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今頃、まだ、こんなことを書いているのか、というご批判をある方からいただいたが、それすらわかってない人々がどうも多数おられそうだ、という現状があるので、書くことにしている。さて、前回は、ウェブ時代以前のマスメディア型の情報という、コンテンツのコンテナとしてのメディアの利用法として、Push型のメディアとその問題点を指摘し、近代社会においてはPush型の利用は適合的であったものの、ポストモダン、ポストコロニアル時代を迎えた現代社会においては、そのようなPush型のメディアの利用方法は社会において不適合になり始めているのではないか、と実例を紹介しつつ、個人的見解を展開し、ご紹介してきた。

 

今回は、近代の多様化し、ポストモダン時代を迎えた現代に比較的適合的と考えられるメディアの利用法、Pull型の情報メディアの使い方と、Webを活用した情報メディアと、キリスト教界との関係を考え、そのうえで、前回紹介したPush型の情報メディアと、Pull型の情報メディアとの関係について、Mappingしてみた関係図を示してみたい。

 

Pull型のメディア利用

Pull型のメディア利用の代表的な例は、購買型のメディアの利用タイプのものでもある。この購買型タイプで提供される情報提供メディアの場合、例えば書籍とか、雑誌とか、新聞などが典型的であるが、このタイプの場合、買うことをやめる、開くのをやめるというアクセス停止を含めて、自分で選択できるというオプションが、かなりたくさん残っている事が多い。本来、その意味で、新聞なんかも、Pull型のメディア利用の方法にのっている、とは言える。嫌なら読まない、嫌なら見ない、というオプションが、そもそも存在しているのだ。何か調べたいことがあるとか、何か見たいことがあるとか言った時に、あとからでも確認できるのと、時間がたっても再現性がある程度ある、その意味で、必要に応じて、という意味でのOn Demand型のメディア利用ということが特徴である。

 

聖書なんかは、典型的なPull型メディアの利用タイプではあると思う。自分が開かなければ、自分が記憶していなければ、自ら聖書をあける気がなければ、聖書は開かなくても済む。要するに開けなければ無関係でいられる。しかし、開ければ、そこから何らかのものを得ることがあるし、ある意図を持ってテキストそのものを改ざんしなくとも、ある特定の読み方をすれば、異なった意味合いを引き出すこともできる。著者本人の意図と違うことも言えてしまったり、理解できてしまうのが、Pull型メディアの特徴でもあるのだ。つまり、ある面、Pull型のメディア利用による情報発信の場合、発信内容が客体化するというのか、本人の言いたいことが伝わらない可能性が高いのだ。ある面、控えめなメディアの利用法であるといえる。

 

10年位前、ある中学校で、某 外資系聖書配布をする会の皆さんが、朝中学校の門前で投稿中の中学生に聖書を配ったところ、そこの中学生が人がいいのか、行儀が良いのか、殆どの生徒が聖書を貰ったはいいが、どう処理していいのかわからないために、全員教室まで持って行きはしたものの、教室のゴミ箱に直行させてしまったことがある。その後、教頭だったか校長だったかが、各クラスで不要とされた聖書を回収し、同会の皆様にお返ししたということがあったことが、家人からの報告で明らかとなったことがある。

 

メディアは、用量・利用法に注意してご利用くださいピンポ〜〜ン、でしかない。

 

 

 

Pull型メディア利用としてのウェブサイト

電子情報通信の世界だと、ウェブサイトなどが、このPull型メディア利用法を前提としている性格が強い。探せば与えられるタイプの情報提供方法とは言えるので、ある面で、イエス様もある種Pull型のメディアのあり方に近いという側面があるといえば、そうかもしれない。だって、以下の画像のことばにもあるように人間側に一旦はオプションをおあずけいただいているからである。

 

有名な聖書の言葉

 

他にも、

口語訳聖書 マルコの福音書 4:23節

聞く耳のある者は聞くがよい」

とイエス様は、おっしゃっておられる。


さて、ここでかなり明らかなように、Pull型のメディア利用は、他人から求められない限り、相手のところに必要とするかもしれないけれども、本来必要なはずの情報が届かない、という問題も抱えている点である。相手の中にズケズケと入っていかない、入っていけないという欠点を持っているのである。これはすべてのOn Demand型の情報メディアの抱える問題である。
 

ポータルとウェブサイトを見に行くということ

ところで、ポータルサイトというのが一時期、はやったことがある。わかりやすく言えば関連サイトのリンクを集めたリンク集のようなサイトであり、ある情報にアクセスしようと思えば、そこに行くと関連情報がまるわかりになるというタイプのサイトである。ある面、関連情報サイトへのどこでもドア的なサイトのことである。今は、これが下火である。なぜか、というとリンク集とかは、あえて作らなくても、Googleなどが利用している、Bot(情報検索自動化ロボット)がサイトを巡回し、勝手に情報を集めて、それが検索結果に反映されるようになってしまったからである。

 

リンクに対するいろんな評価が書いてあって、リンク先を利用する場合の判断の一定の基準になるリンクサイトのならまだしも、単純なリンク提示サイトであれば、もはやリンク集やポータルは、必要ないので、誰も触らない。

 

ミーちゃんはーちゃんの専門分野に近い話で恐縮であるが、自治体ポータルという概念が流行ったことが会った。自治体が地域振興のためにポータルサイトを立ち上げ、そこで地元企業とかのリンクを張って、サイバー空間でのバーチャルに地域交流サイトを形成することがはやったが、今はもう鳴かず飛ばずに鳴って、忘れ去られている。この先導的役割を果たした「ごろっとやっちろ」という時代の寵児のようにもてはやされたサイトも、今はその残骸があちこちに残るだけである。まるで、沈んでしまった武蔵のように。

このポータルという概念は、リンクが簡単に貼れて、ハイパーリンクで自由にその先に行けるということから、技術主導で始まり、ユーザーや情報提供者にはほとんどメリットがないという現実から、時代遅れになって、武蔵のようなサイトになってしまったのだ。その意味で、地域ポータルや、リンク集というサイトは、GoogleがBotを酷使して、情報を集めまくる、という方法論には勝てなかったということなのだろう。プログラムは酷使されても文句を言わないので問題が起きないだけなのだ。

 

まぁ、ラジオがテレビにほぼ駆逐されたように、あるいは、蒸気機関車が電車にほぼ駆逐されたように、ポータルサイトもまた、Googleを始めとするサーチエンジンに淘汰されてしまったのだ。

 

 

1980年台のテクノPop Video Killed Radio Star

 

必要とされるポータルの特徴とは何か?

ただ、唯一残る可能性があるポータルサイトは、食べログとか価格.COMなどの、実際の利用者が素直な反応を残していて、店舗側と利用者側の個別の情報が統合されているようなサイトだけである。つまり、情報提供者側の意図だけではなく、別の側面からも検証可能なデータが提供されていて、統合的にデータが確認できるようなサイトだけ、存続しているように思うのである。

 

初めてのところに行くとき、初めてのものに触るとき、その時には大きいか小さいかは別として、障壁があることは確かだろう。ミーちゃんはーチャンはもうさすがにやめてしまったが、現在の居住地付近の教会めぐりをした時に、頼ったのは電話帳情報とGoogleさんである。さすがに電話帳情報程度の協会にいくときには勇気が必要だった。教会ミシュランというものも概念としてはなくはないが、それは無益だろう。ある人に会う教会とほかの人に会う教会は違うからである。その意味で、レストランと教会というのは、実際にその場に行ってみないとわからない、という意味で、結構勇気がいるものではないか、と思うのである。だからこそ、誰かの紹介とか、というかたちでお招きするほうが確実なのである。その意味で、昔は人間が教会へのポータルであったりしたのだが、人口移動が激しい社会では、Web情報が教会へのポータルとなり始めているのではないか、と思う。

 

Googleに引っかかるようにすること

ポータルでそのウェブサイトに行くのか、Googleのサーチエンジンでそのサイトに行くのかは別として、ウェブサイトは、Pull型、情報を求める利用者の方のPullがあってはじめて、情報を伝えるタイプのメディアの活用型であることは上で書いた。その意味で、サイトを見てくれるというのは、ある意味で、来訪者がわざわざ玄関先にまで来てくれることであり、お店で言えば、わざわざ店頭まで来てくれることではある。つまり、サイトの来訪者は、そのサイト運営者にとって、見込み客なのだ。

 

その意味で、そのサイトを探しに行って、何も返してくれない、そもそもサイトがない、サイトに中身がない、というのは、ひょっとしてリアルに、実際の場所に来てくれるかもしれない見込み客や見込みのある来会者を、みすみすお帰りいただくというのか、みすみす失望させて空手で返してしまう、ということと等しいように思うのだ。

 

その人達は、Googleであなたの教会か、あなたの教会に関連する何かに関する検索語で、あなたの教会がどこにあるかや、どんな教会であるのかを調べに探しに行っても、電話帳程度の情報、つまり、名前と電話番号くらいしか教えてもらえないのでは、失望するのではないだろうか。Webサイトを持っていなければ、他人が作ったビジネス電話帳以上の情報を手に入れておわりなのだ。その意味で、ウェブサイトがない、あるいは、他人の電話帳サイトが表示されるということは、せっかくお店に行ったものの、どんな商品が売られているのかも、お店の雰囲気も知ることなく、シャッターがガッチリと下ろされているということだけを確認して帰るためだけに、わざわざ行ったのと同じ、ということなのだ。実際に移動が発生したわけではないが。

 

それなら、電話帳で十分であるし、電話帳以上の自分たちの主張や考え、自分たちの良さを訴えかける何かを与えられない、ということなのだ、と思う。

 

電凸した女子学生の話

電話で思い出したことがあるが、以前の学生で1994年位の時期に、ある授業での発表出かけた部分があったので、発表した日本人の女子学生に、鉄道会社の情報システムについて調べておいで、と宿題を出したことがある。まだまだウェブが普及し始めた頃のことである。基本的に、本に当たったり、雑誌に当たったり、図書館で司書の人に聞いたりして、勧められた論文を読め、というつもりで言ったのである。翌週の授業でやたらと詳しく、解説をし始めたので、全部その解説を聞いたあと、「うん、ちょっとまって?それどうやって調べたの?」と聞いたら、電話で聞いたという。

 

その女子学生は何をとち狂ったのか、関西の某鉄道会社に対して電凸取材を敢行したらしい。すごい勇気と思うと同時に、「あぁ、今の学生は、情報入手ツールとして本や書籍にまず当たるのではなく、直接の電話突撃取材をするんだ、こわぁ〜〜〜」と改めて思ったのである。それ以降、毎年楽器はじめに、受講生全員に、電凸禁止を言い渡した上で、授業やゼミでの報告時に参考文献を報告すること、を義務付けたのは言うまでもない。ご迷惑をおかけした鉄道会社の窓口の方には、お詫び申し上げ、ここに、改めて感謝の意を表する。

 

キリスト教界でも、今は標準で、OK Googleでスマートフォンに電話をかけさせ、電凸するのが普通になっている、というあたりの事、すなわち、そういうことが一般化した時代が来てしまったことは、もう少し認識されてもいいと思う。なお、当時の学生は、電話帳で探して電話をかけたらしいが。

 

電凸代わりのGoogle
しかし、今は、直接電凸取材で聞きにくいことを、電凸取材の代わりに、Googleさんで聞いて済ませているにすぎない。要するに、以下の動画のようなことをやっているということのようである。その意味で、Googleさんに調べた結果を返してもらうために、Googleさんのボットさんが引っかけてくださること、というのことは不用意な電凸取材をスルーできるということでもあるし、夜中にかかってくる電凸取材を回避できるということでもあるのだ。それでも電凸する人は電凸してくるのが、電話の鬱陶しいところであり、それを避けるためには、「当教会の牧師の執務時間は、火曜日から土曜日の朝9時から夕方5時まで、日曜日は、すべてのプログラム終了後の午後4時から午後5時までにお願いします。緊急の場合は、FAXをご送信くださるか、牧師の携帯電話までお願いします」という自動応答プログラムを入れて、あとはFAX専用回線にしてしまうことである。

 

Googleがやっていること(もし、Googleが人間だったら… というタイトルの動画)。

 

 

どこぞの電機メーカーでは、そのメーカーさんのお客様窓口が混むので、その対策の一つとして、ウェブサイトを利用しているらしい。ウェブサイトで取説から、ドライバまで、なんでも手に入るようにしておけば、電話窓口対応は減る。あとは、クレーマー対応のエキスパートを電話窓口に用意しておけばいい。今は、ほぼどのメーカーさんでも、電話応対に関しては、アウトソーシングがきっちりされているはずだ。さすがプロは、クレーマーもきっちり対応してくれるし、捌き方もはっきりしている。なお、ストーカーのような電話魔も居るらしくて、それ対策もされている、と聞いている。

 

それと、Googleの場合は、先ほど紹介した食べログや価格コムみたいに、その人達が伝えたい情報だけではなく、逆にむしろある人達が隠したがる、その人達にとっては不都合であるかもしれない情報も、集めてくれるのだ。その意味で、残るポータルであるためには、意見の多様性が確保されるところが、重要なのである。検索メディアである以上、以前であれば無視されたような、どこぞの高架下の壁とか柱とかに張り出してあるような、以前なら着目もされない、たとえくだらない、しょうがない情報も、Googleがご丁寧に勝手に集めてくれて、判断は読み手、選択側に与えてくれるところがGoogleのサービスがありがたい点なのだ。つまり、大本営発表の情報ももちろん、それ以外の情報(たとえそれが誤りを含むもの)も含めて、判断するにあたって必要な情報の多様性があるからこそ、皆さん、Googleにききまくるのだ。基本的に、情報では一般に情報を集めれば集めるほど、実像と情報の間の、その誤差の範囲は小さくなる。我々は、多少間違いが含まれている情報があっても、それをたくさん集めることで、その誤りにまつわる誤差の範囲を狭めることを知っているのではないだろうか。

 

 

映画『不都合な真実』の予告編(結構いい加減なところもある)

 

ネットの付き合い方が変わる世代

 

こないだ、Ministryにも登場しておられた蝉丸Pさんやお仲間の方とご同席する私的な機会があって、集まっている皆さんに仏教界とかでは、アイテ−化とかどんな感じなんですか、って聞いたら、おそらく、スマホに向かって、「Siri 〇〇を調べて、とか、○○に電話」とか「OK Google ○○ってなに」とか「OK Google ここから池袋」という世代と、それ以上の世代がウェブの付き合い方が少し違っていて、鍵盤を打鍵できない(IBM風に行ってみた)人も・・・って感じらしい。まぁ、キリスト教界でも似たようなものだろう。その意味で、Webの世界はまだまだというところもあるのはよく分かるが、おそらく、もう数年後には、OK Googleとか、下のCookie Monsterのような人の使い方が社会の主役になるのは、もはや、時間の問題である。その人たちにいくら、紙の印刷物がなんとか、とか言っても、無意味なのではないだろうか。

 

 

OK Googleする人々。

今の若い人はこれ。ミーちゃんはーちゃんはオジサンなのと、携帯電話はガラケーなのでやりたくてもできない。

 

iPhone6でSiriと話すCookie Monster君

 

Cookie MonsterがSiriを使うCMの裏側、というよりは「意図的におまいら作ったろう」という映像作品

 

この話を書きながら思ったことがある。それは世俗の仕事で、時にプログラム開発を教えることがあるのだが、今の学生さんの一部に、QWERTY配列のキーボードで、文章やコードを打つのが苦手な人々がいるのだ。「え、QWERTYとかで文書、アルファベットかな変換しないの?」とお尋ねすると、一部の学生は「なんでですか?」とのたまう。「携帯以来使っている、平仮名返還が早いので、それでいいじゃないですか、文字の候補教えてくれるし・・・」だそうである。今はそういう時代なのだなぁ。

 

返す言葉がなかったことを、ここに記しておく。
 

教会のウェブサイトで伝えてほしいこと

個人的には、教会ミシュランや教会ウェブ・サイト・ミシュランみたいなものを作るつもりでもなく、一時期、現居住地の近傍の教会めぐりをしていたことがあった。単によその教派の教会文化を知りたかった、という非常に単純な動機である。多くの教会では、日曜朝一回だけしかチャンスがないので、あっちこっちには行きにくい。その意味で日曜日は年に50数回しかないし、日曜日は、教会が普通の状態での教会訪問のための貴重なチャンスなのだ。

 

その時には、電話帳とGoogleにお世話になった。結構、信仰歴何十年でも、自派の教会と違うところに行く時の障壁は流石に大きかった。それは正直に言っておきたい。

 

アメリカ滞在中も教会探しをしたことが何回かあるが、そのときも、基本電話帳とウェブであった。海外でも日本でも、よほど「電凸してから、行こうか」と思ったが、勤務中は電凸できないし、かと言って、夜間、電凸するのも気が引けるし、そもそも電凸できる時間が限られることなどもあるので、結局諦めた。

 

特に、現居住地周辺は、教会の種類も多く、教会の密度も高く、関係者も何人か存じ上げている人の関係の教会も多いので、電話帳情報程度の情報だけで行くのは、正直つらかったことがある。このキリスト教業界、めっちゃ狭いのである。どこで知り合いに会うかわかんないし、実際に知り合いは居ないだろう、と思って参加したら、お知り合いに出会うことで合うこと。もはや苦笑いするしかないレベルであった。

 

ところで、その教会巡りをしている時に、教会のチラシとか、教会のサイトとかには、牧師さんや特別プログラムの講師の方が、どの大学出てるとか、どの神学校出てる(そして、説教を伺う限り、それはほとんど誤差の範囲に見えた)とか、どの組織でどんな役職だったかは、別の教派の人間にとってはほとんど無意な情報も結構ある。たしかにノーベル賞受賞者が教会にいるとか、超有名人が毎週協会にいるとかなら、それは話が別だが、そうでない人の経歴や受賞歴って、ほとんど意味がない。これは、いのフェス名古屋のご講演で講演者の方がご紹介されていたとおりである。(こちらでご覧いただけます。画質悪いけど http://breadfish.jp/churchs_transmission_of_information/2754.html )

 

それよりも、自分たちの聖書理解とか、自分たちが大事にしているコアな信念とか行き方とか、他の情報源から入らない情報とか、開始と終了時間の話がきちんと書いてあるサイトを持っている教会のほうがありがたかった。特に終了時間の情報の明記は重要であるなぁ、と思った。

 

ミーちゃんはーちゃん風教会サイトへの希望

終了時間が書いてないとエンドレス覚悟だし、関西なので、お昼のお食事の時間、あるいは、おうどんの会(関東ではカレーの会らしいが)があるとかないとか、その日の予想されるイベントとかが、書いてある教会はほとんどなかった。まぁ、おうどんの会とか午後のプログラムとか、よほど興味が無い限り、たいてい新来会者の特権でパスさせてもらった。

 

まぁ、個人的な希望を言えば、自分たちは何を目指している教会か、自分たちが何を重視しているのか(それは案外外部者に自明ではない)は、ウェブサイトに明記しておいてくれたほうがいいなぁ、と思った。聖書とか、キリストとか、そんなのは当たり前なので、まぁ、キリスト教が初めての人には、必要かもしれないが、そもそも、それをどう書いたところで、全く教会初めての人には無意味だろう、と思う。その意味で、初めて来る人、教会が初めての人にとっても、人数が多いとか少ないとか、年齢層はどうだとか、明るい教会とか、聖書をきちんと学ぶとか、といったその当たり前でない部分を明らかにしてくれているとありがたいと思う。また、礼拝後の、行事予定などがわかれば、なんとなくは推測が可能にはなるので、これらの情報は案外ありがたいとは思ったが、こういうのは明らかでないところが多かった。

 

あと、教会の外面はなくていい。住所がわかればGoogle Streetで確認できるので。それよりも、できれば、建物の内部の普段の写真は、あったほうがいいと思う。教会の内部の写真は、案外情報量が多くその教会の雰囲気を伝えてくれることが多いので、助かるのではないかと思う。それと教会内部の細かいところ(張り出しているポスターとか)に、教会内部の細部に、その教会のキャラクターが出るように思う。

 

あと、プロテスタント教会の場合、説教が長い傾向にあるが(儀式がない分だけ)、説教は動画でなくてもいいので、音声で説教のサンプルでいいので聞かせてもらえるだけで、十分ありがたいと思う。音声や喋りというのは、案外その人のキャラクターが出るからである。文字だと消えてしまうその人らしさ、その人がおもちの傾向というのがかなりクリアに出るのである。音声情報は案外情報量が多いのだ。

 

とはいえ、毎週の説教原稿もありがたいといえばありがたいが、ただ、説教批評マニアのかたとか、説教ミシュランをしたい方とかは別として、毎週分はいらないかも、と思う。それよりも、そんなに長くなくていいので、いや、正直言うと、長くないほうが助かるが(と言いつつこのブログ記事は異様に長い)、とりあえずさっと読める説教か説教要旨がひとつか、二つあるだけでも、なんとなくのその教会の考え方とか、そこの牧師とか語り手の考え方とか理解が出るので、本当に助かる。

 

 

このサイトでは以前あるところでしていた説教の一部や説教要旨をあげていたことがある。しかし、今は教会とかで、説教などはしてないので説教も一切あげていない。ただ、このサイトのように過去の説教をあげていると、集中してある時期に特定の聖書の場所とか、特定の項目で検索をかけて、その昔の説教の記事へのアクセスが集中することがある。神学も議論もしてない、説教情報がほとんど無いこのブログにすら、説教ネタを求めてか、特定の人物名とか、特定の聖書箇所で検索をかけた結果、たどり着かれる方々がおられることがわかることがある。そういうのを見ると、日曜学校のお話にしても、教会の説教にしても、皆様、説教準備に、大変ご苦労しておられるのだなぁ、とご同情を禁じえない。

 

ところで、説教といえば、今、ヨベルさんから門叶国泰 さんという方が所属教会の説教をメモに起して、個人の感想をつけたものが『説教聴聞録 ローマの信徒への手紙』という書籍におまとめいただいて出版されているが、ここまで文字にされてしまって、おまけに解説までつけられたのでは、説教者のほうは、かなわないだろうなあ、と思ったことがある。まあ、この方のメモとそのコメントが半端ではないので、この本自体は楽しんで読んだ。

 

ウェブサイトは、ショーウィンドゥみたいなもので

余談はさておき、なぜ、夜間、百貨店や商店が、夜間電気代をわざわざ使い、さらに、分厚い耐衝撃性ガラスとかアクリル樹脂をはめ込んだ、高価なショウウィンドウに商品を飾るのだろうか。それは、夜、自分のお店の前を通る人にも、自分たちの商品を見る機会を確保したいからではないだろうか。そして、売上をちょっとでもあげたいからこそ、すなわち、見込み客を本物の購買客にしたいからこそ、自慢の商品のチラ見せをするのではないだろうか。

 

新しい来会社の人々が来なくて、毎週閑古鳥が鳴いている教会も、高踏的な趣味でそうされたいのなら、それはそれで一つの見識であるとは思う。つまり、自分たちは世俗社会から隔絶されて生きるのだ、と宣言するのも一つの見識ではある。まぁ、確かに、キリスト教会自体、世間に門戸を閉じ、高みから眺めるのが良いと主張された人々がいた時期が、これまでも何回もあった。その時期にも、その閉じられた門戸や塀さえ乗り越えて、その中に人はやってきたこともある。そして、それだけの中身が教会には本来あることだけは確かであるが。ただし、そのような方針であるのならば、人が来ない、若者がいない、ということを嘆く必要はないのではないか、と思う。

 

玄関の戸を叩かれても(Googleで検索されても)、門戸を開けさせもしない(ウェブサイトを掲げない)ということになるかとは思うのだ。もし入ってきたいと思えば、ドアを壊して打ち破ってこい、リアルで突入してこい、あるいは塀をよじ登ってこい、というようなものである。われわれは、君たちには関心がないのだ、と言っているようなものである。正に、玄関に表札すら掲げない、ということでもあるのだ。

 

まぁ、そうであっても、ルーベンスの絵をひと目見たいと重み、ルーベンスの絵の前で、世界名作劇場版のアニメ作品では死んだネロくんのように、教会で神をちらっとひと目でも見たいと思う方に、教会がいかにガードを固めていようとも、その教会ではたとえ、神と出会うことが無理でも、他の場所や他の教会で神様はご自身を、多くの人々にお示しになられるのだ、と個人的には確信している。

 

ネロくんが出て来るフランダースの犬

 

福音はWebで伝える必要はないし、できないけど…

このブログは、キリスト教考現学か一神教型宗教社会学のヒントを提供をしているブログであると思っていて、説教を載せるのは、早い時点でやめた。他の人がご自身の説教ネタをWebで公開していてくださるからである。

 

まぁ、その教会をいきたいか、と思った時にその説教内容、説教要旨は参考になるが、それを毎週愛読する気に離れないし、世の中に書籍化された説教集は大変たくさんあるので、それで十分であると思っている。現在は、説教より、様式や祈祷文に込められて、その成文祈祷文をともに読み、自らの不甲斐なさと不完全さに関して反省しつつ、神が地上に来られたことに思いを馳せ、キリストが地上に来たという神秘を毎日曜日考える生き方が楽しいと思っている。そして、最後に、神を愛し、神に仕えるために神との平和を生きる生き方に行きたいと思っている。

 

情報を伝えるコンテナ、あるいは、

情報を入れるハコとしてのメディア

トラクトも印刷物という面では、ご自由にお取りください、という状況なら、Pull型のメディア近いのだが、それが郵便箱に押し込まれた瞬間にPush型に切り替わるところが問題なのである。


その意味で、メディアはハコであるので、Push型(押し込み型)とかPull型(引き取られ型)利用とかは本来ないのであって、それは使い方によるのである。基本的にハコは中立であるが、ハコの使い方がメディアによって一定の傾向を持っていることが多いのと、そのハコに付随した文化というか、ハコを使う人の性格というか性質が、ハコの使い方に現れるから、Push型になったり、Pull型のメディア利用になったりしやすいだけだと思うのだ。

 

 

その意味で、最近「目覚めよ」を配布しておられる団体は、以前のPush型のメディア利用を主にしておられたのだが、最近は、どちらかというと、Pull型のメディア利用の方法やかじを切っておられ、差し出すのではなく、希望者のみに配布、というスタイルに変わっておられるようだが、朝夕のラッシュ時には、もうちょっと他所でやってほしいなぁ、と思うこともある。最近、この目覚めよをご配布しておられる方々は、印刷物がPull型利用されていて、そのような提供のほうが有効であるかどうかを知ったからかどうかは知らないが、このようなスタンドを立てて、積極的に呼びかけずにただ無言で立ち尽くしておられる。

 

まぁ、今のスタイルだと、単に立っているだけ、ということになるので、警察の道路使用許可を取らずに済ませられるかも、ということなのだろうが、本来的にはアウトであるような気がする。まぁ、京都大学のごくごく一部の学生は、百万遍の交差点で、ちゃぶ台囲みながら、交通整理に当たる警察官に「自分たちはバーベキューをしながら道路を通行しているのである」と言いはったらしいから、それと似たようなものかと思う。orzさん、真似しちゃだめだよ。同じ京都だから、どこでも同じだろう、とか言って。

 

 

メディアのマッピング
では、今回の記事の最後に、どのような形で伝達するか、どのような方法としてメディアをという方法論を中心にしながら用いているのか、ということについて図解してみたい。

 

上記の文章をつらつら書きながら、思ったことを最後にマップとして整理してみたい。縦軸は、発信さえる情報の同質性であり、北側に近づくほど同質的な情報が発信されることになり、南側に近づくほど、受信者の側に対応した個別性の強い情報が発信されていることを表す。この図で北側は、ある面情報の受け取り手数のボリュームとしての大きさ、とも取ることも可能であるが、念頭に置いたのは、どの程度類似した情報が発信されているかの軸のほうが良いと思う。その意味で、南側は、ある面で言うと、受け取り手の少なさ、と理解もできなくはないが、情報の受け取りてへのカスタマイズ具合だと思ったほうが良いとは思う。

 

教会の説教は、電話と路傍伝道のちょうど東側あたりに位置すると思う。教会の中のメンバーになってしまうと、教会内には基本逃げ場がないので、電話の東側ではないかとも思う。基本的には説教の内容は、教会内では、同質的な情報でもあるから、駅頭配布トラクトのやや北東側でもかまわないようにも思う。説教はどうしても、同質的なものとして受け取られやすい。

 

個人的には、そうはならないように、出席者とインタラクティブな説教をしたこともあるが、不真面目だとか、学校の授業みたいだと怒られたことも過去にはあった。まぁ、最近はそういうこともなく、教会に一参加者として淡々と参加できているので、非情に心穏やかに日々を過ごしている。

 

なお、個人として授業する際には、どうしても授業という性質上、プッシュ型になりやすいので、それを緩めるために、質疑応答をしたり、受講者に問いかけをするようにして、Pull型的な要素も取り入れるようには努力はしているが、基本、授業とか説教とかはPush型になりそうだなぁ、と思う。

 

メディアの分類図 ハコとしてのメディアの使い方と、情報の提示

 

インターネットに振り回される大手マスコミ

しかし、どうも、キリスト教メディアに感心をお持ちの方でも、このあたりの感覚をお持ちでない方々もおられ、従前どおり、正しいことは紙に印刷して、できるだけ多くの方にお伝えすべきだ(殆どの誰もが、紙に書いたものは、もはやどーでもいい、とか思っていてごく一部の人しかありがたそうに需要してないのに)、とか、良いことだからお伝えすべきだ、そして、紙に印刷して記録を残しておくべきだ、他のマスコミからの問い合わせがあった時に、とか言われる方もおられるが、本当にそうだろうか。

 

前回の記事でも書いたように、もはや、日本の新聞、テレビ、ラジオ、週刊誌は、基本ネット情報に依拠していて、まず、記者さんがGoogleするところから、多くの記事ができていく時代である。だとすれば、ネット上にGoogleがPullしやすい形で出しておかないのであれば、誰も見ない。記事もならない。今や、古い資料や一次ソースにあたってまで、大手マスコミなどもチェックしないし、チェックしきれない時代がやってきているのだ。それを如実に示したのが、オボちゃん事件であり、理研から出た情報にだけ頼り、オウム真理教の犯行なのに警察の関係者から出た河野さんが容疑者という情報に振り回され、独自の調査をサボり、河野さんを被害者にしてしまったのではないのか。今はそんな時代なのである。誰かがネットでいったことに飛びつくのであって、ネットで流していなければ、その情報にも飛びついてもらえない。その意味で、ネットで情報が引っかからければ意味が無いのである。

 

 

その意味で、現在、ある面、新聞が多くの場合、警察情報の丸呑みをしているかのように、ネット情報の丸呑み(一応、アクセス先と言うか電話先がわかれば、電話取材で裏を取っているのが関の山のようであるが)が起きているのである。その意味で、紙メディアだけに存在する情報は、大英博物館の中にうやうやしく眠っている粘土板や石の板に書かれた碑文と大して変わらない(大英博物館は、資料が有効に利用されていないという側面があるので、収蔵品をデータ化し、カタログ化し、ネット上に情報を上げる計画を必死になって取り組んでおられるのではあるけれども)。知る人だけが知る情報になっているのだが、そういう内向きな体制が教会なのだといえば、そうなのかもしれない。


次回予告

次回、現行のキリスト教ニュースメディアに望むことを書いてみたい。関係者には耳の痛い話になろうし、「ワシラにどうやって生きろ、というのか」という話になるかもしれないが、好き勝手、この際だから言わしてもらいたい。読みたくなければ読まなければいいのである。だって、押しつけはしないから。また、キリスト教メディアの皆さんのところに言って、ねじ込んで、団体交渉する気力も体力も、資金力も、もうミーちゃんはーちゃんにはないから、安心してていい。スルーしてもらったらいい。聞く耳のある人には聞いてほしいくらいには思っているが。

 

大体、夢は語らねば実現しないではないか。以下の動画で示すマーティン・ルーサー・キング・ジュニアは問題の多い人ではあるが、その問題が多い人でも、夢を語ったらこそ、オバマ現大統領(そしてもうすぐ前大統領、アメリカでは、大統領やめても、呼びかけは、基本Mr. Presidentである)が大統領になったのではないだろうか。

 

私の夢は実現しないだろう。多分、私の予測は外れているだろうし、できれば外れてほしい。世俗の仕事のことでまたまた恐縮であるが、私は読みを間違ったことがある。それは、自分が利用しているソフトウェアを使うにあたって、ウェブへの対応はしないだろう、そして、スタンドアロンで動き出すだろう、と思っていたのである。しかし、その様相は外れた。今は、ウェブへの対応はしてない、その対応が遅れたソフトウェアは市場から追放である。家庭の中にここまで、インターネットが入り込むとは思えなかったし、スマートフォンが普及するとは思えなかった。予測は外れた。夢も潰えた。それと同じように外れてほしいし、ミーちゃんはーちゃんの夢も潰えるだろう。それはそれでいい。人間とはその程度のものであるからである。鼻で息するものだからである。でも、夢くらい、ちょっとくらい言ってもバチは当たらないだろう。言わなければ、なにも始まらないのだから。公民権運動も大きくはならなかったのだから。完全にそれが実現していないとしても。

 

そして、次回は、I have a dreamとこのブログでいってみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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本日は、キリスト教とWeb時代を迎えたメディアの関係について、もう少し、Webと人との関わりと組織としての教会がどのように関わってきたかを中心に、より深めて書いてみたい。基本的な補助線は、先月ご紹介した 教会の情報発信についての動画の紹介   でご紹介された内容の発展系ではあるが、それをもう少しメディアと社会との関わりで深めたものと思ってもらえたらよいか、と思う。まぁ、ある面、今日のお話は、高校で教えるような、メディア・リテラシーという名前はついているものの、実態としては、メディアのエチケットを教えているタイプのメディア・リテラシーというものではなく、どうメディアを使いこなす上での、メディアの使われ方の特性はどのようなものであるのか、を考えるタイプのメディア・リテラシーである。キリスト教の旧メディア(紙メディア)の人なら、こういうことを考えている人が多いのか、と思っていたら、それが案外考えていないし、キリスト教の新メディア(Web系メディア)の人もあんまり考えてない人が多いみたいなので、ちょっと書いてみる(ちょっとと言いつつ、長めではあるけれども)。

 

なお、以下では、メディアとは情報を入れておくためのパッケージ、情報を運送するためのパッケージ、入れ物、ハコであるとする。時々、メディアの議論で混乱しているのを見ることがあるのだが、基本的にハコと中身を混乱して議論をされる人たちがいるところである。

 

Push型として用いられるマスコミや電話

Pull型として用いられるWebサイト

メディアにはPush型メディアの利用と、Pull型メディアの利用がある。何を持って、Push型メディア利用と言っているかというと、情報の出し手が知りたい情報を押し込んでくるのがPush型メディアの利用方法であり、ある種押し売りのようなちょっと失礼なメディアがPush型メディアである。Pull型メディア利用というのは、何かにアクセスしようとした時、必要に応じて見られるメディアであり、ある種、オンディマンド型のメディア利用である。情報を運んでくるという点においては両者とも共通であるが、情報を出す側が情報を与える感じになるのが、Push型のメディア利用であり、情報を受け取る側、利用者側が情報を、ある場所から取り出す感じ、になるのがPull型メディア利用と、お考えいただければ、わかりやすいかもしれない。

 

失礼なことの多いPush型のメディアの用い方

そもそも、Push型、すなわち、押し売り型のメディアは大変失礼なメディアである、と思っている。問答無用に個人の私的空間に遠慮会釈なく入ってくるからである。最も代表的なメディアが電話とチラシと街宣車である。いずれも大変非礼極まりない。相手の状況をわきまえず、言いたいことを言ってくるのが、このメディアの利用なのである。

 

テレマーケティングというPush型の用い方

アメリカでは、2004年頃にカリフォルニア州法か、連邦通信法が改正されて、業者が電話をかけるタイプのセールス(プッシュ型テレマーケティング)が禁止されたはずである。2003年にアメリカにいたときには、結構セールスの電話や、社会調査の電話がかかってきた。ひどかったのは、電話会社のセールスで、「うちの会社に電話回線を切り替えたら、100ドルあげるので、他社から変えませんか?」というタイプの電話が夜の9時頃頻繁にかかってきた。いずれも、発音が微妙だったので、「あなた、どこからかけているの?」とオペレータにいったら、インドからだという。

 

実際、なぜそんなことができたか、というと、セールスをしたい電話会社の市内の支社と、インドとをインターネット回線で繋いでおき、支社から計算機で、順次リストにある電話番号に電話を自動的にかけ、相手が電話に出たら、インターネット回線でつながっているインドのオペレータとを繋ぐのである。こうすげば、電話応対の作業は、作業単価の安いインド人に任せ、アメリカの市内通話がゼロであるため、電話料金の負担をしないで、電話で押し売り型のマーケティングができたからである。

 

電話は受け手の状態が見えないまま、かかってくるので、非常に困るメディアなのだ。特に携帯電話は困るが、何かあった時にどこにいても知らせてもらいたい場合がある時に、あるいは、出歩いていることが多い場合には便利ではあるが、運転中であれ、現地でソフトウェアの微修正していたり、エラー対応方策を考えている時、何であれ、かかってきてしまうのが困るところである。

 

街宣車と伝道

チラシや街宣車も似たところがある。我が家には時々、エホバたんの皆さんが機関紙なのかトラクトなのか、よくわからない「目覚めよ」と言うものをご配布いただいている。一時期は、家人が真面目な研究対象としていたことがある。何がどうキリスト教の標準的な概念と違うのかの研究を実資料に当たりながら、研究していたようだ。面白かったのは、いま、キリスト教とは違い、自分たちのほうが優れている、という方針で布教するのではなく、キリスト教徒として、クリスチャンとして、エホバたんは布教するスタイルになっているらしい。比較研究したことはないので、あくまで家人の印象の伝聞情報の範囲のことではある。

エホバたんの機関紙、めざめよ(米国版) どうもNintendo(ファミコン)はエホバたんには、ご法度らしい
 なお、上智大学で公開されているカトリック教会の方から見た、エホバの証人の表現をここに引用しておく。なお、取得したサイトはこちらである。

70.「エホバの証人」の人が戸別訪問して来ますが、新聞では輸血拒否などで騒がれています。どのような教派なのでしょうか。

「エホバの証人」とは、やはり米国で一八五二年に創立されたキリスト教的な新興宗教です。創立者はチャールズ・T・ラッセルという人物ですが、彼は他の新興宗教の教祖と違って、自分が新しい啓示を受けたとは主張しませんが、聖書を自分勝手に解釈し、自分こそが聖書の正しい意味を発見したと主張します。とりわけ『ヨハネの黙示録』を勝手に解釈して、ハルマゲドンと呼ばれるサタンの軍勢との戦いが起こると予言し、救われる一四万四千人に入れられるように呼びかけました。そして、世界中に『ものみの塔』という小冊子を刊行して、自分の聖書解釈を広めようとしました。

彼らの輸血拒否は、もともと旧約聖書の掟に由来します。生命の源である血は神に属するもので、動物の肉を食べるときにも血は神に捧げなければならないという掟ですが、エホバの証人たちは、その掟を字句通りに受けとめて、輸血は人の血をもらうことだから、動物の血を飲むに等しく、許されないとします。実は聖書そのものも、やはり時代の制約を帯びたものであって、字句よりも、むしろその真意を読みとることが大切です。字句通りを絶対視することは、かえって聖書の精神を損ねてしまいます。だからこそ聖書の解釈は、やはり教会の伝統に基づいてなされなければなりません。

エホバの証人たちは、キリスト教の正統信仰である三位一体の教義を否定します。彼らの熱心な宣教活動は確かに尊敬に値しますが、しばしば人を狂信的、独善的にしてしまいますから、注意しなければなりません。

 

抜書きすると、こんな感じになるだろう。

 

「エホバの証人」とは、米国で創立されたキリスト教的な新興宗教で、世界中に『ものみの塔』という小冊子を刊行して、自分の聖書解釈を広めようとしました。彼らの熱心な宣教活動は確かに尊敬に値しますが、しばしば人を狂信的、独善的にしてしまいますから、注意しなければなりません。

 

だそうである。

 

確かに、この皆様方は、異様にご熱心であり、チラシ配布のみならず、パトロールカーですら、一日に一回、それも外周を申し訳程度にしか巡回しないのに、わざわざ拙宅までご訪問調査をしてくださる上に、不在であれば、手書きのメモ付きで、チラシをポスティングしてくださる。そういえば、大川総裁の幸福の科学の皆様からもポスティングでチラシをご恵贈していただいたこともあるし、一般社団法人実践倫理宏正会の皆様からは、倫風という雑誌、結構高そうな雑誌まで、お願いしないのにポストにご恵贈いただいたことはあるし、結構いろんなものを皆様ご恵贈くださるのであるが、大抵は見ないままゴミ箱行きである。

 

押し込み型メディア利用としての

トラクト・ポスティング

以前、公営集合住宅などに教会員の一人として、チラシを撒いたことがあるが、ご不在なのか。長期出張なのか。物臭なのかはわからないが、チラシがいっぱい投函され、ポストが満杯状態であるような郵便受けを見たことがあるし、チラシ投入禁止ということを大書したものが張り出されたポストもあった。なぜ、こうなるかとういと、チラシがPush(押し込み)型のメディア利用であるので、問答無用に相手のところにお届けされてしまうからである。

 

アメリカでも、こういう教会の印刷物をお届けする作業にも携わったことがあるが、アメリカでは、郵便箱は連邦法の郵便関係法規の関係から、日本みたいに気軽に個人宅のポストに勝手にトラクトを投函することができないそうである。そのため、とりあえずドアをノックし、会って自分の名前とどこから来たかを名乗って、直接手渡ししろ、と言われてビビりまくりながら印刷物(トラクトと、キリスト教界では一般によばれる印刷物)を配布したことがある。アメリカの場合、気をつけないと、玄関先まで行くということは、下手をすると不法侵入にあたるため、散弾銃で殺されても文句は言えないから、正に決死のトラクト配布、命がけのトラクト配布であった。

 

あと、印刷物を配布するのに、電話帳を持ってきて、そこに書いてある個人の電話保有者の住所と氏名をリスト代わりにして、一つ一つ手書きでトラクトを、郵便局に切手代を払って配布してもらうための、宛名書き作戦にも協力したことがある。どうも、アメリカの家には、郵便箱と新聞受けが2つ別にあるところが多いが、郵便局員以外、勝手にメールボックスに投函してはならない法制度がそうさせているらしい。個人的にやったことはないが、アメリカでは送りたい郵便物に切手を貼って、自宅前のポストに入れておいて、自宅前のポストの赤い小さな旗の形状のものを、目立つように上げておくと、郵便物を回収してくれるから、その辺のこともあって勝手にポストを開けてはいけないらしい。

 

 

アメリカのちょっと田舎で見る郵便ポストと新聞受け(郵便受けは大抵はプラスチック製)

 

街宣車というPush型メディア利用

プッシュ型メディアが極まったのが街宣車である。先日も神戸市内に新嘗祭の日に職場に行った帰りに、聖餐式に参加するため三宮駅付近をフラフラしていると、でっかい黒塗りのバスやマイクロバスに金色の文字で愛国○✗会と対処した車両が大音量で、ドップラー効果たっぷりに、大日本帝国陸軍時代の軍歌を流しながら走っておられた。

 

これなんかは、尺八演奏が流れるのでまだましな街宣車の放送である

 

上の動画を見ながら、思ったのは、どうせなら、ライブで尺八演奏やりゃあいいのに、ということである。なお、この動画が好きなのは、1分47秒あたりから、「ようかい体操第1」が尺八の演奏にかぶさるという、離れ業があるからである。

 

この動画の状態なんか、可愛いなぁ、と言って良いだろう。大音声で軍歌を街中で流しておられる車と、ミーちゃんはーちゃんが大きな交差点での信号停車中に、遭遇すると逃げ場がなくて、困ることがある。

 

しかし、キリスト教側でも、このような街宣車による大音量の放送、それも聖書の言葉を切り抜いて放送して下さる皆様がおられ、我が家のそばでは流石にマイクロバスではないが、軽自動車で平日の日中のほとんど人のいない住宅地で、ラウドスピーカーで「罪を悔い改めなさい」という福音と言われているらしい内容についてのテープを流しておられるのを目撃したことがある。効果があるとか考えたことがあるのかな、と思うことが多いが。

 

なお、この皆さんは初詣の時に神社でも街宣車で『福音』を『伝道』されておられると思っておられるようである。一度、お正月に生田神社のまんまん前の東急ハンズあたりで、これらの方をお見かけしたことがある。まぁ、下側の画像では、タイトルに「布教活動してる不届者」ってつけていただいている。

 

岡山の住宅地での『伝道』(画像は悪いです・・落ちてたの拾ったんで)

 

『布教活動してる不届者』扱い受けておられる聖書配布協会の皆様

 

このように、Push型のメディアは、欠点が多いし、国によっては、法規制の対象になることもある、かなりグレーゾーンでも色の濃いゾーンに属する活動であることはなんとなくわかってもらえたと思う。

 

まだ、肉声で路傍伝道するなら影響範囲が小さいし、電気的拡声装置を使わずに地声でやっている分には、音声が届く範囲に限界があるからいいけど、パワーアンプを使った場合には、路傍伝道の声を聞きたくない、というオプションを実現するためには、その場から嫌でも、その場にいるのが楽しかったのに、追い立てられるように立ち去るというオプションしかない、とかいうのはどうかと思う。その辺の感覚の無さというのか、本人たちは、「良いことのためだから」とお考えかもしれないが、よしんば、「良いことだから、という合理化の可能性はゼロではない」にせよ、街宣車とか、ラウドスピーカーでの伝道は、まさに相手の中にズカズカと土足で上がるとか、ブルドーザーで相手のところにむりやりにはいりこんでいくのに近い感覚があるように思う。個人的には、雅趣にかけるようなきがする。その意味で、Push型のメディア利用には、ある種の「がさつさ」がつきまとうように思う。

 

迷惑メールとPush型のメディア利用

あと、インターネットの迷惑メールも、Push型のメディア利用の形態にちかい。我々に残っているオプションとしては、メールを開かない、というオプションだけである。ただし、メール運営会社によっては、具体的な例としては、Gmailなどのようなサービスでは、迷惑メールの排除が極めて厳格なので、過去に一度、ある業者さんとのやり取りで、業者さんの連絡が迷惑メールと判定されたためか、そこからのメールが届かなかったことがある。これなどの場合、その会社からのメールが、Googleによって迷惑メールとして判定され、排除されたらしく、別のメールアドレスに再送付をお願いしたこともある。ちょっとくらい融通を効かせてくれてもいいのに、Googleさん、とは思った。なんともな時代ではある。

 

地方文化や方言とかも、地域によってはPush型のメディアに近いといえるかもしれない。好き嫌いなく、日常生活を通して、文化が我々の生活に流入せざるを得ないという意味において、地域文化なども一種のPush型メディアである。個人的にはスクルージーのようにクリスマスが嫌いでも、街を歩けば、クリスマスが来たことが我々の脳裏に焼きこまれてしまって、焦った気分になってしまう。

 

スクルージ爺様(偏固という意味では我が心の友、みたいなところはある)

 

あと一つ、Push型のメディア利用の欠点は、そのPush型としてメディアが利用され、発信された場に居合わせないと、その情報にアクセス出来ないということである。まぁ、上の動画でご紹介したYoutubeなどにアップされない限り、Push型メディアはその場限りの情報伝達手段である事が多い。電話に出なければ、あるいは、迷惑メールもGoogleさんが勝手に排除してしまえば、その情報に後日、アクセスしたいと思っても、アクセスできなくなるのである。これがPush型のメディア利用の最大の欠点であると思う。

 

これまでの日本の一部のプロテスタント類型キリスト教

のPush型の方法論

これまでの日本では、キリスト教は認知されていなかった、あるいは、豊臣・徳川政権下の迫害、明治期以降、20年単位で繰り返されてきた国粋化時代の排斥運動(現在は、国粋化時代だと思っている)とまでは行かなくても、なんとなくキリスト教徒の肩身が国際化時代に比べて狭い時期である。このような国粋化、キリスト教徒が肩身の狭い時期を何度か経験したこともあり、自分たちの存在空間の確保とか、地位向上のために仕えるものはなんでも、マキャベリスティックに使って、自分たちの主張を聞かせようとして、かなり無理してきたところがあるように思う。自分たちの牧師、有名人、政治家、野球選手、外国人、外国の過去の歴史上の人物、こういう人々をお神輿よろしく担ぐことで、Push型モードで伝導してきたと思う。

 

さらに言えば、大衆動員型イベント中心の伝道大会に人々を集めて、その中で自分たちの信じることを集まった人々に無理やり押し込んで、「それを押し込まれたけど、良かった」と思わされた人々に手を挙げさせて、「はい、今回信仰を持った人何人」というタイプの伝道をやってきたように思う。それを、場所を借りてやるのではなく、路上でやっておられるのが、上で上げた、川崎大師前で、そもそも初詣という別目的で動員されている人々に向かって、「時が良くても悪くても…」という語を切り出して、「福音」と自分たちが思っているものを問答無用で無理やり聞かせるタイプPush型モードの「伝道」方法が中心にあるのだろうと思う。個人的には逆効果のほうが強いのではないか、とは懸念しているが。

 

ところが、もう、同質的な大衆はいなくなったのである。そのかわり、より小さな関心領域ごとに人々が別れた多数のグループが形成される可能性がある。このような分衆型社会になることを示した田中明彦さんの「新しい中世」という本が出てから、もう20年が経過している。美空ひばりの楽曲を老いも若きも紅白歌合戦を見ながら、みんなで歌う時代から、今は紅白歌合戦を見ながら、あるものは、ラルクアンシェルを歌い、あるものは、乃木坂なんとかの歌った歌を歌い、あるものは、ラブライブの楽曲を歌い、あるものは、ピコ太郎さんのPPAPを歌い、と言う時代である。その意味で、国民的共通環境や共通性が広く存在した近代とは異なる、ポストモダン社会が紅白歌合戦にすら現れている時代なのだ。そのような時代において、もはやプッシュ型のメディア利用をおこなうことは、逆効果以外の意味を持ちえるのか、というと、実はほとんど意味を持ちえないのではないか、という懸念をもっている。

 

しかし、なんでもいいから、まだ、教会とか、キリスト教とかを知らない人々に、これが世界標準(これは意味をあまりなさなくなっているとはおもうが)の舶来の大事なものだから、と無理矢理にその人々押し込めばいい、という植民地的(コロニアル的)発想の時代は終わったように思うのだ。今、学問分野ではポストコロニアルという語もかなり古臭くなり始めている。

 

その意味で、これまでの日本のプロテスタント教会のPush型に偏った伝道モードを、今後続けることがどのような意味を持つのか、これは、キリスト教界メディア関係者も、プロテスタント教会関係者も、もうちょっと、落ち着いて考えたほうが良いのではないか、と考えている。

 

 

次回は、Pull型メディア利用法としてのWebメディアと、Push型メディア利用とPull型メディア利用をマップ化したものなどをもとに少し議論を展開していきながら、ご提示したい。

 

 

 

 

 

 

 

評価:
田中 明彦
日本経済新聞社
---
(1996-05)
コメント:現代社会を考える上では重要と思う。

 

 

 


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前回、Post Truthという時代におけるキリスト教メディアと題して自説を述べた。本日からは Post Truthという時代におけるキリスト教メディア の続き、ウェブ時代、あるいはネットワーク時代という時代性に合わせてキリスト教とメディアとの関係を何回かに分けて考えてみたい。

 

蜘蛛の巣ですか?

もはや、ウェブというと、蜘蛛の巣という本来の意味よりも、インターネットのサイトのことをイメージさせるまでになった。もともと、蜘蛛の巣のように相互が関連していく社会という意味で、Webと呼ばれたのであるが、そんなことは日本ではすっかり忘れ去られている。そんなことはどうでもいいことではあるが。

 

Charotte's Web 邦題 シャーロットの贈り物 の予告編

 

現代は、生産から消費まで、ネットワークが張り巡らされた世界の中にある。昔であれば、自動車会社の中には、鋼板の製造から最終製品の完成まで、1社で全部済ませようとした会社があったし、それを目指したアメリカの自動車メーカーは、そのようなすべて内部生産するような生産方式があまりに不合理であることから、大赤字を発生させたことがある。それが不合理であることは、この自動車会社が大赤字となったことによって明らかにされてしまった。その結果、得意分野の専業メーカーさんと協業しながら、自動車を生産するのが、現在の世界の標準的な生産モデルになっている。これは自動車に限らない。餅は餅屋の世界なのだ。

 

ただし、このような生産方式には弱点も存在する。世の中の専業メーカーは多くない。ある特殊な技術を持つ部品提供をする企業は、ほかの多数のユーザー企業に納品している。このような事例はかなりある。となると、ある部品メーカーが製造停止になると、ほかのユーザー企業も製造をとめざるを得ないという状況に陥るのは、地震の際などに頻発することである。

 

既にネットワーク化してしまった産業社会

その意味でも、企業はすでに一足早く、生産システムの一部を含む外注化を実施したり、協力会社と情報システムを使いつつ、そこでの情報を共有化することで、ネットワーク化を進めているのである。そのようにして、他の企業とともに協力関係を持ちながら、生産を進めている。この種のことが得意な企業はいくつもある。そうでなくとも、基本的に産業は連関していて、それが現在の社会の姿である。

中小企業庁様のサイトから 仙台付近の産業連関表の地図表示

 

 

ネットワーク化しづらいキリスト教界

上に示したように、比較的まだ活力がある企業といえども、一社で生産から販売まで抱える時代ではなくなり、協調、協業することでシナジー効果というものを出す時代になっている、のであるが、これがどこまでもできないのが、キリスト教業界である。もう、絶望的なほど、である。

 

ちょっとこういった「協業とか協調とかやろう」と言い出すと、「エキュメニカル運動は・・・」「超教派的なものは・・・」「戦前の教会合同の反省がうんたらカンタラ」とか言い出して、収拾がつかなくなるのが落ちである。で、結局、害タレならぬ、外国、米国の有名人がきたときだけ、チラシが回ってきて、動員のお願いとかになって、一時的な協力関係が生まれたつもりになるのである。それも、全体を巻き込んだものとはならないし、全体を巻き込んだことをしようとすると、あちこちから苦情が間違いなくついてくる。

 

教派の垣根、あるいは塗り壁は、天をつくほど高く、教派をまたぐときの堀はマリアナ海溝並みに深い。

 

できないのには理由がある、と思う。ひとつは、米国型のキリスト教理解に影響されて、伝道がこれまで行われた結果、米国型の多様なキリスト教が、それぞれ自己の正当性を言い募るタイプの市場型キリスト教世界が、結果的に輸入されてきたこと、さらに、共通の利益が、あるいは、ネットワーク化することの利益が、個別の教会、個別教会の上位団体での教派や教団でいまだに見出せないからである。確実に、人件費や施設等の固定費用が減少するとわかっていても、どうしても、個別の教会を残すような対応をしたがる人たちが一定数いて、過去の栄光とか、○○先生がおられた時代とやらの過去の歴史とかの状況のみを、過去の時代背景とは切り離して云々し、それを維持しようとする人々が多すぎる、ということであろう。

 

そのために、要はやりたくない、という理由が先にあり、やらないための理由を持ち出している人達が多いし、当事者意識がない人が多いのではないか、と思うのである。あるいは、自分の教会や組織の中の問題について、もぐらたたきのように問題解決に追われ、外に出ていくことをやる余裕も、その気もないところが少なくないのかもしれない。もうちょっと大局観を持ってやられたらいいとは思うが、自分の問題ではない、って感じのところが多い、ということだけなのだろうと思う。となれば、もう、後は野となれ山となれ、ということなのだろう。ウェブですらやれないということは、基本、もう教会外の人々につながろう、という気がない、ということではないか、と思うのだ。

 

 

合併組織の悲哀

まぁ、そういう組織はいずれ他の組織からも孤立し、方針転換を他者から強いられるような段階には、方針転換する体力さえ残っていないし、方針転換したところで、もともとの組織の原理で動こうとするため、合併後の組織の中で、お互いに足の引っ張り合いをするだけなので、ろくなことがおきない。

 

日本のメガバンクだって、表面上はうまく動いている顔をしているが、内実はどうもそうでもないことは、片目で銀行の動きや銀行システムの動きを見てきたものとしては、うまくないなぁ、と思っている。半沢直樹のような行内政治は割りとある話と認識している。

 

東京三菱UFJ銀行をPPAPでやってみた。

個人的にやるとしたら、
I have 神戸銀行 I have太陽銀行  Ummm I have 太陽神戸銀行 

I have 太陽神戸銀行 I have 三井銀行 Umm I have 太陽神戸三井銀行

I have 太陽神戸三井銀行 I have 銀行局長通達 Ummm I have さくら銀行 

I have さくら銀行 I have 住友銀行 Umm I have 三井住友銀行

I have 三井住友銀行 I have わかしお銀行 Umm I have わかしお銀行 とみせかけて
Umm I have 三井住友銀行
とかやりたい。ちょっときついかもだけど・・・
金貸しできればそれでいいというはずの商業銀行で、このざまなれば(実は、旧銀行単位で行内用語が違うので、そのすりあわせに苦労するという話もあるが)、基本、もともと、よって立つ聖書理解が違う教会ならば何をかいわんや、である。協業もシナジー効果もへったくれもないように思う。そもそも、教派間で対話というよりは会話が成立するために、膨大な(といってもそれほど膨大でもないが…)教界内用語辞典が必要で、それなしに対話すら厳しい場合が少なくない。

 

そして、その意味で、日本の教会は、総合力を発揮できないまま、総合戦をすることなく、「やぁやぁわれこそは…」と平家物語の世界よろしくそれぞれの教派が一騎打ちをやって、個別撃破され、滅びていくのだろう。それもまた仕方のないことである。神の哀れみにおいて受け止めたい。

 

ランチェスター法則と教会

個別の戦力と全体の戦闘能力の問題を考える際に重要なこととして、第2次世界大戦中の航空戦の話がある。ちょっとくらい、戦術というか戦法、航空機の運動させるマニューバ能力に優れた人物がいたところで、総力戦をもって相手に戦略的に迎撃されれば、もう崩壊の一途をたどることは目に見えている。これは、日本のゼロ戦パイロットとゼロ戦が一対一のドッグファイトでは負けはしなかったけれども、多対一の集団航空戦では連敗であったことや、大和や武蔵野巨艦巨砲主義の旗艦が、量産型の巡洋艦なんかが、まとまってかかってきたときにはかなわなかったのである。まさにランチェスターの法則を実証した感があったのである。

 

その意味で、小回りのきく量産型教会を作れば、という話もないわけではないが、ランチェスター法則は、小回りのきく量産型巡洋艦が一定の戦略に従いつつ、協調行動を取って、巨艦巨砲主義でできあがった戦艦に向かっていけば、という話であって、小回りのきく量産型教会が、日本型社会に各個撃破で向かっていけば、却って、それぞれ個別撃破されて、大量のうまく行かなかった教会という沈船が量産されるだけなのであって、これは流石に資源の無駄だとは思う。

 

こないだの日本伝道会議でコンビニ並みに教会を、という話が出てきたのだが、日本社会においてドブ板営業的に小回りの効くコンビニ型教会で、きめ細やかな対応をする、という発想はそう間違ってはいないように思うのではあるが、それは、基本的に協調行動が取れ、きめ細やかに対応するということと、社会に溶け込めるということが前提なのだとおもう。

 

しかしながら、キリスト教業界ほど、外から見れば片手で数えられるくらいの組織数に見えるのにもかかわらず、それぞれの教会が相互に協調が取れない組織と言うのは、他にはちょっと考えられないように思う。まぁ、自分たちの聖書理解が正しい、と言いたいことから始まっている教会群が多いからではないかと思う。

 

コンビニが社会に溶け込むためには、かなり苦労していて、いろいろな問題と軋轢と失敗事例を起こしながら、社会に溶け込みつつ、ビジネスのインフラとしての役割を果たすための情報化装備をしてきていることと、地域社会の動きに敏感である事、地域社会に溶け込む努力をしてきた結果、勝ち取ってきた現在という結果であって、単に教会をコンビニ並みに作ればいいというものではない。そのあたりの戦略なしに、数の上ではコンビニ並みに教会を粗製乱造で作っても、教会の廃墟ができるだけではないか、と思うのだ。

 

残念ながら。大体、教会を粗製乱造したところで、その中の人たちが、極端に少ないのに、箱物を作るだけ、野暮な時代なのであり、現在の縮小社会における教会にとっての最適戦略は、いかにこの人口減少社会、縮小世界に耐えていくキリスト教会全体としての体力づくりではないか、と思う。

 

なお、教会を立てる前に、まず、自分たちの姿をきちんと見るような働きがもうちょっと必要ではないか、と思う。こういう「見つめ直す働きが必要である」とかいうと、「最近『データブック 日本宣教のこれからが見えてくる』という本があって・・・」と言われる方もいるかもしれないが、最下部に紹介する『人口減少社会と寺院』の書籍のような定量的・定性的な分析とは、比肩するにも及ばないという印象を持ったのは、ご尽力された方には残念なお知らせかもしれないが、個人的には、素直にそう思ったのである。というか、危機感の希薄さ、というのかを感じた。

 

教会とメディアとの関係

さて、このブログで、  教会の情報発信についての動画の紹介  を紹介したとき、Facebookでいくつか反応があって、そのときに冗談めかして、以下の画像を引用したら、友人の一人から、「第2の宗教改革を期待します」と書き込みをされてしまった。まぁ、これ以上改革をして教会をこじらせるのはどうか、と思うが。


 

 

ただ、現状の方法論ではどうにもならない直前のところまで、キリスト教界がメディアというものへの対応が遅れているのではないか、と思うのだ。まぁ、現在の60歳以上の方をアプローチすべきメインターゲットとしているのであれば、それでも問題ないが、もし、それ以下の年齢層の方をアプローチすべき対象としているのであれば、メディア対応とメディアミックスいうことに関する根本的対応をもう少し考えたほうがいい時代となっているようには思うのだけれども。

 

その余裕はどこにもないという残念な状況にあって、やや、若い人が多い教会では、そのような取組が始まりつつあるという段階ではある。と言っても、全体としての戦略がないので、場当たり的個別対応という印象は免れないように思う。

 

たしかに宗教改革の裏側には、印刷技術と製紙技術があった。それがあったからこそ、宗教改革が起きたとも言えるのだ。その意味で、当時の最新のメディアの変化にのって宗教改革に向かったということもあるように思う。

 

しかし、冗談抜きに、Web時代に合わせて、キリスト教自体のコンテンツ改革ではなく、キリスト教を伝えるためのコンテナ改革をもはややるべき時代にきてしまっているのではないか、と思っている。特に、コンテナを売ってきた、キリスト教書業界やキリスト教会そのものを含めたキリスト教業界は、少し「まず、座って考えたほうがよいのではないか」と思った。

 

だって、「まず、座って」って、イエス様も言っておられる。

 

【口語訳聖書】 ルカ福音書
 14:28 あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。

(中略)

14:31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。

 

入れ替わる情報メディア

要するに何がいいたいか、というと、すでに人々の情報への入り口は、印刷物や放送から、電子情報通信システム、あるいはスマートフォンに移りつつある中で、聖書が印刷物であるからといって、どこまで印刷物にこだわりつづけるのか、という問題である。

 

それでは創業以来の伝統が、とおっしゃる向きもあろう。そんなもの、飯が食えなければ捨てるしかないのである。生き延びるためには、創業の伝統などにはこだわってはいない例は枚挙に暇がない。松下電器では、もはや、創業期の電球ソケットの製造メーカーとしてはほぼ認識されていないし、豊田自動織機さんを織物の自動化機器メーカーとして認識している人々は少ない。自動織機を生産していないわけではないけれども。また、IBMはほとんど計数機器を生産せず、GEは電球の製造なんかかなりの昔にやめている。

 

もちろん創業の技術にこだわってもいいが、こだわるなら、「艦長、船とご命運を・・・」のお覚悟で創業の技術とともにご命運を…、ということである。いかに創業の礎へのこだわりがあっても、乗組員に当たる社員さんを巻き込まないのが上策なのだ。当たり前である。兵の減少のほうが戦略上は効いてしまうからである。

 

ところで、皆さんは、今、緊急地震速報や気象警報は何でお知りになるのだろうか。のべつ幕なしテレビを見ている人ならいざ知らず、基本、皆さんの携帯電話が一斉に鳴って、地震警報や気象警報を知るのではないだろうか。とはいえ、たいていの緊急地震警報の場合、携帯電話が鳴り始めたときには、すでに地震が到達していることが多いので、役にも立たないことのほうが多いが。津波が来るかどうかの判断くらいには使える場合もないわけではない。

 

だいたい世俗の伝統的メディアの新聞やテレビにしたって、今は、ネットから情報を仕入れる時代になっている。取材力の低下、ということを嘆いてもいいけど、現実にそれしか対応ができない状態になっているし、ネットからの情報なしに記事も書けなければ、新聞記事や雑誌記事、テレビ番組すら、作れなくなっている、という現実があり、その意味で、世俗のビジネス形態では、従来型メディアから見れば下位互換と思っていたネット情報に振り回されていて、ネット情報に振り回された結果、さらにネット上の情報がさらに増加するという状況になっていると思われる。

 

その意味で、この五年で、インターネットはもはや、社会のインフラ、電車に乗るくらいに当たり前、郵便を出すくらい当たり前、電話がかけられるくらい当たり前のことになってしまっているのだ。

 

 

次回へと続く

 

 

 

 

 

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コメント:大変参考になる。特にソーシャル・キャピタルという観点で寺院を見ている点が非常に良いと思う。

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コメント:ちょっと切り込み不足だなぁ、と。彼我の差を感じる。

 

 

 

 

このブログでは、NTライト・セミナー関係の発信もしてますが、今年も実施できました。

 

第5回ライトセミナーの資料集販売

それで、2016年は第5回となったセミナーでしたが、参加できなかった方々への朗報です。N.T.ライト・セミナーの当日の会場の様子を収めたDVDができました。完成品はこんな感じです。

 

 

ケースには、今回のNTライト・セミナーの配布資料集の表紙デザインを元にしたカバー

DVD表面は、今回のセミナーのWeb案内画像を元にしたデザイン

2枚組で、2500円 限定20セット

 

こちらには、資料集にない情報も満載。

 

 

で、今回は、ちょっとスニークプレビューを動画で公開します。

 

Disk1の概要

 

DISK 1 のスニーク・プレビュー

 

 

Disk1には、『舟の右側』の最新号に記載された谷口編集長のご発言(なお、『舟の右側』最新号は、発表原稿に追記された部分を含め、少し膨らんだものとなっています。しかし、谷口編集長の応答の部分は、『舟の右側』では割りとあっさり、というか極端に圧縮されているので(とはいえ、大意はわかる程度ですが)、こちらでは、他にも面白い部分が満載です。

 

内容が一部紹介されている舟の右側

 

舟の右側 は お近くのキリスト教書店 または、地引き網出版 まで

 

Disk2の概要

 

DISK2 のスニーク・プレビュー

 

Disk2は当日の会場からの応答です。レスポンデントの信仰や救いという問題との関わりのパーソナルヒストリー、『クリスチャンであるとは』を読んだ時に引っかかりのある問題、義とかスピリチュアリティを道離していくのか、普通の人がN.T.ライトが読んで引っかかる問題、教会とかで引っかかっていて、福音がうまく伝わっていないのではないか問題、本来、福音とはシャロームに達することであるし、そこから考えたほうがいいかもしれない問題、アブラハムが出会った神を信じるものの共同体としての現在の教会…といった他では聞けない話満載のDiskになっています。

なお、このDisk2の部分は、舟の右側でも取り上げられていない部分なので、当日参加しておられない方は、ぜひともこちらをお買いもとされることをおすすめします。

 

あと、残り10セットです。限定販売に鳴っております。

 

なお、資料集だけなら1部500円です。

 

資料集

 

ご注文は、こちら あめんどうブックス へ、お早めに


 

 

 

 

 

皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。

 

 先月は、19,655アクセス、平均で、日に  655.15  アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

 2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
 2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
 2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
 2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
 2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
 2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
 2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
 2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)
 2016年第2四半期(4〜6月)   66709アクセス(733.1)

 2016年第3四半期(7〜9月)   66709アクセス(716.5)
 

 2016年10月      30,084 アクセス (970.5) 
 2016年11月      19,655 アクセス (655.15) 
 
今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

 

グリューン著 従順という心の病い を読んでみた 

アクセス数 566 

 

現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

アクセス数 499 

 

教会の情報発信についての動画の紹介   

アクセス数 381 

 

上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半

アクセス数  297 

 

グリューン著 従順という心の病い を読んでみた(2)  

アクセス数 293

 


でした。

 

今月から、棒読みちゃんによる読み上げの音声ファイルのダウンロード先をつけたためか、以前よりアクセス数が下がった用な感じがある。その意味で、このブログは記事が長すぎて、何回もアクセスしていた人たちがおられたのに、結局棒読みちゃんによる読み上げをダウンロードされて、それらの人のアクセスが若干減ったのか、と思うと、長すぎてすみません、と心からのお詫びを申し上げたい。

 

個別記事に関して言うと、今月はグリューン著『従順という心の病い』祭りの感があったが、それでも

 

現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

 

が第2位であった。

 

それと、特筆すべきは、カインとアベルというドラマが放送中のせいか、古い記事でもある、上智大学の公開講座の参加記録

 

上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半

 

が依然4位出会ったのは、テレビというものと、ネットというものの関係を考える上では面白かった。メディアミックスということの大切さを感じている。

 

 

 

2016年11月のアクセス推移  (後半がだれている・・・なぜだろう)

 

 ということで、今月もよろしければ、ご清覧をば。

 

 

 

 

 

 

 


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音声ファイルダウンロード先

 

 

さて、100ページ前後の本で、ここまで引っ張ることになるとは思わなかったが、非常に考える糸口をたくさん与えてくれる本だったので、ついつい連載期間が普段以上に長く、タラタラ度合いマシマシになってしまいましたが、一応、本日でこの本については終わりにします。

 

正常さの名のもとに切り捨てられた結果、

生み出される「犠牲者」

20世紀は衛生の世紀であった。ハイジーン、すなわち衛生が全てに優先し、衛生的でないものは排除する、衛生最優先、という世界観が広く世界に広まった時代であった。自宅で産婆(助産師)の立ち会いのもとの出産が、病院への出産へと変わり、自分が食べる魚や肉類は、既にどこかで加工され、パック入荷されたものを食し、家庭や施設の中で病原菌を広めかねない人間の排泄物は、汚水管、ないし下水管へ、ゴミはゴミ処理場へ、産業廃棄物は産業廃棄物施設へ、もともと、自宅を使いながら地域でやっていた葬儀は、寺院へ、そして、葬祭センターへと移行し、遺体は土葬ではなく、火葬され、全て醜いもの、汚らわしいと思えるものを生活の場から正常ではないこととして、排除していったという側面はある。

 

おかげで、乳児死亡率は激減し、寿命は長寿化し、人は病院で死ぬものとなった。そして、自宅で人が死ぬと、異常死、不審死の可能性がある、というので、警察が動員されることにまでなっている。こういう社会をわれわれは正常と思っているが、本当に「正常」なのだろうか、と思うことがある。ただ、今の生活に慣れ親しんでいて、あるいは、今の生活に飼いならされていると、現代の異常さに気が付かなくなることがあるようにも思うのだ。その意味で、今の生活をあまりに当たり前、Taking for granted (その生活が保証)されているような気になってしまうのだ。本当はそれが現代社会におけるある均衡の下での一時的な社会のひとつのあり方であり、その維持にきわめて高いエネルギーを必要とする社会になっているのである。

 

ある意味で、それがシステムとして極まったのが郊外やサバービアであり、団地と呼ばれる地域での居住継体であり、ミーちゃんはーチャンが以前は、開発に参加できたら、と思っていた郊外住宅団地である。まさに、あの世界は1950年代的衛生概念の最先端を極めようとしたものではあった。しかし、今から見れば、それは非常に不十分なもので、貧相なものに見えるかもしれないが。

 

 

昭和31年のわが国の住宅状況を示す映像

 

そして、精神障害者は以前は座敷牢に押し込められていたのが、精神病院という施設に居場所が変わり、身体障碍者は身体障碍者施設という人目につかないところにおかれることとなってきた。そして、障害者が隔離される中で、知る人だけが知る世界が障碍者の周りに形成されていったように思う。とはいえ、最近はノーマリゼイションの掛け声とともに、そのような人々を時折、電車の中などに見かけるようになった。

 

今年の夏、神奈川県で障碍者施設で虐殺に近いことがおきたが、その凶行を犯した彼も、まったくの近代的な生命観に基づき、善意から、善行しようとしてあの事件を起したに過ぎないことを思うと、近代とはいったいどういう時代だったのだろう、と暗澹たる気持ちを抱く。実は、あの事件を起した青年と同じことを国家単位でやったのが、ナチス・ドイツという国なのだ。

 

ナチスの障碍者殺害のドキュメンタリーの一部

 

文化的正常さと私達との関係について、グリューンさんは、次のように書く。

文化的に承認される「正常さ」であるが、その「正常さ」は同時に私達を否定するものである。つまり「正常であること」は、「人間としての苦しみに満ちた部分」を、生涯にわたって抑制する試みである。その「人間としての痛みに満ちた部分」を私たちは失うのだろうか。さもなければ絶望しつつそれと向き合うのだろうか。だからこそ私たちは、「犠牲」とされるべきものを他者の中に探し、私たちが感じ取ろうとしない「苦しみ」を、他者に負わせるのである。私たちは、他者を、私達自身がそうであってはならない「犠牲者」に仕立てる。(『従順という心の病い』 p.94)

 

以前、このブログでも書いたかもしれないが、昔学生と読んだ、リスクに人間がどう対処してきたかの本の中に、Against the Gods 『リスク』という本があるが、その中に人間がどのようにデータと取り組んできたのかの章があって、人体とその各部位を各種計測し、標準的な人間についてのデータ化を平均を取ることで明らかにしようとした試みについて書いてあった部分があったが、そこを読んだとき、はっと思ったことがある。実は、身長、体重、胸囲等のすべてに関して、完全に平均値の人はいない、ということなのだ。実は、平均値周りに多くの人はいるが、平均値の周辺のその測定値の平均値プラスマイナス標本標準偏差の範囲周辺に存在する人々がほぼ全体の70%を占めるということはあるが、全員が全員平均値であるはずがないのだ。

 

ここで言っている正常さは、私達の内にある、平均値からの乖離を許容しないことがある。他人とは違うこと、他人とは違うユニークな部分が、「人間として苦しみに満ちが部分」の原因となり、それを抑制するように、平均値に回帰するように、努力をしてしまうようにも思う。そして、他者の中の塵を見つけ、梁のように巨大なものだといい、指摘し、そして、自分の中の針を見なくて良いように、他者の中にあるわずかばかりの違いを原子力空母か、LNGタンカーか、トランプタワーのような巨大構造物かのように言っているような気がする。

 

「なんとからしさ」という殺し文句

そんなことを思いながら、ミニストリーの最新号「サブカル宣教論特集」をまくっていたら、特集記事のひとつ、蝉丸P(高野山で得度を受けた住職の方)との対談の中で、松谷Ministry編集長が、こんなことを言っている記事があった。

 

一信徒である私の所感でしかありませんが、キリスト教会の場合は「聖俗二元論」の問題が大きい。ストイックなピューリタニズムの功罪といいますか、牧師や信者が娯楽に興じることに後ろめたさがあるんです。聖職者のイメージが強く、教会もイメージによって自縄自縛しているように感じます。「牧師だから」「牧師なのに」という言葉が殺し文句になっている。「女なのに」「社会人なのに」「日本人なのに」など、社会全般に蔓延している違和感と共通の問題かもしれません。(Ministry  Vol.31 p.20)

これなんかは、まさにここで、グリューンさんが「私たちは、他者を、私達自身がそうであってはならない「犠牲者」に仕立てる」ということを、「牧師だから」「牧師なのに」「女なのに」「社会人なのに」「日本人なのに」という殺し文句で、現代の教会は、これらの人々を犠牲者として仕立て上げていることの現れのひとつであろう。

 

 

そして、「・・・なのに、・・・している」と他者を非難するということで、苦しみを他者に転嫁し、他者をアザゼルと呼び、他者をスケープゴートにすることにより、本来は自分の中にある問題を、自分たちの問題とせず、他者の問題のほうが大きい、といって自分自身の中にある悪や醜さや怒りから目を逸らせてしまうのだ。そして、自分自身の痛みを、他者に投影して、他者を攻撃することで、辛うじて自分自身が正常であると思いこもうとしているのではないかなぁ、ということを思うのである。

 

 

西欧近代の概念で塗りつぶされてきた学問の世界
以前、このブログでも、紹介したが、先月、イスラム法学者の中田考氏の講演会を聞きに行った時のことを、グリューンさんの正常の議論を読みながら思った。

 

記事はこちらである。

 

京都精華大学での中田考さんの講演会にいってきた(講演編)

 

京都精華大学での中田考さんの講演会にいってきた(Q&A編)

 

彼は現代の日本社会からは異常とみなされる人物である。しかし、イスラム法学的にはまっとうなのである。彼が面白いことを言っていた。西洋人文社会科学系の研究は、対象によって3つにわけられるということを中田氏は指摘する。

 

また、西洋が作り出してきた学問体系として、人類の平等を言うものの、他の世界を知った時に、3つの段階に人類を分けた、という。

 

それは、文明人(西欧のみ)と、劣等民族と未開人の3分類だと中田氏は言う。西欧は、その3つのグループに分けて考える習慣があるとも言う。そして、文明人の対象の学問が、社会学や経済学であり、西洋人ではないが、高度な文明を持っていて、実際に社会を運用する力もあるが、ちょっと劣っている劣等民族があり、それ対象の学問がオリエンタリズムであり、その範疇に入らないものが、未開人であり、その研究分野が人類学 民族学である、という。

 

学問の世界にいると、Post Colonialism(ポスト・コロニアリズム)の時代を迎えていることもあり、学問研究の方向性は、かなり変容してきたものの、未だにこの思想性で学問研究をしている人は多い。これまでの人文学や社会科学系の研究を大局的に見る限り、この分類は、個人的には当たっていなくもないと思う。西洋人中心の思想からいまだに抜けていないことを思うことがあるし、世界的に評価されるというのは、日本では、西欧社会で評価される、西欧人にわかるようにフランス語だの、ドイツ語だの(なお、学術言語としてこの二つの言語は第2次世界大戦以降凋落が激しい)英語だので書かねばならぬ、ということでもあるので、非英語話者にはつらいのである。その意味で、現在の学問の世界の標準ルールは、実態として、英語で書く、ということになる。それは、まぁ、この70年くらいの習慣に過ぎないが。

 

現代社会と共感
では、何が、現代社会の中で必要か、という話題に関して、この本でグリューンはこのように述べる。

 

ノーベル賞経済学者であるポール・クルーグマンや、ジョセフ・スティグリッツは、非人間性を特徴とする「権威に隷属的な従順」に対して戦った。ふたりとも、共感が必要だと主張している。

議会への政治的影響力を行使しようとするいわゆるロビイストたちの要求は、例外なく『債権者の利益』のためのものである。つまりお金を借りる側の利益のためではなく、お金を貸す側の利益のためであり、いずれにせよ、労働によって収入を得ようとするものの利益のためではない。(クルグマンからの引用の一部)(同書p.98)

 

とここで、共感(ある面で言えば、支配の関係ではなく共同体形成)の重要性を、引用の形でグリューンは主張している。これは、新しい中世論とも絡む話である。つまり、資本主義の破綻、それは取りも直さず近代の破綻ということでもあるが、その中では従来型の特定な権威の突出した権威性の存在は崩壊していく、ということなのではないか、と思う。

 

おそらく、クルグマンの経済学的な思想性(もともと経済地理学が専門だったはず、と思っている)から言って、上記の引用文章は現在の行き過ぎた金融資本主義の問題を指摘したものであり、経済学が本来研究の対象にしてきた、社会の富の豊かさと実体経済とのバランスをどう確保するかという基本的な問題に、経済学は立ち返るべきだという主張の一部だとおもわれる。

 

ここで、「議会への政治的影響力を行使しようとするいわゆるロビイストたちの要求」ということばで思い出したが、これについて最も最近問題になったのが、実はヒラリー・クリントン(元国務長官・元民主党大統領候補)であったのだ、本来民主党という政党は、この金融資本との対決的な姿勢がかなり強かったが、そこから政治献金を受けていたことに、民主党員は戸惑い、無党派層は、民主党に、ある面自分たちの理想を託するだけの魅力を感じられなくなり、そして、もともともう若くもないヒラリー・クリントンに希望を持てず、その結果として、この種のものに頼らない政治をするかもしれないと思われたドナルド・トランプ次期大統領予定者に投票したのだろうし、民主党でそのあたりのことに嫌気を指した人々は、アメリカ社会で禁じ手ともいえる、社会主義者とすら自称した、バーニー・サンダース候補に投票しようとし、彼が民主党の大統領候補から落ちたことの失望が渦巻いているのだろうと思う。

 

 

ヒラリーたんの金融機関からの献金問題に関する報道

 

 

これは、ピューリたん(ピューリたんが読めるのは、キリスト新聞だけ…ちょっとステマ)

 

その意味で、2016年大統領選挙の結果が、いいか悪いかは別として、額に汗して働く人たちの利益と共感、すなわち「労働によって収入を得ようとするものの利益」をもたらすかのような印象を与えたトランプ大統領予定者の価値観が受けたため、当選したのであり、ヒル・ビリーズとか、レッド・ネッカー(これ、口が裂けてもアメリカ人にいってはいけない語)とか東部インテリ層から馬鹿にされつづけてきた、額に汗して働く人たちの利益と、その人たちが共感できた、トランプ大統領候補のほうが、共和党の重鎮が何を言おうと(そもそも、この人たちは、額に汗する階層ではない)、大統領選の勝者となったのだ。その意味で、今回の選挙はある意味で言うと、選挙が合法的な革命であり、民主主義社会の革命の方法としての選挙であったことを図らずも示しているようにも思う。

 

 

 

 

この本全体の感想とまとめ
この本は、ある種の危険性をはらむ書籍ではある。なぜならば、支配に従順であるのをやめ、別の社会システムの構築を目指す、ということは一時的であれ、アノミー状態(無秩序状態)を社会に生み出しかねない側面があるからである。一時的とはいえ、アノミー状態は本来人間集団としての幸福につながるのか、ということも考えねばならない。

 

ところが、先にも述べたように、変革する方法、あるいは合法的革命の手段が、選挙であり、すべての民主的な運営が求められる社会的組織には、宗教法人の運営を含め、この選挙か選挙に変わる方法が存在するはずである。もし、それが存在しないのであれば、その組織からすくなくとも、離脱することはできる。たとえ「悪魔の手に落ちる」と脅されようとも。そのようにして、われわれは自分たちを取り巻く残念な環境や組織の前提に対して、従順ではない生き方を選ぶことは可能である。ただし、それは幸せに必ずしもなれるとはいわないが。茨の道が待っているかもしれないが、従順ではない生き方を選ぶことはできるのである。

 

とはいえ、現在の状態もまともでないことを思い、画一化に向かう現在の社会システムを無批判に受け止めなければならないのか、という問いを、案外われわれは忘れがちなものとして生きているのかもしれない。その意味で、そのことを思い起こさせるという意味で、この本は重要なことをいっているのではないか、と思った。

 

日本とこの本
なお、この本は西洋近代という社会という文脈の中で説明された本ではあるが、現代の日本社会においては、明治期以来、「和魂洋才」とかいいながら、理性面では、無批判に西洋近代をモデルとして、そのモデルに従順に従ってきた。その意味で、学術の面では西洋近代思想に無批判なまでの従順さで従ってきた。

 

江戸期には、国学が模索されたこともあるが、基本は、朱子学的な儒教文化のみを受け入れ、革命思想を内在的に持つ陽明学的儒教文化を否定してきた。

 

さらに、明治期の平等意識の中で、四民平等の思想とは言いながらも、モデルにされたのは江戸期の武士一族の生活文化であり、それが、軍隊教育、学校教育が氏族中心に行われる中、朱子学的な秩序思考が現代日本社会の基層文化の中に流入しており、その面で権威性が、西洋社会より強化される傾向にある。その意味で、従順な民族であったのである。いまだに会社員が一人で出張して話を決めてきたらいいものを、大の大人が二人も相手方を訪問し、それでもその場で即決せずに、「社に持ち帰って検討します」というのは、まさしくお武家文化の名残でしかない。会社文化も、基本的にお武家様のお城での論理を会社という、近代法制度に基づく組織内で再現しているに過ぎない。

 

さらに、これらの概念が幅を利かせる日本社会の上に構築された、日本のキリスト教会内では、教会内権威者となってしまった牧師(全員が全員とはいわないし、そうでない牧師や司祭の方を何人もよく存じ上げている)に問答無用で従う「従順な、そして自信のない」信徒がよいとされ(まぁ、それならある牧師にとっての当面は問題は起きない)、信徒の牧師依存、目立つ平信徒の排斥、まさに出る杭は打ってぶっ潰す、とかという病理が一部の教会で生み出されているのではないか、という感想を持った。

 

なに、まぁ、これは牧師側の責任だけではない。信徒側の責任でもある。信徒が責任を引き受けすぎず、信徒が牧師の言うことを丸呑みし、本来するべき「聖書にたち返って、よしんば頭が悪くても神とともに自分の頭で考える」というめんどくさい作業を面倒くさがってやってないから、こういうことがおきるし、何かあると、すぐに牧師になきつくから、こういうことがおきるのではないか、と思う。

 

 

その意味で、われわれは、神から与えられた神のかけがえのない、自分自身の不完全なかたちでの「神のかたち」とどう付き合っていくのか、また、ほかの神が創造された自己とは違う「神のかたち」とどう付き合っていくのか、そして、自分の中に住んでくださっている自己ではない、という意味での、他者としての「神」とどう付き合っていくのか、ということをまじめに問いかけた本だったなぁ、というのが、本書を読んでのまとめである。なお、本文中には、神という語はほとんど見た記憶はないけれども。

 

以下に、この記事関連のリンクへのとび先を示しておく。

 

グリューンの著書を読んで思ったこと

 

(上記をクリックすると、1から順番にこの本に関するミーちゃんはーチャンの感想文のシリーズが読める)

 

あと、関連ではこの投稿 ピューリタン雑考 なども、関連していると思う。

 

 

以上で本連載シリーズは終了。

 

 

 

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今日もまた、タラタラとグリューンさんの『従順という心の病い』を読んで考えたことを考えてみよう。

 

説得のされやすさ

まず、今日の記事を読む前に、授業で使うことの多い動画を紹介してみたい。それは、説得の科学、と呼ばれる動画であり、なかなか、この動画は印象深い。この動画は、人がどう説得されるのか、ということに関する動画であるが、そもそもは、人をどう説得するのか、ということを理解させるために作られた動画らしい。まぁ、授業でも、自分のやりたいことのために、人をどう説得するのか、それには、実際に有効な方法があるよ、ということを示すために使っているが、個人的には、それを見ながら、気をつけようと思っている。確かに、非倫理的ではないとは言うものの、ちょっとどうなのかなぁ、と思うところがある。

 

 

 

基本的に上の動画は、人を説得するのための6つの要因を示している。

 

1)Reciprocity(相互性)

2)Scarcity(希少性)

3)Authority(権威性)

4)Consistency(行動の一貫性)

5)Liking(類似性)

6)Concensus(合意の存在)

 

まぁ、細かな話は英語の動画を見ていただければわかるのであるが、今日はその中で、権威性の話だけをグリューンの書いた内容と関連するので書いてみたい。基本的に信頼できると思え、知識があると思えるような専門家然とした人の云うことには容易に従うのだ、として、スポーツクラブなどでインストラクターが卒業証書を掲げておくことや、制服が有効であること、誰か紹介してくれる人がいて、紹介する人物がある人についてよく言ってくれることで、大きく雰囲気が変わること(不動産屋の契約についても触れながら)などを紹介している。

 

 

また、何も中身の無い話をしながら、中身があるように見せる技術(実は、コンサル喋りには、この手の喋り方があるので、ばらしてしまったようなもんだが)の話をしたものに、以下のTEDでの動画がある。

 

内容は確かにないが、まぁ、でも、人はこんなふうなプレゼンをされればイチコロである。

 

さて、本論に戻すと、人は安易に権威があるふうな人に騙されてしまうし、意図的にそれをやる人は悪意に満ちていると思わざるをえないが、学校とかで長年喋っていると、ある種癖になってしまうところがある。

 

まぁ、「聖書を知っていますから、なんでもぜひ聞いてください」とか、チャレンジングなことを言う人がおられた場合、「じゃぁ、チャレンジングな質問をしてみたいなぁ」と思うことがあるが、聖書のことを何でも答えられるなんてことは人には土台無理なので、スルーしていることがある。

 

一度、出席した教会で、今日はこのあと、ナウエンの読書会がある、とご案内があったので、後学のために参加したのだが、その読書会は、ナウエンが書いた英文テキストに関する読書会であった。「今日は霊的な話をするので」とおっしゃった牧師さんもその読書会におられたが、「???」というナウエンのテキストの解釈が、時々展開されていたので、「ナウエンがこの場所でいいたいのは、こういうことじゃないですかねぇ」「これは聖書の…という箇所を受けてのものだと思うのですが…」と思わず発言してしまい、その読書会自体をそそくさと終わらせてしまったことがあった。なお、二度とミーちゃんはーちゃんはその教会に出没していないことは言うまでもないし、その教会で新来会者カードに住所は残してきたが、連絡はその後一切ない。ただ、ちょっとまずいことをしたかなぁ、とミーちゃんはーちゃんは思っている。

 

さて、権威性があると見える人が正しくないかもしれない、ということを面白く描いた作品に、Catch Me, If you canという天才的な詐欺師のことを面白おかしく描いた映画がある。まぁ、予告編を上げておくので、ご関心のある向きは、ご覧になったらよろしかろうとは思うが、まぁ、服装だけで人は簡単に騙されてしまうのである。

 

Catch me if you canの予告編

 

そのあたりのことに関して、グリューンさんは次のように書いている。

ノーベル化学賞を受賞したオットー・ハーンは、「高等教育機関の教師は、すべてを知っていると主張するが、何も認識していない」と述べた。科学者はしばしば、自分の思考、自分の立場は、公平かつ客観的であると主張する。科学者は、非合理的で主観的な誤った束縛から開放されていると確信しているが、そのような考えこそが、経験の全体性を排斥することに、全く気づいていない。(『従順という心の病』 p.87)

 

大学院という組織に社会的入院していたので、この手の「すべてを知っている」とか「自分は公平かつ客観的」とか、胡散臭いことをいうおじさんやおばさんたちとは何人か出会ってきた。まぁ、それくらいの気持ちがないと、学問をやっていけないのもわからなくはないが、こういう方の授業はどうも楽しいというわけには行かなかった。

 

どうやったって、公平かつ客観的な視点が存在するなんてことはないし、観測だって、バイアスの塊だということは、ミーちゃんはーちゃんは自分の専門分野については、確実にあると思っている。だいたい、自分の専門分野では、調査領域の切り方を変えるだけで、結果がガラガラ変わる世界をやっているのだから。

 

科学というのは、ある厳密な条件設定のもとで、その条件下で実現する結果から導出された洞察の体系にすぎないと思っているが、案外、本当にそのあたりのことを考えてない人、考える習慣のない方のほうが、「科学だから偏見がない」とか、「科学だから客観的だ」とか、「非合理的で主観的な誤った束縛から自分は自由だ」とか、軽々に仰る傾向があり、自己の主張の正当化に科学を駆り出すのがお好きな方がおられることも確かだ。この種の主張は、純粋に科学をやっている人というよりは、科学にちょこっと関係した人で、科学からちょっと離れた分野の人に多いような気がする。

 

計算機科学という野暮な研究領域にも足を突っ込んでいるし、自分でもプログラムを書くので、よく分かるのだが、計算機は間違うし、意図的に間違うようにすることも不可能ではないし、意図しなくても計算ミスが起きるのだ。計算機は、そもそも誤差を含んだものとして変数定義が出来上がって居る以上、誤差は生み出されうる。詳しく知りたい方は、単精度実数と倍精度実数についてお調べ頂いたら、お分かりいただけようか、と思う。

 

オリジナルがコピーに成り下がる人生

人との会話で、有名人の誰それと似ている、ということを会話のきっかけにすることがあるが、個人的には、有名人の誰にも似ていないので、困ることがある。このように誰に似ているかなどは、あるモデルがあり、それとの類似性で考えるという習慣が我々の心のなかにそれだけ染み付いているということだろう。

 

ただ、モデルが合ったほうが、ある能力とか技能などに関して、一定の水準に達するためにはモデルがある方がいいというのはある。それはコピーバンドなんかでは典型的である。歌唱法を真似るとか、演奏法を真似るとか、結構ある。

 

こういう上手い人を真似るということ以外に、師匠筋に従順ということは、俳句とか、短歌、落語の世界などでは、作風ということはあるが、個人が主体的にそれに関与し、それを超えてていこうとするのならまだしも、社会システム一般に問答無用に従順というのをあまりやりすぎてしまうと、まずいことが起きるように思うのだ。

 

無意識的な従順は、同様に、非情で容赦のない仕方で、私達一人ひとりの意識を低下させる。つまり従順は、私達すべての人間を画一化する。18世紀に、英国の詩人エドワード・ヤングが書き記したように、「私たちは、オリジナルとして誕生するのに、コピーとして生涯を終える」ことによる。(同書 p.88)

しかし、最初はコピーでも、オリジナルになる人たちは、そのコピーで終わらず、オリジナルの良さを求めていった結果、あるいはその人なりのオリジナルを求めていった結果なのだと思う。また、その人なりのオリジナルを生み出す事ができるかどうか、というのは、問われているように思う。

 

また、この無意識的な従順は、日本ではいじめの根源にあるのかもしれない。以下のACという組織のCMによく現れていよう。

 

 

ACのCM

 

 

ただし、これは案外、難しいのだ。と言うのは、あまりにオリジナルすぎても、また、時代の先に行き過ぎても、他人から認めてもらえないし、他人から認められようと思うと、その業界のルールに一応形だけでも従わないといけないというのはあるからである。これは、学術雑誌の世界でもそうである。業界のルールに従わないで、業界ルールを無視して論文を書いたら、いくら良い論文でも評価してもらえない。その意味で、ある枠組みの中で、既存の枠組と既存の成果を踏まえた上で、オリジナリティを出す(あるいは、オリジナリティがありそうに見えることを言う)ということが大事なのである。

 

本来は、その人なりのオリジナルなものがあるとは思うのだが、どうも、近代という時代は同質性を西洋でも、東洋でも求めていったように思う。その意味で、オリジナルとして、他にかけがえない者として生まれて、十把一からげのコピーとして人は死んでいくことになるのだろうと思う。なくなったあとでも、コピーとして扱われることを拒否するかのように、まぁ、いろいろなことを考える人が居るようだ。それは、墓地に行くとよく分かる。実に最近の墓地はユニークなのだ。

 

 

ネットで拾った墓地画像(乗用車編)

 

ネットで拾った墓地画像2(鬼太郎編)

 

ネットで拾った墓地画像3(バイク篇)

 

コンパッションと従順

どの世界にも変な人、ちょっと変わった人はいて、そういう人は、社会システムに対する異議申し立てを、案外簡単に、深く考えたり、打算とかとは関係なくやってしまうので、社会にとって当然とされていることを行わない時には、厄介者であるとされることが多い。のだが、社会に対して行き過ぎを果たすブレーキの役割を果たすことになることがある。それが、社会の中で少数か、というと、案外多いというのだ。個人的には、このタイプは芸術家に多いような気がする。

 

前回、京都大学の学生が折田先生像をアート作品に仕立て上げることをお話したが、この傾向は、芸術系の大学では一層強くなる。国立ニート養成所とも呼ばれる東京芸術大学などでは、かなり激しくなる。

 

東京藝術大学のお神輿 さすが芸大 お神輿とは思えないデザイン

 

また、モダンタイムスは、チャールズ・チャップリンによる、近代文明批評でもあるが、モダンという時代が人間圧殺の時代であったことを映像を用い同映画では批判的に示したのだと思う。

 

 

従順ではない人々

フェースブックでのミーちゃんはーちゃんのお友達の周りには、従順になりたくてもなれない人々、従順ではない人々、従順な人が羨ましく思える人々が案外多い。その意味で、非情に楽しいお友達が多い。従順な人にはない、面白さがある方が多い。実に楽しいのである。案外そういう従順ではない人が多いことを、グリューンさんは、過去の研究から以下のようにご紹介しておられる。

 

ミルグラムの実験、ヘレン・ブルヴォル、アン・ロスカム、ドイツ人戦争捕虜とヘンリー・ヴィクター・ディックス並びにエーリッヒ・フロムやグンター・ホフマンの研究は、私達の文化の約三分の一の人たちが、無批判でもなく、従順でもないことを示している。これは、私たちに希望を与える。共感や人間的な思いやりが、従順に抵抗し、従順に立ち向かわせるだけではなく、従順を押しとどめることができるのである。人類が生き延びられるかどうかは、共感や愛を持っていきることができるか、「従順」にならず、「従順」に依存しないで歩み続けることができるかという、私達の能力にかかっている。(同書 p.91)

 

ここで、上の引用部分では、3分の1の人が、こういう従順でない生き方をするということがあること、「共感や人間感的な思いやりが、従順に抵抗し、従順に立ち向かわせるだけではなく、従順を押しとどめることができる」とグリューンさんはおっしゃっておられる。実は、このことは大事だと思うのだ、

 

淡々と普通の人間としての素朴な感性に立ち、あえて抵抗しようとか、従順に立ち向かおうとか思わずに、社会システムに対して従順でない生き方をする人々がおられるのだ。それは、神から与えられた神のかたちの発露であるかもしれない、と思うことがある。

 

 

そして、今回の引用の最後の部分、「人類が生き延びられるかどうかは、共感や愛を持っていきることができるか、「従順」にならず、「従順」に依存しないで歩み続けることができるかという、私達の能力にかかっている」と言うのは、グリューンさんが迫害を生き延びたユダヤ社会の中の人ゆえの発言ではないか、と思っている。

 

この部分を読んだ時、思い出したのは、「ドイツの人たちがあまりに真面目であり、あまりに従順だったので、アウシュビッツの悲劇が起きたこと、より悲惨になったことの反省に立ち、イスラエルでは、個人の思いを重視した、人間として生きるということを大事にした教育をして、集団でまとまって何かできるような、集団化に向かいかねない教育をできるだけしないようにしている。そして、そのことでイスラエル民族が絶滅しないような教育をしている(大意)」というイスラエル在住の旧約学者の先生のご発言であった。

 

基本的に人間としての共感とか、同じであるという認識を持てるかどうか、というのは、大きいのであろう。最後の一線を越えるかどうかというギリギリの選択を迫られる時に、この人間としての思いが重要なのだろうなぁ、と思う。

 

以下で紹介する動画のX Companyというドラマの第1話で、ナチのSSの将校がオランダ人の子供が自分の子供を思い出させるからということで、少女の射殺を思いとどまるシーンがあるが、それなどは、まさに、共感が非人間的であることをとどめたことになるのだろうと思う。

 

X Companyというナチス・ドイツの地下抵抗組織の支援組織を描いたドラマ

 

まだまだ続く

 

 

 

 

 

 

 


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沈黙から50年

今朝のE-テレ NHK教育放送 こころの時代を見た。遠藤周作の沈黙から50年ということがあることと、来年早々にも、スコセッシ監督作品の沈黙が上映されるということでの今朝の番組であったように思う。

 

まぁ、あちこちで言われてきたことであるが、遠藤周作にしても、一度このブログで取り上げたことのある、故 井上洋治司祭にしてもそうだが、自分が伝えられた、西洋社会で概ね1900年をかけて形作られてきた西洋型のキリスト教に違和感を抱き、その違和感を生み出すものになってきたある聖書理解というか、理念系に疑問を自ら投げかけてきた人々の一人が遠藤周作であり、そのことを言おうとしたのが、遠藤周作の作品の『沈黙』だったのだと思う。

 

いのフェス名古屋での関連のご講演

なお、この沈黙から50年に関しては、いのフェス名古屋で取り上げられていたので、ご関心のある方のために、いのフェス名古屋での南山大学の方のご講演の模様がYoutubeに存在したので、それを貼り付けておく。

 

講演の前半

講演の後半

 

記憶が間違っていなければ、井上洋治司祭と遠藤周作とは、確か、フランスへの留学時期が一緒であったように思う。彼ら、遠藤周作と井上洋治司祭の両者ともが、当時のキリスト教というか、当時のカトリック教会について、ちょっと窮屈に感じたのは、ちょうど、第1ヴァチカン公会議の時代でもあったこともあるのだろう。当時のカトリック教会は、現在のカトリック教会とはちょっと違う方向に向かっていたこともあったこともあるのであろう。ある面、当時のカトリック教会は、第1ヴァチカン公会議の結果に見られるような揺り戻しの時代でもあった、ということなのだとも思うが。

 

教会への従順と信仰とコンパッション

ところで、今日の放送を見ながら思ったことは、これ、実は、最近絶賛販売中の記事で取り上げているグリューンの「従順という心の病い」の基本主張と非情に深くつながっているのだろうなぁ、ということを思ったのである。特に遠藤周作や、この沈黙の中に出てくる「転んだ」とされる司祭たちを考える時に、西欧型の教会が押し付けようとした、ある生き方のパターン、殉教しても、教会が主張していた生き方に従順に従うことを良しとせず、教会の主張に従順とはいえないような生き方で生きる中で、痛みを抱え、傷を抱え、失敗を抱え、それでも生きる中で、神の憐れみの中に生きることを体験していく、正にコンパッションのなかに活かされる生き方、神の憐れみにすがって生きる生き方を言いたかったのかなぁ、と思う。なお、ナウエンも面白いことを言っていて、真のコンパッションは、ソリチュード、沈黙の中に生きる生活の中で形成されていく、ということをThe way of the Heartの中で、主張している。

 

『沈黙』とソリチュードとコンパッション

その意味で、沈黙の中に出てくるロドリゴ司祭は、強制的にであったのだろうが、このソリチュードの中に置かれたのではなかったのか、という印象を今日の放送を見ながら思ったのである。ただ、ソリチュードは、一人でやるものではなく、その世界に親しんだ指導者とコミュニティを形成しながら取り組んだほうが良いとは思うので、ロドリゴ司祭のような例は特殊な例であったのだと思うが。

 

この小説の中でもそうらしいが(実は『沈黙』をまだ読んだことがない)、このロドリゴ司祭は、当時の政府、幕府によってソリチュードを強いられる中で、自分自身の痛み、怒り、苦しみ、葛藤というものと向き合ったし、そして、そのソリチュードを通して、イエスのコンパッションということに気づき、そしてロドリゴ司祭の信仰は、変容していったということを遠藤周作は書きたかったのではないか、ということを思ったのだ。

 

 

その意味で、今日の放送を見ながら、沈黙とソリチュードの話が、沈黙と霊操の話、沈黙と砂漠の師父達の話が重なってきたのである。このいずれも、沈黙すること、静まることと深く関わっているように思った。あるいは沈黙の中で、神と出会うこと、神とのコミュニティ形成をしていくことと深く関わっているのではないか、ということを思わされたのだ。多分、それはあまりずれていないだろうなぁ、とは思った。

 

まぁ、ミーちゃんはーちゃんが、沈黙を読んでみようという気になっていることだけは、ここに書いておく。

 

既存教会への従順とは違う形での教会形成運動との関連

もう一つ、この放送の中で、ちょろっと出てくる遠藤周作研究をしている人物として紹介されていた、アメリカ人の大学教授の話が印象的であった。その話は、要するに、アメリカでは、既存の社会システムと一体化し、人々に特定の生き方を強いるような教会とは違う形のものが求められていること(おそらく、家の教会とか、イマージェントと呼ばれる動きではないか、と思ったが…)と、文学作品としての『沈黙』を関連付けてお話になっておられるかのような発言が含まれていたことである。

 

その最近の動きを、従来の教会システムに従順に従うタイプの信仰と違うタイプの信仰として、アメリカ人が見ているのが、ちょっと意外だった。そういう面で、ミーちゃんはーちゃん個人としては、これらのイマージェントや家の教会とかの新しい教会運動に関して、これまでの形態の伝統的教会やプロテスタント諸派とは違う動きを単に模索しようとしている教会群として見ていたのだが、そんな見方もあるのか、もう少しちゃんと考えないといけないなぁ、と思ったのと同時に、発言の趣旨をもう少し詳しくは聞いてみたい気がした。

 

 

個人の信仰、信仰のコミュニティ、コミュニティの信仰

あと、気になったことは、インタビュアーだったか、インタビューを受けている人だったか、詳しくは覚えていないのだが、神と私、神と個人との関係で捉えようとしているかのような印象が少し気になった。そこにコミュニティ性が抜けているというか、教会というもの、信仰というものを西洋近代社会で一般的な概念とされた物の見方、神と個人、個人的なものとして信仰、を捉えようとする傾向が少し見られたことがちょっと残念で、個人を通しながら個人から形成される信仰コミュニティと、信仰コミュニティとしての信仰という側面が今回の番組では少し欠如しているかもしれないなぁ、とちょっと残念に思った。

 

まだ、その意味で、このような理解がマスコミにおいても、また、それを含めたキリスト教関係者においても、コミュニティとしての信仰という側面がもう少し広がるといいのに、とは思った。

 

 

最後に、こころの時代のウェブサイトの内容をコピペしておく。 

再放送は、2016年12月3日  土曜日13:00からE-テレにて

NHKEテレ1

 〜 

遠藤周作文学の研究者・山根道公(ノートルダム清心女子大学教授)

こころの時代〜宗教・人生〜「母なる神への旅〜遠藤周作“沈黙”から50年〜」

作家・遠藤周作が50年前、長崎のキリスト教弾圧時代の信仰を描いた小説『沈黙』。当時一部で禁書扱いされたが、いま世界から見直されている。求められる「母なる神」とは

 

 

作家・遠藤周作が、長崎を舞台に、キリスト教弾圧時代の信仰を描いた小説『沈黙』。刊行から50年、海外にも多大な影響を与え、この冬ハリウッドでの映画化も話題となっている。宗教の対立が世界を揺るがす現代、神の存在や信仰の在り方とは…。『沈黙』が描く日本特有の信仰の姿、潜伏キリシタンの祈りは、いま静かにやさしく語りかける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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前回は一回お休みをいただいて、キリスト業界の紙メディアを巡る議論について少し考えるところを述べた。今回はグリューンの本に『従順という心の病い』を読みながら、考えたことを書いてみたい。

 

世界の支配者になるという野望

夢は何か、と聞かれた時に、小学生が世界征服と書くのが流行した時期があった模様である。まぁ、幼稚園児から小学高低学年次生が見る(ミーちゃんハーちゃんは根がガキなので、この手のものは嫌いではない)戦隊モノなどの悪役集団は、世界征服を声高に言うものが多い。

 

 

ショッカーさんは世界征服を目指しておられるらしいことの証拠動画

 

実は、世界征服とまでは言わなくても、人間は不幸にして他者を征服する悪い癖があるようなきがする。実は、それは文明とか文化ということと裏腹のものであるようだ。キリスト教でも、それに類することがあることを、そして、まぁ、反省している人は反省しているのだろう、ということは次の文章で知った。

For many people the word "missionary" conjures up images of people from colonial powers imposing their beliefs on less powerful people, whose cultures they were, or are, also intent on converting or destroying. Such "missionaries" have sometimes even solicited their homeland's military forces to further their causes.
"Readling Paul", Capter 3. by Michael J. Gorman

 

私訳 

多くの人々にとって、宣教師という言葉は、より弱い人々に、殖民地支配を行うような力によって、支配する側の確信をっ強制的に押し付け、力なき人々の文化を変更させ、あるいは破壊する、あるいはしてきた人々のイメージを呼びおこさせるものである。そのような宣教師は彼らのために母国の軍隊まで、時には呼び寄せ、用いたのである。(パウロを読む 第3章 から)

まぁ、もちろんのこと、パウロは、このような宣教師のような人々のあり方とは違うやり方で、神の言葉を伝えようとしたMissionaryであったとは記述があるが。

それはさておき、グリューンは人間が他者を征服したがる傾向について次のようにいう。

 

私がここで説明してきたことは、いわゆる高度なあらゆる文化の根底に横たわる問題である。(中略)私達の高度な文化の根底にあるものは、世界をコントロールするため、所有するため、支配するため、同時にこれらの動機を否定し隠避するためのメカニズムを手に入れるための衝動である。(『従順という心の病い』p.73)

 

アニメ「天空の城、ラピュタ」でのラピュタ人は高度な文明を誇ったらしいが、ロボット兵とラピュタのいかづちを使って世界を征服したらしいが、人間もまた、同じことを別の人間に対して行う悪弊は、文化に組み込まれ、ロックインされたものではないか、とここでグリューンは指摘する。そういえば、「天空の城 ラピュタ」でのムスカ大尉は、世界征服がどうのこうのということを言っていた気がする。
 

人間は、他者をコントロールするコントロールマニアなのかもしれない。

 

 

ラピュタの雷

 

ラピュタのおっかないロボット兵の皆さん

 

まぁ、どうであれ、人間の野望としての他者の征服は必要悪かどうかは別としてあるのではないか、と思うのだ。それを正当化するために、聖書のことばを曲解して使う人達がおられるのがかなわない。キリスト者のうちにも、聖書の言葉を曲解し、地を支配するのは当然だと言いはる人々もいる。である。どこが用いられるかというと、創世記一章の以下の部分である。

【口語訳聖書】創世記
1:28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

この部分で、「従わせよ」、あるいは「治めよ」という部分が、悪用されて、地を支配する原理として用いられたことがどれほどあったことか。

 

少なくともアメリカ大陸に入植したときの西洋人は、アメリカ原住民、ネイティブ・アメリカンを、人間だとは思っていなかった、あるいは、法律制度では、すくなくともネイティブアメリカンの人々を人間とは認めなかったことがある。これは、米国の国勢調査でもその扱いであり、フロンティアの定義では、ネイティブ・アメリカンは人口として数えていなかった時期がある。

 

さらに、土地の所有という概念を持ち得なかった彼らを追い払っていなくなった地を自分たちのものとしてしまったのである。そんなこともあり、こんな画像が大統領選挙中、出回った。

 

2016年大統領選挙中見た画像

 

なお、南野先生がお訳しになられたマーティンズという人の『神のデザイン』(最下部参照)という本では、旧約時代は厳密な意味での土地の所有という概念はなく、土地の耕作権だった可能性があることが指摘されていた。本来、この地は誰のものか、ということは重要な聖書的な問ではないか、と思う。

 

ところで、グリューンさんの「(従順を他者にしいて、それを他者が当然受け止めるべきこととすることは)これらの動機を否定し隠避するためのメカニズムを手に入れるための衝動である」と言うのは非常に厳しい表現であるが、他者が従順に受け止めてさえしさえすれば、心にある動機を気にする必要は殆どない。だからこそ、少年兵が使われたり、「良いインディアン」(白人の言うことに素直に従うネイティブ・アメリカン)や「良いアジア人」(白人様の言うことに従順に従うアジア人)とか、「良き○○国民」(政府の言うことに従順に従う国民)が言われてきたのだろう。その意味で、白人様の言うことに従わない悪しきアジアの共産主義国家は、時に攻撃の対象にされることがある。まぁ、下の動画の方は、中国がお好きなので、このように言っておられるかどうかは存じ上げないが、以下の動画ではお好きであるとは、ご発言である。

 

決して、トランプ候補は発音練習で言っておられたわけではないように思うが

 

順応してしまう人間の悲劇

世の中には、疑問を持たず生きられる幸せな方がおられる。それはそれで幸せなことであると思う。しかし、個人的には、若くして学校の先生からの指示に順応することに慣れすぎてしまったばかりに、考える力を失い、生きる力を失っているかに見える学生諸氏も見てきたので、なんだろうなぁ、と思うこともあるが、中に、そこから抜け出そうとする人々がいることもあり、その面では安心だなぁ、と思うこともある。

 

随分以前のことであるが、学生課と呼ばれるところに呼び出され、退学の希望者が居るので面談してほしい、と言われたことがあって面接したことがあるが、どうも学校をやめたくてやめたくて仕方がないという方のようであった。指導教官でもなく、その学生と授業では面識もない学生であったので、「なぜ、退学したいの?」と聴くと「何が何でもラーメン屋になりたい」という。アルバイト先で知り合ったラーメン屋のラーメンがやたらと美味かったらしく、「自分も自分の納得ができるラーメン屋を作りたい」のだという。

 

立場があるので、「はいはい。退学ですね。じゃぁどうぞどうぞ」といっては、役職上多少まずいので、一応役職としては、数度翻意を促したが、その退学希望者の決意は堅固であったので、「じゃあ、頑張ってね。開店したら知らせてね」と面接を終わった。その後、翻意を促したことを報告書に記載して、学生課に関係書類を提出した。数週間後、その学生さんは退学届けを提出をされて、正式に退学が認められたが、その後、ご連絡は一切ないので、本当においしいラーメン屋が誕生したのかどうかは確かめられないままである。

 

学校の教員的にはまずい発言かもしれないが、今でも、こういう元気のある学生を見ると、ある面清々しい気になる。彼は学校というシステムに飼い殺されることを、自分で拒否したのではないかと思う。まぁ、学校という組織にしかいた事のない人間(とは言え、色んな所に出入りはさせてもらっているが)にしてみれば、そういう生き方もあっていいかも、とは思う。

 

ところで、システム内に順応して生きている人たちについて、グリューンさんは次のようにいう。

 

私はここで、一般に「病気でない」と分類される「順応型の人間」に注目したいと思う。彼らは、競争で成果を上げた人たち、所有したり征服する支配者たち、―それゆえ不安や緊張や苦しみから開放されていないようにみえる人たちである。「人間を病人か、病人でないかを区別する試み」は、被害者を生み出す病がそもそもなんであるかを考えようとしないので、当然、失敗することになる。私達の成長の根底にある問題が無視されるなら、「人間が歴史的存在であるという意識」は不完全なものとなる。人間の歴史的・時間的なできごとを理解しようとする行為は、私達のうちに異質なものが常に存在するという状況を理解しない限り失敗する。(同書 p.76)

 

この部分を読んだ時、思い出したのが、東京大学を出て、電通というところにお勤めになられて、自殺されることになったお若い女性のことである。なに、この種のことは、最近ばかりではない。以前から、中央省庁のお役人様の中には、若くして自殺される方は少なくなかった。有名中学、有名高校、有名大学、中央官庁という、競争を勝ち抜き、絵に書いたエリートコースに進みながら、若くして亡くなられる方は、少なくなかった。実に残念なことであるが。

 

このタイプの人達は、学校という競争社会に順応しすぎ、あるいは社会のシステムに順応しすぎたゆえに、そして、学校という競争社会のシステムで、常に勝者でい続けたために、そして、それ以外のプライベートな社会の中でも勝者であり続けようとしたために、苦しみを抱え込み、勝者であること、勝者であり続けることからの開放がなされなくなってしまった人たちなのだろう。

 

その意味で、強行突破型の人生に耐えきれなくなった人でもあるように感じる。

 

まぁ、大量生産時代の近代という時代においては、モーレツ社員であることが、成功の方程式であり、そのシステムに順応することが成功者への近道であった時代がある。不安を抱えつつも、システムに順応していった結果、そこにあるものがあまりにつまらないものであるがゆえに絶望を感じた人々は、システムの言う正常な人間であり続けるのをやめるために、人生に自ら終えることを決断したような気がしなくもない。もっと他に生き方があったのではないか、とは思いはするが、それに気付けなかったのだろう。

 

そう思うと、ナウエンという人が世俗の学問分野や作家として、高い評価を受け続けることに苦しみ、結果、ラルシュでの専従聖職者になって開放されたことを味わったことと、ある面、似ているのかもしれない。イエスは、十字架で高く掲げられたが、それは人間的には、どん底に向かっていくことであったことも忘れてはならないことのように思う。

 

若い女性の自殺に関する労災認定の新聞の記事

 

 

まぁ、もともと、この若くして自殺した女性の話にしたって、労働基準監督局がめったに認めない自殺を労災認定したから新聞にのり、マスコミが取り上げるということで起きた話であって、もし、労災認定がなければマスコミも取り上げることもなく、忘れ去られていった事件ではないか、と思うのだ。と言うのは類似の事案は案外多いからである。

 

なお、ミーちゃんはーちゃんは、長く働きたい人には、かっこいい職場よりも泥臭いおっちゃんの多い職場を選べと言っている。なぜならば、泥臭い現場を持っている職場の場合、「ゼロ災で行こう」が合言葉なので、過去の犠牲者の故に、無理な働き方が少ない事業所が多いからである。と入っても、危険職場は危険であることには違いがないが、自殺まで至ることはめったにはないことも確かではある。

 

さて、このように人を死に追いやるようなシステムは基本的に無反省であることについて、「被害者を生み出す病がそもそもなんであるかを考えようとしない」とグリューンさんは書いている。それはそのとおりだなぁ、と思う。帰って、その病を指摘すると怒られてしまうのだ。あるいは、「頭がおかしい」と言われてしまう。

 

京都大学は頭が良くて、現状を前提としない人々が沢山おられ、それがあそこの校風となっておられるので、「誰が病気なのか、本当によくわからない」というのはあるかもしれないが、こういう批判精神をお持ちの方が多いようである。その意味で、東大の学生さんは真面目なので、そこの学長が「痩せたソクラテスで云々」と卒業生への祝辞で言おうとしないと行けなかったのかもしれない。

 

2016年の京都大学の卒業式… 毎日新聞さんから

 

毎年仮装が楽しみな折田先生像

 

天丼マンになった折田先生 朝日新聞から

 

ところで、以前にも書いたが、ミーちゃんはーちゃんは、バブルの絶頂期にバブルに踊る人たちを横目に見ながら、大学院という教育機関に自発的かつ社会的入院をした人間である。その意味で、システムから外れることができた。逆に言えば、学校というシステムに飼いならされているといえば飼いならされては居るのだが。

 

グリューンは、親の言うことに従順に従うことが求められて、それにしたがって生きてきた、ということを思い出させるために、次のような一文を書く。

 

私達の成長の根底にある問題が無視されるなら、「人間が歴史的存在であるという意識」は不完全なものとなる。人間の歴史的・時間的なできごとを理解しようとする行為は、私達のうちに異質なものが常に存在するという状況を理解しない限り失敗する。」とグリューンさんは書いているが、これは、実は、本来、人間というものは、歴史的な環境に依拠した存在であるという意識を持たねばならないこと、さらに、人間は一時的存在似すぎないことを覚えるべきであり、永続的存在であるという意味での歴史的存在ではありえない、ということなのだと思う。まぁ、その後に、「人間の歴史的・時間的なできごとを理解しようとする行為は、私達のうちに異質なものが常に存在するという状況を理解しない限り失敗する」と書いておられるので、分かるとは思うが。

 

これは、聖書理解にしてもそういうことであり、聖書理解も歴史的存在であることを忘れてはならんのではないか、と思うのだ。聖書理解は、ある程度Working Theoryとして機能するものの、それは永遠不滅のものでもなければ、普及のものではない、歴史に影響を与えることもあるけれども、完全なものではない。

 

 

大阪の下新庄あたりにある「歴史を刻め」という名前のラーメン屋さん

 

そして、異質性をもつものがどの社会でも存在し、社会は本来一様でない、多様な人々から成立していることをグリューンさんは主張しているが、この概念は極めて大切であり、多様なものを一般化した瞬間に、いろんな議論は危うさを内在させることになってしまう、ということをおっしゃりたいのだろう。ただ、多様な存在であっても、概ねの傾向として捉えられる集団の共通部分が多少はあるとは思うが。

 

その意味で、近代社会が個を圧殺しようとした文化を、未だに継承しているポストモダン社会においても、個別性を持つことは案外重要なことではないか、と思う。

 

じっと見つめたほうが良いかもしれない

恐怖や悲しみ

恐怖や、痛み、悲しみを見ないことで、それを忘れようとすることがある。そして、やせ我慢して生きようとする人々がいることは確かだし、近代人、あるいは近代の日本人はそれを良しとしてきた部分がある。特に、戦争中はお国のために奉公したとか、お国のために花と散った、とか言ってごまかして、戦死者の家族に泣くことを禁じ喜んでいる雰囲気を醸し出すように遺族に強いたところがある。しかし、それは間違いであったようにも思う。そのあたりのことに関してグリューンは次のように書く。

 

 私たちは、生き延びるために、自分がさらされている恐怖や悲しみを否定しようとするので、私達の置かれている状況を誤って理解することになる。だが恐怖や悲しみを否定するなら、私たちは自分自身を犠牲者として認識することができなくなり、何度も繰り返し従順になろうとし、従順で有り続けることになる。その場合に、従順であることの陰湿な問題は、従順に組み込まれている防御装置にある。つまり「従順であることに逆らう」と「罪責を過剰に負わされる」ということなのである。(同書 pp.76−77)

 

きちんと自分自身に悲しみがあり、苦しみがあるのを、見つめて良いし、見つめるべきだ、というのがグリューンさんの主張のようである。それを無理やり切り離して、なかったことにするのはまずい、と言うことなのだろう。

 

ナウエンという人も、この種の悲しみとか痛みとかの心の傷は直面したほうが良い、と言っている。ただ、それは一人で見るのではなく、我々とともにいる神への信頼の中で、という条件付きであるが。

 

ところで、キリスト教界でも、大日本帝国時代の日本ではないが、遺族に喜びを強いるかのようなことがある。本人たちがほんとうに遺族になったことを喜んでおられるのなら、何も申し上げることはないが、もし、遺族が本当は悲しんでいるのに、自分達の教会の教義のゆえに喜んでいるふりをさせられているとしたら、なんとも残念なことである。

 

ヤンシーの『隠された恵み』の中に出てきているある親戚をなくした人の話ではないが(いのちのことば社刊 『隠された恵み』を読んだ(4) の引用部分参照)、牧師や教会員から親戚がなくなったときに、「○○さんは、天国に行けて良かったですねぇ」とか「天国に行かれましたよ」「万歳、ハレルヤ」と言われて「ええ、まぁ。」と答えを返すことを期待されていることなど、おかしなことではないか、と思う。だいたい万歳とは、文字通りを読めば、Long Liveの意味の語である祝祷の語であるので、お葬式の場においては矛盾も甚だしいと思う。まぁ、縦しんば神の国での永遠の生を言祝ぐ、ということであるというこじつけも不可能ではないが、そもそも、神の支配のもとでは、万年など、一瞬にすぎないはずだが。さらに、本来の人間に与えられている悲しむ心に配慮しない、というのか、失われたゆえに悲しみに打ち震えている人々に対する哀れみのかけらも、持ち合わせていなくて、自分たちの理解を無理やり押し付けようとする、現代の一部のキリスト教会は、どっかおかしいと思っている。

 

悲しいときには悲しめばいいのだと思う。相手が強いてくる喜びであるがゆえに、本人の正直な心の中からその喜びが出てきてないのだとしたら、そんなものはナンセンスであろうと思う。しかし教会では、その正直な心を押し殺すように強いる人々がいる場合があるのが、実にかなわんと思う。葬儀のときくらい、葬儀後の生に向かって前向きに日常を生きるように、気分を切り替えるために、思いっきり泣くのが普通だとは思うのだが。

 

ところで、生存するために他者に依存するようになる異常な精神状態、ストックホルム・シンドロームでは、「恐怖や悲しみを否定する」という異常な状態が起き、その結果として、「私たちは自分自身を犠牲者として認識することができなくなり、何度も繰り返し従順になろうとし、従順で有り続けることになる。」ということが起きるのであろう。

 

軍隊では、戦争の際などに備えて、「恐怖や悲しみを否定する」教育が徹底して行われることになる。そして、恐怖心を感じないようにしていくのだ。しかし、それでも戦場での経験によっては、PTSDなどが起きる。

 

従順さが含む問題

従順を強いる人々に、あるいは盲従を強いる人々にぜひ記憶してほしいことは、次の一文である。

 

その場合に、従順であることの陰湿な問題は、従順に組み込まれている防御装置にある。つまり「従順であることに逆らう」と「罪責を過剰に負わされる」ということなのである

 

従順を他者に強いるということは、ある面、相手の口をふさぐ、相手の発言を抑止する、そして、相手の存在を圧殺し、無視する、相手の発言の権利を侵害する、ということでもある。その権利侵害そのものも問題であるが、それ以上に問題なのは、従順でないことがその人自身の姿であるはずなのに、そのひとの姿を取り戻し、現在の特定の社会において従順とはされないことを行った時に、その人に必要以上に罪責感を感じさせてしまうところである。

 

本来の姿に戻ることは、言い換えると、神によって回復された姿となることは、ある面当然なことであるにもかかわわらず、それが世俗の価値観と対立するからと言って、特に、教会の聖書理解の中に知らず知らずに紛れ込んだ(意図的に紛れ込ませるなら、より性質が悪いのだが)神ならぬものである人々の価値観と対立するからと言って、批判された上に、罪意識を挙句の果てに過剰に背負わされるなどというのは、実に陰湿というか、もはや悲惨、としか言いようがない。

 

よく言われる、「クリスチャンらしくあれ」とかいうことも、大抵の場合、他人、あるいは、発言者が思う「クリスチャンらしさ」であることが多い。何なのだろうと思う。

 

ミーちゃんはーちゃんの個人的な理解から言えば、教会は「神のかたち」を回復せしめるところ、囚われ人である人々に、その囚われからの開放を告げる場所であると思うし、その開放を与えるために神ご自身が招いておられる場所であると思うし、そうであってほしいと思う。しかし、そうではなく、知らず知らずのうちに紛れ込んできた物による別の囚われを教会が繰り返し、繰り返し、そこの場にいる人に与えるとしたら、一体何なのだろう、と思うのである。

 

 

次回へと続く

 

 

 

 

 

 

 

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コメント:おすすめしております。

評価:
エルマー マーティンズ
福音聖書神学校出版局
¥ 2,700
(2015-07-01)
コメント:これはなかなか面白かった。おすすめです。全部には賛成しているわけではありませんが、示唆に富む本です。

 

 

 

 

このブログでは、NTライト・セミナー関係の発信もしてますが、今年も実施できました。

 

それで、2016年は第5回となったセミナーでしたが、参加できなかった方々への朗報です。N.T.ライト・セミナーの当日の会場の様子を収めたDVDができました。完成品はこんな感じです。

 

 

ケースには、今回のNTライト・セミナーの配布資料集の表紙デザインを元にしたカバー

DVD表面は、今回のセミナーのWeb案内画像を元にしたデザイン

2枚組で、2500円 限定20セット

 

こちらには、資料集にない情報も満載。

 

 

で、今回は、ちょっとスニークプレビューを動画で公開します。

 

DISK 1 のスニーク・プレビュー

 

DISK2 のスニーク・プレビュー

 

 

 

 

なお、資料集だけなら1部500円です。

 

資料集

 

ご注文は、こちらへ、お早めに