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 まぁ、乗り掛かった舟である。もうちょっと書いておこう。

 前回の記事はこちら。

反知性主義の源流
 ピューリタンの知性主義とリバイバル運動に関して、次のように森本先生は述べている。要するにリバイバリズムという一種の情熱的なキリスト教的熱狂とピューリタニズムのために英国から渡ってきた人たちとその次の世代が極端な知性主義への反動ではないか、というご指摘である。

 その(引用者補足 アメリカの反知性的な現象の)出発点については、研究者のほぼ一致した見解がある。それは、独立前のアメリカ全土を席巻した「信仰復興運動」(リバイバリズム)のうねりである。(中略)それ自体は必ずしもアメリカだけに起きた現象ではない。だが、植民地時代のアメリカには、それを準備する特定の土壌があった。それがピューリタニズムであり、もっと具体的に言うと、ピューリタニズムの極端な知性主義である。(反知性主義 p.31)
 リバイバルは、確かに世界各地で起きているが、割とこのリバイバルがアメリカ系の聖霊派の教会で起きることが多く、南北アメリカ大陸や、アメリカの影響の強いオセアニア地区やアジア地区での事例が多数報告されている。しかし、下記に示したロイドジョンズの本にもあるように、19世紀末から20世紀のウェールズで起きたことなどでも発生したことが知られている。最近では、金粉が降ったり、卑金属であるはずの虫歯の詰め物やクラウンの素材が金に変わったとご主張の向きがあるやにお聞きしている。

ニューイングランドのピューリタンの
知性偏重主義の背景

 ニューイングランドは、アメリカの建国の基礎となった東部13植民地の地域の一つであるが、その植民地の中でも、異様に大学卒業者の多い地域であったらしい。

Map of territorial growth 1775.jpg
東部13植民地           独立期の星条旗


歴史的に見ると、ピューリタンの入植したニューイングランドは、人口当たりの大学卒業者が異常なほど多かった時代である。1646年までに海を渡ったピューリタンのうち、大学卒業者は130名で、そのうちケンブリッジ大学出身者が100名、オックスフォード大学出身者が32名である(重複あり)。当時の移民地人口からすると、およそ40家族に一人、という割合になる。(p.32)

 今では、日本の高校生の半分がいわゆる『大学』と呼ばれるところに行く時代からしたら、「え、それがどうした?どうして高学歴社会?」と言われそうであるが、この当時の大学というのは、エリート中のエリート、貴族が行く施設であり、おいそれと行くような場所ではなく、未だに英国ではかろうじてその伝統が残っているが、マスプロ教育なのではなく、指導教員と個人がかなり密接な個人関係の中で対話を通じながら、学問の息吹をまさに「謦咳に接する」という語がふさわしい環境で研さんしていくところであるのだ。1教室に400人も500人も詰めて、養鶏場のニワトリよろしく講義と称するものを一方的に行うところではない。今の大学院教育以上の教育を行う場所であったのである。おまけにイギリスは、英国国教会があり、オックスフォードにしても、ケンブリッジにしても、ほとんどが国教会に所属するキリスト者で占められていた社会であり、ユダヤ人は20世紀初頭でも、馬鹿にされた。


Chariots of Fireのシーン

 日本名『炎のランナー(原題 Chariots of Fire 旧約聖書のエリヤが炎の戦車(Chariot of Fire)で見えなくなった記事にちなむ)』の上記で紹介したこのシーンのあとに、この回廊を巡る一種の障害物競争で勝ったユダヤ系イギリス人学生の出自(父親が金融業者でユダヤ人であること)へのオックスフォード大学の教員の強烈な皮肉の言葉があったはずである。それほどに、イギリス社会でも、さらに20世紀初頭でも、ユダヤ社会への風当たりは強かったし、非国教会の徒への風当たりは強かった。非国教会の人々への風当たりの厳しさは、Taka牧師から販売していただいた野呂先生の「ウェスレーの生涯と神学」でも、ちょっと出てくる。

アメリカの名門大学の原点
 世界のトップ大学の一角を現在では占めているアメリカの大学は、もともと、教職者(聖書を語る牧師など)の養成学校であった事に関して次のように森本先生は記述しておられる。
 現代アメリカには世界の大学ランキングで常にトップの位置を占めるハーバード、イェール、プリンストンという大学がひしめいているが、これら3校はいずれもこうした任務(ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語に基づき聖書をきちんと解釈する人部)に就くピューリタン牧師を養成することを第1の目的として設立された大学である。(中略)ハーバード大学が設立されたのは、1636年のことである。プリマス植民地の入植から考えても16年、マサチューセッツ植民地への入植からは、わずか6年しかたってない。(同書 p.34)
 日本の高等教育の関係者でも、このような背景は知られていない。大学の教師でも、このようなことを知らずに、ありがたがってハーバードや、イェールやプリンストンを称揚している方も案外お見かけする。なんか、訳知り顔で、マイク・サンデルの「正義論」がすごいとかいっておられる方もおられるが、大学史全体からすれば、あれはマスプロ教育の姿であり、少なくとも18世紀的な英米型の教育の姿ではないように思う。そもそも、マイク・サンデル教授の「正義論」の分野は、もともとハーバード大学での政治経済学(Political Economics)という科目の一部で、神学部の最終学年で大学の学長(Dean)クラスが担当していた講義の伝統の上にあるのであることも知らずに、それを称揚する番組が某国営放送で放映される、ということは、実は、「八重の桜」よりも、「軍師官兵衛」よりも、某国営放送の教育放送部門が、キリスト教の正義とは何かに関する伝道をしていただいたようなものであり、アメリカ的な聖書文化のコンテキストにおいてあの「正義論」が語られていることはもう少し知られてよいのではないか、と思う。


NHKでも放映されたMike Sandelの正義論の講義風景
(写真はNHKのサイトからお借りしました)

楽しくないユートピア(理想郷)w

 アメリカの新大陸文化に関して、当時の時代背景をこのように説明しておられる。

 「ピューリタンはユートピアを発見したが、それはちっとも楽しくないユートピアだった」といわれる。「ピューリタン」という言葉で我々が連想するのは、厳格で難しくて不寛容というイメージだが、実はこれらは19世紀になされた戯画化の産物である。(中略)
 初期のピューリタンは、今日なら教会にあって当然と思われるもの、たとえばオルガンや鐘や銭湯なども拒否した。(中略)クリスマスもカトリック的な「冒涜」だから、絶対にお祝いしてはならない。1660年には「クリスマスに贈り物交換や着飾った外出や宴会などの違反を犯した者には5シリングの罰金を科す」というお触れが出されている。
 ピューリタンは性に関してことさら潔癖であったといわれるが、これも実像は別である。彼らの残した文書を読むと、男女の性愛についてかなり直截で快活な書き方をしている。(同書 p.52)
 このブログでも、"「ピューリタン」という言葉で我々が連想するのは、厳格で難しくて不寛容というイメージだが、実はこれらは19世紀になされた戯画化の産物である”のトラップにはまった水谷潔氏の記事に対して、「それってどうなんですか?」とご発言申し上げた「ピューリタン雑考」という記事があるが、まさに、厳格で厳しくて不寛容という現代に生きるパリサイ人は、ピューリタンの反動として出てきた福音派にかなり引き継がれている点は面白い。ミーちゃんはーちゃんのキリスト者集団の中でも「クリスマスも、絶対にお祝いしてはならない」との方針を堅持しておられる向きもあるが(理由は異教由来だから、とされている)、このあたりかなり文化からどのような影響を受けるのか問題と密接に関係していると思われる。
 こういう背景は、キリスト教史(とりわけ、アメリカキリスト教史)をきちんと勉強していれば当然なことであるが、日本の大学の中での、アメリカ史の専門家向けの学部の専門科目でも、なかなか取り上げない側面である。それでアメリカを理解した気になるものだから、誤解が生じるのは仕方がないような気がするのである。アメリカ政治史や経済史教育に至っては何をかいわんや。

反知性的文化が生まれるための
土壌としての社会変化

 アメリカは移民文化であるがゆえに、人口が非常に急増した時期(移民の流入期)を経験する。最初は、アイルランドでのジャガイモ飢饉(ジャガイモに伝染病が発生して不作が発生した)によるアイルランド人の大量流入であり、これらの人々は、スキルをもたなかったので、警察官、消防士、軍人となっていった。

 未だに、この警察官、消防士、軍人にアイルランド人が多い。そして、この三職の殉死者を称揚するためにちょっと大きな市であれば、バグパイプ奏者がこれらの3職の儀仗隊には存在する。


NYPD(ニューヨーク市警察)の儀仗隊による911メモリアル演奏


 何でNYPDと書きながらアイルランドを象徴するクローバーがついているかというと彼らのうちにアイルランド出身者がやたらと多いからである。まぁ、クラブ(こん棒)は警官(銃が支給されるまで警官の象徴であった)の象徴でもあるけど。


NYFD(ニューヨーク市消防)のバグパイプ儀仗隊 最後にアイルランド国旗が出てくる

 わりとアイルランド系市民が多い、シカゴでは、St Patrick Day(アイルランドの守護聖人の日 日本の建国記念日みたいな感じ)には、シカゴ川を緑色に染める習慣がある。バスクリンを入れているのかと思ったが、染料のようである。


2014年のSt. Patrick Dayのシカゴ川を染色する様子。

 閑話休題。本論に戻そう。

 ところで、アメリカ人は、開拓地に新聞をもっていった人々と呼ばれるほど、文字文化の人たちなのである。もちろん、新聞は毎日発行であるので、大都市から郵便で、何日か遅れで配達されるような新聞であるけれども。そして、この文字メディアへの依存が、実は、知性主義の伝統なのである。要するに、東部の資本家たちは、冒険的な西部開発に向かっていくときにも、この新聞を非常に高いコストを払わせながら西部開拓地に持ち込んでいったのである。

 ニューイングランド社会は、18世紀に入って大きな変化を経つつあった。その変化はいくつかの数字になって表れるが、第1は人口の急増である。(中略)
 ところが、既存の教会はこの爆発的な人口の増加に対応する術を全くもっていなかった。「半途契約」(引用者注 成人になって改めて回心することを前提に信徒扱いする制度)の話で分かるように、教会の指導者たちは小規模な閉鎖的分派として出発した集団をどのように維持していくか、ということに腐心するばかりであった。
 人口増と共に大きな要因は、大衆メディアの発達である。王制不幸後のイギリスでは、出版許可法が、出版物の取り締まりを定めていたが、この法律が1695年に廃止される。すると瞬く間に印刷所が増え、月刊や週刊や日刊の読物が次々に発行されるようになる。事情はイギリス領のニューイングランドでも同じである。18世紀最初の40年の間に、「ボストン・ニューズレター」や「ボストン・ガゼット」など、植民地全体で12もの定期刊行物が発刊され、それを流通させるための経路も急速に整備されていった。ある資料によれば、マサチューセッツの書店業者は同じ40年間に4倍になっている。
            (同書 p.66₋67)
 しかし、この記述を読むの中で、ニタニタしたのは、「教会の指導者たちは小規模な閉鎖的分派として出発した集団をどの表に維持していくか、ということに腐心するばかりであった。」って、えぇぇぇ、250年前のアメリカと同じ悩みを現代の日本でも抱えているではないか、ということであった。日本という文化的コンテキストが違っても、「小規模な閉鎖的分派として出発した集団をどの表に維持していくか、ということに腐心するばかり」という表現を見て、さすが、ご先祖様の子孫としての日本のキリスト教会って思ってしまいたくなりそう。ちょっと、吐き気催してきたけど。

メディアの特性

 今回の最後にアメリカのピューリタン社会とメディアとの関係があった部分があったので、それをご紹介して今回は終わりたい。

 出版には、ハード面即ち印刷所や書店や流通経路などといった産業構造の整備と、ソフト面即ち求められる情報内容の充実という両面が必要である。一般大衆の需要に応じて情報が供給されるようになると、その情報がさらに需要を掘り起こし、供給のために必要な回路を自分で作り上げていく。コンテンツがメディアを作ると、そのメディアが逆に今度はコンテンツを育て、それを伝えるメディアもさらに発展する、という循環が起きるのである。(p.68)
 しかし、現在の日本のキリスト教メディアの具合を見ていると、印刷所や書店や流通経路というハード面があっても、日本のキリスト教徒が「大衆」でないためにその需要規模が小さく、需要が喚起できていないのではないか、そのあたりをどう読み解いていって今後の展開を考えていくのか、ということがいま求められているような気がするのだ。特に、現在は、必勝パターンであるヲワコンであってもネームバリューのある有名人(たとえば、ウイ○アム・フ●ンク○ン・グ●ハム3世とか・・・)に依拠してコンテンツが作られている面が少なくはないので、本来メディアがしてきたコンテンツを育てる、コンテンツのクリエーターを発掘し、育てるという作業をさぼっているというか、人がいなくてできていないというような気がする。このへん、大新聞やテレビなんかが典型で、だから現代の大衆の確実な層であるネット民から相手にもされずに、見捨てられつつあるように思うのは、私だけ、であろうか。

 次回も、ピューリタン紹介が続きます。一大連載になりそうな予感がしている。





評価:
価格: ¥1,404
ショップ: 楽天ブックス
コメント:ちょっと雑いところはあるが、非常に面白い。絶賛推奨ちう。

評価:
D.M. ロイドジョンズ
---
(2004-10)
コメント:Dr.と呼ばれたロイドジョンズ先生が、ウェールズを中心に起こったリバイバルを取り上げ、検証しておられる。お勧めである。

評価:
野呂 芳男
---
(1975)
コメント:非常に幅広い組織神学的位置づけの上に立って書かれた好著でありながら、読みにくくはない。




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 本当は、「富士山とシナイ山」の連載をする予定だったのだが、本日は若い友人が紹介してくださった森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 からご紹介してみたい。これは、日本の多くのキリスト教会(日本キリスト教団、及び福音派を含めた日本のキリスト教会)の固有事情を読み解くために、本書で森本あんり氏が示唆しておられる補助線なしには、あまり意味をなさないからである。

アメリカという無意識の宗教国家
 以前、この記事でも紹介してきたように、明治期以降の日本のキリスト教は基本東回りではなく、アメリカ合衆国というフィルターを通して流入したキリスト教であり、その意味で、その影響はいまだに続いている。最初に覚えたものからなかなか抜け出せないのは、人の習い、世の習い、でもある。

 そして、アメリカ人のある一定の部分は、あまり自覚的に意識していないことが多いようのだが、アメリカという国家における文化とキリスト教というのは不可分であり、アメリカ合衆国は政教分離と日本人は思い込んでいるが、ところがどっこい、アメリカ合衆国は日本型の政教分離ではなくアメリカ型の信仰のスタイルが政治にどっぷりと流れ込んでいるタイプの政教分離なのである。それは当たり前である。アメリカ型の信仰者が政治をし、投票行動するので、なだれ込まない、と思う方がどうかしている。その意味で真の民主主義国家において政教分離というのは、壮大な虚構だと思った方がよい。なぜなら、宗教的コンテキストもその人を作り、政治に微妙な影響を及ぼすからである。

反知性主義とは何か
 森本氏は反知性主義の代表的な定義として佐藤優の定義
 実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度
を引用(反知性主義 p.4)した上で、次のように続ける。

 しかし、この言葉は、単なる知性への反対というだけでなく、もう少し積極的な意味を含んでいる。(中略)本ら、反知性主義は、知性そのものではなくそれに付随する何かへの反対で、社会の不健全さよりもむしろ健全さを示す指標だったのである。(同書 p.4)
と紹介されている。地勢に付随する何か、というのは豊かさであったり、社会を支配しているその権威性だったり、神の名の下に平等といいながら、人を人とも思わない東部の金持連中の態度だったり、社会の不正義だったりするのである。アメリカ人にとって重要な概念は、Pledgeと呼ばれるアメリカ国民の統一の象徴でもある国旗への忠誠の文句

I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.
の最後の部分、with liberty and justice for all がものすごく重要なのである。それが知性を持つ人々(たとえば、関税をかけてきた英国国王やそのお取りまきを含め)がたびたびアメリカ史上で、本来公平に扱われるべき人々を踏みにじってきたという経験があるがゆえに権威あるものに逆らい、このwith liberty and justice for allの実現を求めるのである。その意味で、社会の健全さを表すとアメリカ人は素朴に感じるようである。

反知性がアメリカで言われ始めた背景
 
 どうも、この背景にはマッカーシズムがあるらしい。まさしく、マッカーシズムは、アメリカの文化人であるハリウッドやマスコミ関係者を目の敵にして、アカ(共産党員)認定をしてきたし、共産党員であること告白し他の人が共産党員だと報告した場合、Munityを根拠に無罪放免されるという司法取引制度を活用しながら、他人を共産党員として告発し、社会を不安に陥れるような膨大な罰ゲームをしてきた。このあたりのことは、Good Luck and Good NightというGeorge Crooneyの映画やJim Carry 主演のThe Majesticを見ると分かりやすい。



Geoge CrooneyのGood Luck and Good Night
 クルーニーの父(アナウンサーだった)が思い起こされる名画


Jim CarryのThe Majestic これも「ショーシャンクの空に」の監督作品で、おすすめ

 反知性主義が言われ始めたそのオリジナルについて、森本先生は次のように書いておられる。
 反知性主義(anti-intellectualism)という言葉には、特定の名付け親がある。それは、「アメリカの反知性主義」を著したリチャード・ホフスタッターである。1963年に出版されたこの本はマッカーシズムのあらしが吹き荒れたアメリカの知的伝統を表の裏の表面から辿ったもので、直ちに大好評を博して翌年のピュリッツアー賞を受賞した。日本語訳がみすず書房から出たのは、40年後の2003年であるが、今日でもその面白さは失われていない。(中略)
 だが、もしそんなに名著であるのなら、これが40年間も訳出されずに放っておかれたのだろうという問いも出てくる。理由の一端は、この本の内容が日本人には理解しにくいアメリカのキリスト教史を背景としているところにある。(中略)決して難しい本ではないが、日本人になじみの薄い予備知識が必要なため、本筋のところが敬遠されてしまうのである。(中略)アメリカの反知性主義の歴史をたどることは、即ちアメリカのキリスト教史を辿ることに他ならない。(同書p.5)

 最近教会に来ておられる信仰者でない方から誘われて、アメリカ政治学者の研究会に顔を出していて思うのだが、実は、日本だけでなくヨーロッパ人を含めアメリカ史、特に政治史の研究者のかなりの部分は、このアメリカ史におけるキリスト教史、とりわけ反知性主義のかかわりが分かっておられない方が多い。アメリカの政治史において、実は、このキリスト教的な精神性とそれから導かれる反知性主義、また、このキリスト教的な一種の冒険主義や理想主義がわからないと、国際社会におけるアメリカの政治的行動が見えないことが多いのではないか、と思うのである。

アメリカ社会と契約と英国の改革派神学
 アメリカ社会の中で、当初ニューイングランド(新しいイングランド、神から祝を受けるべきまともなイングランドという印象がある語)を建設しようとしたのは、イギリスで非国教会の信徒でなかったために嫌な目にあったピューリタンが建設しようとした一種のキリスト者による理想郷の建設である。

 はじめ大陸の改革派神学の中で語られた「契約」は神の一方的で無条件の恵みを強調するための概念であった(引用者注 これは、ちょっと乱暴かも)(中略)ところが、ピューリタン(引用者注 英国国教会分離派としてのピューリタン)を通してアメリカに渡った「契約神学」は、神と人間の双方がお互いに履行すべき義務を負う、という側面を強調するようになる。いわば対等なギブアンドテイクの互恵関係である。(同書 p.23)

 この神と人が対等であるという概念自体が、 I don't know who I amというブログこれ言ったら要注意クリスチャン認定、な台詞を考えてみたで大丈夫か、という指摘を受けている対象になっている、「神様を友達感覚で呼ぶ」、「私が祈ると神様がきいて下さるのです」という行為(これを言っている人に対する敵意や批判ではなく、その行為そのもの)ような一種自己中心的で、かなり困ったちゃん的な神理解に基づく行為につながっているのではないか、と思う。

 超簡単なアメリカ建国史は下記のBowling for Columbine(コロンブスの土地へのボウリング)の中のアニメーションで見ると分かりやすい


Bowling for Columbineの中の挿入されたアメリカ略史のアニメーション

 レーガン大統領のあるスピーチの概略を

 見よ、アメリカは栄華を極めている。それは自分たちが努力したからであり、その努力を神が祝福してくれたからである。我々のくらし向きは以前よりずっと良くなっている。それは神が我々を是認し祝福してくれたからに違いない。だから我々のやってきたのは正しいのだ。(p.28)

とご紹介された上で、次のように続けておられる。

幸福の神義論?
 時々出会うキリスト者とおっしゃる方の中に、祝福されていることをキリスト者は成功することで確認できるという方もおられるが、何で、こうなるのか、ということは何となくはわかるが、それに関して、幸福の神義論という言葉でご消化しておられる。
 これは、「幸福の神義論」である。「神義論」は、もともと人間の不幸を神学的に説明する論理として知られてきた。もし、神が愛と正義の神であるのなら、なぜ我々はこんな不幸で苦しまねばならないのか、という問いに答えようとするのが信義論である。(p.28)
と、本来の神義論から神義論が逆転してしまっていて、「信仰者が神に祝福を迫る」その論理を求める議論になってしまいかねないことを、つまり、「ねぇ、ドラえもん」といい神におねだりするような「のび太型の信仰者」の背景をご紹介しておられる。つまり、「信仰者は神の中に苦難の中におられても共にいるということで神がともにおられる、即ちインマヌエルとして義を実現される」という神義論ではなく、「義が実現したところには、祝福があり、地上での豊かさを通しての祝福があることがすなわち義であり、(地上の豊かさで感じることができる)祝福がないところには義がない」「貧しいのは、その人が正しくないからではないか」というタイプの神義論である。このタイプがまずいのは、イエスがそのような理解を否定する直接的な文言があるからである。

【新改訳改訂第3版】
ヨハネ福音書
 9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
 9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
 9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。
 明らかに、この場所は、伝統的な神義論の根拠の一つであろうし、逆転した「幸福の信義論」と矛盾を生じる様な神義論である。

2分方的な思考法の原点
 アメリカの単純化した考え方の背景に正しいか、間違いか、という非常に単純化して考える思考法の背景に、2分方的な概念がいまだにアメリカに働いている。例えば、裁判でも、有罪でなければ、無罪とするような考え方であり、白黒はっきりつけるようなアメリカで主流を占め続けてきた考え方である。

 この国(引用者注 アメリカ)と文化の持つ率直さや素朴さや浅薄さは、皆この2分法(引用者注 いのちと幸いの道 VS 死と災いの道)を前提にしている。明瞭に善悪を分ける道徳主義、成功で尊大な使命意識、揺らぐことのない正統性の自認、実験と体験を無縁とする行動主義、世俗的であからさまな実利志向、成功と繁栄の自己慶賀−こうした精神態度は交差も逆転もなく青年のように若々しいこの歴史理解に根差している。20世紀アメリカの産物である「ファンダメンタリズム」も、進化論を拒否する「創造主義」も、終末的な正義の戦争を現実世界で実現してしまおうとするアメリカの軍事外交政策も、みなその産物といってよい。
 本書の主題である「反知性主義」も、このような単純な倫理意識や使命感をその成分要素の一つとしている。第1章では、まずその前提となったピューリタニズムの極端な「知性主義」を振り返ってみよう(p.29)

 ということで、次回は、反動として生まれることになる、反知性主義の原因となった、知性主義の背景ともなったピューリタンとその学術中心主義、厳密な思惟を求める性質について、陳べていこうか、と。

 次回へと続く。


評価:
価格: ¥1,404
ショップ: 楽天ブックス
コメント:買って損はしない。それでも、お金が惜しい人は、図書館へどうぞ。読んで損はない本です。

 今月も長いうっとうしい記事も多かったのですが、それにもかかわらず、アクセス・ご清覧いただきありがとうございます。短い期間ながら12500越え。 日に500アクセス。

 2014年3月  20499アクセス。
 2014年4月  24200アクセス。
 2014年5月  22690アクセス。
 2014年6月  11281アクセス。
 2014年7月  13883アクセス。
 2014年8月  12202アクセス。
 2014年9月  13264アクセス。
 2014年10月  15282アクセス。
 2014年11月  12853アクセス。
 2014年12月  14424アクセス。
 2015年1月  16502アクセス。
 2015年2月  12711アクセス。

 今月のピークは、671アクセスの2月27日。若者ミクス=若者リスク×若者コスト という定式化は妥当か? 知的スポーツとして 緊急公開 を緊急公開した翌日。


それでは、以下、今月の上位5位まで。

現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由  275 アクセス


すべての聖書読み信徒に送る名著 新約聖書よもやま話 227
 アクセス 


やりにくい人とビジョンを共有し組織運営に参画させる方法のセミナーに行ってきた

                         196 
アクセス

説教天国、信徒天国  192
 アクセス

『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史(4
) 189
 アクセス

ということで、結構昔の記事である「現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 」が人気が高いのは、やはり、それだけ、日本のキリスト教界が若者に飢えているといっていいほど、若者がいない社会が見事にキリスト教界において実現されていることの証左なのかもしれない。

 一番びっくりしているのは、New Perspective on Paulの入門書として、非常にわかりやすい、伊藤明生先生の「新約聖書よもやま話」のランクインである。じわじわと来ているようである。一時期は、出版社から邪魔者扱いされていたようであるが、今では、その会社のオンラインショップでも取り扱いが再開している。こういう知的資産を邪魔者扱いするって、何をやっているかわかっておられるのだろうか。

 ということで、今月もご清覧感謝。来月もまたよろしくご訪問のほどを。






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 いつも拝読している、I don't know who I amというブログで、面白い記事「クリスチャンはまず"do"なのか、あるいは"be"なのか」を見つけたので、少し思うところを書いてみたい。クリスチャンは、”do”に支配されすぎていて、”be”であることが許されていないのではないか、という疑問をご提示のようである。

できない人はどうすれば?

 読んでいる中で、主催させていただいているナウエン研究会で身体障害をお持ちの方から、「障碍があり人並みのことができない私はどうすればいいのだ」という同じような思いをお聞かせいただいたことがあるので、「あぁ、この種のことは、どこでも結構あるのだろうなぁ」と思った。そのブログの記事で印象に残った部分を引用したい。

  けれど一方で、行動が全てと言ったら言い過ぎになる。たとえば何らかの障害があって人の役に立つ行動が何もできない人は存在意義がない、という話になってしまうからだ。
 もし行動が全てなら、行動できない人に価値はない。じゃあその人たちはどうしたらいいか。死ぬべきか。でも一体誰がその線引きをするのか。という話にもなる。
 
 それに誰にでも大切な人はいると思うけれど、その人が「大切」なのは、何かしてくれるからとは限らない。いてくれるだけでいい、という人も中にはいる。
 
 だから人の価値とは行動だけで決まるものではない。現実には決まりやすいけれど。
 
 そういう視点で昨今の福音派・聖霊派の教会を見てみると、どうもbeでいることができず、いろいろdoをして自らの存在意義を表そうとしているように思える。
 
 たとえば宣教活動にしても、「今神様が〇〇に行けと命じておられる」というのが続いてアチコチ行く羽目になるし、集会にしてもやれ青年大会だ賛美集会だ癒しの聖会だで休む間もなく、そうかと思えば新会堂を建てることが御心だとか、福祉事業を始めることが御心だとか、何やかやでイベントのない月がない、いやイベントのない週がない、みたいな状況になっている。
 それで「時間がない」「忙しい」「ここは御心の教会だから」とか言うのだけれど、自ら忙しくしておいて「神に用いられている」と酔っているだけではないだろうか。
 あるいは、doに憑りつかれているのではないだろうか。
 とお書きである。個人的には福音派と分類されるキリスト教の片隅で暮らしているのだが、まぁ、この記事でご指摘のほどまでDoに取りつかれていることはない。また、何人かの福音派の牧師さんともお付き合いさせていただいているが、Doにとりつかれているという感じはない。

 いまは、個人的には、Doではなく、Do’ohに取りつかれているが。


Homer SimpsonによるHomer Face 

 まぁ、過去の一時期は、DOに取りつかれているといわれてもしょうがないノリであったこともないわけではないが、現在通っている教会は、割と初期の段階から、「この教会は、ジャグジーのような教会ですねぇ」という悪口なのか褒め言葉のなのか判然としないコメントを巡回説教者の方からは頂いている。

 さらに、この教会は、高齢者が増えてきたこともあり、現在ではBEにかなり重心が移っている(というよりは、もう、Beしか実際には、できなくなっているといってよいだろう)。

Do指向型の背景
 この背景には、日本のキリスト教会の多くが、基本、アメリカ経由の西廻りのキリスト教に大きく依存していること、とりわけ、アメリカの伝道団体の支援と影響を大きく受けていることにあるのかもしれない。

 アメリカのキリスト教は、もともとジョナサン・エドワーズをはじめとするリバイバル運動の影響を受けているというよりは、リバイバル運動が教会の理念系に組み込まれている関係で、野外伝道や、伝道大会や様々なイベントをすることが理念系の基礎にどこか埋め込まれていて、聖書理解と不可分になっているため、その点での切り離しができなくなっているように思われる。このあたりのことは、最下部で紹介する森本あんり先生の近著『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』に詳しい。

 また、これが日本ではびこる背景には、和魂洋才の言葉にあるように、キリスト教を神と共に生きつつ、神のことを味わう体系としてではなく、むしろ、一種の西洋型の社会倫理を実現する技術として受け入れたため、その外形基準である倫理的行動、社会的活動や伝道活動の枠組みとして受け止めてきた可能性もないわけでもないような気がする。このあたりは、以前紹介した「植民地化・デモクラシー・再臨運動」に詳しい。書評は、こちらから。

日本固有のDo指向型の背景
 また、日本固有の背景として、いい悪いは別として「日本が、キリスト教国であった経験を持たない」という側面があると思われる。つまり、この150年間、とりわけ1945年以降のほぼ70年間にわたって、宣教地であり続けたために、新たに信徒を獲得するということが教会の主眼点であるとされ続けてきた傾向があるあまり、信徒の成熟と信徒間の共同体の形成を図れなかったということがDo指向型の教会を生み出してきたのかもしれない。

 工藤信夫先生(医師なので例外)のご指摘ではないが、「日本の教会がナウエンを知りえなかった」ということの悲劇なのかもしれない。個人的には、ナウエンというよりは、ジャン・ヴァニエの「コミュニティー―ゆるしと祝祭の場」に示されたような思想をキリスト教の中の概念として内在化できなかったということだと思う。このジャン・ヴァニエの本は非常に参考になる。

 工藤先生によれば、アメリカのプロテスタントが問題に直面した時にアメリカのプロテスタントが十分に持ち合わせていなかった共同体の思想をナウエンを通して再検討することになったらしい。ところで、日本のプロテスタント系の教会ではどうなのだろうか。カトリックの思想家あるいは神学者であるということで、無視したり、避けていないだろうか。

近代という時代に構成された教会ゆえの悲劇
 近代の社会は、大量生産大量消費が可能になり、効率性が支配した社会である。テクノロジーがその能率性という可能性を社会において発揮し、その結果として、テクノロジーが社会における中心性を要求した社会である。このあたりに関しては、この記事『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (10)を参考にしてほしい。

 その結果、日本の教会でも産業化されたGolden Age(金ぴか時代)のアメリカを通過して(あるいはその影響を無意識的に受けて)日本に到着した結果、数量化、指標化を通しての定量化が無意識的に求められることとなり、西廻りで日本に到着したキリスト教はアメリカ型キリスト教、即ち「テクノロジーがシナイ山での金の子牛の役割を果たしている」キリスト教を無意識にキリスト教として受け取ってはいないだろうか。そして、Do型のキリスト教になってないだろうか。その反省もなく、自己が最初に出会い、自己の教会が重視しているキリスト教的なもの、あるいはキリスト教的な何かを「これがキリスト教です」と語っていないだろうか。キリスト教は、もっと多様で複雑で単純化に耐ええないものだと思うのだが、それを単純化して語ることをしていないだろうか。

 まぁ、恐らく、上記を読んで不愉快に思われた皆さん、とっくにDo型でキリスト教界で主流派を誇っておられる皆さん方には、どうぞ、「福音派でも、非主流派のリベラルで、エキュメニカルに狂ったキリスト基地外が勝手にほざいている戯言だ」と思っていただければそれでよろしいか、十分か、と存じます。

キリスト教界要注意用語集www

 と思っていたら、またまた、面白い記事をあげておられた。これ言ったら要注意クリスチャン認定、な台詞を考えてみた である。何が痛いかというと、結構こういうセリフを聞くからである。

「私が祈ると、主が聞いて下さるんです」

 一見、敬虔ぽく聞こえるが、ここでの出発点は、神やではなく、私である。これまで当ブログで「富士山とシナイ山」で批判してきた自分(人間)が中心になっているからである。聖書の主張は一貫して、「神が中心」であるにもかかわらず。


まさかこんな風ではないと思うが。


「これは主からの特別な啓示です」


 「じゃ、聖書はいりませんね。」あなたへの啓示は聖書に優先するんですね。聖書より啓示に中心性を置いたら、もはや、キリスト教でなくなりかねないのですが。


この方は近鉄バッファローズにとって特別な啓示であった。

「目覚めよ!」

 こんな雑誌と同じですか?うちにもご恵贈くださる方がおられて、ありがたく研鑽の資料とさせてもらっておりますが。


こんな絵見せられたら、寝てられない。


「日本に新しい季節がやってくる!」


 大体、1年に4回くらいはやってこられておられるようですが。春夏秋冬、って。ちがうかぁ。


文字通り、新しい季節が…

New YorkのFour Seasons Hotelの入り口


「次世代が鍵です」


 じゃぁ、ニュータイプは? 「見せてもらおうか、次世代の実力とやらを」といいたくなっちまうじゃないすか。

AERAの表紙となった、赤い彗星 シャア閣下

神様を友達感覚で呼ぶ

 神さまから、こういわれるかもね。

 ♪ 港のヨーコ、横浜、横須賀〜〜〜〜 (古ッ)


「主は選択の自由を与えられましたが、それは私たちが主に喜ばれる道を選択する為です」


 じゃぁ、アブラハムは?ヨナは?人間のちょっとした選択で動じる様なお方ですか?それ、神様バカにしてません?

憲法22条の歌 「職業選択の自由 あははん」 これ、シーナアンドロッケッツだったのか。

「世の終わりが近いと思いませんか?」


 その根拠は?平安時代も末法思想が流行ったけど?流行り廃りじゃなきゃいいけどね。w



 とfuminaru k様に笑かしてもらったので、今日はこの辺で。

 次回、「富士山とシナイ山」に戻します。多分。




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(1997-09-20)
コメント:非常に良い

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(2010-08-20)
コメント:Beであることの意義を伝える本

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ショップ: LAWSONほっとステーション
コメント:非常に良い、アメリカ宗教史の視点から見たアメリカ史。こういうのいいですよ。知っとくだけでも。大絶賛。



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 尊敬する水谷潔さんの記事に、「若者ミクス=若者リスク×若者コスト」と題する記事があったが、これを時々遊んでくれるUgoUgoコメント王子がコメントしていたので、気になったので、本記事を緊急公開することにしました。水谷潔さんの記事の主張はおおむね妥当であると思うが、タイトルの数式による定式化は、あまり妥当性をもっていないと思うので、ここでその点をご指摘申し上げたい。

そもそも、この定式化正しい?
 基本的には、民主党の某M原議員が現在の自民党政権の政策モデルでもあるアベノミクスという浮ついた政策モデルを呼ぶ用語を揶揄して、その問題は経済の不安定性を増すものではないか、と指摘しようとしたらしいフリップの記載

 アベノミクス=アベノリスク×アベノコスト
という記載からの延長線上で、単に、「教会に若者がいない」と哀歌を歌うばかりでなく、若者に対しての対応を教会側がきちんとなすべきだ、というご主張である。この主張はそうは間違っていないが、「若者ミクス=若者リスク×若者コスト」という式ではそもそも論として問題が多い。

アベノミクスの原型としてのレーガノミクス

 さて、このアベノミクスという語の原型は、おそらくレーガノミクスが最初だろうと記憶している。要するに、ベトナム戦争後そしてオイルショック後収縮してしまった経済をどのように再拡大路線に乗せていくのか、ということをめぐった大きな政府(大胆な規制緩和、とりわけ、金融制度の規制緩和や電力の規制緩和、刑務所など政府業務の一部民営化などの政策の転換に加え、スターウォーズ計画などミリタリ産業への政府支出の増加)をめぐる経済政策ではないか、と思う。冷戦の末期であるがゆえにソ連の状況とどうアメリカが対峙していき、アメリカ経済および軍事政策の優秀性を競った時期をめぐる経済学用語といえるかどうかはわからないが、まぁ、マスコミ型の経済用語の一つである。


レーガノミクスとやらを説明しているはずのレーガン大統領


 また、余談に行ってしまった。

そもそも定式化がおかしいんじゃね?

 ところで、まず、民主党の議員が掲げたとする、このフリップの記載

 アベノミクス=アベノリスク×アベノコスト (Eq.1)
という定式化そのものがまずい。もし、これを国会の場で示したとすれば、そもそも、リスクがなんであるのか、ということが分かっていないことを、そして、自らの無知を丸出しにし、天下にさらしたようなものである。実に恥ずかしい限りのような気がするである。とはいっても、まぁ、こういう恥ずかしいことは、時々は発生する。
 しかし、もし、これを掲げて政権与党と政府を追求したとしたら、民主党議員とその所属党が経済学的な理解が薄いこと、そして、まともに勉強してないこと、そして、支援するまともな経済学者がいないことを丸出しにし、それを天下にさらしたような気がする。しかし、それに突っ込んだ国会議員は何人いたのだろう。突っ込めなきゃ、勉強できてない具合は与党も野党も変わりない。

リスクとは何か?

 リスクとは、将来起きる負の費用を確率との関係で評価するものである。リスクとは確率そのものではなく、確率を含め、評価したその評価額そのものである。

 たとえば、地震のリスクというときは、それが地震が発生する確率(時間の期限付き)とその被害の定量評価をかけたものである。

 地震のリスクというとき、一般的には、30年、ないし100年確率が用いられる。つまり、この30年間に被害を与えるような、たとえば地震6強以上という条件の地震の発生確率を考える。そして、その震度6強以上となる地域を想定し、その中に含まれる人的被害ないし経済的な資産や経済活動の総量を仮定的において、どのような被害が発生するのかを考え数値化した指標が、基本リスク指標である。

標準的なリスクの計算法

 一般にリスクの推定にあたっては、以下のように書ける。
ある事象のリスク
  =ある期間内の発生確率×その事象から発生する被害総量 (Eq.2)
と式2(Eq.2)のような積の形式(確率と被害の総量の掛け算)で定義されることが多い。たとえば先の地震のリスクの場合だと、人的被害の推計であれば、
震度6以上の地震のリスク
  =今後30年間におけるある地域に影響する震度6以上の地震の発生確率
    ×震度6以上の地震から発生する被害者総数 (Eq.2.1)
と式2.1(Eq2.1)のように書き換えられるだろうし、あるいは、資産的被害の推計であれば、
震度6以上の地震のリスク
  =今後30年間におけるある地域に影響する震度6以上の地震の発生確率
    ×震度6以上の地震から発生する被災資産の総額 (Eq.2.1)
と式2.2のように書き換えられる。

 この例に示すように、そもそも式1(Eq.1)のような式の提示自体基本、ナンセンスである。本来の定式化に従えば、
 アベノミクスのリスク
   =アベノミクスが失敗する主観確率×アベノミクスの社会的コスト                         (Eq.1.1)
という式1.1(Eq.1.1)のような式であるべきであるのだ。定式化そのものがまずいというのがある。なお、リスクを削減する方法には、この式1.1(Eq.1.1)からも明らかなように、経済の諸条件をコントロールして、失敗する主観確率を下げるか、フェイルセイフの政策を構築して、発生するかもしれない社会コストを下げれば、リスクは軽減する。

客観確率は社会的に存在しません
 なお、「客観確率があるはず」という議論をご主張の向きはあるだろうが、そんなものは世の中にない。そんなものが世に内からバブルが発生するのであり、デフレスパイラルが発生するのだ。基本、個人の経済行動は、非常に不安定で不確実な個人の将来の予測とそのもとでの必ずしも合理的と言えない経済的行動に依拠しているからである。だからこそ、先物取引(Futures)があり、青田買いがあり、経団連がいくら言おうとも、その傘下の企業ですら6月くらいには(たぶん今年も)内内内々定位を出すのではないか、とにらんでいる。これは、銀行業界の全銀協会長行(三菱東京UFJ銀行)以外の都市銀行業界の動向によってきまる。といっても、三井住友か、みずほか、りそなか、埼玉りそなか、しかないけど。「都銀が動いた」と情報が流れたら、他も一斉に隊列を乱して個々の企業が内定通知を出すことに走り始めるものと思われる。

 まぁ、経済では、個々の経済主体の動向が先物市場を介して集約され、固定化されているから、まぁある程度リスクの軽減ができるのだが。

本来こう言いたかったのかな?

 その意味で、本来その民主党議員が示したいことがおそらくこうであろうと示すとすると、本来の定式化に従えば、アベノミクスのという形容詞をはずせば
 純粋な(名目的でないネットの)経済効果
   =名目的な経済効果 ー リスク   (Eq.1.2)
と式1.2(Eq. 1.2)のように示したかったのであろう。 

キリスト教業界における若者リスク

 そもそも論として、式1(Eq.1)がおかしいので、したがって
若者ミクス=若者リスク×若者コスト (Eq.3)
式3(Eq.3)が成立する、とすることはナンセンスであるとしても、現在の教会に教会リスクは現実に存在する。それを知的スポーツとして、定量的に定式化してみよう。別に想定期間は10年でも30年でもよいが、より現実味を増すために10年間にしてみよう。システムと見たとき、教会全体のリスクは、以下のリスクに細分化されよう。

教会リスクって?

 教会リスクを細分化して考えると以下のようになろう。

 中高年リスク = 中高年層が教会に増加しない確率
           ×中高年層による教会献金の予測値の総和

 若年青年リスク= 若年及び青年層が教会に増加しない確率
           ×若年層及び青年層による教会献金の予測値の総和

 教会資産下落リスク= 教会資産の下落の予測値
           ×期待割引率(減価償却含む)

 謝儀リスク  = 牧師謝儀(給与及び各種保険料等)の予測値の総和
           ×その確率

 拠出・負担金リスク = 関連団体からの支援金拠出
               ×拠出金を求められる確率

 補助金収入リスク  = 関連団体からの補助金受取額
               ×負担金を受け取れない確率

 活動経費リスク = 今後10年間の各種活動経費支出額
               ×支出が発生する確率
このとき教会全体のリスクは、


 教会全体リスク =  中高年リスク+青年リスク+謝儀リスク
           +拠出・負担金リスク+補助金収入リスク
           +活動経費リスク
           +教会資産下落リスク
と書き換えることが出来よう。ところで、水谷氏のご主張は、

若年青年リスクは、青年層が残存しない確率や青年層の増加しなければ、それだけ、リスクが増加するので、教会の不安定要因となりやすい。従って教会側でも、何らかの対策や対応を行って、若年及び青年層が教会に残存しなくなる確率を現在のように上げ続けている教会があるとするならば、リスク要因として大きいのではないか

というご議論であろうとおもう。

青年リスクよりも、むしろ中高年リスクでは?

 しかし、現実には、青年に関するリスクは、リスクとして小さいと思う。なぜならばそもそもが、教会に青年が少なく、青年からの献金額は知れている。また、本人の努力とは割と関係のない大人の事情(就職適齢期に景気が悪かったなど)でそもそも青年の給与所得が少ないし、その結果、青年期からの献金が少ないからである。現在の教会の一番人口分布として多い(すなわち数が多い)年齢層が中高年に偏っている以上、若年青年リスクよりむしろ、リスクとして大きいのは、現在の青年が数年後から十数年後に中高年になるという中高年リスクではないか、と思う。

 また、10年たてば、20歳の若者は、30歳になり中高年層の仲間入りする。しかし、彼らは就労開始時の所得が小さいので、30歳になったとしても現代の60代70代が30歳だったころの名目賃金(実質の賃金や可処分所得としては半分以下)ほどの所得しかないのである。さらに、10年後には、現在の60歳代以上の中高齢者(一人頭の平均所得が若年に比べて大きい層)が軒並み年金受給者になって、教会収入の激減が予測される。

40代50代の男性信徒が教会にいる?
 このように考えてみると、実は、教会にとってみて、一番のリスク要因は、中高年層、特に40から50歳代の層である。大体、教会の統計を取ってみたわけではよくわからないが、おそらくどの教会でも、みんな仕事が忙しいので、40歳から50歳代の男性信徒は少ないのではないか。その意味でも、本来将来の指導者層、責任者層と目される信徒の人材のプールが少ない、というリスクが大きい。また、近年の企業経営の厳しさに伴って、高所得者層への給与の支払いを抑制することが行われるため、実は、じわじわと教会を経済的に支える層の経済的基盤の劣悪化が始まっていないだろうか。

 また、高齢者は、ご逝去確率が高いので、その面でもリスク要因としては非常に大きい。死亡したら年金は入ってこない。従って教会への献金もなくなる。

最後の手段としての資産売却

 教会が資産をある程度お持ちのところは資産売却という最後の手段を使ってリスク回避ができるが、それが個人資産になっていたり、とかだと非常にまずいよね。

祈れば…

 ミーちゃんはーちゃんのところの初期の関係者には、Faith Mission(祈って、信仰だけで伝道しましょう)のモデルともなったGeorge Mullerという御仁が居られ、祈りの人としても知られていたが、この御仁、よく調べてみると、結構手紙魔の御仁であり、「今これが足らない。これがあるともっと良くなる」とか、結構手紙を印刷して(当時の最先端)、お祈りください、とお祈りメールにしながら、過去の献金者、とりわけ大口献金者にダイレクトメールしておられることが記録に残っているらしい。詳しくは、下記で紹介するGathering to His Nameという本を参照してほしい。

 もちろん、祈ることが無意味だとは言わない。しかし、祈るときには、ある程度必要なものを先読みしながら、神にも祈ると同時に他の方にもお祈りメールを送りつけながら、一緒に祈ってもらう(そして、できれば献金してもらう)工夫くらいは必要だろう。

リスクへの対処法
 リスクは将来が不確定であるが故に発生するのだ。確定的な未来がある場合リスクは発生しない。リスクへの対処法は、将来の未確定部分の振れ幅とその影響を小さくすることである。それがリスクマネジメントというものだろうと思う。将来の未確定部分の振れ幅を小さくするのは、将来に発生する事象の確率そのものを減らすことと、現在の構造を将来を見越して変更することで将来の影響の幅を小さくすることで対応できる。

 これまでの教会は、人口増加社会であり、社会構造が変化したとはいえ、その変化の速度は緩やかで、ある状態から別の状態までの遷移期間はかなり長期であり、社会自体も割と安定的であったし、ある程度の確からしさをもって予見可能であった。山一証券はつぶれない社会であったし、日本航空が経営破たんすることはあり得なかった。日本航空は、元から半ば国営企業の特殊法人であったから。また、人口が大きいことでその影響度はほぼ無視できた。

 もちろん、祈ることは大事であるが、準備することもイエスが言うように大事なのだと思う。
新共同訳聖書ルカ14章
28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

日本の教会が、See No Evil とならないことを祈る。
なお、左からFeds(連邦準備委員会)Banks(銀行)Home Owner(住宅購入者)


  
 以上おしまい。


        
評価:
Tim Grass
Authentic Media
¥ 5,787
(2007-01-01)
コメント:多分、現下でMullerたちOpen Brethrenの動向を知る歴史書としては最も詳しい研究者の一人、Tim Grassの著書。



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 本ブログ、最長連載記録を更新中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。本日からは、第3部 あなたの神、主の名を濫りに唱えてはならない のうち、第11章 「諸霊の世界」からご紹介いたしたい。

主の御名をみだりに唱えるとは?
 旧約聖書の中の割と大きなテーマとして、種の御名を唱えてはならないというのがある。また、イエスは、天(神の御座があるところとして理解されていた神を指すこともある)を指して誓うなとも言っておられる。なぜか、というと、自分自身の主張の正当化に他者を使うことはよくあるからだ。そのことに関して、次のように小山先生はおっしゃっておられる。

 「あなたの神、主の名を濫りに唱えてはならない」という戒めの言葉を本性における我々の中心的な主題としよう。我々の神なる種の御名を濫りに唱えるとき、我々は偶像崇拝を行っている。偶像崇拝とは我々自身のご利益のために神の名を引き合いに出すこと、つまり我々の栄光のために神の特権を利用することでなくてなんであろうか。それはどのようにして起こるのか。この種の神学的判断力はどのような仕方で日本的状況に適用されうるのか。
 (富士山とシナイ山 p.221)
 しかし、「偶像崇拝とは我々自身のご利益のために神の名を引き合いに出すこと、つまり我々の栄光のために神の特権を利用することでなくてなんであろうか。」と、書かれている下り、実に痛快である。教会では、結構、主の御名は唱えなくても、他の名前が、主の御名の代わりに用いられてないだろうか。「この教会を立ち上げられた○○宣教師はこうおっしゃっておられた」。「年配の信徒さんにはこういう声がある」、「当教会の伝統にない」、極めつけは、「聖書的でない。」である。もう、いい加減にしてほしい。自分自身の考えを言うために、他人の名を濫りに唱えることは。自分自身が気に入らん、と言えばいいのに、他人を持ち出すことは、実に議論を混乱させるだけだと思う。多様な解釈の可能性を含んでいる聖書を持ち出すとは、それこそなんだかなぁ、と思う。

不当に神が利用されるとき
 日本において、神が不当に利用される傾向を明らかにするために日本史と日本の霊的世界に関して、議論を進めておられる。

 日本の国文学者、村岡典嗣にいわせると、日本民族は海外からの文化的刺激が届くまでは、哲学なしに暮らしてきた。彼らは素朴で幸せな、自然を愛する民族で、出生や市の現実をさして深い考えもなしに受け入れていた。本居宣長によると(著書『直毘霊』、義なる精神の意)、「道」を意味する言葉は、古代において人々が歩く道路を意味するに過ぎなかった。道が哲学的な概念として深められるに至ったのは後年になってからである。神道についての最初の言及は720年編纂の『日本書紀』に現われる。(中略)孝徳天皇(在位およそ645₋54)は「仏教を尊び、神道を蔑んだ」〔第25巻〕と記されている。(中略)神道という語自体は中国の道教に由来する。興味深いのは神道という表現は最初のころ、佛教の修行法や魔術的習俗も含んでいたことである。(同書 p.222)
 フーン、日本は中国文化からの刺激を受けるまで、「哲学なしにすごしてきた」となっているが、哲学を表す言語を持たなかった、それを記録するための文字を持たなかったということの様な気もする。まぁ、言語がなければ、哲学は存在しえないだろう。無論、当時の人々は、それなりに考えてきたのだろうが、それを文字として、定着し、文学として定着させる技術というか技法を持たなかったということであろう。まぁ、歴史的な手法の場合、文字で記載された文献文書や、器物の形として記載された遺物が必要であるが、文字文化の到着が遅かったために、これらの哲学的思惟を示すものが残せなかったようにも思う。
 文字がなかったころの縄文時代にも遺跡があるので、それらの遺跡を見る限りは技術的な工夫は相当高度になされていることがわかるので、一定の思惟はなされていたということであろうが、それが残されなかっただけであろう。

 しかし、意外だったのは、孝徳天皇や神道に関する記述である。孝徳天皇が「仏教を尊び、神道を蔑んだ」という記述であり、さらには、「神道という表現は最初のころ、佛教の修行法や魔術的習俗も含んでいたことである」という記述である。これらの中に日本の宗教的思惟の背景を考えるヒントがあると思うのだ。そもそも、日本の社会の中であまり厳密に霊性の世界を区別せず、丸受けする傾向があると思うのだ。無論、類似の共通性に基づいた聖書理解で聖書の概念を広めようとした傾向はヨーロッパにもあるし、伝道方法としてもそれがとられてきたことは、かなりある。そもそも、概念がないものは伝えようがないので、どうしても現地語翻訳にならざるを得ない。ところが、現地語翻訳した瞬間にそれは別のものを意味することになったりして、結構大変なのだ。そのあたりのことは、鈴木範久著「聖書の日本語」で紹介されている。かなり日本固有の概念や独自性を含む概念である「道」という語があるが、この「道」というのは案外非常に幅広い範囲の対象の事物を含むものであるのだと思う。まぁ、そこには、何らかのものを極めるという志向性を示す言葉ではあるとおもうが。例えば、柔道、剣道、書道、華道、茶道・・・のように。しかし、キリスト教を伝えようとする伝道という言葉自体からして、伝「」である。しかし、Evangelismの語として、だれが、伝道といい始めたのだろうか。明治の昔の雑誌を見ないと分からないかもしれない。

日本の霊的世界観

 日本人の精神の古層における霊性の概念は、かなりキリスト教徒は違うことをこれ以降小山先生はご解説である。
 死者の心は30年後から40年後に先祖の心と化して古代の神々の群れに沈んでいく〔と信じられていた〕。総じて、「たま」には2種類あり、「みたま」と「あらみたま」である。「みたま」は先祖たちの平安な霊である。「あらみたま」は亡くなって間もない死者の霊で、生者に復讐しかねない落ち着かぬ危険な霊である。(同書 pp.222₋223)

 基本的に死者の霊が地域に存在する、という要素は案外重要なのではないだろうか。幽霊の話などは、そのような日本人の精神性を表しているように思うし、今では、ほぼそのような地域はよほどの農村部に行かないとないが、地域の集落の近傍に墓所があるという例は過去かなり見られた。今のように、えらい遠隔地の墓所に行くというのは、非常に近代的な現象なのだろうと思う。吉野ヶ里遺跡でもこのような傾向はみられるから、かなり古い精神世界ではないか、と思う。

吉野ヶ里遺跡における集落と甕棺の位置関係

 その意味で言うと、日本人が死亡した方が天国に行ったというけれども、日本人の感覚としては、非常に近いところにいるという印象を、「天国」という語で現代人もあらわしているのではないだろうか。また、あらみたま(ろくでもないことを起こしかねない霊的存在)として存続する期間が、30年後から40年後にいなくなるというのはとりわけ面白い。なぜかというと、一世代がが変わる年数であるからである。一世代が変わってしまえば、よほどのことがない限り、記憶もされず、忘れ去られていくのである。つまり、直接知る世代がいなくなることを通して、霊的存在としての影響力を失っていくのである。このあたりは、教会でも似ているかもしれない。直接的にその教会の設立ないしその教会群に大きな影響を与えた人物を知る人がいなくなると、影響を与えなくなるのと似ているかもしれない。

 あらみたまということを読んでいて、太宰府天満宮に祭られている菅原道真を思い出した。左遷された挙句に疫病神として、祟り神としてまつられてしまった非常に残念な人物である。今、この方は、全国の天満宮で受験の神様としてお祀りされておられる。まぁ、もともと、この方頭おかしいと思われるほど、頭が良かったからであるらしいけど。


防府天満宮所蔵 松崎天神縁起絵巻 応長本

古墳と山岳信仰

 さらに古墳と山岳信仰の関係について、小山先生はこのように記載しておられる。
 古代の精霊たちは山を住いとして、ふもとの村々の福祉を守る〔と信じられてきた〕。三世紀の後半ぐらいから石室を最上部にしつらえた古墳が立てられるようになった。もしかするとこれが「霊的山岳信仰」(霊山信仰)の期限かもしれない。山が他界に属すると信じられていたのだから。これらの石室は何代も継続する氏族集団の長の霊が鎮もる墓所であった。これは先祖崇拝の初期の表現である。(同書 p.223)
 ここで、小山先生古墳ということを取り上げておられるが、実は、ミーちゃんはーちゃんが済んでいるご近所には古墳があるし、車で20分くらいのところには、五色塚古墳というJRからもよく見えるパワースポットがあって、その近くには明石大橋、また、その近所には、垂水の神学校もあるという神戸市内きってのパワースポットが満載の地区がある。


五色塚古墳(横から) 後円部の一番高いところから見た海を臨む(明石大橋も見える)

 高いこと、そして、外延部にあるというのは重要であると思う。日本の宗教施設は圧倒的に、中心部ではなく、周辺部におかれる傾向が強い。寺社もそうであるし、この異界との境界(結界)におかれることが多い。一つは、外部(魔霊の棲む世界)からコミニティという、そのソフトな内部を霊的にも物理的にも守る為であると考えられる。江戸期の古地図を見ていると、街の外延部に部隊の終結地点と防御拠点として、疑似的な籠城可能な施設として、寺院などが置かれている。これは室町期以降の城下町の縄張りというか、町割りの基礎をなしていることが多い。

勤労感謝の日と新嘗祭
 現在は、ほぼ、勤労感謝の日が新嘗祭であったことが記憶されている方も減ってきてはいるものの、勤労感謝の日は、新嘗祭なのである。小山先生はこのように書かれている。
 天皇家の歴史において最も重要な儀礼は「新嘗祭」だった。(取り入れたばかりの新米を食べる儀式で)その夜天皇は象徴的生殖行為としての穀霊(女性的霊と考えられた)と床を共にする習わしであった。天皇はこの儀礼を経験することによってのみ真に自らを天皇にふさわしい人とみなしうるのである。哲学的見地からして、日本が女帝を国の支配者にさせえぬ理由がこれである。新嘗祭の前夜、すでに亡くなった諸天皇の霊を慰める儀式が行われる。この儀式において天皇は神格化される。以上で分かるように、人間と神との間に人間と諸霊を含む他の存在者との間に明確な区分はない。(同書 p.224)
 なるほど、日本の天皇家が男性系でならない理由が、象徴的生殖行為としての新嘗祭にあったとは。これは一つ勉強になった。まぁ、女帝になると、確かに論理上不具合が生じる。まさに、「Lの世界」になってしまふ。くわばらくわばら。
 この前の京阪地区で行われた牧師さんたちの自主的研修会で、日本のキリスト者が天皇制と対話するためには、我々はもう少し天皇制そのもの、そして天皇制の背景、そしてとりわけ天皇制の中でも私事行為で行われている神事の内容について、厳密な哲学的検討をしないといけないのではないか、というお話も出ていたが、天皇制に不必要に対峙する必要はないけれども、自分自身を反省し、相手に不必要に巻き込まれないためにも、他者としての対象を虚心坦懐に(あるいはオープンマインドで)知るという意味では、エスノグラフィカルな手法での対話をする必要があろうかとも思う。
 たしかに、穀物霊とのインタラクションで考えてみれば、いろいろ理解可能なことも多い。日本酒(清酒ではなく、濁り酒・どぶろく)とは違うとされているが、クチカミ酒が古代利用されていたとされることを考えると、神事と酒類との日本文化における深い関係は、何か深い意味がありそうである。ただ、なぜか口カミ酒の伝統は女性が噛んだもので自然発酵させることが多いので、男性系ではないのであるけれども。

日本の霊性と大きく異なる旧約聖書の霊性

 日本の霊性は、どこかでその霊の出発点が明らかではなく、どこか輪廻転生的なものと結びついているような気がするが、自然の世界から社会に現れ、そして、社会から自然の世界へ時間をかけて戻って行きという概念があるような気がする。そのことに関して、小山先生は次のようにお書きである。
 これら日本民族の三通の基本的な概念、「たま」、「もの」、および「かみ」はアニミズム的、汎神論的概念である。それらは、聖書に見いだされるような唯一神論的伝統のそれとは根本的に異なる日本の霊的、文化的輪郭を構成している。「たま」、「もの」、「かみ」はそれ自体、聖書的な霊概念(ルーアッハ)よりもはるかに非歴史志向的なものである。(中略)しかし聖書におけるルーアッハは独立的存在(実態)ではない。神の力の支配下にある。(同書 p.225)
 小山先生が、歴史的というとき、必ず、出発点があり、終端点があり、それがより広い歴史的時間の中に位置づけられるというお考えがあるようである。そもそも、人間の霊性は、すべて神によって吹き込まれることによって始まるというのが創世記的な理解であろう。このように考えるとき、日本語において聖書の神と霊との関係を理解しようとするとき、よく考えた方がよいことなのかもしれない。このあたりの整理も、聖書を日本語で考える際には、重要なのかもしれない。

アハブ王と昭和の大王への偽りの預言 
 預言者ミカヤのアハブ王への預言の事例(列王記22章)を紹介した上で、次のように小山先生は書いておられる。

 神とある霊とが交わす対話が展開するこの異様な物語において、400人の預言者が口をそろえて唱える預言の秘密が暴露される。「王に仕えるすべての預言者の口を通して」偽りを語る霊に感化されて両王は戦争に出陣するであろうと、その霊は主にこうした戦略を進言し、神はそれを承認して、成功を約束する。偽りを言わせる霊となった霊が世界の神の意思を実行することがきる、これが悪の神秘である。なぜこうした戦略が神によって承認されるのであろうか。この問いに答えるのは容易ではない。合衆国に対して開戦すべきか否かについて日本の指導者たちの間で議論がなされたとき、日本のすべての預言者は口をそろえて、皇祖皇宗の霊は合衆国を天皇の手に渡すであろうと予言した。紀元前9世紀のパレスティナで起こったことと、20世紀の日本で起こったこととの間には不気味な類似がある。どちらも宮廷預言者たちが偽りを言わせる例の感化の下で語ったということである。違いは、日本には起きた起きた出来事の神学的背景を告げる「ミカヤ」のような預言者が一人もいなかったということである。ミカヤの物語は神の座の幻視から始まる。彼に預言の霊感を注いだ霊は自然的霊ではなく、神の座が人間の歴史にとっていかなる意味を有するかを理解する霊であった。(同書 pp. 227₋228)

 まぁ、同じ神ではないというものの、世界中多くの国や地域で同じような敵に対する勝利の予言(神からの言葉ではない予測)が数多くの預言者に語られたことは間違いない。まぁ、この勝利の予言は、20世紀の日本では、宗教関係者だけによって語られたわけではない。国民学校の教員から、市町村長から、知識人から、新聞から、雑誌から、街の婦人会のおばちゃんまでの幅広い国民が勝利の予言を語ったのである。勝利の予言を語らぬ者に対しては、非国民のラベルを張りまくりながら。それも、なぜそうなのか、という確信やその説明なく、勝つものは勝つのだ、神国は神国だ、という非常に空疎な理解から。ある面、聖書の世界の預言者が、神が全世界を受け止めているということを前提に語り、人類や個別の人間に理解可能であるかどうかは別として神の支配(悪の存在の許容を含め)というのか神が存在し、そこからの啓示ということを踏まえ、いのちをかけて語らされる(偽預言者には大きな石をぶつけられる刑死が待っている)。しかし、日本での予言は、どうも空気に共振して人々が語り始めるという側面があるような気がする。これは、近時の政権批判にあっても(特に、一部のキリスト者の内でも)同じようなことが起きているということを考えると、非常に危険な傾向であるように思うのだが、そうでないことを願うばかりであり、キリスト者は、ブルッグマンが『預言者の想像力』で指摘するように一種の預言者性を持っていることを考えると、まさに、神の主権のみを求め、そこに価値を置きつつ、預言者がこの世におかれたように、カジュアルではなく真剣にこの世とかかわっていくということをキリスト者の端くれとして考えたい。

 次回は、1回別ネタをして、次々回以降、日本の政治思想に影響を与えた儒教と佛教の影響を考えていく。



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コメント:良いと思います。キリスト者の預言者性を考える意味でも。



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 今日も、富士山とシナイ山、「第11章 テクノロジーは能率性と意味との葛藤を引き起こす」からご紹介したい。

非能率的な方法での自然との調和
 近代社会は、いつのころからか能率的な方法で、物事を実施することを考えがちである。これは、近代社会が成立することで、技術的に天候や気候に由来して発生する不安定要因を人間的な工夫を凝らすことで除いてきたこと由来すると思う。
 しかし、農業として水田耕作とする稲作では、どうしても生育条件として水が必要であり、水利への依存が求められることになる。いくら効率的にしようと思っても人間にはどうしようもない、自然の大量の降水が必要となるのである。
 宗教史における「非能率的姿勢」の中で最も顕著で最も逆説的なものの一つは禁欲主義である。禁欲主義は聖なるものへの非能率的接近を通してする人間的意味の探求だろうといってもよかろう。禁欲修行者の身構えは非能率的な身構えである。(中略)
 波羅題木叉(パーティモッカ)は僧伽(修行者の集団、サンガ)のために厳密に順守すべき諸規則を含んでいる。僧侶は縛られた人々である。227戒の第1戒は「いかなる類の性交も禁じられている」である。この戒めは仏教僧の全伝統のいわゆる阿羅漢(最高の境地に達した聖者)の生き方の気風を定義している観がある。ニルヴァーナを達成する能力が、性欲から自らを開放する能力によって象徴されているのである。創造性は弁証法的である。否定の契機に媒介されて肯定に達するがゆえに。ニルヴァーナを能率的に達成しうる道は、人格的な徹底的非能率に見出されるのである。これが禁欲主義の逆説である。伝統的諸文化は禁欲に媒介される能率性を熟知している。タイとビルマにおいて、「非能率的スタンス」を通して仏教僧侶が存在感を示していることが、両国の生活空間を宗教的にしている。人間的空間と人間的可能性が禁欲主義を通して意味深いものとされるのである。これがコスモス(自然的、調和的世界)の知恵に反映されていると私が見る伝統的諸文化のひそやかな魅力である。(『富士山とシナイ山』 pp.205₋206)
 中に、アラカンとか、ニルヴァーナとかが出てきたが、真っ先に思い出したのは、鞍馬天狗をやっていた嵐勘十郎氏と最近UTになっていた、ニルヴァーナの皆さんであった。


アラカンやニルヴァーナ
といっても、上の画像ではない。


タイの修行僧の方

 なんか、お聞きしたところによると、日本の仏教ってのは、非常にアジアの中でも特殊な仏教らしくって、結局、戒律はあんまり関係なくて、僧侶も妻帯者OKってのは、幅ひろい仏教全体からしてみても、特殊な仏教社会らしい。


祈りフェスティバル 鼎談要約ヴァージョン 12分前後に日本の仏教への言及があります


 まぁ、それぞれの地域ごと、国ごとに仏教にしてもキリスト教にしても、それぞれの発展の経緯は特殊個別的なので、何とも言えないらしい様な気がするが。これも、奈良朝以降の日本の仏教の発展史というのがあるだろうけれども。

 ニルヴァーナに効率的に達成するために、非効率に見える方法論を取らなければならないというのは、案外重要かもしれない。臨床心理士をしている吉村昇洋さんによると、御相談に来られた方は早く解決を、ということをおっしゃるらしいが、「まずは、座ろっか」から始めておられるようである。まぁ、臨床心理士のところに駆け込んでこられるという状況であるから、まぁ、精神的にもとっちらかっているわけで、それを落ち着かせてから出ないと、話しも出来ない、ってことかもしれない。

 あるJAさんの農作業でのIT技術による効率化、という非常に非アジアモンスーン的な対応をしているときに思うのであるが、対象となる農作業である田植えや稲刈りに付き合っていると、本当に天候には勝てないなぁ、と思う。雨が降ったら、稲刈りは出来ないし、水がなければ田植えは出来ないし、植えたところで枯れてしまう。本当に天候依存しているなぁ、と思う。
 
仏教が中心となったタイ国の例から

 この小山先生というのは、タイでの伝道を通して、タイの仏教や社会制度に触れていく中で、タイ国での独自な国家と仏教とのかかわりの中で、中心性とテクノロジーについて、次のように書いておられる。 

 アジアの大半において自然の慈愛的位相は生命をはぐくむモンスーンの規則的おとずれによって象徴されている。モンスーンがなければ、田畑を耕すことができるであろうか。工作がトラクターでなされようが水牛によってなされてようが、テクノロジーはモンスーンを待ち望んでいるのである。そこではモンスーンが第1義的で、テクノロジーは第2義的である。モンスーンが第1義的位置を占めているという感情が、コスモス(調和的自然世界)感覚を刺激し、「魅惑的情緒」を覚醒させるのである。
 タイ国の社会はコスモス志向的二制度によって、すなわち宗教としては仏教、政治組織としては王政によって秩序づけられている。タイ仏教はマックス・ウェーバーの用語を用いれば「宗教的練達者」(religious virtuosi)にほかならなぬ修行僧仏教である。(中略)普通の人々はニルヴァーナの境地にふさわしいこれらの専門家たちを布施で支えることによって、彼らなりの功徳を積み、ブッダの世界における居場所を見出すのである。これらの宗教的練達者たちは魅惑的な自然世界の沈黙せる中心となる。タイ仏教の至高の首座にある国王は仏陀の世界の中心に立つ。(中略)王は世界中であり、宇宙世界の中心にそびえる神話的な山、メル山である。彼の権威は彼がモンスーン的世界および仏陀的世界の中心に存在していることに由来する。タイ国王は極めて魅惑的な人物であり、生ける神話的人間である。宗教的中心と自然世界の中心との統一の対象である。(同書 p.206)
 先にも触れたが、農業者の皆様とお付き合いしていると思うのは、天候が農業のすべてを決めてしまう部分がある。それに対して、人間ができることは、確かに限られている。高温では障害が出るし、雨が降らねば、稲や食物は育たないし、低温であると、病気が出るし、下手をすると稲の生育不良が起きる。



タイ王国の通貨100バーツ紙幣

 タイ王国の通貨を見ると、必ず、このタイの王様の絵というかポスターが出てくるらしい。知り合いの交通経済学者の方と夕食をご一緒した時に、タイに行くと、通貨だけでなく町中どこでも、この国王様の肖像というかポスターがかけられている、ということだったのだなぁ。小山先生は、その様なことを「生ける神話的人間」ということで表現されておられる。そして、「宗教的中心と自然世界の中心との統一の対象」としてタイ国王が認識されている、ということを言っておられる。

 どこでも In God We Trustって書かないと気が済まないどこぞの国とは、信仰している宗教は違うけれども、市民宗教となっているという意味ではよく似ているかもしれない。まぁ、国家元首は宗教的中心を持たないというのが、本来的なアメリカ型の政教分離である。多分、それは、イギリスで苛め抜かれた国教会分離派の人たちが自分たちの理想郷をつくろうとしたのが、アメリカの建国の文化の中にあるからであろう。英国の場合、政治的な中心と宗教的中心は、国教会が存在し、国教会のトップはイギリス国王ないし女王であることもあり、ある程度一致している。といってても、英国は最近、割と早くから国教会分離派もおり、また、近年の旧宗主国をしていた国から流入した人たちの宗教的背景が異なるので、イギリスの宗教は国教会とは言えなくなっている。


In God We Trustと大書された10ドル札


Bank of Scotland発行の10ポンド紙幣


国教会のトップでもあられるエリザベス女王(Bank of England発行)

 こうやって見てくると、同じ王国であっても、連合王国とタイ国では同じ王国であってもだいぶん違うことがわかる。

 まぁ、英国が事実上世界の中心だった、という時期はないわけではない。いまだに、世界標準時と世界の座標系の経度の原点は、グリニッジ天文台ということになっている。産業面では、もはやイギリスの中心であることからは薄れている。海軍の造船でも、もはやその中心性はない。今では信じられないことかもしれないが、実は、英国は航空機製造先進国であったことがある。デハビランド・コメットという世界初のジェットエンジン搭載の旅客機を作っていたのである。なお、世界の大型航空機ジェットエンジンメーカーの最大の企業は、米国GEであるが、英国のロールス・ロイス社と米国のプラット&ホィットニーが続いている。金融面、特に損害保険業界での中心性はいまだにあるだろう。まぁ、これは、連合王国が、18世紀に超大型の海洋国家であったというのはあるのだろうけれども。


Gilbert and Sullivanの喜歌劇 HMS Pinafore から He is an Englishman

技術の持つ呪術性 金の子牛と技術
  
 最期にシナイ山で何が起きたか、そして近代のアフリカと日本で何が起きたのかにに関する小山先生の記述を紹介して終わろう。

 シナイ山の伝説は意味を能率性に従属させてはならないと我々に警告する。(中略)子牛の鋳造を作ったエピソード全体は、テクノロジーが参加しているスピーディに展開する物語である。指導者たるモーセの不在が民を不安にさせ、孤独にさせた。この精神的しんっくうを満たすために、民はアロンと一緒になって、即刻その場で神々を作ることによって、手っ取り早く問題を解決する決心をした!この物語において、神学的苛立ちとテクノロジー的能率性とが一糸乱れず協力している。アロンと民が打ったこの一手は問題を解決したかに見えた。しかしそうはならなかった。この一手の結果は、イスラエル自身の歴史のみに有為歪曲と自らのアイデンティティの喪失であった。彼らの歴史的生の意味があの手っ取り早い一手によって破壊されたのである。彼らがあえて採用した対策はとうてい「神学的」とは呼びえない代物であった。(中略)魔術においては意味は能率性に従属させられる。この意味で魔術は必然的に攻撃的である。(中略)西洋の諸宗主国がアフリカ諸国の間に能率本位にひいた直線的国境線は諸民族の複雑な生活現実を恣意的な国境線に従属させる「魔術的」線に他ならなかった。19世紀に不可避な西欧的近代化の衝撃が日本を襲ったとき、日本人の生活の多くの水準において魔術的能率性の激発過程が指導した。日本の指導者層が採用した能率的対策の一つは天皇その人の神格化、絶対化だった。「神格化」は意味よりは能率性に関心を集中させる雄弁な魔術の手本である。この魔術は必然的に暴力を生み出す。暴力は魔術的に使用された力である。 (同書 pp.214₋215)
ここで、技術と魔術の話を小山先生はしておられる。実に印象深い。そもそも技術が魔術と深いつながりを持っていることは、なんとなくは技術者は意識している。なぜならば、化学工学は、そも錬金術由来であるし、機械工学にしたところで、本来不可能なことを可能にしようという人間の枠を超えようとするところから出てきているので、魔術的な部分がある。中国の古代都市計画理論の風水に至っては、何をかいわんや。

 技術は効率性を目指し、「問題」そのものを見るのではなく、「問題」を解決してしまおうという欲望に満ちている。その意味で「問題」に気長に、禁欲主義的に、あるいは非能率的に付き合うのではなく、「問題」をできるだけ早く(ありていな言い方をすれば、手っ取り早く)なくしてしまう方法論をとるのであり、実に能率的に事を運ぼうとする。しかし、本当にそれでよいのだろうかという疑問を持ちつつ。

 ISILまたはISILと呼ばれる人々が起こす、不幸な事件がここの所起きているが、あれはある面、利権をめぐる問題でもあると同時に、小山先生の言葉を借りれば、利権を生み出した「西洋の諸宗主国がアフリカ諸国の間に能率本位にひいた直線的国境線は諸民族の複雑な生活現実を恣意的な国境線に従属させる「魔術的」線に他ならなかった。」ことへの現地の人々の反逆というのか、犯行、あるいは反作用という側面もあるのだろうと思う。実際に卑劣な行為にばかり目が行きがちであるが、その背景、あるいはその遠景、文化と文化の衝突という側面ももう少し考えないといけないのではないか、と思っているが、そこまで触れているものは非常に限られていると思う。

 また、「日本の指導者層が採用した能率的対策の一つは天皇その人の神格化、絶対化だった。「神格化」は意味よりは能率性に関心を集中させる雄弁な魔術の手本である。この魔術は必然的に暴力を生み出す。暴力は魔術的に使用された力である。」という部分を読みながら、日本の明治期は、意味性よりは、近代化達成を能率的に進めるためにその魔術としての「洋才」を「和魂」に無理やりつなぐために天皇を神格化し、絶対化したのかもしれない。その反作用は恐ろしいものであったような気がするし、またそれを他国を十分に知らず、近代の啓蒙思想、平等思想という魔術にかかって、どの民族も同じであり(一定部分までは当たっている)、同じでなければならないという前提の下、無遠慮に、無思慮に他国に出ていき、他人にある概念を強いることになっているかもしれない。国際関係論ではないが、他人にあること、同じ概念や、同じ行動を強いることは、今もなお、教会でも行われているかもしれないと思うと、人間の神の欠落という意味での罪、それゆえの人間の意味の喪失ということの非常な不都合を感ぜざるを得ない。

 次回 第3部 あなたの神、主の名を濫りに唱えてはならない 第12章 諸霊の世界 から考えてみたい。
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コメント:一応資料として。この手の音楽は聞かないのでよくわからん。

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コメント:非効率的な方法で効率的なニルヴァーナに達せられる参考になるかもしれない。



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 本ブログ、最長連載記録を更新中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。本日からは、第11章 テクノロジーは能率性と意味との葛藤を引き起こすからご紹介いたしたい。

テクノロジーと歴史性

 まず冒頭の小山先生のご発言が意味深い。
 
 貪欲と色欲に対する我々の戦いは熾烈でかつ骨の折れるわざである。テクノロジー的能率性を駆使して実行することはできない。だがこの戦いには、人間的意味の可能性が掛けられている。歴史的なものはテクノロジー的能率性のカテゴリーの下に包摂されえない。歴史的なものとテクノロジー的なものとの間には苛立ちの関係がある。(『富士山とシナイ山』 p.199)
 貪欲と色欲って、ダイレクトに言われてしまった感じだなぁ。いやぁ、テクノロジーってのは、結構貪欲系や色欲系のものと絡むことが多いのだなこれが。サイバー詐欺もそうだし、ネットが広がったのも、結構色欲系のサイトがあって、ということもあるし。だから、未だに、ネットは不謹慎な世界と、思われている。別にそう思われてもいいけど。

 バイクや車も、ある面、色欲系ではある。テクノロジーと色欲系がくっつくと「艦これ」とか、ろくでもないことが起きる。息子さんのお話だと、2014年のセンター試験にミッドウェー海戦が出題されたので、このゲームの参加者(通称提督)の受験生は「うぇ〜〜〜い」と、大喜びしたとかいないとか。



DMMさんのサイトにあったキャラクター「赤城」

 しかし、本来苛立ちがあるはずの歴史的なもの(過去を志向)とテクノロジー的なるもの(未来を志向)を併せ呑むヲタクの力というものには、驚くべきものがある、とだけ論評しておこう。

宗教とテクノロジー

 宗教とテクノロジーの関係について、小山先生は次のように書いておられる。

 最期に、宗教は救済を約束する。救済は未来と結ばれた概念である。来世の次元を示唆する概念である。宗教の未来と彼岸は過去の宗教的経験の視座からは十分に説明されえない。宗教的現在は未来に向かって傾斜する現在である。テクノロジーも同様未来に向かって傾斜している。後者は、その驚異的能率性によって我々が伝統的に宗教のうちに意味してきた意味にとって替わることを示唆している。(中略)回復する望みなき患者の命を救いうるのは宗教ではなく医療技術である。テクノロジーは驚愕的行動を通して宗教に挑戦しているのである。(同書 p.201)
 ここを読んだ時、素朴にオウム真理教のことを思い出した。彼らは、宗教とテクノロジーをある面、見事に融合したと思うのだ。先ほどの『艦これ』ではないが、彼らは救済を求めながら、ポアという方法論のために大量にサリンを作ろうとした。作り損ねたからよかったけど。そして、貧民の武器と呼ばれたAK-47 を作ろうとしたり、ヘリコプターを買ってみたりと、非常に特異な発想で自ら(あるいは松本智津夫被告か?)を救済者に据えようとしたのではないか。非常に日本的な宗教観というか宗教的コンテキストの中で。その意味で、オウム真理教は、非常に日本的な宗教的な何か、を持っているのである。あるところで、富士山信仰とくっついていたり、キリスト教的なハルマゲドンを持ち込んでみたりと。

 そして、テクノロジーに基づいたものを用いて、救済だと称して、伝統的な宗教に挑戦したといえよう。マハーポーシャという安いパソコンやがあったので、やばそうな名前だなぁ、と思っていたら、実はオウムの別働隊だったと後で気が付いたという残念なお知らせ。買わなくてよかったと思っている。

コスモスとテクノロジーの微妙な関係
 宇宙飛行士が宗教に走ったり、数学だの物理学だのを極めていくと、だんだんおかしくなる(あっちの世界に行ってしまう)のは、それぞれの世界あるいはコスモスが持つ、イコン(アイコン)と論理がそうさせるのかもしれないと思う。

 コスモスという語は我々に自然の秩序的イメージを与える。いわば知恵のイメージである。コスモスには「イコン」(イメージ、川のように見ることができるもの)と「ロゴス」(言葉、「水の動き」の合理的説明のような一定のイコンの内部で生起していることについての合理的理解)との神秘的統一がある。(中略)コスモスが知覚されるときは常に、我々はイコンとロゴスに接触するであろう。コスモス的イメージは我々の想像力を目覚めさせる。コスモス的な言葉は我々に教え、理解と合理性を与えてくれる。(中略)コスモスは宗教的である。イコンとロゴスの神秘的統一性は世俗主義を退ける。(同書pp.202₋203)
 そういう意味でいうと、マッキントッシュは、非常に宗教的な世界なのである。もう、信仰といってもよいかもしれない。個人的には、アップルと言う会社は嫌いではないが、あまり好きでもないし、その会社の設計思想には、なるほど、と思うことはあるが、設計思想がよいからといって、それに追随することはしていない。

 個人的には、何らかの形で、自分自身が抱えるタスクが解決すればよいのであって、そのために使えるのなら、何でもいいと思っている。その意味で、個人的にはコンピュータ技術について、帝国主義者ではない。確かに昔は、イラストレータやフォトショップといったデザイン系のソフトウェアが使えるのは、マッキントッシュだけであり、マッキントッシュの中に入っているモトローラ68000系のCPUだけであったから、というだけであったが今は、確かマックの中もインテル系のx86系統のCPUになっているはずである。

 また、現在、パクリといわれようがなんといわれようが、ほぼ多言語対応が可能になったMS-DOSの後継OSである、Windows系や、UNIX系のOSでも、使用上多言語対応上の問題が実用上ほぼないので、別に問題解決できたら、どれでもいいと思っている。要は使えればよい、と思っているのだ。



The Simpsonsで揶揄されるApple の利用者の皆様

 上のアニメに示すように、基本的には、アップル自体も一種の宗教性が強い会社である。まぁ、それはアップルだけでなく、ソフトウェア会社が一種の開発思想や設計思想に基づいて開発するので、どうしてもそういう思想性に走りやすい傾向になりやすいのはよくわかるけれども。なお、上の動画を紹介しているからと言って、ミーちゃんはーちゃんはApple Userの皆様に敵意はない。


テクノロジーとイコノグラフィー

 テクノロジーとイコノグラフィーの関係について小山先生はこのように書いておられる。 

テクノロジーは自然の上に能率的かつ行政的なイメージを刻印すること(つまりイコノグラフィー、図像学的操作)から発生する。それは実験的冒険的、積極果敢な精神の表現である。(中略)こうした力強いイメージ書き込み(Image Writing)を行う能力は、元来テクノロジーが原子のコスモロジー的世界(世界生成論)イコン(図像)から受ける霊感に由来するのである。航空機、最も最新式の旅客機すら、鳥のイメージを維持している。北ボルネオの川をこぐシンプルな二人乗りカヌーも、核潜水艦もいずれも魚のスマートなイメージと合理性を暗示しているのである。テクノロジーはコスモス(自然的、調和的)のイメージと言葉に基づく計り知れぬ能率性を想像する啓蒙の一種である。(中略)能率性は啓蒙である。これが人類に対するテクノロジーの霊的及び宗教的メッセージである。この意味において、我々のテクノロジー的時代は啓蒙時代なのである。能率性は啓蒙であると告白するなら、テクノロジー的意味において我々は宗教的なのである。(p.203)
 こう書かれると難しいが、この文章を見ながら、実は宮崎駿アニメの「風立ちぬ」を思い出していたのだ。「風立ちぬ」の主人公の飛行機の設計者がサバの味噌煮を食べているときに、サバの骨を取り出し、そこにインスピレーション(霊感)を受け、飛行機の翼断面形状に同じ断面形状があることを言い出すシーンがあるが、これなどは、まさに、飛行機などがもう完全にイコノロジー由来であることを如実に示していたのである。

 飛行機ヲタクのミーちゃんはーちゃんは、飛行機の美しさを語らせたらまぁ、収拾がつかなくなるので、やめておくが、非常に美しい機体が世の中には存在する。3次元連立微分方程式体系を解くような流体力学をミーちゃんはーちゃんに教えてくださった大学時代の恩師が講義中に教えてくださった(今はもうその言葉位しか残ってない)ことのなかに、

「合理的なものは人間の目から見て美しい。美しくないものは、逆にどこか不合理を含んでいて、非効率の原因を含んでいる」

ということをおっしゃったが、なるほどなぁ、と思ったものである。

 しかし、飛行機の設計の世界も実はかなり宗教的なのだ。ボーイング社とエアバス社では、ここまで設計思想が違うかというほど設計思想が根本的に違う。第2次世界大戦中のドイツ系の戦闘機とイギリス系の戦闘機(特にスピットファイアー)との間ではここまで違うか、というほどの設計思想の違いがある。つまり、設計そのものが一種宗教性を帯びているようにも思うのだ。そのあたりのことは、風立ちぬの中盤以降を見るとよくわかる。

 なお、風立ちぬを見た直後の記事は、こちらから


風立ちぬ の予告編

 テクノロジーも、実は非常に宗教的なのだ。宗教的というのがまずければ、ある独自の世界観を持った世界が並立しているといってもよいかもしれない。技術者の端くれとして、それは思う。ある世界観(技術体系)にはまってしまうと、別の世界観(技術体系)は理解しにくくなる(なぜならばそれだけ余分に考えないといけないし、根本的に違う思想であるから、それぞれの設計思想という技術体系ごとに用いる言語が違うからである)。まるで、バベルの塔の世界であるなぁ、と技術者の端くれとしては思う。

 旅客機というのは、翼にドンガラつけただけの機体が多いので、つまらんことが多いのであるが、最近空を飛んでいるBoeing 787の翼形状を後ろから見た画面には、ほれぼれとするほど美しいと思った。ただ、この機体の機首は、工作効率性のためか、雅趣がなくてちょっと残念であるけど。


Boeing787

次回もまた、この本からのご紹介の話題を続けたい。

 

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コメント:好きな作品の一つ。飛行機ヲタにはたまらん。



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 先日、ある関西での私的な神学サロンに行ってきた。ある京阪沿線の教会で行われている研修会であるけれども、研修会と称するよりは神学サロンという方が近いであろう。基本様々な異なるキリスト教の伝統にのっとっているキリスト者グループから牧師さんたちを中心とする参加者がいろんなネタを持ち寄りながら、ああでもない、こうでもないという楽しい会である。

サロンのような場での聖戦を巡る議論
 そこで、「聖絶」をどう考えるか問題(予定原稿を見る限り、聖なる戦争、義なる戦争が存在するかどうか問題)のサロンのはずだったはずだったのだが、講師の方の教会員の方がご逝去が近いということで、講師が不在になってしまった。そこで、サロンのホスト(といっても、博多弁でしゃべるヒロシのようなホストではない)の先生が、ご自身のご関心の深いアメリカ神学と聖戦意識を中心にいろいろネタを持ち出しながら話していった。


一世を風靡したヒロシ

サロンのような場での話題

 その中で、クルセードという言葉を何の気なしに発言したジョージ・W・ブッシュのように、なぜ、すぐさま聖戦意識になるのか、というあたりを切り口に議論を進めていった。アメリカの憲法修正第1条や教会の関係、アメリカ社会における教会の意義とか、アメリカ人にとって、自由と平等が宗教のようなものであり、それが攻撃されると突然怒り始める国民性だの、アメリカの戦争のためには、何らかの正義の根拠が求められることや、キリスト者の大統領ばかりなのに、戦争していることが多いとか、また、戦争否定の人が多いメノナイト派などでも戦争に対する態度は一様でないとか、カトリックとプロテスタントを巡る現在の関係とか、カトリックの聖書学のあり方に学ぶところが多く、非常に癖のない聖書理解をご提示しておられるとか、とおはなししておられた。

 そのなかで、日本の神学を考える上では、やはり、国家とキリスト教を考えるためには、アウグスティヌスまでもどって考えざるを得ないとか、日本の天皇制をもっときちんと分析する必要があるとか、ドイツルター派の思想と大日本帝国と、大日本帝国憲法との関係などを含め、日本の神道理解を文化的レベル、古代神道のレベル、国家神道のレベル、中世民衆史のレベル、民族誌のレベルにわけて、議論する必要がある、などといった高尚なディスカッション(決して雑談ではなかったことは断言しておこう)を楽しんでいた。

 
ジョージ・W・ブッシュのIraqでの戦闘開始の時の発言(アメリカでその時に見ていた)


基本、アメリカの神学の影響を受けた日本
 その中で、日本の教会の成立史の検証が必要であり、明治時代のキリスト教が、倫理としてのキリスト教として受け入れられていたこと、一方でユニテリアン的な合理的なキリスト教の影響がありながらも、それに否定的なあまり、聖書原理主義的な動きが生まれたり、それがそのまま、日本の戦前の教会になだれ込んだことや、日本社会で教会が存在することの意義とか、大正期のキリスト教が、倫理の上に教理の理解を深めようとしていたことなどの非常に真摯かつ紳士的で実に印象的な議論がなされていた。

アメリカ神学の否定と戦争中の日本の基督教
 その議論の過程の中で、北のお百姓トンちゃん様のブログ記事 金の子牛の上の主(ヤハウェ):「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」について思うこと  をブログでご紹介したら、山崎ランサムさまがブログで、もともとご発表論文だったものを記事としてご紹介してくださったり、沖方牧師で大ヒット連載が終わったばかりの大杉さまがまた、ブログで、過去の歴史的文書のご紹介やら、そのおまとめやらをしてくださっていたり、また、敬愛している関口さまが、また、ブログでカール・バルト(以下、バルトと表記する)だから「日本基督教団より…」となったのではないか、と応答を書いてくださった経緯をちょこっとお話ししていた。そうしたら、ホストを務めてくださった、久○さまが、戦前のバルト神学の受容の問題をお話ししてくださり、基本、バルトは、自由主義(リベラル派の)神学であり、いわゆる自由主義神学、科学万能の時代の神学が支配して、それを自由主義神学の内部から否定というか超克しようとしたのがバルトであることをお話ししてくださった。つまり、聖書を合理的に取り扱おうとするリベラル系のドイツ神学の中で、啓示をどう考えるのかを考え、その中でバルトは科学万能時代を支配しようとしたシュライエルマハー(?)との対峙、即ち自由主義神学の中からその限界を超克しようとした、ということは重要ではないだろうか、ということをご指摘いただいた。また、日本は、1930年代まで、アメリカの神学の輸入とその日本での再解釈を倫理の面、そして、教義の面で検討してきていて、アメリカとの関係がまずくなる中で、ドイツの神学を取り込もうとした時に彗星のごとく現れていたバルトに心酔する人々が出てきて、それを吸収しようとしたのではないだろうか、というご指摘があった。

人生いろいろ バルトもいろいろ

 なお、以下の3枚の絵はカール・バルトとは直接関係ない。


アニメ バルト

「バルト 大相撲 日本相撲協会」の画像検索結果
把瑠都(日本相撲協会)


ロラン・バルト

 何、これらの写真は三段落ちをして遊んでみたかっただけである。お付き合いいただき感謝。

 なお、カール・バルトはこの丸眼鏡のおじさんです。

新教出版さんのカール・バルトの本の表紙のバルト先生の写真



非米国依存の選択肢としてのバルト神学かも?

 このお話を聞きながら、あぁ、アメリカや大英帝国の神学を否定しようとしたがゆえに、結果として、それらの国家と対峙関係にあったドイツに目を向けざるを得なかったのかもしれない。従来幅広い日本のキリスト教が、伝道や教会運営の面で米国にかなり大きく依拠し、神学的思惟に関しても科学万能の時代、金ぴか時代のアメリカに依存してきた結果、アメリカの神学を席巻していた自由主義神学、リベラル派的な神学を否定しようとするためには、自由主義神学を内部から突き崩そうとしたドイツ神学、中でも、バルトに向いていかざるを得なかったのは、ある面、理の当然か、とミーちゃんはーちゃんは思ったのである。なお、フランスなどの他の西洋諸国は、基本カトリック国なので参照不可であったり、北欧は研究者が少ないので、目が向かなかったのかもしれない。

非米国型合理主義的信仰の否定
としての日本の神学とバルト

 それ故にやたらと勢いがあって、鼻息の荒かったドイツ神学、さらに、その中でも、合理的な志向性以外のものも受け入れ可能に見えたバルトが選択されたのだろうかとミーちゃんはーちゃんは思ってしまった。つまり、合理的なものだけではない事柄を受け入れ可能に見えた神学としてバルト神学が選ばれた可能性はないだろうか、ということを考えた。すなわち、日本精神、『やまとごごろ』をキリスト教に接ぎ木する存在として、バルト神学が選ばれてしまったという不幸なことがあったのではないか、ということを思ってしまったのである。そして、バルト神学風の非バルト神学が日本で作られた結果、「日本基督教団より大東亜共栄圏にあるキリスト教徒に送る書簡」という文章がつくられたのではないか、という実に厨二病患者らしい気宇壮大といえば聞こえがいいが、めちゃくちゃな仮説を思いついてしまった。

 確かにバルトは、ナチスドイツに抵抗したというよりは、多分ナチスドイツをスルーしたのではないだろうか、と思う。まぁ、スイス人だったということもあるのでしょうけど。このあたりは、ドイツ語をきちんと読める碩学と日本の歴史神学に興味をお持ちの方に是非ご検討していただきたい作業仮説だなぁ、と思う。ミーちゃんはーちゃんは、ドイツ語読めない(読んだら頭が痛くなる)ので、あきらめている。自慢ぢゃないが、第2外国語はフランス語であったので。

 まぁ、キリスト教学を傍目で面白がっている素人が考えたことなので、個人的には帰無仮説(Null Hypothesis)と対立仮説(Alternative Hypothesis)を

H01:大日本帝国にふさわしい神学だからこそバルト。(帰無仮説)
H11: H01でない(対立仮説)

H02:バルトだからこそ、「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒への手紙」(帰無仮説)
H12: H02でない (対立仮説)

として設定して、H01とかH02の仮説棄却されたら、まぁ、それはそれで、そうだったか、と思うだけである。誰か、この帰無仮説H01とかH02とが意味がなかったと証明してくれないかなぁ。まぁ、無に帰するようなナンセンスな仮説だから帰無(Null)仮説というのだが。

 誰か、まろのために、やってたも〜〜〜(久しぶりにおじゃる丸登場)







 
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コメント:良いと思います。

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コメント:アラスカで伝染病のための薬品を運んだ名犬バルトのアニメ



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 本日も引き続き小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

中心性と全体性が誘導する偶像崇拝

 大日本帝国時代、日本は世界の中心であるというのは、これまで何度か触れてきたし、富士は世界の中心であるという概念が天皇制の確立と共にあらわれてきた、ということを前回ふれた。

 では、世界の中心であるということはどういう意味を持つのだろうか、ということに関して、小山先生は、このようにお書きである。 

 したがって、「わたしは万物の中心に立つ」ということは、「わたしは全体性と完全性を手中にしている」ということと何ら変わりはない。(中略)それは己の栄光をいや増す為に他の人々を管理し、操作し、食い物にしてしまう暴力的状況である。リベラリズムのはらむ危険、とりわけ宗教と政治の領域におけるそれは、「…を手中にしている」〔意のままに出来る〕という錯覚的状況を作り出すことである。「わたしは全体性と完全性を意のままにしている」「わたしは万物の中心に立つ」と主張することは、「私は神を自由に操れる」ひいては、「私は神である」というのと変わらない。端的に言って、これは偶像崇拝そのものである。(『富士山とシナイ山』 p.150)
 確かに、
「わたしは万物の中心に立つ」ということは、「わたしは全体性と完全性を手中にしている」ということと何ら変わりはない。
という部分を読みながら考えてみれば、ある国家が中心になった時代があった。PAX ROMANA、PAX BRITANICA、PAX AMERICANA (ローマ帝国よる平和 大英帝国による平和 アメリカ合衆国による平和)が代表例であるが、これらのいずれにしても PAXの後につく言葉がその世界観の中での中心となってきたことは論を待たない。軍事的にも、政治的にも、経済的にも。そして、PAX ○○が成立している時代には、その中心となる○○に向かって、人とモノとカネが集まってきたような気がする。

また、
リベラリズムのはらむ危険、とりわけ宗教と政治の領域におけるそれは、「…を手中にしている」〔意のままに出来る〕という錯覚的状況を作り出すことである。
という指摘には、非常に思わされることが大きかった。リベラリズムと訳語があてられているが、人間中心、人間がなんとかできるという思想の危険性であろう。しかし、いくつかの面で教会を自分の手中にしている、意のままにできると思っている人々はいないだろうか。教会を意のままにしたいという思いはなくても、「斯くあるべきだ」と思い込んでいる人々はいないであろうか。それこそ、人間中心に自分の意のままに、自由に扱えるという意味において、これは、一種のリベラリズムではないだろうか。

イデオロギーの危険性

 いかなる場合であっても、人間中心の思想(○○イズム)やイデオロギーが非常に問題を起こすことについて、小山先生は次のようにお話しておられる。

 人間の存在する所どこでもイデオロギーは存在する。我々は我々自身の生活現実と歴史に関するある種の包括的見解を持つことなしには生きていくことはできないのだ。

イデオロギーとは、人間と社会、合法性と権威に関する情動性を帯びた、神話的要素の濃い、行動の引き金となりやすい信念及び価値体系で、日常的、習慣的強化の結果獲得されるものである。

 イデオロギーは人生、人間的実存、及び人間共同体に関して最終的発言をする能力を持っていると自負する傾向がある「情動性を帯びた、神話的要素の濃い、行動の引き金となりやすい信念、価値体系」である。イデオロギーはすさまじく強力な心理的、哲学的衝迫性を帯びている。他の全ての思想の中心に立つ構えをして、それらを威圧し服従させるのに有利な位置取りをする。(同書 pp.154-155)
 しかし、小山先生がご指摘のように、我々は、このイデオロギーから解放はされえない。人間であるがゆえに、この種のイデオロギーに束縛されており、閉じ込められているのだ。それこそ、罪の結果と言えよう。大和魂とか、日本精神とか戦時中に世上言われたもの(何を以て大和魂というのかも人によって違うようであるので、留意は必要であるが)も、このイデオロギーの一種ではないか、と思う。

 そして、イデオロギーが神話性を内在的に持っているという指摘は重要だろうと思う。神話性を持たざるを得ないのは、それが合理的な理性的なものでは、それを理論的に検証したり、その一部を否定することが可能となりやすいからかもしれない。しかし、イデオロギーがかなわないのは、他の全ての思想の中心に立つ構えをして、それらを威圧し服従させるのに有利な位置取りをする部分である。個人的には、毛主席がお元気で、中国での農産物の生産から、鉄工所までの生産をご指導しておられたころに、毛沢東思想にはまりかけたことがあるので、こういう他の全ての思想の中心に立つ構えをして、それらを威圧し服従させるのに有利な位置取りという部分はよくわかる。あのころは、クメール・ルージュが元気だったし、ソ連は共産主義国だったし、そういう国で何が起きたかを調べれば、イデオロギーがいかに事実を包み込み、同じものを見ながら、違う理解を与え、他者を威圧するか、ということはかなり明らかになるであろう。東西冷戦構造は、イデオロギー対決でもあった。



今日のソ連邦の表紙。県立図書館においてあった記憶がある

イデオロギーと宗教の類似性

イデオロギーと宗教の類似性について、小山先生は次のように述べておられる。
 イデオロギーは、それが資本主義であろうと、共産主義であろうと、愛国主義であろうと、人種主義であろうと、あるいは皇帝崇拝だろうと、最後の言葉を発したい欲望を有する点で「宗教的」である。無神論的共産主義と有神論的資本主義を含むすべてのイデオロギーは、宗教のようにふるまう。モスクワのレーニン廟に群れなすロシア人は、マレーシアのクアラルンプールにある国立モスクに群れなすイスラム教徒に劣らず恭しくふるまう。「無神論的イデオロギー」すら、固有のイデオロギー的体制を厳粛な儀式の様にするそれ自身の「神」(god)を有している。このような文脈において「神」(god)は「中心性コンプレックス」を意味する。(同書 p.157)
 しかし、「無神論的共産主義と有神論的資本主義を含むすべてのイデオロギーは、宗教のようにふるまう。」ということは非常に面白い。社会システムであるはずの(無神論的)共産主義と同じく社会システムである(有神論的)資本主義はいずれもかなり唯物論的な社会システムであるのにもかかわらず、たしかに、宗教のようにふるまっている。政治と宗教の話を食卓でするな(食事がまずくなるので)、という話があるが、まさしく、どちらがよりまともか、という相対的な義でしかないことに関する競争が、自分たちの社会システムのものの見方(世界観)を巡ってそれがあたかも絶対的な義に関する競争として行われるからだろう。この絶対性が、イデオロギーの宗教性でもあると思う。

 これが、リアルな国際政治の場だと、ミサイルだの戦闘機だの、爆撃機を持ちて行われるからかなわん。最近、政治学関係者のカンファレンスに行くようになって思うのは、結局神学論争や宗教論争のようなことを具体的な政治経済的ツールで表現されている世界観で焼き直しているに過ぎないのではないか、というあたりのことであるのだ。

二つの有神論的国家の争いとしての政治的闘争

 その意味で、1940年代前半に日本がアメリカと向き合った戦争は、クラウセヴィッツ風の表現をすれば、聖書型有神論的資本主義型軍国主義と日本型有神論的資本主義軍国主義の血を流す政治的闘争、あるいは血を流した外交であったといえるかもしれない。その意味で、両者の神の正義性をそれぞれの国民の血を流すことで、証明してみせようとした、壮大な人的・物的資源を浪費行為であったと思えてならない。厨2病が基本、能力の浪費行為であるということを考えると、厨2病患者が戦争ヲタクになりやすいのは、基本浪費行為であるからかもしれないと重篤な厨2病患者であるミーちゃんはーちゃんは思う。

 東西対立が激しかったころ、丁度モスクワオリンピックのボイコットをするじゃしないじゃ、ロサンゼルスオリンピックのボイコットをするじゃしないじゃ、があったころの映画として、下記のハドソン川のモスコーという映画を紹介しておく。当時の冷戦期の雰囲気と80年代、ディスコ音楽が流行り始めのころの雰囲気がよくわかる。サタデー・ナイト・フィーバーというジョン・トラボルタが、まだ、やせていて、りりしいころの、ジョン・トラボルタの出世作がつくられていたころを描いた映画である。そういえば、高校時代の体育教官の一人が、故 斉藤仁氏と大学時代同級生だったらしいので、何かというとこのモスクワオリンピックと斉藤仁がウンタラカンタラというお話に付き合わされたことを思いだした。



Moscow on the Hudson ロビン・ウィリアムスが若々しい
イデオロギー対決が華やかなりしロシアとアメリカの関係を背景に描いた名作

 次回 第11章 テクノロジーは能率性と意味との葛藤を引き起こす からご紹介したい。






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