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いつもお伺いしている枚方の凸凹神学会で、M司祭という方のお話を伺った。

 

その時に基本的にお話になったことのミーちゃんはーチャン風のメモをもとに、聞き取った内容をご紹介したい。聞き手の知識が十分でないので、間違っている点はミーちゃんはーちゃんの能力不足ということでご理解でないたい。

 

日本の正教会について
ロシアを経由して、ロシア風の味付けされてきた正教会が現在の正教会であり、悪くいえば、日本でガラパゴス化しているのが、現状の正教会という側面もないわけではない。


江戸末期に、ニコライ(ニコライ堂の名前の由来)は、正教会を伝えに来たのだが、その時、ロシア正教会の風土は邪魔になるばかりであるので、日本にあわせることを考えた。当時(今も)ロシア系の正教徒はスカーフ (カトリックにおけるベールと同じ) を被っていたが、 女性にはそれを求めなかった。なぜならば、当時の文化の中で、ほおかむりをしているのは、泥棒か2流の売春婦であるので、あえてベールを外させた部分もある。

 

亜使徒聖ニコライの写真とイコン

 

よたかと呼ばれた売春婦(かぶり物をした女性)

 

ニコライの伝道方法

 他のプロテスタント系が医療や物資や豊かさというものにものにかなり依拠した伝道で、上から目線で伝道した部分がなかったとはいえないのに対し、日本の精神文化を重んじ、キリスト教を広めるために、日本人教役者を促成育成に近い形で、ニコライは育成をしている。そして、日本の精神文化の高さに、ニコライは古事記から頼山陽までを読んだことを通し、この能力の高い人々にどう伝道するのか、ということを考え、お前たちが信じている神はこんなつまらないものだ、という上から目線ではなくキチンと伝道している。中村健之介という方のニコライに関して著作がいくつかあり、それらが基本的な理解をするうえで参考になるだろう。

 

ギリシア正教会、ロシア正教会、日本正教会は、カルケドン派であるが、正教会でも 非カルケドン派には エチオピア、シリア、コプト、アルメニアなどの正教会もあり、ネストリウス派の異端とされた、単性論のコプト教会もある。

(金井良嗣様からの誤りではないかというありがたいご指摘を受けまして、修正いたしました。メモの段階での記載が逆になっておりましたので、太字の部分修正しました。金井様、ご指摘感謝いたします。)

 

東西の分裂の経緯について(正教会の視点から)

西方教会(当時はカトリック教会のみ)のことは、コンスタンティノープルでも、ローマでもいわゆるローマ教皇とコンスタンテイノーポリの総主教の間で相互破門事件が起きた1054年以降も記憶しあっていたことが、 Lipticsに記載があることからしられているが、結果的に、次第に離れていった。それが、最終的に決定打となったのが、第4次十字軍による1204年のコンスタンティノープルの攻撃であった。そして、オスマントルコ軍に囲まれ、1453年コンスタンティノープルの陥落があり、分離は一層進んでいくことになる。

 

現在、東西和解が進みつつあるかのような報道があるが、和解したとはいっても、正教連合体で和解したわけでもないし、問題は主教会議で解決していくので、正教関係全体の中で、ロシア正教の役割と存在とその意味は大きいが、実はすべての正教との和解のためには、それぞれの正教の司教による会議での未批准問題が解決される必要がある。

 

キリル総主教とローマ教皇がキューバで会見した時の写真

 

 確かに、革命前にアングリカンコミュニオンと正教会が一致の動きがあったとはいうものの、ロシア正教でとん挫してしまった。 実際の教会再合同は、アングリカンコミュニオンが、セクシャルマイノリティの問題と女性教職問題で、内部でも一致した見解を出せていない環境の中であり、現状では、ほぼ無理なほど難しいのではないだろうか。

 

正教とは

Ortho Doxa(教義 頌栄 礼拝) 正しい教え、すなわち、正しい礼拝であることを守ろうとしたことにその名の由来があり、このあたりは、教理史を振り返ると分かるであろう。父と子と聖霊を賛美する礼拝の伝統から生まれたものである。

 

ネストリウス論争やテオトコス論争に関して言えば、たとえ理屈としてはそれが通らなくても、礼拝のかたち、初伝統こそが正しい礼拝の基盤であり、それでなければならない、というのが立場である。したがって、礼拝の形を変えることに慎重である。カトリックの側では、第2バチカン公会議以降刷新があり、それはむしろ、学者の考えた原点回帰運動であり、一種Populismの影響ではないだろうか。その意味で、現代人受けのいい、イデオロギーが反映された礼拝刷新となっているようである。

 

 もし、これまでの儀式の在り方を変える、変わるとすると、正教会は、みんなが気が付かないうちに変わるというような形になるのではないだろうか。典礼刷新をしたニーコン(後に破門)の改革もあるが、基本は、その教会、その司教会議のもとでのようにんされるはんいのものであり、各個教会主義で、楽譜もバラバラというれいもある。そして、言葉は挫折するので、それを儀式によって担保しているといえなくもないかもしれない。

 

2世紀ごろに、小アジア地区でのポリカルポスとローマとの対話から発生した復活祭論争の結果、ローマでは、現行の復活祭の決め方となり、100年後同じ議論となって、小アジアの教会を破門することで、ローマが首位であるとして実効支配権があるとしたことになっている、そして、個別の教区の司祭の人事に口出しすることになる。


東西分裂に関しては、教皇権が、会議体より上に来ている点はかなり気になる。フィリオクエ (フィリオケ)はある種の改ざん問題ではないのか。特に、聖霊は父からか?父と子から出るのか?という議論ではあるが、基本的に、エペソ公会議の変えてはならない、とした会議の結果からは、変えていることになるのではないか。特に聖神(精霊)は極めて重要なペルソナなので反対せざるを得ない。 細かい議論はめんどくさいがそれは必要なものだろう。

 

正教会と信仰生活

正教会での神化(神の似姿として回復される、あるいは神と似たものとなる)という概念は、聖化と似ている部分があるが、西方系の聖化では、三位一体論が弱いこともあり、どうしても神と個人の関係になっており、コミュニティとして神に似たものとなるというかかわりが違い。とりわけ、どのようにして救われるかのポイントが抜けているのではないか。


神のかたち(一番の神のかたちは三位一体)であり、そもそも創造の時の課題が三位一体損なわれてしまったことであった。正教会的な理解でいえば、罪の赦しは、重荷を外すということであり、聖霊の翼をかって上るということとつながっている。また、救われるとは何かということを考えていくと、神との関係が、神と私が神と私たちへと変わることということもできるかもしれない。共同体的な交わりそのものが三位一体的な神の国の表現になっているだろう。

 

人間の堕落について

人間の堕落について、正教会では、アウグスティヌス、ルターやカルヴァンが言うほど、陰惨な堕落状態にはないと考えている。全的堕落、そして神の粟原見、完全な神の介入により回復がある、というよりは、回復可能性がある程度に、壊れている、という考え方に近い。神から差し出された回復の神からの提案を受け取るか、受け取らないかは人間の側の自由意思にある、という考え方に近い。ギリシア正教のジョークとして、カルヴィニストになるよりは、イスラム教徒であるほうがましというジョークもあるほどであり、それほど、人間に対する考え方が違うのかもしれない。

 

正教会と教理
正教会の教理は少ない。それは、教理は少なければ、少ないほどいいという考え方である。その意味で、解釈の幅が、幅広い方がいいという考え方に近い。これに対し、西側は、郷里における厳密性を追及してきた。このあたり、どの方向から神の恵みと人間の選択を考えるのか、ということとかかわっている。正教では理想状態を想定し、人間が100%自由である時に、神の恵みは100%となるという考え方であり、プロテスタント側では、救いが神の恵みが100%であるとは言うけれども、それが完全な状態になる時、人間も100%自由になるのではないだろうか。その意味で、同じことをどちらか側からみているにすぎないのではないだろうか。

「それは、神と人とが協働するということか」ということの質問が出たが、それに対しては、「完全に自由であれば、完全な恵みになる、ということなのではないのだろうか」というお答であった。

 

マリアの無原罪性をカトリック側でいうが、日本正教会では、「生神女マリア」というが、基本的には人間と同じであるという理解である。天使から、救い主を生む、という神の申し出をそのまま受け取ったので、穢れなき、清らかな生涯を送ったと理解されている。それは、さらに、我らも神の子を産むことができるということにつながっており、マリアが清らかに生きたことは福音ともなっている。被昇にかんしては、伝承としてあるものの、教義にはしていない。正教会では、マリア就寝祭ということを覚えるが、被昇天はど知らでもいいという立場である。

 

直接祈ればいいのになぜ聖人ということを考えるのか、というと、時と空間を超えた(基督の)家族であり、父である神にその兄や姉たちが取りなしをするのは、家族の中で、父に兄や姉たちがとりなすのと同じように、兄や姉である成人に対してお願いしてとりなしをしてもらうのは、当たり前ではないだろうか。その意味で、共同体制が強い理解であるといえる。

 

教会合同に関して
教皇権をまずもって認めていないし、フィリオケがまず問題になるだろう。また、正教会では、トップが決めてそれ以下の教会群が従うという構造になっておらず、仮にそのようなことを決めたとしてもうまく機能しないだろう。個別教会からなる今日区での会議で決めていって、そして、それぞれのレベルでまた会議を開き、という会議隊による教会政治を行っているので、誰かと誰かがあってそれで一気に決まるというトップ交渉型の形態での教会合同は起こり得ない。

 

教理の伝承

正教会では、先人から手わされたもの、トラディシオされたものとして、教義も聖伝という理解であるし、聖書も公会議で決められ、トラディシオされたものであるという意味で、聖書も聖伝という理解である。The Traditionは先人から、後進に対して受け渡され続けているものであり、イエスが弟子たちに伝えたような形での受け渡しがなされており、その受け継いだものとして、信仰のよりどころとるするのは、聖書、信経(ニカイア)と7回のエキュメニカル公会議で決定された信仰の定理とされる郷里、それと、他の地方公開の重要な決議、聖師父の教え、奉神礼であり、その奉神礼を守ることを先人から受け継いだものとして大事にしているという側面がある。

 

京都教会のイコン

 

 

全体としての感想

実は、この講演会というか座談会の前に、この司祭のおられる正教会の教会に訪問して、正教会としてのお話を聞いていたこと、昨年、横浜に世俗の仕事で行った帰りに横浜の日本正教会をご訪問して、水野司祭からあらかたお話しをお伺いしてたこと、そして、以下で紹介するギリシャ正教という本を読んでいたこともあり、かなり重複部分が多かったが、教会政治と意思決定の部分に関して、非常によくわかったような気がする。

 

そして、プロテスタントは聖書至上主義である側面が強く、その中でも福音派と呼ばれるグループは現代の聖書至上主義なのは仕方がないが、しかし、それも聖伝ではないのか、という批判に対して、どのように福音派の皆さんは答えるのかなぁ、ということも気になった。歴史を振り返ってみれば、直接、それがそのまま、天から降ってきたわけではないが、一部には、現在の聖書の構成がそのまま降ってきたという理解に近い方々や、新改訳聖書第2版原理主義の方や、文語訳聖書原始主義、口語訳聖書原理主義の方もおられる。それは多分に、最初に読んだ聖書におけるなじみの問題のような気もするのだが、どうなんだろうか、と思う。結局、人間は初めに他者としてであったもので、それを受け入れたものから、変えにくいということに、なんだかんだ理由をつけているだけのような気がしてならない。
それと、基本は最小に、あとは多様に現実に合わせて変えていくというハリストス正教会の御姿はなかなか賢いなぁ、と思うし、プロテスタント教会派、基本となる部分をそれもがちがちに定めてしまったので、かえってもめごとが起きてしまったのかもしれない、もめ事が起きやすくなってしまったのかもしれないということを考えると、どちらが良かったのか問題ではあるが、どうなんだろう、と思った。
ということで、今回のみでおしまい。

 

 

 

評価:
高橋 保行
講談社
¥ 1,134
(1980-07-08)
コメント:入門としては非常に良かった。

中村 健之介
岩波書店
¥ 842
(1996-08-21)
コメント:非常に良いらしい。


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今回も引き続き、教徒ユダヤ思想学会シンポジウム「聖戦と十字軍」から予定討論者からのコメントと質疑応答の内容をご紹介してみたい。今回ご紹介する部分がかなりおもしろかったのである。

 

 


まずは、中田考さんからの問題意識の指摘である。

 

 

イスラームと西洋の間で不幸を生む「十字軍」メタファー

イスラームと西欧の関係に「十字軍パラダイム」があり、中世の十字軍、近代イスラム世界の植民地化などの中に影響しており、イスラムとキリスト教の関係をゆがめている部分がある。十字軍戦争は、第1次十字軍を除けば、戦争としては大きな被害を与えているわけではなく、第1次、第2次世界大戦でのヨーロッパの内部での被害が大きいだろう。しかし、十字軍という理解(十字軍パラダイム)が歴史的なイスラム世界と西洋世界の歴史的理解を歪めていて、両者の間の認識を歪めている部分、ある思い込みとうか、歪んだ参照枠組みを与えている。


クルアーンはムハンマドの言行録であり、それを抽象化したものがイスラム法であり、行政法的な側面、社会秩序を守るための方原則がイスラム法といってよいかもしれない。

 

イスラムとキリスト教の関係良好だった時代も
ムハンマドは宣教の初期段階で、マッカの多神教徒に迫害されたイスラム教徒の一部を正義の王がいると理解していたキリスト教国エチオピアに逃がしており、イスラームとキリスト教との関係は必ずしも敵対的ではなかったし、むしろ良いイメージを持っていた。

 

この話を聞きながら、先日お話をお伺いした正教会の司祭の方のお話を思い出した。正教徒の一部にとっては、「カルヴァン派の人と一緒にいるよりも、ムスリムと一緒の方がよい」というジョークがあるそうだが、そのジョークの裏には、ムスリムとも共存してきた正教会の世界があるように思うのだ。

 

キリスト教世界とイスラームの対立が最初に表面化したのは、ムハンマドが亡くなる直前にヨルダンで東ローマ軍とムスリムが戦った629年のムウタの戦いであるが、対立が本格化するのは正統カリフ時代(ムハンマドの直接の弟子の時代)であり、ムスリム軍はシリアとエジプトを東ローマ軍から7世紀中葉に奪取する。

 

信仰を必ずしも強要したわけではないムスリム世界
文明論的に重要なのは、このシリア、エジプトのイスラームの制服には、ほとんど現地民の反乱が記録されていない。それは、キリスト教徒へのイスラームの回収は必ずしも強制せず、名前の調査から、住民のムスリムの比率は占領後100年後で2%、占領後300年後でようやく半数であり、この数字は強制改宗や民族浄化が行われたというわけではないことを示している。ヨーロッパの混乱は、イスラムの制服というよりは、アラブの出現やフン族の出現、モンゴル遊牧民の出現等であることと、イスラムの戦争、遊牧民の戦争は、戦利品や身代金目的であり、布教という性質は持たない。あるいは、用心棒代としての異教徒の徴税問題であり、その徴税自体も、成人男子に対して、現在価値で年額数万円程度の徴税であり、本来用心棒代として支払うべき税金を払わないから、武力となるのがイスラムの世界観であるのだ。その意味で、イスラム支配とイスラム化は、平和裏に行われたのであり、十字軍がパレスティナに侵攻したのちも、キリスト教徒が裏切り者として殲滅されたことはなく、シリア、エジプトでは現在に至るまで、キリスト教のさまざまな宗派が残存している。イスラムにとって、不信仰の人は税金だけが義務であり、イスラム教徒ではない人はイスラムの法律に従う必要は本来はないとされているとされている。

 

(おそらく、西ヨーロッパ人のイスラム世界は、イスラム海賊と呼ばれる人々、要するに遊牧民が海に出かけて身代金獲得事業者となった形での海賊、という形でのイスラムとの接触が現地にいた人の間で起きたため、イスラム海賊とイスラム世界全体の混同した理解ができあがあるような気がする。まぁ、十字軍といってもイスラム海賊対策という側面もないわけではなく、この辺の理解がイスラム全体と戦ったという誤った印象へとつながっているのではないか、と思った。確かに、イスラム海賊はイタリア南部からフランスの海岸で非常にご活躍であったのである。イタリアの南部や、フランスの南部では、やたらと海のそばには塔が立っているのは、それが理由らしい。海賊が攻めてくるのを予見するため、そして住民に危機を知らせるための塔らしい。

 

そもそも、遊牧民にとって、人は身代金の請求を通して、お金に交換できるもの、あるいは、金の延べ棒にしか見えない模様である。何年か前のアルジェリアの油田での誘拐事件などは、それを示している。まぁ、どの国でも、いまだに、身代金目的の誘拐が起きることがある。この辺で、奴隷と人質の関係が微妙であり、近い将来に身代金をとれる、その期待が高い場合には、捕虜状態に置かれるが、身代金による現金化が不可能な場合には、奴隷として売り飛ばして、現金化、流動化してしまうようである。捕虜であると、飯を食わさなければいけないとか、ちゃんと世話しないといけないので、そういう面倒を含む形での捕虜を確保している面倒なので、それを避けているだけのことだと思う。そして、それ奴隷の流通事業や身代金目的の事業としての誘拐を続けることがおかしいといわれても、「それが何か?」と言っているような遊牧民が多いのではないか、とおもうのだ。)

 

当時のトルコ海賊との戦闘

南イタリアの海賊対策の観測施

 

南イタリアの海洋城

 

イタリアの海岸沿いのお城

 


イスラム世界での正当性と

現状でイスラム的な正当な政府が存在しない世界
イスラムの場合、,靴覆韻譴个覆蕕覆い海鉢△靴進がよいことどちらでもよいことい靴覆ながいいことイ靴討呂覆蕕覆い海箸5つに分類されるのであり、戦争もこのタイプの分類に従う。した方がよい戦争には、内乱・内戦の治安維持的な活動があるが、実は、この場合でも、イスラム的に正当であるとする根拠がないので、本来は何とも言えないはずである。なぜならば、イスラムの理念形として一つのイスラムとその中には正当な一人のカリフが存在し、イスラムの内部の争いごとをこのカリフが調整するのだが、その正当なカリフが存在しない現在、イスラム的な概念では正当性を決定するシステムがなく、その意味で、イスラム的な正当な政府というそのものが存在しないことになる。

 

イスラムとして戦うべき敵とは
イスラム的に戦う義務が高いのは、異教徒というよりは、イスラム教徒でありながら、他の宗教に転換した元イスラム教徒、すなわち背教者との戦いである。その意味で、他教徒には、キリスト教が向かっていくような苛烈さはないのが原則である。
基本的にイスラム世界が商業文化を基盤にした世界であり、武器や武力で交渉(血を流す外交)、というよりは言葉で交渉(血を流さない戦争)する文化を持っていたし、割と早い段階で、昔の地中海世界での商取引用語であったコイネーギリシア語が支配した後、地中海の南側での国際商業取引用語としてアラビア語が普及し、そこでの表現方法が成熟し、地中海の西側では、ラテン語が支配し、地中海の東側では、ギリシア語とラテン語が共通語として支配したのではないか、と思う。そして、本来、その地域を納める代わりに用心棒代を請求する。これはローマ帝国の二重支配でも同じことが行われていて、その代表格が新約聖書に現れる取税人であり、取税人はある領域の徴税の代理納税権を事前に納入する形でのオークションを行うので、その事前納入分をいかにカバーするのかが問題になるので、税の聴衆が、過剰になる傾向にあった課の性は否定できないように思う。そのような重税がある地域もあったかもしれないが、メッカやメジナの付近では少なくともこのようなことがあった可能性はかなり高いらしい)

 

近代ユダヤ人の哲学的思惟から
ユダヤ的な哲学からの討議として、合田正人さんは、ポレモス(闘争)は文明と文明がぶつかるところでの裂け目を持ちながら、戦闘という形での交流が発生する場所を考える中でパトチカの議論を紹介されながら、その中で、十字軍を考えてみるということをしてみるとよいのではないか。(キリスト教世界が成立した後西洋が初めて出会った異教徒、異文化がイスラム教徒であり、イスラム文化であった、という側面があるのではないかということがおっしゃりたかったのかなぁ、と思った)

 

そこで、レヴィ・ストロースの「ユダヤ教」に全く言及せずに、世界文明の攻勢を語るというのなかで、「仏教とキリスト教の間に割り込むことで、イスラームは、西洋が度重なる十字軍によってイスラームと対立し、ひいてはそれと類似されたとき、我々をイスラーム化したのである」(悲しき熱帯)と記している。いったいこの指摘は何を意味しているのだろうか。

(ミーちゃんはーちゃんとしては、また、ある面、これは、ユダヤ系の背景を持つレヴィ・ストロースからすれば、相対化するような概念として、キリスト教を見ておらず、キリスト教とユダヤ教を一体のものしてみていたのではないかと思われるが、これは、根拠のない勝手なミーちゃんはーちゃんの想像でしかない。)

 

おそらく、対立するものを通して、類似するものとなったし、そもそものヨーロッパ文化における女性性(結構古いヨーロッパ文化には地母神信仰として女性神、ヴィーナスとかが多い)を捨てたし、イマージュの破壊を行い、イマージュを嫌うものになったということかもしれない。(確かにそれまでのキリスト教はある程度、イマージュというか象徴とか言うものを容認するものであったが、それを嫌うという意味において、カルヴァン派はある面それを極めて行ったといえるし、今の日本に伝わってキリスト教のかなりの部分はイマージュに対する軽視があるように思う。

 

レヴィナスと戦争

レヴィナスは『悲しき熱帯』を、「現代のユダヤ人意識を最も混濁させるもの」の一つに数え入れたのだが、このレヴィナスの身振りは何を意味するのだろうか。

レヴィナスは、存在が戦争であると言っている。生存することは、レヴィナスにとっては戦闘であり、「正当戦争においても、その正当性に震えおののいていけないといけない。正しさゆえに戦慄を覚えなければならない」と書いている(ある面で、正しさがあると主張することは、第2次世界大戦にフランス軍の通訳として従軍し、ドイツで捕虜として生活し、さらに親族のホロコーストを経験したレヴィナスにとって、人間が神になることであり、それはありえないことであるという意味ではないかと思う)


なお、レヴィストロースは、カリバニズムの問題を取り上げながら、文明と野蛮の問題を考えているところがある。

 

カオスシステムとしての戦争とポレモス
カオスシステム論で考えるとき、ポレモスを介して、分離しながら接続しているということが起きるのではないか。ポレモスという境界で起きるのは紛争であり、そこで、交渉も起きるし、そして、その交渉を通して、他者と出会っていく、ということが起きるのではないか。その意味で、一種のカオス理論が必要なのではないか、と思う。


また、ダニエル・シボニーは「3つの一神教」という著作の中で、宗教は何らかの起源をもっているし、一神教同士は起源において関係を持っているが、中には、宗教の起源と現状の間に空白があるものがある。その意味で、紀元と現状の隔たりをどう考えるのかが問われるし、登用を考えるとき起源を想定しないものが存在するかも、ということは考えないといけないかもしれない。

 

ユダヤの視点から
司会者から一言といいうことで、手島勲矢先生から
比較的被害が少ない戦争であったという発言があったが、第1次十字軍で大量に焼き殺されたユダヤ人のことは忘れられてはならないだろう。また、もし組織されていなければ、果たして十字軍が生まれたのか、という疑問がある。一応の教会法にせよ、世俗法にせよ、法律と、目立つマークが付けられることで十字軍は形成されたし、聖地においては、イスラームとユダヤ人は特別な服を着るように命じられ、それが識別コードともなったし、それが、のちのホロコースト時のユダヤ人の識別ということにつながっているように思う。


質疑応答から
対アマレク戦で、サムエルとサウル王が争っているが、非常に残忍なシーンがある。なぜ、こんな残虐な場面が聖書にあるのかというシーンは旧約聖書に少なくはない。また、聖戦が聖書学で議論に上ったのは、それほど昔のことではなく、割と最近の現象である。

フロアからの質問に小原さんが答えたこととして、犠牲と疑似宗教としての関係としては、近代国家が戦争にあたって、国家に対する犠牲の理論を緻密化していって、伝統宗教のものをさらに国家に対して追認した形になるのではないか。
少なくとも正当戦争であるとするならば、外国に出ていくべきでないとアキナスは主張している。また、終末思想についても、ここで立ち入る余裕はないが、現代でも基本的には重要である。

また、質問に答える形で、中田さんは、政教分離ということを考えなくていいのか、という質問に対し、政教分離という言葉が違う意味で使われており、それを議論することに果たして意味があるのだろうか。政治と宗教を分けようとしたときに、それが果たして分けられるのだろうか。それはどこかでつながっているはずだし、仮に分けるとすればどのような視点で分けるのか、ということのが問題である。これは政治と経済の問題でも同じであるし、そもそも必ずしも分けなければいけないということでもないのではないか。(この分離の問題は、ギリシア哲学が引き継いだ、なんでも分けていこうとする傾向の表れではないかと思うし、現代日本人、とくに学問関係者がそれにいかに毒されているのか、ということを思わざるを得ない。)

 


ムスリムはイスラム教を布教する意図がなかったということであるが、という質問に対して、基本的に税金を払えば、戦争が終わるという形の戦争行為が行われてきたのであり、世帯単位で欠けており、女性や子供には付加しないし、貧しい人にも課税しない。征服というよりは、むしろイスラムによる秩序の確立というものであり、布教におけるキリスト教の影響はない。


ジハードという概念であるが、アラビア語はほかの同系統の言語と同じで、御紺のことばであり、イスラムのアラビア語は心臓の言葉は使わず、従来ある概念に概念を追加、重ねていく形で使い続けられる傾向があり、わかりにくくなっている側面もあるだろう。コーランの中で、ジハードが使われている例として、多神教徒の親が、イスラム教徒となった子供の信仰を回復させるためにジハードという言葉が使われている。そもそも、ジハードの語源となったジャハドという語は、力を出す、力を押し出すという意味でおり、押し出された力と力がぶつかるからジハードになるという概念である。

 

また、イスラムの至上命令のようにジハードを主張する人々がいるが、イスラムには、そもそも、正当な生殖がいないので、現在では、イスラムの生き方は、イスラム法の行動の原理原則で学者が一致している範囲を超えない、ということである。

 

学会長先生のコメント
最後に学会長の先生から、面白い質問が出された。
この企画をしたのがおおむね1年前で、非常に流動的な状況の中で企画されたものであった。ところで、聖戦を考えるとき、日本で、教皇ということが本当に理解されているのだろうか、という疑問があるし、日本の中で「教皇」に当たるものはなんであるのか、聖戦がイメージされるということはどういうことかを考えないと、十字軍や聖戦ということの認識ができないのではないか、という疑念が出された。


全体の感想

この会に参加して、実に面白いと思ったのは、我々がことばが持つイメージ、例えば十字軍という言葉が持つ魔力に大きく影響を受けているということであった。十字軍というと、先にイメージというか、ある参照枠が浮かび、その参照枠に従ってしかものを見ないということをしているのを、ミーちゃんはーちゃん自身を含め、改めて思い知らされたといえる。

 

それと、もう一つは、終末意識が人々に与える影響である。終末意識に導かれたのは平安時代末期もそうであったし、そうであるからこそ、鎌倉時代に仏教が非常に多様な形で日本の民衆にまで広がったのであろうし、また、明治のご一新も、一種の終末意識に導かれたものであったような気がする。また、もう少し最近では、戦争直後の新宗教やキリスト教の急成長、バブル末期には終末思想が流行し、新新宗教を中心新興宗教が急成長し、オウム真理教に至る動きは、一種の終末思想的な雰囲気が世間に広がっていたような現象を示していると思う。そう考えてみれば、ジュリアナ東京(最近の1980円のソフトバンクの格安CMのシーンに出てくる)は昭和末期のおかげ参りを思わせなくもない。

 

おかげ参りの図

おかげ参りの図

ジュリアナ東京(今見たら、どこがかっこいいのかと思うが、これがはやったのである)

http://toyokeizai.net/articles/-/70763 から
 

 

Y!Mobileのバブルのころのジュリアナ東京を背景としたCF

 

なんかこうやって考えると、念仏踊りにしても、おかげ参りにしても、戦争直後のダンスホールブームにしても、1980年代の竹の子族にしても、ジュリアナ東京にしても、オウム真理教の浅原彰晃踊り(選挙カーの上で歌い踊っていた気がする 尊師マーチを)にしても、日本人が踊り始めたら、日本人の終末意識が高まってきた証拠なのではないか、と思えそうで仕方がない。

竹の子族の踊り

 


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今日も前回 

 

京都ユダヤ思想学会シンポジウム「聖戦と十字軍」参加記(1)  

 

に引き続き教徒ユダヤ思想学会 シンポジウム 「聖戦と十字軍」の参加記録をご紹介したい。

 

討論者がすごかった

今日はいよいよ、予定討論者四名からのコメントのうち、最初のお二人のコメントを紹介したい。また、この4名の方が、まぁ、すごいのである。旧約学からは勝村弘也さん、キリスト教学からは小原克博さん、イスラム法学からは中田考さん、現代ヨーロッパ社会におけるユダヤ哲学からは合田正人さん、そして、司会が手島勲矢さんと、半端ないメンバーであったし、5人のうち3人が同志社大学一神教センターの関係者であったのが、をををであった。

 

 


第1討論者の勝村弘也さんのコメントは、旧約聖書の立場からのコメントであった。
 

イラク開戦日に卒業式があたったために以降卒業式で

歌われることのなくなったOnward Chrisitian Soldiers
冒頭、2003年の松蔭女子学院大学の卒業式が、たまたまイラク戦争開戦日であり、その際に本来は、「みよや、十字架の旗高し」がうたわれる予定であったが、取り消しになり、その賛美歌がうたわれることはなかったし、それ以降、この賛美歌が用いられることはなくなった。このあたりの精神性は、十字軍とかかわりがあるかもしれない。


 賛美歌 みよや、十字架の旗高し

 

(リバイバル賛美歌で顕著であるが、結構戦闘的な賛美歌が多い。あるいは、戦闘のメタファーを利用した賛美歌は多く、時々ここまで言わんでいいん出ないか、という歌詞の讃美歌もあるし、それ、まずいんでないか、と思うような歌詞の讃美歌もないわけではない。それはどうなんだろう、と思う。なお、この開戦日には、ミーちゃんはーちゃんはブッシュ大統領がテレビで開戦宣言をホワイトハウスから、宣言するのをアメリカでライブで見ていた。)

 

Bushの開戦にあたっての発言


旧約聖書における聖戦
旧約聖書と聖戦で思いつく限り書いてみると、葦の海のエジプト軍の崩壊の軌跡は神自身が戦ったタイプの聖戦になるし、ヨシュア記における戦闘は、神の戦いという側面があり、神自身が戦われるタイプの聖戦ということが表明されている。エリコの戦いも、一種の奇跡であり、その意味でこれになるだろう。

 

エリコの壁の崩壊

紅海でのファラオの軍の壊滅


カナン都市国家とでボラの戦争は、神に代わっての戦闘という側面があり、そこでデボラの歌とされているものヘブライの詩は、ものすごく古いヘブライ語で書かれており、ほぼ翻訳が不能であるかと思われるほど難解であるが、神の権限に強調があることは注目すべきであろう。

 

口語訳聖書 士師記
5:1その日デボラとアビノアムの子バラクは歌って言った。
5:2「イスラエルの指導者たちは先に立ち、
民は喜び勇んで進み出た。
主をさんびせよ。
5:3もろもろの王よ聞け、
もろもろの君よ、耳を傾けよ。
わたしは主に向かって歌おう、
わたしはイスラエルの神、主をほめたたえよう。
5:4主よ、あなたがセイルを出、
エドムの地から進まれたとき、
地は震い、天はしたたり、
雲は水をしたたらせた。
5:5もろもろの山は主の前に揺り動き、
シナイの主、すなわちイスラエルの神、主の前に揺り動いた。
5:6アナテの子シャムガルのとき、
ヤエルの時には隊商は絶え、
旅人はわき道をとおった。
5:7イスラエルには農民が絶え、
かれらは絶え果てたが、
デボラよ、ついにあなたは立ちあがり、
立ってイスラエルの母となった。
5:8人々が新しい神々を選んだとき、
戦いは門に及んだ。
イスラエルの四万人のうちに、
盾あるいは槍の見られたことがあったか。
5:9わたしの心は民のうちの喜び勇んで
進み出たイスラエルのつかさたちと共にある。
主をさんびせよ。
5:10茶色のろばに乗るもの、
毛氈の上にすわるもの、
および道を歩むものよ、共に歌え。
5:11楽人の調べは水くむ所に聞える。
かれらはそこで主の救を唱え、
イスラエルの農民の救を唱えている。
その時、主の民は門に下って行った。
5:12起きよ、起きよ、デボラ。
起きよ、起きよ、歌をうたえ。
立てよ、バラク、とりこを捕えよ、
アビノアムの子よ。
5:13その時、残った者は尊い者のように下って行き、
主の民は勇士のように下って行った。
5:14彼らはエフライムから出て谷に進み、
兄弟ベニヤミンはあなたの民のうちにある。
マキルからはつかさたちが下って行き、
ゼブルンからは指揮を執るものが下って行った。
5:15イッサカルの君たちはデボラと共におり、
イッサカルはバラクと同じく、
直ちにそのあとについて谷に突進した。
しかしルベンの氏族は大いに思案した。
5:16なぜ、あなたは、おりの間にとどまって、
羊の群れに笛吹くのを聞いているのか。
ルベンの氏族は大いに思案した。
5:17ギレアデはヨルダンの向こうにとどまっていた。
なぜ、ダンは舟のかたわらにとどまったか。
アセルは浜べに座し、
その波止場のかたわらにとどまっていた。
5:18ゼブルンは命をすてて、死を恐れぬ民である。
野の高い所におるナフタリもまたそうであった。
5:19もろもろの王たちはきて戦った。
その時カナンの王たちは、
メギドの水のほとりのタアナクで戦った。
彼らは一片の銀をも獲なかった。
5:20もろもろの星は天より戦い、
その軌道をはなれてシセラと戦った。
5:21キションの川は彼らを押し流した、
激しく流れる川、キションの川。
わが魂よ、勇ましく進め。
5:22その時、軍馬ははせ駆けり、
馬のひずめは地を踏みならした。
5:23主の使は言った、『メロズをのろえ、
激しくその民をのろえ、
彼らはきて主を助けず、
主を助けて勇士を攻めなかったからである』。
5:24ケニびとヘベルの妻ヤエルは、
女のうちの最も恵まれた者、
天幕に住む女のうち最も恵まれた者である。
5:25シセラが水を求めると、ヤエルは乳を与えた。
すなわち貴重な鉢に凝乳を盛ってささげた。
5:26ヤエルはくぎに手をかけ、
右手に重い槌をとって、
シセラを打ち、その頭を砕き、
粉々にして、そのこめかみを打ち貫いた。
5:27シセラはヤエルの足もとにかがんで倒れ伏し、
その足もとにかがんで倒れ、
そのかがんだ所に倒れて死んだ。
5:28シセラの母は窓からながめ、
格子窓から叫んで言った、
『どうして彼の車の来るのがおそいのか、
どうして彼の車の歩みがはかどらないのか』。
5:29その侍女たちの賢い者は答え、
母またみずからおのれに答えて言った、
5:30『彼らは獲物を得て、
それを分けているのではないか、
人ごとにひとり、ふたりのおなごを取り、
シセラの獲物は色染めの衣、
縫い取りした色染めの衣の獲物であろう。
すなわち縫い取りした色染めの衣二つを、
獲物としてそのくびにまとうであろう』。
5:31主よ、あなたの敵はみなこのように滅び、
あなたを愛する者を
太陽の勢いよく上るようにしてください」。

ヤエル デボラ バラク


ギデオンのミデアン人の追放や、ヨナタンの武功と神の戦慄が生じたというような表現も聖戦を示しているだろう。


サムエル記上15章の対アマレクの戦いで、へレム(聖絶)の解釈をめぐる預言者サムエルとサウル王の論争があるが、聖絶とは、本来、神に対してささげられることであるのではないか、人というよりは、ものを神のものとするということではないだろうか。新共同訳では、この部分意訳が激しいように思われる。聖絶に関して言えば、そのうち出る仲介でかなりこの問題を指摘する予定である。


アッシリア軍からのエルサレム開放も、神が先に闘われるという側面がある。

 

アッシリアのエルサレム包囲戦


申命記7章のヘト、ギルガシ、アモリ、カナン、ペリジ、ヒビ、エブスの7民族が、『あなたの前から追い払う』べき民として列挙されているが、これらの民族はパレスティナ先住民で当たろう。同民族名が、出エジプト記33章、ヨシュア記3章、24章にも言及されているが、これらの民族にはよくわからないものも含まれている。


聖戦の裏に見え隠れするものとして、YHWHどどう考えるかと関係してくる。特に、ヨシュア記やサムエル記はだれによって書かれたか(編纂されたか)問題と関係するだろう。

 

ノートのアンフィクチオニー仮説とのかかわり

M.Noth(マーティン・ノート)の部族共同体により、宗教連合というか、部族が聖所及び聖なる契約の箱を輪番で保護したのではないかというアンフィクチオニー仮説は最近否定的にみられる傾向があるが、それ自体は、イスラエル法の起源を国家・王国という社会制度にではなく、国家成立以前の部族社会に求めた点にあるだろう(神が中心であるという理解の意味からの神権政治がおこなわれていた部族社会にイスラエル法の起源を求めたといえるかもしれない)。

 

「聖戦」における順序

「聖戦」に関するG・フォン・ラートの議論によれば、古代の聖戦には順番があり、

(1)戦いの開始 角笛による民(民兵・軍)の招集
(2)主の民の集合(アンフィクチオニー仮説との関連)
(3)民の聖別と選出・聖別 このためのくじの利用
(4)勝利の確信の宣言「救済の託宣」「元気づけの託宣」
(5)ヤハウェによる行軍の先導(場合により「神の箱」登場)(出エジプトの再現)
(6)ヤハウェの戦いでは、兵の数を数える、数の論理に頼る作戦計画は冒涜的行為とされる
(7)主役はヤハウェであり、「敵」はヤハウェの敵となる。
(8)「恐れるな、信じよ」と語られる
(9)敵は恐れおののく
(10)戦いの叫び(テルア)によって戦闘の開始
(11)敵が恐怖に陥ったことが報告される
(12)聖絶(へレム):略奪したものを主にささげる。皆殺しとされるが、それは拡大解釈で、略奪品の奉献ではないか。なお、この習慣はモアブ王の、メシャの碑文にも類似表現がある。
(13)「イスラエルよ、天幕に帰れ」との呼びかけがあり、戦闘の終了

 

(この部分を聞きながら、ミーちゃんはーちゃんとしては、こんなことを思ったのですね。イスラエルの民の招集に関しては、専門の軍隊を持たなかった古代イスラエルということは、もっと強調されてもされつくされることはないように思う。時々福音派の人で、古代イスラエルと、近代国家としてのイスラエルを混同して、旧約聖書を無理やり古代イスラエルとこじつけておられる人がいるけれども、鋤や鍬を持ったほとんど戦闘力を持たない農民兵が活躍するところに神が働かれるところに旧約聖書のだいご味があるのであり、マフィアが大好きなUziマシンガンや、世にも恐ろしいメルカバ戦車やクフィル戦闘機なんかを持った人たちに旧約聖書の記述が当てはまるというのは、聖書的な価値観から言ってどやさ、と思う。このあたりは、アメリカの福音派の神学校の先生のブログ紹介シリーズ

 

アメリカ人の福音派の大学教員が、アメリカの福音派について語ったこと

 

アメリカ人の福音派の神学部の大学教員が、アメリカの福音派について語ったこと(2)

 

アメリカ人の福音派の神学部の大学教員が、アメリカの福音派の軍国化について語ったこと(3)

 

からの受け売りではある。)

 

 

Uziサブマシンガン マフィアの憧れ

 

メルカバ戦車

クフィル戦闘機

 

 

(ミーちゃんはーちゃんとしては、民族に対する救済の託宣という指摘があるが、これは預言者や祭司、あるいは士師(Judge)と呼ばれる指導者を通してなされたものであり、実は、これがイエスの言った福音(すなわち解放であり、神の前での回復の宣言がそもそも福音)の原型となっていくように思う。このあたり、あとで書いてみる)


へレム(聖絶)の語義
名詞へレムの用例29か所、そのうち13か所がヨシュア記、動詞形では、ヒフィル形48回ホファル形3回であり、禁止するとか、ささげる、聖なるものとする、聖別するという意味を持つ用法である。この語根から、「ハレム」「娼婦」が派生する。

 

聖書での用例を見ると、名詞へレムは、世俗的な目的には使用不能としたもの、として聖別することを意味する。神への奉納物としたり、廃棄することを意味する。大多数の用例では、使用禁止となったモノを意味している。動詞での用例を見ると、戦利品、つまり、町、家畜、貴金属、捕虜などが「禁制におかれること」を意味するが、そこから攻略した全住民の全滅、町の破壊という意味に拡大される。このような事象が実際に起こったのかどうかは別の問題であるから、聖書テクストを精査する必要がある。

ラートの聖戦論に対する批判は、申命記及び申命記史家による編集者の部分だけを使って、上記のような図式を案出したのではないかと疑われる。また、多くの批判が起きている。

 

ラートの学説に対する批判

ゴットワルトの批判:従来古代イスラエル以外からの並行現象として参照されてきた文献は、ベドウィンなどの戦闘能力の高い遊牧民のものか、国家権力の記述したものであり、国家権力の記述のものは、事故の戦闘行為の正当化のための宣伝としての性格が強い。イスラエルにとっての万軍の主という名は、カナンの都市国家やエジプトからの解放にあたった、解放戦争を戦った「市民軍」にとっての神の名であり、他の古代国家の「聖戦」と、イスラエルの圧政からの解放や共同体の防衛のために遂行された戦闘とは区別される必要がある。  このゴットワルトの批判がそのまま受け入れられるかどうかは、疑問であるが、国家成立以前の部族社会での共同体の防衛戦争の記述に後代の歴史家(いわゆる申命記史家)が排外主義的な「聖戦イデオロギー」を持ち込んだ可能性は極めて高い。比較的史実に近いと思われる士師記などの歴史記述の場合にも、その意味で厳密な史料批判がなされる必要がある。

ヴァイペルトとその関係の研究者は、アッシリア側の神々の託宣による戦争資料(政治文書としてのイシュタルトによる開戦があったとする一種の宣伝文書として書かれた碑文等)を丹念に調べていると、旧約と似た手順であることがあり、ラートが祝祭行事と考えたテルアは、単なる戦闘開始の信号であり、「聖戦」ラートの考えたアンフィクチオニーと結びついた制度ではない可能性を指摘した。ヴァイアペルトは、旧約聖書の記述を相対化するために「聖戦」のかわりに「ヤハウェ戦争」という用語を用いるが、これはアッシリアのイシュタル戦争などとの比較のためである。

この部分は、勝村さんの当日配布されたハンドアウトから拾って、多少は加工しているものの、基本はそのままである。

 

ミーちゃんはーちゃん的妄想 聖戦構造とイエスの生涯
先ほどにも少し書いたが、この部分をおさらいしながら思ったのは、実はイエスの生涯のことである。ビッグピクチャーでみるとイスラエルの戦闘モードとのかかわりが深いのではないか、と思いついたのだ。当否はわからない。以下は、ミーちゃんはーちゃんの妄想、あるいは、思いつきの段階である。

(1)戦いの開始 角笛による民(民兵・軍)の招集
羊飼いが呼び集められた。東方の博士が呼び集められた。
(2)主の民の集合
飼い葉おけの周りの羊飼い
(3)民の聖別と選出・聖別 このためのくじの利用
12弟子の選出 バプテスマのヨハネのバプテスマ
(4)勝利の確信の宣言「救済の託宣」「元気づけの託宣」

神による「これは私の愛する子」宣言
(5)「神の箱」登場(出エジプトの再現)
弟子たちを連れて神の子として歩きまわるイエス
(6)ヤハウェの戦いでは、兵士の数を数える、数の論理に頼る作戦計画は冒涜的行為とされる
からし種のたとえ、パンを配る前には数えない
(7)主役はヤハウェであり、「敵」はヤハウェの敵となる
悪霊の追い出し

(8)「恐れるな、信じよ」と語られる

(ナザレのイエスの恐れるな表現)
(9)敵は恐れおののく
悪霊の追い出し事件
(10)戦いの叫び(テルア)によって戦闘の開始
十字架上での叫び

(11)敵が恐怖に陥ったことが報告されるでの叫び
地震や天変地異
(12)聖絶(へレム):略奪したものを主にささげる

イエスの十字架上での死と身代わりの聖絶
(13)「イスラエルよ、天幕に帰れ」との呼びかけがあり、戦闘の終了
大宣教命令

まぁ、あんまりあたってもないだろうけど、一応、それは考えた。つまり、ナザレのイエスがメシアであるのではないか、と期待がもたれた背景には、諸藩はあったけど、基本的に旧約のメシアがやることのテンプレートに乗っていた、ということが言え、それであるからこそ、ギリシア世界のユダヤ教徒の中でイエスが突出したインパクトを与えたのではないか、と思う。

 

正当戦争と浄化思想と後世への影響
第2討論者の小原克博さんは、キリスト教神学の観点からの討論をされたが、事前に提出されていた山内さんのハンドアウトに、「ヨーロッパが異教徒や異民族との関係をどう築いていくか、という問題と深くかかわっている」との表現が重要であることを指摘しつつ、これが、正当戦争という時に、不浄なものを浄化するという側面を持っており、この十字軍という概念が、ピューリタニズム、また、現代のアメリカにつながっていることを指摘されており、小原さんのコメントでも現代のキリスト教、とりわけアメリカのキリスト教で生鮮志向がみられ、それは、現代のカトリック教徒よりも、プロテスタント側に強くみられるような感じがする。


また、この聖戦の思想とその中での多民族の教化と純化ないし浄化がいつから支配的になったのだろうか。とりわけ植民地化は、聖職を伴う形で、植民地化していったわけで、異民族への対応として、異民族を非常に圧迫していったこととどのような関係があるのかは、もう少し検討が必要かもしれない。

Californiaの探検の模様

カリフォルニアミッションの出発点でもあったSan Diegoのチーム名はPadres(神父たち)である



聖戦の普遍性とその特徴―正当戦争論との比較として
現在では、存在論的な次元での善悪を峻別しようとする傾向がみられ、ヨーロッパでは、ドイツの反トルコ人運動やイスラムの排撃を目指すペギーダPEGIDA(西洋のイスラム化に反対する欧州愛国者)や先日英国国内で、下院議員へのテロ事件を起こした人が加盟していた極右主義団体、アメリカにも白人至上主義を中心とした極右の台頭などがみられる。これらの人々の中では、民族浄化が一種の国家としての一体性Unityをもたらす傾向があるため、聖戦のメタファーが用いられている。とりわけ、米国福音派において聖戦思想が語られていることが多い。(米国福音派の中での聖戦思想の問題は、割と純化思想、民族浄化的なものと結びつきやすく、トランプ候補がどこまで考えていっているかどうかはわからないが、メキシコからの移民の流入禁止、アラブ世界からの移民の流入禁止を主張する背景には、もちろん、経済的な要因(労働市場の賃金低下など)もあるだろうが、異なる宗教、アラブ圏でのイスラム、メキシコおよび南米からの移民に対応するカトリックという側面もある。また、とりわけイスラエルの生存が何でもいいからといって保証されねばならない、従ってアラブ諸国やアラブ系パレスティナ系住民を蹴散らすのは当然かのような主張が、福音派の一部でなされることもある。)

また、聖戦は特定の宗教の主導によってなされるだけでなく、国家が疑似宗教的な力、排外的な愛国心を帯びてなされる場合もある(ナチズム、大東亜共栄圏における理想、ベトナム戦争における民主主義の確立)。アメリカの軍事思想と聖戦が深い関係にあり、その意味で、近代の聖戦は近代国家が作っていった側面がある(以前、ある国際政治学のセミナーで、日本とキリスト教のセッションで講演をしたことがあるが、その時に指摘したのは、1941年から1945年の太平洋戦争は、実は神権国家間の戦争(市民宗教国家アメリカ合衆国 対 天皇宗教国家日本)あるいはイデオロギー戦争、あるいは神の実力がぶつかった戦争であるのではないか、ということである。『富士山とシナイ山』の中に、それを思わせる記述もある)

 

当別神社の石灯籠に刻まれた石灯籠(聖戦の文字が見える)
http://blog.livedoor.jp/ezorider/archives/2012-09-09.html


また、絶対的な目的(大義と戦争指導者はよく口にする)を追求する場合、戦闘員と非戦闘員の区別の原則は、割と簡単に無視される(その出発点は、ドイツ、日本本土への空爆)さらに、世界を戦争状態として理解する場合(相手が悪いという前提で)、戦争という暴力行為が正当化するような道徳的根拠になる。

聖性と暴力の結合と終末論
十字軍という大量の人々を動員するのは、ローマ教皇の呼びかけがあったことはもちろん重要だが、それだけではダメで、一種の終末思想があったことは忘れてはならないと思う。千年王国思想(切迫した終末観、強い救済願望、反キリストの出現の預言からの影響)があったのではないか。広い意味での終末論がどうコントロールするのかが重要である。この終末観は、日本でもみられ、昔でいえば一向一揆である。現代でもオウム真理教がキリスト教由来(というよりは、学研の『ムー』的な世界の中で取り上げられることとなった宇野正美さんの終末論影響)の終末思想をもった。現代神学では、終末論の理解はポジティブなもので、神の前に積極的に自己がなしたことを問われる個としての人間理解につながり、近代的な個が確立されることは、全体主義的な体制をはぐくむ土台となり、社会の現実に対する批判的視座、社会改革への動機付けへとつながっていく。とりわけ、J.モルトマンの諸論や、解放の神学などへとつながっていくのではないか。

また、終末論という観点からすれば、内村鑑三の「非戦論」は、再臨思想を根拠としていた。内村は、戦争の悲惨からの解放を考える際に再臨による回復を考えていたのではないか。

 

次回へと続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Pocket

本日からは、2016年6月19日(日)に京都市の同志社大学烏丸(からすま)キャンパスで開催された公開シンポジウム「聖戦と十字軍」― 現代・歴史・一神教が交差するところ― の参加記を何度かにわたって紹介したい。なお、カッコ内の小さめのフォントで示したものは、ミーちゃんはーちゃんの感想である。全体の感想は、感想のセクションで示す。なお、今回はPCを持ち忘れていったので手書きメモの内容を中心としたものなので、制度は若干落ちていると思っていただければ、幸甚である。

キーノート講演は「十字軍と聖戦の思想」ということで、一橋大学名誉教授で、西洋法制史の専門家の山内進さんがお話しになった。より具体的には、十字軍とは何か、ということで国際公法、とりわけ戦争国際間法制の成立に関する視点と西洋近代の人権思想の出発点としての十字軍という視点からお話があった。

 

聖戦をどう考えるか
まず、聖戦を考える際に、聖戦、正戦(正当戦争)、合法戦争(国際公法上の戦争、現在における合法性を持った戦争)があるが、これらをどう考えるのか、という議論をきちんとした方がよいだろう。特に戦闘の正当化の論理、合法戦争の論理は、第2次世界大戦以降の国際間紛争に深く関与している。(そら、東京裁判とかニュルンベルグ裁判やった以上、そうなるだろうねぇ)

聖戦の6類型
ターナーによる聖戦の類型化を参照すると、


(1) 神の命令のもとに戦われる戦争
(2) 正しく権威付けられた神の代理人により、神のために戦われる戦争
(3) 神自身によって戦われる戦争
(4) 内外の敵に対して宗教を守るために行われる戦争
(5) 正しい宗教を宣伝するか神の権威と一致する社会秩序を打ち立てるために行われる戦争
(6) 宗教的一体性を強制し、かつ(あるいは)逸脱者を処罰するために行われる戦争

 

ということになるらしい。

十字軍の特徴
また、ライリー・スミスによると、十字軍の特徴として、


衣服や武具に十字のしるしをつけていること
ローマ教皇の呼び掛けに対する応答であること
十字軍参加者の贖宥の享受
十字軍参加者の関係者に対する特権の付与(残された家族や、財産や借金からの保護)


があったことであると要約されている。

カトリック世界を作り上げた十字軍
ところで、十字軍とは言われるが、これは、広い意味での防衛戦争ということもでき、とりわけ聖地エルサレムに居住する各国人の人命財産を保護するという意味がないわけではなかった。さらに、そこに当時の1000年期が終わる当時の強い終末感が影響している。また、この十字軍を考える際には、ローマ教皇の存在の意味は大きく、またローマ教皇の権威の確立という観点からも、みていく必要がある。カール大帝・オットー大帝の時代までは、皇帝により任命された教皇という状態であり、国王の権限の方が優勢であった。

なお、神の代理人という形で教皇の権威が増すのは12世紀以降のことであった。その意味で、ハーバード大学のハロルドJボーマンによれば、十字軍というのは社会のシステム改編ともいうようなものであり、聖俗が混然一体となっていた時代から聖と俗が分離していく状況の中にあったと言えるのではないか。その一つがウルバヌス2世のクレルモンの教会会議であり、聖職の叙任は、教会の権限によることが定められた。

クレルモン公会議とウルバヌス2世

 

教皇革命と十字軍

重要なポイントは、教皇革命(教皇の権威の確立)があって十字軍の成立があり、十字軍そのものは、一種の教皇権確立運動と裏腹の関係にあった。また、ウルバヌス2世のクレルモン公会議で十字軍が形成され、その時から聖戦となることになったのだが、その中には、聖戦参加することにより、神の恩寵を得るということになったのであり、その恩寵とは、罪の赦免であり、キリスト教化のための聖戦という一側面も持った。


教皇革命がヨーロッパ内での神の平和と浄化(純化)の思想の反映であったように、十字軍は聖地での浄化の思想であったといえるのではないか。(むしろ、これは、ヨーロッパとしての統一化、共通化、均質化を目指した動きとして理解した方がいいのかもしれない、とは思った。そして、日本のキリスト教理解は、このヨーロッパでの均質化を経た動きとしてのキリスト教をキリスト教と呼んでいる気がする。こう考えれば、その均質化の障害となったヴィザンチン帝国、オーソドックスチャーチへの圧迫は当然と言えるような気がする。)

 

概念拡大する十字軍

拡大する十字軍という動きがみられる中で、

 

伝統主義者アプローチ:エルサレムの解放と防衛を主張するもの

プルーラリスト・アプローチ(複数アプローチ):エルサレム以外にもキリスト教のローマを守る戦争を主張するもの

 

の二系統があり、プルラリスト・アプローチの中には、スペインにもバルト地方や、プロイセン、ロシアやフランス、イタリアやイギリスにまで派遣される十字軍が見られるのなど、かなり拡大したものがあり、破門されたままエルサレムに向かい、ヤッファ休戦協定を結んだフリードリヒ2世を攻撃した十字軍まであった。

 

 

ヤッファ休戦に合意するフリードリヒ2世とスルタン・カーミル


中東でのフリードリヒ2世の宮廷の模様 (左下にムスリム風の服装の人物が描かれている。

ただし、グラティアヌス法令集注釈集成(1188-1190)によれば、「異教徒に対しては正しく(iuste)戦わなければならない」とされている。

十字軍開始の割と初期段階では、フグッチョ(ピサのフーゴー)の主張に見られるように、異教徒への戦いというよりも、エルサレムの自治権回復戦争という側面が強かったが、イノケンティウス3世のころになると、異教徒そのものが正値に存在することが不適切であり、それを追い出すことが正当なのではないか、という理解が出てきた。

イノケンティウス3世

正当戦争論という概念から
トマス・アクイナスは、君主の権威に基づき、正当な原因で、正しい意図で行われる戦争が正当戦争であり、その中でも異教徒の権利は保障されるべきという立場に立っている。ホスティエンシスの正当戦争論としては、キリストの生誕以来、すべての裁判権(iurisdicto)、統治権、名誉、所有権が異教徒からキリスト教徒へと移り、今日では、裁判権、支配権もしくは所有権説いたものは異教徒の下には存在しない、というものである(いまだにこういう物言いを直接していないというものの、異教世界を下位に見る言動をするキリスト教徒がおられるのが、かなわない)。この見解に従えば、そもそも異教徒たちにはそのような能力がなく、キリスト教徒たるものローマ帝国を認めない異教徒たちを攻撃しなければならないことになり、キリスト教国であるローマ帝国を認めないような異教徒たちに対するそのような戦争は、キリスト教徒に関する限り常に正当で合法である。(この辺、アウグスティヌスの神の国理解が、影響しているのではないか、と思った)

ホスティエンシスにより戦争の類型がなされているが、その中でのローマ戦争という概念(キリスト教全体VS異教徒という戦争)を提示し、ローマ戦争は合法であるという立場となっている。(しかし、こうなってしまえば、相手に異教徒というラベルを張って、「キリスト教の敵」と言ってしまえば何やってもいいことになり、この辺が後々問題を生む原因になっており、自分と考えを異とする者に、キリストの敵、反キリストとラベルを張れば、大手を振って何をやっても善いことになる。この辺、現代の過激なカルト的なキリスト教会の協議にも影響の残滓がみられるような気がする。)

コンスタンツの論争
北方に向かった十字軍でもあった、ポーランドとリトアニアの合同軍とドイツ騎士修道会との戦いをめぐって、コンスタンツの公会議が行われたが、この時代、同時にローマ教皇が3人もいた時代であり、そこで、議論が行われたのである。この議論の中で、ヨーロッパの国際法の出発点になった議論があり、神学者たちが正当戦争の問題に対して容喙すべきでない旨の発言が出ている。

 

また、パウルス・ウラディミリは、異教徒にもその個人や彼らの国家の存在が保障される基本的な権利があることを主張したことで知られる。その意味で、聖戦の思想(異教徒の改宗や異教徒の戦いを目的とした戦争)と正当戦争をめぐる議論が行われ、ヨーロッパの国際公法をめぐる戦争とその正当性の基礎の一つになっている。

 


コンスタンス公会議の模様

基調講演(キーノート講演)のおまとめ
ミーちゃんはーちゃん風に山内さんの主張をまとめると、


ローマカトリック教会の成立、とりわけ、教皇権の成立とその内部の純化のための十字軍という性格があること
本来十字軍は、エルサレムにおけるヨーロッパ系諸国民(旅行者と居留民)の保護と自治権の確立ということで始められていたものの、戦争という手段が目的化し、自分たちと意見を異とするものへの戦争と化していったこと

多民族、他の信仰をもつものとの接触が起き、その中で、正当戦争という概念が生み出され、戦争に関する国際公法と、戦争における人権・人道思想が生まれていったこと

十字軍はヨーロッパが現在のヨーロッパとなるための戦争であったこと

 

ということなのかなぁ、と思った。

 

この講演で困ったことと感動したこと

レジュメ類が直前配布で、資料全体に目を通す暇がなかったことに加え、この辺の分野の基本常識がないので大変困った。もうちょっと中世に関する知識があれば、違う面で楽しめたと思う。少なくとも、北の十字軍(最下部参照)とかの本を読んでおけばよかった、と思ったことは確かである。

 

さらに、この講演で困りものだったのが、レジメが異なる2系統配布され、さらにパワーポイントでの発表資料ともこれら2系統が微妙に違い、さらに、別の参考資料(文献の切り抜き)が配られ、聞いている方としては、何を開いて、何を見たらよいのか、混乱が生じてしょうがなかった。

従来の文系(神学関係、法学関係や経済学史関係は読み上げ型発表が多い)の発表よりは格段に参加していて面白く、前提知識がなくてもある程度楽しめる講演であったのではあるが、どうも講演者の方がパワーポイントを用いた発表に慣れておられないのが手に取るように分かるご発表であった。それでも、70歳近い大先生が果敢にも、一生懸命、なれないパワーポイントを用いて、一般にも理解可能なように、視覚的にも表現することを試みられたことは極めて高く評価したい、と思った。

実は、このシンポジウムの面白さは、討論部分である。それを次回以降紹介したい。











 

 

山内 進
講談社
¥ 1,242
(2011-01-13)
コメント:この本を先に読んでおけばよかったと反省しきり

 

 


Pocket

今回は、福音と世界の7月号を読んだ感想を書いてみたい。

 

難民とミーちゃんはーちゃん

ミーちゃんはーちゃんがお子様だったころ、ベトナム難民の方が日本に大挙してボートで訪れたことは以前にもこの記事で書いたような気がする。こんな感じのボート(中古というか老朽漁船)で、日本まで漂流に近い形で来られたのだ。命がけで。

 

 

時々、テレビでは母国での政治と絡んで難民となられた皆さんのことが、ごくまれに、それも思いだしたように流れることがあるが、その実情はほとんど知られていないし、日本は世界的にも難民認定に要する時間が長いことで知られているらしい。あと、難民の政府によって公的に受け入れられた人数が少ないことでも知られているらしい。そもそも、外国人が暮らしにくい国でもあるので、それは仕方がないのかなぁ、と思うが、国際化国際化といいながら、外国人の受け入れと定住しにくい国の一つであることはそんなに間違っていないと思う。

 

ほぼ的中した予測
今回、この企画を先月号の予告で見た段階で、アブラハムの遊牧民としての難民との類似性、旧約聖書のヤコブ一族の難民との類似性(経済難民)、出エジプトでの難民との類似性(政治的難民)、ナオミとルツの難民との類似性(経済難民)、捕囚からの帰還における難民との類似性、イエスの出生の段階での難民との類似性(政治難民)、初代教会の難民(宗教的難民)との類似性などが取り上げられるだろうなぁ、と思っていたが、案の定、そうなっていた。それしかないといえばそれしかないのである。

 

飯論文(旧約テクストから考える「難民」の一断面)では、まさにこのあたりの事が触れられていた。まぁ、予想していなかったのは、アダムとエバが難民に近いのではないかというご指摘と、エリヤが一種の宗教的難民ではないか、という指摘であった。これは想像を超えていた。まぁ、言われてみれば、そういう側面はあるのである。ところが、ミーちゃんはーちゃんとしては、難民問題を書くとすれば、触れると思った、ハガルとイシュマエル母子に関しては、一切触れもされていなかったのは、何とも残念であった。

 

同論文の最後に、近代の文化人類学、民俗学的な研究で中止されるようになった「まれびと信仰」(たとえば、浦島太郎の亀は難民説とか、浦島太郎は難民説とかまぁ、いろいろあるが)が取り上げられていて、それが大事であることについて触れられていた。まぁ、アブラハム自身のもてなしは、これに沿ったものであることは、最近の

「福音と世界」6月号と5月号 を読んだ

で6月号の池田先生の記事を紹介した記事でご紹介したとおりである。

 

 

AUの英雄伝説のCF(浦島太郎編)

 

「人の子には枕する所もない」と題された山口論文は新約聖書、とりわけイエスが、当時の社会の周辺者、周縁者に向けた目線を中心に向けられた世界であり、まぁ、福音派が言う典型的なリベラル派と福音派の皆さんならラベルを張るようなタイプの論文であった。そして、そもそも、ガリラヤ地方、あるいはナザレそのものが、周辺者で居場所を失った人々の世界であり、そこで、ユダヤではなく、ガリラヤを中心に神の国をイエスが伝えようとしたことの意味をくみ取ろうとした論文であるといってよいと思う。とはいえ、まぁ、ちゃんと、この論文での解釈は解釈の一つの可能性に過ぎないことが、文末には加えられている。そして、このような寄る辺(居場所)のない人々とどのように教会が現代において向き合っていくのか、ということを述べておられる。

 

「敵意に抗う歓待の福音」と題された金論文では、欧州で問題になったイスラモフォビア(イスラム憎悪症)やシャルリー・エフド問題に加え、いわゆる川崎辺りでのヘイトスピーチなどを取り上げておられる。そして、最後の結びの部分で、デリダの議論を取り上げ議論しているが、別にこの議論はデリダを借りなくても、できたのではないか、と思う。その意味で、ある面社会派らしいという論文ではあるが、著者の方の特性のひとつであるそもそも日本社会で周縁におかれた人々からの視点の問題提起であった。

 

橋本論文「ドイツから見る難民と教会」では、ヨーロッパから難民が流入し続け、それを受け入れることを国是としてきた国家としてのドイツとそこの中での教会の取り組みに関してまとめた論文であり、難民の受け入れにあたって、6つの取り組みをしていること、異文化との出会いの場を提供する、人々への注意を喚起する預言者的態度、他者理解のファシリテータとしての役割、ネットワークの基盤、そして、難民に対する護民官(弁護者)的態度などがあることのではないかとある牧師のレポートに沿う形でまとめている。

 

受け入れ側の論理と出てきた側の論理のずれ

と、まぁ、ある面、想定の範囲内であったのと、この特集が、ある面難民問題に対して19世紀から20世紀型の国民国家という枠組みの中で、受け入れ側の国としての教会側での対応やその論理をどう考えるのか、ということに焦点を当ててまとめられた特集であったので、その難民問題のそもそもの出発点とその前提条件をどう考えるのか、ムスリム側で何が起きているのか、ムスリムがそのように行動するのはなぜか、ということまで含めて考えられていないのは、ちょっと残念であったのだ。たまたま同時期に、『イスラームとの講和』と題された内藤正典氏と中田考氏の新書を読んでいたということもあるからではあるかもしれないが。難民問題を考える点で、この本から示唆を受けることの方が、よほど多かった。以下その内容をかいつまんで紹介したい。

 

「神」がほとんど機能してない西洋

中田 そうですね。その現状は「難民問題」といわれますが、そういっているのは我々を含めて豊かな国にいる人間であって、シリアからようやく逃げてきた人たちにとっては、まさに目の前で国境が閉ざされる、無理に超えようとすれば撃ち殺されることもある。正に「国境問題」なわけです。

内藤 ええ、もともと国境という意識が希薄なシリア人にとってみれば、どうしていきたいところに到達できないのかと。しかも、病人も年寄りも子供もつれているのに、水や食料さえ分けてもらえないのはどういうことなのだろうと疑問に思う。前にも話したとおり、このあたりの国教など、わずか100年前に惹かれた戦に過ぎないわけで、それまでは、シリアからヨーロッパまで商人たちは都市から都市へ割と自由に移動することができた。

中田 そうですね。

内藤 ある報道では、ヨーロッパのある国にたどり着いた難民の人が、警察官に「水をください」と頼んだらこと我れたと。「お前に水をやるのはおれの仕事ではない」と警官は答えたそうです。まさしくこれが、国家というものの矛盾を明らかにしていますね。警察官にしてみれば、自分の国家が決めたルールを守っているだけでしょうが、目の前に水すら得られなくて困っている人間が表れたときに、国家も民族も関係なく水をいっぱい差し出すのが人間ですよね。些細なルールを間もおることがどれだけ大事なのですか。

 一方でこれがムスリムだったら、即座に助けます。トルコが結局国境を閉めなかったのは当然なのです。やはり球場にあえいでいる人をその中に閉じ込めて見殺しにするということはイスラームの価値観に照らしてできないですから。

中田 はい、困っている人を助けるのは、イスラームの義務ですから。

内藤 ムスリムたちに取って、人助けは神が課した義務ですよね。(中略)ところが西洋ではほとんど「神」が機能していませんから、義務といえば国家がかしたものぐらいしかない。目の前に困った人がいても、一人の人間として処遇しようと思えないのですね。国家の論理で行動すると、こうした矛盾がいくらでも出てくる。

中田 それなのにヨーロッパの人達は「人権が大事」といっているので、まさに偽善が生じる。( 『イスラームとの講和』  pp.75-77)
しかし、内藤さんという方の

 

西洋ではほとんど「神」が機能していませんから、義務といえば国家がかしたものぐらいしかない。

 

 

という指摘は「神」が機能していないのではなくて、神そのものは機能しておられるのだが、「神」にあるものとして神の国の果実を地にもたらすという信仰者の機能が機能してないのは、確かにそうだなぁ、と思う。それは、「クリスチャンであるとは」という本で、NTライトが繰り返し指摘していることである。

 

 

 またこの傾向は、西洋近代の社会システムと、西洋近代のキリスト教を輸入(米国経由のものの方が多い気もするが…)して、それを保存している、あるいは温存している、あるいは正倉院御物のように保管している日本のキリスト教でも、キリスト者の義務というかミッションといえば、日曜日の教会参加と、献金くらいになっているという教会も案外多いのではないか、と思うのだ。本当はそうではないと思うのだが。神の国が来たということを生きることを通して、生きていく中で出会っている自分と違う考えの方々(他者性を持った方)に、ウエメセではなく、誇るでもなく、街宣車に乗ったり、ラウドスピーカーで広報することなく、神がよい方であることを善きことをさり気に行うことの中で、さりげにお伝えするのがキリスト者の義務のような気がするのだが…。

 

そもそも、近代の国境概念、近代概念のないムスリム
 同書の中で、ドイツでの移民や難民に関する国籍問題に触れた後、中田さんは次のように言う。
中田 そもそもムスリムは「世界市民」的なものですから、国の概念とかあまりないんですけれど…
さらに、スコットランドが弱者に対して優しく、人が笑いかけるという内藤さんの話題の後、
中田 中東と同じですね。中東の人も顔が合うとみんなニコっとします。
内藤 しますよね。
中田 ただパキスタン人だけは笑わないので、最初は怒っているのかと思ったら、別に起こっているわけじゃない。どうもインド亜大陸の人たちは意味がないと笑わない習慣の様ですね。中東の多くは遊牧民ですから、定住せずに家畜と一緒に移動しますよね。国家や国境意識が薄いのもそのことと関係が深いわけですが、彼らが移動する土地は、砂漠だったり、かなり自然条件が厳しいですから、人と出会ったらお互いに助け合わないと死んでしまう。代々助け合って生きてきたので、人と出会ったらまず、「私はあなたに敵意はありません。助け合いましょう」という意思を示す。厳しい環境の中では、それが最も合理的なのです。(pp.95-96)

 

まさに、彼らはアブラハム、イサク、ヤコブの神と祖先のことをいった頃からの生活を、延々数千年間にわたり彼らは続けているのだ。その意味で彼らは父祖の物語の中での生活をそのまま実体験で21世紀やっているにすぎない。食うものがなくなれば、食い物があるとこに行って、時に武力を使った実力で、あるいは、技術力や持てる資産(金や銀の装身具や奥方の美貌)を使った実力で、またはその地の支配者(王たち)の温情に縋りながら食わしてもらい、流動民として、寄留者として、遊牧民として、過ごしているにすぎない。まさに、アブラハムの生きた生き方をしているのが、現代の中近東でもおられるし、それを、国内での内乱が起き、軍隊が動いて内戦が起きたので、やったら、行き場を失ったというのが今のシリア難民の姿でもあるように思う。

 

 

 まぁ、現代人感覚で、「まれびと信仰」でアブラハムが神の人と見える人を世話した、という見方もできるが、それよりも、旅人で、苦労している人と自分が旅をしていたころの姿を重ねて、助け合いの一環として、もてなした、という方が普通のように思った。

 

 

イスラム社会、中東社会の複雑さ

 

中田 そうです、先ほども触れましたが、例えば日本から見ると、シリア人難民はサウジアラビアとかクウェートとか、お金がたくさんある同法の国へなぜ向かわないのかと、不思議に思うかもしれません。中東諸国の多くは植民地から独立を果たして作られた国家ですが、独立を進めたエリートたちは西洋の教育を受け、非イスラーム的領域国民国家システムの中で育った人たちです。ですからシリアのムスリムたちはそこへ行け無いのです。止める同法の国に行っても信仰生活の自由が得られないと分かって居る。これはあまり語られてないないし、日本に居るとほとんど見えない問題ですが、もはやイスラーム圏の中にもシリア難民が安心して逃げていける場所がない、ということが最大の問題です。(p.111)

 

日本では、中東があまりに遠い。「油田があって、ラクダがいて、砂漠があって、その中に浮いたようなドバイがあって」という程度の認識があればいい方ではないかと思う(どうせ、向こうも、侍、アニメ、コンピュータゲームの国くらいしか認識していないからお互いさまである)が、中東の問題、特にイスラームの問題は、結構面倒なのだ。有名なシーア派とスンニ派だけではなくクルド独立問題が絡み、更にサウディアラビアとイランの石油の経済的利権(イランは結構埋蔵量が多いのと、経済制裁で禁輸措置を喰らっていたので輸出したくて仕方がない)問題などが絡み、また、サウディがイスラム教シーア派の有力な宗教指導者ニムル師の死刑執行をして、イランの国民感情を逆なでしたことは記憶に新しい。イスラムは一枚岩ではないのだ。

 

外国人に対する日本社会の中の排他性

 

なんか、他の本の紹介になってきたので、『福音と世界』に戻るが、今回の記事で一番面白かったのは、日本における難民支援の実像を描いた石川論文「日本における難民支援」という論文であった。この記事の冒頭でも触れたが、日常あまり意識することのない、日本社会における政府系の難民支援と、ボランティアベースの民間の難民支援とのかかわりを当事者の視点から描いているという点で面白かった。神学的な中身が必ずしもあるわけではないが、政府見解ではない民間の難民支援機関の当事者の立場からの意見の表明という意味で面白かった。何が面白かったかというと、冒頭の部分が面白いのである。夜間か早朝の雑居ビルの事務所前にたむろする難民、そして、とりあえず朝食をとるか雑居ビルの事務所の一角にごろ寝するスペースを作って休んでもらう、シャワーが無いので、男性トイレでとりあえず水浴びする難民、まぁ、その苦労たるや想像を絶する感じがある。

 

 そして、「おわりに」の部分でかかれた冒頭の次の一文であった。

 

 

難民支援を通じて私自身が感じているのは、制度面の日本社会の中の排他性、社会的排除である。

 

 

を想いながら、一方で国際化と称して、時刻に取って都合の良い国際化(これはわが国だけではない)を言い、時間限りで来てくれる外国人労働者、家政婦労働者、介護職関係者を欲しがるこの国の姿になんだか割り切れないものを感じる。まぁ、英語が喋れないこともあるのかもしれないが、これは日本の教会でも同じだと思う。

 

 

教会で知り合ったあるアフリカからの留学生ご一家や昔いた教会に来ていた留学生の方をお世話したことがあるが、基本的に彼らは同じキリスト者として、そして、神の家族として迎え入れられると思っていたのだが、日本の教会では、どうも受け入れてもらえなかった、ということを言っておられたのが印象的であった。言語の壁だけではなく、外国人というだけで、自分たちで固まってしまって、外国人を前にして、教会内でハドルを組む日本人信徒という構図になる教会は多いのではないか、と思うのだ。

 

 

 そもそも日本の教会派、異郷の地にあるので、神の武具を身につけて、世に対してハドルを常時組んでいて、教会に立てこもっていて、そこで常時ハドルを形成している節もないわけではない。

 

 

 

アメフトのハドル

 

ところで、外国人への対応がむごい、という意味では、皆さんはご存じかどうか知らないが、わが国では、ほぼ日本の年金の恩恵を受ける可能性のない留学生の学生にも年金を納める義務があるらしい。以前世話した留学生が、授業料が払えなくなったので、わけを聞いてみると、年金関係の事務で行き違いがあって年金未納者扱いになり、銀行口座が差し押さえされてしまったらしく、それで授業料が払えないという事案が発生した。この辺の役所の論理に縛られた外国人対応のむごさなどを考えると、一体何なんだろう、と思ってしまう。

 

若干突っ込み不足かも

あと、今回の記事で、「現代の人身売買/人身取引をニューヨークで考えた」という女性に関する人身売買の宍戸氏のレポート記事も、切り口として面白かったのだが、いかんせん聖書的な側面からの突っ込み不足であったのは否めない。もう少し、この号に載せるのであれば、人身売買としての奴隷制度と旧約聖書とか、あるいは地中海世界の奴隷制度との違いとか触れてもよかったんではないか、と思うけど。

 

 

まぁ、この雑誌のこの号は買いかと言われたら、是非にとは言わないが、買って損した気にはならなかった(なぜならば、レヴィナスに関する連載があったり、南洋伝道の記載があったり、辻さんの新約聖書の釈義や、月本さんの詩篇の講解など、圧倒的な連載を持っておられる執筆者集団のゴージャスさがあり、そして面白い連載があるからではある)とだけは申し上げておこう。

 

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

評価:
内藤 正典,中田 考
集英社
¥ 821
(2016-03-17)
コメント:非常に示唆的であった。

評価:
N・T・ライト
あめんどう
¥ 2,700
(2015-05-30)
コメント:お勧めしています。特に最後の方の章がよい。




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今回は、最近出版された『教会では聞けない「21世紀」信仰問答III』のご紹介である。いやぁ、この本、実に攻めている。こんなことは確かに「教会では聞くに聞けないと」いうことに、一定の回答が出ているし、また、その解答例が面白いのだ。通り一遍な回答ではない回答が示されていることが多い。

 

第1章 ココロの癒しを求めて… から

第1章で気になった質問をひろってみると、

 

心の病は神の罰?
感謝できるようになるには?
救われている実感を得るには?
教会の人間関係が煩わしい
どうしてもゆるせない人がいる
さばき合う教会員にこころが痛む
死への恐れは不信仰?
地獄に落ちるのが怖い

救われている実感を得るには?の回答から拾ってみたい。
毎週礼拝に通い、熱心に祈り、献金もしているのに救われているという実感がありません。

「救われているという実感」ですか…。なかなか難しい問題です。あなたは毎週教会に通いお祈りも献金もできるのですから、客観的に言えば周囲の理解にも、体力にも、知力にも、経済力にもそれなりに恵まれているように思います。しかし、それだけでは満たされない何かを感じていらっしゃるのですね。
(中略)
大切なのは「あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分の様に愛しなさい」(ルカ10:27)を実行することです。そしてその際のポイントは、「誰が私の隣人か」ではなく「私が誰かの良い隣人でああろうとしているか」です。「善いサマリア人」の話ですね。
言うまでもなくキリスト教のシンボルは十字架ですけれど、これもイエス様による救いの大切な二つの側面を示して暮れているように思います。縦の棒は十字架にかけられたイエス様の生涯と教えにより天の神様と地上の私たちが合いのきずなで結ばれること、横の棒はイエス様の生涯と教えにより私たち同士が隣人として愛のきずなで結ばれることです。十字架が十字架であるためにはこの横棒と縦棒の両方が欠かせませんし、横棒と縦棒のバランスもとても重要です。
あなたはもう既に神様とのつながりをお持ちなのに救いの実感がないとおっしゃるのですから、一度隣人とのつながりについてよく考えてみてはいかがでしょう。
(後略) ( 教会では聞けない「21世紀」信仰問答III pp.18-19)

救われている実感がないクリスチャンというのは案外多いのかもしれない。何かすれば、救いの感覚がやってくる、あるいは特殊な感情が与えられる(それ自体は、ミーちゃんはーちゃんは否定しない)と思っている方が多いのではないか、と思う。確かに、「神からの声を聞いた(様な気がする)」という人は案外多いのだ。なお、個人的には、そういう声を経験したことはない。あるいは、「異言が語れるようになった」という経験(これもまた、ミーちゃんはーちゃんは否定しない)を持つ人々もおられる。なお、個人的には、生まれてこの方、マシン語やFortran77やPascalやVisual BasicやC言語、Pythonで計算機に向かってしゃべることはあるが、それはまぁ、祈りとは言えない。

 

救われている実感とは何?
異言が喋れたら、救われている実感があるのか、というと、多分それもないだろう。異言が喋れたからといって、その時の高揚感というのはあるかもしれないが、それは救われている感覚につながるかどうかは、かなり怪しいのではないか、と思う。あるいは、「神の声」を聞いたら(聞いたような気がしたら  そういう経験を持つ牧師先生を存じ上げている)、救われている実感があるのか、というと、それもないだろう。ただ、瞬間的な経験にとどまらず、その人の生き方を変えるものになるかもしれない。しかし、それは、救われている実感なのだろうか。あるいは、ここで回答者の方が提言している、「他者に対する愛を示すこと」で、救いの実感が得られる、ということももちろんあるだろうが、それが、そのまま「救われている実感」に直結するのだろうか。 そもそも、「救われている実感」とは何か、ということが問題なのではないか、と思うのだ。

 

救いって何?
「救われている実感」は、確かに人間としてはほしいかもしれない。とりわけ、現代という人間が中心となった社会である日本に生きるキリスト者としてはある面、当然の願いだと思う。これは、「救い」ということをどう考えているかどうかにかかっているように思うのだ。「救い」というのは、簡単なようで、案外難しい。「救い」がわからないと、当然のことながら「救われている実感」などわかろうはずがない。きちんと「救い」をご説明の教会もあるが、それを何となく「あんな感じ」「こんな感じ」「死んだら天国に行けること」「死後にさばきに合わないこと」といった説明をされている教会も多いのではないか、と思う。

一概に間違いとは言えないが、ほかの方はどうかは知らないが、ミーちゃんはーちゃんはそれでは不十分ではないか、と思うのである。

では、ミーちゃんはーちゃんにとって、「救い」とは何か、であるが、かなりはしょった言い方をすると、それは「神と共に生きる」ということだと思う。つまり、「神を意識して生きている」ことだと思う。その意味で、この人は、神に向かって祈ったり、聖書を読んだりしているのであれば、その祈りの内容がどうであれ、聖書理解がどうであれ、「神を意識して生きている」のであるので、救われているはずなのである。それが、「神を意識して生きている」ということだと思う。

 

「救われている実感」とは
「救いのおまけ」の部分のことかも?
しかしながら、「救われた実感」がないのであれば、「神を意識して生きる」(神様のつながり)に伴って生まれると思い込んでおられる幸福感とか、満足感とか、豊かさとか、霊的な経験とか、聖書が理解できたという感覚とか、特別な経験を求めておられるのではないか、と思うのだ。それは、「救い」の付属物、おまけ、ついでに得られるものにすぎないように思う。それは、救いのおまけであって、救いそのものではない。「救い」とは、神と共に生きるということであり、本来の人間のあるべき「神のかたち」の回復だが実現していることではないか、と思うのだ。やや極端な物言いであるが。

したがって、それを実体験したければ、イエスに出会うこと、つまり、他者としての隣人を愛することに生きてはどうかというこの回答者の方のご回答は、極めてまっとうなものであると思う。他者としての隣人を愛する、すなわち、この地にある他者の中にある神の形、すなわち、他者の中にあるナザレのイエスと出会うことが大事なのである。

プロテスタントでは、共同体意識が極めて希薄であり、神様と私、十字架の縦棒の関係だけが極めて強いように思う。それがない故に、自分の内なる「神のかたち」だけしか見ない、他者性の「神のかたち」ということが極めて薄い、西洋近代文化に影響を受けたキリスト教ゆえの疑問なのかもしれない、と思った。おそらく、正教会系のキリスト教であればあまり感じない質問かもしれない、と思ったということだけでも書いておこうか、と思う。

第2章 愛ゆえに人は苦しみ…から
愛ゆえに人は苦しみ、と題された第2章では
未信者と結婚してもよい?
未信者との結婚式を教会でもしてよい?
お坊さんとは付き合えない?
事実婚でも構わない?
婚前交渉はしてよい?
「御心だから結婚して」といわれたら?
離婚は罪?
牧師に口説かれて困っている
牧師に手を握られるのは嫌

しかし、この章は責めていた。上で取り上げたのは、質問の一部でしか無いが、これだけ見ても、せめているし、教会生活の長い間で聞いたことがあるような話題だし、また、このようなことを一般的な形できちんと回答しているものもないわけではないが、一問一答形式で答えているのは、非常に面白い。

つい最近も、広島辺りで某教会の牧師が売春をしたという新聞報道が出てきたが、こういう問題は時々起きているし、こういう問題、特にセクハラ、パワハラ関係は、結構あるようだ。従来、キリスト教業界では、このようなことはない、として蓋をしておくのが通例であった。しかし、この本は、その通例、慣例を破って、質問に答えるという形ではあるものの、実に適切な回答を示していると思う。

 

 しかし、牧師に口説かれて困っているのは、もうパワハラまがいだし、牧師に手を握られるのが嫌だと感じる人がいるなら、それはセクハラである。これは、そのような問題を起こしている教会ではさすがに聞けないだろう。もし、その教会がある教団の一部であれば、その教会を超えて、教団直訴、とかは可能だろうけど、教会内のことは教会内で、とかいう形で差し戻される例は多いだろう。単立教会ならば、もう教会を離れるしかない。しかし、このようなセクハラ事案、パワハラ事案では、それでは解決がつかないのではないか、と思う。

 

 まぁ、こういう深刻な、責めている解答例はちょっと置いておいて、割とよくある質問とその回答をご紹介してみたい。

 

未信者との結婚は?
結婚を考え牧師に相談したところ、未信者であることを理由に反対されてしまいました。キリスト者以外との結婚は避けるべきでしょうか。(20代男性)

A
結婚は、カトリックではサクラメント(秘跡の一つ)に数えられ、プロテスタントでも結婚は教会に通っておられる方への牧会の中に含められます。しかし、一般の人からも教会で結婚式をあげたいという申し入れがありますが、私は次のようにしています。そういう申し入れがあると、まず礼拝へご出席ください、そのあとに儀式担当者との打ち合わせをしてもらいます、と伝えます。基本的に教会に来ている人の結婚式をあげる。先に申し入れから始まっても、礼拝出席を通して受け入れる。このようにして、一般の方の結婚をも牧会の中に含めています。
さて、未信者である理由で反対されてしまうとは、信者同士の結婚式以外は公開で行わないという理由ですね。そういう場合、キリスト教結婚式場も随所にありますし、結婚を通して、信仰に導かれるかもしれません。「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻の故に聖なるものとされ、信者でない妻は、信者である夫の故に聖なるものとされているからです」(Iコリント7:15)。初代教会では、既に結婚している人が信仰に入るというケースがほとんどだったろうと思われます。そういう状況の中でのことばです。
結婚は、両者が同意しての決意であるととともに、その決意は神様の導きです。未信者との結婚も、生涯を通しての結婚生活の中での証しに掛かっています。そのことから考えられたらよいのではないでしょうか。最後に、「結婚は神様が定めてくださったことですべての人に尊ばれるべきであります」「神が結び合わせてくださったものを、人が話してはならない」(結婚式文より)。信者、未信者を問わず、結婚は神様の祝福です。
カトリック教会(なぜか、ハリストス正教会は出てこないのが実に残念)では、サクラメント(神秘的なこと、神の名において実現すること、神の名のもとで教会で起きていること、神の名のもとで起きること、神のもとで教会でなすこと、教会がなすこと)の一つに結婚が入っているが、プロテスタントでは、それをサクラメントに入れていないところが多い。なぜ、そうなのか、ということはイエスの直接の命令としては、聖書に書いてないからだ、というのが恐らく理由だとは思うが、このあたりの事は、どこまで広く教会の中で議論されているかというと、あるいは、牧会者レベルで、また、キリスト者個人のレベルで考えられているか、というとかなり疑問ではないか、と思うのである。

 

結婚に対する教会の態度の揺れが反映した回答
ここで、プロテスタントでは、サクラメントではなく、牧会という牧師の判断の中での自由度がある中で行われているということになり、それは、プロテスタントの中では、ある程度揺れ幅があり、個別牧師の最良の働く分野であると、回答者の方はお書きのように見える。概ね、それは間違った表現ではないと思う。また、信者さんでない方の結婚も、何度か教会に来る中で、厳密な信者でなくても牧会の中で認める、という立場に立っておられるようだし、後の記載の中で、未信者の方の結婚の場合には、教会でなくてもキリスト教会ではないけれども、キリスト教結婚式場もあるとおっしゃっておられることから、回答者の方は、絶対未信者の方との結婚は認められないというお立場であることが推測されるものの、第1コリントの解釈は、結婚後の人に新約聖書当時に限り認められたことではないか、とかなり苦しい回答をしておられる。パウロが書いた時代に限り、両方共が信者でなく結婚したら第1コリントの解釈は適用可能だけど、現代において、片方がキリスト者で、片方がキリスト者でない場合はどうか、考えてね、という風に第2段落の回答は聞こえる。

 

 とはいえ、第3段落の回答では、生涯にわたる証しで、配偶者の人が変わるということもありうるので、そこから考えたらいいのでは、と書いて居られ、その最後が信者であるか信者でないかにかかわらず、結婚は神様の祝福だよ、とも書いておられる。

 

 これでは、まるで、判じ物である。

 

 

江戸期の地名の判じ物 (原画と答えは、 http://www.ndl.go.jp/landmarks/quiz/)
(左上から、上野、赤坂、四ツ谷、目黒…だそうである) 

 

で、結局、どうしたらいいのか?という明白な答えにはなってない。それはそうだろう。まぁ、要するにその教会の牧師と相談してね、ということのようだ。まぁ、個別の教会での案件に別の教会の牧師が首を突っ込むというのはなかなかできないし、このあたり、実に判断に迷うところでもある。こうだ、とはなかなか自分の教会でも牧会者といえども、なかなか言えない部分なのではある。その意味で、判じ物めいた回答になるのは仕方がない。

 

その昔の結婚にまつわるカトリック教会の反動ということもあり、プロテスタント諸派では、サクラメントであるとは言いきれない以上、 プロテスタント諸派では、牧会という教会の方針と実際の対応における揺れが容認される範囲の中で、何とか納めなければならなくなってしまっている側面があり、それがここにも表れているのだと思う。

 

クリスチャン同士の結婚なら、問題はないのか問題
クリスチャンなら、何でもいいか、クリスチャン同士の結婚なら、完全に祝福されたものになるか、というとこれがそうでもない。例えば、クリスチャンでもDV癖がある男性信徒や女性信徒はいないわけではない(さすがに女性のDV妻は数が少ないらしいが)。教会とDVの問題は、第3章であるので、お読みに読まれるといい。アメリカでは、敬虔だと思われている教会員の家庭の中でのDV問題は結構ないわけではない。

 

あるいは、虐待経験が子供が生まれ、育っていく中で、記憶が再現し、結果として虐待が発生する事例も起きる。それを信仰の力で、意思の力で止まればいいが、それが困難な場合があり、それが生命を危険にさらす場合もある。まぁ、教会内でそんなことはない、と強弁されたい方のお気持ちも分からないではないが、セクハラ牧師もいれば、買春牧師もいるのが現実である。世の中、そう聖く、正しく、美しくとは言ってはいられない、悲しく、そして直視しがたい現実はある。

 

いやいや、そんなことはないという詭弁や、あそこは何とからだから、ここはそれとは違うから、といっても、人間という欠けあるものがする以上、それは避けられないというのが、そもそも聖書の主張ではないだろうか、という面はあると思う。

 

空から降ってこない結婚相手

そこらにゴロゴロ転がっているわけではない結婚相手

ところで、こないだ、ある所で牧師さんとお話する機会があり、「20代、30代の女性信徒の問題が深刻なのですけど、どこかにいい男性信徒は居ないんですかねぇ、そういう出会いの機会とかはないんですかねぇ」というお話になったが、正直言って、どの教会も男性信徒は少ないし、結婚を考える年齢の男性信徒がいたとしても、なかなか結婚したいと思えるほどの男性信徒は少ない場合が多い。教会の男性信徒が幻の生物もどきであることを水谷さんのブログでは、

 

 

で書いて居られるし( まさにツチノコのごとく、目撃情報は聞いても直接の生息確認も、誰かからの捕獲報告を聞いたことがないほどの男性のことがツチノコ男という意味らしい )、結婚してない30代とか40代の男性信徒は、他の方にご紹介する場合でも、うーんと悩むような、いろいろとややこしい特性をお持ちのことが多い。

 

まぁ、水谷さんのこのシリーズではないが、

 

 

というのはいささか、暴論だとは思うが、女性信徒の中での一種の課題という一面をついていることも確か。これで、この20代の男性質問者のように、信徒でありながら、未信者と結婚したいとなれば、教会内にお年頃の女性信徒を抱える教会の牧師さんからしたら、青天の霹靂、天地鳴動、空が割れてバキシム登場の世界であり、それは困ることになるように思うのだ。「なぜに彼は私たちという女性信徒を差し置いて…」とか女性信徒からは言われそう。結構ここらの空気感というか動揺は若い信徒さん、特に女性信徒さんが多い教会内では影響を与えることがある。

 

ウルトラ怪獣 パキシム(空が割れて登場する)

 

プロテスタント系教会では、結婚がある面サクラメントでないことで、良いこともあることは間違いない。サクラメント理解を強く前面に打ちだしてしまうと、教会が国教会でもなく、地域コミュニティと一致していない現段階においては、女性信徒と男性信徒のバランスが悪いので現実問題、結婚できない女性信徒が出て来ることを容認せざるを得ないようになってしまう。また、本人の意図とは関係なく、つり合ういそうだから、という理由で本人の意に染まない結婚なんてことも起きないとは限らない。この辺、実に微妙なのである。

 

司牧の方が、信徒の結婚問題に関して何も努力をしてないわけではないし、真剣にこの問題について、悩んでおられる司牧の方が多いことを知っているだけに、現代日本での教会と結婚の問題は、実に悩ましいのだ。

 

バプテスマも結婚も出産も
死もゴールではないけど…
 続く最後の第3章「結婚も出産もゴールではない…」では、結婚後の人生の歩みや教会生活などが取り上げられている。まぁ、ここも従来足の裏を土につけたことがないほどのキリスト教関係ではタブーとされた質問に果敢に答えていらっしゃる。その限界に挑戦する姿には頭が下がる。
不妊もみ心とあきらめるべき?
子どもが教会に疑問を持ったら?
信仰継承には強制は必要?
「牧師夫人だから……」といわないで
牧師が離婚してもかまわない
父の説教を御言葉として聞けない
信徒にDVの疑いがあるときは?
日曜日は家族と過ごしたい
こういう質問が、本来は教会でも自由に出来ていてもいいはずなのだが、その辺、日本人ならではの遠慮がこれを指せないのかもしれない。
Q.信仰を継承するうえでは多少の強制はいつようだと思うのですが、やはり無理強いすべきではありませんか。
 
A.
信仰は魂の問題であり、最後のところ神と当人の問題ですから、親がいかに信仰を子に継承したいと思っても強制することはできないように思います。
教会に行くこと、あるいは、聖書を読むことは強制できるかもしれません。しかし、神を信じることは、強制や努力とは別のことのように思われます。
親に反感を抱かせ、神を嫌いにさせることにおいて、信仰の強制程注意すべきものはありません。
私の友人であるクリスチャンのご夫婦は、お子さんが誕生した日から(おそらくはそれ以前からでしょうが)毎夜お子さんのために祈り、お子さんが言葉を理解するようになるとそのお子さんを加えて3人の祈りとなり、お子さんが親元を離れると再びご夫婦の祈りとなり、お子さんが30歳になる今も続けられています。
「信仰を持ちなさい」「教会に行きなさい」「聖書を読みなさい」という言葉の代わりにこのご夫婦は、30年間、合わせて1万1千回の祈りを持って、お子さんが神を信じ、神の祝福のもとに生きることを祈り続けています。
なぜ、信仰を強制しなければならないのでしょう。幼い子が、自分をかくも深く愛してくれる親の信じる神を、親と同じように信じるようになるのは自然のことです。
親の語るひとつひとつの言葉、ひとつひとつの行為が、幼い子に伝えられる神のメッセージとなり、子は親によって神を知ります。
神は正しく、恵み深い神であり、「一人子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ福音書3:16)方であることを、親を通して体験する幼い子に、信仰を強制する必要はないものと考えられます。(pp.88-89)

 

もう、何より驚いたのは、「神を信じることは、強制や努力とは別のことのように思われます。」そうなんだよね。信仰ってプロセスであるのだけれども、それを強制とか努力とかって、旧ソ連邦や、文革時代の中華人民共和国や、某お近くの国のように強制収容所に入れて、教育して・・・・なんてねぇ、それがいかに無益かってことは、旧共産主義国を見ればわかるように思う。ロシア共産党は、ロシアのおばあさん(バブーシュカ)には勝てなかったのだ。強制したところで、人間がすることは、口では信仰を持ったというが、実際には、信仰をもってないことなんか当たり前なのである。
ただし、この二重性は、クリスチャン二世を苦しめるのだ。「自分たちは、本物の信仰者でない。親から言われて、教会に通い、聖書を読むが、それでも自分自身の信仰に疑念を持つが、本当の信仰者ではない」という疑念にさいなまれるのだ。その上に、教会で「疑念を持つようなものは信仰者ではない」といわれる、というようなことから、2重、3重に苦しむクリスチャン2世や3世もいる。そうでない人々も結構いるけれども。

 

神を嫌いにさせかねない信仰の強制

そして、強制的に信仰を強要したり、本人が受けたいというのに、親がまだまだだ、とかいって洗礼を先延ばしにするようなことの中で、たしかに、「 神を嫌いにさせることにおいて、信仰の強制程注意すべきものはありません 」という指摘は大事だと思う。ある面、強制したところで面従腹背で、挙句の果てに、神が嫌いになってしまったのでは、イエスの死は全く無駄に終わってしまうことになりかねない。あるいは、地獄話を延々と繰り返して、恐怖心から神に従わせる、などというのも個人的にはどうかなぁ、と思う。まぁ、個人の信仰の部分なので、まぁ、ご勝手にとは思うが、個人的な聖書理解とは合致しないとだけ申し上げるにとどめる。

 

まぁ、途中回数が問題のような記述もないわけではないが、親が子を思う気持ちという程度を分かりやすく回数で書いただけにすぎなおのだろうと思う。

 

しかし、次の部分は、カトリックか、正教会の聖書理解に近いかなぁ、と思った。生まれたたら、とりあえずバプテスマを授けて、家族共同体での信仰で個人の信仰をはぐくむという在り方である。実際にも、この回答者の方は、そのような側面があるということを考えておられるのだと思う。
なぜ、信仰を強制しなければならないのでしょう。幼い子が、自分をかくも深く愛してくれる親の信じる神を、親と同じように信じるようになるのは自然のことです。
親の語るひとつひとつの言葉、ひとつひとつの行為が、幼い子に伝えられる神のメッセージとなり、子は親によって神を知ります。
どうしても、個人としての私と私と神が中心で、個人の信仰を重視する信仰を、これまでの多くのプロテスタント教会の人々は持ってきたような気がする。その意味で、この回答はプロテスタント風ではない回答だけど、この回答はいいなぁ、と思った。バプテスマが出発点であり、信仰は信仰生活の中で、長期間かけて神のかたちを取り戻していくという理解を合わせて考えるときに、瞬間的な回心体験ばかりを重視するよりは、時間をかけた信仰というプロセスを家族共同体、教会という信仰共同体の中で、歩んでいく中で神との関係を深めていくという在り方もあながち悪いものではないかもしれない。今、福音派のなかに、共同体性を言い始めている方々が出始めているのは、このあたりの信仰の見直しとも関係しているのかもしれない、と思った。

 

 

ということで、これは単発記事にしました。でも、実に興味深い一冊でした。マンガもあるし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

評価:
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株式会社 キリスト新聞社
¥ 1,728
(2016-04-22)
コメント:大変興味深い。




Pocket

もう、福音と世界7月号が店頭に並んでいるころなので恐縮なのだが、Ministryの紹介記事を書いているうちに遅くなったが、今回は、福音と世界6月号と5月号のご紹介をしてみたい。

最近面白い『福音と世界』
数年前から、表紙がきれいに、そして明るくなったのが何より良い。手に取る気にさせる。



この号は、非常に面白かった。最近のこの雑誌は、非常に面白い。今回の特集は、聖書と食(上の写真では隠れている)というテーマでお取り組みであった。そもそも、プロテスタントでは、聖餐共同体という概念とそこでの水平な社会が構成されるという部分が聖餐式の回数が少ないこともあり、かなり薄くなっているが、本来、キリスト教は聖餐共同体であったはずなのであるし、ハリストス正教会、カトリック、聖公会およびキリストの教会やキリスト集会など一部のプロテスタント派に分類される教会群では、その聖餐共同体という位置付けは保存されている。どの程度、信徒さんにそれが意識されているかは別ではあるが。

食と教会、聖書を巡る諸々
今回の6月号では、教会闘争(この言葉自体がもう、ヲワコン感が漂う言葉であるが…)的な概念で考えると社会派に分類される方々が、炊き出しということでお考えのことが強く打ちされた渡辺論文や、池袋の朝やけベーカリーを事例として、素朴に神の国の義をもたらすことを取り組んでいることについての中村論文もあった。

そうかと思えば、教会の仕組みの中に、意図的に食事を含めるようにした背景と共食を考えた賈論文もあり、それぞれに興味深かった。とりわけ、境界(バウンダリー)の存在とそこで起きる共食という指摘は非常に重要で、境界を扱うこともあるミーちゃんはーちゃんの世俗の仕事と関連の深い地理学的な立場から考えてみても面白い視点であるようにも思った。もうちょっとコミュニケーション論的に考えると、もう少し何か言えそうだ、という気はしたが。

そして、星野論文では、食を担っている農村、その農村での農村伝道のリアルを描きつつ、農村伝道とはどのようなものかを再考しつつ、農村伝道に結びついた固定概念の問題を取り上げておられるが、これは、現在の教会全般にも言える、現状の教会や伝道の”かたち”を無批判に是とする姿勢というか、そのような固定概念という意味では、多くのキリスト者にもあるようにも思うが。
(紹介は順不同)

なんちゃってハラール認証の実態も
最近のインバウンド消費を狙ったかのようなあざといハラール認証とそのいい加減さを扱った前野論文も、非常に印象的ではあった。そもそも、イスラム世界については、日本人はあまりに鞭で、ハラルをどう考えるのか、ということをあまりに知らないようにも思う。ハラルかどうかは、神(アッラー)とその個人との間の関係の中で判断されるべきものであるものを、消費を喚起する、利用者を困らせないためのものにしてしまうのはどうか、というムスリムの側の理解もないわけではないらしい。

とはいえ、大学院生時代に、日本に初めてきて留学生を何人かお世話したことがあるが、彼らからスーパーに連れていってくれと頼まれたので、ご案内したことがある。そして、日本のスーパーに行った学友のイスラム関係者、ヒンドゥ関係者がラーメンの袋についたかわいらしい豚のデザイン画や牛のデザイン画を見ながら、真剣に悩んでいる姿から、彼らにとっては、宗教的禁忌に触れないかどうか、ということが非常に重要なのだ、ということを記憶した出来事を思いだしはした。懐かしいことである。一応、当時も今もアラビア語もヒンドゥ語もウルドゥ語もできないので、英語で必死になって説明した記憶がある。

30年前近くにはなるが、そもそも日本には、大学生協の食堂では、如何にいい加減であれ、ハラル食の提供すらも、考えられもしなかったため、食事に関しては自炊派が大半であった。

埼玉大学生協食堂だそうです。 http://www.foodrink.co.jp/foodrinkreport/2014/06/17172644.php から 


池田先生の語り口炸裂!!
今回何より個人的には面白い、と思ったのは、池田論文である。まぁ、学部時代に当時茨城キリスト教短大でご教鞭をとられていた池田先生の古代オリエント史入門という授業をとった時のあの感動がよみがえってきた。やせた感じの背がひょろ高い先生が、250人教室にでっかいラジカセもって入ってきて、いきなり、以下の動画のような古代風エジプト音楽を流し始めたのだ。




当然の如く学生は動揺する。ざわざわ感が教室中を駆け巡る。そして、開口一番、しずかでありながらも、そして、明白な声で

「お静かに」

教室は次第に、静まっていった。そして

「古代オリエントの地中海の海賊は、このように船長を捕まえては言ったのであります。ところで、このような音楽を聞きながら、クレオパトラは、古代のエジプトの舟に乗ってナイル川を航海したのでしょう。」

そこから授業である。面白くないはずがない。1時間半3か月の授業であったが、実に楽しみな授業であった。

池田論文 「旧約聖書と食」から
池田論文はこんな感じで始まる。
もてなし(ホスピタリティ)と神の友
 その日の昼下がり、アブラハムは、マムレの歌詞の林のそばに張った天幕の入り口に座っていた。ふと目をあげると、前方に旅人らしい3人の男の姿があった。アブラハムは立ち上がると、走っていって彼らを慇懃に迎え、是非自分のところで休んでいくように頼む。
(旧約聖書創世記18章1-5引用)

 異人に対するアブラハムの態度が極めて慇懃なのは、ひょっとして自分がもてなしているのは神のみ使いかもしれないという思い(へブル人への手紙13:2)からである。実際、異人を「神の祝福」として歓待する「もてなし」の精神は、ネゲブや市内の荒野の遊牧民(ベドウィン)たちの間で今なお生きており、彼らは通りかかった旅行者たちに声をかけ、是非自分の天幕によって茶を飲んでいくように勧める。(同誌 p.38)
ここまで生き生きとあたかも見てきたかのように旧約聖書を語る説教に20歳の時まで不幸にして触れたことがなかったので、もう、ミーちゃんはーちゃんが一発で心酔したのは、言うまでもない。ビビビ・・・ときてしまったのだ。

 なお、イスラエル在住の 山森 レヴィ先生によると、ベドウィン出身のイスラエルの大学生は、大学に来ても、新しく知り合ったパーティばかりをする人が少なくないので、成績があまり芳しくない方がかなりおられるとの由である。彼らは、いまだに、彼らの先人、アブラハムと同じような生活を、近代的な大学という組織においても、お続けの模様である。数千年続けられてきて、民族に沁みついた身体性はそうは簡単に消えないのかもしれない。
 
彼はまた、旅人を神の使いの様に慇懃に温かく迎え、自ら客の給仕をする「もてなし(ホスピタリティ)の鑑」でもあった。まるきり欠点のない人間ではなかったアブラハムが「神の友」(関連個所は引用者により省略)と呼ばれた理由の一つも、そこにあったであろう。
 この呼び名はイスラム教でも大切にされ、アブラハムゆかりのヘブロンのアラビア語名はアル=ハリール「(神の)友」である。(中略)
 旅人を温かくもてなす心は、即ち、民族や宗教の枠を超えて、差別なくすべての人を同じ「神の友」として迎える心である。(同誌 p.35)
ここで、「民族や宗教の枠を超えて、差別なくすべての人を」とあるが、こういうことを書くと、すぐ「エキュメニカㇽにかぶれて…」とか、「社会派的だ」とか、「リベラルな考えにかぶれている」とかおっしゃる方があるが、本当にそうだろうか。池田さんは上記の引用文の後、箴言25:21を引用しておられるが、旅人をもてなすということを考えたとき、福音書からも考えた方がよいかもしれない。
【口語訳聖書】マタイによる福音書

 25:34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
 25:35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し
 25:36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
 25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
 25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
 25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
 25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
しかし、イエスは、エキュメニカルだったり、社会派だったり、リベラルだったりするのだろうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

(一番いいところは、是非お買い上げになって、お読みください)

そして、この論文はこう結ばれる。
預言者は、人間も動物も菜食戻り、同じ「神の友」として仲良く生きる、平和な共生が回復する終末論的救済の時の到来を予言した。
 狼は子羊と共に宿り、
 豹は子山羊と共に伏し、
 子牛と若獅子と肥えた家畜は共にいて、小さな少年がそれらを導く。
 雄牛と熊は草を食べ、
 相共に伏すのはその子ら。
 獅子は牛のように藁を喰らう(イザヤ11:6-7)
平和と共生を愛する思いは、知者も同じ――
 野菜一品で、そこに愛があるほうが、肥えた牛の料理と、そこに憎しみがあるよりも良い(箴言15:17)
(p.40)

実は5月号「特集 聖書とお金」もよかった

『福音と世界』5月号は、特集が「聖書とお金」というテーマであった。似たようなタイトルの本『お金と信仰』を高橋先生が書いているので、ちょっと面白くて、違いがあって面白くてよかった。

 長谷川論文「旧約聖書とお金」はユダヤ社会の通貨の変遷を考古学的に追った後、旧約聖書の世界の中での金利の考え方や、それがヨーロッパに拡がる中で、反ユダヤ主義とのつながりなどを解説していた。金利をとらない金融は、イスラム金融と同じであるが(息子君のイランの経済研究につき合って勉強している)、実際には、手数料という価値での金利(というよりは、債券での利回りの設定がなされる、あるいは手形の割引のような形で金利をとる)が行われているのは、まぁ、なるほどなぁ、と思った。

 「恵みとしての献金」と題された佐竹論文は、ギリシア語でどのような語が献金に用いられているか、ということで、献金について、そしてその当時のキリスト教会の姿って、こんな風だったかも、ということを指摘している。その中で、印象的な一部だけを紹介するにとどめる。
人間の目指すことの多くは金銭の不足によって挫折し、経済の安定を約束すれば将来に明るい展望が開かれるかのように人々は錯覚する。これは世俗社会においてのみ起こる錯覚ではない。教会にも一つの共同体としてこの社会の一隅で営みをはじめた当初から、この錯覚はついて回った。(同誌5月号 p.17)
 山口論文では「タラント」の譬えについて再考を促す。やや読み込み杉かも、と思われる点が皆無ではなかったが、イエスの教えが社会秩序を覆しかねないものであったこと、ローマ帝国の社会秩序とぶつかったという指摘と、現代社会の中で、神の国の正義を求めてどのように生きるのかを聖書から考えるべきではないか、という指摘は、N.T.ライトさんの指摘の一部とも重なる指摘だなぁ、と思った。

 「地球温暖化時代21世紀の経済活動」と題された東方論文では、地球の管理者としての人間の生き方をどう考えるか問題を取り組んでいるが、スチュワードシップという語を鍵概念にしながら、論文が広がっていくが、アーミッシュや、アッシジのフランチェスコの様な生活様式の重要性を説くが、これを追及した結果、地球の人口はおそらく現在の人口の100分の1しか養えない現実をどう考えるのか問題とのバランスをどう考えるか、そして、現実的な意向をどうするのかは問われるかもしれないと思う。また、失業者を嚢号に参加させるというのは、アメリカでは20世紀初頭から取り組まれてきたことであるが、アメリカという土地がかなり広大で政府保有地がかなりある状況下でもことごとく失敗した社会実験の一つでもあることを考えると、どうかなぁ、という素朴な感想を持った。

 梅津論文「神と富との間」では、ピューリタニズムと職業観や取引と隣人愛を考え、17世紀のイギリスという背景の中での富の再分配をどうするのか、などのピューリタンの考えを紹介している。そして、ピューリタンたちが「富を、神のために良き業のためにお金を用いる」ことに腐心した、ということが指摘されていた。

資本主義に生きる教会…で、どうする?
 今月号で一番意外な論文で、一番面白かったのは、「資本主義に生きる教会」という南野論文であった。南野さんは、メノナイト・ブレザレンという、ミーちゃんはーちゃんがもともといた教派とは聖書的理解が本来的に近しい関係にある集団の神学校の先生でもあり、大阪聖書学院でも教鞭をとっておられるいわゆる「福音派」の方である。その方が、「福音と世界」にご寄稿とは…。

資本主義とは何か、を簡単に振り返った後、キリスト教と資本主義の関係、影響について論じ、そして、「キリスト教会が訴えてきた倫理には資本主義との親和性が認められてきた」と西洋での資本主義とキリスト教倫理との関係を指摘した後、しかし、弱者の開放という聖書の基本姿勢(これが、『神のデザイン』のテーマの一つ)であることを指摘し、抑圧するものへの抑圧の放棄を迫っていることを指摘しておられる。さらに、次のような反省は重要だなぁ、と思った。この時代の宣教について、当時の時代背景とのかかわりもある、と言ったら、「宣教師の先生方の宣教は純粋なものであった、それを汚すとは何事か」とかいって怒りだす人がいるので困るのだが(そして、実際にミーちゃんはーちゃんに対してそのような苦情を言ってきた人もおられた)。
実際、宗教改革前後の西ヨーロッパ教会の海外宣教は商業資本と結びつき、産業革命後は産業資本と結びついた宣教が欧米を起点に行われた。それは教会と資本との相互依存的な関係の中で遂行されたと言えよう。(中略)例えば、第2次世界大戦後、キリスト教会の世界宣教に資本から期待された役割としては、社会主義から資本主義を守ることも含まれていた。(p.38)
と南野さん、実に手厳しい。さすが、預言者的性質を重視しておられるメノナイトのお方である。
福音の内実を軽視し勢力拡大に注力する教会は、資本主義の横暴を黙認することになる。それは大きな歴史の問題というだけではなく、本質的な福音理解にかかわることである。(中略)
 教会もこのような、資本の論理を唯一とする考えにさらされている。実際、数的成長を自らの柱におく教会は、このような論理を無意識に自らのものとし、教会内外の関係を数的成長に一元化する(それは時に、献金を通じて商品経済に組み込まれていく)。(p.38)
とか
では資本主義が原因と思われる佐々間奈々出来と碁や苦しみを放置しておいてよいのだろうか。「何もできない」ということが、神と人との前で教会が何もしないことの口実になるのだろうか。教会に与えられている「他者に仕える」使命(宣教)はそのような口実を赦してくれないように思う。(中略)ここでは、現実への抵抗をその視座に置きたい。(p.39)

とこれまた、実にメノナイトらしいのだ。とはいえ、ラウシェンブッシュの主張とも実に重なる。そして、近代と個の問題を最後で取り上げて居られ、そもそもの意味合いの違う個という語が、近代の資本主義と、市民社会においてで共通に用いられることが実は大きな誤解と問題を生み出しているのか、という指摘は重要だなぁ、と思った。
そして、まとめの部分で次のようにもお書きである。
ヤハウェの価値観やイエスの福音が時代を超えて意義のあることを認め、その実現・浸透に努めたい。そこに現代の資本主義に生きる教会の宣教の意義がある。(p.41)
「キャー、かっこいい」とふざけている場合ではない。これは、メノナイトの皆様だけでなく、すべての教会に問われていることではないか、と思う。その辺、ライトの「クリスチャンであるとは」でも触れられている。

また、この『福音と世界』の連載陣がすごいのである。そして、安定のクオリティである。

ということで、なかなか充実の2冊でした。なお、この記事が公開される頃には、7月号、その特集は「 聖書と難民 」である。ドマンナカをついてきている。


 
評価:
高橋秀典
地引網出版
¥ 1,620
(2014-05-10)

評価:
エルマー マーティンズ
福音聖書神学校出版局
¥ 2,700
(2015-07-01)
コメント:非常によろしかったと思います。構造として、旧約聖書をとらえる訓練になりました。

評価:
ウォルター ラウシェンブッシュ
新教出版社
¥ 6,588
(2013-01-07)
コメント:高いけど、重要。特に福音派からのコメントが面白い。




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教会が「居場所」を回復するためにという教会と地域福祉フォーラム21の記録からである。

この”教会と地域福祉フォーラム21”のシンポジウムは「若者と居場所」をテーマとして開かれ、ニートや引きこもりなど、若者たちを取り巻く現状と、居場所を回復するために地域と教会がいかに連携できるかについて話し合ったそうである。
その中でいくつか気になった面白い発言をひろってみたい。

教会側と若者の思いのずれ
 そもそも、このフォーラム21の設定であるニートや引きこもり、ということが問題視されていること自体、個人的にはどうか、と思う。それもまた、現代における若者の在り様の一部でしかないものを問題視するのは、自分たちの生き方と違う、ということを受け入れていないだけ、あるいは、教会に若者が来てほしいというしたごころが、こういう視線にあるのではないか、と思った。
 

小倉さん(若者関連のNPOのスタッフさん)
面白いなと思ったのは、若い人たちに問って「居場所はありますよ」「遊びに行くところなんていっぱいあるよ」と。だから教会は、その優先順位だけが低いだけ。「居場所がない」なんて言われ方をするのは、ちょっと心外だと。(p.43)

この小倉さんのご発言というのは、重要なことをご指摘ではないか、と思うのだ。実は若者は居場所はあるのだ。従来の在り様と違う形で居場所を持っているだけではないか、と思う。小金がある人たちは、喜んで、ディズニーランドや、USJに行くのだ。あるいは、そこまで金がなくても、友達とカラオケをしにもいくし、もうちょっとかねが無い人たちは、デニーズやガストなどのファミレスでたむろする方法もあるし、もうちょっとおカネがないとコンビニでたむろしている。これから夏に向かうと、コンビニの明るい光に引き寄せられるように、関東某県では、ちょっとやんちゃなバイクに乗ったお兄さんがたが、コンビニの駐車場にたむろなさるし、日曜日の朝は、だいぶとうの立ったお兄さんがたに混じって、パチンコ屋に門前列をなすというところに加わる方もおられれば、コミケと呼ばれるうっすい本を販売するイベントの開会前に列をなす人々もいれば、AKBとかの常設劇場やイベント会場に列をなす人々もいる。あるいは、冥土カフェ(メイドカフェ)と呼ばれるところに行く人々もいる。まぁ、おカネがなくても、市立図書館とか、公共施設に入り込むことはできるのである。

 以下に示す図は、AKBの東京ドームコンサートでのグッズ販売に並ぶ人々の列である。しかし、これだけ教会が若者を動員できたら、と思う半面、イエス様が生きて居られた時の群衆というのは、まさにこのノリであったのであろうし、この群衆を空腹で家に帰すにはさすがに忍びなかったのではないか、と思う。確かに、観客動員数という意味では、教会はAKBには勝てない。なんとかグラハムさんとかがわざわざアメリカから来られても、無理に動員された人の方が多いように思うのだ。すくなくとも、何とかグラハムさんより、動員しなくても集まってしまうAKBさんの方が、ビジネスとしては何枚も上手であると思う。


AKBのGoodsを求めて、東京ドームに列する人々 http://p.twipple.jp/ZtGqg から

そういう意味で言うと、結構おカネさえある程度あれば、若者にも行くところ、行きたいところはあるのだ。その意味で、ここで若者からのちょっと批判的な発言にあるように、居場所がないというのは、心外だ、というのは、大人(というよりは高齢者)が抱く若者像というのか、若者の理解である「若者はまずしい、行き場がない」という自分自身の経験に刷り込まれた意識、ないしは、オトナ側の思い込みに対する正当な批判であろう、と思うのである。それって、メサイア・コンプレックスじゃないか、と思うのである。

キリスト教のリアルで関野さんが、御自身の教会でカフェをしようとしたら、年配の信徒の方から、「教会でカフェとは何事か」というご批判を最初は頂いたらしい。もし、教会が若者に居場所がない、というのであれば、教会でパチンコ台を置けとか、AKBのコンサートをしろとか、メイドカフェをしろと無理筋はいわないけれども、人と人が出あう場所としてのカフェとして教会の一部を提供するのに云々とかいうのは、どうなんだろうと思う。もし、教会が若者の居場所になろうというのであれば、「教会側の論理にすべて従ってください、そのうえでお越しください(あなた方が来ていいのはこの時間帯だけです。それ以外は来てもらっては困ります)」というのは、運営者側の論理としては理解できるとしても、居場所を求めている若い人からすれば、「なんだ、銀行や役所より対応悪いじゃん」となってしまうのではないか、と思う。

さらに言えば、「若者に居場所がない」「若者に行き場がない」と、困っている若者がいると認識されておられるのであれば、どうしてその人のところに訪問しないのだろうか。イエスみたいに。イエスは寄ってくるものは基本的に対話は拒まなかったし、イエスは、イエスを必要とされる人のところに行っておられるような記述が福音書には結構あると思うのだが。ただ、イエスは、無理やり、来てほしくない、と思っておられる方のところに押しかけたりはしなかったのも確かだが。

若者を愛してないのに若者に来てもらいたいという教会!?
割とショッキングな表現だったのが、野田さんの次のような表現であった。教会は笑顔で接しながら、教会も牧師も若者のことを実は愛していないかもしれない、ということに関する指摘であった。

野田さん(青山学院女子短大講師)
反省点は、笑顔で接しながらも、実は若者のことを愛していないのでは無いかということです。これは牧師も、教会もそうですが、そもそも私たちがどこかで若者を煙たがっていれば、簡単に見透かされています。(p.44)

しかし、若者を愛していないのに来てもらいたいというのは、どこぞの国の政府が移民の方々を愛していないのに、一時的な移民は移民労働者を入れようとしている政策の検討と似ていて、本音と建前の世界を垣間見るというよりは、本音としては、「自分にとって都合の良い若者だけに、自分たちの都合の良い時に、自分たちの都合で教会を支えるために(あるいは労働者となってくれる)若者(移民の方々)にだけ来てほしい」ということがこの発言や政府の政策には、現われていると思う。

時限的な移民労働者と同じような扱いであれば、期間を限っての来会者として教会が若者を受け入れるのであれば、時限的な移民労働者が数年単位でご卒業いただくということと同様に、教会3年卒業説も、ある面で当然ではないか、とは思ったのである。

なお、コミュニケーションとは、表面的な言葉や顔の表情だけではない。ボディ・ランゲージや声のトーンでもコミュニケーションしているのだけれども、言葉では来てくれてうれしいとか言いながらも、言葉の端々や、ボディ・ランゲージや声のトーン、対応の様子で人は歓迎されているかされていないか、を微妙に感じ取っていると思う。

あるいは、
佐々木さん(宗教法人「ホッとスペース中原」設立者)
実は若者に来てもらうことで交わりをして、かかわることで、私たちの喜びや成長となる。若者とかかわることが本当は益なんだということを、しっかり自覚していないと、若者なんて本当は来てほしくないとというのが本音の部分であるのかなと。(p.45)
という発言を見てても、同じことが感じられる。若者とかかわることで喜びや成長や益になるかどうかはその個別の教会によって異なるとは思うが、本音のところでは、「 若者なんて本当は来てほしくない 」と思っている教会は少なくないだろうし、自分たちの教会は自分たちの教会であってほしいと思っている教会や教会員が多いのではないか、と思う。そのあたりが、以下の動画の50分辺りからも垣間見える様な気がする。これは、若者を単位を根拠に半ば強制的に送り出す側の学校からのご意見であるが。


『キリスト教のリアル』出版記念トークイベント「ゆとりボクシですがなにか」
54:45辺りから、今のキリスト教会とキリスト教学校の若者のかかわりについて(週報偽造事件57分あたり、とかも面白い)
 
 Ministryのこの記事そのものを読みながら、そして、このMinistryのこの号の全体を見たときに素朴に思った感想は、「教会や教会員は、そもそも、自分たちが変わりたくないのではないか。変わっていくことに恐れを抱いているのではないか」ということである。そもそも、教会が固定しているということは、かなり暴論であるということは十分承知の上であるが、「変わっていないということは、ある面、教会は死んでいる」ということであるのではないか、と思う。あるいは、教会や教会員は、若者が教会にやって来て、教会が自分たちがなじんだものから変わっていくのに耐えられないのではないのか、とも思う。無理に教会が「生き生きしているぶりっ子」をする必要もないだろうし、教会員にも「生き生きしているぶりっ子」を強いる必要もないとは思う。しかし、変わっていく教会こそ、生きている教会の姿であるとも思う。その意味で、もっと普通の構えで、変わっていくという姿を受け止められる教会員と教会が増えるといいなぁ、とこのMinistryのこの号を思いながら思った。

教会と教会の外部組織 
 教会は、教会をどう見ているのだろうか。自分たちの教会の建物の中だけが教会なのだろうか。自分たちの教派の教会とその周辺だけが、教会なのだろうか。それとも、他の教会の教会とその周辺を含めて教会なのだろうか。教会とクリスチャンだけで形成されるのが教会なのだろうか。そのあたりのプロテスタントとカトリック教会間の比較をしながら稲垣さんは次のようにまとめる。
稲垣さん(東京基督教大学教授)
ここで結論的なことを言うとしたならば、プロテスタントとカトリックの教会間の違いが、セッションを通じて感じられ、私たちプロテスタント側が学ぶべきものが、カトリックの側にたくさんあるということを確認できました。(中略)教会の中でできないことを、教会の外でJOC(カトリック青年者労働同盟)がやる。教会の中で活動することもできたけれども、最近の教会はカギがかかっている。そして様々な行事やルールがあって、他者への奉仕のようなことで精いっぱいで、自分たちのことを話す場がないと。これが教会の現状だと話されました。だから教会の外に居場所を作って、そこで青年たちが自分のことを吐き出して、問題を共有しながら、自己を改革していく。そういう場としてJOCが機能している。そういう場所としてJOCが機能している。ある意味で、それを成り立たしめる大きな教会感というものを私は感じました。
(中略)
そういう広い意味での教会というものをとらえたときに、神様の愛というものが、制度としての教会ではなく、その壁を乗り越えて、有機的な神のエクレシアというものを作っていく。そのような広い教会間を、私たちプロテスタント側が学んでいくということも大切ですね。その両方が車の両輪の様にして、神さまの宣教というものが進んでいくのではないかと。

実はプロテスタントにも潜在的にあるんです。SCFの働きもそうだと思うんです。狭い意味での制度化された教会の外にそういうものを作って、さらにそこから教会へ人を送り、教会が人を育てて、またそう言うところに派遣する。(p.46)

この稲垣さんのご発言は、案外教会理解を考える上で、非常にチャレンジングな問いをしておられると思う。つまり、地上にある神の国の実現の一部としての教会が、神の国の義をどのようにもたらそうとするのか、というチャレンジを受けたような気がする。そして、教会とは、教会員だけからなるものなのか、ということを考えた。

そして、このことを考えながらも、先日大阪のハリストス正教会を何人かの多様な教派の牧師さんや教会員の方とともにお訪ねした。松島司祭にハリストス正教会をご案内していただいた後、聖堂とは別棟の集会室のようなところで2時間半以上お話を伺って、帰りの時、その集会室がある別棟の入り口が、小さな小学校低学年の子供たちの靴があふれるようにならんでいた、(そして、その一部は乱雑にあっちとこっちにと、わかれて置かれていたのがなんとも子供らしくてかわいかった)ので、えぇぇ、こんな光景を見たのはいつの日以来ぶりだろう、と正直思った。なんと、「キリスト教徒でも知る人があまりない、ハリストス正教会に、それも礼拝以外の平日に、こんなに子供が集まっているなんて、恐るべしハリストス正教会」と正直思ったのである。

そう思ていたら、松島司祭はニコニコ笑いながら、「あぁ、それは、ここの3階の集会室でやっている公文に集まっている子供たちなんですよ。場所をお貸ししておりましてね」とおっしゃったのである。そのお話をお聞きし、「なぁ〜んだ」とは思ったが、でも、これも神の国を人々に分かち合うことの一部とも考えられるのではないか、とも同時に思ったのである。

その公文の教室の運営者が教会員の方であるかどうかはお聞きしなかった。「別に、その必要もないなぁ」とミーちゃんはーちゃんは思ったのだ。そこにこだわる必要もないと思ったのだ。地域に開かれた教会の使われ方の一つかもしれない、と素朴に思ったのである。とりわけ、正教会のような儀式の実施とそれへの参加を伝道であるという理解に立つ教会であればこそ、このようなコミュニティの中に生き、動き、存在する教会の在り方は重要だと理解したからだ。ことばだけで語るのではなく、儀式をこの地上において執り行うことで、地にイエスがきたことを指し示し、神の国が地に及び、天と地が交わっていることを示すことこそ、福音伝道であるという立場故の一種の強みかもしれない、と思ったのだ。

教会は、キリスト者だけで構成される、神のご計画は神を信じる人々だけによってしかならない、という概念に縛られておられる方も居られるだろう。それはそれで、お考えとしては尊重したい。

 しかして、旧約聖書を見るとき、あるいは新約聖書を見るとき、聖書はそのようにしてきているだろうか、とふと立ち止まって考えたのだ。旧約聖書での異邦の民や国々、バビロンやアッシリアですら、イスラエルの民が神のもとに立ち返ることのために用いられたのではなかったか、あるいは、次の聖句を思いだして、一種神のご計画の深さに恐ろしさすら感じた。
【口語訳聖書】マルコによる福音書
 9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
 9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
 9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
 9:41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
 9:42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。

多分、我々のマインドセット(考え方の根拠というか前提)がどこかでくるっていて、上で紹介した聖書のことばを忘れているのかもしれない、とその時素朴に思ったのだ。その意味で、神の国をもたらすこと、神の国の御業をもたらすことの器ということの大きさを、感じずにはおられない。

 なお、今回号のMinistryには、今回意図的に紹介しなかった記事がいくつかある。それらも非常におすすめである。是非、お買い上げをお勧めする。


 


 


そもそも、このブログは昔は面白ネタをやるブログでもあったが、最近とみにまじめで、長くて、くどいものになってきたので、ちょっと、方針変更もしてみようか、と。いつも大変興味深く拝見している、fuminaru k さんのブログで、こんな記事があった。以下は、この記事

クリスチャン特有の迷言、妄言をまとめてみた(ツッコミ付き)

からの引用である。
 時々見かける、一部のクリスチャンの方々の迷言、妄言をまとめてみる。もれなくツッコミ付きで。でもそのまま書くのも無粋なので、ちょっと脚色してみる。
心当たりのある人には、逆上してさらなる妄言を増やさないでいただきたいと思う(苦笑)。
ではさっそく。

・迷言、妄言
「体の調子が悪いです。〇〇や××や△△の症状があって辛いです。癒されるように祈って下さい」
→さっさと病院に行って下さい。

・迷言、妄言
「祈りは必ず聞かれる!」
→神様には耳があるので、どんな祈りも聞いてます。

・迷言、妄言
「その戦いが神の戦いなら、あなたは疲れることがありません」
→じゃあ24時間寝ないで戦って下さい。

・迷言、妄言
「サンデークリスチャンは御国に行けません」
→じゃあ何クリスチャンなら行けるんですか?

・迷言、妄言
「この世には悪がはびこっています」
→教会の中にもね。

・迷言、妄言
「血肉の家族より、神の家族との絆の方が絶対です」
→何かあればその「神の家族」が真っ先に敵になります。

・迷言、妄言
「礼拝中にお腹が痛くなったり、頭痛がしたりします。やはり礼拝は霊的戦いの場なのですね」
→神社仏閣に油まいてきたら?

・迷言、妄言
「自分が主に用いられるかどうかは、祈りにかかっています」
→じゃああのロバの子は熱心に祈っていたんですね!

・迷言、妄言
「神の国は民主主義ではない」
→独裁政治でもありません。特に牧師の。

・迷言、妄言
「今日の礼拝、恵まれました〜」
→恵まれに行ってるんですか?

・迷言、妄言
「リバイバル絶好調!」
→・・・はぁ?

というものであった。 ミーちゃんはーちゃんがミーちゃんはーちゃん風に、これに関西風のりツッコミを入れるとしたら、こんな感じかなぁ、と思った。ツッコミとしてはやや高度。
・迷言、妄言
「体の調子が悪いです。〇〇や××や△△の症状があって辛いです。癒されるように祈って下さい」
→お大事になぁ(お大事になさって下さい)、って祈りましたけどォ、それじゃぁ、アカンのですかぁ(それではいけないのですか)。

・迷言、妄言
「祈りは必ず聞かれる!」
ごっつう (ほんとうに) 、ありがとうございます(ほんとうに)。えらいすんませんなぁ(感謝です)。そんな、言わずもがななこと、改めて教えてもおて(教えていただいて)。

・迷言、妄言
「その戦いが神の戦いなら、あなたは疲れることがありません」
→え、そんな、Monsterとか、Redbullを超えるエナジードリンク、どこで売ってまんの(売っているんですか)?常飲してても大丈夫でっか(ですか)?うちの開発部隊に差し入れしたいんですけど?


Monster Energy発売のエナジードリンク


Red Bull翼を授ける のCM (しかし、バシャンの雄牛に翼が付いて飛びだしたら…と不謹慎なことを考えてしまった)

・迷言、妄言
「サンデークリスチャンは御国に行けません」
→ほたらねぇ(それでは)、おまわりさん(警察官)とかお医者はん(医師)とか、看護師さんとかのクリスチャンはサンデークリスチャンにもなれへんのとちゃいまっか、どないんなりますの(なれないのではないでしょうか、どうしましょう)?

・迷言、妄言
「この世には悪がはびこっています」
→エデンの園にも悪がはびこっていた時期もありましたなぁ(ございましたね)・・・

・迷言、妄言
「血肉の家族より、神の家族との絆の方が絶対です」
→家族伝道とかはしなくてええんでっかいいのですか)?こら、ええこと聞いたわ(いいお話を伺いました)?

・迷言、妄言
「礼拝中にお腹が痛くなったり、頭痛がしたりします。やはり礼拝は霊的戦いの場なのですね」
→では、まず教会の中でええ匂いのする油をなぁ(いい匂いのする油を)、どうぞ…先生だけのお力だけで足らへんかったら(足らなければ)、ここは一つごっつ有名な先生に来てもろて(ここは、非常に有名な先生をご招聘して)…

・迷言、妄言
「自分が主に用いられるかどうかは、祈りにかかっています」
→あのぉ、悪魔もヨブ記で用いられてまんのと違いますのぉ(用いられておりますが)…きっと、めっちゃ(ものすごく)悪魔も、お祈り、熱心なんでっしゃろなぁ(熱心なのでしょうねぇ)…。

・迷言、妄言
「神の国は民主主義ではない」
→そうでんなぁ(そうですね)、神の国は究極の神権政治でっけど(ですけど)、ほんだら(そうしたら)、先生は神でいらっしゃいまんの(いらっしゃるので)?

・迷言、妄言
「今日の礼拝、恵まれました〜」
→ほんだらね(そうしたらね)、「先生の先生であるB先生の礼拝では恵まれへん(恵まれない)」とかの場合は、どないんいたしましょう(どうしたらよいのでしょう)…

・迷言、妄言
「リバイバル絶好調!」
→あぁ、うちらじゃのうて(私たちじゃなくて)、やっぱ、神さん(聖神なる方)がなぁ(がねぇ)お元気なんだっしゃろ(なんでしょうね)…
すいません、不謹慎なお笑いネタをやってみたくなりました。特定のキリスト者集団の方を批判する意図はございません。



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これまでの2回も、Ministryからご紹介してきたが、今回もまた、Ministryから少し、ご紹介してみたい。今回は、これまで、日本のそして海外の高名な説教者の説教原稿をもとに、それがどういう構造を持っているのか、そこで言えることは何か、ということを探ってきたMinistryの看板連載であった(とミーちゃんはーちゃんは勝手に思っている)ので、「それが終わるのか…」と思い、しょげ返っていたら、なんと、説教鑑賞復活である。まさに、イースターの前後の違いの様に復活しているではないか。驚いた。

それが、「平野克己の説教道場」である。

そこで記念すべき、開始第1回目は、ある所で何度かお会いしたことがある田信さんの何年か前のイースターのときの説教を鑑賞してみましょう、ということであった。

復活祭の説教ならでは
クリスマスもそうだが、イースターも結構、主題があるため、説教者にとっては、説教するのが悩ましい日の一つなのである。なおかつ、人々を説教で語ろうとする世界をシェアするための信頼関係を作るためには、両者の世界が違いに意識をある程度向けないといけない。その為、説教者と聞き手の間にどうしても共通の土台、共通の前提知識、共通の部分を見つけ出さないといけないので、結構つらいのだ。

クリスマスはその意味で、日本社会の中に社会の暦の中の一部としてすでに定着しているので、ある程度の共通土台があり、それを前提に説教を考えることは比較的容易であるため、まだ、説教者と聞き手との間に共有部分を作るという上では、考えやすい。しかし、イースターになると、これがこれまではあまりなく、まずイースターを聞き手の方にイメージしてもらうために、過去にも悪戦苦闘したことが多かった。特に年長者の多い場合、イースターはある面「ハイカラ」すぎるため、多くの人々に、なかなか、イースターを身近に感じてもらうことがしにくい日でもあった。

ところが、ここ2〜3年は、いろいろな業者、特にコンビニ業界関係の皆様方が、ビジネスチャンスと思ったらしく、イースターをお取り上げいただいているようになり、なんとなく日本でも認識されるようになってきた。まぁ、2月という流通にとっての暗黒月(日数が少ない上に寒いので、売り上げが激減する)時期に売り上げを貢献してくれる可能性、単にバレンタイン・デーの後の消費喚起のためにイベントとしてのイースターには新規性があり、ある程度消費を喚起する形として流通業者にとって利用することが可能な形の祝祭の日として、イースターにも最近、目が向けられただけのことに過ぎないと思っている (この辺すごくブラックで冷徹でしょ、単純に、キリスト教の世界が日本でも一般化したとか単純に喜べない、マーケティングの世界にも首突っ込んでいる黒ミーちゃんはーちゃんがいたりします)。


AEONさんのイースターフェアの画像
 
ということで、田さんの説教をまずご紹介。田さんの説教を拝読しながら、ミーちゃんはーちゃんが思ったことを述べてみたい。説教鑑賞ではない。
イースターは日本語で言えば復活祭です。死からの復活を祝うのです。十字架で死刑になった人が、三日後に死からよみがえったこといわいます。これではなかなか絵になりません。あまりに現実離れしていて、ウサギや卵を前面に出さずには直視できないのです。(p.48)
ここで、イースターの持つ陰惨性とその陰惨な世界からの回復という祝祭の概念が同居していることについて、田さんは触れられておられる。これは案外大事なことではないか、と思うのだ。この両者が一つの儀式に込められているのが礼拝であり、聖餐だと思うのだ。以前の当ブログの記事

『現代文化とキリスト教』を読んだ(5)

でもご紹介したが、神への賛美のかたちとして様々なものがあり、現代の賛美のかたちとして、テゼのような静粛性を重視する、こころの痛みを見つめる様な静謐さを求める賛美の在り方と、逆に若者しかいない教会での、クラブと間違うような縦ノリの動的な賛美の在り方に至るまで幅広い賛美の形態がある。いずれも賛美であるということには間違いはないと思う。なぜ、このような両極端があるのか、ということを最近ある家人に問われ、考えてみたら、結局、礼拝(ないし聖餐)がそもそもこれらの二要素を併せ持っているからだと思う。礼拝の前半の静謐さの中に自分自身を見つめ直し、そして、その中に見出す傷をキリストの十字架上での傷と重ね合わせる時間(静謐さと深い関係がある)と礼拝の後半部、とりわけ、聖餐に与ることよってあらわされる十字架の死を通して神との和解が成立したことを喜ぶ動的な喜びの部分、神への賛美が向けられている部分を共に内包しているのではないか、と思うのだ。

なぜ、同じ賛美でありながら、ことほど左様に両極端な賛美の様式論があるのかと考えてみれば、静謐さに走るグループは、礼拝前半の自らを見つめ直し、そして、キリストのコンパッションないしスプラングニゾマイに重ねていくことに関心があるのではないか、と思うのだ。逆に、動的な賛美に偏るグループは、霊はいん後半部分の神との和解とその喜びの部分に強調があるあまり、静謐さが軽んじられるのかもしれない。まぁ、もちろん、動的に傾いているグループでも、説教の部分やお証しの部分、献金の部分が静謐であり、それでバランスが取れている、というのはあるかもしれないが。この部分は、イースターから思い付いたことではあるが。

余談に行き過ぎたので、元に戻すと、実はイースターというのは、バプテスマのヨハネの斬首事件と並んで、日曜学校で幼児に教えるのが一番難しい部分の一つでもある。だって、下手すれば、血みどろのスプラッター映画もどきの世界を語ることにもなりかねないからである。あるいは、イタリア絵画のこの分野の巨匠が描く様な残酷な画像の部分をどうするか、ということも考えないといけないが、しかし、如何に名画といえども、まさかイタリア巨匠風の絵画を幼児向け教材資料として用いるのは、ちょっと憚られてしまう(たぶん、父兄から確実に苦情がつきそう)。


例えばこんなの https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Alessandro_Turchi_002.jpg から

キリスト教と死と復活
イースターの日の説教ということもあるが、この日の説教の中で、本来聖書の主要テーマである死と復活が実に丁寧に取り上げられていて、キリスト教の根幹にあるものが何であるのか、ということを田さんは実に丁寧に、かつ、明快に説いておられる。それは以下のような表現でもおわかりいただけるであろう。この説教道場のところで取り上げられている説教は素晴らしいので、是非、Ministryをお買い上げいただいて、全編をお読みになられることをお勧めしたい。
この死という厳粛な真実に対して、キリスト教信仰は本当に助けになるのでしょうか。もし素晴らしい人生哲学、人生訓だけであるならば、それは死に対して全く無力です。(p.48)

ここでは死んだ人のことを眠った人、と表現しています。私たちは良く、『やすらかに永遠の眠りについた』とか「永眠する」という言葉を耳にします。しかし聖書が教えているのは、死は決して「永遠の」眠りではない、いつか目覚めるときが来るのだ、ということです。ここに私たちの希望があります。(p.49)

しかし、イエス様が確かに復活されたのだから、私たちも確かに復活するのです。死に対する勝利、これが私たちの救いであり、希望です。(p.50)
この時の田さんのイースターの説教でミーちゃんはーちゃんが一番気に入ったのは、「 死は決して「永遠の」眠りではない、いつか目覚めるときが来るのだ、ということです。ここに私たちの希望があります。 」というこの部分である。

そうなのだ、いつか目覚める、ということなのではないか、と思う。天国と呼ばれる所に行くでもなく、いつか目覚めるなのだ。この概念は非常に重要だと思う。先年、義父がなくなって葬儀説教を頼まれたので、葬儀説教をしたのだが、その時に繰り返し強調したのも、「いつか目覚めるときが来るのだ 」ということだった。それがどういう形であるか、その時どうなるか、といったことではなく、いつか目覚めるときが来るということを、新約聖書にある復活にかかわる表現からお話した。

新約聖書で復活とかよみがえりとか訳されているギリシア語には二つあり(アナスタシアとエゲイロー)、それがいずれも静かな状態から、眠っている状態から朝になって起きる、活動的になる、または、目が覚めるということと深くかかわっているのだ、ということをまた改めて思いだしたからである。最初にこのことを教えてくださったのは、日本基督教団で牧師をしておられる沼田さんという方であった。そして、沼田さんから教えてもらった日に、家に帰ってから調べてみると確かにそうであったので、それ以来このことに思いを巡らしていた。そして、そのことを葬儀説教でも触れることにしたのだ。

また、死は安息日の延長上にあることもお話した。イエスが十字架の死の後、安息日に墓の中で安息日をとられたことを。そして、そのあとにある、目が覚めるということを経験されたことも。そして、我らがそれに倣うことであることも葬儀説教で触れた。このあたりは、ナウエンの「ナウエンと読む福音書」のイエスの埋葬の部分のモティーフを借りた。

誤解されている可能性のある救いの指摘
日本(あるいはアジア)での宗教が、何らかの犠牲を持って、信仰の対象に訴えるという性質をそのどこかに含む。御念仏を百万遍とか、お百度を踏むとか、お神酒を献上するとか、榊を飾るとか、人柱ないし人身御供を差し出すとか、まぁ、いろいろある。


京都大学の北東の角にある百万遍の交差点(京都大学の北西の向かいの交差点の端から、南西方向を望む写真)

お百度石( http://p-lintaro2002.jugem.jp/?eid=852 から拝借)



湯布院の夜神楽でヤマタノオロチの前に人身御供にされる姫のシーン
(http://www.geocities.jp/jh5ozi/index/yufukagura/kagura.htm から)


日光神社の中にある神社をかたどった酒樽保管施設と お供えされた 酒樽(http://my-nikko.com/kenshu-taru/ から)

ここで、田さんは、キリスト教の救済と人間の側の行為に関して、次のように優しく語りかける。
私たちがクリスチャンらしくなれたら救ってくださるのではありません。教会の礼拝に毎週通ったから、たくさん献金したから救ってくださるのではありません。神がイエス・キリストを通して救いを与えてくださいました。(p.51)

神の愛の声が聞こえなくなる時、受け入れてもらおうと自分で走り回ることになります。神に喜ばれようとします。クリスチャンならば、奉仕をしたり、礼拝出席に励んだり、聖書を読んだり祈ったり、つまりもっと「クリスチャンらしくなろう」として頑張るかもしれません。しかしそのような頑張りは、むしろ神が悲しまれることです。私たちがどうであろうと神の愛は変わりません。「私はあなたを愛している」という声はいつも響いています。キリスト者の生活とは、何よりも、この神の愛の声に耳を傾けるところから始まります。
私たちはその声をどこで聞くのでしょう。一人で静まって祈る中で聞くこともあるでしょう。しかし何よりも神の家族である教会で聞くのです。教会とは、神の愛の声を共に聞き、そしてその愛に生きたいと願い人々の集まりです。(p.52)
これだと思うのだ。でも、案外、人が救われるということを日本人の神仏理解に合わせて、「 私たちがクリスチャンらしくなれたら 、(中略)教会の礼拝に毎週通ったから、たくさん献金したから救ってくださる 」と主張して、献金を神への誠意の表明のような形で救いと関連付けて語るような教会もないわけではないように思う。それでは、エリヤが対峙したバアルの神官と大してく割らないではないか、と思う。実に残念なことであるが。

しかし、それは明らかに違う、ということをこの説教では、会衆に明白に印象付けているところが実に素晴らしい。そして、次の引用部の中でも、「 クリスチャンならば、奉仕をしたり、礼拝出席に励んだり、聖書を読んだり祈ったり、つまりもっと「クリスチャンらしくなろう」として頑張るかもしれません。しかしそのような頑張りは、むしろ神が悲しまれることです。 」と明確に述べておられる。実に清々しい。一方的な神の恵みを主張しておられるその表現に、某元首相ではないが、「感動した」の一言に尽きる。

そして、神の愛のことばを聞く場所として、教会の中に招き、教会がどのようなものであるかについて、建物でも、儀式でもなく、「 教会とは、神の愛の声を共に聞き、そしてその愛に生きたいと願い人々の集まりです。 」と実に明快に述べておられる。そして、その神のことばを聞くための日が、安息日であり、共同体の中で神のことばを聞くのである。しかし、その日が、教会が礼拝とか、説教と呼ばれるものが行われる日だけに限って設定されるべきものか、というとそうとは限らないと思っている。

ただ、現状では、社会システムが教会の暦法でもある7日システムの中で、今の日曜日が休む日に、国教会化したキリスト教の中で定着してしまっているので、日曜日が安息日と無意識に読み替えられている傾向はあるのではないか、と思っている。そして、安息日の読み替えとしての日曜日の礼拝厳守を無批判に受け止め、そして、日曜日の礼拝厳守を偶像に近い形でしいている人々もいるのではないか、と思う。しかし、神の救いがそういう日曜日には教会に熱心に主義そのものとは無縁だ、と説教の中で、語っておられるのは極めて印象的であった。

教会員の役割
信仰共同体(それは時間を超え、空間を超えた共同体であると思っている)における信徒(教会員)の役割りとは何か、ということについて、田さんは次のように説明している。
教会員の皆さんに大事なことをお伝えしなければなりません。すでにバプテスマを受け、神の家族の一員である皆さんは、今度は新しく加えられる家族を養う側になっていただきたいのです。(p.53)
まぁ、それはそうなのだが、実は新たに加えられた信仰者が、長い月日を教会で過ごした信仰者を支えていくという側面もあると思うのだ。それはまれであるかもしれないけれども。あるいは、新たに生まれた信仰者が、年月と風雪を経た信仰者が何とも思わずに過ごしていることへの気づきを与えるということもあるとも思うのだ。その意味で、教会員同士、お互い支え合う関係だろうとは思ったけど。

(後日修正:どうもこの時にはこの教会固有の状況があったらしく、一般的な意味ではなく、特定のコンテキストがあった模様。確かに、文章だけで見てしまうと、ここらの改宗と説教者で作られる説教の部分が抜け落ちています。その点は、田様には大変失礼な表現となってしまいした。心よりお詫び申し上げます。)


平野さんのツッコミ
で、詳細はMinistryの本旨をご覧いただきたいのだが、田さんの説教をもとに実に興味深い対話が展開されている。
「なぜでしょうか」と、聞き手に問いを投げかけることから説教をはじめています。(中略)教会員に向き合っています。この説教で<対話>しようとしているのがわかります。
福音派、一方通行では相手の心には届きません。福音が届くためには、相手の心が開かれていなければなりません。だから聞き手との対話が必要です。そのことをあなたはよく知っていますね。(p.47)
どの教会でも通用する普遍的で抽象的な説教ではなくー実際には、そのような説教は現実の聞き手には届かないことが多いのですー、今日、説教を耳にしている人の中で実現する説教(ルカ4:21を読んでみてください)を語ろうとしているのですね。それは大切なこと、とても素晴らしいことだと思います。(p.48)
実は、この辺の聞き手との関係づくりというのは、実はミーちゃんはーちゃんに取って、あまり得意ではない。個人的には、まず聖書主題箇所を読んで、そして、やおら、「今お読みした聖書の箇所は…」とかやるほうが得意なのである。この辺のことを平気でやるから、学校の授業みたいとかいうご批判を受けやすいことは十分知っているが、個人的にはテキストと格闘してみたいというところもあるので、ついこんな風になってしまう。もう、これは個人の特性というものかもしれない。

その意味で、最近経験した教会のことを思いだした。現在アングリカン・コミュニオンのある教会を中心に据え、近くのさまざまな教会巡りを自己研さんのためにしているのだが、その中である友人に勧められた教会に行ってみた。すると、その教会の教会員の皆さんは、よくご存じだけれども、キリスト者業界では超有名人でもないし、世俗社会でもみんなが知っているという方ではない方のお話が延々続いたのだ。もう少し具体的に言えば、説教40分くらいのうち、30分くらいを占めていて、その人の信仰深さだとか、あんなことがあった、こんなことがあった、とかという詳細なお話を礼拝説教として拝聴させていただく機会があった。

たしかに、その教会の信徒さんにとってはおなじみの方なんだろうけれども、その教会に初めてきた人にとっては、全く知らない方の、あまりに具体的人物(お二人)のことをああだこうだ言われても、きょとんとするばかりであった。さすがに、途中で退席するという失礼なことはさすがに控えたが、もし私が信仰をもっていなかったら、間違いなく、足の裏のチリを払って退席したかもしないなぁ、とは思った。同じ、信仰を持っているといっても、共有していないものもあるのだ。この辺、説教においては、会衆の様子を見たバランス感が問われるのかもしれないなぁ、とその時思った。

教会外を落として、内部を高らしめるというのはどうよ?
教会外に否定的な目を向けさせ、そして、自分たちはどうだこうだというレトリックというか構造は、実際あちこちの教会でも見られる。プロテスタントの一部では、自分の教会外全部に否定的な目を向けさせ、自分たちだけが正しいとかいう論理構成でいろいろお話をしておられる教会もないではないと聞く。どうもカルトとまでは言えないけれども、カルト風、カルト化に向かいつつある教会では、実にかなりよく用いられる論法のようにも思う。

一度、この論理で家人の一人が私に言い募ってきたことがある。

私が車である所で説教奉仕(クリスマス会の説教奉仕)に向かっている途中に、その家人が私がナウエンとかの研究をしているのを知っていながら、あえて、「カトリック教会の人には救いがない」と根拠のない一般化した話を延々繰り返したことがある。やめてくれ、といっても、その話を繰り返しするので、「このままその内容を話し続けたいのなら、車から適切な駅で下してさしあげるので、どうぞお降りになってください。この話を繰り返されると、事故を起こしそうですし、今日の説教にも影響しそうなので」とお願したことがあったし、二度めには本当に家人を駅におろそうと思って、高速道路から一般道に向かいかけたことがあった。そのことを今回の平野さんの記述を見ながら思いだした。
まず、<説教でよく用いられる言い回し>をよく吟味してください。
例えば、説教の導入部です。
「クリスマスに比べ、イースターは市民権を得ていない」、「クリスマスキャロルや装飾で街を彩るクリスマスに比べれば、ほとんど知られていない」というのは、説教でよく用いられるよう言のように思えます。恐らく、あなたはどこかで聞いてきた言葉を繰り返したのではないでしょうか。
というのは、私自身こうした言い回しを何度も聞いたり読んだりするからです。クリスマスになれば、再びよく似た言い回しが用いられます。「街のクリスマスはイエス・キリスト抜きのお祭り騒ぎをしています」とはじめ、しかし私たち教会では…」と繋ぐのです。
これらの使い古されたものいいに共通するのは、教会の外側を貶め、その落差を利用して教会の内側を高める方法です。
(pp.48-49)
カトリック教会の方に向かって、私の家人がしたようなことをした記憶がないが(記憶がないだけかもしれない)、世間の皆様に対しては過去にやったことがある。それは大変失礼なことであったと反省しているが、言ってしまったものは仕方がない。世間の皆様も神のかたちであることを認識していなかった、そのような誤解のトラップにはまり込んでいた(はめた人がいたというのはもちろんあるが、それを責める気にはなれない)からこそできたことではあるが。

平野さんが言うように、外を落としその反動で自分たちを高い場所におくというのは神の領域侵害(高挙を自分自身でなしているからである)であり、この方法はまずいと思う。そして、それは、カルトが使う方法の一部でもあるようにも思えるのだ。そして、その方法は、神のかたちをどう考えているのか、ということがばれてしまう瞬間でもある。

しかし、その論法を「使い古された」と平野さんがおっしゃっておられるところが面白い。

根拠聖句として聖句を用いる説教
先に紹介した出来事の家人が軽蔑の目を向けてやまないカトリックの司祭のお一人である晴佐久司祭がいるが(時々ついていけないと思うことがないわけではないが)彼の本に福音宣言という本がある。福音とは、神が 語ろうとしておられる ”喜びのできごと”そのものであり、司祭を含む司牧はそれを宣言しているのではないか、問うことを主張した本である。それは、ある面、説教の重要な面を指摘しているとは思った。そういえば、マクナイトも基本的に福音とは宣言であるということを『福音の再発見』の中で書いているし、N.T.ライトもどこかの講演だったか本の中で、神の一方的な提示として福音をとらえているような表現があったように記憶している。記憶違いかもしれないが。

同じようなことを、平野さんもここでコメントして以下のように書いて居られるように思った。
説教 ー特に復活を中心主題にする説教ー は、教えることよりも告知することが中心になるのではないか、と思うからです。
この説教で、聖書テキストに直接かかわる言葉が語られるのは、27〜55行目と60〜81行目です。しかもその間、説教者と聞き手、蟻は、聖書と聞き手が対話することばはほとんど出てきません。つまり、この説教では、聖書のことばは、説教者が提出した命題を支える<証拠聖句>の役割を果たしているのです。(中略)
聖書を<証拠聖句>、つまり、明大や教理の根拠を示し、教える素材として扱う場合の最大の弱点は、聞き手の問いが封じられてしまうことにあります。(p.50)
じつは、ミーちゃんはーちゃんは、根拠聖句として聖書箇所を開くのが結構好きなのである。聖書のあちこちを言及し、聖書を開きまくってもらうような説教スタイルが個人的にはお気に入りなのだが、やはりそれはまずいよなぁ、と思うのである。ここで平野さんが指摘するように「 聞き手の問いが封じられてしまう 」部分があることを認めざるを得ないし、聞き手の聖書との向き合いや思いめぐらしまでが封じられてしまうという側面は否めない。20代頃からの癖であるが、説教を聞いているときには、説教とか、その日の聖句として上げられた聖書のことばと他の聖書箇所の関係を考えながら思いめぐらしていることが多い(すいません、説教者の皆さんの話に集中していなくて)。そして、そのノリでつい説教するときも、ここからはああだ、こうだとやりたくなってしまうのだ。

そのような、次々聖書箇所が明けられるような説教では、聞いている信徒さんの側は、聖書を開くのに追いまくられて、聖書のことばを思い浮かべ、味わうことが十分にやりにくいのかもしれない、というのは、聞く側に身を置く機会が増えてから、改めて思ったことではある。

ところで、前回の記事 

2016年夏号のMinistryを読んだ(2)

の中道さんの最後の連載記事の中の記述ではないが、日本のキリスト教会では、聖書を聴くものということが失われており、その結果、信徒は聖書を開きまくることを特段、説教者は求めていなくても、求めていると思って開けちゃう信徒の方というかそういうのが習い性になった信徒の方もおられるので、この辺悩ましいなぁ、と思う。

特に「開けなくてもいいですよ、聞いてくださるだけで十分です」とは何度も言ってきたのだが、隣のひとが開けていると遅れないで開けなきゃいけない気になるらしい。この辺、説教と聖書の関係って悩ましいなぁ、とは思う。

整い過ぎている説教
落語の話で恐縮だが、 名人と呼ばれた落語家にはいくつかのパターンがあるらしい。

関西落語で育ったので、関西の落語家しか知らないが、名人の中にも桂米朝さんやその弟子の桂枝雀さん(初期のころ)、そして、笑福亭仁鶴さんなどは、いつ聞いても安心できるような、整った落語をされる方々といってよいと思う。その意味で安定の品質の名人芸という名人であるように思う。しかし、名人の中でも、破れをもった名人もおられる。笑福亭松鶴(先代)の落語はそんな感じだったと弟子の笑福亭鶴瓶が以前どこかで語っていた。40点の時もあれば、100点以上の時もある、品質は安定していないが、面白い時にはむちゃくちゃ面白いというタイプの落語家である。恐らく、笑福亭鶴瓶や桂枝雀と同時期の桂米朝の弟子である桂ざこばは、後者の破れを持つ系譜に属する落語家ではないか、と思う。

本来桂枝雀は前者の安定の品質を持つ完成された落語を語ろうとするタイプの落語家であったように思うが、後期には、その安定の品質、完成された落語の目指すタイプであることを意図的に離れようとして必死になっていた時期がある。ミーちゃんはーちゃんは、この時期の落語を大変たくさん見た。つまり、当時の枝雀師匠は正統的な古典落語の世界からの脱出を試み、本来の自分の姿ではない異形の落語家、破れを持つ落語家を目指したのではないかと思うし、それが彼を苦しめ、最後には自死にまで追い込んでしまったのではないか、と思う。なお、落語は仏教での法話(仏教の僧侶による解説)を人々が聞くようにするために生まれた芸能であるらしい。なお、この部分は余談である。
この説教原稿はよく整っています。しかし、整い過ぎていているようにも思います。そのために、キリストという復活の異常なリアリティを伝え損なっているように思います。(p.53)
確かにこの説教原稿は整っている。そして、よく考えられているともう。素朴にいいなぁ、と思えるある種の美しさはあると思う。そして、 信徒は説教をそのまま受け取れるという安心感にあふれた説教であることは平野さんの言う通りだ、と思う。しかし、それと同時に破れというか、信徒が入り込める余裕のなさ、説教が話される言葉のスピードにもよるが、ミーちゃんはーちゃんが、説教者のことばを聞きながらも、その説教から離れ、聖書のことばを思い浮かべて遊ぶような、というか、聖書のことばをふらふら楽しんで、次これが来るのではないだろうか、自分ならこの聖句を持ってくるが…という遊びはしにくいかもしれない、とは思った。大体、そういう不真面目な聴き方をミーちゃんはーちゃんがするから、教会でいろいろ言われてきた、のかもしれないと思う。

ところで、先ほどの落語家の話に少し戻すと、落語家が40点や30点の時もあれば、100点の時もあるという破れというか、乱れのある落語家の落語を聞く場合は、聞き手が落語家のオチとかを補う必要があるし、そのような信頼関係が話者と聞き手の中にあるようになれば、破れがあっても名人ともいわれるようにもなるのだろう。今日は100点に出あえるかもしれない、という喜びを見つけるためにその人の落語をライブで見に行くのではないか、と思う。

音楽でもそうだが、ライブにはライブ演奏の良さがあり(一期一会的な良さ)、録音には録音演奏の良さがある(安定の品質の良さ)。説教が説教と会衆でつくりあげるものであるというロイドジョンズの主張(どの本に書いてあったか忘れたが確か、説教と説教者であったと思う)は、ある面そのとおりとも思う。もちろん、ロイドジョンズが説教に膨大な時間をかけていたことは有名であるとは思うが。平野さんの最後のことばは、ロイドジョンズの説教に向かう姿を思いださせるものでもあったし、聖書の中に聴衆を招いていくことをお書きになられたいのだなぁ、と思うことになった。
あなたは、あなたの説教者としての課題について、「聖書と共に聴衆をも十分に解釈すると書いていますね。本当にそれが私たちの課題ですね。そしてそのことは、きっと、聖書の外側で聴衆を解釈するのではなく、聖書の内側に聴衆を新しく発見することからやってくるのです。(p.53)

同様のことは、同誌同じ号で、牧師のことばが若者に届かないのか〜の連載の中で、朝岡勝さんも同じ趣旨のことを書いて居られる。その部分を引用して終わることにする。
ボーレン先生は、『説教学』の中で、聖書を「第一のテキスト」といい、聴き手を「第二のテキスト」といい、この第2のテキストである聴衆についても、釈義し、黙想せよという。(中略)
しかし、「第二のテキスト」である聞き手たちについてはどうだろうか。説教者が聖書を繰り返し読み、詳しく調べて、祈りの中に思いめぐらすのと同じくらいに、神のことばの聞き手たち一人ひとりのことをちゃんと黙想して釈義しているだろうか。(p.59)
こういうことを言うと、「教会はいつものメンバーのためだけのものでない、きたことがない人をどうして聞き手として釈義できるのか?」という表面的なご批判をおっしゃる方がおられるが、それはあまりにも浅いお考えではないか、と思う。そもそも、教会は、神を求めるすべての人(新しい来会者であり、その教会に取って他者性(追記・補足 レヴィナスの意味での他者性、排除されるべき他者ではなく)を持った人を含む)のものなのではないだろうか。誰かという顔が浮かんでないにせよ、来られるかもしれない(それがどんな人かもわからない)人を含めて、説教準備の中で、さらに、祈りの中で、黙想し、釈義する中で聖書説教の中に反映されることになるのではないだろうか。少なくともミーちゃんはーちゃんが説教準備をしていたころは、それは心の端にはおいていたことである。

ということで、今日の記事はこれでおしまい。

次回、教会が居場所を回復するためにという特集記事から紹介する。しかし、今回紹介する以外にも非常に重要な示唆を与える記事が満載されている。実に攻めている雑誌だと思う。お買い得であると思う。この号もお勧めしたい。





 
評価:
ヘンリ・ナウエン
あめんどう
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(2008-04-30)
コメント:この本、めちゃくちゃいい。おすすめ。聖書が読めなくなっている人に、諸般の事情で、教会に出られなくなっている方に、お勧めしたい。ちゃんと聖書も大量に出てくるし。

評価:
晴佐久 昌英
カトリック淳心会 オリエンス宗教研究所
¥ 1,512
(2010-01-20)
コメント:非常に参考になった。

評価:
D.マーティン・ロイド・ジョンズ,小杉克己
いのちのことば社
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(2000-08)
コメント:内容は、非常に良かった。リバブックスは印刷が貧困で、読めればいいという感じなので、あまり好きではない。

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