籍などの翻訳に取り組む場合とかでは重要にあることがあるが、映画とか海外ドラマのキリスト教関係の用語の翻訳は目を覆いたくなるものが多いことも確か)ので、この種のコストを払ってまで、全体像をとらえようとする趣味人はあまりいないように思う。なお、ミーちゃんはーちゃんは、趣味人であるので、趣味として、そして、アマチュアとしてこれをやっているが、こういう人はほとんどいない、らしい。

レモン市場の特徴としての情報の非対称性
レモン市場は、提供側(サプライサイド)と需要側(デマンドサイド)の情報の非対称性がその特徴であり、一般に提供側(玄人側)には潤沢に情報があり、需要側(素人側)には潤沢に情報がなく、その結果として、需要側(素人側)がろくでもないことに出会う可能性が生まれやすい、ということである。

この情報の非対称性の例で、よくあるのは、飛び込み営業型のリフォーム業者などである。飛び込み営業型のリフォーム業者の場合、相手の技術力を受容社側である利用者は見極めることができない。特に高齢者の場合、孫世代の若い青年の営業担当者や工事担当者が持ち込んできた企画に対して、工事の申し出を断るなどの強い態度に出るとかわいそう(そもそも、工事を業者に発注する以上、発注者と工事事業者は本来、対等なわけだが、そこに私情を持ち込み、一生懸命やってるから、断るのはかわいそう、と思う方がそもそも経済学的にはおかしい、非合理的な行動になるとは思うのだが、人は合理的な行動だけをとらないことの例の一つの例といえるかもしれない)と不幸にして思い込み、悪質なリフォーム業者の収益源にされてしまう人々もいる。なお、リフォーム業者のすべてが悪質なのではなく、悪質な業者がリフォーム業界にいて、飛び込みによるヒットエンドラン方式で不当な利益を得ようとする、そういうまともでない業者がいるということでしかないので、注意されたい。このような被害にあった場合、消費者生活センターに至急ご相談されることをお勧めする。

その業界に関する知識がないから、普通のまっとうなビジネスをしている業者であるのか、悪質な業者であるのかの区別が一見つかない、ということが起きている事例である。教会にしても類似例は起きる。よほど知識がないと、教会と名乗られた瞬間、人々は明治期の高名なキリスト教著述家の印象から、「倫理的に生きている信仰者」というポジティブな色眼鏡でキリスト者やキリスト教会を見てしまい、そこについぞカルト的なものがあるとは思わずに出あってしまうことがある。最近も、キリスト教系のカルトなどの存在が、マスコミで報道されることもあり、若干はその辺の認識は広がっていないわけではない。

一般化による理解の劣化
とはいえ、オウム真理教やISIS団の皆様がなしてくださったことによって、一般に穏健で、そう過激でない信仰も十羽ひとからげにまとめられて危険視されるというような負の効果も出ているように思うが、この辺も、情報が情報を出す側である宗教者の側と、情報を受け取る側の一般の人々との間で非対称であるが故の不幸であるとは思う。さらに言えば、位置を持って住もそうだと思いこむ一般化の危険性の問題も関係しているのではあるが。

地図も、全部のことを細かく書けないので、汎化とか、一般化ということが行われる。例えば、地図の海岸線は、東京湾平均海面の潮位を用いて書くが、大嵐の時には、東京湾平均海面の潮位では全く役立たない。地図が違っているというクレームがつく場合の多くは、地図のサイズ感によって、位置の絶対的制度の高さが、それぞれ違うので、地図が違って見えるというのはまま起きることであり、これは、表現の劣化を容認しないと、まとまって地図が書けないということから発生している。

教会における情報格差
その意味で、情報やサービスの提供側としての教会と情報やサービスの受容側としての教会との間に大きな情報格差があり、それが外見や短期間での情報交換で判別できないことが教会を巡る問題で生まれることになりかねない。

さらに言えば、参加者側の意図などに関する情報を教会側は持ちえず、その点でも情報の非対称性が生まれるので、ある面で言うと新来会者に関して、事情聴取の様な行動をとるキリスト教会側の態度も分からなくはない。実際、かなり怪しいキリスト教系新興宗教集団が教会に紛れ込み、当初は行動をとらず(スパイ用語では、スリーパー・エイジェント Sleeper Agent というらしい)、一定期間が経過したあと、突然活動を開始し、教会を乗っ取るというような事例もあるらしい。この辺も、情報の非対称性の問題であり、なかなか、善意だけではできないようになってきた。まぁ、それはパウロの時代でもそうであったようではあるが。その意味で、ヘビのように聡く、もキリスト者と教会にはそれが始まったころから求められるといってよいだろうし、それに対して対策をとってきた結果、今のような教会ができているとは言えるかもしれない。

こういう情報格差による問題を回避する方法がないか、というとないわけではないのだが、必ずしもそれが有効というわけではないことは、スパイ用語のスリーパー・エイジェントのようなものの存在から言えるかもしれない。

とはいえ、日本の皆さんは割と善意で疑うことなく人を受け入れてしまうところがあるので、教会がカルト的な教会であると疑ってかかることはないこともあり、この種の問題が起きやすい体質を持っているといえるし、また、教会の側でもこの種のスリーパー・エイジェントのような人を受け入れてしまうことも無きにしも非ずなのではないか、と思う。

次回は、この非対称性に基づき、カルト化につながりかねないシグナリング問題を取り扱ってみたい。


 


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で、今回で『平和の神の勝利』のご紹介は最終回となるが、本書を読んで非常に興味深かったのが、普段は知ることがない『霊的戦い』を主張する人々の様々な戦術レベルの用語であった。普段、このような語をあまり聞きなれないので、意味が分かりにくかったが、本書を読んで、あぁ、こういう発想のもと、このような用語が用いられるのだ、ということは了解できたことは非常に有益であったと思う。その意味で、ミーちゃんはーちゃんの理解の深化に極めて有効であった。

悪魔との契約の解除?
時々、悪霊との関係を断ち切る、とかいうお話を聞記させていただくことがごくまれにあるのだが、その理解のあらかたを本書で初めて知った。ある方が、悪霊との関係を断ち切る、とかおっしゃるので、一体何のことかと思っていたが、ある聖書理解に基づく意見であることがわかった。その部分を紹介したい。
 霊的な戦いのなかで、「悪霊との契約」という概念が強調されることがある。基本的な考え方は以下のようなものである。人間が罪を犯すと、それは神に対する反逆であるばかりでなく、悪魔・悪霊が自分の人生にかかわり破壊的な影響を及ぼすことに同意する「契約」が結ばれることを意味する。その罪を悔い改めた場合、罪は許され、神に対する負債はなくなるが、悪霊との契約は以前として有効なまま残り、悪霊が自分の人生にかかわり続けることがある。そのような悪霊の悪影響から解放されるには、ここの罪を通して結ばれた悪霊との契約を具体的・意識的に解除する、あるいは「断ち切る」祈りをしなければならない、という。(『平和の神の勝利』p.84)
 これを読みながら、悪魔との契約を断ち切るという、こういう主張をされる方は小説の読みすぎではないか、と正直思ってしまった。この問題は気を付けないと、何でも悪魔のせいにしてしまい、キリストの回復の可能性を軽視してしまう可能性があるのではないか、と思うのである。神の回復の完全性を軽んじることになるのではないか、と懸念する。もちろん、確かに、山崎ランサム先輩ご指摘の様に聖書的な根拠が皆無でないことは認めるが、それにしても若干解釈を重ねすぎ、という嫌いもないわけではないように思う。

まぁ、霊の問題は繰り返すが、軽々しくは扱えない内容であるので、一概には否定できないが、個人的には、こういうことは考えたことがないなぁ、という問題であったので、本書を読んで、へぇ〜〜〜、なんだそういうことだったのか、ということを理解したのである。
 悪霊との契約を「断ち切る」祈りといった場合、結果的には、どうしても人間の側に重心があるような問題になってしまい、神の側の問題というか関与がどうしても軽いものになる、あるいは一種の決心主義的な概念の延長にあるように思えてならないが、それはミーちゃんはーちゃんの聖書理解の不足であるかもしれない。

霊的地図作製?
 地域霊がどうのこうのということをご主張で、香ばしい油をおまきになられた方のことがテレビ報道されていたが、今はその後どうなったのかはトンと聞かない(逮捕状が発行された、ということまでは聞き及んでいる)。マスコミが報道機関だというのであれば、きちんとミーちゃんはーちゃんのような普通の人々に変わって調査報道してほしいところであると期待していることだけは申し述べておく。面白おかしい話題として、ある種色ものとして扱うのではなくて、まともな報道機関だとご自身が思われるのなら、そういう報道姿勢があってもいいのではないかと思うが、キリスト教メディア、マスメディアに限らず、その後の報道がないのはどうしたことなのだろうと思っている。
 ミーちゃんはーちゃんは地図屋(世俗の仕事としては、こっちが本業)であるので、地図は三度の飯程ではないが好きである。しかし、霊的地図というのは本書を通して初めて知った。以下で紹介したい。
 「霊的地図作り(Spiritual Mapping)」は、地域レベルの霊的戦いの手段の一つとして言及されることが多い。しかし、この概念の理解や実践の方法にはさまざまなバリエーションがあり、人によって様座七捉え方がなされていることは意外と知られていないようである。「霊的地図」という言葉を聞いて多くのクリスチャンがイメージするのは、地域の地図の中に偶像礼拝やオカルト、罪深い活動の拠点をマークしていく行為であろう。そこで得られた情報を基づいて、その地域を支配している悪霊を特定し(その名前を知る必要があるとされることもある)、これを縛り、うち破ることによって、その地域における伝道が飛躍的に前進すると主張するのが「霊的地図作り」、「地域における霊的戦い」あるいは「戦略レベルの戦い」だ、という理解である。
 (中略)
「霊的地図作り」の概念がしばしば濫用されていることをオーティスも認識しており、「霊的地図作り 」 に関するよくあるご解をリストアップして警告を発している。

[酖地図作りは奇怪な地図を描くことではない。
⇔酖地図作りは主観的な想像力の産物ではない。
N酖地図作りは悪霊に焦点を当てはめたものではない。
の酖地図作りは問題解決の魔法の杖ではない。
ノ酖地図作りは唯一の道ではない。
ξ酖地図作りは霊的戦いと同一ではない。   (同書pp.114-116)

へぇ〜〜〜、そんなことを考える人がいるんだ、ということでちょっと地図屋らしく、教会地図から、教会の影響力範囲を表す地図を、作ってみた。

大きなマップで表示 西宮・芦屋地区の教会の位置座標(2013年頃)の地図 電話帳情報による


 こうやってみると、阪神間は異様に教会が多い地域であるように思う。

 とここまで考えてみると、地図が空間認識(いわゆる土地カン)が弱い地域に関するコミュニケーションのためのツールであることを考えると、こういう地図というのは、ある面意味があるのではないだろうか、と思うのである。まぁ、教会が林立する地区のまんまんなかに教会を出して、トラクトを撒いたり、イベントを介して伝道して人が来ない、人が来ないということを言う前に、するべきことがあるような気もするが、昔はこういうことが気楽に10分くらいでできる状態になかったので、仕方ないことなのかもしれない。いまだと、10分くらいでこういうのはサクサクできてしまう。地図はArcGIS Onlineさんの機能を使わせてもらった。アカウントを作ると、無料でこういうウェブマッピングを自由に作成可能である(一部制約はあるけど)。

まぁ、こういう霊的マップ作りに関して、山崎ランサム先輩は次のように述べている。

「霊的地図作り」は必ずしも「地域を支配する霊を特定し、それを縛り、追い出す」というアニミズム的な世界観に基づく働きを意味するわけではない。もっと広く、地域社会の霊的状況を見極め、それに基づいた的を射た取りなしの祈りと、具体的な福音宣教の戦略を構築していくために必要な調査研究の働きと位置付けることができるのではないだろうか。(同書 p.118 )

まぁ、こういうのは、地域の風土というのか、雰囲気を知るのに非常に容易にできるし、今では、国土地理院の地図なんかも、わざわざ買わなくても(昔は地域の詳細な状況を知るのに良く買ったものである)、国土地理院のサービスなどもあるし、GoogleMapsなどもあるので、こういうことを必死になって、自分で地図を作る必要もなくなっているはずなのだが、とは思う。

 地図を作ったくらいでは、霊的支配の状態などが間主観的に確かめられるとは、ミーちゃんはーちゃんは想像もできないタイプの人間であるので、この方法の有効性はよくはわからないが、ある程度、伝道しようとしている地域の雰囲気くらいはわかるのではないかと思っているし、何が何でもトラクトを撒けば信仰を持つ人々が雨後の筍の様に現われて、教会堂がいっぱいになるとも思っていない。地域を知ること、そして地域の人々が何を信仰していて、何に価値を置いていることは、インタビューである程度明らかになるとは思うが、そういうことすらすることなく、伝道しても人が救われない、ということを言い続けてきたキリスト教会の姿はあるのではないか、と思う。それは、おちいさい皆さんに関しても全く同義であり、地域を支配する霊を縛り、追い出すのであれば、おちいさい方向けには、小中学校のクラブ活動を動かしている霊や、塾などを運営している霊を縛りあげ、追い出すことになるのではないか、と思うのである。

手法の愚、思考枠内でしか考えない愚
 あとこの本で重要だと思ったのは、以下の山崎ランサム先輩のご指摘である。

 霊的戦いを特定の「手法」や「マニュアル 」 に還元し、聖書に明確に書かれていない事柄については、これこれの方法を用いれば必ず悪魔に勝利すると主張することも、逆に神はこれこれの方法では決して働かないと断定することも、どちらも神の主権性を否定する誤りにつながる。前者の場合は神を自分の思い通りにコントロールしようとするキリスト教的魔術に陥り、後者の場合は神を限界ある人間の神学の枠内に閉じ込めてしまう高慢につながる。(同書 p.121)

 ある手法が成功すると、その手法を何度も利用しようとする愚に人間ははまりがちである。まるで、一度ギャンブルで利益をえた人が、ギャンブル中毒のような状況になりつつも、あたかも抜けられないのと同じような姿を見せる場合がある。あるいは、成功した方法を環境が変わっても使い続ける様な具といってもいい。それは、大日本帝国陸軍が、対ロシア陸軍戦で成功した方法を第2次世界大戦の環境も違うインパールでも実施しようとして失敗した事例、大日本帝国海軍が、対ロシア海軍戦で成功した方法をタイアメリカ戦で環境が変わっているにもかかわらず実施しようとして失敗した事例、米国陸海空軍が、第2次世界大戦期のヨーロッパ戦線や朝鮮戦争である程度成功した戦略をそのまま、ベトナム戦争初期でも実施しようとして停滞被害にあったような実例とよく似ているかもしれない。神学の枠内にとどめる範囲も似たようなものである。

 ある神学は、ある環境の中で生み出された神理解の体系とそこから導かれる聖書理解であるといってよい。しかし、社会は、変化する。また、人間も変化する、人間の神理解や科学理解も変化する。それを認識せずに、昔やってうまくいった方法論で、それをそのまま推進すれば、うまくいかないのは当然であるが、そうであっても、いまだに19世紀の神学を必死になって振り回しておられる屋に見える方もおられる。それがナンセンスなのと同じようにある神学枠にこだわったり、あるマニュアルにこだわったりするのは愚かしい人間の姿の反映なのかもしれない、と素朴に思う。

試しに越前市でもお寺と神社マップを越前市が提供しておられるいわゆるオープンデータ(http://www.city.echizen.lg.jp/office/010/021/shape.html)と呼ばれるデータから、さくっと作ってみました。



ということで、本連載は以上でおしまい。


 



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 本日と、あと1回くらいで、『平和の神の勝利』という本をご紹介したい。何度も言うようだが、個人的には、現代社会における悪霊との戦いというメタファーには、かなり先入観というか、ある種の理解を持っていて、個人的には、その種のことに重点を置いていないし、一種の当惑をおぼていることは申し上げておく。個人的に、この種のことを扱うのは以下が、と思うほどであることも述べておく。ただ、それでは済まない場合もあることも事実なので、本書が参考になったことも確かではある。

神の国の到来と病人の回復
 イエスの福音は、何よりも神の国の到来であり、それはとりもなおさずイザヤ書預言の「囚われ人に開放を」という線で当時のイエス時代の人々に理解されたことは、間違いない。それは、イザヤ書が何人で書かれたか問題は別として、当時の人々にとっては明らかなことであったと思う。そこで、イエスは、盲人が目が見えるようになり、肢体不自由の人々が身体的な束縛状態から解放され、自由に動作できるようになるという現実を示し、それが、イエスが何者であるかの証拠であるとまで、バプテスマのヨハネに伝えよと、ヨハネの弟子たちに主張していることが福音書記者による記録としては記載されている。
 
 しかし、イエスによる悪霊の追い出しと癒しはただたんに神の国の到来を指し示す「しるし」であっただけではない。それは神の国のあらわれそのものであった。(『平和の神の勝利』p.37)
 現代でも、医療機関が不十分な地域、アフリカとかアジア、南アメリカ大陸の奥地(たいていはそれが気温が異様に温暖な地であることが多いのがちょっと気になるが)に行くと、Witch Doctorと呼ばれる霊的な力を用いると称する医療者のような存在というか呪術者のような存在がいることは民俗学や地域研究と呼ばれる分野の研究により明らかである。個人的に非常に面白い分野ではあるし、現実にその様な理解が人々の間で存在することも確かである。

 今でこそ、近代医学という体系が出来上がっているが、16世紀まではまともな医学ではなく、一種職人技的な現代の医学とは言えないような医学がまかり通っていたし、20世紀の前半でも、瀉血法と呼ばれるような方法が実際に英国などでも行われていたことが知られている。

 そう考えると、21世紀に生きる我らからはにわかに受け入れがたいが、1世紀においては、病気の癒しを霊的なものと関係づける理解が人々の間に普通にあったし、その病気の癒しは、イザヤ書予言の実現(囚われ人の開放、即ち、悪霊に囚われていた結果病気になった状態からの開放)出もあり、その結果として多くの人々がイエスが病気を癒すことを見て、神の国の到来を確信したというのは間違いない。福音書記者による弟子たちとイエスの対話によると、イエスの名によって病人の癒しをしていた弟子以外の人々がいたことが、確かに記録されている。
【口語訳聖書】 マルコによる福音書
 9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
 9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
 9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
 そして、イエスは、勝手連的にやっているものもわざわざ禁止しなくてもよい、とまで言っている。この後が有名な小さな人々への対応がいかにあるべきか、という神と人との関係に関する部分になっていることは印象深い。

イエスの十字架の理解をどう考えるか
 キリストの十字架をどう考えるのか、というのは案外一筋縄ではいかないし、教派的な特徴がある。教派ごとにかなりちがっているが、今は刑罰代償説が幅を利かせていることは間違いない。そして、この理解が義認理解をどうするかにかかわっているようでもある。そのあたりの事に関して、山崎ランサム先輩は次のように書く。
 キリストの十字架の贖いをどのように理解するのかということは神学上の大きな問題であり、今日まで様々な説が提唱されてきた。現在福音主義的プロテスタント教会で最も広く受け入れられているのは、刑罰代償説と呼ばれるものであり、罪のないキリストが罪ある人間の受け入れるべき刑罰を身代わりに受け手死なれたことにより、人間の罪が償われたというものである。この贖罪理解によると、キリストの贖いは神に向けられた、法律的な性格を持ったものである。
 これに対して、「勝利者キリスト(Christus Victor)」説というものがある。これは、「イエス・キリストは、死と復活において罪と悪の力を打ち破り、それら敵対勢力に対して宇宙全体に及ぶ勝利をおさめたという見解」である。この説によると、キリストの食材は悪魔に向けられたものであり、軍事的性格を持っている。これは教会史の最初の千年間は標準的な説であり、アンセルムスが代償説を唱えてから、西方教会では影響力が低下したが東方教会では支持され続けた。(同書 p.42)

 個人的には、ジョン・H・ヨーダー先輩の聖書理解が好きなので、こういうイエス・キリストの中にChristus Victorのような軍事的な要素で語るのは、いかがなものか、と思うのであるが、まぁ、こういう理解の方がおられるのはわからなくはない。ある面、このような理解はわかりやすいからである。
 それと同時に思うことは、十字架をどう理解するのか、ということもそこまで単純であっていいのだろうか、一つの見方だけで語ってよいのだろうか、ということも思うのだ。上で山崎ランサム先輩は、現代の福音派と呼ばれるアメリカ経由で主に日本に伝来した聖書理解の伝統の中では、刑罰代罰説が幅を利かせている。これは確かにそう感じる。そして、イエスの十字架の意味がこの刑罰代罰説では、我々の罪がキリストにあって、すでに罰せられているがゆえにキリストに対する信仰を我らが持つがゆえに、我らにこの神の罰からの救いがあるのだという義認理解が幅を利かせているのはそうだと思う。ただ、それだけがすべてか、といわれると個人的にはそうは思わない。キリストの十字架はそんなに簡単ではないように思うのだ。そう簡単に理解できるようなもので果たしてあるのだろうか。そう簡単な図式化というか図解化の様な理解は、十字架の一面は描くものの、それだけで十分であろうか、ということはもう少し考えられてよいと思う。このあたりを考えるうえでは、十字架の謎、という名著が手がかりになるかもしれない。

 まぁ、ここはキリスト教業界における炎上ポイントの一つなので、あまり議論に入りたくはないが、個人的には、ある聖書記述の対象に関する一面からのみの説明方法で重要な部分はとらえられきれない可能性があるのではないか、という疑念を申しとどめるにとどめておく。


世をどう捉えるのか問題
 米国ならびに日本の福音派に多大な影響を与えたディスペンセイション史観を生んだJ.N.Darbyというおじさんとの関係の深い教派で育ったこともあり、もともと信仰を持った教派の中では、『世』とか『この世界』とは、悪であると教えこまれていたし、この世とかかわることはボランティアワークなどの良い行いと一般にされていることでも、聖書的には、それよりも良いとされるものがある、と教えこまれてきた。最近は、N.T.ライト先輩の本を読む中で、その呪縛もだいぶん解けたので、かなり気楽に生きられるようになってきたが。
 さて、そういう余談は置いておいて、この世をどう捉えるのか問題に関してエペソ書6章の注解をしながら山崎ランサム先輩の記述で気になる点があったので、少し考えてみたい。
 パウロは「悪魔」(エペソ書6章11節)即ちサタンにまず言及するが、それに加えて4種類の敵を列挙している。「主権(arche)」と「力(exousia)」「この暗闇の世界の支配者たち(kosmokrator)」「天にいる諸々の悪霊(pneumatikos)」である。最初の二つ「主権」と「力」はパウロがよく使う言葉で、様々な悪しき霊的存在を表す呼び名である。これらの名前は、紀元1世紀のユダヤ教において、天使的存在を指す呼び名として使われていた。3番目の「世界の支配者」はここにしか出てこない言葉であるが、クリントン・アーノルドによるとこのことばは紀元1世紀の魔術や占星術における神の名前であり、パウロはその名前をキリスト教的に再解釈して用いている。つまり、エペソの人々が拝んでいた「世界の支配者」は神ではなく悪霊っである、というのである。四番目のことばは一般的な「霊」という言葉であるが、パウロはそれに「悪しき」という形容詞を付けて悪霊の意味で用いている。(同書 pp.52-53)
この部分だけ読めば、どうもこの地は悪で満ちている世界であり、そういうものと、如何なる関わり合いであれ、裂けた方がよい、テレビもダメなら、ゲームもだめだし、パソコンはおろか、皆さんがこの記事をお読みのインターネットなどというものは、悪霊の満ちあふれた世界であり、その中で、聖書のことばを書くなどとは汚らわしいし、実に嘆かわしい行為、ということになるかもしれない。

 そういうお考えをお持ちの方は、そういうお考えの方でもよろしいのではないか、と個人的には思っている。まぁ、こういうお考えの方は、教会の聖く美しく正しい世界にお籠りあそばして、聖く正しく美しい世界で聖書のことばをお語りあそばされればよいのではないか、と思っている。ミーちゃんはーちゃんは人間がどうも下品にできているので、そういう方々とのお交わりには耐え難い部分がないわけではない。

 しかし、上で紹介した表現を前提とすると、悪霊の支配があり、悪霊うようよの様な世で生きることはまともでないことになる。となれば、キリスト者はそういうものから分離し、教会がそういう悪霊うようよのスープの中からの防波堤を提供し、教会を一種の橋頭保の様な格好になり、この世と対決的な姿勢をとることが正しいことになりかねないが、本当にそれでいいのだろうか。

 この世が悪いと言い募り、他者を批判し、自己だけが正当であると主張するような教会の主張がこのような理解の背景に生まれる様な気がするが、個人的にはそれでいいのか、と思っているのだ。もう少しいうと、キリストが平和を述べたということが矮小化されかねないのではないのか、という問題ともかかわってきかねないように思っている。


The Economistさんのサイトから

 なお、ギリシア語聖書を辞書を引きひき読む限りであるが、イエスが生誕した時に東の方からやってきた3人の人々は、mageと書いてあり、カードゲームに出て来るあの人たちである可能性が高いのである。そう考えると、イエスの生誕において、3人のMageの皆様が今のいらん辺りから、古代ペルシャ語で食っちゃべりながら(イラン人たちは、とにかく話好きらしい)イエスに貢物を持ってきた、という意味も少し違う意味で解釈できる可能性があることに思いをはせながら、ニタニタしている。

http://johnnyd2.deviantart.com/art/Custom-Hearthstone-Cards-Mage-Knight-Misty-414714886 から

字義的解釈の限界の可能性
 ディスペンセイション主義を生んだキリスト者のグループの皆様方(ご自身たちは、教派ではないとご主張である)は、いまだにそうであるが、比喩的文言でも字義的にガチガチに解釈される方々がおられるので、山崎ランサム先輩のこの文章を読んだ時には、あれ、と思ったのである。基本的には、霊の戦いというをご主張の皆様方では、ガチガチの字義的解釈が主流であると思っていたからである。
これら武具の比喩の細部についてあまりうがった解釈をしてはならない(たとえば、救いのカブトは頭脳つまり理性を守るの野である等々)。もし私たちが霊的武具の比喩をあまりに字義どおりに解釈するようになると、アニミズム的新興に陥る危険がある。私たちが注意を払うべきは、比喩そのものではなく、比喩が指し示している内容である。(同書 p.55)
そもそも、字義通り解釈は、比喩的な解釈による拡大解釈を避けるという目的でそもそも始まったものであるが、それが字義通り解釈を進めていくうえで、いつの間にか比喩的解釈以上に拡大解釈する可能性をここでご指摘である。このあたり、どこまで字義的解釈とし、どのあたりから比喩的解釈をするのか、という問題は、案外簡単ではないし、記号論とか、象徴論とか、人間認識の問題あたりと深くかかわってくる。

 このブログは、こういうことに踏み込むには、あまりにめんどくさいので、このあたりの何を持って理解とするのか、というあたりの事に関しては、お化けみたいな碩学であるN.T.ライト先輩の『新約聖書と神の民』の第1部があるよ、ということを指し示して議論へのこれ以上の深入りは避けたいと思う。

 このあたりの理解を深められたい方は、日本語翻訳は読みやすいが、その指し示している内容はそれほど優しくない N.T.ライト先輩の『新約聖書と神の民』 の第1部を参照されたい。聖書を読むということに関して、非常にユニークな視座を与えてくれる本である。とはいえ、記号論理学とか、論理学とか、象徴論とか、認識論と題された哲学系の人が書いた本(特にドイツ語からの翻訳のものは、内臓がおかしくなるほどであるが…)を読むよりは読みやすいことは保証する。

悪霊憑きと真理の対決、力の対決
 このような記述のあと、山崎ランサム先輩は、真理の対決とか、力の対決とかについてのご自身の見解を述べられた後、このようにお書きであった。詳しくは同書をお買い上げになってお読みいただきたい。
 新約聖書では、悪霊憑きは異教における現象であり、それらを追い出す「力の対決」は宣教における重要な要素であった。一方で、新約聖書にはクリスチャンが悪霊につかれたり(つまり人格が悪霊の完全な支配下におかれるということ)、クリスチャンから悪霊が追い出されたという明確な記録はない。もちろん、サタンや悪霊がクリスチャンを誘惑したり攻撃したりということは記されているが、その場合の対処法は「真理の対決」であった。(同書 p.71)
 なぜ、これを紹介したか、といえば、実は、ミーちゃんはーちゃんにある熱心な信徒の方がわざわざお手紙をくださり、「あなたは悪霊につかれている」と「真理の対決」をしてくださったらしい方があったからである。さすがにこのお手紙を拝領し、拝読した際には、軽く凹みかけたが(もともと凸凹な人間なので、あまり気にもしなかったが)、どうもその熱心な信徒の方があつくあつくお祈りくださったから悪霊が出ていったのかどうだかはわからないが、そもそも、個人的には、人格が悪霊の完全な支配下におかれて、奇妙なことを口走ったり、家の中で家具がぐるぐる回ったりとか、人形が突然話し始めたりという怪奇現象は確認されていないので、そもそもその方の理解がどこか違ったのかもしれないと思っている。

 霊の世界は間主観的な確認が非常に困難な世界であるだけに、個人的には軽々しく扱うのは避けた方がよいという一般的な方針は持っていることだけは申し述べたい。

古代教父世界と霊的戦い
 この本で面白かったのは、古代教父文書にさかのぼって、個の霊的な戦いの問題を考えてみている部分である。その意味で、第1章の4.補論の部分は、大変面白かった。詳細な引用は避け、山崎ランサム先輩のまとめだけを以下のように取り上げて考えてみたい。
 以上みてきたように、教父時代の教会においては、新約聖書に見られた「真理の対決」と「力の対決」がどちらも引き続き存在していた。さらに、「力の対決」が教会が異教と接触する宣教の現場で見られる「教会外」の現象であったという点でも、深夜っく聖書と共通している。このことは、教父時代の資料が本書で分析した新約聖書の理解を裏付けるものであること、超自然的な悪霊追い出しの働きが使徒時代が終わった後も継続していたことを示している。後者の結論は、新約聖書に描かれている霊的戦いが今日の教会にとっても重要な意義を持っていることを示唆している。(同書 p.78)

この部分は、前半部分の教父文書の分析に比べて、ちょっと牽強付会というのか、かなり論理のスキップというか飛躍を含むように感じられた。確かに、古代教父時代には、こういう悪霊との戦いに関心があったことも確かであるし、その中で信徒たちも希望を抱いたことを教父たちは記録していたのであろう。なお、ミーちゃんはーちゃんは古代教父の主張に聖書と同等の価値を見出しているわけではなく、歴史的な教会史料としての価値のみを見出していることは申し述べてきたい。それは山崎ランサム先輩も同じであると思うが。

 超自然的な働きは否定はできないし、それはあったのだろうと思う。ミーちゃんはーちゃんは悪霊の追い出しを頼まれたこともないし、頼まれても自分にはその能力がないので、お断りするところではあるが、教会に来られる面白い方々の中には、これをやってもらいたくてやってもらいたくて仕方のない人々がいる様である。なんか、毎週、祈ってもらって倒されることに快感を覚えておられるのかどうだかわからないが、悪霊追い出しのような祈りをしてもらって毎週倒されに来る方もおられるというお話をお伺いしたこともあるし、教会に来られる方から、悪霊の追い出しの祈りをしてくれ、と頼まれる牧師先生もおられ、そういうときは対応に困るんですけどねぇ、と正直に教えてくださった牧師先生もおられた。

 何が気になっているかというと、悪霊追い出しのようなことがあることは否定はできないのだが、どこまで普遍性を持つのか、という議論がきちんとされていないし、悪霊追い出しはどの社会においても起こる現象として、ある種の普遍性を持つということが不可能なのではないか、間主観的にその議論は可能かどうか、という部分である。こうなるとかなりその可能性は否定的にならざるを得ない。特殊現象としては否定できないが、普遍現象としては肯定できないという結論があるように思えてならないからだ。であるとすれば、「新約聖書に描かれている霊的戦いが今日の教会にとっても重要な意義を持っている」とまで言えるかどうかというと個人的には、いいかねると主張したいようには思う。もちろん、これは山崎ランサム先輩のご意見であり、ミーちゃんはーちゃんの意見レベルとは合わない、というだけのことであるが。

 まぁ、民俗学的な研究成果によれば、アフリカ大陸でも、南アメリカ大陸でも、東南アジアの島嶼部の辺鄙なところでも、厳然としてWitch Doctorと呼ばれる一種呪術的な医療が行われている部分があり、その効能も一定程度あるようではあり、それは認めざるを得ないところであるが、それと同様に現代日本社会(イタコ芸人と呼ばれる著述家の方もおられるが)が扱えるかどうかは、少し態度を保留したい。


http://the-liberty.com/article.php?item_id=9146 から
 実に衝撃的である。ISIS団の人とか、熱心なイスラム世界の人から攻撃されないといいけどね。この写真を見たときは、MJSKと思った。しかし、総裁はアラビア語がさぞや流暢なのであろう。
 なお、あと一回の連載で本シリーズは終了

 
評価:
山崎ランサム 和彦
プレイズ出版
¥ 1,296
(2009-05-15)
コメント:ご照会中です。

評価:
アリスター・E. マクグラス
教文館
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(2003-07)
コメント:え、これ入手困難なの。残念だなぁ。

評価:
N.T. ライト
新教出版社
¥ 6,912
(2015-12-10)
コメント:第1部が本書の一番ありがたかったところ。内容がかなりめんどくさい問題を扱っているので読みやすくはないが、ドイツ語系の翻訳書よりはかなりわかりやすい。




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霊の戦いとは何か
 個人的には、異言はおろか、癒しもできないし、霊の戦いということも経験したことがないし、そういう事例に直面したこともないので、何とも言い難いが、実際にそう言うことは起きたということは、福音書記者、ないし使徒言行録の記者の目撃証言としてはあるので、そういうことが起きたことは否定できないと思っている。現代においてはあるか、といわれれば、無いとも言えないが、現代の近代社会においてあるか、といわれれば、かなりその存在は極めてまれ、統計的には存在するということが有為に棄却されるレベルでは存在しないわけではない(実際には、ほとんど不在であると理解してよい)と思っている。
たとえば福音書にはイエスや使徒たちが言葉を用いて悪霊を追い出している記事があり、聖書信仰に立つクリスチャンはそれをそのまま受け容れるのだが、なぜ言葉で命じただけで悪霊が出て行くのか、霊の世界で実際に怒っているメカニズムについていは聖書は何も語ってはいない。聖書から分かれるのは、イエスの御名によって命じると悪霊は出ていくという、表面的な現象の世界だけである。このような現象の背後にある、目に見えない世界で起こっているプロセスを何とか理論的に説明しようという試みもあるが、聖書が明確に語っていない事柄については、そのような理論は定義から言って思弁的仮説として扱うほかなく、経験からその正しさを推測できるに過ぎない。( 『平和の神の勝利』 pp.12-13)
 ここで、大事だなぁ、と思ったのは、「目に見えない世界で起こっているプロセスを何とか理論的に説明しようという試みもあるが、聖書が明確に語っていない事柄については、そのような理論は定義から言って思弁的仮説として扱うほかない」という表現である。結局、間主観的に合意ができない以上、それは一つの意見であり、信念であり、検証を要請されるべきか説でしかなく、真実性が立証されるべき、というお立場に立っておられる。確かに現象であるが、現象のメカニズムが理論的(間主観的に第3者に対しても説得的に)説明できるか、といわれれば、現実にはかなり厳しい。

 ここで、正しさという語が出てくる。これが結構癖ものなのである。我々が正しさというときに、
 ある特定の状況のもとにおける事実性、
 ある程度一般化された状況のもとにおける事実性
 普遍化可能な状況のもとにおける真実性

という意味での物的空間で定義される真実性の意味もあれば、理解の意味での真実性に関しても、
 ある環境下で個人において真実だと思っているレベルの真理性、
 ある程度一般化された環境を定義したもとでの間主観的な妥当性、あるいは間主観的な合意可能性を持つ真理性
 ある程度一般的な環境下を定義したもとである内容の妥当性において間主観的な合意がされたという意味での真理性
というレベルまで存在する。
というレベルまであるが、多くの方が、正しい、とご発言になられるときに植えの6つの正しさの例示のどのレベルで正しいというのか、ということの議論がなされないまま、「正しさ」が一方的に、ある面恣意的に振り回されることがある。実に残念なことではないか、と思っている。

霊的戦いの定義
 次に、山崎ランサム様は、多くの人が合意可能な暫定的なゴーイングコンサーン可能な霊的戦いの定義として、ローザンヌ誓約の第12項を引用しておられる。
「私たちは、教会を倒し、教会の世界伝道の業を失敗に終わらせようと絶えずもくろんでいる悪の力と支配とに対する、たゆまざる霊的闘争の中におかれていると信ずる。」

 この部分を読みながら、個人的には、闘争というと、なんとなく、善と悪がトッつかみかかっている印象があるので、どうなんだろうか?と思っている。むしろ、個人としては、霊的な世界における神と神ならぬものとの間の緊張状態、という表現か、神と神ならぬものの対立状態ないし対峙状態(東西冷戦時代の状況によく似ているかも)と思う。ただ、この霊の戦いというと、悪と対峙しているのは、我らキリスト者であるというメタファーで語られることがあるが、基本的に悪と対峙するのは神であり、我ら人間ではないかも、ということは少し考えた方がよいと思う。
 さらに、山崎ランサム先輩は次のようにお書きである。
 霊的戦いを聖書的文脈から切り離して論ずることは、誤った理解に通じて行く危険性がある。そこでまず必要なことは、新約聖書が持っている世界観を明らかにすることである。ポール・ヒーバートは世界観を「ある文化の民族によって共有される、最も基本的かつ包括的な、現実に対する見方」と定義している。世界観は物事の性質についての諸前提を含んでいる。言いかえれば、世界観とは私たちが世界から受け取る生のデータを処理して、私たちにとって意味ある秩序だった情報にまとめ上げるための一連の枠組みのことである。(同書 pp.21-22)
と、ヒーバートPaul Hiebertの見解をもとにしながら、聖書の文脈、聖書に基づく世界観においてのみ、霊的戦いを定義する意味があるかもしれない、ということをお書きである。あくまで、自己の正当化や正統化、あるいは自己の評価を高める目的のために霊的戦いというものを持ちだすのはまずいかも、ということを考えた。むしろ大事なのは、この文章の後半の部分「世界観とは私たちが世界から受け取る生のデータを処理して、私たちにとって意味ある秩序だった情報にまとめ上げるための一連の枠組みのこと」という表現である。
ポール・ヒーバート先輩
 
 この生データではみられない。先験的な参照枠としての世界観があるというのは大事である。日本人には、日本人の参照枠があるし、古代日本人には古代日本人の参照枠があるのである。それは同じではない。あることを見ても、神の怒りの表現と思う人もいれば、2万年単位の地表上の地殻変動現象の派生振動という人もいるだろう。聖書だって、基本的には、世界観とは独立に読みえないし、異なる世界観で同じ聖書テキストを読んでも、異なる世界観の場合、異なる解釈(情報)が生み出されることになることを指摘しておられる。
 
 この世界では、自由意思を持った多数の人格的存在が互いに常に交流を持ち、わた号したり対立したりしながら存在しているのである。このような世界観は、グレゴリー・ボイドが戦いの世界観(warfare worldview)と呼ぶものである。ボイド自身の定義によると、「戦いの世界観とは、善と悪、幸と不幸といった人生の側面の大部分は、善と悪、友好的また敵対的な霊的存在が互いにまた我r我に対して逃走しているという確信に基づいて現実を見る視点のことである」。ボイドは付け加えて、この世界観は人間自身や人間社会に潜む悪の問題を無視しているわけでないという。ただだし、聖書の記者たちが一般に悪の問題を霊的戦いの観点でとらえていたことは疑いないという。この図式に自由意思を持った人格的存在である人間を含めて考えれば、次のように言えるだろう。
「戦いの世界観とは、この世界は人間や多数の霊的存在に満ちており、これらの存在はそれぞれ自由意思を持ち、神かサタンのどちらかの側に組して互いに戦っているという世界観である。」
(同書 pp.23-24)

 まぁ、この表現から類推する限りは、著者の理解の中では、あるいはボイド先輩の理解の中では、完全な二元論ではないにせよ、結果的にこの世界観は二元論的な世界観になっているようである。

 個人的に、この辺はちょっと違う意見を持っている。人間や社会において起きることはは善か悪のどちらかに分類できるか、と問われれば、世の中そうことは単純ではない、とは思うのだ。もう少しいうならば、あるいは、ここでご指摘のある、善また把握、あるいは神に対して友好的、または神に対して敵対的立場というのは、一時的なことであろうと思う。というのは、キリスト者自身のことを考えてみればよいし、どうしても聖書的根拠といわれるのであれば、旧約聖書を例に取るとよいだろう。そこに我らがみるのは、人間は神と神のように見えるもの、ないしは、偶像とよばれるものの間をふらふらしながら歩むということではないか、と思う。イスラエルが典型的にそうであったように、常に神の側、というのでもなく、神の側に行ったり、神でないものの側に行ったりする、その程度のものであると理解した方がよいのではないか、と思う。
限定的二元論
 先にも触れたが、世界を善悪二元論的な戦い、善と悪の間での勝ったり負けた利でありながら均衡関係でもない捉え方として、山崎ランサム先輩は次のように書いておられる。
 聖書が提示している世界観は、絶対的な一元論(悪も含めてすべては神の直接意思による)でも、絶対的な二元論(善と悪の対等な力が永遠に闘争を続けていく)でもない。それはいわば「限定的二元論(modified dualism)」と呼ぶべきものである。この世界観によると、神は絶対的主権者であり世界に存在する善と悪の戦いは神の許しの中でのみ可能である。(同書 pp.25-26)

 このあたりの神の主権性は、非常に重要だと思う。特に、悪霊の働きとか、悪霊の戦いを主張する方々のご主張を見ると、神の主権性より、ご主張の方々の中心性というか、スポットライトを当てておられる傾向が結構強いように思う。「私が祈ったら・・・」「私が聖書のことばを宣言したら・・・」というようなご発言が多く、「神の御思いの中で…」「神がお許しになっておられたのかもしれませんが…」というような表現があまりみられないように思う。

 ただ、限定的二元論という概念を導入するにしても、善と悪の戦いであるのは、一種劇的な限られた状況かで起きているのであり、日常生活にはほとんど関係のない状況ではないか、と思う。ところが、この種の霊の戦いに強調のある人々のお話をお伺いしていると(山崎ランサム先輩はどうも違いそうなのだが)、常時この種の霊の戦いの臨戦態勢にある時超えてしまうようなご発言をされる方がおられる。旧約聖書でも、確かに、こういう対決姿勢の例はいくつかあるが、それがあたかもイスラエルの常時体制であったか、というとそうでもなさそうな気がしている。このあたりの時間軸の議論を含めた議論は案外大事ではないか、と思うのだ。

 
この後、旧約時代における霊の戦いの概念、サタンという語をキーにした解説があり、旧約文書から新約聖書までの間の中間時代の神の戦いの理解が触れられたあと、イスラエルの地上的、霊的抑圧と制限からの開放が、黙示的に語られてきたことを取り上げた後、新約時代の話に入っていく。そして、イエスがまず主張した神の国とは何であったのかについて、次のように山崎ランサム先輩は語る。

すでに実現した神の国、
いまだ実現していない神の国

 神の国とは何か、というのは案外理解されていないように思う。また、神の国以上に理解されていないのが、天の国であったり、天の御国であったりではないか、と思う。口語訳聖書では、天の国とか、天の御国は、天国と訳されていたこと、口語訳聖書が1960年代から1980年代にかけて長らく使われてきたこともあり、現在のキリスト教会内の人々の最大派閥を形成しておられる方々の聖書理解に多大な影響を与えており、今なお口語訳聖書が最初に出会った聖書である方がたが最大派閥であることから、いまだに、神の国即ち天国という理解が幅を利かせており、死後の世界への希求という概念で、天国が語られることが多い。
 しかし、以下の山崎ランサム先輩の表現を借りれば、天(神が支配されておられる場所)からの支配やその思いが天(auranos)の御国(basileia)とか、天の国という理解になるのではないか、と思う。
 イエスキリストの福音の中心概念は「神の国」であった。たとえば、マルコはイエスの公生涯の記述をはじめるにあたり、そのメッセージの骨子を表すものとして、「時は満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」というイエスのことばを置いている(マルコ1:15)ここで、「国」あるいは「王国」と訳されるギリシア語basileiaは文字通りには「神の支配」と訳することができる。つまり神がこの地上の人間の歴史に訪れ、実欲を持って介入されるということである。
 中間時代の黙示的世界観においては、将来神が地上に介入されることが信じられていた。(中略)
 もちろん、イエスの時代でも、また今日でも、私たちは世の中の悪が根絶され、神の支配が完全に実現しているのを見てはいない。それはまだ未来の出来事であり、それはイエスが再臨されるときに実現する。しかし、神の国はすでにきており、拡大しているのである。このような「既に」と「未だ」の間の緊張感が新約聖書の終末論を特徴づけている。(pp.32-33)
 ここで重要だと思ったのは、中間時代の黙示的世界観である。新約聖書の世界観には、確実にこの中間時代の世界観の影響があるし、イエス、パウロ時代の人々の発言の裏側には、中間時代の黙示録的世界観が隠れているように思われる。特に、この神の支配の再興あるいは神の支配の復権という概念は、イエスのエルサレム入場の際の「ダビデの子にホサナ」というような表現にも表れているように思われるし、ここで山崎ランサム先輩が主張するようにイエス様が、「神の国が近づいた」「神の国はあなた方のただなかにある」といわれた時のご発言は、そのような中間時代を経たイエス時代の人々にある種の意味を持っていたことは間違いないようにも思われる。
 次回へと続く。





 


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 個人的には、どっちかというと、頭でっかちの信仰者であるので(霊性に対する関心が薄いが、その存在は無視していない。取り扱いに困るから、関心を持っていないだけである)、本書のような本は、実は大変苦手なタイプの本である。「霊の戦い」とかをご主張になる向きの方の中には、以前このブログ「工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その10」の記事でもふれたように、割と思い込みでされておられる方が多いのではないか、あるいは、多くの場合、独り相撲に近いのではないか、という懸念というか疑念は、かなり強く持っている程である。

霊の戦いねぇ
 しかし、聖書の中に霊の戦いという表現も出てくる。その表現を無視するわけにはいかない。まぁ、少なくとも、何人かの聖書記者たちは少なくとも戦いというメタファーで聖書の霊の世界を捉えていたことは間違いない。黙示録は黙示とはいえ、その線での理解が非常に強く出てきている。

 とはいえ、聖書は全部理性で割り切れると思ってもいないし、そんなことをしたらろくでもない、とも思っているので、両者のバランスを時代と直面する環境の中で、とっていけばよい、と思っている程度の人間である。

 本ブログ記事は、この本でも一部扱っている「霊的戦い」というよりは、この本の別の面での有用性(ここで提示されている方法論の有効性)に着目して紹介したい。

 今日は序章「はじめに」の部分から紹介したいと思う。

聖書的根拠づけのレベル
 ミーちゃんはーちゃんの周りでもそうであるが、『聖書的』という言葉がよく用いられる。しかし、その同じ語が用いられることが多いものの、その内容は、話者によって、かなり異なることが多いことは確かである。そのような内容に関して、山崎ランサム和彦さんは、以下のように整理して見せる。
 ある主題について聖書的根拠を求めようとするとき、その結果はいくつかのカテゴリーに分けることができる。

\蚕颪明確に肯定している。
∪蚕颪肯定している可能性があるが、明確ではない
聖書が肯定も否定もしていない
だ蚕颪否定している可能性があるが、明確ではない。
ダ蚕颪明確に否定している。(『平和の神の勝利』p.8)
 聖書的という内容を言うとき、ここで言う△らい泙任糧楼呂涼羶箸亡悗靴董∀端圓語りたいとおもっている主張の内容に合わせて、聖書的という言葉が相当強いて気に用いられることがある。しかし、普通の経験のない信徒さんにとって、この「聖書的」というのは暴力的な効果を持つのである。なぜならば、この語が語られるとき、一種問答無用の権威性を帯びるからである。本来、聖書的とは「\蚕颪明確に肯定している(例:神を愛せ、他人を愛せ…など)」ないし「ダ蚕颪明確に否定している(例:偶像崇拝してはならない、殺してはならない…など)」のはずであるのだが、人間の世界の中身がそう簡単に判定できない為に、例えば、「学校行事として神社仏閣への研修旅行に行くこと」や「お酒を飲むこと」といった内容に関する判断を迫られることがある。

 それをどう考えるか、ということに迷ったときに、聖書をもとに考える、ということをキリスト者とその関係者は迫られることになる。答えから言ってしまえば、それは本人の了見の話であるし、多少間違ったとしても、それはあまり気に病む必要はない、ということではないか、と思う。というのは旧約聖書をみれば、我々のことなどは実に他愛のないことと思えることをイスラエルの先人諸氏はしていても、それでも、神は忍耐強く「我が子よかえって来い」と宣っておられるからである。

 誰しも、正しく生きたいという気持ちになるのはわかるし、キリスト者として適切に生きたいという気持ちがあるのも良くわかるが、そこにある世の在り方は、実は案外多様なのではないか、と思っている。厳密なパリサイ派の律法学者や、厳密な意味での税金も世俗国家としてのイスラエル国に納付しないほどの超保守的なユダヤ人の皆様のような生き方をするなら別であるが、そうでないのであれば、ある程度の生活における行為の幅は容認されてしかるべきではないか、と考えている。


超保守派のユダヤ人の皆様

 イスラム世界には、イマームとか、イマムとか、イスラム法に照らしてどのように行動すべきかの相談に乗ってくれる指導者がいる。自信がない時に、自分が実施しようとしている行為が適切かどうか、イスラム法に照らして、一定の判断材料を提供してくれるありがたい人らしい。


ホーメイニ師(イランの宗教改革指導者というか革命指導者) 
ホーメイニがクォーメイニにも聞こえる、最初の音がKHの音であることを最近知った

日本のキリスト教の場合は、日常レベルの聖書的根拠に悩んだ時に、相談に乗ってもらうのは、基本牧師とか、その教会の年長者とか、長老と呼ばれる(必ずしも、Master Yodaや、ひげが生えている人でもない)人になるだろう。


Master Yoda

 ところで、この辺の聖書明文規定によってない内容が聖書的であるとするかどうかの議論は、教会ごと、キリスト教の教団ごと、また、時代によってかなり変容する。例えば、飲酒などの場合、19世紀以降成立した米国系のキリスト教の場合、絶対禁酒が言われることがあるが、その時期以前にヨーロッパで成立したキリスト教の場合、酔っぱらうことはNGであるが、一定程度の飲酒は容認されている場合などがあり、別の教派の人々とお付き合いして初めて、このあたり、どう考えるかに戸惑うことになる。

 案外忘れられていることである様だが、ユダヤ教に比べて、禁忌規定はかなり緩くなっているのであるが、時代の変化に合わせて新たな禁忌規定や忌避規定が教会では量産されている模様である。従って、聖書的とされる行為とその程度と内容は時代や教会で必ずしも一定ではない、と思っておいた方がよいかもしれない。なぜ、このようなことが起こるのかについて、それは、聖書の内容を3つの視点から分類できることを山崎ランサムさんは次のように書いておられる。

教義・教理・意見
 この本を読んでよかったとおもったのは、キリスト教において議論をするときに意識すべき3つのレベルということが明確に述べられている点である。それは、教義(Dogma)のレベル、教理(Doctoline)のレベル、意見(Opinion)のレベルに分けて議論をすべきという議論がまず紹介されていた点である。まぁ、これは当たり前といえば、辺りまではあるが、この辺、意外ときちんと分類されずに議論している例が多いようにも思われる。
 いま述べたことを別の角度から見て見よう。キリスト教における神学的な命題には膨大な数のものがあるが、それらすべてが同じ権威と確実性を持っているわけではない。それらは大きく3つに分けることができる。一番の権威を持っているのは「教義(dogma)」のレベルで、三位一体論やキリスト良性論といった、正統的キリスト教である限りはすべての人が受け入れなければならないものである。この教義のレベルで正統教会と意見を異にするグループは「異端」とされる。次に、特定の教派やグループ内(たとえば「ローマ・カトリック教会」や「福音主義プロテスタント教会」)で共有される「教理(doctrine)」のレベルがある。この中にもさらに細かいレベル訳が可能であるが、教理のレベルで意見の相違がある場合、その特定のグループでは受け入れられなくても、だからといって正統的キリスト教でなくなるわけではない。一番下のレベルに属するのは「意見(opinion)」であって、これに関しては、同じグループや地域教会の中であっても立場の違いがありえるものである。(同書 p.11-12)

 キリスト教業界は、この議論がともすれば、教義のレベルの議論なのか、教理のレベルなのか、意見のレベルなのか、ということの議論や合意形成がなされないまま、「○○は××だ、それを認めないおまえたちが間違っている」とか、「いや、 ○○は×▼だ、××としか認めないおまえたちが間違っている 」という大変質の悪い論理展開の議論がまかり通って、ことばによる対論ではなく、どつきあい、場合によっては本物の拳骨を使ってのどつき合いならまだしも、生身の暴力や武器や刃物が出てきて血の雨が降ることも過去の歴史においてはみられた。

 あと、ここで気になるのは、何を持って正統とするか、ということの議論が実はかなりあいまいな点である。教会はみんな自分自身のことを正統的なキリスト教と自称しておられることが多いので(異端的なキリスト教であると自称しているところはまだ捜し方が足らないのか、見たことがない)、外部から見ると、何を持って正統的とするのか、の定義がないまま、正統的であるといわれても困るし、そもそも正統ではなく、正統を自称する以上、正統ではないということになるから、外部から見ると、「正統でない正統的って何よ?」ってことになってしまい、どことなく胡散臭さが漂うことになる。みんな正統的、正統的というから、外部からは何が正統であるのか、ということがわからなくなってしまう。
 このあたりの事に関して、実際に山崎ランサム先輩は次のように書いておられる。
 
霊的戦いにおいて聖書的根拠が疑問視される概念や実践の多くは、この「意見」のレベルに属するものであると思われる。このような「意見」に関しては、それを「教義」や「教理」と同等に扱うことが許されないが、逆に自分と考えが違うという理由だけで、異端として排斥する必要もないものである。しかし、実際には、自分と異なる意見を持っていて排除する必要もないものである。しかし、実際には、自分と異なる「意見」を持っているというだけで異端視したり、交わりを絶ったりすることがよくあるのではないかと思う。
 このような「意見」は、聖書がごく暗示的にしか述べてないこと、あるいはまったく触れていない事柄に基づいて生じていることが多い。(同書 p.12)
 この指摘は、非常に重要ではないか、と思う。大概のもめごとはこの意見レベルであったり、意見レベルの中でもその温度差がある範囲のことであり、そこが同じでない、ということで、異端だとか、間違っているとか、神ならぬ鼻で息するものであるにもかかわらず、勝手に他者の意見と「教理」や「教義」を混同し、神のようなごときご発言って、どやさ、って個人的には思うのですね。


 神の戦いに関して言えば、「意見」レベルでは、山崎ランサム先輩とは異なる意見に立つものの、方法論レベルのこの教義、教理、意見の点から、冷静に考えるべきではないか、という点では基本的に同意している。

 
 なぜ、教会で排除が起きるかに関して言えば、一つは、護教ないし弁証学的な性質(自分たちの思想を正しいものとして相手を説得したり、あるいは永遠に正しいものとして守ろうとする教義、教理レベルでの性質)が意見レベルにまで進出してくることに対する抵抗力の弱さと、そもそも意見は、この教義及び教理からの派生概念であるから、どうしても、意見と教理や教義が相互に分離しにくいことがあるのではないか、と思う。

 
 また、もう一つの課題としては、「教会は一つ」といったときの教会が、歴史的地理的に多様な空間におかれ独自に形成されてきた多様な存在であるキリスト教全体であるのか、ある時期、ある歴史的な時間枠で、半径数キロレベルから数十キロレベルを対象にする個別の教会を指すのかの理解が明確でなく議論されることがあるかもしれない。この教会理解の混乱があると、多様性を認めない方向に走りやすいような気がする。


 もう一つは、「一つ」という理解の怪しさである。一つ、といったときに多様なものが集まりつつも、共通部分とするキリストにあって一つという多様性を容認する方向での一つなのか、多数の同じようなものが集まって、同質性を重視しつつ一つなのか、という問題である。一つである(Oneness)といったときに、同質性を重視しつつ一つ ( Uniformity )なのか、多様性を重視しつつ共通部分がある(Universal あるいはcatholic)であるのかの議論をしないまま、一つ、一つでなければ、一つであろう、一つになろうとするという議論をやると、優生学とか、国家総動員法とか、一億総火の玉とか、訳わからん議論に近くなってくる。何、これをやったのは我が国だけではない。


 東日本大震災で「一つになろう」というCMが流れた。アメリカで、911後には、United We Standという標語が流れた。それはプロパガンダに近いのではないか、と思う。旧約聖書的には、一つであろうとしてバベルの塔を作ろうとした。戦争中、一つであろうとして、日本基督教団ができた。その中で、我々(教会)が何を目標として「教会は一つ」であるといい、そして向かおうとするのかは、考えた方がよいと思うのだが、ちがうかな。そもそも一つであるものを目に見えて一つであると示そうとするところに、無理があるし、問題が生まれるのではないだろうか。

 
 昨日の日曜日訪れた教会で読んだ聖書の箇所を思いだした。
【口語訳聖書】ヨハネ福音書
 9:39 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
 9:40 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
 9:41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
一つになろうのCF
United We Standの国威発揚的なポスター 
http://www.volleywood.net/volleyball-features/vw-specials/we-remember-911/attachment/unitedwestand9-11/ から

Brugelの1563年のバベルの塔 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Tower_of_Babel_%28Bruegel%29 より
次回へと続く




 
評価:
山崎ランサム 和彦
プレイズ出版
¥ 1,296
(2009-05-15)
コメント:考えるための手法としては面白かったです。




Pocket



森嶋 豊先輩(青山学院の宗教主任)からの応答
 森嶋先輩は、もともと専門が組織神学であり、新約学者ではなく、キリスト教人権思想と日本国憲法への影響がそもそもの専門分野を主に研究テーマとしている、と自己紹介された。

 ここのところ、新教が割と新しい人に興味を持って、新しい人を結構紹介してくれている。しかし、斬新であっても、福音を曲げる出版物は伝道者としては困るのだが、その出版社が、リチャード・ヘイズとNTライトを紹介したのは大きいと思う。これから大きな流れを作ることになるのではないか。

N.T.ライトの神学の教会に与える意味
 ある面で、N.T.ライトの書籍は、失われた福音の回復に重要な役割を果たし、これからのプロテスタント神学にとって重要であると考えされ、飢えかわいている教会にいのちを与える書だろうと思う。これまで、客観的な理解中心で動いてきたことの限界があるのではないだろうか。そして、ある面で、聖書の読み方について、教会と学会は信頼関係が回復できない関係が生まれて気続けてきた。例えば、ナザレのイエスをキリストとするかということを新約聖書学として回復できるかという状況の中にあるかもしれない。


N.T.ライト先輩

 その意味で、聖書学、文学、歴史学とを統合するプロジェクトをしているライトが紹介された意味は大きいだろう。
 

ミーちゃんはーちゃん的感想
 神学を体系的に学んだことはない信徒の分際でものを申し上げるのはつらいところではあるが、これまでのキリスト教神学は、近代社会の中での神学ということもあり、近代の科学の影響を強く受けてきて、個人の中でも科学思想が支配的な役割を占めてきた社会の中で、科学的でありすぎ、間主観的であろうとするがあまり、科学や理性で取り扱えない部分は無視してきたという側面があったように思う。その結果、素朴な信仰の在り様を否定するような神学的思惟が生まれたり、あるいはその反動として、無理筋に近いという印象を与えかねないほどの論理展開をする神学的思惟も生まれてきたように思う。しかし、『新約聖書と神の民』の前半部分は近代哲学の枠組みを参照しながら、聖書を読むとはどういうことか、聖書を理解するとはどのように考えることができるのか、そして、それがどう人々の影響するのか、をきちんと議論しようとしている本であることは間違いないなぁ、と思っている。特に近代思想を超えた現代思想は、もう既に対話主義的な方向に向かっているにもかかわらず、教会の方は、1950年代的な対決の構造に生きているような気がするのが、残念でならない。)


聖書読みの方法論
 これまでの聖書の読みは、現代の文脈を前提として、それから読み込んだり、ヘレニズム的な読みで呼んできていて、聖書の意味の豊かさを失ってきた。ストーリー神学には、ストーリーが持つ力がある。聞き手の人生を変える力を持つことができ、聞き手が直感的に語られたものと自己とを結びつけることを可能にする。聞き手の生き方、在り方を変えるものとしてストーリーには力がある。ナタンのたとえ、イエスのたとえなど、ストーリーを用いて語られているものがある死、現代の説教でも語りの形式がある場合もある。

 ユダヤ的背景から新約聖書を読み直すこと、また、方法論の実際の展開などを具体的にこの講演で示され、大著のエッセンスが示されたと思う。

 また、現代の文脈で誤解されている可能性がある読み方などもご指摘された。イスラエルの未来について、キリストの光で読み直すということ、旧約聖書が説得力をもつこと、キリスト教は旧約聖書の上にのっていることが、観念的にではなく、具体的に体験可能であることを本講演では示されたといえよう。

 ライトの著作が、学問的な成果でありながら、心が満たされるものがある。神学的でありつつ、福音的である。こういう研究は非常に心躍るものがあり、よみがえられたイエスを信じ、勇気や希望を与えるものである。

もし、ライトに聞けるとしたら
 現在、ライトがヘレニズムの理解や、三位一体の理解をどうするか、という部分に関心がある。贖いのストーリーをどう語っていたのか。ユダヤ人のストーリーが真実というのはどういうことか、ということをライトに聞いてみたいと思う。

 様々な人々と対話を求めるような思索をしているのがライトであり、その面で、教会の伝道に大きな影響を与えてくれるのがNTライトの本だろうし、その意味で、それを日本で紹介し続けることは重要ではないか。
(ミーちゃんはーちゃん的個人的感想
 まぁ、確かに、現代の哲学、現代の教会人、科学コミュニティ、メディア・・・と確かに対話を求めるような思索をしているという指摘は実にそのとおりだと思う。その意味で、教会から出ていき、社会、あるいは世界というかその中にある多様な関心領域のコミュニティと対話しているところはあるように思うなぁ。
 伝道というと、日本では言葉で、”福音”とそれぞれの人々が思っていることを他のキリスト者でない人々に直接面と向かって語ることと、と極めて言敵的な理解をしている方々が多いように思われるが、そもそも、キリストの存在を指し示すことが伝道ではないのか、あるいは、イエスがガリラヤでやったことは、「神の支配が現にあなた方の内にすでに部分的には実現しており、それが案外近いところで実現していることに目を向けたらどうだろうか?」と指摘したことだったような気がするので、そういう意味で、こういう説得的な方法というよりは、対話的な方法でそれを示すことの意味、というのは、現代社会において大きいのではないか?ということを想った。)


河野先輩(リチャード・ヘイズの著書の翻訳者)からの応答
 ライトの主著が、当初5巻セットが6巻になり、その主著の完成が終わるのだろうか、ということもあるので、大変なプロジェクトになるだろう。私からのレスポンスは、新約聖書学の視点からのレスポンスということになるだろう。

 ライトの特徴は、20世紀のブルトマンの位置が大きい時代の流れの中で、EPサンダースたちによる、パウロとパレスティナのユダヤ教を見直す中で、ユダヤ教の背景の中で、パウロを読むという方法論の中に位置づけられよう。ライトもヘイズもこの流れの中にあると考えられる。


リチャード・ヘイズ先輩


 その意味で、すでに実現された終末論に着目しているといえ、現在的な終末に関する強調 がある。CHドットやケアードとも深いかかわりにあるといえるだろう。また、第郷静卒の黙示思想や、史的イエスの第3の探求とも深いかかわりがあり、回復の預言者としてのイエス(ユダヤ的 EPサンダース)理解にちかく、イエスは終末論的存在であるとみているといってよいであろう。

 ただ、ライトは、終末においてユダヤ人の大規模な回心が起きることに関して否定的であり、こういうユダヤ人の大規模回心を伴うようなグランドフィナーレを言わない傾向がある。それよりもむしろ、神の支配が実現されたという部分に強調がある。

 また、イスラエルの聖典である旧約聖書に照らして、新約聖書を解釈するという傾向がある。旧約の預言の成就がその解釈の特徴であるといえるだろう。N.T.ライトの新約解釈を旧約解釈として理解していくという方法論では、象徴世界の中で語りだす自立的テキストとしての旧約聖書と新約聖書のテキスト間の相互関係を聞きとっていくスタイルであると居るだろう。その意味で、インターテキストエコー(リチャード・ヘイズが呼ぶところの)となっているといえよう。その意味で、ユダヤ人の世界を再構築するためにストーリーに着目しているといえよう。

ヘイズとライトの差異
ヘイズとライトとの違いであるが、
 ヘイズ    個別テキストの象徴世界の自立性に強調があり、テキスト解釈に徹している。
 N.T.ライト  テキスト批評を歴史の再構成するためのツールとして使っていくところがある

より具体的には、
1異邦人の置き換え神学への反対
2イスラエルの読み替え
3全イスラエルの救い
という点辺りにライトの特徴があるのではないか。

 以上に関して、1の異邦人への置き換え神学の反対に関しては、ローマのキリスト教会が生み出していった置き換え神学は、ホロコーストの源流であるとして否定的であり、2イスラエルの読み替えにかんしては、民族的なものとしてとらえていくのではなく、それを乗り越えていく義という点に強調点がある。3全イスラエルの救いにかんして、かたくななユダヤ人を壮大なスケールでの救いが起きるといわない。

 将来何かメシアがやってきてユダヤ人を救うとはライトは読んでいないように思える。イエスの初臨を根拠にユダヤ人が信じるという立場であると思われる。
ミーちゃんはーちゃん的感想 
 ここでユダヤ人問題が出しておられるが、日本にいるとあまり意識することはないのだが、結構このユダヤ人問題というのは、ヨーロッパでも、特に政治的なアリーナで何でも議論したくなるアメリカ型コンテキストで、このユダヤ人をどう考えるのか、ユダヤ人の救いをどうとらえるのかで、議論が大きく変わりかねない傾向にあるように思う。時に、この問題はメシアニック・ジューと呼ばれる人々の問題や、第3神殿建設するだ、といっている人々の理解とかかわりが出て来ることがあるなど、案外香ばしい香りがすることが多いような気がする。このタイプの確信犯的な理解者というか信奉者の皆様には、緩やかな対話をしましょうというよりは、真面目に論争を挑んでくるような雰囲気の方が少なくないので、結構対応に知恵が必要な場合がある。)

 もし、被造物が虚無に服しているのは、創造主の意思によるのであれば、一度かたくなにされたイスラエル人もイスラエルの復活預言の様に、一気に回復があり、救われてもいいのではないか、と思うがその部分にN.T.ライトは 少し否定的なところがある。

ミーちゃんはーちゃん的な全般的な感想
 このブログの長い読者の方は、既にお気づきのように、ミーちゃんはーちゃんは、N.T.ライト先輩の世界が好きである。というのは、基本的に対話的な姿勢をN.T.ライト先輩の書籍が持っている点、いくつ喪のあらな足る気付きをくれる点、合理、理性一本やりで、理屈でぐいぐい押すだけではなく、あるいは問題意識をそこに限り、その中で緻密な議論をガリガリ積み立てるというタイプの著者ではないからだろう。

 まぁ、ある面で言えば、緻密さにかける、あるいは精密さにかけるかけ、一種の破れはあるかもしれないけれど、聖書の全体像を漠然と出はあってもつかむことを可能にし、予想もしてない部分と予想もしてない部分をつなぎ合わせて、あ、これとこれは、論理的にはやばいかもしれないけれども、つながっている可能性があるかも、というような聖書の読みの可能性を容認してくれている部分があるかもしれないというところである。

 ただ、ライトの理論の危うさは、現代発見されている歴史的資料に基づいた議論の展開をしている点であり、常に見直しと見返し都が求められる点であり、確立されていない、とうい面があるかもしれない。また、従来型の完成形を目指し、確立され固定化されたものを求める皆さん向きの概念ではないかなぁ、ということは、今回正直改めて思った。さらには、将来において、変更の可能性を内包しているという意味で、内部的な確実さを重視する方々には、向かないのかもしれない。逆に、今、ある範囲の資料を基に、どう聖書理解を考えるのか、ということを考えたい方には、逆におすすめのタイプの聖書関係の著者ではないか、とおもった。

 とはいえ、楽しくあっという間に終わった2時間でございました。津のH先生に久しぶりにお会いできたし。





 
評価:
N.T. ライト
新教出版社
¥ 6,912
(2015-12-10)
コメント:万人向きではないけれども、かいていることは大切

評価:
リチャード ヘイズ
新教出版社
¥ 7,020
(2015-04-01)
コメント:よいけど、普通の人は買わなくてもいいかも、って感じの本。






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 今日は、先週土曜日に参加したN.T.ライト著『新約聖書と神の民』の出版記念講演会の後半部分についてご紹介したい。いよいよ、今回のメインディッシュともいえるローマ人への手紙9章から10章をライト的な方法で、読んでみるとどう見えるのか、という部分である。

Paul and Faithful God を手がかりにローマ書9章―10章を考える
 ローマ人への手紙9-10章にについて考えてみたい。N.T.ライトは、Paul and Faithful Godのかなりの部分を使ってこの部分に関する注解を記述している。

 イエスの当時、神学することとはストーリーを語ることでもあった。旧約聖書記述に基づき、イスラエルの歴史語りをしている中で、聖書の記述をもとに神をどう理解するかを述べあう、ということであった。パウロは申命記30章を9-10章の中心部においている。ユダヤ人の待ち望んでいたメシアが来たのに、新しい契約(神の宣言くらいの方が近いかもしれないと思う)に目を背け、新しい外国人がこの契約を受けとめていて、ユダヤ人が押し除けられているじょうきょうがうまれた。ユダヤ人の内に神から捨てられたという人まで出てくるほどであった。しかし聖書の中には、イスラエルが捨てられ、異邦人が救われるとは書いてない。その中で、ユダヤ人の不信仰をどう考えればよいのか、がパウロの9章から10章の部分であるので、後半はその部分を考えてみたい。

 (ミーちゃんはーちゃんによる注記 神学理解を旧約聖書の出来事をもとにして解釈していくユダヤ的伝統についても、前回触れたが、要するに当時の律法学者がやっていたことは、是なのであり、個別案件の判断をする際に旧約聖書の理解から考えて、この場合はこうだよね、と考えてくれるのが、律法学者の役割であり、これは、現代のイスラム世界では、イスラム法学者、イマームないしイマムがイスラム社会で果たしている役割と同じであるし、イスラム世界においては、世俗法よりも、この神の方であるイスラム法の方が優先するという場合もかなりあるらしい。これが一体化させるべきだってやったのが、イランではホメイニ君ってことだったらしい。)

(I)ローマ9章6−29節
 ユダヤ人が捨てられたかに見えるのは、神の計画の一部といえるであろう。ユダヤ人を軽蔑し始めている異邦人キリスト者への対応という側面がある。ローマ9章6節には、神の選びを書いている。

(ミーちゃんはーちゃんによる追記 まぁ、異邦人(その多くが異教社会におけるユダヤ会堂に集っていた改宗ユダヤ人)にしてみれば、イエス様が生きていてくれて、直接その発言を自分たち異邦人に聞かせてほしかった、という思いはあっただろうが、そうは問屋が卸さなかったのだ。イエスの言行録もユダヤ人の証言者経由、おまけに異教社会で活躍したユダヤ人である元パリサイ派のパウロに至っては直接の弟子ではない、と来ている。聖書を読もうとしても、翻訳者と来ていて、隔靴掻痒の気配もある、おまけに復活されたとはいえ、直接イエス様殺しちゃった野はローマ法であるとはいえ、それもばらばを釈放せよと騒いだのがユダヤ人ときたら、こいつらイランことしやがって、ちょっとくらいと思ってもばちは当たらないだろう。)

神の選び
 この部分は、2重予定説の教理の基礎と理解されることもあるが、ユダヤ人にとっては当たり前のことが書かれているようである。

 まず、族長アブラハムの選びから語っている。そして、イサクを選び、ヤコブを選んだという構造になっている。


ウィリアム・ブレイクのアブラハムとイサク http://www.bc.edu/bc_org/avp/cas/ashp/brunelleschi_ghiberti.html から

 神が選ぶのは、えこひいきではないか、という考え方もあるが、神の選びに問題があるだろうか、という問いに関して、それはない、というのがパウロの主張であるといえよう。

(ミーちゃんはーちゃん的補足 この神の選びに激怒して、自分の手で、自分の思う正義をやろうとしたのがカインということになっている。そして、彼は結局さすらうものになる。)


Cain&AbelW.Blake
ウィリアム・ブレイクのカインとアベル 

 イサクだけが約束の子、ヤコブだけがイスラエルになる。ここまでは、多くの人が合意されるところである。となると、彼らイスラエル人すべてが約束の子ではないし、例外も含むのではないか、とは言えるだろう(たとえば、アカンとか、ベニアミン族の士師記の最後辺りの事件とか)。

 約束の子とは誰か?それが、ダビデの子、そして、イエスキリストと絞られていく。

祝福における神の主権性
 祝福が異邦人に行くことで、ユダヤ人の方が不平を言っている状況があったといえるだろう。神の主権性、神が憐れもうとするものを憐れみ…ということは受け入れなければならない。ユダヤ人には神に抗議をする権利はなかった。別の民族を選んでも文句言えないし、哀れみによって残りのものがイスラエルに残されてはいた。ローマ9章29節で引用している聖書箇所は、「私たちはソドムのようになり、ゴモラのようになったであろう」という表記になっている。

 イスラエルの子供がおびただしい数存在したのだが、救われるのは残りのものだけということ、これが重要なポイントであり約束であるといえよう。果たして、多くなったが救われるのは残りのものとなっている。ローマ6:29 イエスやキリストとかは出てこない 約束の子というような表現はあるが、イエスとかキリストは出てこない。

 ライトはローマ書全体、パウロ全体を見えれば、約束の子は大事なテーマで、個別にイエスとかは記述がないけれども、それは、パウロがローマ書を書くうえでの前提になっていると考えているだろう。このあたりがライトの聖書理解の特徴で、ホーリスティックな部分であり、全体から部分を理解するという特性が表れていると思われる。

ミーちゃんはーちゃんによるホーリスティック理解の解説

Holistic(ホーリスティック)とかミーちゃんはーちゃんの世俗の世界の研究分野に近いシステム理論でも、研究の方法論ホーリスティックシステム理論というものがあるのだが、この方法論は、モダニティ、近代性、分析性に対して変わるアプローチとして現れてきたために、従来の科学の枠の説明にはなじまないことが多いし、単純化をせず、実際の姿を見るということがあるので、分かりにくく記述的で、数式による記述になじまない方法論である。
Holisticシステム論の中では、システム構成要素間の間接的な、目に見えないような「つながり」、予想もできないような可能性やつながりも重視する。
これに対して、従来型の分析型のシステム論の中では、インプットとアウトプットを明確に定義できるものに限って分析対象の中にいれない。限定的な方法論にかなり強調がある。要するにできるだけ単純化しようとするのが、この従来型、近代型の分析的なアプローチである。
例えば、近代型の聖書理解で言えば、使徒言行録を考える際には、直接の引用がある場合を除くと、福音書までしか戻らない。ところが、ホーリスティック型の聖書理解で言えば、使徒言行録を考える際に、あまり適切な霊ではないかもしれないが、雅歌とか士師記とかどこでどうつながるのかということについての想定がつかないようなところとの関係を含めて考えるということも可能になるのである。
こういう一種論理の飛躍と思えるようなことにも意義を見出すのがホーリスティックな世界観であるといえばわかってもらえるだろうか。


(II)ローマ9章30節〜10章4節
 ユダヤ人の行為義認(ペラギウス主義的な性質)を非難していると考えてきた。一種の自力本願的思想。自分の良い行いを神の前に示して認めてもらおうとする宗教的情熱と理解されてきたが、そうじゃないのではないだろうか。
もし、そうだとしたら、義を獲得しようとしたが、義を獲得しませんでした、とは書かずに、律法に到達しなかった、とパウロは書いたのではないだろうか。

 律法に達しないは、心の中では律法をしたいが、それを実行できない私、ということなどの表現に現われているだろう。この律法に従いつつ、それができなかったのが、まさにユダヤ人の歴史ではないか。律法を確立する、律法を全うし、聖なるトーラーを実行しようとしたけれども、それができないユダヤ人であった。
ここで、申命記30章を引用している。

どうすれば律法を実施・成就したことになるのか、律法を全うできるのか
 ところで、律法を行うことができる、あるいは、律法を守るとは、どういうことかというと、行いとして理解されるとともに。約束の成就でもあった。信仰ではなく、行いによって律法の成就、約束の成就を目指そうとし多といってもよいかもしれない。

 聖霊があるかないか問題でいえば、ローマ書9-11は聖霊が出てこない。聖霊の力による律法の成就は重要だと思われる。パウロはそれを踏まえて発言しているだろう。8章では、律法の要求が満たされるためであったとしているが、それは、聖霊の力により律法の要求を満たすことができることを示しているのではないだろうか。

 パウロは10章でヨエル書から引用している。そこでは、聖霊の授与が主要なテーマであるが、聖霊の授与は終末時代の到来の証拠であったからであろう。

 パウロは聖書(旧約聖書)暗記していたからこそ、この部分も念頭に起きながら、引用しているだろう。聖霊の授与も暗示されているとライトはみているようである。御霊に与ることは重要だと考える。

 ガラテヤ3章14節を考えてみると、信仰によって聖霊を受けることができ、聖霊が与えられることで律法の実行という約束は出てくることになろう。律法は自分ができないことを、聖霊を得て実行したいということになるだろう。当時のイスラエル人が知らなかったのは、イエスを信じずに聖霊が来ないことを知らなかったことである。

(ミーちゃんはーちゃん的疑問 ここで、疑問は、当時の一般的なユダヤ人世界において聖霊がどう理解されていたのか、という素朴な疑問である。もちろん、その一端はイエスとニコデモとの対話の中に表現されているが、神の霊とその効果みたいなものをどう理解していたのか、ということがちょっと疑問になってきた。)

神の義をどう考えるか
 ローマ書の神の義は、十字架と復活によって、新しい契約を打ち立てた神への忠実さのことであり、「あなたの子孫によって全世界の祝福がなされる」というアブラハムへの預言が成就したことである。

 しかし、人間は、古い生き方に固執してしまう傾向があるだろう。モーセ契約には、制約がある、民族主義的な制約がある。しかし、神の熱心によってユダヤ人もギリシア人もないという時代が来た、というのがパウロの主張であろう。ある面、この新しい時代に生まれた教会を迫害するユダヤ人のことを嘆いている。

(III)ローマ書10章5-13節
 この部分は、行いと、信じるだけの単純な対比ではない。肉の行いと聖霊による行いの対比であるといえよう。行いと行いなしの信仰ではないだろう。さらに言えば、肉の行いと聖霊の行いの対比とN.T.ライトは主張している様である。

 10章9節がこの部分のクライマックスである。パウロはイエスの復活を語るが、ローマ書では十字架を語らない。復活の持つ救済の決定的意味を語る。復活させられたのです等移転に強調があり、この復活によって新しい創造をはじめた、ということが述べられる。

(IV)ローマ書11章1-24節
 この部分では、イスラエルの過去の歴史についてイエスを参照しながら考えるのではなく、11章以降はイエスを参照しながらイスラエルの未来を見通している。キリストの視点から見直しているといってもよい。神はユダヤ人を見捨てたのではない。ここで考えてみるべきは、ローマによる属州支配における異邦人の反ユダヤ主義的感情である。多くの反乱がユダヤで見られた。

見捨てられたイスラエル人?
 パウロは、イスラエル人が神から捨てられたのでないというが、そうだとしたら、じゃあなぜ、イスラエル人は、神に逆らうのか、ということが問題になる。

 ローマ書11章15節 と 5章10節の並行関係にライトは注目していて、5章19節なども参考にできよう。

 キリストが捨てられることによる和解がイスラエル民族にも当てはめられること、これが9章から11章に流れるテーマである。
イスラエルだけが救われるためではなく、イエスが捨てられることで、全世界の和解が成立することになる。世界の和解のためにイスラエルが捨てられるとりかいできるのではないだろうか。あるいは、イスラエルの不信仰ですら全世界に祝福をもたらすことになる。

かたくなになったユダヤ人
 では、かたくなになったユダヤ人はどうなるのか。申命記32章からの引用が参考になるだろう。ユダヤ人たちの不信仰によって祝福を得た異邦人たちの存在が、今度はユダヤ人たちにねたみを起こす原因となり、それがさらに、ユダヤ人たちの救いにつながるという事が起るというのです。そしてユダヤ人たちが救われることは、世界にとってさらなる祝福をもたらす、とパウロは語る。

オリーブのたとえ
 ここで、オリーブの木が出てくるが、そもそも、オリーブの木とは何だろうか。イスラエルの象徴と解され、族長たち、イスラエル民族を指す。また、神のたった一つの家族 Abrahamの家族であり、その中に属するかに関しては、人種は関係ない。イエスにあるものはアブラハムの子孫となるという理解や、ガラテヤ3章2節の理解もあり、オリーブの木には異邦人も含まれるといえよう。

(V)11章25-32節
 ここではイスラエルの救いが提示されるが、あるいは全イスラエルが救われるとなっているが、ところで全イスラエルをどう考えることができるだろう。

 一般的な通説は、4ポイントにまとめられる。

1.    秘められた計画は奥義として隠されていた。全く新しい啓示 ここまでは秘密扱いにされていたという理解
2.    時間的な意味で イスラエルはかたくなにされたのであるという理解
3.    残りのもの以外のイスラエル人は救われるが、それがおきるのは、再臨時であるという理解
4.    民族としてのイスラエル、再臨の瞬間にイエスを信じるという理解

 ライトの主張によれば、ここは新しい啓示ではなく結論である問うことである。つまり、神がかたくなに心をしているのに、神の意思に反してユダヤ人をどうこうすることもできないし、それすることは神に反抗することになるだろう。そして、神の憐れみが示されるということであろう。

 いまイスラエル人は憐れみを受けている。将来ではなくて、今がイスラエルにとっての恵みの時であるという理解である。

 ユダヤ人は律法を追い求めた。律法を成就することをめざした。メシアとしてのイエスを受け入れることによって、異邦人が律法を成就することになった。

異邦人とユダヤ人が一つになった
開放・和解に意味があるという理解

 全イスラエルは、イエスを信じるユダヤ人と異邦人の群れ全体のことであるといえよう。
 オリーブの木は即ち全イスラエルを理解できるのではないか。つまり、野生のオリーブと栽培種のオリーブが一体になり、一本のオリーブの木となる世界が生まれるということであろう。

 イザヤ書59章からの引用は、ライトはキリストの初臨のことだとみている。シオンの話を合わせて理解しているのではないか、とライトは想定している。こういう理解は、ユダヤの通例であるが、それをパウロがやっているのではないだろうか。
その意味で、全イスラエルというのは、民族的イスラエルのことではない。この説は学会では不人気であるが、実は、ジャン・カルヴァンがこの説である。カルヴァンは、反ユダヤ的な特性がない宗教改革者であり、神の選びの普遍性を強調している。異邦人はユダヤ人に次記されるという理解である。


結論
 全イスラエルは、ユダヤ人と異邦人からなることは軽んじているのではないか。旧約聖書はユダヤ人と異邦人が一つになっているといえるだろう。

イスラエルは捨てられることで、神の救いを完成することになるという構造があるのではないか。
ある面、キリスト教は旧約聖書という土台につくられている。イスラエルの神がイスラエルの民を通してすべての民族を救おうとしているという新約聖書のストーリーは、ある種旧約聖書の中に見いだされるストーリーであり、それをライトは主張しているのではないだろうか。そして、ローマ8章が、ローマ書全体のクライマックスであり、全被造物の回復を告げ知らせているのだ。

 次回、レスポンデントの応答のご紹介


 
評価:
N.T. ライト
新教出版社
¥ 6,912
(2015-12-10)
コメント:最初は読みにくいけど、重要なことを言っている。



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 今回は、愛するがゆえに傷つけるということを聖書が容認していない可能性と、それを軽々に口にして、他者を痛めることがあってはならないことをご指摘申し上げた。さっそく水谷さんは、前回の記事を受けて、その旨を 神が今日求め給う「傷ついた癒し人」と「傷つける愛し人」 の中でご追記頂いた。実にありがたい限りである。ミーちゃんはーちゃんの真意をキチンとご理解いただき、迅速なご対応を頂いたことに、こころから御礼を申し上げる。

日本の家庭形成モデルと日本型家父長制の怪しさ
 誤解無きように申し上げておくが、当ブログは、水谷さんのご意見には原則賛成である。現代の日本社会における家庭の中で、家庭における父親原理の不在(それの一方的な母親への押し付け)と男性の家庭における自信のなさ(恐らく、男性の内実の乏しさから来るものかとは愚考するが)は、現段階ではその影響の端緒は見え隠れする状態であるが、それは将来日本の家庭形性とその姿を大きく変えていくと思っている。

 正直に言うと、ミーちゃんはーちゃんは、戦前から戦後の一時期広く理想とされた家父長制というのは、大嫌いであるし、それが聖書的なものと一致するなどとはこれっぽっちも思っていない。そもそもあれは、日本で独自に造りあげられていった明治期以降の天皇制を前提とした概念であり、一種偶像崇拝的なものを含むといってもよいのではないか、とさえ思っている。
 それに、そもそも日本の典型的な古代の家族関係は、通い婚社会であり母系社会であったのだ。その意味で、平安朝の色男はみんな自分ちに引き入れるんじゃなくて、お泊りに行くのが倣いであった。


戦前の家族制度と天皇制度との関係
http://blogs.yahoo.co.jp/yikeda31/14811693.html より


日本の理想の家庭像を描いたとされる二次元世界の架空の家族モデル
http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/01/735.html

 そもそも、このブログ記事「上智大学大阪キャンパスでの月本さんの公開講座に行ってきた(1)」で触れた月本先輩のご指摘のように、旧約聖書は親を捨てるものがたりでもあるだ。カインのさすらい人になっちゃった事件しかり、アブラムのカラン出奔しかり、放蕩息子の物語もしかり、もうあとは何をかいわんや。もう少しいえば、親を捨てさせるように子供を育てていくのが、ある面、親の責務であるといえる。しかし、そう育てながらも、どこか根底でつながっていて、時々思い出したように戻っていき、そして、それを親はまれ人として受け入れていく関係のように思えてならない。

 多くの場合、日本の既存文化として定着してしまった概念の上で日常生活が行われることもあり、また、聖書理解も日本の既存文化、日本語の参照枠(理解のフレームワーク)の中で聖書を読んでいくため、その部分の影響が出てしまうことは否定できない(現地化という概念から考えると、それを一概に悪いとはいえないと思っているが)。しかし、結果としてそのように出てきたものが、本来的に聖書の全体のコンテキストと照らし合わせてみて、大きくぶれていないか(間違っていないかではなくて、ぶれていないか)を言うことの検証は必要かもしれない。

 なお、このブログは、家庭生活や家庭形成の専門ブログではない。従って、これ以上の言及は差し控えたい。

聖書テキストに戻ってみよう
 ただ、追記をわざわざしていただく、という実にありがたいご対応を頂いたのだが、どうも、「愛するがゆえに傷つける」という箴言27章6節の解釈として、それが適切な表現方法なのか、ということに未だに疑問がある。そこで、もともとのテキストに戻り少し考えてみた。個人的には、水谷さんとはお仲間(自称、お仲間かもしれないが…)なので、そのお働きとか、そのご奉仕とかそのご示唆とかは、高く評価しているし、個人的にも大変お世話になっている。 本記事の記述は、 純粋に聖書テキストとして「愛するものが傷つける」という理解のオリジナルの意味をどう考えるのか、ということを考えることにある。
以下に手直にある主な翻訳をひろってみた。
【 口語訳聖書 】  箴言 27章5-6節
  あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる。
  愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。

【新共同訳聖書】 箴言 27章5-6節
 あらわな戒めは、隠された愛にまさる。
 愛する人の与える傷は忠実さのしるし
 憎む人は数多くの接吻を与える。

では、この愛する人の与える傷、という部分は、どんな関係の「愛」だかよくわからない。聖書翻訳にいちゃもんをつけているわけではないが、あまりにザクッとしていて、いろんな関係性の中の愛を突っ込めるような構造になっている。ここまで調べてみて、あぁ、これはミーちゃんはーちゃんの理解の不足だったか、と思っていた。まぁ、それならそれで、ちゃんとそのように書こうと思っていたのである。

 そこで、念のため、普段使い慣れた聖書でないためか、少し癖のある感じがする聖書翻訳であるが、フランシスコ会訳を開いてみた。すると、こうあった。
 
【フランシスコ会訳聖書】 箴言 27章5-6節
 率直な戒めは、
 ひそやかな愛にまさる。
 友人の与える傷は真実なもの
 敵の口づけは偽り。

とあり、欄外中には、
「友人の与える傷」は、単に肉体的傷を指すのではなく、欠点を正すための忠告を指す(シラ19:13-17参照)。ヘブライ語の「望ましい」を「偽り」と読む。
とあった

 これを見て驚いたのだ。ここの部分の愛とされている語の意味が水谷さんが主張されている意味と、かなり違うかも、という疑念が生まれたのである。そこで、少し英訳聖書を開いて見た。なお、ミーちゃんはーちゃんは必要に迫られて初めて英訳聖書は開きはしてみる程度の人間である。英訳聖書至上主義者でも、英訳聖書原理主義者ではない。英訳聖書が常に正しく、英訳聖書に何が何でも依拠すべきだとも思っていないことは申し述べておく。
【New King James Version】   箴言 27章5-6節
 Open rebuke is betterThan love carefully concealed.
 Faithful are the wounds of a friend,But the kisses of an enemy are deceitful.

【Today's English Version】  箴言 27章5-6節
 Better to correct someone openly than to let him think you don't care for him at all.
 Friends mean well, even when they hurt you. But when an enemy puts his arm around your shoulder-watch out!
とあった。

 フランシスコ会訳聖書、英訳聖書とその他の日本語訳聖書と比べてみると、かなりはっきりするが、ここでの愛は、友情に基づく真実な愛ということのようなのだ。ここでの傷は、友人としてお諫め申し上げることによる傷、ということであり、愛とは、父親と子供の愛というよりは、友と友との間の至誠に基づく友情のことのように思われる。

で、結論としてどうなん?
 とここまで見たように、もともとの箴言27章の引用されたテキストの文脈は、人間関係の愛情の中でも、友情に関するものであり、父子間の愛情に関するものではどうもなさそう、というのが、概ね妥当な結論といえるのではないだろうか、ということにミーちゃんはーちゃんは思い至った。

 その意味で、父子間の愛ではなく、信頼関係の中にあって、相互に合意の上で批判を受け止めることを進めた言葉であったのではないか、と思う。まぁ、かなり厳しいが、この父子間の関係における友情みたいなことをベースにして、この聖句は、やはり傷をつける愛は容認される、という解釈はできなくはない、は思うし、多様な解釈の内の一つの解釈ではありえるとは思うが、かなり、聖書解釈の手筋の線としては細いし、厳しいのではないか、と思う。

 水谷さんの主張には、日本のキリスト者家庭の中において、父親子どもとの間の関係に関して、もう少し親たちが子供に向かっていってやるべきである、というコンテキストにおいては基本的に大賛成であるし、家庭の中で、父親が子育てから逃げない姿勢を示すことは重要であるとは思っている。そして、そのご発言は現代社会の中でのキリスト者に取って重要な意味のあるご発言だと思っている。

 この記事を書いたのは、違和感を覚えた表現に対して聖書テキストに戻ってみて、どう考えるのか、ということをミーちゃんはーちゃんが考えてみた結果で、前回の記事で書ききれなかった点を補足したものである。
 
 したがって、水谷さんの記事の撤回や修正を求めているわけでも、水谷さんの聖書理解がおかしいという指摘をしている(だいたい、そんな立場にないこと位、ミーちゃんはーちゃんは自分自身が一番良く認識している) わけでもない。こういうお小言型記事というか、批判記事(これは、ドイツ批判哲学的な意味での批判記事という意味で書いている)を書くと、すぐそういうゲスイ勘繰りをされる方々がおられる。実に困ったものである。

前回の記事の本旨
 前回の記事で、何より、ミーちゃんはーちゃんが主張したかったのは、神の名を騙り、聖書を誤用して、自己の不適切な行為を正当化する人々への批判である。こういう人々はどの時代にも、どこでもおられる可能性があって、それがキリスト教世界において多くの悲劇を招いてきたこと、そして、そのことに直面した人には、癒しがたい傷を残すこと、聖書の語を誤用して、その傷を残すことをあまりに軽々しく考える人々がおられることに、ミーちゃんはーちゃんはもう十分である、と思っているということである。

 そして、水谷さんの記事に対してではなく、他人に愛ゆえに傷を与えてよいと手前勝手な、自己に都合よく解釈する人々に、「それで本当によろしいのですかねぇ?」ということを強く申し上げたい、というだけである。

 まぁ、こういう人々は、こういう御警告を申し上げたところで、勝手に問題行動を起こしちゃうので、実はあまり意味がないと知っている。

教会の中での身体的被害の場合
 組み合わせの問題で、こういう手前勝手な解釈で、人を傷つけることを容認する人々の被害者あるいは犠牲者になる可能性は誰にでも起こりえる。本人の信仰深さや、祈りの多寡によらない。

 被害者ないし犠牲者になりかけたその時には、まず、おかしいと思ったら、その主張する本人の主張を丸のみしようとするのではなく、あるいは、自分の考え方がおかしいかも、(このおかしいと気づいた時点で、回避の可能性は出てくる)と思い込むのではなく、聖書テキストにもとって、如何に乏しくてもよいから考えてみられるということをお勧めしたい。

 あるいは、ある理不尽な聖書理解をもとに、無理押ししてこられたに対して、他の聖書箇所を参照しながら、思いを巡らして見られることをお勧めする。そして、いのちがヤバい、とか、身体的にヤバい、とか、精神的にヤバい、霊的にヤバい、という感じたら、まずは一度、原因者の方と距離をとられることをお勧めする。やばい状況になったら、その教会をすぐさま離れろという主張ではない。適切に距離をとり、加害の可能性のある他者と自分との関係を客観視できるようにするのである。

 DV被害対策の場合、ストーカー被害対策の場合、まず最初にするのは、距離をとらせることである。いかなる名目、それが愛であれ、家庭であれ、現状の目の前に存在する何かを守ろうとするために、無茶を言いう相手の主張を何でもいいから受け入れるようにすることからの開放を最初にするのである。


 繰り返し言うが、人間は神ではない。鼻で息するものに過ぎない。それは、ミーちゃんはーちゃんとて同じである。

 
 以上、本連載はこれで終了。
 カルトの話になったので、ゲーム論設定の中で暴力を受容するキリスト者とカルトの問題を考えるとどうなるかは、近々考えてみたいと思っている。


 



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 お、気が付けばこの投稿が記念すべき1000番目の投稿、あんまりこういうのは大事にしない人なんだが(というのは、1000番目と1001番目がどっちがえらいとか、どうのこうのというのは基本ナンセンスだと思っているから)、まぁ、1000個も記事を書いてきたのかと思うと我ながら、何をやってきたんだろうというのはある。無論、書き差しでまとまってないものもあるから、公開してないものが70くらいはあるが。

 それはさておき。

 2016年4月16日 都内某所(こう書くと何か謎めいていて面白いと思うのは私だけ…)で行われたN.T.ライト著『新約聖書と神の民』出版記念講演会の参加記録をば。ま、目的はそれだけでなくて、今回もいくつかのよう対応要件を同時に住ませるという出張であったが。

 まず、出版と日本のN.T.ライトを考える人々の動きなどを含めた簡単なここまでの経緯の説明を司会をなさった小嶋崇先輩がなさった後、本日の講演会の概要のご説明があった。

 録音は参加者に限って個人使用のみ可能だが、講演の中身そのものは新教出版社の権利がかかわっているので、流通はご遠慮とのことであった。

N.T.ライトとは誰?
 N.T.ライト先輩は、オックスフォードで西洋古典(古典学:ラテン語とかギリシア語とか)を治め、その後聖書学に研究分野を移した人である。もともと学生時代は、ラグビーしていたこともある。(あぁ、格闘技系関係者の雰囲気はその辺から出ているのかも…)
一言で言うと、スケールが大きい問う感じがする。神学者で、牧会者で、著作者であり、講演者であり、貴族院議員でもあった。
N.T.ライトの世界ではクライマックスというか、一種の高揚感がある。

(個人的感想 多くの大学人がするように、確かにテーマや対象を冷徹に分解して、その部品を示す、というやり方ではないですねぇ、確かに。いったんバラバラにしたうえで、目の前でくみ上げてみせ、「ほら、こう見ると分かるよね」とか「ほれ、こうなってるんだなぁ、面白いよね」といっているという部分があるように思う。ある面、Analysisの人だけではなく、Synthesisの人なのだ、と思っている。)

 ダラム大聖堂のビショップだった経験もあるが、そのご退任して、セント・アンドリュース大学へ移っている。神学だけでなく人柄も非常に高揚感があるという感じの人である。
(この辺はオックスフォード大学の用務員さんのN.T.ライト先輩への好感度ポイントは、ウルトラハイスコアだったらしい)

文芸批評・物語神学・ストーリー神学
 ここでは、ストーリー神学と書いているが、これを文芸批評と物語神学との違いにおいて、述べてみたい。

 文芸批評は、文学の研究手法の一つであり、その意味で、聖書も文学 文学として味わうという徳性を持っている。

 物語神学はかなり多様な意味でつかわれているものの、完成された聖書の中の物語に注目するものといえるのではないか。

 文芸批評とは、古事記など歴史書にも、神話などの題材があるが、それをどう取捨選択されてきたのかを研究するのが文芸批評の考え方であるといえよう。これに比し、完成された聖書の物語がどういうものかを味わうのが物語神学であるといえよう。

 ところで、ストーリー神学は、ストーリーを様々な視点から語ることで神学をする神学といえるかもしれない。これは、1世紀前後のユダヤ人で行われた普通の方法論であった。

 武田先生の古代哲学と古代宗教の違いによれば(ここは引用)、哲学は抽象概念、宗教(この言葉を使う妥当性はさておき)は物語を使うって真理を述べてきたのである。哲学は抽象概念から説明されてきた。(以上、ミーちゃんはーちゃんによる要約)

イエス時代のユダヤ社会の神学論争とその方法論
 しかし、イエス時代前後のイスラエルの神学世界において、抽象概念よりストーリーが重視された。ストーリーとは歴史であるが、神が働かれた歴史を解釈し、その解釈をストーリーとして語るという側面を持っていた。

 イスラエルの歴史物語として残っている資料は多い。ヨセフスのユダヤ古代史がその典型である。

(ここではっとしたのが、ヨセフスのユダヤ古代史で描く世界と旧約聖書に微妙なずれがあるのだが、何でこんなことをするのか、ということが今やっと分かった。ヨセフスはユダヤ古代史でローマ関係者が読めるかたちで自分の神学を提示して見せたのだ。 これは、新約聖書と神の民(上)の真ん中あたりでかなり出てくる。それと、この話を聞いてAha!体験だったことがある。四福音書間の異同の問題である。4福音書は、それぞれの聖書記者とされる人々による、神学的対話だから、4ついるのだ。ライトは、How God Became Kingの冒頭部分で多チャンネルステレオセットの話でそれを説明しているが、より正確には、福音書記者間での対話だと考えればいいのかなぁ、と思った。)

神学的対話の技法と聖書の記述
 歴史はどのような視点から考えるかで変わってくる。 歴史は一種の人間へのパースペクティブ(たぶん、世界観でも相互互換かも)を与える。当時のユダヤ人が議論するときは、異なる旧約聖書箇所に基づき、それから得られる歴史観から議論する。ことなる歴史観をそれぞれが生み出し、それを相互にぶつけるということを神学レベルでやっていた。

パ ウロは、ストーリーを通して神学を伝えたのか、といいう問題を考えてみたい。抽象概念を使った人としてのパウロとして理解されており、これに反し、イエスは典型的なストーリーで語った伝統的な語り口であるという理解が広く普及していると思われるが、ところがしかし、パウロは、論理世界、抽象化した哲学風なこととして語っているかというと、どうもそうは言えないかもしれない。

 N.T.ライトはそうでないと主張している。新約聖書と神の民の邦訳書150ページあたりでそう書いている(ほら、本がほしくなってきたでしょ。キリスト教書店にファックスで注文、または新教出版社に今すぐご注文しましょう)。

 パウロの表明のコアは、イエスを中心としたストーリーを語って、彼の神学を伝えようとしている様だ。ローマ9-11章 イスラエルの歴史語りのコアだとライトが考えている。
 
 マカバイ記というイスラエルの文書があるが、マタティア遺言などにも同様の傾向がみられる。
アブラハムが義と見なされたことをどう考えるかに関して言えば、パウロは創世記15章の記述から説き起こしており、神の約束を信じたことで義と見なされた、としている。あるいは、イサクをささげる記述である創世記22章に示された試練から義と見なされた、ということを語ってもよい。イエス時代の聖書理解の対話は、こういう異なった聖句から導き出される立場の違う聖書理解の体系を相互に参照しあい対話をしていたと考えてもよいだろう(あぁ、これで分かった、と思った。イエスと律法学者との対話がかみ合っていないようでいて、実はある点においてはきっちりかみ合っていることが多いのだ。実は、違う論点間の議論をしているから、現代人にとってはトンチンカンに見えてしまうけれども対話しているものの間では、火花が散るような対話がなされているのかもしれない)

 旧約聖書記述のどれを使って自分の言いたいことを言うか、ということが大事なのである。先の義と認められることに関しても、旧約聖書記事を根拠にしつつ、どのアブラハムのどの事件で語るかによって、議論に陰影(深み不神というか微妙な味わいの違いというか、微妙なグラデーション)が出てくる。同じ内容や対象を語っても、どこの出来事や聖書箇所から語るかによって変わる。(どちらかが正解である、ということではないだろうし、どちらも正解であることをイスラエル社会では伝統的に認め、どれか一つの真理しかないというようなやり方は、民族の伝統として持たないようである。この辺は、山森レビ先生からの聞きかじり)

 ここで、先のマカバイ記に戻れば、ピネハスとエリアによって遺言を残す人は語ろうとしている。そして、律法へのゼーロス(たぶん熱心党、ゼロタイとかの語根が共通?)をいう。そして、バアル預言者との戦いを通して、神の律法への熱心(ゼーロス)を語る。

律法順守のアイコン
 ここで、律法に熱心であることは、ユダヤ人の信仰の模範、ユダヤ人のアイコンでもあった(ムスリムが、礼拝やハラールをアイコンとしていることや、現代イスラエルにおいても、コシェをアイコンにするのと似ちえるかもしれないと思った。ペルシャ語学習中の息子さん情報によれば、国内でいい加減でも一度、海外に出てしまうと、こういう規定を順守する傾向にあるらしい)。一種、暴力も辞さない熱心さでもある。イエスを信じないユダヤ人ではあったが、律法を守ろうとした。そしてその壮絶な順守はアブラハムの子孫であることの象徴(アイコンあるいはバッジ)といってもよいかもしれない(現代ユダヤ教の超保守派が髪の毛を切らずクルクルカールした神を耳の前に垂らすのもたぶんそれ。自分たちがアブラハムの子孫であることを必死に自己アピール中であるのだと把握)

 死海文書を生んだ、クムランの宗教集団は、ユダヤ人の民族的な価値観を覆そうとした。律法の諸々の行いを必死で守ろうとしたが、神の約束を守れば祝福そうでなければ、滅び、というような理解であった。

 バビロン捕囚は契約の呪い 70年で終わったバビロン捕囚出はあったが、完全にダビデ時代の再現となったかというと、それはかなり怪しくて、帰ってきても捕囚状態にあった。

 バビロン、ペルシア、ギリシア、ローマ(順不同)による支配を受け続けたのがイスラエルであった。その意味で、他国による半統治、半支配状態にあり、実質的には、半植民地統治が行われた地状態にあったといえよう。

 比較としての妥当性の問題があるが、現代日本人にまだイメージがわきやすい例としては、1970年以降の沖縄に近かったのではないか。日本に返還されたけれど、他国の軍事基地が存在したままの状態である。(完璧に余談であるが、日本の関東地方の広域航空管制は米軍が権益をもっている部分が多い。何でこんなしょうもないことに詳しいかというと、ミーちゃんはーちゃんは何を隠そう飛行機ヲタでもあるからである)ローマ帝国としては国際陸上交通の要衝、軍事通行路として、イスラエルは極めて重要であった。


横田空域問題を示す図
http://blogs.yahoo.co.jp/biwalakesix/24765574.html より


沖縄の米軍基地の模様 
http://apjjf.org/-David-McNeill/1768/article.html から


アメリカ空軍の巡回警備員をする働くワンちゃん
https://www.pinterest.com/pin/283797213990122742/ から


 こういう状況を踏まえると、神学的には律法の呪いの下にある状態。非常に悲惨な状態にあったといえよう。
このような時代背景の中、クムラン教団は新しい時代が到来したことを、申命記30章を引用しつつ、示していく。また、イエスやパウロにとっても申命記30章は重要であり、一種イスラエルへのターニングポイント、クライマックスがそこに示されている。

 イスラエルの希望を申命記30章を使って、イエスもパウロも表明しようとしている。今こそ、祝福の時がやってきたことを告げようとしたのではないか。

(神の国がイスラエルにやってきたという祝福の時、それを知らせたのが良き知らせ、福音であった、と理解すれば、イエスがガリラヤで開口一番やったことは、神の国が近づいた、だから悔い改めて神のものに戻れ、といったことが容易に理解できよう)


以上 山口さんのご報告前半部分


次々回位へと続く。
評価:
N.T. ライト
新教出版社
¥ 6,912
(2015-12-10)
コメント:内容は難しいし読みごたえはありますが、考えたい人にはめちゃくちゃ良い本です。

評価:
N. T. Wright
HarperOne
¥ 1,198
(2016-03-01)
コメント:大変よかったです。




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「傷つける愛し人…え?」
いつも拝読している水谷潔さんのブログ記事に、神が今日求め給う「傷ついた癒し人」と「傷つける愛し人」 (2016/04/07)という記事があった。要するに、豊田先輩の「父になる旅路」での本において指摘されたこと(同書は入手するもまだ読むに至らず)を受けて、現代社会における父性系の愛情とその愛情表現、要するに厳しい愛の家庭内における不在ないし不全と、家庭の機能不全、それが教会にもたらしかねない不全について触れ、ナウエンのWounded Healer(傷ついた癒し人)を踏まえたうえで(ここが重要)、さらにこの「傷ついた癒し人」が「傷つける愛し人」であることも考えるべきではないか、という小論である。



表紙絵が実に印象的なナウエンの『傷ついた癒し人』

カルトとかDVを思い出しちゃったじゃないですか…?
 おおむね、水谷潔さんのこの問題提起は妥当であると思うが、個人的には、少し違和感を持ったのは、ある語とある語の組み合わせが、あまりに一般化されやすい可能性を持っていて、ある種の危険性が潜む点と考えるからである。

 というのは、この「傷つける愛し人」を自称するカルト指導者が案外かなり多いのだ。カルトとまでも言わないまでも、カルト化した組織、あるいはカルト化しつつある組織の中で、割とこの父性系の愛の論理にみえる愛として信徒、関係者や傷つけることが正当化されるために誤用されるケースは多いようにお見受けする。

 典型的には、オウム真理教の麻原尊師と呼ばれた人物がそんな感じであったと認識しているし、個人的に何度か、ひどいカルト被害ないしカルトもどき被害に直面した方何人かのお話を直接お伺いすることがあったが、そこでも、カルト集団ないしカルトもどき集団の指導者たちが、「私はあなたに対する愛ゆえにあなたに苦しい目に合わせている」ということをおっしゃる向きがあることをお聞きしているからである。

 皆様ご存じのように、最近報道されている事例でも、児童虐待系のDV系の加害関係者の中でも、自身の行為を正当化するために、「しつけ」であるとか「この子のためを思って」という論理構成が利用されることもある。

 つまり、カルトや児童虐待系、DV系の加害関係者において「傷つける愛し人」であることを正当化に用いられかねない論理を上で触れた水谷潔さんの文章はうまく排除しかねているからである。

成長させるか、崩壊させるかの基準
 では、何が問題なのであろうか。なにがどう違うと、一方で人間を霊的変容と神の介入に対して心を開かせる「傷つける愛」となり、他方で、人間そのものを崩壊させかねない「傷つける愛」になるのか、ということである。

 おそらく、それは『愛』が何を意味しているのか、ということではないか、と思う。あるいは、何のための『愛』であるのか、その『愛』と称するものが目指していると考えているか、という点が極めて重要ではないか、と思う。ごく簡単に言えば、自分自身もともに痛む愛、あるいは、傷つけるがゆえにその傷を自ら引き受け、自ら回復するための用意というか責任を引き受ける覚悟の有無ではないか、と思う。

 キリスト教においては、「愛」は無敵のカードである。「愛」という語を振り回せば、あるいは、この「愛」の粉をまぶせば、なんでも美しく見える魔法の粉である。しかし、我々は、「愛」について、どの程度知りえているのだろうか、自己の「愛」をどれほど見つめることの経験をしたのだろうか。確かに、エロース、フィレオー、アガパオーとか、わかったようなことは言えるかもしれない。それにどの程度内実を伴ってそれらを我らが経験しているのだろうか。自分自身を反省するとき、実に心もとない。なお仏教世界では、愛は苦を産みだすのだそうである。

 我々が「愛」という言葉で何かを処理してしまおうとするとき、自分自身の中の愛の中身をどれほど問うているのだろうか。「そこまでまじめにしろというのであれば、何もできない」という方は、正解だと個人的に思う。本来には、それは重過ぎてできないことなのではないかと思う。あるいはよほどの覚悟なくして、なしてはならぬのではないだろうか。「愛」の名を軽々しく口にしてはならないように思うのだ。人は根本的に「愛」がないものであるがゆえに、「神の愛」を一時的に、その一部を限定的にこの地においてごくごくわずか、電子顕微鏡で見ても見えないほど、お預かりしているだけの存在でしかないと思っている。その意味で、神と偶像の間を振り子のように触れ動く鼻で息するものとしては、神のごとく完全に引き受ける愛は存在しないのではないか、と思っている。

「傷がない人はいない」「傷つけたことがない人はいない」
が聖書ではないかな?

 あるいは、裂け目がない人はいない、傷がない人はいない、他者を傷つけた人がいない、他者であるイエスを傷つけた人はいない、他者としての神を傷つけた人がない、という自己を含めた認識の上に立つことはまず考えられる必要はあるだろう。そうであっても、『愛』の故と思っても、傷つけようとするものが、自己の過去に起きた同じ傷を他者に与えようとしているのではないか、という自己に対する哲学的反省的な、あるいは自己批判的な視点に立てるかどうか、少なくとも意識が「そこにあるのかないのか」ということは重要な問題ではないだろうか、と思うのだ。あるいは、自分自身が裂かれる、自分自身が神を裂いてしまったことがある、という経験を冷静に見つめる目を持っている、といってもよいかもしれない。

 今も昔も、人は容易に傷つく。そのことをひとは責められない。そもそも、人は生まれながらにして傷ものである、というのが聖書の主張ではないだろうか。
 聖書の中に傷ものだとは書いてない、って?

 そうだろう、確かに「傷もの」、そう文字としては書いてない。でも、聖書はすべての人が罪びとだとは主張していないだろうか?義人はいない、一人もいない、と主張してないだろうか?あるいは、イエスは群衆から辱めという傷をうけた女性に向って、父性愛原理を振り回しただろうか?かえって、あなた方の内に罪のないものから石を投げよ、とは言われなかったろうか。まず、これらのことは、神ならぬ我らには他者に、そもそも論として、他者に石を投げ、傷つける権利がないことを明確に示しているように思うが、これはミーちゃんはーちゃんの誤読だろうか。そうであることを期待したい。

傷とその回復
 人間は、意識せずに傷つけることがある。これは回避不能である。この回避不能なことの解決として重視して居られるのは、回復であり、傷つけた側からの和解の申し出である。最近、あるところ読んだことで大事かもしれないことに気がついた。このブログですでに書いたかもしれない。重複していたら済まない。でも、大事なことだと思うので、何度でも書きたい。

 それは、問題を抱えたまま (他者に傷を与えたまま)、祭壇に行くことについてである。和解(回復)を前提にして捧げものをささげることについての記述である。
口語訳聖書 マタイによる福音書5章21−24節
昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
 これは、文章の構造を見ればわかるように、傷つけようとする者たちに対する言葉である。日本人の大好きな、人類みな兄弟、人みな同じ、兄弟仲良く人類平和、けんか両成敗的なことを意図した言葉ではないような気がする(違うというのであれば、ぜひご説を拝聴いたしたい)。

 殺人、怒りをはじめとして、傷つけた原因者がまず何をなすべきか、を具体的に示唆している内容であるように思える。恨みを抱いている側が、恨みを生みだした人間を一方的に許せ、一方的に和解せよ、と言っているのではないように思う。恨みを売った側(恨みの原因を与えた、何らかの傷を与えた側)が恨みを抱え、何らかの傷をおったものに対して、傷つけた側がまず 積極的に自ら和解のイニシアティブをとり、和解と回復に向けての努力をするように指摘しているのではないだろうか。 現代社会において、傷つけた側が、荒布をまとい、灰をかぶれ、とは言わないし、言えない。 荒布をまとい、灰をかぶって町をふらふらしたら、日本だと通報されて、社会的入院をしかるべき施設にさせてもらえるだろう。

 「せめて灰の水曜日ぐらい、額に灰でしるしをつけてもらったら」とは言わないけど、我々は、地の塵、灰にすぎないことを年に1回位(本当は毎日だとは思うけど)覚えましょうぜ。あ、これが必要なのはミーちゃんはーちゃんだけなのね。あぁ、そうなのねぇ。大変失礼いたしました。



灰の水曜日のマーク付きのジョー・バイデン・アメリカ副大統領 
https://www.whitehouse.gov/blog/2009/02/25/dont-mess-with-joe-and-others
(ホワイトハウスのブログ)から ミーちゃんはーちゃんはこの人のキリスト教背景に関する知識は皆無

傷つけるものが忘れてはならないこと
 しかし、傷つけるものになる覚悟があるとして、傷つけるものになる役割を引き受けるものが忘れてはならないのは、最初に傷つけられたものとなったアベルの血は地から大声で神に向って叫んだことである。アベルの声を、神は、アベルの死後も忘れてはおられないのである。傷の叫びは神に届くようである。

 神ご自身は、傷つける者としての責任を引き受けられた。それがイエスの十字架である、と思う。イエスの十字架は、神が自分自身を傷つけるものとなり、実際に自分自身を傷つけ、さらに痛みを自分自身で負い、傷んだ神の姿を自らさらすことで、自ら傷つけるものであると同時に、傷ついたもの、傷つけられたものと等しくなったことを示し、すべての人との和解と回復の場があることを示したのではないか、ということを思うのだ。

 人間には傷があるから、不都合があるから、不完全があるから、和解が必要であったし、人間には傷があり、不都合があり、不完全であるから、神との和解が必要で、そのために和解(平和)とその為の自ら他者を着続けたその傷を思い出させるために、動物が傷つけられることが必要とされたのではないだろうか。

傷つけ人の背景に多い傷つけられた人
 DVの研究とか、いじめの研究により、DVとかいじめとかのこの種の問題行動の背景に、自分自身が過去に受けた傷とかの存在が浮かび上がることが多いらしい。その辺はアメリカの犯罪ドラマでは嫌というほど出てくる。特に性犯罪関係を扱うLaw and Order SVUでは、過去のこの種の被害履歴とその傷の存在が言及されることが多い。無論、この背景には、それだけ、アメリカ合衆国で性犯罪(このうちにはネグレクトを含む児童虐待をも含む)が深刻であるということがあるようである。

 日本における様々な社会の断面の人間関係不全の背後の奥底に、こういう物理的な暴力ではないけれども真綿でくるんだような暴力が潜んでいるのではないか、と思う。また、それはいくら真綿で包んでも、わけがわからないところから突然、はみ出てくるような感覚がミーちゃんはーちゃんにはある。自分も身体的被害でないにせよ、不快な精神的被害を受けたから、他者である後継者ないし、その関係者も同じように味わうべきだ、とする部分はないだろうか。特に近代は同質性を前提としたから、同じように不愉快なことを味わうべきとし、それを現下で中止する、ないし、断絶するという方向には、働かないようにできている。まぁ、それは日本だけではないようだが。欧米の場合は、それが露骨に出るだけのことだ、と思っている。

愛があってもストーカー、それは犯罪です
 そして、自分が不幸の連鎖に関与していることを言い逃れるために、「それが社会というものだ」、「それが日本の常識だ」、「それが○○というものだ」…といって逃げてしまっている部分はないだろうか。行為そのものは、本人、全く善意でやっているとはいえ、愛の発露の形態として実施して居られるストーカーのようである。

 水谷さんは、「愛ある傷つけ人」といっておられるが、ストーカーだって、いい方によっては「愛ある傷つけ人」ってことになってしまう。いくら「愛があるから…」と当人が言おうとも、ストーカーは迷惑だし、犯罪です(きっぱり)。だから、ここは、「愛がある傷つけ人」というだけでは現代日本社会においては、不十分だし、不適切だと思うのだ。

 つまり、現在日本社会で用いられる多様な意味を含む「愛」という語、聖書での麗しい語が異なる文化的コンテキストを持つ社会の中で用いられることによりもたらしかねない問題点が引っかかったのだ。より正確には、その「愛」とは、手前勝手な一方的なものであるにもかかかわらず「愛」と傷つける側が呼んでいることと、その中身なのだ。今回、かなり論点は出しておいたが、次回(多分最後になると思う)は、それを整理してまいりたい。

次回へと続く

 
評価:
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(2013-11-20)
コメント:ミーちゃんはーちゃんが持っていて読んだ版。一部単語が難しいですが、大体は読めました。1970年代から1980年代のアメリカをある程度知っていたら、違った理解ができるかも

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