友人の勧めで、「カクレキリシタンの実像」を読んだ。読みにくい本ではない。学問的な内容を柔らかい、通常人に理解可能な表現でまとめた、著者の長年のキリシタン研究の精髄を集めたような本である。

同書の主要な論点
 この本の主要な論点は、日本では、キリシタン自体のキリシタン、中でも、バテレン禁止令以降のキリシタン像(ある種理想化されたイメージ)が迫害の中でもパーデレたちから伝えられたカトリック的信仰を純粋にそれを守りながらも守り通した、というイメージが日本のマスコミや日本のキリスト教業界に幅広く定着しているのではないか、ということを指摘している本である。なお、カクレキリシタンとは、著者が独特に用いる用語で「キリシタンとして始まったもののキリシタン禁教後、その原点理解を失い、民衆宗教化し、土着化する過程の中で結果として、結局は日本の祖先信仰の影響を色濃く反映したキリスト教でなくなった民俗的信仰を持つ人々の総体」とでもいうことができるであろう。

迫害のみがクローズアップされるが、
その信仰の実像は
 15年戦争期の国民国家、国体(必ずしも天皇崇拝と対立するような形ではないが)との対立での迫害とキリシタンの迫害が重なるからか、必要以上に理想化されている隠れキシリタンの迫害面だけがクローズアップされ、その信仰の実態を深く問わず、特にオリエンタリズムに影響された、西洋人視点で誤解された理想化された「キリシタン」像をそのまま、明治期に移入してしまったのかもしれない。何を信じているかはさておいて、迫害の歴史の日本側、西洋側資料の整理に関して、この前の日本基督教学会で三輪さんという方が研究成果を発表しておられた。

 本論に戻すと、この本の著者による何度も現地に足を運ぶ(農漁村などに入り込むためには、顔見知りになって、冗談言い合えるような関係にならないとまずダメなので)貴重なフィールドワークとインタビュー調査、参与観察の結果、明治期以降まで生き延び、現在もカトリック教会に戻ることなく独自の信仰を持ち続けている「カクレキリシタン」は、もはやイエスがキリストである、というキリスト教の信仰の基礎を失っており、祖先から受け継いだものを守り通そうとして、幕藩体制、明治政府と対立的にキリシタンとしての習俗を守り続けたのではないか、少なくとも、本人たちは礼拝しているものは、「でうす様」であったり、自分たちに日本の神仏よりハイパワードな力を持つ存在として、現世利益を与えたり、害悪を与える存在としての「でうす様」として聖書の神をとらえている可能性を指摘しておられた。

壮絶な漢字が充てられたオラショ
 同署内で紹介されている昭和初期にあてられたオラショの文字での筆記例で「壮絶!」と思った事例を紹介する。

 でうす(Deus 全能の神)   → 出臼
 ひぃりょう(Filio 子〔なる神〕) → 肥料
 ばうちずも(Bautismo バプテスマ) → 場移り島
 えすかりすちや(Eucharistia ユーカリスト) → 八日の七夜
 あにま(Anima 霊) → 兄魔・有魔・有馬  
     (同書 pp.94₋95)

である。何より、イエス様がいつの間にか意味を失って肥料になっておられるところがねぇ。そして、信仰の順位を問うと、1番目は仏様、2番目はカクレの神様、3番目は氏神様(p.192)だそうである。そして、「信仰している対象とは何か?」と著者がカクレキリシタンの長老に問うた時の回答が秀逸である。

 「お魂の入ったものですたい」(p.194)

ということで、かなりラテン語やスペイン語、ポルトガル語での信条や祈りを音としては保存されているとしても、呪術的な概念によりカクレキリシタンの儀式理解は支配されているらしい。

信徒レベルの信仰
 まぁ、著者は日本の民衆レベルの仏教が果たして仏教と呼べるのか?ということも問題提起しておられる。現世利益を求める厳密な理解を突き詰めない民間宗教に信徒レベルでは、堕しているのではないか、というご指摘である。

 このこと(ミーちゃんはーちゃん注:教義的な意味が民衆的な信徒レベルで理解されていない)はカクレキリシタンのみならず、日本の諸宗教に共通する特色であるといっても過言ではありません。日本では、盆と彼岸が仏教における主要な行事となっていますが、実際は墓参りをして先祖供養を行っているだけです。その行事の持つ本来の意味が正しく理解されて営まれているとはいえません。お経にしても、有名な般若心経でさえ、唱えることはできても、その意味までしっかり理解できている人は多くはないでしょう。(p。174)
 ミーちゃんはーちゃんのお知り合いの仏教者の皆さんは、表面上は面白い取り組みをしている方は多いのだが、教学的には割とガチな人が多いので、こういうことはないのだが、割と普通に出会う日本型仏教徒の方は、上のご指摘に近い方が多いような気がする。

西洋型のキリスト教も…
 西洋のキリスト教の世界は民衆レベルではこういうことはなかったか、というと、近世の文字の読み書きが普及した時代はいざ知らず、中世の時代は、ほとんど呪文扱いに近かったのであろうし、信徒が理解していなかったであろうことは、司祭ですら、イエズス会ができるまでは、きちんと理解されていなかったらしい(英司祭の講演参照)ことから、信徒レベルでの理解は、似たようなものだったかもしれない。  

日本で独自化が進むキリスト教の可能性

 さて、実は、この問題、信徒中心で運営し、日本語の特定のバージョンの聖書のみを使うミーちゃんはーちゃんのようなキリスト者集団で、類似のことが発生する可能性があるのではないか、と思ったのだ。特に、他の幅広いキリスト教の諸集団と断絶し、自己の聖書理解を正当化し、特定ヴァージョンの聖書のみを参照し、訳者が伝えようとした本来の意図を理解せず、書かれた文字のみに拘泥し、日本語聖書で描かれた訳語と訳者の日本語と読み手の時代の日本語の間に齟齬やずれがあるにもかかわらず、自分たち読み手の時代の日本語と翻訳された時期の日本語が共通であるとしたうえで、そこから独自の解釈を繰り返していき、聖書本文のテキストとは無関係になっている聖書理解を生み出すことすらあるのではないか、ということを危惧するのである。生み出すだけなら、別に個人の信仰なので、それはそれでいいのだが、その理解を根拠に他人に言いがかりをつけたり、それは「正しくない(→自分たちが正しい)」とか「聖書的でない(→自分たちの理解が聖書的である)」、「真理を持ってない(→ 自分たちが真理を持っている)」とか言い出すからかなわないのだ。所詮ドングリの背比べであるにもかかわらず。

 事実、「メイド・イン・ジャパンのキリスト教」に取り上げられたブラザレン派から派生したグループ(基督教カナン教団など)は、「メイド・イン・ジャパンのキリスト教」によれば、ブラザレン派の宣教師が帰った後に独自路線を進んだと指摘されていた。宣教師が伝達しようとしたキリスト教が、「アメリカナイズされたキリスト教のようなもの」、あるいは「ヨーロッパ型のキリスト教のようなもの」である可能性はないわけでないような気もする。その意味で、ドングリの背比べという印象もなくもない。

 まぁ、時々ありがたいコメントをくださる「ひかる」様がご指摘のように、すでに日本のほかのキリスト教グループでも、信徒レベルでは、キリスト教とはいいがたいキリスト教が繰り広げられている事例にも多数起きているらしいし、そういう事例に結構行きかうことが多いので、まぁ、こういうことはどこでも起きているが、その上で、現地化をどう考えるのか、ということは、少し考えていいかもしれない。聖書が何を言っているのか、ということを言いながら、ではあるけれども。

日本型キリスト教を目指した先が、
非キリスト教だったという悲喜劇
 だからと言って、日本型のキリスト教のようなものを目指して突き進み、結果として、何を礼拝しているのかがよくわからない完全にキリスト教でないものになってしまわないか、ということを心配している。まぁ、日本語聖書はあるから、ラテン語やポルトガル語、スペイン語でのオラティオのみが残された場合と比べてまだ、多少ましであろうけれども。

 内向き、伝承、継承志向をすすめていき、自己批判的な視点を捨てていけば、日本人に理解可能な地獄と天国(極楽)と世間的な繁栄のみを語り、現世利益的な信仰と化していくことになり、結局、自分たちはキリストへの信仰を持っているとは思っても、キリスト教的な何か、あるいは、キリスト教的な日本で独自に発展を遂げた新宗教を生むだけになるののかもしれない。そのことを、日本において、極端な信徒主義に立ち、他のキリスト者集団と関係をあまり持ちたがらない、そして、海外からの宣教師が減少しつつあるキリスト者集団に属するものとして、このあたりのことを真面目に危惧しないとまずいかなぁ、そのために、聖書の表面的な表現にとらわれず、聖書の主張をくみ取っていくための努力を継続的にしないとまずいんだろうなぁ、と本書を読みながら思った。実に、考えさせられることの多い本であった。






評価:
価格: ¥2,484
ショップ: オンライン書店 BOOKFAN
コメント:日本宗教受容史を考えるうえでマイルストーンとして使える本の一つ。

評価:
価格: ¥4,104
ショップ: 楽天ブックス
コメント:良い。日本で独自に変化して言ったキリスト教の背景をフィールドスタディに基づいてまとめた名著。やや、無教会とキリストの幕屋の記述が多いのが…

 今日は、いのフェス1週間前なので、告知。連日連載中の「続 教会におちいさん・・・」はお休み。

 怪獣とヒーローショーはあるし、アイドルは出てくるし、BoxiRocksも出てくるし、もう何が何だか担っている「いのフェス」1週間後に早稲田奉仕園で開かれますが、「いのフェス」にCRISPとして参加します。


 いのフェス2014

 参加して、会場でやることは、キリスト教良書の紹介と展示即売会とイベント告知です。

展示即売内容
販売する本は、ミーちゃんはーちゃんが非常に気に入っていて、入手困難な本

「わが故郷天にあらず」(新品)
 内容紹介はこちらから。

Paul Marshall 島先克臣訳 わが故郷、天にあらず(1)

Paul Marshall 島先克臣訳 わが故郷、天にあらず(2)

Paul Marshall 島先克臣訳 わが故郷、天にあらず(3)

恐らくは、間もなく入手困難になるかもしれない名著

「新約聖書よもやま話」(新品)
この本の内容はこんな感じ。

すべての聖書読み信徒に送る名著 新約聖書よもやま話

そして、CRISP企画の本

「福音の再発見」(新品)

内容詳細は、こちら
福音の再発見のミーちゃんはーちゃん的読書ガイド meekさんへの手紙


情報とポスター提供

そして、N.T.ライトセミナーのチラシの配布である。
NTライトセミナー2014


書籍をお買い求めの方へのご案内
合言葉「学生です!」って言ってください。何かお得なことがあります。


皆さん、ぜひともお越しくだされ。


 これまで、ソーシャルネットワークや、人間関係ネットワークの基礎を見て、伝道とネットワークとのかかわりを触れ、キリシタン時代の伝道とネットワークを触れ、子供のソーシャル・ネットワーク構築の場所としての公園、塾、学童保育とその整備状況、その時系列的変化と空間的整備状況等に触れた。


続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1

続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その2

続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その3


 いよいよ、今回からは、おちいさい皆さん(子供たち)の人間関係論を形成する要因などに触れていきたい。

おちいさい皆さんのコミュニティと遊びの役割

 さらに、1973年発売のファミコン、その後継機である1990年スーパーファミコン、1994年にプレイステーションが発売されるなかで、子供たちの遊びも変化することになっていく。

1973発売 ニンテンドーファミリーコンピュータ初号型


 つまり、従来、公園、学校の校庭、都市内空地、寺社、教会などの境内地などから、電源のある私的空間である家庭の中に誘導していく。また、携帯型端末であるゲームボーイ発売が1989年、ニンテンドーDSが2004年に発売されるとともに、家庭や屋内から子供たちを解放し、屋外で子供たちが集まって遊ぶことを可能にしたものの、戸外遊びが復権したわけではなく、戸外でゲームボーイなり、塾の行き帰りにDSをするようになっただけのことである。

 いずれにせよ、子供たちの遊びがその機械を利用することで生まれてくるにより、コミュニティが形成されて行くようになる。そして、ヴァーチャルな空間における交流によって、子供たちの『ソーシャル・キャピタル』を生む背景にこれらのゲーム機での交流が生まれ、そして、そこで繰り広げられる関係性が、子供たちの公共圏の一部としても流れ込んできたように思う。おそらく、このようなことは、現在の60歳代以上の方にご理解してくだされ、とお願いしても無理かもしれない。


ゲームボーイ初号型

おもちゃとおちいさい皆さんのソーシャルネットワーク

 しかし、ヴァーチャルなものの交換に価値を見出すことは子供にはかなり困難な作業であるので、友情やコミュニケーションを載せる装置として希少性が生み出されやすいものにその価値システムを憑依させるものが子供たちの中に持ち込まれることになる。古くは、1971年仮面ライダーカードであったり、1973年プロ野球カード、近年では、1996年ポケモンカード、ポケモンのキャラクター、1988年ミニ四駆、1998年遊戯王カード、1999年ベイブレード、2013年妖怪ウォッチ(←いまここ)というものであったりするのだ。


「ナウで、ヤングな」お小さい皆さんに大人気の妖怪ウォッチ

 つまり、公園、学校の校庭、都市内空地、寺社教会などの境内地などの公共的な空間を中心とした子供たちの公共圏の形成から、いったん家庭とかにこもる形になり、携帯型ゲーム端末やカードゲームの登場により、もう一度は電源の問題からは解放されることになるが、それと同時に、共通するモノ、あるいはヴァーチャル空間に存在するモノやキャラクターを介した、あるいはそれらに憑依させる形で、公共圏が構成されることになる。

ヴァーチャルなキャラクターを介した
おちいさい皆さんの公共圏形成
 ここで重要なのは、公共的な空間を介した子供たちの関与に関して、公園デビューのように、その場に自分自身を曝露するために自分自身が身体を運べ、身体性を伴って公共空間に現れるかどうか、ということに加えて、そのような場(1980年代以降は、塾とか、他者の家庭とか)に参与するための関係性を具体的なモノに憑依させたもの(つまりおもちゃなどの共通のもの)をもっているかどうかも問われることになってくる。関係性を構成するための憑依させる対象のモノ(カードやゲーム機器、そして、その中に存在するヴァーチャルなキャラクター)の所有の有無の問題が子供たちの公共圏を構成する要素に一定の役割を果たすようになってきていると思われる。だからこそ、課金型のゲーム屋がもうかるようにできているのであり、子供はよくわかってないから、親のところに何十万という携帯ゲーム屋からの課金が生じて後、親は慌てることになるのである。

 余談から元に戻すと、つまり、関係性を憑依させるための対象をもつものと、持たないものとの間で、人間関係のネットワークに関与できるかできないかの断絶が起きているように思われる。あるいは、モノを持っているかどうかが、人間関係における関与の可能性が生まれるかどうかの基礎となっている可能性がある。(すまん、メタのメタの概念になっている)ごくごく平たく言ってしまえば、あるもの(ゲーム機、カードゲームで用いるカード、ゲームソフトウェア、その中でのキャラクター)をもっているかどうかで、「友達ができる」、「ともだちができない」、友達の付き合い方が変わっていくのだ。つまらないことだ、そんなことはないはずだ、そんなことではダメではないか、と社会の規範というか、徳目的な側面を重視するキリスト者的な大人からは批判されるかもしれない。そんなことで友達づきあい(『ソーシャル・ネットワーク』や『ソーシャル・キャピタル』)が変わり、小中学生のQOL(生活の質、遊び仲間の関係の質)が変わるということに疑念をもったり、それはおかしいというかもしれない。

 しかし、子供たちの現実は規範や徳目では動いていない。子供の世界を傍でじっと見ていると、どうも本稿で指摘したようなモノの所有やバーチャル空間でのゲームなどの参与の有無によって、子供たちの世界は動いているのではないか、と思われる。つまり、リアルな物理的な公共空間(公園とか学校とか塾とか)の中におけるリアルな関係性の中に、携帯ゲーム機やゲーム機の中でのヴァーチャルな関係が断続的に、わずかではあるけれども、その関係が時に顔を出したり、あるいは、そのヴァーチャルな関係がリアルな関係にどっぷりと持ち込まれたり、ているように思われる。

キリスト者家庭のおちいさい皆さんの
ソーシャルネットワークの脆弱性

 この手のものに批判的な目を向けるキリスト者の両親のもとで育つと、これらのものに触ることが大きく制限されることとなり、そのため、これらのものへのアクセスを制限された子供は、その『ソーシャル・キャピタル』というか、『ソーシャル・ネットワーク』は制限されたものになるのではないだろうか。その意味で、その子供たちは、子供たち社会の中でのリンク数はおのずと小さなものとなり、影響力の小さな個人(ノード)となっていると思われる。つまり、ドラえもんの世界における出来杉くん状態になっていると思ってもらえばよい。おまけに、子供たちが割とたっぷりと遊ぶ時間が取れる曜日である日曜日には、教会にいることが求められたり、義務付けられたりするのだから、これで、キリスト者仮定の子供に子供社会における影響力を持て、というのは、どうなんだろうおか。

 その意味で、キリスト者家庭の子弟の持つ、『ソーシャル・ネットワーク』、『人的ネットワーク』は、平均的な児童・生徒とはことなり、この両者の間での生活の質は異なるものとなろう。したがって、それから生み出される『ソーシャル・キャピタル』もおのずから異なるものとなるのではないか。

 現代の60歳以上の層では、そもそも、日本社会自体が貧しく、おもちゃのある家庭の方が少なかったため、上記で指摘したような問題は生じなかったはずであるが、その時代を自分が過ごしたから、といって、その時代の生き方を現在の小中学生における理想とすることや、その姿で生きることを現代に生きる子供たちに強要することにはかなり無理があるのではないか、と思っている。

 次回、西洋型教会におけるソーシャルキャピタルと、ヴァーチャルキャラクタ問題と子供たちのソーシャルネットワークの問題を扱う。(水曜日公開予定)






 ここのところ、毎日投稿しているのは、そもそも、ブログが無意味に長い(だって書きたいんだからしょうがないじゃないか)ので、短く分けて、アップ回数を増加させていることもあって、毎日アップしている。おまけに本日は2回目の投稿である。

  いつものようにNHK教育(Eーテレ)の「こころの時代」を見ていたのだが、そこで、下稲葉康之さんという日本でもごく初期に福岡県でホスピスを立ち上げた医師であり牧師である方のインタビューが放送された。



下稲葉先生 近影


 この放送で、エリコサンという高校生で、神経細胞という病気で17歳になった直後に、なくなった女子高校生への病気の告知の際、そして、告知後の診察、ケアの中で、どのように死の問題を彼女が受け取れるかを模索する中で、「忘れないで」という讃美歌が、エリコさんに対して死を語る際にあった壁のようなものを取り去ったという経験を語っておられた。

 讃美歌集「友よ歌おう」の中から、「忘れないで」という一時期福音派の中で流行ったゴスペル・フォークの「忘れないで」を下稲葉先生が歌っておられたことである。それも無伴奏で。


 讃美歌 忘れないで

 この讃美歌は下稲葉先生にとって、忘れがたい歌なのだろう。エリコさんという方と出会いとその逝去のこともあって。そして、生きるとは何か、死とは何か、ということを日常的な患者さんの病気の痛みと死と対面し続けるホスピスという現場の中で、その痛みの問題をどう向き合うかということを問われておられる人の語ることばは、非常に参考になった。特に讃美歌の持つ独特の力ということを考えた。死するものとして、神に見続けられている、というそのキリスト者の生において。

 皆様にも一度御視聴をお勧めいたしたい。詳細はこちらから。


こころの時代〜宗教・人生〜「“人生最後のおもてなし”を」

「私の努めは死と直面した人たちに“最後のおもてなし”を施すこと」と語るホスピス医で牧師の下稲葉康之さん。これまで見つめてきた「人が死と向き合う姿」について聞く。

「私の努めは、天国への旅支度に訪れた患者さんたちに、“最後のおもてなし”をして差し上げること」と語るのは、福岡でホスピス医と教会の牧師を努 める下稲葉康之(しもいなば・やすゆき)さん(75歳)。「弱さの極みにあるはずの末期ガンの患者さんたちが、素朴な輝きを見せてくれる」という。30年 余りのホスピスへの取り組みで見つめてきた「人が死と向き合う姿」について聞く。

【出演】ホスピス医・牧師…下稲葉康之,【きき手】杉浦圭子


 これまで、おちいさい皆さんが教会学校に来るか来ないかにおいてかなりの要因となる人間関係について、一般的な形として、ソーシャル・キャピタルと、ソーシャル・ネットワーク、そして、カトリックのキリシタン時代の日本宣教状況について触れながら、ソーシャル・ネットワークと宣教とのかかわり、お小さい皆さん方のソーシャルキャピタルの醸成の場について触れてきた。今日は、その歴史的変遷について、もう少し触れていきたい。


続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1

続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その2

キリシタンについての補足

なお、前回のところでも、少し触れたが、下記リンクで紹介する「カクレキリシタンの実像」では、川村先生のご講演を一歩超えて御説明になっておられる。要するに、「カクレキリシタン」集団は、日本型地域集団の亜種で、一応、非仏教、非神道型の信仰を持った集団であり、現在想定される敬虔で熱心なキリスト教ではなく、国際貿易や出世などの実利を目指したキリシタン(なんちゃってキリシタン)だった可能性があることを指摘しておられた。個人的には、そう思う、だって、5000人に一人の司祭で、おまけに領主さまに取り入るためにキリシタンになった層は、お武家層や領民層で多かったはずだから、宮崎先生ご指摘の通り、深い理解をもったキリスト者というわけではないと思う。

1970年代以降のお小さい方々にとっての
ソーシャルネットワーク育成の場の変遷

 1970年代から、当時の住宅公団(現都市機構 あるいは UR)や自治体出資による住宅供給公社、民間不動産開発業者(デベロッパー)の開発がおこなわれ、多くの新興住宅地(団地)に人々が住むこととなった。そして、千葉の光ヶ丘団地開発時点に見られるように団地に住むことが、理想の生活と映画などでも喧伝された。(以下の動画参照)


 団地が理想の生活とされた時代のニュース映画の動画


 都市の郊外への進展や、その過程の中で、自治体における開発規制や自治体と民間デベロッパーが締結した開発協定により、公園や公民館、児童館、集会施設などが整備されていくこと になり、これらの整備が進んで行き、これらの整備により子供たちの『ソーシャル・キャピタル』の育成の場も多様化していった。


学習塾の急拡大と
お小さい方の公共圏の空間的拡大

 さらに、1980年代ごろから、公教育の補完教育機関、とりわけ名門高校、名門私立高校受験のための準備教育を行う学習塾のプレゼンスが子供たちの生活で増していく(図1)。

図1 事業所企業統計を利用した全国の学習塾の事業所数


 それまでは、習いごとといえば、ピアノ、習字、そろばんが主力であったが、1970年代以降において、小中学生においては、いわゆる受験志向型、(学校の 授業内容のキャッチアップを目指す)補習修型の両方を含め学習塾のプレゼンスが高まっていく。そして、そこでの週1回から2回程度の塾施設での学習のために集合することで、また、塾などが提供する夏期学習機会などの機会を通して、一つの学校内に留まらない、やや広域の人々との交流が生まれ、『ソーシャル・キャピタル』が構成されていくことになる。その意味で、従来は地方公共在的性質を持つ公園、寺社、教会の境内地などで従来は行わ れてきた公共圏の形成の場の一部(あるいは相当部分)が私的空間である塾という空間へと移っていくこととなる。また、世帯では、共働き世帯の増加に伴う、 学童保育が学校でなされることになっていく。図2に学童保育について、全国学童保育連絡協議会による調べの結果を図示する。


図2 全国の学童保育所数(全国学童保育連絡協議会調べ)


異界への窓口としての
公園・空地・寺社・教会・塾

 ところで、公園や、寺社、あるいは教会等の境内地、道路上や、商店などの店先やその付近の空地、都市内の未開発地である都市内空地などに集まる子供たちにとって、これらは一種の地域社会における人間ネットワークの枠やその縛りを抜け出すための異界、または、異界への窓口ともなっていたのであり、いわゆる公教育施設や制度という枠組みとらわれない形で、地域的により広い範囲の子供たち(児童・生徒)の間の人間ネットワークあるいは、『ソーシャル・ネットワーク』を構築する機会や出会いの場を与えていたが、1970年代以降は、塾によってそれらの『ソーシャル・ネットワーク』を構築する『場』であった、パブリックアクセス可能な地方公共財的性質をも持つ公園、空き地、寺社、あるいは教会の境内地がもっていた機能が、塾というより広い空間的領域とを切り結ぶことを可能とする場としての機能代替が起きたように思われる。なお、この議論は、統計的データに裏付けられているわけではないし、今、そのことを1960-80年代までにさかのぼって調査することは現実的ではないし、よしんば現時点でその調査をしたとしても、バイアスが生じるだけであり、その有効性は限界があるものとなるであろう。
 
 なお、以下の図3は1955年以降の東京都における都市公園の整備状況を図としてまとめたものである。なお、この作図に当たっては、国土交通省国土政策局国土情報課(2013)  国土数値情報 ダウンロードサービスからダウンロードしたデータをもとに、供用開始時にお応じて表示をすることで、GIFアニメーションとして作成した。


 図3 東京都を例にした、都市公園の時系列的整備状況


 この図を見る限り、1970年ごろに急速に都市公園が整備されて行き、この時期に開発が進められていったことが分かる。その意味で、本来必要だった時期になかった公園が、それを必要とする子どもたちが減ってから、急増しているというのは、何とも皮肉であり、今後、公園はとっても大きくなられた皆さん(高齢者)のソーシャル・ネットワーク造成の場になっていくのかも入れない。

次回へと続く




評価:
価格: ¥2,484
ショップ: 楽天ブックス
コメント:江戸中期、後期のキリシタンについて一般化したイメージの危険性がわかる。



 前回の記載は、ソーシャル・キャピタル、ソーシャル・ネットワーク、人間ネットワークの説明と、それが人間にどう影響するのか、その中でのネットワークを構成するノードとなる人物とネットワークの全体、一部との関係を述べた。前回の記事は、こちら。

続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1


 新約聖書を人間ネットワーク理論から見ると
 ところで、以下のリンクで紹介するアルバート・ラズロ・バラバシ(2002)「新ネットワーク思考」の本の第1章に出てくるが、(英文なら当該個所がここからアクセスして、 Introduction のセクション(左側のFirst Pages)を読むと、ご覧になれる)パウロは、キリストを宣教するにあたって、影響力の大きい人々がいるところであるユダヤ会堂に出て行って、そこでの 影響力を持つ人々(たとえば、ルデヤとか、アクラとプリスキラといったギリシア世界の地域のユダヤ教社会におけるかなりヘビーウェイトなノード)が存在する空間(すなわちユダヤの会堂)でイエスがキリストであると宣言した、と同書では指摘している。

 そこらの街角で、出たとこ勝負でパウロは路傍伝道をしていたわけでないことは思い起こしてもいいかもしれない。あるいは、当時の学問的専門家であり、ギリシア世界におけるかなりヘビーウェイトな人物たち(ノード)が集まっているアテネのアレオパゴスで語ったのであるし、あるいは、ほかの使徒たちも、神殿においてイエスをユダヤ社会に影響力をもつ人々(ノード)を中心に宣べ伝えたためにユダヤ社会との軋轢を起こしていたのではないだろうか。


Sermon of St. Paul in Athens by Raffaello Santi (1483 - 1520)


キリシタン時代の人間ネットワークから見た
布教と伴天連追放令

 大河ドラマで、官兵衛と称する番組をしていて、秀吉のバテレン追放令がでているので、キリシタン時代の人間ネットワークをこのネットワーク理論をもとに考えてみたい。

 最初にパーデレ、カトリック司祭が日本に到着したころ、社会的弱者やハンセン氏病を含む病者への伝道・救援を中心としてコンフラリア・ミゼリコルディアの精神で、対応していたことが分かる。 そのことの動画が、危機の時代におけるキリスト教の霊性のありかたと題して、英栄一郎司祭によって2011年7月に行われている動画がこちらでご覧いただける。

http://ricc.holyring.jp/?proc=japaneseslash2011sslash20110727_pm

ところで、当初、このような社会的に影響力の強くない、社会的弱者、病者、孤児を中心に奉仕することで伝道していたものの、その悪影響として、これらの信仰は弱者の信仰であるから、何らかの対応を取らねばならぬ、ということで、大名クラスへの伝道へと方針転換したことを大河ドラマのキリスト教監修(竜馬伝と官兵衛は直接講義中「監修した」との言及があった)を多数しておられる上智大学の川村先生は、最近の公開講座でご指摘であった。そのリンクは以下の二つ。

上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座参加記 戦国期と近代のカトリックと社会 川村信三教授 その1


上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座参加記 戦国期と近代のカトリックと社会 川村信三教授 その2




上智大学100年のポスター(小学生の社会科の時の人気者、ザビエル君)

伴天連追放令
 大名クラスに伝道の主眼がきりかえられ、殿がキリシタンになられるのであれば、我等も、とその配下の家臣団が入信し、そして、家臣団以外の地域住民も、ワシらの殿さまがキリシタンなら…と陸続と入信した模様である。

 だからこそ、その影響が大きくなり、自分自身の国家建設、豊臣家による統治の障害となりかねないため、秀吉君は伴天連追放令をだしたのだろう。一応、バテレン追放令とそのローラ語訳を記載しておく。

-----------------------------------------------------

一、日本ハ神國たる処きりしたん國より邪法を授候儀 太以不可然候事


 日本は神国なので〜、キリシタン国より変な魔法みたいなものをもらってくることは、むちゃくちゃありえないことと考えてね〜。おっけ〜?


 一、其國郡之者を近付門徒になし 神社佛閣を打破之由 前代未聞候 國郡在所知行等給人に被下候儀は當座之事候。天下よりの御法度を相守、諸事可得其意処 下々として猥義曲事事


 地域の人々を呼びあつめて信者にさせて、神社や仏閣をぶっ壊した破壊工作があったことは前代未聞だよ〜。大名小名といった国や郡などの知行地を任されているサラリーマン社長の皆さんに管理をさせているのは、しばらくの間のことだからさ〜、天皇陛下や関白家から出る命令を守って、その意をくんで適当にうまくやってね。おっけー?普通のいろんなお仕事している皆さんも、変なことはしないようにさせようね。わかったー?


 一、伴天聯其知恵之法を以 心さし次第に檀那を持候と被思召候へは 如右日域之佛法を相破事曲事候条 伴天聯儀日本之地ニハおかされ間敷候間 今日より廿日之間に用意仕可帰國候 其中に下々伴天聯に不謂族申懸もの在之ハ 曲事たるへき事


 バテレンさんたちはさぁ〜、頭がいい方法を使って、心を操って、だんだん、パトロンのおとーさんをもつんじゃないかと思うんだけど〜、これはさっき書いたみたいに、地域の仏教をとんでもなくすることなので、気をつけてね〜。しちゃーだめだよ〜。あと〜、バテレンさん達が日本には〜、いることはできなくなっちゃんたんで〜、今日から20日以内に強制退去させるから〜、その用意をさせるからね。わかった〜?その間に、バテレンに普通の人たちが変なことをしてしまったら、それは、ダメだからねー。おっけ〜?


一、黒船之儀ハ 商買之事候間格別候之条 年月を經諸事賣買いたすへき事


 黒船さんたちは、ビジネスだから、特別だからね〜。これからもずーっといろんなビジネスやってね〜。よろしく〜。


一、自今以後佛法のさまたけを不成輩ハ 商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん國より往還くるしからす候条 可成其意事


  これから〜、お寺のことを邪魔しない人たちだったり、商人である人たちはもちろんオッケ〜だからね〜。どんなキリシタンの国からきても、行ったり帰ったり、どんどん外国に行ったり、外国から来たりしても全然「オッケ〜」だからね〜。なるだけみんな頑張ろうね〜。


-----------------------------------------------------


ということで、まぁ、國郡在所知行等給人に被下候儀は當座之事候。つまり、「一時的に領国領地を代理で、支配している領主が、勝手をしてはならん」ってことだったらしい。

 川村先生のご講演を思い出すと、当初、社会的弱者を中心に伝道が模索されたものの、その副次効果もあり、次第に、当時の社会において、影響力の大きい大名クラスに伝道が進めていかれたようである。そして、日本全国に広がっていき、その挙句の果てに、上記で紹介した英 隆一郎司祭の動画によれば、当時の人口の10分の1から5分の1位の人口比を占める20万人ほどキリシタンがいたことがイエズス会の記録で分かっている(らしい)。

 このことは、記録マニアでもあった、ローマ教皇庁の記録でも跡付けられるらしく、日本国内を40人の司祭で回していることをお話になっておられる。つまり、当時は、50000人に司祭一人という状況だったらしい。

川村先生の講演内容を
ソーシャル・ネットワーク理論で考えた
 つまり、当初は、病気や貧しさ、親族などの支援ネットワークのなさから、社会的ネットワークにおけるリンク数の小さな社会の影響度の弱いソーシャル・ネットワークのノード(個人)を中心に伝道していたのだが、それがそのまま広がった場合、一定の社会の影響度の弱いノードの集団という印象がついてしまうため、下剋上、戦の連続という悲惨な影の漂う社会風潮の中で、既存宗教集団の比叡山形や門徒衆系の人々との対立などに辟易としていた社会の影響度の大きいノード(個人)である大名クラスへの伝道という形が取られて行き、そして、それが、大名クラスでの影響力の大きいノード(個人)である、大友家(当時の九州の名家の一つで、島津家と対抗するくらいの勢力はあった)や高山家などがキリシタン化していく中で、一気に大名家ネットワークに広がり、そして、家老クラスの名家ネットワークに広がり、また、領民クラスにまでキリシタンが広まっていく、という形を取ったと考え得よう。

 しかし、このタイプの伝道方法は、影響力が大きいノードが変身することで、その影響の深いノードも次々と変身する、オセロのような現象が起きる点であり、聖書で言うと、岩地にまかれたために根が生えないような状況ではあろう。なかなかド根性ダイコンは育ちにくいのである。なお、川村先生によれば、ド根性大根のような隠れキリシタンの皆さんは、まったく別のソーシャル・ネットワークの論理(こんふらりあ・みぜりこるぢあ:慈悲の組)により維持されたらしい。


ど根性大根

子供のソーシャル・キャピタル形成の場所
 本来の話に戻そう。ちなみに、1960年代までは、子供の『ソーシャル・キャピタル』が育成される場は、学校の教育実施中においては、公教育の場である小学校、中学校の学級であり、そこは、学校教諭が監督する社会が形成されていたと思われるし、放課後は、公園そのものが都市部において少なく、下水道管などのコンクリート管が建築途上の空き地や開発地やお寺や神社、教会などの境内地(それがあればであるが。所謂ニュータウンでは、それら宗教関連施設がないことの方が普通であり、新興住宅地では、宗教空間から空間的にも切り離されている。これで無縁社会とならないほうが不思議)が子供たちの交流の場になっていたし、小学校の校庭などが交流の場となり、そこで、子供たちが『ソーシャル・キャピタル』が育成されていくことになる。

 要するに、当時の子供たちのたまり場は、これらの場所であったし、雨の時は、 お互いの自宅などや、神社の境内等が利用されたであろうし、娯楽の少なかった1960年代中葉までは、一部教会などが提供する教会学校や日曜学校などが子供たちの紐帯を外形的構造物で支えてきた、と考えられるであろう。これらの境内地や公園、空き地は『ソーシャル・キャピタル』の醸成の場であった。これらの公園、寺社、教会の境内地が持つ、公共財的性質(利用の非排除性、そのサービスへのアクセスがあまねく渡るという意味で非競合性がある、という意味で)あるいは、地方公共剤、クラブ財的性質が、これらの寺社地やオープンスペースが子供社会における公共圏を形成させる場、となることもあったであろう。

 次回へと続く



基本的なこの記事の出発点

 S先生という、ミーちゃんはーちゃんとネット上でインスパイアリングな指摘をくださって遊んでくださる奇特な先生からのインスパイアを受けて、現在の教会学校の開催時刻と子供たちの生活時間がミスマッチを起こしているかもしれない、という疑念をデータをもとに紹介したところ、是又、ときどき、ミーちゃんはーちゃんのブログを御紹介してくださっているNobu牧師というありがたい方から、

時間だけやったら、あかんのちゃうん?
子供の人間関係とかも大事なんちゃう?

という至極まっとうなご意見をいただいたので、そのことについて、今日からしばらくは考えてみたいと思う。このブログは、こういう「べたな話題」もときには取り扱う。本来は、NTライトとか、ヨーダーとか扱っているのが個人的には幸せなのだが、あの手の記事は、ややこしいのであまり人気がないことも確か。

 一回の記事が長すぎる、ってご批判いただいたので、短め(それでも長い)にしてみる。それでも長い、というご批判はあろうが、分割するので、このシリーズは一大長編連載になる予定です。

厳密なデータ解析の結果ではないけど
 なお、ミーちゃんはーちゃんのところでは、生徒さんの年齢層が余りいらっしゃらないので、とりあえずオンディマンド方式で日曜学校をミーちゃんはーちゃん以外の方にお願いしているので、以下の考察は、質問紙調査等のデータとその解析に基づかない一般論であることをまず、お断りしておく。一般論は、一般論であるので、その議論に属さない反例は多数存在することもご承知置きいただきたい。

ソーシャルキャピタルの視点から

 Nobu先生ご指摘の、誰かに誘われて、という形での日曜学校、教会学校に参加するというのは、参加の動機としては非常に大きいものと思われる。これは、ほかの年齢層の人々でも結構多いのだろうと思う。なぜならば、人間はネットワークの中で生きる生物だからである。このことを指摘した研究に、『ソーシャル・キャピタル』による地域社会構造の分析をしたものに、ロバート・パットナム(2006)の『孤独なボウリング』がある。子供でも、子供の「生活の質」あるいはQOL(Quality of Life)や学習を支えるその『ソーシャル・ネットワーク』や『ソーシャル・キャピタル』が存在すると思うのだ。

 ソーシャル・キャピタルはちょっと前には、カッティング・エッジな話題だったのであるが、ご存じない方のために簡単に説明しておくと、そして、ごくごく平たく言うと、

 困った時にお助けしてもらうためのに頼れる人間関係のような何か、

である。もうちょっとフォーマルにいえば、

 人間が生きていく上で、困った時、お互い助け合うことで、問題解決を容易にしたり、社会の構成員間に存在する人間ネットワークを介した、自主的な相互扶助による互恵的行動によって、社会での個人または社会そのものの活動を円滑に機能させ、社会や個人の目的を実現するために、その個人や社会的集団が用いることのできる互恵的に利用できる諸力のプール

ということもできるかもしれない。その意味で、ソーシャル・キャピタルは、その個人がお付き合いしている人間関係のネットワークに付随、あるいはその中に目に見えない形で存在するものであるといえよう。

人間関係ネットワークの図式化

 ところで、人間関係ネットワークをモデルとして考えてみるとき、それぞれの個人は、ノード(点)であり、個人と個人との間の人間関係は一般にリンクとしてとらえられるように思う。

 例えば、アニメ「サザエさん」の中で描かれているカツオくんにとってのソーシャル・ネットワークとソーシャルキャピタルを形成する人間関係のリンク関係を図にしてみると、以下の図1のようなものかもしれない。Link:と書かれた後ろの数字は、アニメ中に描写された人間関係のつながり、あるいはお付き合いしている人の数であり、それを以下リンク数と称する。双方向的なので、ここでは偶数になっている。


図1 カツオくんを取り巻くソーシャル・キャピタルを形成する
   ソーシャル・ネットワーク

個人(ノード)とお付き合い(リンク)

 ここで、注意すべきことは、それぞれの個人(ノード)には、それそれの個人(ノード)が他のどの個人(ノード)とつながっているお付き合い(リンク)があり、お付き合いしている人の数(リンク数)という重みがあり、そのリンク数で重みが図れるとネットワーク理論などではお考えのようである。リンク数の大きいノードもあれば、リンク数の小さいノードもあるのである。

 リンク数の大きい個人(ノード)は、社会にある他の個人(ノード)への影響も大きく、リンク数の少ない個人(ノード)は、社会にある他の個人(ノード)への影響は小さい。サザエさんのアニメで言えば、カツオくんのノードと花沢さんのノードと連結するリンク数は大きい。その意味で、アニメのストーリー展開における花沢さんはそんなにしょっちゅうでてこない割に、かなり重要な場面展開をもたらすことが多い。

 逆にカツオくんが淡い慕情を抱いていると思われるかおりちゃんや早川さんは、重要な場面展開はもたらすことが少ないという意味で、カツオくんの生活環境や状態には決定的な影響度をもたない個人(ノード)である。

 中島君はリンク数自体は少ないがカツオくんにとってみれば関係が強いという意味でリンクは非常に太いため、カツオくんの生活の質、生活環境に影響を与えるという意味では、カツオくんのソーシャル・キャピタルやソーシャル・ネットワークに大きな影響を与える存在である。このようにみるときに、これらのリンク数や関係の深さ、つながりの太さは、現実の社会の中では、より多様なものであろう。その意味で、単純な関係性のリンク数だけでとらえるのは問題があるが、人間関係論の場合、それを定量的に評価するための数値指標は作るのが困難であるため(まあ、面会頻度とか、電話の数、会話時間とかで代理指標を作ることは不可能ではないが)、このような実証研究はあまりされていないようにも思う。大体調査するの難しいので。まぁ、この種の調査として大きい内閣府社会経済総合研究所の調査でも、定量風の調査は、やってないことはないが、それもあまり詳細なものではない。その内閣府社会総合研究所による報告書は、ここから報告書が入手できます。

ウェブサイトとその相互関係

 ところで、これを初期のコンピュータネットワークでした事例が、Linked Open Dataでの有名なウェブサイト関係の関係図としてある。それを図2に示す。


図2 Open Linked Dataの図 (Wkikipedia Linked Open Dataより)

 この図で言えば、DBPedia はシステム全体への影響の大きいノードであるが、FreshmeatやOpenguidesはシステム全体への影響の小さなノードである。

ドラえもんで考えるソーシャル・ネットワーク

 計算機ヲタ以外にはわかりにくい話なので、わかりやすくドラえもんを例にとり、考えてみる。例えば、子供の社会でいえば、ガキ大将的な存在は、負の影響、正の影響を含めその個人の影響は極めて大きい。ドラえもんの登場人物でいえば、ジャイアン型のキャラクターの影響力は大きい。彼がコンサートするとなれば、その歌がいかにひどいものであっても、子供たちは、好き嫌いにかかわらず出席させられてしまう。ぶんなぐられるのがいやだから、という側面もあるけど。ジャイアンリサイタルについてはこちらから。


 ジャイアンのコンサート シーン

 ところが、同じドラえもんのキャラクターの中でも、出来杉君型キャラクターだと、ドラえもんの話の中では、その登場人物への影響力が限られており、リンク数の小さな影響力の小さな個人(ノード)ということになる。

子供社会においても成立する
ソーシャル・ネットワーク

 このように、個々人の持っている人間関係ネットワークのリンク数は、実に多様であり、その多様なリンク数をもつ子供が地域の子供社会において存在するとともに、学校(とりわけ公教育が行われている公立小中学校)という社会的枠組みの中で、そのリンク数やネットワークは、年次進行と共に変化しながら、維持変化されていくことになる。

 また、中学校で私立中学校への進学や、公立中学校での他の小学校からの生徒との交流の開始などによって、そのネットワークは大きく変容することとなる。また、転居などに伴う転出入によってもネットワークのそのものは大きく変容し、そして異なる学校への転出入に伴って、子供はそれを手がかりの少ない中で再構築することになる。そして、このリンク数の大小は新しい概念の普及やある組織への加盟がどう進むかにかなり大きな影響を与えることとなる。

 このあたりのことをお考えになりたい方には、次回、初代キリスト教界を例にこのネットワーク理論とそこで使われるモデルに少し触れるが、「新ネットワーク思考」をぜひ、お読みいただきたい。



 次回へと続く
評価:
価格: ¥7,344
ショップ: 楽天ブックス
コメント:コミュニティと人間、その中の人間ネットワーク、それが個人の生活の質を支えるソーシャル・ネットワークとの関係に関する名著

評価:
価格: ¥2,052
ショップ: オンライン書店 BOOKFAN
コメント:これ、重要なことを指摘している。キリスト者は、最初の1章だけでも見ておいた方がいいかも。

  前回は、藤原論文を中心にヨーダーの教会論を中心に、教会と社会との位置関係というか距離の取り方、世界とどうかかわっていくのかを考える際のキリスト者の視座のお話をしてきた。

 これまでの過去5回の連載記事は、以下の通り。


Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)



 で、今日は、藤原論文での、「教会による社会の改革」、「ヨーダーの問題点」と「結論」と題された部分から引用しながらミーちゃんはーちゃんがいつものようにたらたらと考えたことを述べていこう。

「教会による社会の改革」から
 まず、藤原論文の「教会による社会の改革」の部分から見ていこう。

 ヨーダーの主張は以下の2つにまとめられるであろう。(1)世に対するコントラスト・モデルになること、そして(2)パイオニアリング・コミュニティティとして世に具体的な代案を提供することである。
 教会が世におけるコントラスト・モデルとして、神の基準を示す。それによってよの罪がより明らかにされる。神の基準は、世がそのうちに持ち合わせていないものであり、キリストの体なる教会によって示される必要がある。
 そして教会は、パイオニアリング・コミュニティとして、世における神の意志を率先して提示し実現していくという。さらに教会は、世が自らに適用することのできる代案を提案する。実は、ヨーダーはここにおいて世と教会の継続性を前提としており、キリスト教信仰へと改心することなく世が改善される可能性を前提としている。スタンリー・ハワーワスが、教会と世との断絶を強調するのに対し、ヨーダーはその継続性を彼よりも強く見ており、世が教会から学ぶことができると考えている。 (p.96)

 この議論から示されるように、教会は世の中にありながら、神はこのように考えておられると、神の基準がどのあたりにあるか、を指し示すことにその意義があるとしているようである。この点、キリスト教倫理学者のハワーワスとは違うと指摘しておられる。そのあたりのことを知りたい向きには、大学という組織と教会という視点が極めて強い本であるが、下記リンクで紹介した「大学のあり方」をご清覧願いたい。

 「神の基準に従え」と世間の人々に言い、それを強要しないまでも、それをキリスト教社会においても、非キリスト教社会においても、神との関係において、聖書からは自分はこう考えているということで示すという役割があるのではないか、とジョン・ヨーダーは言っているらしい。しかし、このように表現すると、すぐ、過去のこれまでの日本社会におけるキリスト教が持ってきた、一種の暑苦しさ、つまり、

 「教会が偉くて、世と表現されている世間の人々はそれに追随すべきものである」

という教室モデルをすぐお考えの向きもあろうか、とは思うが、ヨーダーはそういう存在として教会を考えておらず、もっと、多様な考えのある人々の中で、多様な考えの一つとして教会が考える価値、その価値の源泉は、ナザレのイエス、すなわちキリストにしかない、という価値を指し示すものだ、とヨーダーは言っているように思われる。それは、これまで、ヨーダーの価値の源泉におけるキリストの中心性との関連でお締めしたとおりである。

社会におけるパイオニアリングコミュニティとして
 
 その教室モデルが当てはまらないことは、この世界におけるパイオニアリングコミュニティとしての教会というところにも表れており、本来、キリスト教は、よりメタ思考に近い指向性を持つことができるため、既存の枠組みを超えたところからの問題意識をもち、社会おける問題、あるいは不具合の指摘ができるはずであるし、過去そうしてきた。そして、それが社会を変革に導くし、だからこそ社会の中にある意味があるのだ、という理解がヨーダーにはあるようである。

花子とアンも関係するよ

 例えば、イギリスの奴隷貿易の停止、アメリカでの奴隷制度の廃止問題、1960年代的公民権運動は、既存の社会の規範や規則、法律自体を問題視して、それを積極的に説いていった部分があるがゆえに、結果として社会が変わったし、日本では、花子とアンの主人公の村岡花子は婦人矯風会(要するに廃娼運動 今で言えば、性奴隷としての「花魁」、「芸者」、「舞妓」などとしての女性を巡る社会制度や社会のビジネスとしてのHuman Traffickingの廃止)と関係していたらしい。なお、同時期の女性へのDV抑止の観点から社会問題として焦点化した禁酒法は、個人的には、その精神は正しいものの、方法論として完全に失敗であったと思う。

 ところで、社会改革と教会のかかわり方について、藤原論文では次のように指摘している。

 ヨーダーの考える教会は、修道院のように世から隠遁するものではない。彼は、クムラン的隠遁主義、パリサイ派的分離主義、サドカイ的現実主義、熱心党的暴力革命というイエスの時代の4つの選択肢を示しそれらをすべて否定する。そしてイエスの世に対する創造的なかかわりを教会のあり方として「オリジナル・レボリューション」と呼ぶ。それは非暴力的にノン・コンフォーミストとして創造的にかかわる生き方である。
 ここで創造的にということに触れたいのであるが、ヨーダーの非暴力は受動的に虐げられることを待つ無力な態度を意味していない。(中略)ヨーダーの平和主義は、積極的かつ創造的な平和づくりと言う表現のほうが適切であると思う。(p.95)

 キリスト教倫理学のハワーワス(最近出た「大学のあり方」(下記リンク参照)という本は、ハワーワスの考え方がよくわかるので、お勧めする)が世間と断絶的な立場、つまり修道院的なうちに向かって極めていくような倫理的先鋭化を目指す立場をしゅちょうしているようであるが、ヨーダーはそれではまずいのではないか、ということがヨーダーの思想の中にあるようである。なお、西洋とアメリカの一部の大学はその出発点は、学問司祭養成所であった修道院に根拠を置いていることを一言触れておく。

 ヨーダーは、この地に神からおかれた存在として、この地の中で生活しながら、イエスの生き方に倣うものとして普通に生きていく中で、世の中に神の思いの神と人との平和の結果もたらされる、地における平和をもたらしていくべき存在として、教会があるのである、とご指摘のようだる。その意味で、要するに世間の中に教会があってこそ意味があるということをご主張になられたようである。

過去の日本社会とキリスト教

 藤原論文であげてある、イエス時代の社会改革運動を

クムラン的隠遁主義
 (修道院的存在理解)
パリサイ派的分離主義
 (自分たちを一段と高い教師とする存在理解)
サドカイ的現実主義
 (戦前のキリスト教界のように国体を尊敬し、国家の忠実なしもべとしての存在理解)
熱心党的暴力革命
 
(学生運動的な社会破壊者としての存在理解)

に分類しているが、日本の過去の教会の動きで割と当てはまるものがあるので、面白かった。改行したあとの()内はミーちゃんはーちゃんによる。なお、ミーちゃんはーちゃんのところのキリスト者集団は、クムラン的隠遁主義と、パリサイ派的分離主義があいまったところの立場の方が意外と多いような気がする。雰囲気で言うと、申命記28:56の

あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない

という雰囲気の方が多いような気がする。ミーちゃんはーちゃんは、下品で、乱暴であるため、足の裏で地面を踏みまくり、ではあるけれども。

 キリスト教界の中には、社会と私たちは無関係、選挙での投票行動などは論外、とかいう方もおられる。そして、社会の方々を教えようとか、社会の方々に向かって、自らを教師のような役割として任じ、「聖書こそ真理であるぞよ」というノリで聖書そのものではなく、ご自身の聖書理解を振り回す方もおられる。個人的には、「かなわんなぁ」とは思うけれども。

世界をケアするものとしてのキリスト者の生き方

 しかし、アダムの末として、この世界を支配するものではなく、この世界をケアするものとしての存在として、我々がつくられていることを考えるとき、藤原論文の表現を借りれば、

それは非暴力的にノン・コンフォーミストとして創造的にかかわる生き方である。

ということになろう。特に、創造的に余とかかわる生き方については、下記リンクでも紹介する「わが故郷、天にあらず −この世で創造的に生きる」が非常に参考になる(この本は絶賛推奨中である。絶版本でrけれども)。ところで、この本、現在では入手困難であるが、この9月23日、早稲田奉仕園で行われるいのフェス(このリンクをクリック)で「福音の再発見」とともに、特別に提供する。ご所望の方はお早めに。特に、「わが故郷、天にあらず −この世で創造的に生きる」は、お若い方、ユースのリーダーの方にお勧めしたい名著である。

 なぜ、キリスト者は、非暴力的に世間と創造的にかかわることができるか、といえば、おそらく、ヨーダーからすれば、キリスト者は、本来終末に完成される神の国(神の支配)の生き方を不完全な形としてこの地上で現在先取りしており、神の国の民、すなわち、神の支配に服する民として生きるように教会は召されていると主張しておられるようである。つまり、未だ完全な形としての神の国は実現していないが、すでに、不完全な形として実現している神の国の姿を持つものとして、生きるようにキリスト者は召されているのではないか、ということがヨーダーさんの言いたいことのようである。

「ヨーダーの問題点」から

 藤原論文では、ヨーダーの問題点として、いくつか示されている。それは、ヨーダーの聖書理解が、聖書理解として、啓示それ自体とその重要性を指摘している点であり、それを強調することで、啓示文書としての聖書の聖典を読み込んでいくことになる解釈者と神の啓示そのものをどのように区別、峻別するのか、という点での論点整理が不十分であったり、戦争理解を中心とした共通理解が幅広いキリスト教界の中で生まれにくいこと(これは、イラク戦争時にアメリカ滞在中に強く体験した)、そして、人類に間接的に啓示されているもの(たとえば、自然とか、非キリスト者社会における法と秩序とか)が存在することへの対応が弱い、といった、聖書聖典を極めて重視するファンダメンタリスト的な理解の問題があることも指摘されていた。

 さらに、現代社会に教会がおかれている意味の指摘はするものの、では、教会がどのように現実社会と連携をとっていくのか、といった現実世界とのリンクの弱さなどが同論文では、指摘されていた。詳細はオリジナルにお当たりいただきたい。

「結論」から ヨーダーの平和主義
 長くなったが、藤原論文からの紹介は、あともうちょっと。お付き合いいただきたく。

 ヨーダーの平和主義には、自らの血を流してでも平和を実現するという覚悟が必要とされるであろう。ヨーダーの平和主義は殉教を常に視野に入れている。(中略)しかし我々の教会が困難な時代に「逃げた」ことを覚えていなければならない。ヨーダーの平和主義が日本に与える一つの有益な影響は、平和の代償を思い起こさせるということである。(pp.100-101)

 日本のキリスト者の平和運動では、15年戦争の前の時代、そして15年戦争期のキリスト教界のあり方への反省、同じ国家全体主義を持ったナチズムへの対応を図ったという意味で、バルメン宣言や、ボンフェファ的な何かへの評価が現在の日本のキリスト者の中でも非常に高い。そして、キリスト者の平和運動、平和への希求ということがなされようとし、血を流してまで創造的に抵抗しようとし、最後には、熱心党的暴力革命により、ヒトラー暗殺計画に加担し、平和への代償を自らのいのちをもって支払ったボンフェファ先生の評価がやたらと高いのであるが、また、日本でも、ホーリネス運動関係者や、キリスト集会と呼ばれるキリスト者の集団でも、殉教者や投獄された信徒は存在するが、賀川豊彦先生を含め、「信徒を守るため」という側面はあるので、単純に批判できないにせよ、キリスト者社会のかなりの部分は、藤原論文の表現を借りれば、確かに

 我々の教会が困難な時代に「逃げた」

のであり、そのことのキリスト教にかかわる何かは、十分な反省をしていないのではないだろうか。もちろん、不十分な形とはいえ、日本キリスト教団は宣言を出しておられるし、個々の教団派宣言を出しているかもしれない。それを体系的、網羅的にまとめ、15年戦争前から姿を変え、形を返しながらも継続して存在する教団が、それぞれ、戦争終結時、その後において、それに対してどのような措置をして、けりをつけたのか、という研究の存在をミーちゃんはーちゃんは寡聞にして、知らない。そこも、平和の希求を研究する際には重要なのではないだろうかと思う。

 藤原論文を読みながら、ヨーダーがいいなぁ、と思ったのは、以下の表現である。

 ヨーダーは、(中略)その故に新約聖書に示され実現しつつある神の国のヴィジョンを終末的理想(イデア)として遠くに眺めてあきらめてしまう倫理に異を唱える。あれは終末的理想であるとしてイエスの教えと生き方から、あまりにも簡単に目をそらし、受肉から十字架へと飛んでしまう神学に異を唱える。ヨーダーの倫理を一言で言い表すなら、「イエスはあなたにとって主なのか」という問いである。(p.101 太字は引用者による)
 つまり、キリスト者が生きるときの倫理として、キリストの弟子として、あるいは、キリストに従うものとしていきているのか、を問われた感じがする。あなたは、お題目のように聖書に記載された内容から導かれる表面的行動のみに従っているのか、ということを問われた感じがした。イエスの行動とそれを支えた行動原理、ごく端的に言ってしまえば、以下のイエスの言葉に集約されるものはあなたにとってどういう意味を持つのか、ということをこの論文を読む中で、ヨーダーから問われた気がする。

「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」 
     (新改訳聖書第3版 マルコ12章から)

上記のイエスの発言を日常生活の中で、日々生きる中で、どのように考えるのか、ということをすべての信徒に問うているのではないか、とヨーダーは指摘しているようである。

 イエスの公生涯とそれにならうことをすっ飛ばしたキリスト教にしてしまい、神の国に自らの席というか、あたかも、花見の時やプロ野球の外野席の場所取りのように神の国における場を確保するためだけに必死になり、そのための手段として十字架を機械的に利用しようとするキリスト者への強烈な批判として「イエスはあなたにとって主なのか」を問うところが重要なのであり、それを完全な形では個人の弱さのゆえに貫徹しかねるとはいえども、それを求めて判断することを、我々が考えるべきでないかと指摘するヨーダーの問いかけは重要なものであると、ミーちゃんはーちゃんは考えている。

 ということで、藤原論文紹介とそれでたらたら思ったことは終わり。お付き合いいただき、こころから監査h。次回は、Nobu牧師のチャレンジにお応えしたものの第1回乗せ、そのあと、次々回からは、第4章谷口論文を述べる。

(ちょっと修正加筆しました。後出しじゃんけんでスマソ)



評価:
価格: ¥3,780
ショップ: 楽天ブックス
コメント:大学と教会、大学と社会を考えるための手がかりを与えてくれる本であり、アメリカの大学がどのような出自を持つかがよくわかる名著。

評価:
ポール マーシャル
---
コメント:ノンコンフォーミストとして、イエスのオリジナルレボルーションに連なるものとしてキリスト者としての生き方を説いた本。

 今日はヨーダーに戻って考えていきたい。個人的には、大事なネタだと思うのだが、あまり受けがよくないので、うーん、なんなんだろう、と思いながら、それでも書いておこう。かいておくことに意味もあると思うから。

 これまでの投稿記事は、こちらからどうぞ。
 
Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

 これまでの記事で、だんだんメタ思考とは関係なくなってきたんだけど、そのうち出ますから。この記事でも出ます。今回もまだ3章の藤原論文の紹介とコメント中。ダラダラしてスマソ。

預言者的存在としての内村鑑三とヨーダー

 そのうえで、ヨーダーを日本の読者が読むための補助線として、内村鑑三を例にとり、コンスタンティヌス的キリスト教との対立について、次のようにお書きである。

 内村(鑑三)の一人一教会主義というのは明らかに行き過ぎであるが、彼の預言者的視点は、ヨーダーの主張を理解するうえで役に立つであろう。そしてその預言者的思想には、不可避的に独立と苦難が含まれることになる。預言者は荒野に立ち、罪を批判する声を上げる。そして、しばしば迫害に直面するのである。内村の中には、潮が引いて行くように教会から去っていく人々のキリスト教信仰とは異なる、魂を貫いている福音を認めることができる。(p.86 太字部引用者による)
と絶賛しておられる。そうだろうとは思う。ある面で言うと、会衆に面と向かって、そして、社会に向かって、言いやすいこと、受け入れやすいことを言うだけが、牧師の役割ではないし、社会に対して、異議申し立てを具体的にしなくても、神の民として疑義を持つ、異議を持つことは、ある面でキリスト者の役割だろうとは思う。というのは、ウエメセではなくても、社会と共有できかねる部分があるからである。「ウザい」と思われるほど、社会に対して疑義や異議を申し上げていくのがよいか、というと、かどうかは別として、社会と対抗的な立場をとらざるを得ない場面が出てくる。それは、キリスト教が幅を占めるアメリカ社会においても、そういう場面が出てくる。それがアメリカのキリスト教界がそうしているかどうかは、かなり疑問であるが。キリスト者が持つ預言者的性格に関して、下記のブルッゲマンの本もよいと思う。
 厳しい環境に置かれて、信仰が保てるかどうかは、個人的に自信はないし、そして教会からそっと離れていく人々を批判する気はないが、しかし、キリストへの信仰とは、そして、神への信仰とは、エペソ4章6節にあるように

  すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。(口語訳)
という視点に思いを巡らせたい。ある面で、キリスト者は、イエスの弟子でもあるということを忘れてはならないのだろうと思う。

キリスト者倫理とピューリタン

 キリスト者と社会のかかわりとして、どのようにあるべきかということに対してのヨーダーの考えを藤原先生は、次のように指摘しておられる。
 ヨーダーは、キリスト教倫理のあり方としてこの両者(引用者 注 祭司的チャプレン 権力を祝福する祭司として、権力を肯定するあり方・ピューリタン・チャプレン 社会に目に見える外面的な高い基準を押しつけ、保てないものや保ちたくない人は押しつぶされるかその社会から追い出されるあり方)を否定する。(p.87)
 キリスト者は高潔であり、倫理的に生きる存在であるという理解が日本社会に定着しており、その面で、これまで高い評価を社会一般から受けるとともに、キリスト者が社会から敬遠され、煙たがれる存在ともなってきた原因の一つであったと思う。そして、キリスト者の主張することには、関心がないわけではないのだが、その世界に一歩足を踏み込むことでその倫理、行動パターンへの制限が増加することを恐れて、信仰の世界に足を踏み込むことをためらう人々も極めて多いと思う。特に、この傾向は、明治期の北アメリカ経由で入ってきたキリスト教に関して、非常に大きいと思う。

 ヨーダーが倫理として主張するのは、外面的なものではなく、あくまで神との関係であることについて、藤原論文では、ヨーダーの文章を引用しながら教会と倫理、社会と教会の関係に関して、次のように指摘している。

 「私(ヨーダー)は、マジョリティー・エスタブリッシュメントが教会としてほとんどの役割を果たした後、マイノリティの視座からいかなる補足的役割が必要かと問うものではない。むしろ私は、教会が(実際に)マイノリティーとしての位置にある世において、教会がいかにあるべく召されているかを問うのである。」(引用者補足 Priestly Kingdomからの引用)教会には、H・リチャード・ニーバーが言うように、「世に関する神に対する責任」(responsibility to God for society)があるのは当然である。しかしそれは「神の事柄に関して世に対する責任」(responsibility to society for God)ではない。この両者の違いは大変大きい。前者が神への忠誠と応答として社会にかかわるのに対し、後者は国家への忠誠と教会の存在意義の承認のために宗教的な事柄を担うのである。教会が、世の中心に立とうとするとき、その福音の独自性を失うことをヨーダーは正しく指摘している。(p.88)
 この部分を読みながら、世に関する神に対する責任とは、ミーちゃんはーちゃんが思うに創世記1章28節における神から与えられた使命、

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
と深くかかわるのだろうと思う。この部分を「人間がこの地球を煮て食おうが焼いて食おうが問題ない」と誤読し、「この地を使い捨てるような、ゴミ箱にするような使い方ができる」という根拠として使っている人々もおられるとは思うが、それは違うのであり、神に対するこの世界Kosmosに対する責任を放棄している立場であろうとは思う。天国に行くだけがキリスト者の生の目的ではないと思うのだ。むしろ、できることは限られていようと、神に対するものとして、神の権威を認めるものとして、神が造り給いしこの世界に対しての責任ある生き方をしていくことは重要なのだろうと思う。その責任ある生きているかと言われれば、非常に不安を覚えざるを得ない。しかし、その方向に向かっていきたいとは思う。

 ヨーダーのキリスト者のあるべき姿とか何かに関して、藤原論文では次のようにまとめておられる。

ヨーダーの一貫した主張は、まさにイエスが主であり、我々の倫理の最終的権威をもっておられ、最後の決定権はそれ以外のどこにもない、ということに尽きる。(太字は、引用者による。中略)ヨーダーにとってイエスの権威が問題の核心であるといえる。(p.89)
この部分は、すべてのキリスト者にとって異論のないところではないだろうか。それを我々の勝手な思いや、勝手な考えを倫理として、他者にこうあるべきだ、として我々が倫理の決定権を握っていないだろうか。さらに、その自分たちが勝手に定めた倫理を、こうあるべきだ、と人に押し付けたりはしてないだろうか。そして、人々がご自身に近づくことを求めておられる神を人々から遠ざけているとしたら、ろくでもないことをして化しているかもしれない、と反省することは重要ではないか、と思う。

「ヨーダーの教会論」の部分から
日本社会と日本の教会を考えてみた

 藤原論文では、日本の近代のキリスト教史(中でも黒歴史部分)に触れながら、次のように述べておられる。
 
ヨーダーは「社会に対してより肯定的態度をとることによって社会を修正することを求める人々」に対して「『積極的態度』によって彼らが独立した足場を捨て去るときに、現実は修正を行うことができない」という。そして教会の他者性を主張している。これは日本に関して言うなら、日本文化をより肯定的にとらえ、日本の文脈にあった日本的なキリスト教を求めるような試みである。祭司的に社会にかかわり、社会を受け入れ、承認していくときに、実際には変革の可能性をつくり出すよりも現状維持を強化することになるからである。単に日本文化を否定する必要は全くないが、教会が他者性を十分に持つことなく文化をむしろ受容的にとらえていくとき、文化を選択的に批判的にみていく目が甘くなるのである。戦時中に日本のための「とりなし」を強調した日本の教会にもこのような姿を見ることができるであろう。(太字部分は引用者による pp.92-93)
 日本の教会群の中には、日本人からなるキリスト教界であるから、日本人に伝道できるように、日本の文化を受容的に受けて止めていくべきだし、そのことを積極的に肯定すべきだとお話になる向きもキリスト教界の中にあるが、ミーちゃんはーちゃんがそのような考えに違和感を抱くのは、まさにそうすることで、本来のキリスト教としての立場が甘くなるし、言うべきことが言えなくなる部分にあるのだ。現地化ということは必要であることはミーちゃんはーちゃんも認める。それは重要であるとは思うのだが、そこで譲ってはならない、核とは何か、ということを、現実に即して考え続けることが必要なのだろうと思う。

 特に、15年戦争期に、宗教団体法に悪乗りし、まさに、国家にとっての承認を受けたことに欣喜雀躍し、国家にとっての祭司的役割を担い、八紘一宇という概念を祝福するというのはどうかと思う。その反省はすべきだろうと思うが、まだ、この時代を生きた人々がいるということから、そのことへの反省というのか、哲学的反省が十分ではないのではないか、というある神学生のツィートを見かけたが、特に、包括組織を構成していない、戦前からある日本の福音派の場合、この部分の反省は十分なのだろうか、ということを思わざるを得ない。一部にその反省をする動きがないわけではないが、福音派とラベルが貼られたキリスト教界全体でのそのことへの反省が浸透しているかどうかについては、かなり怪しいと思う。

 しかし、この部分などを読みながら思ったことは、

 極楽浄土でハスの葉に半跏思惟像で座るイエス様のイメージを持つキリスト者、
 「父母を敬え」を儒教的日本文化に即して年長者を尊敬すべきだ風に解釈するキリスト者、
 天皇家をメシアが出る家系とするようなキリスト者、
 日ユ同祖論に走るキリスト者

の皆様(これらすべてははリアルにお出会いしたことのあるご自身をキリスト者とする方々である)なんか、完全に「文化を選択的に批判的にみていく目」が甘いのではないかと思うのだね。まぁ、そう思うミーちゃんはーちゃんの聖書理解がおかしいだけなのだろうと思う。

 ところで、ミーちゃんはーちゃんが思うに、文化を選択的に批判的にみていく目というか、他者性をもって文化を見て、問いを立てるってのが、メタ思考だと思うし、キリスト者が社会に生きる中で、その社会の中におかれる一部を形成するものとして、あくまで他者性を持つこと、預言者的役割のだとおもう。つまり、そばにいながらも、あるいは同じ地点かその周辺の地点に立ちながらも、他者性をもって、自分という存在、自分を取り巻く社会という存在、自分が属する教会を、フルぼっこにしたり罵詈雑言大会にするのではなく、愛情と問題意識をもって、見つめなおすという作業がメタ思考だと思うのだけど。

 批判と言うと、日本では、1950年代左翼運動、その後の革マルだの中革派だの批判哲学に基づかない一種の暴力革命主義がはびこったので、罵詈雑言大会をすることが批判だという認識が広くいきわたっている(典型的には、某テレビ局の朝まで生何とか)が、批判哲学の系譜では、そういうのは批判や哲学的反省とは言わないような気がするのだが、違うかなぁ。

 また、長い投稿となったので、このへんで。次回は、まだ、藤原論文を引用しながら、教会による社会の変革を考えてみたい。



評価:
価格: ¥3,024
ショップ: オンライン書店 BOOKFAN
コメント:預言者の性格を考える際には、最適の一冊。是非お読みになられることをお勧めする。

  FB上のお友達のS先生から、中学生は平日も忙しいのでは、とか、M先生から、土曜日は?とかいうコメントいただいたので、ついでにやってみました。ただ、1975年はデータ疲労のめんどいので省略。今時点の中学生さんの動きを追ってみました。

 今回は%表示です。

中学生の平日の学習状況

まず平日から
平日学習
図1 平日の場所別時間別学習者比率

 図1は平日の中学生の時間帯別の学習場所を示したものである。この図からは、中学生の学校での15時くらいまで拘束されていて、17時くらいから学校での時間を過ごすものの比率と自宅等で時間を過ごすものの比率が逆転する。18時以降は、塾ないし自宅で学習するものの比率が急速に向上する。9時台が中学生の自宅ないし塾での勉強時間のピークとなっている。18時以降20%を超えていて、9時ころピークを迎え40%の中学生が、塾ないし自宅で勉強していることとなる。まぁ、塾だとは思うけど。

土曜日の中学生の
時間帯別場所別による学習状況

土曜日学習
図2 土曜日の場所別時間別学習者比率


 では、土曜日がどうなっているのかを示した図が、次の図2であり、自宅ないし自宅外で勉強しているものは、おおむね9時以降5%から13%程度の間で、時間的に変動している。

 しかし、この図を見ていて面白いのは、土曜日の朝でも中学生の40%ぐらいが学校にいるし、8時から16時くらいまで学校にいる生徒は20%を超えている。中学校の先生には、土曜日はない人が多いのだろう。せっかくの週休2日だというのに。

中学生と雑誌、書籍などの
文字系メディアの接触

メディア

図3 土曜日の中学生の新聞 雑誌、マンガ、本の時間帯別接触率


 新聞は、1%といっても、サンプルが83サンプルなので、一人見ているか見てないか、ですね。新聞、人気ないなぁ、
 雑誌マンガ本に至っては、三つまとまっても、83人中4〜5人が見ている程度、活字離れは、すでにマンガまで入れてもこの状態。中学生向けの児童書とかって発想もあるけど、もう、キリスト教関係では、さらに市場が小さいので、無理かもしれない状態。

土曜日の中学生の
テレビ・ネットの視聴状況

 じゃ、テレビやネットはどうよ、って話になりますよね。

テレビ ネット

図4 土曜日の中学生のテレビ、ネットの時間帯別接触率


 テレビは、午前7時くらいから10時くらいまで15%程度の視聴している中学生がいるが、午後からは5%程度で推移する。18時以降、急速に中学生でテレビ見ている生徒の比率が増加し、午後9時には、40%超の中学生は何らかのテレビを見ている。日曜日のピーク時間が19-21時であるのに比べ、土曜日は、21時台のみが鋭いピークを見せており、その意味で日曜日19-21時台が中学生の中での一定の視聴が期待できる時間となっていることがわかる。
 ネットについては、午後5時以降5%以上で推移しており、土曜の午後5時から23時あたりが、中学生にとって趣味でインターネットを触る時間のピークタイムとなっていることがわかる。この段階では、スマートフォンの普及時期なので、この5年間でどう変わったか、の調査が待たれる。

レジャー活動全体について

レジャー

図5 土曜日に中学生でレジャーとして時間を過ごしているものの比率

 この図5を見ていると、土曜日にレジャーをしている生徒の比率は、ピーク時の14-17時でも35%程度しかない。前回の記事では、日曜日の午後4時ごろ45%以上であったから、土曜日の午後が、ユースにとってのゴールデンタイムというわけでもなさそうだ。

 しかし、現代の中学生って、すごく忙しいのね。土日の午前は学校で、レジャーができるのは、土曜の午後2時以降5時まで、日曜の午後2時以降5時ごろがピークって、結構厳しいよねぇ。現代人はテレビが欠かせないっていうけど、中学生がテレビ土曜日に見ているものの比率が多いのは、夕方6時以降10時までなので、こういうタイムスケジュールで行動している中学生伝統ってのは、それなりのものがあっても、中学生はそこに参加すらできないのかもしれない。




 


Calendar

S M T W T F S
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    
<< September 2014 >>

ブクログ

G

Archive

Mobile

qrcode

Selected Entry

Comment

Link

Profile

Search

Other

Powered

無料ブログ作成サービス JUGEM