2019.01.07 Monday

2019年のエピファニーの説教黙想

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    昨日はエピファニーでした。、昨日の礼拝では、聖書を読む前には、式文の合間に以下の二曲を歌いました。

     


    We three kings of Orient are



    Gradual: Brightest and best

     

    そして、

    Old Testament Isaiah 60:1-6 (信徒が読む)
    Epistle Ephesians 3:1-12  (信徒が読む)
    Gospel Mathew 2:1-12  (司祭が読む)


    の部分が読まれ、説教となりました。

     

    3人は何だったのか…

    昨日は、エピファニー(クリスマスの最後の日)で、東方の3博士なのか、3人の王なのか、3人の魔法使い(Magi ギリシア語では、magoiと書いてあるはず)なのか、3人の天文学者なのか、3人の占星術師なのか、3人の占い師と呼ぶのかは、いろいろあるのだけれども、その辺は習慣というか伝統が入り込んでいて、なんというべきかいろいろあるのだが、その三人の少なくとも星を見た人がイエスのもとに来たことを記念する日、ということで、それに即する讃美歌などを歌い、それにかかわる以下のような聖書記事を読みました。冒頭の讃美歌(We three kings of Orient are)で歌ったように、なんとなく私たちは、東方から来たのは、王だと思っているけれども実はそうではないかもしれなくて、といった理解や、羊飼いとこれらの三人の博士があたかも同席しているような絵画が描かれたりと、クリスマスやイエスが生まれたときの理解については、いろいろ聖書が成立して以降に持ち込まれた絵画とか、理解とかから持ち込まれた後世の文化的な蓄積があり、その結果から多くの誤解に近い思い込みをしている部分があるよねぇ、というお話になりました。

     

    3人が持ってきたプレゼントについて

    福音書の解説として、3人の王としてが、黄金、没薬(myrrh)、乳香( frankincense)を持ってきたことになっていて、それは、神の子の誕生の際のプレゼントだけれども、普通子供が生まれたら、何を持っていくだろうか、という話になりました。このことの問いかけがあったので、何人かの参加者から、紙おむつとか、粉ミルクとか、バスタオルとか、というアイディアが出ました。それを受けて、司祭は、いろいろ普通は実用的なものを持っていくけど、この3人のMagiのみなさんは、よりにもよって、あまりにも実用的じゃないものと思えるものを持ってきているよねぇ、という話がありました。

     

    https://www.pinterest.jp/pin/284993482647636368/

     

    この3人のMagiの皆さんが持ってきたものに対して、ある聖書学者は、黄金は、イエスが王であること、没薬は、イエスの死と復活、乳香は神への礼拝、と対応っセルことで、これらの贈り物がイエスの生涯を象徴しているという解釈をする人もいて、表しているという解釈ができるとか、言っている場合もあるし、別の神学者によれば、いやいや、これは、高価に転売できるので、のちにイエスがヘロデの手を逃れるために、エジプトに逃れるための資金として、すぐに高価格で転売できたので、問題なかった、というような解釈をしている人たちもいますが・・・という紹介がされました。

     

    神からの全ての人間へのプレゼント

    ところで、この時期は、プレゼントをする時期で、特に日本では、クリスマスにお正月、誕生日プレゼントに時々はお土産も、ある種のプレゼントでもある、ということを考えると、日本というのはプレゼントが多い文化を持っているよねぇ。特にプレゼントということで考えてみると、クリスマスがなぜよろこばしいのか、という意味を考えると、人間への最大のプレゼントは、実は、神の御子が、神であるにもかかわらず、この地に自分自身をプレゼントとしてやってきたことなのではないでしょうか。それを、キリスト者として、この東方からこの三人がわざわざやってきて、神に対して捧げるもの、あるいは、神の御子、王へのプレゼントを持ってきたことを覚えるエピファニーに際して、どう考えたらよいのでしょうか、という問いかけがなされました。

     

    人間が神に捧げることができるもの

    神がご自身を人間に与えたもうたことに対して、私たちは、何をしたらよいのか、ということを考えてみると、我々は、すべてのものを神から受けているにすぎないものである以上、人間が神に何か返すことはできないですし…ということはあるのではないでしょうか、という問いかけがさらにありました。

     

    そうはいっても、この時期は、年初なので、これからの一年を考えるというのを、日本でもよく行うようであるし、多くの文化でするけど、その時に去年と何がどう違うか、去年より生き方を少しちょっと変えてみる、を考えてみるのはいいかもしれない、ということを考えるときに、エピファニーでもあるので、東方のMagiが何かをささげたように、人間がどのように神に何かをささげうるとしたら、何か、ということを考えてほしいのですし、そして、おそらく、人間が唯一神に差し出すことができるものがあるとすれば、神の愛にこたえて、神を愛することがまず第一義的にあるでしょう、そして、これから1年の間に出会う人々、それはとりもなおさず、私たちの隣人である存在である人々に自分自身の存在を差し出すことしかないんじゃないでしょうか、という問いかけで、説教がまとめられました。

     

    説教を聞きながらの黙想

    説教を聞きながら、思っていたのは、次のようなローマ人への手紙の箇所でした。ローマ人の手紙には、確かに次のようにあります。

     

    【口語訳聖書】ローマ人への手紙 12章 1節
    兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

     

    それとともに、また、

     

    【口語訳聖書】コリント人への第一の手紙 13章 2節から3節

    たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。 

    たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。 

     

    ということも、思い出していました。これを思う時、キリスト者として生きるということは、とりもなおさず、神に対する愛に動機づけられて生きる古都であるということを思いめぐらせていました。つまり、他者から評価を受けるようなことをなすことでもなく、神を愛すること、神とともに生きることが神に対する礼拝であると同時に、旧約聖書の律法と預言者が(旧約聖書の全体)この二つにかかっていると、イエスが言ったことも思い出していました。

     

    【口語訳聖書】マタイによる福音書 22章 35節

    そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、 

    「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 

    イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 

    これがいちばん大切な、第一のいましめである。 

    第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 

    これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 

     

    これらの言葉を、説教を聞きながら思い巡らし、この一年、どんな場面で神の愛をみることになるのだろうか、そして、どんな人々と出会い、どんな人々の隣人になり、その中で、神の愛をどのように示すことになるように導かれていくのだろうか、そして、それが、旧約聖書全体をかけて、神が私たちに示そうとしたことだし、そのことが神がこの地に命がけで来て、人類にとってこれ異常ないプレゼントであることを示し、神がこの地での命をいきるなかで、その神の愛を、神の愛の全体がこの地に突き抜けて神の御座、すなわち神が支配をなしておられる場所からこの地にやってきた、ということについて、その極みまでを示したことについて、個人的には、エピファニーの礼拝と聖餐式が終わって、帰る道すがら、思いをめぐらしていました。

     

    余談

    アメリカの映画などを見ていると、この3人の王を明らかに題材にしたと思えるタイトルの映画なんかもあります。それと、クリスマス、キャロルで出てくる3つのクリスマスのゴースト(過去のゴースト、将来のゴースト、現在のゴーストも、おそらくは、この3人の東方の博士なのか、王なのかのパロディになっているのかも知れないかもなぁ、それぞれが、エベネザー・スクルージにもたらしたものがなんだったかと対応しているのかも、とか礼拝からの帰り道、色々妄想しておりました。

     

     

     

     

     

    2019.01.01 Tuesday

    2018年12月のアクセス記録

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      皆様、いつものようにご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、これまでのアクセス記録のご紹介と参りましょう。


      ほとんど書籍紹介の記事ばかりでしたが、ご清覧頂きありがとうございました。

       

      2014年第2四半期(4〜6月)       58171アクセス(639.2 アクセス/日)
      2014年第3四半期(7〜9月)       39349アクセス(479.9 アクセス/日)
      2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6 アクセス/日)
      2015年第1四半期(1〜3月)       48073アクセス(534.1 アクセス/日)
      2015年第2四半期(4〜6月)       48073アクセス(631.7 アクセス/日)
      2015年第3四半期(7〜9月)        59999アクセス(651.0 アクセス/日)
      2015年第4四半期(10〜12月)    87926アクセス(955.7 アクセス/日)
      2016年第1四半期(1〜3月)      61902アクセス(687.8 アクセス/日)
      2016年第2四半期(4〜6月)       66709アクセス(733.1 アクセス/日)

      2016年第3四半期(7〜9月)       65916アクセス(716.5 アクセス/日)
      2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4 アクセス/日)

      2017年第1四半期(1〜3月)      56858アクセス(631.8 アクセス/日)

      2017年第2四半期(4〜6月)       76117アクセス(836.5 アクセス/日)

      2017年第3四半期(7〜9月)     55225アクセス(600.3 アクセス/日)

       

      2018年第2四半期(4〜6月)     43880アクセス(482.2 アクセス/日)

      2018年第3四半期(7〜9月)   55404アクセス(602.2 アクセス/日)

       

      2018年10月  17,291アクセス(576.4 アクセス/日)

      2018年11月  15,238アクセス(507.9 アクセス/日)

      2018年12月  16,686アクセス(538.3 アクセス/日)

       

      でした。

       

      ところで、12月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。先月もご清覧ありがとうございました。

       

      現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由  477 アクセス

       

      キリスト教教育とキリスト教の宣教に関する本をたらたらと読んでみた(1) 221 アクセス

       

       

      教会の公同性(小文字のカトリック教会であること)について(正教会の視点から)(2)  155 アクセス

       

      日ユ同祖論というトンデモ理論について その1 148 アクセス

       

      キリスト教教育とキリスト教の宣教に関する本をたらたらと読んでみた(3) 142アクセス

       

       

      でした。

       

      また、今月も、当ブログのいつもの鉄板ネタ、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由が堂々の2位、相かわらずこの問題への関心の高さを示しているように思いました。あとは、あたらしい記事はあまりアクセスがなかったひと月でした。

       

      皆様の先月の御清覧、ありがとうございました。よろしければ、今月もまた、ご清覧をお願い申し上げます。

       

       

       

       

       

       

      2018.12.31 Monday

      説教随想 ホーム・アローン・ゴッド 

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        いつも参加させてもらっている教会での昨日の聖書個所は、イエスが12歳の時のエルサレムに行って、宮で祭司長と律法学者と話し込んでいる間にマリアとヨセフがイエスを神殿に置き去りにして、帰りかけた話のルカ2章41−52節からの部分でした。

         

        いろいろなクリスマス映画

        ちょうど、今はまだクリスマス習慣絶賛実施中です。多くのキリスト教界では、新年モード・迎春モードかもしれませんが、教会歴に沿ってしている教会では、まだクリスマスモードだということもあり、クリスマスシーズンの映画の話から、ということで、Home Aloneもクリスマス映画だよねぇ、という話になって、ある意味で、今日の福音書のルカ2章からの部分と、ホームアローンって、似ているよねぇ、というところから始まりました。

         

        Home Aloneの予告編

         

         

        個人的には、34丁目の奇跡とかJingle All the Wayが個人的には、面白かったような気がします。ほかにも、まぁ、クリスマス時期は、いろいろシーズンに合わせた映画が公開されるので、かなりバラエティが多いシーズンではありますが。

         

        34丁目の軌跡

         

        Jingle All the Way

         

        いろんな事に気を取られてしまっている人間の姿

        そして、親をしている人で、ホーム・アローンのように子供を置き忘れたことがあるか、とかいう話になっていったんですが、ホーム・アローンでは、パリ旅行のためにあれやこれやしなければならないことがあって、大事なことを忘れてしまう人間の姿を描いているよね、ということから、どういうことかはわからないけれども、ヨセフとマリアもほかのことに心をとられていて、イエスをホーム・アローン状態にしたのかもしれないよねぇ、という話で、この大切なことを割と忘れてしまうっていうのは、人間の姿を現しているかもしれないよねぇ、と話が続いていきました。ここで、イエスを忘れたマリアとヨセフは人間の姿を現しているのかもしれないよねぇ、という話になりました。

         

        人間は、実に様々なことに気を取られているのは確かで、仕事のこととか、人生のこととか、健康のこととか、いろんなことに気を取られていて、本来見ておかなければいけないことを見ていないよねぇ、本来、人間が気にかけておくべきことは、神とともに歩むことなんだけれども、それができていないのが人間だけれども、仮に、我々が、時に神とはぐれた、神に目を向けることを忘れていたとしても、神は、常におられるべきところにおられて、我々はそこに戻ることができ、常に、神は我々が神のもとに帰ることを待っておられるのだ、というのが説教の要約です。

         

        ホーム・アローン・ゴッド

        この説教(全部で10分ちょっとくらい)まぁ、聖書のルカの福音書は、父の家にヨセフやマリアからは置き去りにされていましたが、その周りには、祭司だとか、律法学者がいたので、一人ではなかったわけですが、イエスは、我々人間と神がともにいる、という本来の姿を取り戻したいという神の意向を伝えるために、そして、父の家には人間のための空間がある、ということをこの地の人々に伝えるために、本来の神の王座を離れて、残虐な殺され方をするために来たのに、人間の側が割とあっさりと無視していて、ある意味で、神の片思い状態にしているという意味で、神の御座というホームに神だけがいる、という状態になっているよなぁ、ということを思うと、私たち人間は、ホーム・アローン・ゴッドにしているよなぁ、と思ったのでした。

         

        主の祈りから

        ところで、主の祈りの中に、次のような部分があります。

         

        み国が来ますように

        みこころが天に行われるとおり
        地にも行われますように。

        your kingdom come,
        your will be done,
        on earth as in heaven.
        この部分には、神と人間との関係が、遠いものや無関係なものではなく、かなり近いものであること、神の支配がこの地にあることを示しているわけで、神の側が、神にとってのホームである天におられれるだけでなく、人間も天の支配、神の支配というその世界に含まれるということについての祈りであるのだと思うのです。

         

        その意味で、私たちが日常生活の中でともにおられるはずの神を、忙しさや仕事、様々なことのゆえに見ないことはよく起きてしまうわけですし、旧約時代のイスラエルは、神とともに歩みながらも、神を忘れたり、無視したかのような歩みをし続けた民でもあったわけですが、そのイスラエルの民に、神は、「わが子よ、わが元に戻ってこい」ということを言い続けられたわけで、言い続けた内容は、「神を神のホームでもある天にホーム・アローン状態にするな」ということでもあるように思うのです。

         

        神をホーム・アローンにしている人間
        その意味で、キリスト者は、この地に神がキリストという形で歩んだことを知り、キリストを聖餐を通して、自らのうちにな移住していただいているものであり、さらに、キリストのゆえに、神の聖霊(聖神)がおられるということを日々体験している民でありながら、人間の側の都合で、割と、本来、自らのうちにおられる神をホーム・アローン状態にしている部分があるよなぁ、と素朴に思いめぐらせていました。

         

        この神と人がともに歩む、神が人間をホーム(宮)にするというのは、

         

        【口語訳聖書】 コリント人への第一の手紙 3章 17節
        神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。 

         

        【口語訳聖書】 コリント人への第一の手紙6章 19節
        自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。

        とも書いてあるのだけれども、人間はともすれば本来、神のホームであるにもかかわらず、そのことを自分の思いのあまり、あまりにも無視していることが多いのかもしれないなぁ、ということを教会からの帰り道の道すがら考えておりました。

         

        イスラエルが、道を外れまくりながらも、預言者などの声にこたえる形で神のもとに戻っていったように、神のもとに戻っていく、ということをキリスト者として考える必要があるのだろうなぁ、ということの意味を今週は考えることになりそうです。

         

        ホームアローン状態だった放蕩息子の父

        そういう意味でいうと、放蕩息子の父は、弟君からは、リアルな意味でホーム・アローン・ファーザーにされていたし、兄貴からは、リアルな意味では同居しつつも、精神的な意味で、ホーム・アローン・ファーザーにされていたという意味で、ダブルでホーム・アローン状態にあったという意味で、現代のキリスト者からは、放蕩息子の兄のような状態で、ホーム・アローン・ゴッドにされているのかもしれないなぁ、とも連想してしまっていました。

         

         

        こういうシュワちゃんにドアップで迫られると結構怖いだろうなぁ

        https://imgflip.com/i/1tlx6m から

         

        ちなみに、現在も絶賛クリスマス期間実施中ですので、例年この時期は、電車等での落し物が多い時期でもありますので、皆様も、皆様のクリスマスの精神(Christmas Spirit)をどこかに置き忘れになられませんように。ドンジョバンニに出てくる騎士団長のような、こんな人が出てくるかもしれませんし。

         

        https://www.dailyedge.ie/muppet-christmas-carol-best-christmas-film-3137821-Dec2016/ より

         

        ドン・ジョバンニの最後のシーンに出てくる騎士団長様

         

        とりあえず、来週月曜日まで、年末年始のお休みに入ります。よきクリスマス週と、エピファニーをお迎えください。

         

         

         

         

         

         

         

        2018.12.29 Saturday

        キリスト教教育とキリスト教の宣教に関する本をたらたらと読んでみた(5)

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          言語運用能力とキリスト教の定着

          本日はお約束どおり、西谷さん書籍の中から、「宗教的言語の深層文法ーチョムスキーの変形生成文法理論から」と題された部分の記述の内容をもとに考えたことを少し書いてみたいと思います。なお、ミーちゃんハーちゃんは、技術系の人間なので、チョムスキーについては、安めの辞書の記述程度のこと以上、ほとんど何も知りませんが、キリスト教理解やキリスト教の受容を考える上で、以下の記述は大事だと思ったので、ちょっこし、たらたらと考えたことを書いてみたいと思います。

           

          チョムスキーによれば、人間にはかの言語の深層構造があたかも「人体の身体器官と同じようなもの」(II250)、つまり「心的器官」(II254)として組み込まれている。従って、彼は自分が出会う言語の文法を彼にすでに備えられている普遍文法に突き合わせて矛盾しない限り理解するのである。(中略)こうして、人間は自らにアプリオリに備わった「普遍文法」に立脚するなら、その変形にもかかわらず理解可能な言語を無限大に想像することも可能になる。なお、個々の具体的なコミュニケーションの中で、話し手がその文法に適った仕方で独自な言葉を作り出していくことが「言語運用」(linguistic performance)である。(西谷幸介著『 教育的伝道 日本のキリスト教学校の使命』 p.84)

           

          すごく平たく言ってしまえば、チョムスキーが言っていること、とここで主張されていることは、人間には様々な言語を超えて、感じる部分である「心的器官」があるのであって、多少言語が違っても、人間が共通に持つ何らかの普遍文法と「心的器官」があるが故に、共通の経験があるといえるのであって、その共通の経験があるが故に、表現が異なっていても、異なる人々の間での、ある種の「相互理解」とその可能性が生まれ売るということなのでしょう。

           

          そして、「個々の具体的なコミュニケーションの中で、話し手がその文法に適った仕方で独自な言葉を作り出していくことが「言語運用」(linguistic performance)である」ということは、案外大事なことかもしれないなぁ、と思うのです。

           

          実はあまり安定的でない日常言語

          そう思って考えてみると、実は、言語というのはそれほど安定的なものではなく、かなり変動が激しいもののように思います。業界によって、人々が生活している空間によって、社会によって、言語表現(言語運用)は異なっていきますし、さらにその時代を支えている技術要件によって定まる時代によって、言語表現は異なっていくことになるわけです。

           

          だからこそ、同じ日本語とはいえ、万葉集どころか、もうちょっと最近の平安後期の日本語の文書であっても、古典文学を読むためには古語辞典がいるし、昔の古典は、もはや通用しない、という現実的な問題がありますし、そもそも、大日本帝国憲法では、カタカナ送りがなを使っていましたから、昭和の頃でも、役所の公文書とかは、カタカナ送りがなが標準だったようです。

           

          大日本帝国憲法 https://www.jacar.go.jp/modernjapan/p03.html

           

          対象3年阿蘇さんが噴火したときの指令書 https://www.jacar.go.jp/newsletter/newsletter_017j/newsletter_017j.html

           

          あるいは、今どきの若者言葉としてあげられた以下の日本昔話の吹き替えにしても、今では、以下の動画のような表現をする若者はほとんどいないのではないか、と思うのです。それほど、話し言葉の変化や、表現方法の変化は激しい、と言わざるを得ません。そういえば、最近、いよいよ日本ではポケベルサーヴィスがなくなりましたが、ポケベルサーヴィスがあればこそ、それに適した言語運用能力が生まれ、社会のなかで共有されてきたわけです。最近では、絵文字文化になってきましたが。絵文字は、Emojiとして、外国にも広まり、日本での場合と同じように、絵文字コミュニケーションにおけるジェネレーションギャップが広く発生していることがあるようです。

           

          昔の若者言葉による日本昔話

           

          ポケベルでのコミュニケーション方法

           

          米国での絵文字のジェネレーションギャップ

           

          変わる言語運用と、神学用語のゆらぎ

          結局、日常的に用いる言語とそれを取り巻く環境が動いている以上、聖書の翻訳や、その翻訳聖書から導き出される理解とその表現方法も変化せざるを得ず、それをどうするのか問題というのが、必ず生まれ続けるように思うのです。先日三重県のある牧師さんのFacebookの賛美歌や式文などを議論するサイトで、この2年間の間に、割と普及している日本語聖書の改定された翻訳聖書が2種類出版された関係で、主の祈りの「私達の罪をお許しください」と表現されている部分が 「罪」か「負い目」か、負債のうち、どうやくすべきなのか、という議論が起きていました。確かに、英訳でも、sinとしている訳もあれば、tresspassと翻訳しているものもあり、ある場合は、debtと翻訳しているものがあるのですが(なぜ、英語で許されるべきものの言い方が3種類もあるかについては Forgive Us Our What? Three Ways We Say the Lord’s Prayerという、英語のブログ記事が詳しい)、こういうのを見ていても、聖書の言葉にはゆらぎがなくても、人間の側の現実の言語とそこで使われる語の用法の側に揺らぎがあるので、話し手がその文法に適った仕方で独自な言葉を作り出していく「言語運用」ということが求められているが故に、揺らいでしまうのかなぁ、と思いました。つまり、言語の奥側にある「普遍文法」で描かれるべき神の言葉自体は揺らがなくても、言語の手前側の人間の環境がガラガラと揺らいでいるので、人間界の世界ではその「普遍文法」の世界での対象に関する表現方法が揺らがざるを得ない、ということなのだと思います。

           

          無誤性・無謬性と言語運用

          聖書信仰と聖書の無誤性、あるいは無謬性を巡る議論が福音は界隈では、かなり重要なことなのですが、そのことについて、藤本満さんが『聖書信仰 その歴史と可能性』(この本については、以下のリンクにあるように、2015年12月に本ブログでも触れました)

           

          藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(1) (2015/12/19)
          藤本満著 『聖書信仰』を読んだ(2) 終わり (2015/12/23)
          藤本満著 『聖書信仰』を読んだ のコメントにお応えして (2015/12/26)

           

          という本を出版されたのを受け、また違う立場から、『聖書信仰とその諸問題』という本が出版され、今度はブログ上で、その議論への再応答が、『聖書信仰とその諸問題』への応答1(藤本満師)という形で酷性とか無謬性に関する対話が始まったようです。

           

          その藤本満さんがおかきになった記事のなかで、宇田さんという方が、カーティスという人の議論を引用する形で、おまとめになられたことが次のように書かれていました。意味論の話の記号論の話が鍵になる、ということが、ポイントであったように思います。

          「最近注目されている意味論(semantics)の影響のあることを見落としてはなりません。彼の理解によれば、言語とは任意に様式化された記号組織であるため変化しやすいものであること、また言語の意味論が提示する複雑な意味論を考える時、はたして原典の意味と同一の意味を他の言語において伝えかつ表現することが可能であろうかと彼はいいます。」

          まさに、この無誤論とか無謬論とか聖書信仰の問題は、チョムスキーが言っていると西谷さんが主張している信仰に関する「普遍文法」の世界に関する言語表現の問題、すなわち、言葉の奥というか言葉の先にあるものをどのようにこの場の手前の側にある世界での「言語運用」をどうするのか、という問題とその可能性の問題の議論に他ならないように、ミーちゃんはーちゃんには思えてなりません。

           

          なんのための神学?なんのための教会の説教?

          そんな事を考えていると、ツィッターで拾っているツィートの中に、こんな言葉がありました。

           

          C.S.Lewis  @CS_Lewis_jpから

           

          「教会は人々をキリストの内に引き入れ、彼らを小さいキリストとすること以外のどんな目的のためにも存在しない。もしこのことをやっていないなら、すべての聖堂、牧師、伝道、説教、聖書そのものさえも、単なる時間の浪費に過ぎない」

          このツィートは要するに、普遍文法としての世界で観測され、実体化しているはずの「小さなキリスト」あるいは「本来神に創造された世界での人間の姿」にするための言語運用の営みが、神学とか伝道とか、聖餐とか説教とか聖書とか、賛美歌を歌う、教会に定期的に集るという営みなのであって、なんか、そこで語られている何かの理解やそのような行為の方法論について、それぞれのグループで別々に名前をつけて、ああでもない、こうでもないと言っておられるのではないか、と思いたくなります。まぁ、この種の議論をC.S.ルイスが言うように「単なる時間の浪費に過ぎない」という気はありませんが、言葉の手前側にあるこの世界での言語運用の世界の細かな差にばかり振り回されるのもどうかなぁ、と思うことは時々あります。まぁ、その細かな言語運用の世界での議論とその世界については、見ている分には面白いのではありますが。個人的には、どんな方法論であれ、アプローチであれ、それが祈祷文であれ、自由祈祷であれ、説教であれ、チャントであれ、賛美歌であれ、それぞれ似合う形に従いながら、本来の目的である「小さなキリスト」あるいは、「神と人とが歩む姿」での人生を送ることになればいいのではないかなぁ、とだけ思うのです。

           

          宗派(教派)間対話、宗派(教派)内対話とその可能性

          ということで、普遍文法、深層構造、あるいは言葉の奥にあるものの普遍性とその表現であるという神学という現象に関する理解のための準備ができてしまうことが大事であり、その表現仕方の違いとそれが何を指しているかの議論が大事であるのか、について西谷さんは次のように書いておられました。

           

           以上がチョムスキーの言語学理論の要点であるが、リンドベックはチョムスキーの言語の「深層構造」という考えにヒントを得て、宗教的言語の「深層文法」を想定する。そして、この「深層文法」という概念を持ってキリスト教内の宗派間あるいは教派間を乖離させ分裂させている諸教理の撞着状態を再度克服する可能性についても、それらを貫いて「辞書的核心部分」(lexical core)(81)つまり「文法」が存在している。同様に、キリスト教の聖典としての聖書にも辞書的核心部分すなわち聖書的文法が存在している。それはまた「信仰に内在する規則」(the interior rule of faith)(79)である。そして、キリスト教徒にとって重要なのはこの聖書的文法に習熟することなのである。(同 p.84)

           

          要するに、ここでの西谷さんの言葉、あるいは、チョムスキーの議論を受けたリンドベックの用語法で言う辞書的核心部分が信仰、あるいは「小さなキリストになる過程」について存在していること、あるいは、聖書的文法(おそらく、キリスト者として神との関係にあることやその関係を深めるという生き方)は、基本的には同じであっても、その表現と表現方法が教派ごとに微妙に異なるが故に、それが、「辞書的核心部分」あるいは「聖書的文法」における違いやブレであるかのように言われるという部分がないわけではないように思います。それが、結果として「諸教理の撞着状態」を教派の間で生み出し、本当は、ほぼ同じことを言っているのだけれども、辞書的定義が、教派間で異なるために、辞書的非核心部分で混乱が生じているように思えてならないのが、一番なんだかなぁ、とツィッター界隈の議論を見ていると思います。

           

          要は、「小さなキリストににたもの」となるための聖書的文法に習熟することのはずなのですが、ある教派的な信仰表現の「言語運用」方法に習熟しすぎているがあまり、他のグループの信仰表現の「言語運用」方法に違和感を持ってしまい、他の人々が習熟している聖書的文法のスタイルが受け入れられない、あるいは他のグループの中で培われてきた「信仰に内在する規則」が間違っているものに見えるのかもしれません。

           

          日本のキリスト教の定着と教派間の差異

          前回のブログ記事では、少し書きましたが、日本の宗教は、固定された成文聖典を持たないため、「信仰に内在する規則なし」あるいは信仰に関する「辞書的核心部分」「聖書的文法」をこれまで持たない形で、なんとなく宗教的であったのが、日本の宗教環境であったのではないか、と思います。であるからこそ、本地垂迹説のようなものが生まれたり、現代的シンクレティズムや、日本型シンクレティズムや、多神教的な世界での神理解が支配していたからこそ、極初期の宣教師たちは、それを敏感にあるいはある程度感じ取り、あるいは思い込みで、日本のキリスト教受容する際に、自分たちの持っていた教はにおけるかなり独自性のある信仰のスタイルを、キリスト教全体にまつわる「信仰に内在するべき規則」とするように、あるいは、自分たちとその人たちを派遣した国で培われてきたその教派の人々が持っていた信仰者としての「辞書的核心部分」や「聖書的文法」を良かれと思って、日本の諸先輩方に伝えようとしたため、プロテスタント界隈では、この辺の文法とその文法が形成された社会的背景が今になって問題になっているのかもしれません。

           

          キリスト教を取り巻く環境の違い

          による聖書的文法の受容

          具体的な例を上げて考えてみたいと思います。今参加している教会でのボランティア活動に関与しておられるカトリックの真面目な信者さんがいらっしゃるんですが、その方とお茶をしながら先日その方から聞いたお話では、聖餐の際の未洗礼者への祝福を典礼奉仕者としてどう対応するか問題ということが、司祭不足の教会が増えるなかでかなり問題になっているらしいのです。

           

          けれども、イタリア・フランス・スペインあたりのカトリックの伝統が深い地域では、基本幼児洗礼を全員が生まれたら間もなく、問答無用みたいな形で洗礼を授けられていることもあり、そもそも、未洗礼者が社会の中にいないか、ほぼ皆無に近いので、教会での聖餐を受ける場面に、未洗礼者がいるという設定にそもそもならない、なりにくいという文化的コンテキストがあり、そもそも、未洗礼者が教会の聖餐に参加することが想定されていないらしい、という話をお伺いいたしました。

           

          このように、キリスト教を日本に送り出し国側での状況と日本の宗教的状況がそもそも違うために、日本に来たキリスト教の状況を考えて見れば、その日本にキリスト教をもたらした人々が持っている「辞書的核心部分」や「聖書的文法」の基礎となっている環境が基本的に違っているため、どこまでが本来的なキリスト教として「辞書的核心部分」や「聖書的文法」であり、あるいは「信仰に内在する規則」なのかの判定がうまくできない、ということに関して、どうにもこうにもならない部分があるように思えてなりません。


          次回へと続く

           

           

           

           

          2018.12.26 Wednesday

          キリスト教教育とキリスト教の宣教に関する本をたらたらと読んでみた(4)

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            メタ構造の関係、世界理解と世界との関係・・・

            さて、今日も西谷さんの本から読んで考えたことを書いてみたいと思います。本日は、「宗教聖典の本文内部性 ー ギアーツの文化人類的解釈理論から」という部分の記述から、思ったことを述べてみたいと思います。今回問題になるのは、聖典本文と世界と、個人の関係についての部分です。

             

            まず、以下でご紹介するリンドベックの議論を踏まえた西谷さんがお書きになった部分をもとに、少し考えてみたいと思います。

             

            リンドベックによれば、生きた歴史的宗教は例外なく聖典的文書を持ち、この聖典本文の内部でリアリティ全体を記述する(116)。宗教解釈は「聖典を聖典外のカテゴリーに翻訳する」ことではない。「世界を飲み込んでしまうのは聖典であって、世界が聖典を飲み込むのではない」(118)。従って、神学の課題とは、

             

            「たんに宗教をその内部生から解釈することに留まらず、万事を内部のこととして、すなわちその当該宗教によって解釈されることとして記述することでもあるのである」(114−115)

             

            これがリンドベックが宗教の「本文(ほんもん)内部性」〔わが国の聖書学の伝統にならい、「ほんもん」と発音したい〕ということで言おうとすることである。(中略)宗教とは、つまり、現実全体を「包括する解釈図式」であり、「宇宙の中で他の何よりも重要な事物の確認と記述を行い、それとの関連にある人間の態度や信念を含む生の全体的体系化をなす」(32−22)ものなのである。(西谷幸介著『教育的伝道 日本のキリスト教学校の使命』p.80)

             

            ここでまず、面白いなあ、と思ったのは、「宗教解釈は「聖典を聖典外のカテゴリーに翻訳する」ことではない。「世界を飲み込んでしまうのは聖典であって、世界が聖典を飲み込むのではない」」という部分でした。上の引用部分では、宗教解釈、となっていますが、聖書解釈でもいいかもしれません。もし、そうだとすると、聖書解釈とは、「聖書を聖書外のカテゴリーの言語体系に翻訳する」ことではなくなってしまいます。どうも、この辺に、聖書解釈に関する重要なポイントがありそうだ、と思うのです。

             

            つまり、どちらがメタになるのかという問題です。つまり、聖典理解が世界にとってのメタ構造(聖典理解をもとに世界を見ること)になるのか、与えられたのか、あるいは獲得してきたのかは別として、自己が持ってきた世界理解が聖典のメタ構造(自己の持つ世界理解をもとに聖典を理解していくこと)になるのか、というあたりの問題になるのではないか、と思います。

             

            ある面、これまで私が生きてきた日本のある意味極端な福音派的な世界観を持ったキリスト教は、聖書を日本語と日本文化のカテゴリー語に翻訳するということがキリスト教弁証論として重視されてきた部分があったのかもしれないなぁ、と思いました。必死になって、聖書理解が聖書にとってのメタ構造となるはず、と思っていろいろ考えては来たのですが、いつの間にか、自己の持つ世界理解が聖書のメタ構造になってしまっていた、という部分があります。もちろん、それは、私が福音派的なコンテキストでのキリスト者としての生を生きる中で、これまで無意識的にやってきたことであったということは、素朴に認めたいと思います。

             

            イエスが命がけで主張したことと世界理解

            しかし、もう一度聖書に戻って考えてみますと、イエスが言ったことは、この地に神の支配がやってきた、人々にとって、光である存在がやってきた、その結果、これまでの悪の支配の形態と違ったものに変わる、ということを伝えようとしたように思うのです。これらのことを考えると、イエスが命がけで、伝えようとしたことは、「神の支配がイエスのこの地への到来と、十字架上の死とその後の復活によってこの世界を飲み込んだ」とも言うことであって、自分が世界を参照している枠の中に、イエスとそのことばを収めてしまうことではないということなのだ、と思うのです。

             

             

            「God in the box cartoon」の画像検索結果

            髪を有る理解の箱の中に入れようとすることを揶揄したマンガ

            https://www.etsy.com/listing/538432339/god-box-cartoon から

             

            成文聖典を持たなかった日本における聖典と宗教的行為

            そう考えてみますと、日本の伝統的な信仰者の世界理解(それが、仏教という枠組みに入れられたものであれ、神道という容器に入ったものであれ、キリスト教という枠組みに入れられたものであれ)この世界理解の延長線というか、この世界理解の枠組みの中で、信仰の世界を理解しようとしている部分があるかもしれないなぁ、と思います。つまり、世界に現れた現象(例えば、病気とか、事件や事故とか、自分自身の経済的状況とか、自己を取り巻く環境のうち、観察されれる事実と本人が認識している状態)を基礎に、キリスト教の場合は、聖書の記述を当てはめて行くという心の習慣というか傾向、仏教の場合は、仏典の理解を当てはめていこうとする傾向、神道の場合は、自分自身の神社に行ってお祓いしてもらうとか、新年や年末に参拝するとかの行動をしているのではないかなぁ、と思うのです。

             

            日本におけるキリスト教においても、聖書全体が支配的なものとして世界を理解するのではなく、現実が支配的で、それに合わせて聖書を理解しようとする傾向(リンドベックの理解風に言うと、逆転していることになる)、ということが、私を含め、キリスト者の中のどこかにあるのかもしれません。

             

            日本における成文聖典と明治の教育勅語

            日本の神道には、いくつかの断片的な記述文書があるらしいなのですが、ここで、リンドベックが言うような聖典的文書が日本の神道世界には、どうも明確には存在してこなかったし、それを構成しないまま来たのかもしれません。それが、ある面、日本人の長らくの習慣だったのかもしれません。

             

            仏教には、確かに漢訳仏典が日本にはいくつも伝来していて、多くの仏教諸派で共通に利用されている漢訳経典(例えば般若心経とか)はありますが、仏教研究者の人に聞いてみると、仏典というものは、非常に数が多く、世界中に一体いくつ仏教の経典とされるべき成文経典があるのか、よくわからない、ということらしいのです。

            比較的共通に読まれている般若心経の読み方にしてもも、宗派ごとにいろいろあるらしくって、別教派の人が同じ経典(例えば般若心経)を読んでも、鉦の音の入れ方や木魚の叩くポイントが違うらしく、色々な日本の仏教者のグループが集まって何かしようとするといろいろ結構大変なことがあるそうです。

             

            そもそも神道にしても聖典的文書が明確に存在しない用に思います。また、仏教のように、聖典的文章があるとしても、かなり多種多様で、それもゆるい形でしか聖典的文書がない社会の中で形成されてきた日本社会であったように思います。そうであるがために、明治の頃に焦って、なんかそういう日本社会を規定する聖典的文書に変わる、なにかが欲しいという形で生み出されていったものが、教育勅語だったのかもしれない、と思うのです。であるからこそ、それが、明治以降の近代化を目指す日本国(大日本帝国)にとって、学校教育で時に触れ、折りに触れ、ある種の祈祷文のように暗誦させることで、日本人にとっての「宇宙の中で他の何よりも重要な事物の確認と記述を行い、それとの関連にある人間の態度や信念を含む生の全体的体系化をなす」ような共通のなにかとして機能させようとしたし、1945年ころまで、そのように機能した文章が明治の教育勅語であると理解すると、なぜ、あの文章が、そこまで重要視されてきたのか(一部においては、今なお重要視されようとしているのか)、ということがおぼろげながらわかるのかもしれない、と思ってしまいました。

             

             

            教育勅語を幼稚園児に言わせることで有名になった幼稚園の動画

             

            同じ愛だけど、微妙に違う…シンクレティズムは実はかなり危うい

            もともとバリバリの福音派の教会で、言葉による伝道活動に勤しんでおりました頃の話ですが、そちらの教会には、来会者として、いろいろな方が来られ、多くの方とご対応させていただいたことがあります。その教会にお越しになったの皆さんの全てではもちろんありませんが、その一部の方に、結構、日本型シンクレティズムといった具合の理解で、私のお話について、ご意見をくださる方がある程度含まれていたことも事実です。ある程度の数の方が、「どの宗教でも、大事にしていることは同じなので、登る入り口は違っていても、目指すところは同じなのだから、到達するところは同じはずだ」という理解の枠から、ご自身のご理解としてご提示いただいた方が何人か、おられました。

             

            「いやぁ、大分違うんだけどなぁ」、「え、そんな理解していたんです?」とこのタイプの日本型シンクレティズムで翻訳し直された印象をお聞きしますと、内心、めちゃくちゃ狼狽しておりましたし、あるいは隔靴掻痒の感覚になるのは、なぜだろう、どうすればよいのだろうか、と思いながら、過ごしておりましたこともまた事実です。そして、こんな経験をした日には、本当に徒労感に襲われておりました。

            どうしたら、言いたいことが伝わるのだろうか、と。流石に、キリスト者の皆さんとの間のお話は、私が話したことと、受け取られたこととの間の違いがかなり小さいのですが、そうであっても、伝わってないなぁ、と思うことは、福音派的な教会のなかで、言葉による伝道活動に勤しんでおります頃には、日常茶飯事でございました。

             

            つまり、同じ教会で過ごしておられるキリスト者である方々とのお話において、同じ日本語の言葉を使いながら、全く理解が違う結果となっていることもときに発生しますし、さらに、キリスト者ではない方々とのお話においては、果たしてどこまで正確に伝わったのだろうか、と悩ましい日々を過ごしたわけです。どうもこの当りに、発話者である私自身が、メタ的な世界理解の構造についての理解が十分でなかったこと、どうしても、自分自身の中にある、世界理解の体型(世界観)で聖典的文書を理解しようとするような傾向があり、その結果として混乱が生じていたのかもしれない、とも思います。

             

            のそのあたりのことについて、いまご紹介している西谷さんの本では、次のように書いてありました。

             

            異なる個々の宗教派生の重要事項に関し根本的に異なった多様な深層経験を保有している。同じ愛に関する経験でありながら、「仏教的慈悲、キリスト教的愛、フランス革命的兄弟愛は、単一かつ根源的な人間の意識、感情、態度、情緒の多様な表現というのではない。そうではなく、それらは人間の自己や隣人や宇宙に関する根本的に区別された経験の仕方なのである」(40)。こうした考えに立てば、先に紹介したような現代のシンクレティズムの根底も危うくなるであろう。(同 p.81)

             

            ここで、「異なる個々の宗教派生の重要事項に関し根本的に異なった多様な深層経験を保有している」とありましたが、同じ用語を持ちながら、話している人々が、「重要事項に関し根本的に異なった多様な深層経験を保有している」がゆえに、同じ語を使いながらも、話し手と受け手の間で、かなり違うことが伝達されてしまうのかもしれないなぁ、となるほどなぁ、と改めて思いました。

             

            上記の引用部分では、「仏教的慈悲、キリスト教的愛、フランス革命的兄弟愛」を例に取りながら、典型的に異なる理解の姿について、ご説明されていて、それらが微妙に違うことがご説明されていますが、個人的な経験から言えば、キリスト者の間での「キリスト教的愛」の概念や、「死後の世界理解」や「神と人との関係」「翻訳聖書と個人の関係」あるいは「そもそもキリスト教の基本理解とは何か」といった本来、基本的な事柄についてさえも、実はかなり多様で、それぞれの個人の方によって、微妙に理解が違っていて、お互いわかったように思っているけれども、頭の中で展開されている理解の体系から見るとものすごく違っている、ということはあるのかもしれません。

             

            キリスト者の中での共通理解もないかも

            このあたりの頭の中で展開されている理解の体型が違うからこそ、TwitterやFacebookなどでの議論が時にキリスト者の間で紛糾したり(このため、一部のキリスト者の人々は、ネット民の間で戦闘民族と呼ばれている)、人々のコミュニケーション関係が、ややこしいものになったりして、すぐに、自分が、ではなく相手が「異端だ、異教的だ」といったタイプの無益な論争が起きるのだろうと思います。それは、そもそも、人間が言語や環境で、地域、空間で分断されている以上避けがたいのかもしれませんが、あまりにも、人間が、一人ひとり、自己の理解に拘泥している、あるいは拘泥せざるを得ないという現実によるのかもしれません。

             

            こう考えてみますと、キリスト教という大きな枠組みで捉えてみますと、キリスト教の世界の内部ですら、一致を保つことが難しい(多くの西欧の宗教戦争や紛争は、実体的には、宗教の名を借りた政治闘争や経済闘争であるように思うのですが、その口実として、正邪に関わると考えられやすい自分が考えている宗教的理解が口実に使われ、そのある宗教的理解への拘泥が紛争の緒になっているということに過ぎない、と思いますが)し、実際に、人々の経験が多様であり、その経験の理解のされ方が実に多様であるのだとすれば、そもそも、西谷さんが言うような現代的シンクレティズムや日本型のシンクレティズムって、本当に意味があるのか、ということになるのだろうと思います。

             

            キリスト教教育は解決の方法かもしれないけれども…

            まぁ、学校におけるキリスト教教育についてお考えの西谷さんのお立場からしてみれば、無益な宗教間闘争、あるいは、キリスト教者間の闘争といった、悲劇を避けるためには、キリスト教的教育、キリスト教に関する教育の場が存在することが有効であるはずだ、ということになるのかもしれません。とはいえ、現状でのキリスト教関連の教育機関での限られた時間、さらには、日本のキリスト教がかなり分断的であり、それぞれが、相互に無視しているとまでは言えませんが、尊敬を持ちながらも対話が十分キリスト教内でできていない状況や、本来、重要な役割を果たすはずの日本の牧師先生方のかなりの部分が、様々な他のキリスト教会の状況とそれが持つ理解について、かなり正確にご存じないこのような状況を考えますと、まだまだ時間がかかるのかなぁ、と思ってしまいます。まぁ、このような他のキリスト教の世界への無理解である傾向は、日本の多くのプロテスタント教会が良くも悪くも影響を受けてきたアメリカのキリスト教会でも似たようなものだと思いますけれども。

             

            日本でのプロテスタントの宣教が始まって、160年弱(沖縄を含め)、プロテスタント宣教の本格化が始まって70年ちょいですから、まだまだ、時間がかかるのでしょうね。

             

            次回は、このあたりの人間が認識をどう考えているのか、についての部分である「宗教的言語の深層文法ーチョムスキーの変形生成文法理論から」での議論の展開について、考えていきたい、と思います。

             

             

             

             

             

             

            評価:
            価格: ¥ 3,888
            ショップ: 楽天ブックス
            コメント:多くの人には肝けないかもだけど、個人的にはむちゃくちゃ面白かった本。

            2018.12.24 Monday

            キリスト教教育とキリスト教の宣教に関する本をたらたらと読んでみた(3)

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              今日もまた、キリスト教教育の視点から、キリスト教の宣教について考えた本をご紹介してみたいのですが、本日は、この本のコアの部分の続きを、「宗教的成熟への入り口としての言語取得ーバーガー及びルックマンの社会的現実構成理論から」と題された部分から、考えてみたいと思います。

               

              社会と人間

              この部分で、著者の西谷さんは、社会と人間との相互的関係について次のように書いておられます。

               

              バーガーはこの理解を「社会は人間の所産以外の何物でもないのだが、しかも社会は絶えず〔それを〕造るもの〔すなわち人間〕に働き返す」という命題でいいあらわし、こうして、「社会は一種の弁証法的現象である」という。

              (中略)

              さらに、人間の外在化活動による所産の総体が「文化」である。文化は「道具」のような物質的要素を含むと同時に、非物質的な「言語」を発明し「価値」を信奉する。文化に対する「社会」すなわち人間集団の関係は、社会は文化の一部でありしかも文化の存続の必要条件である、という点にある。(中略)

              そして、社会は客体化された現実の地位にまで到達し、人間がそこで文化的諸要素を「内面化」する場となっていく。この内面化はまた個人が社会に同化する「社会化」(socialization)である。新しい世代はこうして文化や社会の構成員となり代表者となっていく。(西谷幸介著『教育的伝道 日本のキリスト教学校の使命』 pp.74-75)

               

              社会や組織といったものはそもそも、人間なしには存在しない、という当たり前の事実を、もう少し考えたほうがいいかもしれません。私達はあまりにも社会や組織の存在を当然のものと考え、人々の集まりとして存在する社会や組織と人間の関係をもう少し真面目に考えたほうがいいのかもしれません。特に、日本では、会社とか役所とか、教会とかいった組織とか社会と公(公であって、公共ではない)があまりにも大きな顔をしすぎる、大きな顔をさせすぎるきらいがあり、個人に対して組織や社会が問答無用の力を保つ構造があるように思えてなりません。

               

              技術と社会と教会

              技術と社会における共通概念の存在が、人の振る舞いを変えることは昔からあるわけで、ことわざで「郷に入っては郷に従え」とか「ローマにいるときには、ローマ人のように」と言った表現にも見られる生活の知恵にも反映されているように思います。さらに、人間は社会とそこを動かすための技術や制度を作り、そして、その技術や制度によって、いろいろな物事のあり方が変わっていくのが、社会なのかもしれません。それは、教会でも同じではないか、と思うのです。

               

              記号としての文字とイコン

              例えば、文字を扱う能力が社会全体でそれほど普及していない社会では、イエスと時分との関係を思い起こすきっかけとしてのイコンを作成する文化が必要とされ、そのような時代に形成されたという背景を持つ教会群では、文字処理能力を持たない、持ち得なかった人々が聖書を思い出すための方法として、イコンや彫像が教会には多く置かれましたが、文字を扱う能力が増えた社会では、より直接的な聖書の言葉を扱う文化へと変容し、さらに、製紙技術と印刷技術というものが形成され、書籍を普通の人が持つ、という文化が生まれたように思うのです。であるからこそ、教会に全員が自分の聖書を持っていくという文化が生まれ、何かあると、教会内で、聖書を開くという文化が生まれたように思います。そして、自分たちが信仰している対象を記憶し、そのことに思いを巡らす手段が、視覚的な絵画表現されたものから、同じ視覚的でも、文字表現されたものに変わることになったのではないか、と思うのです。

               

              ある面、抽象度が上がったということもできますが、イコンの話を正教会の司祭の方からお伺いしていますと、正教会でのイコンはあえて具象化せず、現代の視点から見れば、あえて、作画法(遠近法を含め)がおかしいと思えるような抽象度の高いものにしているという側面があるそうです。あえて、リアルに作画しないことで、イコンを通して個人が神に向かうための障害物を減らそうとしているのかもしれないなぁ、ということを思い出しました。

               

              近代社会であるからこそ生まれえた

              無教会運動やドライブインチャーチ

              もう少し日本のコンテキストに合わせて考えるならば、識字率が上昇し、金属活字による印刷が可能になり、さらに郵便制度が存在するようになったからこそ、定期刊行物を読むという文化が生まれ、その文化が生まれたからこそ、内村先輩が始めた『聖書之研究』という雑誌を通して生まれた、紙の上の教会とも呼ばれる無教会運動という存在が、形成され得たわけです。識字率の上昇や、郵便制度、金属活字の一般印刷物が作成されない社会では、おそらく無教会運動というものは大きな潮流になり得なかったかもしれないなぁ、とも思うわけです。

               

               

               

              「聖書之研究」の画像検索結果

              内村先輩の『聖書之研究』

               

              また、自動車が普及し、多くの人々の高速かつ広域にまたがる移動が可能になっているからこそ、アメリカではメガチャーチが存在しうるわけですし、人々に音声情報を伝える装置が可能になったからこそ、そして、多くの人々が実体をあまり重視しない、概念中心の教会理解を持っていて、更に、個人主義的な生き方が模索され、その上にアメリカでの教会が、どちらかというと概念対応型の教会だからこそ、ドライブインチャーチが可能になったわけであり、また、個別の車に出力の低い放送局や、以下の動画にあるような有線放送設備が開発されたからこそ、このような教会のあり方が可能になったのだと思います。

               

               

              1950年台のドライブイン教会(車に入れている音声伝達機器がでかい・・・)

               

               

              公(おほやけ)と社会と組織

              ところで、日本でも、政府(特に連邦政府)が大きい顔をすることを嫌う背景があるアメリカと言った文化的背景でも、社会と個人が相互に抜き差しならない関係にあることは確かなので、上の引用で西谷さんが引用しているバーガーさんが言うように、社会と人間の関係は、相互的なもので、社会は人間を形作るし、人間があって初めて社会ができるので、その事はもう少し考えられたほうがいいかもしれません。

               

              なぜ、組織や社会ができるか、というと、それがある方が便利だからです。特にホッブスやルソー、あるいはロックのような社会契約論に戻らなくても、社会が存在するためには、人々の間での調整が必ず必要となるで、本来面倒なことなはずですが、それでも、人々が組織を作るのは、そのほうが効率的であるから、そのほうが調整のコストを含めたとしても、そのコストを差し引いても、より豊かになれる可能性があるからに他ならない、と思います。ある面、組織というのは、暴力装置と言っても良いのではないか、と思います。物理的な暴力を持つ組織(例えば、軍隊、警察、消防は、物理的な暴力組織)も世の中にはありますが、そのような組織でなくても、一人ではできないほどの大きな力を持つことができるという意味では、ある面の暴力が組織には伴う、ということにな廊下、と思います。そのことは、旧約聖書の創世記に記述されているバベルの塔の記述の中に見ることができます。

               

               

              社会や組織は、権力構造としてのある種の暴力的構造を内在させるからこそ、上に引用した部分である「文化は「道具」のような物質的要素を含むと同時に、非物質的な「言語」を発明し「価値」を信奉する。文化に対する「社会」すなわち人間集団の関係は、社会は文化の一部でありしかも文化の存続の必要条件である」とあるように、社会や組織は、社会内ないし組織内文化を形成しそれを維持することができるように思うのです。それと同時に、社会がある面、強力な暴力装置であるからこそ、パワーハラスメントや、モラルハラスメントがそもそも起きやすいのであり、それをいかにして防いでいくのか、ということが大事なのではないか、と思います。組織や社会は、そもそも、弱い人間が生存可能にするためのある種の暴力を伴った存在である、という出発点を忘れてはならないのではないか、と思うのです。特に、日本的な世界の中において。

               

               

              言語と文化と記号

              さて、組織や社会があり、そこでの人々は何によって、結びついているかといえば、それは言語であり、取りも直さず、それは記号の集合体であり、その記号の集合体をもとに人は認識を共有したり、認識を言語化、あるいは記号化しているという、ということはもう少し考えられても良いと普段から思っているのですが、そんなことを思っていたら、西谷さんは、次のように書いておられました。

               

               

              文化や社会で重要な役割を果たすのが「言語」である。人間の「外在化」行為の決定的に重要な一つの現われは、意味づけるという行為……つまり人間による記号の創造という行為である(I61)。「言葉は……人間社会の中で最も重要な記号の体系となっている」(I63) 。人間は直接的で主観的な行為や経験を言葉を持って名付け表現し意味づけるのだが、この言葉は「記号」として彼の主観的な行為や経験を言葉によって伝達されたことは相手に通じ、両者は共鳴する。すなわち、こうした「対面状況」において、ルックマンの用語を用いれば、一種の「デタッチメント」(客観化する態度)(III 67 以下)が起こる。つまり、他者の主観的な経験への理解は自己の直接経験からは生まれてこないのであり、自己を離れしかも自己と他者が共通しうる視点すなわち「相互主観的」(intersubjectivite)観点からの解釈が必要である。この相互主観性を媒介するのが「言語」に他ならない。言語を媒介とするデタッチメントにより人間ここの一連の経験はその具体性を捨象して相互主観的解釈図式に歴史的に沈殿していく。(pp.75-76)

               

              ここでの議論で人は記号を用いて、その共感したり、共鳴したり、あるいは議論における相互主観性(もう少し言えば、間主観性)ある議論であろうとすることを試みていることになるし、そのために行われているのが、ハーバーマスのいうコミュニケーション的行為であり、それが行われる場がハーバーマスがいう公共圏(Public Sphere)ということになるのだろうと思います。とはいえ、ハーバーマスは、『われ』と『なれ』といったタイプの関与者あるいは参与者が二人の状態問題を考えているわけではなく、むしろ、多数の人々が、相互に対話する、発話する行為を考えているようにも思います。そして、ある対象についての、多くの人々の間の意見の違いを超えて理解を共有し、それぞれがどのように見えるかという、相互主観性の議論の枠組みを与えている、と言ってもよいように思います。

               

               

              ユルゲン・ハーバーマス

               

               

              ハーバーマスの主著 『コミュニケイション的行為の理論』

               

               

              ここで、もう一度、教会のコンテキストに戻して考えてみれば、先にも述べたように教会は、言語や象徴という記号による信仰対象の外在化をしているとも言えるように思うのです。伝統教派では、実物であるパンや盃、あるいはイコン、賛美歌、式文、チャント、教会暦や、教会が行っている出来事(イベント)、教会内のデザイン、十字架、教会そのもの、そこに込められた様々なレベルのデザインで、信仰の象徴を表象しているようにも思います。その意味で、信仰の対象が外部化、客体化され、外在化されるかたちで表現されているといえそうに思います。確かに、外部から確認可能な形として表現されている、という意味において、信仰の内容と対象が外部化、客体化、外在化されているとは言うものも、信仰者一人ひとりにとっては、これらの外在化されたもの、客体化、外在化されて表現されているとはいえ、その象徴が表象する個人と個人の群からなる教会内の人々の内面の信仰そのものと信仰対象は、信仰者全体にとっては、本来、共通のものであるわけで、その共通の存在があるからこそ、言語や衣装といった象徴、記号ノリ会が微妙に異なるとはいえ、共通の理解の土台とその違いの確認の手段が提供されているというように思うのです。ただ、それをすべての人が理解できるかどうかは、これまた別の問題ですが。

               

              言語によるコミュニケーションとしての『聖書之研究』と

              『世界一ゆるい聖書入門』

              プロテスタント教会では、その歴史的発展の経緯から、言語を用いた外在化方法を中心的にしてきたため、教会運営においても、説教がその中心になっている場合が多いように思います(個別教会や教派によってかなり温度差はあるでしょうけれども)。それをある意味突き詰めて究極の形として紙の上の教会として日本において形成してしまったのが、先に述べた内村先輩が始めた、無教会という立場なのではないか、と思うのです。

               

              その意味で、ある面、今でいうバーチャル教会、インターネット上の教会の前身としてやれるところまでやってみた、というのが、内村先輩の『聖書之研究』でもあると言えますし、その中身を見ようと思ったら、雑誌という形の外在化、外形化、客体化をして、雑誌を買うことで、キリストを信じる人達の内的世界とその理解をちょっと垣間見えるように努力していた、という意味で、言語によるコミュニケイション的行為による『外在化』という意味では、『上馬キリスト教会』のツィッターなどをしておられる皆さんの先駆者的位置づけなのだと思います。

               

              まぁ、上馬キリスト教会は、『ゆるさ』という切り口で、社会においての外在化と客体化を図り、内村先生たちは、当時の近代の新進の気風をお持ちの方々の合言葉でもあったより真理理追求、聖書から読み取れる中身の重要性を高尚なかたちで、当時の高尚なことを求めるインテリゲンちゃんの皆様方にご提供したという違いはあるでしょうが。まぁ、『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』の記述の正確さを云々する方々も中にはおらるようでございますが、そこはそれ、相手が違うというか、そもそもの土俵が違うので、あの本にもありますように、真面目にやられたい方は、ちゃんとした本が、キリスト教関係出版社から、どっさりと出ているので、それらをご参照になって、キリスト者が様々外在化させようとした多くの皆様の知的営為をご覧になればよいだけではないか、と思うんですけどねぇ。

               

              内村先生と同列にすな、って?それは、そうですが、かなり引いた形で考えてみると、内村先生も上馬キリスト教会のツィートの中の人の方も、やろうとしていることは、おんなじじゃんねぇ、って思っちゃいます。ちょっと無謀なもののいい方ではありますが。

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

               

              2018.12.22 Saturday

              キリスト教教育とキリスト教の宣教に関する本をたらたらと読んでみた(2)

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                前回も書きましたが、子の本は、ヨベルの安田社長さんから、御恵贈いただいた本で、珍しい本だったし、非常に印象的であったので、今回からも引き続き、何回かにわたって、ご紹介しようか、と思います。

                 

                信仰と宗教とかたち

                今日はいよいよ、本丸の前の大手門に相当する部分、リンドベックによる宗教の文化言語的理解についての西谷さんの表現をご紹介していきたいと思います。

                 

                以下においては、この(リンドベック)「宗教の文化的言語的理解」の諸要点のうち、特にキリスト教学校教育論にインパクトを与えると筆者が考える次の三点について述べていく。

                 

                 崕ゞ掬となる過程は文化習得や言語学習の過程に類似している。すなわち、他の人々[先達]が作り成した物事の見方の内面化や彼らが極めた所作への習熟の過程に類似している」(22)という命題

                ⊇ゞ気了訶静文書の「本文内部性」(113)と「体系内部性」という概念

                宗教的言語の「深層文法」(82)への洞察  (p.73)

                 

                ここで、3つのポイントが上がっているけれども、大事かもしれないと思ったのは、「 崕ゞ掬となる過程は文化習得や言語学習の過程に類似している。すなわち、他の人々[先達]が作り成した物事の味方の内面化や彼らが極めた所作への習熟の過程に類似している」(22)という命題」と「宗教的言語の「深層文法」(82)への洞察」という部分でした。というのは、ある麺、宗教というか、信仰が、過程、プロセスであるということと、所作の習熟を通しての信仰の深化という部分がよく現れていたからでした。それぞれの部分について、個別に、紹介していく予定ですが、今日は特に、最初のものについて、述べてみたいと思います。

                 

                ちょうど、先月の記事

                 

                 

                と非常に似通った側面を持っていたからでした。長らくそこで過ごしたガチガチの福音派の世界では、信仰と宗教は違う、ということが強調されていましたが、信仰を外形的にわかりやすい形にしたものが宗教と呼ばれるものだと思うのです。その意味で、形だけ、外見だけ、宗教的に見せて、中身が無い場合もありますが、そうだからと言って、外形的に確認される形を疎かにするのも、どうかなぁ、と思うのです。まぁ、ガチガチの福音派だった時代に、自分自身が信仰だ、と主張し続けていた内容は、その外側の世界から見れば、宗教というラベルが貼られていたようにも思うのですけれども。

                 

                特に、信仰あるいは宗教的な存在となることが、もし、プロセスだとしたら、それこそ、そのテンプレートとしての「他の人々[先達]が作り成した物事の味方の内面化や彼らが極めた所作」として表される形や所作が、それこそ、重要だ、と思うようになったのです。極端な概念によったキリスト教関係者の人々を除けば、テンプレートはあるわけです。ウェストミンスター信仰告白(改革波形で重視される)にしても、アウグスブルグ信仰告白(ルター派、ルーテル派で重視される)にしても、あるいは、小教理問答、大教理問答にしても、ある面、テンプレートではあるわけです。それこそ、使徒信条や、ニカイア信条にしても、ニカイア・コンスタンティノポリス信条(正教会さん、カトリック教会さん、聖公会など)にしても、自分たちが何を信じているのか、のテンプレートなわけです。

                 

                「美」とかたち、そして賛美歌

                もちろんこれらを、形だけ言って済ますこともできますが、しかし、口に出して繰り返しいくうちに、自分たちが何を信じているのかを明白に形として、なおかつコンパクトに示せるという意味で、こういうテンプレートということは、過去2000年のキリスト教の歴史の中で、少しづつ、時代の変化に合わせる形で多少は変化しながら、それでも大事にされてきたのだ、と思います。

                 

                実際、このようなテンプレートが千年以上、維持されてきたのは、あるいは、一旦そのようなものを程度の多寡はあるにせよ、否定したかに見える教派においても、再編されながらも大事にされてきたということは、それなりの意味があったということではないか、と思うのです。形には、内面に何かを入れることができるから、という側面があると思います。

                 

                信条でなくても、子供向けの賛美歌だって、あるいは大人向けの賛美歌やグレゴリアン・チャントやオーソドックス・チャントであっても、それを繰り返し歌うことで、その賛美歌に込められた内面的な世界を覚え、その内面的な世界へ入り込む接合部、入口になっているように思うのです。もともと、賛美歌が、形式化された祈りの言葉や詩篇に節を付けたものであったからです。

                 

                そこで、過去から、現在に向かって、保存されてきた詩篇23篇がどう歌い継がれてきたのか、を見てみたいと思います。

                 

                詩篇23篇のアラビア語での正教会のチャント(アレルイヤとハレルヤに相当する部分が歌われている)

                 

                 

                詩篇23篇の英語でのビザンチン・チャント(ハレルイヤと聞こえる)

                 

                 

                詩篇23篇のギリシア語でのチャント

                 

                 

                詩篇23篇のルーマニアのチャント

                 

                 

                英語での詩篇23篇の割と最近風のチャント(なじみのある賛美歌風)

                 

                 

                モダンなワーシップソングでの詩篇23篇

                 

                 

                賛美歌は、音楽という、人間の言語的感性と対立的でない方法論であるが故に、人の感性に馴染むからこそ、美や均整といった人間に神が与え給うた感性に訴えるものがあるが故に、人々に愛され、そして、文化を超えて、地域を超えて、言語を超えて、それらが用いられ続けられているのだ、と思います。

                 

                先輩(聖人)とのつながりと

                その生を記憶すること

                そして、ここで、もう一つ大事だなぁ、と思ったのは、西谷さんから「他の人々[先達]が作り成した物事の見方の内面化」という、あれ、と思う表現が出たからです。まさに、この記述は、正教会での聖人信仰や、記念日と全く同じ構造を持っているからです。

                 

                 

                伝統教派では、教会の過去、それも相当昔に生きた人々のことを覚えます。上の図は、国会図書館のデジタルアーカイブにある、昭和11年の日本聖公会要覧の先輩記念日表と呼ばれる部分のスクリーンショットですが、まさに、聖人としていくつかの特定の日に、その人がなしたことを覚える習慣があります。このカトリック教会や正教会では、その人々を聖人と呼び習わしおられますが、これが案外重要なのかもしれない、と思うのです。しかし、こうやって、聖公会での先輩一覧表を見ていると、殉死者がなんと多いことか。それだけ、命をかけてまで、信仰(宗教的な個人の核心にあるもの)を伝えようとした人々がいた、ということなのだと思います。

                 

                 

                1月8日の先輩 アンティオキアのルキアノス(字義通り解釈を述べたらしい)

                 

                ガチガチの福音派にいました頃は、このような世界観があまり良くわからず、伝統教派は聖人信仰があるから、異端的とか平気で思ったりしていましたが、よく考えてみると、ガチガチの福音派の教会の中でも、聖人信仰ではないけれども、その教会の設立に深く関わった人たち(例えば、信者さんだったり、宣教師だったり、牧師さんだったり、伝道師さんだったり)のことは覚えるわけです。あるいは、その教派ではかなり有名な註解書を書いたり、様々な書籍を書いたり、説教をした人々の著作が読まれ続けられたりしたりしているわけです。少し、引いて考えてみれば、これだって、形を変えた聖人伝にしか、思えなくなったミーちゃんハーちゃんからしてみれば、全くおんなじことじゃんかねぇ、と思ってしまいます。

                 

                そういえば、先日の水曜日の聖餐式では、その日が、アメリカのEpiscopal Churchでは、C.S.ルイスの記念日(←クリックすると祈りの言葉などが表示されます)だというので、現代的な人の一人ですが、それでも、自分たちにとって先輩のお一人であるC.S.ルイスのことをおぼえながら、つぎのような祈りのことばを祈ったのでした。

                 

                 

                 

                O God of searing truth and surpassing beauty, we give you thanks for Clive Staples Lewis, whose sanctified imagination lights fires of faith in young and old alike. Surprise us also with your joy and draw us into that new and abundant life which is ours in Christ Jesus, who lives and reigns with you and the Holy Spirit, one God, now and for ever. Amen.

                 

                そして、第1ペテロの 1:3-9とヨハネの福音書 16:7-15を読んだのでした。

                 

                 

                 

                 

                次回へと続く
                 

                 

                 

                 

                 

                2018.12.19 Wednesday

                キリスト教教育とキリスト教の宣教に関する本をたらたらと読んでみた(1)

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                  この本は、ヨベルの社長の安田さんから、ご恵贈いただいた本でした。個人的にはとても面白かったのと、アメリカキリスト教史を考える上で、他の本にはない、とても重要な補助線があったのだけれども、一般の方向けの本ではないようにおもいますが、面白かったので、割とさくっと、簡単に面白いと思った点をご紹介したいと思います。とは言いながら、数回に及びますが・・・。

                   

                  この本の著者は、日本基督教団との関係が深い方で、現在青山学院大学での専門職大学院国際マネジメント研究科で教鞭をとられると共に、そこの宗教主任をお勤めの方です。その意味で、ミーちゃんはーちゃんがキリスト者として育った福音派的な世界観とは違う方でありますが、非常に勉強になった本でもありました。このブログの読者の方には、何にそれおいしいの、というほとんど日常の信仰生活とはほぼ無関係な記述がめちゃくちゃ多い本であることは間違いはない、とは思いますけど。とは言いながら、面白いところがいくつかあったので、その部分だけ拾っていきたいと思います。

                   

                  「物語の神学」のテキストとしての聖書の重要性

                  へぇ、と思ったのは、この本の冒頭で、物語の神学が取り上げられていたことです。なかなか、面白い視点だなぁ、と思ったのでした。

                   

                  「物語の神学」は、本書ではそれを「宗教の文化的言語的理解」と表現し、特にそのキリスト教学校教育への「適合性(Relevance)」を論じている。筆者は、「物語の神学」の我が国への紹介は、その意義深さに比して説明の仕方は情緒的に過ぎ、その論理構造の提示は甘いと感じていた。神学なのであるから勘所の理屈がしっかりと示されるべきであり、その点で最も明快であるリンドベックの所論が理解されるべきなのである。しかもそれは信仰者であればだれにも理解できる。リンドベック以外を種本に用いるから曖昧になる。そして、この神学が注目させるのはなんといってもキリスト教経典としての「聖書」であり、それを意味深く読めるようまた読みたくなるように誘ってくれるから価値ある神学なのである(筆者は左近淑先生の「聖書の文学構造的読み方」もこれと本質的に通じるものと理解している)。(西谷幸介著『教育的伝道 日本のキリスト教学校の使命』p.6)

                   

                  リンドベックさんの所論は後に概説している部分を引用しながら考えるとして、物語の神学を、「宗教の文化的言語的理解」ととらえてみるという視点は重要ではないかと思いました。というのは、これまでの近代的な聖書理解はどちらかというと、過剰に合理主義的というか、過剰に論理主義的過ぎている部分があるように思えてなりません。

                   

                  理知的なアプローチの限界もあるような・・・

                  いわゆる福音派的聖書理解では、古代のある言語の用語方法で書かれた文書体系における個別の単語と語の用い方に現在の言語と語の使用方法に相当大きな開きがあってもそれを無視して同一視して機械的に理解しよう(例えば、太陽族という言葉が今では若者には意味不明であるのに、太陽は不変であるから、太陽の仲間である恒星の集団であるとするかのような説明で理解しよう)とし、ある一部のリベラル派と呼ばれる人々は、合理的にあるいは、近代的な理性で説明がつかない部分は敢えて見ないとか、妄想だの、当時の人々が無知であるがゆえにそう思っただけである、ということで、これらの近代人には受け入れがたい聖書の記述を敢えて正面から向き合うことなしに、聖書の全体としての妥当性をなんとか担保しようとするものの、どうも落ち着きの悪いものになっている部分がないわけではなさそうです。

                   

                  とはいえ、ミーちゃんはーちゃんがパスカルに傾倒しているからかどうか、最初の哲学の先生がパスカルの研究者の湯川先生だったからかどうかはわかりませんが、神について思いを巡らすことが神学であるとするならば、理論だけでどうのこうのとするということということは、少し考えた方がいいかもしれません。

                   

                  ただ、これまでの「物語の神学」が情緒的すぎ、理論であるならば、その勘所の理屈をきちんと提示すべき、という西谷さんの批判に対しては、何らかの応答はあった方がよいとは思いますが。

                   

                  多分、これに応答するための認識論によるフレームワークを示しているのが、N.T.ライトの『新約聖書と神の民』の上巻の前半部分だとは思います。

                   

                  学問論と大学について…日本の大学は大学なのか?

                  もともと欧米の大学は、神学を行うための組織が、時代が近代に向かうなかで、神学から派生した様々な学問体系が次々に分離し、それぞれ学部となっていった背景があります。しかし、日本は、明治の頃に大学制度を輸入するとき、その段階でのヨーロッパ大陸、特にドイツの大学制度を神学部抜きで輸入したために、かなり偏ったものになっていることは、知る人はしっているけれども、殆ど知られていないのも、また事実です。そのあたりのことについて、西谷さんは次のように書きます。

                   

                  「学問論」を持ち出すのは、キリスト教学校において、キリスト教の信仰と神学の存在理由を、学問のあり方を問うなかで、弁証するためのものである。学問論とは「学問の学問」のこと(学問なるものを学問すること)だが、明治維新以来の学問も教育も実利に仕えるものだオリジナルは傍点 以下同様)とする考えによってひずめられてきた我が国の学問と教育の状況を根底から問い直すよすがである。特にこの問題は日本の大学のーその歴史さえ欠如しているからこそのー最弱点である。(同書 pp.7−8)

                   

                  ここで重要なのは、明治維新以来の学問も教育も実利志向、というのは非常な視点ではないか、と思います。現在の経◼️連とかいったようなところから小学校から大学までの教育機関への要望として聞こえてくる内容を見てみていると、明らかに人格的な、全人格的な成熟と、思考力や判断力、幅広い教養に基づく成熟した思索の深みを目指す教育というよりは、使い捨てにされる、すぐに役立つ産業兵士としての小手先の能力(例えば、英語とか、計算機のプログラミング能力とか)ばかりではないか、と思ってしまいます。教育の短期的な実利志向の行きついた結果だとは思いますが。

                   

                  小手先の英会話能力よりは、回りくどい表現でもいいから、自信をもって自分の語るべき内容と自分が独自の視点から真面目に考えた内容を表現は、かなり英語での言語的な表現が、まずくても、独自の内容を語れることの方が、よほど重要ではないかと、と思っています。

                   

                  日本の大学の概念の変遷

                  日本の大学は、戦前はフランスへの憧れと、対抗意識から、追いつけ、追い越せで、必死に努力していたドイツという当時の先進国に追いつく直前の国の大学の制度を大学の出発点としている部分があります。とはいえ、ドイツの大学においても、その中核として歴史的には存在していた(はずの、でしかないとは思いますが。多分19世紀のドイツの大学でも、神学部はお荷物扱いだった可能性はありますが)神学部抜きで大学という制度を作ってしまいました。そして、戦後は、アメリカ合衆国を中心とする進駐軍による占領政策が実施され、それによって学制も6-3-3-4制度というアメリカ合衆国型教育制度になり、恐竜のようにゆっくりとしていた大学ですら、やれ大綱化だの、一般教育や、教養課程の解体だの、大講座制への移行だの、大きく変化していきました。

                   

                  アメリカ合衆国の名門大学の神学部の軽量化というか、アイビーリーグを中心とする大学ですら、建学の精神を忘れ去ったかのような変容は、ハウワワースが『大学のあり方』で強烈に非難するところではありますが、ミッションスクールとして出発した大学で、神学部すら解体してしまった日本のキリスト教系旧ミッション系私立大学はもはやcollege ではあったもuniversity というに値しないと言われても仕方がないのかもしれません。

                   

                  キリスト教と人間論

                  教育機関にしても、教会にしても、人間を扱う組織というか、団体という社会的存在ではあるはずですので、この人間論というのは極めて大事なはずのですが、プロテスタント教会では、割とそれが薄い、という印象(あくまで個人の感想ですw)があります。以下で、西谷さんがアンスロポロジー(Anthropology)を持ち出しておられますが、古代社会においては、キリスト教(そのご先祖さまのユダヤ教)はそれに真っ先に取り組んできたはずの存在であったはずだとは思うのですが、どうも、それが、今では影がすっかり薄いのが気になります。

                   

                  現代は人間論、アンスロポロジーが盛んな時代で、参照すべき多くの人間学がありますが、このブーバーの「人格的出会い」の思想において浮き彫りにされた人間とは何か、人間はいかにあるべきかという議論は、現代の様々な思想領域に深甚な影響を与えてまいりました。(同書 pp.48-49)

                   

                  ここで、マーティン・ブーマーというユダヤ系の比較的最近の思想家が取り上げられているのですが、教育的な背景や思想史的な背景を考えるためとはいえ、この神があってはじめて人間が人間になる、という思想というか人間観は、確かに旧約的な背景で説明しやすいという側面もあるものの、もともとユダヤ的な伝統と深く繋がっている正教会やカトリック教会などの伝統教派では教会の伝統のなかに塗り込められ、信徒の文化や生活スタイルに近いところまでになっているように思います。

                   

                  マルチン・ブーバー(マーティン・ブーバー)

                   

                   

                  この辺、デカルトの影響をかなり強く受けている近代プロテスタントの限界を感じます。

                   

                  近代思想が典型的に現れている近代経済学が一般に想定するほど、本来、人間は合理で割りきれる訳でもなく、近年、実験経済学が明らかにしてしまったように、人間は必ずしも合理的な意思決定ばかりしてもいないし、そんなに理詰めで判断してもいないように思います。

                   

                  人間理解が割と平板かも…

                  その辺りのことを踏まえるならば、人間理解が伝統教派に比べ割りと平板なのは、福音派も、いわゆるリベラル派、あるいは米国キリスト教系のメインライン教会でも、かなり共通しているかなぁ、と思います。

                   

                   

                  具体例をあげていうならば、教会の側で、「教会に来るひとは何らかの困り事を抱えている」という思い込みがきつすぎるように思います。確かに、かなりの確率で、お困り事を抱えている方が来られることも多いというのは分からなくもないのですが、ミーちゃんはーちゃんみたいに、道場破りではないですが、神学的な違いが細部のどこに現れるのか、信徒さんのご様子を覗いて見たかったり、教会を単に味わってみたいだけでご訪問しようとしていたものにすると、新しい教会に行くたび「この人何を求めて来たんだろう?」とか言う目で見られたり、根掘り葉掘りいろいろ聞かれるのはどうもねぇ、と思ってしまいます。

                   

                  もうちょっと、どっしり構えてお迎えになるカトリックや、来るなら来てみていいですよ風の正教会などのようにどっしり構えておられ、プロテスタント教会でよく牧師さんがすがり付くように追っかけてくるようなことが伝統教派では割と少ないということがあります。伝統教派では、司祭さんがわりとあっさり対応してくださる、と言うのは、どうもこのあたりの人間理解による影響もありそうかなぁ、と思います。

                   

                  次回へと続く。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  評価:
                  西谷 幸介
                  ヨベル
                  ¥ 3,888
                  (2018-03-01)
                  コメント:個人的には面白かったけど、ほとんど一般のキリスト者には関係のない本かもしれないです。

                  評価:
                  スタンリー・ハワーワス
                  ヨベル
                  ¥ 8,097
                  (2014-04)
                  コメント:めちゃくちゃいいけど、普通の人には、関係のない本かもしれません。

                  2018.12.17 Monday

                  アメリカのキリスト教会とアメリカ政治をたらたらと考えてみた(8)

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                    これまでの振り返り

                    ここまで、

                    第一回

                     アメリカのキリスト教会とアメリカ政治をたらたらと考えてみた

                    アメリカという国の建国神話とトランプ大統領の背景となった東部人の関係、ニューイングランドと新しいエルサレムとの対応関係、アメリカ建国神話が刷り込まれているうえでのアメリカの政治風土、今なお続く南北戦争としての選挙があること、2018年の中間選挙再考等について触れました。

                     

                    第2回

                    アメリカのキリスト教会とアメリカ政治をたらたらと考えてみた(2)

                    では、米国の政治風土は、南北戦争以来の歴史的経緯から、地域ごとに支持政党の傾向があること、南北戦争で南部側であった諸州が、反ニューイングランドという意味で、共和党支持基盤になり、また、中西部の農業を主産業とする諸州が、共和党支持であることなどをお話してきました。

                     

                    第3回

                    アメリカのキリスト教会とアメリカ政治をたらたらと考えてみた(3)

                    では、保守支持層の福音派系党の人が多い中西部人と建国神話との関係、アメリカの宗教地図、二大政党制ゆえのイシューで選択される構造、日米の政治への関与と、特に宗教関係者と政治とのかかわりの日米の違いなどをご説明しました。
                     

                    第4回

                    アメリカのキリスト教会とアメリカ政治をたらたらと考えてみた(4)

                    では、アメリカの福音派が政治に接近するきっかけとしての福音派出身のジミー・カーター大統領の存在、そして中東和平(アラブ諸国とイスラエルの関係)その後のドナルド・レーガン大統領という存在と共産主義国崩壊に伴う国内問題の争点化といった側面に触れました。

                     

                    第5回

                    アメリカのキリスト教会とアメリカ政治をたらたらと考えてみた(5)

                    では、テロ型小規模戦闘が戦争のスタイルになったこと、軍事支援のブーメラン効果で世界のあちこちでの紛争、ロシアとの微妙な関係、以前と変わってしまった大統領候補に求められる基準と2016年大統領選の候補があまりにユニーク過ぎたことと、消去法でトランプしかなく、福音派はトランプ支持に回ったこと、と述べました。

                     

                    第6回

                    アメリカのキリスト教会とアメリカ政治をたらたらと考えてみた(6)

                    では、終身制ではないけれども生きている間大統領と呼ばれ続ける合衆国大統領の特別さや、トランプ政権以降のアメリカの内外政治、とりわけ、新移民(不法滞在者)に対する冷遇や排除と聖書から考えてどうなの?という意見等を述べました。

                     

                    第7回

                    アメリカのキリスト教会とアメリカ政治をたらたらと考えてみた(7)

                    では、新たなるモンロー主義としてのトランプ政権の外交政策として理解できそうなこと、過去の世界の大国と国勢調査が陸軍国にとって重要であったこと、アメリカ合衆国で消えたフロンティア、その先にある宇宙開発があること、多民族国家であるがゆえに接着剤としての市民宗教として存在するアメリカのキリスト教という側面がある可能性があるのではないか、ということ、さらに、国家統合の象徴としての大統領とアメリカ国旗があることをお話した上で、福音派教会でも存在する熱烈なトランプ支持者がかなりおられること、その支持者の確保のために中国という共産党叩きに使える国の存在があり、その中国への態度が豹変しているように見えながらも一貫しているトランプ大統領の発言があることをご紹介してきました。

                     

                    以上のように連載を続けてきたわけです。面白がってくださった方が結構おられたので、それはそれでよかったのですが、家人からは、この手の政治の話は退屈だ、と言われてしまいました。ま、人それぞれこのみがあるということで、よろしいかとは思っております。

                     

                    まぁ、結局、自分たちの外交政策でなにか明白な目的を失ってしまった世界の大国がどこへ進むのか、ということが明確に主張できなくなった現段階で、国内のことにしか目が行かなくなり、さらに、その国内のことを自分たちが本来あるべきと思っていることを主張している人が、自分たちが本来こうあってほしくない、と思っている状態であっても平気の平左であるようなトランプ大統領が行ったり、やったりしてくれるというところが悩ましいものの、実利をもたらしてくれる以上、それを否定出来ないというのが現状のアメリカなのだと思います。

                     

                    ポストインターネット後の社会と

                    多元化してしまった米国だからこそのトランプ支持

                    前回の記事でも触れましたが、民族的にも、信仰集団的にも多様化していることから、価値観が多様化してしまっており、社会の中で前提にされいたた以前のような社会の均質性を失っている部分があります。また、アメリカは国土が広大なこともあり、価値観が異なる複数のグループが互いに衝突することを避けることが、空間的に別の空間を専有することで避け得ることができた部分があるようにも思います。

                     

                    しかし、インターネットという現実空間、あるいは物理的・地理的空間をぶち破る存在の登場により、サイバー空間が登場することで本来空間の存在として存在したはずの意見とか見解とかの差異を和らげていた空間いう緩衝材が消滅してしまい、その多元化した意見が直接対決することになったのではないか、と思います。そして、サイバー空間での発言と対立が、今度は、現実空間での人々の挙動(例えば選挙行動とか、デモ行為といった直接行動)に影響を与え、結果として社会の対立と分断を表面化させてしまったように思うのです。例えば、反トランプ支持派にせよ、トランプ支持派にせよ、集団的デモ行為などは、もともと政治的に活動的な人々が多いゆえ起きやすかったとはいえ、インターネットでのデモ行為への参加を呼びかける行為に、人々が呼応した結果という側面があるように思います。

                     

                    このサイバー空間の登場の結果起きたのが、いわゆるアラブの春という現象でした。従来だと、口コミとか、電話とか、張り紙とかの伝統的メディアで情報伝達が起きていたものが、関心を同じものとする人々を集めやすい、インターネット、とりわけSNSの豊穣により、新聞、テレビ、ラジオといったメディアより実現しやすくなり、動員力も増したというのが、実情ではないか、と思います。

                     

                    アラブの春とSNSの関係についての動画

                     

                    多元的であること、もともと国家が州法(州最高裁判所などの判決による判例法)で分断されており、そもそも分断的であることなどから、国家としてのまとまりがなく、さらに、いつまでも続く湾岸戦争、対イラク戦争の後片付け、アフガンへの米兵の中流の長期化、対テロ戦争で心が冷え切ってしまっているし、国内でのHome Grown Terroristsとも言うべき、もともと米国市民であるにもかかわらず、高校での銃乱射事件や国内での銃乱射事件の多発というなかで、大国としての威光が輝いていた1950年代から1960年代の栄光のアメリカ社会(とはいえ、1950年代から1960年台は国内に貧困がはびこり、経済格差は深刻だったし、核戦争の恐怖やキューバ危機など、結構危機的な状態であったけれども)の栄光を再び、というのが、おそらく、高齢者層や、ベビーブーマーズでその頃の良い思い出しかない人々にMake America Great Againというキャンペーンスローガンがうけ、そして、United We Standという言葉の再理解に繋がり、非常に受けた結果が、2016年のトランプ支持につながったように思います。

                     

                     

                     

                    トランピズムというプラグマティズム

                    アメリカ社会では、概念的な理解よりも、それが実際にどのように役に立つのか、というプラグマティズムが重視される傾向にあります。特に、一般市民レベルでは、このプラグマティズムは社会の隅々にまで行き届いていて、実際に役に立つこと、生活を便利にすること、生活を快適にすることが非常に重要な概念になっています。要するに、絵に描いた餅は嫌われる、ということのようなのです。

                     

                     

                    ニュートン・ギングリッジ元下院議長(共和党)によるトランピズムの解説

                     

                    オバマ政権は理想を掲げて登場はしたのですが、目に見える形での国内の経済状態が飛躍的に改善したわけでもなく、わかりやすい形で南下政策が形になった何かができたわけでもないという側面があります。あと、オバマケアと呼ばれる、無保険車対策ができたのですが、これが自主自立を良しとする古いスタイルのアメリカ人の生き方と一致せず、結構人気がなかったということなどもあります。

                     

                    特に、注目したいのは、ラティーノと呼ばれるスペイン語をしゃべる人々の中にもかなり熱狂的なトランプ支持者がいることです。本来、ラティーととか、ヒスパニックと呼ばれる米国内にいる人々の仲間であるような人々の流入を壁を作ったり、移民阻止政策で防ごうとする人々には反対であるはずの人々がかなり見られるという現象です。この理由がなかなか説明的に明らかにできないのですが、こういう人々がいて、現トランプ政権があるということは忘れてはならないと思います。たとえ、一時の状熱に浮かされているのであるとしても。

                     

                    CNNのトランプ支持のラティーノへのインタビュー動画(まるで天使だとかいっている)

                     

                    「Black for trump」の画像検索結果

                    Miami NewTimesから

                     https://www.miaminewtimes.com/news/the-blacks-for-trump-guy-at-florida-rally-is-former-yahweh-ben-yahweh-cult-member-8843111

                     

                     

                    特に米国内ムスリムという存在と国内の多様化

                    オバマ大統領は、ムスリムではないのですが、そのお名前が、アングロ・サクソン的でなく、音の印象からか、ムスリムだと誤解されていたようですが、この度の中間選挙での下院議員選挙では、女性のムスリムがお二人当選し、そのうちのお一人は難民として米国に来た世代の下院議員さんでヒジャブをおかぶりになった女性議員さんが選挙で、選出されたりしました。いずれも民主党の議員さんですが。

                     

                    ミシガン州のパレスティナ系ムスリムの女性の下院議員

                     

                    ミネソタ州という保守色の強い州で、下院議員に当選したソマリア難民出身の議員さん

                     

                    女性のムスリムの下院議員(二重に厳しい、ムスリムというだけで厳しいですし、おまけにムスリム社会では、やや地域が低い立場とされがちである女性の存在もあるので)というのは、もう少し先かなぁ、と思っておりましたが、今回、お二人モデルとは、予想はしておりませんでした。

                     

                    こういう現状を見ると、従来のインド系、アジア系に続き、ムスリム系のアメリカ国内在住者人口の増加、ということを考えねばならない時代になってきたのではないか、と思います。今回の中間選挙の結果に現れたような価値観の多様化が進んでいく米国のなかであるからこそ、なんとか、これまでの古き良き(Good Old)アメリカを維持したい、という人々の切実な思いがトランプさんへの支持へとつながっているように思うのです。たとえ、いわゆる30年か40年前の大統領であれば、眉をひそめられ、失意を集める原因となりかねない言動を乱発していたとしても、全くその支持が揺るがない大統領になっているという意味で強い大統領なのでしょう。以前のレーガン大統領は、何やっても問題視されなくて、ほとんど傷がつかないという意味でテフロンコートされた大統領と言われましたが、トランプ大統領はそれ以上なので、多分ダイヤモンドコートされた大統領、ということになるのでしょう。

                     

                    その背景には、レーガン大統領時代には、まだ、テレビ、特に政権に批判的なことを書くような、New York TimesやWashington Postといった、かなりリベラル色の強い新聞などを郵便で買ってまで、読む人々がいたわけですが、そういう人々が大きく減少するなかで、マスメディアの力が相対的に弱まっているということはあろうか、と思います。つまり、ネットが、新聞やテレビに触る時間を人々から奪った結果、マスメディアを名指しで、Fake Newsとトランプ大統領がいう以前から、ポストインターネット社会(インターネットが普及して社会基盤になってしまった時代)では、実際に投票行動を含め、社会への影響力を失っているのではないか、と思います。

                     

                    ポーランドで米メディアをFake Newsと批判するトランプたん

                     

                    まぁ、この前の中間選挙で、下院で民主党が強くなった結果起きた、予算がなくて行政機能の一部が年末に向けてすでにとまってしまっていますが、そんなことは一向にお構いなしで、喋り続けるトランプ大統領という構造は、いつまで続くのか、という感じがしていますが、次の選挙までは大統領なので、もう当分続くのだろうなぁ、という印象を持っています。

                     

                     

                    ということで、この連載は、おしまいです。長らくお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    2018.12.15 Saturday

                    アメリカのキリスト教会とアメリカ政治をたらたらと考えてみた(7)

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                      新たなるモンロー主義としてのトランプ政権の外交政策

                      さて、前回の記事で、トランプ政権になってから、国際政治の中で孤立的な政策をとっていることをお話ししましたが、こういう国際協調的でない孤立的な政策を取った経験は、この政権が初めてではありません。アメリカでは、1820年代に主張されたヨーロッパへの不干渉主義であるモンロー主義が標榜された時代が長く続き、その結果として国際連盟(第1次世界大戦の反省でできた国際間組織)をアメリカ合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンが言い出したわけですが、国内的に議会での批准ができず、アメリカ合衆国自らが言い出しておきながら、国際連盟には加盟できなかった経緯があります。

                       

                      今では、アメリカ合衆国は軍事大国で最先端兵器を大量に持ち、世界各国に武器を金額ベースでは大量に輸出している(数量的に一番輸出されている兵器は、中国製かベトナム製のノックダウン製品のAK47 かも知れないけれども)国家になっていますが、しかし、第1次世界大戦時期のアメリカ軍は、19世紀以降のモンロー主義の影響で、国内的に兵器も十分でなく、英国軍の武装を借りないと戦争に参加できないような弱小国家でもありました。まぁ、第1次世界大戦が起きた20世紀初頭といえば、アメリカの内戦である南北戦争から50年ほどしかたっておらず、まだまだ国中に当時の傷痍軍人がいたり、南北戦争期の対立感情やしこりが色濃く残っていたり、という感じであったでしょうから、「また、戦争かい。それもおまけにヨーロッパ戦線でやるの?」といった雰囲気であったと思われます。まだ、当時のアメリカ国家は、ヨーロッパ系の移民を大量に受け入れていた時期ですから、結局移民できた人々か、その子孫が、父祖の地に戦争に行くということをやらざるを得なかったのが第1次世界大戦であったわけです。

                       

                      世界の武器市場 アメリカとロシアが武器販売額で突出している

                      https://www.statista.com/chart/12205/the-usas-biggest-arms-export-partners/ から

                       

                      過去の世界の大国と国勢調査
                      第1次世界大戦までは、海外領土をたくさん持っている大英帝国(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国)、フランス、ヨーロッパにおける新興国家でガツガツしていてフランスへの対抗心丸出しでフランスへの戦争マシンだったようなドイツ(このため、日本は陸軍はドイツ陸軍に学んだ)、海外領土はないものの、そもそも領土が広く、人口がやたらめったらと多いロシアといったあたりが基本大国でした。

                       

                      陸軍というのは、それこそアレキサンダー大王や秦の始皇帝時代以来、基本動員できる人数が勝負の行方を決めるところがあるので、人口が多い国のほうが軍事大国になる傾向があるようです。この陸軍での動員力が重要であるため、その兵士になれる人数を知るため国勢調査という概念が必要になり、そもそもは実施され始め、今に至るまで実施され続けてきました。

                       

                      第1次世界大戦時代の戦力のグラフ表示圧倒的にロシアの兵力が多く、アメリカ軍はイタリア軍より少ない程度

                       

                      アメリカ合衆国で消えたフロンティア、その先にある宇宙開発

                      19世紀から20世紀初頭にかけては、世界の大国といえば、人口の多い、大英帝国、フランス、ロシアあたりが主軸で、そこでくいっぱぐれた様な人々が経済難民として流れ着く国がアメリカ合衆国であったわけです。なお、アメリカ合衆国では、1890年に公式にフロンティア線(人間が非常に少ない地域)が消滅したこと(つまり人口の受け入れ余地がかなり減りはじめたこと)が国勢調査局から報告されますが、それでも、もともとフロンティアであった地域には、人口が薄い地域があり、そのため、移民(実体的には経済難民)を受け入れる余地がかなりあったわけです。

                       

                      その結果、波が押し寄せるように段階的にアメリカ大陸にさまざまな人々が流れ着き、あるいは、無理やり農場奴隷などとして、一応借金の方、戦争に負けたための夫妻を追わされる形として連れてこられ、多民族国家にアメリカ合衆国はなっていきます。一時期、アメリカ合衆国は、民族のメルティングポット(民族のるつぼ)と呼ばれた時代がありました。たしかに、アメリカ合衆国は、一応、民族のメルティングポットという側面もありますが、近年のヘイトクライムなどの多発を見てみますと、多民族列島がポコポコとあり、その民族ごとにすみわけしている列島間で、ちょこちょこ橋がかかっていたり、民族の列島間を結ぶフェリーがあったりしながら、多様な人々がさまざまな列島間を行き来しているような感じがします。

                       

                      アメリカ国内のフロンティアがいよいよ消えちゃったら、ロケット技術が第二次世界大戦でドイツに勝っちゃったんで、V2ロケットの技術が転がり込んで、米ソ冷戦で大陸間弾道ロケット技術の応用編で、アポロ計画で宇宙開発で新しいフロンティアの夢よ再び、を目指したのだけれども、ロッキー山脈越えるよりは、めちゃくちゃ宇宙への道は遠かったのと、これまた宇宙開発競争でもライバルだったソ連が崩壊しちゃったので、競争する意味が無くなったところに、戦争のかたちがこれまでと大きく変わって、宇宙開発技術をアメリカ合衆国あげてやれなくなって、NASA大幅に予算削減されてしまっていて、細々と火星探査などの昔から比べると、小規模な宇宙開発で実施するのがやっとという感じのようです。

                       

                      多民族国家ゆえの接着剤としての市民宗教として

                      存在するアメリカのキリスト教

                      では、他民族(エスニシティ)や多文化(マルチカルチャー)間を結ぶその橋になっているのが、個人的な観測で思いでしかないのですが、市民宗教としてのキリスト教だと思うのです。それこそ、アメリカのどの裁判所においても、裁判の公正を示すために、In God We Trustと書きますし、1セント硬貨から、100ドル紙幣に至るまで、In God We Trustと書いているのがアメリカという国の国情です。

                       

                       

                      テキサス州の裁判所 http://www.kltv.com/story/19833882/in-god-we-trust-lawsuit-dismissed/ より

                       

                      https://www.usatoday.com/story/opinion/2015/10/19/police-in-god-we-trust-first-amendment-column/73891658/

                       

                       

                      つまり、デノミネーション(メソディストとか、カトリックとか、○○正教会とか、バプティストとか、エピスコパルとかといった宗派や教団の区別)を超越した存在が神なのであり、これなら、どのデノミネーション(キリスト教集団)も文句の言いようがないので、In God We Trustと書いているような気がします。

                      総合的なキリスト教というか、何となくキリスト教的なもの、社会の空気みたいな存在としてのキリスト教が、市民宗教としてのキリスト教であるように思います。その実態は、多数の個別のキリスト教自身に微妙な違いがあり、一体となっているか、というと、実態的にはかなり怪しい、あるいは危うい存在であるのが、アメリカ合衆国におけるキリスト教という側面があります。とはいえ、同じ神を信じているというなんとなくの感覚が、エスニシティ諸島群ないし分断されたエスニシティ集団というものをかろうじて、そしてぬるく繋いでいるもののひとつが、市民宗教としてのアメリカ合衆国型のキリスト教であるように思います。

                       

                      国家統合の象徴としての大統領とアメリカ国旗

                      あと、アメリカの国家統合を象徴するものがいくつかありますが、それは、Stars and Stripesあるいは、星条旗であったり、国家であったり、大統領であったりするのです。アメリカ合衆国は一つであること、一塊であることの象徴としての大統領があるからこそ、三軍の長として、米軍という実力行使部隊に行動命令が出せると思うのです。だからこそ、オバマは、分断を超えて一つの国になろう、と最初の就任演説で演説したのです。

                       

                      アメリカを一つにするものは、大統領の存在と一つの神を礼拝しているというアメリカの市民宗教であることを、以下の動画で紹介するオバマ演説では実に如実に物語っています。

                       

                       

                      上記の動画でのハイライトはこの辺かもしれません。

                      The pundits, the pundits like to slice and dice our country into red states and blue States: red states for Republicans, blue States for Democrats. But I've got news for them, too. We worship an awesome God in the blue states, and we don't like federal agents poking around our libraries in the red states.

                       

                      日本語変換 マスコミの評論家たちは、この国を赤い州は共和党の候補支持の州であり、青い州は民主党の候補支持の州といった具合に四角く切り刻んでしまいたがるけれども、その人たちにいま、言いたいことが私にはある。私たちは、一人の偉大な神をその青い州でも礼拝しているし(つまり、民主党の候補支持州でも神は共和党員が礼拝している同じじゃないか、といっている)、赤い州(共和党候補の支持州)でも、図書館の中で連邦政府の役人がのさばって、市民に嫌がらせする(共和党員としても、民主党員と同じように政府の支持を重視する派の人が多いことを揶揄している)のは好まないだろう。

                       

                      宗教グループや、社会階層や、勤務形態や、家計の資金状態や、学歴や、エスニシティで分断しやすいからこそ、このように再統合や一つであることを言わないといけないし、そこに偉大なる神をもち出さざるを得ないのが、アメリカ合衆国なのだろうなぁ、と思います。

                       

                       

                       

                      アメリカ国旗の賛歌 Stars and Stripes Forever

                       

                      先にあげた市民宗教としてのキリスト教が国民をゆるくつなげる精神世界、霊的世界、宗教世界の接着剤で、政治的な世界でのゆるくつなげるのが、アメリカ合衆国大統領と上下院議会で、金銭的な世界で緩やかにつないでいるのが、連邦準備銀行の会議体とドル札とニューヨーク証券取引所、実物をつないでいるのが、シカゴの商品取引所と、そこでの値動きを受けたスーパーマーケットチェーンということなんでしょう。であるからこそ、大統領の政策に、宗教的世界の価値観であるキリスト教的価値観が反映されていることが重要になっているのだと思います。

                       

                      市民宗教と大統領で、なんとなくゆるくはつながっているけど、実際に個別の事案の事を言い出すと、政治と宗教の話は、食卓でしないほうがいいという知恵にあるように、結構個別教派の細かな話になっていくと対立的なところがあるのが、実はアメリカだったりして、他のキリスト教徒とは適当な距離で付き合わないと、まずいのも事実ではあります。

                       

                      福音派教会でも存在する熱烈なトランプ支持者

                       トランプ政権が登場したとき、それ以前のオバマ政権がノーベル平和賞を受賞したなど、外政重視的(必ずしもそうとは言えない)に見えたため、国内で見捨てられてしまった、という印象を持ってしまった中西部人にとっては、プロチョイス(人工中絶容認的)であり、伝統的な緩い銃規制で、この地を支配する支配者のツールへの理解の片鱗すら見せない立場で、自然の用を捨てた人々に見えるセクシャルマイノリティの権利の制限には否定的な福音派の立場とは対立的な傾向を持ったオバマ政権と、そもそも女性で大統領になるということを目指したヒラリーたんの有り様は耐えがたかったのではないか、と思います。

                       

                      それどころか、リチャード・ニーバー先輩が指摘されたように、自分達の住んでいるアメリカ合衆国は、神の国だと思っていたのに、さまざまな具体的政策で、福音派の皆さんにとって、常識と思っていて、自分達が信じているキリスト教的価値観が、それが軒並みオバマ政権のときにひっくり返されてしまったので、それと同じことをやろうとする人々に対しては、非常に警戒的であり、結果、消去法的に福音派は、ほかより増しだし、腐っても現職大統領なんで、自分たちの価値観に政策が(トランプたん個人の人格や品格が、ではなく)近い以上は、文句を言わない、という意味での選択をしているので、福音派の中に、自分たちの理想を政治的に実現してくれるという意味で、かなりまじめにトランプたんを応援している人が多いのだ、と思います。

                       

                      PBSというアメリカ公共放送のトランプを支持する福音派に関するニュース


                      オーストラリアの放送局によるトランプ支持に関する宗教的な統計を用いた分析(面白くて、説得的だけど、英語は、かなりオージー英語が厳しいので、注意)

                       

                      思うのは、政治的に上からの方法論で宗教的理想を実現させようって態度って、どういうことよ、ということは思います。基本的に、信仰は信仰の問題で個人の信念ベースがあり、それが自然に現実世界での行為に反映されていくはずの話なのに、それを無理やり上から実現するために政治権力を使うってのは、ほんとうにどうなのかなぁ、と思います。政治権力は、神の支配にあることを差し置いて、民主主義政権下では、民の支配の中にあるとはいえ、それをいいことに、政治権力におもねるという態度は、ちょっと理解に苦しみます、というのが、個人的な感想です。

                       

                       中国という共産党叩きに使える国の存在

                      この連載の以前の記事でも触れましたように、共産主義国というのは、アメリカ合衆国にとって、特に福音派的なキリスト教の皆さんがたにとっては、不倶戴天のなんとか的な存在であったわけです。第二次世界大戦のあとは、唯物論でキリスト教とキリスト教徒を排除するという意味でキリスト教的な価値観と思い込んで来た価値観、すなわち自由と民主主義ではなく、一党独裁である旧ソ連邦、それとぐるになって、アメリカの産業資本(実態としてはそこまでの金額ではなかったはず)を勝手に接収・国有化し、挙げ句の果てに自分達の裏庭同然のものと思い込んでいたフロリダ沖のメキシコ湾からミサイルで狙いをあわよくば突きつけようとした許されざるキューバ、朝鮮半島やヴィエトナムで血を流して戦ったのが、共産党支配の中国やソ連に支援された、朝鮮人民民主主義共和国であり、ホーチミンじいさん率いるヴィエトナム人民民主主義共和国であった訳です。

                       

                       

                      もともと、第二次世界大戦のあと、アメリカ合衆国ではマッカーシズムが吹き荒れ、反共産主義的な文化があり、無神論の共産主義とキリスト教は、アメリカでは水と原油の関係で、ルクセンブルグやドイツみたいに、キリスト教社会人民党とかバイエルン・キリスト教社会同盟とか意味不明な存在にしかアメリカ人には見えないのです。

                       

                      とはいえ、20-10年前までは、中華人民共和国には、圧倒的な人口数であったため、人海戦術的な労働集約的な産業において、低価格の労働力を供給が可能でありました。その結果、企業の合理性の観点からは、嫌でも、世界の工場となった共産主義国と付き合わないといけないアメリカという皮肉な状況ができてしまった訳です。

                       

                      数十年前、日本が世界の組み立て工場としてやっているうちに資本と技能を高めたように、中華人民共和国も同じようにノウハウと資金を世界の工場をしている間に蓄積して、情報技術分野を根幹として握るまでになり、アメリカの国家安全保障問題に影響を与えるまでになりました。現在では、どんな産業でも部品は生産コストが安いため、精度を要求されないものは中国製ということがごくごく普通になっていて、中国と付き合わずに国際競争力をもって製造業ができる国というのは、もうほとんどないのではないか、と思います。とはいえ、最近、中国も一人っ子政策の影響で若年人口が減ってきていること、それに伴い、労働コストが上昇していること、割と強権的に工場を平気で接収したりするカントリーリスクがあることなどもあり、タイやマレーシア、インドネシア、ウクライナ、・・・といったようなところに先進国が取引している工場が分散されていることも確かです。

                       

                      昔(1980年代から90年代にかけて7)、アメリカの貿易不均衡国は、当時の世界の工場であったアメリカと喧嘩できない、喧嘩しない、日本という国で、そこそこアメリカが怒っているといえば、行政政策で、アメリカ製品を大量購入してくれる国だったのですが、いま、世界の工場は中国で、共産主義国で、武器は、旧ソ連製の改良兵器やその派生型が多いとはいえ、独自に航空機開発するし、ロケットまで飛ばして宇宙開発する技術まで持ってしまいましたので、アメリカが怒って見せたからといえ、びくつくような国ではありません。そもそも、中国は国連でカード切られても、常任理事国という特権を使って、拒否権が発動できるという、まぁ、堂々とした大国であるわけです。

                       

                      豹変しながらも一貫しているトランプたん

                      そんなこともあり、トランプたんの中国の評価は、かなり豹変します。あるときは、戦闘的で、自国に有利なディールを引き出そうとするし、ファーウェイのCFOの事件だって、倫理性はさておいて、有利な条件を得るのには利用する、って平気で明言するし、周りで見ているものとしては、この人いったい何がしたいんでしょう?中国にシンパシーがあるのだか、敵対的なのだか、よくわからない、という感じではないか、と思うのです。

                       

                      自分が不動産を売ったから、トランプタワーを買ったからI like Chinaと主張するトランプたん

                       

                      知的財産権の侵害など不適切な貿易取引をしているから中国に制裁するというトランプたん

                       

                      アメリカの中間選挙に関与しようとしていると中国を批判するトランプたん

                       

                       

                      ただ、このトランプたんの場合、非常にはっきりしているのは、自分に得になるような話は大好きで、自分をほめてくれる人は大好きで、自分が損するような話は大嫌い、自分を批判する人は大嫌い、役に立つと思えばYou are hired.(おまえさんを雇う)っていうけど、役に立たない、不愉快にすると思えばすぐさまYou are fired.とHなのか、Fなのかで、雇われるほうは大違いということが極めて短期的なスパンで起きている、という意味では一貫している、無矛盾であるとはいえるのです。

                       

                      その意味で、ある意味、非常にわかりやすい、素朴な行動構造を持った大統領がトランプ大統領ということなのでしょう。まぁ、群集にノーベル賞といわれてご満悦なときなんかは、本当に単純だなぁ、と思います。

                       

                      政治集会でノーベル平和賞といわれてご満悦なトランプたん

                       

                       

                       

                      次回総集編へと続く

                       

                       

                       

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