なんか、最近、日本人とユダヤ人が同じだとか、君が代がヘブライ語で読むとわかるとか、弘法大師は東方キリスト教の行きついた景教から影響を受けて「いろは歌」を造ったとか、香ばしい話題をお知らせしてくださる方が増えてきたので、この背景について、最近最下部リンクの井上章一先生の本と内田樹先生の本で学んだので、ちょっと書いておこうかと。

日ユ同祖論について
 まず、日ユ同祖論について述べておこうか、とおもう。これは、日本人がユダヤ人と同じ祖先をもつ、とか、日本人がユダヤの失われた11部族のその支族の一つではないか、という理解である。

 例えば、神社の赤い鳥居は、出エジプトの鴨居に血を塗ったものを形としてあらわしたものだとか、天狗の風俗はユダヤ人司祭の姿であるとか、諏訪大社の主祭神が守屋山なので、モリヤ山とおんなじだとか、まぁ、調べれば出るわ出るわ、ちょっとしたゴロ合わせとか、ちょっとした類似からひょっとして日本人とユダヤ人は同じではないか、ということを言う人々がおられる。

歴史ロマンとして楽しんでる分には…

 歴史ロマンとして、勝手に妄想をしておられる分には構わない。そのロマンは個人で楽しんだり、何人かの人々で、「自分たちだけが知っている」とか言って陰謀大好き、陰謀ですべてを理解しようとして楽しんだりしている分には構わない、とは思う。言論は自由だし。どんなトンデモ理論でも、「どうぞ、お好きにご発言なさってもよろしいのではないでしょうか(まぁ、このブログもトンデモ理論いっぱいなので、ひとのことは言えた義理ではない)」、と申し上げたく存じますが、それが確実なもの、歴史的事実とご主張になさったり、聖書に比肩するものとして、キリスト教徒の中で、いわんやキリスト教会でまことしやかに語られるこの状況は何とかならんかなぁ、と思う。

いつ頃生まれたか

 内田先生の私家版・ユダヤ文化論では、明治維新の直後のアメリカ人宣教師MacLeodとしておられるが、井上先生の本では、もっと以前だとご主張である。その根拠として、

 たとえば、16世紀末から日本に滞在していたペドロ・モレホンの指摘を、見てみよう。モレホンは、『日本中国見聞録』(1621年)という記録を書いている。その中で、日ユ同祖論に言及し、否定的なコメントをよせていた。(p.184)

と結構古い。この説が日本発ではどうもなさそうであり、海外由来でありそうである。その背景について、

 日本人はユダヤ系であるとする通念が、彼の同時代に存在したからであろう。ありもない議論に、くってかかってもしょうがない。日ユ同祖論は間違いだと、否定して見せる意義がある。この議論はそれだけ広く浸透している一般的な見解として、意識されていた。(p.185)

バベルの塔由来か?
 このような『奇説』が出てくる背景として、バベルの塔の言語混乱とその後世界各地に広がっていた記述がどうも基礎にありそうであることを同書では指摘されている。そして、引用はもうしないので、ぜひ同書をお買い上げいただきその最後の章をお読みいただきたいのだが、17世紀末に長崎にいたオランダ人ケルペルが日本人はバビロン由来であるという説が維持されていたことをケルペルの『日本誌』を引用しながら記載しておられる。

奇説の背景としての東方見聞録
 このような奇説がヨーロッパで出てきた背景には、おそらくマルコ・ポーロが戦争に負けて投獄されているときに、暇つぶしに彼の『東方見聞録』の話をしたものを口述記録したものが出版されて、当時のヨーロッパにとって、未知の領域であるアジアについての一大アジアブームを生み出し、コロンボ(コロンブス)が西回りでもインドに行けんじゃね、とスペインから出航したりと、まぁ、いろんな影響が出ている。余談になるが、マルコ・ポーロが戦死してたら、ひょっとしたら、アフリカ人奴隷貿易がおこなわれることもなく、アフリカ系アメリカ人が生まれることもなく、と世界史は大きく変わってたかもしれないと思うと、まぁ不思議な感じもする。
 日本が存在としてヨーロッパ人に認識されるのは、マルコ・ポーロの東方見聞録がおそらくはじめてだろうと思われる。

大航海時代の夢とロマン

 インターネットもなく、CNNもなく、新聞もなく、海外通信社もなく、という時代では、噂、伝聞情報だけが独り歩きする。それはそれで真実と嘘(ノイズ)や歪曲(ツィスト)が混じるのであるが、ノイズやツイストだらけだろうが、真実も一部含まれるからややこしい。
 どうも日本人や中国人という人々がいるらしい、とヨーロッパ人が認識したのが『東方見聞録』であり、そのことを認識したヨーロッパ人とすれば、当時の世界観を形作った聖書の中で、どこが関連付けられるかということを考えたくなるのは人情であろう。するとと、バベルの塔の話か、バビロンに捕囚された挙句、わからなくなったユダヤ人ではないか、という歴史ロマンが出ても不思議ではない。バベルの塔だと、その物語と一致しているので、あまりに説としては面白くないだろう。そして、混乱がその主要ポイントなので、痕跡とは言え、一致性を言うのは困難になる。また、バベルの塔を根拠にすると古すぎるということもあるし、旧約聖書の出エジプト記以降の記述を拾えないので、ヘブライ語聖書に詳しくない日本人に引っ掛かるためには、いったん捕囚されてわけわからなくなった捕囚の民の末裔であるとすることが選択肢としては魅力があることになる。

この奇説の困った論理構造
 この奇説は、類似性のあるものをたくさん集めてきて、これだけ類似性があるのだから、双方は同じ根源をもつ、とするのは当然ではないか、という論理構造に立ち、一見科学的な方法論を持つかに見える点である。

 この論理を用いると、コンビニに売っているおにぎりと文具店に売っている三角定規は、同じ祖先をもつことになるのではないか。おにぎりも、三角定規も、△のかたちをしているし、真中が空いているし、厚みの違いもあるものの一定の厚みがあるし・・・ほら、三角定規とコンビニに売っている三角のおにぎりは同じ祖先をもつんじゃないですか、ってことを言えちゃうじゃないですか。誰もそうは言わないけど。

次回は上智大学の公開講座の受講記録に戻すので、来週土曜日辺りにこの奇説が日本のキリスト者に受けるわけ、について書いてみたいと思う。 



評価:
価格: ¥907
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コメント:日本文化論の専門の学者による学問の香りのする入門書。日本人がどうキリスト教を見て、どうかかわってきたのかを著した名著。

評価:
価格: ¥810
ショップ: 楽天ブックス
コメント:内田先生のヨーロッパでのユダヤ人社会とその特殊性を説明した入門書。

  2014年7月5日に上智大学大阪サテライトキャンパスでおこなわれた公開講座「キリシタン版の全て」と題して行われた豊島正之先生の内容の概要を公開しようかと。今日は短め。

 冒頭で、Cardoso 作曲のレクイエムが冒頭流された。天正少年使節団がポルトガルを訪れ、ジェロニモ修道院に到達した頃の修道院長が、このCardosoであったそうである。



イエズス会の言語研究について
 ともにバスク人であるロヨラとザビエルがパリ大学で出会う。バスク人でも、サンセバスチャン(美食の町)で生まれたのがザビエルであった。バスク人であり、言語マイノリティとしてのロヨラとザビエルがいる。そして、イエズス会は言語マイノリティがその設立に深くかかわっている。それもあるためか、イエズス会は、言語教育への固有の熱心さをもっている。イエズス会は聖書・教義書と文法書と辞書という、3点セットをアフリカだろうが南米だろうが宣教地のどこでも佐久瑛している。

 例えば、タミル語の活字を造って活字印刷しているし、ケチュアは、ケチュア語をアルファベット表記で作成している。このような特徴は、他の修道会にはないイエズス会特有の特徴といえよう。

 アレッサンドロ・ヴァリニャーノが日本に巡察師として来た時、その時のイエズス会総長は、パドバ大学時代の同級生であった。

当時の活字印刷

 この時期行書・草書体の活字が造られ、印刷がなされている。たとえば、『ひですの教(おしえ)』等の書籍が出版されている。この時期の印刷活字は、現在のような楷書ではなく、行書、草書体である。なお、楷書のひらがなは明治になって出来たのであって、新聞に印刷されて普及していくことになる。当時は、ひら仮名の行草体しかない。フォントとしてのひらかなの楷書体というのは、本来矛盾であろう。もともと漢字を崩して造られたのが、平仮名である以上、草書、ないしは行書体が本来のあり方であろう。

キリシタン時代に印刷された書物と
その印刷方法

 印刷されたキリシタン文書は、教義書・典礼書、修徳署、語学書、文学書などである。

 整版(木版)で両面印刷したのではなく、日本版本と国字本は見た目には同じだけど、実は違う。たとえば、『ひですの経』(ハーバード大学所収本)は裏を見たら陰圧がわかり、木版でない印圧の強さであり、金属活字版印刷の痕跡が実物から確認される。
 当時の印刷技術を知るには、アントワープにある印刷博物館に18世紀の印刷工場が現在でも動態保存されている。Plantinという印刷業者の会社の運営する博物館で、当時、プランタン社は、アルド社(ヴェネツィア)と並ぶ2大印刷業者であった。このプランタン社の一族で、もっとも有名なプランタンは、キリシタン時代の同時代人である。

 当時の印刷業者の絵をみると、印刷部屋と校正部屋には、カラー(襟巻のような襟)があるのは、親方、校正、組み版の作業者であり、カラーがない労働者、作業者が印刷工である。


 当時の印刷技術は、紙を複数枚積んで印刷する形式の印刷である。フリスケットという工具を使って印刷をする。1枚刷る時間は、最短15秒/枚であった。

 当時のプレス印刷特有の事故がある。同じ方向に同じだけ文字だけが2回ずれて、印刷されているページなどがあり、それがプレス印刷の特徴でもある。 1枚目の紙の上から活字が抜かれて、印刷されることがある。これに比して、木版印刷の場合、バレン印刷の事故があり、これでも、すりブレが起こるが、文字が完全に外れた形でのブレではなく、重なる形でのブレである。

日本の印刷手法
 日本最古の木版印刷は、770年の百万塔陀羅尼であるが、どのように刷ったかわからない。版偽も何種類あったのかもわからないほど、あまりにたくさん残っており、何枚残っているかすらわからない。これも、すりブレがあるが、バレン事故の場合、特定行の特定文字のみ起こる。 紙が水分を含んで、波打ちが起きるので、すりブレが発生する。 



陀羅尼経

キリシタン版での印刷のずれ
 プレス事故特有のすりブレは、一方向にしか出ない。それをImpression Slurとよぶが、それは、紙が斜めに吸い込まれるが故の事故であり、キリシタン版でもImpression Slurが見られて、プレス印刷の特徴がみられる。

 「こんてんつすむんぢ」のばあい、バレンのすりブレがみられる。この書籍の印刷技術は、プレスとバレンのハイブリッドの可能性があり、どれが木版印刷で、どのページが金属活字プレス印刷なのかが、虫眼鏡でディテイルを見ないと判定がつかない世界である。

ヨーロッパでの印刷の発展形としての
エッチング印刷

 ところが、ローラプレスと呼ばれる方法がその後開発され、別名、版画印刷友呼ばれる方法であり、銅版画の印刷技術である。ところで、このローラプレスで用いられるエッチング的な手法が、日本ではなかった。木版は線をクロスさせた表現が印刷としてできないので、陰影のある絵が描きにくく、そこは着色で補っている。

 次回へと続く


 NTライトの著作に関するある読書会(Facebookに事前に登録していることが必須)に参加させてもらっていて、NTライトの本でミーちゃんはーちゃんが読んで、こんな感じかなぁ、とおまとめしたものをご紹介してくれ、というある方からの、奇特なご要望があったので、ご紹介します。

 その読書会で、今読んでいる本は、Surprised by Hopeという本の早くも14章 Reshaping the Church for Mission (1): The Gospels and Actsの第1回目の部分なんですね。ページ数で言うと、その本のHarper Oneバージョンでpp.234-237 までの部分のおまとめのご紹介。

 以下、おまとめした内容。本文中の【】の中は、ミーちゃんはーちゃんが読みながら思ったことです。見出しは、適当にミーちゃんはーちゃんが付けた見出し。ミーちゃんはーちゃんが思ったことだけ読みたい方は、こちらから

四福音書の重要な主張
 四福音書の中においてくっきりと浮き彫りにされているイエスの復活の最も重要で最も明白な意義は、神の支配を主張し、イスラエルを代表するもの【この代表、という言葉は、へブル書における大祭司を意識しているかもしれないと思う】として死したイエスがメシア【=キリスト=全世界の王】であることの真正性を神が示された点にある。


全世界の王イエスが王座に就いたのが十字架と復活
 誰でも福音書を読み通すならば、イエスは その発言通り、よみがえったことが示されている。別の言い方をすれば、イエス自身のみわざ【なさったこと Work】を通して、御国が来たことを、そして、イエスがその死と復活という画期的な出来事を通して、神の支配が本当に始まったことを示されたである。


復活は、死後のいのちへの希望を与えるそれ以上のもの
 復活は、単発の神の力が示される超自然的な奇妙な出来事や、死後に天が待っているということを示すものでもなく、神の国【というよりは神の支配】が天においてもあるように地においても本当に始まったのだということを示す決定的な出来事であったのだ。


地上に遣わされたエージェントとしての弟子、そしてわれら
 彼らが復活のイエスに出会い、拝した(それでも一部は疑っていた)時が、キリストについての福音書において示された最高潮に達した段階であり、イエスがインマヌエル【神がわれらと共におられる方】であることが立証された時である。天においてもそうであるように、地においてもイエスが神としての権威を持ったからこそ、弟子たちを神のエージェント【手の者】として派遣する根拠となったのである。マルコではそれほど明確でなかったがマタイではより明らかになっているが、イエスの復活はこの地上からの離脱を意味するものでなく、イエスのこの地に対する王権に基づくミッション【任務】なのだ【この辺、スパイ映画のメタファーが使われている模様】。マタイは、復活はイエスが天と地の御座に着座されたことを明確に示しているのだ。


もし、復活がなかったら
 復活は、分水嶺のようなもので、復活がなければ、聖書の物語は未完のイスラエルが希望を混沌とした世界の中でも持ち続けることになる、エマオへの下向の二人が語るように悲劇でしかなかったのである【実は、映画ノアの監督が描いて見せた物語】。


全てのものがひっくり返ったのがイエスの復活
 しかし、復活を認めれば聖書全体を見通せる話になるのであり、 すべてのものがひっくり返ることが始まる点なのだ。全ての過去の約束が実現する、すなわちダビデの王権が立てられ、イスラエルが最大の流浪から帰還し、マタイ、ルカ、ヨハネでは明らかに示されているが、アブラハムの末によりすべての国民への祝福が実現した時点だったのだ。


そもそもユダヤ教徒であった弟子たち、初代教会の人々
 弟子たちがイエスの復活後、喜びにあふれたのは、彼らが信仰心にあふれるユダヤ教徒であったからであり、イエスの復活がなければ、彼らの希望を持つ要因はその時点で何もなかったのだ。イエスがメシアであり、神の福音を伝えるものであり、アブラハム、モーセ、ダビデ、そして多くの預言者への神の約束を実現するお方であるからこそ、クリスチャンにとって旧約聖書がキリスト教文書として見られるべき必要性があるのだ。ルカは、イエスが本当に復活したからこそ、 イスラエルの古文書である旧約聖書が、イエスにおいて旧約聖書はその最高潮に達する物語として読まれるべきであり、そして、イスラエルのみでなく、イエス の弟子たちにおって、全世界が適切な実を結ぶ物語として読み直されるべき物語として示している。


ルカの福音書24章
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

 これはユダヤ人の希望以上のものであり、まさに新約聖書神学の不動の中心概念のひとつなのだ。


2種類の信仰、宗教
 もし、イエスの復活がなければ、2種類の信仰あるいは宗教が併存することになる。その2種類の信仰とは、イエスにおいて神の世界へのアクセスが可能とな るというクリスチャン信仰と、イエス以外のメシアを通して神の世界へのアクセスが可能となるユダヤ人信仰である【映画ノアで監督が描いて見せた世界】。これら両者は、本物のキリスト信仰でもないしユダヤ的な信仰でもないし、こうであるとすると、ユダヤ教徒とキリスト教徒という二つの信仰者の集団に対して、両者は多くの宗教のうちの一つ、あるいは霊性のかたちのうちの一つとしてしまうという暴挙に出ることになるのだ。復活が存在したからこそ、詩篇作家と預言者たちが待ち望んだ、すべての国々が神に油注ぎを受けたイスラエルのメシアに忠誠を誓い、服するときがやってきたのだ。【p.237まで】


ミーちゃんはーちゃん的感想
 以上の部分については、おまとめしただけなので、間違いもあるでしょうし、理解ぶそっくの点もあると思います(何せ本人でないので)ので、コメント欄でご質問をいただいてもお答えしかねる部分もあるので、まず、本文をお読みいただいてから、お願いしたいです。以下の部分については、お答えいたします。


God's Agentについて
 この話を読んだ時思い出したのは、サンタバーバラの教会に通っていたときに、日曜学校から子供がもらった、FBIの身分証明書もどきのカード型の証明書である。その時期、丁度スパイキッズという映画が流行っていて、それにAgentって言葉が結構出てたのだ。
 子供がもらった証明書もどきには、FBI Agentではなく、God's Agentと書いてあった。つまり、日曜学校に来ている子供ですら、神のエージェント(捜査員、かっこいい捜査官)みたいなものだってことらしいのだ。これを見たとき、ふ〜〜〜〜ん、と思ってしまった。実にアメリカ人らしい。なんか、そんなのっていいよね。しかし、日本の日曜学校の先生は、こどもを子供扱いするの好きだから、この種の芸当は無理かなぁ。

イエス=キリストの意味
 意外と忘れやすいのは、キリスト=イエスと読んだり、イエス=キリストと読んだり、発音してしまうことで、それらの語がそもそも持っていた「イエス、すなわちメシア」、「イエス、即ちわれらの王」、「イエス、即ち全世界の王」、「イエス、全てのものが膝をかがめ拝する存在」というその意味の方である。なんだろうなぁ。キリストはキリストです、とか、キリストはメシアです、では説明になってないのだが。イエス=キリストというときには、こういう背景説明まで全部含んでいる言葉のはずなのだが。

イエスの復活がなかったら問題
 映画『ノア』もそこそこ観客動員を稼いだようなので、まぁ、ちょっとネタばれ覚悟で。
 どうも、あの監督、ユダヤ人であり、ユダヤ的な見方でノアの物語と旧約聖書と、現代までを無理につないじゃったから、旧約聖書聖典に出てくるノア物語を期待していった人からは総すかんを食っていて、「なんも希望はないじゃないか」という話になるのだが、それは当たり前。だって、監督の彼の頭の中では、我々にとって全てをひっくり返したはずのナザレのイエスは、キリストでも、メシアでもないのだから、希望がないのだ。応答されない神をそれでも神はわれらを愛したもうという期待の目で見上げ続ける物語なのだから、希望もないし、救いもないのだ。

 しかし、我らにはナザレのイエスという希望があり、キリスト、メシア、全ての王、王の王、主の主がが地上にやってきてしもうた、のだから、我らには希望があり、あの映画ノアで描かれた希望のない世界からの脱出をさせられたのだ、という構造になっているのだね。これが。それがわかってみれば、あぁ、そういうことか、とキリスト者なら分かってもらえるけど、そうでないなら、ハーマイオニーおっきくなったね、かわいくなったね、という映画でしかない。

十字架の死・ノアの洪水・ソドムとゴモラ
 しかし、この3つに共通するものがあるというの???、ということをおっしゃる方がおられると思うが、なんとなくではあるが、この3つに共通するものがあると思うのだ。実は、混乱とそのあとの神の介入としての神による神の御思いに従った秩序の確立(救い)が旧約聖書から新約聖書を貫くストーリーでこれら3つにも(もちろんそれ以外にも)共通するものなのだ、と思う。十字架の死、ノアの洪水は普通にわかるかもしれない。しかし日曜学校的には、ソドムとゴモラは悪人に対する神の裁きの話、と思われるだろう。でもそれだけで理解してはならんと思うのだなぁ。

 というのは、この前うちの信徒さんの一人が、このソドムとゴモラの話をしておられたのだが、その中で、創世記19章29節の中の「滅ぼす」、「破壊」という言葉という言葉が、もともとは「ひっくり返す」という意味であることを説明しておられたのだが、まさに、十字架の死という混乱、ノアの洪水の混乱、ソドムとゴモラの混乱、そして、そのあとに出現する、復活、乾いた地、そして神とアブラハムとの関係、それこそが神の秩序の確立という構造なのだなぁと思ったのだ。

 その意味で、たといこの地は混乱と流血に満ちていようが神がその主権者として、地を支配しておられるという意味で、すでに地に神の支配、神の国があることの意味を覚えたい。




評価:
N. T. Wright
HarperOne
¥ 2,137
(2008-02-05)
コメント:面白い本だが、結構衝撃的かもしれない。

 昨日の投稿記事が受けたので、今日は短めに。でも痛いかな。

山本七平氏の「一下級将校の見た帝国陸軍」で
面白かったこと
 山本七平氏の「一下級将校の見た帝国陸軍」には、旧帝国陸軍の部隊の参謀たちの上官のお気持ちの勝手なお察しに基づくとんでもない作戦命令以外にも、面白い特徴があることが記されている。それは、「員数主義」という奇妙な行動パターンである。この員数主義とは、この員数主義の存在によって、現実をガン無視が可能になる魔法のような思考法であり、それが割と日本の社会の中で多数あるのではないか、と思うのだ。

員数主義について

 ここで、員数主義を簡単に説明すると、

 兵隊(部隊)は、きちんと支給されたものをきちんと持っていることで、定量的に兵隊(部隊)の兵力が測定可能です。そして、測定(予測)される兵力に応じて作戦参謀は作戦計画を立案し、その実行を現場の部隊に求めます。

という考え方だったはずなのだが、旧帝国陸軍では、支給されるものは天皇陛下のものなので、兵隊はきちんと維持していて、減ったり、紛失したりするはずがないことになっている(なので、減ったり紛失したりするとまずいので、部隊内での同僚兵から窃盗が発生したり、古参兵からの私的制裁が待っていたらしい)ことから、

 兵隊(部隊)は、きちんと支給されたものをいつまでも持っている(たとえ武器弾薬を使い、食料を消費したとしても)ので、兵隊(部隊)は持っているはずのもので戦うだけの力があるはずです。そして、作戦参謀は、測定(予測)される兵力に応じて作戦計画を立案し、その実行を現場の部隊に求めます。

になり、最後には

 兵隊は(部隊)は、きちんと支給されたものをきちんと持っていない状態でも、創意と工夫で努力し、兵隊(部隊)は持っているはずの支給品を持っているかのごとく、同じ戦力で戦わなければならないのです。そして、実態がどうであろうと、完全装備状態を想定して、作戦参謀は、測定(予測)される兵力に応じて作戦計画を立案し、その実行を現場の部隊に求めます。

となる。

 それで、食べ物も武器弾薬も無くなっていても(武装や食料が足らないなどということを司令部や作戦参謀に言ったら、「泣き言を言うな」、「貴様、それでも帝国軍人か」、「みんな同じでそれでも戦っとる」と言われたらしいし)、武器が壊れていようが、作戦計画を実施せよ(要するに竹槍でも何でも持って戦え、ということらしい)ということが求められる残念な状況にまでなったようです。

 その極みが、防空訓練で、焼夷弾や1トン爆弾ぶちまけるB29スーパーフォートレス(今のボーイング747とか777とか787のご先祖様)に向かって、竹槍をもって戦え、となったり、「特攻精神で、銃弾がなくても、戦え」となるようです。マシンガンや戦車やB29に精神主義で勝てると思うところが、ねぇ。


SeaTac空港のご近所のボーイング社の飛行機博物館に所蔵されているB29


 ところで、員数主義の背景には、悪しき普遍主義があり、数があれば同じ、質的条件は無視してよい、という近代の背景があると思うのですね。それが海軍だと予科練とか、陸軍少年非行兵とかを前線へ、って発想に…。頭痛い。

教会に員数主義はないでしょ?って

 確かに、教会には員数主義はないですよね。多分。
 でも、本当でしょうかねぇ。でもよく考えてみると、地方部の教会が員数主義の弊害を受けているのではないかなぁ、と思うのですよ。オルガンの「ミ」と「ソ」の音が出なかったり、オルガン自体が壊れてようが、そこは創意工夫で賛美をしましょう。教会堂が雨漏りしてようが、そこは、創意工夫で、なんとかしましょう。必要な活動にふさわしい予算がなくても、そこは創意工夫で何とかしましょう。地方の人口減、高齢化、少子化を前にして、それでも、そこは祈りで信徒数を増やしましょう。貴教会からも、献金をもっとお願いします。ちょっと、貴教会からは献金が少ないですね。もっと祈りましょう。捧げましょう。○○教会ではこうやって信徒さんが増えたようです。こうすれば、貴教会も信徒も献金が増えるんじゃないですか。

 個別の教会の実情を把握することなく、いとも簡単に表面をちょろっと見て、数字をちらっと見て、そしてその場での思い付きのことを言い放って立ち去っていく旧帝国陸軍の参謀本部にいた作戦参謀のような人たち。

 よもや、日本の教会にこういう人はおられないと思いますが、もしおられるとすれば、なんか、旧帝国陸軍の員数主義や現場を知らない作戦参謀が現場ガン無視で勝手に員数主義で建てた作戦計画の遂行を求めたことと、なんとなく似てませんかねぇ。

自治会でもはびこる員数主義

 自治会に対して、某自治体関連機関は、○○の募金とかでも、目標額勝手に設定して、募金をこれだけ出せって言ってくるらしいから、まぁ、教会だけの問題でもないようだけど。地域の状況も踏まえずに、人数割りで同じだけ出せ、ってってねぇ。PTAとかでもあるんじゃないですかねぇ。よくは知らないけど。

実体を踏まえた上での取り組みと
員数主義の残念な結果は違うかも

 もちろん、下部のリンクで紹介したロイドジョンズ先生のリバイバルという本にもあるように、リバイバルが起きる前には、その地域で熱い祈りがあったことも確かでしょうし、リバイバルを神が起こされる前には、祈りによる準備があったとは思う。しかし、それは地域の現実(特殊性や特徴)をも踏まえた上で、そして、地域も、そして、日本全体のキリスト者も、祈り、整えられ、そして、リアルな現実を踏まえた上で、それでも、それぞれの地域とその実態に向かっていく(伝道する、あるいは、神の支配が来た、というイエスのことばを宣言する)ことではないか、とも思うのだなぁ。

 それを、向き合うべき社会やその実態のことを全く考えもせず、これでやればうまくいく、といってほかの人やほかの教会がやって、ちょっと成功したのと同じことをやっていくことを求めることは結局、現地の消耗と疲弊と、モラルハザード〔やる気の喪失〕だけを招くんじゃないかな、とも思うのだなぁ、これが。

員数主義、悪しき普遍主義の結果の例

 最後に、員数主義と悪しき普遍主義で思いつく事例をご紹介しますね。もう、実態としては非常に印象が薄い地域が多いと思うのですが、駅前にあるような商店街には、昔は、○○銀座と名前が付けられ多商店街があったものです。そして、日本全国に数えられない程の本物の東京都中央区の東京駅南側にあるような銀座とは程遠いミニ銀座ができました。
 そして、ミニ銀座には、傘をささずとも買い物ができるという触れ込みの麗々しい触れ込みのアーケード(たぶん、銀座そのものにはアーケードはこれまでなかったのではないか、と思いますが)ができました。商店街はアーケードや歩行者専用歩道を設け、歩道をカラー舗装をすることで、経済的に繁栄するはずでした。しかし、「今、現実はどうなっているのか」は、皆さんご存知の通りです。

まとめ
 日本のキリスト教会は、悪しき員数主義や普遍主義に毒されておられない、と確信しておりますし、そして、祈りをもって、地域の現状をしっかりとにらみつつ、神の祝福に備えておられるものと存じ上げます。そして、ミーちゃんはーちゃんも、神と共に歩むものとして、神の民の末席にいるものとして、日々のキリスト者としての皆さんの存在そのものがMissionalな存在であり、今は結果が見えなくても、将来豊かな実を結ばれることを期待しつつ、「御国が来ますように。み旨が成りますように」と祈っております。





評価:
価格: ¥586
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コメント:面白い。帝国陸軍の思考パターンが行動に表れているのがよくわかる。

評価:
D.M. ロイドジョンズ
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(2004-10)
コメント:ロイドジョンズのリバイバル論。


 水谷潔さんのいつものブログ記事 察することのできない夫と察しすぎる妻(例外編) を見ていて、はたと気が付いたことがある。日本の男性の行動が、キリスト教界においても、帝国陸軍の思考と行動パターンというのか、幕藩体制下の藩政時代のお武家様の皆さんの思考と行動パターンを見事に踏襲していることなのだ。そして、封建制度の生活文化というか、封建制度そのものを維持しているという現実である。以下引用する。

水谷潔氏のブログ記事から

 地位や序列を察しすぎてしまうあまり、男性たちは、心の深い交わりを失ってしまうのです。

男性たちは、サラリーマンだったりすると、宴会でも「無礼講」と言いながら、それは建前に過ぎません。ちゃんと役職順に奥から座ったりします。女性からすれば「どこが無礼講やねん!」と突っ込みたくなるような、矛盾した行為を当たり前にとるのです。言うまでもなく、こうした交わりの中では、本音を出しての心からの交わりなど望みえません。

 それは、教会でも同様です。男性たちは、主にあるフラットな交わりが困難です。年齢や信仰歴、社会的地位や学歴などにこだわり過ぎて、心を裸にした交わりできないのです。涙を流して祈り合う女性クリスチャンから見ると、男性クリスチャンたちは、恐ろしく貧しい交わりに生きているように見えてしまいます。

 以上のように、地位と序列については、「察しすぎる男性」と「察する気もない女性」と言えそうです。男性は、「権力関係における地位についての察し」はし過ぎてしまう一方で、「人格関係における心情についての察し」はできないのです。
あれ、帝国陸軍と似てないか?
 とくに、「権力関係における地位についての察し」というのが、実は、旧大本営から、旧帝国陸軍参謀本部から、旧帝国陸軍の末端に至るまで、先任関係(どちらが陸軍入省が早いか)という地位関係が優先されるのである(吉本興業などお笑いの世界でもそうらしい。一日でも入門が早ければ、入門時期の早い弟子が小学生でも、入門時期の遅い大卒の人間が、小学生捕まえて、「兄さん」と呼ばないといかんらしい。一日でも経験が長い人間に徳がある、ってこれ儒教的徳治政治やないですか。あほらしい)。つまり、平たい言葉で言えば、出生順であれ、入門順であれ、入省順であれ、先輩が能力の有無に関係なく偉い、という支配構造が生きているということであったのだ。これは、現在の中学生のクラブでも生きているらしい。なんじゃ、そら。そして、そのうえでの情実人事、情実に基づく判断が横行した模様である。そのあたりのことは失敗の本質に描かれていたように思う。

「察し」が原因の226事件かも

 そして、この「察し」というのは、「権力関係における上位者の意思の察し」なんてことも行われたりするが、その副作用も大きいと思うのだな。例えば、「お上(統帥権を持つことになっていた天皇)はこう思っておられる」 ということで、勝手に自分の思いをお上の思いへと重ねていくことになる。そして、青年将校は、226事件で暴発し、「昭和維新断行・尊皇討奸」と掲げてクーデターをやってみるものの、「勅命下る」で昭和天皇の不興を買ったと分かるや否や自滅へと向かっていく。まさに、神の「みこころ」が自分の「おここころ」に重ねられ、勝手に解釈されて、実行させられていくのは、基本的に帝国陸軍そっくりだし、はっきり語らない殿の「みこころ」が、自分の「おこころ」に重ねられて、家老や年寄、中老などの重臣などによって語られ(あるいは、騙られて)ていく。

教会婦人部 大奥説?
 と思っていたら、この前、面白いツイートでつかまえたブログ「しろうと哲学者トリス氏の生活と意見」で「あるカトリック教会における無教会クリスチャンの祈り」という記事を見た。

 わたしの母教会では、ここで幼児洗礼を受け半世紀以上も通い続けている婆さんたちに権力が集中していた。カトリック教会には人事異動があり、長くても十年くらいで神父はよその教会に移るが、信徒は転居しない限り同じ教会に通い続ける。したがって、備品のありかや雑務の段取りなどについては、婆さんたちが いちばんよく知っていて、神父も頭があがらないというわけである。新人クリスチャンのわたしなどは、しばしば上から目線で命令されたものだ。奏楽担当のお嬢さんも、よくいじめられていた。彼女には留学経験があり、外国人の神父や修道士と英語で話したりするのが、無学な婆さんたちの癪に障ったのかもしれない。わたしは引越しを機にこの教会と縁を切ったが、あのお嬢さんはどうしているだろう。聖体拝領のときにまたアメージング・グレイスを弾いて、それはプロテスタントの曲でしょと叱られたりしているのだろうか。
 まさに、家老や年寄りや中老が権威を持ち、大奥で、上臈御年寄、小上臈、御年寄、中年寄が力を持つ構造と同じではないか。頭が痛い。結局日本の教会では、ミニ江戸城、ミニ○○藩、ミニ大本営、ミニ陸軍参謀本部、ミニ陸軍幼年学校の再現が繰り返されているではないか。

教団総会、神学校も帝国陸軍の再現中?
 ところで、神学校の内実や、牧師会がどういうものかはそういうところに出たことがない平信徒のミーちゃんはーちゃんは知らない。また、教団総会とか、教団本部とかの人事がどうなっているかも知らない。しかし、いろいろ聞かせて下さるありがたい方のお話を総合すると、どうも、いずれも結構いろいろあるようであるし、ミニ陸軍参謀本部やミニ陸軍幼年学校の再現が繰り返されているという側面が全くないとも言えないようだ。これを書きながら吐き気すら感じてきた。

 某団体の教団派・社会派闘争(当事者でないのでよくは知らない。知りたい方は、キリスト新聞のバックナンバーをお読みくだされ)だって、下手すると、構造としては、お上の「おおみこころ」をお察し申し上げ、青年将校が暴発した226事件と構造は同じではないか、とすら思えてくる。なんだろう。これは。(ト、トイレ〜〜〜!)

繰り返される歴史・歴史に学ぶ必要
 かくて、帝国陸軍で起きた歴史が、日本の教会でも反省もなく繰り返されているかに見える(同じとは言ってないから、読者は注意されたい)現状を思うとですねぇ、これが実に残念だし、なんだかなぁ、になるのですよ。ミーちゃんはーちゃんとしては。

 なお、第3帝国末期のドイツでもヒットラー総統のおこころの類推で作戦が繰り出されたことはあったようだし、また、それをうまく使ってヴァルキューレ作戦が行われた形跡もあるので、まぁ、これはどうも日本に限ったことではないようである。どこの国でも、こういうことをする人はいるのだろう、とは思う。

 我々は、もうちょっと歴史に学んだ方がよいのではないか、と思うのだ。だって、旧約聖書はある程度歴史に学ぶ書でもあると思うし。

どっちみち人間は所詮ダメなんじゃね?
 まぁ、トリス氏の願いと祈りはわからなくはないが、恐らく、トリス氏の願いの通りにはならないだろうとは思う。残念だけど、それは申し上げたい。それは、この地において、人間が神の前に完全に神と共に一体となれないから。ごくごく荒っぽい言い方をすれば、罪ある存在だから。罪ある存在が、神にあって、神の霊にあって一つにまとめられたのが、教会の一断面だから。
 旧約聖書に繰り返されている歴史は、そもそも論として、人間はダメなんじゃないか、ってことを示しているように思えてならないんだなぁ。映画ノアの監督もそれが言いたかったので、ノアの物語をパロって旧約聖書の物語の幕の内弁当にしてみました、をしただけなんだと思う。このあたりをお考えになられたい方には、拙ブログの以下の記事もあわせて参照たまわりたく。

上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半
上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 後半

ノア 約束の舟 をみてきたよぉ。あなたがどんなクリスチャンであるかを問う映画かも?

それでもその教会を愛し給うた「頭」なるイエス
 一人ひとりは聖でなくとも、そして、如何に残念な人々であろうと、それでも、神は愛したもう、そこが大事だとは思った。そして、ナザレのイエスは、この教会を愛し給うたがゆえに十字架の上でのその神の支配(=神の国)の王座にメシアとして、あるいは、キリストとして、神の子(皇帝)としてご着座され給うたのではないかなぁ。目の前の現実も大事であるが、時に目の前の現実ばかりを見ていると、現実をクイックフィックスとも呼ばれる当面の方策とか関与で何とかしたくなる。その気持ちは、技術者としても生きているものとしては非常によくわかる。しかし、現実ばっか見ていると、現実のその奥にあるものが見えなくなるし、その奥の構造も見えなくなる。それではアカンのではないか、とも思うのだ。最後に口語訳聖書に記載された、マタイの福音書での主の祈りを引用して終わる。

天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。
御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。
わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。
わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
 この記事の読者に神との平和、共にあらんことを。そして、神のみこころを勝手に察して、勝手に自分で、自分たちでどうのこうのするのではなく、神の御手にあることを確信しつつ、悪をも用い、アッシリア、バビロンすら用いたもうた神の御手に委ねてまいりたい。ミーちゃんはーちゃんとしては。

 お立場もあるんでしょうが、このあたりのこと、本当は牧師先生にもわかりやすくお示してほしいなぁ、と。ちょっとおねだり。

 生々しくって、書けないって? そうでしょうねぇ。多分。 

 ま、今政権政党の皆さんが、道徳教育の復権とか、「とりもろす」とか、慌てていっているんだけど、まぁ、もう間に合わんと思うので、「権力関係における地位についての察し」や「権力関係における上位者の意思についての察し」ができない人がどんどん増えていけば、多少は教会も変わるんじゃないかと。その前に、自分や自分の考えだけが正しい、と思う人が減ればいいんだけどね。 

 続編 

   続 日本のキリスト教会と帝國陸軍の類似性(これで終わり) 

もよろしければどうぞ。



評価:
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コメント:下士官として前線におかれた山本氏の視点から見た帝国陸軍の姿。

 土曜日なので、軽め(中身は軽くないよ)で、短めだけど、強烈な記事をおひとつ。

あるツィッターの投稿から
 
 ある福祉関係者が、ツィッターで次のように呟いていた。

多くの福祉屋って、昔のことはどうでもいいから(理論とか歴史とか嫌い)、今、クライエントさんの役に立つものを!みたいな短絡的な思考で動く傾向があるから、そういうところはあんまり好きじゃない。でも、私がそう思うだけなのかもしれない。


これを見ながら、次のように思ってしまった。


多くの福音派って、昔のことはどうでもいいから(理論とか歴史とか嫌い)、今、信者さんや未信者さんの役に立つものを!みたいな短絡的な思考で動く傾向があるから、そういうところはあんまり好きじゃない。でも、私がそう思うだけなのかもしれない。


って変えたら、両者があまりによく似ている。(爆)


福音派についての
マクグラス先生のご指摘
 そーいやぁ、A.E.マクグラス先生も、キリスト教の将来と福音主義(いのちのことば社)で次のようにご指摘である。


「福音主義者は、自分たちのルーツを知らず、そのルーツが現代の教会に提供できる豊かな宝に気づいていない。」(p.179)

「我々は、急を要する問題として、霊性の過去の形態 ー 清教徒と関連して思い描くもの ー をわかりやすく、実現可能にするべきで、それが福音主義に対するのと同時に教会全体に対する責任である。
(中略)
なくした銀貨を見つけた女の人が喜んだように、我々は先祖が知っていたがその後なくしてしまった霊性を再発見する喜びをともにすることができる。キリスト中心の、聖書に基づいたキリスト者生活の送り方が、ほかにも発見され、育てられるのを待っているはずである。我々の務めは過去を再発見するだけでなく、将来を形作っていくことなのである。」(pp.180-181)


ですって。ミーちゃんはーちゃんが言っているんじゃないですからね。マクグラス様がおっしゃっておられる。ちなみに福音主義って、今日的な意味でマクグラス先生おっしゃっておられない可能性がある模様。要注意。


ミーちゃんはーちゃんにとって
大事だと思うこと

 ミーちゃんはーちゃんが思うのは、福祉やも福音派、両方にとって実践(伝道)も大事、昔のことも大事。両方大事…って、なんて、Britain風・・・

大英帝国United Kingdomについて

 ところで、大英帝国は、パンクロックとか出すくせに、現代クラッシックも結構面白かったりと、実に両極端を併存・併記させて、バランスとってナンボ、って癖があるよねぇ。2大政党で、極端から極端に政策がぶれているように見えても、なんとなく、それでいて、現実に表れる面での政策はそれなりに一貫してるし、社会にいろんな問題はあるものの、なんとなく連続的に国が運営されている。おまけに英国国教会は、極端から極端までの人を含みながらも、基本Via Media(中道)というのが、エリザベス1世以来の伝統だし。

 なんとなく社会で、こういう極端から極端までに見事に併存するという、ややこしさを併呑できるブリテン島での特質が維持できる背景には、もちろん、大英帝国時代(いまだに継続中という話もある)にコモンウェルス(共通の豊かさと呼ぶかMJD)と呼ばれる以前植民地にした国や地域からかなりの長期間にわたって分捕ってきた膨大な資産(それ、過去からのプレゼント)で国が持っているという節もあるけど。日本は、将来の若者からぶんどってこれるかもしれない将来からの国債という(それ、将来からの無理にお願いしてのプレゼント)の大量発行による将来資金の先貰い(給料の先払いみたいなもの)をしてもらって、現状での日本という国を運営しているとみると、彼我の違いは大きいかな。また、余談でスマソ。

説教者のための祈り

 それはさておき、明日、教会に新しい来会者がなくても、再来週の日曜日に教会に新しい来会者がなくとも、毎週同じメンバーであっても、明日の説教、再来週の日曜日の説教の時間は、聖書の中にある、我々が見失ってしまった銀貨を探す手がかりを探す時間であり、銀貨そのものが見つかる時間になるはずだと思う。そして、過去にも、そうやって見つけた人がいて、そして、それで過去の霊性が形作られたものだと思うし、それを今日も再発見して人々と分かち合うことは重要ではないかと思う。

 それが、「福音の再発見」を出そうかと思った理由である。ここに書いてあることは当たり前だ、という批判を恐れずに「福音の再発見」を出した理由でもある。(この段落ステマ)

 明日の説教、毎週日曜日の説教は、確実に将来の教会を、将来の来会者への神の支配を形作るものとミーちゃんはーちゃんは存ずる。明日、教会で語られる言葉に祝福あらんことを。





評価:
アリスター・E.マクグラス,島田福安
いのちのことば社
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(2003-04)
コメント:翻訳の読みにくさを超えて、内容大絶賛!!

評価:
価格: ¥842
ショップ: 楽天ブックス
コメント:まぁ、大英帝国の不思議さ、面白おかしさを、日本滞在中の大英帝国ジンが書いた新書。楽しく読めます。

スコット・マクナイト
キリスト新聞社
¥ 2,160
(2013-06-25)
コメント:ぜひお買い上げを

 久しぶりに水谷さんのブログ記事「業績先行・倫理放棄の法則」、科学研究も、キリスト教会も・・・に触発されたので、書いてみることにする。今回は超短め。中身的には痛いかも。

 「業績先行・倫理放棄の法則」というのは、どこの国でも起きるし、どの社会、どの組織でもいつでも起きているし、どの国でも、下手をすると個人レベルで起きているのである。

 例えば、反社会的勢力に融資する金融機関、反社会的な総会屋さんに静かにしてもらうためにいらないものを買う企業さん、自分たちの売り上げを増加させるためにパーティ券を買う土○屋さん、電○屋さん、造○屋さん、不動産屋さん、・・・・。いちいち挙げればきりがないのである。

 いわゆるデートと称し有償で自分の自由時間を切り売りする高校生、あるいは高校生もどきの人々。そして、それにたかり、産業化して金儲けをする人々。

 自分の快楽、幸福追求のため、脱法ハーブを吸引し、人に損害を与える人々、そして、それが違法でないからと、それを誰かれ構わず売りまくる人々。

 金がもうかればそれでよい、と自分の特性を捨て、自分の夢を捨て、有名企業ばかりを面接して回る学生諸氏。

 ドラマの制作をしておきながらスポンサーがつかないからと、それを途中で放り投げるテレビ局。スポンサーが嫌いそうな報道をするのをやめるマスコミ業界。

 正当な価値があるものを正当な価値があるとはいえずに、買い手の親企業のいいなりになり、働く人たちの成果を十分に評価しないまま売り抜ける営業担当者。

 教会にてもそうである。初期のザビエル伝道時や九州伝道時のコンフラリア・ミゼリコルディアの精神で貧者の救済にあたった初期の憐みの精神を忘れ、武力なども背景にした南米などでの成功事例に目がくらみ、大量改宗を目指し、有名人、大名への伝道へと切り替え伝道する態度。それを秀吉は伴天連追放令で言っている。伴天連追放令は、信仰の自由は否定はしていないのである。

 豊臣政権末期以降の高札の掲示後、明治の開港時期に来た横浜での伝道は、貧民、孤児、ハンセン氏病者へのケアから出発したはずである。伝道の精神を忘れ、社会のより豊かな層への伝道と切り替え、挙句の果てに植村正久が「吾輩の教会に工員車夫の類はいらぬ」と言ったかどうかは定かではないが、より豊かな層を生むと思われる社会的グループへの伝道へと走り、本来の正攻法的キリスト教の精神を忘れているのはどうかしていると思う。なに、より豊かな層にも神の言葉は必要であるが、貧しい層にも必要なのではないだろうか。

 最後に口語訳聖書マタイ福音書25章に記載された、イエスの言葉を引用して終わる。これは、神の国に行くため、また、そこで評価を受けるゆえ、善行せよという記事ではないことだけは一言申し述べておく。

マタイ
 25:31 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
 25:32 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、
 25:33 羊を右に、やぎを左におくであろう。
 25:34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
 25:35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
 25:36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
 25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
 25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
 25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
 25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。
 25:41 それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。
 25:42 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、
 25:43 旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。
 25:44 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
 25:45 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
神の平和がこの記事を読んだ、あなたとともにあることを祈る。



評価:
ジャン・バニエ
あめんどう
¥ 1,296
(2010-08-20)
コメント:文句なしに名作。お勧めする。ナウエンの精神の源泉。


 前回の続きです。上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 イエスの譬えと題された、宮本久雄さんの公開講座に参加してきた記録をのせようか、と、その時の記録を公開しようとおもいます。かと。前回と今回の2回に分けたので、全体としては、ちと短め(といっても、普通の方のブログ記事よりは長いよ)今回はやや短めかと思います。

前回お読みでない方はこちらから

 上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 宮本久雄氏 イエスの譬え 参加記 前半

二重句という構造
 二重句という当時の文学作品の特徴がある。二重の話であり、重ねて書いておく。ここでは、祭司、レビ人が通り過ぎていく、という部分が二重句の構造になっている。

 ところで、エルサレムの神殿で祭儀に当たる祭司はエリコに実際に住んでいたケースが多い。イエルサレムでの祭儀の当番が決まっていて、1年の登板スケジュールが決まっていた。

 二重句で説明したように、祭司とレビ人が下ってきて、道の反対側を通って行った、という構造が同じ構造になっている。

祭司とイエス
 必ず、イエスが説教しているときにパリサイ人や祭司たちの手のものが、説教を聞いている。スパイされている状況の中で、イエスは語っている。そのことへの意識もあったのであろう。

 このたとえ話の中で、祭司はユダヤ人を助けなかったが、これについての解釈は2つあって、息があれば何らか救わないといけない。という律法と、死人に触ると汚れる、という律法の間でどうするかの決断を祭司や律法学者が迫られる形になっている。

ガリラヤ、サマリア、ユダヤ
 イエスが活躍したガリラヤは、異邦のガリラヤと呼ばれるほど、ユダヤの正統的な世界からはやや遠い存在であった。同じユダヤ教の中でも、預言者の書書を認める人々が多かったようである。また、サマリアの宗教は、ユダヤの宗教とよく似たものでありながら、別種のもので、経典はトーラー(モーセ5書)、預言書は認めないという点ではユダヤ教と共通であるが、ゲリジム山のてっぺんに神殿があるのが、サマリア教であった。そして、現代にもサマリア教は残ってい る。

第2神殿期ユダヤの終末思想と汚れ
 当時のユダヤ人には、終末思想としてのメシアの到来を待望する雰囲気があり、サマリア人から施しを受けると汚れると同時に他の汚れの発生と同 様に、メシアの到来が遅れると信じてたようである。ところで、このものがたりの旅人のサマリア人もサマリア純血の人々からするとちょっと外れた人ではない だろうか。


サマリア人の憐れみについて
 彼が、「憐れに思い」と書いてある語は、「スプラングノム」という語であり、母親が理屈抜きで赤ん坊に愛情を注ぐことを示している。このことが、すぐ行動に結びつくような他者との共生に結びつくような生き方へとつながっていく。このあわれみのこころから、サマリア人は直に行動に移っているのだろう。普通はこういう何らかの負債を持つ人物は奴隷に売られてしまう状況なのである。ところが、サマリア人の憐れみは限りがない憐れみであり、ずーっと続いていくような、憐れみを示しているのだ。

 この話をしたうえで、隣人の定義を律法学者に求めている。ところで、隣人になる、という語について考えてみたい。「なる」という話である。隣人に「なる」ということは、無限の可能性をもっているごではないだろうか。自分の世界の枠組みを超えて、生きるということではないか。この隣人に「なる」という言葉で示された、自分の世界の枠組みを超えて動く姿勢を示されたのが、イエスだ、ということをよく表すたとえ話となっている。ユダヤ人、祭司、レビ人と続いて、その後にサマリア人を出してきたのは異化作用となっており、そこでハッとさせられる、あるいはギョッとさせられるものがユダヤ人にはあったはずである。



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David Teniers the younger による「善きサマリア人」

ユダヤ人がサマリア人に介抱されるということ
 ユダヤ人で筋金入りの人物で半殺しの目に遭った人にとってみれば、サマリア人から介抱、ケアされることはユダヤ人として汚れる、汚れを受ける、ということであったのである。その意味で、ユダヤ人にとって罪を犯すことでもあったのだ。元気であれば、サマリア人が近づいた時に拒否するだろう状況だったのである。

 しかし、このファイティングスピリットに満ちていたユダヤ人が、なぜ、サマリア人を受け入れたのだろうか。ほっといてくれ、と拒否することもできたかもしれないのに。その際参考になるのが、先にふれた、二重句構造である、祭司やレビ人から見捨てられた、というダブルでショッキングであったところに、異化作用として、サマリア人が出てくる。ある意味で、この半殺しの目に遭ったユダヤ人は、自らが誇りとするユダヤ人の中でも、尊敬する、そして尊敬すべきシンボル的な存在に捨てられたという経験でもあるのだろう。その意味で、ユダヤ人としてのアイデンティティがしぼんでいったのではないだろうか。その意味で、プライドが奪われた存在とな り、本当の傷ついた人になったのではないか。(なんかナウエンの傷ついた癒し人を思い出した)

受け入れるということの意味 枠を超えること
 受け入れるとは、どういうことだろうか。受け入れるということは、敵だった人と隣人になる、ということであり、所謂、かわいそうだから、と上から見るような視点に立って、助ける話ではないだろう。両方の立場を超えて、隣人になっていく話であろう。その意味で、いわゆる抽象的な博愛の話ではない。イエスの譬え話はまったく新しい 世界、枠を超えたところへのメッセージとなっているのではないか。

 ところで、従来の枠組みを突破していかざるを得ない世界の状況が現在もあるのではないか。ここで、宮本先生のおじさまの墓参の話しになり、シンガポール への墓参の時の話となった。日本ではあまり知られていないことであるが、シンガポールの歴史教科書は、第2次世界大戦時の記載に関して、非常に反日的な記載(韓国や中国の歴史教科書以上の記載)がある。しかし、墓参の案内人の方との間との対話を通して、隣人になるということを改めて考えさせられた。

 世界では、相互に対立している問題があり、一人一人は実に無力な存在ではあるが、個人として、相互に対立している問題について、どう考えたらいいのか、ということを考えたほうがよいかもしれない。

ミーちゃんはーちゃん的感想
 以前、日曜学校の教師をしていたこともあるが、そこでの教案書は、「友達に親切にしましょう」とか「困った人は助けてあげましょう」的な解説で満ち溢れていたような気がする。最近の教案書は違うのかもしれないが。しかし、この「善きサマリア人」の譬え話は、そんなギリシア的なヒューマニスト風の甘っちょろい話ではさらさらなく、もっと壮絶な信仰者とは何か、という問いについての譬え話であり、信仰者としての確信をどう乗り越えていくのか問題を含んだものであることが相当部分の示し頂いた様に思う。まぁ、子供の理解力があるとはいえ、やはりこの辺りのことは日曜学校教師は踏まえておく方がよいであろう、とは思った。 まぁ、ギリシア的ヒューマニスト風の甘っちょろいお話を日曜学校でしたらいかん、とは言わんけど。

 現在もなおパートタイムではあるが、教会の講壇に立つ者として、当時の第2神殿期ユダヤの背景の上で、イエスの言動を理解しなければならないという観点からも、この講座は、非常に参考になったし、実に有益であったと思う。

 ということで、雨宮先生のご講義に続き、まぁ集団的自衛権の話題など、香ばしい話題が続いている状況下であったためか、このような緊張関係の中で、信仰者として個々人がどう考えるのか、どう生きるのか、を問われたような気がした。充実のご講演であった。

 このあたりのことを考える際には、おそらく、下記で紹介するジョン・H・ヨーダーの神学とブルッグマンの預言者の想像力とが参考になるだろう。また、雑誌「福音と世界」2014年7月号の宮本先生の論文を読まれることをご推奨する。



 
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価格: ¥2,052
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コメント:悪の問題とキリスト者が対峙する上で読んでおいたほうがよいと思う。補助線を与えてくれるだろう。

評価:
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日本キリスト教書販売
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(2014-06-19)
コメント:いやぁ、この7月号、6月号の特集はすごく良い。

 本日ご紹介する本は、「天の国の種」 バーバラ・ブラウン・テイラー著 平野克己、古本みさ訳 キリスト新聞社刊である。

ナラティブとして聞き手が
物語の人物となるよう招く説教
 基本的にマタイの福音書の講解であると同時に、聖書を読むとはどういうことか。自分自身の体験に合わせて聖書を語るのではなく、聖書に合わせて、自分自身の経験から反省し、聖書をもう一度自分自身のものがたり(ナラティブ)として読むとはどういうことか、ということを体験的に分らせてくれる本であり、これまで読んだ説教集に収録された説教者の中でも、トップ3の座を占める方の説教集である。一番は、いまだにDrとよばれる(最近、怪しいらしいが)ロイドジョンズ先生のシリーズであり、説教家であるので、多すぎて、どれが一番とは言えないので、上位3位の説教家とした。

ゴディバのビタースイートチョコ
のような説教

 この説教集の何がいいかというと、それは表現の柔らかさ、ドルチェともいうべき甘さを説教から感じられるところである。甘さと言っても、突込みどころ満載の甘さではない。しっかりとした釈義に基づきながら、それでいて甘い。まぁ、いわばゴディバのビタースイートチョコレートを食べている感じという感じの本なのである。抑えるべきところはきっちり抑えて、絶妙のハーモニーを感じさせる室内楽のような感じとでもいおうか。絶叫型説教のやかましさや、暑苦しさ、押しつけられた感というか、それでいて中身のなさを感じるというようなものではない。まぁ、そういう説教が好きな方はそれはそれでよいとは思うけどね。

 あるいは、例話ばかりで聖書の言葉がイメージに残らないという感じでもないし、聖書の中に入っていくために適切なコネクションとして例話がうまく用いられる感じなのである。しかし、著者の聖書理解の深さを同時に感じさせ、そして、福音書のたとえを中心とするイエスの言葉への招きが確実に述べられ、そのイエス時代の世界の人々の心情とイエスの主張の世界にすぅーという感じで入って行けるって感じでしょうかね。

サンプルとして・・・

 この中で、うまいなぁ、と思った部分を引用していか紹介する。どの章もいいのだが、「もう一度心から」と題された13章 マタイ18章21-25節の部分が気に行った。


 (ランチを一緒にする約束をしていたのを2度まですっぽかされた状況を示したのち)
 相手を1回赦すことはあるでしょうが、あなたは本当にもう一度昼食の約束をしようとしますか?本当に、あなたは、この繰り返しを7の70倍、もっと正確に云うと、あと488回耐えようと思うでしょうか?
 とんでもないことです。人間はそのようにできていません。私たちのうちのほとんどは痛い目に遭っても一回は良しとするでしょう。2回目も良しとする人は多いでしょう。それでも、3回目ともなると、引き上げようとするのではないでしょうか。小さな計算機みたいなものが頭の中にあって、自分がこの人の関係のためにどれだけのものを費やしているか、それに対して、自分がこの人との関係からどれだけのものを得ているか、という記録を付けているかのようです。そして、それがマイナス感情であったら、その関係を続行しようとする人は多くはありません。(中略)私たちは、為替レートがよくて、自分が与えるものと得るところがほぼ同等になる、コスト効率のよい人間関係を好みます。これはひどい言い方でしょうが、それが真実であることはあなたにもお分かりでしょう。(p.169) (太字は、オリジナルは傍点)
と赦し難い状況と赦しの説明をビビッドに示して見せ、現代人の人間関係を描いて見せた後、このたとえ話出てくる、自分は王から返しきれない負債を赦して(借金をチャラにして)もらったのに、この僕はこの僕に比較的少額の金額を借金している人を捕まえて、金を返せと言います。そして、この僕は牢に入れられます。その部分について、
 結末は、皆さんご存じのとおりです。家来は、借金を返済するまで、つまり残された生涯ずっと牢に入れられます。しかし、この投獄は言葉上のものです。不届きな家来は、すでに鉄格子のなかにいたのです。自分で作った鉄格子のなかに。赦されることを拒み、赦すことを拒んだ彼は、既に自分用の小さなアルカトラズ[サンフランシスコ湾内にある島全体を牢獄にした有名な刑務所]を造り、電卓片手に独居房に座り、会計記録を付けていたのです。(p.176)

 ここなんか、もう、しびれるほどの情景描写のうまさである。自分たち人間の姿をこうも客観的に見せられると、まいってしまう。そして、最終場面では、このように結んでいる。
 だって、考えてみてください。あなた自身、何回赦されているのか。何回も、何回も、何回も、あなたが心から赦されるのは、あなたに価値があるからではなく、ただその方があなたを愛して、愛してやまず、もっともっと愛したいからだけなのです。そのことを身にしみて理解したなら、そのことを本当に心の中に納めたら、どうしてあなたにーどうして私たち一人一人にーたった1回だけでも同じことをする機会を逃すことができるでしょうか。(p.178)
と、赦されるだけでなく、我々が神の愛を受け、他人を赦すように、神のものとして、神の民として、神に従うものとして、イエスの弟子、神の弟子としての赦しの特権をもつことをそっと示している。自分自身の説教の不十分さとこういう招きへの不十分さを感じさせられる説教を見せつけられるとねぇ。参ってしまうが、それとともに、自分自身の説教にこう生かすことができるかもしれないというイマジネーションが広がっていくのである。

楽しそうに語る雰囲気が
伝わってくる説教集

 この説教者が、本当に楽しそうに語っている息吹が説教集からも感じられる実に楽しい説教集なのだ。説教するのが楽しくて楽しくてたまらない説教者を故人を含め、何人か存じ上げているが、その系統の説教者の一人である。

 本書の訳文も非常に工夫されていて、読みやすいが、一部気になる表現はないわけではない。たとえば、先ほど述べた169ページの為替レートは、exchange rateの訳語と思われるが、これは「交換比率」とか「貸しと借りのウェイトが自分にとって都合がよくて」とかの方が分かりやすかったのではないだろうか。あるいは、84ページの「天からの幻」と訳されている部分は幻に読み仮名としてヴィジョンとかを付けておいてほしかったな。同訳書中には、Visionをビジョンとしているところもあるので。

ディスペンセイション史観がお好きな方は
要領用法を守って…
 あと、この本は、ディスペンセイション主義(天啓史観)に毒されている人々には、最終章を読むことだけは、お勧めしない。もう、気持ちいいくらい、ディスペンセイション主義の根拠が薄弱であることを示してくれているから。

 一応、その問題の部分の直前の部分だけ引用しておこう。
 ダービー氏の信奉者でない私でさえ、この「携挙(Rapture)」という言葉が、聖書に一度も出てこないことを知って驚きましたが、少なくとも彼のシナリオは、副作用として、わが国(紹介者注 アメリカ合衆国)の福音派のキリスト者とイスラエルのリクード[1973年に結党されたイスラエルの右翼政党連合、1977年には労働党連合を破り、政権与党となった]との政治的結びつきをもたらしました。両者に共通するのはー理由はそれぞれ違いますがー、パレスティナ人ではなくイスラエル人の手に聖地がゆだねられることを望んでいる、という点です。(p。199)

 この記述以下の行には、すごいことが書いてある。でも、ミーちゃんはーちゃんが調査した結果では、調査不足のためかもしれないが、このディスペンセイション説の出発点に関して、本書の記載を否定する資料は管見する限りは、見つからなかったので、このテイラーさんの記述は、当たっていると思う。なお、本書の記載を支持する本として、Bass、C.B.,(2005)Backgrounds to Dispensationalism: Its Historical Genesis and Ecclesiastical Implications などがあり、この分野に関心があられる方は、Bass(2005) の一読をお勧めします。

 とは言いながら、ディスペンセイション史観に浸っている方で、心臓の弱い福音派の皆さんは読まないほうがいいですよ。特に、ある特定集団のキリスト者の皆さんにおられる心臓の弱い方は。

こんな方にお勧め
 イエスにではなく、聖書にでもなく、教会での人間関係に疲れきったり、けつまずいた方、しかしそうであってもイエスが語ったことに興味がある方、教会に行けども聖書がないを言っているのか、わからなくなった方、何が何だか、聖書理解にさまよっている方には、ぜひおすすめしたい。この本が語る神の愛から再出発すればよいと思う。

 この本は、聖書は、神はあなたを招いておられ、あなたを神が愛しているってことがそのメインテーマであることを、実にわかりやすく、すべての読者に示すから。

 しかし、この最終章を含めて、この本は、ほとんどの皆さんに、お勧めいたしたく存じます。是非お買い上げ、ご愛読のほどを。



 
評価:
バーバラ・ブラウン テイラー
キリスト新聞社
---
(2014-03)
コメント:説教集として今まで読んだ中で3本の指に入る。聖書を読むということが余白を楽しむ、楽しんで余白を埋めてみるという作業であることを見せてくれる本。

評価:
Clarence B. Bass
Wipf & Stock Pub
¥ 1,991
(2005-02-27)
コメント:ディスペンセイショナリズムをある程度客観的な入門書として、お勧めする。どっかで翻訳中という噂もあるが。

 今回は、上智大学大阪サテライトキャンパス 2014年度春季公開講座 イエスの譬えと題された、宮本久雄さんの公開講座に参加してきた、その時の記録を公開しようかと。2回に分けたので、ちと短め(といっても普通のブログよりは長いよ)。

イエスの譬え話とその特徴 ナラティブとして 
 イエスのたとえ話は、抽象的な神学とは違って、具体的な当時の生活の中から素材を取り上げ、語られた内容である。その意味で、ユダヤ教や当時の生活習慣を念頭に置かないと、理解しにくい部分もある。とは言いつつも、イエスのたとえ話からは、しみじみと感じられるものがあるのではないだろうか。たとえ話は、読む人が置かれた状況に直悦語りかけ、日常生活の中での喜び、悲しみ、夢といったものに応じるのがたとえ話ではないだろうか。

 ところで、昔は手紙を書いた。書かれた手紙には、いろんな受け取られ方があるだろう。ある面、ラブレターが文学として完成するのは、受け手の反応が重要で、受け手の反応そのものがあって初めて成立する文学体系なのが、ラブレターに関する文学体系であろう。

 ところで、たとえ話はたとえ話であるが故に書かれていない部分がたくさんある。ところで、書かれてない部分(余白)を味わうのが日本の絵画である。また、茶道の陶器を考えてみると、陶工曰く、陶工の仕事は半分であり、陶工と用いる人で相まって一つの茶器という作品が完成する。たとえ話も似ている部分があり。法律のような言語体系では語られていない。たとえ話は、高校の現代文の問題のような文章ではない。

 その意味で、たとえ話には、回答がいっぱいあるという性質がある。本日は、善きサマリア人を取り上げる。このたとえ話は、ヴァンゴッホの絵画の善きサマリア人のモティーフにもなっている。

GoodSamaritan
ヴァン ゴッホによる「善きサマリア人」

聖書における文学構造としての特徴
 2点だけ、気をつけておきたいことを申し上げたい。聖書は文学的なある構造をもっていて、ストーリーがある、という構造をもっていることである。これが第1点目。そして、異常と思われる表現、逆説、誇張、繰り返し、非常識な展開があり、そこでメッセージを伝えている部分がある。これを、テキストにおける異化作用と呼んでいる。これが第2点目である

「善きサマリア人」の譬えに見る構造と異化
 律法の専門家とイエスとの対話がまず最初に来ていて、共通の土台としての律法があることを確認し、イエスが専門家として聞くという形をとっている。律法学者にヒントを与えるために、共通の土台を示したうえで、その共通の土台になる律法における、隣人とは、ということが明確化されていることとなっている。

 この物語は、第1のものがたりのシーンと、第2のものがたりの二つの物語のシーンからなる構造となっている。

第1シーン律法学者との対話における構造
 それぞれの部分を構造として見ていこう。まず、第1のものがたりのシーンの構造を整理すると、このようになるだろう。

25 律法学者の試そうとする質問      29 律法学者の正当化する質問
26 律法(トーラー)を律法学者が出す   30 たとえ話
26 イエスが質問             36 イエスが質問
27 律法学者が答える           37 律法学者が答える
28 実践しなさい             37 実践しなさい

 このように、シンメトリックな関係になっているが、たとえ話が長すぎるので、構造が読み取りにくいという部分はあろう。この譬えを語ることで、イエスと律法学者の中に新しい共通部分が生み出されてくることになる。

イエス時代の律法と聖性、その背景
 イエスの時代のユダヤ社会においては律法が非常に重要であった。社会構造として、その頂上にサンヘドリンがあり、次の霊やとして大祭司、サドカイ派、ファリサイ派、一般の人々という構造にあった。その中で、ミシュナー(口伝律法)が社会において重要な役割があった。その意味で、律法は人生の全部を扱う原理であった。ユダヤ教としては、このミシュナーを守ることが重要であり、これを守ることによって、イスラエルの民は聖なる民となり、神のためにとっておかれた人とかモノが聖であるという理解である。その意味で、神殿とか祭壇、祭司とか、祭具が聖とされることが重要となる。この聖なるものとして、救われるのはイスラエルの民全体であり、民が聖であるがゆえに、聖なる民であるイスラエル全員が救われる、というコンセプトになっている。

 聖なる民に属していることが救いの条件であり、律法を守ることはイスラエルの聖なる民のその条件となっている。

隣人とは何か
 さて、第2シーンに入る前に、第1シーンでのイエスと律法学者の対論において、律法の意味は固定されている(おそらく相互理解と共通部分ができている、という意味でのご発言であったと思う)。
 
第2シーンの背景
 隣人、の定義であるが、当時、とりあえず異邦人は、隣人でない、という理解であった。困っている異邦人には、親切にしなさい、と律法の中には書いてあるものの、「困っている」という条件付きで考えられたのではないか。

 ローマ帝国時代、ローマ帝国には属領に総督を送っていた。総督は軍隊付きで到来し、軍事力をもち、税金の徴収し、属州統治をしていた。ポンテオピラトは、カイサリア駐在しつつ、ローマの意思の象徴として存在していた。年に2回ほどエルサレムに滞在し、エルサレムで反逆などの重大犯罪起きないか、などの仕事をしてたようである。ローマ帝国の反逆としてはいくつかのものがあり、ガリラヤのユダの反乱等がイエスとほぼ同時代などに起きている。この重税逃れのために、メシアを名乗った人物がいた。ユダヤ教の人たちはローマ帝国に反乱をおこすなど、ナショナリズムの強い時代であった。このような背景を持つイエス時代には、同胞というとイスラエル人のみが認められた時代であり、サマリア人は、汚れた存在であった。

食卓コミュニティとしてのイエスの宣教活動
 ところで、イエスは遊女や取税人などを受け入れた人物であり、食事を一緒にすることで受け入れを示したのである。ユダヤ教では、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭りでは、神殿で羊が殺され、それを食することで、家族であり、同じ民族であることが確認された。イエスご自身について、神の子羊というバプテスマのヨハネの呼びかけは、極めて重要なのである。

 この祭事の時の食事は聖なる食事であり、ユダヤ人信徒だけが聖なる食事に味わうものであった。遊女や取税人など罪人は招かないのが当時の常識である。ところが、イエスは、もともとユダヤ教徒の食事に招かれない人々、招き入れるべきでないとされた人々と食事をしたのである。このような状況に関して、福音書では、イエスは大酒のみの食いしん坊、という当時の人からの悪口を拾っている。

 イエスの食事は目的があって、正統ユダヤ社会から追い出された人々とともに食事をし、食卓共同体とでもいうものを形成したのである。神の国運動の中心は食卓であり、そこでは、パンと葡萄酒が提供されたのである。その意味で、食の宗教であった。正統ユダヤのユダヤ人はユダヤ人とだけ祭事の神殿を食事をしていた。

善きサマリア人の第2シーンの背景

 ある人が、エルサレム(冬雪がふる)からエリコ(世界で最も低い場所で避寒地)に向かって進んでいた。エリコは、当時ヘロデ大王が冬の離宮を造ってた場所でもある。エリコへの道は、左右とも荒れ地、荒野が広がる場所であり、追剥がすんでいるような土地柄でもあった。おそらく、追剥強盗事件は、イエスの時代にこの道路沿線で、実際にあった、よくある話であり人口に膾炙していたのであろう。ところで、この人は、エルサレム神殿に祭儀にあずかって、エリコに向かったのかもしれない。

 このサマリア人に助けられたユダヤ人は、ある程度気合の入ったユダヤ人で、追剥にかなり抵抗したからこそ、半殺しの目に遭ったのではないか。


 次回へと続く。




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