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今日も、また、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』を読みながら、たらたらと考えてみたい。今回は、読むということを理解するということをどう考えるのか、あたりの事を中心としたおはなしのつづきについて考えてみたい。

 

現象主義者とナイーブな現象主義者

前回の連載で掲載しなかった、N.T.ライトさんが同書の中で書いているナイーブな認識論者と現象主義論者の違いを表す図がある。その図をもとに、改良したものが以下の図である。

 

ナイーブな実在論者と現象論者の違い 赤の星マークがそれぞれの着目点を示す。

 

もともとの図も印象深いのだが、この図では、ナイーブな認識論者と現象主義者の両者の違いを多少はわかりやすく示そうとした図である。基本、ミーちゃんはーちゃんは現象主義者に近い立場をとる。結局どのような文章や映像作品(それがドキュメンタリー作品と呼ばれる作品でも)であっても、何らかの編集が入らざるを得ない以上(それに関しては前回、少し先走ってご紹介してしまったが)、純粋の観察結果とは言えない。他人の観察結果からは、観察対象の一部は認識できるかもしれないが、その場に居合わせた人物であっても、完全な観察でありうるわけがないと思っている。さらに、第3者を介した観察結果は、間接情報、2次情報に触れたに過ぎないと思っている。統計データであっても、結果としてはそうであるが、現実の一部しか表しえないと思っている。

 

この図などもそうであるが原著でも、今読んでいる翻訳書でも、作図がプアでプアで、作り直してあげたる、といってしまいたくなってしまうが、それは文字を中心として本を作成するうえでの限界というものかもしれない。それで、作っちゃったのが上の図である。

 

モネの絵画で見る認識論

ここで、ライトさんはモネの絵画を題材にとりながら、認識論の説明をしている。特に絵画はデフォルメとか言ったかなり自由な表現方法が可能であるなど、表現方法についての多様性もあるので、この種の説明にはうってつけだし、絵画をもとに説明しようというのは、実に慧眼だと思った。

文学とは別の分野で、このようなケースの好例をモネの絵画の中に見出すことができる。他の大部分の画家と同様に、モネは現実世界の対象物を描き始める。(中略)そしてとくに興味深いことには、モネの視力が悪化していくにつれて、彼はますます対象物のあるがままの姿よりも、彼の対象物への「印象」を描くようになっていった。そのため、彼の中期の作風において、私たちは(と気に大きな喜びをもって)写実的な絵画ではなく、モネという人物の知覚情報の描写を見つめている自分自身を発見することになる。(中略)晩年の作品において、モネは純粋な抽象性の方へ向かって言った。もちろん、モネの絵画の発展の軌跡をこのようにまとめるのは、本書の2章においての他の例と同様、粗雑で過度の単純化なのだが、ここでは話のポイントがつかめばそれで十分だろう。(新約聖書と神の国 pp.108-109)

 

まぁ、このような文章によるまとめも十分役に立つのだが、それを実際の絵画を用いて、視覚的にも確認してみよう。この辺が、電子ものならではの特性である。個人的には紙の本はどうしてもこういうフルカラー画像に近い画像の再現性において電子ものに比べて今一つという側面がある。

 

まぁ、以下に前期、中期、後期のモネの作品を掲載するが、写実主義から印象主義に変わっていくさまが面白い。ピカソの画風の変容も面白いが、しかし、基本的なデッサン力と構想力というのが絵画の良しあしを決めてしまうのかなぁということを素朴に思った。

 

初期 モネの作品

Claude Monet (1840-1926), View At Rouelles, Le Havre (1858), oil on canvas, 46 × 65 cm, Private collection. Wikimedia Commons.

 

モネの中期の作品

Monet: St Lazare Train Station (W439; 1877) Cambridge MA: Harvard Art Museum

 

 

モネ 後期の作品 Monet: Weeping Willow (1918) National Gallery

 

こうやってみてみると、確かにライトさんの言うように、粗雑で過度の単純化という側面は否定できないが、我々がモネの絵を見て何かを感じる(絵を読む)時にどのようなことが起きているのか、については非常にわかりやすい事例を提供しているなぁと画像を集めながら思った。

 

なお、この種の観測の問題は衛星画像のどのバンド帯(可視光を使うのか、近赤外線を使うのか、赤外線を使うのか…等によっても変わってくる。つまり、観測の方法と制度によって、モノの見え方や、調査の成果が違ってくることとよく似ている。その意味で、どのような方法で対象を見るのか、というそのものが研究において結構重要な役割を果たす分野が存在する。気象予報と衛星画像などは典型的にその違いが厳しく出る世界の模様である。

 

 

気象庁のサイトから 2016年9月25日11時の 可視光写真と赤外線写真

 

 

再びジャーナリズムの例から

そして、前回少し深く突っ込んだジャーナリズムの例についてライトさんは触れている。前回かなり深く突っ込んだので、今回は軽く済ませることにするが、ここであるテレビ作品として放映されたものについて、視聴者がとりうる3つの態度が描かれている。

ジャーナリズムの例に戻れば、例えばテレビのドキュメンタリーやそれに類するものは、視聴者にとっては単なる事実のように思える。しかし実際に視聴者がみているのは(a)ある出来事について、リポーターのそれがどうあるべきかという見解が現実の世界に投影されたもの(b)リポーターのある出来事についての見解、(c)リポーターの個人的見解が現実そのものの様に提示されたもの、これらのいずれかだという可能性が非常に高い。あなたがリポーターの視点に同意する場合は、あなたはナイーブな実在論者としてテレビを見るだろうが(これはできごとのありのままの姿を提示している)、同意できない場合は、たちどころにリポーターや出来事について現象主義者になってしまうか(これは単なるリポーターの視点に過ぎない)あるいは主観主義者になってしまう(これはリポーターのでっち上げだ)。(同書 pp.109-110)

 

テレビは、非常にわかりやすい例だろうと思う。現場で撮影した映像が加わるだけで、自分が言ったことも、触ったことも、見たこともないのにわかったような気になる。そして、ある人々は、そのテレビで見せられたことを現実と思い込み、ああだこうだいって子行事くださる。あくまで、それは編集されて見せられたものであり、現実そのものではない、という意味で、一種の仮想現実(ヴァーチャル・リアリティ)であり、それで分かったような気になってしまうナイーブな実在論者とライトさんが読んでいる人々が生まれてしまうのだ。

 

典型的な例を、今、築地市場の移転問題で見ることができる。もともと東京ガスの豊洲ガス工場の跡地に市場を作ったのだが、その土壌が汚染されていたものを通常の土壌に置き換えたのか、土壌被覆が十分だったのかどうかという些末なことが問題の対象にされたり、その中からヒ素が見つかったとか、見つかってないとか、ということだけが話題になっているが、わずかなことを針小棒大に言い募る人々の言説を流しているワイドショーとか、それがどう受け止められているのだろうか、と思った。

 

家人があるワイドショー番組でヒ素が見つかて環境基準の半分の含有量のヒ素が見つかったというのを聞いて問題があるかのように言っているのを聞いて、「環境基準以下なんでしょ、もし、それで問題にするのなら、環境基準を信じてないことになるじゃん」といったら、気が付いたようだが、批判意識を持たずにこいいう情報に接するナイーブな実在論者は、案外多いのかもしれない。たいていのテレビ番組の場合、「(c)リポーターの個人的見解が現実そのものの様に提示されたもの」ということは多いような気がするなぁ。特に、どの番組とは言わないけれども、某局で10時台にやっているいわゆる報道番組の去年くらいまでやっていたキャスターの時には、そういうことも多かったような気がする。

 

ミーちゃんはーちゃんはそもそもが懐疑論者であるし、ポストモダン社会においては、現象主義者というよりは、主観主義者ではある。そもそも、間主観的とか言いだした時から、主観主義者なのである。批判哲学が大事だと思っている良心的懐疑主義者のキリスト者の一人や二人いたっていいとは思うんだが…。

 

同様なことが起きたベトナム戦争・湾岸戦争・イラク戦争

実は、報道と戦争の問題は、第二次世界大戦ころから起きているところは、このブログでも紹介したが、ベトナム戦争の場合、アメリカ人のリビングルームのテレビスクリーンに悲惨な戦争の戦闘シーンが放映されることで、ベトナム戦争の国民的な反戦機運が高まったことを国防総省は覚えており、それ以降の戦闘がある場合は、現地軍の指揮部隊による報道管制の元、現地の前線部隊の安全保障を図るという意味で、許可された場面でのみで、位置情報を明示しない形での報道のみが許されることになった。そして、それは湾岸戦争やイラク戦争で徹底された。


その結果、軍が見せたいもの、軍が与えたい印象を与える取材のみが行われることになったということ、つまり、本来批判的に見た方がいいことも、その批判の可能性が制限される結果になったといえよう。

 

Daily Mail紙のサイトから
http://www.dailymail.co.uk/news/article-2242803/Has-War-Terror-failed-Number-terrorist-attacks-QUADRUPLE-decade-9-11.html

 

 

まだまだ続く

 

 

 

 

 

 


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今日も、また、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』を読みながら、考えてみたい。今回は、読むということを理解するということをどう考えるのか、あたりの事を中心に考えてみたい。

 

読むということと文書の背景と類似性
ウォルター・デ・ラ・メァの詩文が紹介され、それについて読むということをどう考えるのか、ということを読者に考えさせた後、トーマス・マンのファウスト博士とドイツの状況が重ね合わせられているといったことが述べられている。マンのファウスト博士という書籍の背景などが紹介され、作家の作品と社会の背景とは無縁でないこと(当たり前といえば当たり前だが…)、さらにイエスの不正なブドウ園の農夫のたとえ話がイザヤ書5章との類似性があることが示されている。その類似性においていくつかの含まれる要素とのかかわりが指摘されている。そして、いくつかのレベルで、イエスの語ったたとえ話群やイエスがなしたことと、イスラエルそのもの、そして、旧約聖書との間の関係について、考えることが提示される。

 

このストーリーは、それ自体でどんな構造を持っていて、(聖書の)ストーリーという大きな全体図の中で、どのように位置づけられるのか、再び、私たちはこう尋ねる。このストーリーの細かな部分を正しく理解するのはどれほど重要なのだろう。さらなる疑問も浮かんでくる。このイエスのストーリーが「聖書」の一部として読まれることで、どんな違いが生じるのだろう(もし違いがあればだが)。(新約聖書と神の民 p.107)

 

N.T.ライトさんの他の本の中や講演でも旧約聖書とイエスやバプテスマのヨハネの語ったこと、行動で表現したことと、明らかに重ね合わせができる部分があるという主張はたくさん出て来る。たとえば、イエスの直接の言及があるものとしては、ヨナが大魚の中から外に出たことと、イエスの死からの復活が重ね合わせられていることは確かだし、また、ユダヤ人のバビロン捕囚からの開放と、人間が罪や悪霊に縛られていることからの開放を重ね合わせられているとも思う。このような相似や類推が多数用いられていることはほぼ確実であるし、そのような見方をある人々は、聖書を聖書で読むというのだろうと思う。ただし、このアナロジーというか相似関係は、よくよく注意しないと、アナロジーの過剰読み込み、ということにもなりかねない部分が生まれかねない。このあたりについての慎重さ、アナロジーの読み込みの程度をどの程度のするか、ということは案外重要だと思う。

 

また、マンのファウスト博士の例が典型的だが、新約聖書の表現自体もそれらの書物が作成された時代の社会的・政治的・宗教的・文化的背景とも全く無縁ではない可能性があることにも配慮しておく必要があるというご主張をライトさんはおもちなのだ、とは思う。さらに、当時のシナゴーグで読まれていた旧約聖書とそのコンテキストとの関係でイエスが語ったこと、なしたこと、起こした側面も考えるべきなのではないか、というのが、ライトさんの主要な主張なのだと思う。但し、その社会的・経済的・宗教的・文化的背景やコンテキストは、現在のこの時点において、どこまで確認できるのかという問題は付きまとうが。とはいえ、本書のこの部分では、それをやったら違ってくるから、そのことを考えてみるべきだ、ということを「このイエスのストーリーが「聖書」の一部として読まれることで、どんな違いが生じるのだろう(もし違いがあればだが)」という一文でご主張なのだと思う。

 

 

読書と知識

読書でも、新聞を読むでも、テレビニュースを見るでも、ブログを読むにせよ、ドキュメンタリーを見るでも、何らかの自分の直接体験していないこと、しえなかったものに触れることは、その人自身を変容させる可能性があり、自分の限界を認め、自分には認識できなかった世界があることを認識することになる。しかし、そこで問題となるのは情報提供者(読書の場合は著者、新聞の場合は記者や編集部、テレビニュースの場合は記者やキャスターや編成部、ブログの場合はライター、ドキュメンタリーの場合はドキュメンタリー制作者)という人々による編集(情報の取捨選択のスクリーニング)というある種のメディアとそのメディアによるスクリーニングを介することによって、人は間接的に情報に接するのであるが、時に、それが直接的なものであると考えるナイーブな人々もおられる。単純に単一のソースとなった書籍やその記載にミーちゃんはーちゃんが振り回されているのではないか、とあらぬ批判を以前なさって下さる方がおらた。ご批判になられる方御自身がそうだからなのかどうかは良く知らないが。こういう誤解というか誤解にもとづく確信をもって、云々されるのが時にかなわない。複数のソースにあたってチェックして、考えてみるくらいのことや、メディアがこの時期にこの種のことを言いだす背景は何だろうか、ということを考えること位は、ミーちゃんはーちゃんは高校生くらいからしているのである。

 そのあたりの事に関してライトさんは次のように書いている。

 

私たちは読書を通じて、どのような「知識」を獲得するのだろうか。
現代の西洋世界の読者は、しばしばこの問いについて「ナイーブな実在論者」として答えてしまいがちだ。テクストという「望遠鏡」は単なる窓で、私たちはそこから現実を見つめる。私たちは歴史の本を読み、そして過去のある時点で「何が起きたのか」を単純に見出す。これが「ナイーブな実在論」の読者の理解だ。しかしある日、私たちは新聞を読み、あるいは歴史の本を読み、自分が知っていると思っていることについて異なる情報源からの説明を読むことになる。このことは私たちをハタと立ち止まらせ、考えさせる。突然、ナイーブな実在論は怪しくなってきて、反対に現象主義的な「ナイーブな還元主義」の方へ、ぐらりと引き寄せられてしまう。これらの言葉が示すのは現実についてではなく、単なる著者の意見についてなのではないかと。私の中にある変化が起きる。作者を通じて、または出来事について書かれた言葉を通じて現実を見ているのではなく、私はただ作者を見ているだけなのではないか、と疑い始める。望遠鏡は屈折鏡になってしまった。観察しているのは出来事ではなく、単に作者なのである。(同書 pp.107-108)

 

そもそも、一次情報に接する人々や当事者であっても、同一の現象を見ていても、それぞれが別のことを主張し、結局何が何だかになることは多い。その意味で、そもそも論として、間主観的な”事実”というのは存在するかどうかというのは、案外難しい問題なのだ。そして、ある出来事の意味合いは、様々なパラメータというか立場や要因によって変わってしまう。例えば、これまでの大統領選挙でも、ある州で不正があったとか、無かったとかということが話題になったことは多々あるが、お互いそれぞれの都合の良い点を強調してある意味、一方的に主張するが、結果的には、なんとなく過ぎていってしまって、選挙後にそのことを話題にする人はほとんどいない。勝負が決まった以上、話題にし、批判するだけ野暮なのである。

 

2008年当時の電子投票の不正を揶揄するThe Simpsonsのワンシーン

 

これから本格化するはずであるが、アメリカ大統領選挙はネガティブキャンペーンが行われる。そこで、大統領候補のさまざまな言動を根拠にしつつ、相手に都合の悪い情報を悪意ある形で並べ立てることで、自陣営に有利に働くような形のCMに仕上げていく。この前の某国の民○党代表選挙のゴタゴタなども、ほぼ、ネガティブキャンペーンではないかと思うほど、CM代ももらってないのによくそれにマスメディアが時間を裂いているなぁと思うほど、候補だった方の国籍問題や過去の履歴が取り上げられた。何なんだろうと思った。しかし、それにもかかわらず、その某党では、一発で代表が決まったものの、その代表による党人事公表の時にはパラパラとしか人がいないとか、まぁ、その党の伝統を繰り返しておられて、仕方がないなぁ、というか、流石、その党の伝統を家宅保持されておられるのだなぁ、とも思う。徹底的に自説に基づいたあーだこうだという議論をしないで、なんとなく決まっていくところは日本なのだろうなぁ、と思わざるを得ない。誰かによって決まったようで結局は基本的なことを何も決めないのが日本の美学だという説もあるらしい。まぁ、確かにこの決めないし、なんとなく決まりましたというようなやり方は、政治的な犠牲者を最小化し、個人へのダメージを最小化するためのうやむやさでカバーするという一種合理的な方法論なのだろう。

 

ところで、ある事件の当事者であっても、個人のさまざまなパラメータというのか属性によって、意見は変わるんだろうなぁ、ということを痛いほど思い知らされたのは、個人的には、『評決のとき』(英語名Time to Kill)という映画のラストシーン間際で、裁判所内で自分の娘への少女レイプの加害者に対する銃撃事件を起こした被告人の弁護士が最終弁論で述べたやり方を見せられた時であった。人間には無意識の参照枠があり、その参照枠がかなりの判断に影響するということなのである。この映画の最終弁論の価値の転換というか逆転は見事なので、一度ご覧になることをお勧めする。

 

Time to Kill(邦題 評決のとき)の予告編 

 

ある人は、こういう個別の人間に固有で存在し、誰しもが持っている視座の偏りを偏見というだろう。しかし、本当に人間は偏見がないのだろうか。仮に直接の当事者、ないしは一時的な観察者であったとしても、バイアスがなく神のように判断できるのだろうか?という疑問は考えるに値する。

 

個人的には偏見を持ちえないという仮説は、そもそも成立しない、無理なのではないか、と思っている。しかし、偏見を持ちえないで生活するのが無理であっても我々は、どの程度の時間であるか、どの程度の密接さであるかは別として、空間と時間を共有する場面が必ず出て来るのではないか、と思うのである。であるとすれば、相互に自分自身の意見を主張しつつ、相手を言い負かすのではなく、相手の主張を理解しようとしながら、現実はどのあたりで落ち着くのか、ということを検討することが求められる時代に生きているのではないだろうか。

 

分析の精度によって、対象は一定ではなく、変わって見えているはずなのであり、状況を少し変えれば、対象も変化してしまう、そういう危うい世界に我々は生きており、その世界の中で、なにが真理か、という議論には限界があるし、自分にとって真理でないものは間違っており、すべての人にとって価値がないはずである、と主張することの無益をもう少しさとる人々が出てくればいいなぁ、と思うのである。

 

まぁ、今年のアメリカ大統領選挙はおそらくネガティブ・キャンペーン大作戦になるものと思われるが、今から、そこで流される映像作品を他国民としては楽しみにしている。

 

 

メディアとの付き合い方とバイアス

ライトさんが書いたものを読みながら、このようなことを、つらつらと考えていると、マスコミという編集を受けたもので我々に垂れ流されてくるものを見て、素朴にそう思うとか、その流された一個人の意見に賛同する人を見ていると、「かわいいねぇ〜」と思ってしまう。そもそも、よしんばヤラセがないにしても、メディア自体が取材対象を選択しているし、取材対象の発言を編集している段階で、そもそも何らかの偏利は生じるし、意図はあるかどうかは別として、世論を誘導している部分は少なからず存在するのである。

 

不偏不党の報道とか、無限のスペースや時間枠が仮にあっても存在しえないし、放送局や新聞やメディアに不偏不党を求める、ということはそもそも論として無理があるとは思っている。しかし、この不偏不党性をナイーブに信じていて、それに目くじらを立てる方もおられる。そもそもNHKが不偏不党であるというナイーブなある種の信仰をお持ちの方と時に出あうこともあるし、その番組で主張されているから、NHKだから、真実だとおっしゃる方がおられる、ということにある種の驚愕を覚える。こういうご主張の方に出会うと、なんだかなぁ、と思うことが多いのであるが、NHKさんとしても、できるだけ不偏不党にするようにこころがけているだけだろうと思う。それを自虐的に表現したのが、Lifeという番組で、内村光良扮する以下の画像の人物である。

 

内村光良扮する三津谷ディレクター

https://utimurasan.blogspot.jp/2016/08/nhklife.html から

 

実は番組ごと、あるいは放送される内容ごとにプロデューサさんの考えが違うので、個別の放送内容そのものは、かなり偏っている部分はあると思うが、その偏りが多様に存在することになる。さらに、その意味で、どの番組を見て、どの番組を見ない、どの人が報道しているものを見て、どの人が報道しているものを見ないという形で選択しつつ視聴している以上、そもそも偏りは生じているとは思う。流される全部の番組を見ていれば、その辺の偏りはなくなるかもしれないが、それは事実上不可能である。

 

NHKには偏りがないとか、メディアに偏りがあるのは云々とおっしゃる方がたがいらっしゃるのにいまだに驚くことがある。あるタイプの日本人には、インターネットリテラシーよりもその前のメディアリテラシーが必要ではないか、と思うなぁ。

 

一度、世俗のお仕事の関係で、技術系のシステムのデモの地方局の取材があったが、その時の画像を作り変えてくれだの、こんな風に機械を動作させてくれだの、表示画面の変更をしてくれだの、「それってヤラセになりませんかねぇ」とちょっと申し上げたものの、関係者の説得もあったので、応じることにしたが、結構面倒で、わずか5秒くらいの画像のために、2日ほど付き合わされたことがあった。一応、関係者の説得もあってボランティアで都合3日も付き合わされたが、ろくでもないなぁ、と思ったことだけは一応ここに書いておこう。まぁ、制作会社の皆さんは、日々そんな思いをしているというブラック業界なのだろう。

 

こう考えてくると、読むとか、見るとか、メディアとかって、単純ではないよなぁ、と思う。

 

 

評価:
N.T. ライト
新教出版社
¥ 6,912
(2015-12-10)
コメント:面白いです。絶賛紹介中。

 


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冥土喫茶☆ぴゅあらんど という企画

先日、京都駅の北西方向徒歩10分位のところにある龍岸寺という浄土宗のお寺で行われた宗教間対話の試みのイベント『♡冥土喫茶♡ ぴゅあらんど』に参加してきた。まぁ、冥土喫茶という部分に引っかかったFacebook関係者がおられたが、まぁ、それもこみこみのネーミングである。そもそも開催地を提供しておられる龍岸寺さんが浄土宗のお寺であり、浄土信仰があり、その意味で浄土とは、意味から考えると清らかな土地という意味でもあるので、ピュアランドであり、お寺だけにメイドにかけた冥土ということになっている。

 

基本的なフォーマットは、宗教世界に関心がある若い芸術関係の大学の女子学生が、メイド喫茶にいるようなメイドさんの格好をして、いろいろな宗教関係の専門家に話を聞くという形である。なお、この女子学生は非常にまじめな方であり、ノリで冥土の格好をしているだけ(この辺芸術関係者だと思うが)だそうであり、これまで、対談者となった人は、キリスト教メディア関係者、チベット仏教関係者、そして、今回のヘブライ語聖書(わかりやすく言うと旧約聖書)関係者のキリスト教徒で、テルアビブ大学で日本を教えておられる山森みか先生であった。ミーちゃんはーちゃんは、いのり☆フェスティバル(今年は名古屋で実施予定)というイベントで、この先生とお会いし、日本にお帰りになるたびになぜかお会いする機会を頂いている、という有難い方である。

 

今回のお話は、”〜どっからどこまでユダヤ人〜”というタイトルで基本的にユダヤ社会の成り立ちについての基本的なお話をお聞きした。

 

ユダヤ人とは、ユダヤ社会とヘブライ語聖書
まず、イスラエルとかかわりの深いユダヤ人とは何なのか、という話になった。ユダヤ人を定義するのは、他国民の中に住んでいた時期が長いユダヤ人をどう考えるのか、ということが山森さんによると問題になるらしい。ある面、アブラハム以来のさすらい人ならではだなぁ、と思った。以下、いくつか面白い話があったので、山森さんのお話を中心に、ご紹介したい。

 

今、イスラエル国民となるための要件は、祖父母の一人がユダヤ人であることという基準があるらしいのであるが、それは実は、ナチスドイツがユダヤ人と判定して、ホロコーストをした時の基準であり、ホロコーストで非常に激しい迫害にあった人たちがその迫害を今後起きないようにするためイスラエルが建国された、という部分があるため、その基準が今なお生きているというお話があった。

 

また、世俗国家としてのイスラエル国とは何か、というと、ユダヤ人世界を中心とした宗教世俗コミュニティなのか、といわれると必ずしもそうではなく、ユダヤ教(といってもその程度はいろいろであるが)の関係者が7割、アラブ人やベドウィンのムスリムとアラブ人のキリスト教関係者が残りの2〜3割を占める、ということであり、その点でも宗教的にも人種的にも多元的な人々からなる社会であるとのことである。福音派のキリスト教徒の多くの方は、イスラエルというと、ヘブル語、ないしヘブライ語(いったんは世俗言語として断絶した)のみが公用語であるとお考えかもしれないが、イスラエルの公用語は、人造言語に近い現代のヘブライ語とアラビア語であり、下段で紹介する『ヘブライ語のかたち』でもご紹介されている。なお、この本はなかなか良い本でもあった。

 

ちょうどカリフォルニア州の法定公用語が英語とスペイン語であるのと、比較的相似している関係にあると思う。従って、カリフォルニア州の地方自治体職員は、基本、英語とスペイン語(下手くそでもいいらしい)を話せなければならないらしいが、サンタバーバラの小学校では、基本英語によって教育をしていた。

 

 

流入するロシア出身のユダヤ人
ペレストロイカ時代以降、ロシア出身のユダヤ人(ボグロムとかで迫害を何時にわたって受けている)が大量にイスラエルに流入し、現在では、ロシア語で過ごすユダヤ人たちのコミュニティが出来上がっているところもあるし、その後、エチオピア難民だったユダヤ人たちが流れ込んできて、エチオピアの文化と生活習慣をそのまま持ち込んでいろいろ悲喜劇を起こしていることもあるらしい。

 

改宗してもユダヤ人になれるのだが、男性が改宗する例は少なく、女性の方が改宗する例がある程度簡単であるらしい。そして、改宗ユダヤだろうが何だろうが、ユダヤ人女性から生まれた子供は、ユダヤ人といえる(本当の正統ユダヤ人は三代前からユダヤ人であることが求められるらしいし、その規定はモーセ5書にある)。ロシア人の中にも改宗してユダヤ人となる例もみられたそうだ。なお、イスラエル国としてはユダヤ人である以上、イスラエル国民になれるというルールはあるが、原則、ユダヤ教の厳格派のラビの認定が必要である、とのことであった。

 

イスラエルの宗教勢力としては、超厳格派、厳格派、改革派、世俗派とさまざまあるが、イスラエル国家としてアメリカに多い改革派(あまり厳格ではなく、世俗の中に生きる様なグループ)のラビによるユダヤ人認証は、認められていないらしい。祖父母がユダヤ人であっても、ヨーロッパでキリスト教に改宗している血統的にはユダヤ人として認められるだろうが、信仰的には非ユダヤ的な信仰を持った人はユダヤ人となるかという質問に対して、そのような人のユダヤ人としての判定はかなり難しいのではないか、というお話であった。なぜかというと、思想と信仰と生活と、国籍が不可分であると考えないイスラエルというかユダヤ社会の特殊性があり、これらを分離して考えるような近代西洋とは根本的に生き方が違うからであるのだなぁ、とミーちゃんはーちゃんはこの辺のお話を聞きながら思ってしまった。

 

ユダヤ社会に生きるとは
ユダヤ社会に生きることの表明は、社会の中のいろんな場面で顔を出す宗教諸規定、たとえば、食物規定、安息日規定、触穢規定(死体や血液に触らないとか、コーエン(アロンの系譜に属する祭祀)の家系だと友人の葬儀にも出られないとか…を、守ることで表現しているかどうかにかかわっている。それがある面、社会での個人の信仰に関する関与度合いの表明であるし、これらの宗教諸規定をどの程度守るか守らないかということで、その人の信仰とのかかわりは判断できないし表明できないらしい。その意味で、思想背景だけの概念的なユダヤ人というのはイスラエル社会では、ありえないことになる。その意味で生き方や生活と一体化しつつ信仰を表明していかざるを得ないことになるらしい。

 

その意味で、我が身を振り返ってみれば、そこまで、信仰と生活が一体化しているかといわれれば、返す言葉は全くない。神に憐れみを求めるしかないというこの残念さ。

 

 

多様な人々からなるイスラエル国家

先に、民族的に持世俗国家としてのイスラエルは多様であり、いわゆるユダヤ人と呼ばれるイスラエル人もいれば、ムスリムのアラブ人、キリスト教徒のアラブ人もいて、実に多様な人々からなっているるのご発言を紹介したが、その世俗国家としてのイスラエル国の中で最大多数派で、領土としてのイスラエルを血を流してまでその生存を保障すると考える主流派は、土地、自分たちの生存にまつわる土地の権益の確保が最大なものであるということだそうである。なお、この話を聞きながら、近代国家が領土で定義される国家といつの間にかなってしまった以上、土地というのは非常に大事なものであるのだなぁ、ということを思った。

 

しかし、その一方で、律法を厳守する非主流派である超保守派は、血を流すことなく、血を流すことは主流派に任せ、自分たちは神の御言葉に従うということで、軍役を忌避し、宗教性のみを追及しようとする派であり、どうしても主流派から見れば、なんだこいつら、という風に見えてしまい、対立軸ができてしまっている、とのお話であった。その意味で、主流派は、土地というものの上に初めて定義される近代国家という枠組みの中での国家の生存を考え、超保守派は、自分たちの信仰と信仰者のコミュニティをどう守るかにしか関心がなく、その辺でも齟齬が起きているとのご指摘もあった。

 

イスラエルにおいても、世俗派、あるいは主流派の中には、一応西洋近代的な社会の影響を受けてBLとかLGBTの生存を認めようとする動きがあるが、それに超保守派は反対をして、この種のデモをしていた主流派の若者に超保守派が攻撃して殺人事件になってしまった例があるそうである。そのような現状を考えると、超保守派の皆様が自分たちのコミュニティの中だけで生きていてくれたら、まぁ、冷ややかな関係性を保ち共存はできるのだが、出てこなくてもいいところに出てきて、他人の生活にああだこうだいう超保守ががいるので、それが問題の源になるような部分がある、というお話もあった。

 

ニクタン画伯(メイドさんのふりをした聞き手)が描くファシリテーション・グラフィックス

 

 

イスラエルの教育について
イスラエルの教育は、結構緩い。ガチガチに厳しく鍛え上げて、一つの方向性に向かわせるというような教育にはこれまであえて向かってこなかった。なぜならば、ドイツ人がもっとガチガチではなく、厳格に何でもやろとせず、集団としてガッチリまとまることなどがもう少しなければ、そして、緩くて、のんびりした人たちであったならば、あそこまで徹底的にホロコーストをしようとしなかったのではないか、という反省がそこにあるようであるらしい。ところで、本来、わりと厳密に突き詰めない日本人でも、非国民とか言いだしたので、集団ヒステリー体質と教育は関係あるのかなぁ、と思ったが。ところが、ペレストロイカ以降イスラエルに流入したロシアから来た”ユダヤ人”は、ソ連時代の伝統なのか結構ガチガチに教育をする(バレエとか音楽のロシア教育法のガチガチさは世界的に有名)ので、その辺微妙な温度差が国民の中で流れ始めている傾向があるらしい。

 

日ユ同祖論のおかしさ

日ユ同祖論に関しては、以前もこのブログ記事でも触れたが、それは相当眉唾であるということをもう一度、山森さんは話してくださった。まぁ、いろんなことを言う人はいるが、基本、ユダヤ社会の中では、ヘブライ語聖書(旧約聖書)のテキストとその解釈こそすべてであって、かなりその解釈を巡ってそれぞれが思うところに関して激しい議論を行うことで成立した体系(議論と論理にこだわって形成された体系)であるが、その聖典や議論を問うして構築された体系にあたるものが、日本の神道に存在するか、といわれるとあまりないのではないか。外交辞令や、ロマンで日ユ同祖論を言う人はイスラエル人にもいるけれども、信仰に関する体系化の原則が違う以上、同列化するのは、かなり厳しいのではないだろうか、というお話であった。

 

ユダヤ社会におけること共同体と議論 そして日本
ユダヤ社会における個人主義と共同体意識は、ある種の拮抗と緊張感を持った関係性が存在するらしい。共同体内の個人が突出していくところに、ユダヤ社会の特徴があるようにも思うそうだ。そして、あくまで、個人が罪をおっているという理解の構造があり、何らかの形であっても、共同体に帰属させないところがイスラエル社会に特徴的である。その意味で、世界中の反対しても、よしんば神があなたに反対しても、自分の意見とか意識を変えてはいけないという形の主張がなされるそうで、個人と共同体との緊張関係があることが、現在までユダヤ人が残ってきた根源にあるかもしれない、と話してくださった。この話をお聞きしながら、神に議論を挑んだアブラハム、神に向かって言ったヤコブ(イスラエル)、神に苦情を付けたヨナ、神に叫びあげたダビデ…と、結構神に立ち向かうかのように自己の主張を貫き通そうとしたイスラエルの父祖たちがヘブライ聖書には非常に多く登場することを思っていた。

 

この話を聞きながら、最近のレイプ疑惑事件に代表されるように、事件が起こるたびに親との関係、家族という共同体との関係をうんぬんする日本型社会との違いを考えてしまった。日本の場合は、家族共同体の問題、あるいは罪にしてしまい、そしてその共同体を切り離すことで、問題の解決を図ろう(本来は解決してないのであるが表面的には一件落着にしてしまおう)とするところがあるのではないか、と思った。まぁ、弱い子供を守るという親の立場はあるかもしれないが、それにしても、今の日本の追及の仕方や報道のされ方は、なんか変じゃないか、と思う。

 

まぁ、確かに、親の因果が子に報いというのは、イエスの弟子たちも盲人の例を取り上げイエスに尋ねたほど、ある程度普遍的な考え方でもあるようなのだが、イエスはそれは違うといっている様な気がする。不祥事が起きると、日本では、親の教育が悪かったとか、子育てが間違っていた、とかいうことが言われたりするのだが、では、社会が子育てしたはずのキブツやクメールルージュ支配下のカンボジアではどうだったのか、ということは議論もされることはないのではないか、とミーちゃんはーちゃんは思ってしまった。現実に自分の目の前にある対象だけを取り上げ、それが特殊事例かもしれないのに一般化して語られる状況を見ていると、実に近視眼的、というほかないなぁ、とミーちゃんはーちゃんは思ってしまった。。近視眼的ということは、場当たり的に変わるということでもある。もちろん限られた能力しかない鼻で息する人間が、論理的一貫性と整合性を完璧に持てるなどは、これっぽっちもミーちゃんはーちゃんは思ってないが、そうであっても、近視眼的に生きるということは安定的に議論ができないということでもあり、議論する意味はないということになるではないか、と思ってしまう。まぁ、とりあえず、自己の主張を貫こうとしてみて、そうであっても貫けない、貫くことができないのと、そもそも貫く気もなく場当たり的にやるのでは生き方はだいぶん違っていると思っている。

 

ユダヤ系というあいまいにしてしまう語
その意味で、ユダヤ系という実に曖昧模糊としたどうとでも取れる語というのは非常にまずくって、あまりにもおおざっぱすぎて、非常に場当たり的で、自分の見ていることと自分の認識と一部が合致してしまえば何でもユダヤ系という語を使えば包含できてしまうので、実に近視眼的な物言いには向いていて、実に日本的表現であり、その意味で、語の厳密性を持ちえなくて、議論を分かりにくくする語で困るなぁ、という印象を受けたた。なお、この会が終わった後、山森さんとこのイベントの主要サポートメンバーと雑談しているときもユダヤ系という語が出たので、ほらほら、これやると何でもユダヤ系になっちゃうよね、という話になった。

 

英語にすると確かにJewishなのであり、Boyishとか日本語では、少年ぽいとかいう”ぽい”とか、雰囲気の漂う、とか○○系統の、という印象が漂い、訳語としてのユダヤ系なのだろうが、それは、問題をぼかすことにもなり、定義の線が一気にあいまいになるという現象がみられた。

 

ニクタン画伯によるおまとめのファシリテーション・グラフィクス2

 

 

内部と外部とユダヤ社会

とはいえ、今回のテーマである、どこまでがユダヤ社会の内部なのか、どこからがユダヤ社会の外部なのかということであるが、これは案外難しく、明確な線は引けないし、その線自体、時と場合と状況によって変わらざるを得ないし、その人やその社会が置かれた状況によって変わるように思う。ユダヤ人といってもユダヤ人女性から生まれたという点ではユダヤ人かもしれないが、キリスト教徒の場合、ユダヤ人に入れるべきかというと迷うし、あるいはユダヤ人女性から生まれていても、世俗化が進んでおり、ユダヤの律法を何とも思わず、食物規定も明確に守らないイスラエルを全線で守っている兵士の一部は、ユダヤ社会の外部にある存在なのかということもあり、このあたり、かなり個別性が強い議論になるし、社会の状態にもよるだろう、というお話であった。

 

この話を聞きながら、キリスト教徒の信仰継承問題にミーちゃんはーちゃんは少し思いを巡らせていた。キリスト教の信仰継承問題では、親子で同一の教会に通えば信仰継承がなされたと考えるのか、同じ教派内の教会にいれば信仰継承がなされたといえるのか、あるいは別の教派のキリスト教会にいれば信仰継承がなされたといえるのか、神と共に生きていれば、信仰継承がなされたというのか、人生の中の一瞬でも神と共に生きていれば、信仰継承がなされたと考えるのかで、だいぶん違うように思うが、そのあたりを考えずに信仰継承がキリスト者社会の中で語られているようにも思う。つまり、なにをもって、キリスト教信仰とするのか、ということをもう少し考えた方がいいかもしれないなぁ、と思ったのである。

 

また、キブツの話になったが、キブツ自体は、ユダヤ人の祖先たちが西洋の中で、土地を持つことを赦されず、生存の基盤となる食糧生産という労働に関与することを認められなかったことへの反省として、キブツでは、土地による農業生産と食糧生産が安全保障とのかかわりにおいて非常に重視され、共産主義の影響を受け、実際には進められていった、という側面がある、しかし様々な状況から現実と遊離し始めていった、という山森さんの解説もあった。このあたりは、『乳と蜜の流れる地から』あたりにかなり詳細に記述されており、非常に印象的であった。

 

イスラエル社会もろもろ

テルアビブ大学で教えていて、彼らは非常に議論する。教員にだって、かなり厳しく議論として神ついてくるし、日常生活でも、大声で議論し、ひるまずに立ち向かうのが当たり前であるので、激しい議論が行われる。日本語ではこうはいかず、相手をおもんばかったり、傷つかないように配慮したりしないといけないので、そのあたりが難しい、とのことであった。恐らく敬語の存在(とたぶん、その背景にある社会階層を前提とした人間関係の上下の位置付け)が議論をさせないようにしている印象はある、というお話も伺った。

 

直近の印象として、イスラエルの介護問題はどうなっているのか、というご質問が会場の参加者のお一人からあり、イスラエルでの入所型施設での介護はかなり高額の費用がかかるため、基本多くの方は自宅介護(独居老人の自宅での住み込み介護)であるが、外国人の年限付きの労働者(フィリピン、ネパール、タイ、ハンガリーなど東欧諸国からの滞在時限付き移民労働者)が自宅に一室を与えられ、介護をすることになるが、この種の介護職からの被介護者への暴力とか、被介護者からの介護職への心理的暴力とかセクハラとか、時に見られるなど、それはそれで問題がある、とのことであった。

 

日本文化とイスラエル

今、日本文化で人気があるのは、アニメ、武道、BL関係(特に女子での)への関心が高く、大学で日本語や日本文化を学びに来る人のきっかけはアニメであり、アニメでの日本語の熟練者の能力と感心が100点満点の90点とすれば、通常の学生は30点から40点前後という印象はあり、ジャニーズはいまだに一定の人気はあるが、ある面、関心は薄れている感じであるそうだ。ただ、イスラエル人男性はマッチョさこそすべてなので、結構暑苦しく、その面、その暑苦しさのないジャニーズは、イスラエルになかったという点で、受けたのであり、特に、消費される商品化される対象としての女性性が重視されてきたものはどの社会にもたくさんあったが、消費される商品化された男性が存在したという意外性、特にアイドル育成ゲームの様な側面が、自分が育てていく男性アイドルという側面がある面重要だったのであろう。まぁ、母性受けしたのかもしれない、とのお話もお伺いした。

 

 

イスラエルの壁の問題と政治
イスラエルの壁問題についてであるが、そもそもリベラル派のイスラエルの人々がイスラエル社会と外の世界の融和を狙って壁のない世界を理念優先で作ろうとしたが、そうしたら、爆弾テロとかが起きて、非常に大変な結果を招き、かえって、人が多く死んだ、ということが起きたそうだ。そこで、より現実的なまた別のリベラル派の人が、壁を作ることを提案し、お互い距離を置かないと非常に悲惨なことが起きてしまう。理念よりも、他国から何を言われようと、現実に人が死なないことの方が重要だ、ということになり、壁を作ったし、現実に壁を作ったら、非難はされたが、死ぬ人は確実に減った、とのことである。

 

人は話してわかるというけれども、話しても分かる相手とわからない相手がいて、わからない相手には、それなりの対応をとるか、わからない相手との距離をとるしかないというのが現実であるし、それである程度安全に共存できるのなら、それも一つの共存ではないだろうか、とも思う。ただ、実に難しい問題であり、その辺の相克の中で、時と場合によって現実的な折り合いをつけながら生きているのがイスラエルという国家であり、その中の国民は、その複雑な現実を議論しながら、折り合いをつけていることだけはわかってほしい、と結構その大変さを絞り出すようにおっしゃっておられたのが実に印象的であった。

 

 

強硬な政府ができれば、独裁になるのではないか、という会場からの質問が出たが、山森さんは、きっぱり「独裁になることはありません。みんなてんでバラバラに自説を貫こうとする人ばかりのユダヤ人の中で独裁は発生しえないし、議論が噴出して舟山に登るみたいな国で、独裁は起きようがないのです」といっておられたこともまた、印象的であった。そういう多様な議論と論理が併存しながら、ひとつン社会を形成して居るという、実に他から見たら面白いが、内部にいると、結構うっとうしい社会がイスラエル社会なのだろうなぁ、あるいはユダヤ社会はいろいろ大変なのだろうなぁ、それをまとめて、共存するための社会的規範を構築するためにヘブライ語聖書の律法があると思うと、まぁ、うなじの強い民には、これしかなかったんだろうなぁ、とかいろいろ思うところの多かった土曜日の午後であった。

 

ニクタン画伯によるおまとめのファシリテーション・グラフィクス3

 

次回は、 10月22日(土曜日)15〜17時 かいまみ!イスラーム ☆ 信じることの深淵 だそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

評価:
山森 みか
白水社
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(2013-09-20)
コメント:大変勉強になった。非常に読みやすい。

評価:
ミトリ・ラヘブ
日本キリスト教団出版局
¥ 2,592
(2004-12)
コメント:一つのユダヤ社会の断面のご紹介

 

 

 


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しばらくお休みを頂いたので、今日からN.T.ライト著『新約聖書と神の民』の連載を復活させたい。まぁ、週2回はこれを連載し、週1回は別を連載する、って感じになるかも、と思っている。

 

文学と新約聖書

文章、特に意図をもって伝えようとされるものをN.T.ライトさんは文学と呼んでおられるようである。こういうをことを書くと「聖書は神聖なので、文学などのジャンルに入れるのは適切ではない、聖書は聖書だ」と顔を真っ赤にしたり、真っ青にされたりして主張なされる人々がおられることは十分熟知しているが(そういう雰囲気を持ったキリスト者グループで育ったので)、それは分析の次元というか空間が非常に狭いのであって、何らかの意図をもって文字データで表現したものは文学といえるかもしれない。ある面、文字というデータ表現方法で人間という相手に自己の意図をわかりやすいか分かりにくいかは別として、伝えようとした文字列の集合体に関する研究分野が文学というものであると、ライトさんはご主張であると思うのだ。

原始キリスト教、イエスとパウロ、そして初期キリスト教運動全般と個別の神学の研究、これらは文学の研究という方法でなされる。このルールから除外されるのは、貨幣、碑文、その他の考古学上の偶発的な発見に限られる。

   (『新約聖書と神の民』p.101)

 

 ここでは、文学と訳されている語は、恐らく英語ではLiteratureであり、文章にまつわる諸研究というくらいの意味であろうと思う。ミーちゃんはーちゃんの友人の数学者(平気で5時限とか6次元を二次元に表現する人ではない別の数学者)は、ある文学関係者の論文について「なんで、あんな感想文書いておもしろいんでしょうねぇ」とふとおつぶやきなられたことがあるが、文学研究は、テキストから読み取られること(友人の数学者はそれを感想文だと思っていたらしいが…)だけが文学ではなく、文法や修辞学、修辞学の時代による変遷、ある特定の語の用法の変遷…といったこともLiteratureということになるようにも思う。その意味で、そもそも文字列で表記されたテキストを読むという行為とをその周辺を扱うのが、文学ということであり、皆さん方がミーちゃんはーちゃんの駄文にお付き合いいただいていることも、広義の文学研究の研究の対象である。なぜなら、人間による文字列理解にかかわることだからである。

 

 しかし、計算機では文字列からなるプログラム・コードを扱うが、それは文学研究の対象ではないと思う。コードを読む相手が人間ではなく、機械だからである。まぁ、やろうと思えば、文学研究の対象にはなるかもしれない。なぜなら、計算機言語は、人間が読み込んで意味を理解することもできるからではある。Cobol文学、C++文学とか、マシン語文学とか、Java文学とか、やってやれなくはないけれども、計算機言語はすべてのことを表すためには不適切な限界のある言語なので、うまくはいかないだろうと思う。

 

聖書は、人間が読んで、その文字コードの先にある事柄を「思う」「考える」「思いを巡らせる」…様々ないい方があるが、人間が自分から意味を求めてかかわっていくという意味では、聖書を扱うことは文学研究であるといってよい、とは考える。ここで、個人的には碑文が文学研究の対象ではない、ということを見て、意外な感じを受けたが碑文(好太王碑文やロゼッタストーン)にも、一定の分量の文字列が含まれており、一種の文学の対象だとは思うが、ただ、墓碑銘などは、碑文というのには短すぎる様な気がする。

 

ここでライトさんは、文学が対象とする範囲としてはかなり広いこと、文学ではないとして排除される範囲がかなり狭いということを主張しており、かなり広い範囲、人間が意味を伝えようとするものをここでは文学の対象としていることが上に引用した表現からも理解できよう。その意味で、さらっとかかれていることではあるが、油断ならないことがさらっと書かれている本でもある。

 

好太王碑文の一部

 

ロゼッタストーン

http://www.redseapages.com/interesting-articles/heritage-history-discovery/647-rosetta-stone-found-on-july-19-1799から

 

本書と知識と人工知能

基本的に人間が文字列を読むということが文学であるという立場をとれば、確かに聖書を読むということは文字列集合で表現された何らかの意味を持ったものを読むというということであるので、文学の対象であり、聖書を読むということはその特殊ケースであろうと思う。その意味で、ナチスドイツのエニグマという暗号機を使った一見意味不明に見える文字列を読むことができるような平文にするための操作方法を見つけ、そして通信文の意味を解読するということが英国で行われたが、それも一種の文学ではあったとは言えるだろう。

 

先にも述べたが、聖書を特別視するある種のキリスト教文化の文化の中でミーちゃんはーちゃんは育ってきたので、聖書を文学扱いすることに拒否感を示す人がおられるのはよくわかる。しかし、それは、文学という学問分野に関するその人の想定があまりに狭義ないしは限定的すぎるのであるのではないか、とさらっとライトさんは次のような文章で書いて居られるようである。

新約聖書にどう取り組むべきかという問題は、書物一般にどう取り組むべきかという一般的な問題の中の特殊ケースなのである。新約聖書も文学の一つなのだという事実は20世紀後半に生きる私たちの上に重くのしかかっている。文学批評の波はとうとう神学者たちが砂遊びをしている海辺にまで押し寄せてきて、彼らの作っていた砂の城の周りの堀を水で満たしてしまった。(同書 p.101)

 

砂遊びをしている神学者、とか、聖書に取り組むというのは特殊ケース、とかいうものいいは相当ひどいなぁ、と思うが(この辺のブラックさは英国人特有のものだと思うが)、しかし、神学で取り扱う概念自体は、この数先年、中核というかデザイン・パターンにおいてはかなり安定的であるものの(砂の城の外形は似ているように、神学的な基本的で中核的な主張や概念は類似性が高いものの)、様々な概念が出され、その重心の置き方や表現、社会とのかかわりの在り方に関する理解として表現されることがかなり時代によって変わってきていることを考えると、作っては壊れ、作っては壊れ、という意味では砂の城というものいいもあながち外れてはないように思う。確かに、文学批評(テキストの様式論などを扱うテキストとその読みを切り刻みあげていくような方法論)の波は、いろいろな分野に応用されていて(特に外交文書の解読とか、他国政府内の機密性の高い文書の解読などなど)、実に応用範囲の広い研究分野でもある。

 

鹿児島の吹上浜の作品

https://k-mingu.blogspot.jp/2014/05/2014.html から

 

http://tylerhandmade.blogspot.jp/2011/03/worlds-largest-sand-castles.htmlから

 

多分、多くの人がこの本について挫折するだろうなぁ、と思うのは「知識」(恐らくKnowledge)の問題だと思う。実は、この話はかなり計算機屋の間で重要で、人工知能の問題とかかわるからである。どうやったら機械は知識を獲得でき、知識を利用するのか、知識を利用するための論理構造は機械にできるのか、ということと深くかかわっているのだ。今の自動車は、実は電気製品に近いぐらいの計算機が利用されていて、ブレーキの制御(アンチロッキングブレーキシステムによるスリップ抑止)とか事故の回避のためのブレーキ制御(物体認識をして距離を計測し、急制動をかけながらスリップを抑止するなどなど)から、自動運転まで大型計算機だけの時代にはできなかった半導体技術を活用した小型計算機が大量に安く供給されるようになった時代だからこそ、制御を計算機がルーチーンの部分は人間に変わってやってしまおうという時代になったのである。

 

昨日、たまたま、最近ご訪問することの多い聖公会の教会では、不正をした執事の話に関連して、バーニー・エクレストンの話がついでに出てきたことで、ふっと思ってしまったのだが、自動運転するF-1フォーミュラによる競争とかっていうこととかになったら、果たしてF1レースを実機でやる意味があるのだろうか、と思ってしまった。自動運転するF-1の人工知能同士が、湾岸ミッドナイトMAXIMUM TUNEで勝手に対戦させるのと何が違うのか、ということを考えてしまいたくなるし、別にオリンピックやワールドカップを実際にやらなくても、バーチャル空間で人工知能同士の戦いにしてしまって、アルゴリズムで対戦する競技とか、ということだって可能である。人間が出あわないのがけしからん、というなら、ロボットコンテスト方式で、使用する機器の仕様の上限を限定しておいて、その場で開発とかやればいいだけではないか、と思う。まぁ、プロゲーマー同士の同一ゲームでの対戦はすでにあるが。

 

湾岸ミッドナイトの紹介動画

 

今後の本書の進み方の概略紹介

19世紀から20世紀という時代は、真理の絶対性・普遍性・共通性が想定され、その中で真理が争われた時代であり、何が真理であり、なにが真理ではないのかが争われた時代であった。「真理でないものは、誤りであり、価値がない」というような二元論的な理解がなされていった時代が20世紀中葉までの時代であり、そのような概念が社会の一般的な態度として広がった時代でもあった。そして、真理は正義でもあった時代であるといってよいかもしれない。つまり水戸のご老公様の印籠のように、あるいは、錦の御旗が掲げられた時のように、正義や真理が掲げられると「ははあ、恐れ入りました」とする必要はない時代が来ているのだ。なお、錦の御旗が掲げられた瞬間、幕府の武装勢力が一戦も交えることなく壊走した武装勢力があったらしい。そのように、真理とか正義を掲げられると「恐れ入る、あるいは、畏まる」必要性がなくなった時代に我々は突入している。

 

20世紀中葉に、真理と呼ばれるものの絶対性が揺らぎ、真理は絶対ではないかもしれないことが明らかにされてしまったので(これは学問的な成果として)人間がいう真理というものは風前の灯火の如きものに過ぎず、安定していないことがばれてしまって、「その正義、何それおいしいの?その真理、何それおいしいの?」という人々に何らかのことを言っても無意味である社会の中にすでに突入しているのだ。しかし、キリスト教界の一部に未だに正義とか、真理を振り回す人がいるから、かなわないなぁ、と思うことも少なくないのだけれども。

 

ところで、ライトさんは、人間が考えるということと、そのために必要になる知識をどう考えるかについて、そして、聖書のテキストをもとに考え、思いを巡らせ、それと取り組むということに関して、本書が今後どのように進んでいくのか、ということについて触れながら、次のように書いている。

文学についての現代の課題と、私たちがこれまで検討してきたことには強い共通性がある。私たちは再び「知識」についての問題に向き合うことになるがそれは特殊なものである。まず初めに、読書という行為そのものについて議論せねばならない。読者がテクストに向き合う際に、一体何が起きるのだろう。第二に文学とはそもそも何なのかを問わなければならない。第三に、これらの点を考えた上で、文学批評の課題とは何を問う。この問いは、再び「ストーリー」についての問題に私たちを導く。そこで、ストーリーの役割についてより詳しく見ていく必要がある。(pp.101-102)

 

ここにかかれているように、この本のこれから紹介する部分には、簡単なことを扱ってはいないのだ。かなり複雑なことを扱うための基礎的な部分を構築しようとする一種の野望に満ちた本であることは確かである。夏休みの宿題の読書感想文を、その本の後ろにある著者あとがきとか解説を読んで手軽に読書感想文を書いたことにして終わらせてしまうような皆さん向けの本ではない。むしろ、本を読む、読書する、聖書を読む、ということがどういうことなのかをまじめに考えたい人たち向けの本であるし、それが、社会が相対化し、価値が多元化した中できちんとした対話をして、相互に対する理解の体系(それが知識だと個人的には思うが)を参照しあうということが求められる時代の基礎的な本であろうと思う。

 

しっかりした基礎作りが大切

この本の一番の美点は、神学という神の理解に関する超高層ビルを作るには、しっかりとした基礎を作りましょう、しっかりした基礎の上に高層建築を作らないと、その高層建築は崩壊してしまうし、崩壊してしまったら元も子もないではないですか、だからこそしっかりした基礎を作る必要があるんじゃないですかねぇ、そのための基礎工事ってこんな感じですよね、ということを示したのが、本書について、本日から取り扱う部分なのである。

 

ライトさんに対する批判があることは知っている。そして批判を受けやすいのもよくわかる。というのは彼がイングランド人でもあるので、不用意にというよりは、時に意図的に面白がってブラックジョークを時々発してしまい、超高層ビルの一角に奇妙奇天烈な色のタイルを張ったり、人々がぎょっとするような形の洗面台を設置したりするからである。その典型例が先ほどの、海岸で砂遊びする神学者…というような表現である。

 

この本の本日から紹介する部分は、トップアスリートが行う筋力トレーニングのような本である。つまり、競技の際に最大限の能力を果たすように筋肉を鍛え、試合の時に最大の力を発揮できる可能性を向上させるためのトレーニングのような部分であり、明日の説教に参考にでき(そういう部分はちょっと本書の後半部分ではあるけれども)、すぐ役立つというようなタイプの本ではないのであり、読み手に忍耐力と能力の向上を求めていることを期待しているような本である。その意味で、教科書の参考書ではなく、本腰を入れて教科書を読むための基礎能力を付けるための本というような側面を持っている。その意味で、読み手がそれを望まないのであれば、この本には手出ししない方が良い本ではある。

 

しかし、これからの世紀を生きていく人、非常に深いレベルでの対話を求めようとする人々のための本であり、自己の意見を一方的に主張したいなぁ、ということだけを考える人には向かないタイプの本であるように思う。その意味で、信仰者として、信仰者でありながら対話者であろうということを求める人々にとっての基礎的訓練としては非常に有効で重要な本であるように思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 


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前回の投稿(アンソロポロジー・・・)では、ある方の日本の伝道をどう進めるのか、ということの方法論をご説明いただいたものを元に考え、その方法論に潜んでいた個人に関する違和感をお話した。

 

その図は現状では以下の図1に示すようなものであり、それを図2に示すような形に変えないといけないのではないか、というお話であった。

 

図1 現状の日本の宗教と社会と個人をめぐる構造

 

 

図2 宣教(伝道)のために望ましい形ではないか とMさんがご主張だったもの

 

 そのご講演を伺いながら、この図式化の水平軸に違和感があったことは、前回のこの連載の記事で申し上げたが、さらに、お話を伺いながら、この図を見を見ているときに思ったことは、日本社会の祭儀と個人との関係ということを考え、また、その日本社会の祭儀と個人の関係が現代人とひとまとめにしても、時代や地域ごとに違い、それが教会内で世代間や個人間で違っているのではないか、ということであった。後、もうひとつ、その後思ったのは、この図2で考えているような形であるためには、社会の中で、個人が確立している必要があるということであった。個人が思考する個人として自立しているといってもよいように思う。

 

時代による人と社会の関係変遷 現在の構造

まず、一つ目の問題から少し考えてみたい。確かにある時期までの日本人は、公領域での呪術的なものを重視してきた。その呪術は、農業生産における豊穣などを希求するような呪術的要素であり、その豊穣を求め、呪術的な豊穣の祭式に個人自身を関与させていく方向性を持ってきた。旧約聖書におけるカナンの地のバアル信仰は恐らく農産物の豊穣を求めてのものであったし、それに定住農業者になりかけている段階のイスラエル人は心惹かれていったのであろう。

 

しかし、現在の農村では、その豊穣を求める(実際には適切な降水を求める)祭式も確かに行われているが、その祭式を求めていくというよりは、凶作の被害を回避する方策へと変わっていると思う。現代では凶作の回避にあたっては、呪術というよりはむしろ農業共済事業といった保険事業(農業共済事業は、その設立に賀川豊彦がかかわっているらしい)に移行しているように思う。生活のモードと産業のモードが農業地帯においても変化し、その結果、そもそもの専業農業者家庭であっても、専業農家は限られており、兼業農家の増加により、農家家計の収入源は農業収入が中心というよりも、鉱工業や三次産業の被雇用者となることによる現金収入への依存度が高くなっているとという形に変わってきている。その意味で、農家の豊かさは、呪術の影響を受ける農業収入に頼らなくても、安定した雇用者としての収入に頼ることができるのである。その意味でも、呪術に依存する要素は以前と比べると、極めて小さなものとなっている。

 

また、鉱工業や三次産業でも、確かに事故防止のための祈願祭、あるいは商売繁盛の祈願祭なども会社行事として執り行われることがあるが、それすらももはや形式化、形骸化してきているため、最下部の図書『人口減少社会と寺院 ソーシャル・キャピタルの視座から』が紹介するように、寺院消滅だの神社消滅などということに神道の関係者や寺院関係者は、現実に戦々恐々としておられるのだなぁ、と同書を読みながら感じた。

 

また、基本的に人間が社会的流動が増え、地方の過疎化、都市の過密化に伴い、地域の村落共同体と一体化した親族共同体は、ほぼ崩壊の危機にある状態である中で、祖霊崇拝、祖霊崇敬はもはや意味を持たず、地方部での孤独死、親族からの生活支援を受けられない状況になっているからこそ、適切な公的支援や公共の介入が避けられた結果の生活困窮の故の餓死や心中というようなことが起きている事例をわれわれは新聞記事やマスコミの報道で接するのではないだろうか。

 

その意味で第2象限(北西領域)と第4象限(南東領域)が従来のようが弱体化し、別のものでその部分を埋めているのだと思う。第2象限でもある北西領域は、現実の生活空間でいえば、NPOとかボランティア団体とか、役所言葉でいえば、NPM(New Public Management)という言葉は言われつつも、実態としては役所の業務の外注先として扱われつつあるように見える自治会とか、各種の地域型の公式団体への地方自治体政府の期待は、かなり高まっている。行政の外注先となりつつある自治会をはじめとする地域の諸団体、特にNGOやNPOへの期待されていることとかがあげられるであろう。これからの社会で重要な一つの軸は、それらの団体が社会にどのような役割を果たしていくのか、ということになっているだろうと思う。

 

要するに従来は上から(中央、東京から)要件定義が定められてきて初めて価値を持つという団体運営方式とその下部団体という構造であったのが、今では勝手連的に始められてしまうような団体運営がそれにあたるといえるかもしれない。その中には、渋谷でのサッカーの日本代表戦のワールドカップでの勝手連的行動による騒ぎなども第4象限の動きといえるかもしれない。そして、それは、すぽらでぃっくに分散的に組織を各地で構成していき、それぞれが緩くつながっているのだと思う。そしてそのような動きが現実化した事件が、アラブ世界では”アラブの春”事件であるし、ISIS団ともなっているし、”「子ども食堂」は、「おとな食堂」になっていないか?−大人の理想と都合で開店して閉店!子どもの声なき声に耳を傾けて!”の記事に見られるような今のオトナ食堂ではないかと揶揄されるような”子ども食堂”運動などにもみられるものである。

 

第4象限である私領域で公共的に現代でも行われることの代表例が、例えば個人的に開かれている勉強会だったり、食事会だったり、合コンだったり、飲み会だったり、朝活だったり、あるいは最近話題の自動の貧困対策の一環として行われ始めている「子ども食堂」などが対応しているのかなぁ、と思う。こう考えると、この第4象限で行われているものが、突然公共性に目覚めたりすると、いきなり第2象限に移る可能性(相転移の可能性)もあるので、それを考えるとやはり、ここで提示した空間軸構成の組方でも、かなりまずいのかもしれない、と思ってしまう。それが前回の記事で指摘したこの軸組について感じた違和感の原因の一つのような気がする。

 

日本では個が成立しているのか

ところで、日本と個人という個をめぐる問題について考えてみたい。

 

一応日本国憲法では、近代型の個人を想定しており、そして、その近代型の個人が幸福を追求することを是としていることが多いが、さて、日本では実際に近代型の個人が本当に成立しているかといえば、かなり怪しいと常々思っている。今、話題になっている豊洲への市場移転問題にしても、本来は、それを決定した個がいたはずなのだが、それは、元ボスは、「勝手に部下がやったことだ、俺は専門家でないので知らん」といい、自分は”視覚障碍者判”押しただけに近いことを言っている(政治家としてはありえない話であると思うが)し、元部下は元部下で、「当時の知事のご意向に従っただけ」なのであろう。実際にそうだと思う。ボスに逆らえば左遷が待っているのが、この世の組織の倣いである。結果として、日本ではだれが決めたともなく決まっていくという一種の美しい社会運営がなされており、見事な組織の構造の中で、ぐるぐる回りするようになっている。

 

法律上、個が成立したことを想定しているとはいえ、結婚式場では、いまだに”モンタギュー家とキャピュレット家”みたいな会場案内が見られることが多いし、親や祖父母世代はそれにこだわるし、”徳川家と上杉家”みたいな戦国大名の結婚式かみたいな会場案内の看板が出る。とはいえ、そうかと思えば、あまりにややこしい状況に巻き込まれ、政府が責任を持てなくなると、自己責任論が振りかざされるのが日本国という国である。

 

東日本大震災直後、Tomodachi作戦とか出動したアメリカ軍は言っていた(言うのは勝手である)が、あれは自国民救出という側面があることくらい、日本の軍事評論家はもっといってもいいのではないかと思うのだ。東日本大震災の津波で行方不明になったアメリカ人のALT(Assistant Language Teacher)の救出作戦でもあるように思うのだ。アメリカ人の感性から言って、米軍は被災したり戦争に巻き込まれた自国民(役人でなくても)の救出作戦や米国民の遺体回収(アメリカでは、基本火葬ではなく土葬が好まれるので、遺体の存在が重要である)くらいするし、それを成し遂げえないと軍及びその三軍の長たる大統領への国民の尊敬は大きく毀損する。それがアメリカ人の基本的な心性である。

 

日本では、家族や所属組織(いわゆる看板)の方が個人より大事なのであり、家族でも組織と考えれば、戦後一貫としてその組織依存の文化と組織文化依存型で生きる個人という文化が続いてきたのであり、漸く、若者が新人類とか宇宙人と呼ばれるようになってきて、この種の組織から一定の距離を置く人々が出てき始めた。それで、この様な人々には、組織の側が今までの組織運用ルールが通用しないので、慌て始めているということだろう。

 

まぁ、現在某国からの留学生のお世話をしているのだが、この中の何人かの人々には異様に手がかかるし、対応に手を焼くことが多いのだが、それが世界標準、国際標準だと思って最近は半分以上あきらめることにしている。うまくいけば丸儲けと思うようにしている。

 

図の改良案

図1とか、図2とかでは、社会システムの分析をするうえで、個人的ー集団的とかいう水平軸でご説明であったが、違和感を感じ続けていたので、それに代わる軸を考えてみた。その結果、水平型人間関係志向ー垂直型人間関係思考という分析軸を水平軸に据えてみると、もうちょっといろんなことが言えるのではないか、と思った。それが、以下に登場する図3および図4である。

 

図3に示したものは、戦前型(前にも説明したように、人間には思想でも社会行動でも慣性というものがあるので、これが戦後しばらく続く)の人間関係と社会のモデル図であるといってよいと思う。このモデルでは、明治の中期以降にもと革命政府であった明治政府が提唱した概念が定着し、それが一種の日本のあり方として定着してきた昭和初期の戦前期は国家という公領域の人間関係が私領域にも侵入していった。より具体的には、天皇制という一つの社会モデルが日本の社会モデルとして確立されていく中で、私人、あるいは個人の領域、つまり家庭生活の中に、疑似天皇制モデルがどっと入ってきて、本来自由であるべき人間の行動を制限したのである。日本の教会は、その社会モデルである疑似天皇制が用いられていることも少なくない。つまり、牧師を疑似天皇であるかの様にいい、牧師をまつりあげる人々も信徒の中に未だにいないわけではない。個人的に、それは違うと思っているが。

 

また、私人の領域、ないし個人の領域での人権の無視は、それは初等中等教育にも時々起きた。あるいは、軍隊という一種の疑似学校組織でのある種の職業訓練などは行われたが、軍隊は個人の生活に大きな制約を与えることになる。そもそも、軍隊が軍隊である以上、個人主義的では当時の平原での大軍団展開型の戦術には不向きであったという側面があるが。これは、また別途後述する。

 

また、高速の大量輸送を可能にする交通機関が非常に限界的な存在であったので、個人の自由な移動は大きく制約されたし、また、その鉄道の敷設に非常に膨大な資金が必要とされるため、国営事業として運用されるなど(今のJRは、以前、鉄道省という組織が運営する公営鉄道であった)、国家が個人の生活に大きく介入する傾向が多かったように思う。

 

また、日本国が後進国(昭和30年代に出た大学院時代に教わった福地さんという方の計量経済学の本では、日本は中進国として記されていたし、だからこそ、『坂の上の雲』を目指して一心不乱というよりかは、一心であったが、なりふり構わずに進んだように思う)であったこともあり、市場は不安定で、国家の経済基盤もそう豊かでなかったために、国家が市場に平気で顔を出す、口を出す世界であった。なお、その象徴である食糧庁という役所がなくなったのは、2003年のことである。

 

図3 戦前型の人間関係と社会のモデル分類図

 

この図3に示すように、戦前の技術的な水準(生産技術、通信技術、意思決定技術における水準)と行動原理の下では、大きな物語である天皇制強化の方向に動く傾向がどうもあるような気がするし、そして、大きな物語が人間にとりあえず何らかの強制力を伴って現れる世界であったのではないか、と思う。また、その大きな物語が大量生産時代という近代社会の前提に適合的であったという側面もかなり大きく影響しているのであろう、とは思う。

 

戦後、それも60年代安保前後から、従来は天皇制や寺院や神社と祭祀といった社会システムとして安定的に存続していたものが崩壊することで、その第2象限や第3象限への第1象限からの影響力は若干は弱まったようにおもう。とはいえ、この50年代60年代、若者に思想的に強く影響を与えた共産主義があり、その世界では党本部、中央の指導がある共産党政権諸国での経済運営が議論され、それは近代経済学にもかなり影響したように思う。そして、計画経済がもてはやされたこと(それは中央支配という意味で、天皇制とある面共通構造がある)に加え、国土計画なども第○次全国総合計画とかいう計画経済モデルに近いものが議論され、実際にそれで全国各地に工業団地やコンビナートを整備することが、土木屋の仕事であた時期がある。

 

この計画主義モデル(実際には共産主義モデル)は、公領域の本来私領域であるべき範囲への影響力が大きいことは、当時まだ日本が基本的に資源小国であることに加え、私的企業の経済的な基盤の弱さなどもあり、2000年前後に至るまで、本来私領域で自由な裁量が行われるべき分野への公領域の進出や口出し、ちょっかいは続いたように思う。典型的には、経済や経営の分野では、傾斜配分方式とか、護送船団方式とか、財閥は解体されたというものの、企業グループや系列による経営、談合、カルテルとか、まぁ、思い当たることは多いような気がする。

 

しかし、戦後の自由化の中で、言論の自由が主張され、保証される中で、マスメディアや大学を中心として、リベラル派と呼ばれた(それはリベラル派であったのかどうかは議論の余地があるかもしれないが)従来の制度枠にとらわれず発言する人々が出始め、それが公領域での発言をすることになったようにおもう。また、市場取引には情報交換が欠かせないことから(これは、情報の非対称性を軽減するために必須である)水平型に移行し始めているが、いまだに系列取引やカルテルなど、不公正取引が行われている事例は少なくない。その意味で、中央からの影響みたいな形で残っている部分も皆無ではない。それが下の図4での第2象限(北西領域)である。

 

その意味で、公領域の垂直的関係性を重視する世界観(第1象限 北東領域)と公領域の水平的関係性(第2象限 北西領域)を重視する世界観は対立関係にあり、双方が、どちらのシステム(垂直関係または水平関係)が社会システムとして優秀で、適切なのかを、社会システム間競争しているように思う。

 

そして、この図にはまだ表現してはいないが、第3象限と第1象限は、個人が優先なのか、社会的な枠組みが優先なのかでのせめぎ合いが起きているように思う。以前は第4象限を重視するといえば、問題行動と第1象限から指摘され、つぶされてきたが、今は、第3象限を重視することは以前よりは、主張しやすくなっている感じはするが、それを極端に重視する人々はいないような気がする。というのは、第4象限(南東側)に見られるような、家父長制を理想とし、垂直型の人間関係が反映された対象に対する価値のウェイトが下がっているからではないか、とも思う。

 

とはいえ、図4はもう少し遊んでみる(考えてみる)必要があるが、もう少し、遊んでみて、面白いことが言えそうであれば、また、記事にしてみたいが、今の段階では、この程度にとどめておく。

 

図4 現在に至る移行過程の中での人間関係と社会のモデル図

 

なお、この図を作図し、考えながら思ったことに、戦前型社会を支配し、共産党政権を支配した垂直型の人間関係、社会関係を体現した官僚制自体、そもそも、ドイツの陸軍で情報通信機能・情報交換機能が制限される中、平原での大規模戦闘での大軍団の一斉行動向きの組織運営技術として成熟していった組織運営文化(ある面、ナチスドイツ向きであった)である。しかし、このやり方はベトナム戦争で、米軍がとったものの、結果としては、非常に非効率かつ非効果的であったので、現在では戦術レベルでは、このような官僚制がとられることはほぼないと思う。むしろ、戦術レベルでは、第4象限型の組織論、即ちゲリラ型の組織論が幅を利かせている。

 

なお、ゲリラ型の組織論であるといっても、ロジスティクス(兵站計画)だけは、ゲリラ型をやると、武器弾薬がなくなり、ランボーのような現地調達の武器で戦う兵士ばかりになるので、物資輸送に関しては、官僚制的運用は必要なのである。なお、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍は、兵站計画は結果としてゲリラ型運用を現地部隊に求め、戦術及び戦略レベルの作戦計画は官僚制であったということ結果を実に明確に示したように思う。その結果として、兵站が一番厳しく表れる現場の兵士のレベルで、とてつもない悲惨が生まれた(インパール作戦とかガダルカナル戦とか)のだろうと思う。そもそも、海軍にしても兵站(物流)を考えれば、ハワイなど、兵站(物流)システムが伸び切ったところで相手に戦闘をしかけるなんて、愚の愚の策に近いと個人的に思う。

 

シルベスター・スタローン演じるRambo

 

より大事なことは、現在は、人間には世界観における慣性があり、そうは世界観は簡単に変わらず、近代を生きてきた世代の概念(図3に示す概念)と図4に示すような移行中の世代の概念(団塊の世代)とそれ以降の新人類と呼ばれるポストモダン世界を生きる人の概念あるいは世界観が併存しており、それがある程度世代により共有されながら、変損するという意味で、社会における世界観の重層性があるのではないか、ということを考えた。

 

そのような理念系(世界観)の重層性の中で、日本の宗教者(仏教者、神道関係者、キリスト教関係者、ムスリム関係者、無神論者)は生きているし、そして、キリスト教会も、日本の人間関係の軸と人々の頭の中にある人間社会の理解を相手に、今後の組織運営をどうするのか、どのように個が成立しえていないかもしれない日本社会の中で、福音宣教を伝えていくべきかが問われているような気がするが、それは考えすぎかもしれない。

 

この項、もう少し考えてみたいが、そのための時間がいるので、少し間があくと思う。

 

 

 

 

かなり先に連載の続きがあるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

評価:
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法藏館
¥ 3,240
(2016-03-10)
コメント:日本社会の中でのソーシャルキャピタルの側面から、仏教寺院をとらえようとした論考集であり、大変意欲的論文が多い

 


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今年の夏、関西はことのほか暑かった。例年なら、水稲早生種の登熟(実入り)はこれからなのだが、高温のためか今年は、水稲の黄化状況というのか、成長(あるいは老化)が早く、関西地方では水稲に、背白、胴割れ等登熟後の高温障害が発生するのではないか、と思う。

 

今年の暑さはどう報道されたのか

今年の関東地方は、夏の前半は渇水傾向がみられたが、今年は9月2日に利根川推計上流のダムの渇水対策本部も解散したし、まぁ、例年以上に現在の貯水量はやや高めの模様である。夏に時々猛暑日はあったものの、あまりひどくなかった模様である。余り全国ニュースで今年は猛暑だ、とかいう報道は8月以降、さほどなかった様に思う。それだけ、関東はやや涼し目だったのかもしれない。ところで、このブログの読者で、この記事を読む前に利根川水系上流のダムの渇水対策が事実上終了しているのをご存じだった方、それを報道したメディアがいかほどあったのか、ご存じだった方は少ないだろう。ミーちゃんはーちゃんはダムの水量マニアではないが、この夏かなり真面目にフォローしたので、八木沢ダムの流入水位量計の癖はだいぶん把握した。何の得にもならなかったが、面白くはあった。

 

 

利根川ダムの貯水量の推移 

国交省関東地方整備局 http://www.ktr.mlit.go.jp/river/shihon/river_shihon00000111.htmlから取得)

 

関西の平地部、大阪、神戸京都辺りは、本年は暑気が殊に厳しく、息するだけで胸が苦しくなるような暑さの日も多かった。もちろん、ミーちゃんはーちゃんはデブ症だから、その分、暑気は堪える。年をとったこともあるのだろう。しかし、それが東京発のニュースで報じられた気配はあまりない。

 

今年は、オリンピックの年であるが、パラリンピックの映像もちらちら見られるようにはなったが、まだまだ周辺的な扱い(まぁ、以前のガン無視状態よりはずいぶんよくなったように思うが)であり、全く放送されないというわけではないが、新聞やテレビで持ちきり、みんながそれを見て興奮しているとか、騒がれている、というわけでもないようだ。パラリンピックより錦織君の方がよほど騒がれている。なんだかなぁ、と思う。その意味で、概ね一般の関心はないわけではないが、低調らしい。まぁ、学校の2学期が始まったというのもあるのかもしれない。毎朝の通勤時間帯も列車が混むようになってきている。

 

と思ったら、先日、北朝鮮は地下で核実験をしたらしくて、被爆者団体のオジイサンが、「何を考えて居るか」と広島なまりをにじませながら、怒りの声を震わせておられた映像がニュースに流れたが、このおじいさんは、アメリカとロシアと中国とフランスが核武装していることに日々怒りまくっておられるのだろうか、と思うと、ご高齢の方なので、血圧をそっと御心配申し上げた。

 

メディアの限界と人間の忘れやすさ

これらに共通するのは、自分たちが感じていること、異常だと感じたことだけがニュースになる(正確にはマスコミが異常だと感じたことだけが報道される)ということであり、マスコミ人が異常だと思わなければ報道もされないし、その結果、普通の人が意識することがない、ということなのである。まぁ、中には、普通の人でも細かな変化に気を使う人であれば、意識するだろうし、きちんとフォローするだろうが、そこまでする人はあることによほど興味がある人だけではないか、と思うのである。

 

実際、そのことは、災害報道などでは良く知られていることである。災害発生直後は報道されるが、大体半年たつと、ほぼ報道はゼロになる。被災地は悲惨なままでも。一年経過した瞬間に、思いだしたようにその発災日から1年たった日には報道はされるが、翌日には全国メディアではほぼゼロになる。被災地の状態はほとんど悲惨なまま変わらなくても。被災者の多くは癒されなくても、全国ニュースの世界では、置き去りにされてしまうのである。この辺が被災地と被災地外の温度差を生むし、マスコミへの不信感が被災地で発生しやすい原因の一つなのである。そして、それはマスメディアの限界でもある。

 

ミーちゃんはーちゃんは自他ともに認める鳥頭人間(鳥は、よそを見た瞬間に見ている対象に集中し、直前のことも忘れてしまうといわれている)なので、すぐ忘れてしまうので、人のことを言えた義理ではない。

 

まぁ、人間は自分たちが見ているものだけ、より正確に言うと、見せられていること、聞かされていること、読まされていることを真実だと思う癖があると思うのだ。それがすべてだと思いこみ、他の可能性があるとは思わないという可能性が大であるのではないか、と思うのだ。いわゆる、誰かが整理して流した(というよりは流された)情報を信じ込んでしまうといってもいいかもしれない。これは危険な兆候だし、実際に、日本人は太平洋戦線で勝ち続けていると信じ込んでた人が少なからずいたし(よく考えればそんなことはありえないのだが)、聞かされたことを確かめもせずに丸のみするとこんなことになってしまうようだ。あとで後悔しても、それは後の祭りであるし、実際には無意味なのではないか、とおもう。

 

キリスト教とバベルの塔

先日の連載で、神学的フランケンシュタインというメタファーや「一致とは何か、一体になるとは何か」というタイトルで連載したことに対して、またまたFacebook上で、福音派200年といえども歴史性があるし、それなりの伝統があるのに、なにゆえ、それを大事にしないのか、言葉が違うとか、用語が違うとか、いう議論に発展し、同じ用語でも別の意味に用いられており、同じよう語を用いながら違う意味で用いるなど、用語の用法が混乱しているから、混乱している部分があるのではないか、また、同じ意味でも別の用語が用いられているから、いっていることが相互に通じていないのではないか、と思うことが多い。例えば、一つのわかりやすい例をとってみよう。

アレルィヤ − アレルヤ − ハレルヤ

アーミーン − アーメン − エイメン

 

などはかわいい方だが、翻訳された後に関しても、その語とその用法はかなりキリスト教会の内部のサブセットというか集合体によって違い、同じことを言うにしても語の用法などが違うような気がしていて、そこのところのインターフェースがまともでないことによって、無意味なロスが生じているように思えてならない。用語を統一せよとは言わないし、そんなものはできっこない(なぜなら、人間には使用する語や表現法にも愛着があるからである)と思っている。そしてそれは個性の大事な部分を形成して居るようにも思う。従って、それを統一するよりも、共通の変換言語を持ち、訳語データベースを持ち、相手の言いたいことを自分の用語で理解できるようにする想像力を持つことが必要なのかもしれない。

 

今の現状は、それぞれが違う言葉を利用しながら、お互いに行っていることがわからない、そしてわかろうとしない状況に似ていて、ある種の分断ができているし、相手と話しても通じないから、そのままにして、分離がどんどん進んでいき、そして、自分たちの目が見ていること、聞いていることを互いに振りかざし合っている、という状況にあるのではないか、と思ってしまう。

 

 

例えば、「福音」や「救い」や「裁き」や「終末」といった人間に近い語でも、人によってはもちろん、プロテスタントのグループ間でかなり意味合いが違っていて、同じ語を使っていても、あぁ、これは、システマティックではないにしても、ミスコミュニケーションが起きているなぁ、と思うことがあるし、「義」とか言う語でも、同じ語を指しながら意味が全く異なるのではないか、と経験することも少なくはない。

 

もうこうなれば、バベルの塔の後の世界がキリスト教の世界で起きているような気がする。こういう状況に直面して、訳語を作り、ネットワーク理論におけるノード間をつなぐブリッジというのか、リンクとしての役割を持ち、相互コミュニケーションを個人レベルで図ろうという人もいるかもしれないが、どうもそれは極めて少数であり、他者に向かってのリンクを張るよりは、自派のコア概念とのリンクを増やすことに熱心な方が、特定のグループでの評価は高まる傾向にこれまであったし、現在も尚その方個人のそのグループ内での評価は高まる傾向にあると思われるので、リンクは張られないまま、バベルの塔状態が続いているように思う。そして、自分の使う用語を使わないものを一段低いものに見たり、自派の言葉を使うことをかなり強く要求したりする例が見られるが、外部から見れば、ナンセンスだなぁ、と思う。あくまで、個人的な感想としては、である。まぁ、ちょうど下の漫画みたいな状況なのではないだろうか、と思うのである。

 

 

もう一つ、キリスト教はその教派を特徴づけるスローガンというのがあるようにも思う。それをとりあえず内容が分かっていなくても大丈夫だけど、その派内でその語を唱えておけば大丈夫、というタイプの語がある。まるで、吉良邸の赤穂浪士の討ち入りの時の符丁や戊辰戦争の時の寛永寺の符丁ではあるまいし、とは思うが、信仰義認とか万人祭司とか、中身の厳密な意味を分からずにとりあえず言っている人が多いことも確かである。ただ、あまりとりあえずわからずプラカード掲げる感覚で、その語を適当にポーズとして用いている人に突っ込んで聞いてはいけない。「お使いのその言葉のその意味は何ですか」、「その語はどのような意味でおっしゃっておられますか?」さらに「祭司とは何ですかとか」、「義とは何ですか」とか突っ込んで尋ねると、真っ赤な顔をして怒り出すか、もうちょっとまともな人は、「ちゃんと本を読んでください」とそっけない対応をとられることがある。しかし、「何か本を読め」といわれた人の場合には、「だれの、どの本がいいですですか?」とか聞いてみて、即座に答えられる人の意見は尊重した方がいいことが多いが、「そこらにある本なんでもいいから」とかいうような人のご意見はあまり参考にならないかもしれない。大抵、そういう人は、単に自分がその派の用語を使えるということを示しているためにその語を用いて居られたり、同じグループからブツブツ言われない為にプラカードを掲げておられるだけのことが多いのではないか、という印象がある。

 

学問的バベルの塔

なに、これは教会内だけのことではない。学問の世界が大概そうであり、学際的研究とか、40年以上前にミーちゃんはーちゃんが大学生になる前のころから言われていたが、いまだに変わっておらず、特定分野で深堀していく方が、学問の世界では評価は高い。学環(某旧制一高)とか称して何とか組織論的に融合しようという動きはあるが、残念ながら、なかなかうまくいっていないようなのもまた事実であるように思う。

 

相手の分野とキチンと対話しようと思えば、相手の分野の大学院1年生程度の知識できれば修士課程修了者程度の知識は必要だし、相手の分野についての用語の意味とその用語の用法を理解しているだけではなく、その分野固有の論理の癖というのか固有の論理立ての特徴を知っておいた方がよいことはある。論理立てが少し違えば、ものの見え方はかなり変わって見えてくるのだ。

 

要は自分と相手の学問体系の論理構造の違いを十分に知った上で、相手の見方、というよりは相手に取って見えているはずのものを推測しながらこちらの議論をきちんと述べていかないと、対話にならないこともある。要は相手の対話のペースに乗りつつ、自分の主張はきちんと伝えるという、一種外交交渉の様なノウハウが求められるようにも思うのだ。

 

下記に紹介する『「個人主義」大国イラン』という本があるが、イランで何かやろうとするときにいかにイランの社会的習慣や文章化されていないルールを知った上で、計画したり交渉したりしないといけないのか、ということが実に面白おかしくかかれていた。こういうことは実は海外生活を行う上で、不幸な事故や事件に巻き込まれたりしないようにするために、悲劇を防ぐためには、極めて重要なのだ。これは、異なる学問体系間の対話をするときにも必要なものだなぁ、と同書を読んだ時に思った。

 

国内で起きるバベルの塔事件

なお、同じようなことは日本国内でも起きることがある。例えば、役所との交渉でも起きる。最近はだいぶん楽になったが、役所言葉や業界言葉、企業言語という特殊な世界だけでよく通用する特殊な日本語があり、役所言葉や企業言語の裏側に隠された意味というのを、聞く方は、聞かされる方は、お聞かせいただく方が、ありがたく受け止め、通常の日本語に変換する努力が求められることもある。

 

バベルの塔現象の原因

基本的にこの種のバベルの塔現象が起きる原因は、恐らく想像力不足であろう。相手の言いたいことを考えず、自分の聞かされていることだけ、自分のことばだけを用いて、相手に迫ることをする、ある意味で、自己都合最優先、自己論理最優先、相手は自分のことばを理解するように努力してくれるはずだ、ないしは努力する義務があるのだ、という一種の中華思想がバベルの塔現象の原因の一つにあるのではないか、と思うし、上記の漫画で、”We're the only centre”という主張が為されているところに、このバベルの塔現象の原因があるように思うし、人は上で縷々述べてきたように、自分自身が聞かされていること、見せられていることがすべてだと思いこみ、それをもとに議論を組み立てがちなので、世界でさまざまな不幸が起きているように思うのだ。

 

典型的には、日米貿易摩擦が華やかなりしころ、Japan as No.1という本が出たり、日本の不動産屋が国内のカネ余りとバブル経済を背景に、やめときゃよかったのにアメリカの象徴的な場所であるロックフェラーセンターを買いあさったり(あれはアメリカ人に取って911事件並みに国辱的であったのではないかと思う)、コロンビア・ピクチャーズ(コロンビア、即ち、「コロンブスの地」すなわちアメリカの映画会社、という意味もある)という映画会社を買いあさったりした1980年代末頃の日米通商交渉事件などでの米国政府のほぼ言いがかりに近いアメリカ車が売れないことに対応せよ事件で米国政府が難癖付けてきた内容などを思いだすと、どの国も自己中心的になるとろくでもないと思う。おかげで、研究予算の申請するときには、米国製シリコングラフィクスやSunのEWS(Engineering WorkStation)を予算に計上しておくと、研究予算が割と通りやすいという伝説までうまれたが。一応、それを明記せよ、と各種予算の申請書に書いてあった時期があった。そして、学内に、シリコングラフィクスのEWSやSunのEWSがごろごろ転がるようになって、3つボタンの使いやすいとはいえない光学マウスがゴロゴロしていた。

 

この話を書きながら、その昔のアントニオ・猪木対モハメド・アリという異種格闘技があったことを思いだしたが、なんか、このバベルの塔事件というのは、それと似ている。それは小学生高学年の児童だったか、中学生だったころの事件だし、そもそも運動音痴であるので、格闘技そのものには基本的に関心がないが、同級生のかなりの部分が騒いでいた記憶だけが残っている。何がどうなったかほとんど記憶がないのだが、そもそも、あれはショービジネスというよりは日本型の興業としては成功であったかも知れないが、そもそも論として意味があったかどうかというと疑わしい、と思っている。格闘技好きには違う意味があるのだろうが。

 

 恐らく意味はなかったのではないか、と思うし、アメリカ人は理解しなかったろうと思う。ファイトマネーを相当積んだので、まぁ、モハメド・アリを興行師が呼んできただけ、という気もする。

 

アリ対猪木の異種格闘技にかぶりつくスポーツ新聞のカメラマンたち

 

異種格闘技と国際化

そのように、基本的に異なる種類のものを合わせることは難しいし、相手の土俵というか相手のルール、相手の言語ゲーム、相手の論理ルールにある程度従って対話をしないと、対話が対話にならないことが多い。この相手のルール、相手の言語ゲーム、相手の論理ルールを身につけることは、簡単ではない。同一の国内に住んでいて、この種の別ルールによる別の言語ゲームなどに出会うことはごくまれにあるが、通常はあまりない。相手のルールがおかしいとか、「わがまま」だとか、勝手なことを相手が言っているだけだ、ということで終わりにしているケースがほとんどで、自己反省するケースはさほどないのではないか、と思う。

 

これから、日本は労働力としての移民を国家政策としてお受け入れになるらしい(そうでもないと高齢化が進み、単純労働力が単純に人口と経済構造から不足するので、国家が持たなくなりつつあるのもこれまた事実であり、「天皇って何?」という人々に対応も求められることになるのであって、既に「萬世一系とか何それおいしいの?」と言う若者は少なくない)が、そもそも、別の論理形態で生きようとする人に日本の論理形態を押し付けることは原則的にできないし、それで摩擦が起きるのは目に見えている。その挙句、自己反省するのではなくて、自分と違う人を単純に悪者にしてしまうという安易な対策がとられて終わり、お互いに不幸な関係だけが残るのではないかと思う。そこまで日本人が異なる概念を持つ他者の世界に適切に対応できるほど、他者理解において成熟しているとも思えない。国際化という語が普及しているものの、その内実が外国人による消費の結果、経済が回ればいいということだけだとすれば、聞いてあきれるしかないような気がするが。

 


その意味で、きちんとした対話には、国際化であれ、何であれ、相手の土俵のルールや規則や、思考パターンの癖や、ゲームの成り立ちを分かった上でやらないと意味がない。バベルの塔事件の再現を防ぐには、相手のルールや規則や思考パターンの癖やゲームの成り立ちを理解しないで勝手なことをやることは、お互いに不幸な結果を残すだけかもしれないと思う。

 

ダライ・ラマ14世と新約時代の信徒との相似性

そう思っていたとき、たまたま通勤中に『ダライ・ラマ 共苦(ニンジェ)の思想』という面白い本を読んだ。ダライ・ラマ14世の宗教多元主義の根源を見せられたような本であった。今のダライ・ラマ14世は、チベットから追い出されたからこそ、他の世界の思想世界というか宗教世界と触れたことで、チベット仏教についての原理主義というか、チベット文教中心主義あるいは至高主義にならず、かえって、人間が苦を同じくしている、つまり、人は苦を抱えている、という点では共通であり、そしてその苦からの脱出、開放、苦からの離脱ないし解脱の必要性があること(それが救済)が共通だという立場に立ったらしい。その意味では、苦を抱えている人間として同じ宗教的地平や思想的地平に立ってはいるというものの、そこから先は同じではなく、それぞれの宗教的実践ないし宗教的伝統、ないし思想的伝統によって、別物だという理解は重視しなければならないというタイプの宗教的多元性らしいことが同書の記述からは読み取れた。なお、この本の著者は、チベット仏教の研究者であるが、信者ではないし、仏教徒でもなく、純粋に宗教を考えるうえで、対象としたのがたまたまダライ・ラマだった、ということらしい(辻村さん、間違っていたら、ゴメン)。

 

本論に戻すと、ダライ・ラマ14世は異なる文化背景、宗教背景、宗教的コンテキスト、思考パターン、ゲームの成り立ちに対応せざるを得ない環境におかれ、異なる文化的背景の成り立ちにおかれたからこそ、必死で相手の論理に乗って対話をした、という部分があるのだろうと思う。この本を読んだ時、まるで、紀元後50年くらいから90年くらいの時代のキリスト者やパウロみたいではないか、とおもった。使徒行伝時代やパウロ時代のキリスト者と”同じ(同一)”とは言っていないことに読者は留意されたい。

 

ユダヤ人の文脈におかれていたナザレのイエスを、ローマの皇帝崇拝、ギリシアの多神教世界の中で、語ろうとした使徒行伝時代のキリスト者やパウロ時代の人々のようではないかと思う。とはいえ、パウロが非常に数多く語った場は、その様な他の文化的コンテキストの中で改宗ユダヤとして生きた人々が大量にいた街道とそこから分離したキリスト者集団の中であったが。彼らは改宗ユダヤでありながら、と―マ帝国の市民、解放奴隷、奴隷、という当時のギリシア・ローマ世界の両方の文脈におかれたことを通して、両方の文脈やルールというノードをつなぐ、リンクとしての役割を担わされたようにも思える。本人たちにその主体的な、また、自覚的な意識として、そのようなリンクの役割を担う気がキリスト教徒になる以前からあったかどうかというとかなり怪しいように思うが、結果的には、その役割を担ったように思う。でなければ、当時の時代人として、こんなことは書かなかったかもしれない。

【口語訳聖書】第一コリント
 9:20 ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。
 9:21 律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。
 9:22 弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。

ただ、今の日本の福音派と呼ばれることの多いキリスト教を見ていると、パウロや当時の改宗ユダヤ人たちの様ではないかもしれない、とも思う。人数的にはそうであったとしても、そこに相手の論理にブリッジやリンクを張るために、相手の言語や相手のルールや相手の理解とかに乗っている人に乗っているのではなく、これが私たちが教えられてきた、見てきた、聞かされてきたキリスト教の論理であり、この気かされてきたこと、見せられてきたルールであり、これがキリスト教の世界の言語ゲームです、それを丸のみできる方で、それに全く疑問を抱かずに従えるすべての人《それは当然、すべての人が以上のような当方の条件に合致していると思いますが…》を歓迎しております、ぜひお越しください《そして、それ以外の人は来ないでください》、といっているようにも思えてならない。この《》内が案外癖ものではないか、と思う。

 

 本当は、キリスト教の世界は実に多様な伝統があり、多様な文化を持ったものとなっており、ある人たちだけが見せられたり、聞かされてきたことだけが、キリスト教ではないのにもかかわらず。

 

 

 

 この項、単発。

 

 

 

 

評価:
岩崎 葉子
平凡社
¥ 907
(2015-09-17)
コメント:日本人には不可解に見えるイランという国の国民性というか国民の行動論理が実に面白くわかる。イスラム諸国の関係者の言動を理解する際の参考になるかも。

評価:
辻村 優英
ぷねうま舎
¥ 3,024
(2016-03-23)
コメント:個人的には現在のダライ・ラマがなぜ、西洋諸国で受け入れられるのか、ということの一端を知る機会となった。辻村さん、面白い本を書いてくれて、ありがとう。

 


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アンソロポロジーといっても、ファッション関係の業者さんの会社名ではない。人類学という一種の学問分野のことである。

 

先日お伺いした枚方の研修会で、文化人類学をもとにした日本の宣教の方法論を考えておられる牧師の方のお話を聞く会に参加させてもらった。一言で言うと、なんか自分と似たようなことを考えておられる方がおられるのだなぁ、という印象であった。

 

コンサルタントとアンソロポロジー

今も昔も、コンサルタント業はしていないものの、一時期、経営情報学や一般システム理論というようなコンサルタント業のツールを使っている部分に近い研究会に参加する機会があったり、今も時々、コンサルタント業まがいみたいなことを農業関係団体との共同研究の場で求められることがあり、時々、ご相談が寄せられることがあるので、ご相談に乗る時に、相手先の状況を俯瞰的に見てもらい、概念整理をするために、コンサルタント会社が利用するようなツールを使うことがある。今回の話は、コンサルタント会社がよく使う手法をキリスト教の宣教というのか、伝道に使うとどうなるのか、というタイプのお話であったので、非常に概念に親和性があったので、聞いてて、あぁ、まだ日本のキリスト教ではこういう概念が新しいのか、こういう風に考える方は、案外少ないのかなぁ、と思うと同時に、こういう方法論で見ることは多くの日本人にとっては、聖書的でないとか異端的とか、いう人がいるだろうなぁ、という反応が予想されたが、個人的には、同じようなことを考える人が世の中に入るものだ、と思ってちょこしうれしかった。

 

その方は、最初、まず次のような図式化(図1)を提示しておられた。

図1 人間関係の分類図

 

個人的には、この分類の軸に完全に賛成しているわけではなく、その場でもご意見を申し上げたのだが、この軸の直交性にはかなり無理があるように思うのだ。

 

というのは、関係論を考えるとき、基礎になるのは、物理的距離や心理的距離、親和性における距離概念が重要であり、それはディジタルな2値的なもの、あるいは2元論的なものというよりは、アナログなものとの類似性が高いように思うし、属性だと、属性を有するか否か、という排他的な部分があるので、よりディジタルなもの2値的なものとの類似性が高いように考えるからである。

 

その時ご指摘した内容としては、この図は、むしろ、以下の図2のようになっているのではないか、と思った。

 

図2 ミーちゃんはーちゃんが考える人間関係論の軸のかかわり

 

その時、この時の話し手の方は、まぁ、これは社会科学なんで、細かいツッコミはご勘弁をとおっしゃったので、まぁ、主成分分析でやるように無理やり次元を展開したと善意に理解して、それ以上の細かはツッコミはしなかった。

 

なおこの種の図式化はコンサルタント会社ではよく用いられていて、良く知られているものは、以下の図3に示すボストンコンサルティングが考えたPPM(Product Portfolio Management)で用いられる図である。

図3 PPMの図解

 

 

この種のものを勉強したければ、グローヴィスという民間企業の講座の資料本であるグロービスMBAマネジメントブックとかに数多く紹介されている。ただ、紹介されているとは言えども、根本的に考える能力がなければ、これらの本で紹介されている概念を、単に当てはめるだけに終わるので、それを単純に適応することになる。コンサルタント会社の若いコンサルタントは、この種の人材が結構多いので、誰に聞いても、同じような話しかしないことが多く、非常に残念な経験をされるであろうことだけはここで申し上げておく。コンサルタントの能力はかなり属人的な要素に左右される可能性が大きいことも一応お知らせしておく。

 

まぁ、企業向けのコンサルタントがやっていることは、一種この種のアンソロポロジーなのであり、まぁ、文化人類学者にもいろいろあるように、コンサルタントにも洞察力に富む人もいれば、そうでない人もいるので、要注意ということではある。

 

民衆宗教を図解で考える

その上で日本の民衆宗教を考えると、このようになるのではないか、という宮家準の『宗教民俗学』の所論を援用し、それとメアリーダグラスのグループ・グリッドの概念で再整理したもの(図4)を取り上げ乍らお話になられた。要点は日本の民族宗教はお祭りとそれに伴う大きな物語があり、それが個人に働きかけ、その個人に関しての人生儀礼(人生の誕生、婚姻、死亡、そして回忌法要の終了)を通して、その個人と制にまつわる諸行事が終わることを指摘されておられた。それが、図?の第III象限(個人的、私的領域の軸で囲まれる象限)で各種の人生上のイベントで顔を出し、それが、他の象限(第II象限及び第IV象限)に波及し、さらにそれが第I象限に影響を戻していき、それが季節の順調な移行に反映されると同時に、さらに第I象限の神話を強化する方向に向かう、というご指摘であった。

 

図4 日本の民衆宗教を考える際の要因とその循環(簡略版)

 

回路を逆転する

あと、もう一つの重要な要素は、現代社会においてキリスト教を述べ伝えるためには、現在の順序を逆転させる必要がある、ということが言われた。まず、個人及び私的軸で定義される第III象限を規定あるいは出発点として、教会を第I象限におき、祝福としての貪欲の開放を目指し、復活を主日で覚えることにし、それに、信徒も信徒以外の人も巻き込んでいき、神の物語を伝えていくことを教会のメインに据えていくことが重要ではないか、更に第IV象限で定義される、信徒の間での交わりをスモールグループで実施し、そのスモールグループで聖餐式を行い、神の民となっていくことを図り、第III象限での個人の信仰のさらなる成長を目指していくことになる。また、第II象限のでは、主の祈りを唱え、神の国をもたらすように個人として関与していくというということにつながり、さらに信仰をさらに成長させていくようにしてはどうか、というご提案であった。

 

図5 キリスト教が民衆宗教として定着する際の要因とその循環(簡略版)

 

まぁ、もちろん、それは一つの方法論であろうが、しかし、ここまでいろんなことを細切れにしてしまっていいものだろうか、とも思った。個人的には、聖書朗読、主の祈りと聖餐式と、礼拝は一体のものであるべきで、ここまで細切れに分断していいものだろうか、とも思った。とはいえ、聖餐を信徒と信徒でないものが混じる場所でするということは少し問題ではないか、と思うところはそうかもしれないと思っている。聖餐に与らない信徒以外の人々に、祝福を与え、神を求める気持ちを励ます、という方法論はあるとはいえ、方法によっては疎外感を与える場合もあるかもしれない。しかし、神は招いておられるということを何らかの方法で、示し、関与する方法を何ら科の方法論を考えた方がよいようには思うのだが、それが何なのか、ということについてはまとまっていない。

 

まぁ、個人を起点とするというあたりは、近代社会(近代アメリカを経た近代日本の社会)においてはある面当然であろうが、これも産業化社会成立以降の人間と社会を考えると当然問ういう気もするが、果たして、これだけがすべての時代の全世界でのキリスト教の在り方か、という部分で考えると、違うような気がするが、現代日本では、個人を中心・起点にして考えるというのはある面当然という気もする。

 

キリスト者の生き方と世界とのかかわり

しかし、個人を中心にして、公共の物語を作りだし、それがさらに、フェローシップとなり、さらに、個人の信仰をより深めていく、ということになる。さらに、公共の物語が、個人の公領域での神の国の実現につながり、さらにそれが個人の信仰を深めていくということになるらしい。それはそれで、ある程度信仰の在り方の回路としては重要だと思うし、そう考える理由もある。しかし、戦争前から続いて図4の方向で回ってきたものを、図5の方向に回すのは相当困難なことではあると思う。1945年の敗戦の時に、進駐軍による外力によって、無理やり図4から図5の方向に変えようとしたものの、変わらなかった。人間には精神的な慣性というのか霊的な慣性というのか、生き方の慣性があるため、なかなか外力、それも圧倒的な外力を用いても変わらなかったものは、変わらないのかもしれない。それほど、大変なことであろうと思う。

 

ところで、日曜の礼拝で信徒と信徒以外の方が混じっているところでは、聖餐をせず、御言葉の聖餐というか、神のことばを牧会者が語ることだけに限るという方法論を御取りらしい。

 

それはそれで、一つの見識だとは思うが、個人的には聖餐は極めて重要なものである、と思っているし、日曜日にだけしかしてはならないものでもないし、日曜日以外にもしてもいいものであるとはおもっているが、もし神を覚えに集まるのであれば、日曜日に聖餐はあるべきだと思う。むしろ、信者でない人への神への招きをも、全部まとめてやろうとすることで、無理が生じているかもしれないとも思う。ひょっとしたら日曜日の午前中に全部まとめて対応するのではなく、時間を分けるか、別曜日(土曜日とか、平日の夜とか)に実施する、という対応がありうるのかもしれないとも思う。

 

 

次回へと続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

グロービス経営大学院
ダイヤモンド社
¥ 3,024
(2008-08-29)
コメント:まぁ、よく使われるツールをコンパクトにまとめたものだと思う。

宮家 準
東京大学出版会
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(1989-10)
コメント:良いらしいです。

 

 


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今日は、牧会者の葬儀ロスについて考えてみたい。

 

五代ロス・福山ロス・葬儀ロス

去年朝ドラの登場人物であったディーン・フジオカ演ずる五代友厚がドラマ中の役として死亡したりすると五代ロスだといい、福山雅治が結婚したごときで福山ロスとかいう話が出てくるようになったが、まぁ、世の中平和であることよ、と思わざるを得ない。

 

 

 

 

今回、あるところの研修会で、長くある教会で牧会をしておられる牧師さんの方が、信者さんがなくなると最近えもいわれぬしんどさを感じるということをご紹介してくださった方がおられたり、ある牧師さんが夏場に土日月(お休み)なしで葬儀準備に当たる中で、大変消耗されたと書いて居られる方もおられた。また以前には、なくなられた信徒さんとのかかわりの中で、一種の喪失感を味わったというお話がFacebookにあがっていたりもした。

 

実際に葬儀をやってみて

ミーちゃんはーちゃんは、「按手礼、何それおいしいの?」と平気で言えるような、究極の平信徒主義の教会で按手礼を受けていない信徒がほぼ毎週説教もやれば、聖餐もやれば、洗礼もやれば、結婚式も、葬儀もやるキリスト者集団(キリスト教業界のSK学会的キリスト者集団)で育ったので、まぁ、頼まれたら、大抵のことはやってしまうし、やれてしまう。しかし、今、そこを離れて、成文祈祷の伝統の分厚いところの教会に参加させてもらって、司牧に支えられる、信徒相互に支えられる経験をしてみると、この司牧に支えられる経験というのは、ある面非常に良いなぁ、と思うことが強くなってきた面もある。特に、教会に伝統的に伝えられ、成立してきた儀式とそこでの祈祷文を読むことで自ら告白していく文化に関与する中で、儀式や成文祈祷の背後にある意味を考えてみると、これまでそれらを軽視してきたが、実は軽々に扱えないことだなぁ、と反省している最中である。年齢が進んだということもあるかもしれないが。

 

去年の夏、義理の父がなくなった。同じ平信徒主義の教会に長く集った人であった。外戚で男性のキリスト者がミーちゃんはーちゃん一人だったので、葬儀を引き受けることにした。まぁ、それはある意味、規定路線でもあった。義理の母が亡くなった時には、義理の父のたっての依頼で、生前葬を行った。個人的にはご本人の希望であるので、生前葬もしているので、それでもいいかなぁと思っていたら、やはり葬儀は遺族のためということもあり、義父の死後に葬儀を改めて行うことにした。

 

義理の父は、3月に盛大な誕生会を親族全員がそろって実施し、ご本人は大変ご満悦であったのであるがその後体調が急変し、危篤状態も覚悟ということでウェイティングがかかった。よもや、急にということがあってはいけないので、いつ何時葬儀があってもいいように、キリスト教書店に葬儀用のパンフレット用紙をミーちゃんはーチャンは、2種類(葬儀とその前に行う前夜式のため)買出しに行ったりした。家内はそのパンフレット用紙にフィットするように、事前に式次第をワープロのファイルで準備したり、葬儀社を探したりしていたが、その後義父は回復したり、悪化したりと、一進一退を繰り返し、7月中旬、平成27年台風11号が四国地方に接近し始めたころ、という中息を引き取った。

 

家内は、葬儀の日時を葬儀社と電話で相談し、葬儀日程の概要を確定させ、そして、当時大学生だった娘や息子の各種授業日程や試験日程等と調整しながら、現地での回収場所の予定と集合時間等の相談をしていった。このとき、平成27年台風11号(Nangka)が四国地方に近づきつつあり、その日に出発するか、翌朝出発するか決断を迫られた。

 

Nankaの予想進路

 

この訃報を受けた日はすでに気象警報が出ていて、実質的にその日は講義日ではなくなっていた。自宅で論文作成作業をしていたが、連絡を受けてすぐ、年休を申請した。そして午後3時ごろから、これからの家族の集まった時の諸般の対応に備えて、コストコに行って、皿、コップ、おはしなどのディスポーザブル食器、ベーグル、ポテトチップ、ナッツ類を買い込み、さらに、1週間分の旅行セットを車に積み込み、作業用のプリンター、作業用のPCおよび予備のバックアップPCを車に積み込んで、出発するころには19時を回っていた。

19時ごろには、まだぱらぱらと雨が落ち始めていた。台風は進行方向の東側が風雨が強く交通に支障が出る(実際にそれで翌朝、阪急京都線は翌日午前中桂川の増水のため、一時運行停止となった)ことを予見したので、今なら、途中で台風の暴風雨圏に近づいても、自動車の移動速度を考えれば、台風の中心の北側を掠めるようにして西側に出られるはずだから、と19時少し過ぎに出発。

 

出発日の翌日の早朝3時ごろに自宅兼教会の会堂部分に搬送されてきていた遺体と対面。そして、翌日の19時ごろにはほぼ主要メンバーがそろうことが判明したので、19時からに仏教式葬儀での通夜に当たる前夜式開始を決定。葬儀社と打ち合わせをしつつ、葬儀用のパンフレットの修正。印刷は業務用の高速プリンターを持参していたことと、印刷自体は家内が出発前に担当してくれたので、ずいぶん助かった。葬儀社が会堂をそれらしく花などで飾ってくれ、献花などが運び込まれる。とりあえず納棺の儀式はどうされます?と、午前11時前に葬儀屋さんから聞かれたので、とりあえず、詩篇23篇など複数の聖書箇所を読み、簡単な祈祷をし、そして祈祷をして終わる。その後、後発で到着した大学生の長男と長女を近くのバスターミナルまで迎えに行ったりしていた。

 

ちょうど、台風が日本海に抜けたころ、そうこうしているうちにご近所にいる、家内の昔の友人がたまたま通りが借り、ご訪問してくださったのと、家族の関係者一同がほぼそろったので、17時くらいから、葬儀のリハーサル。信徒さんでない家内のご友人がご滞在されていたので、当初予定になかった葬儀説教は省略する予定であったのだが、まぁ、略式の葬儀説教を急に実施することになり、10分くらいの葬儀説教とリハーサルを執り行う。そして、リハーサルというか、一応の葬儀のようなものを終了した後、食事をお弁当屋に買出しに行ってもらったものを食する。その後19時ごろから前夜式を執り行い、19時40分には終了。そして、宿泊地に向かったのが20時30分ごろ、もうへとへとであった。

 

翌日は9時すぎに教会堂に入り、10時30分ごろから葬儀の実施を試みるも斎場の関係で、最後の列席者が東京から到着するのが待てるかどうかを判断しながら、どうしても斎場との約束の時間に間に合いそうになかったので、ぎりぎり見切り発車で葬儀を着手した数分後に最後の参列者が到着。開式、賛美、祈祷、聖書朗読、葬儀説教、賛美、祈祷、親族代表挨拶、閉式宣言と実施し、その後斎場に向かう。斎場でも、もう一度聖書朗読、祈祷、賛美をして、後は食事。そして、今からなら墓地への埋葬もOKということで、急遽墓地に向かう。そして、納骨式をも済ませ、ここでも聖書朗読と祈祷。終わったら17時回っていた。そして、その後、関西方面に帰宅するという親類を小倉駅まで車で送って、そして宿泊地に向かう。もうヘロヘロであった。よく居眠り運転もせず、事故も起こさなかったものだと思う。

 

今回、外部からの牧師を招聘せず、完全に家族中心で葬儀を実施したのは、義母の時、葬儀を依頼したあるバプティスト派の牧師が、救いの文化に基づいた下記のような極端に単純化された図式化されたものを利用しながら、葬儀説教でありながら死後の裁きを葬儀で延々語るということをやらかしてくれたので、そんなことなら、そもそも頼まない方がよほどましだったということもあったからである。

 

葬儀で掲げられた救いの文化に基づく図解の1バリエーション

 

実際に葬儀をやってみると一番大変だったのは、葬儀説教そのもの(まぁ、これも時に胸にぐっと迫るものがあって大変だった部分は少なからずあった)よりも、その前後のさまざまなことの調整とロジスティクスであった。まぁ、義父の時には、ほぼ親族プラスアルファの参列者で、列席者も少なく、PAも大掛かりでなくよかったこともあり、かなりその部分の調整がいらなかったこと、家内が事前に印刷などの準備してくれていたこともあり、ある程度事前に準備ができていたので、ロジスティクスが大変で、大変でということはあまりなかったし、葬儀が始まれば始まったで、あとはプログラム通り、淡々と流れていくだけであり、案外あっけないなぁ、と思ったところはあった。もし、このタイプの準備がなくて、牧会者一人でやってくださいといわれると、かなり大変だと思う。

 

葬儀の場での大変さと信徒ロス

まぁ、多くの牧師さんは、関西から葬儀地への長距離の往復がないくらいで、実際にロジスティックスを含め一人でやるとなると、その忙しさは想像するに余りある。まぁ、宣教師たちがいたころには、この手の葬儀説教は宣教師がしてくれていたのと、いろいろ宣教師に相談しながら、宣教師の補助みたいな形で、お手伝いする形であったのであろうが、実際に説教の準備(個人についての聞き取りの必要がなかったので楽であった)、式次第の準備、遺族への対応(これは親族であるので、そこまで大変ではなかった)、葬儀業者との打ち合わせ(これは事前に家内が大半済ませておいてもらったので楽であった)があった。

 

一番閉口したのは、いろいろと知ったかぶりで口を挟む人への対応(葬儀後に、もうちょっとで、忍耐力が切れる直前までいった)であり、この辺、大きな教会になると「船頭多くして舟何とか」ではないが、親切心からとはいえ、過去の伝統とか過去の事例とか、「いつのころの話や・・・」といいたくなるような話を出す人とかがおられて、その辺も結構大変なんだろうなぁ、と思った。

 

さらに言えば、牧師さんの在任期間が長く、苦楽を共にした信徒さんだと、思い出がありすぎて、思いだされて、讃美歌が歌えなくて困るという状態や、説教中に胸に迫るものがありすぎて、説教ができなくなる、というようなことが起きてしまうだろうと思った。外戚の親族でも結構きつかったが、毎週日曜日長年共に集い、これが関係を深めてきた信徒さんの葬儀となると、牧会者であったとしても、下手をすると肉親よりも付き合いが深い場合もあるわけで、そういうことがあると、結構きついだろうなぁ、ということを感じた。

 

まぁ、遺族も親族が突然いなくなることでパニックを起こしておられて、その方々のための葬儀という面もあるが、長年付き合ってきた信徒さんを失う中での葬儀、ということの厳しさは、牧師さんに取ってきついだろうと思う。先日のある所での研修会でも、そのタイプの話題が少し出ていた。

 

牧師ロス

まぁ、長年その教会で苦楽を味わった牧師の方が亡くなるのは、信徒に取って精神的支柱というか霊的な支柱ともいうべき存在を失うので、教会に取って結構厳しい経験にもなるように思う。

 

一度お邪魔した教会で、80歳近い牧師の方が相当長期間牧会しておられる教会にもお邪魔したことがあるが、結構ご体調がすぐれない中、説教をしておられるのを見て、これは、この牧師さんがなくなったら、結構大変なことになるかもなぁ、と思っていたら、その牧師さんの訃報が風のうわさに流れてきて、今はどうなっているんだろう、と思いめぐらしている部分がある。

 

あるいは、牧師の転出も、信徒に一種の牧師ロスという状態を生ぜしめるし、また、長らく牧会された方が転出されると、聖書理解はそう違いがなくても、新しい牧師の人のカルチャーとか、雰囲気とか、物事のすすめ方といった文化の部分で摩擦が生じるように思う。最近の投稿でも少し触れたが、人間には内的な慣性[心理的、精神的、霊的な慣性]は確実にあるので、それが変わると不安に思ったり、調整がうまくできなくなる人がおられ、ひどい場合にはパニックを起こすことがある。その意味で、牧師の交代(転勤)や、在職中の死亡というのは大きなショックを与えることが多いようにも思う。属人的なものを全く教会内から排除することはいかがかと思うが、それに依存していろんなことが決まっていくのも、なんだかなぁ、と思うし、そのあたり司牧と教会の付き合い方、そして、キリスト教という枠組みの中でどう考えたらいいのか、ということをボーっと考えている。

 

 

洗礼や結婚式の司式の経験なく、

葬儀司式の経験だけが積み重なっていく牧師

教会の高齢化を考えると、都市部に赴任している牧師でも、そのうち、葬儀の司式経験だけが積み上がっていく若い牧会者は増えるだろう。葬儀の数と洗礼の数を数えてみれば、圧倒的に葬儀の司式回数の方が多い牧師がそのうち主流になるはずである。教会内人口ピラミッドを考えれば、あと20年くらいのことを考えると、礼拝を除けば司式した儀式が葬儀が圧倒的という牧師の方が続出し初めても全くおかしくないと思う。

 

ことに都市周辺部では、結婚式の経験や洗礼を授けた経験がなく、葬儀説教の回数がやたらと多い牧師先生はぼちぼち生まれ始めている。これは、その牧師の責任ではないのではないか、と思う。そもそも、高齢者が現在の多くの教会では若者に比べ、かなり多いのであるし、今の教会の人口逆ピラミッドを作っていったのは、前任牧師であったり、その教会の会衆自体の部分があるのではないだろうか。それをたまたまその時に居合わせた牧師の責任だけかのように言うのは、いかがなものかと思う。

 

そのうち、葬式仏教という批判がそのままキリスト教に当てはめられ、教会で葬式ばかりやるようになって、葬式キリスト教といわれることも時間の問題かもしれない。まぁ、それが悪いとは言わない。現代の日本の年齢別人口構成を考えればそうならざるを得ない野はある面当然だろう。

 

ところで、戦国期に無縁化した人々の葬送にあたったのは、高山ユスト右近君もそうであった。また、古代ローマ時代のキリスト教でもそのような側面はあったのだと思う。まぁ、葬式キリスト教といわれるようになったら、ある面、東アジアに定着した、あるいはキリスト教は土着化したといえるのかもしれない。問題は、その中で、神が地上に来た、そして、神は人ともに生きることを求め、神との関係性をどう深めていくのか、ということをどのように伝えられ、それを地上の生の歩みの中で、人々の生活の中に一体化したものとしてご提示できるのか、ということではないか、と思う。

 

 

この項単発記事。

 

 

 

 

 

 

 


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今回は、8月末の記事 神学的フランケンシュタインの登場は要らないかも から派生した記事の続きであり、いよいよ結論部分である。一致と一体の議論に少し踏み込んでみたい。そして、接合と融合の違いの先にある一致や一体化の問題やアイデンティティの問題についても、今日少し触れてみたい。

 

第2回の記事で、根本的なものが違うものを一緒にできるのか、という議論をご紹介した。その真意は、基本的に一時的な気の迷い、一時的な世の中の動きに反応して、それをとりあえず瞬間的に借りてきて既存のものに接合することが可能であるかどうか、ということは無理ではないか、ということをご紹介したに過ぎない。そして、第3回で、くっつけるといっても、接合(Adjuction)もあれば、融合(Fusion)もあり、接合と融合は等しくはないこと、そして、霊的なものの場合、融合(Fusion)を伴う可能性がある以上、案外安易な接合は難しいことをご説明してきた。

 

今回、まとめる(そうしたい)にあたって、最後に、この種の議論で混乱する原因になっている同じということについて、同質あるいは斉一性(Uniformity)とは何か、同質あるいは均質(Homogeneity、あるいはIdentityの問題とUnityのという概念に少し触れたい。そして、霊性における共通性というか、一致ということについても、触れてみたい。

 

 

同じとは何か

同じとは、完全に同一のことなのか、一部を共有しているということなのか、あるいは、限られた一部が接していることなのか、限られた部分で共有がなされているのか、異なるものがある程度の近傍にあることなのか、異なるものが一体となっていることなのか、一部が類似していることなのか、これらの状態に関する定義があいまいなまま使われることがあり、ある単一の話者をとっても、”同じ”が指していることの間にかなり揺れがあることがみられる。あるときは一部を共有していることで”同じ”という語が使われることがあり、寸分たがわず同じことを指して”同じ”という語が使われる場合もある。あるいは、なんとなく類似性があるという意味で”同じ”という場合があり、一人の話者が使う”同じ”という割と単純な語一つをとってもその意味合いは話者ごとに、また同一の話者でも時間が違うと違っている場合は多い。

 

例えば、”同じ”高校を出た、という場合の”同じ”は一部の文化的共有の可能性や異なるものが近傍に存在したことを暗示するし、同じ生産ロットで生産された血液製剤の場合の”同じ”は、基本的に内容と品質に(含有ウィルスを含め)おける完全な同一性を示すのである。しかし”同じ”という語が使われている。あるいは、マクドナルドのチーズバーガーはどこで食べても”同じ”であると我々は漠然というし、どこで食べてもいつも同じ味といって同一性の代表例のように言うが、厳密には、1個1個のチーズバーガーは、ある程度の同質性はあるが、分析の精度を細かくすれば、マスタード多め、とかいうような特別の注文しない場合でも、マスタードの量も違うし、レタスのサイズは違うし、ケチャップの量も違うはずである。厳密に言えば、ある許容範囲の中にあって一定の枠内では同質的であるという意味で、そしてその許容範囲の幅が小さいという意味において”同じ”であるといっているに過ぎない。

 

キリスト教が同じ神の霊(聖霊、聖神)を共有するといっても、それは臨在を一部共有するにすぎず、その聖霊が人間に働くときの働きのこの地上における現れ方はかなり違う。普段通っている教会の教派は、教会の所属する包括的組織(例えば○○教団)が同一であっても、教会の信徒の生活での神とのかかわり方は完全コピーの意味で”同一”であるかといわれれば、そうではないことが多い。全体の傾向性の類似性において、例えば、日曜日の儀式の順序においてある程度の共通性はあるが、説教は教会ごとに違っているし信徒の神とのかかわり方も、個別の教会ごとどころか、信徒ひとりひとり、完全に同一ではないので、厳密に言えば違うことになる。

 

それを”同じ”という言葉を用いてしまって、ある程度のブレがあっても、一定の原則に従っているだけのものを”同じ”という語を使うところにそもそも論としての混乱の源があるような気がする。本当はみんなちがっているのに、いくつかの共通点を持つから同じといっているに過ぎないものを、無理やり同質化してしまうところに混乱の源があるように思うのだ。それは、先日の記事で言えば、一部の南米の教会分類学的には、ペンテコステ派に分類される教会での礼拝の様式の一部とある部分の信徒の神とのかかわりの意味での生活スタイルと信仰の表現スタイルに関して、包括組織においてカトリック教会に含有される一部の教会での礼拝の様式の一部と相当部分の信徒の神とのかかわりの意味での生活スタイル、信仰の表現スタイル途に関して、一部のペンテコステ派の信徒の皆さんとカトリックの中での信徒さんの間にかなりの共有部分があるという意味では、”同じ”である可能性が高いという観測がなされているだけに過ぎないのではないか、と思う。より具体的には、両者の信仰理解の内実まで同じであるかというと、そうは言いきれないだろうと思う。なぜならば、ペンテコステ派の皆さんとカトリックの皆さんでは、イエスの母マリアに対する理解や聖人と呼ばれる過去の信仰者に関する理解はかなり違うはずであるからである。個々人、ないし個別教会での神の霊とのかかわりと神の霊とのかかわりが地上生活において表現されて、観測可能になったどの部分をどのように見るかによって、”同じ”ということの議論は異なってくるように思うのである。

 

つまり、信仰の表現としての一定のブレを含んだ類似性があるという意味で信仰者の行為における”類似性”がある程度であって、いわゆるJIS 企画やANSI規格に従う製品群のような”同一性”であるとはいえないと思う。

 

人間は同じという暴論、信仰者は同じという暴論

人間は同じだ、という暴論がある。確かに、形状として認識されやすい手の数とか足の数とか足の指の手の指の数とか、鼻の穴の数とか、頭の数は同じかもしれない。しかし、その程度の類似性であって、年齢も秒単位で考えれば違うのであり、髪の毛の数も違うのであり、体調も一人ひとり違うはずなのだが、それを一纏めにして同じだというのは、個人的にはかなり精度が荒いいい加減な理解に過ぎないように思う。

 

それと同様に、というよりはそれ以上に信仰者の信仰は同一ではないし、同質でもない。一人ひとりの神とのかかわりはかなり異質なもののはずなのである。イエス様自体、次のように言っておられる。

 

【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
 15:1 わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
 15:2 わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がすべてこれをとりのぞき、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れしてこれをきれいになさるのである。
 15:3 あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。
 15:4 わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。
 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。
 15:6 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。
 15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
 15:8 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。
 15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
 15:10 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
 15:11 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
 15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。

という部分でブドウの枝、ということで個別性を示しておられるようにも思うが、枝としての個別性を持ちつつ、イエスにつながっていることで、共通性の存在をも示しておられるように思う。枝ひとつとっても、その陽当りは枝一本ごととってみれば微妙に違うように、実はキリストの内にあるという意味ではある程度のつながりがあるものの、実際には多様なのではないかと思う。

 

普通は、イエスにつながっているという主張で理解されたり、説教の主題とされることが多いようだが、この部分をもう少し思いめぐらしてみ、説教のようなものをしたことが以前にある。ここでの話をもう少し考えてみれば、もちろん幹と枝との関係も大事であり、それがこの部分の主眼であるともいえるだろうが、実は、枝同士の関係もあることを暗示しているように思うのだ。枝が幹につながっている以上、枝は他の枝からの影響を受ける。あるいは近接性があり、幹を介して枝がつながっているということは、枝同士の関係もある。例えば、ある枝で病原菌感染が発生すれば、他の枝にもそのうち伝染する。このようにして、実は枝と枝同士は関係しているのであり、幹と枝という関係だけでなく、枝と枝の間の関係もあるように思う(これがいわゆる共同体性のメタファーになっていると思う)が、どうしても、幹と枝という部分に関心が集中するような説教がなされることが多いように思うが、実は、このたとえ話、メタファーは枝と枝との間の関係もよく考えれば含んだ話になっているように思う。

 

また、第1コリントの著者は次のように書いている。

【口語訳聖書】コリント人への手紙第1
 12:1 兄弟たちよ。霊の賜物については、次のことを知らずにいてもらいたくない。
 12:2 あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれて行ったことは、あなたがたの承知しているとおりである。
 12:3 そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。
 12:4 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。
 12:5 務は種々あるが、主は同じである。
 12:6 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
 12:7 各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。
 12:8 すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、
 12:9 またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、
 12:10 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。
 12:11 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。
 12:12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。
 12:13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。
 12:14 実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。

 

と多様であることをかなり重視してお書きである。まぁ、経営学で一時はやった話に組織サイバネティクスという話があるが、基本的には企業組織における一体性と多様性を扱おうとした議論(人体をメタファーにしながら経営組織体を考える概念ともいえるが、これは組織サイバネティクスに関するかなり乱暴な表現)であると考えてもよいかもしれない。

 

特に、第1コリントの

 12:4 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである
 12:5 務は種々あるが、主は同じである
 12:6 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである
 

という部分は大事ではないか、と思う。なお、この第1コリントでの同じは、共通性という意味での同じであるし、共有部分を持つという意味での”同じ”という語が用いられているのであり、斉一、行動や観測可能な点以外の部分でも全ての観点から全く同一ではない。そもそも、多様性を認めた上での共通部分としての神と御霊の存在がある、という指摘であるとおもう。

 

 

こんな感じの同じ(働き蜂みないなものの集合体)は気持ち悪い

 

https://bishopmike.com/2015/01/10/january-18-2015-is-epiphany-2b/から(この場合は暴力による一致かも)

 

さらにガラテヤ人の手紙には

【口語訳聖書】ガラテヤ人への手紙

 3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
 3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
 3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

 

とあるが、ここでの一つは、基本的には共通部分を指しているのであって、それぞれに違いはあるけれども一体という意味であろう。加えて、エペソ人の手紙にはこうある。

 

【口語訳聖書】エペソ人への手紙
 4:1 さて、主にある囚人であるわたしは、あなたがたに勧める。あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き、
 4:2 できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、
 4:3 平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。
 4:4 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。
 4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
 4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。
 4:7 しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。

 

ここでも個別性を認めながら、共有部分としての神があることを示している。なお、このあたりに関しては、ロイドジョンズ先生の『キリスト者の一致』または"Christian Unity"が大変参考になるし、大学を卒業して間もなく、最初にこの本を読んだ時には感動のあまり鳥肌が立った記憶が未だに忘れられない。ここで、くだくだミーちゃんはーちゃんのくだらない所論を述べるまでもなく、『キリスト者の一致』(上下)を読んでください、とかいえば済む話ではある。あるいは、ナウエンの『今ここに生きる』にも、車輪をメタファーにしたキリスト者の共同性、一体性、中心性ということに関して、類似の話が出てくるので、それを参照してください、といえば済む話といえば済む話ではある。

 

 

同一あるいは斉一性・均質性、一致と

アイデンティティとは何か

さて、ここまで神を信じている神の民という同一の枠内におかれているだけで、その内実はかなり多様だ(それは神の霊の地上における表れにおいても多様であるという意味)という点を強調して来たが、なぜ、ぐだぐだとくだらないミーちゃんはーちゃんの愚論を述べてきた理由は、時々、一致していれば同じであるはずであるという議論がキリスト教会の一部にはあるからである。

 

Clarence BassというDispensationalistに関するアメリカ人が書いた書籍を読んでいた時に出てきた表現であるが、このDispensationという概念、ディスペンセイション主義という19世紀に概念を確立したJohn Nelson Darby(ジョン・ネルソン・ダービー)に関して、Derbyが Unity と Uniformity を混乱していたらしい。そのことをクラレンス・バスという人はBackgrounds to Dispensationalism: Its Historical Genesis and Ecclesiastical Implicationsで指摘している。その結果、このDarbyの影響をかなり深く受けているWatchman Neeにも、そしてその後継者たちにも、この問題は教会論の点でかなり影響しているように思われるが、個人的には、Watchamen Nee研究をしたことはないので、正確なところはわからない。あくまで印象の話である。

 

同一あるいは斉一性(Uniformity)とは何かであるが、これは工業製品ないし鋳型ないし同一の金型で制作した工業製品のように鋳型や金型、規格が同じであることなのだろうか。どうもDarbyが言ったことは、教会が一致しているなら、その結果として同一の金型で生産されるプラスチック製品がすべて同じであるというようなものだと思う。残された文書類を見る限り、ダービーにはこの同一性と一致が混乱した理解へのかなり強いこだわりがあったように思う。またある意味で、一致とは、同質性あるいは均質性(Homogeneity)を生むものであるとDarbyは考えていた、といってもいいかもしれない。

 

たしかに、この種の同一性は近代の社会で人間についても前提とされたものであり、個別性の側面は誤差に無理やり押し込んでしまうという側面があったように思う。そして、みんなやればできる子(YDK)こというわけのわからない概念にもつながっていると思う。

 

 某政治家やその方が属していた政党の方々が、時々日本人単一民族説というのを唱えられることがある。あるいは、日本人なら、アスリートなら、…であるべきだ、とある種の『べき論』で物議を醸される(というかマスコミが勝手に騒いでいるだけかもしれない)ことがあるが、根本的に、このある種の『べき論』というのが、近代を支配した個別性を無視したかなり無謀な議論であるが、それが五臓六腑にしみわたるほどの教育をしたのが、1940年頃からの日本の初等中等教育である。この結果として、無理やりに朝鮮半島を日本に併合したにもかかわらず、朝鮮半島で日本語教育をし、学校内での日本語教育を徹底しようとしたし、日本国内では、小塔中等教育で、方言を劣ったものとし、方言を撲滅し、標準語で統一しようとした(今でも某国営放送局では、そのような側面が感じられる)部分があるように思う。まぁ津軽人と薩摩人がそれぞれの地ことばで話し始めたら、意思疎通に困難が生じるのは想像に難くないが。それと極めて類似した『べき論』がキリスト教会の一部で公然と主張されることがあるが、それは個人的にかなわないと思っている。そんな人間がすることを『べき論』で鼻で息をする人間が縛っていいことなのだろうか。本当に。

 

 ところで、逆にUnityとかIdentityの問題とは、共通部分を持つ、あるいはそもそも人は別々なので、無理やりに一体感持たせる、ということではないか、と思う。他国からの移民でほぼ出来上がってきたアメリカ合衆国では、それぞれ個別性が日常生活では強調されること(Land of Freeという標語が代表的)もあり、ある面、国民としてのアイデンティティを何らかのものとか概念とか言葉に依拠させて保持させせざるを得ないのであり、そのために、国旗とか国家とか宣言の共通化が必要なのであり、United States of Americaとならねばならんのであるし、あるいは、国民統合の象徴として4年に一度選挙する大統領選挙が重要なのである。そして、その大統領選挙をに国民揃ってのお祭り騒ぎにするのだし、その大統領が言えば、アメリカがある面で、Unite We Standとなるのである。

 

 

以下の動画は、アメリカの国民的行事のSuperBowlでのAmerica Beautifulのシーンである。

Super Bowl 48 Queen Latifah "America the Beautiful" (Fox Sports HD)

44秒あたりから胸に手を当ててSaluteしている男性の隣の女性がなんかしんどそうに立っているのにもかかわらず、テレビ(会場内のビッグスクリーン)に写っているのを見て、驚き興奮するさまが面白い

 

なぜ、民間のやっているSuperBowlでアメリカ国家ないし準国歌が流れるかというと、Super Bowlも国民の一大関心事であるスポーツ行事であるし、普段は州ごとに見事にバラバラにやっているけれども、自分たちは一つのアメリカ国民を形成していることを意識する瞬間であるからなのだろう。その意味で、普段がバラバラを旨とするアメリカ国民の統合の象徴としての国歌というか準国歌としてのAmerica the Beautifulという歌が歌われるのであろう。あるいは、アメリカの多くの小学校の低学年では、ほぼ毎日やるPledgeであるのだろうと思う。なお、Pledgeを年に数回しかしない教室もあることはあるが、少数派である模様。

 

どこぞの小学校のPledge of Allegiance

 

 

つまり、彼らは、このPledgeというのを国民統合の象徴として言わなければならないほど、基本的にはバラバラで共通性がないことを前提としているようにも思う。その意味で、Identity、一つの概念を共有するという意味でのアイデンティティを持たなければならないということなのだと思う。アイデンティティの共有において、一致せざるを得ないのだ。

 

まぁ、成文祈祷とか、主の祈りも、普段はバラバラだけど、でも僕たちは一つだよね、という確認のためではないか、と思われる。

 

成文祈祷といえば、最近、ほぼ毎週行っているアングリカン・コミュニオンの祈祷文に普段はバラバラだけど、でも私たちは一つだよね、ということを確認させてくれる非常に美しい祈祷文がある。最初これを声を発して自分自身で言ってみたとき、鳥肌が立った。

 

(前略)
司祭:
We break this bread
to share in the body of Christ.
全員:
Though we are many, we are one body,
because we all share in one bread.
(中略)
司祭:

Jesus is the Lamb of God
who takes away the sin of the world.
Blessed are those who are called to his supper.
全員:
Lord, I am not worthy to receive you,
but only say the word, and I shall be healed.

 

(後略)

詳細はこちら

https://www.churchofengland.org/prayer-worship/worship/texts/principal-services/holy-communion/orderone.aspx

 

 

 

他派のキリスト教の伝統を導入できるか問題と

アイデンティティ

たしかに、キリスト教という枠内をどこまで設定するか、それを共有できるか問題というのが、この連載のした意図の中心にあるし、それは、他派のキリスト教の伝統をどこまで自分たちのものにできるか問題とかかわっているように思う。アメリカ合衆国が多様である以上にキリスト教世界は多様である。そのアイデンティティはナザレのイエスとその神性であると思っている。それを否定し始めたり、別のものをアイデンティティとし始めるといろいろ怪しくなってくる。

 

そもそも、古代教会のちょっとあと、古代教会時代からより正確に言うと、公会議と呼ばれるイベントが始まってから、いろいろな教会が分離させられたり、まぁ、一緒にやれないかも、と分離していったりしているが、それはナザレのイエスとその旧約聖書理解とかいった基本的な部分では共通性は持つものの、その基本的な部分から少し離れたあたりから、一緒にやっていけない程、違いが出てきてしまったからという理由で分離しているの出はないか、と思う。それはそれでよいと思う。そもそも、人一人づつ違うからである。但し共通しているのは、神と、ナザレのイエスと、ナザレのイエスが与え給うた神の国とその保証としての聖霊、聖神、御霊であり、これは、キリスト教のアイデンティティといっても問題はないのではないか、と思う。

 

それをみな同じキリスト教であるから、と『べき論』で目に見える部分での行為を制限し始めると、おかしなことになるようにも思う。それは見る視点が違うのではないか、少なくとも焦点を合わせるべき場所が少し(いや、かなり)ずれているのではないか、と思うのだ。

 

アイデンティティといっても、キリスト教の世界におけるアイデンティティは、共有部分を持つというアイデンティティであって、完全に同一、完全に行動においても斉一であるという意味でのアイデンティティではないように思うのだ。そもそも、多様性を前提として聖書の中では一致とかアイデンティティが語られている可能性が高いことは既に触れた。その意味で、みんなが完全に斉一ないし同一行動をする、というような意味でのアイデンティティではないように思う。

 

このことは、他のキリスト教会の伝統にどう取り組むかを考える際に、自派の伝統や自己の霊性とどこまで共通部分があるのか、どこまで受容可能であるのか、どこを共通部分として捉えるのか、ということをまず考えた方がよいということを、これまで申し上げただけであり(それにしてはくどいという意見はあるが、それだけ大切なことなので、くどくどとご説明申し上げたつもり)、その共通性のないものを無理やり一時的に結合する、あるいはくっつける行為をフランケンシュタインと暴論を申し上げたまでである。

 

もし、個人の信仰生活の基礎になるほど定着し、その人の人格や信仰生活と融合しているのであれば、最初は見様見真似で始めたのであろうと、あるいは一時的なものとして借り物として始めたものであろうと、もうそれは一つの独自の霊性を個人の中で構築しているといってよいと思っている。そして、それは大切にされた方がよいと思う。なぜなら、神は一人ひとりに聖なる方を、聖霊を、聖神を与え給うたのであって、そして、その聖なる神を通して、既に来ている目に見えない神の国を我々にお与えになったのであって、これからやがて来る神の国の予行演習というか、やがて来る神による完全な回復がなされる神の国を現在の地上で限られた形で。神の憐れみの内に味わせて頂いているに過ぎない。要は、他人から強いられての霊的変容ではなく、十分に熟知した上での霊的変容と何でも霊ならば信じてよいわけではないし、他人で成功したものが自分でも必ずしも成功するとは限らない、ということを十分お踏まえになられたうえで、それぞれの個人に適合する霊性、別々の異なり、貴重な存在として神から与えられているご性質を十分に反省し、思いを巡らせられたうえで、神とのかかわりが深まるように、神との関係を深める様に霊性をおはぐくみいただきたい、ということである。

 

神は、その意味で多様性を喜んでおられる方であり、その中心に居られることを喜んでおられるのであって、以前紹介した北朝鮮や旧共産圏の軍事パレードでの行進や軍事教練の様な斉一行動を喜んでおられるのではないのではないか、と思う。まぁ、確かに斉一行動がとれているという意味では、ある種の整っているという意味での美しさがあることは認めるが。

 

余談であるが、個人的には、運動会でこの面白くも何ともない行進の練習を暑い中何度もそれこそ嫌になるほど(実際に嫌になった)やらされるので、そもそも運動が嫌いなうえに、さらに運動会が大変嫌いなものとなった。ある時教会の中で運動会は楽しみですね、といわれて、世の中に運動会が楽しいと感じる人がおられる、という事実が判明し、基本的に信仰者は同一であるということが信じられないほどになったことだけはここで一言申し述べておきたい。

 

 

今はなき神宮外苑での学徒出陣の行進(こんなのは嫌だなぁ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

評価:
D.M.ロイドジョンズ
いのちのことば社
---
(1991-06)
コメント:もう一度、出版されないだろうか。いい本なのに…

評価:
D.M.ロイドジョンズ
いのちのことば社
---
(1992-02)
コメント:いい本なのに、もう一度日本語版が出ないだろうか。

評価:
David Martyn Lloyd-Jones
Baker Pub Group
¥ 2,865
(1998-03)
コメント:大変よろしかったと記憶します。

 

 


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今回は、8月末の記事 神学的フランケンシュタインの登場は要らないかも から派生した記事の続きであり、いよいよ本論部分である。一致と一体の議論に少し踏み込んでみたい。そして、接合と融合の違いについても、今日少し触れてみたい。

 

前回の記事で、根本的なものが違うものを一緒にできるのか、という議論をご紹介した。その真意は、基本的に一時的な気の迷い、一時的な世の中の動きに反応して、それをとりあえず瞬間的に借りてきて既存のものに接合することが可能であるかどうか、ということは無理ではないか、ということをご紹介したに過ぎない。

 

無意味に接合することと不協和音

音楽の世界で言えば、不協和音の世界と似ているかもしれない。周波数が合わないもので和音を組むと、不協和音になる。もちろん不協和音を楽しむ(この感覚はミーちゃんはーちゃん個人にはあまりない)音楽も世の中にはあるらしい(ヘビーメタルの一種やクラッシックにもそれがあるらしい)。

 

モーツアルトの不協和音

 

鉄道のチャイムでの不協和音

 

 

アンパンマンソングでの不協和音(良い子は再生しないように)

 

 

和音が成立するためには、周波数が一致しているか、倍数関係にあることが求められる。これが倍数関係にないと、共振がおきにくくて、音が濁る、音が相互に消し合う、効いている方がイライラする、不安に陥る、という効果を生み出す。そういえば、火曜サスペンス劇場とかのドラマやホラー映画では、この種の不協和音が効果的に用いられて、見ている方を不安にしてくれる。

 

その意味では、不協和音にだって意味がある。少なくとも、演奏がへたくそだということを自覚させてはくれる(私はこれで楽器演奏が嫌いに…)し、あるいは、不安感をあおるうえでは実に効果的である。不協和音は悪いことばかりではない。

 

ところで、橋梁とかビルとか船舶などの構造体での不協和音と類似の原理が用いられることがある。というのは、構造物の振動問題に対する安全性を増すためにわざと不協和音ではないが、部材の振動数を変えているのである。下記の動画で紹介するタコマ橋というのは、土木工学の中でも近代の橋梁工学技術を大きく変える事件を起こしたのだ。風の周波数と、橋梁の周波数が、倍数関係になったため、下の動画で示すような振動による落橋事故を起こした。風とその周波数が、巨大構造物であるタコマ橋を落としたのである。

 

落下するタコマ橋梁(当時のアマチュアの8丱侫ルムを接合した映像)

 

美しかったタコマ橋

 

このように、周波数が合う、あるいは、周波数が倍数関係になると、音楽や設計では美しさになって出てくる場合があるし、構造物になると破壊につながる場合がある。

 

現代の明石海峡大橋やダーダネルズ海峡大橋では、この種の巨大橋梁の周波数問題は十分検討されており、実際には周波数の異なる複数の大きめの構造体を複数組み合わせることで、タコマ響の様に主構造体全体で共振が起きないように設計されているし、様々な周波数の実験的な風に相当するものを風洞内で模型にブチあて実験して安全性が確保されるようになっている。基本的には風の周波数による共振のみで崩壊するようにはできていない。

 

あと、共振という現象としては、津波も同じである。前にもこのブログで書いたような気がするのだが、津波も波動である以上、周波数問題を含む。あまり知られてないことであるが、津波が起きる湾にも周波数がある。東日本大震災の津波被害で明らかになったように、ほぼ近くにあった湾でも、ある湾では被害が大きく、ある湾では被害が極端に小さかった例がある。これは、地形要件としての湾の形状が持つ周波数と、津波の周波数が共振を起こしたかどうかの違いであるように思う。

 

あと、中学生のころ鉱石ラジオをお作りになった方はわかると思うが、鉱石ラジオは、電波の周波数と、鉱石ラジオのコイルの周波数を合わせることで、大気圏を流れている電波との周波数をシンクロナイズさせ(周波数を合わせ)ることで、電気的に共振を起こさせ、ラジオ放送の内容を聞くのである。アンプを付けない限り、あんまり大きな音では聞こえないけれども。

 

信仰にも共通周波数との類似問題

前回の記事を書いたところ、暴論だ、というご意見を頂いた。それはそのとおりである。ある種のキリスト教なら何でも同じ、とかいうような暴論に対していかがなものか、と暴論を申し上げているつもりである。そもそも、周波数が合わないものは不協和音を起こしたりするので、気持ち悪い存在(映画フランケンシュタインに出て来るフランケン君みたいな存在)なのだが、それを無理やり、一時の流行り廃りの影響を受けて暴力的に(ガムテープでくっつけるように)無理やり接合する、結合するのは、あまりに暴力的ではないですか、と暴論を申し上げているのだ。

 

しかし、異なるキリスト教群にいながら、別のキリスト教群と共通周波数のようなものをお持ち、ないしは倍数関係の周波数をお持ちのキリスト者の方々もおられる。なお、波動云々はわかりやすくするためのメタファーとして用いていることをお忘れなく。霊的周波数があるとか、そう言う変なことを言っているつもりはない。


とここまでかいていたところで、ちょうど、南の国のコメント王子が適切なコメントをくださった。カトリック教会の中で、異言とか預言とかを大事にしておられるグループ(たしか南米の方が多いと認識している)がおられ、その方々が、プロテスタント系のペンテコステ教会との親和性が高いというご指摘をくださった。ペンテコステ派は、南米やアフリカそしてアジアでその教勢(嫌な言葉だけど、具体的には教会数と信徒数)が急伸しているキリスト教でもある。つまり、この様な場合、単純なカトリックとかプロテスタントという教会的な分類学の解像度でくくると問題を生じるが、これらの方々の場合、霊性という意味の共振部分というか共振する部分を持っていて、その波動の世界で言う共有周波数が存在するがゆえにある種ある部分での一致は可能だろうし、共同行動も可能であり、その結果として、大きな力を発揮しうる部分もあるのだと思うのだが。

 

つまり、共振しあうものがある場合、それぞれは異なる部分を内包させながら、共振させることが可能であるのであり、その面で単なる接合でもなく、単なる結合でもなく、共振可能である以上、ある種の融合が可能であり、和音を形成させることができるのではないか、と思うのである。和音は、一音一音別の分離した波動であるが、それが合成されると合成波動になるために、それから一音一音の別々の波動に分離することは特殊な装置(光だとプリズムがそれを可能にする周波数分離装置)を使わないと、分離できない。

 

教派において、あるいは信仰者個人において、この共振する部分がどの程度かによって、例えば霊性とかを個人の信仰生活に融合できるかできないか、の違いはあると思うし、融合できなければ、不協和音が起きるのではないか、と思う。人間にはいろんな声や音が出せる人がいるように、個人個人をとっても、霊性における固有周波数はあると思うが、一人の人をとっても、年代や世代によって周波数は違うようにも思う。また、もう少し短い期間をとっても個人が持つ周波数は違っているように思う。そして、時代や時に応じて周波数が違っていることがあるからこそ、共振を起こすことができ、霊性における融合というのか調和も可能になるのではないか、と思うのだ。分離できない形としての一体感を持つことといってもいいかもしれない。

 

ところで、カトリックを含む伝統的キリスト教会群は基本的な概念構成として包摂という方向性があるのに対し(したがってかなり多様なものを包摂することが可能となる)、プロテスタント(マクグラス先生のいう意味での福音派)では、基本排除と純化という方向性がかなり強いように思う。あるいは、分化や純化とか排除の方向性が強いからこそ、伝統教派と一緒にいることができずに、分離していったように思うので、そういう性質を持つ存在がどこまで自己の基本的なベクトル(方向性、周波数、基本的な在り様)を変えて、包摂的な存在になりうるのか、ということが問われることにもなるのではないか、と思う。

 

なお、マクグラス先生は『聖餐』という日本で出た講演録の中で、聖餐はEmbracement(包摂)であるとおっしゃっておられるが、これ、聞いた時には、しびれてしまった。そこまでの理解に立つ日本のプロテスタント派の教会はどの程度存在しているであろうか、とも思う。

 

 

霊的同伴とマラソンなどの併走

それは霊性においても共振や包摂と似たようなこと(同じとは言っていないことに注意されたい)が起きるのではないか、と思う。また、先にも述べたように、一人一人の人間は異なるものでありながら、尊いものとして創造されている(つまり、周波数のメタファーで言うならば、固有の複数の周波数を持った存在として創造されている)以上、あるものと融合可能な人もあれば、あるものとはどうやっても結合はおろかガムテープやアロンアルファを使っての接合すら困難な場合(表面精度と物性による)もあるだろうし、アロンアルファみたいなもので、無理やり努力して結合した場合には、その人の中での周波数と不適合を起こし、変に周波数が合致してしまうとその人自身の信仰生活を破壊しかねない破壊力を持つのだが、霊的同伴者同士、一定の共振をしつつも、変な共振が起きている可能性を外部から冷静に指摘する(たぶん、これが霊的な同伴者の役割りかもしれない)人がいないと、神が創造し給うた尊きものを破壊しかねないのではないか、と思うのだ。その破壊を未然に防止するのが、霊的同伴者の役割(たぶん霊的識別)だろう。

 

マラソン初心者がいきなりフルマラソンにチャレンジする場合や、トライアスロン初心者がトライアスロンに初めて参加するとき、あるいは、個人的には大嫌いだが、某”しなくてもいいことをして人を泣かせる24時間番組”で芸能人の素人ランナーが長距離走する場合に併走者を置くことがある。この併走者をお願するのは、併走者の存在によりペースを整えるためと、必要に応じてタオルを投げ入れるためであろうと思う。なお、中止のタオルを投げ入れるべき時にきちんと投げ入れているのか疑惑は、某”しなくてもいいことをして、人に感動を強いる疑惑のある24時間番組”においては、存在する。

 

また、個人的には箱根駅伝は見て何が面白いのか、その面白さはいまだによくわからないが、併走者を走らせ、ペース配分を指示したり、併走者から監督が続行するか否かの判断をするのと、霊的同伴はよく似ている様な気がする。その意味で、その併走者と奏者の関係は相互的だし、同伴者が誰なのか、同伴してもらう方と同伴する方との関係は極めて大事であり、時と場合によって、同伴者を変える判断もする必要があるかもしれない、とも思う。たしかにナザレのイエスは人であるが、すべての人(キリスト者)はナザレのイエスと同等ないしそれに極めて類似した存在ではなく、人間は人間であり、神ではないからである。ここは大事だと思う。

 

伴走と霊的同伴者と昔の聖徒への尊敬 

先ほど、駅伝とか、長距離走のランナーへの併走というか伴走の話したが、同じ陸上競技でも短距離走ばかりやっていて、長距離走を走ったことない人の併走というか伴走を頼むだろうか。あるいは、仮にメダリストでも円盤投げのメダリストによる指導と国内大会でそこそこしか記録を持ってなくても、過去長距離奏者だった人の指導、どちらを選ぶかといわれれば、メダリストを選ぶ人は少ないのではないか、と思うのだ。あるいは、フィールズ賞(数学の世界の金メダル)の受賞者で長距離走に関しては本を読んだだけの指導者による長距離走の指導を望む人はいるだろうか。

 

それと同じように、霊的な指導も、本を読んだだけでできる人もいるかもしれないが、ミーちゃんはーちゃん個人としては、本を読んだだけ、自分でやったことのない人を自分自身の霊的な指導者になってもらう気はない。

 

いまかなりの頻度で通っている(そして非常に現在の自分とかなり共振する部分が多いと思う)アングリカン・コミュニオンでは、今日の聖徒(通常の感覚では聖人とかいうだろうが)とその人がなしたことを覚え、思いを巡らす、という伝統があることを知ったし、それはそれで非常に印象深かった。ある面、この「過去の聖徒への思いと自己の反省」ということと、霊的同伴というか霊的指導とのかかわりは、なんか深い関係にあるように感じる(なお、そこまで霊的同伴の分野にも、過去の聖徒理解にも、それほど詳しくないことはみとめるので、ありある種の留保付きである)。あるいは、過去の聖徒たちを考えるという伝統が、行き過ぎてしまい、過去の聖徒への尊敬やその過去の聖徒がなした”わざ”への思いめぐらしを超えた、行き過ぎと思われる部分も過去にあったし、現在一部で行き過ぎのかたちでお考えの方(一種の別格扱いされる方)は、おられるようにも思う。

 

例えば、聖人の資格をカトリック教会からは、はく奪されてしまった元聖バレンタイン(現バレンタイン)などもいるが、大正のころの聖公会の聖公会要覧での先輩一覧には記載されている(聖人とは、先輩の聖徒くらいの意味だろうか)。その意味で、これらの聖徒あるいはキリスト者としての先輩の事績を思い起こしながら、自分の霊性の形成を図っていく文化を聖公会ではお持ちであった様だ。その意味で、つまり自分がなしていることを振り返るという文化は、霊的同伴を考える際に、案外カギ概念になるのではないか、とも思う。霊的同伴における霊的同伴者から働きかけつつ行う自己の霊的形成と、過去のキリスト教の歴史の中の人物の影響を受けつつ行う自己の霊的形成は関係がないとは言い難いように思う。さらにこのあたりのキリスト教会の歴史というか、伝統をどう理解するのかということは、他の教派的な伝統で育まれたものを自己の霊性に融合しようとする際には考えておいた方がよいようにも思うのだ。このあたりも先に紹介したマクグラス先生の講演記録『聖餐』では、伝統ということに触れておられる。

 

また、この霊的同伴の問題は、告解(ないし一般用語で言う懺悔)と実は密接に結びついているようにも思う。そこらの習慣というか訓練というか、文化がなく、自分自身の問題を祈り会とかの場とか牧師への相談で持ちだしたら、全員にこの祈りの課題をシェアしてくださいとお願もしていないのに、一週間後には、教会構成員全員にとっての公然の事実となっている教会(これは極端な例であるが、皆無ではないことは確か。勝手に個人の問題を公の問題としてしまう人たちは「多くの人に祈ってもらえるからいいではないか」という論理から、そうなさることが少なくないらしい)での霊的同伴というのは、そう言う個人の内面を大切に扱わない文化や傾向を持つ教会の方に「霊的同伴してあげるから、今も霊的同伴をしているからどうぞ」といわれたところで、ミーちゃんはーちゃん個人としては考えたくないと思う。

 

世の中、ミーちゃんはーちゃんが危惧する変な教会ばかりではないし、大半の教会はまともであるとミーちゃんはーちゃんは根拠なく信じているが、本ブログ記事では暴論を承知の上で、最悪の場合を申し上げている。

 

これも霊的同伴?

(確かに同伴しておられるのかもしれないけど。意味が違う)

 

接合と融合

さて、ここまで接合(Adjunction)とそれに伴う問題がある(ガムテ―プで一時的に無理やりくっつける)ことを中心に話してきたが、融合(Fusion)となると少し違うのである。一応いっておくが、よほどの小規模な橋梁でない限り、巨大橋梁は外見では、強固に結びついている様には見えるが、実際には、橋梁を構成する構造体相互が巨大な金属製ベアリングの上にのっているだけの、一時的接合によって構成されている。

 

ところで融合(Fusion)は、もともとの性質を多少なりとも維持しながら、新しいものに変性し、新しいものを生み出していき、分離不可能になってしまう、という側面があるように思う。それに対して結合(Adjunction)は、それぞれ別のもの(構造体)であり、別のもの(構造体)として維持され、最終的には何らかの形で分離可能であるという側面があるように思う。

 

他の教派的伝統で作られたものを取り入れるということにおいて、一時的な結合(Adjunction)しているつもりでも、その他の教派的伝統の中で作られたものを自己の中で統合しようとする以上、その人自身のもともと持っているものと、部分的にであれ、融合していく部分があると思う。その意味で、本人は結合(Adjunction)だと思っていても、結果的には部分的であれ先のメタファーでいう共振を起こし、融合(Fusion)になってしまっている部分があるように思う。

 

前回の記事で、翻訳ないし通訳の事例をご紹介したが、融合を考える際には、ある言語(例えば、英語)から別言語(たとえば、日本語)に変換するということを考えてみるとよいかもしれない。名訳と呼ばれるような理解しやすい通訳や翻訳の場合では、実際には融合(Fusion)が起きてしまってそもそものオリジナルの文章とは大きく違っている場合がある。だからこそ、厳密な理解にたどり着くためにはオリジナルのテキストが必要なのではないか、とも思う。

 

試しに、少し長めの和文を英文に変換して、さらに英文かしたものを和文変換してみるといいかもしれない。もとに戻らないことの方が恐らく多いはずである。一種の変質あるいは融合(Fusion)問題が起きているのである。まぁ、この問題は、こういうことがあると言及するにとどめておきたい。この融合にあたっては、単純ではなく、諸力が働くことはある程度は承知しているので。

 

この一連の記事で申し上げたいのは、一時的な結合(Adjunction)して終わり、その後、しばらく時間が立ったあとで、バラバラにして、捨て去る様な方法論と、融合(Fusion)していこうとするのとでは、同じ他教派での伝統の取り込みといっても根本的に違うのではないかと思う。

 

あと、基本的に人間には精神的にも、心理的にも、恐らく霊的にも、慣性(一度動き始めたら、しばらく同じ方向に動く性質)があるように思う。それを急に方向転換させることはできないし、それをするためには莫大なエネルギーがいるし、また、強制的に方向転換させるとそれが傷になることがある。それを考えると、融合(Fusion)させていくためには、長期間じっくりと時間をかけて融合していきつつ、最終的には変容することになることは、霊性の本のどこかにはたいてい書いてあることなのであり、それは個人的には大事だと思っているが、アメリカ文化は基本的にインスタント文化なので、そこそこのものが短期で手軽に入手できて、それがたくさんの人にわたるのがよい(一種ベンサム流)、というところがあるので、そのあたりをどうバランスさせるのか、という問題があるのではないか、という指摘するにとどめておきたい。

 

 

Fusion(核融合反応)

 

なお、融合をそれも大規模に短期間で狭いスペースでやると水爆の反応とか核融合炉と同じなので、危険極まりないものであり、ミーちゃんはーちゃん如きものの手に負えるようなものではないこともことも言及しておく。

 

 

 

次回(多分最終回)は、同じとは何か、同質とは何か、UniformityやHomogeneity、あるいはIdentityの問題とUnityのという概念に少し整理したい。そして、霊性における共通性というか、一致の根拠としての神の霊と神の創造についても、次回で一応収めたいが…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

評価:
アリスター E.マクグラス
キリスト新聞社
¥ 3,240
(2010-03)
コメント:この講演は聞いた方がいいかも。

評価:
ダラス・ウィラード
あめんどう
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(2010-03-30)
コメント:分かりにくいが、大切なことが書いてある。最低この本は皆さんお読みであろうと愚考する。

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