2017.05.01 Monday

後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(1)

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    この本が出た、というのは、知っていた。読んでみたいと思っていた。そして、新学期のバタバタで振り回されているうちに買いに行く時間と読む時間を失っていたのだが、今回、福音主義神学会西部の研究会議で販売していたのを見つけたので、購入し、読んでみた。薄い本であるが、印象深かった。

     

     

    この本を何と表しようか。早すぎる遺言、とでも呼ぼうか。あるいは、キリスト教日本型福音派にとっての自省録と呼ぼうか。そういう感じの本であった。

     

    この方のブログは読んでいる。なぜ、後藤敏夫先生が、キリスト教界であまり芳しくないうわさがながれている、今おられるようなキリスト者集団(召団 と呼んでおられるところ 恐らく、ギリシア語でのエクレシアの独自訳語であり、キリスト集会派が集会と呼び、日本の多くのキリスト教界関係者が教会と呼ぶもの)におられるのだろうか、ということは後藤先生のお書きになっているブログで薄々とは想像していたが、それがより明確に、そしてかなり明らかにされた感がある本でもあった。その点でも印象深かった。後藤先生にとっては、そうしかならなかったし、それでよかったんだ、と、今は思っている。今、後藤先生がおられるところは、無教会の流れをくみ、キリストの幕屋の系譜の中にある、ドイツ文学者小池辰雄さんが始めたグループの後継団体の一つであるらしい。

     

    無教会の華麗なる人脈

    この本には、ミーちゃんはーちゃんも知っている何人かの尊敬するキリスト者の名前が出て来る。ドイツ文学 小池辰雄さんや、直接お会いしたことすらないけど、私淑してやまない旧約聖書学者の関根正雄先生(関根先生は、体験主義に嫌気がさしてこの集団から離れたらしいけど)のお名前も本書の中で見て、「え、そうだったの?」と思ってしまう。この本を買ったのは、先にも述べたように、塩屋の神学校で開催された福音主義神学会西部研究会議であるが、その会場提供しておられた神学校の母体となった集団を創始したバクストンなどの名前も出て来る。N.T.ライトの名前や、今年の福音主義神学会での基調講演とその講演への応答の中でも、名前が何度も出たアウレンという人の名も出てきた。キリストの幕屋と無教会主義教会の関係は、いろいろと突っ込んでくださる手島イザヤ先生からお伺いすることがあったのだが、そのあたりの関係について、この本の中での記述に触れながら、なるほどなぁ、と思ったのである。

     

    日本の福音派には、あまり知られていなかった正教会的理解

    この本には、水谷先生というお名前が何度も出て来る。しかし、その水谷先生は、ミーちゃんはーちゃんと遊んでくれる水谷潔先生ではない。即ち、大頭眞一先輩が、『焚火仲間』と勝手に呼び、勝手に『焚火を囲んで聴く神の物語 対話篇』での対話者に指名されてしまった水谷潔先生のことではない。今、後藤敏夫先生がおられるところの召団の代表の方のことである。その水谷先生の立場からの現代日本の福音派に対するご批判を、後藤先生は、こう要約する。

     

    福音派に対する水谷先生の批判は、その人間中心的・実利主義的(ご利益主義的)な福音と信仰の理解に向けられます。即ち、信仰は「私のため」のものか、「神のため」のものか、ということです。救いの福音とは、、罪を許された私(たち)が天国に行くためのものか、罪ゆるされた私(たち)が神の創造目的に相応しい本来の自己を回復して、神の喜びと栄光に生きるためのものか、ということを徹底して問います。「私のため」であること自体が否定されるのではありません。ただ「私のため」とは、救われたものとして、自分の人生を好きなように生きる自己充足や自己実現のためということではありません。神に喜ばれるような自己犠牲の愛(十字架を負った人生)を生きる様に、サタンの支配から買い戻されたのだというのが「召団」の福音です。(中略)
    そういう「福音派の福音」への問いかけはまったく正当なものだと私には思われます。そしてその批判は、さらに深い神学的な問いをはらんでいます。それは「イエス様は私たちの罪のために十字架で死なれました」、「イエス様を信じれば一度限りすべての罪は許されます」、「イエス様を信じて天国に行きましょう」という福音派の宣教のことばが、救われたものとして主イエスに従う生き方を生み出さないということです。恐らく、こころある福音派の牧師の多くが、どうすれば罪を許され救われるかという福音を語りながら、私たちは何のために巣食われたのかというクリスチャンの生き方について、伝道活動の務め意外には十分に語りえていないもどかしさを感じているのではないでしょうか。信徒もまた伝道説教にもっとも恵まれるという状態から、なかなか成長できないでいるかもしれません。(同書 pp.24-25)

     

    しかし、こう書かれてしまうと、福音派の方々としては、なかなか手厳しい表現だなぁ、と感じるかもしれない。それだけ正鵠を射たご批判だと思う。この部分を読みながら思ったのは、これ、ハリストス正教会(ロシア正教会系の日本ハリストス正教会)の聖書理解とよく似ているのではないか、とういことである。ここで批判されている、「この地にあって、神の民として生きる」という部分は、ハリストス正教会の信徒への勧めではないか、とも思った。あるいは、砂漠の師父の教えとほぼ同じではないかなぁ、と思ったのだ。最近ちょくちょく出入りしているハリストス正教会での聖書理解(あえて言えば神学)からの、いわゆるアメリカの福音派の影響を強く受けた、日本の福音派神学への批判と、批判されかねない視線のベクトルと同じような気がする。この問題は福音派の片隅の教派で長らく人生を過ごし、そこでかなりの期間、講壇にも立ってきたものとしては、正面から受け止めたいと思っている。ハリストス正教会あるいはコプト正教会でのバプテスマ『異端者帰正式』を受けることをこの数年のうちに、何度か考えたことがないとは断言できないもの(実際、ハリストス正教会の帰正式に、心が揺らいだことがあるもの)としては、このギリシア正教会系、あるいはビザンツィン型のキリスト教の伝統の神学を対象とした時に、自らの聖書理解からどうこたえるのか、ということは大きな問いである。それで、結局、今は、聖公会の英語部に寓居しているのだけれども。

     

    2017年4月の福音主義神学会西部の研究会議での基調講演論文に対する応答で、ある応答者の方が、「Missio Deiとかちょっと変わった神学があるが…(大意)」とご批判めいたご発言をされた方もあったが、それは、自分たちの聖書理解の伝統、ラテン的伝統とはMissio Dei(神の宣教)の理解は違う、あるいは相いれない、と思っておられる、ということのようでもあるようだ。また、Missio Deiの概念を批判的な視線を向けることで、Missio Deiからの批判を回避しようとしているように、ミーちゃんはーちゃんには思えた。まぁ、御発言者のご本人の思いは別のところにあるのかもしれないが。

     

    勝利者キリストという忘れられたキリスト理解
    ここで、今回の福音主義神学会西部の基調講演論文でも取り上げられていた、スウェーデンのルター派の神学者、グスタフ・アウレンの所論を取り上げながら、現在後藤敏夫先生がおられるところの召団の聖書理解を位置づけようとされている。その意味で、この薄い本も、福音主義神学会西部の基調講演の理解への補助線を与えるものだと思う。あの講演について、思いを巡らしておられる、あるいはあの基調講演論文と対話しようとしておられる皆さんには、是非とも本書も読まれることをお勧めしたい。

     

     

    その部分から引用する。
    アウレンは、自ら属する西方教会の伝統にあるアンセルムスやカルヴァンの理解に代表される贖罪論は、新約聖書の本流にはつながらないとします。そして、十字架の出来事の中に、刑罰代受よりも悪の諸力に対するキリストにおける神の勝利を見ます。アウレンはその贖罪論を古代教父(とりわけエイレナイオス)に見出し、更にその復興をルターの中に見ます。そしてそれが教会史の最初の100年間に支配的であったと考えられることから「古典的贖罪論」と呼んでいます。
     水谷先生は、アウレンが語る「勝利者キリスト」(Christus Victor)の贖罪論に立っています。即ち、西方の教会の伝統にある合理的で法的な「刑罰代受説」(満足説)の贖罪の理解よりも、神がキリストにおいて悪魔の支配に勝利するという、ある意味では法的には合理的に説明しえない二元論による贖罪論に立っているのです。(同書 p.27)

     

    エイレナイオス http://365rosaries.blogspot.jp/2010/06/june-28-saint-irenaeus-of-lyons.html から

     

    ここで、「勝利者キリスト」の理解を、「法的には合理的に説明しえない二元論による贖罪論」と解説しておられるが、「それは本当に二元論と呼んで、よいのだろうか」という素朴な疑問がある。神か悪魔かのどちらかの勝利という対立軸というよりは、もう少し多元的・多面的なものの中でとらえる「勝利者キリスト」の方がアウレンの主張により近いのではないか、とは思うが、何せ、原著のアウレンを読んでいないので、何とも言い難い。なお、アウレンはオンディマンド版で入手が可能らしい。
    ここで、スウェーデンという国の位置が重要である。即ち、スウェーデンのお隣は、もうハリストス正教会のご先祖様のロシア正教会の土地、ロシアである。あのロシア革命と共産主義支配の中で迫害され続けてもなお残った、ロシアの素朴なお婆さんたち、すなわち、バブーシュカ、が素朴に維持し続けた、ロシア正教会の信仰を考えると、勝利者キリストという理解は、キリスト教が本来持っていたある種の強靭さの根源を残しているのかもしれない、と思うのである。この辺は『隠された恵み』というフィリップ・ヤンシーの本に出て来る。あるいは、ローマ帝政下で迫害され続けたにもかかわらず、残存し、挙句の果てにローマ帝国をキリスト教国に変えてしまった挙句にコンスタンティヌス型キリスト教と後世のヨーダー先生に揶揄されるまでになった、古代キリスト教が持っていた、ある種の強靭さの背景にあるのが、この勝利者キリストということなのかもしれない。

     

    残念ながら、日本の多くの福音派のキリスト教会には、この「勝利者キリスト」のエッセンスのようなものがあるかといわれたら、ほとんど無いのかもしれないなぁ、と思う。それだけに、日本型の福音派の多くのキリスト教理解には、ある種の強靭さというか、問答無用のむちゃくちゃさがないのかもしれない。その結果として、迫害もないのに、ぼろぼろと救われた人たちが教会から3年から4年で抜け落ちていくのかもしれない、と思ったりもする。小手先の方法論の議論は喧しくなされるが、本質的な部分に大きな欠落というか落とし穴があるのではないか、という感想をミーちゃんはーちゃんは持ってはいる。そして、それが勝利者キリストという理解なのかもしれない、と思う。

     

    日本には、すでに出来上がった西欧近代の教会がそのまま、大きな変更もされることなく持ち込まれてきたし、日本の福音派は、戦後アメリカ、ないし現代アメリカの教会の様式論と運営論と神学に大きな反省をすることなく、そのまま持ち込まれてきたようにも思う。ちょうど、アメリカのトレーラーハウス(移動式住宅)よろしく、アメリカから車輪を付けたまま自動車運搬船で輸入し、それを日本の大地においた感じなのが日本のかなりの部分の福音派の教会なのではないか、と思う。だからこそ、日本の大地におかれているだけで、根が張っていないし、イエス様の種まきのたとえの道路に落ちた種ではないが、風が吹けば吹き飛んでしまう、という部分ではないか、と思うのだ。なお、なんちゃら伝道大会などの動員型の伝道なんかは、まさにトレーラーハウス型の伝道で、アメリカから有名人やその子供をトレーラー・ハウスのトップ・セールスマン(現代アメリカ英語では、トップ・セールスマンのことをエバンジェリスト(伝道者)と呼ぶ…w)よろしく、呼んできて、日本という国情も考えもせず、カスタマイズもせず、米国のものをそのまま持ってきて、ドンと置くような形の伝道であり、トレーラーハウスは、根付くこともできない設計になっており、根付いてもいないし、日本ではメンテナンスが限られるので、数年でぼろぼろになるというのが、3〜4年でぼろぼろになり、結果として教会から信徒がぽろぽろと落ちていくという姿と重なってもしょうがない。

     

     

    トレーラーハウス
    http://starhomeusa.com/blog/brand-new-mobile-home-owner-finance-house-trailer/
    手入れされてないトレーラハウス
    https://www.colourbox.com/image/old-grunge-trailer-with-windows-image-2314567

     

    神化の神学

    日本では、ハリストス正教会をはじめとするビザンツ型の聖書理解の体系が、亜使徒大司教 聖ニコライにより持ち込まれはしたものの、大津事件や日露戦争や不幸な諸条件が重なり、普及しなかったのであるが、近年の霊性、黙想や観想、砂漠の師父の思想と実践を中心とした霊性あるいはキリスト教型スピリチュアリティへのキリスト教会の人々の中でも、関心の高まりもあり、関心を寄せる人々は増えているが、これを義認論が強い西方の神学にくっつけてしまうと、神学的フランケンシュタインになるのは、以前にもこのブログ記事  神学的フランケンシュタインの登場は要らないかもで触れたとおりである。

     

    東方教会の神学者メイエンドルフによれば、東方には神化の神学はあるが、義認の神学は育たず、西方には義認の神学はあるが、神化の神学は育たなかったといいます。西方の伝統に育った水谷先生には「義認」の信仰とともに、不思議に東方的な「神化」の信仰があります。そこではむしろキリストを信じたものは、神の最高法廷で一度限り無罪の判決を受けるという、聖書に基づいた(ローマ3章等)、西方の法的で合理的な「義認」の信仰は、宣教の前面からは後退して薄くなる印象すらあります。(同書 p.30)

     

    ここで、重要なこととして出て来る東方型(あるいはビザンツ型、ビザンチン型)のキリスト教での「神化」(あるいはテオーシス)の概念は、本ブログのこの記事  大阪ハリストス正教会での講演会に参加してきた(異様に長いので閲覧注意)  を酸そうされたい。

     

    この部分を読みながら、西方で義認論的な理解が広がった背景に関して、「あぁ、そういう側面があるかもなぁ」と思ったのは、ローマ社会が、割と古くから、社会の基盤の形成に大きな役割を果たしたのが、法であり、その法律を作りあげるのが、議会ではなく、個別の法律闘争、あるいは裁判の弁論および裁判の判決であり、法律論争とその弁論に基づく判決結果による法体系を発展させてきた社会を背景としていることが決定的に効いているかもしれない、と思ったのである。

     

     

    ローマのレトリック、修辞法を学ぶ人が必ず読むラテン修辞家として有名なカトーにしても、キケロ(英国風にはシセロ)にしてももともと法廷で論理と習字を展開する弁護士であったし、修辞学の名文家としても有名で今も尚、その作品が西欧では読まれているユリウス・カエサルも、もともと政治家になる前は弁護士(あるいは修辞家)であった。ローマは、上院とか下院で、成分法を発布するのではなく、判決が法的拘束力を持ち、実効法になるのである。アメリカの法制度は、そのローマ法体系の影響を強く受けている。だからこそ、ローマ法体系の影響力の強いローマ帝国の西半分が覆っていたラテン帝国ないしラテン文化圏では、義認論のような法的解釈が人々に伝道するうえで整合的かつ説得的であったため、義認の神学が異様に発展し、普及していったのかもしれないなぁ、という印象を持った。オバマ前アメリカ合衆国大統領に見られるように、アメリカ合衆国大統領には、法曹関係者、弁護士上がりの人がやたらと多い。

     

    カトー https://en.wikipedia.org/wiki/Cato_the_Elder から

     

     

    キケロ または シセロ https://en.wikipedia.org/wiki/Cicero から

     

     

    ローマ帝国地域の政治文化と

    キリスト理解と、現代アメリカ政治

    ところが、ギリシアを中心としたオリエント、あるいはローマ帝国の東半分が覆っていた、ビザンチン帝国ないしギリシア文化圏(ビザンチン文化圏)では、法律の制定は、民会という疑似議会制的民主主義政体によって定められたり、もっと、オリエントの東側(たとえば、ペルシャあたり)に行くと、王様がいて、その王の発布する法律、王が発することば、あるいは王の判断した結果が法律となっていく文化がある。そのような文化的背景を持つ人々には、人間と人間がやり合って無罪か有罪かを争う法廷闘争的な理解の体系よりも、高いギリシア的な徳を持つ政治家となり市民会(民会)での発言権を持つ人(哲人とか、徳を備えた人)になることが重要とされたことのためか、神化の神学のほうが、人々に伝道するうえで、成功的かつ説得的であったため、神化の神学が異様に発展し、義認の神学の影が薄くなったのかもしれないなぁ、と思う。

     

    他国の大統領を例としてとるのは、確かに申し訳ない限りではあるが、わかりやすそうなので、霊にとって考えてみたい。

     

    原罪の某国 特朗普 大統領(中国語表記にしてみました…)は、選挙戦期間中からも、ギリシア的な「徳」を持った人とはどうも言いかねるように思ったのだが、ある面、米国の中西部の市民的な徳(努力してがんばることで評価を受け、自ら富を作り出し、自己と他者のためにそれを用いる、という意味では、中西部市民的な徳はあるような印象を与えることには成功しているとは思う)を表明した人物であり、どちらかというと、義認論的というよりは、神化的なスーパーマンとしての勝利者キリストに近い側面が皆無だとは言い難いが、個人的には、あのタイプのキリストさまは勘弁してほしい、と思っている。なお、キリストは王という意味であるけれども。それこそ、 特朗普 現美国大統領(中華風に表現してみましたw)は、ある面、不動産屋のキリストだった、といえばそうも言えなくはないのではある。

     

    https://www.vice.com/en_us/article/donald-trumps-real-estate-tycoon-is-a-warning-from-history-950 より

     

     

    こう見てみると、義認論的オバマ VS 神化論的特朗普 という対比でとらえると分かりやすいかもしれない。東方正教会での神化の理解が誤解されるのは嫌だが。

     

    あと、日本でメイエンドルフの神学書をお訳しになられたのは、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の教授でもあられたバランスの取れた先生である鈴木浩先生である。確かメイエンドルフは、大阪ハリストス正教会の松島司祭から何度かそのご高名はお伺いしたことがある。

     

    あと、この部分の最後の部分の「西方の法的で合理的な「義認」の信仰は、宣教の前面からは後退して薄くなる印象すらあります」を読みながら思ったのは、20世紀初頭に活躍したウォルター・ラウシェンブッシュの次のことばである。

     

    永遠の命がキリスト教的希望の前面に出てくるにつれて、神の国は背後に退いていき、それとともにキリスト教の社会的能力の多くも失われた。(中略)永遠の命は個人的希望であり、この世のためではなかった。(ウォルター・ラウシェンブッシュ著 『キリスト教と社会の危機. 教会を覚醒させた 社会的福音』 p.212)

    ラウシェンブッシュの場合、義認論を起点にした聖書理解とその結果としての天国へ行くことの重視が、前面に出過ぎていた19世紀末から20世紀初頭にかけての当時のアメリカのキリスト教世界に対して、預言者的な反対意見を述べた人物であり、当時のキリスト教会に巨大な岩を投げ込んだ、といっても良い人物である、とは思う。現在の社会福祉を中心として、地に平和をもたらそうとする”社会派”と総称されるキリスト教の思想的基礎を与えた人物であり、先に紹介した著書『キリスト教と社会の危機. 教会を覚醒させた 社会的福音』は、社会的福音の出発点となった本である。彼の場合は、バプティスト派の牧師であることもあり、明確な神化の概念の影響は出てこなかった印象があるが、人が人であることの回復、あるいは、人が神のかたちであることの回復を狙ったという意味で、後藤先生がおられる召団の聖書理解と共通する部分を持っているように思える。しかし、「社会派」と呼ばれる人に影響を与えた概念が、いわゆる福音派にあたる教会集合(ここの場合は、集合論的な意味で集合という語を用いている)の牧師から出ているのが面白い。

     

    こう考えると、アウレンが指摘しているように”勝利者キリスト”的な理解は、16世紀のルターにもみられ、20世紀のラウシェンブッシュにもみられ、そして、ビザンツ系あるいは、ビザンツィン系、あるいは正教会系(個人的にはコプトやエチオピア正教などを含む正教会系の神学と呼びならわす方がよいと思う)の神学や、カトリック教会の実践にもみられるということを考えると、案外大事なことだとは思う。それが福音派の教会で、ほとんど認識されていない、気にされていないのは、バランスが欠けているのかもしれないなぁ、あと思う。

     

    神のエイコーンとイミタティオ・クリスティ

    人間は、神のかたちであり、それが完全にダメになっている(全的堕落)というのが改革派系の聖書理解では強く見られるような気がする。全くダメになっているから、キリストに頼るしかない、という一種の法廷論的罪理解なのだが、正教会系の人間理解はどうもそうではないらしい。罪の結果、だめになっているけれども、また、この地でも回復する可能性があるというところが正教会系の神学や聖公会の祈祷書には、あるようであるし、だから、聖人伝とか聖人が大事にされるのだろうと思う。個人的には、どちらかというと、この正教会系の人間理解の方が、なんとなくだけど、絶望がないのでいいかなぁ、と思っている。

     

    ところで、この神化の信仰について後藤敏夫先生は、次のように言う。

    ある神学者が東方教会の「神化」の信仰は、西方教会的にいえば「キリストに倣いて」(イミタティオ・クリスティ)になると語っています。「召団の福音」においても、福音による救いは、義認による罪の緩しを焦点とするよりも、人間が創造された目的である「神のかたち」(エイコーン)の回復にあります。それは聖霊の新しい創造に与ってキリストを模範として生きることにあります。そこでは最初の創造に追って与えられた良い面を教育によって開花させるという面も強いように私には感じられます。(同書 pp.30-31)

     

    イミタティオ・クリスティは、トマス・ア・ケンピスという人の本のタイトルでもある。これは岩波文庫で「キリストにならいて」というタイトルで出ているので、気軽に手に入る本ではある。詳細はご自分でお買い上げになるか、ご近所の図書館でお借りになって、お読みいただきたい。公立図書館にはおいてあるだろう。

     

    ここで、キリストに倣う生き方をするように召されていると召団では教えておられるとご指摘であるが、正教会的伝統や古いカトリック的伝統、アングリカン・コミュニオンでは、いきなり、キリストに倣うのは、無理なんで、もうちょっと身近な存在としての先輩としての諸先輩、あるいは諸聖人を尊敬して、キリストに倣おうとした人のかけらからのかけらでも難しいので、過去の先輩、あるいは、聖人に倣おうとしているということであって…、ということらしい。その意味で、聖人は、信徒教育のためなのだ。エジプトのマリアがどこでもドアを持っていた疑惑とかに注目するのではなく、あまりに罪深い女性であったけれどもキリストに出会って(Encounterして)、真実の罪の悔い改めをしたことに注目すべきなのだろう。

     

    しかし、この辺の伝統を宗教改革の時に、プロテスタント派では一挙にブルドーザーで破壊して、そのまま谷底にごみとして突き落としてしまった感があるので、このあたりの「神化の神学」は、プロテスタント派ではないところが多い。

     

    この種の概念がプロテスタント派で残っているのは、メノナイトとアーミッシュくらいではないか、と思う。ただ、メノナイト系教団の偉い先生なのに、自分では、「えらくないよぉ」とおっしゃっておられる方で、月1回以上ミーちゃんはーちゃんがお会いするメノナイト系の某教団の偉い先生に聞いたら、「もう、日本のメノナイトは、普通の福音派の教会です」と身も蓋もないことをおっしゃっておられた。その割に米国の教団からは、「日本のメノナイトは、本当にメノナイトらしい教会だから、もっと頑張れ」といわれるので、そのたびごとに何とも言えない気持ちになる、ともおっしゃっておられた。正直な方なので、この方は大変尊敬している。

     

    そんなことが重要なのではなくて、重要なのは、その意味で、「最初の創造に追って与えられた良い面を教育によって開花させる」ということであり、そして、教育というよりは教会での礼拝や聖書からの説教を含むMinistryにより、本来の神のかたちに戻していく、という部分なのだと思う。それが、今では、ここでも何度か揶揄してしまったが、「信徒が聞いてくれるから」、「信徒が喜ぶから」ということを口実として、讃美歌大会付きキリスト漫談大会にしてしまっている教会もなくはない、ようだけど。それでは、このタイプの教会に食傷して、本家の正教会系理解に流れるのではなく、召団に流れる人がいてもやむを得ないのかもしれない。日本で、正教会系の神学があまりに知られてないのが残念でならない。

     

    普通の教会に飛び込んでくる営業のオジサン(時々、いるから不思議である。よほど教会が金持っていると思われているのかもしれない)が教会についておっしゃるのは、この教会は、カトリックですか、プロテスタントですかは、おっしゃるけど、コプトでいらっしゃいますか?グルジア正教会で?エチオピア正教会で?といわれることはないし、長らくキリスト者である方でも正教会の名前を聞いたことはない人が多いだろう。もっと言えば、正教会系の聖書理解のちょっとした知識でもいいので、それを持っている人はほとんどいないかもしれない。

     

    実に残念なことである。

     

     

    ニューパースペクティブ

    あるいは(パウロ研究をめぐる)新しい視点

    数年前から、福音主義教会の関係者で、N.P.P(N.T.Tではないし、T.P.Pではないし、P.P.A.Pでもない)という語がはやっている。PPAPは一部はやっている教会があるかもしれない。ところで、N.P.PはNew Perspective on Paulという概念の英語表記の頭文字だけ取り出した表記法であるが、この分野にお詳しい伊藤明夫先生の一昨年の福音主義神学会東部でのご講演によると、もはや新しいとも言えない30年くらい前のもう古くなってしまったパウロ理解のことらしい。その概念とそれが伝道理解にどう影響するかについて、後藤敏夫先生は次のようにお書きである。

     

    ニューパースペクティブは、「義認」を個人が信仰によって罪を許されるというよりも(それも含みますが)、イスラエルとの契約とそのメシアによって世界を救う神の計画に罪人を招き入れる行為として考えます。最近、日本にも紹介されるようになった英国のN.T.ライトもニューパースペクティブに立つ神学者です。日本伝道会議においても、N.T.ライトの義認論をめぐって議論があったようです。私は聖書理解としてはニューパースペクティブに共感するところがあります。そして、それは伝統的な福音の理解と必ずしも矛盾しないと考えています。ただニューパースペクティブに立った場合、それが99%未信者である日本の国で、どのように人々をキリストを信じる悔い改めと救いに招き入れる地域教会の伝道メッセージになるのか、なおはっきりとそのアウトラインが見えてきません。(同書 p.32)

     

    大事なのは、多くの福音主義関係者の教会において、ニューパースペクティブ、ないし、N.P.Pを白眼視ならまだしも、敵視されている感じがする。誤解されているように思うのだ。そもそも、そういう白眼視したり、敵視している皆様は、そのオリジナルをまじめに読んで、それを自己の信仰理解の参照枠と比較して、対話してみようとしたことがおありなのだろうか、とちらっと思うのである。どうも、議論の立て方から見るに、「読まずに、あるいは、読んだうえでキチンと対話せずに、表面的な批判してはおられないだろうか?」というような疑惑がある。あたかも、ニューパースペクティブが義認を含まない、義認を排除しているかのような(たしかに義認の理解というよりは、表現の仕方が従来とは違うので、そのように見えるかもしれないが、注意深く読めば神が義と人間を認められる、ということが全く含まれていないということにはならないことには気がつくはずだとは思うのだが)勢いで物言いをしてくる方々がおられる。そして、鬼の首をとったかのように、ものをおっしゃる方がいる。実に残念なことである。まぁ、第6回日本伝道会議でも、ライトの義認論をめぐって、神戸の福音ルーテル神学校の橋本先生と、巣鴨聖泉キリスト教会の小嶋先生とが対話しておられたが、敢えて、問題を先鋭化するために、橋本先生は異なる立場をとられたということを聞き及んでいる。しかし、あの時は、橋本先生が開始日時だったか開始時刻を間違えて、青谷から、会場であったポートアイランドまで、「15分で着く」と橋本先生は司会者の方に言われたようだが、そんなもん、エジプトのマリアの聖人の能力の一部をお持ちであるか、「どこでもドア」か「タケコプター」でもない限り無理である。案の定、開始時刻に送れて、宮本武蔵の様に遅れて到着されて、落ち着くまでしばらく時間がかかったのがかなり残念であった(ミーちゃんはーちゃんは現場にいたので、目撃者証言であるw)。まぁ、意図せずにの遅刻であったらしいが。

     

    後藤先生がここで、「それは伝統的な福音の理解と必ずしも矛盾しない」と、おっしゃるように、ミーちゃんはーちゃんもそう思う。完全にその点では同意である。正に『御意』と申し上げたい。

     

    しかし、西欧化しつつも、宗教の沼状態でいろんな宗教をぶち込んで闇鍋にしたような日本社会の中で「人々をキリストを信じる悔い改めと救いに招き入れる地域教会の伝道メッセージ」となるのか、と御懸念を表明しておられるが、個人的には、キリスト者の存在自体が、地域社会への伝道メッセージになり、キリスト者が読んだ聖書メッセージが聖書メッセージとして多くの人々に聖書として読まれることになるはずである、と信じているので、後藤先生ほど個人的には心配はしていない。確かに、これまで伝統的に福音派のキリスト教会が実際に行ってきたような方法で伝道メッセージを語るだけという形として、維持はされなくはなる部分があるかもしれないとは思うのである。

     

    聖霊を内住させる信徒が聖書として、ことばを内住させている信徒が人々のところに伝道メッセージを、イエスがこの地上を歩まれたように持っていくことも、これまでの教会で語られることば(説教)による説教と同様に重要になるというだけで、従来その教会内でのウェイトがほぼ0だったものが多少は増えるという程度の事である。もう少しいうと、信徒に読まれた聖書が、信徒の生き方に反映され、多くの人々にキリスト者の具体的生活を通して読まれることになる部分が出て来る、ということになるのだろう。ちょうど、日本のキリスト集会派の源流の一つとなったジョージ・ミュラーの孤児院伝道が孤児だけに影響したのではなく、チャイナインランドミッションやハドソン・テーラーそして、中国で死去したエリック・リデルにも影響を与え、説教という手法を通じて、ことばによる福音を述べ伝えていったように。なお、エリック・リデルがとり合えられた映画『炎のランナー』でのリデルの説教のシーン。
    エリック・リデルの説教のシーン

     

    そのニュー・パースペクティブに立つ伝道のアウトラインは、見えないだろうし、安定しないだろう。あるいは、安定させてはならないようにも思う。というのは、個別の教会が相手をする社会という相手と、そこに出て来る、諸相としての罪の問題の表れががそもそも論として、時代により、社会により変わっていくからでもある。あるいは、状況依存的に現実対応する中での伝道となるので、その多様性が存在するため、一種の汎化されることことで、どこでも成功する成功の方程式のような伝道方法のアウトラインは見えないものなのであろう。であるからこそ、リングマは、『風を受け、沖へ出よ』の中で、柔軟に対応していく必要があることを強調しているようにも思う。

     

     

    この本の紹介、今週いっぱいどころか、来週くらいまでかかりそうだ。いきなり、長期連載決定になってしもた。すまん。

     

    次回へと続く。

     

     

     

     

     

     

    評価:
    価格: ¥ 6,588
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:高いけど、面白いです。

    評価:
    チャールズ・リングマ
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    2017.04.29 Saturday

    N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その56

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      今日もまた、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読んで、考えたことをたらたらと、ご紹介してみたいと思う。

       

      家族とファミリーの違い

      今日は、「信じることと属すること」という章の中の「神の家族」という部分からご紹介してみたい。この家族という概念は案外日本では誤用されていると思う。日本型大家族システムや某公党が美化してやまなくて、今後道徳の教科書で教えようとするような道徳観の理解の上の家族理解に則って語られるような家族観、あるいは、儒教(朱子学的理解)が想定するような家族理解にしたがいつつ、聖書における家族理解を誤解していることが多いのではないか、と思う。聖書の家族間は、もう少し柔軟なものだと思う。双方向的というか人間関係に関する水平関係の強い家族理解なのだと思う。共通項を持つ人間集合、あるいは、群れ、Fellow、仲間たち、と言った感じが強い感じの言葉だと思う。

       

      以前、世俗の仕事で慶応大学にお伺いしたことがあるが、あそこでは、未だに教員のことを休講掲示板では、○○先生ではなくて、○○君であるし(ただし、学生が教員を○○君と呼ぶのは御法度らしい)、自分たちのグル―プのことを社中とお呼びである。そういう意味では、社中という感じが、ファミリ−という語に一番近いのかもしれない。

       

      【口語訳聖書】エペソ書  
      2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

      なんかは、

      【口語訳】エペソ書  
      2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ同窓の者であり、神の社中なのである。
      なんかと訳したほうが現代日本人には、いいのかもしれない。
      慶応大学の休講掲示板

       

       

      慶応大学では、社中という言い方の証拠写真

       

       

      現代の日本語が持つ家族のイメージは、だいぶん崩れたとはいえ、家父長制を中心とした、かなり血縁関係を重視した形でもたらされる結束の強い血族集団という意識が強い。しかし、西欧語における家族、あるいはファミリーいうと、それはあまりなく生活の場を共有する人々、あるいは何かを共有しているもろもろ、という印象がより強く出て来るような気がする。

       

      具体的な例としていうならば、典型的には、指数分布族 exponential family (詳しくは、この 高校数学の美しい物語 というサイトの指数分布族の解説がなかなか秀逸。是非ご参照くだされ)だの、集合論における族の説明(このサイト http://www.ne.jp/asahi/search-center/internationalrelation/mathWeb/Sets/FamilySeries.htm がコンパクトにまとまっている)や、希ガス族(ヘリウム、ネオン、アルゴン、クリプトン)などは、Noble Gas Familyといい、性質が似たようなものをまとめるときにFamilyを使うのである。あるいは、インドヨーロッパ語族や日本語が含まれるアルタイ語族など、これもまたFamilyが使われている。

       

      血縁のみを重視する日本の家族

      こう考えていて思うことは、日本では血族の関係が強すぎて、養子や里子を受け入れにくい家族概念が未だに強い。それは、現代日本語が持つイメージの問題かもしれない。ところが、西欧語や地中海周辺語のファミリーあるいは、家族というと、基本、もうちょっと血縁密度の構成要素が緩いので、養子ということが割とよく行われている様である。西ヨーロッパやアメリカでの養子が可能なのは、このあたりの家族概念が日本語のそれとはかなり違う、というところにも原因があるような印象がある。チャリティ精神の有無とか、聖書理解に基づくチャリティ概念と日本型チャリティ精神性の違いというよりは。

       

      まぁ、その辺が

      【口語訳聖書】ガラテヤ人への手紙

       3:25 しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。
       3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。

       

      という部分などは、もともとギリシア語をしゃべる人たちがギリシア語でこの部分の聖書のテキストを聴いた時に持つイメージと、現代の日本語に翻訳されたものを先験的な知識なしに聞いた時に浮かぶイメージは大きく違うのではないか、と思うのだなぁ。このあたりは、ギリシア・ローマ時代の文化背景や奴隷が養育掛というか、家庭教師で英才教育をするような家庭生活をもとにかかれている様な気がするので、そのように理解しないとまずいんではないかなぁ、と思うのである。

       

      なお、奴隷もローマ時代は、あるレベルになるとファミリーの一員とされたようである。クリエンティスとパトロンの関係になれば、家族なのである。そういえば、マフィアのおっかないおじさんたちもファミリーが大好きではある。w

       

      Familyという語が出てくるゴッドファ−ザ− (ファミリ−という語は、2分4秒あたりから)

       

      共同体としての教会

      教会には、多様な人々が多様なまま、招かれている。先日、聖公会のある司祭と話していたときに、聖公会での生産の概念は、王も乞食も同じ聖餐に集まるという意味では差別がなく、共同体を形成するのだという。そして、その人々からなる共同体を入れておくための箱が教会なのだと思う。その意味で建物としての教会は箱にしか過ぎない。とはいえ、それでは終わらないのが人間なのである。そのあたりについて、ライトさんは、次のように書く。

       

      教会は何よりもまずコミュニティ、共同体である。神に属しているが故に、互いに属し合う人の集まりである。それはキリストにあって、またキリストを通して知る神に属しているからである。しばしば「教会」と言いながら、建物を差すことがあるが、肝心なことは、その建物で、共同体として集まることである。たしかに建物には建物には思い出が染み付く。(中略)しかし、あくまで大切なのは人である。(『クリスチャンであるとは』 p.297)

       

      ここで、コミュニティ、共同体、ということの強調がある。わざわざ日本語翻訳でも傍点が付された表現になっている。異なるものが集まって一つになっている状態を示しているのだ。そして、最後に「あくまで大切なのは人である」とまで大書されている。

       

      ところが、日本の場合、教会というと、教会の外側、つまり、建物としての教会のイメージが強い。教会の外側がそれらしければ、教会と呼ばれるのである。そして、聖餐式も、葬儀もなく、毎週の聖書の解き明かしもなく、信徒さえいなく、まともに聖書を読んだことがないかもしれない司祭なのか牧師なのかは知らないが、アルバイトで雇われているコーカシア系の司式者(ないし日本人司式者)がいる、信仰の内実がほとんどない多数の教会が日本には無数にある。いわゆる結婚式場教会というやつである。

      要するに、ハリボテでも何でも、信仰がなくても、外向きの格好だけつけられたらいいのが、現代日本のキリスト教やキリスト教会に対して、多くの日本人が求めていることかもしれないと思う。その意味で、本当はミッキーちゃんが司祭の格好をして、シンデレラ城でミッキーに司式してもらって結婚式とかいうのがよくて、ほんまもんの教会でも、畳敷きの和室に障子で、日本人の和服を着た司祭が結婚式というのはありえないのかもしれない。まぁ、マテオ・リッチ先輩の儒学者風のご衣裳は非常に印象的。でもマテオ・リッチ先輩はガチのイエズス会の司祭であり、ほんまもんのキリスト教の人なのだが…

       

       

      向かって左がマテオ・リッチ先輩
      https://buzzorange.com/2014/12/03/taiwan-old-map/ より

       

      実は、この教会のコミュニティ性こそ、古代・中世から近世にかけてのソーシャル・キャピタルの育成の土台になったのだと思う。そのあたりの事は、ロドニー・スターク著の『キリスト教とローマ帝国』でも歴史的なコンテンツについて、実証的に示されている。

       

      コミュニティで生きるところでは、コミュニケーションが自然発生的に生成され、そして、多様な人々の存在が人々の間での相補性(お互いの必要を生み出し、お互いの必要を認めるきっかけとその必要)を生み出し、そして他者への尊敬とつながり、そして、最終的には、規模の大乗は別として経営学や組織論で言うようなシナジーあるいはシネルゲイアを生み出すのだと思う。しかし、これは、教会が存在した結果であって目的ではない、と思う。

       

      このあたりは、来週月曜日に紹介する別の本の紹介で少し述べたい。

       

      この辺を間違う人がおられるのが非常にかなわない。あくまで、王であるキリストを礼拝する共同体として、あるいは聖餐を共に頂く共同体として、多様な人が集まるがゆえに、そこで人と人との間の相互補完関係が生まれ、お互いに補い合うことになるのだろう。聖餐に与るとき、我々は、神の前に自分が不完全なものであることを認め、そしてその不完全さを神が覆ってくださることを認めるのではないだろうか。

       

      人はそれぞれが違うのであり、人それぞれの弱さを抱えている存在なのだ。自分自身が欠けているところは、他の人が優れており、その自分が欠けている部分を、他の人が補ってくれるからこそ、自分の不足が他者の存在によって埋め合わされ、そして、全体として完全なものになるのだと思う。そして、全体としてより完全になることで、ソーシャル・キャピタルとしての機能が果たせるのだと思う。

       

      そのあたりの事についてライトさんは次のように書く。

       

      教会はなんといっても、密接に結びつく2つの目的のために存在している。神を礼拝することと、この世界にあって神の王国のために働くことである。そのために個人として自分にしかできないユニークな方法で働くことができるし、働かなければならない。神の王国の前身のためには、いつも同じところでぐるぐる動き回っているのではなく、個別に働いたり、他の人と一緒に働いたりすべきである。(同書 p.297)

       

      実は、神の礼拝と、この地に平和をもたらすことは関係しているのだという。ミーちゃんはーちゃんは、主の祈りを唱えないキリスト者グル―プ(教派)で育ったが、多くのキリスト教会では、毎週少なくとも1回くらいは、主の祈りを覚える。しかし、今は、教会でミーちゃんはーちゃんは週に2回は唱えるけれども。

       

      その主の祈りでは、「御名が崇められますように。御心が天で行われるように地でも行われますように」と祈るのではないだろうか。御名が崇められますようには、神を礼拝することである。

       

      その次は、「御心が行われますように」である。天で御心が行われるのはある意味当然であるが、それが地でも行われることを我々は神に求め、神に祈るのである。それは神がご自分で全部するのではなく、その中に共に働くようにアダムには命じられているのではないか、と考える。それと同じように、我々もアダムの子孫として、この地の管理を行うように招かれているし、それは一人だけでするのではなく、他の人々とも協調行動をとりながら、この地を適切にケアするように招かれているのだろう。そもそも、人間はかけがある存在なので、すべてのことを一人ではできないようになっている。ある人が得意なことは、他の人が不得意なことでもある。逆に不得意な人はまた別な何かが他の人より得意だったりする。こういう欠けをもつ人々が、お互いに補い合いながら神の御思いに関与するよう招かれているのかもしれない。

       

      神の使命 神のミッション

      このような異なる才能をまとめて、全体として神の大きな御業に関与していくことが神のわれわれへのご計画とそもそもの人間存在の目的なのかもしれない。

       

      Ministryというとこの雑誌を思い出す。

       

       

      ミニストリーというと牧師が信徒に対してすること、のように思うかもしれないが、本当にそうなのだろうか。いろいろな教会にかかわること、また、神の国の必要なことを行うことがミニストリーであるし、神の民としての勤めがあるのではないだろうか。実際にスモールグループもミニストリーであるし、日曜学校もミニストリーであるし、務めであるし、家庭で祈ることもミニストリーなのではないだろうか。そのあたりのことについて、ライトさんは次のように書く。

       

      このような意味合いにおいて、教会の中で様々なミニストリー、務めが成長してきた。『使徒の働き』やパウロの手紙のような初期の文書から見て取れることは、教会は通常の生活の中で、様々な異なった使命を認めてきた。神は異なった人に異なった賜物を与えてきた。そうすることで共同体全体が豊かになり、託された役割を前進させ続けるのである。(同書 p.298)

       

      まさに相補性が働くのが、多様な人が集まっている教会、ということなのだろう。人々が異なっているからこそ、集まる意味があるし、多面的な聖書理解ができるということなのだろう、と思ったりするのだなぁ。それは、神を賛美するということの多面性を生み出すとともに、神のみ思いを多面的に豊かに実現できるということなのだろうと思う。そして、Ministryとは、そもそも、神の民として神の業にかかわっていけるよう、まず、弱い自分自身とその欠けを認め、他者の弱さを認め、そして、お互い神の平和の内に生きていくものとして、日々の生活を主体的に神の民としての生き方、すなわち神のみ思いを大事にしながらの生を生きることができるように整えていくためのものであって、信者のいろいろなお願いのお世話をすることではないと思う。その意味で、現代日本語の牧会的配慮がさしているものと、ミニストリーというものがさしていることは違うんじゃないかなぁ、と思うことが多い。

       

      教会は、その意味で、信仰共同体、聖餐共同体であると同時に、「神から託された役割を前進させ続ける」ためにも存在するのであって、という気がする。

       

       

      次回月曜日、ひょっとすると水曜日も、別のある本を紹介して、また、『クリスチャンであるとは』に戻りたい。

       

      次回の連載の続きへと続く、

       

       

       

       

      評価:
      N・T・ライト
      あめんどう
      ¥ 2,700
      (2015-05-30)
      コメント:おすすめしています。

      評価:
      ロドニー・スターク
      新教出版社
      ¥ 3,456
      (2014-09-19)
      コメント:大変興味深い。お勧めしたい。ちょっと計量的推計の統計学手法の表現部分には怪しいところはあるが。

      2017.04.26 Wednesday

      N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その55

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        本日もN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読んで感じたことを、タラタラと書いてみたい。今日は信じること、信仰を持つことは、どういうことか、の部分について書いてみたい。

         

        信じることが意味をなすとは

        意味をなす、というのは、この本の英文でのサブテーマである Why Christianity Makes Sense というなかにでてくる、Make Senseという英語のことである。その意味で、この語はこの本では非常に大事なのである。

         

        そもそも、Make Senseという語は、「意味をなす」という意味であるが、「ピンとくる」あるいは「アハ体験する」という感じではないか、と思うのだ。「あぁ、なるほど」「あ、そうそう」と言ったような体験をするということなのだと思う。個人的に説教というよりはリタジーで、時々ピンと来ることが多い。それと、学問の世界でそれを感じたのは、フラクタルという概念を学んだ時であった。以下の動画は、実は、植物、木の構造は、フラクタルになっているということを3Dアニメで描いたものである。、

         

         

         

        この動画で示されているようなフラクタル理論をしったとき、あ、そうだったんだ、そういう構造になっていたんだ、ということを想った。フラクタルはいろいろな構造が一種の入れ子構造になっているということの発見からできた理論であった。

         

        ライトさんは、その意味をなす、ということに関して次のように書く。

         

        私がここでいう「意味をなす」とは、メッセージを聞いた時に垣間見える、不思議な新しい世界にいるかのような感覚である。例えば、偉大な絵画の前に立ったとき、あるいは素晴らしい世界にいるかのような感覚である。あるいは素晴らしい歌や交響曲を聞いて心が奪われた時、そこに垣間見える、全く新しい世界を経験するようなものである。そのような(種類の「意味をなす」とは、預金残高を数えるときに調理尻が合うようなものではなく、逆に恋に落ちたような感覚である。突き詰めて言えば、神がイエスを死からよみがえらせたと信じるとはそうしたことであり、神がどのような方で、なにを成し遂げ、いま何をなしているかを信じ、信頼することである。(『クリスチャンであるとは』pp.291-292)

         

        ここで、ライトさんは、「恋に落ちたような感覚である」と書いておられるが、まぁ、松田聖子のビビビ婚のような理屈を超えたような感じなんだろう、とも思う。ライトさんは、ここで「恋に落ちた」とかいているが、前のローマ教皇ベネディクト16世は、枢機卿時代かなんかの論文で、「信仰とは賭けのようなものである」と書いたということを、NHKラジオの宗教の時間で、ある時、当時上智大学教授であった雨宮慧先生が話しておられた放送を聞いたことがある。恋も一種の「賭け」であることを考えると、理屈を一瞬超えていくところがあるのだろう。ちょうど、星野源の「恋」の歌詞みたいなところがあるのかもしれない。

         

        『恋 アメリカ大使館バージョン』 個人的には名古屋領事館の人が結構よくあるアメリカ人らしい雰囲気を醸し出している。

         

        ところで、元に戻すと、信仰を持つということはどういうことか、ということに関して、一種の論理を超えたものであると同時に、プロセスでもあるということに関して、ライトさんは、引用した部分で次のように述べているところが印象的であった。「突き詰めて言えば、神がイエスを死からよみがえららせたと信じるとはそうしたことであり、神がどのような方で、なにを成し遂げ、いま何をなしているかを信じ、信頼することである」という部分であった。一種の信頼であり、信頼を積み上げていくプロセスであり、過去のことだけではなく、現在も現在のこの地に関与しておられるという意味で、「いま何をなしているかを信じ、信頼する」ということは案外大事なんではないか、と思う。

         

        確かにイエスの十字架と死と復活は重要である。それを強調するのは悪くないとは思う。また、将来の天国への約束があることも大事ではあるが、その結果として、今ここにある神との生活が消え失せてしまっているのではないかということ思うと残念でならない。米国において、そして、その米国の神学的思惟の影響を積世っく受けている日本の福音派と呼ばれる教会での問題を、ウォルター・ラウシェンブッシュの『キリスト教と社会の危機. 教会を覚醒させた 社会的福音』の本に、様々なキリスト教の関係者からの応答が含まれている本の邦訳が出ている。この本はなかなかよろしいと思う。その書籍の中で、『キリスト教と社会の危機. 教会を覚醒させた 社会的福音』でトニー・カンポロは、次のように述べている。

        キリスト教国アメリカのかなりの部分が、神の国はあの世にしか属していないと考えたのだ。(『キリスト教と社会の危機. 教会を覚醒させた 社会的福音』 p.132)

         

        日本の多くのキリスト者のなかには、現在も尚、「神の国はあの世にしか属していない」と思いこんでおられる方は多いのではないか、と思う。ところが、実は神の国は将来のことだけとは違うのであり、現在のこの世界にもその一部がちらっと来ていると思うのだが。

         

        信仰への招き

        この部分を読みながら、いつもの聖公会の聖餐式の時に司祭がいう言葉を思い出した。それは、


        Draw near with faith.
        Receive the body of our Lord Jesus Christ
        which he gave for you
        and his blood which he shed for you.
        Eat and drink
        in remembrance that he died for you,
        and feed on him in your hearts
        by faith with thanksgiving.
        God's holy gifts
        for God's holy people.
        Jesus Christ is holy,
        Jesus Christ is Lord,
        to the glory of God the Father.

                    
        We do not presume
        to come to this your table, merciful Lord,
        trusting in our own righteousness,
        but in your manifold and great mercies.
        We are not worthy
        so much as to gather up the crumbs under your table.
        But you are the same Lord
        whose nature is always to have mercy.
        Grant us therefore, gracious Lord,
        so to eat the flesh of your dear Son Jesus Christ
        and to drink his blood,
        that our sinful bodies may be made clean by his body
        and our souls washed through his most precious blood,
        and that we may evermore dwell in him, and he in us.
        Amen.

         

        である。太字の部分は全員で読む。神が聖餐式に招いておられるという理解がよく現れている。それと類似のこととして、信仰へ我々は招かれていることについて、ライトさんは次のように書く。
         

        信仰への招きには、こうした両面がある。その招きとは、真の神である世界の創造者が、あなたも私も含めた世界全体をこよなく愛し、御子イエスの人格を持ってみずからこの世界に来られたこと、そして、その方が死んでよみがえることで悪を滅ぼし、すべてが正されるほうへと導き、悲しみを喜びに帰る新しい世界の創造を開始された、と信じることである。(同書 p.292)

         

        信仰への招きは、すなわち、聖餐への招きでもあるとは思うのだ。だからこそ、聖餐は大事だと思うのだ。聖餐は、我々が正されつつあることを、神との関係を深めつつあることを覚える象徴でもあると思うのだ。だからこそ、聖餐は軽んじてはならないと思うのだが、多くのプロテスタント派の場合、聖餐があまりに軽んじだれているように思う。実は残念なことに。上の引用部は、まさに聖餐が象徴していることだと思うのだ。

         

        あと、大事なのは、「真の神である世界の創造者が、あなたも私も含めた世界全体をこよなく愛し」という部分である。多くの日本のキリスト教徒の場合、特に若い方の場合、

         

        真の神である世界の創造者が、私も含めた世界全体をこよなく愛し

         

        が中心になっていることが多く、

         

        真の神である世界の創造者が、あなたも私も含めた世界全体をこよなく愛し

         

        といったように世界全体のつけ足しとしての私、というか、世界のうちの私、という私の存在の側面が割と軽いところである。

         

        私、という存在の強調は、まぁ、若気の至りといえば若気の至りであるが、Meism(自己中心主義)という感じが若干するのである。アメリカは、トランプ大統領の発言”Americans comes first”でみられるように、基本文化として、Meismの国であり、若気の至りを生きている国でもある。だから、若者受けがいいのかもしれない。

         

        http://www.thegatewaypundit.com/2016/05/57-americans-agree/ から

         

        しかし、本来は、私とは関係のない人を含めた私たちであり、あなたも私もという水平性に強調がある共同体が重要なのではないか、と思う。

         

        こないだ、今イングランドにいる聖公会の日本人司祭とお話していたとき、イングランドにおけるパリッシュと共同体は、乞食も女王も一緒に聖餐に与るのが、本来のパリッシュある位は共同体の意味であり、キリストの前に王も古事記もない、というのを聞いて、あぁなるほどなぁ、と思った。この辺の成熟が日本のキリスト教に欲しいところであるのだなぁ、と思う。現状は、貧乏人共同体か、金持ち共同体か、サラリーマン共同体の教会ならまだましで、年金生活者共同体のような教会も少なくはないような気がするが。日本のキリスト教界の現状を見ながら、本当に、年金生活者共同体ができ上がりつつあるようなきがする。

         

         

         

        We are called (我々はまねかねている)という賛美歌

         

         

        カエサルのメタファーでキリストを語るパウロ

        もう、説教の聞き手として生きていることが多いので、ギリシア語聖書はよほどの必要に応じてしか見ないので、何とも言い難いが、ライト先生によれば、どうも、パウロがキリストについて語るとき、当時のローマ帝国支配下でのギリシア人がキリストについて、ローマ帝国の皇帝に従うようなイメージの語を語っていると、以下のように指摘している。

         

         

        しかし、自分の道徳的努力によって神からの行為は得られないという事実は、信仰への招きでもあるという事実を無にするものではない。実際、服従への招きでもあるべきである。なぜなら、イエスは、世界の正統な主であり、支配者であると宣言しているからである(パウロがイエスについて用いた用語は、それを聞いた人たちに、当時の皇帝(カエサル)。について言われていたことを思い出させたようだ)。だからこそぱうろは、「信仰の従順」について語ることができた。(同書 p.293)

         

        ここで、服従への招きという言葉が語られているが、この概念を理解するためには当時の地中海世界の、社会制度システムの理解が必要なのではないか、と思う。それはパトロン―クリエンティス システムではないか、と思うのだ。今のゲーム論で言う Principal -Agent 関係である。パトロンとクリエンティスは、一種の運命共同体を血縁によらない関係で養子と養父母というような関係を結ぶことで、その個人の社会的な生活を支援するソーシャル・キャピタルを生み出すものなのである。つまり、クリエンティス(養子)は、パトロンを養父(母)になることをお願いすることで、万が一自分の血族に不幸があっても最低限の個人の支援システムはパトロンから得られるし、パトロンはパトロンで、クリエンティスから、その支援そのものは弱くても、もし自分に不幸が起きたときにも支援が得られる関係を構築するのである。何かに似ていると思ったら、まさにそれは、カトリック教会でのGod Father God Mother制度(代父、代母)なのである。そして、司祭と信徒の関係も、それに近いものなのかもしれない。

         

        映画 God Fatherの予告編

         

        ある種の運命共同体を形成するから、Principalないしパトロンになる人は誰でもよいわけではなくて、判断力があり、実力がある本当の実力者でないといけないのだ。その意味で、誰をパトロンにするかは、クリエンティス側にとって重大な問題であるのである。その意味で、キリスト、ないしイエスをパトロンにしたのが、キリスト者、ということになるのだろう。

         

        ここで、『従順』という言葉が出てきているが、これは、問答無用でいわれたことに何でも従うような『従順』というよりは、今の日本語では、その人の実力とその人の能力を信じた上での、心酔とか、心従という語が持つ感覚に近いと思うのだ。心から安心して任せた上で、それで従っていくということであるとおもう。

         

        ところで、安心もできないし、いろんなことをまかせることもできない相手であっても問答無用で従う、という一部のカルト化したキリスト教会で牧師がいうような、問答無用で「牧師のいうことに絶対従え」的な服従ではないように思うのだなぁ。

         

         

        その意味で、問題は現代の日本語でのコンテキストでの『従順』や現代英語のObiedienceという語にしても、相手を信頼してそこに委ねるという信頼関係としての『従順』というような意味合いがかなりなくなっているのが、実に残念であり、そのそもそも論としてもっていたものがない形で、聖書を語る意味、ということのある面での怪しさ、怖さを感じるなぁ。

         

        相手が信頼できないようなサーバーに対して、クライエントになるというのは、Web前提の社会ではある面当然なんだけど、それはやっぱりやりたくない、と思う。

         

        https://www.amazon.com/CLOUD-CLIENT-SERVER-MODEL-SYSTEMS-ebook/dp/B00ZS53BWG より

         

        信用できないサーバー運用会社でのサービスを受けないように、信用できないパトロンのクライアントにはなかなか慣れないものなのかもしれない。その辺はネットのクライアントーサーバーシステムとパトロンークリエンティス関係はその意味で、本来的には、よく似ているように思う。

         

        次回へと続く

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

        2017.04.24 Monday

        『福音主義神学会 西部部会・2017年度春季研究会議』でしゃべってきた

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          いろいろお世話になっている方からチャレンジを受けたので、「おうさ」といった手前、ガチの神学論文への応答を神学的知識を用いないで応答する(といってもちろん、ラウシェンブッシュ先生登場するは、カンポロ先生登場するは、ライト先生登場するは・・・ではあったが)、応答した論文のようなものをここに記載しておく。一応、論文は書いたが、それを文字通り読むというような野暮なことはそもそも論としてする気がないので、面白おかしく発表した。発表用のスライドは最下部につけておく。

          応答論文 「現代社会における「諸力としての罪」の露頭」

          「諸力としての罪 副題:ユダヤ黙示思想の文脈の中のパウロから考える」への応答

          by ミーちゃんはーちゃん


          はじめに ― 応答者としての迷い
          山口論文を拝読した時、このような学術的に完成度が極めて高い神学論文に、果たして応答する能力が一般信徒の応答者にあるのだろうか、と正直当惑した。せいぜいこの論文の表面を撫でる程度、と言うのが初見での応答者の偽らざる心境である。
          とは言え、挑戦を受けたからには応答してみたくなるのが、そもそも「諸力としての罪」の影響下にある人間である応答者の悪いところであり、そのようなものの不完全な応答であることを、まずご理解、ご諒解賜りたい。


          山口論文を読んだとき、最初に素朴に思ったことは、「あぁ、さすが、N.T.ライトの『シンプリー・ジーザス』の共訳者…」であった。本ブログでも今月上旬、このことに少し触れた

           


          N.T.ライト著『シンプリー・ジーザス』を読んでみた(1) (04/08)


          N.T.ライト著『シンプリー・ジーザス』を読んでみた(2) (04/10)

           

           

          が、本論文を理解する上での手がかりになるのが、『シンプリー・ジーザス』の後半部分ではなかろうかと思料する。同書の中で、N.T.ライトは、かなりのページを割いてこの罪と悪の問題にも触れている。しかし、それにあえて触れることなく、終末論的パウロという別の視点から、山口氏は罪について論を展開しておられる。


          このため、応答者は、同書を補助線とせずに、いかに山口論文に応答するかを迷った末、応答者としての責務を果すため、社会科学の分野の視点から「諸力としての罪」の現実世界での『露頭(現れた場所)』の一部のご紹介とその周辺を考察してみたい。「諸力としての罪」とその罪からの解放、そして十字架との関わり、あるいは罪論の問題への神学的応答は、本応答者の手にあまる。よってご専門の先生方にお任せ致したい。

           

          経済学とは何だったか 諸学の神学からの乖離
          まず、その諸力としての罪の露頭を、経済の分野に求めてみたい。


          経済学はオイコノミアと以前は呼ばれ、そもそもは社会をどのように倫理的に運営できるかの学問であり、この世界のケアをするための学問であった。ジョナサン・エドワーズの時代には、神学部での牧師教育課程の最終学年に履修する科目として、経済学(政治経済学Political Economics)が設定されていたが、19世紀から20世紀に入り、経済学は一つの学問分野として独立し、神学と無縁の立場を取りはじめる。特に1940年代以降、数理経済学が隆盛し、今ではほぼ一部の分野を除き数学的素養を必要とする学問体系となっている。これまた、本来の目的を忘れて己の設定した目的に向かって突き進む、正に的外れ(ハマルティア)であり、経済学の発展史そのものが罪の学問世界での露頭となっているように思われる。


          なお、本来の目的からのズレについて科学も同様であり、自然神学として始まったものが、一部では神を否定する方向性にまで至っている。これらの学問世界での罪の露頭としての大学の実相に関しては、ハワワースが『大学のあり方』で批判的に述べているところではある。


          なお、経済学での「諸力としての罪の表れ」を表す経済学用語には、「市場の失敗」「組織の失敗」「合成の誤謬」「トレードオフ」「囚人のジレンマ」「不可逆性」などと言った語の概念があると言えよう。この類の諸概念にご関心をお持ちの方は、経済学の学部の専門課程の初級テキスト、例えば『マンキュー経済学 I ミクロ編』『スティグリッツ ミクロ経済学』等をご参照頂きたい。

           

          近・現代政治経済事象に現れた諸力としての罪
          山口論文では、黙示に関する研究者のエルンスト・ケーゼマンとクリスチャン・ベカーが両者とも、ナチス・ドイツによって引き起こされた悪夢のような現実を「諸力としての罪」の表れ(露頭)と理解していることを、“個人の罪を超えた社会的・構造的な罪と悪”(山口 p.16 )とし、さらに、” 日本の教会がしっかりと対峙できなかった日本の軍国主義“の問題も「諸力としての罪」の一つの現われではないか、とご指摘である。


          より現代的な課題として、” 21世紀においてもナショナリズムが再び盛り上がりを見せ、大きな波紋”(同 p.20)が社会に巻き起こっていること、さらに、その背景に、”極端な経済格差を生み出す経済のグローバリズム“があり、イギリスの聖書学者のリチャード・ボウカムの

          経済のグローバリズムを背後で支える全ての市場を支配しようというイデオロギーは、イエスの宣べ伝えた、互いに仕えあうことを特徴とする「神の王国(神の支配)」とは真っ向から対立する


          という表現を引用しつつ、罪と経済の関わりを紹介しておられる。


          このグローバリズムが支配する経済現象に関する応答者の理解を、少し紹介してみたい。1960年代以降の開発経済学とそれに支えられた経済開発の分野では、発展途上国の経済発展に資するという美しい理由のもとで、比較優位論に基づく収奪行動が行われてきた。開発経済学は、このような収奪を理論的に正当化するに資してきたとも言える。

           

          近年の経済開発は、19世紀から20世紀初頭にかけての植民地経営という国家主導のプランテイション経済制度に代わって、先進国の銀行シンジケート団や政府援助ODAなどを介した、経済援助の美名のもとでの先進諸国の経済的実効支配の下に、発展途上国とその国民を捕囚する制度を固定化してきたともいえる。

           

          労働市場に現れる諸力としての罪
          一方で、この比較優位論は先進国からは単純労働力市場の雇用の場が海外の低廉な労働力が豊富な途上国へアウトソーシングされることで、先進国労働市場での単純労働力は、国内向けの対個人サービスを中心とした過酷になりやすい職場のみで必要とされることになる。その結果として、先進国に存在する単純労働力にとっての労働市場は、短期の不安定な雇用形態である非正規雇用の従事者(例えば、派遣労働者)を大量に生み出したし、我が国では研修生制度という美化がされながら、発展途上国からの実質的移民労働力が必要とされた。米国では、不法移民がその単純労働力の供給主体となった。このような移民労働力が提供された結果、先進諸国においてもNEET(Not in Education, Employment or Training)層やホームレス、若年失業者層を生み出し、社会の不安定要因を内在化させることになる。それが、移民排斥運動、ヘイトクライム・ヘイトスピーチなどの諸混乱を、先進国社会において生起せしめていると考える。


          我が国では、自身がニートであることをみずから揶揄し、自宅警備員と称して自らを揶揄する歌が若者の中でもてはやされている。以下では、『ヱヴァンゲリヲン』と呼ばれるTVアニメの主題歌に載せた『残酷なニートのテーゼ』という替え歌を紹介しつつ考えたい。

           

          『残酷なニートのテーゼ』に現れた絶望とヘイトスピーチ社会
          『残酷なニートのテーゼ』という替え歌の歌詞は以下のようなものであり、ある種、現代の『貧窮問答歌』ともいえよう。

           

          残酷な社会の底辺 青年よニートになれ
          老いた親が今部屋のドアをたたいても
          画面だけをただ見つめて微笑んでるあなた
          暇を潰すのものレスする事に夢中で
          就職さえままならない痛いだけの日々
          だけどいつか気付くでしょうその暮らしには
          はるか未来目指すための夢が無い事
          残酷なニートのテーゼ 窓辺からやがて飛び立つ
          ほとばしるやる気の無さで両親を裏切るなら
          このドアを未だ出られぬ青年よ ニートになれ

           

          残酷なニートのテーゼ


          実に、救われることのない歌詞であるが、その歌詞を面白おかしく自虐的に歌わざるをえない青年層が日本に一定数存在することは確かであり、似たような歌詞のものに、『宇宙戦艦ニート』、『ニート自宅警備員の歌』、「ハローワークいこう【弟の姉】」、『乞』などがあり、結構傑作揃いである。才能の無駄遣い、という説は十分に認めたい。

           

          『宇宙戦艦ニート』

           

           

          『ニート自宅警備員の歌』

           

           

           

          『ハローワークいこう【弟の姉】』

           

           

          『乞』

           

          では、現代のニートなどの非就業状態の若者たちが、所謂3K職場と呼ばれるようなスキルを要しない、不安定な低賃金の職種の非正規雇用者として就業するか、というと実はそうではない。それは、高度経済成長期に蓄積された親世代、祖父母世代の世帯資産により、自宅での生活を前提とした場合、「自宅警備員」、「ヒッキー(引きこもり傾向の生活スタイル)」等と称する生活形態がかなり容易に、実現可能であること、同じく高度経済成長、バブル経済を経た日本では、都市部での生活保護での給付金額のほうが、定職であっても勤労所得による収入を上回るという皮肉な逆転現象が存在するからである。同様の事象は、欧米先進国においても発生しており(一時期の英国病など)があり、一定数の若者が仕事につかず、いわゆる才能と若さの浪費に近い状態に捕囚されている。そして、その才能と時間消費のはけ口としての活動が、マイルドヤンキーと分類される人びとによる、ヘイトスピーチへの参与などにつながる傾向もないわけではない。


          更に山口氏は、

           

          個人のレベルでも「諸力としての罪」という認識は信仰生活の実践面に大きく関係してくる。若い信仰者の方々と話していると、「自分は救われたのに、なぜ罪を犯してしまうのか?」と悩んでいる方が少なくない。(山口 p.20)

           

          と指摘した上で、それは、

          キリストにある者はその支配から解放され、もはや「罪」の下にはいないが、「罪」は滅んでしまったのではなく、キリストにあって「罪」の支配から解放された人々を、今でも自らの支配下に再び取り戻そうとうごめいている。

           

          という社会の構造を述べておられる。先にも触れた社会全体に存在する『諸力としての罪』の結果として、これまでも、現在も被造世界の機能不全という、罪の結果と深く関係しているのではないか、と思料している。というのは、先に紹介した『残酷なニートのテーゼ』に示された若者にとっての“希望なき社会”とかかわらざるをえないことが影響するからである。それを個人の問題としてはならないだろうし、それは現代的な問題ということでもない。

           

           

          『ラウシェンブッシュのキリスト教と社会の危機』を手がかりに
          110年ほど前、非英語話者ばかりの中欧圏からの移民を受け入れることになったニューヨークのヘルズ・キッチン地区で奉仕したバプティスト派の牧師であったウォルター・ラウシェンブッシュの新訳『キリスト教と社会の危機. 教会を覚醒させた 社会的福音』から一部を紹介してみたい。

           

          永遠の命がキリスト教的希望の前面に出てくるにつれて、神の国は背後に退いていき、それとともにキリスト教の社会的能力の多くも失われた。(中略)永遠の命は個人的希望であり、この世のためではなかった。(キリスト教と社会の危機 p.212)
          そして、「もしどこか古代ヨーロッパの教会の石畳の下に埋葬された聖人たちがよみがえって、近代の説教を聞くことができたら、彼らは自分たちの福音がひっくり返されたと思うだろう。」(同書 p.252)


          とも主張している。

           

          ラウシェンブッシュ


          なお、福音派左派と目されるトニー・カンポロは、同書での応答として

          キリスト教国アメリカのかなりの部分が、神の国はあの世にしか属していないと考えたのだ。(同書 p.132)

           

          とさえ現在の教会について批判しており、教会がこれまで、自らのこの地における神の王国に関与するために、本来差し伸べるべき手を必要以上に縛ってきたのではないか、と指摘しているように思われる。

           

          Tony Campolo

           

          聖書における人間への神の指示
          その意味で、どのように神の国がこの世で実現するのか、そのために生きるということは、どういうことか、神が被造世界に対し、創世記1章で神が言われた「この世界をケアせよ」、そして「見よ、それは良かった」という状態を、現代においてどのように少しでも実現しようとするのかということを、西側のキリスト教界の世界は少し忘れているのではないか、と愚考する。そして、教会(と教会を構成しているはずの神の民)が「神の国とその義」を求め、キリスト者がこの「諸力としての罪」の世界にどのように対抗していくべきか、さらに言えば、教会とそれを構成する教会員が、積極的にこの地において、頭なるキリストがもたらそうとした、「神の平和と神の義」を第1に求め、その「神の国と神の義」を継続的にもたらす民としての生き方を教会員がこの世界において示せなくなっている可能性はないだろうか、ということを真摯に検討する必要があるのではないか、と世俗の社会を生きる個人として愚考している。


          福音は、本来人びとに希望を与えるはずのものであるし、「残酷なニートのテーゼ」などの替え歌を口ずさみつつ、自身の絶望を自虐的に歌う人びと(若者)に対して、「本来、この地は希望に満ちたものである」と、神の福音は宣言しているはずであった。神の希望、神の福音に関与するための着実な歩み方があることをキリスト者の存在を通して示すように生きることに、神が信徒を招いておられるのではないだろうか。その意味で、ラウシェンブッシュの時代よりも、現代の教会のほうが、「永遠の命がキリスト教的希望の前面に出てくるにつれて、神の国は背後に退いていき、それとともにキリスト教の社会的能力の多くも失われた」というラウシェンブッシュの当時の社会の状況に関する指摘を、現代的課題として真摯に捉える必要があるのかもしれない。

           

          ソーシャル・キャピタルと教会
          実際、現代の行政学や社会学におけるソーシャル・キャピタル論のテキスト的存在であるロバート・D. パットナム『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』(全24章)という書籍の第4章全部という、かなりの紙幅を割いて、もともと米国において教会という宗教組織が、ソーシャル・キャピタル(社会を円滑に動かすための非組織型人間関係資本)が米国では教会を中心に形成されてきたものの、それが近年急速に毀損し、その価値が低下していることを、豊富な統計資料を利活用して、定量的に示している。同書で示された協会におけるソーシャル・キャピタルの毀損は、アメリカの教会が神の国を背後に退かせすぎた結果なのかもしれない。そして、現代のキリスト教会は、とくに日本のキリスト教界は、賀川豊彦がキリスト教精神に立脚しながら、戦前の日本の社会で示そうとした神の国とその義を、本来キリスト教会が蓄積してきたはずの人を支える社会的機能及び社会的資本をも失ってしまったのかもしれない、と愚考する。


          最後に、ある個人的エピソードを紹介して、参加者の皆さんへの問いとしたい。

           

          以下は、応答者が数年前に参加したことのある、神戸市内での福音派を中心とする信徒中心のある集まりでのエピソードである。おそらく、この福音主義神学会の構成員の何人かの方とも関連の深い教会の教会員の方と思われる20代の女性信徒の方が「なぜ、教会は、貧しい人への対応をしないのか。私の祖母は天理教を信仰しているが、そういう貧しい人々や困った人びとへの支援はしている。しかし、どうしてそれが教会ではできないのか?」とその座談会の席上で、他の参加者に疑問をぶつけておられたことが忘れられない。この若い女性信徒の素朴な問に、この学会の先生方が、どのように聖書全体からお答えされるのかが、現在、問われている重要な問いの一つのような気がしてならない。


          社会を良くしたい、あるいは「神の国の義、神の国の美しさ、善をこの地にもたらしたい」と考える人びと、神の民は、案外教会の中やその周辺に、潜在的におられるのである。そうであっても、我々は何ら工夫もせず、「神の国はこの世のこととは無縁だ」、と引き続き、神から与えられた自らのタラントを退蔵するように教会はその信徒に薦めるのだろうか。社会にあって教会が神の民として整えられることに関してどう考えていくべきかについては、最近邦訳されたリングマの著書『風をとらえ、沖へ出よ』でも述べられているが、同書は直接の成功の方程式を読者には与えないものの、教会と社会の問題を考える際に参考になる一書と愚行する。

           

          参考文献
          小池 和男(2005),『仕事の経済学 第3版』, 東洋経済新報社, 東京.
          作者不詳, 『残酷なニートのテーゼ』, https://www.youtube.com/watch?v=TTkGmtzKtZU
          作者不詳, 『宇宙戦艦ニート』, https://www.youtube.com/watch?v=upAZcvTbUK0
          作者不詳,『ニート自宅警備員の歌』, https://www.youtube.com/watch?v=Ame-TYT3jGU
          作者不詳,『ハローワークいこう【弟の姉】』, https://www.youtube.com/watch?v=688_XUJCm1g
          作者不詳,『乞(こい) 【原曲:星野源「恋」】』, https://www.youtube.com/watch?v=RcTKMh4CFDc
          白波瀬 達也(2015),『宗教の社会貢献を問い直す―ホームレス支援の現場から (関西学院大学研究叢書) 』, ナカニシヤ出版, 京都.
          白波瀬 達也(2017), 『貧困と地域 - あいりん地区から見る高齢化と孤立死 』(中公新書), 中央公論社, 東京.
          ジョセフ・E. スティグリッツ・カール・E. ウォルシュ(2013), 『スティグリッツ ミクロ経済学 (スティグリッツ経済学シリーズ)』, (藪下 史郎ほか共訳), 東洋経済新報社, 東京.
          アマルティア・セン(2002), 貧困の克服―アジア発展の鍵は何か (集英社新書) 大石 りら (訳),集英社, 東京.
          ロバート・D. パットナム(2006),『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』, 柴内康文, 柏書房, 東京.
          ジェイムス・バード(2011),『はじめてのジョナサン・エドワーズ』,(森本あんり訳), 教文館, 東京.
          スタンリー・ハワワース(2014),『大学のあり方―諸学の知と神の知』 (青山学院大学総合研究所叢書), (東方敬信監訳), ヨベル, 東京.
          N.グレゴリー・マンキュー(2013), 『マンキュー経済学 I ミクロ編(第3版)』(足立英之ほか共訳), 東洋経済新報社, 東京.
          ニューヨークタイムズ (編集),, 『ダウンサイジング オブ アメリカ―大量失業に引き裂かれる社会』(矢作 弘 訳), 日本経済新聞社, 東京.
          ウォルター・ラウシェンブッシュ ポール・ブランダイス ラウシェンブッシュ(2013),『キリスト教と社会の危機. 教会を覚醒させた 社会的福音』, 山下 慶親 (訳), 新教出版社, 東京.
          チャールズ・リングマ (2017), 『風をとらえ、沖へ出よ』, (深谷有基 訳), あめんどう, 東京.
          フィリップ・ヤンシー(2016)、『隠された恵み』,( 山下 章子訳), いのちのことば社, 東京.

           

           

          応答用スライド

          それで、発表で用いた応答のスライドがこちら。別にふざけているわけでないが、わかりやすいので、いろいろ仕掛けてある。Start Preziという画面中央のボタンを押すと始まる。始まったら、最下部の → をクリックすると進むし、←をクリックするとひとつ前に戻る。遊んでみてほしい。w

           

           

           

           

           

           

           

          2017.04.24 Monday

          白波瀬達也著 『貧困と地域』 (中公新書) を読んでみた

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            冥土喫茶『ピュアランド』の講師の本…

            この本の著者が、今度6月10日開催予定の『冥土喫茶 ぴゅあらんど』のゲストでいらっしゃることと、本日開催される聖書関係のある講演に対する応答を頼まれたので、関連書籍として、真面目にこの本『貧困と地域』も参考文献の範囲に入れていたので、この本を読んだ。

             

             

            『冥土喫茶 ぴゅあランド』のデジタル画像フライヤー

             

             

            ミーちゃんはーちゃんが買ったときのこの本の帯がなかなか印象的である。

             

             

            急激な高齢化

            生活保護受給者の増加

            劣悪な住環境

            この町から見る日本の課題

            社会的孤立の広がり

            身寄りのない最期

             

            読後感を少しタラタラと述べてみたい。

             

            日本の社会的課題の見本市のようなドヤ街で

            あいりん地区というのは、東京の山谷と並ぶ日本有数のドヤ街である。ドヤ街といっても、ドヤ顔をして人々が行き交う街路ではない。

            職能が低い(したがって、給与といっても日給であるが、手取り収入が少なく不安定な雇用形態での労働にかかわる)土木・建設作業を行う短期雇用型の個人事業主であり、派遣労働に携わる個人事業主の皆様、派遣労働者として働く皆様が低廉な価格で宿泊することができる宿泊施設が集中的に立地する地区である。なお、このドヤ街の周辺部にあるのが、じゃりン子チエの世界でもある。

             

            じゃりんこチエ(西萩小学校の小学生でありながら、諸般の事情で焼き鳥店を経営する、自称”いたいけな少女”の日常生活を描いた漫画が原作)

             

             

            この本は、ある面、あいりん地区という日本の中の社会問題が集中的に発生している特殊な地区を、敢えてフィールドワーク対象として選んだことで、日本の現代社会の社会問題とその構造を浮き立たせ、そこで起きていることが日本に時間をかけ、ゆっくりと、さまざまなバリエーションを作り出しながら、日本のあちこちで同じような現象が起きることを予感させる本に仕上がっている。

             

            超人を目指した挙句に生まれた現在の日本社会の現状

            地方で起きてないのは、劣悪な住環境ぐらいであるが、それとても、住宅の老朽化と不十分なメンテナンスや、リフォームが十分に行われないこと等により、持ち家であっても、劣悪な住環境が生まれる可能性はあるし、現実に地方部では、人が居住しながらも、劣悪な住環境となっているような住宅が多発している模様である。

             

            地方部の高齢化が異様に進行した農山村部のみならず、いわゆる都市部に存在する限界集落でも、それは老朽住宅問題は、起きているように思う。そして、社会的孤立や身寄りのない最期、というのは日本が高度経済成長期に理想形とした近代社会を選択したことの当然の帰結であると思うし、それがそこまで悪いことなのか、と個人的には思う。近代は、すべての人が、ニーチェのいう『超人』であることを前提とした社会であるので、超人を目指した皆様としては、大いなる諦念をもって、死を個人として受け入れ、迎えるしかないのである。

             

            何、『超人』といってもこっちの方ではない。

             

            正に文字通り、超人w http://adventure-king.com/2016/07/11/miosutatinn/ より

             

            超人ハルク http://www.reks.jp/shop.cgi?id=1104731 より

            超人ロック https://www.amazon.co.jp/dp/B000AHJ8BA より

             

            超人あーる https://www.amazon.co.jp/dp/B00ANHM2KG/ より

             

            『超人』になれなかったつけをごまかさないで

            それをこの期に及んで、「いや、家族が大事だ、いや日本の伝統的社会が美しいものでもあるので、その本来の日本の美しい伝統がウンタラカンタラ、という某公党があるが、「そんなの、あんたらがさんざん破壊しといて、今になって、いろいろまずいことが起きたからといって、つけの奉賀帳をわしらに回すのはやめてほしいなぁ」と思うのである。こうなると、もはや、それは奉賀帳でもなんでもなく、罰金帳のようなものでしかない。

             

            ところで、その美しい伝統社会が本当に昔から存在したのか、いつの時代に典型的であったのか、それはその時代において普遍的現象であったのか、共同幻想ではなかったのか、という点に関しては、めちゃくちゃ怪しいのだが、そのあたりを厳密に定義せずに日本の伝統文化とか伝統社会を守ろう」とか宣うから、個人的には、「頭がおかしいのではないか」とか思いたくなってしまう。

             

            そのあたりの定義と現行の社会システムである個人主義を法的に放置したまま、美しい日本文化を守れ、とか家族システムを守れ、ということを道徳教育でやりたいとかいうから、「そんなもん、どうのこうのならへんやん。そこまで言うんやったら、あんたら大政奉還したらええんちゃうん?」って思ってしまう。まぁ、「今の政権政党の皆さんの有力者のご出身県のご先祖様たちは、それを徳川家に飲ましたんやから、今度はあんたらが飲む順番ちゃうん?そいで、東京放棄して、奈良で天皇制するんが一番なんちゃうん?これは、太政大臣と大蔵卿と、大蔵省を制度として、再興したらよろしいやん?」とベタな関西人としては思ってしまうけど。

             

            あおによし 奈良のみやこは・・・ http://p.twipple.jp/CzzWf から

             

            さんざっぱら、『超人』目指しつつも、『超人』としての生活を全うできなかった、あるいは、どう考えても全うできそうにないご高齢者の皆様(票田としては、この世代は人数が多いので、政党にとっては、おいしい世代)だけが得する弥縫策的なシステムを粗製乱造するのではなく、見識がある政治家としては、超人を目指したご高齢者の皆様には、「皆様、超人として、是非とも、最期をお迎えになってください」とお願いする方が、よほど格好がいいと思うけど。

             

            そもそも、人間は『超人』になれないのだったら、それを素直に数の多い有権者に認めさせること、そして、それを防止する社会制度を作るのが、政治家の役目だとは、思うけど、違うかなぁ。それを初等教育も、それも道徳なんかでやろうとするから、1000ピースぐらい欠けた、10000ピースの3次元ジグゾーパズルを脳内でやる状態になるんじゃないか、と思う。

             

            余談に行き過ぎた。書籍の紹介に戻そう。

             

            弱さを抱えた人々と教会

            大阪のこの『あいりん地区』と呼ばれる地区には、貧困ビジネスと呼ばれる、生活保護や年金を狙った一応表向きはまっとうなビジネスのふりをした、かなり怪しい対個人サービス事業者が活躍してたりする。いま、『子どもの貧困』が教会関係者の中で話題に上がったり、『子ども食堂』が教会関係者の中で話題に上がったりもするが、カトリック教会は、信徒数の高齢化にもかかわらず、システム的にこの種の活動を実践する伝統(Confraria di Mizericordia キリシタンは、慈悲の組と呼んだらしい)もあり、このような対応がいち早く行われている教会群が多いが、プロテスタント系の教会で、日基、社会派と呼ばれる教会関係の人々は別として、特に福音派の教会では、このような対応に積極的に乗り出している教会は、数が少ないように思う。とはいえ、ぼちぼち、このタイプの実践行動に出ている教会はないわけではない。

             

            なお、コンフラリアの伝統に関しては、聖トマス大学の公開講座の記録 『→危機の時代におけるキリスト教の霊性のありかた』 が割とわかりやすいが、専門の入門書は、上智大学の川村先生の本がよいと思う。

             

            この本で明らかにしようとしているのは、日本社会の中での弱者救済のための人間関係組織、あるいは、人間関係ネットワークとしてのソーシャル・キャピタルが、現代においてどう機能するのか、特に貧困と孤独死問題に関して、現代社会の醜い断層が表れる「あいりん地区」を題材に考えてみようというものである。

             

            個人的に面白いなぁ、と思ったのは、この中でそのソーシャル・キャピタルのかなりの部分を提供しているキリスト教会の働きに関する記述と、その多様性に関する表現である。いわゆる釜ヶ崎地区とも呼ばれるあいりん地区では、かなり古くから、キリスト教界がそこでの労働者の人間性の回復のため、奉仕活動を実際にしている。最も有名な人物が、本田司祭である。この司祭に関しては、いろいろあるので、人により評価は分かれるけれども。

             



            物議をかもす発言連発の日本宣教学会2015年の基調講演での本田司祭
             

             

            本田司祭については、こちらを参照
             

             

            同書から

             同書を読んで、キリスト教に関して、これは面白いと思ったのは、この部分である。まず、一般論として、キリスト教徒弱者支援についてこのように白波瀬氏は述べる。

            1970年代のあいりん地区では、公的機関によるあいりん対策と労働運動が対立しながら、結果的に両者が住み分けるようにセーフティネットが形成されてきた。これによって、同地区で発生する課題が幅広く対応されてきたかのように見える。しかし、実際には間隙が数多く存在した。特に、女性、児童、傷病者、高齢者たちは、公的なセーフティネットからも労働運動からもこぼれ落ちやすい存在であった。その弱い立場におかれがちな人々に対し、積極的な支援を講じていったのが、キリスト教関係者である。

             

            様々な不利が折り重なる地域では、キリスト教関係者が根を張った活動を展開することが珍しくない。例えば、寄せ場(東京の山谷や横浜の寿町など)やエスニック・マイノリティの集住地域(大阪の猪飼野、京都の東九条、川崎の桜本など)では、公的機関によるセーフティネットが脆弱であることから、キリスト教関係者が独自のセーフティネットを形成しており、その存在感は相対的に大きい。これらの地域はキリスト教の重要な理念とされる隣人愛を実践する場所として見出されやすいのだ。(『貧困と地域』p.41-42)

             

             

            ここでの主張にミーちゃんはーちゃんは、そのとおりだと思う。ここでは、セーフティ・ネットといっているが、それはとりもなおさず、ロバート・パットナムが『孤独なボウリング(英著名 Bowling Alone)』などで述べたソーシャル・キャピタルの一部のことである。これらの地域では、日本の教会が、ソーシャル・キャピタルを持たないために各種の組織や制度の救済策から「こぼれ落ちやすい存在であった」「女性、児童、傷病者、高齢者たち」といった人々に対するソーシャル・キャピタルを提供していき、しかるべき組織(例えば、行政組織)につないだりしながら、対応していったことが述べられている。

             

            全部を教会では抱えられませんし
            教会でこういう福祉的な話をすると、すぐに、「全部教会で抱えるのは無理だ」という正論が出てきて、それで以上終わり、沙汰止み、になってしまっていることが多いと思う。そもそも、「教会で全部抱える」必要はないのだ、必要な緊急対応が終わったら、警察なり、地方自治体なり、医療機関なりにつなげばいいのだ。それを最初から最後まで、そして、何でもかんでも全部抱え込まなければならないと思いこむから、前に進まなくなってしまうのだ。これは、近代の白か黒か、ゼロかイチか(というよりは、ゼロか無限か)で考える近代人の悪い癖だと個人的には思っている。できることしかできないし、「できないことはできない」「無理なことは無理」といってよいとは思うのだ。我々は、人間であって、神ではないことは忘れてはならない。人間に、人間は救えない。キリスト者であれば、この事実は重く受け止め、無理なヒロイズムはやめた方がよいと思うのだ。

             

            ドヤ街での長い活動の歴史を持つキリスト教グループについて
            さて、著者によれば、この地域で活動する人々として2種類のキリスト教グループが取り上げられている。まず第一のものとして、
            釜ヶ崎キリスト教協友会は、プロテスタント、カトリックの教派を超えたエキュメニカル(超教派的)なネットワーク組織で、布教を目的とせず、「人を人として」をモットーにあいりん地区を取り巻く様々な問題に関与するようになった。
             宣教師たちは日本で活動を開始した当初、キリスト教の布教に対する熱意を強く持っていた。しかし、それがあいりん地区では容易に受け入れられないという経験をして、活動の方向性を変更していった。つまり、単に信者を増やすのではなく、キリスト教の理念に基づき、弱い立場におかれた人々のニーズに対応することや、貧困や差別を生み出す構造的な問題に向き合っていくことこそが宣教である、ととらえ直していったのだ。(同書 p.44)

            という記述がみられる。特に、「単に信者を増やすのではなく、キリスト教の理念に基づき、弱い立場におかれた人々のニーズに対応することや、貧困や差別を生み出す構造的な問題に向き合っていくことこそが宣教である」というのは、最近のキリスト教界隈の流行語で言えば、Missio Deiそのもののような気がする。このあたりのことは、昨年神戸で開催されたJCE6 第6回 日本伝道会議のキーノートスピーカ―であった、クリス・ライトさんの講演の主要な主張であった。これに刺激を受けて、知人の一人は東大阪地域で「子ども食堂」を始めていくことになる。ただ、参加者の多くは、伝道会議のクリス・ライトさんのキー・ノート・スピーチに感激はしておられたものの、ピンと来てない人も結構、多かったように思う。まだまだなのだなぁ、と思った。

             

            万博闘争という黒歴史

            それほど、60年代後半の、日本基督教団の「社会派教会派闘争」あるいは万博闘争の後方乱気流は福音派においても、強かったのだなぁ、と実感した。大体闘争とかいうマルクスさん関係者の用語が出てくるあたりが、時代を感じさせてしまうが、この「闘争」は今の60代や70代の方が若者だったころの、日本のプチインテリの流行語であった。ミーちゃんはーちゃんが大学生だったころには、成田闘争という語があり、最後の成田空港をめぐる実力闘争が三里塚で行われたのを記憶している。

             

            カール・マルクスさん

             

            カール爺さん (英語タイトル Up)

             

            カールおじさん

             

            以上、カール繋がり、三段落ちでした。


            三里塚闘争 なつかしい

             

            成田闘争

             

            まぁ、この「社会派・教会派闘争」、あるいは「万博闘争」にしても、どちらか一つに教会の関心事を合わせようとしたゆえの悲喜劇であって、本当は社会派的か教会派的かという議論のアプローチの仕方がおかしかったのであって、本当は両方、ってのが正解ではなかったか、と思っている。

             

            宣教とはキリスト教に改宗させることか?

            そして、もう一方の後発組のキリスト教集団について、白波瀬さんは、こうサマリーしている。

             

            新規に参入してきたグループは、いずれも未信者を対象にした「伝道集会」をおこなっており、そこで食事を配布している。野宿者は収入が極端に少ないため、自前の食事をとることが難しい。その為伝道集会で出される食事は彼らの「生」を大きく左右するものとなっている。ホームレス問題が深刻化した1990年代の後半からあいりん地区及びその周辺では食事の提供を伴った伝道集会が、毎日複数回、開催されるようになった。

             これらの活動は救世軍をはじめとする伝統的な教派によるもののあるが、主導的な役割を担っているのは、1990年代以降に韓国から信者開拓のためにやって来たプロテスタント教会群である。韓国人牧師たちは、あいりん地区に暮らす人々を物質的にも精神的にも、欠乏していると捉え、不況を積極的に行った。

             伝道集会の担い手たちの主目的は、野宿者をキリスト教徒に改宗することだ。その手段の一環として食事が提供される傾向がある。そのため、一般的には宗教活動だとみなされているが、野宿者にとっては縦横な社会資源の一つとして位置づけられている。(同書 pp.79-80)

             

            キリスト教、擬人化マンガピューリたんの登場人物の救世軍さん 右端その上には、無教会チャン、左端がピューリたん

            教派擬人化マンガ ピューリたんが読めるのは、キリスト新聞だけ…

             

             

            この後発組の目的が伝道というよりはキリスト教への改宗というところが面白い。先行組の概念は、神の宣教 Missio Deiの理念系に基づいており、人間の(一時的)回復を目標とするが、後発組は、「キリスト教への改宗」を目標としているところにその特徴がある、として描かれている。

             

            所謂伝統教派や日本基督教団の一部では、「神の被造物としての人間」の回復が「宣教」であると捉えるのに対し、キリスト教後発組のいわゆる福音派の多くでは「キリスト教徒になる、と宣言させること、即ち、キリスト教への改宗」という狭い概念で宣教をとらえていることが形に現われているように思われる。いわゆる、あいりん地区で活動をするキリスト教系集団の後発組では、戦後に活動が始まって、今年で60年くらい、あるいは、1990年代から30年くらいの伝統しかないから、神学的にも、資金的にも、余裕がないから、近視眼的に「何人がキリスト教徒に改宗したのか」が問題になるのかもしれない。まぁ、一般向けの新書なので、この程度の表現にとどめておられるのだろう。なお、白波瀬氏は、専門書をいくつかご出版されているから、このあたりの教派としての違いやその要因などは専門書を見るべきなのだろう、とは思う。

             

            ドヤ街での新旧キリスト教の集団の宣教理解の違いについて

            そして、先行組と後発組キリスト教集団の間の関係について、学問の文章としてのお約束でもある価値判断を明確に避ける、という大原則に立ち、白波瀬氏は次のように書いている。

            近年のあいりん地区では、教友会に典型的に見られるような、布教を伴わず、もっぱらあいりん地区に暮らす人々の権利擁護と生活環境の向上に尽力する「運動型キリスト教」と、伝道集会を通じて信者を獲得しようとする「布教型キリスト教」のそれぞれが多様に存在している。それらはキリスト教を基盤にしながらも、あいりん地区に暮らす人々へのまなざしや活動の方向性が大きく異なっており、協働関係は見られない。(同書 p.82)

             

            この文章に指摘されている様な協働関係構築の「下手くそさ」加減は、日本のキリスト教に特有のものではないか、と思う。最近では、少しその傾向は和らぎつつあるものの、妙なところで、この協働関係への抵抗勢力という確固たる岩盤が露呈することがあり、驚くことがある。どうも、自組織(自教会)優越主義というか自組織(自教会)中心主義というか、地動説的な言説がキリスト教界内のあちこちに地雷のようにうまっているようで、その地動説的な言説を不用意に踏むと、ろくでもない目に合うことが多い。経験者は語るw、ではあるが。

             

            生きている間はキリスト教に、死んだら仏教に…

            そして、これらのキリスト教系団体についてのホームレスの人々の感覚がわかる部分が、第4章「社会的孤立と死をめぐって」の中にあるので、最後にその部分をご紹介したい。

            「生きている間はキリスト教の世話になっても、死んだときは仏教の世話になりたい」と語る野宿者は少なくない。早晩あいりん地区でもこうした活動のニーズが高まってくるであろうし、実践(葬送)の担い手として宗教が果たす役割は今後さらに大きくなるだろう。(同書 p.161)

             

            伝統教派は、教理の観点からも、この辺の「死んだときは仏教の世話になりたい」というホームレスの皆さんのご発言は、まだ、割と受け入れやすいとは思うのだが、なにせ余裕のないのが、新興プロテスタント(だって、伝統教派には2000年近い歴史はあるが、西洋では宗教改革以降500年、日本では、この60年余の伝統しかないところが多く、あっても150年余である)の特徴でもあるので、こういう生の声というか本音を聞かされると「キェ〜〜〜〜〜」というような奇声はあげないにせよ、「え、っつ」とか、顔の表情に影がよぎる教会関係者は多いと思う。しかし、「生きてるときはキリスト教、死んだら仏教」というのは、現在の多くの日本の皆さんの本音に近いものの反映ではないか、と思うが、神道関係者の出番がないのが、神道関係者の皆さんにとっては残念なことかもしれない。

             

            ショパンの超有名な『葬送行進曲』

             

             

            「生きている間はキリスト教、死んだら仏教」と平気でいう人たちと、日本の教会と教会員は向き合っていかないといけないのである。そのあたりの事は、宣教論、あるいは神の民としてどう歩むか問題なので、もうぼちぼち、正面切って、日本の教会は考えていくべきだろう。

             

            この本は、是非ご購入ないしは、公共図書館でお読みになられることをお勧めするの一冊である。この本を手がかりに、今のキリスト教会を、キリスト教という枠を少し離れて、見直すことはできるのではないかなぁ、と思う。買っても、800円プラス税である。このくらいは買ってほしいなぁ、と思う。

             

            また本書は、
             

            2017年4月24日(月)、即ち、 本日 10時から神戸市垂水区塩屋の神学校で開催される
            日本福音主義神学会西部部会・2017年度春季研究会議
            基調講演「諸力としての罪」:山口希生氏(東京基督教大学共立基督教研究所研究員)

             

            への応答論文を書くうえで大変参考になった1冊であった。

             

            応答論文では、参考文献には上げておいたが、時間の関係で、今回応答論文中で紹介したかったのに、詳細にはご紹介できなかったので、ここにお示ししておく。

             

            おまけ 日本のキリスト教とソーシャル・キャピタル研究
            ところで、福音派というキリスト教側でのソーシャル・キャピタル研究はどこまで進んでいるか、というと、どうも、ほぼ皆無の模様である。実際、『データブック日本宣教のこれからが見えてくる キリスト教の30年後を読む 』といういのちのことば社から出て、JCE6で一押ししていた本があるが、これがどうしてどうして、「いけませんねぇ」の本なのである。統計処理はないは、データ収集方法はでたらめ、社会調査法がなってない、教派全網羅的ではなく、福音派中心…ちゃんと社会調査方法論を実務レベルで学ばないとだめですねぇ、の本であったが、これしかないのが、キリスト教なのである。

             

            そのことは多少は、この本『データブック・・・』の執筆にあたった人たちも意識はしていたようで、次のように書かれている。
            このようなキリスト教会における宣教理解の働きとは別に、2.1項の「課題と展望」でも述べたように「宗教の社会貢献」、「ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)としての宗教」が注目されるようになってきた。東日本大震災以降、そうした動きが活発化したこともあり、地域社会に対する宗教の公共的役割に対する期待が高まっているともいえる。
            すでに地域のソーシャル・キャピタルとして、歴史的にも地域と長く深いかかわりを持ってきた仏教寺院や神社などの実践事例や理論的研究も数多く行われている。こうした面において、現状ではキリスト教会は後れを取っているといわざるを得ない状況ではないかと思われる。(『データブック日本宣教のこれからが見えてくる キリスト教の30年後を読む 』 河川太字は筆者 p.87)

             

            しかし、人口減少社会と寺院: ソーシャル・キャピタルの視座から』を読んだミーちゃんはーちゃんとしては、実践事例どころか、『人口減少社会と寺院』においては、ほぼ主要宗派にわたる統計データが網羅的にそろえられていることをみると、『データブック・・・・』の本は、もう見るに耐えないというか、情けないというか、見るだけ悲しくなる本であった。そもそも、ソーシャル・キャピタルを言い始めたロバート・パットナムの最も重要な著書、『孤独なボウリング Bowling Alone』すら参照されてないし、同書の中に、教会とソーシャル・キャピタルで1章が設けられているなどのことは一切触れられていないのである。もう、まじめにやる気があるのか、と思うレベルの本であった。まぁ、まったく存在しない、よりまし、という程度の本であった。「現状ではキリスト教会は後れを取っているといわざるを得ない状況ではないかと思われる」という表現はあまりにも脳天気ではないか、という気がする。個人的感想としては、もう日本の教会ではソーシャル・キャピタルは完全に無視されているか、理解もされてない、黙殺に近い状況だと思う。その意味で、白波瀬さんの著書は、日本のキリスト教徒ソーシャルキャピタルに関する研究、それも、フィールドワークに基づく研究として、実に重要、いや、非常に貴重だと思う。

             

             

             

            ミーちゃんはーちゃんによる福音主義神学会西部での応答論文の改変版(充実版)は、本日の深夜、このブログ記事として、即日公開する予定である。

             

             

            以上 この記事独立記事。

             

             

             

             

            完 C’est fini.

             

             

             

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            コメント:お勧めしてます。この分野考えたい人にとっては参考になるかも。

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            (2015-06)
            コメント:こっちの方がより専門書的

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            コメント:是非。

            2017.04.22 Saturday

            N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その54

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              今日も、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読んで見ながら、思ったことをたらたらと、述べてみたい。今日も教会とはなにか、という部分をよみ、かんがえたことをたらたらと書いてみたい。

               

              まずは、教会がどのようなことを信じてきたか、ということを述べている部分である。

               

              復活、それは大事

              この前の日曜日、主日は、イースターであった。イースターとは、きゃりーぱみゅぱみゅさんが『良すた』を歌うためにあるわけではない。イースターは、ホワイトハウスでエッグハントするためにあるわけではない。ギリシアのある島で、大花火大会をするためにイースターが、あるわけではない。キリストが復活したことを覚えるためにあるのである。それは間違ってはいけない。

               

              きゃりーぱみゅぱみゅさんで、『良すた』

               

              今年のホワイトハウスでのエッグハントについての放送(1分10秒あたりから、国歌斉唱の時に胸に手を当てるよう大統領夫人から催促される大統領 w)

               

              ギリシアのCios島のイースターで行われる花火大会 とにかくギリシアでのイースターは派手に喜びを示すのである。

               

               

              ギリシア正教会での復活大祭の模様 2分7秒あたりから  
              大司教が キリストォー・アネェスティー (キリスト復活)と賛美し始めると、しばらくして、鐘が高らかに鳴るは、花火は上がるわ、の大騒ぎになる。5分14秒あたりから、陸軍、海軍兵たちが大きな声で国家を歌っている模様

               

              ギリシア正教会での復活祭の模様 3分30秒あたりから、キリストォー・アネェスティー (キリスト復活)と歌い唱えている。

               

              ここで、キリストォー・アネェスティーと賛美されているのは、「キリストがお目覚めになられた」あるいは、「キリストおめざ」という意味でもある。聖書のギリシア語でキリストォー・アネスティは、「キリストは、お目覚めになられたのだ」という表現なのである。だからこそ、新改訳聖書第3版では、

               

              【新改訳改訂第3版】マタイによる福音書
              28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

              と、起き上がった、朝起きたように復活したから、つまり、キリストォー・アネェスティーであるから、「おはよう」と言われているのであって、イエスが庶民的な人であるから、あるいは、我々に近しい存在の人になろうとして、「おはよう」と言っているわけではない。そこは間違えてはいけない。ちなみに、口語訳聖書はこうである。

               

              【口語訳聖書】 マタイによる福音書
              28:9 すると、イエスは彼らに出会って、「平安あれ」と言われたので、彼らは近寄りイエスのみ足をいだいて拝した。

              個人的には、こっちのほうが誤解を招かないような気がする。そのまま読むという人向けには。

               

              そして、今の多くの日本のキリスト教徒にとっては、「キリストは復活された」ということになるが、本来、ギリシア語の世界での復活とは、今の日本語のイメージと違っていて、”ぐうぐう寝ている状態から起き上がる”ということでもあったらしい。こういう長い前フリをしておいて、ライトさんの表現に戻ってみよう。

               

              眠る、目覚めるというイメージは初代のクリスチャンたちがよく使った言い方の一つである。そのことはイエスの福音、つまり創造者である神が世界を正すために決定的行動を起こしたという良き知らせが、人々の意識に影響を及ぼす時に起こる。そこにはもっともな理由がる。「眠る」とは、古代ユダヤ人の間では一般に死を意味していた。イエスの復活とともに、世界も目を覚ますようにと招かれている。パウロが書いている通りだ。「眠っている人々よ目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすればキリストが、あなたを照らされる」(エペソ5・14)。

               初期のクリスチャンは実際、復活こそが人間のすべてに必要なことだと信じていた。それは、いずれ終わりの時が来て、神が世界を新しくする日のためだけに出はなく、現在の生活において必要なことである。神は終わりの時に新しいいのちを与えてくださる。それに比べれば、現在の生活はその陰に過ぎない。神は、究極の新しい創造においてこそ、新しいいのちを与えようとしている。しかし、新しい創造はすでにイエスの復活によって始まっており、神はいま現在のこのとき、私たちがその新しい現実に目覚めることを願っておられる。(クリスチャンであるとは p.289)


              ここで、エペソ人への手紙からの引用部分があるが、ここで新改訳は、「目をさませ」であるが、口語訳では「起きなさい」となっている。

               

              口語訳聖書 エペソ人への手紙 5:14

              「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」

               

              つまり、眠った状態から、目覚めるという状態が復活、ということのようである。ただ、「目覚めよ」というとこの雑誌。真っ先に思い浮かぶのがこの雑誌・・・

               

               

               

              あーあ。お目汚しをしたので、こちらを。

               

               

              正教会さんの復活のイエスのイコン 

               

              気を取り直して、もとに戻すと、ライトさんは、「実際、復活こそが人間のすべてに必要なことだと信じていた。それは、いずれ終わりの時が来て、神が世界を新しくする日のためだけに出はなく、現在の生活において必要なことである。神は終わりの時に新しいいのちを与えてくださる。それに比べれば、現在の生活はその陰に過ぎない」と書いている。復活こそが、人間のすべてに必要であり、現在に生きているものとしても必要であること。そして、最終的に神と共に生きる生活に比べれば、現在の生活も、もちろん大事だが、それは不完全なものでしかない、ということをおっしゃっておられるようだ。

               

              将来に比べれば不完全だからといって、それを疎かにしてはならない、とライトさんはいう。なぜなら、この世界を将来において、より完全なものとし、将来神が造られたこの世界を回復するための訓練期間のようなものが、現代のこの地の生活だからである、というのがライトさんの説明である。そして、神に与えられた才能を、天においてその才能を真に開花させ、天で神と共に生きる生活の中で貢献するためなのだ、とライトさんは別の本か、どこかで書いておられる。

               

              個々人が違う以上、信仰も多様だけど・・・
              近代は、本当は多様で様々な特性を持った人を、自分たちが能力が低くて、うまく適切には扱えないので、あえて精度を落として、粗雑に理解し、同質的だという仮定を置くことで、近代社会を効率的に機能させようとしてきた。そして、本当は平均的な人はいないのに、あたかも平均的な人がいるかのごとく振る舞い、あるいは、様々な人を平均的な人として扱い、その平均的な人と違うパターンの人を退けてきた。

               

              そして、信仰者には共通のものがあるはずだ、できるはずだ、ということで、劇的改心の経験とか、個人が変容した話とか、あるだスゲートのような経験(心が燃えるような経験)とかが求められたり、みんなが異言が語れるとか、こういう話になってくる。すると、こういう経験がない人たちは、どうなるか、というと、本当は全くない劇的改心経験の捏造、霊的変容の経験の捏造、アルダスゲートもどきの話の捏造をして、個人の証とか称して、語るようになるし、ある場合は、威厳が話せもしないのに、異言を語る真似をするようになったり、真似してたら出来るようになる、とか言って、本来の異言ではない可能性があるにも、あるいは、解き明かしもないのに異言だと言ったりして、適当なことをやる人が出てくる場合がある。そして、その結果としてUlalationのような異言をする人々が現れるのだ。

               

              アフリカでの喜びを示すUlalation ウララララララ・・・・という喜びの声

               

               

              神を信仰することはそんなに単純なことではありません
              神を信仰することと、クリスチャンであることの複雑さと多様性について、ライトさんはこう書いている。

               

              「新たな宗教的経験をする」ことが肝要なのではない。そのように感じる人もいれば、感じない人もいるだろう。ある人にとっては、クリスチャンになるとは、深い感情的経験であり、また他の人にとっては、長い間考えてきたことに明瞭な解決を得て、落ち着きを得ることであるだろう。私たちの性格は見事なまでにそれぞれ異なり、神も私たちを素晴らしく異なった仕方で取り扱われる。(同書 p.290)

               

              現代人は、複雑なことを自分たちが理解できていないのに、自分たちが理解した気分になるために、現実を必要以上に単純化するきらいがあるように思う。本当は、単純にしてしまったら、本当にわかったことにならないのに、単純化してわかった気になるのである。そもそも、人間一人一人違うし、別物として神が創造し給うたにも拘らず、それを十把一からげどころか、100人ワンパターン、1000人ワンパターンのものとして、ユニクロなどのファストファッションの服のように扱ってしまったり、本来他者がすべからく同じことをすべきだ、と要求してはならんのに、ひとまとめでみんなこんな事ができるはずだ、と同じような行動することを要求してしまうのだ。

               

              挙句の果てに、敬虔ぶりっ子や改心ぶりっ子が求められる。そして、キャンプとか何かのイベントのたびごとに、これらの改心ぶりっ子や、敬虔ぶりっ子が量産されていくのだが、そのうち元の木阿弥になるのである。人間一度や二度の改心でそんなに変わるようにやわにできていない。人間はイスラエルの民ほどかどうかは、別として、頑固だし、うなじの怖い存在なのだ。

               

              ライトさんは、「私たちの性格は見事なまでにそれぞれ異なり、神も私たちを素晴らしく異なった仕方で取り扱われる」と書いているし、実際にそうなのだが、神ならぬ人間は、ひとりひとり、それぞれ異なったように扱えないし、扱うと不平不満タラタラの人々が生まれることになる。実に残念であるが、それが現実だという気もする。
              本来、スルーしておけばいいものを、スルー力がたらないためにスルーできないため、いらんことを言って、不必要で不用意な混乱をあちこちで巻き起こすのだ。

               

              福音を聞いたけど、何すりゃいいの?

              現代社会では、福音は、非常に影が薄くなっている。「聞いて、それを信じたら、天国に行ける」ような、RPG(ロール・プレイング・ゲーム)でのラッキーアイテムの一つくらいの印象だと思う。それをもったら、もう、完全に安心で、何もしなくていいし、全く何らしなくてよくなるようなものだとめちゃくちゃ簡便化して理解されているのではないだろうか。

               

              SEKAI NO OWARI さんでRPG

               

              そのあたりのことについて、ライトさんは次のように書いている。

              福音、即ち創造者である神がイエスにおいて実現したことの「よき知らせ」は、まず何よりも、すでに起こったことに関する知らせである。その知らせに対する最初にして最も適切な反応は、信じることである。神はイエスを知者の中からよみがえらせ、それによって長く待ち焦がれていた神の王国が、イエスにおいてついに開始された。その事を、ただ一度の力強い行動で宣言されたのである。そしてイエスの死とはまさに、世界の悪のすべてがついに滅ぼされた瞬間であり、そうするための手段であった。目覚まし時計がなり始めた。それは、こう告げている。「ここに良い知らせがある。だから、目を覚まして、信じなさい」。(同書 pp.290-291)

               

              しかし、ライトさんのいう福音は、ちょっと安心できたり、何かのときに持っていると安心できたり、役に立ったりするものとはある面、ちょっこし似ているけど、違うようなのだ。

               

              ここで、翻訳文では、傍点付き、引用文では太字で示している部分で、ライトさんは、「すでに起こったことに関する知らせ」であることを強調しておられる。起きたことについて言うのが、エヴァンゲリヲンであり、福音なのだ。

               

              日本語で福音と訳されていることばは、もともとエヴァンゲリオンということばであるが、そのことばは、そもそも他のギリシア語テキストで使われているのは、自国の軍隊の大勝利とか、勝利とか、あるいは、王の正統な後継者の誕生とかを示す、ウルトラ・ビッグ・ニュースと言うような感じの場面で使われているらしいようなのである。

               

              まぁ、関西地方のベタな阪神ファンにとって、阪神がリーグ優勝したり、日本シリーズで十何年ぶりに優勝したりしたことのニュースのようなものである。めったに起きないことが起きたから、ビッグニュースになるのである。あるいは、広島市民にとって、広島カープが何年かぶりに優勝するかのようなニュースのことがエヴァンゲリヲンなのである。少なくともニュースというからには、起きたことに関する報告であって、これから起きることではない。

               

              その意味で、福音というのは、これから起きることではないし、その意味でも、我々が天国に行くことについてのことではないのだろう。ある面、「イエス様、最大の敵である悪に大勝利」とか、「イエス最大の敵である罪に勝利」ということこそが福音なのであり、それが今も起きているから、福音、すなわちビッグ・ニュースなのである。

               

              広島カープのファンの方には、広島カープが、何年かぶりで優勝したときのことを考えてもらいたい。阪神タイガースファンの方には、十数年ぶりに日本シリーズで何処かの野球チームと対決することになったときのことを考えてみてほしい。あるいは、ビートルズファンの方には、ビートルズがオリジナルメンバーで再結成して、武道館でコンサートする(もうありえなくなったが)という事を考えてほしい。もうビッグ・ニュース過ぎて、おちおち眠ってもいられない状態になるのである。

               

              広島カープ優勝の大騒ぎ

               

              阪神タイガース優勝のときの大騒ぎ(このときには、嬉しさのあまりか、集団ヒステリーなのかは、知らないが、道頓堀川に飛び込む人まで出てきた)

               

              あるいは、嵐のファンの方には、嵐のコンサートがあなたの街で開催されることを想像してほしい。

               

              主婦の方には、年末のバーゲンセールとか、正月の福袋が先着100名様限定で、通常1,000円が100円で限定販売されることを考えてほしい。こうなるとお家でグズグズ眠っている場合ではないですよね。

               

              まさにお祭り騒ぎの感がある大阪心斎橋のApple StoreでのiPhone発売時のニュース

               

               

              最近で一番近いのは、上の動画で紹介するApple StoreでiPhoneの新型機種が発売されたり、任天堂のWiiの最新型が発売されるときのお祭り騒ぎなんかが、まさに、「イエス、復活」「キリスト、おめざ」「クリストォ~~~・アネスティ~~~」のときの雰囲気に近いノリかもしれない。乗り遅れてはならないので、みんなが急いで、あるいは、走ってイエスの墓に向かったのである。

               

              こういう状況の場合、ぐうぐうと眠っていいる場合ではないだろう。買い損ねないように、それこそ夜中から起きて並ぶのである。まさにイエスの復活の報に接した弟子の皆さんは、そういうような状況の感じなのではないかなぁ。

               

              あるいは、ちょうど小学校低学年の男子にとって、明日遠足とか誕生日、という日の前夜のような状態、とでも言ったほうが適切かもしれない。目をさましていなさい、とい得のは、まさにワクワク感がいっぱいで、寝ている場合でない、という感じに近いかもしれない。

               

              つまり、興奮のあまり目が冴えてしまって、眠ることができないような状態、ということになるんじゃないだろうか。それほどの喜びが本来イエスの復活にはあったように思うのである。それほどの大事件が、イエスの復活であった、ということとお考えいただければ良いのだと思う。イエスの墓に行って、墓が空っぽであるという女性信徒たちの報告を聞いたときの、弟子たちの興奮冷めやらぬ様子というのは、彼らにとっては、「もはや、おちおち眠っている場合でない」ということだったのだろう、と思う。

               

              月曜日は別の本を紹介するが、水曜日には、この本に戻る予定

               

              次回へと続く。

               

               

               

               

               

               

              2017.04.19 Wednesday

              N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その53

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                今日も、またいつものようにたらたらと、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の中から、ご紹介していきたい。今日からは、教会についての章である、「15章 信じることと属すること」からご紹介していきたい。

                 

                小文字のカトリック教会という姿

                小文字のカトリック教会ということについては、小文字のキリスト教、という山崎ハンサム(あ、違う)、山崎ランサム先生の非常に優れた論考がある。福音派の一部分には、自分たちの分離派のキリスト教界群のみが正しいと主張したいがあまり、大文字のカトリック教会(カソリックとか、カトリックとか、天主教会とかとも呼ばれる)が、16世紀末に日本に、文献で確認できる限り初めてキリスト教を伝えた教会群との差別化を図るために、間違っているとか、聖書を理解していないとか、分かってないのに、テキトーなことが言われている教会ではない。そして、実態を知らずにプロテスタントのある一部の人々から、批判の対象にされている教会のことではない。使徒信条に出てくる、聖なる公同の教会を信ず、のなかの、”公同の教会”のことである。

                 

                一応使徒信条を上げておく。
                我は天地の造り主(つくりぬし)、全能の父なる神を信ず。
                我はその独り子(ひとりご)、我らの主(しゅ)、イエス・キリストを信ず。
                主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリヤより生(うま)れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架(じゅうじか)につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。
                我は聖霊を信ず。
                聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。

                 

                この古い使徒信条の”聖なる公同の教会”という部分のことである。聖なる公同の教会とは、自分たちの教会、自分たちの教会の関連教会だけが教会だ、という立場に、ミーちゃんはーちゃんは、立っていない。もし、自分たちの教会が正当的である、とおっしゃるなら、三位一体を否定する教会群の皆さんは別として、その三位一体はどこから来たのか、ということをお調べになればよろしいと思う。その教会やその教会の関連教会の過去の何方かが、三位一体ということを言い出したわけでないことがわかるだろう。当初、三位一体が言われたときと今の教会の理解が必ずしも一致していないことも、わかるかもしれない。同じ三位一体という語を使いながら。

                 

                ところで、この三位一体という概念を否定し始めると、キリスト教の教会としての性質を保有しているかどうかまでもが怪しくなるようである。

                 

                ライトさんがここで言っている教会とは、個別の教会とか、ある個別教会を含む教団や教会連合のことではない。もっとでかい世界的なキリストを愛する人の集合のことを教会といっている。そこを間違えてはならないことを述べておいて、次のようなライトさんの文章を読んでみたい。

                教会は川のようなものだ、聖書の最後の書で予見者ヨハネは、大群衆があらゆる国からあらゆる群れから、あらゆる部族から、あらゆる民衆から集まって、賛美歌を大合唱しているのを見ている。川のように、それぞれの群れが異なったところから出発し、その小さな流れが合流して一つの大きな流れとなる。川のイメージが説得力をもって教えてくれることは、教会とは、そもそも多様な背景を持った人達によって構成されているが、それが重要であるのは、互いがその一部である力強い流れとなって、同じ一つの方向に向かっていくからである。多様性が一致に至る。(『クリスチャンであるとは』 p.281)

                この文章を読んだ時、まさに、ライトさんの頭のなかでは、多分、「バベルの塔の事件の逆回し」みたいなことが起きているのだろうなぁ、と思ったんだなぁ、これが。バベルの塔の頃には、創世期によると人は一箇所に集まって住んでいたのだが、言語が乱されたことで、人々は全地に出ていくことになる、ということになっている。そういうことで理解しておくので良いのではないか、と思っている。しかし、最後のときには、その逆バージョンが起き、神によって散らされたものが神によって、もう一度集められる、ということだろう。

                 

                ちょうど人間の血液のシステムと同じようなことが起きているというイメージなのだろう。つまり、心臓から送られた血液が、大きな大動脈みたいな流れのシステムを通り、次第に枝分かれし、最後は毛細血管に至るまで、細かく別れていったようにして構成されている諸民族、諸言語、神学的サブグループを形成している個別の教会の人々が、今度は、毛細血管を通って、静脈システムを通り、最後に心臓の大静脈を通ってまた心臓に血液が集められるように、もう一度、神のもとに、本来の出発点に集まってくるとういイメージが、ライトさんの頭のなかには、浮かんでいるのかもしれない。

                 

                いかにミシシッピ川の流域の河川の流路図を上げておくが、実に複雑な形状をし、時に河川は交差をし、また、分岐しながら、最終的には、メキシコ湾に向かって流れ込むのである。河川の流量が大きく、河道の広い部分だけがミシシッピ川を形成するのではなく、流域の全体、つまりシステムとしてミシシッピ川は構成されているのだ。

                 

                ミシシッピの河川システム

                http://www.bsaswampbase.org/mississippi-connection から

                 

                ここで、ライトさんは、「多様性が一致に至る」と書いておられるが、ここが大事なのである。時々、ある教会では、多様性がかなり軽視されて、一致だけが強調されることがあり、これができない人は一致を乱すものだから、教会から出ていってほしいとか、教会の一致を乱す人は、教会にいてもらっては困るとか、という教会もあるようである。ただし、他者を追い出すときに口実にされる一致というのは、その際の一致が何を指すのかは議論されないことが多いようであるけれども。一致は無理矢理に、あるいは強制的に作り出されるものではなく、自然に出来上がるのが、本来の神の国の民における一致なのではないかなぁ、と思う。

                 

                多くの人を受け入れていった旧約時代の神の民

                ライトさんは、イスラエル民族や、旧約聖書を例に取りながら、その集団が排除的なものではなく、多民族も、神を敬っている限りにおいては受け入れていった事例があることを紹介し、特にイエスが十字架で成し遂げたことによって、すべての民や民族と神との関係が、等しく受け入れられるようになったことを、以下のように書いておられる。

                第一に教会は、何万と分散した支流が形成した一つの大きな川である。初期のイスラエル人は単一の血族であったが、その時でさえ、そこに部外者(例えばルツ。旧約に彼女の名前がついた書物がある)が入る余地が十分にあった。イエスの成し遂げたことが端緒を開き、それが新しい基準となった。どのような人種であれ、どのような地理的、文化的背景を持つ人であれ、どのような姿、形、大きさの人であれ、この新しい民に招かれ、歓迎されるようになった。(同書 p.282)

                 

                個人的にはイスラエル単一民族説、単一血族説と誤解されかねないような表現をライトさんはここで書いておられるが、原文では、it was mostly a single family となっていた。mostly であって、言い切りではない。イスラエルおおむねの単一民族だ、という意味ではないか、あるいは、おおむね一つの民族からなっていた、というくらいの意味だと思う。

                 

                と言うのは、イスラエルは、アブラハム、イサク、ヤコブの民でもあるが、エジプトから出る段階で、同行する異邦の民をも含んでいたようであるし、ルツや他の異邦の民も登場する。イスラエル民族は血族性による民族ではなく、信仰共同体の側面がどうも強いような気がしてならない。このあたりは、『福音と世界』の2017年1月号に掲載された、山森みか先生の「 ユダヤ教と万人祭司 」という論考が参考になる。

                 

                イスラエル民族の世界の中には、例えば、ナアマン、ヨナが伝道したニネベ、様々な諸民族が関係している。このあたりに関しては、D.M.ワイズマンの『旧約時代の諸民族』という本がなかなか良いと思う。

                 

                そういう多様な人々が聖四文字なる方を信仰する信仰共同体に招かれていることと、信仰共同体そのものが、イスラエルの民、ということになるのであるし、そうであるが故に、パウロがガラテヤ書の3章で以下に引用するように書いたときの意味は、信仰共同体との関わりで書いていたように、ミーちゃんはーちゃんは思うのだ。

                【口語訳聖書 ガラテヤ書】
                3:6 アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである。
                3:7 だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである。

                 

                上記のパウロの表現の背後にある意味は、信仰を持つ人がアブラハムの子にされた、あるいは、ユダヤ人に変わって教会がその立場を受けた、という理解よりは、そもそも、イスラエル民族自体が聖四文字なる方に対する信仰共同体として定義されている以上、そこに参加したい人も、そもそも論として、もともとは外国人であり、異教徒であった改宗者たちも、イスラエルの信仰共同体のメンバーとして受け入れ可能であった、という事を忘れてないか、とパウロは言いたかったんではないかなぁ、と思う。なお、ユダヤ的世界の中では、信仰の父アブラハムは、異邦人ある位は、異教徒になるらしい。

                 

                その意味で、最近頻繁に行っている教会で一度だけ賛美したことがある賛美歌のことを思い出すのである。この賛美歌は、非常に神の国、ないし教会(というよりは、アングリカン・コミュニオンの教会理解)の姿をうまく歌詞としても表現している様に思う。

                 

                All welcome in this place という賛美歌

                 

                 

                神は、すべての人を回復させ、ご自身の信仰共同体(それは同じ教理の共有を必ずしも前提としてないとおもうが)に招いておられるように思うのだ。

                 

                何のために教会はあるか

                教会は、神を礼拝するところである。これには意義をお持ちの方はおられないだろう。神と人が出会うところでもある。これもおおむね異論がないだろう。しかし、それだけか、それだけでいいのか?ということをライトさんは述べている。つまり、第一コリント四章の「神の国はことばにはなく力にある」というパウロの主張をどう考えるか、ということを、そして、キリストにつながるものであることをどう考えているのか、ということを、次の引用部分では、問題にしておられるような気もする。

                 

                第二に教会は、神がアブラハムを召し出された時に飢えられ、無数の枝を大きく広げた木である。その幹はイエスであり、その多くの枝や小枝や葉は、世界中の何百万人というクリスチャンであり、個人である。同じことをパウロにならって聖書的に表現すると、「キリストのからだ」である。一つの体に、あらゆる個人とすべての地域に分散した共同体が、それぞれ肢体として、あるいは器官として結びついている。「からだ」というのは、単なる多様性の一致というイメージだけではなく、キリストのわざを行うために、すなわちこの世にあって、世界のためにキリストのわざを行う手立てとして召されている、という意味である。 (同書 p.283)

                 

                アングリカン・コミュニオンの英語の式文で聖餐式の前に読まれる部分に、こういう文章がある。太字部分は全員で読む。

                 

                We break this bread
                to share in the body of Christ.
                Though we are many, we are one body,
                because we all share in one bread.
                そもそも、我々人間は、多様性があるもの、すなわちWe are manyであることを認めながら、キリストのパンに共に預かるものとしては、一つであることを聖餐式で、(毎週)覚えるのだ。カトリックもあれば、正教会もあれば、ルーテル派の人々もいれば、改革派の人もいれば、改革長老派の方もあれば、ウェスレヤンの方も、ペンテコステ派の方も、社会派の人もいれば、教会派の人もいればという状態の中で、我々は、キリストの体という聖なる公同の教会の中で神を共にシェアするということなのだと思う。そして、その聖なる公同の教会の中に置かれた存在なのだ。

                 

                まさか、社会派のキリストとか、教会派のキリストとか、メノナイトのキリストとか、ウェスレヤンのキリストとか、バプテストのキリストとかがあったら、そりゃあ面白いか知らんが、そんなものは、ないのである。まぁ、キリストを社会派風に提示することが多いとか、教会派風に紹介する事が多い教会はあり、教会ごとに味わいが違うのだけれども。

                 

                そう思っているので、個人的には創造科学って、かなり眉唾だと思っていても、創造科学の人とも付き合うし、ちょっと意固地に見える正教会の方々とも付き合うし、もちろん福音主義の諸グループの方とも付き合うし、ペンテコステ派の先生と平気で冗談言い合うし、キリスト新聞社とも付き合うし、新教出版社、ヨベル、あめんどうさんとも、お付き合いさせて貰っている。いのちのことば社の会社全体としての体質はどうかと思うことが多いけれども、微力ながらご支援している。

                 

                ただし、いのちのことば社周辺で、こんな本を出した、とかガタガタいのちのことば社に文句だけ言う方がおられるのは、よく存じ上げているので、心からいのちのことば社の皆さんには、ご同情は申し上げている。しかし、我らの神は、色んな形で分断されていても、一つであり、われわれは、一つのからだを形成しているのだ。以下の歌のように。

                 

                 

                一つのパン、一つの盃という賛美歌 なかなかよろしい、と思いますよ。

                 

                 

                上でも触れたようにいろんな教派があるけれども、その中の人びとと幅広くお付き合いするのは、それぞれの教会と教会のグループが「世界のためにキリストのわざを行う手立てとして召されている」と思っているからである。あくまで、個人が神の民として何かをするために召されているのではなく、教会がキリストの業を行うために招かれているのである。それを個人一人ひとりが招かれている、として理解するから、おかしなことが起きるように思う。個人ができることは限られているのだ。ロマン主義の時代、冒険承認の時代ならいざ知らず、今は世の中そうはできていないが、相互に協力しながら冒険の旅に出ることはできる。

                 

                 

                ただ、問題は、「キリストのわざ」が具体的には何か、が聖書には明確に書いてないので、自分で四苦八苦しながら、考えるしかないところである。それ故、教会派、社会派などの分割が起きやすいのだと思う。その意味で、我々はあまりに、マイオピックに、すなわち近視眼的に物事を考えがちなのかもしれない。

                 

                その意味で、日本の教会ももっと老人力をつけて老眼になり、遠くがよく見通せるようになる必要があるのだろう。まぁ、現在の日本の教会は全体に高齢化が急速に進んでいるので、老人力はつくのだろう。変な老人力だけを身に着けた、スクルじーじいさんのような人びとだらけの教会になってほしくないなぁ。

                 

                 

                クリスマスキャロルに出てくるスクールジー
                http://peliculas.disneylatino.com/los-fantasmas-de-scrooge

                 

                教会が存在する究極的で中心的な目的とは何か
                教会の目的とは何か、それは神の国のこの世界での実現とそれを指し示す方向表示版となることである、と言うのは、ライトさんの割と重要なテーマである。しかし、それを忘れ、個人的な救いや、天国に行くことや、個人の霊的な成長、心理的な安定、世俗の富の蓄積やその追求が教会の主目的になっていないかを考えたほうがいいかもしれない、ということに関して、ライトさんは、ミーちゃんはーちゃんほどひどくなく、慎まやかに、そして、お上品にお書きである。その部分が次に引用する部分である。

                 

                個人的な霊的成長や究極的な救いは、むしろ副産物なのであり、神はより包括的で中心的な目的のために私たちを召しているのだ。その目的は明確である。それは新約聖書の至る所に記されている。すなわち神は、まさに知恵と愛に富んだ義なる創造主であり、世界を腐敗させ、隷属させている力を、イエスを通して滅ぼしたこと、そして聖霊によって世界を癒やし刷新するために今も働いていることを、教会を通して世界に広く知らせようとしていることである。
                言い換えると、教会が存在しているのは、いわゆる「宣教(ミッション)」と呼んでいることのためである。すなわち、イエスが世界の主であると世界に述べ伝えるために存在している。(同書 p.286)

                 

                ここで大事なのは、教会の目的である。それについて、ライトさんは、「その目的は明確である。それは新約聖書の至る所に記されている。すなわち神は、まさに知恵と愛に富んだ義なる創造主であり、世界を腐敗させ、隷属させている力を、イエスを通して滅ぼしたこと、そして聖霊によって世界を癒やし刷新するために今も働いていることを、教会を通して世界に広く知らせようとしていることである」と、お書きである。この記述に異存をお持ちのキリスト者はあるまい。ただ、問題となりやすいのはこの先なんじゃないか、と思うんだなぁ。

                 

                ただ、知らせるだけでいいのか、信徒にしなくていいのか、信徒にしたからには、それにふさわしく・・・となるように、教会の側でも信徒さんの側でも「頑張らねば・・・」とか、なり始めると、そこで、神の主権ではなく、人間の側の責任や主権ということになりかねない。あるいは、新校舎が、神に向かう道からコースアウト状態になりかねない道が待っている。

                 

                しかし、根本的なところは、知らせるところからしか始まらないように思う。そこまでが、人間ができることなのかもしれないなぁ、と思う。それを、先輩信徒が「ああせえ、こうせえ」と具体個別のことに立ち入り、細かなことを言い出すと、とたんにおかしなことになる。聖書的かも知らんが、聖書の主張ではないのではないか、と思う。

                 

                まず、大事なことは、「告げ知らせよ」ではないか。弟子としてふさわしく歩むようにするのは、それからだと思う。

                 

                まず、「こんなすごいことがおきた」が、本来の意味での”福音”である。「前髪は眉毛まで」とか、「夏は女性はTシャツまで」は多分、”福音”ではないし、まぁ、これに類似するその他もろもろの聖書的とされていることは、「”福音”そのものか?」ということは少し考えたほうがいいだろう。多分、違うんじゃないかなぁ。

                 

                では、福音の伝え方は、いろいろだと思う。伝道集会という名の、”賛美歌付き講演会”や”賛美歌大会付きキリスト漫談の会”だけが、”福音”の伝え方ではないだろうし、その伝え方は、来会者と説教者というパラメータによって決まるのだと思う。いくら学術的で面白いことを言っても、幼稚園児には、ただただ退屈で、”何言ってんだ”になるだろうし、大学生や大の大人で信者に、いくら老人向けに受けがいいから、と言って”紙芝居”を延々1時間は、ありえんだろう。
                でも、実際、講演会のある講師のお話の前座を務めたある牧師の方は、講演会のスピーカーを、お待たせしせたまま、延々1時間近く紙芝居をとくとくとして参加者にご覧に入れ、紙芝居をお読み上げになった場面に遭遇したことがある。大の大人の牧師が、大の大人に対して紙芝居を2本分、1時間近くである。どうも、3本めがあったらしいが、それは流石に他の参加者に阻止された。そして、本来多くの人が目的として集まった。講師による講演会の時間がなくなることはなかった。

                 

                人も多様である。語りても多様ならば、聞き手も多様である。さらに、状況だって、いろいろだから、説教は、説教者と会衆と会場で作り上げられるのであって、ナントカの一つ覚えのような伝道方法は、おそらく無意味なんじゃないかなぁ、と思う。また、時代だって多様なのだから、それなりの方法論があってもいいんじゃないか、と思うのだなぁ。

                 

                このあたりの宣べ伝える、あるいは、”宣教”するということを、まじめにお考えになられたい向きには、昨年日本で講演を行ったクリス・ライトという方の神の宣教シリーズ(全3巻セット)がなかなか良いので、お読みになられることをおすすめする。

                 

                次回へと続く

                 

                 

                 

                 

                 

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                ---
                日本基督教団出版局
                ---
                (1998-11)
                コメント:割とまとまっている旧約時代の民族とイスラエル民族との交流史

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                コメント:ミッションを考える上では大事かも。

                2017.04.17 Monday

                N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その52

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                  さて、今日もいつものように、ライトさんの『クリスチャンであるとは』の中から、聖書に関する章の中から読んで、あぁ、面白いなぁ、と思った部分を拾いながら、たらたらとご紹介したいと思う。聖書に関する章のご紹介は、今回でおしまいである。
                   

                  真理の多様性

                  まずは、今日も、引き続き、象徴的解釈と字義通りの解釈についての部分である。この部分は、非常に大事なことを、ライトさんは書こうとしておられるようである。今から引用する部分の前には、聖書の放蕩息子のたとえ話の話があり、イエス時代のパレスティナに放蕩息子がいたような家庭が実在したか、事実かどうかという議論がした後、ライトさんは次のように語る。

                   

                   ただこのことは、たとえ話の中で、いわば勝ちがあるものと認められる部分、つまり具体的に役立つ部分のみが「真理」であるという意味ではない。幾つかの全く異なった層において、「真理」なのである。そのことを認めることは、「本当の『真理』と言えるものは、実際に起きたことではない」ということを意味しているわけではない。真理は(神に感謝すべきことに)、それよりさらに複雑である。というのは、神の世界はそれよりももっと複雑で、事実、さらに興味深いものなのだからである。(『クリスチャンであるとは』 p.273)

                   

                  この辺の記述を入門的にやるための本が、ライトさんの「新約聖書と神の民」である。そのうちまた、紹介をしてみたいと思っている。

                   

                  ここの部分を読みながら思ったのは、ある人々の真理についての理解が、割と平板であること、という問題である。別な言い方をすれば、「真理は一つ」という理解から、多くの人々は、「真理の見え方には一つしかない」と言う近代の呪縛に縛られてしまっているように思うのだなぁ、これが。

                   

                  本来、「真理」ってそんな単純なものじゃないし、そう単純でないとすると、その真理の複雑性、多面性を無視し、「真理は一つ」あるいは「真理の見え方には一つしかない」と思い込んで、その概念で聖書を無理やり読もうとするから、あっちこっちでまずいことが起きる様に思うのである。そして、神の世界について、人間の世界にちらっと関連する部分を拾って理解できる部分だけを、切り取って読んでいるように思う。そして、ある教会では「聖書は真理の書である」ってやるから、大事なことを見逃していたり、本来の豊かな鉱脈を無視して、そこだけを掘るから、結果として石炭殻、あるいは、ボタというもののを延々掘り続けるに近いことになっている気がする。また、聖書を教科書のようなかたちで、所謂”真理”が書かれている書として、読む人びとも多い。それはあながち間違いだとはいえないが、しかし、かなり無理があるのではないか、と思う。

                   

                  それは、ちょうど、江戸の切絵図と国土地理院の地形図を、現実世界な表現として同じように思って使うようなものである。江戸の切絵図には、江戸の切絵図なりの意味と、真実の反映がなされているのだ。両方共、多少はデフォルメされているけど。まあ、地理院のほうが正確っちゃ正確って程度である。

                   

                  ところで、地理院の地図には、汎化と呼ばれるデフォルメが入る。二次元では、三次元の立体交差などがうまく描けないから、曲線なのにわざと直線として地図上に表記されることもある。

                   

                  江戸時代の切絵図 http://www.ndl.go.jp/landmarks/edo/sotosakurada-nagatacho-ezu.html

                   

                   

                  役立たないかもしれない真理

                  近代から現代では、真理は役立つものであった。いや、科学万能時代には、真理は役立つものと、少なくともそうみなされてきた。ところが、世の中には役立たない、もう少しいうと、真理ではあるけれども、実際上、めんどくさすぎて、ほとんど意味をなさない真理はあるのである。

                   

                  例えば、電球が6本同時に切れる確率は、負の指数分布にしたがうという”真理”はあるが、世の中で電球6本同時に切れる確率とかは意味を成さない。

                   

                  あるいは、最近話題の某米系航空会社の関連で言うと、乗員と航空機の機体とのマッチングの割当をすることを決める際に、最小のコストで実行可能な組み合わせを決定するような組み合わせ問題は、数理モデルとして計算できるかもしれない。このタイプの組み合わせ問題については、解が明確に存在しないかどうかについての証明はやろうと思えば多分できるが、おそらくきちんと解が存在しない印相がある。このタイプの問題を業界ではNP完全でないという。このタイプの解が計算によって得られないタイプのある航空会社で、一日に運行する飛行機の機材とルートと、そのルートごとの乗務員の組み合わせ問題があるとして、その乗務員の組み合わせでコストが最小になる組み合わせ問題の解を得るために、スパコンをフル稼働させて、3日かかって、そのような組み合わせは現実には存在しない、という結果を出したのでは、実際上は、意味を成さない。そのような場合、正しい解が存在するにせよ、つまり、そんな実行可能な組み合わせがない、という解が存在するにせよ、実行可能な解がないことを厳密に得るのに、手間と時間がかかりすぎて、飛行機が飛ばせないとすれば、それは、厳密な解を求めることが意味を成さない場合となる。このタイプの問題のことを、問題解決の第4種の過誤という人もいる。その第四種の過誤とは、『問題は正しく定義されていて、そして、問題の解決策にとって、かなり精度の高い解が見つかるものの、問題を解き終わったときにはもう遅すぎて役に立たない状態』という過誤、つまり、遅すぎて意味ないじゃんの過誤である。

                   

                  一般に想定されるほど、『真理』というのは扱いやすいものではない。そもそも、本来的には、どのような意味で、『真理』なのか、ということをきちんと定義しないと、何も言ってないことと同じ、になってしまうのだ。残念ながら。さらに、ここでライトさんの言うように、真理が我々が思っている以上に複雑だとすると、一体どういうことに成るのか、ということは少し考えたほうがいいかもしれない。

                   

                  現代人は、以前より少しは賢くなったとはいえ、あるいは、理性の使い方の点で向上した部分があるとはいえ、人はあまりにも簡単に”真理”を振り回しすぎるきらいがある。

                   

                  あるテキストについて先験的に決めつけないことの重大さ

                  文字通りに読むべきテキスト、象徴的に読むべきテキスト、象徴的にも読めるし、文字通りにも読めるテキストなど、多くのタイプのテキストが世の中には存在する。更にいうと、聖書のテキストにかぎっていっても、聖書自体が重層性というか構造の複雑性を持っているので、実際には、そうかんたんではない。

                   

                  そのあたりのことについて、ライトさんは次のように行っている。

                   

                  二番目に強調しておきたいことは、聖書を読む人、注解者、説教者の誰もが、ある特定の文章について、どの部分が「文字通りの意味」の具体的現実であるかを問う前に、どの部分が「文字通りの意味」で、どの部分が「比喩的意味」で、どの部分が両方の意味を持っているかを調べる自由がある、ということである。ということは、前もって「聖書のすべてを文字通りに捉えるべきだ」と決めたり、前もって「そのほとんどを比喩的に捉えるべきだ」とするような単純な決めつけはできない、ということである。(同書 p.276)

                   

                  この問題は対象に関する言語表現の正確性、確度、ないしは尤度(もっともらしさ)という問題が関係する。数学や物理なら、表現形式が数式て定義されたり、定量化されるため、数式展開や定量化の方法さえ間違わなければ、その展開の結果の確度(妥当する確率)あるいは尤度はほぼ1である。要するに発生する事象(現実や実体)に関する確率空間とその値域を明確に定義できて、その正確さの程度を定量的に評価するということは可能である。その可能性が、数学や物理の世界は、他のものに比べてかなり高いとは言える。それでも、その領域空間や現実が起きる領域空間をどのように測定するのか、という問題がある。このような分野のことを、測度論という分野がある。このあたりのこと、つまり測度論を言い出すと、言語表現の世界では、これまた、すぐに怪しくなるのだが。

                   

                  それが、社会現象や言語で表現されるものであれば、もう、この測度論の土台となる空間定義がかなり粗雑というのかめちゃくちゃになっていることが多いように思う。

                   

                  この典型としては、創造論の立場の人で、旧約聖書の預言成就の確率とか言うわけわからんことを言い出す人がいるのだが、そもそも、生起事象空間の定義が、そもそも論として、まず、まともでないし、その聖書預言の重層性があることが無視されて、あとから、ポステリオリに、あるいは後見的に当たった当たってないと、かなり恣意的に判定している印象がある。そうなると、現実社会の中で、聖書預言や聖書表現の実現可能性について、本当に明確に定義できるのか、という聖書の事象に関する測度論上の問題が厳密には存在するのである。

                   

                  そこまで考えるならば、預言成就の確率とか言い出した瞬間に、その段階でかなり眉唾ものになる。この辺の厳密な議論をやり始めると、ほとんど議論が紛糾するので、基本的には喋っている本人のかたが言っておらえるとおり、疑念も挟まず受け取られていることが一般には多いようである。

                   

                  なぜ丸呑みが起きるのか、といえば、一般人にとってはどうでもいいめんどくさい議論が展開されることになり、このあたり厳密な議論を始めると、素人はあくびをはじめ、専門家は、議論を勝手に始め、収集が全くつかなくなるからである。しかし、その厳密な手続き論の議論を事前になさない議論は、厳密な意味では科学性がなく、科学ではないし、せいぜい似非科学、疑似科学である。そもそも、科学的と言っている段階で、科学ではありません、あるいは、科学風、科学の装いをしてみました、あるいは、なんちゃって科学でしかない、と自ら吐露しているようなものである。

                   

                  少なくとも、こういう議論展開の土俵について、定義しないまま、ことばや概念について、定義しないまま、やたらと科学という言葉を使うのは、かなりまずいのである。

                   

                  その意味で、比喩的にしても、字義通りにしても、比喩風、字義通り風、と言った程度のことであり、言葉自体、本来多義性を持っている以上、その意味で厳密な測度空間を定義した上での議論はできない、とは思う。とは言え、科学は言語的な表現されたことを扱うにあまりに無力である。美は数学的に定義できないだろう。統計的にはできるかもしれないが、統計学的処理には、対象の現象がどのような確率密度関数に従っているのかを含むかのような、確率密度論を含む、またまた、いやらしい世界が待ち構えている。

                   

                  具体的にはどうする?

                  それで、具体的にどうすればいいのか、ということに関して、どう読むべきかの議論は、一旦置いておいて、聖書テキストが指し示そうとしていることが何であるのかを考えてみればいい、ということについて、ライトさんは、伝統的な聖書と向き合う方法である、自分自身の先験的な理解を一旦脇において、直接聖書に向き合う方法について、次のように書いている。

                   

                  こうしたことからわかるように、「字義的解釈」と「比喩的解釈」という、二極化した言い方は混乱をもたらしてきたし、もたらしている。その混乱にとらわれていると思う人は、ゆっくりと深呼吸し、聖書の際立った比喩の部分を読み、著者がそこで言及しようとしている具体的なことを考えてみよう。そして、また比喩に戻ってみよう。(同書 p.278)

                  結局、人間は徹底して、論理的かつ理詰めで聖書の指し示す内容をカリカリにした表現もできないし、また理詰めでカリカリにしてしまって味わいを飛ばす意味は、実際上殆ど無いし、かと言って比喩的解釈したら、ぐずぐずになるかというと、これがそうでもないし、そのへんの中庸さ、みたいなものを大事にしよう、というのがまぁ、イギリス人らしいライトさんのお立場といえよう。ちょっとずるい感じはするけど。

                   

                  ミーちゃんはーちゃんとしては、ミーちゃんはーちゃんが個人的にも、どちらか一つでない、という立場を取る以上、そこらをあまり厳密に議論してもしょうがないかなぁ、とは思っている。前回の記事にも少し書いたみたいに、どこまで言っても、人間がやることなんで、所詮いい加減さがつきまとうことになる。したがって、論理的に徹底することは天才でもできないと思っているからでもある。普通の人なら何置かいわんや、である。ミーちゃんはーちゃんを含めて。どっちみち、白黒は付かないし、人間は神ではないので、白黒つけられないし、神は神で、「お前さんたちがグレーでもなんでもいいからわしのところに戻れ」とおっしゃっておられるし、他人様のことに白黒つけることに心血を注ぎこむよりは、もうちょっとやりたいことがいっぱいあるのでやらしてもらいたいなぁ、と個人的には思っている。

                   

                   

                  教会への贈り物としての聖書と相補性

                  ここで、ライトさんは、次のテーマにつながるような大事な話、聖書と教会の話をしている。教会で聖書をどう読むか、という点を取り上げながら、次章、教会の概念についても頭出ししながら、聖書とは何であるか、どのようなもので本来あるべきか、ということについて以下のような文章で次章に繋いでいこう、としておられる。

                   

                  聖書の解釈はそれ故、遠大な、素晴らしい務めである。だからこそ、私達の時間と能力の許す限り取り組む必要のあるものだ。個人として行うだけではなく、教会としても、注意深く、祈り深く行うべきである。教会では、異なったメンバーによる異なった能力と知識を用いて助けあうことができる。

                   ただし、次のルールをしっかりと心しておくべきだろう。すなわち、聖書は紛れもなく神から教会への贈り物であること、それは教会を整えてこの世界のために貢献するようにさせるためである。そのために聖書を真剣に学ぶことは、天と地が噛み合い、神の未来の目的が現在に到来する一つの場とするための手立てなのであり、またそうすべきだということである。

                   聖書は、古代から人間が求め続けてきた義、霊的であること、関わり、美の追求に対する神からの答えを含んでいる。そういうことからも、たゆまず探求し続ける価値がある。(同書 p.279)

                   

                  ここで、ライトさんは、「教会では、異なったメンバーによる異なった能力と知識を用いて助けあうことができる」と非常に大切なことを述べておられる。教会派、牧師が何でも全部やってしまっていい、というものではないのではないか、ということをおっしゃりたいようだ。ぼくしも信徒も聖書をそれぞれ読み合い、そして、それぞれの人生が聖書と聖霊によって読まれあい、そして、共に学び合う場所だ、相互補完性(相補性)が働く場所であるべきだ、ということをおっしゃっているようだ。その意味で、教会での聖書のよみは、牧師の独擅場ではなく、牧師も信徒の生き方から、信徒の聖書理解から学び、信徒も牧師の生き方や聖書理解から学ぶ事が大事なのだろうなぁ、と素朴に思う。

                   

                  日本は、宣教地で長らくあったので、今でも宣教地であると思っている。その結果、どうしても教会のことはなんでも宣教師がやらざるを得なかった時代が長らく続いた。それは日本が長らく異教社会であったために、今でもキリスト教的社会でないために、生活に満ち満ちた聖書理解が反映されておらず、社会でのキリストについての象徴性がかけていたこともあり、信徒側での聖書理解や聖書へのアクセスの不十分さもあったからであろう。さらに、聖書自身がこれまでのキリスト教の教会の場合、普通の教会員にはなく、聖書理解を理解したり実行したりすること伴うある種の”おそれ”が伴ったというのもあるかもしれないと思う。

                   

                  それはある面良いことももたらした側面もあるが、しかし、結局なんでも「俺等にはわかんないから、聖書に関すること(これが味噌)牧師先生お願い」という構造を固定化したのだと思う。そして、何でもかんでも聖書に関することにしてしまい、牧師になんでもかんでも丸投げすることで、信徒は神と向き合うことから逃げることができたし、牧師は、自分の存在を信徒が必要としているという美しい誤解を抱くことができたし、自己のレゾンデートル(存在意義)を、教会内でたからしめ、牧師の権威性を一層強化してきた部分がなかったとはいえないのではないだろうか。そのあげくの果てに起きたことは、信徒が神と人と出会う場所や時間(この本でのライトさんの表現で言うと、天と地が噛み合う場所や時間)から遠ざかる、あるいはそのような場所や時間を信徒が遠ざける要因にもなってきた、ということではないだろうか。これでは、法事に御坊様を呼んで読経してもらったり、お祓いのときに神社の神官にお願いするのと、あまり変わらない構造のように思う。

                   

                   

                  教会に多様性が存在する意味

                  教会における多様な人々の存在は、一人ひとりが別の人々に対する相対的な意味での預言者性を持ち、ある人が、あるパターンの生き方に凝り固まった状態や、あるパターンの聖書の理解から、開放することを可能にするのではないかと思うのだなぁ、これが。

                   

                   

                  「聖書は、人類に対する最大の贈り物である」という表現がキリスト教界隈で、時々、なされることがある。それがもたらすイメージは、日本では、聖書は、「私達一人ひとりに対する神からの最大の贈り物である」と理解されることが多いように思う。その結果、個人個人が自分自身にとって都合が良い様に、聖書テキストを切り刻み、その切り刻まれた聖書テキストを勝手に解釈していいものという印象を与えてしまう。個人が保有する聖書を読む場面で、人類全体という共同体性が消え、マイ聖書理解、個別化された聖書理解が重視されることになる。しかし、本当にそれでいいのだろうか。多分違うように思う。人類全体という巨大な共同体に聖書は与えられたものなのだと思う。

                   

                  西洋近代は、個人をバラバラにしてしまった。その結果のできごとなのだと思う。しかしながら、教会はそのばらばらにされた人々が集まり、共に神を覚える中で、異なる神の見え方を相互に話し合い、そして、より実際の神の姿とその実情に、わずかでも近い神の理解に全員で到達するところなのだと思う。ただ到達したとしても、同じ理解が完全にマクドナルドのハンバーガーよろしく、共有されているわけではない。

                   

                  そして、説教は聖書と神についての理解を深めていくためのものであった、はずだと思う。それを信徒が聞いてくれないから、と信徒に親しみやすいものにしようとしたあまり、キリストから最後の衣までをも、引き剥がしたローマ兵のように、キリストから神秘を引き剥がし、神から神秘を引き剥がし、教会から神秘を引き剥がし、本来語るべきことをも説教から引き剥がしてきてしまったような気がする。そして、説教という名の賛美歌付きキリスト漫談大会をするのが習いになった教会もあるように思う。

                   

                  落語という話芸はもともと、仏教僧の法話がその出発点にある。庶民が仏教僧の法話をなかなか聞かないために、庶民が聞きたがらない法話を、面白おかしく語っているうちにその面白おかしい部分だけが切り分けられ、落語として成立していったのである。落語には、それはそれで価値があるのであるが、あと数百年後、キリスト漫談を続けている教会からは、どんな芸能がこれから生み出されるのだろうか。少し楽しみである。ただ、それは落語がもはや法話としての側面を失ったように、キリスト漫談から派生していった芸能は、もはや説教としての側面を失っているとは思うが。

                   

                  あともう一つ大事なことを、ライトさんはここで次のように述べている。

                   

                  天と地が一つになるイースターが今、毎日起きている

                  昨日はイースターであったが、キリストの復活とは、天と地が一つになった場面のうちの最大のものである。だからこそ、エルサレムの神殿の”会見”の天幕が真っ二つに避けたのである。単なる奇跡ではないのである。この会見の天幕が避けたことは、天と地、神と人が一つに繋がった瞬間の象徴であったのではないか、と思うのだなぁ。これが。まじで。

                   

                  とすれば、その場所と時間と空間は、神と地が一つにつながる、聖書、教会、そして、聖餐式は、天と地が、あるいは、神の世界と人間の世界がこの地で一つにつながることを覚える手がかりとなったということであるといえるんじゃないかなぁ、と思う。それこそ、イエスがサマリアの女に預言したように、礼拝するのはあなた方の父祖が礼拝した場所でも、エルサレムの神殿でもなく、普遍的にどこでも、神を礼拝する、あるいは神を礼拝しながら生きる世界がこの地上に来た、ということが実現したことを印象的に勝つ象徴的に示したのだと思う。もう少し言うと、天と地が噛み合う場所が普遍的に現在も、人びとがアクセス可能な形で、この世界に存在するようになったということではないかなぁ、と思う。

                   

                   

                  きゃりーぱみゅぱみゅさん で、良すた キャリーさんのこの曲が流れているから、いま毎日がイースターではないw

                   

                   

                  ライトさんの文章(太字部分)を使いながら、考えてみたい。

                   

                  聖書が天と地、神の世界と人間の世界が一つになる手がかりであるからこそ、聖書を真剣に学ぶことは、極めて大事なことであり、そこで、聖書を介して神と出会う場所に存在することは、天と地が噛み合い、神の未来の目的が現在に到来する一つの場にいることなのであり、その意味で、聖書は、天と地が一つになったことを記憶するための手立ての一つとして聖書があるということなのであり、またそう思いながら聖書を共に呼んでいくことをなすべきだということである、ということになるのであろう

                   

                  そして、神がおられる場所は、「古代から人間が求め続けてきた義、霊的であること、関わり、美」が実現しているのであるから、これらについて、聖書は、神からの答えを含んでいるはずであり、我々は、そのすべて人間が良いと思うものの出発点である神がおられるところ、すなわち神と共に生きる生活を送る価値がないにもかかわらず、神が招いておられるゆえに、神のお言葉があるが故に、神がおられるところの前を、よろめきつつ、あるときは這いずり回りつつ、またあるときは転げまわりつつ、またあるときは顔を伏せながらも歩くように、その祝宴の場である聖餐に、参加、関与するのではないだろうか。だからこそ、聖餐式は何よりも重要だし、聖餐式は、老いも若きも、王も乞食も、その世界に共に預かるように神はお招きなのだと思う。

                   

                   

                   

                   

                  これで聖書に関する部分についてのご紹介は終わりである。次は教会という概念について読みながら思ったことを述べていきたい。

                   

                  次回へと続く。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  評価:
                  価格: ¥ 2,700
                  ショップ: 楽天ブックス

                  評価:
                  N.T. ライト
                  新教出版社
                  ¥ 15,170
                  (2015-12-10)
                  コメント:高いけど、いいですよ。読みやすいとは言いませんけど。

                  2017.04.15 Saturday

                  N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その51

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                    さて、今日も今日とて、いつものようにN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読んで思ったことをタラタラとご紹介していきたい。今日は、聖書に関する章の、聖書をどう読むか問題についての部分である。

                     

                    以前にも別記事でかんたんに触れたように、この部分では、最近相次いで出た、藤本満さんの『聖書信仰』と聖書神学舎の皆様の『聖書信仰とその諸問題』という『聖書信仰』の対話本というか、対論本が出ている。で、何が違うかというと、何も違わないように思う。お互いに「信仰にとっては聖書はとても大事だ」というご主張であるが、その細かなお作法がちょっと違うだけのようにしか、素人目には見えない。わざわざ、本を書くほどのこともあったのかなぁ、というくらいの感じではないか、と思ったのである。まぁ、玄人筋の皆さんには、その細かなお作法が至極大事なのかもしれないが。信徒レベルのミーちゃんはーちゃんにとって、その細やかなお作法の違いの味わいまでは、よくわからなかった。

                     

                    まぁ、よくわかったのは、前に出た『聖書信仰』は、聖書を一連の大枠で描いた物語として読むこともできる(ライトさんはこっちに近いかなぁ)という立場と、後から出た『聖書信仰とその諸問題』は、聖書は細かく文字単位まで考えられていて、一語一語真実なものとしてカリカリにして読んだほうがいい、というお立場というか、お作法と言うかであり、両者の違いは焦点のあてかた、聖書に対する視点の違いだと思う。

                     

                    大枠で捉える方は、マクロ的という感じであるし、後から出版された本のほうが、よりミクロ的な物の見方をしている感じである。そもそも経済学でも、マクロ経済学者とミクロ経済学の専門家は同じ経済学者の中でも行っていることが違うし、そもそも、マクロ経済学にも色々流派があって、意見がまとまっているとはいえない。その程度の違いなのかなぁ、と思った。マクロ的な見方は、「森を見て木を見ず」になりがちだし、ミクロ的な見方は「木を見て森を見ず」になりがちなので、どっちが正しいとかは、一概にいえないと思うのだ。二つともが必要なのである。それをどっちか、とか、どっちかが優れている、という議論にするからややこしく成るように思うのだ。

                     

                    以上、このシリーズにとっては、どうでも良い議論はさておいて、本論に入っていこう。

                     

                    聖書を読むというのは、実は結構大変なことかも

                    ありがたいことに、今、聖書は日本語で読めたりする。羊皮紙に書かれた巻物のヘブライ語聖書や、ギリシア語聖書の羊皮紙やパピルスの断片を読まなくてもいい、もうこれだけで本当にありがたいことなのである。では、その聖書をどう読むのか、について、ライトさんは次のように書いている。

                     

                    それでは、聖書はどのように解釈すべきだろうか。ある意味で、本書の全体がその問いに対する答えである。満足の行く答えをえたいなら、それぞれの書、それぞれの章、それぞれの語を考慮することが求められる。コンテキスト(文脈)、特定の文化における意味、その書全体の中での位置づけ、テーマ、聖書の文化と時代の中での流れ、ことばそのものがもつ意味の範囲と広がり、それらのすべてが大切になる。それだけ価値が有ることなので、熱心さと注意深さをもって取りかかる必要があり、しかも膨大な作業になる。しかし今日では、それに取り掛かるためのあらゆる励ましと助力が得られる。(『クリスチャンであるとは』p.270)

                     

                    なんか、もうまるで、聖書神学舎の先生方が書いておられることにそっくりであるし、聖書神学舎の先生方が、お好きそうな立場ではないかなぁ、と思う。一語一語吟味して、誤りなき聖書の言葉としてお読みなさいな、とおっしゃっているのである。ライトさんは、聖書神学舎の先生方の強い味方かもしれない。きっとそうだ。いや絶対にそうだ。

                     

                    まぁ、素人衆の一角を確実に占めているミーちゃんはーちゃんは、その昔、説教の真似事のようなことを大学生くらいからしていた。この数年前まで、説教の真似事を毎週に近い頻度でしていたことがある。

                     

                    大学生の頃の真似事はたしかにひどかった。素朴に認めたい。大学生の頃は、こんなライトさんが言うような、「ことばそのものがもつ意味の範囲と広がり、それらのすべてが大切になる。それだけ価値が有ることなので、熱心さと注意深さをもって取りかかる必要」なんてことはガン無視で、もう、感想文に毛が生えた程度のことしかしてこなかったのだ。若気の至りである。そういうスタイルが当たり前のグループだったから、よくも「まぁ、いけしゃあしゃあとやっていたものだ」と自分自身、深く反省しているし、穴があったら入りたいくらいである。

                     

                    とはいえ、25年位前からは、注解書を買いあさり、辞書を買いあさり、Interlinearと呼ばれる、英語とヘブライ語、またはギリシア語聖書が両方並んでいる聖書を買いあさり、文法書を買いあさり、Strong番号付きのコンコルダンス(これらは英語の書籍だと異様に安い)をボーナス一年分以上の資産をつぎ込んで買い、ひとしきり揃えた頃に、ネットの時代到来である。重たい本がなんと、ほぼ、英語であれば全部ただで揃うではないか。もう、アホらしくなってきた。

                     

                    ちょうどアホらしくなってきた頃に、もともといたグループから、「ちょっと教会からお休みをとってください(要するに、教会に来ないでほしい)」、って言われたので、「ヒャッハ〜〜〜〜〜」と言いながら、あちこちの教会に遊び(研究)に行っていたら、何となく今だいたいいっつも参加している、Anglican Communionの教会に漂着、漂泊することになった。人生とはわけがわからないものである。

                     

                    そんなどうでもいい話はさておき、まぁ、そういうボーナス1年分以上の資産を揃えて、一時期はネチネチと聖書を読んでいた時期がある。とは言え、普段は、新改訳聖書第2版を中心、その後新改訳聖書第3版を中心に、そしてある時期からは、新共同訳聖書を普段読みの聖書にし、そして、時々口語訳聖書を使い、K.J.V, N.K.J.V, N.I.V, A.S.V, R.S.V(これ、様々な英語の聖書のバージョン)なども時々それらを相互に参照し合いながら、説教の真似事をしていたが、今は、そんなことをしなくなって良くなったので、実に充実した人生が過ごせている。実に感謝なことである。

                     

                    上に引用した部分で、「しかし今日では、それに取り掛かるためのあらゆる励ましと助力が得られる」と書いているが、ネットでは実際にそうだなぁ、と思う。英語が使える人にとっては、たしかに、その通りである。先にも述べたように、英語が使えれば、当条件付きではあるが、聖書研究のための思料はほとんどただで手に入る。いろんな聖書翻訳や、辞書や、ある聖書のギリシア語やヘブライ語の単語やその語根や、その語が他に使われているのが、聖書のどの箇所で、何回、どのような位置で用いられているのか、ということがあっという間にわかってしまう。もう、日本語聖書で、この訳語がこれだけの回数、使われているから、この単語はこの部分での著者にとって大事なことに違いない、とか、もうわけの分からない議論はほとんど無意味になってしまった。ただし、英語ができる限り、という条件付きではあるが。実にありがたい時代になったのである。

                     

                    一応念のため、そのような英語でのお助けサイトをご紹介しておく。個人的には、BibleHub というのを愛用している。とはいえ、まぁ、聖書のギリシア語の底本にはいくつかあるので、これがすべてではないし、それぞれ癖があるので、自己責任でご利用いただきたい。

                     

                    http://biblehub.com/

                     

                    http://www.biblestudytools.com/

                     

                    文字通り(リテラリー)と象徴的(メタフォリカル)の混乱

                    聖書を文字通り読む、字義的解釈がいいのか、聖書を象徴として読み、象徴的解釈をし、その部分の表現が指し示そうとしていることはなにか、何に対する象徴として書かれているのか、を考えながら解釈することが良いのか、というこれまたナンセンスが議論がある。なぜにナンセンスかというと、1キロメートルと10キロメートルのどちらが美味しいか、という議論とよく似ているからである。無論、答えはどちらも美味しくないのである。そもそも、測定しようとする単位系が違うのである。
                    しかし、現代では文字通りと言いながら、象徴的に解釈している場合もあるし、象徴的と言いながら、比較的文字通りの解釈を用いている場合もある。基本的に象徴的 V.S. 字義的みたいに対義語のように理解しているが、本来、対義語とするのがまずいのかもしれないのである。そもそも議論する次元がおかしいのである。
                    幾何的表現図解をすれば、このような感じだろう。
                    図1 象徴的・字義的に関する幾何的図解
                    本来解釈に完全に象徴的解釈と字義的解釈が分離可能かというと、かなり怪しいと思う。文字にした瞬間に対象は文字や文章という記述方法により象徴として、対象が表現されるので、厳密な意味での象徴的解釈と字義的解釈という次元に展開できないからである。上の図では、両方共の方向性が北側(上方)に矢印が指しているけれども、その両者は一致していないことで示している。逆に言えば、ベクトルが違うことで、上の図のAのように無理やり展開はできるけれどもそれは、かなり無理がある感じの次元展開の仕方であると思う。
                    このあたりは記号論理学などの初研究を参照しないと、バクっとしたことは言えても、厳密な話はできない。このあたりのことを厳密にやろうとすると、書き手のミーちゃんはーちゃんも、読み手のみなさんも知恵熱が出ることを覚悟してほしいし、このためには大学の理系の論理学とか、集合論が理解できる程度の数理的な基礎素養が必要だと思う。まぁ、ここでのライトさんの書いている内容を理解する上では、そこまでの厳密さと数理的素養は要求されないように思うけど。

                     

                    では、ライトさんはなんと書いているかというと、こんなふうに書いている。

                     

                    最近ある講師が、かなり強調してこう言っているのを聞いた。「ある人達は聖書を文字通り(字義的)(英語ではリテラリー)に取りますが、私たちは聖書を比喩的(メタフォリカル)に理解します」。この「文字どおり」とは、どのような意味だろうか。「比喩的」とは、どのような意味なのだろうか。そもそも、このような問を掲げることは役に立つのだろうか。

                     大雑把に言えば、この設問は役に立たない。この古ぼけた区分、「文字通り」と「比喩的」という語をいくらかでも役立てたいのなら、はじめにそれらの意味をはっきりさせたほうが良い。

                     皮肉なことに、その意味からすると、「文字どおり」と「文字どおりに」という言葉は、あてにならない様々な使われ方をしている。「文字通り」というのが、実際には比喩的な意味であることが割りとある。(同書 p.271)

                     

                    ライトさんは面白いことを言っておられる。「「文字どおり」と「文字どおりに」という言葉は、あてにならない様々な使われ方をしている。「文字通り」というのが、実際には比喩的な意味であることが割りとある」。これを見て、もう大笑いするしかなかった。顔を真赤にして、比喩的な解釈をしながら、自分自身は、「これこそ字義的解釈である」ということは、案外、よくある話なのである。そもそも、形容詞(「字義的」あるいは「比喩的」)の意味が、そもそもは、言語という定量化に適さないものを対象に、数値化・定量化できたりするはずがない。そうであるにも拘らず、こういう概念を振り回すのは、本当に無益だと思う。

                     

                     ところで、キリスト教業界では、用語の定義をかっちりとした上で、きちんと対話するということはあまりないように思う。用語の定義をいい加減にしたまま、つまり、座標系と原点をきっちり定義しないまま、議論するから堂々めぐりするのである。

                     

                    個人的に好きなSciFiに『地球人のお荷物』というクマ型宇宙人に関するコメディタッチのSci.Fiがあるが、その中で、このクマが人間の歴史や物語にでてくる有名人の物まねを、幼稚園児のような知能ですることでのドタバタが描かれているのだが、その真似方が幼稚園児程度の、いい加減なものという設定になっている。その中で、クリストファー・コロンブスを描いたものがあるが、それが傑作なのである。

                     

                    コロンブスがアメリカ大陸(性格には、カリブ海諸島)を発見する真似をするホーカーたちのエピソードで、自船の位置がどこにいるかがわからなくなっていて、それでも、乗組員を不安に陥しいれないために、自船の当日の出発地の位置をちょくちょくごまかすので、結局どこまで来たのか、どこが自船の位置なのか、がわからなくなって、堂々巡りしていて困ってしまうというような話がある。用語の定義をせずにする議論は、このホーカー(宇宙人)たちの所在地をごまかしながら航海しているようなものである。

                     

                    定義をきちんとしないままの議論は堂々巡りするし、あるいは、座標系とその原点が勝手に日毎に変わるような海図を使う限りは、堂々巡りになり、迷ってしまうような結果を見るのは、かなり自明である。キリスト教業界の議論は、割りとこのタイプで無意味な混乱がお消えいるような事例が多いようなきがする。残念だけど。私の言っている救いと、別の人が言っている”救い”の内容は、かなり内容的に違う(座標系が違う)のだけれども、それを同じ言葉である、同じ”救い”が使われているからということであっても、同じだということにはならないのに、無理やり”同じ”だとして議論をするから、内容的に議論が噛み合わないまま、なんとなく無益な時間が流れているようなきがする。そもそも、座標系が違うので、まず相互に、お互いの座標系が異なっていることを、出発点で認めないとまずいように思うのである。

                     

                    進化論 対 創造論

                     以前にも触れたと思うが、アメリカでは進化論と創造論に関して、1925年にアメリカ南部のテネシー州でスコープス裁判が開催されて、学校で聖書に忠実に見える創造論を教えるべきなのか、聖書の内容と一致しないように思える進化論を教えるべきなのか、という議論になり、ラジオ中継はされるは、新聞では当時揶揄的な記事が毎日掲載されるは、全米を巻き込んだ大騒動になったのである。

                     そのあたりのことに関して、ライトさんは次のように書いている。

                     

                    「創造論対進化論」ということでなされてきた議論は、とくにアメリカ文化の中で、それに絡めてたのあらゆる議論もなされるようになった。そのことは、聖書の他の箇所について真剣な議論をすべき時に、それを著しく疎外させる要因になってしまった。(p.272)

                     

                    進化論か、さもなくば、創造論か、というような立論の建て方は、有罪か無罪かに徹底的にこだわるようなアメリカの文化に根ざしていることは間違いがない。白と黒しかなく、グレーを排除するような二項対立的な議論である。この二項対立的な枠組みの中で、議論を戦わせるというのは、非常にアメリカ的なディベートのお作法というのか、裁判のアルテなのである。アメリカ人も、この二項対立的な議論ではまずいということは薄々みんな気がついていて、法廷での議論でも、二項対立的に対応できないものがあることに関して、あるいは、それが完全でなく、割り切れないものがあることに関して、Law and Orderなどのシリーズで、「時々、あぁ~~~~」と煮え切らない結果、すなわちアメリカ人の好きな Justice has been served という結果で終わらないような結果を見せることもあるのである。

                     

                     

                    (アメリカの模擬法廷のテレビ番組の女性判事風の人)

                    https://memegenerator.net/instance/58995060/judge-judy-justice-has-been-served から 

                     

                    Judge Judyの出演したJudysmという番組か何かのCM

                     

                    日本人には、アメリカ人の裁判好きさの加減はわからないだろうが、上の動画のように、模擬裁判をやってテレビドラマ風のテレビ番組まであるほど、比較的簡単に白黒つけるのが好きな人たちだからこそ、今、トランプの白黒つける決着方法が、受けてしまっているのだろうと思う。その意味で、日本でフォーマットと言うかテンプレが作られ、海外に輸出された番組としては、料理の鉄人、アメリカではアイアン・シェフがあるが、あれは料理の味で白黒つけ、料理でやるプロレス風なところが面白かったので、アメリカ文化にフィットしたから、輸出されたのだろう。

                    Iron ChefのTrailer
                    料理の鉄人

                     

                     

                     

                    まぁ、このIron Chef という番組は、世界で最もお馬鹿な番組、とアメリカでは言われていたが、結構アメリカでの視聴率はあったみたいである。アメリカは日本じゃないので、お好きにやられればよろしい。

                     

                    次回へと続く。

                     

                     

                    評価:
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                    ポール・アンダースン,ゴードン R.ディクスン
                    早川書房
                    ---
                    (1972-09)
                    コメント:めちゃくちゃ面白かった、天野さんの表紙も素敵。

                    2017.04.12 Wednesday

                    N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その50

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                      さて、直近2回は『シンプリー・ジーザス』のスニーク・プレビュー風のご紹介だったので、今回から、いつものペースに戻したい。ということで、今日から暫く『クリスチャンであるとは』の連載に戻りたい。

                       

                      霊的生活のためのメソドロジー(方法論)

                      もともと、キリスト教会におけるS K学会のような教会に通っていた。ある種の神秘主義を内包しつつ、結構、伝道方法については勢いが良く、大きな声で賛美をすることを良しとするグループであったため、教会での時間は、結構賑やかななグループ(ただし、賛美中のハレルヤー、アーメンはなかった)にいた。そんな信仰形態であったが、ナウエンの世界に触れ、正教会の世界に触れ、砂漠の師父の世界に触れ、神秘的傾向を強めていて(← いまここ)、このような霊性の世界にかなり傾倒しているものとしては、ここでライトさんが書いておられるような世界観はすごくすんなりと、ああそうだね、と思う。とは言え、ある聖人のように空を飛べたり、瞬間移動はできないし、殉教する準備もできていないのが、みーちゃんはちゃんではあるのだけれども。

                      霊的であるための方法はどれも、祈り深く聖書を読むことを中心に発達してきた。福音主義においては「静思の時」という時間を持ち、聖書を読み、神の声に耳を傾けるのを大切にしてきた。そこで福音派の多くの人たちは、聖ベネディクトや他のカトリックの教師たちが、「レクチオ・ディヴィナ」として知られる、とても良く似たシステムを発展させてきたことを知って驚く。こうした黙想的手法で祈り深く聖書を読み、その物語に登場する人物に「なること」を求め、物語が展開する中でどうなっていくか、その様子を見たり、じっとまったりしながら、自分に何が語られ、求められているのかを、心を開いて受け止めることである。(『クリスチャンであるとは』p.266)

                       

                      もともとは、静思のときとかは、ナウエンがThe way of the heart (p.49−50)で次のように書いているように、普通の現代人として、結構困難な経験をする事が多いようである。

                       

                      The way of the heart(p.49−50)

                       

                      試験的日本語変換

                      我々の重大な問題の一つは、我々がこのおしゃべりが止まらない社会に射るために、静まることが非常に恐ろしいことの一つになっていることだ。多くの人々にとって、静まることを経験することは、イライラしたり、神経質にしてしまうのだ。多くの人々は、静まることを豊かで、満ち満ちた経験として感じるのではなく、むしろ空虚で虚ろなものと感じてしまうのである。彼らにとって、静まることは、口を大きく開けた迷宮が彼らをあたかも飲み込もうとしているかのように感じるのだ。司式者が、礼拝の最中に「これからしばしの間静まりましょう」というやいなや、人々は、落ち着きがなくなり、”一体これはいつ終わるのだ”という思いのみにとらわれてしまうのだ。多くの司式者は、礼拝の最中に静まりの時を持つと、静まりが、人びとにとって、神のもの、というよりは悪魔的なものとなり、司式者は話し続けてほしいというような会衆からの無言の圧力を感じるようになる。まさに不安真理が生まれることを避けるため、様々な儀式で静まることが避けられることになる。

                       

                      黙想とか、静思のときとか、ミーちゃんはーちゃんにとっても、ほんとうに恐怖でしかなかったのであるのだけれども、ある程度レクティオ・ディビナを繰り返し試み、正教会の教会で見学させてもらい、アングリカン・コミュニオンの教会に行くことで、この世界に慣れてくると、この身体性を伴ったスタイルの礼拝のほうが、現在では、案外心地よかったりする。

                       

                      昔はやっていたのだけれども、声を出して祈り合うようなデヴォーションとかは、根本的に苦手である。なんか、人の目を気にして、下心というか、色気が出てしまうからである。その意味で、まだまだ、静まりの時間が圧倒的に不足しているのだろうと思っている。

                       

                      ただ、黙想とか、霊操とかは、一人でやると、非常にまずいような気がする。きちんとした指導者の指導のもとやらないと、それこそ自殺者が出たりする騒ぎになる、ちょっとヤヴァい領域の話なので、あまりかんたん日本があるから、と言って、手前勝手にやらないほうがいいと思うし、また、よほど気をつけておかないと、もともともっている聖書理解の体系を壊しかねなくなるので、数冊、書籍を読んだくらいで、自分勝手にはやらないほうがいいと思う。

                      メソドロジーや包丁や、テクノロジーは便利ではあるけども、そこに危険性はあり、あまり深く考えもせずにやるとろくなことは起きないと思うのは、これらの技術と同じだと思うなぁ。

                       

                      レクティオ・ディヴィナに関しては、来住司祭の「 目からウロコ聖書の読み方 レクチオ・ディヴィナ入門 」がわかりやすくて良いと思う。基本的なことがきっちり書いてある。あと、英語を読める皆様には、The way of the heartをおすすめするが、こちらは、もう少しわかりにくい。まぁ、このあたりのことをきちんとしたいと思えば、黙想の家とか沈黙の修道会や静まりのセミナーがあるので、そこで、ちゃんとした人の指導を受けながらやる方がいいし、おそらく、普通のプロテスタントの信徒さんが行くと「なんじゃ、こりゃ〜〜〜〜〜」になると思うので、あまりおすすめしない。ただ、霊性を養うための方法論として霊操にしてもレクティオ・ディヴィナにしても、ある種の方法論が確立されていることは確かである。

                      仏教学の若手の研究者の魚川さんによれば、仏教では解脱(≒成仏、悟りを開く)のためのメソドロジーが確立していて、それが仏教思想のある部分を占めているらしいので、その意味で身体性を持った霊性には、確かにメソドロジーは必要なのだと思う。その辺、伝統宗教には、このような身体性を伴った修養の方法論、断食とか瞑想とか、それに類似する方法論はあるように思う。仏教における解脱については、魚川さんの『仏教思想のゼロ・ポイント』を参照されたい。
                      ただ、繰り返すが、このタイプのものの中には、非常に魅力的であるがゆえにかなりヤヴァいものがあるので、一人で勝手にやらないほうが良いとは思う。人は繊細な(Fragile)被造物だからである。

                       

                      ところで、「こうした黙想的手法で祈り深く聖書を読み、その物語に登場する人物に「なること」を求め、物語が展開する中でどうなっていくか、その様子を見たり、じっとまったりしながら、自分に何が語られ、求められているのかを、心を開いて受け止めることである」とライトさんは書いておられるが、こないだの日曜日のレントの最終日曜日(棕櫚の主日)で、マタイ福音書28章を、登場人物に分けて、礼拝参加者一人一人に、聖書の中の登場人物の言葉が割り当てられて、読むということを説教の代わりにしたのだが、実に印象深かった。まさに、聖書の出来事のシーケンスに自分自身が参加しているかのような気がしたのである。自分がその中の役割、それが群衆であれ、百人隊長であれ、ユダであれ、名もなき女性の召使であれ、その担当部分の声をだして読むことでイエスの受難のシーケンスの中に入っていく感覚がしたことは確かだ。基本、アタマ派の理性がかった人間なので、そこまで深入りしなくて終わっただれけども、「ある人達は、この世界は深入りしそうになるなぁ」と思ったことは確かだ。

                       

                      受難のシーケンスに参加者が参加していくことを音楽でやったものが、マタイ受難曲の世界になるのだろう。


                      マタイ受難曲(長いので、ご関心のある方は全編どうぞ)

                       

                      説教とその意味

                      個人的には、究極の平新と主義の教会にいたので、2年くらい前までは、月に3から4回、40分から1時間近い説教の真似事のようなものをしてきたが、もう説教しなくなって、もっぱら、説教者の説教や式文に養われる立場に身を置くようになって初めて見えてきたものがあるし、説教を見つめるというその余裕が与えら得た生活を過ごしている。今も「我が信仰の父祖はさすらいのアラム人」と言いながら、放浪生活をしているが、その放浪生活は説教やキリスト教を見直すための余裕のために、神が与えられた時間であったと思いつつ、その時間をエンジョイしている。こういう経験をする時間がない説教者の方には、本当に申し訳ないと思っているが。実際、現実に、普通の日本の教会の牧師さんに、こういう贅沢をするための時間的、業務的余裕は、ほとんどないと思う。もう、真剣に神の哀れみを乞い願わざるをえない状況である。

                       

                      教会の歴史を通して説教者は、もともと書かれたコンテキストで聖書が何を語っているのか、そして、それぞれの置かれた時代でどのような意味を持つのか、という両面を伝えるように努めてきた。実際そのことが、説教を語ることの中心であったと行っても過言でない。(同書 p.266)

                       

                      そもそも、聖書は、ヘブライ語とか、ギリシア語で書かれていて、後にラテン語で訳されたものであった。そして、宗教改革前後に、プロテスタントはでは、各国語に翻訳された聖書は、そもそも、一般人には、意味不明であったし、ここのところ繰り返しているように、逆に翻訳されてしまった瞬間、どうやっても抜け落ちてしまう肌触りや手触りがあるし、そもそも、空間も時代も違う社会の中で、極めて正確な語を翻訳語として当てられるか、という問題がある。そもそも、出世ラクダ(アラビア語にはラクダについての多様な語がある)や、出世魚みたいなもの(日本語には、魚の呼称が異様に発達している)は、語感として共有されない。されたとしても、聖書で語られてきた時代と環境でのイメージはどうしても伝わらない。それをつなぐものが、本来説教であった、ということが、ここでライトさんがおっしゃっていることであり、まさに、その通りだろうと思っている。

                       

                      そう思うからこそ、牧師さんの先週の業務報告や、中会とか大会の決議案件の報告と議論とか、テレビや映画の素人解説とか、私小説もどきの公同の教会的伝統としての検証が、全くされていないその教会だけで通じる聖人伝とか、献金が信徒生活にいかに大切かということに関するブラックメールまがいの説教とか、もう本当にご遠慮賜りたいのである。

                       

                      聖書に神の声を聞き、我々の存在が聖書で読まれる経験

                      実に聖書を読む、特にレクティオ・ディヴィナ的方法論で読む時、確かに神に出会う感じがすることがある。ライトさん特有の言葉を使えば、神と我々を隔てる幕が一瞬薄くなり、神の世界が見える場所であり、天と地が噛み合う場所であるというのは、個人的に全くそのとおりだと思う。まさに、歩く神殿であるイエスを通して、神の世界にはいっていくように、移動可能な聖書を通して、神の世界を垣間見る経験であり、正教会風に言えば、テオシスの世界なのだと思う。そのあたりのことについて、ライトさんは次のように書く。

                       

                      聖書に神の声を聞くとは、明解で専門的な知識を得るようなものではない。むしろそれは愛に関わることである。既に示唆してきたように、愛とは、天と地の交差する場で生きるために必要な認識のあり方である。(中略)

                      聖書の言葉から神の声を聞くとは、誤りのない見解を得る、ということではない。神の声を聞くことはむしろ、イエス自身の置かれた場に私たちを置くためなのである。(同書 p.267)

                       

                      ここで、ライトさんが「聖書の言葉から神の声を聞くとは、誤りのない見解を得る、ということではない」と書いていることは、非常に重要である。多くの場合、現代において読書するということは、「(最新の、であるがゆえに間違いがない、と考えられている)誤りのない見解」を体系的に得るために読むことが多くなっている。中学高校の教科書から、大学で使う専門書に至るまで、私小説や推理小説やマンガやギャグネタ本以外の、啓蒙時代に構築された文化背景のもとでの、かなりの読書体験は「誤りのない見解」を得るためのものになってしまっている。そのような読み方で読む限り、使徒たちや遅れてきたパウロが読んだであろうように、聖書は読めないのではないか、と思う。そして、聖書に我が身とその霊的状況を照らされて、聖書によって自分自身が読まれるという体験をしないのだろう。それを、ライトさん風に書くと「神の声を聞くことはむしろ、イエス自身の置かれた場に私たちを置くためなのである」ということになるのかもしれない。

                       

                      その意味で3Dのメヴィウスの輪のような関係が、聖書を読むということには起きているのかもしれない。表面だと思っていると、いつの間にか裏面になり、裏面だと思っているといつの間にか表面になっているという3次元的曲面で構成される立体である。

                       

                       

                      メビウスの輪の3次元図


                      3次元表現した”メビウスの輪”

                       

                       

                      ある意味で、私達自身を「イエス自身が置かれた場所に置く」ということは、「その場とその状況にいるものとして、自分自身、考えてみる、あるいは、思いを巡らせてみる」ということでもあり、イエスを通して、その世界にはいっていき、そして、イエスの行動や、神のみ思いと我らの思いの違いを見て、反省が強いられる(これが、聖書により我々が読まれる)という体験であり、その結果として、自分自身の不甲斐なさ、罪の支配の中にあるということでもあり、そして、その捕囚状態からの開放を求めて、神の介入(神がその状態からの救出をして下さること、すなわち救いのこと)を求める、ということなのだろうなぁ、と思う。あるいは放蕩息子の息子が父のもとに戻るように、神のもとに戻っていく事に関する意味が出てくるという構造を聖書はもっているのだと思う。

                       

                      人間らしくなるための神のチャレンジ

                      正教会系の伝統では、人間は完全に堕落しているのでもなく、かなり壊れているが、神とともに行き、神とともに生きていくことで、人間としての回復が地上で起きるという理解である。しかし、それは人間によって話されない、という理解のようである。

                       

                      ところで、プロテスタント系の教会の伝統では、人間は完全に堕落しているので、神からのこの堕落からの解放をもたらすイエスが必要であり、イエスを進行することで、一発逆転ホームラン型で、ヒーローになれる風の理解の方々もおられる。しかし、個人的には、一発逆転型ではないように思うのだ。それは自分自身を見ててもわかる。間違いはするし、ろくでもないことをやるし、一時的には、一発逆転満塁ホームランのような状態かもしれないが、この世界が呪われているために、常時ヒーローであり続け、間違いを全く侵さないようにはできていない。

                      間違いを起こしながらも、神のもとに戻り、神に憐れみを乞いねがい、よろめきながら、神の前を歩いているような存在なのだと思う。正直、人間は神になれないのではないか、と思っている。間違いを起こす、不完全なものになることが、神の許容範囲の中で、悪からのチャレンジがあることを容認されているのであるように思う。ちょうどヨブ記で描かれているヨブが、最終的には悪から開放されたように、我々も開放されるのである。そのあたりのことに関して、ライトさんは次のように書いている。

                       

                       

                      聖書は、私達が満足して停滞しない様に、絶えずチャレンジを与える。教会にそのような賜物を与えたのは、あらゆる世代の人が考え方において大人となり、より完全に人間らしくなる必要を示すためである。それはとりわけ、神が私達に示す聖書のことばによってなされる。(同書 p.269)

                       

                      おそらく、ここでの「教会にそのような賜物を与えたのは、あらゆる世代の人が考え方において大人となり、より完全に人間らしくなる必要を示すため」という部分で、「より完全に人間らしくなる」というのは、正教会的伝統で言うテオシスの概念にほぼ等しいのではないかと思う。もう少しいうと、「創世記で神と語り合っていた人間の状態へと、じわじわと回復される」ということなのだと思う。それが、聖書の言葉によって、聖書によって、我々の姿が照らされ、ちょうどメビウスの輪のように、表面では我々が聖書を読むことを通して、その裏側では我々が聖書に読まれ、そして、自らの実際の不甲斐ない姿を神の前に認め、素朴に神の関与を求め続けていく中で、神との関係を深めていく中で、「より完全に人間らしくなる」ということなのではないか、と思う。

                       

                      次回へと続く

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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                      コメント:おすすめしています。

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                      コメント:入門書としては最適と思います。この目からウロコシリーズはいいですよ。

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