2018.05.21 Monday

KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(3)

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    今回もブログ緊急更新しました。

    今回は、

    前々回の記事 KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(1) 

    前回の記事  KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(2)

     

    からの続きです。千葉先生によるローマ書1章についてのお話をご紹介したいと思います。

     

     

    ローマ書1章の説明にこのあと千葉先生は移っていかれた。

     

    2種類の神の義の啓示

    ローマ1章18節 自然神学として理解しようとする。意味論的にいえば、ここでは、神自身が行為主体となる言語形で書いている。神の義の啓示としては、2種類あると考えることができ、それは、

    神の義の第1啓示(ローマ1章) 神の怒りによる義

    神の義の第2啓示(ローマ7章) イエスの信による義

    と整理できるだろう。

     

    イエスご自身も言っているが、律法を終わらせるイエスというのはないだろう(ミハ氏註:律法のターミネータ(暗殺者)としてのイエスではなく、あくまでイエスは、律法の完成者(ミハ氏註: ギリシア語の完成という表現、すなわちTelosとの関わりがここに出てくる)として理解すべきだろう。

     

    アラビアでパウロは何をしていたか…

    ところで、パウロはアラビアで、3年もの間、いた期間に何をしていたと考えられるだろうか。個人的な想像であるが、おそらく、アラビアで旧約聖書を繰り返し読み、そして、ロゴス、真理を見つけたかもしれない。そして、その旧約聖書を理解した(ミハ氏註:もうちょっというとトーラ、ネビーム、そして、タナッハと呼ばれる旧約聖書を十分理解した)うえで福音を理解すべきという結論に達したのではないだろうか。

     

    アラビアでのパウロ

    http://kmooreperspective.blogspot.jp/2016/06/what-did-paul-do-in-arabia.htmlから

     

    パウロについてのイコン(アラビアの砂漠の山が見える)

    http://eliasicons.blogspot.jp/2011/06/june-prayers-to-sacred-heart-3-st-pauls.html から

    ここで、神の怒りが突然現れるが、このローマ書1章で、ストア派のある哲学者が初めて使った言葉(ギリシア語)をパウロは使っている(ミハ氏註:さすが西洋古典学の先生と思った。技術系とは思考経路とその背景の層の厚さがが違う、と思ってしまった)

     

    啓示であるがゆえに必要とされるメディア(媒介者)

    ところで、啓示には媒介を必要とするのである。旧約時代は、啓示の仲介物、媒介物(ミハ氏註: メディア)として石板に刻んだ文字にしがみついたのである。この1章19節の中で、パウロは千葉訳では「明らかにした」(ミハ氏註: 口語訳聖書の訳は「神がそれを彼らに明らかにされた」)と過去形を使っている。(ミハ氏註:日本語は主語がいい加減でも、時制がかなりいい加減でも、相手の発言趣旨を忖度して、惻隠の情を持って、理解するので、この辺の読みはいい加減になりがち、というのは個人的経験としてあることは十分承知している。だいたい聖書読むときだって、時制にまで、気を回して読んでないことが多い。話し言葉ではなおさら意識しないように思う。)

     

    この「明らかにした」に関連して、もう少し言うと、感覚的に見て取るということが意味を持ち、感覚的に見て取ることができるということは、叡智がそこで働くということかもしれない。ここには(ミハ氏註: 媒介者としてのメディアとしての)キリストが出てこない。  ところで、ローマ1章の過去形については、出エジプト記にすべて対応箇所がある、といえる(ミハ氏註:これを全部確認して回るのが、学者。千葉先生は、本物の学者だわ)

     

    計算機屋がイメージするメディアに関する図解

    https://www.pinterest.es/mediapartnersad/digital-radio-advertising-electronic-media/ から

     

    叡智の機能不全

    千葉訳では、「叡智の機能不全に引き渡した」とした部分(ミハ氏註:口語訳聖書では、「神は彼らを正しからぬ思いにわたし」)という部分については、識別の程度があるように考える。知識と感覚において満ち溢れ、識別しつつ、神を持つことを識別しない場合どうなるのか、ということである。

     

     叡智が機能不全に引き渡されたものは、神の善性を理解できないことになるのである。この部分を、「信じることによって恩恵を受ける」と理解するのは、まずい、と考える。それは信(ソラ・フィデ)と恩恵(ソラ・グラティア)の癒着となっている。

     

    信を嘉するとは…

     結局、信というか、信仰を嘉(よみ)する(ミハ氏註:信と裁定した上で良いものと認めるとか、審判した上で、それは良いものである、と評価する という意味 ヘブライ語の トゥーブ ט֣וֹב に近いのかも)のは神のみであるということをパウロは主張しているのであろう。ただただ、神を仰ぎ見るのが信の根源であり、それは、救いの必要条件でないかもしれない。人間が神をどう信じているかは問題とされなくて、より重大な問題は、神が「どのように人間の中の信を見ているかである」ということができるだろう。

     

    最後の審判のときには、神の前に立つ(Wikipediaから)

     

     

    (識別のレベルがあり)識別しなかったこと行為と識別に比例性があるといっているようだ。人やエルゴン(今ここという状態)でロゴスにヒットする(ミハ氏註: 一瞬掠る、とか、触れる、接触する)かもしれない。カントはヌースは働かないといっているが、それは、ヒエロニムスによる誤訳の故発生した誤解かもしれない。

     

    叡智の機能不全に引き渡されるとは

    神の前の「完全な信」(ミハ氏註 神が見てお認めになる「完全な信」)と、人間の側のレベル(ミハ氏註: レイヤー・層)における「信」は根本的に違うものだと言える。神が引き渡された、ということが意味することは、自分自身でその世界に至ってしまったのだから(ミハ氏註:神を認めない「信」ならざる世界に自分で至ってしまった)のであるから、その責任は、自分でとることが求められる。「叡智の機能不全に引き渡された」とは、あまりよくないもの(ミハ氏註: より露骨に言えば、「ろくでもないもの」)にヒットした(触れたり、接触した)結果、そっちのほうに流れていく、ということを示している。

     

    さて、ローマ2章の冒頭では、他人をさばいているあなたには、弁解の余地がない(ミハ氏註: 口語訳「すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。」)という表記が出ているが、ここでは、1章のエルゴン言語のレイヤ(層)の話法、論理ではなく別のロゴス(ミハ氏註: ​おそらく、別レイヤーのロゴス)が登場し、個別の話が、より一般化されて提示されている。業の律法に生きさせることで、神の意図を歪めているのではないか、と指摘していると考えられよう。

     

    質疑応答の一部から

    以下、質疑応答ででたものの一部をご紹介します。

     

    Q: ヒットという語を使われていますが、その意味はどのような意味ですか?

    A: ヌースが発動して、ロゴスに接近して実践知が生まれていることを表現しようとした。ヌースが命題(ロゴス)に接近していくことが、最善の行為行為であり、そして、ヌースがロゴスに触れることをヒットという言葉で示している。

     

    Q: 神の怒りについて、もう少し説明してほしい。

    A: 生身の人間(肉なる人間)は、神がある程度譲歩された存在)であるが、神の前の人間は、神を知っている状態にある人間のことであり、人間のレベルで考え、人間を中心として考えているその考え方に対して、神の怒りが発動する、という表現になっているように考える。

     

    Q: パウロは、このローマ人の手紙をギリシア哲学がわかる人に向けて書いたのだろうか。聖書の中身は、アリストテレスの哲学を理解できる人にしか理解できない、ということではないのではないだろうか。

    A: ある意味、パウロはアリストテリアンだったと言えるのではないだろうか。答えはあるという前提に立ち、網羅的で排他的にやった人である。その意味でアリストテレス的であったと言えよう。パウロは、論理空間を作るときにしらみつぶしにやっている。

     ある意味、パウロは哲学者であった。それ以外ないということまで突き詰めている。ヌースが真理に向かって生きていく、ということを明確に意識している意味でアリストテレス的な理解をしていると思う。

     

    Q:イエスの名称問題についてもう少し、ご説明をいただきたい。

    A: ナザレのイエスと、イエス・キリスト(テキストを読むときの全体の音声言語の状況によっては、キリスト・イエスとなる。 ギリシア語としての音のコンテキストが影響していると考えられる)と、キリストという語がある。まず、(ナザレの)イエスは、行為主体となるものとしてパウロは使っている。また、キリスト(復活した栄光の主・メシア・主・キュリオー)も行為主体となる。ところが、イエス・キリストとでてくる場合、場(ミハ氏註 メディアあるいはインターフェース)であり、行為者とはならならない。(ミハ氏註 だから、祈りの終結後である、アメン、アミンとかの前に、「イエス・キリストによって」とか、「イエス・キリストの御名によって」 in the name of Jesus Christと言う表現になっていると考えるとわかりやすい。商法での契約における会社の代表者をどう考えるか問題と似ているといえる。結局、取引主体の両者の公式で最高位のインターフェースが会社の代表者となる問題で考えれば、わかるかもしれない)

     イエスご自身が自分自身を差すときに、「人の子」と表現することがあるが、このようにイエスが表現するとき、ご自身が「受肉のもとに死とその苦しみを経験するもの」としての側面が含まれていると考えられるであろう。

     イエス・キリストは固有名ではあるが行為主体にはならないメディアとしての存在を表すものであり、栄光ある職務を担った尊称(ミハ氏註 楽天株式会社 社長をなにか公式の場所で紹介するときに、楽天株式会社 社長 三木谷 浩史 さんと呼ぶことがあるが、このときの呼称を分解してみれば、代表取締役会長兼社長(この役職名の部分がキリスト・イエスのキリストの部分に相当する) 三木谷 浩史(個人名の部分がキリスト・イエスのイエスに相当する)というようなものだと思えばいいように思う。なお、三木谷氏を出したのは、単に塾と高校時代の同級生でちょっと同じところで勉強した、とういことだけ以外の理由はない。高校時代を含め、それほど親しかった人物ではない。)と思うとよいのではないか。

     イエスは復活を味わうという人間としての側面を表す時にパウロはイエスという表現を使っていると考えられる。

     

    Q: キリストの信についてもう少しご説明をお願いしたい。

    A: キリストの信、となぜ名詞で表現するかというと、動詞を神に帰属させることがないからである。神の信と人の信をキリストを媒介にして啓示しているのであって、基本的には、神について、動詞をあまり使わないからである。

     また、動詞を使うとどうしても、時制が気になる。しかし、パウロは神について動詞で表現しないといけない場合は、かなり気を使って使っている。特に神に関することで、旧約聖書由来のものは過去形を用いて表現されている。

     「キリスト・イエス」と「イエス・キリスト」の使い分けはおそらく音読上の問題であり、読みやすさ、聞いたときの音のひびきの問題によるものと考えている。

     

    このあと、食事をしながらも議論はいろいろ続いたのですが、そこは秘密にしておきましょう。

     

     

    ということで、連載はおしまいです。お付き合いいただき、ありがとうございました。

     

     

     

     

     

     

     

     

    2018.05.20 Sunday

    KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(2)

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      前回は、上沼先生がお話になられた部分を書きましたので、以下では、千葉先生のご発言の概要を紹介したいと思います。前回と同様に、このブログ状の理解の誤りは、聞き手のミーちゃんはーちゃんが悪いのであって、その点はお含み置きくだされたく。隊長はあまり良くないのだけれども、ある面、このGoodNewsは伝えたいので、ちょっと無理してますが、お知らせいたしたく。本来、ユーワンゲリオンεὐαγγέλιονって、伝達する人間の側に、そんな気を起こさせるものだ、と思うのだけれども。

       

      ピスティスが帰属の属格であること、についての捕捉

      イエスの信という時、帰属の属格であるという意味は、「イエスが持った信仰」という意味ではないといえる。ここで注意しないといけないのは、パウロは、厳密にイエスの固有名の使い分けをしているということに着目スべきであろう。特に、イエスを介して、とか言っている場合があり、イエスの存在を、その場合は場所として考えているといえる。

       

      「イエスのまことによる」「イエスの信」という場合、ナザレのイエスのカルバリの丘への道を含め、人間が理解可能となるための媒介者的存在であることをかなり意識して、パウロはイエスを描いている、と考える。特に、啓示の場合は、必ず媒介を必要とすることになり、それは、受動形として表現することになる。

       

      聖書における行為の中心性を持つのは誰か?

      聖書における、行為の中心主体は、あくまで神である。(ミハ氏註 これは、本当にそう思う。ときどき讃美歌なんかで、人間が行為主体になっているような歌詞があるが、あれは本当に何とかならんか、と思う。神様のために頑張る私というその行為を認めて、とかいう讃美歌もあるので、そういうのは神への賛美ではなく、自分への賛美ぢゃんと思ってしまう)

       

      神ご自身にとって、業の律法と信の律法は分離されないことは、重要な理解であるだろう。

       

      啓示という観点からは、イエス・キリストの信を媒介として、神が我々人間に知らしめたと理解するのがよいであろう。その意味で、行為者は一人である。つまり、神が信じる存在である、と理解・認識されている存在、人格を義と認めるのであって、イエスキリストの啓示を通して信じる存在を神が義とお認めるになるとパウロは書いているように思う。なお、啓示のためには、必ず媒介者がいるのである。

       

      神の子羊、という称号をイエスが持つこともあり、イエス・キリストとなだめの供え物との関連による表現で翻訳されることもあるが、これは非常に困る翻訳である。なぜなら、キリストを「業の律法」の枠組みでとらえることとなり、「業の律法」の中に福音を閉じ込めてしまうことになるからである。その意味で、「業の律法」の中にキリストの福音を閉じ込めるかのような代罰な理解は、問題がある解釈であると考える。

       

      Agnus DeiならぬAgnusDayというサイトのまんが https://www.agnusday.org/comics/292/acts-01-06-14-2008より

      (高く挙げられたキリストは背負うタイプのジェットパックを・・・とかw)

       

      また、神は言語使用者であることを理解しておくことは大事であろう。(ミハ氏註: 神は論理、ロゴスと深い関わりがある存在だから、当然といえば当然の気もしますが・・・はじめに、言葉があった、ってヨハネさんは書いていることだし・・・)

       

      なお、イエス・キリストは行為主体にならない。共通の尺度、共約部分になるといえる(ミハ氏的ツッコミ 新約聖書には、仲保者とか、代理人という表現があるが、まさにこれ)

       

       京都大学の水垣先生から「この本『信の哲学』を読んで、インテレクトス アンテ フィデム intellectus ante fidem(信の以前の理解)が言いたいのだ、ということがよくわかりました」というお手紙を頂いて、大変うれしかったとのご披露もありました。

       

      神の子羊に関する賛美歌集(この部分はご講演とは、全く関係ありません)

      さっきなだめの供え物、というのがでてきたので、神の子羊 Agnus Dei に関する賛美歌集めて、遊んでみました。お好きなのをどうぞ。休憩がてらに。

       

       

      Agnus Deiの賛美歌(バーバー作曲)

       

      Agnus Deiの賛美歌(フォーレ作曲)

       

      Agnus Deiの賛美歌(バッハ作曲)

       

      Pop調のAgnus Dei

       

      スペイン風Angus Dei 絵柄が、もう贖いの子羊…メェ

       

      Agnus Deiの賛美歌(モーツアルト作曲、カラヤン指揮 キャスリーン・バトル)

       

       

      Sola GratiaとSola Fideの混乱…

       

      閑話休題。それでは、千葉先生の講演のご紹介に戻りましょう。

       

      これまで多くのキリスト者が苦しんできたのは、ソラ・グラティア(Sola Gratia)とソラフィデ(Sola Fide)の癒着の結果ではないだろうか、義と認められるのは神の恵みによるというのが、究極の理解であろう、ということもお話の中で出てまいりました(ミハ氏的ツッコミ 伝統教派にいると、それは当たり前すぎて、言うまでもないことのように思うのだけれども…)。また、信仰を持つことは、非理性的なことではないといえるだろう。なぜかというと神は言語使用者であり、我々も言語使用者であるからである。その意味で聖書の言葉は、意味論的分析に耐えうるもののはずである。

       

      罪は偶然的に世界に入ったのでなければ、我々は、罪や悪から自由にならない。そもそも内在的に、本来的に存在しているのであれば、救いは存在しないことになる。

       

      ヌースと脳死

      先ほど、ヌースの話が出てきたが、内なる人間のことであるとすると、このことは脳死と関連するであろう。我々の身体は滅ぶが、身体に還元されない部位が存在する、それをパウロは、内なる人間(ヌース)と呼んでいるであろう。この内なる人が、キリストの如くになる。これが変身という意味であるだろう(ミハ氏註: 最近霊性の神学で時々出くわすトランスフォームの概念のことね 変容という語を使う人たちもおられますが)。聖書の主張は、イエスの信によるものを義とするということである。

       

      信じることが意味を持つには…

      知らされていないがゆえに、信じることが意味を持つともいえるのではないか。既に、知らされているものであれば、信じる必然性はないからである。その意味で、キリストを介して(キリストという場を介して)、叡智が働き、ロゴスが働く。神の意志にヒット(ミハ氏註:英語のHit、ぶち当たるとか、掠るとか、遭遇するとかいう意味で用いておられる)することができるのであろう。カントは理性で突き詰めようとして、理性が疲弊してしまった世界の人なのではないだろうか。

       

      以上補足部分のご紹介でした。

       

      いよいよ千葉先生の本論

      ここからが千葉先生の本論の部分です。

       

      啓示神学と自然神学

      神学の系譜に大きく二つ、啓示神学と自然神学の二つがあるが、この啓示神学と自然神学は相互媒介される必要があるであろう。神の前の自然神学がローマ1章で提示されているように思う。そこで、1章について考えていきたい。

       

       神が存在するかどうか問題というのは、アリストテレスからの問いでもある。アリストテレスの探求論の課題であり、カントの形而上学においても問われている哲学的課題である。

       

       啓示神学では、神に関する認識はできないことになる。その意味で、神が認識可能かどうかという問い自体がは無意味となる。 いかにして、神は認識可能なのかということについて、バルトあたりから、信じること(ソラフィデ)と神の恩恵(ソラグラチィア)の癒着が始まるのではないか、と考えている。神の認識について、矛盾律で考えようとすると、どうしても、一種のトートロジーになってしまう構造を内在的に持っているように考える。

       

      この2つの神学は、和解可能?

      ところで、啓示神学と自然神学は、和解できないのだろうかか。自然神学の観点から考えると、アンセルムスは、神の存在証明を考えるときに、比較級の否定を用いている。「それ以上大きいものが考えられない存在、それが神である」、といっている。それは存在するかもしれないから、結果として、神は存在しなければならない、とアンセルムスは指摘している。

       

      アンセルムスたん

       

      では、啓示神学と自然神学が仮に両立しうるとすると、何が言えるだろうか、ということを考えたい。人間は、アンセルムスが指摘するように、神と同じ知性を持っていないことになるし、仮に、持っていたら、全部わかることになる。

       

      インテレクトサンテフィデム( intellectus ante fidem)という理解に立つと、神の知恵の理解まで至る共約性が拡張される可能性がある。神が知恵あるものとして理解することが重要ではないだろうか。

       

      神学がやりやすくなった21世紀

       ところで、21世紀というのは、聖書理解をするうえで便利な社会になっていて、神が永遠の現在に生きておられる方というのは、誤解を恐れずに言えば、ある種のタイムマシン的存在であり、常に現在を生きている、というのは、タイムマシンという理解が成立している、21世紀になって、ある意味、ようやく理解することが可能となったということでもある。人間の全てのこと、髪の毛一本まで知られている、という表現があるが、それも理解できるであろう。(ミハ氏的ツッコミ 確かに、神は、ビッグデータのデータマイニングマシンということでもあるし、人間の細胞一つ一つを考え、それをご存知だとしたら、すでに、人間の細胞レベルでIoT化している神ということになる、という不謹慎な妄想を抱きましたw)

       

       

      IoT https://readwrite.com/2017/05/06/how-communication-service-providers-can-monetize-iot-beyond-connectivity-il4/ から

       

         千葉先生の『信の哲学』の下巻に収録されたp.413 の立体的なベン図風の図解の説明があり、それは、終わりの日を、キリストという存在を媒介とするときに、神の前とひとの前との視点から、どのようなことが起きるのかをが図解のご解説がありました。(ミハ氏註: これ、面倒なので、省略します。詳しくは、千葉先生の本を買ってください。お願いですから。結構しますけど・・・w)

       

       

       ポイントとしては、イエスとその信が人間にとっての媒介者として機能し、神がそのようにご理解されるからこそ、神の目から見ても義になるという話だと思っておいてもらえば、と思う。

       

       人間にとって、そもそも、三位一体は、知りえないものであろう。明白に啓示されているわけではないが、おそらくそうであろう、と理解できるのであり、神がそうみなしておられるのだから、三位一体であるということを考えれば、フィリオクエの問題はあまり悩む必要がないのかもしれない。

       

       ローマ書において、霊が一切出てこない部分と霊が出てくる分がある。5−8章は、霊の記述が多く、霊的な存在について触れている部分であると言えるだろう。

       

       ところで、信の確かさに生きている人には、神の存在証明は必要ないように思う。アンセルムスは護教なんてとんでもない、と主張しており、さらに、信と理性とは矛盾しないという。

       

      ロゴス・エルゴン・ラレイン

       ここで、ロゴスとエルゴン、ラレインについて考えてみたい。

       エルゴンというのは現在発生しているできごと、存在であり、ロゴスは現在だけとは関わりなく、宇宙全体を支配しているものであると考える。そのロゴスにエルゴンがヒット(ミハ氏註 英語のHit、ぶち当たった、かすった、一時的に接触)することがある。その瞬間、ロゴスがエルゴンに内在することになる(ミハ氏註 聖餐式でイエスの体を口から取り入れた瞬間のことによく似ている。あるいは、信じるという決心をした瞬間でもいいけど…)

       

      ある人(例えば、アインシュタイン)がエルゴンで発見したロゴス(E=mc^2)を別の人(その直後に検証した物理学者)のエルゴンが確認することで、ロゴスの全体像が分かってくるのではないだろうが。

       

      エルゴンというのは、今ここでのことであり、パウロは混乱してわかりにくいと言われるが、それは、パウロがエルゴン言語で、記述しているからとは言えないだろうか。パウロの苦悩は、このエルゴンレベルでの苦悩といえる。パウロの言う、ロゴスとエルゴンは別物であると思う。

       

      OSI7階層モデルみたい…

      ローマ書の中でのロゴスは、いろいろな層に分かれており、その層(レイヤー)の違いにおいてパウロはロゴスを捉えようとしていると考えられるのではないか。(ミハ氏註 情報通信分野では、学部の初期の頃に概ね教えるOSI7階層モデルというのがあり、まさにこれの話とよく似ている)

       

       

      OSI7階層モデル

       

      共約可能性というのは、この階層全てで整合的であるとき、受信者と発信者で同一のメッセージの伝達が行われるとするような理屈であるが、パウロは、ローマ書の中で、ある章(1−4章)では、ある階層でのできごととして話をし、別の章(5−8章)では、別の階層でのできごとを話している。そこの構造が見分けられないと、混乱するのだと思う。(ミハ氏註: そもそも別レイヤのことを書いているから、普通の小説や教科書を読むように、聖書やローマ書を、1章から2章、・・・と前から順に順次読んでいっても聖書がわかりにくくなるのは仕方ないだろう。そういうシーケンシャルなよみは、そもそも物理層のデータをアプリケーション層のデータと思って読むのに似ていて、こんなふうにコミュニケーションしているのであれば、当然、通信不能になるだけのことである。おそらく、この辺の視点の階層をパウロは明確に前提にして書いているのだけれども、読み手である現代人がその階層を見分けられなくなっているため、というのはあるような気がする。)

       

      次回へと続く

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

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      2018.05.19 Saturday

      KDK神学会 「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回 出席記(1)

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        今日は、先日枚方市で開催された、KDK神学会「千葉惠✕上沼昌雄 『信の哲学』を語る」の回に出席してきたときの概要をご紹介したいと思います。個人的にはいつものように、むちゃくちゃ面白くて、知的刺激を受けたのですが、多くの人にとってはなんのことやら、と思いますので、そういう方はどうぞ、このシリーズは、スルーして下さいまし。

         

        会場となった当日の教会

         

        当日のメモを元に、できるだけ、捕捉を入れ、わかりやすく書いたつもりですが、そこはそれ、本人の方々じゃないので、完全には、書ききれていない、説明できてないところがあります。誤りや誤解は、全て、このブログの著者のミーちゃんはーちゃんにありますので、ご容赦をば。「ブログごときで責任追求とか」、って心底野暮だと思いますけどねぇ。文句言われたら、すぐ隠しちゃえば(ボットさんから見えない状態にすればいい)いいだけの話なんで。

         

         

        まず、最初に参加者の全員の自己紹介があり、この本の編集者の方や、名古屋から来られた牧師先生、総勢20人くらいのかなり幅広い方が来られたことが自己紹介を通してわかりました。

         

        上沼先生、千葉先生と出会う…

        上沼先生から、最初お話があり、今回の企画に至った経緯のご説明がありました。 千葉先生との出会いは、今から3年前の2014年、千葉先生の『真の哲学』の素材があり、まとまっていなかった段階で、1964年に、上沼先生たちがその立ち上げにかかわった北海道大学クラーク聖書研究会設立の設立50年記念会の時に、上沼先生に講演依頼があり、その当時顧問をしておられた千葉先生とのおつながりができたことがご紹介されました。

         

        2014年当時、上沼先生は、N.T.ライトの信徒向けの一般書籍で初めて邦訳された本である『クリスチャンであるとは』が出版され、その本を翻訳する過程で、ローマ書3章22節のピスティスをどう訳すかについて、従来、このピスティスがイエスに対する信仰といったかたちで、対格として理解してきた経緯で考えてきたことについて、ご講演されたようです。

         

        その後講演では、主格の属格で理解できるのではないか、ということを講演されたそうです。ご講演の後、当時北海道大学クラーク聖書研究会顧問であった千葉先生を表敬訪問されたことが紹介されました。

         

        ピスティスについて

        上沼先生は、上沼先生のあるご友人の方から、アリストテレスの研究者として、上沼先生のご友人の方から紹介を受けられたようですが、表敬訪問してお話された時に、千葉先生から、「ローマ書3章22節の理解が千葉先生ご自身の現在の研究テーマなんです」と自己紹介され、その際に、実はローマ書3章22節のピスティスは、体格でも、主格でもないと言われて、大変驚かれたことが紹介されました。

         

        上沼先生にしてみれば、N.T.ライトの影響を受け、やっとピスティスが主格ではないか、とまで言えるようになったと思っていたそうです。そして、そのあたりぐらいから、このピスティス・クリストゥが聖書翻訳の問題と議論の俎上に上り始めた(大和郷にある教会のブログのピスティス・クリストゥーの記事が、かなりわかりやすいと思うんだけど)し、聖書翻訳も変わり始めたのに、千葉先生は、N.T.ライトが主張するような、主格の属格ではなく、むしろ、帰属の属格と理解できるのでは、といわれ衝撃を受けられたということが紹介されました。そして、このローマ3章22節のピスティスはいったい何なのだろうか、ということになった、とご紹介されました。

         

        その時、3つのことを千葉先生から言われたのだが、その3つ目に言われたこととして、ローマ書の1章には、神の怒りの啓示として、よくない思いに引き渡された、という「引き渡された」表現が3回出てくるのだけれども、この「引き渡された」という表現が神の啓示の表れだ、というお話をされたことが紹介されました。そして、ローマ書の3章22節のピスティスと、「よくない思いに引き渡された」(口語訳では「神は彼らを正しからぬ思いにわたし」と翻訳)ということが、どこでどのように繋がるかがわからなかった、と当時の上沼先生のご理解についてご紹介されました。

         

        そして、本日は千葉先生の『信の哲学』の7章の意味合いをお話ししたいと思う、ということで、ご講演を始められました。

         

        上沼先生の講演の本体

        まず、千葉先生の本の付録2として付された千葉先生によるローマ書3章21節から26節のご紹介と7章のポイントの紹介に移りました。

         

        このローマ書3章21節から26節について、千葉訳のローマ書3章22節の翻訳(下巻の付録に付されている)では、

         

        神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じるものすべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。

         

        となっていて、

        ”というのも[神の義とその啓示の媒介である・・・・]分離はない。”

         

        という部分の理解が重要である、と上沼先生はお話になられました。

         

        世界ではじめての功績?MJSK?

        これは、すなわち、イエス・キリストのピスティス、この語は、従来、信仰と、信実、御霊の実としての誠実とやくされてきたものですが、このピスティスと神の義とイエスの信実との分離がない、と訳出しておられる。そして、ギリシア語のガルγάρという語から、ギリシア語のテキストからパウロが何を言おうとしているのか、という理解を千葉先生はお示しになられ用としておられるように思う、そして、これまで、この部分のどの訳でもこのガルという接続詞を適切に訳出してるものはないので、世界で初めての業績といえるのではないか、とお話になられました。

         

        そして、この理解をもとに、私なりの理解をしてみたい、ということで、上沼先生はガルという接続詞を、なぜなら、と考えたときに、どう見えるか、ということを考えてみたい、ということでお話を始められました。

         

        ローマ書3章23節から、なぜ「神の義とイエス・キリストの信が分離なき」といえるかというと、「ご自身が義である、すなわち、イエス・キリストご自身が義の知らしめである」ことを示しているからであろうといえるのではないか、ということでお話になられました。

         

        ところで、これまで、イエス・キリストを信じる私たちの信仰による義として、信仰義認を考えてきたのだけれども、私たちの中におられる神の義による信仰義認といえるのではないか、神の義が私たちにも現れるということで理解できるのではないか、とお話にされました。参加されていた、きよめ派の牧師(ミハ氏註 きよめ派という形容詞を持ちたのは、きよめ派の一般の皆さんに対する敵意や悪意を含んでいません。わかりやすさのために、単なる分類学上の記号として「きよめ派」という語を用いています。もともと私自身、きよめ派の影響を信仰生活において受けていますし)さんから、「それは聖化とどんな関係がありますか」と質問が入りましたが、「ここで神の義が現れる、というのは、聖化ということよりは、神ご自身の義が我々の中に現れることではないか」という説明がありました。

         

        この部分の議論を聞きながら、聖餐マニアのミーちゃんはーちゃんにしてみれば、「あったり前田のクラッカー、当たり前ぢゃんねぇ」と思いました。というのは、我々が聖餐にあずかり、パンと杯をいただくというのは、キリストを内在させることを表す儀式である以上、キリストが我々のうちに現れるための儀式であり、そうであるがゆえにサクラメントなのであって、神の義が我々の日常的な生活のうちに現れるような、サクラメンタルな生活、ないしはサクラメンタルな生き方、生に導くためのものである以上、神の義が(ミハ氏註: 瞬間的なことが多いのだけれども。長期に渡ったら、有限で、有界たる人間の身が持たない・・・)我々の中に立ち現れるのは、当たり前だと思ったからです。

         

        あたり前田のクラッカーのCF(44秒くらいから)

         

         

        聖餐に関する賛美歌

         

        ノモスとはなにか?律法なのか?原理なのか?

          ローマ書3章27節でのノモスについて、新改訳は、原理と訳出している、新共同訳は法則と訳出しているけれども、千葉先生の翻訳では、「業の律法か、信の律法か」と律法と翻訳しておられ、このローマ書3章22−26節は、は神ご自身が義であることを示す翻訳となっていること、義の転嫁(Imputation)に関して、NTライトの発言や理解は、アメリカでも日本でも誤解されて伝わっているように思う。アメリカで誤解されたものが、そのまま日本に流入誤解され、義認論にまつわる誤解と、誤解に基づく議論が起きているように思う、とのご紹介がありました。NTライトは、義認論を否定してないのに、あたかも、否定しているかのようにいわれる傾向がある、というご見解が上沼先生から披露されました。

         

        業の律法と信の律法について 千葉先生の翻訳では、業の律法と信の律法と訳している部分の関連として、7章21節のノモスについては千葉先生は、律法と翻訳しておられるが日本語の新改訳聖書は、原理と訳している。そして、ローマ書7章の結論は、7章25節であり、千葉先生の翻訳では、「神の律法に仕え、他方肉によって罪の律法に仕えている」と翻訳されている。この部分を素朴に読んだとき、「罪の律法と神の律法」とローマ書3章22節の「業の律法と信の律法」がパラレル(「罪の律法」=「業の律法」と「神の律法」=「信の律法」という関係)になっているかと思ってそのむね、千葉先生にお聞きしたところ、そうではない、との回答をいただき混乱した、というご自身の経験が紹介されました。

         

        律法の書かれているスクロール版の旧約聖書の読む時の姿勢

        (聖なる書物なんで、手で触ってはいけません。ポテチの粉がついた状態でなんて・・・ねぇ)

         

        信の律法は、モーセの律法を廃棄するか?

        ヌースとは何か?内なる人なのか?こころなのか?

        千葉先生によると、この部分、パウロが注意しながら、書いているとお話しされたことも紹介されました。ここで、千葉先生は、従来口語訳聖書では、心と訳されていることば(もとはνοῒ 語根はヌースνοῦς)を叡智と翻訳されていることを紹介されたうえで、神の律法と罪の律法は明確に分離しているけど、信の律法と業の律法(要するにトーラーとか、その極みである十のことば、十戒)は分離していない、とおっしゃったことが紹介されました。  そして、千葉先生の本では、3章と7章でパウロの視点が違うことが紹介され、3章は神の視点から、7章は肉を持っている人間の視点からパウロが記述していることを紹介され、神の視点から見た場合、「業の律法」は十戒、「信の律法」は矛盾しないはず(ミハ氏的ツッコミ: 当たり前じゃん、と思ってしまいましたし、イエス様はターミネータみたいに、律法を廃棄するために来たのではない〔口語訳聖書 マタイによる福音書/ 05章 17節 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。〕といっているし、律法の一点一画が落ちることはあり得ない〔口語訳聖書 マタイによる福音書/ 5章 18節 天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。〕、って言ってんだしさ)である、とご紹介になられました。


         

        映画 ターミネータのポスター

         

         その意味で、ローマ書7章25節で、「心」と訳されているヌースがちゃんと理解されていないことに、このような混乱は由来するのではないだろうか、ということのお話があった。千葉先生によると、アリストテレスが用いたヌースとの使い方とパウロの理解がきわめて類似性が高いといえるのではないか、というご見解が紹介されました。

         

        アリストテレスたん

         

        共約可能性とヌース

        その意味で、内なる人と、ヌースが近い、といえるのかもしれない、というお話があり、肉体部分である「外なる人」が滅んでも、「内なる人(これがヌース)」が存在し、そして、神の霊が、この内なる人に働くと理解できるであろう。また、この内なる人がヌースであるのだが、これまでは、心とか知性という語で翻訳されている。そして、ヌースは、識別する、見極める、と訳される言葉と深くかかわっているように思う。特に、使徒パウロは、どこまでギリシア文化圏の人々との共約可能か、ということを考えていたのではないだろうか。これは、文化や言語が違う人たちに伝道するということとのかかわりで考えることができるであろう。神を信じるのは、内なる人であるヌースの働きであり、すべての人に共通に存在するのが、このヌースであり、そうであるがゆえに共約可能性の根源になるものであり、その内なる人に働きかけることにより、文化の違う人々に伝道ができることになるのではないだろうか、そして、肉のなお内側にヌースが存在するということが大事であろう。また、千葉先生のローマ書の翻訳1章24節で、「不潔へと引き渡した(παρέδωκεν)」と表現されているが、この「引き渡した」ということが重要であり、千葉訳で1章の中で、引き渡したは3回用いられており、「不潔へと引き渡した」、「恥ずべき情欲に引き渡した」、「叡智(ヌース)の機能不全に引き渡した」となっている。この「引き渡された」という表現に込められていることが重要なのではないか、というご主張が上沼先生から展開された。

         

        共約可能性とパラダイムの概略のご説明

         ここで上沼先生からのお話が終わったのですが、主催者の日本基督教団の自称福音派の牧師である、このKDK神学会の主催者の久下先生から、実に適切な共約可能性についての補足が入りました。共約可能というのは、科学の表現であり、相互理解可能性に関係する表現であることのご紹介がありました。

         

        古代ギリシア社会の哲学者は、アリストテレスは、5つのもの(5大元素)でできているというパラダイムで生きてきましたが、現在の科学は、それと違ったパラダイムで生きています。たとえば、物が燃えるという現象を、アリストテレスとその理解の影響を受けた人たちは、燃素の存在を前提に捕らえますが、現代人は酸化反応ととらえます。

         

        このように、二つの別のパラダイム(あるいは系)では同じ現象を見ても、同じ理解に達しないことがあります。それが、共約不可能性ということです。このパラダイムに関しては、20世紀の科学哲学者であるクーン(Thomas Kuhn)がパラダイムシフトという書籍の中で、その理解を提示しています、という補足を入れていただきました。

         

        Thomas Kuhnたん

         

         

        次回へと続く

         

         

         

         

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        2018.05.18 Friday

        サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (2)

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          前回は、プロテスタント教会での礼拝と、そこで説教中に眠たくなるという経験と、現在の米国のプロテスタント系教会の影響をかなり強く受けた、日本のプロテスタント系キリスト教会の説教スタイルの成立の背景じみたことをお話してきました。ミーちゃんはーちゃん自身も、説教者として、そのような北米系のキリスト教会の説教スタイルの影響を受けたキリスト教の世界になれていましたが、ひょんなことから、そのような文化から、いきなり、別の文化体系、伝統教派の教会に行くことになり、かなり驚いたことがあります。そのあたりのことを今日は触れたいと思います。

           

           

          説教なしでも成立可能な伝統教派

          そして、ここ数年、特に正教会、カトリック、聖公会などの伝統教派の教会に参加させていただく中で、個人のことばでその礼拝の時間を満たすことが少ないこと、その礼拝の構造がほとんど同じであること、そして、聖餐式が非常に大事されているその状態を見、体験しています。なお、カトリック教会では、遠慮しました。そうしてくれ、とも言われましたし。正教会では異端者帰正式が済んでないので、遠慮しました。聖公会は、ミーちゃんはーちゃんが受けた由緒の怪しいバプテスマ(使徒継承を言われるとかなり怪しいので、有効性が問われたら厳しい)でもOKらしいので、あずからせてもらっています。そして、聖餐に参加できるので、単純にうれしいです。聖餐式の見学や、実際に参加し、パンをいただき、盃にあずかる中で、儀式を介して神の臨在を示すこと(サクラメンタルであること)の意味を、この数年の間、考えてきました。そういえば、1年ほど前の記事ですが、こんな記事も書いていました。

           

           

           

          儀式と象徴とその先にあるもの (1) 

          儀式と象徴とその先にあるもの (2)

           

          なお、ミーちゃんはーちゃんは、自分自身の洗礼に関して、授けた方の使徒継承の系譜を言われると厳しいので、人効説ではなく、事効説に立っています。その意味で、エクス・オペレ・オペラート(Ex opere operato)という考え方に賛成しています。

           

          説教なしの礼拝を実現可能にする聖餐

          伝統教派、特に現在のアングリカン・コミュニオンのチャペルに行ってみて、毎週日曜日に礼拝(聖餐式)に参加し、ほとんど水曜日の夜にも礼拝(聖餐式)にも参加し、他にもいくつかの聖公会の教会で参加していくなかで、説教なしの礼拝ということをかなり経験します。日曜日の朝7時からの礼拝(聖餐式)や水曜日の夜の礼拝(聖餐式)では、説教も讃美歌なしでも、これが礼拝と聖餐式として見事に成立しますし、説教がなくても、式文が神を指し示し、読まれる聖書箇所が神を示しています。さらに、そのうえで、聖餐があることで、神の臨在を十分感じることができるのです。それが、神が定めた聖なる儀式、つまり、サクラメント、つまり聖餐の強みだと思います。

           

          聖餐

          https://www.videoblocks.com/video/holy-communion-bread-wine-rksop5ebipn58ude より

           

          聖餐 イエスを覚えてこれを行っているはずだけど・・・・

          https://nocompromiseradio.com/2017/08/the-lords-table/ より

           

          神学部でも、神学校でも学んだことのない、平信徒風情のミーちゃんはーちゃんがサクラメントが何たるかについて申し上げるのは、「実におこがましい限りである」と思うのですが、伝統教派(正教会、カトリック、聖公会系)の教会に行くと、礼拝と聖餐式が、サクラメント(聖なる儀式)であると同時に、サクラメンタルな生に導くための構造と象徴と表現に満ちている、と礼拝や聖餐式の参加者あるいは、見学者としてその場にいるときに、そして、式文を共に声を出して言い、賛美を唱えるたびに思うわけです。

           

          正教会の場合、ミーちゃんはーちゃんは帰正していないので、本来は啓蒙者扱いとされ、本当は聖餐の時には会同から見ることもっゆるされず、追い出されるはずなのだそうですが、今は、そこまでうるさく言われないので、時々見学させてもらっています。

           

          ある伝統教派での礼拝の基本構造

          今主に参加している、アングリカン・コミュニオン(聖公会)での式の順番としては、次のようなものです。なお、省略される場合があるものは、細字、必ずあるものは太字で表しています。()内は解説や日本のプロテスタント系の教会用語です

           

          Introit(前奏)

          The Gathering(招きのことば 招詞 )

          Hymn(讃美歌、省略もあり  ここで、起立)

          Prayer of Preparation(心を礼拝に向けて備える祈り)

          Prayer of Penitence(悔い改めの祈り)
          Summery of the Law
            (律法の要約 聞け、イスラエルよ、神を愛せ、隣人を愛せ これに旧約聖書がかかっている が提示される)
          Invitation to confession(公の罪の告白への招きのことば)
          Gloria in Excelsis(神への賛美 いわゆる頌栄)
          The Collect(特祷、ないし、集会祈祷)
          Liturgy of the Word(御言葉のリタジー ここで、着席)
          Bible Reading(聖書朗読 旧約聖書・福音書以外の新約聖書 どちらか一方が省略される場合あり)
          Hymn(讃美歌、省略もあり  ここで起立)
          Gospel Reading (福音書朗読  これは必ず司祭が読む 参加者は基本起立して聞く)
          Sermon (説教 朝一番とか夜の場合 省略の場合があり 説教開始と同時に着席)、
          The Creed 信仰告白(使徒信条、ニケア信条、その他の簡易信条のばあいもあり 基本着席のことが多い)
          The Affermation of Faith(信仰内容の確認)
          Prayer of Intersession(神との和解の祈り)
          ーーーーーーーーーーーーーーー
          The Liturgy of the Sacrament
          The Peace(ここで起立、いわゆる平和のあいさつ、プロテスタント教会の一部での相互握手会 )
          Preparation of the Table
            (聖餐のパンと杯の準備)
          Offertry (献金や讃美歌がある場合も。賛美歌歌う場合は起立 賛美歌・献金省略の場合も)
          The Eucharistic Prayers(聖餐式の前にみんなで唱える準備の祈り) 
          The Lord's Prayer(主の祈り)

          Breaking of Bread(パンを高く上げ、切り裂く、ないし割る所作を示しつつ、

           

          司祭は、We break this breadto share in the body of Christ.といい、

          会衆は、Though we are many, we are one body, because we all share in one bread.と応答します。

          この表現が個人的にはすきです。

           

          Giving of Communion(聖餐にあずかる)

          Prayer After Communion(聖餐後の感謝の祈り)
          Dismissal(散会)
          Prayer(祈祷)
           Hymn (讃美歌)
          Blessing(いわゆる祝祷)
            単なる祝福ではなくて、 

          Postilude(後奏)

           

          という構造になっています。

           

          リタジーの中で好きな言葉

          なお、Eucaristic Prayerの冒頭は、たいてい以下のことばで始まります。

          The Lord is here.

          His Spirit is with us.

          Lift up your hearts.

          We lift them to the Lord.

          Let us give thanks to the Lord our God.

          It is right to give thanks and praise.(太字は全員の応答文)

          これらの言葉で、ここに神の臨在があることを示して、サクラメントであることが示されるわけです。そして、その後の部分では、いろいろなヴァージョンの祈祷文が…

          その祈りのあるパターンでは、全員が読む部分の一部に

          Christ has died:
          Christ is risen:
          Christ will come again. (太字は全員の声を出して読む文)

          あるいは

           

          When we eat this bread and drink this cup,
          we proclaim your death, Lord Jesus,
          until you come in glory.(太字は全員が声を出して読む文)

          という表現があります。個人的にはWhen we eat this bread・・・で始まる式文の表現がすごく好きです。
          これらの表現を口にするとき、キリスト(救い主、神)と個人の関係の表現であり、この関係を強く意識しています。

          ところで、いわゆる祝祷の部分では、

          Go in peace to love and serve the Lord.

          In the name of Christ. Amen.(太字は全員が声を出して読む文)

           

          という表現になっているもの代わりと多いのですが、このような表現の祝祷だと、祝祷でし識者が信徒を世界に送り出す格好になっています。この様に祝福されることで、信徒が神に仕え、神を愛するためにわれわれの日常の人生がある、ということが明確に示されているように思います。

           

          多くのプロテスタント教会では、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように、今日も、そして明日も。」というような祝祷がささげられるかもしれませんが、これだと、神の愛との関係に生きるということは示されていても、神に仕える(教会に仕える、ではない)という側面が十分に示されていないような感じがします。そこは、ちゃんと信徒が察せばよいのかもしれませんが、そこまで気にしておられる信徒の方はどの程度、教会におられるでしょうか。

           

          そう思って、他の祝祷を探していたら、オーストラリアの祝祷(こちらのサイト)に、このようなものがありました。細字は司祭だけが読み、太字は全員で読む。

           

          Loving God, we thank you for hearing our prayers,
          feeding us with your word,
          and encouraging us in our meeting together.
          Take us and use us
          to love and serve you, and all people,
          in the power of your Spirit
          and in the name of your Son,

          Jesus Christ our Lord. Amen.

           

          とか

           

          Eternal God and Father,
          by whose power we are created and by whose love we are redeemed:
          guide and strengthen us by your Spirit,
          that we may give ourselves to your service,
          and live this day in love to one another and to you;
          through Jesus Christ your Son our Lord. Amen.

           

          とか

          Lord Jesus Christ,
          send us out with confidence in your word,
          to tell the world of your saving acts,
          and bring glory to your name. Amen.

           

           

          といった祝祷の表現のように、単に神とともに生きるのではなく、神を愛し、神に仕え、神を知らせる人生の道を生きるための祝福という側面がこれらの文章で表現された祝祷には、込められているように思います。これらの式文を読み込み過ぎから知れませんが。

           

          これまで参加した多くのプロテスタント系のキリスト教会では、このような内容が祝等にあまり明確に含まれていないタイプの祝祷の表現が多い印象があります。

           

          信徒がこれからの一週間、神に対して、愛される存在だけでなく神に仕えるものとして生きる用にお勧めされている、という表現を聞くとき、自分たちの日常の生活をもう一度、考えさせられます。教会の扉を出るまでだけかもしれませんが・・・(そうならないように意識はしていますが)そして、われわれの生き方は、以下の賛美歌で歌ったようになっているか、と。

           

           

          先に挙げたような式文の一つの祝祷(to tell the world of your saving acts, and bring glory to your name.を含む、祝祷)ですと、われわれは、この地に神の福音をもたらすために派遣されたのだけれども、それにふさわしい生を生きているのか、と改めて問われてしまうわけです。筆者であるミーちゃんはーちゃんが、神の福音をもたらすような生活が問題なくできているとは、口が裂けても言えませんが。

           

          こうやって見ていると、儀式の順番はプロテスタントと基本同じ部分は多数あるけれども、かなり抜けている部分や順番が変えてある部分が、プロテスタント教会のものとはあるなぁ、そして、両者の間で大分違うなぁ、という印象があります。正教会も、カトリックも、聖公会も、基本的には順番は同じなので、言語が違っても、式次第の進行状況は大体わかります。

           

          日本コプト正教会の献堂式の礼拝

          (41分12秒あたりから献堂礼拝  この動画中にミーちゃんはーちゃんがちらちらと写っています。)

           

          プロテスタント教会との違いで一番大きな部分は、聖餐式が、「み言葉の聖餐」と称する牧師先生の「説教」に置き換わっている部分ではないか、と思います。特にいくつかのプロテスタントの教会、それも大半の教会では、聖餐なしの礼拝の経験が、多かったように記憶しています。そして、それはとても残念な気がしたことは確かです。

           

          混ぜ物だらけの「み言葉の聖餐」って?

          そして、以前経験した教会の一つでは、先週の業務報告のほうが、聖書の言葉やその理解の提示より多い説教(某京都市内のミッション系大学内の教会での日曜の礼拝説教や地元のバプテスト系教会)では、本当にみ言葉の聖餐までと言い切るのなら、先週どこに行ったとか、こんなものを見たとか言った、そんな混ぜ物で聖餐を混乱させないでほしい、と、素朴に思ってしまいました。心底悲しかったです。なお、バプテスト系の近所の教会では、聖餐があったので、そこまで、不満はなかったですが。

           

          多くのプロテスタント教会では、聖なる儀式、サクラメントが執行可能な牧師先生がおられても、輸入された段階での輸出元の国や地域(宣教師や伝道し、教団の神学的母国)の教会文化の影響があり、明確にサクラメントであることが福音書から跡付けられる聖餐式の執行がなされず、その代わり、み言葉の聖餐と呼ばれる説教がその聖餐の代わりとなり、聖餐の座を奪い、聖餐の場所を簒奪しているのは、本当にどうなんだろうか、と思ってしまいます。

           

          もちろん、近代の成立に伴い、言語や理性が重要になる中で、人々が聖餐を重視しなくなった、とか、聖餐の執行権の根拠たる使徒からのつながりのある牧師や司祭が圧倒的に不足していて、事実上牧師が月に何度か巡回してくるとき以外には、牧師不在のために、聖餐が執行できない、とか理由はあるのでしょうが、イエスが

          【口語訳聖書】ルカによる福音書
          22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

          と明確なイエスのことばが福音書に書いてあるにもかかわらず(ルカは、後出しじゃんけんだからNGとか言わないでくださいね、一応日本語聖書にもあるわけですから)、牧師がいても、イエスの弟子であるはずの牧師も、信徒も、聖餐をしたがらないのは、「一体全体なぜなんだろう」と思ってしまいます。基本、毎日でも、できれば聖餐にあずかりたい、基本、週2回聖餐参加体制の生活を送っている聖餐マニアのミーちゃんはーちゃんにしてみれば、不思議な気持ちがします。

           

          ひょっとしたら、今の教会って、まさに、こんな漫画のようかもしれません。

           

          https://www.pinterest.jp/pin/152348399873419510/ から

          先週の週報に載っていた漫画

           

          次回から讃美歌篇 へと続く

           

           

          2018.05.16 Wednesday

          サクラメントとサクラメンタルの錯乱 ロマン主義と教会 (1)

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            前回の記事で、ここ数ヶ月、精神的にも、知的にもバラバラで、まとまって考えるという行為ができなかったことをお話してきました。そして、その中で、伝統教派の式文と成文祈祷に養われる、ということでかろうじて神の前に生きてこれたことをお話しました。

             

            その中の教会生活で素朴に思ったことは、近代をいう時代を支配したロマン主義という考え方が、案外、教会内で現在の参加者や個人を苦しめている部分があるかもしれない、ということを改めて考えるようになりました。そして、それは、サクラメントとサクラメンタルとの間の錯誤というか、錯乱というか、混乱が起きているのではないか、という辺りが現代の教会において、起きているのではないか、と思うようになりました。

             

            これから、2,3回でこのあたりのことを書いてみたいと思います。

             

            説教中眠く…教会あるある

            そう思っておりますと、時々、チラチラと拝見している fuminaru kさんという方の、I don't know who I am というブログで、礼拝説教中に眠くなったら、どうする・・・? という記事を書いておられました。

             

            個人的に説教を担当していたこともあるので、1時間近い、長い説教(講解説教、そしてそれは後悔説教となった…)をしたこともありますし、わたくしの説教中に、安らかにお休みになっておられる方のお姿を拝見しながら、説教を担当し、お話ししていたこともあります。

             

            説教者にとっては、お休みになられる方を見ると、非常に残念な気分になることも確かです。モラルというのか、やる気がうせる、とでもいうのでしょうか。

             

            説教をほぼ毎週世俗の仕事をしながら担当いたしておりますころは、毎週なんとか、説教がイエスという人を指し示す機会になれば、と思い準備していたことも確かですし、それなりに、苦労して工夫をしたつもりの説教で、すやすやと安らかに、席でお休みになられる方を見ると、実際、やる気が萎えるような状況になったことも少なくありません。どうしたら皆さんに聞いていただけるのか、と悩むとまでは経験したことはございませんが、手を変え、品を変え、どうすれば、私のつたない説教を聞いてもらえるのか、ということで新たな工夫に、工夫を重ね、説教の準備に心を砕いた日々を過ごしたこともあります。

             

            眠気を誘う説教…

            説教が眠くなるというのは、個人的な経験を振り返ってみた場合、聞き手の側の本人の身体的な状態、特に疲労とか、直前週に起きた出来事や仕事の結果の疲労とかも影響することも少なくない(これは実感としてあります)のですが、眠くなるのは、説教の提示の仕方というか、論理構成がしっかりしておらず、説教の筋というか論理構成が、どこに行くのか二転三転ならいいのですが、七転八倒する場合に多いようです。

             

            結果として、説教のストリーラインがどこに向かっているのかのある程度予測されそうな着地点が見えない説教や、説教のお話との関連性があまりわかりやすいとはいえず、関係性が見えない(余分な話が多すぎて、何が言いたいのかよくわからない)内容が多くちりばめられた説教は、説教への集中力を奪われるようなきがします。その結果として、個人的には聞いていて眠たくなる傾向が強いような気がします。あと、触れられている内容が異様に多すぎる上に、説教をしている側の本人の中では、関連があるとお考えゆえ、言及しておられるのでしょうが、触れられているそれぞれの内容ごとと本論との間の関係が整理されていない説教や、関係のない話題が多すぎるものも集中力が奪われるようにおもいました。その結果として、眠たくなる傾向があるように思います。つまり、説教内容の構造化がされてない説教は、眠くなるような気がします。

             

            論点を3点に絞って、その3点を聖書から関連する箇所を示して議論するタイプの説教スタイル(ヤンキー牧師の説教はこのタイプの説教が多いように思います)が万能だとは思いませんが、これくらい単純化された構造であれば、聞いているほうは安心して聞くことができますし、どんな説教だったのかを多くの人が、短い場合、30秒から、長くても3分程度に要約することができます。ただ、この手の説教は、聞き手の側で次ぎにどのような内容とそれに関連する聖書箇所が取り上げられるだろうか、ということを予想して遊ぶ、ということを手練れの聞き手は試み始めますので、良し悪しはあるかもしれません(実際に、これをやって、次の言及聖書箇所を話し手が分からなくなったときに、ここですか、と指摘したことが何度かある)。

             

            そういえば、ヨベルさんから牧師の説教を聞いて要約して、その内容におまけにかなり高度な突っ込みを入れているという類例のない本(説教聴聞録、 下記のリンクを参照)が出ておりますが、こういうことを真剣にしながら、説教を鑑賞するのもありかなぁ、と思います。説教者には迷惑な存在、と思われる説教者もおられるでしょうけれども。でも、説教中に眠られるよりはまし、とは思いますけれども。

             

            授業でも同じだよね…

            興味がないと眠気が自然と誘われてくるのは、高校生や大学の学生の頃の授業でも似たようなもなので、授業や講義でも、あまり関心がなく興味を覚えない科目の講義は眠たかった記憶があります。逆に、役に立ちそう、あるいは、役に立つかどうかとは無関係に、面白そう、関心のある内容の授業は、不思議と眠くはならなかった記憶があります。

             

            まぁ、人にもよるようで、ミーちゃんはーちゃんのお友だちの牧師先生の内のお一人は、こじんまりした研究会のような場でも、うとうとされておられることが多いので、「お疲れなのですかぁ」とお聞きしたことがありますが、「聞いているが寝ている、寝ているように見えるが聞いている」とおっしゃっておられるので、まぁ、眠っているように見えても聞いておられる方も、時にはおられるようです。

             

            概して短い儀式派の説教

            説教の時間に眠たくなるのは、説教の良し悪しや、聞き手の側の関心分野との重なり具合もあるでしょうが、それ以上に、説教の時間が、多くのプロテスタント教会で礼拝の時間の中で占める割合が異様に大きすぎる気がしているのです。正教会の礼拝は、全体で1時間から2時間弱のことが多いようですが、その礼拝中での説教は、5分から10分くらいですし、カトリックでも、聖公会でも1時間の礼拝の時間中、説教は10分から15分くらいのことが多いように思います。

             

            カトリックの信徒さんの色々事情を教えてくださる、ありがたいお友達がお一人おられるのですが、一度、そのお友達のおられるカトリック教会で、日曜日の礼拝に、近所のプロテスタント教会の牧師先生をお招きして説教をお願いしたところ、延々1時間近くお話になられて、結構参加者の皆さんがご苦労された、とお聞きしたことがございます。カトリックなどの伝統教派では、聖餐式の内容の儀式がフルにあって(最低でも1時間近くかかる)、「説教と合わせて、礼拝が計2時間近くなって、大変だった」ということをお聞きしたことがございます。

             

            確かに、伝統教派では、儀式で式文に従った礼拝を、賛美歌抜きで実施しても、それだけで30分はかかります。それに、賛美歌、説教とか入ってきて、それで1時間近くですから、これにさらに1時間近い説教で、バルトだのヴィトゲンシュタインだの普段カトリックの方にとって聞きなれない人物の名前がバンバン出てきたり、ギリシア語の由来が云々というようなプロテスタント風の説教を拝聴することになると、もはや、その時の参加者も、さぞやへとへとになっておられたであろうことは、想像に難くありません。

             

            カトリックの司祭様でプロテスタントの礼拝とそのスタイルとそれを支える神学をご存知の方はあまり多くはございませんし、逆にプロテスタントの牧師様で、カトリックや正教会系の礼拝と聖なる儀式(サクラメント)とそれを支える神学をご存じないのが、実情のように思います。

             

            説教がメインのプロテスタント教会

            知的エンターテイメントの一種だった説教

            一般にプロテスタントの教会では、説教が中心で、礼拝のかなりの時間を占めることが多いようです。20分、30分で短いくらい、長い説教では2時間超も昔はあったようです。さすがに忙しくなった現在では、そんなに説教したら、信者さんからブーイングが後で出るので、2時間を超える大説教はないと思いますが。昔は、イベントやテレビや、インターネットというものがあったわけではないので、長州の知らないことがいっぱい出てくるお話は、一種の知的な好奇心を満たす機会であったように思います。

             

            今の時代とは違い、インターネットもテレビもない世界での牧師先生の説教の時間は、西洋や米国の地方部居住者のキリスト教徒にとって、優れた耳学問の機会であったとは思います。新聞やラジオも、テレビもない退屈しきっていている社会で、無筆、文字を読めない人だらけの社会だったからこそ、週に一度、世界や全国ニュース等が聖書との関連理解の中で、当時の地方社会のインテリでもあった牧師先生(当時は、社会の中に、今みたいに大卒がごろごろしている時代ではなかった時代の牧師は一応第ないし新学校卒で字が読めるので、インテリの部類)からお話を伺い、説教中に現代の池上彰氏よろしく、わかりやすく解説されて聞かせてもらえる機会は、少なかったはずだと思うのです。そのような状況下では、それはそれで、長い説教も一定の役割、一種のちょっと知的なエンターテイメントといった要素もあったように思うのです。

             

            池上彰氏は世俗的テレバンジェリストかも…w

             

            ところが、テレビで日本では、久米宏さんや池上彰さんといったインテリっぽい人が話、米国では、古くは、Rally Kingさん、Wolf Blizerさん、Anderson Cooperさんなんかがご出演されまくリングで、解説映像が流れまくリングの世界だと、そちらに流れるのは当然で、説教は、そのような時代開設の役割を期待されなくなるのは、当然でしょう。牧師先生の説教に、テレビが流すクオリティ以上のコンテンツがあれば別でしょうけれども。長い説教が、このテレビコンテンツ、ネットコンテンツ、新聞や雑誌コンテンツの劣化コピー(テレビで聞いたこと、新聞・雑誌で書いてあること、を基に説教ができているとすれば、それは劣化コピーですよね。某公党の国会での質問の基礎が、雑誌や新聞だとすれば、それは劣化コピーの質問になるわけで、国政調査権という言葉が悲しい思いをする、と思っているのは私だけ…)でしかなくなるわけで、そんなものはあまり興味を持たれなくなるように思うのです。

             

             

            WolfというCNNの番組のプロモヴィデオ

             

            懐かしのRally King Live (トランプたんと、メレニアたんが出ている)

             

            Anderson Cooper 360のAnderson Cooperたん

             

            説教もいろいろ…

            お知り合いで地方のプロテスタント教会に赴任されて居られた方で、そこの信徒が高齢者が多く、あまり知的なことに日常生活の中で触れておられない方が多い教会で、10分以上の説教に信徒の皆さんが耐えられなくて、致し方なく、短くわかりやすい説教をしておられ、それに心を砕いておられた方を存じ上げていますが、かなりご苦労されておられたようでした。説教が非常に良いものが多かったので、以前いたプロテスタント系の教会にお招きしたことがあります。その教会も高齢者が多かったので、短いし、わかりやすくてよい、と大変好評でした。

             

            もちろん、先にも書きましたように説教(基本的には、30分超、長い場合は1時間弱の説教)していた側でのミーちゃんはーちゃんとしては、「できるだけ、聞いていただいている人々の聖書理解が深まるお役に立ちたい」と思い、「神について知り、神を知るきっかけとなるこ」とを願い、「神の臨在を味わってもらう場と教会がなるように」と期待しながら、できるだけ、聖書と神についての内容を盛り込もうとする(実際に、そうしていました。反省してますけれども)ことを説教者の方々は試みておられるのでしょうけれども、それがかえって逆効果になっている場合も少なくないようですし、自分自身の限られた経験を通しても、内容詰込み過ぎた挙句の行きすぎ、聞いている皆さん方は消化不良を起こし、食傷気味となる、という傾向はあったと思います。

             

            神をより深く知っていただくため、という目的があるにせよ、教会での時間をことば、それも自らのことばで埋め尽くそう、というような側面がミーちゃんはーちゃんの説教には、少なくなかったように思います。今は行き過ぎだった、と思っていますが。

             

            こうやって、自分の言葉で説明す草生とする、というのは、合理主義が幅を利かせ、人間がすべてのことを理解可能であるし、人はすべて言葉により同一の内容の理解に到達させることができる、という前提ゆえ起きた、ロマン主義に深く彩られた近代の不幸だったのかもしれない、と思っています。人と人が理解を図るのに、ことばや講演のような形のお話は、かなり有効な手段の一つですが、それがあまりに大きなウェイトを占めてしまったのが、ロマン主義に支配された近代の不幸だったように思います。

             

            続く

             

             

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            コメント:こんなに聞かれたんでは、説教者にとって、きついだろうなぁ、と思いましたが、面白い試みだと思います。

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            コメント:これまた、きついだろうなぁ、毎週の説教が口頭試問状態になっているんじゃないか、と。説教者と聞き手の信頼関係があるがゆえの本だと思います。

            2018.05.11 Friday

            生きる「意味」としての他者への愛…を考えさせられた

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              先日の説教から 愛について

              先日の日曜日の説教は、ヨハネの福音書15章9−17節からの内容がテーマでした。そこで、愛について、いろんな歌があるよねぇ、とか言いながら、いろんな世俗の音楽のタイトルを挙げていました。そして、その多くが、ロマンティックな愛、あるいは、恋愛を歌った歌であることなどを取り上げられていました。

               

              その時説教内で取り上げられていた愛についてのBee Geesの音楽

               

              そんな話題のあとで、聖書の中に出てくる愛のギリシア語では、3つあって、エロース、フィリオ、アガペー云々とありました。そこで、ギリシア語の意味の違いに多少入りながら、割と軽くスルーして、その日のブルティンの表紙絵(この日は適切な絵画がないので、塗り絵なんで塗り絵してもいいよ、イギリスではやってるんだけど…とか言いながら)に出てくる Greater love has no man than this, that a man lay down his life for his friends(John 15:13) のlay down(日本語だと、その人のために差し出すとか、身を挺するとかいう意味、その昔女子挺身隊とかいう言葉が日本語にあった)ということに話が及びました。

               

              【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
               15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。
               15:10 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。
               15:11 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。
               15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
               15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
               15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
               15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。
               15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
               15:17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

               

              他者のために命を差し出すこと

              日本語では「命を捨てる」と翻訳されていることも多いのですが、どちらかというと命がけで守るとか、自分の命を犠牲にしてまでも他社のために尽くすということがあり、そのような仕事をした人として、コネティカット州の小学校で、銃乱射事件のときの小学校の先生の例が取り上げられていました。

               

              では、他にどんな職業があるのか、という話になり、皆さん、警察官、消防、軍関係、宣教師とかまぁ、いろいろお話して居られました。個人的には、キプリアヌスやらボンフェファー先輩のことが頭の中には浮かんでましたが・・・

               

               

              コネティカットの小学校での銃乱射事件で、こどもを守るために身を挺した女性教師のニュース

               

              女子挺身隊の歌

               

              この身を挺する、命を他者のために差し出した人々やその職業について触れた後、愛するとはなんだろうか、と問いかけがあり、人々のことをを気にかける、世話をする、思いやる、関与する、継続的に関わる、とか言うことなどの話があり、人々を愛するために死ぬ、という話もあるが…という話になりました。

               

              継続的にかかわる、という愛の姿

              しかし、愛が関与することであるのだとすれば、死んでしまっては関与ができないので、実は、愛するということは、生きることとつながっているのではないか、という話がなされました。人々と継続的に関わることが愛である、と考えるならば、死んでしまっては、愛せないことになるのではないだろうか、よほど、生きて継続的にかかわっていくことのほうが大変な場合もあるだろう、という話になりました。そして、我々は案外、「神様、今忙しいから、あとで対応しますね」というような生き方をしていないだろうか、日曜日や日曜日の礼拝の時だけ、聖書を読んだり、賛美したりするときだけ、神を愛していることを示してないだろうか、という指摘は、個人的にはかなり耳が痛かったです。

               

              人々のために、身を挺したイエスがいて、そして、今もまた、そのご自身をわたしたちのために示そうとしておられるし、わたしたちもイエスが、ご自身の身を挺したその模範に従って生きること、生きていて、そして、他者に関与していくことを求めておられるのではないか、そして、生きていて、他者に常時関与していくほうが、死んでしまうより、よほど長期間に渡るし、多くの苦難を強いられる場合もあるのではないか、というのが、今回の説教の概要でした。

               

              説教の終わりに…

              15分位の短い説教でしたが、その最後に、小さな赤いハート型の紙に、みなさんが愛することが困難な人を書いてください、そしてみんなでその人々のために祈りましょう、どうぞ、聖餐卓のところにもってきてください、あなた一人で、愛することができなくても、他者からの介入や援助、他人の協力や祈りがあれば、できるかもしれませんから、ということで、少し時間を取り、記入したハート型の紙の裏側にそれぞれが書き込みをしたものを聖餐卓にもっていって、その後、聖餐に移りました。(この日はカフェ・コミニオンでしたので、聖餐卓といっても以下の写真のような感じの聖餐卓)

               

              Cafe Communionの時の聖餐卓

               

              そして、いつものように

              The Lord be with you.
              And also with you.
              Lift up your hearts.
              We lift them to the Lord.
              Let us give thanks to the Lord our God.
              It is right to give our thanks and praise.
              という聖餐の前にいつも声に出して読む言葉を、実際に声に出したとき、特に、後半の We lift them to the Lord. や It is right to give our thanks and praise. と言ったときに、今までと違って、自分の命や感情も、神のものとして捧げているか、そして、私のためにも身を挺したイエスとその愛に改めて感謝し、神を賛美することの意味を問われました。
              日本では、愛することは死ぬことを意味する場合も…
              今回の説教で、割と気になったのは、日本では、他者のために死ぬことを、「花と散る」とか言って比較的美化する傾向があるように思うのですが、「他者を愛するための生」という発想の重要性を今回の説教を通して改めて感じる事になりました。
              花と散ることが賛美されていた軍歌
              生きる「意味」としての愛
              ちょうど、この回の聖餐式に行く電車の中で、松島 雄一 司祭という日本ハリストス正教会の大阪教会の司祭の方が翻訳された、アントニー・M. コニアリス という方の本「落ちこんだら―正教会司祭の処方箋171」(これについては、いずれ取り上げたいと思いますが)を読んでおり、その中に、ナチスドイツ支配下のユダヤ人強制収容所を生き延びた、精神科医師ヴィクター・フランクルが患者に「あなたはどうして自殺しないのか?」と聞くことが触れられていた部分がありました。

               

              彼らは、その絶望にもかかわらず、なぜ生きている方を選ぶのでしょうか。

              博士はやがて気づきます。あるものは自分の子供達を愛しているから生きる方を選びます。また別のものたちはその宗教的な信念によって苦境に耐えます。(中略)そのどれもが、患者を奈落の底から逃れさせる一筋の導きの糸でした。その答えはいずれも皆、人が新しい人生へと立ち上がるための最後に残った「意味」でした。

               

              どんなに落ち込んでいてもなお、あなたに生きることの方を選び続けさせる理由に、焦点を合わせない。イエスに焦点を…

              「落ちこんだら―正教会司祭の処方箋171」 pp.58−59

               

              上で引用した部分と今回の説教が重なって、イエスを愛するために生きる、イエスに焦点を合わせ、イエスに関与するために生きるように招かれている、そして、イエスは、人間に関与するために、人間に身を挺するために、永遠に生きている、ということの意味を感じることとなりました。

               

              イエスが死より復活し、墓にあるものに生命を与える、という正教会の復活祭に歌われる賛美歌(パスハのトロパリ)がありますが、まさに奈落の底である墓から逃れさせる『意味』こそがナザレのイエスという存在なのだ、ということを改めて思ったときに、ほんとうに、

               

              It is right to give our thanks and praise.

               

              ということの意味を思いました。そして、自分を捨てる、自分の命を捨てる、ということは単に死ぬことを意味するのではなく、生涯を他の人のために差し出すために〈死ぬ〉ことだけではなく、〈生きる〉という生き方、大変だけれども、常に他者のために生きるというナザレのイエスが生きたようなサクラメンタルな生き方、すなわち、神の存在をこの地に示すという生き方に、招かれていることということを考えるに至りなりました。

               

              そして、イエスが復活し、永遠の命をお持ちであるのは、我々に、イエスが、そして、聖霊が、神が永遠に関与するというその大変なことのためなのかもしれない、とも思いました。

               

              パスハのトロパリ ボカロ・ヴァージョン

               

              信徒としてサクラメンタルに生きる

              司祭や牧師として生きることだけがサクラメンタルな生き方ではなく、ことばのみによる伝道だけでなく、日常の生活を通して神の臨在と神の人間への関与、そしてそれが愛の表れであることを示して生きること、これは、伝統教派、正教会、カトリック、聖公会の教会に参加する中で、これらの教会で式文とともに生きる人々と時間をともに過ごす中で、そして、そこでの式文を読む中で、次第に示されていったことです。

               

              この世界に触れるまでは、ミーちゃんはーちゃん個人は、いかに神の存在を言葉で示すか(いわゆる伝道とか説教で示すか)のみに必死になりすぎていて、それこそがキリスト者の生きる道、と思っていた部分がありますが、そして、その中で、自分自身が苦しみ、もがいていた感じがあります。現在、信徒として生きるという選択の中でも、個人としてはできることに限りがあるために、不完全でありながらも、サクラメンタルな生き方(神の存在と神の愛を指し示すような生き方)ができることを教えられているという意味で、信徒として、サクラメンタルな生に生きる、ということの意味を、ここのところ改めて考えています。

               

               

              そして、

              Go in peace to love and serve the Lord
              という司祭の祝祷の言葉は、ある意味で、サクラメンタルな日常の生に招かれているのだなぁ、と思いめぐらした主日でした。

               

               

               

               

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              コメント:アメリカのハリストス正教会の司祭の方がおかきになった本ですが、非常によろしいか、と思います。

              2018.05.04 Friday

              先日のチャペルのブルティンから 成文祈祷の強み

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                イースター第3主日のブルティンの表紙絵から

                前々回の日曜日 復活第3主日のブルティン(週報)の表紙絵は、非常に印象的な絵でした。アンソニー・ファルボというアメリカ人の絵描きさんがイエスを描いた絵でした。

                 

                画像は、このサイト https://www.falboart.com/からお借りしています。

                 

                この週のブルティン

                 

                この抽象画のような、ピカソの絵のような、はさみで切り取ったものをのりで無理やりくっつけたかのようなイエスについての絵画を見たときには、あまりにも衝撃的で、見るのもつらい感じでしたが、この絵を繰り返し見ながら思ったのは、ちょうど数週間前までの自分の状態のようだ、ということでした。

                 

                ばらばらで、統一感なく、まとまった思考すらすることができない自分自身の姿でもありました。そう、ちょうどコラージュの作品を作るために用意した部品のような状態で、ここ数ヶ月をすごしていたことに思いをめぐらせていたのでした。自分自身で、自分自身を統合することすら、困難を覚える状態でした。統合失調症じゃないか、というありがたいご指摘してくださった方もありましたが、そうだったのかもしれません。

                 

                そして、しばらく、聖餐式の前にも、この絵を眺めながら考えました。聖餐式が終わった後もPostiludeが流れる中、この絵が気になってみていました。そして、何度も繰り返し見ているうちに、人間のために、いや、私のために、私に平和をもたらすために、私に平和がとどまるために、Peace be with youと私に言い、それを知らせるために、イエスは、まるでこの絵のような姿になってくださったし、そのためのこの地に来たのだ、ということに気がつき始めたのです。ばらばらになった自分、そこに重なるようにばらばらになったイエスの姿が浮かび上がり始めました。

                 

                その日のPostilude Peace be with you 音楽はここから

                 

                Sacred Heartについて

                ところで、この絵の下部に、赤いハート型のものが見えますが、それを見た知り合いが、「何で、この絵画にはイチゴがあるんだ?」と半分冗談で、司祭にお話されておられました。その方は、十分このイチゴにみえるものが、Sacred Heart(イエスの裂かれたこころ、心臓)をあらわすことを知っておられる方ですが、冗談で、司祭に言っておられたようでした。

                 

                https://www.pinterest.jp/pin/458663543273490372/ から

                 

                そういえば、小学生男子の歴史の友(小学生男子は、歴史の教科書に出てくる毛の薄い人が好き)、ザビエルさんも、このSacred Heartを手にしておられます。

                 

                https://sanpaolo.or.jp/?p=1680 から

                 

                 

                冗談はさておき

                 

                成文祈祷の強み

                 冒頭の絵のような状態で過ごしている期間中、思ったことがあります。今日は、そのことをかいてみたいと思います。それは、成文祈祷の強み、ということです。

                 

                 もともといた教会は、福音派の中でも、聖霊の働きをかなり強調するグループでした。ペンテコステ派ではなかったですが、もともといたそのキリスト者集団が、英国内でグループとして成立する前後の時点で、クェーカーに属していた人々が大量にそのグループに流入したこともあるようで、その影響を指摘する研究者もいます。

                 

                そして、このクェーカーの聖書理解の影響をかなり強く受けたグループの人々が、中国の内陸部(熱河周辺)でかなり熱心に伝道して居られたのですが、中国共産党(と中華人民共和国)の成立にともなって、中国のインランドミッションの継続が困難になる中、同じアジアということで、日本にこられた人々が日本で開拓伝道を始めた教会で育ったこともあり、自分自身の信仰が育った教会では、これらの伝導して居られた人々の国の集団と同様に非常に聖霊に導かれることが重視されていました。

                 

                その集団では、特に説教を主に担当する牧師のような教役者という存在はおかず、クェーカーの皆さんと同じ様に、信徒に働く聖霊が働かれて、聖書から語るべきであると確信していました。このため、専任の説教者はおかないことが多かったのですが、最近はさすがにそれではいろいろ不具合が出てきたことなどもあり、事前に説教者(説教の担当)を決めたり、司会(司式ではない)者だけは定めたりするような教会も増えてきましたが、賛美歌なども当日、聖霊に導かれることで決まることになっているため、定めることが特にない、というグループでした。このようなキリスト者集団で長く信仰生活を過ごしてきました。

                 

                そんなものですから、週報とかの存在がごくごく普通であるのを、ここ3年余り、近所のカトリック教会や、プロテスタント教会をめぐりする中で、知ることになりました。もともといたキリスト者集団は、人数が少ないキリスト者の集団でもありまし、さらに、自分たちこそがより良いキリスト者集団のあり方だ、と信じている人々でしたから、他のプロテスタント教派に行くことすら、はばかられる雰囲気が、そのキリスト者集団の中に流れていたことは確かです。


                さて、そのような信徒が聖霊に導かれる、という前提(あくまで前提ですから、必ずしもそうでないことは私自身を振り返ってみればわかることなのですが)で動いているキリスト者集団の日曜日のプログラムでは、聖霊に導かれて賛美する賛美歌も決まるし、説教者も決まるというキリスト者社会でした。その社会というか、教会の中で育つ中で言われたことは、「週報のように事前にすべて決めてしまうと、そこに聖霊の働きがなくなるではないか」というご説明でした。たしかに、一見、もっともな気がします。まぁ、そういわれてきたのでそうだと思い、それで、自分自身を納得させてはいたのですが、その集団の中で、まじめに説教に取り組む日々を過ごしてきました(一応説教者の役割のようなことを毎週のように果たしていたので)。その中で、この説教のテーマにあった賛美歌を選んで、この賛美歌でお願いできませんか、とかいうと、聖霊の働きがなくなるからダメなどといわれ、説教と無関係な賛美歌が説教後に流れるたびに、絶望感とまではいいませんが、なんだかなぁ、と残念な気持ちになったことは確かです。

                 

                しかし、今は、いろいろな事情から、その集団を離れることとなり、伝統教派の教会に身を置く中で、説教というよりは式文に養われる身になっています。そして、異なる視点でキリスト教を見ることになりました。

                 

                もともといた教会に参加するのをやめ、あちこちの教会に身を置いてみることにしました。文化人類学における参与観察をしてみることにしたのです。信仰者として。そして、それこそ、正教会からはじめて、カトリック、宗教改革以降登場した多数のプロテスタント教会(ルター派、カルヴァン派を数系統、バプティスト派を数系統、メソディスト派系を数系統)など、たくさんの種類の教会めぐりを始めてから、今年で4年目になります。それはそれで面白い経験でした。ここまでキリスト教に多様な教会群があり、多様な教会の形があることを体験することになりました。いろいろな教会にお伺いする中で、思ったことは、実に多様であることと、しかし、そうであってもキリストの中心性があったとういことに気が付きました。それは、個人的には、非常に大きな収穫でした。

                 

                いろいろ回る中で、今参加しているアングリカン・コミュニオンの海員向け教会に、ほぼ毎週参加するようになりました。このような結果となったのは、いろいろな個人的事情の結果ではあったのですが、今は、そこでしばらくいさせてもらいたい、いや、そこにい続けたい、と思っています。それは、成文祈祷を知ったから、というのが大きな側面でもあります。

                 

                まともに文字が読めない中での成文祈祷

                これまでの連載でも書きましたが、文字が読見たくない、文字を読むのが苦痛、そして、文字を基に考えるのがつらい、そして、文字をタイプするのもつらい、という状況が待降節前後から始まりました。そして、その中で、4ヶ月あまりをすごしました。イースターからペンテコステに向かう時期を迎えた今、少し余裕が出てきて、まとまりが出てきましたので、このブログでも週に一回思ったことを書くことにしています。

                 

                待降節以降の、この砂漠のような、砂をかむような時期を過ごしました。同時に、健康上の理由から食事をかなり制限(正教会のレント時期の食事節制に近い食事に制限)する中で、そして、自分で考えることもできない、自分の言葉で祈ることもつらい、という時期の中で、助けになったのは、そして、実際に慰めになったのは、実は、アングリカンの式文(祈祷文)でした。自分の言いたいことが、コンパクトに言葉になって、さらに、聖書の言葉に裏打ちされた式文の表現に自身が思うその思いが詰まっている、という経験をしました。式文の言葉は、祈る言葉を見つけることさえつらい状況の中で、思いを寄せることができたのです。そして、聖餐式(礼拝)の中で、決まりきった定型文である祈祷文を声に出していく中で、式文に思いを寄せることができるということを自ら体験してみることになったのです。

                 

                主よ、哀れみたまえ   (キリエ・エレイソン)

                キリスト、哀れみたまえ (キリステ・エレイソン)

                主よ、哀れみたまえ   (キリエ・エレイソン)

                 

                自分の言葉が見つからず、祈れないときに、この祈祷文は本当に助けになりました。もちろん、以下のような賛美歌にもなっています。別に、ラテン語で歌ったり、祈ったりする必要は必ずしもないのですが、短い言葉で祈ること、聖書に裏打ちされた言葉で祈ることができるということを、そして、多くの普段はほとんど関係のない人々と教会で祈ることができること、ということの意味を、霊的な寄港地のようなサービス(サービスには、聖餐式の意味もあるのですが、聖餐式を通して与えられる哀れみにすがるよすがを与えてくれている状態)を与えてくれることになった今のチャペルで、ほかの人々、一生で1回しか会わないかもしれない海員の皆さん(最近は合理化の影響のためか、めっきり海員の参加者が減っているのですが)とともに、式文を唱える中で、ぼろぼろの状態でも自分自身が神にあって生きていくことについての助けを得られた、という感覚があったのは事実です。

                 

                Taize のキリエ エレイソン(主よ哀れみたまえ、キリスト、哀れみたまえ)

                 

                あるいは、祈祷書の次のような表現が、日常生活の中でも思い起こされました。


                Heavenly Father,
                we have sinned against you and against our neighbour
                in thought and word and deed,
                through negligence, through weakness,
                through our own deliberate fault;
                by what we have done
                and by what we have failed to do.
                We are truly sorry and repent of all our sins.
                For the sake of your Son Jesus Christ who died for us,
                forgive us all that is past;
                and grant that we may serve you in newness of life
                to the glory of your name. Amen.

                 

                あるいは


                LEADER: O God our Creator, your kindness
                has brought us the gift of a new morning.
                PEOPLE: Help us to leave yesterday and
                not to covet tomorrow, but to accept the
                uniqueness of today.


                LEADER: By your love celebrated in your
                Word, seen in your Son, brought near by your
                Spirit, take from us what we need to carry no
                longer,
                ALL: So that we may be free again to
                choose to serve you and to be served by
                each other. Amen.

                 

                切れ切れに思い出される祈祷書の表現が、この数ヶ月間、私を養ったことは本当に確かなのです。上の祈祷文にあるように、お互いに仕えられあうことができる、そして、お互いの独自性を知り、その存在を喜ぶことができる、その存在そのものを享受する、ということの大切さを思って過ごしてきました。

                 

                「形式的な祈り」の強さ

                そんななか、fuminaru k さんという方のブログで、 クリスチャンにとって「祈り」って何ですか? という記事が投稿されており、大変面白く読ませていただきました。ここで、fuminaru kさんは、 「形式的な祈り」 という言葉を使っておられますが、Anglican Communion のCommon Prayer bookや聖公会の祈祷書、カトリック教会や正教会での式文などは、おそらくfuminaru k さんのおっしゃる「形式的な祈り」 に属するものと思います。

                 

                こういう祈りに触れることがない教会に長く集っていた信徒であるミーちゃんはーチャンが、正教会(日本ハリストス正教会や日本コプト正教会)や、カトリック教会の成文祈祷あるいは式文による礼拝に触れたときの衝撃は、想像を絶するものがありました。

                 

                しかし、その世界に触れてみてわかったことは、これらの成文祈祷とそれによって行われる礼拝(聖餐式)は、表現している言語や祈り方、ことばの表現方法には違いがあれど、多くの伝統教派での礼拝の構造とその内容は基本的に同じである、ということでした。式文に従った礼拝は、ある種の構造の強みを持っていたのです。礼拝、ないし聖さん式の構造が、実は同じキリスト教会の仲間である、ということを識別可能にする意味を持つのだ、ということを体験することになりました。また、式文での内容がほぼ同一のコンテンツと意味を持っている、ということはこれらの共通する構造、祈祷表現を共有するという点で、基本的に同一のものに属するものであると理解することができたのです。この同一性の認識についてのみ言えば、実に多様な礼拝の構造が見られるプロテスタント教会同志よりは、より容易かもしれない、と思ってしまうほどでした。

                 

                そして、成分祈祷の世界にどっぷり浸かっていき、そこで養われるうちに体験的に理解できたことは、ある面、成文祈祷や式文による祈祷は、表現内容の骨格を与えるのみであって、余白を埋め尽くさない強みがある、ということに気がついたのです。つまり、骨格に触れることで、自分たちが大事にしている信仰の根幹の部分に、この成文祈祷と式文で毎回触れていくのだけれども、そこには、個人が思いをはせる余白がかなりたっぷりと残っている、ということに気がつき始めたのです。

                 

                自分の言葉で埋め尽くす祈りの黒歴史

                もともと長くすごしたキリスト者グループでは、「聖霊に導かれて祈るので、当然その時々の働きかけが違ってくるので、当然《形式的ではない祈り》になるはずだ」という理解をしており、実際にそういう形式のないタイプの祈りで祈るという期間を長くすごしたきたことは確かです。しかし、それは、同時にとにかく祈りを自分の言葉や表現で埋め尽くそうとする行為という側面も持ちました。レクティオ・ディビィナを習得するまでは、特にそうでした。

                 

                また、特に、異言を重視しない、どちらかとういと異言を否定的に捉えるキリスト者グループでしたので、異言で祈りを埋め尽くす、とか、異言で祈りを埋め尽くそうとするという傾向はそもそも持っていませんでしたけれども。ある意味で、クェーカーの精神性には近かったのだろうと思います。クェーカーというグループの名称の由来になるほど、大きく体を揺り動かす身体的な文化もありませんでしたが。静かに祈る中で、その静けさの中で、心の中で神に向かっての思いを自分の言葉で埋め尽くすことが、祈りであるというような印象を祈りについてもっていたという部分もあったかと思います。

                 

                しかし、今、伝統教派の成文祈祷、式文による祈祷の中で、司祭のことば(祈祷文)に耳を傾け、決まりきった成文祈祷の表現を口にしながら、それでもそのことばの周辺に漂う余白に思いをはせるという日々が続いています。確かに、説教は15分程度と短いですが、式文による礼拝、あるいは聖餐式そのものが説教以上に、キリストのことを指し示している現実に触れる中で、そして、自らのぼろぼろの精神状況に向き合う中で、あるいはボロボロの知的状況の中で、つまり、いのりのことばを自らつむぎ出せない状況の中にあって、かえって決まりきった表現と思えるような表現を、毎週目にし、また繰り返し声に出して表現するなかで、毎週新たな印象をそれらの祈祷文や式文の表現に感じる、という不思議な体験をしています。

                 

                でも、よく考えて見れば当たり前のことかもしれません。聖書の表現も、多少翻訳によって醸し出されている雰囲気は違えども、基本的には同じ表現、同じことを指し示しているはずですが、読むたび、見るたび、感じることが少し違ってはいないでしょうか。同じ文章を目にしながらも、毎回受ける印象が違っているからこそ、少なくないキリスト者たちは、飽きもせずに同じ聖書のことばを読んでいるのではないでしょうか。

                 

                伝統教派の成文祈祷が繰り返されるのも、形式的に口にしておけばよい、という形式だけの祈り、というよりは、どうも同じ文章ではありながら、毎度毎度、その言葉で祈ると気に違ったイメージや思いが拡がってくる、という部分があるように思いますし、特に身体的に、霊的に、知的にも自己の表現で祈り得ない、言葉にすらできないときにも、その式文の一部を思い出すことで、祈ることができる、ということをこの数ヵ月間、経験するところとなりました。

                 

                ロマン主義の影響を受けたキリスト教

                近代に生まれたプロテスタント教会も私にとっては、大切なキリスト教の偉大な人々からなる教会だとは思っています。実際、私の背景の一部ではあります。しかし、今反省的に思ってみると、ただ、社会やその中の文化を人間中心とするロマン主義が支配する時代を経るなかで、人間として聖書が読めることがあまりに重要となりすぎているかもしれない、自分の言葉で祈ることをあまりに過大に重要と理解しすぎているかもしれない、ともこの数カ月の荒野のような経験を通して、思うようになりました。確かに、普通の人が聖書を自分の言語で読めることは、神に近づく縁を与えられている点で大きなことではありますし、その豊かさを否定しようとするものではありません。しかし、聖書が読める、人間が自分の言葉で祈るということをあまりにも重視する場合、その弊害は果たして皆無であろうか、と思い至ったのです。

                 

                というのは、精神的、知的に弱い状態になったとき、つまり、祈りを自分の言葉で紡ぎ出せない状態や、聖書を読めなくなった状態の人たちにとって、このロマン主義的理解といいますか、ロマン主義的な文化に基づく理解が教会やキリスト者集団を支配している場合、聖書が読めない、聖書を読むことに困難を覚える、自分の言葉で祈れないような方々の信仰を尊いものとしてみなくなってしまう傾向はないだろうか、あるいはそういう方々の信仰を劣ったものと見てしまうような危険性は果たしてないだろうか、そして、そのようなことができない人々に無理を強いる側面はないだろうか、と思うのです。聖書を読めない、自分の言葉で祈れない人々に対して排除の原理が働くとまでは言いたくはありませんが、聖書を自分で読めない、祈れない人々に、ロマン主義的な文化を持つようなキリスト教社会が優しいか、というと、どうも、そういう人たちにとって、ロマン主義的な文化の中で生まれてきたキリスト教は優しくないし、その様な人々に過剰なものを求めているかもしれない、いや、正確にいうと、そのロマン主義的な文化の中で生まれたキリスト教の中で過ごしてきた私は、自分で聖書を読めない人々、自分の言葉で祈れない人々に過剰なものを求めてきたのではないか、と反省するようになりました。

                 

                この数カ月の経験は、非常に個人的には厳しいものではありましたが、キリスト者の生き方を考え直し、新たな視点を得た、という意味において、豊かなものになったのかもしれない、と思うようになりました。その意味で、冒頭の復活のナザレのイエス像に示された絵画のようなバラバラ状態になるのは、大変つらい経験ではありましたが、その中で得たことについて、最近は、そんな事を考えております。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

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                コメント:入門書として、実によろしいか、と思います。

                2018.05.02 Wednesday

                これまでのアクセス記録(途中データ欠損部分あり)

                0

                   

                   


                  皆様、いつものようにこれまでのご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、若干抜け落ちた時期がございますが、これまでのアクセス記録のご紹介と参りましょう。


                  2月は、 12,103  アクセス、平均で、日に  432.25 アクセスとなりました。そして、3月も、アクセス数で、13,084 アクセス、一日あたり422.07 アクセスでした。4月は、公開を再開したにもかかわらず、ちょっと下がって8,520アクセス、一日あたり284.0 アクセスでした。2月3月は、全く更新をしなかった割に、あまりにも多いアクセスで、正直驚いております。

                   

                  2014年第2四半期(4〜6月) 58171アクセス(639.2)
                  2014年第3四半期(7〜9月) 39349アクセス(479.9)
                  2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
                  2015年第1四半期(1〜3月) 48073アクセス(534.1)
                  2015年第2四半期(4〜6月) 48073アクセス(631.7)
                  2015年第3四半期(7〜9月) 59999アクセス(651.0)
                  2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
                  2016年第1四半期(1〜3月)   61902アクセス(687.8)
                  2016年第2四半期(4〜6月) 66709アクセス(733.1)

                  2016年第3四半期(7〜9月) 65916アクセス(716.5)
                  2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4)

                  2017年第1四半期(1〜3月)   56858アクセス(631.8)

                  2017年第2四半期(4〜6月) 76117アクセス(836.5)

                  2017年第3四半期(7〜9月) 55225アクセス(600.3)

                   

                   

                  2月から4月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。ご清覧ありがとうございました。

                   

                  2月

                   

                  現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 アクセス数 439

                  あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。 アクセス数 166

                  Doing Being Becoming Creating そして Recreation アクセス数 159

                  結婚相手としての牧師の厳しさ アクセス数 147

                   

                  3月

                   

                  現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 アクセス数 462

                  『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (4) アクセス数 291

                  Doing Being Becoming Creating そして Recreation アクセス数 246

                  結婚相手としての牧師の厳しさ  146

                  日ユ同祖論というトンデモ理論について その1 アクセス数 124

                   

                  4月


                  現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 アクセス数 415 

                  「金継ぎ」 または 「金繕い」 と「復活」 アクセス数 364 

                  Doing Being Becoming Creating そして Recreation アクセス数 274 

                  トマスを覚える主日に アクセス数 264 

                  教会は残るか? 教会と危機、そして、一つの群れ、ということ アクセス数 190 

                   

                  また、今月も御清覧いただけると、幸甚でございます。

                   

                   

                   

                  2018.04.27 Friday

                  教会は残るか? 教会と危機、そして、一つの群れ、ということ

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                    先週、KDK神学会に参加した時のことについて、先日の記事で少しご紹介致しました。その神学会でのご講演のテーマは、「教会の危機と教会の指導者、カルタゴのキプリアヌスの場合」でした。そこで思ったことについては、全快の記事で少しご紹介しましておりましたが、そんなことを思い巡らせているうちに、その次の主日礼拝を迎えました。

                     

                    その日の主日礼拝は、良き羊飼い、についての週であり、説教の内容は、よき羊飼いについての話でした。

                     

                    説教箇所で主に取り上げられたのは、ヨハネの福音書10章 11節から26節まででした。

                     

                    よき羊飼いと悪しき羊飼い

                    説教の冒頭で、司祭の方は、Babeという牧羊犬ならぬ牧羊豚志望の豚さんが主役の映画の冒頭のシーンが紹介され、その映画における牧羊犬と牧羊豚を志望する豚の羊に対する態度が違う、という話のご紹介がありました。

                     

                    Babe 英語版予告編

                     

                    映画Babeの予告編(日本語版)

                     

                    そして、エゼキエル書34章の中に、よくない羊飼いの話が出ていると、その部分を説教の中で触れた後、羊飼いとしてのイエスを、そして、その羊飼いに完全に離れないものの、その羊飼いの弟子として不完全ながら、倣うものとして生きることについて、という内容の説教でした。

                     

                    【口語訳聖書】
                    エゼキエル書
                     34:1 主の言葉がわたしに臨んだ、
                     34:2 「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。
                     34:3 ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。
                     34:4 あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。
                     34:5 彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。
                     34:6 わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない。
                     34:7 それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。
                     34:8 主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。
                     34:9 それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。
                     34:10 主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。

                     

                    そして、説教の中では、ヨハネの福音書の表現の中での、ひとつの群れ、ひとつの羊飼いということも、クローズアップされていました。聖書箇所を読みながら、目に留まったのは、この箇所でした。

                     

                    【口語訳聖書】

                    ヨハネによる福音書

                     10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

                     

                    I have other sheep that are not in this sheep pen.  I must bring them together too, when they hear my voice. Then there will be one flock of sheep and one shepherd.

                     

                     

                    そして、そのことを考えながら、その前の週に聞いたKDK神学会での「教会の危機と教会の指導者、カルタゴのキプリアヌスの場合」というキリスト教学の泰斗の方のご講演とそのあとのディスカッションの中で出た「教会の消滅と教会の危機」という話題がぐるぐる回っていました。

                     

                    教会の危機と過去の司祭、牧師、司教達

                    教会の危機という意味では、いろんな危機に対応しようとした牧師の方や神学者の方がたが、これまで数多くおられたわけです。

                     

                    アメリカ社会の移民たちや労働者達が不当に軽々しく扱われるという危機の中で、アメリカ大陸の東岸の大都市ニュー・ヨークでは、ウォルター・ラウシェンブッシュ先輩が、「キリスト教と社会の危機」という本を書き、社会的福音という概念を形成していくことに大きく貢献していきました。
                     

                     

                    ウォルター・ラウシェンブッシュ先輩(Christianity Todayから)

                     

                    アメリカ大陸の西岸のロス・アンジェルスでは、ウィリアム・シーモア先輩たちを中心とする人々たちが、アフリカ系アメリカ人を中心として、アジア系移民の多い地域で、この地域でやはり不当に扱われている移民や、アフリカ系アメリカ人、労働者の人々が多数いるという危機の中で、を中心として、リバイバル運動を起していきます。そして、現在のペンテコステ派のキリスト教会の基本形が形成されていきます。

                     

                    ウィリアム・シーモア先輩(Wikipediaから)

                     

                    カール・バルト先輩は、近代という時代とその文化(とその限界)の中で生きなければいけないという、ある種のキリスト教とキリスト教徒にとっての危機的な時代の中で、聖書を読む、とはどのようなものとなるのか、ということを格闘した人であったようにも個人的には思います。専門家でないので、軽々しい発言は避けるべきかとは思いますが、個人の印象としては、そんな感じがしています。

                     

                    カール・バルト先輩(Christianity Todayから)

                     

                    もうちょっと最近だと、ちょっと扱いにくい人ですが、ボンフェファー先輩は、ナチス・ドイツ支配下の第3帝国内で、それこそ、教会の危機とも言うべき国家とキリスト者集団としての教会の危機に対応しようとしました。

                     

                    ボンフェファー先輩(Christianity Todayから)

                     

                    ほかには、コルベ神父やロメロ神父、ヤナニ・ルアム(Janani Luwum)司教などなど、こういうよき羊飼いに習う人たちがたくさん出たわけです。いずれも、教会が社会との対立の中で危機を迎えた時代の教会で大きな役割を果たした人だと言えるでしょう。

                     

                    コルベ先輩(Wikipediaから)

                     

                    ロメロ先輩(Wikipediaから)

                     

                    ヤナニ・ルアム先輩(Daily Monitorというウガンダの日刊新聞のサイトから)

                    http://www.monitor.co.ug/News/National/Celebrate-Archbishop-Janani-Luwum-courage-Archbishop-Ntagali/688334-4307004-8pp4dz/index.html から

                     

                    ロシアでは、共産主義時代に、国家とキリスト者集団としての教会との関係が苛烈な危機的な状態となり、信徒たちは非常に困難な状況におかれました。そして、ある面、決断を迫られた危機に直面することになりました。そして、西側の教会とそこの信徒には知られてはいないものの、多数(1000人以上)の先輩方たちが国家、共産主義政権と結果的に正面を切って対応することを求められ、その結果、多くの殉教者が出た様です。想像に難くはないですが。現在、正教会ではこれらの人々のなしたことのご確認作業をしておられるようです。

                     

                    結果として、共産主義者の皆さんの予想に反して、先に崩壊したのは、共産主義政権というか、社会主義政権の方でしたが。

                     

                    このような国家や社会的状況と対峙したキリスト教徒の最初のほうの人たちが、ある面、ナザレのイエス、ユダヤ人の王である、と十字架刑にかかったときにピラトが書いたイエスという人物でしたし、また、そのイエスに付き従った人々、つまり使徒であったりしたわけです。

                     

                    パウロは、国家とキリスト者集団としての危機に関して、考えるべき内容について、たくさんの手紙を残していることは、新約聖書にも現れているように思います。ただ、当時の手紙は、今みたいにかいて送って終わりではなく、手紙の持参者がその手紙の中身について、書ききれない部分に関しても、人間を通して伝えようとした部分もあったようです。

                     

                    そして、帝国規模の迫害という危機の中で生きたのが、先日のご講演でもテーマとして取り上げられたキプリアヌス先輩だったりしたわけです。

                     

                    そんなことを思い巡らしながら、説教を聞き、先日のヨハネの福音書のテキストを眺めながら、KDK神学会でのディスカッションの内容でもある「教会は、残るのか」というディスカッションの中身も頭の中を駆け回っています。

                     

                    キリスト教の中心地であっても…

                    キプリアヌス先輩の時代のカルタゴ(現チュニジアにあった古代フェニキア人由来の都市)は、キプリアヌス先輩、テルトゥリアヌス先輩を排出し、さらに北アフリカは、アウグスティヌス先輩といった古代キリスト教の超有名人を排出するほどキリスト教の一種の中心地だったわけです。

                     

                    テルトゥリアヌス先輩(こちらから拝借)

                     

                    アウグスティヌス先輩(こちらから拝借)

                     

                    しかし、北アフリカは、その後、ローマの没落とイスラム帝国(ウマイア朝)の進出に伴い、後年の北アフリカは、イスラム海賊の根拠地の一つになっていきます。そして、キプリアヌス、アウグスティヌスといった西方キリスト教の基礎を作った人々を多く輩出した地域でありながら、現在では、当時の教会の跡形を見ることすら困難な状況になっているわけです。

                     

                    そこで、発題者のキリスト教学の泰斗の方が聞き手に突きつけられたのは、「どんなにキリスト教が盛んな地域でも、キリスト教が見られなくなることがある」という歴史の現実でした。これは、案外重要なことだと思います。

                     

                    確かに、新約聖書に地名が出てくる教会で、その当時以来、現状まで続いているものは、ほとんどないと言って良いでしょう。しかし、そうであっても、世界各地に教会が続いているという現実は確認できると思うのです。

                     

                    そして、日本の教会は、今、どこの教会に行ってみても、そこにおられる信徒さんは高齢の信徒さんばかり、という教会がかなり多いように思います。そして、かろうじて二桁の人数で、人数が少なく、教会を無理に維持しているのではないか、と思われる教会も少なくないように思います。

                     

                    では、若者は教会にいないか、というと、適当に若者も混じっている教会もないわけではありませんし、また、以前ご紹介したような、若者しかいない教会もあるわけです。

                     

                    若い人しかいない教会参加記

                     

                    若い人しかいない教会で気づいたこと

                     

                    いずれも、年寄りには、ちょっときつい教会でしたけれども。

                     

                    視野狭窄の起しやすさ

                    ミーちゃんはーチャンなんか、典型的にそうなのですが、つい視野狭窄を起しがちになります。どんな視野狭窄なのかというと、「自分が行っている教会、行ったことがある教会が教会である」という思い込みというか、視野狭窄です。下手をすると、自分が知らない教会は、教会ではない、といったりする危険性です。本来、神が愛された教会でもあるにもかかわらず、自分が知らない教会や、自分とは違う教会の教会員のかたがたは神のものでない、と勝手に判断してしまう危険性といってもいいかもしれません。

                     

                    教会といえば、自分が普段行っている教会、あるいは自分が信仰を持った教会の姿をつい思い浮かべてしまいます。そして、自分が信仰を持ったころの教会にも不都合はあったし、今もあるはずなのですが、その不都合な真実には目をつぶり、ついそれらの不都合を捨象して、理想化してしまいます。そして、あのころはよかった、と荒野に連れ出されたイスラエル人よろしく、「エジプトはよかった」といいがちなのではないか、と思うのです。

                     

                    あるいは、教会とイメージするとき、自分が普段行っている教会、自分が信仰を持った教会、あるいは、そことつながりの深い教会だけを持って「教会」と考えがちではないか、と思うのです。そして、いろんな条件の結果、生まれてきたはずの教会であっても、未来永劫、同じ形で「教会が存続する」ということを夢に見てしまう、ということがあるようにも思います。本来、羊飼いが呼び集めているはずの人々を、先のエゼキエル書34章にあるような悪しき羊飼いのような状況を生んでいるかもしれない、と思うと、この視野狭窄の恐ろしさは、相当なものだ、と思ってしまいました。

                     

                     【口語訳聖書】
                    エゼキエル書

                    34:4 あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。
                     34:5 彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。

                     

                    しかし、イエスの言葉に戻ったときに、

                     

                    【口語訳聖書】

                    ヨハネによる福音書

                     10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

                     

                    ということは、現状、正教会、カトリック、プロテスタント(特に種類が多く、世間からは、どこがどう違うのか、区別がつかないし、キリスト教徒の多くの人々は、このプロテスタント内の細かな違いを説明できる人はいないんじゃないでしょうか)と多数に分かれていても、イエスの声に聞き従うものは、最終的には、ひとつの群れ、ひとつの羊飼いという世界が完成する、ということなのだろうなぁ、と思ったわけです。

                     

                    Though we are many, we are one body

                    わたしたちは多くいても、わたしたちは一つです

                    こう考えていくときに、公同の教会、山崎ランサムさんの表現を借りれば、小文字のキリスト教ということになるのでしょう。個別の教会は、さまざまな現実によって、困難な状況に直面し、なくなってしまうかもしれませんし、変質してしまうかもしれません。しかし、とはいうものの、小文字のキリスト教、ないしは小文字のカトリック教会(公同の教会)、あるいは、「いのちの水」を求めて生きようとする人の群れは、困難な状態でも存在し続ける、というのがキリスト教かもしれないなぁ、と思うようになったのです。

                     

                    個別のキリスト教会や、個別のキリスト教会の集合体(教派とか教団)はなくなってしまうかもしれないけれども、しかし、そんな状況の中にあっても、そして、聖書理解に違いはあっても、神を愛するものとして、イエスが近づいてくださった人々として一つ、ということをもう少し考えてもいいのかもしれないなぁ、と思っていて、もう一度、今週読んだ、聖書箇所を読んでみました。すると、こんな表現が見つかりました。

                     

                    1 John 3:24

                    The Spirit that he has given us is proof that we are one with him.

                    【口語訳】ヨハネの手紙 第1
                    3:24 そして、神がわたしたちのうちにいますことは、神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである。

                     

                    世の中には、いろいろな教会があり、多様なキリスト者たちが存在しているわけですが、その中でも、小文字のキリスト教を形成している公同の教会を一つにするのは、やはり聖霊なんだろうなぁ、とあらためて思っていました。日本語の聖書箇所では、一つということをあまり感じられない表現となっていましたが、英語の聖書の中にある

                     

                    we are one with him

                     

                    ということを考え、ほとんど毎週の聖餐式(基本、日曜日の朝と水曜日の夜)に唱える式文の表現でもある、

                    Though we are many,

                    we are one body, because we all share in one bread.
                    ということを考えたり、以下の賛美歌が今週は頭の中を駆け巡っています。

                    Though we are manyという聖餐式のときの式分での応答の表現を用いた賛美歌

                     

                     

                    こちらで楽譜のPDFファイルがダウンロードできます。

                     

                    歌詞はこんな感じです。

                     

                    Though we are many, we are one bodey,
                    we who come to share this living bread:
                    Cup of salvation, shared among all nations,
                    nourishing us now and evermore.


                    1.  We gather in this place
                    round the table of the Lord.
                    Christ’s presence is revealed
                    in our communion and his Living Word.


                    2.  Now our communion recalls
                    Christ’s death and resurrection.
                    This living sacrifice
                    is our salvation now and evermore.


                    3.  And through this shared Eucharist
                    we are the living Church.
                    We witness to Christ’s love
                    His living body active in our world.


                    4.  This bread unites the baptised
                    who are called to this great feast.
                    The feast, a sign of God's love,
                    a great communion with the saints above.


                    5.  And when we leave here today
                    with hearts renewed in joy,
                    So nourished, we will embrace
                    the challenge now to live the Christian call.


                    6.  As Patrick prophet of old
                    trod the path we tread today,
                    so we proclaim the Good News
                    and share the living message with joy

                     

                    そして、上で書き記しました司教、司祭、牧師達がおられ、そして、数多くの教会があり、非常に多くのキリストを神と認める人々がおられる、ということを思うと、本当に、we are manyだとは思いつつも、数多くの神を愛する人々によって形成される神を礼拝する民としてwe are one bodyなのだろうなぁ、と今週は、いろいろと思っておりました。

                     

                     

                     

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                    コメント:高いけれども、近代アメリカ社会と向き合ったある牧師の思想がこめられた本で、この本に付された現代の教益者たちのコメントが興味深い

                    2018.04.20 Friday

                    トム・ハーパー著 「いのちの水」 を読んでみた そして、リングマ

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                      本日ご紹介する本は、絵本のような、たとえ話のような本で、教会とは何だったのか、ということを考えさせられた本です。

                       

                      この数ヶ月間、憔悴しきっていたのか、本を読んだり、まとまって考えたりするのが、面倒になったというか、そういう作業が無理だった時間が続いておりましたので、この本は、久しぶりに手にして、読んだ本でした。

                       

                      絵本のような本とは言いながら、いろんなことを思い巡らす、黙想するきっかけを与えてくれた本でした。

                       

                      購入するきっかけとなった投稿

                      この本を読んだきっかけは、キリスト新聞の松谷さんの

                      キリスト教系のTwitterアカウントでフォロワー1,000超えるのってスゴいこ とですから。だって、一牧師が教会で説教を届けられる対象は多くてもせいぜい100〜 200。しかもほぼ固定メンバー。数の問題じゃないとはいえ、不特定多数の5万人以上 に支持されてる上馬や片柳神父のスゴさはもっと評価されていい。

                      さらに言えば、「ネットなんかにうつつをぬかして…」などとしたり顔でSNSを駆使す る牧師たちを叩く一部の輩が、不毛な会議や「神学論争」なんかにうつつをぬかしている 間に、今日も居場所を求め「#死にたい」とつぶやく若者が人知れず教会の「外」で(もちろん「中」でも!)苦しんでいること は、もっと認識されていい。

                      まさに『いのちの水』が提起した問題にも通じる。

                       

                      という2018年4月6日付の投稿でした。

                       

                      この投稿を見たその日、慌てて、この書籍を迷わずネット書店に注文しました。もちろん、松谷さんの投稿の表現には、かならずしもお上品とは言えないところもありますが、松谷さんが、この投稿で紹介していた、本書は、本来キリスト教というよりは、イエスとその周辺の人々(使徒たち)が伝えようとしたこととは、どのようなものであったのか、ということに思いを巡らす出発点となりました。

                       

                      あれ、N.T.ライトの本にも同じことが・・・

                      この本を読みながら思ったことがいくつかあります。それは、この本の中身が、N.T.ライトという人が書いた、Simply Christian (邦訳は、『クリスチャンであるとは』)という本の第2章 Hidden Spring(邦訳版では、「隠された泉を慕って」)で取り上げられていることと、かなりパラレルであったからです。

                       

                      本当に一体全体、どうして、その豊かな泉がどうして機能しなくなったのか、ということはあるのだろう、と思います。豊かな泉であるはずの神の言葉、神の息吹、神の聖霊自体は豊かであっても、それを受けた人々なのか、教会なのか、その泉からの給水管なのかがおかしくなっているというのはあるかもしれません。

                       

                      いつから、神の豊かないける水がこの地に流れなくなったのでしょう。確かに、今日の社会にみずみずしい神の息吹なのか、神から流れ出る「いのちの水」なのかを流せなくなっている、という現実は、実際に西ヨーロッパでは経験されているのかもしれません。西ヨーロッパでは、2つの世界大戦を経て、さらに、産業革命を経て形成された社会が変化し、その中で生み出されていった思想や諸般の現実の形成の経緯により、西ヨーロッパでは、キリスト教がもはや見向きもされなくなり始めている、ということが西洋社会ではよく経験されているのだると思います。このあたりのことは、よくわかりませんが、二人のトムさん(N.T.ライトは、トム・ライトとも呼ばれますし、この本の作者はトム・ハーパーです)のアプローチはかなり違うものの、同じことが指摘されているのは、非常に印象的でした。

                       

                       

                       

                      画像はこちらから拝借

                       

                      二人のトムさんと、使徒トマス

                      そういえば、二人のトムさん、N.T.ライトさんもトム・ハーパーさんも、アングリカン・コミュニオンの司祭の経験がお有りになる方で、N.T.ライトさんは、大西洋の東側のスコットランドでのアングリカン・コミュニオンの大聖堂での牧会経験があり、トム・ハーパーさんは、大西洋の西側のカナダでのアングリカン・コミュニオンの司祭としての牧会経験を持つ方のようです。トム・ハーパーさんはそれ以外にも活躍された方のようですが。

                       

                      ところで、このトムというのは、トマスの愛称でもあり、前回紹介した、Doubting Thomasとも呼ばれる使徒トマスに由来するお名前、というところも、面白いところだなぁ、と思いました。

                       

                      ただ、同じことを書くにしても、ライトさんは、どちらかというとガッツリと詰めて書くタイプ、ハーパーさんは、たとえ話というか寓話を介して書いているアプローチの違いはありました。好き嫌いは分かれるでしょうが、書いたり、読んだりすることに疲れたミーちゃんはーちゃんには、ハーパーさんのほうが読みやすかったことは確かです。少なくとも黙想するのに役立ちました。

                       

                      Lord, I am not worthy to receive you....

                      この書籍を読みながら、思ったのは、いつも参加させてもらっているアングリカン・コミュニオンの聖餐式の時に、時々唱える式文の一部でした(結構、今行っているチャペルの聖餐式では、異なる式文が用いられ、式文ごとに黙想できることが違うので、それも参加することが楽しくて仕方がないことの一つですが・・・)。

                      Jesus is the Lamb of God

                      who takes away the sin of the world.

                      Blessed are those who are called to his supper.

                      (全員で)

                      Lord, I am not worthy to receive you,

                      but only say the word, and I shall be healed.

                       

                      全員でいう太字の部分を参加者の皆さんと言うときに、本当に自分自身は、神の子羊(Agnas Dei)の体を表すパンに与る価値もないけれども、神が、そう言われるからこそ、神との関係が回復してもらえる(be healed)のだなぁ、とこの式文を声に出していう時に、思い出す日々を最近は過ごしております。自らの不甲斐なさと、それにもかかわらず、神の言葉があるが故に、この回復にアクセスすることが許されている、ということを。

                       

                      そして、大抵の場合、この表現を全員で声に出して言ったあと、司祭は、聖餐台に招く時に

                       

                      Draw near with faith

                       

                      といいます。その表現を耳にするたび、そして、その司祭の招きのことばに思い巡らすたびに、自分からの行動ではなく、神が私を引き寄せらておられる(Drawされている)、ということを感じるのです。ただ、聖餐台に引き寄せられる時に持っていくことができるのは、使徒トマス以下の実に貧相な信仰でしかないけれども、そうであっても、そのわずかな信仰のゆえに神が回復される、と主張されているがゆえに神の子羊、神のいのちのパンとカップに近づくことができるのであり、聖餐に触れ、目で見える、口に含み、自分自身のうちに取り込むことができるパンといういのちを象徴する物体を通しても、いのちに触れることが、いのちの水に触れることが許されるのだなぁ、と思うのです。

                       

                      そんなことを思っていると、お友達になっていただいているある牧師の方が、教会の形には/仰告白による教会∪度・組織としての教会7戚鵑砲茲覿飢颪箸いΔ茲Δ複海弔諒類があり、現在、新しい教会として、7戚鵑砲茲覿飢颪箸いΨ舛埜討戮修Δ覆發里鮖呂瓩茲Δ箸靴討い襪箸いε蟾討鬚澆けました。

                       

                      それを読みながら、『いのちの水』という本で書かれていることも、似ているかもしれない、と思うようになりました。というのは、もともといたキリスト者集団は、,凌仰告白と言った形式を否定するような集団でしたし、△砲弔い討蓮⊆分たちは組織ではない、だから教会という語は使わないのだ、ということにものすごくこだわっていた集団でした。

                       

                      その意味で、この3種類の教会のうちの7戚鵑砲茲覿飢顱△濃呂泙辰燭發里世辰拭△隼廚い泙后とは言いながら、始まってから200年弱が立つ間に、やや排他的な側面を持つようなキリスト者集団になってしまっていた部分もあったように思います。そして、いつの間にか、本来、「いのちの水」を取り戻すために始まったというものの、いつの間にか、本来目指したはずの「いのちの水」の供給ができなくなり、それの代替物、粗悪なまがい物がまじったかもしれないものを「いのちの水」として流すようなことが起きていことはないだろうか、と『いのちの水』という本をよみながら、思いめぐらしていました。

                       

                      今は、アングリカン・コミュニオンに属する教会というかチャペルに参加させてもらっています。そこでの聖餐で養われていること、そして、「いのちの水」に式文や儀式を通しても触れている経験をしていることは、これまでも書いたとおりです。ところで、このアングリカン・コミュニオンという教会群の集合体は、もともとミーちゃんハーちゃんが参加していたキリスト者集団の原型であったイギリスのキリスト者集団のみなさんが、ある面、「そこにはいのちの水が流れてない」ということを感じ、そこから分離して飛び出していった母体となった組織の一つです。

                       

                      その意味で、ミーちゃんはーちゃんの信仰の先輩でもある人々が飛び出すことになったアングリカン・コミュニオンの聖餐に、そこから飛び出した集団に長くいたミーちゃんはーちゃんが、ほぼ毎週参加させてもらっているというのは、なんか、おかしなものだなぁ、と自分自身、思っています。

                       

                      なんとなく、いろんな出来事が起きて、そのうちに、ふっと見つけた、おおおじいさんか、おおおばあさんの家の「いのちの水」を飲ませてもらって、そして、聖なる食事(Holy Meal)を食べさせにもらっているような格好です。その意味で、以前とは少し違う形ではありますが、信仰生活を今はおくっています。

                       

                      いのちの水が流せるようにできないか、

                      と考えた宗教改革

                      そもそも、さきほどもかきましたが、ミーちゃんはーちゃんが長らく参加していたキリスト者集団の初期の人々がアングリカン・コミュニオンから飛び出す原因となったのは、結局、飛び出そうと決めた頃のアングリカン・コミュニオンが結局、「いのちの水」を提供できていない、あるいは、「いのちの水」の代わりに、粗悪なまがい物を出している、ということがその出発点にあったようです。

                       

                      そう思って大きなキリスト教の流れを考えてみると、ルター(ルッテル 昔のカトリックの文献ではこのように表記していたらしいです)先輩や、カルヴィン先輩が宗教改革をやらかしたのも、同じ様な理由だったようにも思います。それが生んだものは、破戒と分離、対立、そして殺戮と言った不幸も含まれるのが、残念ではありますが。

                       

                      また、カトリックの中でのいくつかの変革、とりわけ、第二ヴァチカン公会議なども、もはや、現代社会に「いのちの水」を適切に供給できていないカトリック教会をどうするんだ、という問題意識からであったのかもしれません。

                       

                      その意味で、宗教改革を始めとする、数多くのいのちの水を取り戻そうとする動きがなされつつも、いつの間にか、「いのちの水」そのものが人間の不具合の結果、枯渇しては、また、別の迂回路を作り、ということを繰り返してきたのが、キリスト教だったのかもしれない、と思いました。

                       

                      キプリアヌスという人の生涯から

                      KDK神学会というマニアックな研究会に参加させてもらっているのですが、今月参加したそちらの会では、キリスト教学の巨星、泰斗とでも言う方がお話されたのですが、その時の話題として「危機」における神学とキプリアヌス(カルファゲンの神品聖致命者キプリアン)先輩が取り上げられていました。

                       

                      このキプリアヌス先輩という人物は、ローマ帝政期のデキウス帝の時期に彗星のように現れ、北アフリカのカルタゴの司教となり、デキウス帝政期におけるキリスト教迫害での信徒を支援し、守ろうとした人物であったらしいようです。また、「教会の外に救いなし(ラテン語では Sallus extra ecclesiam non est)」ということを言った人物としても知られているようです。

                       

                      キプリアヌス先輩(ウィキペデイアから)

                       

                      ところで、KDK神学会でのご講演の内容ですが、このキプリアヌスが帝国レベルでの迫害の中にあって、信徒を守ったことの中において、「教会の外に救いなし(ラテン語では Sallus extra ecclesiam non est)」といわれたのであって、「教会はどんな事があっても信徒を最後まで守り、支える(救いを与える)存在でありたい」ということで言ったのではないか、というご指摘をされていました。この解釈の可能性を聞いて、本当に考え込んでしまいました。

                       

                      「教会の外に救いなし」は、「教会以外が与える救いと称するものは、いい加減なものだ、くだらないもので、信頼するに足りない」という理解や、「教会が与える救いだけが本物の救いだ」という違う意味合いでこの言葉が語られるのを何度か耳にしたことがありますが、どうも、その様な理解でどうもキプリアヌスは語っていないのではないか、ということでした。そして、キプリアヌスは、自らが落命しても、信徒を守ろうとした、というコンテキストのなかで、この言葉を語ったとしたら、どうなんだろう、ということを話題提供された方はお話になられたので、そのことについてもまた、思いを巡らせました。

                       

                      そう考えると、キプリアヌスは、必死で、「いのちの水」だけでなく、教会に来ようとする、あるいは教会に戻ろうとする人々への庇護を与える場所として、教会が機能するようにしようとしたのであるようです。その意味でも、当時のキリスト教徒にとっては、教会は救いの場でもあった、ということなのだろうと思います。単に、礼拝をしたり、結婚式をあげたり、お葬式をあげたりする場所、というだけではなく。

                       

                       

                      そんなことを思うと、本当に、「教会の外に救いなし(ラテン語では Sallus extra ecclesiam non est)」という言葉を、日本の教会は体現しているのだろうか、ということを、考え込んでしまいました。そして、松谷さんの投稿にあった

                      「今日も居場所を求め「#死にたい」とつぶやく若者が人知れず教会の「外」で(もちろん「中」でも!)苦しんでいること」

                      に対して、何を提供しているだろうか、あるいは、少なくとも、自分は、その様な人々に対して、どの様に仕えているだろうか、ということを問われてしまったし、今もなお、毎週末、司祭が聖餐式の終わりに述べる言葉である(Go in Peace, to serve the Lord)という言葉を聞き、そして、そのことばに、「キリストの名によって、アーメン」(in the name of the Christ. Amen)と応答するたびに、自身の姿を反省させられる思いになっています。

                       

                       

                      そして、リングマ

                      以前にもご紹介しましたが、リングマという人がおかきになられた、「風をとらえ、沖へ出よ」という本があります。この本も、結局は、同じことを別の言い方で言っていて、従来の制度的な枠にハマってしまって、純粋に「いのちの水」を流せなくなってしまった「救いがなくなってしまった現実の教会」を、創造的に再構築する必要があるんじゃないか、ってことなんじゃないか、と思うようになりました。

                       

                      本日取り上げた、3つの本、

                       

                      トム・ハーパー 『いのちの水』

                      トム・ライト 『クリスチャンであるとは』 第2章

                      チャールズ・リングマ 『風をとらえ、沖へ出よ』

                       

                       

                      があります。これらのは、結局の所、『いのちの水』が流れる場所としての教会を取り戻そう、ってことなんだよねぇ、と思ってしまってそのことがぐるぐる頭の中を巡っています。そんなことを今週は黙想して一週間でした。

                       

                      そして、宗教改革にしても、リングマさんの本にしても、二人のトムさんの本も、松谷さんの投稿も、キプリアヌスが提示しようとしていることも、次の賛美歌が歌っているように、そこに行きたい人、来たい人々(来たくない人や意地でも行きたくない人は別だとは思いますが)にとって、教会がAll are welcome in this placeと呼べる場所にしようよね、ってことなのだろうなぁ、と思っていたのでした。

                       

                       

                       

                      個人的には感動を覚えた賛美歌 Let us build a house where love can dwell

                       

                       

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                      コメント:薄いけど、めちゃくちゃいい。おすすめの1冊。

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                      コメント:2章に「いのちの水」とほぼ同じ内容が、違うアプローチでかいてある様に思う。

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                      コメント:おすすめの1冊。答えはないけど。

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