2018.09.21 Friday

教会の終活について・・・その3

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    評価:
    ロバート・P. エリクセン
    風行社
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    (2000-05-01)
    コメント:非常に印象的でした。

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    価格: ¥ 1,080
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    コメント:ほとんどエロ本という説もないわけではないですが、中世の人々と教会の一端がかなりデフォルメされつつも描かれている西洋古典のひとつ

     


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    本日は前々回、前回に引き継いて、教会の終活について触れてみたいと思います。前々回は、個人としての終活が盛んになってきたこと、キリスト教の側でも、エンディングノートをはじめとした終活が必要性が増えてきたし、そのような書籍が市販されるようになり、地方部では、洗礼及び結婚式経験皆無、葬儀経験多数という牧師さんが急増していること、そして、教会人口の自然減に直面しているために、そして、誰もいなくなったという状態が待っているという教会がまじかに迫っていること、そして、かつて人口急増地であり、豊かな財政を誇った大都市周辺のベッドタウンでの高齢化とそれに伴う収入減が起きていることを、日経新聞などの記事を紹介しながら、お話してきました。

     

    前回は、教会はどこまで同じ教会と認識されるか問題と、教会の存続意義の変遷と社会と教会、そして、メディアの変遷と教会のあり方の違いについて、お話していきました。

     

    今回は、もう少し突っ込んで、近年の教会の閉鎖を含む教会の閉鎖(終活)と世界の弘道の教会(Holy catholic church)の現状、及び将来像について、お話していきたいと思います。

     

    現代の西側諸国のキリスト教会

    西側諸国の教会は、いま、信徒数の激減に悩み、教会の建物を売る教会が多数発生しているようです。おそらく、これまでじわじわとではあっても現在の西側諸国にあたる地域では、農業生産技術の変化と作物の品種改良を背景とした人口成長期にあり、国家や地域と一体化してきた教会でしたので、イスラム勢力の進行や蛮族の流入による戦役や、気候変動、沙羅にはペストやチフスといった疫病の大流行がない限り、教会が空っぽになることはなかったのですが、ここ200年を考えてみますと、名誉革命やフランス革命などの時期を経過する中で、絶対王政以降の歴史的変遷の中で、国民国家の登場を経て、地域との紐帯を絶たれ、地域の社会的交流の場という意味でのセンターとしての役割を果たさなくなり、あるいは、果たせなくなりました。

     

    さらに、18世紀以降の世俗化の波、啓蒙思想の興隆とそれに伴う合理主義、科学主義、進歩主義の波に対して、対抗的な物言いをしてきたことに加え、この100年を考えてみますと、第1次世界大戦、第2次世界大戦でも、教会本来の目的の一つでもあるはずの、地に平和をもたらす働きを十分に果しえず、平和への貢献もできなかったことに加え、特にナチスドイツのもたらしたホロコーストに対してほとんど無抵抗でそれを受容する、といった形を取るどころか、それを推進する側に回ってしまった教会もあったこと(以下で紹介する『第三帝国と宗教―ヒトラーを支持した神学者たち』を参考されるとよろしいか、と思います)で、本来、信頼があった組織である教会の信頼は地に落ち、従来は、修道院などで隠される形で様々に処理されてきた不祥事が、マスコミなんかの介入で明らかになっていく中で、教会の信頼は、もはや泥にまみれている状態にあるのが、西欧及び米国のキリスト教会だと思います。

     

    まぁ、こういう不祥事は昔からあったことは、想像に難くなく、イタリアルネサンスの一応古典文学作品でもありますデカメロンを、読みいただくと、相当ひどかった部分もあった、という一端をご理解頂けようか、と思います。

     

     

     

    英国で売りに出された教会

     

    アメリカで売りに出された教会

     

    オーストラリアで売りに出された教会

     

    ドイツで売りに出された修道院

     

    ろくでもないことが多い西側の教会

    こうやって、まぁ、いろいろ以下で紹介する動画を並べてみると、どうも、あんまりキリスト教会は、何か人さまに、どうのこうのとものを言える立場ではない、というように思ってしまいたくもなります。ものすごい古いものも、古いのも、新しいのも、全く人間とは、そして、全くキリスト教徒は、どうにもこうにもならないものでしかないのだなぁ、実に、神の憐みよって生きるしかない存在なのだなぁ、と思いたくもなってしまいます。

     

    こういう社会的な顰蹙を買ったり、歴史的に顰蹙を買うような教会や教会関係者の動きがありながらも、かろうじて命脈を保っているのが所謂西側諸国の教会ではないか、と思います(そもそも、東西冷戦が終わっても、西側諸国という理解はどうか、という議論はもちろんありますが)。

     

    カトリック教会の聖職者の小児性愛行為の問題をスクープした新聞社を描いた映画『スポットライト 世紀のスクープ』の予告編

     

    最近話題になったペンシルヴァニアのカトリックの司祭達による小児性愛行為の問題に関するCNNのニュースクリップ

     

    同性愛を公に批判したテレヴァンジェリストだったTed Haggardさんご自身が同性愛行為にかかわっていることを認めたインタビュー

     

    メガチャーチのWillow Creek Community Churchの基礎を築いた牧師が不適切行為により退職を余儀なくされた事案

     

    インドでのケララ正教会での問題

     

    日本での法制度としての教会の閉じ方

    ところで、自然減にせよ、地域の少子高齢化にともなっての減少、あるいは、不祥事に伴っての信徒流出であっても、あるいは、牧師さんや司祭の問題行動に伴っての信徒減少であるにせよ、信徒がいなくなった教会は、閉鎖して、その土地を売却し、借金があれば借金の閉鎖に充て、借金がなければ、その土地建物を売った金額を、関係する団体に寄付して自らを閉鎖し、残った信者さんをほかのキリスト教会に託すか(実際に1940年ごろからの日中戦争中や、近年の北海道で、このような事例があるようです)、あるいは、建物としての教会を捨て、武田信玄公の言うように、「人は城」ではありませんが、「人は教会」とうそぶいて、家の教会のような運営をして、潜伏キリシタンと類型上は同じようなスタイルで礼拝を続けるしかなくなるようです。牧師給が維持できなくなれば、まさに潜伏キリシタンがやったように、信徒相互牧会をするしかないわけですから、ぼちぼち、今の段階で、そのための手法を今の段階から確立するしかないわけです。

     

    教会の閉鎖は、包括法人組織がある法人の場合、その包括法人に丸投げするという最後の手段があるので、まだ、やり易いですが、単立教会組織の場合、その組織の解散は、役員会と代表役員のところにぐぐっとかかってくるので、とくに牧師が不都合おこしてどろんと消えてしまった場合、残された信徒さんたちは、指導者はいなくなるは、方針どうするか、きめにくいは、借金なんかがあった日には、外部の借金先からの返済は迫られるはで、ろくでもない目に遭うことになります。教会は信仰を持つもののための組織でもありますが、社会的存在という意味でも、組織であるからです。

     

    北半球の西側先進国からキリスト教は南半球の発展途上国へ

    西側諸国のキリスト教会は今、陸続と閉鎖されてはいますが、Holy cathoric churchは、どっこ実は拡張が続いています。世界中を見れば、増えているわけです。では、どこでキリスト教会が圧倒的に人を増やしているかと言えば、アジアとアフリカ、そして、中南米なわけです。そう思って検索してみると、CBNという700クラブというミーちゃんはーちゃんがあまり好意を持てないテレバンジェリスト系のサイトには、こんな記述がありました。個人的には、テレバンジェリストはどこか嘘くささが漂うような気がしてねぇ、どうにも合わない感じがしているのですが、まぁ、適当に分かりやすくまとまっているので、日本語変換後のものを、ご紹介致しておきます。

     

    世界でどのようにキリスト教が増殖しているか

    サミュエル・ハッチントンの本である『文明の衝突』では、キリスト教徒イスラムの衝突において、人口が大きな要素となることを予測しているが、彼自身の言によれば、長期的には、ムハンマド(マホメッド)が勝利するだろうとしている。しかし、この事例においては、ハッチントンは間違っている。。世界を見てみれば、予測可能な範囲の将来において、ムスリムよりはクリスチャンのほうが増加するのである。

    ペンシルベニア州立大学のフィリップ・ジェンキンスの『次のキリスト教世界・全地球的なキリスト教の到来』という本では、西側諸国以外でのキリスト教の爆発的な成長を無視していることによりハッチンソンのような予測が裏切られるとしている。

    例えば、1900年においては、アフリカでのキリスト教徒の数は、およそ1千万人であったが、2000年までに、3億6千万人になっている。2025年には、かなり控えめな予測でも、6億3千万人になっていると予測されている。ラテンアメリカでは同じ予測によれば、2025年までに6億4千万人であり、アジアでは、4億6千万人であると予測されている。

     

    ジェンキンスによると世界の人口の中でのキリスト教徒の比率は、名目的にであるにせよ、1900年の比率と2050年の比率はほぼ同じになると予測されている。今世紀の中葉までには、世界中で、30億人のクリスチャンとなっているが、それはムスリムの1.5倍であるとされている。実際2050年までには、現在のムスリムとほぼ同数のペンテコステ派のクリスチャンが存在することになっている。

    その段階では、世界のキリスト教の20%がヒスパニックでないコーカシア系の人々になっていて、典型的なクリスチャンは、ナイジェリアの村やブラジルの貧しい人々が住んでいる地区に住んでいる女性ということになっているだろう。

     

    これらの変化というのは、人口学的なものを超えたもので、ジェンキンズは、これらの人々を南国のクリスチャンと呼んでいるが、これらの人々はアフリカ、ラテンアメリカ、アジアの一部に住んでいて、神学的にも、倫理的にも、西側のキリスト者よりもより、相当保守的な人々であると指摘している。

    したがって、キリスト教がより南半球的なものになるにつれ、キリスト教自体も、聖書的に保守性の強いものになっていく。一方ジョン・シェルビー・スポン主教やテンプルトン賞受賞者のアーサー・ピーコックはキリスト教はその歴史的な信仰を生存のために放棄せざるを得ないと主張しているが、しかし、南半球のキリスト京都を引き付けているのは、この歴史的に保存されてきた信仰なのである。

    そして、それが、スポンやピーコックの属するアングリカンコミュニオンにおいて、アフリカの主教が西側を回心させるために宣教師に按手する必要がある理由になっている。

     

    キリスト教の爆発的な成長は、現代におけるまだ十分に知られていないことであり、そして、北米のキリスト教徒が認識すべきことであるのだ。

    そのことは、クリスチャンは、彼らの信仰が重要であり続けるために、妥協すべきである、ということに対する否定ともなっているのである。反対のことが起きているのである。精神的なよりどころとしての聖書的基盤を失ってしまっている教会がある一方で、聖書的な正統性は、改宗者を集めているのである。クリスチャンの人口重心の移動は、西側のキリスト教徒がキリスト教のすべてではなく、自分たち自身について、異なる考え方を支配目るべきであることを示しているように思えるのである。西側のキリスト教も、より大きなコミュニティの一部であり、全地にわたる教会の一部であることを。

    最後に次のことを述べたいと思う。如何に西側で悪かろうとも、神は、この世界全体において働いておられるのであり、福音が主張されるところでは、福音派人々の人生と社会を変えているのである。
    グロー張り税ションの支配するこの世界で、一つ確かなことがある。それは、世界のどこであっても、ほめたたえられるべきであるのはイエスである、ということである。
    今の、パパ様に、いろいろおっしゃる方もおられるようですが、今のパパ様も、南半球の方ですし、先日の英国王室の次男坊の結婚式で説教したカリー司教という方の祖先のご出身も、アフリカであったりするというあたりのこと、そして、北米大陸では、所謂福音派系の教会から、カトリック、正教会、聖公会(Episcopal ChurchなどのAnglican Communion)への転会が相次いでいるらしいことを考えると、なまじ2000年続いてきたキリスト教の伝統をどう考えるのか、キリスト教における神秘(それは異言や、癒しなどの奇跡のことだけではなく、むしろ、聖餐における神秘)をどう考えるのか、ということはもう少しきちんと考えてもいいかもしれないなぁ、と最近は思います。それは、最近ある福音派の牧師さんから、「正教会に帰正(転会)して、髭面にまだならないのですか?」と聞かれることがあるほど、正教会に傾倒しているからかもしれませんが…
    「Pope Francis」の画像検索結果
    今のパパ様、フランシス様 
    https://www.vox.com/identities/2018/3/13/17107702/pope-francis-divisive-papacy-explained-five-years-catholic-church より
    先日の英国王室の次男坊の結婚式でのメッセージ

    How Christianity is Growing Around the World

    In his book The Clash of Civilizations, Samuel Huntington predicts that demographics will decide the clash between Christianity and Islam. And, as he puts it, "in the long run, Muhammad wins out."

    In this instance, Huntington is wrong. For the foreseeable future there will be many more Christians than Muslims in the world.

     

    As Penn State professor Philip Jenkins writes in The Next Christendom: The Coming of Global Christianity, predictions like Huntingtons betray an ignorance of the explosive growth of Christianity outside of the West.

    For instance, in 1900, there were approximately 10 million Christians in Africa. By 2000, there were 360 million. By 2025, conservative estimates see that number rising to 633 million. Those same estimates put the number of Christians in Latin America in 2025 at 640 million and in Asia at 460 million.

    According to Jenkins, the percentage of the worlds population that is, at least by name, Christian will be roughly the same in 2050 as it was in 1900. By the middle of this century, there will be three billion Christians in the world -- one and a half times the number of Muslims. In fact, by 2050 there will be nearly as many Pentecostal Christians in the world as there are Muslims today.

     

    But at that point, only one-fifth of the worlds Christians will be non-Hispanic whites. The typical Christian will be a woman living in a Nigerian village or in a Brazilian shantytown.

     

    And these changes will be more than demographic. Jenkins points out that who he calls "Southern Christians" -- those living in Africa, Latin America, and parts of Asia -- are far more conservative, theologically and morally, than their counterparts in the West.

     

    Thus, as Christianity becomes more Southern, it becomes more biblically orthodox. While people like Bishop John Shelby Spong and Templeton Prize winner Arthur Peacock insist that Christianity must abandon its historic beliefs to survive, it is precisely these historic beliefs that attract our Southern brethren.And thats why in Spong and Peacocks own Anglican Communion African bishops are ordaining missionaries to re-convert the West.

     

    This story of Christianitys explosive growth is one of the great untold stories of our time -- a story that North American Christians need to hear.

    Its a story that repudiates those who say that Christians must compromise their beliefs to remain relevant. The opposite is the case. Biblical orthodoxy is winning converts while churches that have lost their biblical moorings languish.

     

    This shift of Christianitys "center of gravity" is also a reminder to Western Christians that we are not the whole show, and we have to start thinking differently about ourselves. We are part of a much larger community: the worldwide Church.

     

    Finally, its a sign that, no matter how bad things seem at home, God is at work throughout the world. Everywhere its proclaimed, the Gospel is changing lives and societies.

     

    In this scary new world of globalization one thing remains true: Its Jesus who people of every realm and tongue bless.

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

     

     

    2018.09.19 Wednesday

    教会の終活について・・・その2

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      本日は前回に引き継いて、教会の終活について触れてみたいと思います。前回は、個人としての終活が盛んになってきたこと、キリスト教の側でも、エンディングノートをはじめとした終活が必要性が増えてきたし、そのような書籍が市販されるようになり、地方部では、洗礼及び結婚式経験皆無、葬儀経験多数という牧師さんが急増していること、そして、教会人口の自然減に直面しているために、そして、誰もいなくなったという状態が待っているという教会がまじかに迫っていること、そして、かつて人口急増地であり、豊かな財政を誇った大都市周辺のベッドタウンでの高齢化とそれに伴う収入減が起きていることを、日経新聞などの記事を紹介しながら、お話してきました。

       

      今日は、教会自体の終活にまつわる問題を扱うその前に、教会とは何か、という終活の前に扱うべき問題を少しお話してみたいと思います。

       

      歴史的に見る教会の発展と「うちの教会」という意識

      プロテスタント派の教会では、「うちの教会」ということばを考えたときに、個別教会としてのある地域にあり、一つの建物を占有し、ある組織としてのキリスト者の集団が、他者と共有していない建物としての教会と、その建物内部に集まっているキリスト者の集団ということがイメージされると思います。ところが、カトリックでは、「うちの教会」と信徒さんが言う場合、カトリック教会全体を一般に指すことがあり得ますし、正教会では、「うちの教会」といった場合、地域主教座が包括する教会や、場合によっては正教会のグループ全体をさす場合もあるようです。聖公会だと、うちの教会といったときには、地域主教が管轄する教会を指す場合もあるようです。もちろん個別の建物を伴った教会を指す場合も少なくはないでしょうが。

       

      このあたりが、プロテスタント派と、伝統教派を大きく分かつ点の一つのポイントではないか、と思います。つまり、何が言いたいか、というと、「うちの教会」といったときに、普遍たる教会の存在、つまり公同の教会を普通の信徒の方々がどこまで想定できるかどうか、という問題です。

       

      多くのプロテスタントの場合、ドイツやフランス、スイスでは、カトリックからの分離という形をとって国教会というか、地域領邦型都市国家の宗教、(今の国民国家という意味ではない)国教会としての側面をとりました。その意味で、その領邦国家においては、「うちの教会」といった場合において、国家と一体化した教会(これを、ヨーダ―先輩は、コンスタンティヌス帝国的教会として否定的視線を向けますが)でもあるために、ある種、その領邦型都市国家における普遍性はあったのではないか、と思います。

       

      ブリテン島及びその周辺諸島群における教会であるアングリカン・コミュニオンは、ブロード・チャーチとして教会としての一体性を何とかして守ろうとしましたが、アメリカの独立戦争あたりを機に、当時の国教会自体の内部の組織体的課題、また、政権と一体化することにより抱えた問題があり、多数の分離派と呼ばれるグループが生まれました。そして、アメリカ新大陸で、現在の福音派のかなりの部分を占める、国教会の分離派と呼ばれていたバプティスト、メソディスト(ウェスレー先輩くらいまでは、アングリカン・コミュニオンにとどまろうとしたのですが…)、イングランドに反感を抱え続けたスコットランドでのスコットランド改革派系の教会などがアメリカで独自に活動していく中で、アングリカン・コミュニオンからの分離が決定的になり、国教会的なもの(コンスタンティヌス型教会)に対して否定的な目を向けていく中で、それぞれが独自の路線を歩み始めます。その中で、分離していったグループごとに、それぞれの教会群が形成され、自分達以外の教会群との緩い連携も困難になり、教会内言語についても、ある語が指し示す内容について、各グループごとに意味が微妙にずれるという、バベルの塔状態になり、言語が相互に通用しない状態になり始めていったように思います。

       

      市場化、細分化が進んだプロテスタント教会での「うちの教会」

      深井智朗先輩が、以下で紹介する「神学の起源」の中で、教会の市場化がアメリカで起きたということをご指摘になっていますが、まさに、アメリカで、憲法修正第1条の信教の自由、というか、国教会を持たないという、政教分離の大原則の下で、アメリカ合衆国は、教会が細分化されることになりました。その結果として、「うちの教会」というと、「わが教派の教会」が最大レベルのキリスト教会の認識範囲になり、通常の場合、同じ教派でも、考えが違う人々が複数グループが教派内(教会連合内)に併存することや、個別教会ごとに文化が造られていくという歴史的プロセスというか歴史的経緯を経る中で、「うちの教会」といったときに、個別の空間を占有するグループを収容している教会堂という建物と、そこの領域内部で行われている礼拝行為に参加する人々と、そこで行われている歴史的に形成されたスタイルこそ、ある面で教会の在り方のスタンダードと考えるある種の視野狭窄が起きかねない状態が生まれていきます。例えば、賛美における無楽器派や、有楽器派、例えば、楽譜があったとしても、賛美における賛美の節回しやその音の伸ばし方にいたるまで、実は教会で異なることがあり、いわゆる聖会や大会などとも呼ばれるカンファレンスなどで集まっても、その微妙な違い、クセのようなものが出て、苦笑いしたくなるようなシーンに時々出会います。

       

      聖なる公同の教会は残るけど…

      教会の終活というと、「どきっ」とされる方もいらっしゃるかもしれませんが、ここで言っているのは、個別教会、ある建物を占有する集団と、その活動としての教会としての終活です。個人的には、キリスト教は、社会の少数派となっても聖なる公同の教会は残ると思っています。

       

       

      もし、伝統教派のような場合、普遍としての教会、使徒信条にいう聖なる公同の教会(英語だと、Holy cathoric chuch 小文字のカトリック教会)がかなりイメージしやすいのでしょうけれども、プロテスタントの教会の場合、聖なる公同の教会といった場合、最小の場合で、ある建物を占有する集団、つまり、その教会を構成するキリスト者集団だけのことを指すか、まぁ、最大でも、同じ教団教派に属する教会群か、JECA, JCEといった教会連合に属する教会群の集団のことを指す程度、あるいは、福音派の皆さんですと、いのちのことば社の本を読んでいることで確認される教会群までが、キリスト教というか、Holy cathoric churchと認識されていることが多いのではないでしょうか。こうなると、祈祷書による一致ではなく、出版社風の伝道団体の出版物による一致になってしまいます。

       

      あるいは、アンチ・ローマ・カトリック教会による一致とか、実にナンセンスな一致(なぜ、ナンセンスかというと、その神学理解のほとんどは、三位一体や聖餐論屋教会論を含めかなりのローマカトリックの伝統に依拠している部分が多いからですが)になってしまいます。こちらの教派の樹形図をごらんいただくと、プロテスタント派の教会はギリシア正教会よりも、ローマカトリックのほうが近く、実際に、カルヴァン先輩にしても、ルター先輩にしても、アングリカンにしても、ローマ・カトリックからの分離ですから、基本形は、ローマ・カトリックに異議申し立てをしたという意味でのプロテスタント教会なわけです。しかし、カトリック神学の全否定はできていませんから、微妙な部分にカトリック神学の影響を見ることができるように思います。

       

       

      どのあたりまでを仲間の教会と認識するのかと公同の教会

      仮に、公同の教会の認識範囲が小さくても、一応、教会間でのお互いに関して、(異端ちっくなところがあるにせよ)キリスト教だという相互認識はあるわけです。ミーちゃんはーチャンは、プロテスタントのかなり聖書原理主義的な教会にいました大学生のころ、カトリック教会員であられた指導教員のお一人の方から、「ミーちゃんはーチャンは、僕らからしたら、異端だからねぇ。でも、君たちが異端と呼ぶ、ものみの塔とか、モルモンになると、あれはもう、僕らからしたら異教だからねぇ」といわれたことがあり、はっとしたことがありますが、キリスト教に関する相互認識と相互認識可能な範囲に関する距離感がかなり違うんだなぁ、と思ったことがあります。

       

      「各個教会にとって、包括教会をどのあたりと認識するか」ということが、すなわち、どこまでを「うちの教会」と認識できるか、ということが、「各個教会の終活」にとって、きわめて重要になります。

       

      まさか、昨日までローマ・カトリック教会を「悪魔の手先」扱いをしていたプロテスタント派の信者さんが、翌日から、教会がなくなったからといってローマ・カトリック教会に行くわけにも行きませんし、よしんば行ったところで、聖餐に預かるためには、改宗という手続きが待っています。改宗前でも参加はさせてもらうこともできますし、聖餐はいただけないものの、祝福はもちろんしてくださいますが。

       

      その意味で、教会のバラエティが、プロテスタント、カトリック、以上2教会のみで終わりみたいな地方部だと、そもそも「教会の終活」をすることは、現実的に現代における所属教会が通える範囲にないキリスト者を生み出すことと等しく、潜伏しないまでも、潜伏キリシタンに近い存在を生み出すことになりかねないのですが、そのための準備が、どこまで現在の教会とそこに属する教会の構成員にできているか、となると、かなり厳しいものがあるかもしれません。

       

      貧者の世話をしてきた教会、それを取り上げた国民国家

      これまで、地球上の人口は、戦争や疫病で一時的に減少することはあっても、基本的には、人口は時間経過とともに増加する社会であり続けました。そして、教会は、病者の世話をし、孤児の世話をし、寡婦の世話をすることで、貧しい人たちかもしれませんが、近代国家が誕生するまでは、そういう社会的に困った立場にいる人たちの支援を延々と続けてきたのです。この代表格の人物が、下のイコンに示したニコラス先輩で(サンタクロースの原型になったとされる人物)、このあたりのことは、以下で紹介するロドニー・スタークという人の『キリスト教とローマ帝国』をお読みいただけると、おわかりいただけようかと思います。

       

       

       

      聖 ニコラス https://www.orthodoxmonasteryicons.com/products/nicholas-icon-ssc より

       

      「St. Nicholas Icon」の画像検索結果

      聖ニコラス  https://www.orthodoxmonasteryicons.com/products/st-nicholas-the-tsar-icon

       

       

      ところが、フランス革命以降、近代国家、あるいは国民国家が誕生し、これらの役割は国家の役割として、国父思想(国が親代わりのように国民の生活と庇護をするという思想)を持ち、教会が長らく貢献してきたこれらの分野にも、国民国家が顔を出すということに切り替わっていき、ヨーロッパからアジアの国まで、このような態度となりました。そして、ソ連邦と資本主義諸国が対峙した冷戦時代には、どっちの制度(資本主義と社会主義)がより豊かな国民の支援ができるのか競争をはじめ、困ったことは役所または政府が何でも何とかしちゃうことが求められるようになりました。今でも、時々、テレビに出ているおじさんがしたり顔で、「政府はいったい何をしているんでしょうねぇ」というのは、この冷戦時代の遺物です。今は、政府がそこまでの余裕がないため、民間活力とか、ニュー・パブリック・マネジメントとか、新しい公共とか言い出して、政府や地方自治体の責任ではなく、地域の活動主体である地域住民の皆さんにツケを回す時代になりました。

       

      さて、ローマ帝政時代には、明白に貧者保護、弱者保護という明確な働きがあり、さらに、毎日の礼拝(聖餐式を含む)があり、相互の教会を思い祈りあう関係があったものが、プロテスタントの登場で相互に競い合い、合い争い、論争する存在になっていきます。そして、教会の存続理由は、私事としての信仰の場へと転換していくことになります。

       

      教会の存続意義とメディア

      そうなると、教会の存続意義は、私事としての信仰の場の提供のみに限られていくことになり、プロテスタントでは、説教というかたちでの聖書解釈の伝達の場(メディア)になっていったわけです。

       

      そして、その後、誌上の教会ともいわれる内村の無教会派の活動のようなものが、郵便と印刷物の流通システムの整備によっておき始め、サクラメントなしの教会の場合、教会に集まる必要がなくなり、紙メディアを通しての交流で十分ではないか、という極端な動きまで出てきます。さらに、その後の電話の普及、ラジオの普及、などメディアの変化の中で,テレバンジェリストと呼ばれるテレビ伝道師やテレビ番組内教会が登場していきました。そして、いま、インターネット時代になると、聖書解釈だけ伝えるのであれば、インターネットのサイバー空間上の教会で十分であり、これ以上、何が必要かになるわけです。

       

       

      となれば、サクラメントを軽視し、「どうやったら、人は天国にいけるか」ということのみに着目しようとする傾向を持った教会群の場合、それが何らかの方法で、インターネットや印刷物で伝えることができなくはないわけですから、教会の終活は、すでにこの方法の確立とともに始まっていることになります。

       

       

      次回へと続く

       

       

       

       

       

       

       

       

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      コメント:キリスト教と西洋史のかかわりを概観するのに非常に良いと思います。

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      コメント:方法論的には問題も少なくはないが、わかりやすい

      2018.09.17 Monday

      教会の終活について・・・その1

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        本日は世の中的には、敬老の日ですが、とは言いながら、敬老ということは、ご高齢者のことを考えるということでもあり、本日からは、それにふさわしいお話を書いてみようか、と思います。どうも、高齢者の方の間では、終活がブームらしいようです。CMを見ても、お葬式の費用云々とか、自分でプロデュースするお葬式とか、結構個人的には、どうなんでしょう、と思うCMが頻繁に流れている印象があります。

         

        団塊世代の大量逝去を迎える時代に

        ところで、高度経済成長期を、勤労者として、また、消費者として支え、バブルに乗っかって、好景気から不景気に一気に落とされるといったようなえらい目にも会いながらも、それなりに豊かな生活を享受してきた団塊世代の皆さんが、大量に、退職した現在から数十年後には、これまた大量にこの地上の生活からもご引退なされる時期が近づいていて、ビジネスチャンスと思った保険屋さんと葬儀会社が、タッグを組んでやってきている感じがする今日このごろ、といった印象があります。

         

         

        最近地上波でよく見るようになった葬儀のCM

         

        そして、あちこちで、葬儀用の写真を撮影したり、実際に棺桶の中に入ってみたりと、終活と呼ばれる葬儀や自分自身の死去に向けて準備することに取り組む方が増えているようです。

         

        終活をご紹介するニュース番組

         

        キリスト教業界と終活
        キリスト教業界でもエンディングノートとかが出版され(別に制作にあたった牧師さんに対する特定の意図はありません。お知り合いなんで)教会員の終活には、熱心に取り組まれてきている傾向が見られるように思います。これは、過去40年間、人数的にも教会員の主軸でもあり、教会内でも大きな役割を果たしてこられた団塊世代の信徒さんがご逝去が大挙して待っていることへの対応かもしれません。まぁ、実際には、embalmingと呼ばれる遺体保存処置が日本では取られないので葬儀までに取られる時間が超短時間の2日から3日となって、その期間の中で、すべてのことをこなすため、故人が死亡されてから葬儀までの時間は、実質24時間前後となる。この短い時間に、遺族にお慰めの言葉を述べながら、葬儀の準備の打ち合わせを行い、故人のことを記憶に照らしながら、そして記録を振り返ったりしながら、葬儀の説教を2回まとめなければならなかったり、葬儀の際の賛美歌の選定をしなければならないのでけっこう大変な作業が待っているので、こういうエンディングノートがあると、実際には非常に助かるということはあるように思います。

         

        「エンディングノート いのちのことば社」の画像検索結果

        エンディングノートの実例

         

        アメリカでの伝統的な遺体処理の画像 https://www.providr.com/what-happens-when-your-body-is-embalmed/ より

         

        葬儀の経験値だけが積み上がっていく地方の牧師の皆さん

        ところで、地方部での協会の高齢化は激しく、バプテスマの経験回数や結婚式の経験回数よりは、葬儀の経験回数が多く、葬儀に関する経験値だけがやたらと高い牧師さんが地方部に多く、そして、平均すると、年数回の葬儀を経験している地方の教会が一定数あることは事実なのです。

         

        このことは、一方では、これらの地方部での教会においては、教会員の自然減少をじわじわと経験するということを意味しています。人一人がお亡くなりになること自体は、厳粛なことで、大事にしないといけないことではありますが、しかし、転居や、学校への入学などに伴う社会増が少なく、子供の増加などによる自然増がすくない教会では、着実にではありますが、教会の人数が減っていくことになります。信徒がいなくなった建物としての教会は、果たして教会と言えるのでしょうか。そして、誰もいなくなった、とアガサ・クリスティの推理小説のタイトルのようなことを言っている場合ではありません。

         

         

         

        「そして誰もいなくなった」の画像検索結果

        アガサ・クリスティの推理小説

         

        ドラマ 「そして誰もいなくなった」の予告動画

         

        上のドラマの予告編でいっているように「一人じゃ全部はムリでしょ」という時代が、教会に迫っているように思うのです。式文に基づく教会であれば、司祭お一人だけでも教会と礼拝は成立はしますが、誰もいない教会の中で、30分以上説教を続けるということに耐えられる牧師の方はどの程度おられるでしょうか。信徒は終活で、自分の人生のけじめを葬儀という形で付けられるとしても、これから信徒の葬儀を多数行なわれることになること、すなわち教会のメンバーの自然減に直面することになる教会の終活は、どう考えられているのでしょうか。甚だ心もとないのではないか、と思っているのは私だけかもしれません。

         

        もうすでにベッドタウンでも、所得減が始まっている…

        それは、地方部のことだけかと思っていたら、実は、都市の郊外部、首都圏のベッドタウンでも、実は起こっていることが2018年9月16日付けの日本経済新聞の第一面に記載されており、青梅や、取手、久喜、飯能といった、都心への始発駅となっている地域での所得の減少と、高齢者率の急増地域が、都心の周辺にあった郊外都市で始まっていることが示されておりました。
         

         

        日経新聞2018年9月16日 朝刊(関西版 第13版)の新聞の第一面

         

        次回へと続く

         

         

         

         

         

         

         

        2018.09.15 Saturday

        クリスチャンn世代の若者からのお願い(8) 勝手なお祈りしないで・・・ その4

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          今日は、前回の記事に続いて、勝手なお祈りをしないでほしいの第4回として、祈りの内容についてのお願い部分について、述べてみたいと思います。第1回は、ああしなさい、こうしなさい、という個人に対する実際的な指示になっているという祈りの内容の問題に触れ、第2回は、就職先に関して限られる中で、地元に就職する問題を触れましたが、第3回は、祈りの内容として、進学先の選択に当たっている若者への問題について触れたいと思います。第4回は、若者にとって深刻な、結婚の問題について、述べてみたいと思います。

           

          あるエピソードから

          そもそも、この連載をするきっかけは、工藤信夫さんが以前お話してくださったエピソードでした。それは結婚を巡るエピソードだったのです。ある熱心なクリスチャンホームに娘さんが二人おられて、どちらか一方の方は早く結婚されたのですが、もうひとりの方は、なかなか結婚ということにならなかったようです。そのような状況の時に、そのご両親様、娘さんの前で食事の度に、「娘に適切な配偶者が与えられますように」とお祈りされたようです。

           

          娘さんは、とうとう耐えかねて、ご両親に「もう、私の結婚について、食事の度に祈らないでほしい」とお願いされたそうです。

           

          結婚について毎度祈られる娘さんの立場を思いながら

          ご両親は、娘さんの幸せを心から願いながら、一日三回、食事の度に祈られたのでしょうが、食事の度に、このように祈られた娘さんには、このご両親の祈りは、「早く嫁に行け、行き遅れるな、早く相手を見つけてこい、一体何をしているのだ…」と言われていて、針の筵の上に座らされているような状態であったのではないか、と思います。

           

          祈っているご本人たちは、善かれ、と思って、そして、真剣に娘さんの幸せを思っておられるからこそ、毎度毎度食事の度に祈っておられるのでしょうが、祈られている娘さんにしてみれば、かなり耐え難かったのではないか、と思います。

           

          案外難しい地方部のキリスト者の若者の結婚

          これまでもこの記事でお話した通り、地方部では、キリスト者、非キリスト者問わず、そもそも結婚適齢期の若者が限られます。おられないわけではありませんが、かなり数が限られているわけです。そこで、地図化してしまいました。2017年10月で、結婚適齢期と考えられる20−35歳の若年層の人々がどこにいるのかという人数を地図化したのがこちらの図です。

           

          20−35歳までの人口数の地図表記

           

          この地図を見ると、一般に言われている適齢期の人の数が東京都272万人でダントツで多く、大阪府、愛知県、千葉県、神奈川県には、結婚適齢期と言われている方の人数はある程度あるものの、それ以外の都道府県では、かなり少なく、少ない順番から言えば、鳥取県、島根県、高知県、徳島県が人数的に少なく、これら4県では、20−35歳人口は10万人を切っているという結果になっています。日本のクリスチャン人口比率が1%以下だとして、それらの都道府県でも等しいとすると、結婚適齢期の人々は、それらの県では、1000人以下となります。実体として、このあたりの地方部では、クリスチャン人口比率は1%以下でしょうし、そのうち、教会に定期的に来ている教会のアクティブメンバーがクリスチャン人口の半分以下であるとすると、500人以下、ということになります。もちろん、この500人のうち、かなり結婚している人が含まれているでしょうから、その県の中での結婚候補者の数は、おそらく200人以下という感じになるでしょう。これは20−35歳の結婚適齢期の人口総数は、男女ともに含む数値ですから、異性となると100人から150人、特に地方部での男性の信徒数の少なさを考えると、全県合わせて、全キリスト者を合わせての数字ですから、自派のキリスト者とか狭めていくと、もう、両手の指を全部合わせた程度ということになるでしょう。

           

           

          増える結婚適齢期の外国人比率

          さて、結婚適齢期人数とは言いながら、それがすべて日本人かというと、そうではなくて、大分県と東京都における20歳から24歳の日本人人口に対する外国人の比率や全体の20−24歳人口に対する外国人比率でも、実は9%以上の値を示しています。群馬県は3番目に20−24歳の外国人比率が高く8%以上の値となっており、実は、人口の国際化は、かなりすすんでいます。

           

          20−24歳人口で見た外国人比率

           

          結婚適齢期の20−35歳人口で見た外国人比率を地図にするとこんな感じになります。20−35歳人口の外国人比率が大きい東京都では7.4%、群馬県で6.8%、5%台の県は愛知県、三重県、静岡県、富山県となっています。通常、大都市圏の大阪府、神奈川県、京都府、あるいは福岡県が大きいのかと思いきや、今は、そうではない、という結果になっています。これらの自治体に共通するのは、自動車産業や工業機械系の産業が多い都県で、結婚適齢期の20−35歳人口での外国人比率が高くなっていることがわかります。従来であれば、戦前の大陸から強制的に移住させられた、あるいは自発的に移住してこられた外国人の子孫が多い大都市圏や福岡県といった地域での結婚適齢期の外国人比率が大きいかと思いきや、そうでない地域での外国人比率が大きいことがわかります。東京都以外での結婚適齢期の外国人比率が高い地域では、いわゆる定住系の2世3世の外国人が多いのではなく、いわゆるニューカマーと呼ばれる外国人や、南米への移民の子孫の皆さんで、移民先での国籍をお持ちの方々が、労働力としてこられていたり、いわゆる外国人技能実習生の皆さんが多いのではないだろうか、と思われます。

           

          20−35歳人口における外国人比率

           

          こうやって改めてみてみると、テレビや政治に関していうと、「すごい国、日本」みたいなことが根拠なく語られており、ある種の『国粋主義的言説』が広がっている背景には、実は、内なる『国際化』がかなり進んでいるからではないか、という感じがします。

           

           

          そういう意味でいうと、先日テニスの大会で優勝された大坂ナオミさんのようなダブルと呼ばれるさまざまな文化背景を持つ存在の方が、実はもっと日本に増えていく、ということを私たちは当然のこととして受け止めていく必要がある、ということなのだと思います。

           

           

          ファイル:Naomi Osaka (15307217997).jpg

          大坂ナオミさん

           

          レッドデータブック入りしかねない日本人キリスト者カップル

          こういう状況を考えると、日本人の配偶者候補を探すのではなく、外国人のキリスト教関係者から配偶者を探す方が、配偶者候補を見出せる確率が高い、ということが起きる日は、そう遠くないかもしれません。もう、こうなったら、イスラエルのように、「ユダヤ人の母親から生まれたら、問答無用にユダヤ人である(父親の血統や国籍、宗教は問わない)」という立場を見習って、古の大和の国の風習である母系制社会の体系を復権させて、「日本人キリスト者の母親から生まれたら日本人キリスト者である(父親の血統や国籍や宗教は問わない)」というような理解を生み出さないと、人数の問題から言っても、日本人キリスト者は消滅するとは言わないまでも、環境省のレッドデータブックに載るような、『絶滅のおそれのある社会的存在(絶滅危惧種)』になってしまうかもしれません。

           

          関連画像

          レッドデータブック

           

          結婚相手を見つけるのが厳しい日本のキリスト教界の中で

          という厳しい現状が、今の日本にあり、そして、日本のキリスト教の結婚適齢期の皆さんの人口が極めて少数であることを考えますと、いちばん冒頭に紹介したエピソードのように、一日に何度も、気になるから、と祈ったところで、棚から牡丹餅のように配偶者の候補者が降ってきたり、溜水に湧くボウフラのように、配偶者の候補者が湧いて来るわけではないわけです。子供が針の筵であるように感じるほど熱心に両親が祈ったところで、結婚相手を見つけるのは、外国人を含めたところで、案外難しいのではないか、と思います。

           

          もちろん、祈り求めることに意味がないとは言いません。祈れば、神が叶えてくださる、という信仰を揶揄するつもりは毛頭ありませんが、しかし、現実がかなり厳しいということも踏まえたほうが良いと思いますし、その意味で、どういう意味でかは別として、『適切』な結婚相手が与えられるように祈るばかりでなく、母系社会で見られたような世話焼きおばさんの再興や、アニメサザエさんに描かれた母系社会の再興を目指す方が、絶滅危惧種になりかけている日本人キリスト教徒の存続と、日本の教会文化の維持、保存ないし保全(もはや現状の変容はありえても、高度経済成長のような急速な人数的発展は望めないように思うので、発展を除いた、この3つにとどめておきます)にとって、祈るよりよほど重要なことではないか、と思いたくなってしまいます。

           

          婿養子に見える状態のマスオさんが描かれるサザエさん http://legend-anime.com/archives/3650 より

           

          もちろん、両親にとっても、結婚を求めるお若い信徒さんにとっても、『適切な配偶者が与えられるように』祈ることは重要であるとは思いますが、それだけでは不十分のようにも思います。特に男女比率のアンバランスが著しい日本のキリスト教界隈の結婚適齢期の人々とその周辺の方々にとっては。

           

          水谷潔さんの過去のブログ記事の

           

          35歳以上の未婚女性、結婚確率2%? 

           

          あるいは、

           

          婚活、婚勝!婚喝?(3)「昭和婚幻想・強制終了」の時代を考える

           

          あるいは

           

          婚活、婚勝!婚喝?(2)「導き婚に必要な三つの”A”」 」

           

          さらには

           

          婚活、婚勝!婚喝?(3)「昭和婚幻想・強制終了」の時代を考える 」

           

          をご参考いただきたいのですが、祈るだけではなく、社会変化がどうなっているのかを考えて、結婚を希望する人の側でも、結婚を祈る両親の側でも、考え方を変えるなどの新たなマインドセットが必要なのかもしれないなぁ、と思っています。ただ、冒頭のエピソードの方の情報は、要約したような断片的な情報しか入ってきていないので、どうすればよかった、とか、こうすればよかったのでは、というようなことを述べるのは避けるべきだと思いますし、具体的なことは申し上げにくいのですが、やはり、人々の間にイエスを見出していくように、出会う人々の間にイエスを見出していくように、神の神秘を見ようとすることが、祈ることに加えて大事なような気がします。以下に引用するパウロのような神学理解に立ち、現実社会の認識にたっているのでない限り。

           

          【口語訳聖書】コリント人への手紙 第1
           7:37 しかし、彼が心の内で堅く決心していて、無理をしないで自分の思いを制することができ、その上で、相手のおとめをそのままにしておこうと、心の中で決めたなら、そうしてもよい。
           7:38 だから、相手のおとめと結婚することはさしつかえないが、結婚しない方がもっとよい。

           

          とはいえ、パウロはこの記事の前に

           

          【口語訳聖書】コリント人への手紙 第1
           7:36 もしある人が、相手のおとめに対して、情熱をいだくようになった場合、それは適当でないと思いつつも、やむを得なければ、望みどおりにしてもよい。それは罪を犯すことではない。ふたりは結婚するがよい。

           

          とは書いているけれども。

           

          一旦このシリーズは、ここで中断し、後日再開いたします。

           

           

           

           

           

           

          2018.09.13 Thursday

          クリスチャンn世代の若者からのお願い(7) 勝手なお祈りしないで・・・ その3

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            今日は、前回の記事に続いて、勝手なお祈りをしないでほしいの第3回として、祈りの内容についてのお願い部分について、述べてみたいと思います。前前回は、ああしなさい、こうしなさい、という個人に対する実際的な指示になっているという祈りの内容の問題に触れ、前回は、就職先に関して限られる中で、地元に就職する問題を触れましたが、今回は、祈りの内容として、進学先の選択に当たっている若者への問題について触れたいと思います。

             

            さて、前回、就職先として、人々が集まっているのは、大都市圏、特に太平洋ベルトコンベア地域の大都市を抱える都道府県だけであることをお示ししましたが、では、進学だけの部分を見てみるとどうでしょう。基本的に首都圏に集まる傾向は、前回の記事で書いたとおりであり、労働力ないし大学などへの進学での人口吸収力が圧倒的な地域は、首都圏のみであるようです。

             

            地元進学の状況

            では、地元の進学率はどうか見てみますと、同じくResasを使ってみますと、こんな結果になりました。

             

            地元の大学への進学率

             

            地元への大学の進学者数が多いのは、北海道、埼玉県、東京都、神奈川県、愛知県、京都府、大阪府、兵庫県、福岡県、次いで高いグループには、千葉県、宮城県、広島県、新潟県、となっている。この結果を見ても、進学先が地元志向でありえるのは、これらの比較的大学が多い、あるいは大規模大学が多い自治体だけに限られます。その意味で、日本には、各都道府県に国公立大学があり、私立大学も含めれば、数があるとはいえ、教会内の若者が自治域内に留まり、さらにその結果としてもともと育った教会に残存してくれる可能性が高いのは、これらの数少ない都道府県に限られるということのようです。つまり、教会の若者の多くは、進学を機会として都市圏に、それまでその教会で育ててきた若者を奪われてしまうと受け取りたくなってしまう構造があるわけです。

             

            若者の成長過程を考えてみれば、まず小学校の間は、教会学校に来てくれるにせよ、中学になると、まずクラブ活動との間で若者の時間をめぐる争いが起き、たいていの場合、学校のクラブ活動にとられ、教会学校の中高生クラスは用意すれど、参加者がほぼゼロの教会が大半ですし、そのうち、その用意していたクラスすらなくなっている教会は多いのではないでしょうか。高校生になると、クラブに大学進学向けの塾や受験準備の時間とがはいり、高校生の時間をめぐる学校、塾、予備校、クラブとの時間の取り合いが発生しますし、たいていの場合ここでも、教会から若者がいなくなってしまうの場合が多いのではないでしょうか。

             

            さて、大学になりますと、地方の教会の場合、若者の進学先がありませんから、基本、都市部の、特に首都圏ないし京阪神地区ある大学に元々数が少ない選りすぐりの若者の信徒さんを奪われることになります。そうなると、もはや、若者が大学後にも教会に残って、参加してくれる可能性はかなり少なくなる場合があるように思います。そうなると、是非とも、地元の大学に合格するように、あるいは、地元の大学にしか合格しないように祈る気持ちになる方々もおられ手も、ある面仕方がないように思います。

             

            若者のために進学先を祈ったら、結果としてこんなことが…

            ところで、大学の場合、定員が限られています。過去、割と大学進学率が高いほうがいいという世論があり、そのような方向もある程度容認してもいいかなぁ、という文部科学省の意向がバブル期前後にあったこともあり、割と定員超過に対してかなりゆるい時期もないわけではなかったですが、近年の少子化の中で、各私立大学が経営の困難さをカバーするために必要以上に定員を超過して学生を集める傾向が見られたため、現在では、定員超過率の目立つ大学にはかなり厳しい行政指導が入るようになっていますし、また、定員不足率の目立つ大学にも、何とか対応するようにと指導が入っているようです。そして、最悪、他の学校法人に身売りする、あるいは、学校法人の解散なども経営陣に示唆するようになっている事例もないわけではないようです。

             

            この定員の厳格化が進められつつある中で、本人の意向と関係なくある若者が特定の大学の特定の学部の特定の学科に合格するように祈ること(あるいは、ほかの学校では不合格になることを祈ること)が、何を意味するかといえば、そのある若者が合格するようにものすごく信仰が篤い方がお祈りした結果、教会の若者が合格した場合、教会に行っていな久手、祈ってもらえない別の若者が、残念ながら不合格になる可能性が出てくるわけです。そして、祈られたほうは、本来その教会の若者が、ぜひとも行きたいと思っていた学校(学科)に不合格になったり、合格したため、不本意な学校であっても、周囲の進めなどから、いやいやながら行く(行かされる)ことになります。それと同時に、この教会の若者が特定の学校の特定の学科に合格するように祈られたために、本来この学校のその特定の学科に合格したくてしたくて仕方がない方が、不合格になる場合も起きるわけです。

             

            もし、そういう現状が起きるとしたら、それこそ理不尽なことになるわけです。もし、仮に、聖書に書いてあるとおり、信仰によって祈り求める対象が、すべて無条件に与えられるのであるとすれば、実に理不尽なこともおきかねない危うさをはらんでいる事にもなりかねないわけです。

             

            朝日新聞の記事より http://www.asahi.com/edu/center-exam/TKY201212300173.html

             

            東大合格の掲示板復活のニュースクリップ

             

            もし、仮にこの聖書の言葉が、病人だけにではなく、すべてのことに対応可能であるとすれば、の話ではありますが。

             

            【口語訳聖書】ヤコブ
            5:15 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。

             

            罪をも許すほどの効果が祈りにあるとするならば、大学入試など合意判定などの結果の変更などはいとも簡単なことになります。(追記による補足 とはいえ、祈れば、希望の大学に問題なく合格するはずである、というつもりもありません。個人的には、祈るよりも、勉強するほうが、将来的なことも考えるとよほど効果的であると思います。賢明な読者の方はコンテキストをよく読み取っていただきたいと思います。)

             

            確かに、100人とか200人の定員のところでは、誤差の範囲で、さほど深刻な問題ではないかもしれませんが、世の中には、少数精鋭教育を目指すために、10人前後の定員の学科もあるわけです。そうなると、その理不尽は、かなり大きな影響を持つのではないでしょうか。そして、ある人のために祈ることは、その人以外の第三者の人生までも変えてしまう結果にいたることを意味しないわけではありません。まぁ、さすがに、ここまで考えて若者のために教会で祈っている人はおられないでしょうが、他者のために祈るということは、こういうことも生みかねない部分があるようにも思います。

             

            第三者の実害以外にも、直接的副作用の大きい祈りの問題

            上にあげた例は、かなり極端な論理構成の例であるとはいえ、しかし、それ以外にも、特定の進路、とりわけ教会に残る方向性を強く感じさせるように若者のために祈ることは、課題が少なくないように思います。

             

            大学人としては、どの大学に行ったところで、さほど違いはない、ということはわかっているのだけれども、受験する方の受験生の皆さんは、そうは思っていなくって、偏差値が1ポイントでも高い大学、名前が通った大学に行けば、何とかなる、あるいはより明るい未来が開けるはず、と思っているから、ほんのわずかな数値化され表現された大学の格差にばかり目が行き、大学が一体何をしているのか、どんな所かを、知らないまま、学習意欲を喪失しきった形で、あるいは、意識高い系ぶりっ子で、高校のような授業をしてくれろという学生(君たち、本当に意識高い人たちは、自分たちで勉強するので、高校のような授業は嫌いなはずなんですよ…と言いたい)が大量にやってくる時代になってしまったようです。

             

            余談はさておき、個人の将来を制約するような祈りの直接的副作用が大きいとはどういうことかを少し考えてみたい、と思います。このような祈りをするということは、このシリーズの「勝手にお祈りしないで…その1」で触れたように、ある人の意志を操作しようとする祈りであるといえると思いますし、それは、カルト的な組織の指導者が、他者の意志と他者の行為を支配し、ある行為可能な枠組みそのものを受け取ってしまい、それを当然のものとし、自ら、その行為可能な枠組みそのものから出られなくしてしまうこととよく似た問題性を含むように思います。

             

            ことばには呪いの要素も

            聖書のことばだけでなく、人のことばには影響力があります。事実でなくても、事実を確認できない人たちは、権威あるものとして語る人々のことばをそのまま、真に受けてしまいます。そして、その人のいう行動枠、というか、行動の限界、あるいは望ましい行動とされることに従っていくようです。そして、他者の評価を気にする人々は、本来、自己の意志から出た行為でなくても、行動そのものをあたかも自分自身が望んだかのようにして実行してしまう部分もあるようです。そのあたりのことは、以下の動画によく表れています。英語版だけですが、参考にはなるでしょう。

             

            説得の化学、と題された言葉が人間にいかに影響するかの動画

             

             

             

            つまり、祈りの言葉で、同じことを聞かされ続けていると、

             

            なんとなくそんな気になる、⇒ なんとなくそうしなければならない気分になる ⇒ 絶対にそうしなければいけない気分になる ⇒ それ以外は神の道ではないような気になる ⇒ それ以外は考えられなくなる 

             

            という経験をすることは割とあるわけです。この種の手法は、いわゆる、セミナー商法と呼ばれる自己成長を謳うセミナーや自己啓発セミナーと呼ばれるある特殊な商法などではよく用いられる手法であり、ある種のマインドコントロール状態に近いと言ってもよいかもしれません。祈りの言葉を聞かせる、あるいは祈りの言葉を浴びせかける、大声で浴びせかけ、他のことを考えらえなくし、その人の考え方(マインドセット)を著しく狭めてしまうということは、このセミナー商法に近いものがあるような気もします。

             

             

            こうやって考えてみますと、祝福と呪いは、表裏一体なのです。その意味で、祈りも、呪いと祝福が表裏一体になったものだといえるように思います。特定の目的をもって、自分自身の希望を祈る、あるいは神に叫ぶということが全く無意味だとか、避けるべきだとかは言いませんが、基本的に社会の中では、割とゼロサム条件(誰かが得すれば、その分誰かが割を食う状態)のことが多いことを考えますと、社会あるいは他者と個人のかかわりがある祈りに関しては、あるい人の祝福(例えば特定の進路への進むチャンス)を一方的に求めることは、すなわち誰かの不幸を求めることにもなるわけです。

             

            【口語訳聖書】 申命記
            11:26 見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。
             11:27 もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。
             11:28 もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、のろいを受けるであろう。

             

            あるいは、大声で祝福することは次のようだとも箴言の筆者は書きます。

             

            【口語訳聖書】箴言
            27:14 朝はやく起きて大声にその隣り人を祝すれば、かえってのろいと見なされよう。

             

            あるいは

             

            【口語訳聖書】ゼカリヤ書
             8:11 しかし今は、わたしのこの民の残れる者に対することは、さきの日のようではないと、万軍の主は言われる。
             8:12 そこには、平和と繁栄との種がまかれるからである。すなわちぶどうの木は実を結び、地は産物を出し、天は露を与える。わたしはこの民の残れる者に、これをことごとく与える。
             8:13 ユダの家およびイスラエルの家よ、あなたがたが、国々の民の中に、のろいとなっていたように、わたしはあなたがたを救って祝福とする。恐れてはならない。あなたがたの手を強くせよ」。
             8:14 万軍の主は、こう仰せられる、「あなたがたの先祖が、わたしを怒らせた時に、災を下そうと思って、これをやめなかったように、――万軍の主は言われる――
             8:15 そのように、わたしはまた今日、エルサレムとユダの家に恵みを与えよう。恐れてはならない。
             8:16 あなたがたのなすべき事はこれである。あなたがたは互に真実を語り、またあなたがたの門で、真実と平和のさばきとを、行わなければならない。
             8:17 あなたがたは、互に人を害することを、心に図ってはならない。偽りの誓いを好んではならない。わたしはこれらの事を憎むからであると、主は言われる」。

             

            では、若者のために祈るのはだめなのか、若者や知り合いのために祈れなくなるではないか、ということを思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、要は祈り方なのかもしれません。皆様、よくご存じの主の祈りでは、次のように書いてあるように思うのですが。

             

            【口語訳聖書】マタイによる福音書
             6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
             6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

             

            若者のために祈りたいと思われたときは、やはり、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」といのり、その若者たちの上に、神の「みこころが行われることを」祈るので、十分なような気がしますし、それを超えて、自分たちの叫びをぶつけることは、下手をすると、神の領分への侵犯(Trespass) すなわち、神への反逆、もう少しいうと、罪となりかねないように思うんですけれどもねぇ。

             

            もう一回続けます。

             

             

             

             

             

            2018.09.11 Tuesday

            クリスチャンn世代の若者からのお願い(6) 勝手なお祈りしないで・・・ その2

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              今日は、前回の記事に続いて、勝手なお祈りをしないでほしいの第2回として、祈りの内容についてのお願い部分について、述べてみたいと思います。前回は、ああしなさい、こうしなさい、という個人に対する実際的な指示になっているという祈りの内容の問題に触れましたが、今回は、個人の祈りとしても、その内容をどう考えるか、の問題について触れたいと思います。

               

              若者への導きの祈りについて

              若者は、進路や結婚相手について、それぞれの夢や希望を持っているのが、現代の特徴でもあります。それこそ、昔は、基本的に家業を継承するのが一般的で、親の決めた許嫁や政略結婚なんかがかなり普通に存在しましたから、就職先や、結婚相手などでの個人の自由などは全く顧みられない時代が日本ではかなり長く続いたと言えましょう。その結果、必ずしもご自身の意志とは一致しない就職先や、配偶者とともにそれなりに幸せな人生を引き受ける人々が多数おられたのもまた、事実です。

               

              なお、進路(就職先)や配偶者は、現行憲法に変わってからは、以前の時代とは違い、職業選択の自由が生まれ、結婚は両性の合意に基づく事になっています。とは言いながら、この両者は未だに日本では、お家騒動の根源になりかねない、曖昧さを持った領域として、時々若者たちを悩ませる問題となっています。

               

              職業選択自由の歌(その名も憲法22条の歌)

               

              親や教会関係者は、子ども時分から、若者たちの成長を見守ってきた、ということなどもあり、このあたりのことにかなり関心があるためと、良かれと思って、割と気軽に会話の糸口として、かなりパーソナルな分野に属することである進路や就職先のことを話題にし、そのことに対して、お話になる傾向が見られないわけではないように思います。それも、ご自身の個人的な経験にのみ基づいてお話になられることが多いような印象がございます。

               

              青年会が壮年会化し、壮年会が老人会化する日本の教会で

              特に、日本社会は急速に少子高齢化が進展しておりますが、それ以上のスピードで少子高齢化が進展している日本のキリスト教界隈に置きましては、高齢者グループへの移動年齢の上昇と、青年部会や壮年部会の加入上限年齢の引き上げが行われ、間もなく来る敬老の日付近の礼拝などでは、老老介護ならぬ、老老敬老が行われるという、実に笑えない敬老の日を迎えられる教会も少なくないのではないか、と思います。もう、完全に逆ピラミッド型構造になっている教会のほうが、多いのではないでしょうか。

               

              現在の若者(といっても35歳以下の世代)に声をおかけになられる高齢者、壮年者(20年前ならば、教会の高齢者会に属していて当たり前の方々)の皆様は、高度経済成長期にお仕事をなさっている関係から、基本的に人手不足社会で、転職先はあまたあり、という状態でその勤務時期の大半をお過ごしであったように思います。また、それらの方々がお勤めでした頃は、定年が50歳とか55歳で、60歳を超えれば、ほとんどお年寄り扱いであった時代でした。

               

              就職氷河期の若者と高齢者予備層の関係性

              ところが、今の若者は、ここ数年の時期を除き、決定的に人手余りの時代、日本が長期ウルトラ低成長経済やとどめを刺すようなリーマン・ショックに苦しんだ時代に就職したみなさんなわけですから、まともな就職先につけない方のほうが大半で、派遣労働や非正規雇用と呼ばれる職種で、昇進もままならず、年収300万円もあれば、それは豊かとされる時代の中で生きざるを得ない方々が案外多いわけです。実は、この様になった構造には、現在の高齢者、壮年者の方々が会社に長らくお勤めになった結果、長期雇用慣行を保持していた日本の企業で、これらの方々が大量におられた関係で、会社としては、労働単価の安い若者を採用したくても、正規雇用として採用することができず、どうしても必要な場合には、派遣労働者やパートと言った非正規型雇用で、雇用するという形態が一般化した関係で、ある年代には、大学卒業者であっても、非正規労働の道を、本人の能力とはあまり関係なく選ばざるを得なかった方々も少なくなかったことも確かです。

               

              そういう就職超氷河期時代の若者からすれば、その方々が直接動向はないにせよ、その世代の方々がどっかと長期雇用の場で、職場におられる関係もあるため、就職先がなくなっている可能性が高く見えるにもかかわらず、「自分たちのときは、ああだった、こうだった」とか言われ、まともな就職先につけ、と言われても、あるのは非正規職ばかりなり、おまけに、日本育英会で奨学金という名の学生ローンを借りていれば、返す目当ても立たず、卒業した段階で数百万円の借金背負っている状態でフラストレーションが溜まるのみならず、「給料は安くても、日曜日は教会があるから休める職場にしなさい」とか、「正社員でないと・・・」とか言われるわけですから、たまらないわけです。力なく笑顔をみせて済ますのが精一杯でしょう。

               

              こんなことを書いていたら、次のようなツィートが流れてきました。これ、って案外リアルな現状の一断面のように思います。

               

              確かに、昔、今の50歳代から70歳代の高度計財政相やバブルを経験された方は、どんな底辺の仕事であっても、正職員で、最低限の給与が保証されていた時代を経験しておられるので、安易にものを考えがちですが、底辺の仕事でなくても、給与は20万円もあれば多いほうで、年金、社会保険、失業保険、所得税、住民税などなどの各種天引きされると、10万円行かないこともあるという事実を認識されておられない方も多いように思います。

               

              ところで、教会には、今若者が、急速に相対的に少なくなっている教会が大半(ペンテコステ派、特に外資系ペンテコステ派を除く)でしょうから、否応なく、なんでも仕事は、教会内にいる若い人に回って来やすい環境がただでさえできているわけで、その一番若いとされる信者さんも今では、30代後半とか、40代、ないしは50歳代とか行った教会は、結構多いかもしれません。

               

              年長の方の視線を厳しく感じる若者たち

              そうなっているとすれば、当然、クリスチャンホームの子どもたちクリスチャンn世代には、ひしひしと、年長の信徒さんからの希望の眼、つまり、教会での様々な役割を果たし、教会での主要な仕事をしてくれるだろうという希望に満ち溢れた視線が矢のように、あるいは雨あられのように、降り注がれる状況になります。そして、教会から若者がいなくなるのを回避するために、進学の場合は、地元の学校に進学するようなプレッシャーがかかり、就職の際にも、地元企業で、転勤の割と少ない職種、あるいは、地面に足を生やして仕事をすることになる公務員や教員といった就職先を考えるように仕向けられていきます。

               

              直接、前回の記事のように公の場で、祈られたりすることはないにせよ、隠れたところで祈られるにせよ、ある特定の仕事につくように、公式、非公式に祈られることになります。本人にそのことは言われないにせよ、祈られているというのは、いい面もあるのですが、その分、仕事に制約が出るような感じが、どうしてもしてしまうように思います。

               

              首都圏という巨大経済的竜巻ないし、人材のブラックホール

              もう少し言うならば、現在はかなり改善したとはいうものの、依然として県庁所在地以下の地方都市やその他の地方部での雇用情勢は厳しく、受けた教育にふさわしい勤務内容と給与の職業があるかというと、かなり厳しいものがあります。基本、昔と同様に大学や雇用機会が大きいことから、若者を吸収する巨大なブラックホールのような首都圏という地域があり、実際には、首都圏に若年人口がよりよい教育機会や、より良い就業機会の存在を移動していることは、明らかです。

               

               

              人口の社会移動状況を示す図 Resasより  

              https://resas.go.jp/population-society/#/map/13/13101/1/1/2017/4.554950321655216/36.870714883905755/145.55377510603486

               

              新規就業者及び進学者のネットの流入・流出地図 Resasより

              https://resas.go.jp/employ-education-localjob-academic/#/map/5.333900736553437/41.42090017812787/142.29371418128918/13/13101/0/0/2016/3/1/10/0/-

               

              この図を見ていただく限り、人口自体、東京一極集中(上の図)していますし、ネットの若年者の新規就職者、進学者(新規就業、新規の進学による流入者ー流出者)を集めている、すなわち、純流入状態にあるのは、東京、京都、大阪、宮城、神奈川、愛知、石川、滋賀、岡山、福岡、の都府県だけになっています。

               

              なお、Resasというサイトについては、誰でもGIS等に関する特段の知識がなくても、簡易に使える総務省さんが旗振りしているサイトであるので、個人的には税金の還付を含めて、利用されるようにおすすめしている。データを取り出せないのが、残念であるが。

               

              日本経済の竜巻の中心としての東京

              あるいは、企業の本社機能やビジネスチャンスが、東京に集中していることからも、たとえ地元採用であっても、東京ないし首都圏勤務となる場合は少なくありません。優秀な人(企業に対してより利益を生んでくれる生産効率の良い人)であればあるほど、本人が希望していない場合でも、企業は地方部でそういう優秀な人材をおいておくはずがありません。よほど特殊な例外的な存在の方を除いては。実際、そこそこ優秀な方で、関西での勤務の長い、何人かの知り合いの方が関東圏の勤務先に転勤や引き抜きで、移動なされ、そのまま家族をおいて単身赴任という方もおられます。

               

              都道府県別の労働生産性(労働者一人あたりの付加価値額)を図にしたもの Resasより

              https://resas.go.jp/municipality-labor/#/map/13/13101/2012/-/-/1/5.108524456778168/38.02192088879871/141.78603091304325/-

               

              都内の市区町村別労働生産性(労働者一人あたりの付加価値額)を図にしたもの Resasより

              https://resas.go.jp/municipality-labor/#/map/13/13101/2012/-/-/2/8.768184324776925/35.668375710000014/139.5558412999998/-

               

               

              首都圏は巨大なビジネスの渦が巻いているために、鳴門の渦ではありませんが、それに引き込まれたらひとたまりもないのです。首都圏というのは、経済的に見れば、巨大な竜巻のような存在だと言えるかもしれません。それも、上の地図を見てもらうと、東京の中でも、千代田区、中央区、港区、品川区、江東区のこの都心南部の5区のみが高く、山梨県の忍野村という例外的な飛び地はありますが、都内の中でも、労働生産性が高いのは、この5区とういことになるわけです。

               

              人は昔から移動してきたけど・・・

              昔から、人は、移動が自由であれば、より豊かで、安心安全な社会がり、経済的にも安定できる可能性が高い生活を求め、移動してきました。ゲルマン民族の大移動にせよ、フン族の大移動にせよ、より良い牧草地を求め、怒涛のように新たな地域に流入していったわけです。そして、現在は、シリアとか、北アフリカとかから、かつてのイスラム勢力がヨーロッパに流入した経路を通り、また、イスラム海賊が海沿いに北上したように、現在のハンガリーやドイツを目指し、海沿いの地域の人々はイタリアやスペインを目指しているわけです。

               

              旧大陸であるヨーロッパから見れば、新大陸であったアメリカ大陸にしても、最初はアイルランドで食いっぱぐれそうな腕っぷしだけが強く、英語に近い言語が喋れる人たち(スコットランド人の英語やアイルランド人の英語はわかりにくい)が流入し、その後、ドイツ系の人々、中央系の人々、ロシア系の人々、そして、今はメキシコ系の人々や中南米系の人々、カリブ海系の人々、そして、中国大陸の人々、アラビア系を始めとする中東系の人々が流入して行ったわけです。

               

               

              「ゲルマン民族の大移動」の画像検索結果

               

              これらの人々の流入を阻止するために、国境管理を厳しくしたくなったり、メキシコ系や中米系の人々が流入してくる人々を阻止するために、万里の長城(The Great Wall)のようなものを作ると、トランプ大統領は、大統領候補当時、公約したのは、この経済的な難民というか、経済的なチャンスを求めて、流入する人々を阻止したい、そして、アメリカ人の雇用を確保できる、という目論見があったようです。とはいえ、これらの、不法移民と呼ばれる人々が働いている職場は、3K1T職場(きつい、きたない、きけん プラス、低賃金)ですから、アメリカ人が本来仕事があると言ってもそこで勤務したくない職場なのです。

               

              ちょうど、今の日本の東京で、夜間のコンビニとか、ファミレスとかのアルバイトや、清掃業務とかが、留学生の労働力によって賄われていたり、農繁期の農作業だの、建設現場での労働が海外からの技術研修制度という国策でやっている低賃金の海外労働力の移入(実質的な経済移民の合法化)なしには、持たない状態になっていますし、さらに言えば、期限付き合法滞在を認めないと、日本経済は回らない状態になっているのと同様に、アメリカでも、これらのメキシコ系移民を含め、カリブ海や中東、フィリピンからの移民なしには済まない状態になっています。また、電話セールスは、流石に減りましたが、夜間のコールセンター業務や、夜間の電話セールスなどは、インドから、インターネット電話回線経由で行われる様になっています。

               

              うまみのある楽な仕事を求める若者たち

              そういう意味でも、昔のように、3K1Tの職場があっても、そこで日本人の若者、ノウハウもスキルもないために単純労働力として期待されている人々が、本人が適正と考える職場か適正と考える賃金が得られないなどの理由から、そのような職場で勤務しないために、結果として、高齢者の勤務先になったり、あるいは、アジアの留学生や、南米へ移民した人々の子孫の方々で現地化された人々や、そのほかの外国人労働者の皆様が流入することになるわけです。その意味で、需要側の問題と供給側の問題を考えないと、問題はうまく処理できない事例が、この労働をめぐる問題には多数見られるように思います。

               

              例えば、以下のCFは、そのような若者が考える職場イメージをよく表していて、自分の持っているセンスと才能(それがどの程度のものかは別として…)を生かせるクリエイティブな仕事(それがまた、他人の努力の上澄みをはねるような虫のいい仕事のような気がしますが…)につきたがる若者を、横澤夏子さんが講演していると思います。こういう困った人が職場に急増していることを、企業の方からはお聞きしています。

               

              会計ソフトのCFに描かれた、現在の若い労働者意識

               

              このような就業意識な日本人に限ったものではありません。現在指導している留学生にも、このような就業意識は伝染しているようであり、留学生の就職指導をする中で、経験することが多いのは、自分の持っているセンスと才能(それがどの程度のものかは別として…)を生かせるクリエイティブな仕事(それがまた、他人の努力の上澄みをはねるような虫のいい仕事のような気がしますが…)につきたがる傾向があり、ある一人の留学生は、きちんとしたメーカー系の仕事を紹介したところ、そんな会社は嫌だと言い出し、どんな才能があるのか聞いたところ、英語ができると言い出したので、TOEICは何点ぐらいなの、と聞いたら、500点前後、日本語の資格はどうなっているの?と聞いたら、N2(大学入学程度の日本語能力)しかないとか、情報処理のスキルはないしねぇ、と普段の指導の中で確認できることをお話して、じゃ、なんだったらあなたは才能があるの?とお尋ねしたところ、「わたしは、人事だったらできます」とのたまわれたので、思わずのけぞりそうになりました。

               

              話を日本の若者たちに戻しますと、日本国憲法で就職先の自由が保障された日本国において、さらに、労働供給側の意識と適正と考える賃金の問題のため、従来であれば日本人の職場であったかもしれない職場に外国人が入っていく現状の中で、若者が、地元で就業できる産業が3K1T職場しかない場合、そこに就職するよう教会で祈られたとしたら、どう教会の若者思うでしょう。東京や、政令指定市クラスでは、さすがに交通手段が高度化されているので、そんなことは少ないですが、政令指定市でない県庁所在地やそうでない地方都市では、地方経済が縮退している関係で、学校教員や、公務員を除けば、残っている産業が3K1T職場というのは、案外少なくない実態ではないか、と思います。

               

              今回は、就業篇について触れましたが、次回は、進学先について、増えていきたいと思います。

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

              2018.09.09 Sunday

              真面目系替え歌 レベッカさんの『When a woman loves a man』の替え歌『When a woman loves Jesus』

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                レベッカさんのフレンズの替え歌で遊んでいたら、三重県の牧師の石田さんから、レベッカつながりで強烈なチャレンジをいただきました。そのチャレンジとは、レベッカのWhen  a woman loves a manでの替え歌は、可能か?というチャレンジをいただいてしまいました。

                 

                 

                 

                チャレンジが来た以上、受けて立たねばなるまい、ということで、できたのが、以下の替え歌です。

                 

                替え歌 When a woman loves Jesus

                雨音響く真冬の夜
                教会の青年会で聖書研究した
                青年会は誰にも言えない
                神秘を抱えて聖霊に染まるの
                When a woman loves Jesus 恋すると
                When a woman loves Jesus 平安と神秘甘いみ言葉
                U∸Hey 内緒のときめき



                うるさいママたちだってきっと
                燃えるような体験あるはず
                学生会で知り合ったパパ
                それ以外は何人伝道したの

                When a woman loves Jesus 恋なら
                When a woman loves Jesus 雅歌の記述のくりかえし

                U∸Hey 不純じゃないわ(み言葉だもの・・・)


                青年会は誰にも言えない
                神秘を抱えて聖霊に染まるの
                When a woman loves Jesus 恋すると
                When a woman loves Jesus 平安と神秘甘いみ言葉
                U∸Hey 内緒のときめき

                 

                ♪♪

                 


                あ〜〜〜、雅歌みたいとか、雅歌は18禁とか言わないでねぇ。一応お堅い新改訳聖書にも乗っているし、ビブリカ・ヘブライカにも載っているし…

                雅歌ってギリギリ外典じゃないですよねぇ。w

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                2018.09.07 Friday

                クリスチャンn世代の若者からのお願い(5) 勝手なお祈りしないで・・・ その1

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                  今回は、シリーズ第2弾、勝手にお祈りしないでシリーズをご紹介したいと思います。

                   

                  カレドニアさんの以前のコメントとコメントへの応答から

                  以前にも、このブログの「いただいたコメントから、キリスト者2世問題をまたまた再考してみた」でも、ご紹介したことがありますが、クリスチャンのn世代(2世以降の、両親ないし、片親がキリスト者の人々)にとってみて、年長信者ないし、教会関係者の聞こえがよしの必殺祈り攻撃は、結構厳しいものがあります。このカレドニアさんのコメントにお答えした記事での「必殺、祈り攻撃」の部分を再度引用の形で、ご紹介してみたいと思います。

                   

                  (カレドニアさんのコメント)

                  > (クリスチャンの友人と「私がどんなにダ
                  > メな人間か」についての公開裁判&祈り会
                  > が開かれる)

                  (カレドニアさんのコメント)

                   

                  を受けて、祈り会での祈りの言葉が裁判の場における検事のような追及のことばになり、祈り会が公開裁判になるという現実は時々あるようです。その時に、ミーちゃんはーちゃんは次のように書きました。

                   

                  これも、超・わ・か・る!という感じです。反発するだけ野暮ですね。それこそ、反発しようものなら、公開裁判ではなく、それこそ魔女裁判の世界でしょう。それどころか、異端審問裁判ではないか、とおもいます。それこそ、聖書のことばで「聖書的に」(といいつつものちに詳述するSalvation Cultureで)裁かれる、といったような異端審問裁判ではないか、と思います。祈り会というよりは、祈りという名の呪いのことばをかけられているような感じになるのではないか、と思います。「祈り」といわれていても、責められ、非難されているとしたら、呪いの言葉に聞こえる場合もあるのではないか、と思います。

                  今から40年ほど前、今では長髪とさえいえないほどの髪の毛の長さにしていた、大学生の信者さんがアメリカ人宣教師の方から、「兄弟、祈りましょう。」と言われて、暗に髪の毛を切るように仕向けられた、ということをお話ししてくださったあと、「あれ、なんだったんだろうねぇ」と30年ほど前にお話ししてくださいましたから。なるほど、「必殺、祈り攻撃」は結構伝統と格式を誇る手段なのかもしれません。

                  しかし、中核派・革マル派・連合赤軍の「総括」(人民裁判(集団で責められる話し合い)にかけられて、自己批判を徹底的に言わされ、人民裁判の裁判官というか、自己批判する以外の参加者が納得するまで(これがまた判断基準が微妙)、自己批判すること=総括)のキリスト教版みたいですね。あさま山荘事件の前後にこの総括ということが実際に起きたようです。「必殺、祈り攻撃」は、この総括と構造的には似てますよねぇ。全く神の名を使った「総括」なのかもしれません。

                   

                  このようなことが時々見られることは、いろいろと多くのキリスト者の方のお話を聞いてみたり、また、牧師先生の修養会に参加させてもらってパラパラ漏れ聞こえてくる内容からは、日本のある教会群でのこういった傾向は、あまり変わっていないように思います。個人的には、この問題は、教会の第n世代の方にとって、小さからぬ問題ではないか、と思います。

                   

                   

                  どのように祈るべきか

                  まず、そもそも論としてのこの祈り問題は、まず、人に聞かせる、というよりは、人を操作するいのりであるところです。祈りについて、イエスがどのように言っているかをまず第1に確認してみたいと思います。

                   

                  【口語訳聖書】マタイによる福音書
                   6:5 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
                   6:6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。
                   6:7 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。
                   6:8 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。
                   6:9 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
                   6:10 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
                   6:11 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
                   6:12 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
                   6:13 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
                   6:14 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。
                   6:15 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。

                   

                  George HenryBoughton作 Woman Kneeling in Prayer

                   

                  https://art.thewalters.org/detail/12881/woman-kneeling-in-prayer-2/ より

                   

                   

                   

                  人に聞かせるために祈る人って…ひょっとして偽善者?

                  このマタイの福音書で見ると、まず、人に見せようとして、人に聞かせようとして祈ることは、偽善者のなすことだ、とイエスご自身は言っているように思います。この部分の聖書翻訳がおかしいとおっしゃるなら、聖書協会さんに文句を言っていただきたいのですが、いくつか、日本語やそのほかの言語の他の翻訳を見ても、上で紹介した口語訳聖書の表現と同じような表現になっているように思います。

                   

                  さて、本来神に向けてのものであるべき、祈りの言葉を用いて人を説得し、人の行為を変えさせるように操作主義的に祈ることは、祈りと言っても、あまり健全とはいえないような祈りのようです。祈りが神とのコミュニケーションだとしたら、「特定の個人に向けた言葉を含め、祈りのことばを意図的に用いる」ということは、いったいどういう意味を持つのか、ということは考えなければなりません。それが本当に神に向けてのものなのかどうか、ということです。

                   

                  もちろん、「神に向けての叫びである」という側面が祈りにはあることは確かです。それは否定しません。確かに、旧約聖書の最初の祈りの表現は、創世記にありますが、その記事を見てみましょう。

                   

                  【口語訳聖書】創世記
                  4:26 セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。

                   

                  アダムの子供のアベルとカインの後に生まれたセツの子供の段階、つまり、アダムの孫の段階で、人々は、神に向けて、神の名を呼んで叫んでいる(祈っている)わけです。その意味で、神への叫びは祈りと言えますが、人への叫び、人をどうにかしてやろうとして神の名を呼ぶのは、十戒と呼ばれる10の教えの中でいわれている

                   

                  【口語訳聖書】出エジプト記
                  20:7 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。

                   

                  ということと等しいことなのではないかなぁ、とは思います。

                   

                   

                  おそらく、冒頭のマタイの福音書で「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている」と書かれているのは、結局、この街道やお踊りの辻に立って人々に聞かせるために祈る人々には、出エジプト記にある「主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう」ということを、神ご自身である主が、報いとしての罰をお与えになっている、ということなのかもしれません。

                   

                  隠れたところにおられる神

                  ここで、祈りについて、先に引用したマタイの福音書の記述によれば、イエスご自身は、「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう」ということをおっしゃっているのが、非常に印象的です。この隠れたところにおられる、というのが、実は重要だと思うのです。この「隠れたところ」という表現は、直接、「私の思いはこうだ」とは人間に対して、明確にかつ具体的にご自身の思いを示されることがかなり少ない、ということともかかわっているように思います。もちろん、旧約聖書には、預言者に直接語る神の姿が記載されていますが、その預言者は、人々から石を投げられ、人々からさげすまれ、偽預言者扱いされ、理解もされず、呪いの言葉をかけられた存在、というのが、ほぼ実情ではないか、と思います。

                   

                  つまり、神の神秘とか、神ご自身のみ思いは、鼻で神に息吹を吹き込まれ、自ら息を始めたものでない、神の力により、鼻で息するものであることを許されているに過ぎない人間が「パッと見てわかるようなものではない」ということも示しているように思えます。たとえ、牧師や司祭、または長い経験を持つ信徒であっても、神のみ思いを図ることは難しいがゆえに、主の祈りにあるように、「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と、人間は祈る必要があるし、そのようにイエスは主の祈りで教えているのではないでしょうか。

                   

                  そのような意味で、人に祈りの言葉を神の名をみだりに唱えることで、意図的に聴かせ、自分の意図に合致するように仕向けようとする祈り、というのはどういうことなのか、ということは、少し考えてみたほうが良いのかもしれないなぁ、と思います。神ならぬ人間に過ぎないものが、神の名を騙る、ということの空恐ろしさを個人的には思います。

                   

                   

                  次回へと続く

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  2018.09.05 Wednesday

                  アーギュメンツ #3 を読んでみた(8)

                  0

                     

                     


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                    今日もまた、アーギュメンツ #3のWang論文から、読んで考えたことを少し書いてみたいと思います。

                     

                    アニメに見るディジタルアートと所有権

                    こないだ、何の気なしに「ちびまる子ちゃん」というアニメを見ていました。すると、原作者のさくらももこさんがなくなったことを追悼しつつも、次のような部分が放送の最後に流れていたのを見た。ある面感動的であると同時に、原作者や作家がなくなっても、淡々と、無制限に物語が生み出されていくのだなぁ、という現実を、ある面で思い知らされた。同じことは、もう、亡くなられてから長い期間がたつので、すっかり忘れ去っているが、『サザエさん』の原作者である長谷川町子さんが亡くなられても、時々は、問題発言というか、台本のわきの甘さから炎上騒ぎを起こしながらも、昭和の家庭の姿を、平成になっても伝え続ける伝統番組として、アニメのサザエさんは続いているのである。

                     

                     

                    このあたりのことについて、アーギュメンツ#3でWangは、次のように語っています。

                     

                    著作権や所有権、作者性〔作家性〕がなおざりにされる漫画や他のファンの世界とは対象的に、アン・リーのプロジェクト、 ー最近ではホイットニー美術館の「ドリームランド」展で大々的に展示されたー は、絶対的所有権を分割し分配するものである。(中略)セガールは彼女たちの読み上げる文章を通して自らの作者性を主張するが、これによって顕になるのは、デジタル文化とサブカルチャー ーある意味ではこうした類のパーソナル・ブランディングに対立するものとして定義される− に直面してもなお所有権を獲得しようとする、時代錯誤的な欲望なのだ。(p.68)

                     

                    現実に、この動画系のエクスプレッシブ・ディジタル・アートの世界で、著作権という所有権を一番うるさく主張するのが、アメリカという国家であり、さらに言うと、ウォルト・ディズニー・プロダクションである。グッズから、映像作品にいたるまで、本来サブカルチャーで、データとして存在して、所有権を露骨に定義しにくいものについても、無理矢理著作権を主張可能なように、様々なものに権利を定義し、映像作品に関する権利関係の束を形成してしまい、いやな言い方ですが、金もうけのツールにしているのが、現在のウォルト・ディズニー・プロダクションの姿でもあると言えるのではないか、と思います。

                     

                    ところで、個人的には、ディジタルアートの業界には関心がなく、完全に疎いので、アン・リー展については、寡聞にして知らなかったのだが、日本でもあったようである。詳しくは、こちらのリンクを参照してほしいと思います。

                     

                    「Whitney Art Museum Ann Lee」の画像検索結果

                    Digital ArtとしてのAnn Leeを描いた展覧会での上映画像

                     

                     

                     

                    http://tdctokyo.org/jpn/?award=ann-lee より

                     

                    そこまで高踏的なアートにまで行かなくても、同人誌と呼ばれたり、コミケで売られているうっすい本とも呼ばれる二次創作本とかマンガは、完全に元々のオリジナル作品の素材を利用しつつ、独自に捜索したものという側面(それが2次創作という意味)なので、実は著作権上、あるいはアイディアのオリジナリティが非常にいやらしいものを持つように思います。そういえば、最近話題の日本映画の低予算ゾンビ映画「カメラを止めるな!」の法的問題も、ある面、これと似たような問題てあり、原案と原作では、著作権法上の扱いが違うので、どこまで権利関係を主張できるのか、といういやらしい問題が付きまとっているようであるように思います。


                     

                    話題となった、低予算日本映画、「カメラを止めるな!」

                     

                    まぁ、日本だと、本歌取りの和歌の伝統もありますし、西洋でもパロディ文化は割とあるので、この辺、牧歌的な時代だとかなりいろいろできたのですが、今は、すべからく厳しくなっているような気がします。実にけち臭く、そして残念な傾向だなぁ、とは思っていますが。

                     

                    ポストインターネット時代の知的所有権とクリエイティブ・コモンズ

                    オープンデータで話題となる改変、二次創作のルールとして、クリエイティブ・コモンズという概念がある程度存在するが、いまだに日本では、十分に普及しているとはいいがたい。詳しくは、クリエイティブ・コモンズ・ジャパンのサイトを参照してほしい。あるいは、以下の動画がわかりやすくてよいと思う。英語であるが、まぁ、わからなくはない日本語に自動変換してくれるので、それでご覧いただければ、と思います。

                     

                     

                     

                    日本語がいい人は、以下の動画を見ると、わかりやすいが、いかんせん長い。

                     

                     

                    このような、クリエイティブ・コモンズという法的スキームが模索されつつも、もう一方でそうでない世界も存在します。例えば、先にご紹介した、ちびまる子ちゃんは、マンガ作家、原作者としてのさくらももこさんはなくなったら、本来新しい作品はできないはずだが、それが今後も作り続けられるという現実があります。あるいは、ジャイアンやスネ夫の声を担当していた声優の方がなくなっても、多少の違和感は覚え続けられながらも、アニメは二次創作として作品が製作され続けられているようです。これは、実に著作権法上は権利関係がかなり怪しい部分を含みながらも、ビジネスとしては行われてようです。

                     

                    特に、海外放送の場合は、その権利関係はどうなるのか、という少し怪しい議論を含みながら、クールジャパンとしてヲタク・カルチャーの源泉となるアニメ作品が作成され、そして、日夜インターネットを介して、世界中に流されており、まず、深夜枠のアニメを中心に、中国語、英語、フランス語、スペイン語などの字幕を付けるという形でのかなり著作権法上怪しい形での二次創作を経ながら世界に広まっているのは、まぎれもない事実ではあるようです。そして、世界中から、若者を日本に引き付けている源泉の一つになっていることは間違いありません。

                     

                    その意味で、ポスト・インターネット時代は、ディジタル・アートの流通という意味で、これまでの法律が想定してない実物主義の限界を超える問題を生み出し、そして、それを突き付けているようにも思います。

                     

                     

                     

                    インターネットが変えた時間軸のずれとISIS団 

                    ISIS団、ダーシュ、イスラム国と呼ばれる集団の生成は、実にポストインターネット時代的な現象だと思います。ISIS団の皆さんは、一応、イスラームの大義でもある、カリフ・システムの再興(実体的には、血縁による正統カリフはとっくの昔に亡くなっておられるので、現実的にはカリフシステムの再興は論理的には無理なはずですが、理念系としてのカリフ・システムの再興)を主張し、ヨーロッパや、アジアの一部から、賛同者を集め、ISIS国を、イラク崩壊後のややこしい地域に作り出そうとしました。しかし、それは、SNSなしには、存在しえなかった現象です。そのあたりのことを美術との絡みで、Wang論文では次のように書きます。

                     

                    美術史家フィンバー・バリー・フラッドは、イスラム美術の「イメージ問題」を巡る政治的・イデオロギー的ニュアンスを雄弁な仕方で調べ上げている。彼はエミュール・ハルマンフィッシャーによる次のような訓告を引用する。「われわれがFacebookのプロフィールやツィート、ブログ記事で暴力の記録として扱っているものこそが、実際上ISISの生成時の存在理由(レゾン・デートル)となっている可能性についてわれわれは責任を持って考え抜かなければならない」。ソーシャルメディア上をウィルスのように広がるISISのプロパガンダは、表面的な敵対関係やセンセーショナルな破壊の映像から遠く離れて、新たなテクノロジー的時間性を通して再構成を施された、ある深い歴史に論及していくのである。(同書 p.69)

                     

                    つまり、ここでは一周回って、あるいは何周か回って、それで新しいという形のロングテイルが可能になったメディアの時間システムを通して読み解かれる歴史(というよりは歴史解釈、ないし歴史理解)が再構成されうる可能性を示しています。これは、最初は、粘土板や石柱や、石の板、そして、羊皮紙やパピルスにインク、通常のセルロースを主材とする紙に手書きで書かれた文字として歴史的な事実の記述とその解釈が書かれることで、固定されてきました。または、印刷技術移行することで、記述手法は、印刷されたテキストを通して、歴史が固定されるという従来の概念が、生まれ始めました。

                     

                    しかし、計算機での文字処理能力の向上が進むとともに、これらの概念が、崩れ去り始め、低廉化のデジタルデータ保存技術の普及とともに、ディジタル記録になることで、一旦忘れ去られても、さらに再解釈されうる機会を浮上する、つまり、過去のポルノスターが過去の歴史をかき消そうとしても、児童ポルノの被害者が児童ポルノの動画像を消し去っても、それが別サーバーに残されることで、蒸し返され、再利用され、再引用されることで、歴史として固定化されず、再消費され続けるという形が起きているのと同じ現象が、歴史においても起こっているということなのだろうと思います。

                     

                    最近のキリスト教界隈の説教盗用問題

                    そういう意味でいうと、ぼちぼち、このポストインターネット時代というものが、幅広く認識される時期が来ているようにも思いますし、最近話題になった、説教の盗用問題も、ある面、インターネット時代、つまり、ポストインターネット時代ゆえの問題だとは思います。過去説教して痛みとしては、できるだけ参考にした説教集屋ら注解書を毎度毎度説教の度にきちんと紹介していたのですが、そういうことをやると、「あなたの聖書の解説や、説教は学校の授業みたいだから、やめるように」というご意見が、説教をしていた教会の”えらい方”から頂戴したことがございますが、やはり、学問的良心から、そういう参考にした文献や書籍の紹介を続けていましたが、そういう私の良心的な態度が、その”えらい方”は、相当おいやだったみたいです。結局、まぁ、別問題から、その教会を離れることになり、今は、教会でメェメェ羊のように言いながら、司祭からパンとぶどう酒を預かる幸せな身分になりましたので、この種の問題からも解放はされました。

                     

                    個人的には、説教は、ある種のクリエイティブ・コモンズだ、と思っていますので、これから、説教をインターネットで公開される方は、説教を載せる際には、今後、PDマーク(勝手に使ってよい)か、CC BYマーク(一応、ソースは示してねマーク)をお付けになられることをお勧めしておきたいと思います。

                     

                    で、このブログはどうするのか、もちろんCC BY NCです。w

                     

                     

                     

                    ということで、Wang論文の紹介はおしまい。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    2018.09.03 Monday

                    アーギュメンツ #3 を読んでみた(7)

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                      今日も手売りにこだわっている雑誌のアーギュメンツ3のWang論文の中から、読んで考えたことを述べてみたい、と思います。なかなかこの本は本当に、面白い論考が多いように思います。

                       

                      複数の近代性、時間の非均質性

                      近代にいくつかのモードというか、スタイルが複数存在することは、一部の人々の間では、よくしられた事実であるようにも思います。とはいえ、近代は、一つの合理性を目指してきた社会のあり方である部分は、共通項として存在するとは言えようか、と思います。また、同質性と均質性を目指してきたと言えるでしょう。それは、標準化の思想が支配した時代でもあり、一様化を目指した社会でもありました。そして、人々が、ある程度同一であるという前提にたった時にはじめて成立する、一様化によるメリット、あるいは規模の経済(たくさん作れば、作るほど、コストが低くなり、人々の生活が安定しやすくなる傾向)を享受しようとした社会でもあったと言えるでしょう。そして、一般には、インターネットの世界では斉一性、斉一化が目指されていると思われていると思うのですが、世の中、そう単純ではないことを、Wang論文は次のように記述しています。
                       

                      複数の近代性が存在するということが多少なり立証されてきたのと同時に、ポスト・インターネットの条件となる複数の時間性は、生まれながらにして、はるかに不規則な仕方で積み重ねられたものであることがわかってきたのだ。即時アクセス可能性や同時性の幻想が、時間はウェブをまたいで様々な仕方で機能する −ラディカルなほどに様々な仕方で機能するー という根本的な現実を覆い隠している。(『アーギュメンツ #3』p.66)

                       

                      同質性、均質性、標準化、一様性を目指したのが近代であったという側面はあるとはいえ、同じ近代(Modernという語を使っている)とは言いながら、各国によって、近代の到達への歴史的経緯とその国民固有の思考のパターンが違うためだと思われるのですが、近代と言っても様々な近代の姿があるようです。

                       

                      例えば、音楽を例にとれば、近代では共通表現であるはずの同じ楽譜の演奏であったとしても、ある国民の固有のパターンが出ることがあります。以下の動画を順にご覧になると、腹をよじらせながら、おわかりいただけると思います。まさに、近代性の表れのような楽譜に従った演奏でも、その演奏になると、民族性を反映させ具合が、実に多様だなぁ、と以下の動画に現れる演奏を聴きながら思ってしました。

                       

                      同じ、God Save the Kingでも、これほど違う

                       

                      同じヨーロッパ系国歌でも演奏する国民性が違うと、面白い

                       

                      イスラエルとパレスティナの音楽性の違いが現れていて面白い(イスラエルの音楽関係者は、旧ロシア出身者が多いらしいから)

                       

                      サウディアラビアの王立オーケストラでもこのご様子のもよう

                       

                      ポスト・インターネット時代の情報と芸術

                      さて、ここで、次のWangの印象的な一文について考えてみたいと思います。「ポスト・インターネットの条件となる複数の時間性は、生まれながらにして、はるかに不規則な仕方で積み重ねられたものであることがわかってきたのだ。」ということで、ここで、Wangは美術を素材に、ポスト・インターネットを考えていますが、ここでの指摘は、社会においても言えるように思います。インターネットは、たしかに電気的なスピードで情報伝達をしますが、受け取り手の側が発信者と必ずしも同時に受信しているとは限らず、身体的な睡眠などの生物学的な必要などによる制約、地球上表面を支配している天文学的な時間の制約(日没と日の出)、それによって制約される人間の行動などがあるため、必ずしも発信者と受診者の間に時差、タイムラグが無いことが保証はされないことは確かです。

                       

                      Facebookなどで、時々起きるのですが、何年も前に起きたことがニュースで回ってきたり(1周回って新しいどころか、何周も回って新しいことが多い)、数日前に起きたことに大騒ぎしている人が出たり、ということを時々経験することがあります。

                       

                      ところで、同じニュースが突然降って湧いたかのように新しいものとして登場するように、一度ネット上に流されたポルノグラフィーは、ネット時代になって繰り返し再現されることで、被写体や報道される対象となった方を繰り返しレイプするかのように傷つけるのです。忘れられる権利を言わなければならないほど。

                       

                      紙新聞は、古くなって捨てられてしまうし、テレビは、数日後には人はすっかり忘れてくれるので、自然に忘れられていくのですが、ネットは、ロングテイルでもあり、一つのサーバーで削除しても、ネット上の何処かの空間のサーバーには残っていくだけに、こういう現象が起きるようです。

                       

                      忘れられる権利についてのニュースクリップ

                       

                      そう思っていると、ある講演会の準備のためにPost Internetで検索した時に出てきた次の画像が印象的でした。こういうのを見ていると、Wangの言うように、Post Internet時代において、Web技術に支えられたコンテンツは、「ラディカルなほどに様々な仕方で機能する」のは確かだと思います。

                       

                      http://daftgallery.com/artists/hazine-kareemah/ から”666 images on Facebook" (2012)と題された作品

                       

                      この画像は、黙示録の666の文字を引用しながら、Facebookのアイコンをつけた青いブルカを666個あることを示すことで、ムスリムと新約聖書と現代のテクノロジーをクロスオーバーさせた、ものすごく皮肉を効かせた画像作品になっています。

                       

                      【口語訳聖書】ヨハネの黙示録

                       13:11 わたしはまた、ほかの獣が地から上って来るのを見た。それには小羊のような角が二つあって、龍のように物を言った。
                       13:12 そして、先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた。
                       13:13 また、大いなるしるしを行って、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。
                       13:14 さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。
                       13:15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
                       13:16 また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、
                       13:17 この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。
                       13:18 ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。

                       

                      個人的には、Facebookやそこの会長のザッカーバーグさんがどこぞの聖書原理主義者で陰謀論者の方のように、黙示録の666だとは思っていませんよ。wただ、なんとかと包丁は使いよう、であるという俚諺がいうように、なんとかとITは使いよう、だとは思っています。なお、Monsterという飲み物が、666だとも思ってませんが…w。確かに、似てますけど、ヘブライ文字のVavの字(ヘブライ文字では、Vavは6を表しますが)とMonsterのロゴで使われているひっかき傷は。

                       

                       

                      なお、バベルとか、バビロンは、ベート(ヘブライ文字では、2を表す)の文字の方です。

                      「Babel Hebrew」の画像検索結果
                      バベルの塔を示す絵画とヘブライ文字

                       

                       

                      言論的状況としてのポスト・インターネット時代

                      ポスト・インターネット状況というのは、プレ・インターネット時代と何が違うか、というと、文化的には、コピーの容易さとその再利用の問題であるように思います。インターネットによってデータのトランスポータビリティ(移転性)が増加することで、コピー文化が一気に広がると同時に、コピーを利用した二次創作の可能性を急速に拡大しました。そのあたりについて、Wang論文では次のように述べています。

                       

                      ポスト・インターネットの状況は、相対性と差異化を加速させるだけである。それは、根本的に言語論的状況なのだー ただし言語という点においてだけではなく。なぜならその条件は、何が流通しているのか、そしていかにして特定の流通形式が意味を ー視覚的素材(特にインターネットの流行性によって際立った特徴づけがなされない素材)の有する意味を含めてー 伝えるのか、ということに関わるものであるからだ。(同書 p.67)

                       

                      ここで、Wangが論考するように、ネットワーク経由でデータ交換が可能になったことで、飛躍的にデータのトランスポータビリティが改善されました。そうなってくると、ネットワーク上でどんなデータが、あるいは、どんな情報が流通にしているかが問題になっているということである、とWangは指摘しています。

                       

                      聖書を含め、文字データの交換が、新聞とか雑誌とかの紙に乗せて流通されていた時代には、基本的に、それまでの羊皮紙への筆記生による手書きの転写モードから同一のものを大量に作るマスプロダクションに移行したこともあり、基本的に同一化を加速させることになりました。

                       

                      しかし、そのあとに生まれたメディア・ユース革命を起こしたネット技術は、相対性と差異化を加速させたのです。これが、実は、インターネット世界が反近代性という傾向を持つことの根源でもあるように思います。

                       

                      ネットの世界であるからゆえに、かなり偏った趣味(飛行機とか、アニメとか、プラモデルといった特殊な分野)でのグループができ、これらのグループとそれ以外の他の人々との差異化するような情報共有が可能になるのです。本来、雑誌が持っていた特殊な趣味のグループのこだわりをさらに先鋭化したグループの形成が可能になったといえると思います。そして、『新しい中世』で、田中さんがご指摘になったような人々のグループという、中世時代の、距離や空間で分断されたコミュニティとは違った、関心エリアの違いによる緩やかなコミュニティが形成される世界、『新しい中世』がネット社会で生まれることになったのです。

                       

                      ここでは、Wangは、言論的状況と表現していますが、個人的には、文字も画像や、動画も含めて考えらるべきかとは思いますので、記号論的現象という表現のほうがよかったかもしれない、とは思っております。ある面でいうと、記号や象徴が割と大きな意味を持った中世の世界が、ネットワークという情報技術で小さなコミュニティの形成において、象徴の意味がある面重要な意味を持つため、新しい形と様式をもった中世の社会が再現されているような気がいたします。

                       

                      ネット社会に参加することと模倣とミーム

                      ネット社会では、その社会固有の言語、ネットスラングがあり、それを正確に話せることが、相互理解の前提になっていることが多いのは事実です。というのは、基本的に高速度で情報処理を進めるためには、このようなネットスラングというか、ネット方言が必要になるからです。その意味で、たとえ情報の受け取り手であっても、ネットスラングについての、最低限の共通理解の存在が必要になります。どこまでわかっているかは別として。

                       

                       

                       それは、学会や法曹界などで話されていることがほとんど外部者にはわからないジャーゴンで満ち溢れているものの、しかしながら、内部者には相互理解可能であるのとよく似ています。まぁ、キリスト教の各教派教団用語も似たようなものだと思いますが、各教派で固有の言語は、ネットミームほど、普遍性を持たないために、多数の教派が入り乱れる調教は団体などでは、相互理解が成立したつもりで当人たちはいても、実際にはかなりの混乱がまま起きていることは、以前にもこの記事で書いた通りでございます。

                       

                      有意味な仕方で参加するためには、ひとは観客としてであっても、ネットミームを話さなければならないのだ。(中略)ミームが文化的・政治的・言語的により一層特殊的(スペシフィック)なものとなっていく時代には、流暢さは理解力を保証しないのである。このように特殊性が複雑に組み合わさることで、様々な種類の代表政治が生み出されるが、それらは極めてしばしばポストコロニアルの思想やアメリカの人種問題の力学 ーともに普遍的なものと広く誤解されているー に還元されててしまう。(同書 p.67)

                       

                       

                      ところで、Wikipediaによれば、「インターネット・ミーム(Internet meme)とはインターネットを通じて人から人へと、通常は模倣として拡がっていく行動・コンセプト・メディアのことである」とされています。つまり、ある種の行動パターンというか規則性が、インターネット上で再現されているということで、それに合わせてきちんと自己の挙動をコントロールできるかどうか、ということが、書き手としての関与者はもちろん、読み手としての関与者も求められていることになるわけです。これを見ながら、なんだ、教会と同じではないか、と思いました。

                       

                      教会ミームってありますよね

                      教会には、個別の教会ルールと言いますか、個別教会の行動パターンが明らかにあります。同じ教派、あるいは同じ教団の教会でも、教会ごとの固有文化があり、その意味で、固有教派・教団ミームに加え、個別教会ミームが存在するように思うのです。それは、あそこの席は、誰それさんのものであって、そこに勝手に座ってはいけないことになっているとか、聖書と聖歌の設置場所はかくあるべしとか、献金の入れ方、祈りの時の手の合わせ方や、祈りの時の声の出し方、聖書の開き方や、教会で許容されている服装、ヘアスタイルや、アーメンということばの抑揚の付け方や、祈りの手の角度といった所作といったごくごく些末な部分にいたるまで、教会ミームがあるように思います。

                       

                      ここで、Wangは「このように特殊性が複雑に組み合わさることで、様々な種類の代表政治が生み出されるが、それらは極めてしばしばポストコロニアルの思想やアメリカの人種問題の力学 ーともに普遍的なものと広く誤解されているー に還元されててしまう」と書いていますが、実は、教会ミームは、実にこのスペシフィシティの複雑に組み合わされたものになっていて、その解読には、かなりの実力と経験と知識が要されるように思います。しかし、教会ミームの性質が悪いのは、この教会ミームがネットミームがそうであるように、実は不変だと思われていることなのです。

                       

                      そして、自分の教会以外の教会ミームに出会うと、人は遺伝子レベルで反応してしまい、他の教会ミームを突然おかしいとか、あれは変だとか言って過剰な自己のミームないし遺伝子に対する防衛反応を示して、それが混乱のもとになることがあるのですが、これも、多くの場合、他のミームの挙動を知らないという側面と、ミームがそこまで普遍性を持っていない、という理解の欠落であることに由来するようにも思います。教会ミームの場合は、人数が少ないのもあるので問題はリアルな場では顕在化しにくいように思いますが、ネットの場合は、この個別ミームのわずかな違いが炎上騒ぎにすぐつながる火元になるようです。

                       

                      とはいえ、プロテスタント諸派は、残念なことですが分離に分離を繰り返してきましたので、それぞれ固有の実に多数のミームが生まれており、また、どのようにしてその個別教会固有のミームが形成されてきたのを知っている人が少ないために、ごくわずかなミームの違いが、個人の行動にずれを生み出し、そのわずかな違いに遺伝子レベルで反応する人が多いような印象があります。特に、福音派と呼ばれる集団で、このミーム間の争いによって、無益で過激な論争が起きるために、プロテスタント派の人々を、時々ネット界隈の人々は、戦闘民族と呼ぶことがあるようです。

                       

                      まぁ、しかし、こういうミームの防衛機能の発揮は、割と一時的なものかとは思いますが、このような無益で過激な論争が起きるのを避けるためには、ネットエチケットでの回避を図るよりは、個別の教会ミームと自己のミームの特性とその形成の背景を知っておく方が有益だと思います。

                       

                      そして、他の教会ミームを叩いて悦に入るよりは、それぞれのミームの由来をもうちょっときちんと遺伝子レベルで解析するという努力を教会関係者には、求めたいように思います。

                       

                       

                      次回へと続く

                       


                       

                       

                       

                       

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                      コメント:内容的には、ふるさも感じるけれども、分析の方向は概ね妥当だと思います。

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