ある関西のキリスト集会の信者のブログです。とりあえずテスト的に運用してみます。
 
神戸ルーテル神学校での「伝道する教会を建て上げる」参加記(2) 


Pocket

 先週末神戸ルーテル神学校で行われたベン・プィー先生の講演会に行ってきたが、その記録をご紹介したい。

 午後開始セッションの冒頭の質疑応答から。

Q日本の社会では、共同体のユニティを持つためにアクセプタンスをしない側面があるが、それはどう考えるのかということが重要である。

A信頼できる人からの紹介があると人は教会に来やすい。一見さんではなく、紹介さんとして教会にお招きすると、一定程度受け入れ可能ではないか。よく、日本の文化は閉鎖的で、他者は受け入れないというが、それは間違いで 教会のばあい、よそ者を紹介しないことが問題ではないか。誰かが、紹介するコネクティング・パーソンが必要だろう。

(ミーちゃんはーちゃん的感想
 京都の祇園のお茶屋は、確かに一見さんお断りなんで、紹介者は必要だけど。ちなみに一度も言ったことはない)
教会の中だけにモデルを求めない方がいいかもしれない。かなり離れた、他の人がモデルになることも案外多い。人と人をつなぐというのは、教会の外に実践しているところがある。例えば、赤十字のボランティア組織などはあるだろう。お寺での取り組みが参考になるかもしれない。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
 ガチ勢の高踏派の福音派の皆さんには、ドン引きされるのを覚悟の上でご紹介するが、仏教寺院フェスの向源とか、キリスト教フェスティバルのいのフェスとか、こういうのからも学ぶことができるのではないか)


向源の名物イベントの一つ「お坊さんによるよろず相談所 お坊さんと話そう」

 いか、後半の講演からご紹介する。

Target People 伝道する対象を理解する
 
 伝道するうえでは、人々の特性を理解して伝道することが大事であろう。

図1

 まず、その教会として、誰に伝道したいのか、どういうグループに伝道したいのか、を考えるべきではないか。どうしたら伝わるのか、という方法論を考えているだろうか。 

知的関心がある人々への伝道

 上の図1内でIVと示した第4象限は、友情や感性に強く惹かれる人々の集団がある。知的なことにはあまり興味がなく友情とか感性的(ご講演内では、Friendshipと友情とされていたが、ここでは、感性的の方がふさわしいと思ったので敢えて変えている)なものにひかれる人々である。女性にこのタイプが多い。例えば、クリスマスティーパーティをすれば、軽く20人くらいは集まる。お茶飲みながら、楽しく会話することを好む人々である。

 IIで示した第2象限は知的なグループがある。感性的なことに興味がなく、知的なことに興味ある人々で、男性に多い。高尚な議論を好む人々である。

 人には特性があり、それぞれに応じた対応が必要である。

 例えば、講演会をする場合、「イエスキリストは救い主です。ぜひ、救われましょう」では、IIで示した知的な傾向に偏ったグループはそもそも来ない。しかし、「イエスは本当に復活したのか。復活の実在性」であれば、知的な人々は来るかもしれない。恐らく来るのはごく少数であるだろうが。しかし、それはそれで、重要な伝道である。

伝道する際には社会属性ではなく個人特性が重要

 人には、相性がある。それは社会的・外形的属性とは一致しないものである。単純な外形カテゴリーで見るのではなくその人の個人特性で議論すべきか、を考えるべきである。例えば、外形基準では、60歳の女性の方でも、例えば理化学研究所の研究理事職だった人のような場合、外形的基準からすれば、IVの感性的に関心が深く知的関心が薄いグループと見えるが、実はIIの知的関心が深く、感性的関心が薄い場合もありうるので、よく本人の特性を見極めるべきであり、そのためにも対話をすることが大事ではないか。

 教会は、どのようなアクティビティが存在するかはこれまでの経験を十分積んでいる。楽しい集まりをすることに慣れ過ぎてしまっている。感性的なものではなく、やや知的側面の傾倒したこっちのイベントに取り組んできただろうか。

教会内に人材がいないのですが…

 IIと示した知的なものに関心が深いことに対応できる牧師が何人いるか、というのが問題になるだろう。あるいは、このような高度に知的な議論に耐えられる人が教会内にいるだろうか。そのため、この種の問題を議論の話題にできなくなっている場合があるのではないか。神学校などでも神学は教えたり、教会運営等に関する科目があるが、神学と科学とのかかわりなどや、政治と神学の関係、神学と現代経済をどう結ぶか、というようなことは教えていないであろう。しかし、現実社会に生きる人には、政治や、現代経済や科学技術と取り組む、そのことを考えたい人々がいるのだ。

 日本の教会の2/3は老人である、という状態と聞いているが、老人はIVのタイプで、感性的なものを求め、知的な関心がない場合が多い。

 逆に、若者や青年は、IIの知的な関心が高く、感性的な関心が薄い人々である。このような人々に、感性的なものが中心のプログラムを提供しても、関心を持たずに教会からはいなくなる。

興味も関心も喜びもしない人々も

 Iで示したタイプ、即ち、ごくまれに感性的側面も知的側面の両側面を持つ人々がいる。このタイプは、実は、教会に定着しやすい場合としにくい場合がある。感性面で打ち解けるばあいもあれば、かえって、嘘くさいと思う場合もあるだろう。このタイプへのアプローチは、知的側面での働きかけが効果的でなければ、感性的な働きかけで、逆に、感性的な働きが効果的でないなら、知的側面の働きかけをしてみることが重要であろう。

 IIIで示したタイプ、即ち、感性的側面も知的側面でもあまり興味を示さないタイプの人々も教会に来る。典型的には、奥さんについてくる夫が典型的である。とりあえず、一緒にはいるが、どのようなことにも関心を示さない。Low Profileでいようとするひとびとぐんである。この中に、クリスチャン2世も含まれるであろう。高校生までは渋々教会に親とくるが、高校生までは、来たくないと言えないので来ているが、大学生になると教会に来なくなるタイプである。

 このタイプには、話を聞いてみて、見極めて、どんなことに関心があるのかを見極め、適切な関与しなければ、このタイプの人々は、戻ってくることがない。

 自分はどのタイプで、どんなタイプと話せるか、どうやったらアプローチできるかということを考えるべきであろう。そして、教会全体としてはどのような特徴を持つのか、ということを考えるべきであろう。

 先のVALUESの理解で考えてみると、Acceptace(受け入れること)に関しては、IVの感性的な関心が深く知的な関心が薄い人々であれば、お茶やコーヒーを飲みながら世間話がよいだろうし、Iの知的関心が深い場合は、「朝まで生討論」的な高度に知的な議論の機会が有益であろう。Understandingにしても、IVの感性的な傾向に偏った人の場合、コーヒーのみながら、の傾聴が有益だろうし、IIの知的な側面の場合、相手の関心に関して、きちんと対話することが有益である。対話する相手の人々を分けた方がよ苦、一人ですべての人に対応する必要はなく、教会で共通の性格を持つか、共通の関心事子を持つ人々に引き合わせればそれでよいのではないか。

サステイナブルな伝道活動のために

 タイプごとの伝道では、どれかのタイプが、会衆の中に一人でよいのではないか。新しい来会者は、そのタイプが見つかると、類似性のある人がいて、疎外感を持たないだろうと、安心する。ただし、会衆全体を変える必要はない。重要なのは、つながり続けるという努力である。このような伝道する教会は、継続可能性を持つべきであり、即ちサステイナブルであることが重要である。

 新しく来た人が3か月4か月たつと、会衆としては新しい人はもはや新しく来られた人でなく、当然来るものと思い始め、適切な関与がなされないことがあるだろう。その結果、その人は教会内で孤立し、教会からいなくなるのではないか。

 確かに知的な人は少ないだろう。しかし、そのタイプの人でも、一人、二人と増えていき、さらに、そういう類似傾向を持つ人が来るかもしれない。そもそも伝道的であるということは、キリストを知る人々が広がることではないのか。このタイプのために、例えば、Small Groupでのミーティングをするとか、外部から人材を依頼して、比較的新しい会衆や自分たちとタイプの違う人のために関与し続けることが重要である。

マジョリティだけでなくマイノリティにも目を向けよう

 概して、人数的なマジョリティにばかり目を向けがちだろう。しかし、マイノリティグループを軽視してはならないのではないか。マイノリティのための対応を考え続けることも重要である。

伝道とは感染と同じ

 一つの具体例でお話ししたい。ケンブリッジに滞在していた時に、同じ時期にシンガポールから留学していたノンクリスチャンの友人がいた。留学生は孤独であるので、プィー氏やほかのクリスチャンの友達が食事に誘ったり、勉強したりして、研究会に誘ったりして、ゆっくりとクリスチャンになった。

 この友人がクリスチャンになったら、ノンクリすちゃんの友人を誘って、彼の個人史について話し始めた。彼がなぜ、そんなに言いたがったのかというと、同じ経験をほかの人にもしてもらいたかったのである。神学的な課題ではなく、神が彼の人生にどう関与してくださったか、個人のイエスとの関係の物語がいかにすごいかを語りたかったのである。

 伝道とは、受けたことを伝えたい問うことではないだろうか、イエスに愛された経験を忘れられないからこそ伝えたいと思うのではないだろうか。人それぞれに物語があって、それぞれを語ることができるのではないか。

吉田戦車の「伝染るんです。」


会場からの質問
 知的関心に深い関心を寄せる人々は、何らかの特定の事柄に関心を持っていて、分野別がかなりたくさんあり、その人固有の領域があるのではないか。その場合どうしたらいいのか。
教会内の誰かがそういうリソースをつなぐことができるではないか。あるいは教会外の人々の知識を探してもらうこともできるであろう。

 日本の教会人たちは、自分たちだけでやるという概念の中に閉じ込められていないだろうか。自分たちだけで、解決しようとしてないか。より広いキリスト者のコミュニティがあるのではないか。それを活用する方策を考えた方がよくはないだろうか。

Action Stepsについて


 すぐできること。Action Stepsについて考えたい。このことをSAFEとして考えたい。

S Story 自分の物語 どのように自分と神との関係を考える
A Activity
F Friendship
E Evangelize

 なぜ、SAFEというかというと、伝道するためには、心理的に安全な環境が必要だからである。こころを開けるほどの安全さが感じられることが重要であり、心理的に防御態勢を取らせないことが重要である。とりわけ、教会に来る人は、他者から批判されるために来るのではない。その意味で、裁かれる必要はないのではないか。

 どうしたら、教会がこころ開ける安全(SAFE)な環境になるだろうか。それをこのSAFEから考えてみたい。

Story
 個人的な物語を語ることである。このようなことがなければ、人格的交わり(臨床心理用語で、ラポールという)がなければ、他者の人生とのかかわりがないまま終わる。
いろんなイベントがあるのは悪いことではないが、イベントだけして、来会者と個人的なつながりがなく、信頼を置くべき場所が形成できないのであれば、何のためのイベントだろうか。

 この物語は、あくまで、自分自身の個人的な話であることが重要である。他人の話をしたところで、共感は生まれにくいのだ。また、現実のものであることが重要だ。偽りのものは説得力を欠くことが多い。とりわけ、牧師の話で問題なのは、架空の状況についての作り話をする人々である。作り話は、結果的に聞き手に心理的防御壁を作らせる傾向がある。

 また、その物語が適切なものであることが肝要である。その人にとってふさわしい物語であるかどうか、即ち明らかな関係性があることである。例えば、高校生に向かって、80歳の老婆が自分の普段行っている話し相手の高校生があったこともない病院の医師の対応が素晴らしいとか、話をしても、しょうがないだろう。するなら、自分が高校生頃の話だろう。あるいは、ビジネスマンに話すのに、聞いたことすらない可能性の高いボンフェファーのことを話す意味はあるだろうか。

 そういう意味で、事前にどのような話があるのか、ということをまず書き出しておく、自分の個人史の棚卸をしておくことが重要である。 
(ミーちゃんはーちゃん的感想
 まるで、就職活動のエントリーシート作成あるいは面接必勝講座のノリである)
 リハーサルすることも大事である。なんどか事前に練習しておけば、これも有効である。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
 まるで、就職活動のエントリーシート作成あるいは面接必勝講座のノリである。まぁ、こうなり理由もないわけではない。結局、自分自身のことはわかっていて語れると思っていても、いざとなったら案外難しいものであるし、本筋と関係ない話がいっぱい入って、結局なんだっけ、となる人も案外多い。特に学生が就職活動中の場合、これは案外ある。)

Activity Design


 実施計画ということで、実際の実行に移すことを考えてみたい。

 まず、適切さの検討を考えるべきであろう。伝道するからと言って、大宣教命令に書いてあるから、と言って手当たり次第することがよいわけではない、どういうイベントをどのような人々に提供するのか、ということを考えた方がよい。

 そのうえで、伝道するという明確な意図をもって実施することが重要であろう。つまり、伝道を意識しつつすることが大事である。イベントをするのは、あくまでキリストを伝えるというきっかけでしかなく、そのことができてないのなら無意味に近いのではないか。

(ミーちゃんはーちゃん的感想
 日本の場合、講演者あるいは牧師の話を聞かせる、が伝道になっているきらいがあるように思われる。講壇から語られたぐらいでは、人は動かない。ただ、リバイバル時代には、人は動いて、おかし気なことが起きたが、今はそんな時代ではなく、個人的な関与が極めて重要になっていると思う。未だに、アメリカの境界はもちろん、日本の境界も、リバイバル時代の講演者の話を聞けば、伝道ができるという超お手軽モデルを考えていないか、というのがこの講演会で、プィー先生が言いたかったことではなかったかと思われる。なおこのあたりのわかりやすい本として、森本あんり氏の反知性主義がある。この本の独自解説は、反知性主義をめぐるもろもろ から。)


講師が語っただけで大量回心者が出たころのアメリカのリバイバルの風景

Friendship

 フレンドシップということで、継続的な関係性について考えてみたい。とりわけ、伝道においては、人々との継続的な関係構築をしていくことが重要ではないだろうか。教会には、フレンドリーな人は多いが、フレンドリーとFriendship(継続的な関係性の存在)は違うのである。ニコニコしていないからと言って、継続的な関係性を持っている場合もある。挨拶したからと言って、友情が生まれてくるとはかぎらないのである。 
 個人の内面的なものであることが重要で、関係性の構築においては、単に親しみやすさを表面的に示すのではなくて、個人的な深い関係を作り出すことである。
 また、隠し事のない(Open MindedあるいはTranparentな)友情、個人的なつながりが重要である。もう少しいうならば、共感的である関係性であることが重要であり、知的なものというよりも、こころで分かる、こころからの同意ということも重要である。

Evangelize  
 伝道ということで、伝道とはどのようなものかを考えていきたい。これまで話してきたように、個人の話を適切に語ることが重要であるし、その話が、神とのかかわりが明確にわかるものであるようにすべきであり、また、神が人を愛しており、そのために地上に来た、という福音の側面に沿ったものであることが望ましい。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
 残念なことに、アメリカでも、そして日本でも、福音が誤解されている可能性がある。それは、福音の再発見をご覧いただきたい)
 福音を伝えるというと、いきなり、福音を語る傾向はあるが、それでは人々の心には届かない。(これは、アメリカ型のリバイバル後のキリスト教、そしてその影響を受けた日本のキリスト教に典型的である。)実際には、多くのステップがあるだろう。これまで示したようなステップを、来会者にとって適切な意味があるものとしていくことが必要である。


 このSAFEというのは、あくまで方法であり、伝えるべきコンテンツではない。ただし、計画的に取り組むことが重要ではないか。

 日本の教会では、多くの場合、活動そのものが目的化しており、イベントが計画されているのではないか。それでは、本当に福音を語ることができなくなる可能性が高い。イベントの来会者に個人の神との物語を伝える準備ができてないことはないだろうか。神が個人の人生にふれた物語があれば、それを伝えるのが、伝道なのではないだろうか。

Annual Planについて

 年鑑計画とは、伝道をどう実現するかの1年間の伝道カレンダーを作ることだろう。

 もし、家庭の主婦に伝道するならいつが、ふさわしいのか。クリスマスは忙しいだろう。学校休みの時も、子供が家庭にいて忙しいだろう。その意味で、学校がある時期に例えば、4月末とか、5月中旬とかがよいだろう。

 内容としては、お料理しながらしゃべる会というのもありだろう。家庭の不満や子供の愚痴などを愚痴る会などが有益ではないか。

 そのようなイベントでのホスト役となる人物はだれか、とエバ、年配の少し中高生の子育て中の信徒さんなどがいいのではないだろうか。

 では、いつごろから準備を始めるのがよいだろうか。1月くらいから計画するのがよいだろう。そして、継続的な機会を持てるように、そのあと年に数回、フォローアップの機会を計画的に持つことは重要ではないだろうか。

 学生の場合にはいつがいいだろうか。学生は、夏休みとか長期的な休みとか、休日なんかがいいだろう、4月の進学進級直後の土曜日とかがよいかもしれない。では、どんなプログラムがいいか、というと4月の土曜日であれば、映画会というよりは、ピクニックやバーベキューみたいなものがよいのではないか。夏場ならキャンプであろう。

 ビジネスマンはいつがいいだろうか。これはいつではなく、一週間のどのへんか、ということである。例えば金曜日のハッピーアワー(午後5時から8時くらい)やビジネスランチョン、あるいは朝の出勤前の学習会でもよい。仮に居酒屋での飲み会をするにしても、キリスト者でそのことに抵抗がある場合には、必ず飲まなくてもいいのではないか、その場に付き合うことが大事だろう。酒やタバコが苦手な人がいるだろう。そのきらいな人がそういう場にいるところは、そのことを感謝するのではないだろうか。

 老人の場合はどうだろうか。時間はたっぷりあるので、いつでもいい。例えば、週に1回、ストレッチや太極拳、ダンスなど、様々なものが構想できるのではないか。それを定期的にしていくことが重要であろう。


講師のプィーさん


参加の感想

 日本のキリスト教界の自分のところだけしか見ないという残念な傾向、自分たちだけで何でもしてしまおうという残念な傾向があり、そのマインドセットに閉じ込められており、より幅の広い人々との連結とか、外部人材の素材の活用、宗教の枠を超えて、学べることは学んでいくという姿勢がより重要になるのではないか、ということを考えている。さて、我々は、仏教徒の世界のことをどの程度知っているだろうか。その精神性とその思考をどの程度知っているだろうか。自分とは関係ない、誤りの宗教として、目を遠ざけていないだろうか。あるいは、自己正当化のあまり、他者との協力が出来なかったり、他者から学べなかったりしていないだろうか。繰り返し言うが、自己正当化は聖書の言う偶像崇拝であると思っている。それがいかなる理論的必然、個人の心情的な必要があろうとも。

 Webプログラミングの世界では、一から部品をコツコツ作り上げていき、自分のところで最初から最後までガチガチに作り上げていく従来のプログラム開発の手法に代わって、さまざまの既存サービス(たとえば、他のサイトが提供しているもの、Google Mapsとか、天気用法情報サービス)とかを参照し、それでWebサイトにくみ上げて、それを統合的に利用するというマッシュアップという開発手法が盛んであるが、そういうことは、かなりOpen Mindな精神がないとやっていけないし、失敗しても、ある程度しょうがないという割と大胆な諦めがないと、やれない。そういう一種の無謀さとか大胆さが求められているのではないか、と思っていた。

 こういうマッシュアップ的な教会を、っていうと、すぐ福音派の皆さんからは、「そんな世的な。神様のことと、プログラムをごったにしおって、この不敬もの」とかおしかりを受けるが、基本的に神様のことを真剣に考えたら、マッシュアップと構造が同じだ、ということを主張している訳であって、必ずしもごったにしているわけでないことを申し添えておく。

 福音派の方々は、上の図1ではないが、考えることがあまり得意でない方が多く、どちらかというと、感性的なものがお得意な方が多いため、理性的な人々を遠ざけ、そいう人に勝手に、よくも理解もせずリベラルとラベルを張り、教会から遠ざけ、本来それらの方を内包することで、より教会が豊かになるにもかかわらず、教会から追い出していないだろうかなぁ、多分そんなことはないだろうなぁ、と思いながら、聞いていた。

 あと、日本で伝道がうまくいかない、特に福音派でうまくいかない原因の一つは、アメリカ型の伝道スタイルをそのまま移植しているところにあると思う。αコースにしても、クルゥ(旧キャンパスクルセード)の4つの法則にしても、あるいは講演会型伝道大会で伝道することで改宗者が大量に出るモデル、例えば、フ○ン▽リン・グ○ハムの大伝道大会型伝道にしても、アメリカのコンテキストで成功したものをそのまま持ち込んでうまくいくというアメリカ人特有の脳天気さに基づく仮説での伝道方法は日本では成功しないともうわかってもいいのではないか。
 アメリカでこれらがうまくいく、言ったのは、基本的に回心とは言うものの、アメリカ的な教派内での教派間移動であるからである。つまり、信仰的に弱体化しているような状態の人々に、カンフル注射のような伝道大会での伝道メッセージをぶち込んで、瞬間的に元気にして、一瞬生き返らせることを、信じた、と呼び、回心と呼ぶからであり、その回心することや信仰を持つと憂い経験のそれ以前の聖書理解の状態や宗教的背景とそれ以降の聖書理解の状態では、さほど違いがない、キリスト教が支配した世界、即ちクリステンドムの人々のものをそのまま、仏教などそれ以外の価値概念が支配的な国に持ち込んだところで、うまくいくはずがないのに、それを実に能天気にそのまま、アメリカ人たちはやろうとする。現地化が必要なのだ。トヨタが左ハンドル車を米国市場では販売するように、現地の事情に合わせた車両を設計、製造して、販売することが重要なのだ。クライスラーにせよ、フォードにせよ、高級車で左ハンドルのものがどの程度あるか。それをこれが国際標準(実は米国標準)であるから、そのまま日本も買うべきであると平気で言う脳天気さを持った国の伝道方法でうまくいくなら、日本は、クライスラーや、フォードの高級ブランドや中級ブランド車であふれててもいいはずだが。

 以上、ご紹介終わり。


評価:
森本 あんり
新教出版社
¥ 1,836
(2006-05)
コメント:アメリカの基本的な教会の歴史がわかる 日本のキリスト教の原型を知る上では大事。

評価:
スコット・マクナイト
キリスト新聞社
¥ 2,160
(2013-06-25)
コメント:中の人が言うのもなんだが、よいよ。再刷が出るかどうかは未定なので、お早目に入手した方がよいかも。

【2015.05.25 Monday 06:12】 author : Voice of Wilderness
| いろいろおもうこと | comments(0) | - | pookmark |
ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(7)完結編


Pocket

 今回も引き続き、ラッド先輩がお書きになられた「終末論」からご紹介してみたい。今日は、第9章 神の国 から引用しながら考えたい。

神の国の意味とは何か
 終末における神の国のそもそもの意味について、ラッド先輩は、次のようにお書きである。実は、ラッド先輩ご主張のように、翻訳語で読む聖書は、どうしても、翻訳語そのものの語義の影響を受けるし、翻訳語自体もその語義が時間と共に変わって行くので、どうしても限界があるし、そのあたりのことを含めて、おおむね30年に一度改訂とか見直しが行われることになる。

 この主張をより正確に理解するために、アイオーンという特定のことばを考察しなければならない。ギリシヤ語の聖書には、英語で「世界」(world)と四訳される二つのことば、コスモスとアイオーンが存在する。これは粗雑な翻訳であり、極めて大切な真理が読者に伝わらないようにしてしまっている。コスモスは「秩序と調和のとれた全体」を意味している。それは、全体としての宇宙、全体としての人間、また神に対する罪深い反逆においてみられるものとしての人類についても使用される。英語の「イーオン」(aeon〔訳注:分限に近い長い時間〕)の語源であるアイオーンは、明確に時間的用語であり、不確定な長さの時間を意味する。ギリシヤ語には永遠を意味する言葉がなく、エイス・トン・アイオーナ(その時代の中へ、その世の中へ)という簡単な言い回しが使用される。(終末論 p.156)

 しかし、ラッド先輩は英語のおそらく欽定訳聖書に対して、粗雑な翻訳とおっしゃっておられる。本来世界と訳された語は、本来のギリシアであればAeonであり、時間的に永遠に続く世界という意味を持った語であるらしい。それは、日本のスーパー界のビッグ、Aeonさん(イオンさん)であることは前にも触れたが、本来永遠なのだな。永遠なのは、巨人軍だけではない、と思う。

AEON さんのイオンレイクモール
(ディズニーランドより来場者数が多いって)


長嶋の選手時代の引退セレモニー「わが巨人軍は永遠に不滅です」


天の国と神の国は別物か?
 英語でもそうであるが、天の国と神の国が別物であると主張される方々がおられる。基本、日本語聖書においてもマタイでは天の御国であり、マルコでは神の国になっているが、その議論に対して、ラッド先輩は次のようにお書きである。

 もちろん、この二つの箇所(引用者注:マタイ19章、マルコ10章に現われる若者との天の国には入れるかどうかに関する対話)から違いを見つけることはできない。マタイで「天の御国」となっている最初の箇所は、マルコでは「神の国」となっている。テキストに相違を見出そうとするなら、相違をテキストに読み込む必要がある。テキストから相違点を導き出すことはできないのである。にもかからわず、ディスペンセーション主義者はこの二つの語には相違があるとし、その上に神学全体を基礎づける。(同書 p.158)
 聖書の表面の奥にある意味を考えずに、翻訳聖書に書かれた表面的な違いに引きずられて、聖書理解を作り上げていくことで、文脈や流れを感じれば、これらは同一であると考えられるとするのがおおむね妥当な見解だと思うが、字義どおりにこだわるディスペンセイション主義者の皆さんは、その細かな違いにも、「神の言葉であるから違うのだ」とかなりこだわりを持って、それをもとにかなり細かく微に入り細をうがった聖書理解の体系を御構築になられているばかりか、それをバックアップする様な聖書理解までご考案になられているように思う。しかし、ある説をもとにし、それを体系化し、その体系化したものでさらにあたかも別なものから証明したかのような表現をするというのは、基本、トートロジー(循環論法)として知られていることのように思われる。

天の御国と神の国の違いはあるか
 では、なぜ、天の御国や神の国という表現が使われたのだろうか。このことに関して、ラッド先輩は次のように説明する。

  では、この相違をどのように説明すればよいのだろうか。それはユダヤ人が普通のこととして「天」という語を「神」という語の代わりに使っていた、という単 純な歴史的事実によって説明できる。(中略)例えば、放蕩息子は家に帰ってきたとき、「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前にも罪を犯しました」(ル カ15:18)といった。(同書 p.158)
 これは、天は神の御座であるというユダヤ的な理解に基づく。いまの日本人の天という語の語感にない天理解が旧約時代にあったという説がどうも有力らしい。
 以前に、NTライトの講演をご紹介した記事が あるが、その質疑応答で、NTライトは、天国とはどんなところか、と聞かれて、神はCEOのような方で、その方がおられるところが点であり、ちょうど CEOオフィスとCEOが会社全体を代表するように、神がこの地を代表し運営方針が決まるように、神がこの地の支配するところが点ではないか、ということ をこたえておられるが、その辺が参考になるかもしれない。

神の国は誰のものか?
 第三神殿の建設とか、ユダヤ人の帰還事業とか、神の国を人間側でその実現を図るという動きがあるが、それに関してラッド先輩は次のようにお書きである。
 神の国とはキリストにおいてなされる神の贖罪的支配であり、敵を滅ぼし(直接的には言われてはいないが)神の民に神の統治の祝福をもたらす。
  これらのことは必然的に、以下のような結論を導く。まず、神の国は神の業によるのであって、人の業によるのではないということである。神の国の建設という ような、ある人々が使っている用語は、聖書には見出すことができない。確かに、神の国のための働きがあるということは言えるだろう(マタイ24:14,使 徒8:12,28:31)。しかしこの国はいつも変わることなく神の国、神の支配である。(同書 p.162)
 神の国の建設といえば、まるでオウム真理教である。まぁ、こういうので言えば、前にも紹介した、ブランチダビディアンとか、結構強烈なキリスト教会もある。


第3神殿をお奨めの皆様の動画


ブランチダビディアンの皆様の末路

 個人的には、第3神殿の話しは基本的に支持しないし、かりに第3神殿が建設できたからと言って、第3神殿の建設により、神の国が建設されるとするのは、ルカ11章の中にある次のみことばと矛盾するのではないかなぁ、と思うが、違うかなぁ。
【口語訳聖書】ルカ
11:20 しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。
 第3神殿の話しは、完全に個人的にはどうかなぁ、と思う話であるし、ブランチダビディアンの動きには、ヨーダー先生の弟子として、武装して、ATF(アルコールタバコ火器及び爆発物取締局)やFBIとドンパチするなんざ、それはキリスト者のすることか、といいたいが、これがアメリカ福音派の影響を受けたグループであったことは考えておいた方がいいかもしれない。

Left Behindもやるらしいけど…
 さて、Christianity Today(もともと、ウィ▽アム・フ▽ンクリン・グ▽ハムII先輩が編集してた方)のWeb版の批評記事で、4点満点中0.5点という評価され、批評記事のタイトルが、Not a "Christian movie." Not even close.(クリスチャン映画ではないし、それにかすりもしないほどのものである)とまで酷評された映画ではあるが、パニックムービーと見たほうがいいだろう。


Left Behindの予告編

 まぁ、それは以下の千年王国前再臨説にかなり依拠した私小説に基づく(だって、所詮、Tim LaHaye 先輩がお書きになった私小説でしょう。私小説では、モルモンの書も上智大学では、私小説と評価されていたなぁ。ソースはコチラ Q69 の回答を参照)映画だからしょうがない。
  ディスペンセーション主義千年王国前再臨説という、もう一つの千年王国前再臨説に言及すべきである。恐らくこれは、米国で最も人気のある千年王国前再臨説である。イスラエルは土地を回復され、神殿を再建し、旧約聖書の生け贄の制度は再び設けられる。この時点で、一つの国家としてのイスラエルについての旧約聖書のすべてが文字どおり成就される。これは、神が明確に二つの民を持っておられるという確信からの推論である。そこでは、イスラエルと教会は二つの異なった計画と別々の祝福を持つ。神のイスラエルに対する計画は神政的であり地上的であり、教会に対する神の計画は普遍的であり霊的である、と主張される。(同書 p.168)
 案外、曲者なのは、「文字どおり」という部分である。この「文字どおり」がギリシア語における「文字どおり」なのか、英語における「文字どおり」なのか、日本語における「文字どおり」なのか、同じ語でも「天の国」でも人によって、その理解しているもの、頭の中に浮かぶものが違うので、何が文字通りなのか、ということはもう少し考えたほうがよいかもしれない。

 また、ラッド先輩は「確信からの推論」とまで書いておられる。解釈ですらない、ということほどの意味だろう。先に確信があって、それに合わせた推論、つまり、思い込みによる解釈であり、それは解釈学的に裏付けられないのではないか、と疑問を呈しておられるのではないか。

復活は最大にして最重要の奇跡、
真の終末的出来事
 さて、今年のペンテコステも終わったが、復活は、実にキリスト者にとって意味深い出来事なのである。まさにロシア正教の「ハリストス復活」「実に復活」の掛け合いの如く、復活は、我々にとって「実に復活」というべきことだと思う。福音派では、この種の交読文がないのが、「実に残念」。


ロシア正教の復活祭の儀式 「ハリストス復活」「実に復活」


アメリカ人が歌った「キリスト復活」「実にキリスト復活」の讃美歌

 さてされ、ラッド先輩は復活のことに関して、次のようにご指摘である。
  キリストの復活それ自体が終末的出来事である。キリストは死者の初穂であり、それは終末が開始されたことを意味する。神学者はこの神の国の現在性とイエスの復活という真理を「実現された終末論」とよぶ。終わりの日に起こる出来事の断片が枝のように折られ、歴史のただなかに植えつけられたのである。(同書  p.175)
 「この神の国の現在性とイエスの復活という真理を「実現された終末論」とよぶ」という神学者の表現は非常に重要だと思うのだ。神の国の現在性、即ち神がこの現在においても支配者であり、すでに神の支配、神の国が我らのうちにあることを忘れてしまうと、神の国は将来死後に行くところだけのことになってしまい、「死後の天国教」になりかねない。キリスト、メシア、ハリストス、救い主の復活はまさに、この地上に天国というか神の国が一気にあふれ出たものではなかったか、と思う。

 そして、神の国が実現した完全な姿は、NTライトのSurprised by Hopeではないが、そのあまりのすごさにイスラエル人がモーセに驚いた以上の驚きがこの地上、やってくるのだろうと、思う。

 ということで、この連載は、今回でおしまい。

 安黒先生、大変有益な本をお出しいただき、ありがとうございました。心から、御礼申し上げます。この本を勇気を持って出版することに望まれたいのちのことば社、関係各位にも、賞賛と感謝の辞を以て、本シリーズを終わります。

 諸賢各位におかれましても、お付き合い頂きましたことを感謝いたします。






続きを読む >>
【2015.05.25 Monday 06:11】 author : Voice of Wilderness
| Telos理解 | comments(0) | - | pookmark |
神戸ルーテル神学校での「伝道する教会を建て上げる」参加記(1) 


Pocket

 本日、2015年5月23日の神戸ルーテル神学校で開催された、「伝道する教会を建て上げる」というプイーさんの講演会に行ってきた記録です。引用部は、ミーちゃんはーちゃんの個人的感想です。それ以外は原則聞いてきたことですが、多少、ミーちゃんはーちゃんの理解が影響しているかもしれません。参加できなかった皆さんのためにちょこっとご紹介。長くなりそうだったので(今回でも十分長い)

伝道する教会とはどのようなものか?
そうなるためには?


 伝道する教会形成は長期的なプロセスである。今日の文化は、インスタントに関心が強い伝道する教会形成は、カップヌードル的な瞬間でできるものではなく、スコッチのように長期間熟成を欠けてするものであろう。とは言いつつ、ただ祈って座して待つだけではなく、それぞれ瞬間、瞬間の取るべきステップがあるだろう。

 現在のキリスト教界は、インスタントヌードル型のイベントをやりすぎで、それをすることを伝道と理解してはいないだろうか。伝道を考える際には、イベントごとに考えるのではなく、プロセスとして考え、いくつかの要素に分けて考えるべきではないか。

 今回はまずこのプロセスを4つの部分に分けて考えたい。

Core Value 伝道的な教会にするための核になる価値観
Target People 誰が伝道の対象であり、その人の属性はどのようなものかを検討すること
Action Step  一過性のイベントでどんなことをするか実行計画
Annual Plan 1年間にどのようなことをするかを示したスケジュールの作成

参加者からのセミナーへの期待に関する発言)

 講演者のプィーさんから、どういうことを期待しているのかを教えてほしいという話があった。

◆ある日本での巡回伝道師の危機感として、日本の教会が伝道しなくなっているという懸念を聞いたことがあり、 牧師が教会員の世話におわれている

◆150年かけても増えてないことについて考えたい。  

◆個人的な働き中心として伝道をとらえており、伝道とは上に立つ者の責任ではないかと考えているがいかがか。

ビジネス業界での市場拡張理解

 ビジネス界では、ハンターモデル、農夫モデルと2分して考える。

 ハンター型は、新規顧客の獲得に熱心で、新規顧客を獲得し販売額を増やす。しかし、継続的な関係構築が苦手である。
(いわゆるワンチャンス型、ヒットエンドラン型のビジネスモデル)
 農夫型は、既存顧客を説得し売り上げを増やし、そのため既存顧客と密接な関係作りに励む。顧客と座り込んで密接な関係を形成し販売額を増やす。しかしながら、新規顧客の獲得というのは苦手である。
(ミーちゃんはーちゃん的感想 いわゆるお得意さんを作るタイプ、この人から買わせたいと思うタイプ)
 現代の牧師形成においてハンター型よりは、農夫型の牧師が多いのではないか。この農夫型では教会は成長しない。となれば、基本、ハンター型でありながら農民型の牧師形成ができるかがカギになる。そして、時間の経過とともに教会が成立しなくなる。
(ミーちゃんはーちゃん的感想 これは当たり前の話だと思う。その意味で、これまでの日本の教会のありようが結実した現状が、2015年春号のMinistryに示されている現状ではないのか。ちなみに、Ministryの私設ファンクラブの会長兼会員一号以上終わりのミーちゃんはーちゃんとしては、今回のミニストリーはこの問題と取り組んでいるので、ぜひともお手に取ってごらんいただきたい。お近くのキリスト教書店にゴーである。)



Ministry(この数年のこの雑誌の最高傑作と思う)


日本のキリスト教界の問題は何か?


 クリスチャンが1%以下であること自体はチャレンジとは言えない。困難さを示しているが、問題の本質ではない。そもそも、旧約時代のイスラエルの人口は、1%以下であった。また、旧約時代 少数の残されたものレムナントが神の前に立ち返り、そして、新しく大きくなっていることの繰り返し問題は、1%以下が継続して下降していることである。まずは、1%という水準を維持する方向で考えるべきではないか。むしろ、高齢者が多いなら、高齢者向けに伝道すればよいわけで、それも立派な伝道である。そのための方法は、老人ホーム伝道や訪問伝道などいろいろあるだろう。ただし、教会は数字合わせのゲームではないことを当然覚えながらではあるが。

 個人伝道の話が出たが、教会が伝道しているとは何か問うことは、個人の問題ではなく、教会として伝道的になる。伝道する教会になるということである。教会とは何か、建物ではない、組織でもない、人とそれが形成するコミュニティであり、伝道する共同体を形成することが、伝道する教会を建て上げることであろう。

 伝道する共同体は、その構成員が伝道したいという思いで共同体が成り立つことである。教会のリバイバルは教会という建物から発生するのではない。個人からリバイバルが発生するのである。果たして、教会に神を知るためのメッセージが語られているのか。神の愛とか、救いが言われてないのではないか。牧師、教会の関係者は神学を語るのは大事にしているし、それが得意であるが、それよりもむしろ、神学を現実世界に落とすことが大事であるのではないか。つまり、神学を信徒に翻訳して聞かせ、具体的な行動に落とし込み、信徒と牧師が一緒にできるようにすることが大事である。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
ただ、牧師の問題のみとするのは問題だとは思う。)
 もちろん、これまで様々伝道方法が提唱されてきた。αコース キャンパスクルセード サドルバックの教会論などもあるが、それらは日本のものにあっているだろうか。その意味で、自分の文化を見て、自分の文化をみることが重要であり、外から持ち込まない方がいい。このため、土着、文脈を踏まえた伝道の方法論を検討すべきだろう。
(ミーちゃんはーちゃん的感想
 しかし、日本のキリスト教が明治以降米国からの移入品であり続け、その後ドイツからの輸入品も入れ続けてきたが、日本語で、こういう教会論を現場の牧師先生たちが悩みながらも、日本港内で、こういう伝道論が重要ではないか、信徒と共にこう考えたいなぁ、ということを指し示してこなかったのは大きな問題ではないか、と思う。
 そもそも、今回のようなご講演の当たり前に思える、こういう発想そのものが広く知られてない、当たり前になっていないことが、教会としては問題ではないか、と思う。)
伝道とは何か

 伝道とは、インフェクションであり、感染することである。伝道とは、本当にいいものであれば、それを伝えたくなるものである。好きなことを紹介したくなるのは当然であり、そのよいと思うものとして、イエスのことを伝えたいと思っているかどうかが問題ではないか。

 方法論というよりは、シェアしたいという気持ちがないのに方法論を考えてもあまり意味はない。シェアしたいというパッションを起点とその教会の特性に合わせた伝道方を考えることが重要ではないか。

(ミーちゃんはーちゃん的感想
 今度日本で初めての一般書が出るNTライトというおじさんが、最近出した本の中に、Simply Good Newsという本があるが、そもそもこの本は、今度出るSimply Christianという本と関係の深い本である。この本には、福音とは伝えたくて伝えたくて仕方なくなるほどすごいものだったはずだが(だから福音派、Good Newsなわけであるが)、現代はその輝きというかみずみずしさというか、そのすごさが失われているのではないか、ということを主張した本であるらしい。NTライトの最近の録音音源などを聞く限り。そこを我々はもう一度考えないといけないかもしれないし、その意味で、今度出るSimply Christianの翻訳本の『クリスチャンであるとは』という本をお勧めしたい。現在、あめんどうオンラインショップで、絶賛予約受付中である。お買い物は、あめんどうオンラインショップで。この本を2冊買うと送料はタダになるので、お友達と御一緒にお買い上げいただきたい。なお、ミーちゃんはーちゃんは、あめんどうの勝手連的ファンでもある。Ministryのファンでもあるが。)

NTライトの初の邦訳本格的キリスト教理解の入門書


コア・バリューを大切に

 Core Value(コアバリュー)とはあなた自身のアイデンティティを形成するものである。個人的な信念といってもよい。例えば、あなたのコアバリューが誠実さだとして、それを子供にも残したいときに、ただ単に、「誠実であれ、誠実さであれ」と繰り返すことはナンセンスであろう。子供の心に働きかけ、具体的なシーンを見せながら、誠実さを、毎日の生活の中で学ばせるのではないか。教会を作り上げることは、妊婦が胎児と9か月かけて育てることと類似していて、教会は、コアバリューをじっくり育てることではないか。その意味で、外生的な価値基準はあまり意味がなく、教会の壁面に張り出しておいて事足れるとなるようなものではない。その意味で、ボンフェファーが共に生きる生活の中で示したような形で共に過ごす中ではぐくむものであるが、それを猿真似するのではなくて、日本的な風土に合うように作り変えていくべきである。

 信徒が、外に出て伝えることができてないのであれば、それはある面で、牧師の問題であるかもしれない。教会は、牧師が牧会をしていることを反映しているのである。例えば、牧師が音楽好きで音楽による奉仕を大事にすれば、音楽の活動が中心の教会になる。牧師が、外に訪問する人が中心であれば、その教会もそうなる。

 教会と牧師の鏡像であるといえるだろう。どうして伝道的でないか、というと、どうして自分は伝道的でないのかを牧師は問わないとまずいだろう。その意味で、牧師の限界を突破することがなければ、教会は変わらないのではないか。
(ミーちゃんはーちゃん的感想 個人的には牧師の影響は大きいが、それだけでもなく、信徒のキャラクターもあると思う。それは次回あたりに触れるので、ここで突っ込まないようにね。)
VALUEというバクロニムで考える

 これらのことをVALUEというバクロニムで考えてみたい。

V Vision 教会のビジョン/熱意はどこにあるか
A Acceptance 他者を受け入れること
L Life  ほかの人に人生を開いていくこと 胸襟を開くこと
U Understanding 他者と共感する 
E Educate モデルとして実証して見せる     
S Service 奉仕すること

 このVALUESを分けて考え、それを確実にしていくことは ⇒ 伝道する教会の基礎である。

VISION 伝道の熱意

 まず、Visionから、教会のビジョンは牧師のビジョンが反映する。その結果、教会のビジョンを定義するかなり大きな要素になっている。牧師は伝道するという、そのヴィジョンを持っているかが問われるべきであろう。

ACCEPTANCE 受容すること

 他者を受容すること 誰でもが来て受容するのか こころにあるか。例えば、ホームレスが来て、歓迎するだろうか。農民が泥だらけにして歓迎するか。あるいは、ばかげた質問した時にそれを受け入れる用意があるか、そのための価値観があるか。伝道共同体である教会の構成員、個々人が受け入れる価値を持っているかが重要である。最初の段階での受け入れの精神が重要で、受容する教会となれるかが問題ではないか。
 新しい人が来た時に、来てよかった、と思えるような快い経験しないなら、伝道的な教会とはならない。

LIFE 人生の胸襟を開いた生活
 Lifeとはなにか、生きているということではなく、他の人に人生をほかの人に開けるか、個人の気持ちをほかの人に感情を出せる環境ができているかどうかが重要である。初対面の場合お互いに攻撃的でないようにするために互いのことを聞いたりはしない。しかし、いのちをシェアするためには安全な環境が必要である。
 裁かれるのではないか、いろんなことを言われないという安心感から、畏れなくいうことができる雰囲気をつくることが重要ではないか。人が最初3回くらい来て、来なくなることを考える。なぜ、来なくなるのはなぜだろうか?信者の心理的の壁を無意識に来会者は感じているのではないか。人は案外敏感に理解しているのである。その人が胸襟を本当に開いているかどうかは。
 その意味で、教会のドアは空いているとはいうが、教会人のこころのドアは新来会者には閉まっているのではないか。心が閉まっていると、教会に人は来なくなる。

UNDERSTANDING 他者を受け止めるこころ

 Understandingでは、個人的な事情があまりに悲惨(たとえば、不倫の挙句離婚とかいうケース)だと、引いてしまって他者をうけいれられないことなどはないだろうか。その意味で、Understandingは大変重要である。
 傷つきやすい部分を見せ合って、そのうえで他者を受け止め、理解するのが、Understandingである。裁かれたり、ああだこうだ言われたり、批判されたりすると、もう教会には来なくなるのは当り前であろう。

 牧師、伝道師、長老などは案外判断する人たちになってしまっていないだろうか。これらの人々は、神の期待を知っているからこそ。人を案外簡単にさばいたり判断する傾向があるのではないか。

 仮に、奥さん不倫の挙句に離婚した人として話しているとするが、同様の経験がないとその気持ちはわからない。しかし、その人を受け止めることはできるかもしれない。Understandingとは、理解は頭のことではなく、こころのことであり、傾聴しつつ、感情をシェアし重荷を分かち合っていくことであろう。で、感じること 頭で理解することではない。感情的な理解を示すために理性的な理解が必要とは言えない。こころで共感できるか。それを具体的にどう示すか。具体的なことに現われるのだ。

 これまで、日本のキリスト者は、他の国の例ばかりを追っているのではないか。日本文化の中でできることがあるだろうし、それを探すべきだ。伝道することは、偉大な神学を語ることではない。本を読むことでは決して始まらない。コーヒーを飲みながらしゃべる中で、人間関係を作ることの方が重要ではないか。

Education 共に考え成長すること

 教会の会衆に一緒に過ごすなかで共に考え、成長していくことである。正直の大切さを教えることは、四六時中「正直であれ」と言い続けることではないだろう。どこかで、子供に正直ということを伝えることは、共に暮らすことの中で滲みこむようにつたわることであろう。その意味で、説教で、「伝道せぇ、伝道せぇと、毎週言えばそれで自動的に伝道は進むわけではない。この教会の中でできることを、制約の中で考えつつ、一緒に進むことではないか。その意味で、牧師や役員は、自分自身の姿を共に過ごす中で、見せる覚悟があるか。

Service 相手のところで奉仕すること
 伝道することは 「4つの法則」をご紹介することや、その内容を伝えることではない。また、教会に来てもらうことではない。まず、友達になること。それが伝道だろう。伝道とは、「あなたたちは罪びとであり、神を信じないと滅びるぞ」とか言うことではない。

(ジョナサン・エドワーズさんたちは大覚醒時代と呼ばれるアメリカのリバイバル時代にこれをやった)

 例えば、若者のヘビメタバンドが街頭コンサートをしているときに変な目を向け、「悪魔の使いよ、裁かれよ」というのではなく、彼らと話し込むこと、CDを買ってすぐ放置するにしても、CDをとりあえず買って見て興味があることを示しつつ、相手の話を話を聞くことではないか。


(ミーちゃんはーちゃん的感想
 まぁ、これは霊であり、別にこれでなくてもよいと思うが、基本、呼びつけずにそこに行くこと、お届け型伝道ってのが本筋ではないかと思う。今年の一月に、そおういえばこんな記事を書いていた。

「伝道」とは、教会に来させてナンボか?とたらたら考えた(1)
「伝道」とは、教会に来させてナンボか?とたらたら考えた(2)
「伝道」とは、教会に来させてナンボか?とたらたら考えた(3)


 教会に呼びつけることが伝道ではないだろう。むしろ、伝道とは、アウトリーチであり、出て行って伝えるのではない。人がいるそこに行くのがいる人のところに行く。ほかの人に仕えることから始まる。そもそも、イエスはこの地上に来たが、それはまずわれわれにつかえられたのではなかったか。

 まぁ、本日のお示ししたあたりのことは、世俗の仕事では、一般システム理論を扱うこともあり、一般システム論の世界ではかなり当たり前のことばかりなのだが、それが、教会では「世俗の知識」「聖書からのものでない」と遠ざけられていたのかなぁ、という感想を持った。

 これらのごくごく当たり前のことが教会で実践されてこなかったこと、何より、それを皆さん非常に熱心にお聞きであり、はじめて知ったかのようにお聞きであったのに頭を抱えそうになった。実践が足らなくて、頭でっかちのキリスト教って自分のことをミーちゃんはーちゃんは思っていたが、こんなに仲間が多いなんて。そら、教会は限界集落化するわ。

 そんなあなたに、Ministry





 次回へと続く。
【2015.05.23 Saturday 23:13】 author : Voice of Wilderness
| なんとなく思うこと | comments(0) | - | pookmark |
南改革長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(1)

 Smith先生という南長老教会の方の講演会に行ってきた記録である。この講演シリーズでは、アメリカのカルヴィニズムや改革派神学の歴史をふれる、ということであった。K学院長先生のたってのお願いもあり、ここで公開する。

アメリカ南部における改革派の定着前史

 これを考える際に、フランス植民地とリフォームド信仰(ユグノー)の存在から考えたい。

 フランスにおける1562年の宗教戦争と弾圧があったが、この弾圧の2週間前にジャン・ルボーが新大陸に出版し、フロリダのSt John川の踏査など、ティミチュアインディアンの居住地域を調査した。このティミチュア族は、身体的にも整っていて、礼儀深い人々であったと記録されている。


米国国会議事堂に描かれたティミチュアン族の姿とその村落


 現在のジャクソンビルのキャロライン砦が設置されたが、フランス統治は短期間で終了した。この砦などをスペイン軍が攻撃し、1560年には、踏査隊も捕獲された。同地を守るフランスの海軍軍船もハリケーンで難破して投降している。この際フランス人捕虜は、人間的に取り扱われるものと考えられていた。しかし、スペイン舞台は、プロテスタント信仰を棄てないものを虐殺した。ほぼ全員殺害。300人以上が虐殺された。

 St Augstineの南で、虐殺された、このことから、この地は、Fort Matanzasと呼ばれたが、スペイン語で虐殺砦とおいう意味である。この事件に端を発する、国際間問題が新大陸経営に関与をさせることとなる。フロリダの出来事は、ヨーロッパ諸国の争いでもなく、政府の存在意義の原則とも言えない。宗教的な背景があったことは看過されてはならないだろう。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3d/Ft_Matanzas_2008.JPG
Fort Matanzas

北部での改革派植民地
 北アメリカでの真の宗教と反キリストの宗教の併存が継続した。フランスの改革派共同体の主要メンバーは、ルイ14世によるナント勅令で祖国を追われたプロテスタントたちであった。現在のニューヨークやチャールストンはユーグノーの受容地となった。同時代の改革長老派の移植者としては、ポール・ルベールや初代連邦裁判所長官 John Jayなどがいた。

 フロリダから50年以上経過し、改革長老派によるバージニア州のジェームスタウンに英国植民地ができる。この英国植民地は宗教的にはアングリカン的であった。Via Media 中道を維持した。特に、アングリカンにおける39か条は、改革派神学の痕跡を認めることが出来よう。合法的な宗教として、監督教会ではあったが、ノンコーフォミストはアメリカでは、国家による干渉(おそらく本国英国政府からの干渉)から守られることを期待した。最初の牧師とその後継者は、ケンブリッジ大の卒業生、ピューリタニズムのひとであり、ウィリアム・ウィティカー及びアレクザンダー・ウィテカー父子であり、1611年到着している。




ウィリアム ウィテカー


画面中央左の白い服着て立っている人がアレクサンダーウィテカー

Forest Whitaker
ウィテカーというとこの人が思い浮かんだ。名バイブレーヤー

 この2名は、バージニアにおける使徒としての高評価を得た。1620年にプリマス植民地が形成された。マサチューセッツに到着した、ピルグリムたちの人たちは、改革派信仰であった。この人たちは、分離主義者で、当時、英国国教会は、腐敗しきっていて、改革できない程であると考えており、英国国教会にとどまるのは、罪ですらあると思っていた。JamesI世にとっては、これらの分離主義者は頭痛の種であり、ピューリタンたちを圧迫したが、彼らの一部はオランダに逃れていた。JamesI世は植民地経営の道具として、これらのピューリタンを使うことにし、植民地建設を容認した。メイフラワー号盟約を締結した10週間後、ケープコッドに到着したが、この到着地は、当初の目的地より、北側に上陸することとなった。この1611年11月 11日に、新世界における政府の樹立の契機となった、メイフラワー盟約を締結している。

James I of England by Daniel Mytens.jpg
James I世


再現されたメイフラワー号

 自己契約による政府の樹立は他の植民地に広がる。ピルグリムたちの到達者の内、最初の冬を過ごした後、60名しか生き残らなかった。このような経験から、ピルグリムの勇気や忍耐がアメリカの精神性、やればできるという自信ということにつながっている。このピルグリムの人々は、実際的な人々であった。

 ピルグリムたちの礼拝論は、良心Concious、一種の理性に基づく礼拝であり、単純にして、聖書に基盤を置く礼拝であった。この無楽器での詩篇歌による賛美からなっていた。安息日だけを休日とサンクスギビングデーのみであった。


The Simpsonsに描かれたThanks Giving

 イングランドを脱出し、アメリカに来ることの合法性の理由とその考察という論文がでており、アメリカを植民地化することの合法性が述べられている。Robert Cushmanの合理化の理由としては以下の点がある。

 異教徒の回心が期待できること、土地は、未利用で空地であること、インディアン〔ネイティブアメリカン〕は土地を所有してないし、インディアンの酋長は、土地の利用を許可した。James I世王の土地にいるということではない。
 
 Cushmanにしてみれば、荒れ地を開拓したり、主権を尊重するのは、福音の力と有効性を示すことになる。盲目の未信者たち〔ネイティブアメリカンのことらしい〕に示すことになる福音の力と有効性を示すことになるだろう。プリマスにおける礼拝の純粋性は、ピューリタンによるマサチューセッツデー植民地にも引き継がれていく。
>>ミーちゃんはーチャン的突っ込み
まぁ、当時にしてみれば、そういうことだろうが、個人的には、この論理は、どう見ても自己正当化としか思えない。そもそも、高密居住、集中的土地利用をしてきたヨーロッパ人、とりわけ英国で、ディセンター(分離派)と呼ばれ、信仰上の理由で冷や飯を食ってきた英国人にとってみれば、手つかずの土地が手を広げて、待っていたように見えていて、土地利用に関する文化的仮定の違いに悪乗りした、と今は批判されかねない部分もないわけではないが、当時の人々にそこまでの知識を求めるのは、無理ゲーというものだろうとミーちゃんはーちゃんは思う。

 ピルグリムたちは英国から出奔した人々であるが、ピューリタンたちは、教会の改革を求めていた人々であった。スチュワート朝英国では、その宗教改革は自体は進んでいなかった。1630年ピューリタンたちが、マサチューセツを目指した。11船からなる栴檀で、ジョン・ウィンスロップは、アラベラ号でクリスチャンチャリティを示す船の上での説教をした。そして、マサチューセッツは、丘の上の町となり、ニューイングランドは、古いイングランドの模範となるべきだと説教した。このことは政治家によって用いられることになる。教育への関与などと同様に、世俗化された解釈になって、オリジナルのものとは異なることになった。(このあたりは、森本あんりの反知性主義の冒頭参照)このことから、ピューリタニズムへの挑戦と凋落をみることができるのではないか。理想となる世界はこの地上には存在しないという経験をアメリカはする。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7f/The_Arbella_--_Gov._Winthrop%27s_Flagship,_The_Pioneers%27_Village,_Salem,_Mass..jpg
アラベラ号

 罪はすべての人々へ、その影響を与える。丘の上の町となるべきピューリタンの植民地建設を目指したニューイングランドでも、うまくいかなくなる。社会の中心部分から問題が発生する。ロジャー・ウィリアムス(ロードアイランド)などが現れ、ピューリタンの正統性、教会国家の関係、幼児洗礼の問題において挑戦するような行動を取った。アン・ハッチンソン(クェーカーではないが関連はあるもの)という異端。インナーライトを主張し、予定論の拒絶をした。なお、彼女と彼女の一族は、ニューヨークでインディアンによって殺害されることになる。

 ピューリタンの子供の問題。2世、3世は信仰上の問題を示した。信仰を持たないものの子供や孫はどうなのか?半信会員制度がスタダードによって始まる。

 聖餐式が、回心させるための手続きとみなされたHalf way Covenantはプロテンタティスティズム上の問題。大覚醒は、この半信会員の反動ではなかったか。それはピューリタンのやり方の再発見とみなされた。セイラムの魔女事件、ピューリタンたちは、大学などで批判された。アーサーミラーの戯曲のクルーシブル。オカルト的な動きがあったし、法的な方法論で問題はあったが、悪魔がこれらのことを用いて、ピューリタン社会を破壊した。1世紀後に19世紀初頭になれば、ピューリタンの子孫は、ユニテリアン化していく。

http://collegian.morton.edu/wp-content/uploads/2014/03/lisa.jpg
セイラムの魔女事件を揶揄したThe Simpsonsからのワンシーン。

 中西部のコロニーに目を移していくと、オランダ系改革派、ニューネダーランドとしての植民地に居住することになる。デルマーバ半島からコッド岬の領域であり、代表的な都市としては、ニューアムステルダムであり、現ニューヨーク市である。

植民地の宗教的風景
 
 英国がオランダ植民地を抑えてから変わる。1664年の降伏文書の中で、オランダ改革派の存在も認められることになる。ドルト会議、カルビニズムの5特質、TULIP 恵の教理とともに、伝統的な改革派教会の秩序を維持した。長老主義による教会政治がおこなわれた。
 Marylandのスノウヒルのフランシスマッカニー(アイルランド長老教会)がせっちされ、改革長老教会としては、1706年に最初のカンファレンスが開かれ、1717にシノッドが経営された。

 当時の長老教会の問題は、説教免許なしに説教することであった。1693年ニューヨークでエピスコバル教会のマカミン(?)が逮捕される。この裁判で無罪となり、First Amendment とは直接は関係しないものの、宗教上の自由の根拠となる判例がでる。

 その後、スコットランドとスコットアイリッシュの移民が大量に押しかける時期を迎え、貧しい膨大な移民による問題が発生し、植民地に点在する形で展開していく。貧しさの中での、物質主義への逃避が起き、牧師が少なく、人格的にも学識的にも問題がある人々を、牧師として受け入れないといけなかった。改革長老派は、それを防止しようとした。

 1710年ウェールズ人の開拓地で説教していた人物がいたが、この人物には説教免許がないため、罷免され、結果として、按手されたのは1715年であった。また、実際に懲戒ケースとなった事例も多くあり、懲戒案件は、牧師も信徒にもあった。結婚の問題でも、相手が少ない孤立した植民地での問題もあった。生みの苦しみのようなものであった。

大覚醒(リバイバル)について

 第1次覚醒運動、第2次覚醒運動にふれたい。このようなリバイバルのパターンは教会史に繰り返し見られる。信徒であっても異端化は見られる場合がある。これは、人間の罪の結果であろう。エレミヤが書いたように、回復の道へと導かれる。リバイバルは18世紀初頭にニューイングランドのMiddleコロニーで見られた。ドイツ改革派のアムステルダム中会で按手を受けた牧師のフリーハウゼン牧師が嚆矢である。

 聴衆に真摯な信仰よりも、正当な信仰告白にのみ依存している人々にそれでよいのか、と挑戦した。この系譜にある人々は、長老教会では、ギルバート・テナント 英国系では、ジョージ・ホィットフィールド、 会衆派ではジョナサン・エドワーズである。

ざっと当時のアメリカの雰囲気もよくわかるのでお勧め

 ホィットフィールドは、英国での宣教で知られていて、野外説教で高名である。アメリカに来て、アメリカとしての一体性、統一性をもたらそうとした。アメリカ人とは何かをということの形成に一定の役割を果たした。ジョナサン・エドワーズの「怒れる神の手の中にある罪びとたち」という説教は、非常に詳細な描写による譬えは忘れられないものである。

 改革派の中にも偽善者的人物がいたし、第1次大覚醒は神からのリバイバルであったろう。とはいえ、感情的な行き過ぎや例外的な問題もあった(この辺は 森本あんり氏の『反知性主義』(最下部) が参考になろう)。礼拝、教会政治。教会人と信徒の間での分裂した。

 この事案をめぐり、改革長老派の多数派は、ニューブランズウィック州の改革長老派の代議員の参加を拒否した。シノッドの権威を助言機関としてシノッドの権威を貶めた、と批判したのである。より具体的には、他の教会への干渉、ニューブランズウィック州の動きと同意しない人々を問題死したと批判し、さらに、神のことばにないことを説教、自分の感情中心であったと批判した。

 この分裂を旧体制派Old Sideと新体制派New Sideの分裂となった。17年間の分離後和解し、再び一つの共同体となった。新派では、牧師の適切さは宗教的な経験による判断によって行われ、それは、学問的や正統的なものではなかった。なお、分離状態にあった時期、両方とも成長した。しかし、New Sideでの成長は著しかった。新規到着をしてきた移民を中心として増加したと考える。

 改革派は、教会における影響力を増した。テナントは学校を設立し、それは後のプリンストン神学校であり、プリンストン大学の全身でもある。

 このリバイバルが、アメリカ人であるという意識を醸成することになった。1770年に独立宣言のキーファクトの一つがこのリバイバルである。このリバイバルにおいては、牧師が意識醸成に大きな役割を果たした。革命への支持は、教会でも行われ、英国政府から一方的に与えられた概念への反抗を正当化することになる(まさに、この辺が森本あんり氏の「反知性主義」で見事に描写されている)。暴政への反逆は許されることを示したのである。

 ジョン・ウィザースプーンはアメリカは一つの長老主義者であり、ニュージャージ大学の学長でもあり、愛国的な教育を行った人物である。彼は、独立宣言の署名人の一人であり、独立宣言署名者のうち、唯一の教職者であった。



ジョン・ウィザースプーン

http://img.cinemacafe.net/imgs/articlemain/79200.jpg
ウィザースプーン先生の子孫の一人、リース(個人的にファンなので)

南北戦争時代を背景にした彼女の出演作

 ジョージ・ワシントン時代のの90%は長老主義者であった。アメリカ独立に長老主義は非常に大きな寄与をした。特に、社会的な地位は重要であった時代であり、そこで一定の社会的地位を持っていた(この辺、森本あんり氏の反知性主義の本の中でのリバー・ランズ・スルーイットのエピソードが面白い)。オハイオ、インディアナなど中西部のフロンティア開発でも一定の役割を果たした。スコッツアイルランド的の長老主義が広がり、訓練された牧師が少なく、講壇に説教者を供給できなかったために、なかなか広がらなかった。

 メソジストやバプティストは、説教者として平信徒をどんどん採用した(この結果、森本あんり氏の本にもあるように、「メソジスト派は、字の読めるバプティスト、バプティスト派は、靴を履かないメソジスト」と揶揄されるほどであったらしい)。その結果、これらの両教派の指数的拡大に比べ、長老教会は大きく数の上での後れを取った。この結果、牧師の要請面での問題に直結する形で、アメリカの神学的特性は、もともとのカルヴァン主義から、アルミニアンへの移行することになる。神中心なものから、人間中心なものへの移行をしていくのではないか。
>>ミーちゃんはーチャン的突っ込み
個人的には、アルミニアンの関係者に知り合いが多いので、「神中心のものから、人間中心なものへ」のくだりは言い過ぎだと思うが、信徒レベルではこういわれても多少仕方がない部分もあるかもしれないとは思う。言うなれば、神のみに重点を置いたカルヴィニズム的なものから、人間側にも多少ウェイトがかかったアルミニアン的な聖書理解、神と人間という料側面を考える神学理解の移行と言った方が正確かもしれない。
 この結果、王権を前提とした社会から民主主義社会への移行があり、そして、第1次大覚醒があって、アメリカの社会構成が変質してきた。19世紀のある歴史家は、メソジズムがアメリカに与えた影響について、キリスト教が内的なもの、心理的や感情的なものになってきた、と指摘している。内側に向かうことは、霊的な暗がりが発生し、クリスチャン世界での神の国がこの世で実現することは考えられない。神権政治的な背景における改革主義的な生活要素から、内生的な敬虔主義的なものになり、ローマの修道院主義的なものへキリスト教が変質していく。

>>ミーちゃんはーチャン的突っ込み
 まぁ、メソジスト的なものに変質した以上、そもそもの出発点のジョン・ウェスレー先輩のおっしゃったことが独り歩きしたメソジスト的な世界が繰り広げられやすい以上、この傾向はいたしかたないもの、と思われる。しかし、ローマの修道院主義とは、ちょっとひどいなぁ、と思った。修道院ってひとくくりにできないほど多様だし、霊性が、修道会ごとに違うんのでねぇ。
 また、アルミニアンが増えたから、アメリカで民主制へ移行というのも、ちょっと違うかなぁ、と思う。そこまで言うなら、独立運動にかかわった長老主義者のことは問題にされることになりそうだし。
 第2次覚醒運動は、19世紀初期におきた。Camp Meetingを中心に起き、バーティンストーンによる長老教会でのキャンプでおきたものである。このキャンプミーティング自体、スコッティッシュコミュニオンに由来を持つものである。この時には、犬のような鳴き声、大きな笑い声、身体的な表現がみられた。バプティストやメソジストのようなところで、このリバイバルは、さらに進展する。長老派の中では、贖罪の神学に影響した。チャールズ・フィニー(この方については『森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(10)』や『福音派が生まれたころの世界むかし話(4)』を参照)のような牧師がカルバン主義を否定することになった。人間の意思による信仰ということが強まってきたのではないか。時代的には1820-1830年に相当する。


第2次大覚醒当時のキャンプミーティング
犬が手前にいるのは犬のような鳴き声のメタファー、下着姿で祈る女性が描かれている。

まとめ 改革派の歴史に学ぶこと


 本日の改革長老派の歴史に学ぶこととしては、3つのテーマがあるだろう。 
1)    殉教と迫害
2)    摂理の神秘
3)    宣教的な宣言

殉教と迫害
 この代表例は、ユグノーたちの犠牲である。改革主義に対する憎しみ(個人的には、カトリックに対する憎しみをかなりご講演中時折感じましたが)は、北米だけでなく大陸でもあった。北米では、改革長老派の寛容が逆に働いていたし、伝統的モラルに対する反対もあったし、罰金を科せられる例もある。将来投獄されるような状況もそれほど先でない将来にあるかもしれない(再臨論にはまっている人からしたら、艱難後再臨説か、と思ってしまった)。

摂理の神秘
 ピューリタンで始まったが、下降線をたどるばかりでしかなかったように見える。丘の上の町の光がなぜ消えたのだろうか。なぜ、信仰を表明できないのか。なぜかはわかない。神の神秘の中で、神の怒りが落ちるものへと変わってしまった。
 しかし、神は、信仰者を天にふさわしいもに作り替えられる。ヘブル人への手紙11章で示された殉教者は、神の究極の約束や勝利を受けてない。新約的なキリスト者には、反対は常にあるものだし、困難な道であることはそもそも言われていることである。
 アメリカの長老派は(そして日本の長老派も)、パウロのように、言わなければならない。失望すべきではないし、われわれは責められており、踏みつぶされられており、見捨てられているが、滅ぼされない、と。神の手の中にある栄光にあるのではないか、長老派が神の栄光を作り出すのではない(これやったら、神になっちゃいますもんね)。

宣教的な働き
 Calvinがなくなった翌年フランスのシャーロット砦事件が起きている。熱心さとやさしさのゆえに正統的な教えを維持できなくなる場合がある。Old Schoolと New Schoolの分裂で見られる。また、後年リベラリズムが南北の長老派の主流に影響したことを見ることができよう。
>>ミーちゃんはーチャン的突っ込み
 この講師のSmith先生にとっては、リベラリズムは天敵のようでした。ここまで嫌わんでもいいじゃないか、とは正直思いました。

 伝道的なエンジンとして、改革派の信仰があった。改革長老派は、伝道的でないとされるが、常に最前線にあって働いてきた。
>>ミーちゃんはーチャン的突っ込み
 最前線にあって働いてきたけども、結局やり方が悪くて失敗しました、ということのように聞こえました。まぁ、この辺、米国社会における社会的階級や人種的な関係もあるので、一概には言いにくいが、基本、改革長老派、コーカシア系アメリカ人のキリスト教であったという側面はあろう。しかし、この講師のSmith先生は、Deep SouthのCity Centreの、コーカシア系の「やさしい、柔和な女、すなわち柔和で、やさしく、足の裏を土に付けようともしない者」(申命記 28:56)なら、入って行かないような地域で伝道活動されている方としての矜持からのご発言と理解した。
 改革長老主義は民族的な多様性とユニティをつなぐ要因となりうる。21世紀において、エスニシティを言う文化歴史学は、気候要件と地理的要因が歴史の要因となるであろうと主張しているが、民族的気候的地理的要因であるかもしれないが、それとともに、知的や宗教的要因が歴史のカギではないだろうか。
 現在まで、改革長老派は、イタリア人やユダヤ人への伝道、ヒスパニック、フィリピン人、スーダン人、韓国人、中国人、日本人、開拓地とは違った形であるが、御子の犠牲を中心として語っている。これが、改革派信仰の物語を作っているのではないだろうか。

 なお、以上の速記録は、当日参加した際の現場でのノートのみに基づいているので、ありうべき過誤は、ミーちゃんはーちゃんにあることは、付言しておく。

感想
 これ、ある神学校の神学教育の一環として行われたのであるが、参加者でこの講義をどこまで楽しめたか、というとかなり疑問ではないか、と思う。この記事の以下の部分で紹介する様な日本語で読める基礎的文献を読んでいないと、かなり消化不良を起こしたのではないか、と思う。
 
 アメリカ政治史、アメリカ文化史、アメリカ文学などの講義が大学の文学部系統で実施されているが(ミーちゃんはーちゃんも、明石先生という方のアメリカ史概説を大学時代に受講したことがある)、基本、この種のキリスト教史についてはほとんど触れられないので、キリスト教史的な要素が多大に影響しているにもかかわらず、そこが抜け落ちていることが多く、高等教育機関で学習したものでも、アメリカの実情、アメリカ人の感覚の実層に近いところの理解はできていないのではないか、という思いがある。それは、最近、アメリカ政治史の研究者の会合で発表させてもらった時にも、それは強く感じた。第二次世界大戦は、アメリカという神政国家’Theocracy)と、日本型天皇制神政国家の戦いであったのではないか、とお話しした時、日本人の研究者はきょとんとしてたが、Maine大学とフィリピンのDe La Salle大学の教員には、大受けであった。

アメリカが亜種のセオクラシーの一種の影響階にあることを示すGod Bless Ameria.


セリーヌ・ディオンによるUSS Harry S Truman艦上でのGod Bless America

US Navy 030117-N-9851B-027 The Military Sealift Command ship USNS Spica (T-AFS 9).jpg
上の歌が歌われたUSS Harry S Truman(ミニッツ級空母)

Battle flag with red background with the number 75, crossed canon barrels and phrase "Give 'em Hell"
USS Harry S Trumanの戦闘旗(地獄を食らわせろ、ですって)


 個人的には、講師のSmith氏の主張に全部同意するものではないが、アメリカを理解するために、このような宗教史に関しては、アメリカ史、アメリカ政治、アメリカ文学等アメリカ学関係をする高等教育機関では触れられるべし、と思っている。





評価:
森本 あんり
¥ 1,836
(2006-05)
コメント:良い。アメリカ史とアメリカキリスト教史を概観できる薄いけれども重要な本。入門としては最適

【2015.05.23 Saturday 07:37】 author : Voice of Wilderness
| 教会史研究 | comments(0) | - | pookmark |
『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (26)


Pocket

 『富士山とシナイ山』学ぶシリーズは本ブログの最長連載記録を更新中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の16章「戦後憲法」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ からどうぞ。

キリスト教と平和の問題

 個人的には、ジョン・H・ヨーダーに私淑した勝手連的な遅れてきた弟子なので、基本平和への希求は個人的には非常に強い。その意味で、日本国憲法の絶対平和の思想が、メノナイトは、あるいはフレンド派的な非暴力、非抵抗主義と対話の精神によるというその精神には非常に同意するものである。この辺りをにおわせるように、小山先生は次のようにお書きである。
 「私は、あなたを奴隷の家、エジプトの国から導きだしたあなたの神、主である」と宣言する神は「真の」神である。ただしこれは科学的真理ではない。信仰が献身を制約する真理である。この真の神は非武装化による平和の実現という立場に同一化するであろうか。それとも軍事力による平和に同一化するであろうか。それとも、両方の立場を組み合わせた立場にか。戦争と平和の問題に対する神の立場は正確にはどのようなものか。真の神が偽りの神に化すのはどのような時か。日本国民は、己の選択の神学的含意に全く気づかぬまま、戦争放棄の原則、完全非武装化の立場を貫く決意をした。戦後憲法の第9条は「神」の名を濫りに唱えることをしない。(富士山とシナイ山 pp.299-200)
 戦争経験が非常に悲惨であったがために、内発的であったが、外生的であったかは別として、日本国民は、国会という最高意思決定機関の議を経、天皇の御名御璽を押してもらったうえで、憲法を発布したのではなかったろうか。近年、某公党やネットの発言者の一部で、戦後憲法は米国からの押し付けであるから改憲すべきだ、というご発言をされる向きがいるとかいないとかちらほら聞くが、しかし、御名御璽印がばっちり押されて居ることをそれらの方々はどうお考えなんだろうか。気の迷いで御名御璽印が押されたりしたのだろうか。そんな軽々しいものなのだろうか。

 戦後憲法が気に入らないのなら、それは「私たちが勘違いしてました、私たちの先輩があんまり考えていませんでした」とまずいうべきではないだろうか。「私たち〔ないし私たちの先輩たち〕が、この憲法の持つ神学的含意に全く気付かないままでした」とちゃんと方針転換して、「じゃ、どうしようか」ということを言うべきなのではないだろうか。憲法は不磨の大典とかいうつもりもない。修正していけばよいのである。その手続きがあるのだから。そして、それを国会でも、国民全体でも議論して、投票して決めるのが、民主主義政体の習いである。その時に投票できない人は別として、投票しなかった人と投票した人が後世にとって責任を取る、そして、不具合があれば、また、条文を変更すればいいのである。

 誰かが言っているから、とか、ノーベル賞が取れそうだから、とか、誰かが高い評価をしているから、ということではなく、「戦争はもうこりごりだから」という理由で、個人的には憲法9条を維持した方がいいと思っている。

 「そんなことを言って他国に侵略されたらどうする」とかいう方々もおられよう。それもまた一理あるが、粛々と侵略してもらうのも、また、一つのあり方であると思う。どうせ、国際貿易をしてきたため、内部で粛々と文化的には侵略されてきたではないか。それが嫌なら、鎖国すればいい。まぁ、文化的侵略とは言い過ぎではあるが、少なくとも、ネズミ―マウスがCFで幅を利かせ、最近になるまで、昔話がCFのキャラクターになることは少なかったかもしれない。

http://blog-imgs-42.fc2.com/b/a/n/banditqueeeen/cm-ufd.jpg
Cubic Mouth


若者向きで久々の日本昔話をメタファにしたCF

戦争放棄の出発点

 戦争放棄は本来キリスト教的思考に基礎をおいている部分があり(だからこそ、押しつけ憲法という人々が出るのだろうが)、我が国に無理であったかもしれないという思いを小山先生はお持ちだったようである。
 しかし戦争放棄を国の根本法として受け入れたのは、ほかならぬこの国である。吉志向の連続性を尊ぶ文化の民族が人類普遍の原則というこの理想を支持しようと努めてきたのだ。ユダヤ ー キリスト教的訓練を受けたことがなく、聖書の視座から歴史を見ることのない国にこれほど難しい課題を課すとはどういうつもりなのですか?と、正直私は全能の神に問いただしたい気持である。第9条はイギリスやイタリアやスウェーデンのような、キリスト教的哲学と教養をほぼ10世紀間経験してきた国に課されるべきであったと思う。ところがそれはよりによって葦牙の国が引き受ける羽目となった。ひょっとして日本国民は基本的に楽天的なので、第9条を宣言してしまったのだろうか。それとも彼らはこの第9条を神道の祈りの精神で受け入れたのだろうか。「日ごとにいや増しに、千代よろず代の終わりまで、めでたさが続きますように」という祈りだ。
 私はそうは思わない。国を変えてしまった全き荒廃の経験は彼らにとって衝撃的だった。荒野で彼らは感じた、われらの剣は鋤に打ち直さなければならないと。あの一瞬凶と吉の交代が繰り返されるのとは違う何かを日本人は経験したのではなかろうか。彼らは非連続と否定をそれまで経験したよりももっと強烈に経験したに違いない。(同書 p.303)
 この国の植物の生命力は本当に強いと思う。そして、この植物の生命力の強さこそ、何でも緑で覆ってしまうその強さこそ、この中緯度帯にある葦牙の国の特徴なのだと思う。もうちょっと西に行って大陸ならば、黄砂でおおわれてしまうだけであるが、わが国では、災害の姿も、戦災の姿も、割と早く跡形もなく地表上では消えてしまい、元に戻ってしまい、戦争の跡形は都市計画図のいつまでも実現しない道路として残り、その道路の土地には新たな恒久的な建物が建てられないので、妙な形で取り残されるスポットとして認識されることがごくまれにあるだけである。

 緑に覆われたラピュタのような戦後の姿は、葦牙の国の特徴であるといってよかろう。


そして、


これは極めて日本的。
http://cache.wallpaperdownloader.com/bing/img/AircraftBoneyard_20110818.jpg
これは実にアメリカ的 B52 を砂漠に野ざらし まさに野ざらしという語がふさわしい

 あぁ、そうそう、戦争とその後の荒廃の話でした。

 神戸という阪神淡路大震災を経験したあたりに住んでいるが、今では、15年ほどの前の地震の被害の跡形は、もう、「知る人ぞ知る」ようなスポットか、記念として保存されているところあたりにしかない。葦牙の国の威力である。震災後数年たったころ、長田区役所の職員の一人が長田区の山の上の復興が進まないことに困惑しておられたが、その時、ある大学関係者の方が「もう山に自然に戻ってもらうことしかないのかなぁ」とつぶやいておられたのが実に印象的であった。

 災害があっても、戦災にあっても、勝手にじわりじわりと緑おおわれていき、災害や戦災の記憶が忘れられていくのがこの国の姿であることを考えると、そのような環境が日本の忘れっぽい、いや、記憶しない傾向にある程度影響しているのか、と思うと、そういう姿を記憶しない国民だからこそ、敗戦を終戦と言いかえ、戦争の記憶を忘れていくのだろう。

 このあたり、ホロコーストを経験し、そのことを必死で忘れないようにしようとする国民との国民性の違いに、このあたりの環境と社会の関係が影響しているのかもしれない。

平和の神と現実社会
 神と人との間に平和を実現する神としてのシナイ山の神、聖四文字であらわされる方は、この地に降りてこられる現実的存在であり、そして、地を流すことを望まれない神でもある。最初の殺人事件である、アベルとカインの物語で、カインに「「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。(口語訳聖書 創世記 4:10)」とおっしゃるような方である。

 その神は、神と人が神との平和を保ち、その結果として、人が平和に過ごすことを目的とされる方であると聖書は主張している。
第9条の精神と出エジプト記の神の精神とは息が合うように思う。ということは、聖書の神の精神を第9条の言葉に位置付けることは特に難しいと思えないのだ。第9条は単なる理想ではない。理想以上のものである。言ってみれば、現実的理想だ。なぜなら第9条の生き方に従うことによってのみ、人類はこの地上を生き延びて繁栄することができるゆえに、現実的である。「現実的理想」という概念は、神が現実と理想との統一であるがゆえに、神学的概念である。歴史について責任感強く、憂慮してやまない神は「現実的であると同時に理想的な」在り方しかできない。聖書的救済は現実的であると同時に理想的である。このような召しに応えることは、我々の側に〔死としての神に対する〕弟子道的な行き方を生み出す。キリスト教的な弟子道的生き方は現実性すなわち現在性と、理想性すなわち未来性とに基づいている。第9条は我々から弟子道的生き方を要求する。自己規律の宗教的献身を要求する。こうした見解は戦後憲法の前文全体にも言える。(同書 p.304)
 しかし、最初この部分を読みながら、Discipleshipが「弟子道」と訳されていた。弟子道はないんじゃないか、と思った。神の権威を認めるものとしての生き方であるのとおもうのだ。剣道とか、柔道とか、そこには極めるという精神があるが、Discipleshipには、そういう極めるという思想性はおそらくなる、神と共に生きる生活、ということではないかと思う。このあたりのことは、最近再翻訳されたボンフェファーの「共に生きる生活」をお読みになられることをお勧めする。

 その意味で、地を創りし神は、我らが神と共に地で生きる生活に招かれるお方であり、その地を平和で満たすことを望んでおられる方であるとは思う。

 案外忘れられていることかもしれないが、神は歴史的存在である。歴史を通して存在する神の存在等のご性質は忘れられてはならないのではないか。それは共同性の概念とつながる。
「あなたの神である主の名」は、だれかある個人あるいはある人間集団に突然、いわば「青天の霹靂」のようにひらめいたのではない。理由は神の名が歴史的概念の一つだということである。つまり、「あなたの神である主の名」は「あなたの神である主の名の歴史」を意味しているのである。その名は過去と未来を持つ。我々の歴史において、主の名は絶えず我々に自己啓示しつつある。歴史内容はそれぞれの国や民族によって多様だとしても〔そのことは変わらない〕。主の名の決定的な啓示はすでに起こった。我々は聖書におけるあの啓示に赴く。しかし生ける主の名は聖書を産み出した民族内に閉じ込められるわけがない。主の名は間断なく、歴史的出来事を通して、我々を救済に導く意味深い名として働いている。私のもとに来よと招いている。それどころか、我々のもとに来て、20世紀の文脈において、今日生きる我々にとって御名の持つ意味を啓示する出来事に参加せよと促している。われわれは今日歴史のただ中を生きつつ、聖書の光に照らして神の名の救済的メッセージを悟るすべを習得する。かくしてあなたの神なる主の名は歴史的、歴史参加的概念である。(同書 p.308)
 ミーちゃんはーちゃん自身もそうであるが、どうしても、現在、現代のことだけを考え、自分と廻りのことだけを考えがちである。その前(過去)や後ろ(将来)との連続性を考えず、ある時間断面でスパッと切った状態だけで考えがちなのだ。

 今自分自身の持っている聖書理解を考えてみても、それは、歴史の中で積み上げられたものであるし、それを不断に見直してきた過程であるように思う。その意味で、それらを概説した深井智朗先生の神学の起源を見ると、我々の聖書理解とキリスト者の生き方そのものが歴史上の人物として名前を残すかどうかは別として、歴史的なものであり、その歴史的プロセスの中におかれ、その中で、神と共に生きる歴史的共同体の中に位置づけられていることがわかるような気がする。

 繰り返し言うが、歴史は大事である。歴史事実のみを研究対象にするのはあまり面白くはないが(何が事実であるかはよくわからないので)、歴史を踏まえて、同じことの愚を繰り返さぬことと、過去の思惟と対話をして、より妥当な理解を生み出す努力は大事だと思っている。

 ちょっと、休憩(別の内容のコンテンツのご紹介)してから、またこの続き 第4部に入っていきたい。




評価:
価格: ¥4,104
ショップ: 楽天ブックス
コメント:絶賛ご紹介中、というよりは、ダシとして遊ばせてもらっております。

【2015.05.20 Wednesday 00:25】 author : Voice of Wilderness
| 『富士山とシナイ山』に学ぶ | comments(0) | - | pookmark |
ラッド著 安黒訳 『終末論』を読んだ(6)

Pocket

 今回も引き続き、ラッド先輩がお書きになられた「終末論」からご紹介してみたい。今日も、第8章 審判 から引用しながら考えたい。

審判をどう考えるか

 審判とは、愛の神の概念と一番一致しにくい概念であるが、神と人との間の親しい関係の中に隙あらば入り込もうとする諸仏や諸勢力を完成する姿においては排除しようとする神の愛の表れと理解するのが一番適切かもしれないと思う。そのあたりのことをラッド先輩は次のようにお書きである。
  悪しき者の審判はそれ自体が目的ではない。ただ世界における神の支配の確立において必要な行為である。神はご自身のもとに人々を引き寄せるためになしうる全てのことをなされた。もし人々が神の恵みを拒むなら、神の審判に直面するしかない。最終的には、神はその聖なる御心に反対するものを赦すことはできないからである。 (終末論 p.149)
 神の愛を無制限に広げてしまうと、万物救済論的になり、聖書から大幅にかい離してしまうが、神と神の愛し給うたものとの関係に溝を作るもの、そこに毀損を生ぜしめるものは置けない程の神の圧倒的な愛という形で理解すべきなのだろうなぁ、と思う。従わないから、容認できないのではなく、むしろ、本来の神と人との関係に障害物を置く行為を容認できない、ということで理解するのがよいのかもしれない。



システィナ礼拝堂のミケランジェロ工房作「最後の審判」

小さき者へのアプローチ
 上智大学の川村先生のご講演にご参加した時、カトリックの奉仕の精神は、実はマタイ25章に由来するというお話をお伺いし、そして、貧しき者に対する対応は、あるいは小さき者に対する対応は、基本的には、神に対する愛、つまり、レビ記19章に記された、隣人(それには在留異邦人を含む)に対する愛から生まれているという御解説を伺ったが、それはその通りであると思うが、ディスペンセーション主義者は、それを走破介さず、「ユダヤ人の」という限定付きで、「ユダヤ人の」小さき者に対する救援や援助と理解するらしい。そのことに関して、ラッド先輩は次のようにお書きである。
 ここ(マタイ25章35-36 あなた方は私が空腹であったとき、私に食べるものを与え、私が渇いているとき、私に飲ませ、・・・の部分)は、ディスペンセーション主義者にとって重要な箇所である。ディスペンセーション主義者はこれらの審判を、最後の晩餐とは別個のものとするからである。(中略)ディスペンセーション主義者は、このたとえ話を、どの人がキリスト教の千年王国に入ることを赦され、どの人々が締め出されるのかを決定する、諸国民に対する審判について述べたものと理解する。「わたしの兄弟たち」とは、イエスの同じユダヤ人の兄弟たちであり、彼らは大艱難時代に回心し、キリストの千年王国の差し迫った到来を告げ知らせながら異邦人の間に出ていく。異邦人の諸国民のうち、イエスにとってのユダヤ人の兄弟たちを親切に扱い、歓迎し、メッセージを受け入れた人々は千年王国に入ることを許され、彼らをののしり、彼らとそのメッセージを拒否した人々は千年王国から締め出されるのである。(同書p.149)

  このためシオニズム運動関係者や現在の世俗国家でしかないイスラエルやメシアニックジューに対する評価がこのディスペンセイション主義者の間で極めて高く、現在の世俗国家としてのイスラエルを正に判官びいきではないか、といいたくなるほど、贔屓のひきたおをしをしかねない勢いで、絶賛賛美される向きの方がおられる。そこに異論でも挟もうものなら、弾き飛ばされるのが落ちなので、まぁ、どうぞお好きに、と申し上げている。その贔屓の引き倒しの勢いで、日本人を持ち上げようとするのが、日ユ同祖論である。頭が痛い。偉い高い。 この説についての問題点をラッド先輩は次のように指摘しておられる。

 メシアニックジューの方を存じ上げているので、あまり否定的なことを言うつもりはあまりないが、必要以上に持ち上げてしまうのはどうか、と思っている。あるメシアニック・ジューである人物の解釈のみに正統的な解釈がある(あるいは必要以上に高い評価を与える)とするのは、パウロ研究の新しい見方のみが正統である(あるいは高い評価が与えられる)とし、他のすべての考え方を非正統であるとするのと同じくらい危険だと思う。
 
 要は聖書理解の可能性の幅というのか、可能性をより広く持つことが重要なのであって、どれか一つのみを正当とする考え方は、ある面偶像崇拝的であり、人間の理解を過剰に評価しており、結果として、神の名を濫りに唱えることになっているのではないか、ということを考えざるを得ない。

 ところで、この小さき人々たちをユダヤ人に限定することができない可能性があることを福音書のイエスの言葉を根拠にして、ラッド先輩は、次のように言っておられる。
 ここには、考慮されなければならない釈議上の問いが3つ存在する。これは大きな白い御座の裁きと違う審判なのか。御国を受け継ぐという報酬は千年王国に入ることを意味するのか。イエスの兄弟たちとは、「肉による同族の者」つまりユダヤ人のことなのか。
 諸国民が神の御座の前ではなく、人のこの御座の前に現れていることだけを根拠にして、この審判を大きな白い御座の裁きと別のものとすることはできない、ということは明らかであると思われるる。すでに見てきたように、この二つのものは同一とみなされる。(中略)
 第2に祝福された者たちが入るのが千年王国でないこと、千年王国から締め出されることがそれ以外の者の運命ではないことは、テキストそのものから明白である。テキストそのものが「こうして、この人たち〔悪しき者たち〕は永遠の刑罰に入り、正しいひった地は永遠のいのちに入る」(マタイ25:46)と語っている。永遠の刑罰と永遠の命である。(中略)
 第3に、イエスの兄弟たちをユダヤ人の兄弟たちと理解すべき釈議場の理由はない。反対にイエスが弟子達をご自分の霊的な兄弟と考えていた釈議場の証拠を見出す。(中略)「見なさい。私の母、私の兄弟たちです。天におられるわたしの父の御心を行うものは誰でも、私の兄弟、姉妹、また母なのです」(マタイ12:48-50)。こうすることによって、霊的な関係は生来の人間関係より優っていると述べたのである。(同書 pp.150-152)
 ある面、聖書全体を通しての解釈が案外重要ではないか、と思うのである。特定の聖書を特定の前提のもとに読み込んでしまえば、ある面倒でもできてしまう現実があることは、説教壇に立つものであれば、誰しも経験しているし、その誘惑にかられることは、よく知られている事実である。だから、異端や異教がキリスト教から生まれるのである。


小さな人はだれか?社会的福音との関連で

 小さな人はだれか、という小さな人の確定問題は案外難しい。すべての困難の中にある人として、そして、社会的福音を進める出発点になった(いった本人はそうはいっていないにもかかわらず、それが日本に持ち込まれて誤読されている可能性が大であると思うが)ラウシェンブッシュ(こういうのを出してくるからリベラルだとラベルを張られやすいのであるが、そういう前にラウシェンブッシュのオリジナルを読んでほしい、と思うのだな。)の主張においても、この貧しい人は、ある面で、キリスト者の労働者であり、キリスト教世界の中にいる貧しい人々という意識でおおむね書かれていると思う。しかし、それが異教世界である日本に持ち込まれ、万人救済的な世界観と習合して、無条件に小さき人を増やしてきた部分はあるのではないか、と思う。詳細は、ラウシェンブッシュのオリジナルに福音派の人々がコメントをつけたキリスト教徒社会の危機を読まれて検証されたい。

 このたとえ話には、大変違った解釈も存在し、それは多くの福音主義者に信奉されている。それによると、イエスの兄弟たちとは、世界中の貧しく、空腹で、裸で、権利をはく奪されている全ての人を象徴している。御国を受け継ぐ祝福された人々とは、イエスの弟子道の本質的証拠である愛の生活を生き抜いた人々のことである。そのような人々は神に自らの業によって救われている。ただし、その業は律法主義的な前項ではなく、イエス・キリストに対する献身的生活から溢れ流れる業(あるいは、御霊の実)である。
 この釈義に神学上の反対意見はない。(中略)しかし、イエスの兄弟たちを、不幸の中にある全ての人とする解釈を釈義上支持するものは他に存在しない。それ故、私たちは前者の解釈(イエスの弟子たちが福音を陳べ伝えるときに、困難に直面する)を支持する。 (同書 p.154)


 まぁ、ここで、ラッド先輩ご指摘のように、小さきものとは、山上の説教の冒頭部の中で言われている神の国を歩もうとした、神に愛される生き方をした人と考えてよいと思う。しかし、個人的にラッド先輩に申し上げるとしたら、「生き抜いた」とか「イエス・キリストに対する献身的生活から溢れ流れる」とか書くと、誤解されませんかねぇ、ということである。こういう風に書いてしまうと、中心が神から一気に人間側に来てしまい、神の救済の中心性が失われてしまって、カルト化する原因にもなりかねないのがねぇ。ちっと残念だったかなぁ、とは思った。救済は神のものであって、人間のものではない、人間的行為によるのではない、というのが聖書の主張であるが、その辺を誤解しているキリスト者というのは案外多いかもしれない。

 それでは、本日はこれまで。ごきげんよう。さようなら。


 次回9章の内容をもとに考える。最終回。

評価:
価格: ¥6,588
ショップ: 楽天ブックス
コメント:社会的福音が福音派的的でないと思いこみで批判する前に、この本を読まれ、特に本書に含まれる福音派からの応答を読まれることをぜひお奨めしたい。

評価:
ジャン・バニエ
あめんどう
---
(2010-08-20)
コメント:再販されないかなぁ。いい本なのに。

【2015.05.18 Monday 06:07】 author : Voice of Wilderness
| Telos理解 | comments(0) | - | pookmark |
「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(2)


 今回も、魚川さんのお書きになられた「仏教思想のゼロポイント」第2章あたりから、ご紹介してみたい。

 なお、以下の英字表記では、文字に付されている記号は省略しており、ぜひ原著をおあたりいただきたい。

煩悩や迷い

 仏教が煩悩からの脱出というものにかかわる問題意識であることは承知していたが、煩悩とは、個人が悩みを抱え続けていることだと思っていたが、そのことに関して、魚川さんは、割とわかりやすく書いてくれている。
 心に煩悩のある状態、すなわち「迷い」の状態とは、どのようなことを言うのだろう。仏教では伝統的に、その様に心に煩悩があって、こころがけがれている状態のことを「有漏 (sasava, s.sasrava)」と呼んできた。(中略)要するに煩悩が垂れ流され続けていて、こころがその影響下にある状態のことを「有漏」と言っているわけである。
 (中略)ブッダやアラカンが解脱を完成する智慧のことを「漏尽智(asavakkhaya-napa)」といっているが、これも漏が滅尽して、心から煩悩のけがれたがなくなることが、「悟り」であると考えられているからである。(仏教思想のゼロポイント pp.42-43)
 この「漏」という概念が、どうもキー概念であるらしい。そのことに関して、魚川さんはこう書いている。
 このような漏の影響下にある衆生の行動様式のことは、現代の日本語でいいかえるとすれば、「悪い癖」というのが適切であろう。それは主観的で盲目的な行為であって、「これは悪いことだ、無意味なことだ」と頭でわかっていたとしても、気がついたら、いつのまにかやってしまっていることである。仏教で「修業が必要とされる理由の一つがこれで、頭で正しい理屈を知っていたとしても、習慣的な行為を止めることができない限り、達成されたとは言えないが「悟り」というものの性質だ。(同書 p.44)
 ようするに、「漏」というのは、わかっちゃいるけどやめられない、という感じのことらしい。その意味で、植木等先輩のスーダラ節というのは、まさに「漏」の世界と言えるのかもしれない。お若い方は、スーダラ節をご存じないようなので、ご紹介しておきたい。


スーダラ節

 まぁ、なんにせよ、依存の問題(アルコール依存、薬物依存、性依存、ネット依存、SNS依存など)という依存症の世界は、そのことに心が奪われすぎていて、そのこと以外のことへの対応が十分ではなくなり、社会的な生活に障害が出てしまうような事例であり、これは、もう「漏」という世界を超えて、治療が必要な場合に相当するであろう。

縁起の重要性
 縁起ということは、社会の中における諸要素の作用反作用のことである。そのことに関して、魚川さんは、次のように書いておられる。
 この縁起というのは、前章で引用した成道後のゴータマ・ブッタの述懐において彼の証得した法の道理の一つとして語られており、また「縁起を見る者は法を見る。法を見る者は縁起を見る」という有名な言葉にも表れているように、疑いもなく仏教の中心思想であるのだが、そのいいするところは極めてシンプルで、「縁りて起こること」という字義どおり、「原因(条件)があって世紀すること」という、基本的にはそれだけの意味である。
 そして、とくにゴータマ・ブッタの仏教について考える際には、縁起を常にこの言義から把握しておくのが、おそらくは一番誤りが少ない。(同書 pp.47-48)
 「縁りて起こること」を表す日本の故事表現に「風が吹けば桶屋が儲かる」ということがあるが、これは、現代のことばで言えば、因果関係である。この因果関係の束を考えるのが、システム理論であり、その因果関係の束で考えながら、世界を描いていこうとしたのが、ちょっと古いが、石油がなくなるという予測を出して世界を震撼させたローマクラブの「成長の限界」である。しかし、ローマクラブの予測によれば、もう既に石油は無くなっているはずだが、社会は人間の関与でできているので、ローマクラブの予測ほどにはうまく動かなかったし、またこの予測が出たことに加え、中東戦争やオイルショックなどの要因もあり、石油は現在でも枯渇していない。

 現在話題のビッグデータは、この論理的なつながりである縁起を逆演算してその論理的なつながりを明らかにしようとする一種の後付理論である。



ビッグデータの説明の音声 かなり荒っぽいがまぁ、ポイントはついているかも

「苦」とは何か

 苦に関して、仏教ゆらいの日本語表現にもあるように、「四苦八苦」という言葉にもあるように割と重要な概念である。そのことに関して、魚川さんは、次のようにお書きである。
 私たちが漢訳で「苦」という言葉を目にした場合、それは直ちに日本語の「苦しみ」を連想させるから、仏教における「苦(dukkha)」というものも、痛みや悲しみといった肉体的・精神的な苦痛を意味するものだと、一般には考えられがちである。
 しかし、そうだとすると、快楽には触れた生活、例えば、ゴータマ・ブッタが出家の前にしていたような生活はそのようなものであったとされているが、それは「苦」ではないのだろうか。そうとは言えない。今日天の説くところに従えば、たとえ誰かがある時点で快楽を感じていたとしても、その感受でさえ、「苦」であることには変わりがないのである。
 dukkhaという言葉を訳す時、現在の英訳では、しばしばunsatisfactorinessという単語が使われる。日本語に訳せば「不満足」ということになるが、これはdukkhaのニュアンスを正しく苦いとった適訳だと思う。
 (中略)欲望の対象にせよその享受にせよ、因縁によって形成された無常のものである以上、欲望の充足を求める衆生の営みは、常に不満足に終わるしかないという事態をこそ意味することを示しているからである。 (同書 pp.50-51)
 この「苦」の魚川さんの説明を読みながら、実は、これと同じようなことをキリスト教でもやっているということを想ったのだ。何かというと、発言者(聖書の場合は、イエスであったり、パウロであったり)の意図と受取人である現代日本人の理解者との間で、翻訳を挟んでしまったときに、大きなずれが出ている場合がある、ということである。
 典型的には、「救い」あるいは「天の国」、「誉」とか「栄光」とかというような、実に基本的なキリスト教の諸概念が、日本語に翻訳された瞬間に別の意味合いが出てくるのみならず、日本語的概念で理解された聖書の本来的な意味とは異なる意味での理解が独り歩きしてしまい、いつの間にか、神の裁きを起点とした「神の怒りの裁きから逃れることそのものが救い」であるかのような聖書理解のみが、あたかも「正しい」キリスト教の主張であるかのようにお語りになられる方もある。実に残念なことなのではないかと思うのである。
 確かに、公開中の「Telos理解」でキリスト教的な終末論をラッド先輩のご著書をもとにご紹介しているが、神の裁きは聖書の主要な主張のある面であるけれども、その裏面は、神との一体化、神による人間世界の抱擁というのか、和解でもあるEmbracementでもあることを忘れてはならないのだが、人間はどちらか一方を提示されて、それを受け入れることが簡単なために、複眼的思考ができないのである。そのことに関して、敬愛してやまない、津の「のらくら者の日記」のお方は最近のご投稿「生きてますよ」で、次のようにお書きである。
 18世紀のニューイングランドで起きた「大覚醒」について、これら2冊のそれぞれの著者の捉え方はまさに対照的です。ロイドジョンズはこれを聖 霊の大いなるみわざとして純粋に信仰的出来事と解釈します。他方、森本氏は関係者の信仰的背景を浮き彫りさせつつ、宗教社会学的現象として説明します。あ る意味両極端であります。しかし互いに極端であるが故に、私はどちらも真実であると思います。両極端の真理を無理に和解させる必要はありません。むしろ真理とは、内村鑑三が語ったように、2つの中心を持つ楕円形で ありましょう。ジョン・ストットもかつてこう述べました:"The truth is at both extremes, even if we cannot reconcile them.(真理は両極端にある。たとえそれらを調和(和解)させることができないとしても)" 楕円形は歪(いびつ)ですが、真理とは人間の目には往々 にして歪(いびつ)に映るものです。巡回伝道者の話の上手さには裏がある(森本氏)。しかし神はそれを聖霊のみわざとして大いに用いられた(ロイドジョン ズ)。事実は歪(いびつ)に映りますが、どちらも真理です。
 
「真 理は円形にあらず、楕円形である。一個の中心の周囲に描かるべきものにあらずして、二個の中心に描かるべきものである。あたかも地球その他の遊星の軌道の ごとく、一個の太陽の周囲に運転するにかかわらず、中心は二個ありて、その形は円形あらずして楕円形であるという。・・・・人は何事によらず円満と称して 円形を要求するが、天然は人の要求に応ぜずして楕円形を採るはふしぎである。楕円形はこれをいびつと言う。曲がった円形である。決してうるわしきものでは ない。しかるに天然は人の理想に反して、まる形よりも、いびつ形を選ぶという。」
 
「イギリス人、特に知識階級のイギリス人にはエキセントリック(eccentric)な人が多く、話をすると実に愉快だ。エキセントリックとは 辞書に「変な、変わっている、異常な、奇矯な」と定義してあるが、英語の strange, queer, unique, unusual などと違い、英国では良い変わり者の意味として使われている。」(以上、恒松郁生氏談 『ミスターパートナー』誌 2015年1月号 No. 316  p. 32)  
 
「エキセントリック(eccentric)」とは、もともとは「中心(centre=イギリス英語綴り)をはずすこと」が語源ですが、これは奇しくも上記の内村鑑三が述べた「真理は二つの中心を持つ楕円形である」との言葉を想起させます。

 (のらくら者の日記 より)
 案外、こういう二つ、あるいはそれ以上の核、極、centreを持つということを、認識でき、それを現実社会の中で、うまく運用できる人は案外少ない。本来、大学という組織は、そういう多元的、多極的な見方をある個人の中で統合的に、一見矛盾する概念を共存させつつ、現実に対応させる能力を涵養する教育(それが本来のリベラル教育(教養教育)というものであり、左派風の教育のことではない)をするところが大学であるはずであるし、大学時代に確立しておくべき内容であるのだが、近時の某公党が狙っているような専門学校化ということを言うこと自体、それらの議論をしている人々が、本来的なリーダーシップ教育を理解もしてないし、大学教育と、社会のリーダーシップを持つ人材を育成するということを気にもしていない、ということだと思う。

 まだまだ、この連載、のんびりと続く。



 
評価:
価格: ¥1,728
ショップ: 楽天ブックス
コメント:わかりやすくて、仏教思想の基本形がなるほど、と思えるかたちで把握するにはいい本だと思う。

【2015.05.18 Monday 05:57】 author : Voice of Wilderness
| 仏教との対話 | comments(0) | - | pookmark |
緊急公開第2弾 いよいよ来るぞ。本丸の姿が今明らかに!

 なんか今日は書きたくなることが多いので、書く。

いよいよ、である

 関係者の間から、「3月だ」「いや、4月だ」「この分で行くと夏かもしれない」と風聞だけが飛びまくり、不確定的な事前情報が飛び回っておりましたが、いよいよその全貌の一部が明らかになってきました。多分、この衝撃は、懐かしの超弩級宇宙戦艦並ではないか、と。



懐かしの超弩級宇宙戦艦ヤマト(「古ッ!」というな。おじさんの青春だったのだ)

冗談はさておき、本論へ
 実は2年前に「福音の再発見」を出版するというちょっとした出来事をイテマエ精神、関西人乗りで出したのだが、それは、実は、3の丸か巽櫓か、出城のようなものだったのだ。実は本丸は、以下で紹介する本である。もちろん、本丸はNTPGと呼ばれるNTWrightの主著(それも複数)であるが。

NTライトの本格的一般向け入門書
 いやぁ、今これ英文で読んでいるのだが、面白い面白い。それが日本語で読めるようになる。なんとありがたい時代になったことか。しかし、「本格的一般向け入門書」って変って思うでしょ。書いていて、ミーちゃんはーちゃんもそう思ったのだ。しかし、この本は、そう読むにふさわしい。まさに「本格的」な「一般読者向けのキリスト教入門書」となっており、現代人に響くように書かれているのだ。

 100年前の古臭い、50年前のちょっとかびが生えかけたような本ではない。現代に生きる神学者が、現代人に向けて、それも、キリスト教と縁遠くなってしまったキリスト教国大英帝国及び米国人に向けて、「キリスト教ってこんなだよ」っていい加減などこぞのニュース解説を語るオジサンが、入門書読み漁ってまとめたような本ではないのだ。紅茶で言えば、ちゃらいリプトンの紅茶ではなく、フォートナム・メイソンのQueen AnneかUvaで淹れた、がっちりとした味のミルクティーの味のような本である。だからと言って苦くて読めないようなものになってないところがこの本のすごいところ。ちゃんとミルクも入っていて、実に味わい深い本なのだ(たぶん日本語版も)。

それは…

 それは、こんな帯が付いた本らしい。


帯背面のお写真

文字化するとこんな感じである。
極めて強い印象を受けた。実に新鮮に書かれている。
全く新しいものかのようにキリスト教を紹介している。
文句なしに素晴らしい。極めて先鋭的。圧倒される。
(アントニ・ブルー)
いやぁ、べた褒めである。そう、新鮮さ、現代にあって、2000年以上前の聖書が、ナザレのイエスが、そして、その教えが今もなお新鮮であることを確かに伝えているのだ。
別格と言えるキリスト教弁証学の作品。C.S.ルイスに比肩しうると言うほかはない。
(デヴィッド・ウィンター「チャーチタイムス」
C.S.ルイスねぇ。確かにキリスト教の精髄(キリスト教の世界、というタイトルで太明堂からは出た)より、すごいかもしれない、とは思う。あれもいい本だったが。新教さんキリスト教の精髄は、ちょっと、と思うことが時々。

本書はC.S.ルイスとジョン・ストットのように、キリスト教の本質とその基本を
要約してみせる。若いクリスチャンにもキリスト教になじみのない人にも素晴らしい贈り物だ。
クリスチャンの信仰と実践について研究し、深め、納得させる点で傑出している。
クリスチャン・トゥデイ
あー、だからと言って、この本を侮ってはいけない。単に初心者向けの本ではない。この本は、実は初心者向けのように見えて、実は長い期間信仰者であった人でも、その長期間にわたり、「これがキリスト教だ」と思ってきたこと、教え込まれてきたことに関して、実はかなり厳しいチャレンジをする本でもあるのだ。
難解なキリスト教の真理を、新鮮で、生き生きとしたイメージを用いて明らかにし、
あらゆる角度から検討し、決して飽きさせない。著者はその才能で抜きんでている。
ナショナル・カソリック・レポーター
飽きさせない。これはその通り。まぁ、おもちゃ箱から、いろいろ出てくるように、これでもか、これでもか、と繰り出されるかのようなトピックは、実に、ブラインドサイドを突いてくる。その意味で、信仰の見直しを読んでいる最中に実は迫られた本なのだ。そして、聖書を思い込みなしに読むことにとりくもう、と思った本なのだ。


聖書を読むことに関する動画は、こちら。英語のみで失礼。
(山崎ランサム様からの御教示)
なお、パウロのマンガが、結構NTライトの若い時にそっくり。

 ウィリモン先輩もべた褒めである。ウィリモン先輩(教派的には無関係)の本は下で紹介しておいた。
現代のキリスト教信仰の意味を説明するのにN.T.ライト以上の人はいない。
本書は、キリスト教の真理と活力、そして著者の力量を示した驚くべき証しである。
ウィル・ウィリモン 合同メソジスト教会主教
ウィリモン先輩は、説教学関係の著作が多い方であるが、「教会を必要としない人への福音」と題する現代人に向けての聖書理解を提示した本を書く人が、ここまでべた褒めなのである。内容は推して知るべしと言えよう。現代にも、キリスト教は意味があるぞ、ってことをこの本は書いた本なのだ。

ミーちゃんはーちゃん的印象

 内容的に(神学的に)カッティングエッジでありつつも、新奇性とうか、奇をてらうようなことをNTライトは書かない。非常に保守的なのだ。しかし、その保守的な見方を現代の社会の現実にすり合わせの仕方が、現代を生きる人々にとって、なぜ、どのように、どうして、聖書のメインの主張が有効か、ということを実に見事に示した本なのだ。

 キリスト者の方も、キリスト教にけつまづいて面白くない気分の方にも、キリスト教に関心はないけれども、ふしキリやふしふしキリ(U先生、最初見たときはびっくりしたけど…ボウカム先生の講演録のブログ記事ほめてもらったしなぁ)では満足できない方に、ぜひお読みいただきたい。

 この本が日本語で翻訳されて、出版されることは、まさに、Simply Good Newsである。ライトの最新刊ではないが。

 恐らく、来年のキリスト教本屋大賞候補作品にノミネートされること間違いなし、の逸品である。今年は、バーバラ・ブラウン・テイラーの「天の国の種」がノミネートされているが、来年は、この本はノミネートされると思うし、ぜひそうであってもらいたい。


表紙

 ミーちゃんはーちゃんは、「あめんどう」の回し者か?って。

 中の人ではありませんが、私設応援団長兼団員です。まぁ、Ministryも応援してますが。早く買いに行かなくちゃ。都内と違って、関西は遅いから。キリ書流通。

 あ、お買い上げはあめんどうブックスさんで。Amazonは遅いらしいです。何人かでまとめ買いすれば、送料もお得。現在、絶賛予約受付を準備中。来週から始められる模様。


評価:
価格: ¥2,376
ショップ: 楽天ブックス
コメント:こちらはアメリカ聖公会司祭の著書。こちらもおすすめ。

【2015.05.16 Saturday 09:08】 author : Voice of Wilderness
| 本の紹介 | comments(0) | - | pookmark |
緊急公開 信仰という人間疎外とその後 その前に
 
Pocket

 
 このところ、お付き合いが始まった(本は相当前から読んでいる)工藤信夫さんという方がかなり前に「信仰による人間疎外」という本をお書きであった。そして、工藤信夫さんからお聞きする限りにおいては、この月末位に某キリスト教系出版社から「信仰による人間疎外 その後」というタイトルで本が出ると聞き及んでいる。早く出るといいのになぁ、と思っていたら、である。

耐えることを強いられる日本のキリスト者
耐えなかったイスラエル

 余談はさておき本題に。

信仰っていう名のイジメ。あるいは聖書の意図的誤解釈。

という記事を、いつも楽しく拝読しているfuminaru k様がお書きであった。書かれている内容を見ながら、しかし、これは、日本型(あるいはその原型として、アメリカ型、そのまた原型としてのギリシア的ストア派的キリスト教型)現象なのではないか、と思った。というのは、
耐えるのが美徳であり、神に喜ばれることとされている。だから信じる人はひたすら虐待に耐え続けることになる。非常に理不尽。
ということが述べられていたが、旧約聖書の人物を見る限り、このような「おしん」のような人物はほぼ皆無で、神から与えられた大事なその地をとっとと捨てて、エジプトに行ったりしている。ヨナに至っては、神からもらったはずのトウゴマを小屋代わりにしてたのにそれが枯れたといって、神を責めている。耐えるという語は、旧約時代人にはなかった発想だろう。耐えなくても、神の民は愛されているのである。それなのに・・・われらは神から愛されているのに、あぁ、それなのに・・・


映画 「おしん」の予告編動画

貢ぐ君になった献金係…


献金係の人の話もあまりに頭が痛い。

 ある教会の会計係が、牧師から一方的に突き付けられる費用請求に毎月泣かされていた。
「今月はこれこれの必要があるから」
「これだけはどうしても必要で」
「この集会は主が願っておられることだから」
 みたいなことをいつも言われて、会計係は(そんな責任ないのに)いつもお金のやり繰りに苦労していた。時には自分で献金して穴埋めしていたようである。
 その会計係が度々言われたのがこれ。
「今の困難な時期を乗り越えれば、主の大いなる祝福が注がれる。そのためにも今はこの試練を通る必要があるのです」
 「マジですか?」と聞きたくもなるけれども、こういうことが起こりそうなことも、なんとなくは想像できる自分が怖い。しかし、祝福って、こんなもんだろうか。現実世界の中で起きる所謂「いいこと」だろうか。もう祝福は神から我らに十分注がれてはいないのだろうか。キリストの臨在、神の臨在という神からの祝福を。

 困難を乗り越えれば、祝福が注がれるようなモノだとすると、人間側に祝福の出発点というか、起点を置くことになり、神の支配、神が優先されないことになるように思うのだが、それがわからない、わからなくされているキリスト者という存在というのは大変残念ではないか、と個人的には思うのだ。

おい、安息日はどうした?

休むことについての記載がまた頭が痛い。
 たとえばマルコの福音書6章を引用し、キリストの弟子たちがどれだけ忙しかったかを取り上げる。それで、「あなたも弟子でしょ? だったら休む暇なんてあるわけないでしょ」という話になる。

 ある教会に外国人宣教師がきて、英語でメッセージした。通訳はそこのカルト的牧師。宣教師が「ちゃんと休むことも必要です」みたいなことを言うと、牧師はこんなふうに通訳した。
「休むことも必要って言ってますけど、まあこれは欧米文化での話ですね。日本人には当てはまりません」
 おいおい、ちゃんと通訳しろよ。
 いや、実にちゃんと休むことは、本当は大事なのだ、「休む」という日本語で言うさぼる感覚で休みをとらえることがおかしい、と思うのだ。神との交わりのために静まりの時間を持つこと、それが本来の安息日であり、「安息日、これを覚えて聖とせよ」という意味であり、本来安息日(金曜の日没から土曜の日没まででなくてもいいと思っている)は、神との霊的かかわりを確認する日であるから重要なのであって、神の前に人間として充実し、神のみ思いに心はせることが必要なのであるが、それをガン無視されるキリスト教の牧師の方が現実に日本ではおられそうなところがねぇ。

 結局、日本のある基督教界では、旧約聖書が読まれていなくて、新約聖書も、まともに読まれていないのではないか、という疑念を持ちたくもなる表現である。イエスが息を引き取られし時、神と人を隔てる幕は避け、ユダヤ人と異邦人は一つにされたのではなかったか。

パウロはこうも書く。
【新改訳改訂第3版】ローマ書
 3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
 日本における霊性の夜明けはまだまだ先のようである。


 




【2015.05.16 Saturday 07:10】 author : Voice of Wilderness
| なんとなく思うこと | comments(0) | - | pookmark |
『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (25)
 
Pocket

 『富士山とシナイ山』学ぶシリーズは本ブログの最長連載記録を更新中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』から、本日からは、同書の15章「富国強兵」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ からどうぞ。

西欧化とそれに伴う問題
 案外忘れがちなのだが、明治期以降の社会変革は、わずか数十年で、それまで100年単位かけてきて行われて着た社会の近代産業社会形成をわずか数十年でやってきたことであり、日本は後発方であった。日本に先行するのは、同じくヨーロッパの東側にいて、産業社会の形成という面では後発組であったドイツ(プロイセン)であった。ロシアも後発組であったが、さらに後発であったためなのと、国土がでかすぎてモデルにはならないので、日本はロシア型専制主義国家を目指すことはしなかったのかもしれない。後発組の中でもロシアモデルを採用するのではなく、ドイツモデルを採用したのには、理由があったかもしれない。ワイマール体制が生まれるまでは、小型の都市国家連合体であったという点で、幕藩体制と類似性の高いドイツをモデルとして西洋化を選んだ部分はあったかもしれない。

 英国ほど、気長に産業革命に向き合う余裕がなかったという側面もあるだろう。当時から国際社会の中で、付き合いの深かったのは、実はアメリカであるけれども。アメリカの場合、産業革命を成し遂げつつあるとはいえ、民主主義的傾向が強く、天皇制度と対立しかねない別種の反権威主義(詳細はこちら 反知性主義をめぐるもろもろ )に毒されていた国家であったため、属人的帝政を実施している国家を目標にせねばならず、当時モデルになるとすれば、英国(議会が強すぎ話にならなかったのであろう)か、ロシア(国の規模がでかすぎた)かプロイセンをモデルにするしかなく、歴史的発展経緯の似ているプロイセンモデルが選択されたのではないか、と思う。まぁ、明治憲法は、ある面ベルギーモデルであるが、ベルギーと日本では国情が違いすぎている気がするしなぁ。

 しかし、ロシアをモデルにしていたら、そして、ロシア皇太子暗殺を試みた元警察官による大津事件みたいなことが起きなければ、ロシア正教が日本における最大のキリスト教であったかもしれない、ということを思うとまぁ、歴史というのは非常に面白い、と思う。案外、ロシア正教は日本人にとって受け入れやすい(あの儀式の長さを除けば)スタイルかもしれなかったのに。


ロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライ2世)長崎での写真らしい


ニコライ皇太子の御座艦 Па́мять Азо́ва(パーミチャ・アゾーバ)
艦コレの提督の皆様に敬意を表しつつ しかし汽帆船だったのね。
数十年間で達成された日本の西欧化は多量の人間的苦悩を伴っていた。私見では、それは近代化ではなく、西欧化だった。天皇崇拝イデオロギーが中心に来るような社会構造は近代化とは言えない。1947年に戦後憲法が発布されてはじめて近代化はスタートしたのである。日本にとって西欧化は軍国化であった。自国防衛のための備えとして始まったものが遂には大規模な侵略を実行するための準備になる軍国化だった。日本の指導者たちは、西欧の挑戦に立ち向かうためには彼らの軍備が西欧化されなければならないと看破した。「富国強兵」なる国家目的を達成するために国の全国民と全資源が動員された。(中略)富国は少数者のため、強兵は自国民を抑圧するための目標だった。(『富士山とシナイ山』p.292)
 この部分を読みながら、日本は、基本的に英国型の国家を志向せず、ドイツ型の国家を志向する中で、近代国家の本来の役割というものを誤解したのではなかったのか、と思わずにはおられない。つまり、西欧化、即ち軍事力を背景に国力を増強することを理想とすることで、当時国際社会で幅を利かせていたイギリス、フランス、オランダ、ドイツ、ベルギー(ベルギーは、アジアでは影が薄いがコンゴやルワンダの旧宗主国である)、アメリカなど、明治維新の当時西洋列強と呼ばれた国々の真似をし、西洋化し、軍事力を背景とした植民地を持つことで植民地化を回避しようとしたのではないだろうか。お前さんたちと同じことをしてるだけじゃないか、といって見せて、不平等条約の撤廃に何とか漕ぎ着けようとしたと思うのである。西洋列強並、府病棟条約撤廃の一環としてのみ、明治政府にとってのキリスト教の使い道があったのだろうし、その背景の中でのキリスト教容認政策があったと思っている。そして、キリスト教は西洋倫理だ、西洋の道徳だ、として別種のものとして飲み込もうとしたのかもしれないし、恐らく、そういう意図で飲み込んだのではないかと思う。

 軍事は基本ドイツ(陸軍は完全にそうである)に学んだが、島嶼型国家であったこともあり、お近くに香港という領土をお持ちであった英国を真似しようとした部分もあり、海軍だけは英国風であった。この伝統は、未だに横須賀海軍カレーや、金曜日には海上自衛官の艦隊勤務者の食事がカレーになるように英国風の伝統が残っている。

 余談に行ってしまった。本論に戻す。

 ところで、明治ごろの国際社会の中での当時の最先端国家スタイルが国民国家であったためであろうが、明治政府以降の日本社会の中で、国民と国家のすり替えが巧妙に行われている事例が多々見られる。本来国家とは、国民保護のための制度的枠組みであり、国民がないところには、国家が存在しないはずなのだ。中身ドンガラの国民が一人もいない国家というのはナンセンスだと思うが、国家というものができてしまうと、国家は国民をいいように使うために国家と国民のすり替えを巧妙にやる。これは日本だけではなく、西洋でもアジア圏でも同じであるし、左では、クメール・ルージュや紅小兵時代の中国がそれに似たことをやったし、フランスの革命政府もそうだった。なお、クメール・ルージュの革命思想はフランス革命直結型である。右では、大日本帝国時代の日本がそうだし、ナチスドイツ(これ、本来左側だったのにいつの間にか国粋主義化し、どっかで思想的には捻転している)がそうである。まぁ、人間の罪深さ、ということをキリスト者としては思わずにはおられない。

日本的伝統と明治期に模索された日本的伝統

 明治維新は、平田国学の亜種系の新興宗教型の神道的な伝統への強制的回帰というか一致であったと思う。これがあまりに強烈であったために、江戸以前からの神道自体も変容させられたし、仏教も変質させられたし、儒教そのものも、その理解を変えさせられたことに関して、小山先生は次のようにお書きである。
 聖徳太子が国民に与えた調和と平和の精神は消えうせた。法然と親鸞の宗教的経験において表現された深い人間性、人間らしさは無視された。カトリックとプロテスタントの伝統をとして伝えられたキリスト教は、日本の根本原理に合わない宗教とみなされた。神道は国家神道となり、仏教は新たに台頭した全体主義を有効に批判することはできなかった。儒教の仁政概念は、天皇の人格に顕現された絶対的天の命じる政策を支持する様にゆがめられた。(同書 p.293)
 「日本を●するキリスト者の会」のご主張はよく理解できないが、「どういう日本を●するのか」、「どこを日本を●するためのゼロポイント」として定めるのか、を明らかにされないのは、まずいのではないか、と思う。明治期以降の社会をゼロポイントとするのか、1940年から1945年ごろまでの日本をゼロポイントとするのか、江戸時代をゼロポイントとするのか、鎌倉幕府期をゼロポイントとするのか、仏教マンセーだった平安期や奈良期をゼロポイントとするのか、あるいは、古墳時代をゼロポイントとするのか、弥生時代をゼロポイントとするのか(弥生時代の名の由来は、文京区本郷付近の地名に由来するので、東大とのかかわりが深いので、これがよいかもしれない)、縄文時代をゼロポイントにするのか、というあたりをはっきりさせられたらよいと思う。個人的には縄文美術に「萌え〜〜」とはなっているが。いずれの時代も、理想とするには、一長一短がありすぎて、収拾はつかなくなるだろうが。

 生活規律と現世をよく生きるということを目標にするなら、別にキリスト教でなくても立正佼成会でもいいし、それこそ、前回ご登場いただいた、金光教、大本教、すごみのあることをおっしゃった天理教でもよいことになる。キリスト教である必然性はないし、1940年以降大日本帝国にほぼ全員がひよってしまったキリスト教である必然性はないように思うのだが。

 しかし、仏教界にウルトラCをさせ、儒教(まぁ、これは宗教とはいいがたいと思うが)を変質させ、外国からやかましいことを言われないためにキリスト教は片隅で生きることを容認され、地方神を国家神道システムに統合させ、明治維新前後に発足した新宗教(彼らがかわいそうだったのは、外国という圧力勢力がなかったことである)を弾圧するほど、明治期の宗教改革は苛烈であったと思われる。

富国強兵という悪夢
 メタ思考や一般システム理論を研究している立場からすると、富国強兵は一種の麻薬のような役割を果たしたのではないか、と思う。というのは、計画立案時に計画を立ててしまって、それに突進し、まさしく突撃型というのか、特攻型のような精神構造であり、それを見直す、あるいは「振り返り」という作業をしない反知性主義的な、精神構造で向っていったからである。なお、反知性主義に関しては、こちらの記事群反知性主義をめぐるもろもろ をご参照賜りたい。
「富国強兵」は、永い鎖国の後、世界に向けて祖国が開国するや否や、日本国民が入りこんだ悪夢であった。幕末に突然世界貿易と政治的圧力の現実に直面させられた19世紀の日本にとって、植民地化されることを避けるためには、おそらくそれ以外に道はなかったであろう。あのスローガンは「植民地化せよ、さもなくば植民地化される」を意味していた湯に思われる。それ以外の選択肢はあっただろうか。(中略)かりに他の選択肢が、道が複数あったとしても、日本の指導者の目には入らなかった。そして彼らは国を挙げての全体主義的総動員という悲劇的な道を選んだのである。(同書 p.293)
 しかし、現在の日本のキリスト教会でも、全体主義的総動員というか、挙国一致ならぬ巨教会一致をもとにした悲劇的な道を取ることはないか。そのために異論を排除することはないだろうか。こういうことを考えていたら、敬愛してやまない、藤掛先生が「あったかい「ごはん」のように (05/06)」という記事を書いておられた。
 社会や組織が硬直化しないためには、
そんなとき、先走ったり、出しゃばったりする人材が現れ、空気を変えてくれることがある。
おそらく、彼は、もう一度、あったかい「ごはん」を探しだし、盛りつけ直そうとしてくれているのである。(あったかい「ごはん」のように から)
というような人物が、案外重要であるのだが、挙国一致体制だの、挙教会一致体制だの言い出したら、こういう「ごはんの盛り付け直しをしてくれる人」をはじき出す。

 ある程度、「ごはんの盛り付け直しをしてくれる人」を支える人々が社会に一定数あり、それを支持する機運があれば、「ごはんの盛り付け直しをしてくれる人」は社会に受け入れられることとなり、宗教改革とか、という形で、社会構造がメタ概念的な意味で再構成されるのだろうと思う。

 ある面、社会には「ごはんの盛り付け直しをしてくれる人」というイザヤやエレミヤ、あるいは、エリヤ、近代で言えば、ハウワワス(下記のハワーワスと音があてられている人物の書物参照)のような預言者的存在が重要なのかもしれない。それはキリスト教界においても同じではないか、と最近は思っている。

自己尊大化と自滅の歴史
 自己尊大化の道は、この富士山とシナイ山に学ぶシリーズでも、繰り返しるれてきたテーマである(というよりは、小山先生のメインテーマがそれである)が、自己尊大化、自己中心化、自己神格化したものは、もともとがそれに耐えられない神ならぬものであるがゆえに崩壊するしかない。丁度、矛盾の語源のように、現状の問題 → 対策 → 新たなる現状 → 新たなる現状の問題 とまさに輪廻のように問題が広がるのである。だから、ブッダはさっさとこんな輪廻する世界に関して諦念して、ニルヴァーナに移行した方がいいよ、といったのかもしれないが。
 
 巨大戦艦とか巨大航空艇とか、巨大科学とか、巨大データベース(今はやりのビッグデータとか)人間はある意味益体のないものを作ってきた。技術はそういう野望にこたえようとしてきた。それはつまらんことだったのではないか、と思う。そして、挙句の果てに自滅する、ってまるで宮崎駿アニメではないか。


自重に耐えかねる巨神兵

一瞬巨神兵と重なった「風立ちぬ」に出てくるユンカースG38
 諸国の興亡の歴史を観察して教えられるのは、どこの国であれ、自らが偉大になりつつあることに気がついた国は次第に自己中心的、帝国主義的となってゆき、自滅に通じる道をたどるということである。こうした滅亡への加速化した進行をストップさせる道徳的な教え、霊的遺産、あるいは理性的説得法はまだ発見されていない。1930年以来日本と同一はそれぞれ文化、宗教、歴史において相違は大きいにもかかわらず、1945年に至るまで同じような自滅の道をたどったのである。(同書 p.293)
 しかし、自分で作り出しておきながら、自分の重さに自滅するってのがねぇ。これが人間の罪深さだと思わずにはおられない。ローマ帝国もある面そうであった。大英帝国もそういう側面がある。ほどほど、身の程を知るということは案外大事だと思うのだ。まぁ、大体大きくなると、補給線が伸びきってしまうので、ロジスティック対応ができなくなるので、うまくいかなくなるのは、世の常であるように思う。


全体主義あるいは独裁は麻薬では?
 一つの国でも、一つの国でも、教会でもそうだが、ある組織や国家や集団が急成長するうえでは、独裁や全体主義は、非常に効果を発揮するのだ。だって、一時的とはいえ、総力戦ができる訳だから、そりゃ、効率がいいに決まっている。だから、ワンマン社長だの、発展途上国での独裁者だの、独裁的牧師、といった存在が生まれてくる。そうした方が、企業とか、国家とか、教会とかは成長するし、成長に伴って、その組織が生み出すパイ全体が大きくなるから多少の問題は、そのパイが大きくなることによる参加者のおこぼれとして得られる利得の方が、独裁に伴うコストより大きいので、独裁の欠点が隠しおおせるような気がする。であるがゆえに、隷属化の要素を感じつつも、ダイヤモンドではなく、パイの大きさに目がくらんで、独裁を受け入れていくのかもしれない。まさに、麻薬や鎮痛剤依存と同じ構造である。


演歌 金色夜叉

 そこらのことに関して、小山先生は次のようにお書きである。
「富国強兵」自体が一国を滅ぼすことはないかもしれないが、政治的権力の共有に民が参加するのを妨げるように設計された政治的、社会的制度を設けて民を隷属化すること、すなわち全体主義がこの国を滅ぼしたのである。(中略)短期的には全体主義的政策が歴然たる成功を治めるが、長期的には災いを招く結果となるとわたしは認識する。偶像製作の様子を絵画的に叙述するイザヤ書の文書(44章9-20節)をここで隠喩として用いることができよう。(中略)偶像は突然出現するわけではない。計画的に製作される。富国強兵の偶像は念入りに計画され得実行された。それは我々自身の手で作ったものであり、我々はそれを礼拝し、災いに至ったのである。日本人が偶像を拝しつつ経験した期間、あの50年間は魔神に取りつかれた時間だった。そのことを忘れてはならない。(同書 p.294)
 「富国強兵」をなしとげ、人権思想の完成を目指すという意味での近代化ではなく、西洋列強に伍し、より国民を豊かにするため、という美名のもと、一種の麻薬でもある国家による独裁的、国民隷属を求める思想や、全体主義的国家運営による成長や国家目的の達成というろくでもない魔神(個人的には貧乏神)に日本という国は取りつかれていたのかもしれない。このあたりは、風立ぬの裏テーマであったと思う。

 いついかなる時代も、いついかなる国家も、また、どのような人物にも、それが政治家であり、理想的に見えたリーダーであれ、牧師であれ、宣教師であれ、預言者であれ、経済人であれ、神の名を与えてはならぬし、それを崇拝してはならぬ、ということが、聖書の主張のような気がするなぁ。

 この連載、まだまだ続く。



【2015.05.16 Saturday 04:34】 author : Voice of Wilderness
| 『富士山とシナイ山』に学ぶ | comments(0) | - | pookmark |