ある関西のキリスト集会の信者のブログです。とりあえずテスト的に運用してみます。
 
福音主義神学会 西部部会 2015年 春季研究会議に行ってきた(その3)

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第3講演のおまとめ 

 KGK高木主事からのお話しでした

 遣わされた地で福音に生きる(派遣される)ということや、派遣意識ということをKGK(キリスト者学生会)は大事にしてきた。

 ところで、最近学生がかばんに赤十字社の社員証をパロディしていたシールを張っていた。以下の図に示す社員標章にレ点だの帰り点だのがついているそうですが、それを高木主事はお読みになれたらしい。


赤十字社員社員証

 これは、社員とShineをかけた社員で、「社員  社員」で、Shine Jesus Shineと読まれたそうである。学生によれば、大人としてはじめて読まれたのが高木総主事であったそうである。なお、Shine, Jesus, Shineというこんな曲です。


Royal Albert HallでのShine Jesus Shineの大合唱 冒頭部分の発音が英国風
いやぁ結構ご高齢の方も合唱しておられます。

就職留年
 不景気に伴って就職留年ということが発生し、2009年には、8万人で7人に1人であったものが、2011年には、5人に一人となり、卒業時に就職先未定の者の比率があった。

 KGKでは、そもそも「福音の持っているアイデンティティの覚悟・堅持」ということを学生と共に考えてきたが、学生の卒業後の先行きの悲惨さに学生は直面することになり、ダブルスクール等の取り組みを行って、必死になって正規雇用の職業を獲得しよう、選抜を勝ち抜こうとするという側面が見られた。正規雇用への学生の願望は、ブラック企業の温床ともなっている。ブラック企業とは、大量採用大量離職を毎年のように繰り返し、人材を使い捨てにする様な企業であり、非常に厳しい職場環境に新卒者をおき、ふるい落としを目的とした非常に厳しい職場環境を設定されることがあり、パワハラ等も当たり前の様に行われる。そのような企業に行った学生は、心身ともに疲れ果て、挙句の果てに振り落されていくという経験をする。

 学生によると、KGKの主事こそブラック企業並みということはよく言われる。

 3年以内の退職が3割を超え(ミーちゃんはーちゃん註 これは昔からである)、卒業後も、生きるか死ぬかのような職業生活を強いられるもの、正社員になれない学生などもある。(ミーちゃんはーちゃん註 これには学生の就職活動における特性や、学生と企業側の就職活動におけるミスマッチの問題もあると思う)

 申命記15章の学びをしているときに、安息の重要性に気がついたし、きちんと安息を取ることで、本来生産性が土地利用などでも高まるのであることは経験的に知られていることであるが、それがされていない現実がある。ある外国人が、日本の企業の夜遅くまで働いている姿を見て、「軍人相手に戦っても勝てない」と一言つぶやいたことがご紹介され、家族を放置し、非人間的な行動をとるのは、その国では軍人だけであることをもとにお話しになった。

 世間でも、「勝ち組」、「負け組」という言葉があるが、そういう概念に振り回されている学生の姿がある。

 KGKも「休みを取ることを大事にしよう」というテーマで動いているが、なかなか、そうはいかない。唄野さんという方が「現代に生きる信仰」という本を学生のために、書かれている。この本は非常に参考になる。

日本社会と若いキリスト者と職業倫理

 ところで、職業倫理はどのように実践されているのか、ということを考えてみると、一言でいえば、実践されてないのではないだろうか。ただ、昔からすると聖書的な労働観の広がりはあるように思われる。

 この問題は、教会観、聖書観、終末観等の影響を受けている。これまで、福音派では、この世のことは、かんたんに考えられ、教会生活が重視されていた。ある財をなした社長さんが、「アルバイト感覚で仕事をして、教会の奉仕がメイン」という内容の本を書かれたようであるが、それを「素晴らしい」とほめたたえる牧師の賛辞が述べられていたが、果たして、「これが理想的な信徒像といえるか?」という疑問を高木さんはお持ちになったようだ。

 労働は神から与えられた才能を用いて、神への捧げものとして神へ礼拝することではないのだろうか。働くこともWeekday Worshipと言えるのではないだろうか。「証しになるから、仕事をがんばれ」ではないのではないだろうか。働くというのは、伝道の手段ではないと思う。働くことに本来的な意味があるだろう。

教会と社会

 現在、「教会から社会を見てないのではないか。もっと町中に出ていくべきだ」という意見があるが、その実態は、休日や日曜日に街に出て行ってトラクト配布をしたり、というような活動を意味しているのではないか。ところで、こういう発想の背景にある、その「教会」ってなんだろうか、ということを考えたほうがいいかもしれない。『牧師の視野=教会の視野』ってことになっていないだろうか。

 牧師や伝道者から社会の現実が見えてない、という意味で司牧や伝道者など、自己吟味の必要性があるのではないだろうか。

 信徒は世の中で勤労を通して活動することで、聖化に貢献しているのではないだろうか。教会の平日は会堂と事務所のみで、それって教会って言えるのだろうか。平日は信徒はこの世の中に存在しておられて、普遍的に存在しているのではないだろうか。特に社会で働いていて、社会にいる人を、伝道活動とか奉仕のためと称して、社会から教会に人材を引き戻して教会として出ていくことをイメージされすぎてないだろうか。

 これは、宣教観、伝道観の偏りなのかもしれない。信徒が社会において生きていき、励ますことこそ世界にキリストの支配が広がっていくことになるのではないか。

 マーケットプレイスミニストリーという言葉は、一部で怪しい使い方がされているものの、実は非常に大事な概念を含んでおり、むしろ、デイリーライフミニストリーというべきではないだろうか。つまり、日常生活の中で、目を見開いてこの世をしっかり見る霊性をKGKとしては育てていきたい。

 ミスターチルドレンの楽曲の中に、世界とのつながりをうたった歌があるが、そういう世界観を今の学生は持っている。


 特に、福音派が保持してきた、この世はどう背なくなるんだから、と言った終末観の影響が大きいように思う。その意味で、地を受け継ぐという聖書の概念をどう考えるのか、ということはもう少し問われてもよいかもしれない。

第3講演への感想と突っ込み
 未だに、昭和30年代とか昭和40年代の製造業、それも、大量生産型の工場労働を前提としたような職業感が学生に支配しているのには、普段学生が接している限りにおいてなんとなくは感じていたので驚かなかったが、いまだにそういうことを理念とする教会があるんだ、と感じられて、ちょっと驚いている。

現代の雇用制度とアメリカ型雇用制度

 竹中平ちゃんと小泉純ちゃんのコンビで、日本の労働制度をアメリカ型の短期雇用型の非テニュートラッキング型に大幅にかじを切っておき、その変更を容認しておきながら(教会からこれに対する反対の声は上がったことを記憶していない)、一方で学生に長期雇用、常勤職を求めよ、という教会があるとすれば、論理矛盾も甚だしいと思う。

 アメリカ型の労働は、基本短期契約である。下手をすると週契約である。教授職で、よほどの有名教授でもない限り、アメリカでは1年契約、ないし数年契約でしかない。ずっとその職にとどまれるということはないのである。日本でも、その傾向は最近助教(昔の言い方で助手)や准教授クラスで増えていて、5年契約、最長10年という例が案外多い。

 この研究者の短期雇用の結果生み出されたのが、元理研のSTAP細胞の小保方女史問題の背景にあると思う。まぁ、理研の焦りとマスコミ受けを狙った悪乗りも多分あるだろうが。オボちゃん一人いじめたらアカンと思うのである。彼女を使ってマスコミ受けを狙おうとした理研のどこぞの体質があかんと思うのである。もっと恬淡として後方すればよかったのに。まぁ、ここで一発当てて、マスコミ騒ががしといて、もっと予算引き出したろ、というような嫌らしい下心があったのではないか、と推察する。

 アメリカと言えば、UAW(全米自動車労組)の配下の組合員では、1920年代の労働闘争の結果、とりあえず一時帰休制度という制度を勝ち取って、若干の給与保証があるだけである。まぁ、アメリカの労働組合問題は、マフィアとかかわるので、好ましからざる話しも少なくないのだが。

 普段、大学で学部学生に触れているだけに、高木主事のおっしゃる意味はわかるが、ただ、就職浪人の構造的問題として、親の就職活動への勧誘や、一部の有名企業の常勤職への連続集中チャレンジ、その結果としての就職活動の失敗する学生という姿を見ていると、一概に企業や社会の問題というよりは、情勢に流され、自分の理解の範囲でしかものをとらえようとしない学生の問題、というよりはむしろ親の口出しの問題が結構あるようにも思うのだが。

 久しぶりに学部の学生相手の講義を毎週していて(普段は院生がメイン)、彼らがあまりに社会のことを知らないのに驚く。リクルートスーツを着て、授業の終わりごろに出席してくる学生などがいると、その学生に、今日はどこに行ってきたの?なぜ、その会社に興味があるの、と聞いたりして授業のネタにしていることもあるが、彼らの答えを聞く限り、「これでは、採用は厳しかろうなぁ」と思うことが多いのである。有名だからとか、なじみがあるからとか、そんなことで一般的に有名な会社を訪問している学生が案外多いようである。全部とは言わないが。

 あと、付き合いのあるコンピュータアプリ会社のかなり偉い社員さんも、結構移動が激しく、数年単位で持ってくる名刺の所属が同業他社などにあっさり変わっていたりするので、びっくりすることも多い。まぁ、外資系ソフトウェアデヴェロッパーのアプリケーションを使っていることが多いというのもあるのだろうけど。

世の中とのかかわりの薄さ

 社会で自分がやっていることのつながりが見いだせない、その意味で世の中とのかかわりが見えにくい、というお話しが高木さんから、ありましたが、それは、なんだか残念だなぁ、と思った。なぜならば、それを見抜ける構想力というのか、それを考える想像力の翼を彼らが失っているからだと思う。もちろん、ブラック企業は、そこに働く個人を拘束するだけでなく、その人の人格を崩壊させ、また、そのブラック企業の利用者は、そこに働く人とその労働の価値を失わせ、悪用することに加担せしめるという2重の意味で、望ましくなく、社会とのつながりとしても、非常に悪影響を及ぼすだけ、と思います。

 その様なブラック企業にとどまれと、ブラック企業であっても何でも常勤職が望ましいから、そこでもいいので常勤職につけ、若いキリスト者には申せませんし、一刻も早くお出になりなさいと申し上げたいです。

 30年前、大学1年生の時の明治人の哲学の先生が、「君、職業に貴賤がないというのは嘘だよ。職業にも、働き方にも貴賤がある。その意味を考えなさい」とお話しいただいたことをなつかしく思い出しました。

 あと、ロイドジョンズの「働くことの意味」ということに書かれた内容が、特に第3講演を聞きながらぐるぐる回っていて、なんで高木さん、あの本の話しをしないのだろうか、ということを思っていた。

 若者の労働問題とKGKのかかわりに関しては、過去のこちらの記事を御参照賜り度。

産業社会の変遷とキリスト者の労働観 かなり長い突っ込み!

 このご講演を聞きながら、NTライト的な地を受け継ぐものと地に対する責任の可能性というテーマがぐるぐると渦巻いていました。


質疑応答
橋本先生 
 ミスチル知らなかった。ただ、マザーテレサの言葉に「あなたの一滴がなくなると世界の大海の一滴がなくなる。」というのがあるが、それとのかかわりを感じた。
滝浦先生
 労働ということを考える時、奴隷制度から考えることは重要かもしれない。逆の視点から大賞を見ると、別のことが見える。あるいは、現実社会にある課題から見ていくとよいのかもしれない、特に、失業から労働というものの本来の姿を見ていくことは重要ではないだろうか。
橋本先生
 現代社会では、実質的な自由の束縛に近い奴隷状態があるのかもしれない。古代社会の奴隷には結構医師や専門家などもあり、人格的に扱われていたという側面もあった。その意味で、現代の用語が指す概念の混乱と誤解があるのではないだろうか。

高木主事
  どうもいろいろ聞いていると、教会観がぶれているように思う。教会から出ていく、と言った時に教会の枠組みで考えており、他の在りようが考えられていない。奉仕したいという思いと仕事の両立が出来なくて、無理をすることになり、結果としてオーバーワークになる。牧師先生自体もオーバーワークで一人ひとり を見ていない、対話できてない、という印象がある。休んで質のいい仕事をする、ということはもっと考えてもよいかもしれない。

橋本先生
 神学校も教会もブラックなわけですね。

滝浦先生
 未だに牧師というものがわからない。ただ、牧師の仕事と家族のどちらが大事かと聞かれた時に、ある宣教師から、家族のほうが大事だ、と言われた記憶がある。ともすれば、職分が過大に重視され、家族が置き去りにされる日本の傾向があるのではないか。

  Work(リクリエーションなどを含めた広い概念)とEmployment(概念が狭い)の区別が大事ではないか、特にWorkをしっかり把握してほしい。契約と誓約は関係がある。誓約関係があり召命観があり、そこから始まるのではないか。ただ働きということに関しては、ペイメントだけで確定しないもの がある。不安定なものである。コレしてほしい。ただでもしてくれというものがあり、その中で、ペイメントが位置されるのではないだろうか。

 ここで、金井望先生のマイクパフォーマンス炸裂で、金銭ベースの交換を前提としない働きの在りようがあるはず、ということが述べられた。あとは、なんか乱戦模様になり、まるで、プロレスの場外乱闘ながらの様子であった。その中で印象的なことをメモからひらって見る。

 労働と安息の関係は案外重要で、Creative Leisureというアイルランド改革派教会の宣言は重要かもしれない。失業が深刻なアイルランドで、聖書の基準を立てることは一種の救いだといえるので はないか。また、安息日を聖とせよとの関連で、礼拝において神のことばにあずかることの重要性は考えられてもいいかもしれない。特に、安息日のように、強いられた休みで守られることがあるかもしれない。

 職業のリミテイション 安息日というリミテイション、家庭というリミテイション、個人のリミテイションということを考えたほうがいいかもしれない。本来、Work自体の喜びというものがあるため、そのあたりを考えたほうがよいかもしれない。

 以上、3回シリーズで、福音主義神学会 西部 の 講演の記録はおしまい。



評価:
D.M.ロイドジョンズ
いのちのことば社
---
(1985-02)
コメント:この本、リパブックスで出すような本ではないような気がする。

評価:
ポール マーシャル
いのちのことば社
---
(2004-12)
コメント:お勧めしている。創造的にこの世で生きることの大切さを説いておられる。

【2015.04.27 Monday 22:02】 author : Voice of Wilderness
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ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(3)



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 なお、以下の文章は、所属教会及び所属キリスト者集団の公式見解ではなく、特段断らなくとも、通常の読者ご賢察のとおり、ミーちゃんはーちゃんの個人的な理解と思いを記したものである。

 さて、今日も、Ladd先輩の「終末論」の第6章反キリストと大艱難から、少し考えてみたい。 

第6章 反キリストと大艱難から
 ディスペンセイション説の根幹をなす聖書理解の根底となったダニエル預言の解釈について、ラッド先輩は次のようにダニエル書を引用しながら、お書きになっている。なお、原文では新改訳聖書が引用されていたが、ミーちゃんはーちゃんは口語訳を利用している点が違う。その点は御容赦賜りたい。

口語訳聖書 ダニエル書
 9:24 あなたの民と、あなたの聖なる町については、七十週が定められています。これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。25 それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。26 その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。27 彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。
この箇所は、ディスペンセイション主義者によって反キリストとイスラエルとの関係の観点から解釈されている。一つの国民としてパレスティナに帰還したイスラエルが神殿を再建し、いけにえの制度を再考することが当然のことと思われている。反キリストは最後の7年間(1週は7年であると考えられる)にイスラエルと契約を結ぶ。しかし、その7年間の半ばに反キリストは契約を破り、エルサレムのいけにえとささげものとをやめさせ、ユダヤ人に対しひどい迫害を始める。ディスペンセーション主義による解釈を施されたこの箇所は、ディスペンセーション主義の終末論の体系の基礎をなしている。
 しかしながら、この解釈が正しいものであるかどうかは全く明らかになっていない。福音主義に立つ学者の多くは、その言葉の解釈として、終末論的な解釈よりも、メシヤ的な解釈のほうが適切であると理解している。それは神の贖いの目的を明らかにしている。(終末論  pp.89-91)
 しかし、「ディスペンセーション主義による解釈を施されたこの箇所は、ディスペンセーション主義の終末論の体系の基礎をなしている」とは、まぁ、手厳しい。確かに、この説にはまった人の聖書は、ダニエル書とエゼキエル書と黙示録だけが他に比べて開かれる回数が異様に多い場合があるので、この部分だけ聖書が手あかで黒くなったり、他のページよりこの部分の頁が飛び出したりしていることが少なくない。

 その上、「この解釈が正しいものであるかどうかは全く明らかになっていない」ですって。私が言ってんじゃないですからね。ラッド先輩がそうお書きなだけで。

  まぁ、もうちょっと穏やかに言うなら、「このディスペンセイション的な解釈は、仮説であって、検証が必要な解釈である」ってぐらい私なら言うでしょうけどね。基本的に聖書が、ヘブライ語のカタカナ表現でメシア、ギリシア語のカタカナ表現でキリスト、日本語で言えば、購い主、王の王、「昔いまし、今いまし、後に来られる方」のことって理解のほうが大事なのではないかなぁ、と思うのだなぁ。そして、より重要なこととしてラッド先輩がおそらくおっしゃりたいのは「これはとがを終らせ、罪に終りを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです」という部分のほうに着目があるべきだ、という趣旨の主張であろう。個人的にも、このダニエル書の引用部分は以下のイザヤ書61章のかかわりで読まれるべきではないか、と思っている。

口語訳聖書 イザヤ書
 61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
 61:2 主の恵みの年と
 われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
 61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために
 植えられた者ととなえられる。
 61:4 彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。
 61:5 外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。
 61:6 しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神の役者と呼ばれ、もろもろの国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。
 61:7 あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、二倍の賜物を受け、はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。それゆえ、あなたがたはその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。
 61:8 主なるわたしは公平を愛し、強奪と邪悪を憎み、真実をもって彼らに報いを与え、彼らと、とこしえの契約を結ぶからである。
 61:9 彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。すべてこれを見る者は
 これが主の祝福された民であることを認める。
 61:10 わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。
 61:11 地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、主なる神は義と誉とを、もろもろの国の前に、生やされる。
終末論と終末計算
 仕事柄、数学は時々お世話になるのだが、終末理解は、終末の日の確定にかなり熱心に御取組みであるものの、ミーちゃんはーちゃんには理解不能な算法をご使用になられる場合が多い。字義通り解釈といいながら、突然、週が年になったり、日が年になったりと、まぁ、いろいろ単位系が変わる。科学者や工学的実務家にとっては単位系、あるいは測度と呼ばれるものは思索をする際の基準であり、「いのち」なのである。それがころころ変わる、それも時代やその人の御都合や、再臨が来たり来なかったりするという理由でころころ変わってはならぬものであるのだ。そもそもそんなことをやり始めたら、トートロジー的な無限ループに入ってしまう。

 以下の動画で紹介するクロノメーターという航海に用いる時計ができるまでは、カンと印象に基づき航海したので、座礁する艦船が後を絶たず、クロノメーターがなく、経度がよくわかってない時代の航海術の結果、多くの死者が出た。下の動画の冒頭10分は、その様な当時のカンと印象に基づく航海時代を描いている。なお、動画で紹介した映画そのものは、そのような時代に世界で初めてのクロノメーターを作ったハリソン父子と、数百年後にそのクロノメーターを修復するイギリス人の元軍人の物語を描いた映画である。長いので、最初の6分間を見るだけで十分だと思う。


Longitudeというクロノメーター製作者に関するドラマ

 その時代預言の計算に関して、ラッド先輩は次のように言っておられる。

 マタイの福音書24章は、3つの部分にわけられる。3-14節は終わりにいたるまでの時代の特徴を描写している。その主要な主題とは、神の国とキリストの再臨以前には確立されていないということである。戦争、飢饉、自身、偽キリストがこの時代を特徴づける。(中略)しかしながら、その様な出来事は、世の終わりがどのぐらい近いかを計算できるようなしるしを意味しているのではない。(同書 p.93)
 しかし、ラッド先輩、手厳しい。「戦争、飢饉、自身、偽キリストがこの時代を特徴づける。・・・しかしながら、その様な出来事は、世の終わりがどのぐらい近いかを計算できるようなしるしを意味しているのではない」ですって。なんか、世の終わりの近さを計算するに全能力をおかけになり、研究されているその姿は尊いとは思うが、上のLongitudeの冒頭で出てくる英国海軍提督のように、「自分はこう思う」という提督の御見解に対して無条件に同意することを他の艦長たちに求め、挙句の果てに座礁して、Her Majesty Ships か His Majesty Ships を沈め、多くの犠牲者を出した提督の姿と、この説とそれにもとずいた奇妙な算法、即ちミーちゃんはーちゃんに理解不能な算術で終末の実現日を御高唱なさり、信仰の破船に多数の方をお導きなっておられる方々の姿が重なってしようがなくて、上のLongitudeという動画を見ることがちょっとつらかった。

反キリストとキリスト者の困難

 米国や英国は、キリスト教がでかい顔している社会であるし、英国は、キリスト教会と国家が蜜月であった時期があった。しかし、日本ではそういう環境にない。江戸初期のキリシタンがどこまでキリストを理解していたか、聖書を理解していたのか、ということはかなり謎であることは、以前このブログの中のこの記事「カクレキリシタンの実像」から、現地化の問題を考えた でもご紹介したが、困難の中や政治的社会的圧迫の中におかれたキリスト者にとって終末は希望になる。レヴィナスを起点に19世紀から20世紀にかけてのユダヤ人神学者の研究に着手しないとまずいかなぁ、と思っているのだけれども、未だできていないが、今読んでいる範囲ではどうもユダヤ的な(そもそもユダヤって何か、って言い始めると収拾がつかなくなるので、その辺はごにょごにょとで御容赦賜り度)社会の中で、この脱世界的な終末論があまり見られないのはなぜだろうと考えている。

 「そのときには、世のはじめから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもない追うな、ひどい苦難があるからです」(マタ24:21)とあるように、反キリストの出現は、イエスに従う者たちへの恐るべき迫害の開始となる。これが「大艱難」という語の元となった。ここで注目すべき点としては、新しい性質のものは何もないことである。イエスはすでに、弟子たちに世に在っては迫害を予期すべきであると語っていた。(同書 p.95)
 このラッド先輩の議論で重要なのは、「注目すべき点としては、新しい性質のものは何もないことである。イエスはすでに、弟子たちに世に在っては迫害を予期すべきであると語っていた」という御指摘ではないだろうか。山上の説教の中でも、このように言っておられる。
口語訳聖書 マタイ福音書
 5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
 5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
 基本的にこの部分は、信仰者の預言者性をナザレのイエスは御指摘なのではないか、と思う。ある面、神の支配の中に生きるのは、一種の預言者性を持つということではないか、と思う。とは言いながら、米国や英国では、キリスト者であることは預言者性を持ちえない。このことは、この間、枚方市で開かれた牧会者を中心としたあつまりの中で、メノナイト派の方が来ておられて、メノナイトは迫害されて何ぼ、みたいなものがその信仰体系のどこかにある、ということを言っておられた。その意味で、ヨーダー先生のご主張というのは、実にメノナイト的なのだ、ということを思った。そして、米国のメノナイト系教会に行くと、日本のメノナイトは、日本的で異教的な世界にある日本のメノナイト教会こそ、真にメノナイト的って言われて、結構ドン引きする、というようなご主旨のことをおっしゃっておられた。

 というのは、米国でキリスト者であることは、あまりに至極当たり前のことでありすぎ、中には、自分たちはアメリカ人だから無条件にキリスト者だと思っているという人々を生み出すほどだからであり、その中で社会に異論を唱えるというメノナイト的精神性というのは限られるからである。
 そのことに関して、このようにラッド先輩はお書きである。

 米国においては〔キリスト者であるからと言って〕、敵意を経験することはほとんどない。実際、多くの都市において、教会の会員であることはビジネスや社会的立場に有益である。この事実は、神の民が圧倒するような迫害で苦しむことをおそらく神は赦されないだろうと油断させ、多くのクリスチャンを歌種に陥らせる。彼らは教会が第艱難のはじまる前に起こる携挙において、世から取り去られる「艱難前携挙」の教理に対する信仰を大切にしている。(同書 p.96)
 アメリカ人的な感性からすると、自分たちの国は神の国だと思っているので(この辺りは、リチャード・ニーバーのアメリカにおける神の国をお読みになられることを強くお勧めする)、艱難に会うことすら想定したことがなく、その面で、アメリカ経由のキリスト教の場合は、それが与件というか前提になっており、それでしか解釈しない傾向はあると思う。

艱難時期は仮説か、一義的に定義可能か?
 艱難解再臨の関係は、実はあまり明確ではない可能性があることに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。

ジョン・ワルブード博士はこの本〔引用者註 Ladd(1956)〕に応答する形で、「真相は、艱難後再臨説も、艱難前再臨説も双方とも聖書においてはあいまいなものを一切残さない明白な教えではないということである。聖書はどちらか一方であるとははっきり明言しているわけではない」とかいている。」(同書 pp.96-97)

 ラッド先輩によれば、Walvourd(1957)では、「艱難後再臨説も、艱難前再臨説も双方とも聖書においてはあいまいなものを一切残さない明白な教えではないということである。聖書はどちらか一方であるとははっきり明言しているわけではない」とは書いているものの、再刷以降では、この記述が消えていることが同書で指摘されていた。Walvourd先生も、強硬なご批判を受けて、あえてチャレンジングなことを書かなくとも、ということになられたのかもしれない。でも、わかんないものはわかんない、というのは素朴な立場で、一番まっとうだし、一番学問的な立場だと思うが、それを赦さないのが、森本あんり先生がお書きになったアメリカ社会における『反知性主義』ではないか、と思う。アメリカには、知性の塊のような大学もあるが、基本その国民の大半に、反知性主義と言われても仕方のないような考え方が跋扈する社会ではあることは、数年住んで現地の地方紙を読み、地元民のかなりの部分の人々と触れてみればよくわかるのだが。

神の支配(神の国)と人間

 最後に世俗国家の一つにすぎないイスラエル国が何をしようと、何でもいいからイスラエルを支持すべきだとかいいかねない反知性主義的な親イスラエル論者の方は、次のラッド先輩の表現をどう考えるのであろうか。

神の国は人の手によっては建てあげられず、歴史によっても生み出すことはできないということである。(同書 p.98)
 これは、旧約聖書から一貫して流れるテーマである。勝手に神の領分にはいって行って、自分自身で神の栄光と思うものを縦あげようとして行った人々の末路をエゼキエル書は、こんなふうに表現しておられるのではないだろうか。

アッシリアの墓は穴の最も深い所にあり
その周りには仲間たちの墓がある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者
かつて、生ける者の地で恐れられていた。
そこには、エラムとそのすべての軍勢がいる。彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、剣で殺され、倒れた者
割礼のない者で、地の最も低い所に下って行く。生ける者の地で恐れられていたが
穴に下る者と共に恥を負う。
殺された者たちの間に、床が設けられた
エラムとそのすべての軍勢のために。彼らの墓はその周りにある。彼らは皆、割礼のない者、剣で殺された者。生ける者の地で恐れられていたが
穴に下る者と共に恥を負い
殺された者の間に置かれる。
そこには、メシェクとトバルと
そのすべての軍勢がいる。彼らの墓はその周囲にある。皆、割礼のない者、剣で殺された者。生ける者の地で恐れられていた。
彼らは、遠い昔に倒れた勇士たちと共に
横たわることはない。この人々は、武器をもって陰府に下り
剣を頭の下に、盾を骨の上に置いていた。これらの勇士は
生ける者の地で恐れられていた。
お前は割礼のない者の間に
剣で殺された者と共に
打ち砕かれて横たわる。
そこには、エドムがその王たちと
すべての君侯たちと共にいる。彼らは力をもっていたが
剣で殺された者と共に置かれ
割礼のない者、穴に下る者と共に横たわる。
そこには、北のすべての君主たち
シドンのすべての人々がいる。彼らは殺された者と共に下る。彼らはその力のゆえに恐れられていたが
辱められ、割礼のない者、剣で殺された者と
共に横たわる。彼らは、穴に下る者と共に恥を負う。
ファラオは彼らを見て
失ったすべての軍勢について慰められる。ファラオも、そのすべての軍隊も剣で殺されたと
主なる神は言われる。
まことに、わたしは生ける者の地に
恐れを置いた。ファラオとそのすべての軍勢は
割礼のない者の間に
剣で殺された者と共に横たわる」と
主なる神は言われる。
(口語訳聖書 エゼキエル32:23-32)
 私の聖書が間違っているのだろうか、それとも、親イスラエル論者の方の聖書には、別表現されているのだろうか。きっとそうに違いない。


追記

 LaddのA Theology of the New Testamentに関して津の「のらくら者」の方が面白いことを御教示くださった。
最近は I. H. マーシャルの新約神学が標準的な教科書なのだろうか。それでも、ラッドの本(A Theology of the New Testament)は依然その価値を失っていないと思う。ドナルド・ハグナーによる改訂版(1993年)には、ウィクリフ・ホールから当時2人の教師が協力した。D. A. Hagner と D. Wenham は、F. F. Bruce 門下の兄弟弟子の間柄である。

おお、そんなこともあったのか。賢くなった。しかし、なんでしょうね。Laddに協力する、このディスペンセイション仮説を産んだプリマス・ブレズレン派でありながら、世界的に高名な新約学者F.F.Bruce先輩のお弟子の方が、関係しているってねぇ。Bruce先輩はあまりディスペンセイション説に好意的でなかったと聞き及んでいる。

参考文献

Walvourd, J.(1957), The Rapture Question, p.148, Dunham. 



評価:
ジョージ・エルドン・ラッド
いのちのことば社
¥ 1,944
(2015-03-03)
コメント:お勧めしている。ディスペンセイショナリスト的終末論の問題の指摘をしておられる。

【2015.04.27 Monday 04:45】 author : Voice of Wilderness
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福音主義神学会 西部部会 2015年 春季研究会議に行ってきた(その2)


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 前回

   福音主義神学会 西部部会 2015年 春季研究会議に行ってきた(その1)

 に引き続き、福音主義神学会西部のセミナー講演(午後の部)のご報告をいたしたい。

第2講演から
 教会の歴史の中で職業倫理はどのように教えられてきたか? というテーマで橋本昭夫先生がお話になられた。

 橋本先生は、神学校で教会史とキリスト教倫理の教員でもおありなので、2000年の教会史(西方の教会史)の中での労働理解をまとめてお話しされた。

職業倫理とは何か?
 職業倫理に関連する概念として、労働、即ち何らかの活動して有形無形の何かを生み出すことと職業、すなわち労働の種類や名称があるだろう。この関連を考えるのは重要かもしれない、とご指摘であった。
 労働というのは、一般的な用語としては、労働問題など、やや否定的な側面を持つ語であり、一種の二面性がある語というか、緊張感を含む語ではないか、という御指摘があった。

労働形態の諸相
 ものを生み出すものが労働であるように、そのイメージの原型は農業のような肉体労働がイメージされる。これに対して、知的労働という語もある。ところで、政治家は労働者と呼ばれうるのか?あるいは、牧師は労働者といえるのか、という話もある。ご近所の国では、文化大革命の時代に肉体労働をインテリが強いられたりもした。このあたりのことをご存じない向きには、最下部で紹介する『ビートルズを知らなかった紅衛兵―中国革命のなかの一家の記録』を読まれることをおお勧めする。

古代教会から中世教会と労働と職業
 労働観と職業倫理を考えてみるとき、職業に当たる英語のoccupationには、社会の一部を占めているという語感がある。つまり、職分としての場所があるということであり、それに対して、職業倫理があるのではないだろうか。Occupationというと、職業生活の中にもある種の精神的なものを求めるというような部分があるようにも思われる。
 聖書の労働観は二つの意味を持つ二義的なものである。即ち、労働は神から与えられた祝福でありながら、苦役でもある。
 働くとは、ある種神の活動に参与するということなのではないか。

 聖書世界では、労働は必ずしも蔑視の対象ではない。しかし、手を動かすタイプの労働 (Manual Labor)はストア派であれ、エピクロス派であれ、その他の学派であれ、古代ギリシア哲学世界においては、避けるべきものである。特に古代ギリシア世界では、労働というのは、処罰から派生した辛い労働の意味であり、本来人間は真理追求のため存在するというギリシア哲学概念からすれば、精神労働も真理探究の妨げになるため、忌避されるべきだと考えられていたようだ。 

 コンスタンティヌス時代を経て(ヨーダー先生の著書を参照)、ローマ帝国社会そのものが、良い悪いは別として、キリストのからだ(クリステンドム)になっていく中で、西方教会では、労働・職業は実際的な方法が重視されることになる。

宗教改革時代と労働
 中世的な世界観のなかで、Vocatioということが言われ、聖職階級への召しとしてこの語がつかわれることになった。そして、儀式ではなくて、言葉としての福音が再発見(下記の本の福音の再発見はよい本です。キリッ)され、信仰義認の教理が言われるようになっていく。

 聖と悪との併存が社会の中にあって、という聖俗2元論とは違った労働の意味というか労働の概念が生まれた。例えば、牛乳を搾る、子供の世話をする働くことを通して神への礼拝となるという概念が出てくる。Calvinは、働くことは信仰の実であり、善きわざの推進をすることになるとともに、選びの認識契機としての職業という側面もあるだろう。

世俗化の中で資本主義
 マルクス主義的な世界観が資本主義の弊害の結果主張されるようになり、能力に応じて働き必要に応じて得るべきという概念が出てきた。この主張の問題はあるけれども、確かに奴隷的な環境の中では職業倫理は成立しない、という側面はあるだろう。

 近代の働き方の複雑化の中で、個々人の働きが見えなくなっている側面はあるだろう。働くというのは、どういう意味を持つのか。どういう働き方が正しいといえるのか、ということが不明確になっているのではないだろうか。これらのことを考えると、職業倫理は人間観に行きつかざるを得ない。


Chaplinのモダンタイムズのポスター

 労働は必要悪だけでもないし自己実現だけでもない。ほかのところに求められるべきではないか。労働が人間疎外を生んでいる面もあるだろう。近時のブラック企業に代表される雇用形態もそういう言う部分があるのではないだろうか。
 
召命としての職業倫理
 現実的様相から召命を決める基準は見いだせない。現代においては、隣人の福祉を求めていく職業姿勢が重要ではないだろうか。


ミーちゃんはーちゃんからのツッコミ
 確かに、労働や職業というのは自己実現の道具ではない。自己に判りやすいラベルを張るための道具でもない。労働というのは、自己の目標実現というよりは人間になるということだと思うのだ。橋本先生がおっしゃりたかったことは、キリスト者にとって働くということは、一言で言えば、Becoming Human Beingであり、Becoming God's Adopted Childrenになるということなのだろうと思うのだ。そして、神と共に生きる人として神が愛し給うた人々での社会に貢献することで、もともとの人間の姿を回復していく、ということなのだろうなぁ、と思った。

 それと、この講演をお聞きしながら、「就職する」あるいは「働く」というのは、単にお金を得る行為なのではなくて、「地を世話するものとしての人間として生きる」ということなのだろう。目標の人間になるでも、理想の人間になるのでもなく、理想の就職先を探して、自分探しをするでもなく、「地を神と共に世話するものとしての人間として生きる」ということなのだなぁ、という印象をお聞きしながらもった。




評価:
D.M.ロイドジョンズ
いのちのことば社
---
(1985-02)
コメント:この本、リバブックスで出す本じゃなくて、伝道団体とおっしゃるのであれば、継続出版するのが、筋ではないかと。

【2015.04.25 Saturday 19:31】 author : Voice of Wilderness
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『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (18)



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 『富士山とシナイ山』学ぶシリーズは本ブログの最長連載記録を更新中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

明治以降の日本の国家神道と聖書の習合

 小山先生がご紹介してくださった、日本の国歌神道とキリスト教の習合は非常に印象的である。この習合の論理の詭弁を使って、第2次世界大戦期以降、キリスト教と国家の問題、日本型伝統宗教との習合というか擦り合わせを図ろうとする動きが生まれたが、それに関して次のようにお書きである。

 石田の習合説の4番目「神道とキリスト教の習合」は本書の研究目的にとって特に興味深い。村岡によると平田篤胤は神道でいう天御中主神〈あめのなかぬしのかみ〉(天の中心にいます神の意)を宇宙内の万物を支配している神として理解し、高皇産霊神〈やかみむすびのかみ〉を天地と人類を創造し、人間の最高の霊性を授けた神として理解した。平田は日本の神話的神、伊邪国岐命〈いざなぎのみこと〉をアダム、伊邪国美命〈いざなみのみこと〉をエヴァと固定した。彼の教説において、この創造的な二神はもうひとりの神、大黒主命〈おおくにぬしのみこと〉即ち広大な地の神にして死者たちの霊の支配者と対比されている。(富士山とシナイ山 p.275)
 しかし、島根県にお住まいのキリスト者でヘブライ語の研究者にして、ヘブライ語の権威とご紹介された方から、日ユ同祖論の根拠として、上記の表現に類するご高説を以前拝聴させていただいたことは日ユ同祖論関係の記事でも以前ふれた。エヴァもアダムも日本書紀に記載のある日本の神と同じだという御説である。

 日本の神話に会うようにアダムとエヴァを比定したものを、よりにもよって、原型は同じだから、日本人とユダヤ人は同じ祖先だ、ってロマン(馬鹿話もロマンチックではある)としてはなるほどかもしれないのだが、それは厳密な学問的検証を経た定説かのごとくにいうのは、以下の動画でご紹介するライフスペースの代表の方の論理と同じではないだろうか。どのように主張することも、現在の世の中では勝手である。高橋さんについてサイババがどう言おうと、サイババの勝手であるように。


定説で有名になった高橋ライフスペース代表。

 そういえば、この種の似非学問の非学問性とそれらの関係者の方がよく言われる主張に関して、きちんと議論しておられるサイトがあったのでご紹介しておく。こちらの「研究ごっこQ&A」である。このサイトは一読の価値はある。

 なお、このブログは、まさに「研究ごっこ」というか、「知的スポーツ」として運用している。知的スポーツにかんしてはこちらの記事「 メディアとキリスト教会の地図作成の試み(知的スポーツとして」を参照されたい。

神道における死後の世界理解

 しかし、平田の神道理解で意外だったのは、死後の世界の支配者である死の神の優先という視点である。ある意味で、神となった死者、その死者たちの霊をつかさどるものへの価値は、実は、招魂社(現在の靖国神社)を支える思想的背景として、極めて重要な要素を持っているのではないか、と思うのだ。

 平田は死者たちの霊たちを司る神の方がこの世の神よりも秀でていると考えた。これは常に現世の価値を強調する日本の神道的霊性にとって異例の方向付けである。(p.276)

 死後の世界のことはある面中国伝来の仏教の影響から再構築されたものかどうかまでは、よくわからないが影響が皆無とはいえないであろう。しかし、死後世界の現世への優越を考えるときに、現世が優越することの多かった日本の宗教観、死生観、思想の中でかなり特殊なドライブがこの平田の主張する神道世界で変容していったことは重要ではないか、と思う。

聖書と平田国学

 戦前の国家神道的なものの原型の一つとなった平田国学は、キリスト教の影響を受けている、その意味で、「幕末の侍たち以前に平田篤胤が読んでいた!え、なんどぇすって」という本が某I社から出てもよさそうだが、どうもそういうことはなさそうらしい。
 そのことに関して小山先生は次のようにお書きである。

 平田が漢訳聖書、即ち彼が入手しうる唯一の聖書を読む機会があったかどうか、疑わしい。イエズス会の宣教師が中国語で書いた文書に彼が頼っていたことに疑問の余地はない。例えば、マテオ・リッチの『天主実義』(天主の真の教え)を彼は読んでいたに違いがない。(p.276)
 このあたりのことに関しては鈴木典久先生の学術書として刊行された「聖書の日本語」でも少し触れられているし、特に井上章一先生の「日本人とキリスト教」では、江戸期、武士階級、とりわけ幕府の中枢の中でどのように聖書が日本に触れら得ていったのか、というあたりのことがかなり丁寧に記載されている。

明治以降の国家神道の土台に
キリスト教神学を借用した平田国学

 小山先生は、戦前の国家神道、とくに明治維新期の神道思想の中に含まれるキリスト教神学は、キリスト教神学由来であることについて、次のようにお書きである。

 平田は神道の神々を強めるためにキリスト教神学を用いた。彼がキリスト教の教えをもってしたことは、反本地垂迹の思想路線に属している。キリスト教で神の御子というのは日本の皇統そのものである、と彼はいう。キリスト教の神は偽りで、神道こそ真の宗教である。平田の神学思想は明治維新の時に起きた国家神道的神道の再生のための土台を用意したのである。(同書 p.276)
 国家神道的な概念の中の皇統概念は、キリスト教の神の御子が日本の皇統にすり替えられた結果であるのだから、日ユ同祖論者が、メシアは日本の皇統から出る、とかいうわけわからん結論に達するのはしょうがないとはこれを読んだ時、おもった。

 しかし、それにしても、小山先生のような方の文献、いや、神道側の石田の文献、そこまで言わなくても井上章一先生の日本人とキリスト教などを読んでいれば、荒唐無稽な日本人の祖先にして、皇祖の祖先はユダヤ人であるというような無謀な議論は避け得られると思うのだが、そういう研究もせず、信念だけで日ユ同祖論に至っている残念な状況があるのかもしれない。

 無論、平田の書いたものの文献史的研究をしていれば、そもそも、なぜ、日本の国家神道とキリスト教が共通性があり類似して見えるのか、ということは、極めて明白に当たり前のことですぐわかることではないか、と思うのだが。しょうがないなぁ。


日本の信仰の受容の柔軟さ

 日本は他国の信仰というか霊的伝統をかなり柔軟に、あるいは融通無碍に、あるいは節操無く受け入れ、そして別物に変換してきた(集合してきた)ことに関して、小山先生は次のように書いておられる。 

 私は思うに、多度の神がこともなげに多度の仏教と、つまり菩薩になったことは注目すべきことである。どうやら、この変化の過程には大した摩擦や混乱はなかったらいい。なんの障害もなく習合は進んだ。このことは日本人のこころが根本的に汎神論的であり、それゆえに「この」神と「あの」神とのあいだの境界線に無関心でいられたことを占めいている。日本のカトリック作家、遠藤周作は日本人のこころをあらゆる類の霊的伝統を苦もなく呑み込んでしまうという理由で沼にたとえた。実際1945年までの数十年間、天皇は「神聖を帯びた」存在だと信じられていたのである。〔仏教の日本への導入から〕約12世紀後にこの国家イデオロギーの内部で作用していた真理と「神学」は、多度の神の習合現象に作用していたそれと酷似している。興味深いのは神とあがめられた天皇が戦後いわゆる人間宣言において自分よりも強力なアメリカ人の神の前で「告白」をしたという事実が多度事件と似ていることである。多度神が仏教の神に感銘を受けたのと同様に、天皇はアメリカの神に感銘を受けたのだ。(同書 p.277)

 遠藤周作をして沼と呼ばせた日本の霊的伝統の受容の融通無碍さというか、うわばみ振りは、他に類例があるのだろうか、あるいは、類例があるとしたら、どのようなものであろうか、という素朴な疑問がある。ある面、究極の多元主義的な側面を持っているのかもしれない、ということを思うし、それは、物事にはっきり決着つけないまま、Going Concernで物事を進めることが可能になるところはあるのではないか、と思う。個人的には戦後生まれなので、小山先生がご指摘の「神とあがめられた天皇が戦後いわゆる人間宣言において自分よりも強力なアメリカ人の神の前で「告白」をしたという事実が多度事件と似ていることである。多度神が仏教の神に感銘を受けたのと同様に、天皇はアメリカの神に感銘を受けたのだ。」という部分の衝撃性である。「人間宣言において自分よりも強力なアメリカ人の神の前で「告白」をしたという事実」という理由がよくわからない。以下の文章を読んでも、どこにも、自分は人間ですよ、「自分よりも強力なアメリカ人の神の前で「告白」をしたという事実」って雰囲気が感じられないのは、多分ミーちゃんはーちゃんの頭が悪いせいだと思う。


http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/056/056_001l.html

詔書

茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民拳ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。
大小都市ノ蒙リタル戦禍、罹災者ノ艱苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ真ニ心ヲ痛マシムルモノアリ。然リト雖モ、我国民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、且徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、独リ我国ノミナラズ全人類ノ為ニ、輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。
夫レ家ヲ愛スル心ト国ヲ愛スル心トハ我国ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ実ニ此ノ心ヲ拡充シ、人類愛ノ完成ニ向ヒ、献身的努カヲ効スベキノ秋ナリ。
惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰へ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。
然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
朕ノ政府ハ国民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ為、アラユル施策ト経営トニ万全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我国民ガ時艱ニ蹶起シ、当面ノ困苦克服ノ為ニ、又 産業及文運振興ノ為ニ勇往センコトヲ希念ス。我国民ガ其ノ公民生活ニ於テ団結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ、能ク我至高ノ伝統ニ 恥ヂザル真価ヲ発揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ実ニ我国民ガ人類ノ福祉ト向上トノ為、絶大ナル貢献ヲ為ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。
一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。

御名 御璽

昭和二十一年一月一日
 まぁ、えんじ色で示した不と文字部分が、人間宣言とも読めなくはないが、まぁ、国民と天皇の関係だけを言っているだけにしかみえないし、国民と天皇との関係は神話や日本人が特に優秀で世界を支配するべきといったような架空の概念に基づくものじゃないよ、ということしか言ってないような気がするなぁ。読解力が足らないのかもしれないけど。

 この記事を書いている時点のニュースで話題になった、秋篠宮佳子様が学習院からICUへ移られたということで御騒ぎになっているマスコミ報道などや、そういう人々がおられるが、しかし、リベラルアート教育で有名で、福音派の皆さんが大嫌いな頭でっかちな先生方が多いICUでも、キリスト教大学だから、ってことでお喜びになっている方がいるとしたら、ちょっと違うんじゃないか、とは思う。本当に喜ぶべきは、皇族関係者の方が、学習院をおやめになって、ICUの隣の東京神学大学や千葉に在る東京基督教大学に御入学になった時ではないか、と思うのだが。まぁ、三笠宮殿下はオリエント史学者として有名であり、あながちキリスト教世界と無関係ではない。

 なお、今回、この事件で初めて知ったのだが、このご時世で、学習院大学の第2外国語が、中国語か朝鮮語の2ヶ国語のみだということを知って、ちょっと驚いた。しかし、学習院大学の教育プログラムって、どんだけ大東亜?というよりは、東アジア的?だなぁ、と思った。まぁ、大正帝の教育機関としての側面も学習院は持ったからしょうがないのかもしれないけど、本当に大東亜共栄圏を模索しようと思ったら、ウルドゥ語や、ヒンドゥ語、インドネシア語に、タイ語に、フィリピン語に、ビルマ語、ペルシャ語、アラビア語くらいは必要だったかもしれない。まぁ、これは旧大阪外国語大学が従来は主に担っていた言語であるが。





 

【2015.04.25 Saturday 05:29】 author : Voice of Wilderness
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福音主義神学会 西部部会 2015年 春季研究会議に行ってきた(その1)


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以下、福音主義神学会 西部部会 2015年春季研究会議に世俗の仕事からは年休を取得していってきたので、一応ご報告してみたい。なにせ、会場で聴きながらタイプしたので、かなり不正確な部分があるが、大きくご主張をはずしては理解していないと思うものの、誤謬があるとすれば、それはミーちゃんはーちゃんの誤謬である。

オープニング


 今回のテーマは「社会に生きるキリスト者 〜職業倫理」であった。まず、冒頭今回の問題意識のご説明があった後、第1講演があった。

第1講演

「聖書は職業倫理について何と言っているか」  瀧浦 滋氏
(改革長老教会岡本契約教会牧師、神戸神学館)からご講演があった。


 冒頭
ヨハネの福音書 5:17  イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
が読まれ、聖書の神が働かれる神であり、イエスも働いておられるということを評価しておられる胸のご説明があった。

 今回のご講演の注視点は、クリスチャンと労働の真理を聖書から考えるということであり、とりわけ信徒とのかかわりや、牧会カウンセリングとの関連でこの労働観がかなり大きな意味を占めるのではないか、というお話があった。また、もう一方の注視点は、クリスチャンとして職業倫理を突き詰めることが必要ではないか、ということに関してお話ししていきたい、ということで始められた。

 まず、日本の職業倫理が世界でかなり高評価であることがご紹介された後、西洋型のキリスト教倫理と日本型の職業倫理には根源的な違いがあるのではないか、それは、マックス・ヴェヴァ―によると儒教的なもので、属人の完成(?)を目指すもので、東洋型と西洋型で根源的な違いがあるのではないか、とご紹介されていた。

 聖書的な倫理とそのミミック(模造物)がいっぱいあるということもご指摘されていた。

 キリスト者としての職業倫理、主体としてのキリスト者が聖書の勤労観、キリスト者的な職業倫理にあり、職業倫理の前提としての労働という点から考えた方がよいのではないか、というお話であった。特に、聖書からの倫理といった場合、まず、十戒が基礎になるだろう。

 以降、滝沢先生は以下のAからCの3つの観点から整理されようとしておられた。

A キリスト者とは何者か
 職業倫理の主体としてのキリスト者という問題を考えることになるであろう。となれば、クリスチャンとしてどう考えるか、ということになるが、その参考には、
【新改訳改訂第3版】ローマ書 6:12
 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
がカギになるであろう。
 つまり、代理人として、十字架の上でキリスト共に死んだ。そのことを通して、キリストと一体とされ、つまり、キリストにあって生きるものとなった。「私は肉において死んだ」という側面が重要。これがカルヴァン的倫理の骨格ともっているだろう。つまり、労働倫理というときに、私のうちにキリストにあって生きるということであり、その意味で、天国への助走のために生きている。全てのキリスト教の倫理は、「キリスト共に十字架で死ぬ」ということであり、これが倫理の出発点ともなっているといってよいだろう。つまり、この世のものではないが、この世に遣わされて生きる、ということであるのだろう。

 ここで、ウェストミンスター信仰告白の構造を考えてみたい。「神、罪、救い」の世界が、ウェストミンスター1-8章であり、9章以降は、信仰者の考え方、実際にどう生きるかに関する部分で、最後が「キリスト者の自由」なのではないか。

B 職業倫理の前提としての労働
 労働の教理の復権が必要で、その差異考える手がかりは、創世記1-3章である。アイルランド改革派教会のWork Employment and Unemploymentという文章がある。これが非常に参考になるのではないか。
 社会変化の時代であり、大量の失業者が出る時代の中で、仕事のパターンが変わる。失業を例に考えると分かるのではないか。
 労働の教理にかんして、労働は呪いという理解は、労働観を曲げる。労働は創造と密接に結びついており、よいものであり、神が模範になっている。労働は堕落の結果ではなく、その意味で、労働は罰ゲームではない。
 神は、この地のすべてをAutomaticなものとしてつくらなかったし、自然以外の外部者が関与することが必要なものとしてつくられた。その意味で、本来的な目的の成就ということと深い関係があるように思う。人間にとって労働は本質的なものではないだろうか。
 そして、労働は共同体の利益と深く結びついているべきものであるべきなのではないか。働くことを通して、貧しいもの、孤児、やもめの支援にもつながるということは大事だろう。

C 労働は神の栄光のため

 労働は、神が人間に近づいてくださり、神と人との共同行為という側面を持つのではないか。労働と報酬の問題を考えると、我々は、支払われる金額ということで労働を考えがちであるが、案外重要な労働でもペイメントのないもの(たとえば、家事だとか育児だとか)が重要なのである。その意味で、Workという理解が大事であって、金銭評価での評価ということに縛られてないだろうか。このあたりのことが、非人間化につながっているのではないだろうか。Work Employment and Unemploymentでも失業したとしても、きちんと規則的な生活をし、就職に向けてのWork(レクリエーションを含む)を遂げていくことが大事だろう。
 労働倫理に関しては、Rules(規則)とAction(行為)とCharacter(人格)があってその間の関係で考える必要があることを指摘する人もいるし、ピューリタンの奉仕への召命観とのつながりも考えるべきだし、マコールという人は、Humble(謙遜)とHonest(正直)と Hardworking(誠心誠意の労働)ということを言っているようである。

第1講演へのミーちゃんはーちゃん的ツッコミと感想
 日本的職業倫理の問題を考えるとき、職人たちは、儒教的倫理はあまり意識していないと思う。そもそも、儒教的倫理が重要視されたのは、本来士族関係のみであり、職人や車夫風情(植村正久がそういうことを言ってたらしい)が有難い孔子様の「朱子学」倫理に従って生きているわけではなく、むしろ、「お天道様」とか「先輩」に申し訳ない、という技能の極め方をしていたと思う。確か、シャープ(経営再建のために銀行が金ぶちこんだニュースが新聞に載っていたが)かサンヨーかの白物家電工場の組立工の品質へのこだわりに関して、確か塩野七生氏の評論に出ていたと思うのだが、「お天道様」という概念であったということは案外重要ではないかと思うのだ。

 確かに、明治期以降の事務職を中心とした会社文化は、江戸期の侍文化の影響を受けている可能性(あくまで可能性ですよ、可能性)があるため、若干儒教文化の影響があるかもしれない。つまり、江戸期の藩が明治期以降の会社にかわり、江戸期のお侍が明治期以降の総合職(事務系職員)に変わったといえば、そう違いはないような気がする。江戸期にも殿の茶坊主はえらくなったし、昭和期にも社長や会長の茶坊主は偉くなったという側面もある。

 では、明治の中葉までの職人の一種の職業倫理を支えた「お天道様」概念の実態は、何かというと、自分を取り巻くすべての関係は、連続体をなす自分を支えるネットワークの有形無形、守護霊的な地の神の連続性を指しての「お天道様」あるいは、「社会の理(ことわり)」というような気がする。つまり、「社会の理」といいながら、人間的な信頼にまつわる長期的の関係性の毀損とそれに伴う不利益ではないか、と思っている。

 あと、後の質問の時間に、マイクパフォーマンスよろしく、交換は金銭とだけではないし、働き方の意味には相互互酬みたいなものもあるぞと、金井望先生乱入(ガタイがでかいので、まさにプロレスのマイクパフォーマンスみたいだったw でも、こういう福音主義神学会の西部の関西ノリは結構好き)ということもあったが、基本、金額ベース、即ちマネタリタームだけ交換世界の議論をどう考えるのかに関してはもう少し詳細な分析が必要かもしれない。なお、その意味で、イリイチのシャドウワーク論などを含めて考える必要はありそう。あと、講師の滝浦先生からDehumanizationの話しが出たが、そこ本当に聞きたかったのに詳細なお考えやお話が伺えなかったのは残念であった。残念であった。

 なお、この Dehumanization はNTライトの割と大きな主張の一つで、社会とキリスト者とのかかわりの中で、極めて重要なカギ概念だと思っていたので、興味があったのだが。

良書のご紹介

 この講演を聞きながらずっと思っていたのであるが、創世記的な働きの概念で言えば、まず、何をおいても、「わが故郷、天にあらず」というポールマーシャルの名著を忘れるわけにはいくまい。現在、かかわりのあるCRISP社が「いのフェス」のたびに新品の本を販売しているが、残りは10冊を割った。御希望の方は、コメント欄で、御連絡いただいたら、新品、美麗品を送料込み定価で販売致します。当面出版社の方では再販はない模様です。


なお、以下に本ブログでの、労働問題関連の記事を紹介しておく。調べてみたら、結構あった。

過去記事紹介


評価:
I. イリイチ
岩波書店
---
(2006-09-15)
コメント:かなり思想的には左っぽいけど、社会と労働を考えるうえでは読んでおいたほうがいいかも。

評価:
ポール マーシャル
いのちのことば社
---
(2004-12)
コメント:名著。お勧め。絶品。労働観を考えるうえでは欠かせない本。日本ではなぜかこの本を出版元が継続して売ろうとする気がないのがねぇ。

【2015.04.22 Wednesday 20:00】 author : Voice of Wilderness
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『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (17)


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 『富士山とシナイ山』学ぶシリーズは本ブログの最長連載記録を途中号外などを含みながらも、更新中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

 さて、今日は、第3部、あなたの神の名を濫りに唱えてはならない の第14章からご紹介したい。

純粋な形での信仰は存在しうるか

 純粋な形で、信仰が継承されるか、という問題に関して、小山先生は習合という側面からご検討になっておられる。

 基本的に宗教の習合現象はシンクレティズム(混合宗教)的である。キリスト教海外伝道師においては、シンクレティズムという語は否定的な意味内包しか持っていない。しかし宗教史は諸宗教の相互作用史にほかならず、相互作用は即ち相互影響であることが認識されねばならない。厳密な意味において「純粋な」あるいは「混じりけない」宗教的伝統など存在しない。(富士山とシナイ山 p.271)
 しかし、「厳密な意味において「純粋な」あるいは「混じりけない」宗教的伝統など存在しない」ということは極めて重要ではないか、と思う。キリスト教史においても、このことは念頭に置かれる必要があるとは思うのだ。他宗教との混合、他宗教の習合、あるいはその社会の影響を神学は受けざるを得ない。それは、深井智朗著 神学の起源 社会における機能 を読んだという連載において、西洋諸国での神学の形成とその変容を追ったシリーズで紹介した、『神学の起源』で深井先生がご紹介の通りである。

 もし、純粋で混じりけのない宗教的伝統があるとすれば、それは化石化した伝統ではないだろうか。F.F.Bruce先輩の次の言葉を思い出す。

共同体が従来の環境から新たな未知の環境に移植される際によく見受けられるのは、伝統の固定化、あるいはまさに化石化ともいうべき重大な局面である。伝統を移植当時の型通りに残そうとこだわることによって、共同体はアイデンティティと安心感を保とうとしているのかもしれない。もっとも有名な例は、おそらくアーミッシュだろう。なぜ有名かといえば、その伝統が彼らの生活様式全般を形成しているかどうかである。しかしそこまで包括的でないものも考慮に入れるなら、これはごくありふれた現象である。
(中略)
古くから定着しているなじみ深い教会の中に留まるほうが安全で心地よい、と感じるものは多い。明るくなると、いつくしんできた伝統の不具合―暗いままなら隠しておけた不具合―が照らし出されてしまうかもしれないのだ。

マーク・R・マリンズ著 高崎 恵訳 トランス・ビュー, pp. 10-11.
 オリジナルは、上の訳書の情報によれば、Bruce, F.F., Tradition Old and New,(Exetor: Paternoster Press 1970),pp. 17-18.

 純粋な福音とか古代教父時代はおろか、イエスの弟子たちの思っていた純粋な聖書理解に触れたいという思いは尊いし、そう思いたい気持ちはよくわかるけれども、それは至難の業なのだと思う。ほぼ無理なのではないか、と思うのだ。もし、存在しているとしても、固定化された瞬間信仰というものはF.F.Bruceの理解を手がかりに考えるならば、化石化してしまっており、生命力を失ってしまっており、かえって人を苦しめるものとなるのではないか、と個人的には思っている。

 時代を経、空間を経、そして言語を経、ということを考えると、それに近いものは再構築できたとしても、それと全く同じものはできないのではないかと思っている。それがお出来になるという方は、そう思われるのは自由であるが。

習合というプロセス

 習合というプロセスは、非常に複雑なプロセスであるが、そのことに関して小山先生は次のように述べておられる。
習合はあいまいな過程である。習合は宗教的生活にとって不可避な過程である。習合は批判的に考察されなければならない。習合過程がいかなる基準を持って考察されなければならないかという問題は、いまだ宗教学者によって明確化されていない問題である。我々が未開拓といって良い領域に踏み込んでいるとしても、宇宙生成論的な富士山的霊性と終末論的なシナイ山的霊性との対話に照らして習合過程を批判的に考察できると私は信じる。(同書 p.271)
 ここを読みながら、思ったことは、富士山が日本の神理解、新興理解の中で宇宙の聖性の原点であるのに比べ、シナイ山が終末論的であるということである。「宇宙生成論的な富士山的霊性と終末論的なシナイ山的霊性との対話に照らして習合過程を批判的に考察できる」という部分の指摘は重要ではないか、と思うのだ。創世記的な記述の中に在っては、神に中心性があっても、山や川、海などの地物には中心性がないと思われる。

 キリスト教的な習合は、近時のイースターをめぐるイースターという宗教的記号が市場拡大のためのマーケティングに用いられることにも見られたように思う。マーケティングにおけるイースターの記号としてそこでもちられるウサギ(イースターバニー)やイースターエッグというシニフィアンに対するシニフェである命や復活、眠っている状態から戻ることの本来的な意味が忘れ去られ、それに安易に乗る場合、それはかなり習合が起きていることに近いのではないか。その意味で、シニフェとシニフィアンの関係をきちんととらえていないと、あっという間に習合は起きてしまう。クリスマスツリーやサンタクロースも、基本的にキリスト教の習合がもたらしたクリスマスの記号であると思う。

 この間、あるところでお話しした時、ある信仰歴10数年の女性の信徒さんから、「クリスマスがどうしてサンタクロースと関係するのか?」と聞かれて、ご説明申し上げたが、まぁ、真っ赤な服を着たサンタクロースさんは、コカコーラの宣伝戦略とクリスマスが習合した結果としか思えない。


赤い服着たサンタクロースが、クリスマスの記号になった背景に関するコカコーラ社の動画

神宮寺に現れた習合

 神宮寺という日本独特の神宮と仏教寺院の寺(そもそも大きな建物くらいの意味)が合体して変形したものに関して、小山先生は以下の様にお書きである。

 神宮という日本語は神道神社のことである。「じ」は仏教の寺を指す。766年の宮廷令により一体の仏像が伊勢神宮の境内に据え付けられた。かくして伊勢神宮は、活力盛んな新宗教である仏教を土着の宗教である神道に集合する運動過程において神宮寺となった多くの寺の最初の寺であった。(同書 p.271)
 伊勢神宮が最初の神宮寺とは知らなかった。賢くなった。もちろん、伊勢神宮は、天皇家とゆかりの深い神社だとは知っていたし、政治家が参拝するたびに御近所の国からご批判の声が上がり、日の丸が焼かれたり、現地の日本大使館や領事館に石投げられたり、イオンさんやトヨタのような日系企業の拠点が破壊工作にあったりという過激な反応が起きたりはするが(半ば官製デモである場合もなくはないと思うが)、あそこが神宮寺だったとはしらなんだ。仏教と神道が習合したのが伊勢神宮。仏教は唐天竺(古ッ)から来た外国産の宗教の聖地でもあったのね。

 「寺の宮」 → 「じの宮」 → 「じのぐう」 → 「じんぐう」 → 「神宮」(いまここ)とは知らなかった。そうか、ヤクルトスワローズの本拠地にして、学徒出陣が行われたのは、神宮球場であったが、明治神宮外苑に在る神宮球場でないと霊験あらたかではなかったのかもしれない。


明治神宮外苑球場で行われた学徒出陣壮行会の動画

日本の神の原型と古代政治
 日本の神は、基本的に自然の対象物から取られた神が多い。ヤマタノオロチ伝説にしても、菅原道真公を祭った天神信仰(もともとは雨の神)にしても、雷神信仰にしても基本的には自然神のほうが多く、害悪をもたらさず、恩恵だけをもたらすようにしたい、そのために神格化したい、というのが基本線ではないか、と思う。
 つまり、山は野獣(だからオオカミは大神であり、神の使いであったし、鹿は神獣扱いである)であるし、もののけ姫の犬神は神であるし、水の神は竜であり、竜神となる。龍の子太郎は川ないし水の象徴であるのだ。西洋の竜は一般に火を吹く火竜が多く、東洋の竜は一般に水を吹く水竜が多い。


もののけ姫


マンガ日本昔話のオープニングのメインキャラ 龍の子太郎

 このような精神世界から仏教への移行に関して小山先生は次のように触れておられる。

 山水の神が中心的重要性を占めていた農業共同体においてこれらの神は、農産物の収穫の源泉であると同時に結実を妨げる恐るべき力の持ち主とみなされた。農業共同体はこれらの自然神からのご利益を得られるようにという願望の元に結束した。(中略)
 自然神から仏教神に移行する〔宗教的〕運動は他面村落的農業神から特権階級による中央集権政府への〔政治的〕運動でもあった。その運動のスポンサーになったのは、新仏教思想の当然の受容者だった富める有力者だった。密教(常人の目にはあらわでない秘められた教えの意)に属する仏教僧侶もこの運動に参加していた。(同書 p.272)
 要するに、ここの議論を縮約すると、技術にどうしても付随する魔術的な要素を持って、治水技術を持っていたような金剛峯寺の開祖空海は、満濃池開発などの農業水利開発により、当時の農業神の実力(特に、四国では、干天に伴う旱害が課題になる)を抑え、そこに唐天竺から伝来した仏法と共にきた農業水利の最新技術(魔術というのか)が持ち込まれ、そこに人のこころが引き寄せられていった側面があるかもしれない。これだけの農業水利と旱害対策ができるということは、この人が侵攻している仏法というのは、実に摩訶不思議なものを持っている、という意味で引き寄せられていく部分はあったのではないか、と思う。

 これは、オウム真理教の空中浮遊やオウム真理教の世界観でも起きたのではないか、と思うのだ。そして、本来瞑想で得るべきものをお手軽にLSD等、化学合成物の摂取によって得ていこうとした部分もあったように思う。

 その意味で、神秘主義的な密教や、最新技術がもたらす奇跡的な可能性の拡大は、技術者にとっても当たり前であっても一般人にとっては謎であったり、奇跡であるかの印象を与えたりすることは、プログラミング技術者として経験する。技術が持つ一種の神秘性と同じような神秘性を密教が持つため、神秘性の部分で技術と密教とは共通する部分があるように思う。

 密教は、密教であるが故に説明不可能性(説明できたら、そもそも密教にならないようにも思うが)を持つし、技術的な詳細は、技術者は話すのが下手糞だときているうえに、素人に分かりやすくすると事実性のないことを言わざるを得ないので、密教的な対応(『これは神秘なのです』といい抜ける)のほうが楽であるように思う。

 それは、学生の方に再帰的呼び出しというプログラミングの秘儀を講義中で教えるたびに、聞いておられる学生の方が混乱されて、飽き飽きとした顔をされてしまうことなどが結構多い。その結果、「これは、呪文です。これは呪文ですので、そのまま覚えるか受け止めてください」という一種の密教的なプログラミングの教え方をすることもある。

 相対に語学ってのは、プログラミング言語だけでなく自然言語でも、一種の密教的なものはあるかもしれないと思う。明治のころのキリスト教は、英語というコミュニケーション技術とくっついてきた一種の唐天竺から来た密教だったのかもしれない、と思ったりもする。まあ、これは不謹慎な想定であることは承知しているが、完全にそういう側面がなかったとは言い難いかも、と思う。

 あと、技術は密教であれ、原発の開発技術であれ、土木技術であれ、建設技術であれ、プログラム開発の技術であれ、富と権力に奉仕するという側面を持っているように思う。その意味で、平安朝に密教が持ち込まれた時、技術は、当時の富と権力に仕えたという事実は、技術者として受け止めたい。

自然災害などの理解と習合

 いまだに、農業者の皆さんをお付き合いしていると、天気が良ければ天気がよいで、高温障害を懸念しなければならなかったり、雨水不足を心配しないといけなかったり、お天気が悪ければ天気が悪いで、低気温を心配したり、日照不足による病害虫の発生を心配しなければならないなど、非常に多くのリスクに直面していて、その中で生きておられる。まぁ、肥料や様々な農業技術でそのリスクは削減されたものの、リスクを引き受けるということが生活そのもの、という部分があると思う。
 つまり、こうなると人間的な努力で対応できない不可抗力に支配される部分が存在する。となると、それは人間的でないため、神仏の世界で説明されたり、人間が超えた世界で古代人は説明しようとしたのではないか、と思う。そして、そこに当時のハイテクであった密教や、それを利用しようとする権力者の側と、従来型のテクノロジーが支配した、市井の人々の論理や思想が、人間的な能力を超えたものを扱う信仰や宗教というフィールドを介して対立することになる。
 763年、即ち僧満願が多度大菩薩を建立した年は飢餓、疫病及び自然災害の年であった。人々は、この災いをこれまで自分たちの共同体の中心に立っていた多度大神に加えられた変化らしきもの〔仏教的なもの〕に対する自然神の怒りの表現と理解した。搾取に対する彼らの社会的抗議は、飢饉と病疫の原因を彼らの知る神々の怒りに帰すことによって表現した。しかし富裕階層は民を襲った悲劇を今や仏の道に服従することを求めている自然神の多くの罪の結果とみなした。
 おそらく富裕階級は意図的にと同様に本能的に、怒れる神を彼らの経済的企業を支持してくれそうな神に変更しようとした〔習合〕。彼らはその変更を密教の僧侶たちの援助を得て、また土着の神々に仏教の威信を授けることによって行った。彼らは神宮寺を建立し、菩薩の称号を自然神に下賜し、伝統的な神の前で仏教の経典を唱えたのであった。多度大菩薩と八幡大菩薩は間もなく、8世紀における神道の神々への仏教の神々への変貌の判例となった。神宮寺のこれらの神々は権力者と政府が操る政治的道具となった。(同書 pp.272-273)

 自然現象の現実への解釈が、民側は、仏に対して、神である自然神が粗末にされた神の怒り、神罰だといい、支配者側は、現地神の仏への帰依がないことに対する罪への仏罰であるという同一現象に対する解釈の二面性という構造がみられる。
 不幸な現象の解釈の多様性がみられるのである。この種のことは、イエスの時代にも起きている。ある盲人が目が見えないのは、先祖やこの人が悪かったから、という神罰理論で語る人々にイエスは、そうではないと言っておられる。このことの意味、ということをもう少しキリスト者は考えたほうがよいかもしれない。繁栄の神学に走らないためにも。その箇所の口語訳の一部をのせておく。

口語訳聖書 ヨハネ
 9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
 9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
 9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
 9:4 わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。
 9:5 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
 9:6 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、
 9:7 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
 我々は、安易に原因と結果を求めがちであり、一種の因果律で考えがちであるが、イエスという人物はそうではなかったのではないか、と思う。そのことの意味をもう少し考えたいと思っている。

たたり神として物語られるようになった自然神

 新興勢力である奈良朝以降の権力者は、仏教を唐天竺からやってきたハイテクで自然神を抑えるものであると説明していく過程の中で、日本の神をたたり神にすることで、あるいは悪者にすることで、自己の正当性を図ったのではないか、と小山先生は御示唆である。

 政治的権力闘争と経済的搾取と関連して日本の宗教生活の舞台に登場した新しい、復讐心に満ちた神々は、恐るべき性格を持つ神である。密教という高度な宗教儀礼のみがそうした神々の霊を静めるに足る強さを持つと考えられていた。恵み深い自然霊である神道の神が復讐心に満ちた御霊や疫病を流行らせる神に移行して行った経緯は、9世紀から11世紀に至る期間を通して跡付けることができる。それは急速な都市化の期間、しかも頻繁に襲って住民の生活を交配させる疫病流行の期間だった。10世紀の間に、疫病と復讐心に満ちた神々との連想的結合が日本人の心に浸透して行った。(同書 p.274)
ちょっと、政治的権力闘争とか、経済的搾取とか、ちょっとマルクス経済的な概念での説明のところは、個人的に留保したいところであるが、まぁ、概ね日本の神道の神々はある面小山先生ご説明の通り、の部分があると思う。とりわけ、平安朝という従来なかった、都市の密集居住に伴う諸問題(それが一時的であったにせよ)は、現代の高密度での都市居住を当たり前とする現代の日本人には想像が困難な問題、そして、従来の農村型社会の延長では解決のつけられない問題を当時の時代人、特に為政者に突き付け、それが、疫病や自然災害という形でおきたのではないか、と思うのだ。

 都市居住の問題は、都市計画論的にいえば、清浄な水と環境の供給と汚物およびゴミ処理という衛生技術をどうかくほするか、に尽きるといってよいだろう。西洋の都市は、とりわけ閉鎖型であっただけにこの問題は深刻で、その結果、ローマ帝国は水道と下水道工事とそのメンテナンスを引き受けていくことになる。藤森照信先生の「明治の東京計画」の冒頭部分でふれられているように、日本の都市の場合、閉鎖型ではなく城壁を設置しない開放型の都市構造となったが、そうであっても、汚物処理、ごみ処理がなされる河川の自然浄化力にはおのずと限界があり、現在の鴨川は清流であるが、中世には汚物と死体とゴミが流れる川であったのではないか、と思われる。轆轤町という町が京都にあるが、その由来は案外おっかないのである。この記事参照。

日本型神道の神学の形成と海外文化

 日本型の神道には、厳密な意味での神学めいたものはあまりないと聞いているが、それが若干あるとしたら、その成立は小山先生が引用している石田さんによるとこういうことらしい。
 石田によると、神道が多少とも哲学的な神学を持ち始めたのは13世紀にいたってからにすぎない。この機関日本人のこころは先立つ数世紀の間に輸入された思想と文化の酵母から脱して自らの思想を表現し始めた。これらの神道の哲学的表現は神仏習合の形式をとっていた。(同書 p.274)

 そもそも、神道的な神学が生まれたのは、神仏習合の中であり、その意味で唐天竺からやってきた外国語の文献を介しての哲学的思惟を形成した、ということらしい。これを見ていると、明治のころもそうだし、江戸期もそうだし、あるいは安土桃山時代もそうだし、また平安朝のころもそうだが、外国語の文献や外国の異質な世界観と出会って初めて、哲学を形成しはじめるという日本の伝統がどこかに在るのかもしれないなぁ、と思う。

 ある面でいうと、異質なもの理解をするためには思考と思想が要請されるが、異質でなければ、異質でないものに出来てしまえば、思考と思想は要請されない。日本は社会全体として、異質なものを排除し、異質なものを無理やりにでも同質化させることで、思考と思想の形成という面倒な作業を回避しようとしてきたのかもしれない、と思う。

 次回へと続く。



評価:
価格: ¥1,296
ショップ: 楽天ブックス
コメント:現在の東京がどうやってできたかの都市計画史の専門家の名著。おすすめ。

【2015.04.22 Wednesday 03:37】 author : Voice of Wilderness
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緊急公開 「福音主義イスラエル論」を聞いてきた 福音主義神学会西部部会 2015 春季分科会参加記


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 福音主義イスラエル論について、ラッドの『終末論』をお訳しになられた安黒務先生がお話になるので、聞きに行ってきた。

安黒先生の取り組みの出発点
 安黒先生の出発点は、ある神学生からの「イスラエルを祝福のために祈れを現代の日本におけるキリスト者としてどう考えたらよいのか?」という問題点から出発した、安黒先生のディスペンセイション神学を巡る思想のごくごく一端のご紹介に終わってしまった。

 イスラエルの祝福を祈るというのは、「世俗国家としてのイスラエルをどう考えるのか?」という問題と実に密接に結びついており、ユダヤ人と一口に言っても、実に多様な人々からなっており、ユダヤ人でも、超保守のウルトラ保守の厳格主義のユダヤ人から、トーラーを何とも思っていないリベラルなイスラエル人もいるし、ヘブライ語をしゃべらないアラブ系のイスラエル人も含むのが、世俗社会のイスラエルである、と安黒先生はおっしゃっておられた。

現実の世俗国家としてのイスラエル国の多様性
 なお、一応、イスラエルの公用語は、ヘブライ語とアラビア語であるし、多民族国家なのである。このあたりのことは、仲良くしていただいているイスラエルの海岸ペタにある学校で教えておられるレビ先生からも教えていただいているのだが、福音派の中では、こういう理解している人はミーちゃんはーちゃんのその周辺では少ないような気がする。

聖書理解の分類学
 この世俗国家としてのイスラエルをどう理解するかであるが、神学軸の方向性としては、ディスペンセイション主義聖書理解(神学)を南に置きと北に契約主義聖書理解(神学)をおいて、横軸に社会学的軸を置いた分析軸による理解を提示をされた。聞き取った限りは、バーガーさんという方の神学的分類法らしい。

安黒先生ご提示の分類学

 個人的には、神学的な縦方向の分類軸が、これでいいのか、また、その語を用いるのが適切なのかどうか疑問であると思っている。


 まぁ、こういうのは、マーケティングの世界でもPPMと呼ばれる有名な図がある。PPMとは、以下のPuff the Magic Dragonを謳ったグループではない。



PPMという分類法

 PPMとは、プロダクト・ポートフォリオ・マーケティングとよばれ、自社製品群をどう考えるかに関する図回峰である。このような分類法は、コンサル業界では、よくある分類法であるが、欠点もあるので、そのあたりは少し考えた方がいいかもしれない。


Marketing Campus様の図
オリジナルは http://marketing-campus.jp/lecture/noyan/040.html

 旧約聖書は、イスラエルの歴史とイスラエルの歴史と未来の救いであり、新約聖書は、教会の歴史と未来の救いとして理解できる、そうしないと、教理がまぜこじゃになってわかりにくいものになる、と安黒先生はおっしゃっておられた。

新たな単純化と誤解が出るかも?

 しかし、この話を聞きながら、ここまで単純化して、新約聖書と旧約聖書とで内容が違うといっていいのか?と思っていたら、鎌野先生と金井望先生がすかさずツッコミを入れておられた。また、塩水と真水論で旧約聖書から新約聖書の漸進的一体性を説明しておられたが、この説明砲で本当にいいのかなぁ、と思ってしまった。個人的には、このようなメタファーでは不十分だと思う。特に、わかりやすいからといって、単純化することに潜む重大な欠点があるのではないか、と思うのだ。わかりにくいものを分かりにくいままで、理解しようとすることは案外大切ではないか、あまりに単純化すると、新たなるディスペンセイション主義理解もどきを作っているだけではないか、と思うのだ。

 安黒先生は北と南を分ける軸が、使徒的聖書解釈であるということであるが、基本的にマクナイトの理解はこの使徒的聖書解釈に固執すべきで、それより先に行く、ということではなかったような気がする。安黒先生はこの使徒的聖書解釈をより延伸して、その部分を契約主義聖書理解と読んでおられて、それに向かうのがよいと思っておられるらしい。

キリスト教シオニズムとのかかわり

 キリスト教シオニズムをディスペンセイション主義的聖書理解 VS 契約主義聖書理解でとらえておられたが、個人的には、神学の対比軸の方向性でいいのか?とは思った。というのは、通常用いられる契約主義聖書理解とは違いがあるものを、安黒先生がおっしゃっておられる分類軸は示しているのであり、誤解を生じかねないからである。どうもこの分類の軸の設定の仕方は、サイザーという人によるものらしい。 

 北西の隅のAの契約主義的な聖書理解では、使徒的な実践(つまり、困ったユダヤ人を異邦人が助けるとか、ユダヤ人と異邦人も神が一つであると認め、それぞれが共に、社会の中で生きる権利を保障するという実践)が可能になるということらしい。それだけのことのために、わざわざ契約主義的聖書理解という形で称することにどれほどの意味があるのだろうか、というのがミーちゃんはーちゃんによる素朴な疑問であった。

 世の中には、キリスト教パレスティアニズムというのもあるので、このあたり、どう考えるかは安黒先生がご提示なる図では不十分ではないか、と思う。まぁ、よく研究されている方だとは思うが、ちょっと不満点もあった。それはミーちゃんはーちゃんが、理解が足らないからだろう。

ラッドの本の位置づけ

 ラッドの終末論の本は、ディスペンセイション主義が起こした結果の問題に関するターゲット絞った特殊な内容であり、より一般的なものではない、ということらしいが、ラッドの本を読む限りはそうとも言えない部分も主張しているような気がするのは、ミーちゃんはーちゃんの気のせいかもしれない。

質疑応答から

 質疑応答の中では、ディスペンセイション主義は、日本のキリスト教のかなりの部分に教理と不可分な形で、入り込んでしまっていて、また、現実の聖書理解を社会状況の中で、変質させた実にさまざまなバリエーションがディスペンセイション主義理解の中にあるので、その点は注意すべきで、一番の原型になった、ジョン・ネルソン・ダービーのディスペンセイション主義を理解すべきだ、ということを安黒先生は、おっしゃっておられた。

 パッションがおありで、熱弁を振るわれたのはよくわかったが、どうせならもうちょっと、注目点を絞って、Coolに何が問題になるかをきちんと説明された方がよかったように思うご発表ではなかったか、という印象を持った。

 なんか、バルトがバルメン宣言書いた時と同じような気持ちであるということをおっしゃっておられましたが、それにしても、もうちょっとクールでもよかったかなぁ、と。バルト先輩が今日の安黒先生の思いを聞かれると、頭を書きながら、「いやぁ、それは・・・」といわれそうな気がする。


労働の意義に関する講演は、近日中に別途改めてご公開の予定
【2015.04.20 Monday 20:02】 author : Voice of Wilderness
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ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(2)


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 以下は、個人の感想であり、所属教派、所属キリスト者集団、所属キリスト教会(集会)の主義主張とは必ずしも一致しないものであることはあえて一言触れておく。

不幸な論争をもたらした再臨理解
 キリストの再臨をどう考えるか、という問題は、終末論の一部であるけれども、すべてではない、と思っている。とは言いながら、ラッド先輩がおっしゃるように、この問題は実に悲劇的な論争となってきた。
 
 多くの福音主義の教会において悲劇的論争の主題となってきた一つの問題を取り扱わなければならない。第1章で論じたように、ディスペンセーション主義は、キリストの再臨は二つ存在する。もっと正確にいえば、キリストの再臨は2段階で起こる、と教える。ディスペンセーション主義では、神の二つの民ーつまりイスラエルと教会ーが存在し、そして神は二つの異なった計画ーつまりイスラエルに対する計画と教会に対する計画ーをもっておられる通していることを私たちは見て来た。(終末論 p.73)
終末において、イエスキリストの再臨と来臨の区別やその時期がどうか、というのは、個人的にはどうやっても特定できないし、特定したところで何か生まれるか、ということを考えた時に、その細かな論点整理をするよりは、その先に何があるのか、神との和解の実現ということに思いをはせる方が、よほど楽しいのではないか、と思う。本来の神との関係の回復こそ、聖書の主要な主張ではないか、と思っている。

 しかし、こちらがそうは思っても、この種の議論に御関心の深い方々は、それでは気が済まないらしく、延々と自説をご紹介くださるので、あぁ、そうですか、なるほどなるほど、それはよかったですね、と御回答することにしている。

 以下、本文中で指摘されている再臨を示す3つのご、パルーシア、アポカリュプシス、エピファネイアについてご紹介。


再臨を示す第1の言葉 パルーシア

 再臨を示す言葉は3つあるとラッド先輩は指摘されており、その第1のものはパルーシアである。主の出現や臨在を示すパルーシアと空中携挙と呼ばれる理解に関しては、ラッド先輩は次のように指摘しておられる。

 キリストが艱難期の前に再臨し、死んだ聖徒たちをよみがえらせ、生きた聖徒の教会を携挙するという教えは、ディスペンセーション主義者のもっとも特徴的な教理である。私たちは、大艱難前にキリストが再臨されるとする見解を新約聖書が支持しているかどうかを判断するため、新約聖書で使用されている用語を吟味しなければならない。
 新約聖書において、再臨を描写するために3つの言葉が使用されている。第1に、「到来」「出現」また「臨在(プレゼンス)」を意味する「パルーシア」がある。これは主の再臨に最も頻繁に使用されている用語であり、教会の携挙に関するものとして使用されている。

【新改訳改訂第3版】
 I テサロニケ 4:15−17

 4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
 4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
 キリストが秘密のうちに再臨するということを右の箇所の中に見出すことは極めて困難である。(同書 pp.74−75)
 日本語や英語の翻訳聖書の元となった、聖書のほぼオリジナルに近い(オリジナルは見つかっていないので、時代ごとにその底本とすべきギリシア語底本も時代ごとに代わってきたし、おそらくこれからも変わり続けていくとは思うが)言語底本の用語に基づき、来臨と訳されているパルーシアをどう解釈するのか、ということを述べておられる。

 ミーちゃんはーちゃんなぞは、つい、4章17節の引き上げられ、という語に引きずられがちであるが、案外重要なのは、4章16節の『主は、(中略)ご自身天から下って来られます。』という部分が大事なのではないか。どの高度に降りてくる、とは明確に書かれていないので、空中とすることも可能であろうし、地上とすることも可能ではないか、と思う。個人的には、地上かなぁ、と最近は思っている。まぁ、現在の日本では、雲は空中に浮かぶと思っている方が多いようであるが、地上にも雲が降りてきた話は出エジプト記に在ったような気がする。それは気のせいだろう。まぁ、あれもこれも想像の域を出ない一種の知的スポーツでしかないように思う。起きてみてわかればそれでいいし、その様な事象が起きる前にかなり長い時間の眠りにミーちゃんはーちゃんはつきそうな気がしてならない。

再臨を示す第2の言葉 アポカリュプス
 このアポカリュプスという語、権限という語であるが、黙示録に関する英語であapocalypticという英語の語源だろうと思う。そもそもアポカリュプスという言葉自体、アポ(離れて、外す)とカリュプテイン(覆う)というギリシア語の合成語である模様である。つまり、覆われたものはずす、という意味である。以下のノーベル物理学賞のメダルのカバーがかけらているものからカバーを取り外されようとしている状況のような感じも持つ語でもある。


アインシュタイン先輩が授与されたノーベル賞のメダル

 この語に関してラッド先輩は次のように書いておられる。なお、黒の太字にしたところは、もともとの本では、傍点が付されていた文章である。

 主の来臨について使用されている第2のことばは、「顕現」を意味するアポカリュプシスである。艱難期前再臨説の立場の人々は、キリストのアポカリュプシスあるいは顕現を、教会の携挙とは区別し、キリストが審判をもたらすため栄光のうちに到来する艱難期の終わりの出来事として位置付ける。もしこの見解が正しいとしたら、キリストのアポカリュプスは第一義的にクリスチャンにとって祝福された望みではなくなる。顕現が起こる時、聖徒たちは既に携挙されており、肉体にあってなした行為に応じて報いをキリストの手から受け取っていることになる。彼らは既にキリストとのいのちの交わりのまったき喜びに入っている。すなわち、キリストのアポカリュプス(訳注:顕現)は、悪しきものの審判のためであり、教会の救いのためのものでなくなる。(中略)艱難期前再臨説によれば、キリストの秘密裏の再臨における携挙は祝福された望みであり、好ましい待望の的であるが、顕現はそうではないことになる
 けれども、このような教えを聖書に見出すことはできない。私たちは「熱心に私たちの主イエスキリストの現れ(訳注:アポカリュプシン)を待っています」(Iコリント1:7)。艱難前再臨説によれば、私たちは顕現などは待ってはいない。携挙を待っているのである。教会はキリストのアポカリュプスの時まで苦難に会わなければならない。(同書 p.79)
 終末理解と艱難理解の混乱の結果、いろいろな季節、陳節、論理的なウルトラCが各種開発されたのであるが、実は、このことに関しては、別のところ(この記事の最後のあたり)でも触れたが、この理論ができた当時の社会的背景、つまり18世紀末から19世紀初頭にかけての社会不安がその成立の背景にある。つまり、18世紀末から19世紀初頭、ヨーロッパでは革命のあらしが吹き荒れ、血で血を洗う戦争や内戦が起きたのだ。その中で、ディスペンセイション説が形成されたため、終末理解との関連で、艱難理解、つまり、革命的現象の中での流血事件と艱難とが重ね合わされ、様々な理解が生み出されたのではないか、というのはかなりいい線をいっている理解ではないか、と思っている。

 その地で血を洗う時期に作詞作曲された、現在のフランス国歌でもあるこの曲の歌詞の日本語訳を見ながら、その意味をお考えいただけると嬉しい。イギリス人の大好きな呪いの言葉Bloodyという語がふさわしいほど、血みどろの歌詞である。


初音ミクさんで、フランス国家 La Marseillaise (日本語訳詞付き)

 もう少し、ラッド先輩は、このアポカリュプスについて説明しておられる。より具体的には、この顕現の時は、我々が完全なものとされ、神の養子としての完全な神との関係を取り戻すということである。その部分を引用してみたい。
 ペテロは同じ表現を使用している。いま私たちはキリストの苦しみを共にするものとされている。それはキリストの栄光が現れる(訳注:アポカリュプセイ)時にも、喜び踊るためです」(Iペテロ4:13)。(中略)さらに、ペテロは私たちの信仰の真実性が「イエス・キリストの現れ(訳注:アポカリュプセイ)の時に賞賛と光栄と栄誉」(Iペテロ1:7)をもたらすと語っている。(中略)しかしこの箇所は、キリストのアポカリュプスの目的の一つは、信仰の忠実さゆえの光栄と栄誉を御自身の民にもたらすことであると断言している。最後にペテロは、私たちが恵において完全なものとされる望みは、イエス・キリストの顕現の時にもたらされると保証している。(p.81)
 概して、終末理解 eschatology は艱難理解と取り違えて議論されがちであるが、艱難がどの時点でおきるのか、ということの理解は、繰り返し、何度でも、しつこくいうが、個人的には艱難理解や艱難の時期否定理解とは別物であり、最終的な状態として神と人との関係がどうなるかが本命ではないか、と思っている。もし、終末理解が艱難解再臨との時間関係の理解、いつ発生するかの議論と混乱されているとすれば、ことばはすぎるかもしれないが、それはハルマティアと言われても仕方がないかもしれない。この場合のハルマティアは、もともとのハルマティアの語義でもある、的外れという意味で用いている。

 本来、神に在って完全とされるということが終末理解の際重大事であるべきであると思っている。ただ、ラッド先輩と意見をことに数rのは、個人的には「私たちの信仰の真実性」ではなく、あくまで、「ピスティス・クリストゥー」が賞賛と光栄と栄誉をもたらすとミーちゃんはーちゃんは考えている点である。

再臨を示す第3の言葉 エピファネイア
 再臨を示す最後のギリシア語は、輝き、あるいは、輝くこと、明白にすることという意味を持つエピファネイアである。なお、この語から、公現祭、顕現祭とも呼ばれ、クリスマス直後に東方の博士とイエスが面会した日を祈念する日とされている。

 キリストの再臨について使用される第3のことばは、エピファネイアである。これは「輝き」を意味し、従って艱難前再臨節の体系によれば、艱難期が開始される時の教会の携挙やキリストの来臨を指しているのではなく、艱難期の終わりにおける、世界に審判をもたらすための、聖徒を伴ったキリストの顕現を指しているのである。キリストは「来臨の輝き(訳注:エピファネイア)」(IIテサロニケ2:8)をもって不法の人を滅ぼしてしまうのであるから、実際にそれは顕現の意味において使用されている。キリストがエピファニー(訳注:輝き)をもって出現するのが艱難期の終わりであることは明らかである。
 しかしキリストのこのエピファニーは、キリストのアポカリュプスと同じように信仰者の望みの対象である。もし教会が前もって携挙の時に望みの対象を受け取っていたのなら、そうなることはあり得ないからである。パウロは「私たちの主イエスキリストの現れ(訳注:エピファネイアス)の時まで」(Iテモテ6:14)命令を護り、傷のない、非難されるところのないものであるよう勧告している。生涯の終りにおいて、パウロは「今からは、偽の栄光が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです」(IIテモテ4:8)と語り、(中略)パウロが報酬の日として期待している「その日」がキリストのエピファニーの日であるとしか結論できない。従って、それはクリスチャンが愛情を注いでいる日、クリスチャンの望みの対象である。(中略)艱難前再臨説は報酬が与えられう審判を携挙と顕現のに位置付けている。しかしここでは、それは艱難期の終わりのエピファニーの時に位置付けられている。それは顕現と同じ時である。(同書 p.82−83)
 このように見てくると、ラッド先輩は、艱難前再臨説をご批判であるけれども、我々はそこに目を奪われて、問題を矮小化してはならないと思うのだ。パルーシアであれ、アポカリュプシスであれ、エピファネイアであれ、基本的にこれらすべては最終的な神の終結、神のテロス Telos(実は、終末論をあらわすeschatologyという語は、テロスのラテン語表記に由来していたと思う)に関する語であるとしておられることに目を向けるべきであって、艱難の時期などを焦点化させることは聖書理解に歪みを生じさせるのではないか、と思う。そこに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。

用語の混乱と終末論の混乱

 他の部分でもそうだが、我々が普段日本語で読む聖書は翻訳聖書であるという側面を忘れてはならないだろう。聖書翻訳者の方々のご苦労は想像することすらできないが、そこで翻訳された言葉から勝手に自分のお好みの聖書理解をごくわずかな表現をもとに造り出すことには、かなり問題があるのではないか、と思っている。それよりも、全体を通して何が基本的で重要なポイントか、ということを抑えつつ、考えていくということが重要だろうと思っている。
 教会の携挙とキリストの顕現との区別は、神のことばによってどこにおいても主張されていないし、キリストの再臨に関係する用語によっても要請されていない、と結論できるだけである。(中略)パルーシア、アポカリュプス、エピファニーは単一の出来事である。キリストの再臨を二つの部分に分割することは、立証されえない推測にすぎない。(p.85)
 まぁ、これまでラッド先輩のおっしゃることをご紹介してきたが、とは言え、それぞれの語を別々のものと理解することも可能であるし、いや、ラッド先輩のおっしゃるように、それは一つだ、とすることも、理屈のうえでは可能である。ただ、いずれのケースにしても、立証されえない推測でしかない、という可能性があるような気がするなぁ。あくまで目を向けるべきは、神と人との関係がどのようになるか、艱難の通貨の有無やその時期よりも最終的に神が実現される完成された世界という聖書のメインテーマに我等の視点を据えるべきで、時間や順序がどうなるか、ということを議論することではないのではないかなぁ、と思っている。

 最後に、ラッド先輩の言葉を引用して、再臨や来臨を区別することの無意味さを考えたい。
 この学派の極めて最近の著者たちの一人は、教会のためのキリストの来臨はキリストの再臨ではないと主張している。この見解はキリストの来臨と再臨とを区別する。このような区別は全く立証されていない。キリストの再臨を描写するために使用されている言葉のうちそのことを支持するものを見出すことはできない。「来臨(リタ−ン)」と「再臨(セカンド・カミング)」の二つのことばは、聖書の中にそれに相当するギリシヤ語がないという点において、正確に聖書の言葉を伝えていない。言い換えると、それは不自然、かつとてもありえない区別である。キリストのパルーシアはキリストの来臨であり、キリストの来臨はキリストの到来であり、キリストの到来はキリストの再臨である。
 主の来臨について使用されている語彙は、キリストの二つの到来または到来の二つの局面があるという見解に、いかなる指示も与えていない。反対に、キリストの来臨が単一、かつ不可分な栄光に満ちた出来事であるという見解を立証している。

ラッド先輩の「「来臨(リタ−ン)」と「再臨(セカンド・カミング)」の二つのことばは、聖書の中にそれに相当するギリシヤ語がないという点において、正確に聖書の言葉を伝えていない。」ということは、非常に重要でないかなぁ、と思う。自分たちがある思い込みで聖書を読んでしまっていて、聖書本文から結構離れているということは意外に多いかもしれない。

 まぁ、英語の聖書にしても、日本語の聖書でも、翻訳聖書だけにいろんな問題が出てくる。そして、その表現をもとに、様々な解釈が可能であり、その解釈をさらに発展させることも可能である。ギリシア語テキストの聖書でも翻訳聖書でも、解釈が困難なところは、無理に解釈し、決めつけず、こうじゃないかな、くらいで止めておくのが凡人にして平信徒のミーちゃんはーちゃんには適切なのだろうと思っている。










評価:
価格: ¥1,944
ショップ: 楽天ブックス
コメント:薄い、コンパクトであるが重要なポイントをしてきた名著だと思う。

【2015.04.20 Monday 05:47】 author : Voice of Wilderness
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『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (16)


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 『富士山とシナイ山』学ぶシリーズは本ブログの最長連載記録を更新が確定し、最長記録更新中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の「宇宙的生成論およびイデオロギー的中心」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。

ザビエルの仏教理解
 これまで、日本の鎌倉仏教、法然、親鸞と日本仏教の巨人たちについて触れてきたが、いよいよ今回から、室町末期のキリスト教との邂逅になる。

 イエズス会伝道団は説教において人間の存在の具体性を肯定している。これは禅宗の徒にとっても瞑想するには容易でない教義であった。彼らにとって「われ」は存在しない。すべては「無」である。天国も地獄も、そして「神」概念すら「無」である。そのため二つの対立概念の間で、日本の魂を自陣に引き寄せようと論戦が行われたらしい。日本人の多くにとって宣教師たちのいう全能の神は、彼らにとってなじみの「無」の神よりも一層残酷な神であるように思われた。日本人は彼ら自身の文化的情緒を通して、本能的に創造神の神学と救済の神学を結びつけた。彼らに言わせれば、もしも神が万物の創造者だとしたら、「無」ではないこうした神は、地獄に閉じ込められている先祖たちを救いだす手立てを講じることができるはずだ。これは禅宗とキリスト教の両方に突き付けられた重大な問いである。(富士山とシナイ山 p.262)
 ここで印象深いのは、日本人の信仰観と死生観の関係である。基本禅宗は、一切が空という般若心経的な世界観がその背景にあることを考えておられるらしく、空である中での死後の世界をどう考えるのか、ということでいかに涅槃に到達するか、そのための瞑想をどうするのかがその教義の背景にあるといってよいのかもしれない。しかし、キリスト教は、一切は無という概念はない。むしろ、一切は、神の支配のうちに在るという立場であるので、その背後には、どうしようもないほどの存在感、実存といってもよいかもしれないが、実態としての神が存在するといえるのである。

 ただ、「地獄に閉じ込められている先祖たちを救いだす手立てを講じることができるはず」という疑念に対して、キリスト教側としては、よくわからない、ということしか言えない。また、日本人が考える地獄と、聖書にいうヘブライ的なシェオルの概念が、本当に同一であると考えてよいのか、この辺り、本来的には概念整理をする必要があるが、個人的に地獄概念とシェオルに関しては違うような気がする、という仮説的な限定付きの理解を述べるに留め置きたい。本来、この種のことはミーちゃんはーちゃんのような平信徒の領分ではなく、聖書学者の皆さんにお願いしたいところではある。


ザビエル先輩(上智大学はザビエル先輩の誕生日がお休み)

最強の対立的二元論と福音理解

 ザビエル時代から、どうも正邪論争的な二元論が伝道の場において用いられることが多い。個人の信仰の正当性を証明(それは厳密にはできないと思う、出来るのは、護教であり、弁証まででしかないと思っている)するために、正邪論争的手段や論法が用いられたし、それが悲惨な論争や争いを産んだように思う。
 キリスト教は日本に最強の対立的二元論を持ちこんだことになる。二元論は日本民族にとって未知のものではなかった。とりわけ生と死の二元論は熟知のものだった。しかし今や、自然界の二元論とは対照的な、悪魔と戦う神と、悪魔の力の支配下にある人間との極めて熾烈な二元論が襲ってきたのである。(中略)キリストの福音を提示するために、かくも強烈な対立的二元論の「神学」を必要としなければならないのか。ザビエルの時代このかた、日本民族にとってこの問いはまだ答えられていない。(中略)偶像に対する断罪と対立的二元論を分かつのは紙一重に過ぎない。福音はこの偶像を断罪するが、対立的二元論の枠組みに陥るのを避けている。(同書 p.263)
 この中の「福音はこの偶像を断罪するが、対立的二元論の枠組みに陥るのを避けているという指摘は実は非常に大事かもしれない。実は、福音派の一部に対立的二元論、偶像であるか、偶像ではないなか、でしか物事を考えられない側面が案外多いのではないだろうか。こういう一種の無知に基づく言動があり、それが今なお根強く、そのことがかえって冷静な宗教間対話と相互理解とを阻んでいて、非常におかしなことを示していることが多いような気がするのは、私だけだろうか。

 本来、人間が欠けあるものである以上、二元論的な議論に押し込むことはどこかに無理があるのであり、新しいこと、新しいもの、自分と違うもの、自分の理解の相対化を振り返りを通して考えたうえで対応しないといけないのではないか、と思う。

キリスト教とニルヴァーナ(涅槃)
 ニルヴァーナといってもこれではない。

シアトル付近発祥のニルヴァーナさんの動画 個人的にこの手は趣味でないけどw

 前回の「終末論を読んだ (1)」でご紹介した天国に行きたがる大衆レベルのキリスト教の誤解(文句は、もう死亡されているラッド先生にお願いします)があるが、これはある面、日本においては、多くの場合、仏教的なニルヴァーナ志向の思想をキリスト教的なコンテンツとして反映したものであり、それは本来のキリスト教のうちにはないものであるとミーちゃんはーちゃんは考えている。
 イエズス会に宣教使命の霊感を鼓吹した二つの聖句のうちの一つ「全世界を手に入れたとて、自分の命を失えば、どんな利益があるというのか」がニルヴァーナ志向を示唆していないことに気付くことは重要である。この聖句はイエズス会を導いて、「この世」をこの上なく真剣に引き受けさせたのである。(同書 p.264)
 小山先生ご指摘のように、イエズス会を日本伝道に駆り立てた言葉は「自分のいのちを失うこと」に目的があるのではなく、「全世界を手に入れること」でもなく、新しい世界に向かわせたのである。特に、「伝道とは「この世」をこの上なく真剣に引き受けることである」という指摘は案外大事なのではないか。伝道っていうことは、ただ、言葉を語ればよいのでもなくて、この地の人々に受け入れられ、また自分以外の他者とのかかわりを引き受けていくことがまず先に在るのではないか、と思うのである。この辺り、ジャン・ヴァニエやナウエンの思想につながる部分があるような気がする。

日本の国際的孤立
 秀吉の伴天連追放令以降、江戸期に国際社会からの離脱について触れられたあと、日本が国際社会から孤立した結果、日本社会は、近代思潮を形成する合理主義や対話のアルテの成熟度の充実、理性に対する信頼の形成、新しいものへのチャレンジ精神、開かれた思考ということが軽んじられ、内部を相互に見るという思考の特性をはぐくんでいったかもしれない。
 日本の国際的孤立は日本国民にとって重大な結果をもたらした。西欧が理性の批判的自覚と科学的人生観を摂取するのに300年かかった。人間精神の近代化というこの大きな出来事(啓蒙主義の受容)が行われた期間の多くの間、日本は外部の世界から自らを切り離し、己の狭隘な思考法にしがみついていた。占星術に代わる数学の重要性を強調したイエズス会伝道団の未曽有の成功は、日本人の精神もまた近代的な世界観を受け入れるに足る成熟度に達していたことを示している。だが日本はそうせずに直感主義に後退した。和辻によれば、日本を1941年西洋列強との非合理な戦争に追いやった態度こそ直感主義に他ならない。(同書 p.265)
 個人的には、啓蒙主義思想は、上から目線だし、いくつか困った点を持っている。特に以前の連載 反知性主義をめぐるもろもろ でも触れたように、啓蒙主義思想はアメリカで反知性主義を産んでいくことになるという困った側面も持っている。安土室町末期には、数学的思考も銃砲の製造技術も、非常に短期間でキャッチアップしている。そして、貪欲にヨーロッパからもたらされる技術を貪欲に吸収して行ったのであるが、鎖国と共に、このような貪欲さはなくなって行く(というよりは制度的に禁じられていく)。そして、国内に通用する国内的な論理の枠内での技術開発、銃への象嵌技術のような一見無意味な技術に進んでいく。


蒔絵象嵌が施され、実用的改良ではなく装飾が異様に発展した銃
メキシコなら、この手の銃があるかも。

 日本の直感主義の原因を鎖国に和辻は求めているようであるが、それははたしてどうなのか、と思う。というのは、江戸末期、適塾の蘭学の伝統(これは大阪大学に引き継がれていく)や、佐久間象山・大村益次郎らの蘭学研究、のような展開を見せていく(たいていはこれらの人は冷や飯を食わされるのが、日本の習い性であるけれども)を考えると、直感主義といっていいのか、あるいは、和算の伝統なども考えると、直感主義といいきっていいかどうかは疑問である。ただ、ここ数年でも、まともな合理的思考が顔を出すと、それをみんなでよってたかってつぶして回る傾向にはあり、そういう事例がみられるとは思うけど。松本サリン事件の河野さんの不幸な出来事等を振り返りたい。

「緒方洪庵」の画像検索結果
大阪大学の開祖、緒方洪庵先生

キリスト教とは何か?

 本来、キリスト教が主張することとは、聖書の読み方でも、理解でも、世界観でもなく、もちろん、天国の行き方というようなものではない。本来、キリスト教が主張し続けていることとは、神の存在であり、神との和解であるはずであるが、そこが強調されず、それに伴うもろもろがキリスト教であるとして伝えられることが少なくないのは極めて残念ではないか、と思う。それらのことに関して、小山先生は、このように触れておられる。

 キリスト教が日本にもたらしたのは、目的意識を持って万物を創造し、至高の人格的愛を持って万物を支配して居る創造者なる神であった。そのことは共同体の生活および個人の生活を解釈するための新たな地平を開いた。それは和解の道を示唆した。イエズス会の宣教師たちが日本民族に届けた神の声は「悔い改めよ」であった。(中略)ここで根本的問題はこの神に対する人間のかかわり方におかれる。このメッセージは、「残酷な神」に関する苦痛を強いる困難な議論にもかかわらず、日本人の心に届いた。「残酷な神」は、それだけで提示されると、日本人にとって極めて心乱す概念だったのだが。
 日本人は二つの偉大な宗教的視座と接触した。この世の否定とこの世の肯定である。「目覚めよ」と「悔い改めよ」である。この二つの視座を日本人自身の文化的文脈における一つの創造的対話に統合する仕事は、日本民族の霊的、精神的生活にとって大切な任務であった。この仕事は今日ですらなお初期段階にとどまっている。(p.268)
 小山先生がご指摘の「この二つの視座(「目覚めよ(神とともに生きよ)」と「悔い改めよ(神のもとに立ち返れ)」)を日本人自身の文化的文脈における一つの創造的対話に統合する仕事は、日本民族の霊的、精神的生活にとって大切な任務であった。この仕事は今日ですらなお初期段階にとどまっている」ということ拝読しながら、とんでもない宿題をもらってしまった、と思った。こんな宿題をすべてこたえることはできないが、キリスト者として生きるということは、この世において、日本人の文化的文脈、つまり普通の日本人にとって、「神とともに生きるものとなれ」と「神のもとに立ち返れ」がどういう意味を持つのか、ということを理解可能な形で説明し直さないといけない、ということだと思うのだなぁ。それに、それが、まだ初期段階にとどまっている、つまり、キリスト教いやむしろ、聖書そのものをちゃんとミーちゃんはーちゃんを含むかなり多くの日本人が理解していない、ということなのだろう。

見ることと歴史意識

 地図屋をしていると当たり前なのだが、地図の場合、般化(Generalization)ということをやる。ごく簡単にどういうことかというと、ある程度、えいやって線を引いちゃうことなのである。例えば、海岸線を地図に書く時を考えてみよう。海岸線の波が造る海水と陸地の境界は厳密にいえば、一瞬一瞬ちがう。あるいは国境や自治体の堺は、緯度線とかでパシッときってない限り(アメリカやアフリカではこういう緯度や経度を基準にした国境がある)、実はかなりグネグネしていて、それをいちいち地図の2次元表記では表せないので、ある程度ごまかしてえいやって引いちゃうのである。この辺の議論を知りたい方は、フラクタル理論をフラクタル幾何学 http://www.amazon.co.jp/dp/4480093567/ でご研究になるとよいだろう。

 それと同じように、歴史的に起きた出来事、●△村の太郎兵衛さんが桜田門外の変があった晩に晩酌にどぶろくを3合飲みました、というのは一種の歴史的事実であるが、それは捨象されてしまう。歴史の全容を終える人はいないのだ。しかし、神は、その歴史の全体を通してこの世界に関与する神がいるというのが、聖書の主要主張の一つである、と思う。このことに関して小山先生がお書きになった部分を紹介して、今日の記事を終わりたい。
 普遍的文明の到来は日本人のこころの内部で批判的な歴史意識を目覚めさせた。日本人は初めて歴史に関する問いを問うに至った。それに対する答えは複雑で多義的である。(中略)われわれのだれも人類の歴史の全容とその価値を明確にいられるだけの視力をもちえない。人類の歴史は常に我々に明確に見るよう挑戦する。わたしは人類のいかなる文化と文明にとっても、このことは真実であると肯定したい。(同書 p.269)
 ここで、小山先生は、歴史が人類に挑戦しているとおっしゃっておられるが、個人的には歴史を介して神が人類に挑戦しておられ、人間の限界をそのことでお示しになろうとしておられるのではないか、と思っている。







【2015.04.18 Saturday 05:14】 author : Voice of Wilderness
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『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (15)


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 本ブログ、最長連載記録を更新中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ 『富士山とシナイ山』に学ぶ を参照されたい。本日からは、第3部 あなたの神、主の名を濫りに唱えてはならない のうち、第12章 「普遍的文明の到来」からご紹介いたしたい。 今日からいよいよ安土桃山期のキリスト教と日本の出会いである。

日本とキリスト教の出会い

 本覚思想や法然や親鸞、さらに禅宗などの基本的な思想世界の充実と高度化の中で、日本の仏教界における宗教改革、大変革期を経たものの、その後の仏教界の低迷があり、また、社会変革の結果、戦国時代に入って行き、市民社会が内戦と混乱、の中に置かれて行く。

この民族が法然と親鸞の高度な霊的水準で暮らしていたわけではないことは言うまでもない。その頃になるとこれらの宗教的巨匠の始めた運動も開始当初の鮮烈な霊感を失っていた。16世紀は大名たちが争い合う戦国時代、飢餓と疫病の頻発する時代でもあった。人民の生命は一顧の価値もないものとして扱われていた。彼らは苦しみの極み、絶望的なこの世から救い出してくれるメッセージを待望していた。「神のより大きな栄光のために」(ad majorem Dei gloriam)というイエズス会のモットーは、同会の創設者イグナティウス・ロヨラ(1491-1555)の次のような福音書の2節への献身に由来する。

 全世界に行き、造られしすべてのものに福音を宣べ伝えよ。(マルコ福音書16:15)
 たとえ全世界を手に入れたとしても、自分のいのちを失えば何の得があるのか。(マタイ福音書16:28)

ザビエルは日本の霊的世界にキリスト教的ヒューマニズムのこの偉大な遺産をもたらしたのである。一人の人間の価値がこの世のもの全てのものに優るという仏教のメッセージに劣らぬ衝撃だった。今や、イエズス会の宣教活動は、いのちのはかなさという概念と人間のいのちの無限の価値という概念との対照という未曽有の差異をもたらしたのであった。(富士山とシナイ山 p.253)
 戦国時代は、戦役・病疫の時代であり、その中において、人のいのちと生の価値が極めて軽々しく扱われる時代でもあったことは、想像に難くない。その中で、人は神に造られたものであり、その価値が尊いとする、という日本社会において、また東洋思想の中では生み出しえなかったその思想との邂逅は、あるいはその提示は極めて衝撃的であったと思われる。

 ただ、当初ザビエルが日本において伝道した時に神 Deusを大日、大日として神を紹介したために、非常に誤解を生んだことは想像に難くない。元々、仏教はインド(天竺)から来たのであり、そのインド(天竺)のゴアからきて、天竺から来たというザビエルは、新しい仏教典をもってきた人物としてみなされたとともに、当時の日本語では大日は人体のある部位(詳細を知りたい人は、下記に紹介した『聖書の日本語』をお読みいただきたい)を指示していたからである(この間のNHKの歴史ヒストリアでは一切触れられていなかった)。


上智大学ではお誕生日がお休みになるザビエル君

仏教的善とキリスト教的善

 禅宗とキリスト教の共通点との差異について、そして、それが根本的にどこにあるかに関して小山先生は次のように述べておられる。

 禅仏教は人間的実存の価値を強調したかに見えた。全き無は全き肯定であるという禅固有の逆説は、マタイ福音書16章25節「誰でも自分のいのちを救おうとするものはかえってそれを失う」に近づいている。しかし禅宗はさらに一歩進んでザビエルが日本にもたらした26節の「たとえ全世界を手に入れたとしても、自分のいのちを失えば何の得があるのか」に言及することはなかった。禅宗にとってこのことは望ましくない自己自身への愛着で、究極的解脱の実現を妨げることになるからであろう。なぜなら究極的解脱は自己自身の全面的根絶だから。(中略)仏教にとってはニルヴァーナ達成の究極的妨げとなるからであろう。
 本覚思想は、際立った東洋的な宗教的弁証法の思想である。ここでは対立は一応強調されるが、その対立は絶対的一神論を形成する統一性に達するのである。かくして生の領域と穢れの領域は明確に区別されるが、かの弁証法はさらに一歩進めて聖即穢れと言い切るのである。イエズス会の宣教活動を通して日本に導入された宗教的方向付けは、日本民族にもう一つの弁証法を与えた。神的なものと人間的なものとの直接的な一元論的統一形式を拒否する弁証法である。(同書 p.254) 
 仏教の中でも禅宗的な思想は、無を肯定することで、一見イエス・キリストの主張でもある次の言葉との類似性があるように見える。
マタイ福音書 【口語訳聖書】
16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
 しかしながら、そこに大きな違いがあることを、「神的なものと人間的なものとの直接的な一元論的統一形式を拒否する弁証法」という形で示しておられる。仏教思想は、どこまでいっても人間、あるいは個人という主体が無であることに気付き、その無である輪廻という無限ループから脱出し、一種の一元論的な統一である輪廻からニルヴァーナ、涅槃の世界に移行するという概念の中での理解であると個人的には考えている。

 しかし、聖書の理解は、聖書と人間の間に大いなる断絶をおく。それが、新約聖書に言うἁμαρτία( hamartia )、キリスト教における罪である。罪や穢れとは人間の悪や悪行そのものではなく、神の不在、神との断絶そのものであり、穢れや悪行と罪とは根本的に違うというのが聖書の主張であると個人的には思う。しかし、この概念は日本語の中にはないため、この理解までに達している日本人キリスト者がどの程度いるか、と言われるとかなり心もとない、と告白したい。

 神は穢れを抱く、神と人とは本来別のものであり、人間は神が抱くべきでないもの、即ち ἁμαρτία( hamartia ) である存在の人を神が抱く(とはいえ、一つとなり区別がなくなるということではなく)、ということが究極の救済である、というのが聖書的な主張ではないかと思っており、かなり仏教的な包摂の概念とは違うものだと思っている。

仏教とキリスト教の差異

 仏教とキリスト教の世界理解というか思想的な大きな違いを小山先生は指摘しておられる。これは重要であると思う。

 ザビエルは自然(嵐)と歴史(海賊)の力を支配する創造者なる神の威力という聖書の偉大なテーマを引き合いに出して説得する。大事なのはすべてのものを支配している神への信仰である、と。この信仰をもって我々も、日本仏教の本覚思想の弁証法に代表される思想世界とは根本的に異質な思想世界へと入って行く。(同書 p.255 太字は小山氏による)


 ここで重要なのは、キリスト教では、アプリオリに「すべてのものを支配している神」が想定され、その支配の中で生きる人間が、その「神への信仰」を表明することを通して、神との関係性の中に入って行き、関係の中に意味を見出すということであるのだろうと思う。現代の日本の仏教的思想がどうなっているのかはよく分からないが、古代仏教の仏典の世界を見る限りは、この関係性を離脱することに意味を見出しているようである。しかし、現代の日本の所謂自称仏教徒とおっしゃる一般の方々の場合、家だとか、家系だとかそういうことに関心があり、その意味で、輪廻からの解脱という意味での涅槃、ニルヴァーナということをどこまで理解しておられるのだろうか、ということを思わざるを得ない。まぁ、それは一般のキリスト者とご自身でおっしゃる方々の中にも、天国に行くことしか考えていない方々や、神の国に関する誤解が広がっていることを考えると、よそ様のことは言えないなぁ、と思う。





評価:
価格: ¥3,672
ショップ: 楽天ブックス
コメント:資料としても第一級。日本のキリスト者にとって一冊は必要な書籍である。

【2015.04.15 Wednesday 05:55】 author : Voice of Wilderness
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