2017.11.18 Saturday

向谷地生良著 『精神障害と教会 教会が教会であるために』を読んでみた (2)

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    ここ数日、色々なイベントがあったため、水曜日の定期更新ができなくて、1回お休みを頂いてしまいました。ちょっと本業とその他のイベント対応を突発的に入れてしまったために忙しくなっただけのことなのですが、再開したいと思います。

     

    それでは気を直して今回の記事をご紹介してみたいと思う。それでは、今日もまた、向谷地良生さんの 『精神障害と教会 教会が教会であるために』を読んでみて思ったことを書いてみたい。

     

     

    弱さとともに、悩みとともに生きる

    という人間らしい生き方
    同書の中に、このような記述がある。

    私は、精神障害を持った人達と関わる中で、教会を訪ねてくる人は全てイエス様ご自身がおいでになっていると考えるようになりました。(『精神障害と教会 教会が教会であるために』 p.57)

     

    この部分を読んだ時に、すぐに想起されたのが、以下の聖書の記述である。

     

    【口語訳聖書】 マタイによる福音書
     25:35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
     25:36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
     25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
     25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
     25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
     25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

     

    これは、次の聖書箇所の別バージョンでもあると思う。

     

    【口語訳聖書】 マタイによる福音書

     22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
     22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
     22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
     22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

     

    つまり、人間はそもそも、神の前に不完全であり、人としても不完全であり、そして、誰であっても弱く迷う人間であるのが人間としての存在であるように思う。それは、旧約聖書の登場人物を見れば、よく分かる様に思う。確かに、一瞬活躍している瞬間はあるかもしれないし、完璧に見える瞬間があるかもしれないが、その人生の別の時間を見ると、どこかぐずぐずであったり、まともでなくなっていることは少なくないように思う。一点の欠陥や欠落も問題もない人間には、神ではない以上、人間はそのような完全なもの、完璧なもの日常ではどうやってもなれない様に思うのであるが、しかし、神に導かれ、神に諭され、神に裁かれていく中で、神とともに歩んでいく中で、神の側の働きかけによって、気のせい程度、自分自身の欠落と言うか不完全さに気がついているが故に、神を求めて生きるという、人間本来の姿を取り返しつつ生きるようになる、ということを旧約聖書(律法と預言者)は教えようとしたし、また、そのように生きることをイエスは教えたし、新約聖書を含む聖書全体が伝えようとしていることなのかもしれない。そして、神の不在ということに関しては、神からの介在がない限り、自分だけでは、どうしてもできないということを認めて生きることを聖書は教えようとしているのかもしれない、ということを示そうとしているのかもしれない。

     

    ところで、以下で紹介しているスタークの『キリスト教とローマ帝国』という書籍によれば、共和制ローマないし初期帝政ローマ (帝国になりかけの頃)を支配した概念は、焼肉定食ならぬ弱肉強食であった。力こそ全てであり、弱き者は捨てられ、時に殺され、無視されるということが当然のこととされた社会であったらしい。今のどこぞの国を見るようだ。もともと、ローマ帝国はフロンティアを拡げ続けた、フロンティア精神があふれる若い国であったこともあり、このような弱肉強食が、とりわけ経済の分野で正義とされるところが当時のローマ帝国社会にはあったのかもしれない。しかし、キリスト教はそれとは違う概念で生きたからこそ、ローマ帝国の迫害下でも生き残り、弱い人達へのケアを提供する当時でほぼ唯一の組織となったからこそ、ローマ支配下の地中海の片隅のユダヤ社会におけるイエスの運動がローマ帝国中に広がったということが定量的に指摘されている。

     

    苦悩や問題を抱える意味と価値
    もちろん、ミーちゃんはーちゃん自身も必要以上に苦難や問題は抱えたくはない。「めんどくさいこと、つらいことは嫌でござる」と言いたいとは思っている。しかし、苦難も何もない状態であれば、自分自身だけでとりあえずなんとかなっているということであり、そういう状況であるのは、自分自身が何らかのことができたからだと人間は思いがちになる部分はあるように思う。そして、考えることをやめてしまい、現状のまま維持すればよいという思い込みが生まれる。しかし、それは、大きな間違いなのだと、ある程度まで行くと気がつくことが多い。問題がない状態というのは、ある状況依存に適合した状況が短期的に問題がないと言うことに過ぎ内容に思う。ある状況適合的に良好な状態が維持されているということは、いずれ状況が変わると、良好な状態は維持できなくなるということではないかとも思う。

     

    良い状態と思える時間は、おそらく、せいぜい半年とか数年単位であるのだろうけれども、人はその良好な状態が永続することを望むが、それはどうも無理なのではないか、と思う。自分自身の側自体も割りと単純なこと、例えば、自転車でコケたとか、何かにつまずいてコケてしまったという程度のことで、割と簡単に変わってしまうようにも思う。それは、ミーちゃんはーちゃん自身で経験済のことである。

     

    人は問題があるとよく考えるようになるし、悩むようになる。神が自分の苦難を抱える人生のなかで、神の存在がないから惨めだ、と思う人は日本には少ないかもしれないが、少なくともどうにもならない、と他人の援助を求めたり、自分自身の現在の状況を深く考えたりするようになるのかもしれない。そして、その中で、人間が神ではないため、完全な存在にはなりえないことに気がつく場合もあるかもしれない。そして、それが、神を求め、神とともに行きようとすることにつながるが故に、以下の向谷地さんの記述にある、人間の弱さの持つ価値へとつながるようにも思う。

     

    フランクルは、人間が誰しも抱える「生きる苦悩」を苦悩することこそ、もっとも人間らしい業績であると語っています。パスカルが「人間は、自分が惨めであることを知っている点で偉大なのである」と述べているのも同様です。そして聖書は、一貫して『弱さ』のもつ価値や可能性について言及しているのです。(同書p.69)

     

    ここに記述されているような向谷地さんの記述を見ると、全く問題のない生き方などは、本来人間の世界には存在し得ないものなのであり、問題がない状態であると主張する人びとはひょっとすると、弱さを認めたくないために自分自身で強がっているだけのことや、自分で問題を直視していないだけのかもしれない、と本書を読みながらちょっこし思った。

     

    ただ、問題は、このような弱さとか不完全さを赦さない近代社会の論理、啓蒙思想的な論理が現代の日本の社会の何処かにはあるのではないか、という部分である。大量生産、大量消費型社会において、飛び離れた存在、必ずしも社会と動悸して動いてくれない存在、あるいは極端な個性を持つ存在、極端に個性的な言動を取るという人々の存在、典型的には、精神障害、コミュニケイション障害、人格障害、とりわけ統合失調症のように社会の枠組みの中に収まりきれない人々の存在は、社会にとって非常に困った存在であり、結果として、これまでの現代の日本社会では、そのような変わった人々を分離し、別の社会を作り、社会構造から排除することで、排除されなかった人々にとってのみ、都合の良い社会を作り出してきたのかもしれない。切り離した部分を見ないで済ませて来たのかもしれない。社会の安定とか、社会の安寧とかのために。そして、排除された人たちを人でないというようなレッテルを貼ることで、多くの人々、人口の例えば、80%の人々にとって都合の良い社会を作り出し、そうでありながら、個性が輝く社会という全く実情とかけ離れたものを目指したのが近代の社会であり、軌道に乗れない人びとと共存するのではなく、その軌道に乗らない人々を変な人、おかしな人、としてその人達だけからなる社会を別に作り出して、そして、処理してきたのが、西洋近代が生み出していった衛生概念という神話であったのかもしれないと思う。

     

    本書で、実に印象的であったのは次のエピソードである。

     

    「治りませんように」という言葉は、べてるメンバーの多くを支えてくださる精神科の川村寿明先生がつぶやいた言葉が元になっています。「病気で幸せ、治りませんように」から生まれたものです。しかし、統合失調症を抱える多くの人たちが「治ること」を求めて懸命になっている中で、「治りませんように」という発想はどこから来たものなのでしょうか。
    (中略)
    お便りをくださった方も、様々な苦しい体験を経ながら、それが真理追求の一歩になったと語っておられます。べてるでは、それを、”病むことの可能性”として大切にしてきました。この方は最後にこう語って居られます。
    「治ったかと言われれば治っていません。でも求め続けています。そんな気持ちでいる方と、もしかして会えるかなと思うと楽しいですね!」(同書 p.203)

    この治らないけれども求め続けていくという指摘は、まさに以下のピリピ人の手紙の中の記述との類似性が高いのではないか、とすぐに思った。

     

    【口語訳聖書】ピリピ人への手紙 
     3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
     3:13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
     3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

     

    信仰とは完成してしまい問題がなくなることではなく、問題を抱えながらも、神とともに生きることと理解するのがよいのではないか、と思っている。

     

    ここでは、「(病気が)治ったか」ということになっているが、それは、別の言い換えをするならば、「完全になったか、あるいは完全であるか」ということとの類似性が強いのではないか、と思ったのである。クリスチャンは、「完全になったか」と、神に問われたら、「完全ではありません。そして、正しい状態ではありません」ということを素朴に神の前に認めつつ、それでも、神に近づきたいです、あなたとそのこの地での介在を見せていただきたいです、ということを神に求めていく存在をパウロはいっているのだろうと思う。人はどうやっても神になれない存在であることを認めつつ、神の臨在を求めて、神の臨在、神がともにおられることをちらっと見せてもらうことを楽しみにしながら生きていく、上の、病むことの可能性ということをお書きになられた方の表現を援用させてもらうとすれば、「日々、もしかして、神と何処かで生き返る瞬間があると楽しいなぁ、と楽しみにしながら」悩みつつも、いきることが、人間として生きるということなのかもしれないと、この部分を読みながら思った。

     

    逆転の発想としての悩む弱さを内包する教会という存在
    悩みを解決しようとする教会は少なくない。実際に悩む人はおられるし、経済的に困難であれば、それから逃れたい、と思うのは、人情として当然であるし、誰しもそう思うのではないか、という気がする。差別されたり、社会の中で冷や飯を食っている人にとって見れば、それからの解放を期待する方も少なくないだろう。ミーちゃんはーちゃんだってそう思う。

     

    ところで、イエスを信じればたちどころにこれらの問題が解消するという理解を教会の中で、説教の一部として聴くことも少なくはない。本当に聖書が主張していることは、悩みも何もなく、神を求めることすらない世界を目指すことなんだろうか、と思いながら聞いているミーちゃんはーちゃんの存在に気がつくことが多い。

     

     

    ところで、悩みを自分たちのうちから追い出せば、当座その問題は解決したことになるのかもしれないが、問題としては、単に自分たちが見ないようにした(見えなくした)だけのことであり、実は問題となるような状態は案外課題として、そのまま残っているのではないだろうか。

     

    問題解決の方法についての分野では、ダチョウの問題解決と呼ぶ事がある。なぜなら、危機が迫るとダチョウは、下の図に示すように、砂の中に頭を突っ込むという習慣があるとされているからである。確かに、問題を見ないようにした、苦しみはないことになったかもしれないが、それとともに神との関係も失ってしまうのではないか、苦しみがないと主張することで、神の介在を垣間見る機会も失ってしまうのかもしれないと思う。つまり、天と地が交わる瞬間を敢えてみないようにしてしまっている、ということなのかもしれない。

     

    https://www.pinterest.jp/pin/446982331742219160/ から

     

    https://elangolomb.com/category/self-protection/following/ から

     

    ところで、教会について、向谷地さんは次のようにかいておられる。

     

    礼拝という場に恐れることなく自身の弱さをゆだねるときに、その弱さを通して、神様の言葉が私たちの心にしみこんできます。その意味で、教会とは、本来私たちが弱くかつ愚かになれる場所、まさしく「甘えられる場」なのです。(同書 p.103)
    いつも悩みが耐えない教会の現実を「悩む教会」として大切にし、この30年間教会形成をしてきました。(p.118)

     

    このような記述の背景には、これまでの教会が、悩みたくないのか、悩むとまずいからなのかは、ミーちゃんはーちゃんには良くはわからないが、悩まない教会形成、立派で誇れる教会形成、そのために本来のものを見ない教会形成、本来人間内在している弱さを敢えて隠すような教会形成をしてきたのかもしれない。なかでも、牧師には、悩みがあってはならないとする非現実的な架構に基づく教会形成をしてきたのかもしれない。

     

    フランクルが言うように、「生きる苦悩を苦悩することが人間らしい業績だとすれば、「悩む教会」であり続けることは、それこそが教会らしい業績なのかもしれない、とも読みながら思った。

    先日出張の関係で参加した東北地方の聖公会の朝の聖餐式で、その聖餐式を司式した韓国人の司祭が信徒に大学進学を巡る親子関係の悩みを信徒に素直に打ち明ておられるということを聖餐式の短い説教の中で明らかにしておられたた。その司祭の説教を聞きながら、そのような司祭と信徒とのともに行き、悩みを共に担い合う関係を、ちらっと垣間見ながら「いいなぁ」と思った。

     

    「浦川べてる」のような取り組みを

    普遍化して、どこでもできるのだろうか?
    この本を紹介したある種の読書会のようなところで、この本をご紹介したのだが主催者の方から、この「浦川べてる」での向谷地さんの取り組みのようなことがどこでもできるか、普遍化、一般化できるか、という問い合わせが後日きた。そのことに思いを巡らせているが、おそらく、「浦川べてる」のような取り組みは、普通の見捨てられてない町で、普通の人々、特に現在の勝利主義的な思想が支配している社会や多くの地域では、おそらくそのまま移植するようなかたちでは、できないだろう、と個人的には思っている。

     

    この「浦川べてる」のような取り組みができたのは、北海道の地であること、そして、社会から置いてきぼりを食らったような人たちだけが残された社会がまず存在したこと、そして、その人達を受け入れている箱物があったこと、そして、牧師がいない見捨てられた教会があったからこそできたのではないだろうか、と今のところは考えている。仕方がないから、他にどのようにしようもないからできてしまったのが、「浦川べてる」という悩みを共に負い合い生きるという共同体なのだとも思う。それを初めから意図して計画的に作ってしまったら、似て非なる物ができるのではないか、とも思う。そして、理想を先において、共同体の理念型に従っていくスタイルで似て非なるものは造らないほうがいいと思う。それこそ、近代が為してきたことは、思考実験の結果これが理想だと思うものを先に決めてしまい、そこに合わせてみんな同じように進んでいけば、どこでもうまくいくという形で進んできた様に思う。そして、ブームのような形で、全国に似たようなものが多数できて、そして挫折した残骸が転がっているのではないか、と思っている。

     

    今の地方創生もそんなところがある。何処かにあるモデルに従ってしたところで、それぞれの共同体や地域を構成する人やその地域のコンテキストが違うので、うまく行くはずがないのである。いくらかっこよく見える服と思って誂えても、自分の身体的な寸法に合わないものは、すぐ色々不具合が出るものなのである。そもそも、ある時点の身体的寸法に合わせた服も、時間の変化とともに自分の体が変わるから合わなくなってしまって不具合が出ることは、日常的に経験しているところではある。

     

    「浦川べてる」のあり方をそのまま全く同一のかたちでは実現できないというのはあるにせよ、悩みを負い合う教会、自分たちの教会をどのようにするのかについて悩みながら構築していくような教会のあり方を模索することはできるのではないか、とは思っている。それこそ、フランクルのことばではないが、悩むこと、考えることが人間らしい業績だとするのであれば、自分たちが考え、助け合いながら、自分たちの身体性とか、考え方とか、自分たちの置かれている社会的コンテキストとかといったものを見据えながら、変えていける部分は柔軟に作り変えられていく教会というあり方は一つの可能性としてはあるのではないか、と思っている。教会だって、その意味で、変えてはならないこと、例えばイエスが神であること、神が我々に対して関わろうとしていること、信仰すら神が与えたもうたことであることなど、といった基本的な部分に関してはしっかりと維持しながら、聖書の中に明白に支持されていない部分については、自分たちなりのあり方をみんなで悩みながら、神とともに考えられていくことはできるのではないか、と思っている。

     

    そして、自分たちの目の前の現実にダチョウの問題解決のように砂の中に頭を突っ込んで目を覆うのではなく、また、教会とはこのようなものだというお仕着せの服を着るように、例えば、正しい教会のあり方とかいう誰かが決めたテンプレートに従うだけの教会を目指すのであれば、何処かに不具合が出るように思う。どうせ一人ひとりの人間は神ではないので、弱く、不完全な存在であるが故に、どこかで不具合が教会には出るのではないか、と思うのだ。

     

    それよりはむしろ、目の前の現実を聖霊なる神とともに真摯に見つめ、そして自分たちそれぞれの弱さを認めつつ、ともにそれぞれの神から与えられた個性を構成している個々人の弱さを相互に認め、教会ってなんだろうとそれぞれの教会で考えられればよいのではないか、と思う。もうちょっこしいうと、その弱さがある個々の存在を尊重し、それぞれの人の姿を認め合い、弱さと不具合を、聖霊に導かれる中で、あるいは神の前でともに担いあいつつ、現状ではこのあたりなのかなぁ、と思えるような地に足の着いた自分たちオリジナルな教会を、神とともに歩んでいく中で、悩みながら作り出していこうとする教会が今以上に増えると素敵なのにと思っている。そして、実際にそういう教会が、日本のあちこちにもうあるような気がしている。もう少しいうと、神とともにこの地で神の計画に関与しようとする信者の方が、もうちょっこしでも増えたら、ほんとに素敵なことだなぁ、と思っている。現状では色々大変な部分があることは、十分知りつつ、どこかでそんなことを夢見ているミーちゃんはーちゃんがいたりする。

     

     

     

     

    この連載は今回で終了である。

     

     

     

     

     

     

     

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    コメント:たいへん考えさせられました。

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    コメント:ローマ帝国でキリスト教が生き残っていく経過を定量的におった研究読みにくくはないです

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    コメント:神の霊を受けつつ自分たちの教会を形成することに関することの意味を考えさせる本

    2017.11.13 Monday

    向谷地生良著 『精神障害と教会 教会が教会であるために』を読んでみた (1)

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      今日もかなり短めである。

       

      今日は、向谷地生良著『精神障害と教会 教会が教会であるために』を読んでみたので、少し書いてみたい。非常に印象的な本であった。

       

      本書を読んでの黙想から

      本書を読んで得た黙想は、我々人間が、何かを自分のものとして持っているということで陥りがちな陥穽ということであった。たとえば、「我々は(神から与えられたにせよ)聖さを持っている人間である」という理解によって発生する陥穽、「我々は[神によって完全にされる、あるいは強い]ということによって、完全さを持っている」といった理解に達した結果、ある種の陥穽に陥ってしまいがちのように思う。実際に、そういう理解の方が現実に少なくないある部分のキリスト教会では、類似の説教メッセージを聞くことがないわけではない。

       

      そのような一部の教会では、説教の中身として、「聖さ」や「真理」が並べられている。そして、それを教会から受け取るように推奨するかのような内容が説教として語られることが多い。これは実は他人事ではない。なぜならば、かつて、そのように個人としても騙ってきた部分があるからだ。個人的には、それは間違いだったと思っているし、反省している。さらに、そのような説教をお聞きになった被害者の方にはなんとお詫びしてよいやらと思っている。

       

      聖くも完全にもなれない人間として生きる中で

      そもそも、人間は、自力で聖くなりえないし、人間の中から完全さは生み出され得ない、と思っている。従って、少しでも聖く見えるように努力し、完全であるように見せるため、限界まで人間的な努力も最大限利用しながら、それを試みようとする。そして、消耗する。実に無為な営みを送ってきたものだ、と我が身を振り返ってみても、思う。


      最初に、「浦河べてるの家」のことを知ったとき、正直、見捨てられた地域における、見捨てられた人びとによる、見捨てられた人びとのコミュニティだと思った。今、この本を読んでみても、その印象は変わらない。実際本書では、このように書かれている。

      浦河教会の歩みを象徴するキーワードは、「過疎」「無牧師」「精神障害」です。(向谷地生良著『精神障害と教会 教会が教会であるために』 p.5)

       まさに、「人手がない、牧師が存在しない、ふつうの人がいないと言うある種の「三無主義」が支配している社会である。実はこの表現に見られる「ないこと」「ないことを認めること」が大事であるのではないか、ということが本書での向谷地さんのご主張の一つだと思う。

       

      見捨てられた人びとと見捨てられたイエス
      浦河という地域は、近代化した日本の都市社会からは見捨てられた地域であるといえる。常人には扱いが非常に難しい感覚や身体性を持地精神病と呼ばれるがゆえに社会から見捨てられた人びとによる、そのような課題を抱えたまま生きざるを得ない人びとのコミュニティが「浦河べてるの家」なのであろう。イエスがこの地に生きた弟子たち[キリスト教バージョン0.0]時代の弟子のたちうち、少なくない部分の人びとも、もともとは、そのような生きにくさを抱えた人びと、あるいは普通の人々とともに生きにくい過去や履歴を抱えた人びとであった。

       

      http://orthochristian.com/80438.html から

       


      イエスが生きたその周りの空気、そこで聞こえた風は、まさにゴルゴダの丘でのイエスが示した空気、あるいは、風であり、イエスの息吹であり、イエスの声、「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ」であった様に思う。とはいえ、そのゴルゴダの丘で成し遂げられたことに対して神から流れたイエスに向かう風、声、息吹は「あなたはわたしの愛する子」(マル 15:34)であり、見捨てられた存在となられたからこそ、「私の心にかなうもの」となり、そして、神からの受容があり、神との関係の回復がなされた、ということだったのだろう。見捨てられたものであるイエスが、神との関係を回復し得たからこそ、この神との関係の回復にも我々がかけられるという希望をお与えになったのだと思う。

       

       

      無菌室、無機質的な教会に変わってしまったのかも
      キリスト教会は、宗教改革を経て、近代社会の形成に大きく影響し、そして、同時に近代社会から影響も受け、本来宗教改革で目指したはずの[キリスト教0.0]から、いつの間にか大きく逸脱してしまったのかもしれない。いつの間にか、キリスト教信者とは、欠損部のない、完璧で、聖い存在であるという検証されない仮構に支配されてしまったのではないか、と思う。


      こずるく、こ汚く、社会から捨てられたようなザアカイや、イエスの周りには、何度排除しても近寄ってくる悪霊に憑かれていた人びとという我々の先人、いや、むしろ聖なる先輩方とも呼ぶべき人達、ないし、ある意味で、聖なる人びとを、我々の現代的な常識に合わない、ということで我々は教会から追い出してきてしまったのかもしれない。『聖性』に関する誤解のゆえに。その誤解の結果、いつの間にか無菌室のような無機質的な教会を作り、本来弱さや生きにくさを持つ人々のための場所であった教会を、この500年、とりわけこの200年の間という近代的な科学思想と衛生概念に社会が支配されてしまった時代の中で、何処かに置き去りしにしてきてしまったのかもしれない。この500年や、とりわけこの200年という時代は比較的キリスト教の歴史から見れば、割と短い時間の中であったように思うが、その近代社会と近代社会を支配した衛生概念が支配する中で、そのような教会を人間は作りあげてしまったのかもしれない。そして、本来教会を居場所としていた人びとの居場所を社会の別の組織のなかにつくりだし、そこに意図的か、意図的でないかは別として、置き忘れてきてしまったのかもしれない。

       

       

      弱さ故に神の憐れみを求める教会で
      伝統教派の雰囲気も残すAnglican Communionでの聖餐式に毎週参加し式文を、集まった会衆の皆さんとともに唱えるというか、声を出して告白する生活をおくる中で気がついたことがある。そこでは、聖餐式の冒頭に自分たち(私の弱さではなく)、自分たちという弱さを抱えるものの共同体であることを告白し、自分たちの弱さを神と会衆の前に情報公開する、という側面である。強くなった存在ではなく、自分たちが自ら弱いことを認める共同体であることを毎度毎度確認するのである。単なる儀式とは言い切れないし、単なる儀式として捨てされない何かがそこにはあるように思う。

      Almighty God, our heavenly Father,
      we have sinned against you
      and against our neighbor
      in thought and word and deed,
      through negligence, through weakness,
      through our own deliberate fault.
      We are truly sorry
      and repent of all our sins.
      For the sake of your Son Jesus Christ,
      who died for us,
      forgive us all that is past
      and grant that we may serve you in newness of life
      to the glory of your name.
      Amen.


      このような告白はいくつか行ったプロテスタント系の教会の中では口にすることはなかったし、いわゆる日本基督教団系の教会でもしたことがなかった。この式文を最初に口にしたときにはある面衝撃が走った。この教会では、誰もがお互いに弱さを認めることが儀式の中でなされている、ということについての素直で素朴な驚きであった。

       

      自分たちが弱い存在であるからこそ、神のあわれみと、哀れみに基づく自分たちの日々の生への介在を求め、神に頼って生きていく、神の主権のもとで生きていくということが実に見事に表されていたからである。思いにおいて、ことばにおいて、行いにおいても(キリスト者であっても)罪を犯していることをともに認め、心の配慮のいたらなさと、自分自身の弱さと、どうしようもない自身の欠落によって、罪を犯す存在であることを認めていくのである。

       

      このような式文を読むとき、自分自身の姿についての反省を毎週のようにさせられている。そして、結局反省するが故に、わが人生に神に介入を求めることしきりである。まぁ、年齢的な部分もあるのかもしれない。ちょうど、不品行の現場で捕らえられた女性に石を投げるのを諦めたのが、老人からであったように。

       

       

       

      次回へと続く

       

       

       

       

       

       

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      コメント:非常に考えさせられる内容を持った本

      2017.11.11 Saturday

      『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (7)

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        今日は短め。

         

        『福音の地下水脈』という新連載の中での中村うさぎさんのインタビュー記事の前編からご紹介してみたい。インタビュー記事自体は、なるほどこういう経緯で中村さんってお過ごしになっててきたんだねぇ、と思うような記事で、面白いんだけれども、ある一文が一番気になったので、そこだけ、紹介したい。他にも、この2017年11月号には面白い記事は多数あったのだが、それらはご自身でお買い上げいただいて、お読みいただければと思う。

         

        人を縛ろうとする神々(諸力)

        さて、今回気になったのは次のインタビューの回答としての、中村さんのご家庭の中にあったという複数の人を縛る諸力(中村さんは、神と呼んでおられるが)の存在である。

        父は、世間よりも自分のルール優先なタイプで、正直じゃないといけないっていう気持ちが強い人でした。世間がどう思おうが、「俺が正しいと思ったこと」をいう。洗礼は受けてないけど、家に聖書をおいてて読むようなタイプで。思ってもないことを言わないっている自分のルールを、彼はキリスト教に結びつけていた。「神の前で正直であらねばならない」みたいな。

        (中略)

        父にとっての神はキリスト教の神なんだけど、母の神は世間なの。世間がジャッジするんです。世間の目から見て恥ずかしい、恥ずかしくないといったかたちで。だから、私にとってはダブルスタンダード。幼少期に善悪とかそんなものを親が子供に言うわけだけど、正義を基盤とした父の善悪と、恥を基盤とした母の善悪では、全く定義が違うから。(福音と世界2017年11月号 pp.44−45)

         

        ここで、中村さんのお父様が、信仰告白はしないけれども、聖書を読むタイプ、という文章を読んだときに、ある面、非常に日本的だなぁ、と思ったのである。聖書を西洋哲学か、西洋思想・西洋文化の基盤としては、知りたいと思うけれども、聖四文字で表される神とともに生きることはしない、そして、かなり自己流の理解を聖書のテキストに読み込もうとする、というある時代に生きた日本人男性にかなり典型的に見られたキリスト教との関係のとりかたの姿であり、いまでも、結構このタイプの『何となく、キリスト教に対する思いはあるし、ある程度のことを知ってはおられるけれども、神と共に生きるとなると、二の足を踏んでしまい、しかし、聞きかじったことや、自分の意見と合う部分だけ聖書から読み込んで、一人合点してしまっておられる」というタイプの方は、案外多いような気がする。おそらく、ある時代にキリスト教とであって生きてこられたの方々には案外多いような印象を持っている。そして、大抵の場合、「お話しておられることと聖書の全体の首長とは必ずしも一致しないと思いますが」と申し上げると、その段階で話が終わってしまうことが多いので、案外ご対応するときに細心の注意が必要なことが多いようにも思うのだ。中村さんのお父様のようにキリスト教界の外側だけではなく、キリスト教関係者の中にもおられるようにも思う。まぁ、年齢が若くても、このタイプの自分の思うキリスト教の理解のみをご主張の方は確かにおられるけれども。

         

        日本の現代社会とキリスト教会の中にある

        恥や常識という人を生きづらくさせる神々

        さて、この一文を読みながら思ったこととして、中村さんが取り上げている問題は、中村うさぎさんのご家庭だけの問題ではなく、日本のキリスト教にかかわる問題でもあるのではないか、と思った。それは、自分自身が神と信じる神と、世間自体が価値をおいている世間という神との対立の問題である。

         

        世間という神、世論という神、みんなが言っているという神、もう少し言うと、空気という神のような神ならぬものが現代の日本にも確実に存在し、それが人々を縛っているように思う。

         

        ときに、世論という神、みんなが言っている神、世間という神は、人々を様々な形で縛る。ある場合、常識であると主張されるかたちかもしれないし、世論というかたちでかも知れない。そのようなかたちで、人間を縛っている部分はあるように思うのだ。ここで、中村さんが言うように、ちょうど、人々を本来の神のかたちにするのではなく、小さなコミュニティ、あるいは、小さな世界における世間の望むかたちに個人や人々に強いていくような部分があるようにも思うのである。そして、多くの人がそれに巻き込まれているが故に、人々に世間という神の如きもので、神ではないものが望むことに従うようにさせる。大抵の場合は、それは神々でもなく、世間でもなく、ある声の大きな人の思いということが大きいようには思うのだが。関わるとろくでもないことになるから(だから疫病神のような存在なので、神なのかもしれないが)、とりあえず問題に向き合うのではなく、具体的にこのような世間とか、常識とぶつかって問題化したり、具体的にこの世間とぶつかることで生じやすくなる問題を避けるという方向でかなりの人々は動くようになる。実に、日本的な日本の神々への対応と同じである。

         

        災厄をもたらす日本の神々

        以前にも、このブログ記事でかいたが、日本における古代神には、結構祟り神が多い。人に祟るから、それを崇敬して遠ざけて、それが人間に悪しきことを起こさないように、供物を供えるのが、割と古い時代の日本における神々への対応であったように思う。数多くの親和にそれを見出すことができる。多くの場合、災いを起こさぬようにというと、消極的なので、災いではなく福を願う行為に現在を読み替えられているものの、おそらくは、厄除けなどという言葉にも残っているように、その神から発せられる災厄を除くための神々扱いになっているのではないか、とも思う。日本の神は、災厄からの開放という福音を告げる神ではなく、神の存在そのものが災厄の原因であることが多いように思う。そのような意味で中村さんは、お父様の正義の神とお母様の恥の神と言う表現をしているのだろう。その神という発言の背後には、災厄をもたらしかねないものとして、お二人の主張やお二人がおっしゃったことで生まれることが表現されているように思う。

         

        根津神社の厄除けのチマキ

        http://michiruhibi.com/2014/04/23/old0324/ から

        根津神社という名前から、低湿地等でもともと水害の常習地域(作物の根に水がついて農産物が被害を受ける地域)の神社であることが想像される

         

        住吉大社の厄除けのお守り

        https://www.yakuyoke-yakubarai-jinja.com/yakuyoke-omamori/kansai/27-osaka/001-sumiyoshitaisha.html から

         

        しかし、日本の教会には、日本の教会と教会の信徒を縛る教会(教界)という世間とか、その教会固有のテンプレートなのか、教会の恥とか、キリスト教会の恥とか言う名前の神ならぬ存在があるようにも思う。本来、神のかたちへの回復がなされるはずの教会でも、「このように生きよ」、「あのように生きよ」さもなければキリスト者にあらず(つまりそれは恥である)というような常識というのか、キリスト者の行動パターンに関する常識というのか、テンプレートが強固にあるようにも思う。そして、そのかたちの中でしか生きさせない諸力のようなものが存在している部分があるように思えてならない。もともと、変な人を変な人(他者と違う人が他の人々とは違っている存在)のままにしておくことを認めないような何かがあるように思えてならない。

         

        どうもこの辺が、日本の牧師子弟や、キリスト教2世の生き方を縛っている諸力となりやすいのではないか、とも思う。生き方を縛られるような、そんな災厄に縛られるのが嫌だと(それは誰しも、若い間は特にそう思う様に思うのだが)、多くの若い皆さんたちは思うのかもしれない。誰が、好き好んで、他者からの束縛を、特に若い時期に望むだろうか。他者からの束縛を受けるような場に残れる人々は極めて特殊な人々からなる集団ではないか、とも思う。他者から何らかのかたちで縛られることに疲れきった若者がどんどんと逃げ出していっているのが、現状の日本のキリスト教会の何処かにあるのではないか、とも思う。

         

        多様な人々が一つの神を一つの様式で

        礼拝する教会という場で思うこと

        そういう常識とかいったことの縛りの殆どない教会に現在は参加していて、いま、かたちとしては、式文の様式と儀式の様式だけには縛られながらも、どこか自由を味わっているミーちゃんはーちゃんがいる。そして、見た目も、日常会話に用いる言語も違うもの同士が集まり、同じパンを食べ、同じ杯のぶどう酒につけ(あるいは、ぶどう酒を飲む)、実に多様な人たちが存在する中で(その意味である地域固有の文化や常識というものが、共有事項として共有されない状況の中で)、異なる神ではなく、共に共有する唯一の神を共通の礼拝様式で礼拝するという行為をなす中で、この人々がこの場で織りなす多様性ということはなんだろう、ともともとかなり変な人であるミーちゃんはーちゃんは時折考えている。文化や常識といったものからの束縛からも開放され、他者からの束縛が殆ど無い中で、あえてその中で、神を礼拝する意味とはなんだろうか、と考えつつ、近頃は聖餐式に参加している。

         

         

        以上で、この2017年11月号についての記載は終了としたい。

         

         

         

         

        2017.11.08 Wednesday

        『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (6)

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          今日も、『福音と世界』2017年11月号を読んで思ったことを考えてみたい。今日は、手島勲矢論文「トランプ時代のアメリカ・ユダヤ人の分断・苦悩」似ていて、引き続き触れてみたい。

           

          バーニー・サンダースに見るユダヤ的思想の背景

          バーニー・サンダースという一風変わった主張をし続けてきた人物について、手島勲矢さんは、その主張の背景に次のように語る。

           

          筆者は、バーニーのことは2015年冬まで注目していなかったが、彼のテキサス・オースティン集会の動画をネットで見たとき、この人はいわゆる職業政治家でもなければ、左翼のイデオローグ(扇動家)でもない。ただのベン・アダム(人の子)または「メンチ」(人)として「タナッハ」(ヘブライ語聖書)の「ツェデック」(正義)を追求しているだけなのだ、とその言葉と空気から感じて、彼の選挙戦を日本から見守ろうと思った。バーニーにとって大事なことは、人間の生活におけるベーシックなニーズ(水の安全、健康や教育の平等、家族や共同体の安心など)に応えることであり、労働者に起きる不公平こそはベンアダムへの冒涜なのである。(同誌 p.26)

          手島勲矢先生によるバーニー・サンダースの主張を要約すると、本来人間が神から与えられたまっとうな生き方ができるようにすることであると理解されているようである。個人的には、バーニー・サンダースの政治的主張をイシュー(政策論点)ベースでみてきたので、そのような視点から再構築してみたことがなかった(そもそも、彼がユダヤ系であることは2016年の選挙戦期間中という、つい最近の時期に知ったのだが)が、言われてみれば、なるほど、彼の環境保護政策や労働政策、そして教育政策には、ヘブライ聖書のテキストの影響があると言われれば、いくつか符合する側面がある。社会の外側から考えてみるという予言者的な側面や、この地を管理するものとしておかれた人間(アダム)の子(ベン)としての役割をきちんと果たそうということだと言われれば、そのようにも理解できることは確かなように思う。

           

          バーニー・サンダースのテキサス州オースティン(この辺は勝ちの共和党支持者が割と多い地域)でのラリー(政治集会での演説)

          6分42秒あたりからバーニー・サンダースの演説となる

           

           

          実は、このバーニー・サンダースという人物、若者にかなり人気があったのだ。キリスト新聞から頼まれて、去年の11月にアメリカ大統領選の結果が出たときに、アメリカ人の若者の反応を聞いたことがある。あちこち探すのが大変なので、教会に来ていた20代のアメリカ人のボランティアスタッフに聞いてみたところ、彼によれば、若者のバーニー・サンダース支持はかなり明白であったらしい。バーニー・サンダースが予備選から降りて、民主党の大統領候補の座をヒラリーたんに譲ったとき、若者に失望が広がり、どうでもよくなったという。なぜかと聞いてみると、大学に通うための学生ローンがかなりアメリカ社会の若者の中で負担感が大きく、特に雇用が不安定で雇用の安定性の見込みがない中で、かなり若者にとっての課題であったらしい。その中で、バーニー・サンダースの大学無償化、というのは大きかったという。その希望がついえた瞬間に若者は、大統領選に対する関心を失ったと、ジェイムズ君はいう。

           

          この問題、日本でも他人事ではない。高校から日本育英会の奨学金をもらっていると、大学を出るときに数百万円を抱えている学生は時々いる。たまたま、好景気で新卒労働市場が学生の売り手市場の場合、問題は顕在化しないが、数年前までの景気が悪い状況の時で、就職できてもろくにスキルのない中、派遣社員とか不安定な職種にしかつけないとすれば、奨学金の借金を原因とした就職直後数年での自己破産という事態もある程度の数起きたようだ。アメリカでは、大学の授業料は異様に高い。名門大学だと、年数百万円というような大学がざらであり、州立大学系でも、200万円は最低かかる。こうなると、日本の比ではなく借金地獄に陥る若者は多かったのであろう。それを見ているから、自ら経験しているからこそ、若者が数十ドル(数千円程度)の選挙資金をバーニー・サンダースが大統領選挙に出る際に、拠出し、それが一種の社会的ムーブメントになったのである。なお、このバーニー・サンダースの選挙戦の際の資金集めのムーブメントの話も、本論文では触れられているので、その部分はぜひお買い上げいただいて、お読みいただきたい。

           

          ヨベルの年の理解に基づく政策としての大学無料化

          ところで、旧約聖書のなかにヨベルの年の記述がある。50年に一度、奴隷は解放され、借金が棒引きになる1年のことである。古代イスラエルでこのヨベルの年に約束された、奴隷の解放と借金が棒引きになるというこの制度が実現したかどうかというのは議論がいろいろあるようであるが。それは別として、借金は貸主に対する隷属への道である。それに一定の制約をかけていたのが、このヨベルの年の制度だったかもしれない。ちょうどそれと同じように、もし、ベン・アダムである若者を学生ローンで縛ってしまう元凶の一つが大学の授業料であるとするならば、それを取り除くことは、神のツェデク(義)の実現ではないか、という発想でこの政策を掲げたのは、実に旧約聖書的発想に基づくものであったのかもしれない。上のばーに・サンダースに関する論文の起債を読みながら、ヨベルプロジェクトの以下の動画の内容を思い出していた。

           

          ヨベルプロジェクト(途上国を先進国に対する借金から発生する霊獣の道から解放しようとするプロジェクト)

           

          バーニー・サンダースが単なるリベラリストではないわけ

          バーニー・サンダースは、選挙戦中、C.N.N.のアンダーソン・クーパーとの対話の中で、自らDemocratic Socialistであるといっている。実際の動画かこれである。

           

          自ら、Democratic Socialistであると語るバーニー・サンダース

           

           

          アメリカ社会は、いつまでやるのか、という気分を個人的に持っているが、いまだにマッカーシズム(いわゆる赤狩り)の雰囲気がある。その赤狩りを背景にした映画にMajesticという映画館をめぐるある種のラブコメディがあるが、その中で、非常に印象的なシーンが以下の社会主義者呼ばわりされた人物に扮しているJim Carryの演説である。

           

          マッカーシズムを背景とした映画 マジェスティックで憲法修正第1条を読み、語るJim Carry

           

          いまだにこのマッカーシズムという狂気の時代に一歩間違うと入り込みそうな部分が米国社会にはある。それは、ちょうど、冷戦時代の始まりに、米国がソビエトと中華人民共和国やキューバと対抗しなければならず、そのために、朝鮮半島で、ドイツで、そして、ヴィエトナムで彼らはまさに血を流しながら国際政治を行ったのである。その真剣さが、ある意味マッカーシズムを生む背景にはあったように思うが、それと同時に、その理想形に参加していったThe Best and the Brightestたちもいたのである。そうであるがゆえに、Vetとかウォー・ベテランと呼ばれる退役軍人に対する彼らの思いは熱いのである。

           

          今月は各地で、上記のような退役軍人パレードが行われる月ではある。

           

          意外だと思うが、バーニーの米国に対する愛国心は強い。彼は国を守るための「正しい戦争」(たとえば、ISに対する戦争)をひていしない。その彼の感覚は、まさに20世紀の世界大戦に根差しているアメリカ的なアメリカなのであり、そのアメリカは、フランクリン・ルーズベルトの「四つの自由」を信じて試練の時間を超えたファイター(戦士)たちが作り上げたアメリカの理想である。

          (中略)

          その第一は「言論と表現の自由(Freedom of speech and expression)」。その第二は「それぞれの仕方で神を礼拝する万人の自由(Freedom of every person to warship God in his own way」。第3は「(経済的な貧困)欠如からの自由(Freedom fron want)」。そして最後は「侵略の恐怖からの自由(Freedom from fear)」となる。これらの自由は旧世界から逃げて繰るユダヤ人にとっては、望んでも決してあたら得れることのない夢のような理想であったからこそ、この国のために戦うことをユダヤ人が誇りとしたのも無理はない。(同誌 pp.26−27)

           

          実際に、彼らの仲間のユダヤ系の人々とって実際にある種の捕囚でもあったナチの強制収容所からユダヤ人を開放をしたという側面が、第2次世界大戦にはあり、その時にアメリカで掲げられていたのは、上の記述で引用されている4つの自由であった。また、ヨーロッパの大陸側がナチスドイツの黒い影でおおわれる中、彼らが逃げえたのは、スペインやイギリスを経由したアメリカ合衆国しかなかったのである。一部、ロシア周りで中国や日本に脱出した人々もいたのだが。このあたりの背景を含むクリムトの名画をまつる面白い映画として、『黄金のアデーレ』という映画を上げることができよう。

           

          映画『黄金のアデーレ』の予告編

           

          ところで、アメリカでは、いまだに戦争する際には、必ずといってよいほど、この4つの自由の大義が語られるが、その背景には、この第2次世界大戦の記憶がいまだに鮮明にあるからであることと、後に触れるアメリカの精神性の中にPledgeと呼ばれる文言の中にある、Liberty and Justiceということ表現の強い影響を受けているような気がする。その意味で、アメリカ人の価値概念に関してこの自由FreedomやLibertyは、大きく影響している様に思う。実際に直近の戦争であるイラク戦争の際の作戦名というのか、戦争名は、Operation Iraqi Freedom であった。

           

          アメリカ国民の一致とその根源

          このブログでもしょっちゅう書いているが、アメリカという国は、ペニーと呼ばれる1セント高架から、100ドル紙幣に至るまで、In God We Trustと書かないと気が済まない国である。さらに、裁判所の壁には、そう大書してある。ムスリムやユダヤ教徒(ウルトラ正統派のみなさんは、かなりその表現に冷ややかな視線を向けているようだが、それでも、彼らの国民の統合の象徴は、このIn God We trustであり、Pledgeなのである。そして、小学生は、基本、Pledgeという表現とアメリカ国旗に向かって忠誠を誓うことを叩き込まれるのである。

          アメリカで現地の小学校に行った人なら言えるはずのPledge 

           

          アメリカという多様性の国の一致を支える宗教や信仰や思想とはいったいなんであるのか?これを問うことは、アメリカ研究の基本であるが、筆者は、それは、ある意味で、旧大陸でおきた一神教的な宗教思想の浄化運動へのリアクションとしての自由と平等の希求ではないか、と考えている。つまり15世紀末のイベリア半島からのユダヤ人・イスラム教徒の追放、そして信仰の純化を求めての宗教改革・新教と旧教の争いの記憶と、新大陸の宗教と政治は無関係ではないと思える。(同誌 p.28)

           

          この手島勲矢論文では、アメリカの一体化を図る思想は、自由と平等の希求であると指摘しておられるが、もう少しいうと、Pledgeの最後でいう、Libety and Justice for allだと思うのだ。平等といっても、なんでもいいから平等というような社会主義的な平等ではなく、すべての人において義(Justiceないしツェデク)が行われることであるということをもう少し考えたほうがいいかもしれない。このあたりの義にまつわる感覚のずれが日本のキリスト教の世界の中での義認論(Justification)の議論を少し妙なものにしているようにも思うのである。Justiceは人間に対してなされるものであって、人間がそれになるものでない、という理解はもう少しきちんとしたほうがいいような気がする。

           

          そして、このLiberty and Justiceが戦争をする際に、たびたび語られ、そして、そのために兵士となった人々は戦場に赴く。現在のアメリカでは、ドラフト制度と呼ばれる徴兵制に依拠していないとはいえ、市民権授与(従軍すると市民権が得られるというメリットが存在する)や大学の進学資金を目指したある種の制度的、経済的徴兵制度が存在するという批判はあるのだが。

           

          アーリントン墓地に葬られた多様な宗教的背景を持つ兵士たちの墓

          http://lajotadejaime.blogspot.jp/2013/05/flags-in.htmlから

           

          それはさておき、同論文では、「つまり15世紀末のイベリア半島からのユダヤ人・イスラム教徒の追放、そして信仰の純化を求めての宗教改革・新教と旧教の争いの記憶と、新大陸の宗教と政治は無関係ではないと思える」とお書きであるが、この背景には、プロテスタントが生まれたその背景として、15世紀のイベリア半島でのレコンキスタにより始まったヨーロッパでのユダヤ人の流浪とその流浪に伴って生じたヘブライ語聖書テキストへのアクセシビリティの向上があったこと、キリスト教による純化主義があったことを改めてご指摘である。このあたりに関しては、この連載の第1回の記事『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (1) で紹介した早尾論文を参照されたい。ここでは、ヨーロッパで血で血を洗うような宗教の名を語った、領土戦争や経済戦争や政治闘争の影響をこの手島論文で指摘になっておられるが、そもそも、アメリカ合衆国の初期の植民地化にあたっては、武力闘争によって行き場を失ったイギリス人がプリマス植民地を建設したことに端を発するというのがアメリカの建国神話なのである。その辺は以下のBowling for Columbineという銃社会アメリカの問題を扱った映画でもパロディ化しながら、描いている。

           

          ボウリングフォーコロンバインにおけるアメリカ建国神話とアメリカ社会への揶揄するアニメーション

           

          アメリカの政治と宗教との不可分な関係

          市民宗教国家としてのアメリカが実際にはあるわけだが、個人が信仰の自由をかくほし、そして、言論の自由の共通ベースとなっているその市民宗教とは何であるのか、について手島論文では次のように書く。

           

          それ故に、建国以来、アメリカ人は政府と(特定の)教会の癒着に対する警戒が強く、政教分離(正確には教会と国家の分離)については、すぐに合衆国憲法の基本原理として確認する修正文書が出るほどである。特定の教会の支配を拒否するだけに、なおさら、「いったい、何がアメリカ合衆国の一致を支えている宗教精神なのか」という問いは重要な政治的な問いになる。ここで筆者は、アメリカ・ユダヤ人の学者たちが今盛んに問題にしている「ユダヤ・キリスト教的(Judio Christian)」という言葉の重要性に注意を喚起したい。この言葉は、ユダヤ教徒とキリスト教徒を一塊にする文化・文明の名称だが、その中身がトランプ政権の登場でいま問われているのだと思う。(同誌 p.28)

          アメリカは、先にも述べたように、小学校でのプレッジから裁判所の壁に至るまで、Godと言わなければ一日すら始まらない国の中で、では市民国家とはいったいどのようなものなのか、という問いは、かなり重要な問題であると思う。ところが、それが、アメリカに住んでいる人にも、この神は、ユダヤ的な聖四文字なのか、あるいは、ユダヤ教からスピンアウトして別物になってしまったキリスト教における、キリストなのか、あるいは、聖三一者であるのか、あるいは、ムスリムたちのアラーなのかは実はあまり判然としないし、それぞれがそれぞれの宗教背景に合わせて、それぞれが忠誠をつくし、信頼している神であるという点において、ある種の市民宗教ではある。

           

          今回の手島論文の中でのJudio Christianという言葉を見る中で、ワシントン州でお世話になった大学教員とその奥様との間で熱い議論がかわされたことを思い出した。お二人ともヨーロッパに出自を持つユダヤ系アメリカ人であったが、そのお二人の間で何気ない会話の中ではあったが、かなり熱い議論が、今から15年ほど前に交わされていたことを思い出した。奥様のほうは、ワシントン州の公衆衛生関係の公務員の方であったが、普通の公立学校教育を中心とした子供たちの教育の場合、建前として、Judio Christian という語がつかわれるものの、学校のイベントをとってみても、アメリカの公立学校文化はあまりにもChristian側によりすぎており、Judioの側面への尊重がないということで、そのあたりのことを議論しておいでであった。この議論は、アメリカ・ユダヤ人学者たちの学問的な問題だけではなく、実は市井のユダヤ人の皆さんにとっても、どうも気になる問題であり続けていることは、時々感じる。アメリカに住むユダヤ人にとって、公立小学校がそうなら、ムスリムの皆さんにとっては、もっと劣悪な環境に見えるに違いがないようにも思う。

           

          手島論文についての記事は以上で終わりである。あともう一回、中村うさぎさんのインタビューについて、記事を書いて、この号についての連載を終わる。

           

           

           

           

           

           

           

          2017.11.05 Sunday

          『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (5)

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            今回も、『福音と世界』2017年11月号からのご紹介である。同号における手島勲矢論文「トランプ時代のアメリカ・ユダヤ人の分断・苦悩」という論文からご紹介してみたい。今回は昨年の大統領選挙戦で明らかになったアメリカにおけるユダヤ社会の実情についての考察の論文である。

             

            アメリカにおけるユダヤ人の分断を顕在化させた大統領選挙

            アメリカにおけるユダヤ人の存在というのは、旅行で行くくらいではあまり感じないかもしれないが、生活を始めてみると、案外あちこちでそこはかとなく感じられることは確かである。それなりに、非ユダヤ人たちもある程度気を使って市民生活が送られていることは確かであるが、アフリカンアメリカン(肌の色の濃いアメリカ人の皆さん)の場合やアジア系などの言語が普通のアメリカ英語でない人は、誰にでもわかりやすい記号になりうるが、はた目から見て、ユダヤ系と一目でわかるウルトラ保守派の皆さんを除くと、ユダヤ系ということをあまり知らないまま過ごせることが多いので、目に見えた差別があることを感じないことが多いかもしれない。

             

            しかし、大統領選で、トランプが、アメリカファーストといい募り、移民は出ていけ(下の画像でのネイティブアメリカンのご主張のように、ご自身も移民の背景をお持ちのはずだから、率先してアメリカから出ていく必要がある気がするのだが)という表現が、またか、という印象をユダヤ系市民に想起させた可能性は高い。

             

            http://www.donald-trump.site/donald-trump-inmigrants-go-back-home-meme/

             

             

            しかし一つだけ気になることは、トランプ大統領の誕生とともに一層顕在化してきたアメリカ・ユダヤ人の中の分断・苦悩のことである。(2017年11月 『福音と世界』 p.24)

             

            アメリカでは、だれに投票するのか、ということが大統領選挙の前年くらいから、カジュアルな場でも話題になる。実際、テレビでは、CMが流れるし、相手候補を問題視するCM(ネガティブ・キャンペインの方法の一つ)なんかも流される。一人しか大統領候補がいないので、大統領の選挙戦は8月くらいから11月にかけてはお祭り騒ぎの様相を呈し、ニュース番組はもちろん、ソープオペラを除けば、主婦向けの番組なんかでもこの話題が取り上げられ、候補者が主婦向けの番組などにも頻繁に顔を見せることになる。

             

            2016年は、かなり例外的な大統領選挙の年で、共和党、民主党の代表候補を選ぶ、予備選挙と呼ばれる段階で出てきた大統領候補がそれぞれどこかに難を抱えていたのである。例えば、有力候補のなかでは、ヒラリーたんが女性で初の大統領候補という意味でチャレンジングであったし、バーニー・サンダースがユダヤ人で初の代表候補であったし、マルコ・ルビオがヒスパニック系で初であったり、ドナルド・トランプには性差別的な発言と暴言が付きまとうという状態であった。その中で、絶対にこれだ、というような超有力候補が、存在しないまま、個人的にはあれよあれよという間に、トランプが大統領候補になってしまったという感じがある。以下のシンプソンズの動画はその辺のアメリカ市民としての悩みを、マージ・シンプソン(あの番組の中の登場人物として、かなりまともな人物として描かれている人物)に仮託して次のように描いている。

             

            The Simpsonsの2016年の大統領選挙での主要候補者を揶揄するシーン

             

             

            そしてこの論考で取り上げられるバーニーサンダースという存在は、毎度、共和・民主の両既成2大政党以外からの上院議員として、環境保護政策、弱者保護政策を掲げる一風変わった候補であった。そして、上院で既成政党にチャレンジする姿は実に印象的な人物と認識してた。その意味で2010年ごろから、個人的にはちょっと気になる人物であった。そして、2016年には、日既存政党ではなく、民主党の大統領候補として挙がってきたのでちょっとびっくりした。

             

            ユダヤ人とアメリカという国家との関係

            先にも触れたが、いまだにある特殊な名前を持つアメリカ市民に対する迫害というか差別があることは確かだし、特に世界最大のユダヤ人コミュニティが存在しているNYでは、分かりやすいユダヤ名を持つ人々に対する差別や暴力行為、器物損壊、時に殺害事件まで起きることがある。ただ、人種的な差別や暴力はHate Crimeということで、かなりの重罪扱いになることがある。差別的な発言をするほうは、憲法修正第1条(この論文でも、後に出てくるが)を盾に取るのだが、基本的にそれが暴力行為で、裁判ではかなり不利になるらしい。

             

            この既成政党のシナリオを否定した、異常な予備選挙によって、潜在的なユダヤ人社会の中にある分断が、より先鋭化したといっていい。その分断の原因であるユダヤアイデンティティの二重性にについて、サミュエル・ハンチントンは『文明の衝突』の割注でさらっと触れているが、アメリカと自分を同一視するユダヤ人を理解するうえで、バーニーの事例はとても興味深い。(同誌 p.24)

            ところで、アメリカの中で連邦政府(とその代表者であるアメリカ合衆国大統領)をめぐるユダヤ人の間の対立が触れられているが、それは、アメリカの国家に対するユダヤ人の態度ということであるらしい。

             

            福音と世界の本文中に脚注がついていたので見ると、ハンチントンの『文明の衝突』の中での割注の内容とは、ディアスポラのユダヤ人のなかには、「自分が住んでいる国の文化と自分を同一視するユダヤ人」(ちょうど赤尾論文で触れられている「(公的空間では)善きドイツ人であろうとし、(私的空間でのみ)善きユダヤ人であろうとしたようなドイツの改革派系ユダヤ人のような対応をとる人々)と、どちらかというと、イスラエル国の文化と自分のアイデンティティを同一視しようとする傾向の強いユダヤ人とに二極に分化しているというハンティントンの指摘ということのようだ。

             

             アメリカでは、国土が広いために、最小単位のコミュニティの論理が最優先される。人間がコミュニティを形成しているところに、外部の政府(市の政府にせよ、州政府にせよ、連邦政府にせよ)が介入することをものすごく嫌う側面がある。特に、警察関係でこの問題が起きるようだ。市の警察がしている仕事に、FBIなどが介入する案件(ギャングがまつわるような殺人事件など)では、FBI関係者が入ってくると、すぐにFedsと言ったり、環境関係の案件にEPAと呼ばれる環境関係の連邦政府の役所が入ってきても、Fedsといって嫌がる傾向が非常に強い。

             

            アメリカの行政体制とコミュニティの関係

            最小単位のコミュニティの論理が最優先され、法的には、個人に一番近いコミュニティの論理が最優先される。その結果、宗教コミュニティ(原理主義的なキリスト教系団体で孤立的なコミュニティであったブランチダビディアンに、ATFというアルコールとたばこ(薬物)と銃などの火器を取り締まるような連邦法執行組織もFBIも及び腰な対応しかしなかった。その意味で、アメリカにはエスニシティ(民族性)に基づく様々でかなり独立性の強いコミュニティが存在するとはいえるように思う。例えば、リトル・イタリィーやチャイナタウンとか、リトルトウキョーとかが、アメリカの刑事ものの映画で、特殊な描かれ方をするのは、そのあたりの背景があるのである。

             

            そして、ニューヨークには、ウルトラ保守派のユダヤ系の人々からなるコミュニティもあり、赤尾論文の紹介でも述べたようにウルトラ保守派は、思想的には、ユダヤ教のトーラーなどのテキストに固執するために、ユダヤ的なものにこだわりが強い結果、現在の世俗国家に対して否定的な態度をとることがある。現居住国であるアメリカのコンテキストよりも、自分たちのアイデンティティを優先する人々もいるようである。

             

             

            以下の動画の例などは、母国のイスラエルの徴兵政策に反対するNYのウルトラ保守派の皆さんの運動を取り上げた動画である。こういう実に分かりにくいことも起きるのである。

             

             

            イスラエルの徴兵制度の法案に反対するニューヨークのウルトラ保守派のユダヤ人の皆さん

             

            トランプの政策とイスラエルのつながりとユダヤ人

            大統領選挙で、何がユダヤ人の間で問題になったかというと、結局、トランプが大統領選に勝利したときに、何が最悪の事態として、彼らユダヤ人の上に起きることを覚悟するか、ということであるらしい。そのあたりの事情を手島氏は次のように書く。

            簡単にいえば、トランプ大統領令がこだわる強い移民制限やボーダー管理の厳格化は、イスラエルが自国の安全保障のゆえに必要とする高い壁や占領地管理とさほど変わらないと、アメリカ・ユダヤ人が、イスラエルのネタニヤフとトランプの重なりを意識するほどに、彼らはトランプのアメリカを受け入れるのか、それとも自分たちをイスラエルから区別するのか、もはや傍観者的な立場で自分のアイデンティティがシオニズムと安易に結びつくことを認めることができない。(pp.25−26)

            これまでの政権は、基本的に不法移民対策として、ある程度寛容な政策をとってきた部分がある。人権的配慮を重視することを伝統的に良しとする民主党政権では、もともと国家が移民によってできてきたという背景があることや、人道的な政策を民主党が伝統的によしとしてきた背景があることから、ある程度不法移民にも寛容な態度がとられてきた傾向はある。しかし、本来、共和党政権であれば、不法移民対策を多少は厳格化するものの、それをトランプ大統領のように極端な態度はとらず、選挙戦でのメキシコとの間にあり一匹たり通さないような壁を作るという空想的で、実効性の薄いような政策を、明確な政策目標として掲げるまでには至らなかった。建前上では、共和党として不法移民は許さないというものの、共和党政権とその背後で共和党を支援する人々が、必要悪としての不法移民という存在と付き合ってきたからではないか、とは思う。特に中西部では、確かに不法移民によって職が奪われるとか、薬物の流入と不法移民の組織と関係があるとか、様々な不具合はあっても、それに片目をつぶるくらいのことはしていたように思う。そして、不法移民を強制的に送り返すだのとこれまでの共和党政権はあまり声高には言わなかったが、それを政策の柱の一つにトランプ大統領がかかげられたのは、ある面、案税制の低い職場でも働いてくれる安価な労働力としての不法移民を使う産業とのつながりがなかったからではないか、とも思うのである。

             

            ここで、イスラエルとガザ地区を隔てる壁の話題が出ているが、前回の記事『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (4) でご紹介した山森論文が指摘するように、あれは、あくまで具体的なテロ被害とそして、その報復による被害と、これらの不幸の連鎖により生まれる死者を減らすための壁であって、トランプ大統領が執務室に入った初日からやろうとした壁の話は、身体的な被害、殺傷を目指しているわけではない人々を対象としたもので、経済的不法移民あるいは経済的難民を単に自国内に入る可能性を排除したいという姿勢を見せるというものであったように思う。その実効性は別として。

             

            実際、メキシコ人は多くの場合、テロリストであるとはいいがたい。確かにロサンゼルスなどでは、ギャングになる人々もいないわけではないが、基本的に単純労働者や、季節労働者だったりする傾向のほうが強いように思う。もし、移民がギャング化するとか言うならば、ほかにもアメリカ国内には、様々な共通性に基づくギャング団は存在するので、移民はギャングの温床になるという一般化は問題が多いことは確かである。

             

            しかし、トランプ大統領は、メキシコ国境との間に巨大な壁を作るといった。そして、それは、ちょうどイスラエルとガザ地区との間の巨大な壁をユダヤ人に思い起こさせたかもしれないと、いうのがユダヤの人々の思いではなかったか、と手島論文では指摘されていたが、個人的には、移民は帰れ、のほうにヨーロッパから命からがら移民、あるいは難民として逃げてきたアメリカにいるユダヤ人のある部分の人々は思ったということが大きいのではないか、と思うのだ。

             

            ドイツやロシアに帰れ、といまさら言われても、彼らには変える地域も帰る家もないのに、どうしろというのだ、と思った可能性のほうがあるのではないか、と思うのだ。仮にイスラエルに帰れ、と言われても、そこでの生活の基盤も、仕事も、人間関係もない中で、何をしたらよいのかという当惑をトランプ政権の強硬な移民政策は与えたということのほうが重要なのではないだろうか。そのように考えると、自分たちが新しい大統領としてトランプ政権が始まったこのアメリカという国において、どのように行動するのか、ということ、どのような声をアメリカ市民権を持つものとして、上げていくということが迫られたのではないか、と本論文を読みながら考えてしまった。

             

            次回この論文の続きについて触れていきたい。

             

             

             

             

             

             

             

             

             

             

            2017.11.04 Saturday

            水谷潔さんの2017年10月末のFacebookの投稿から思ったこと(1)

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              ここのところ世俗の仕事でめちゃくちゃ忙しかった上に、忙しさを作り出した仕事が完了したためか、ここまでの緊張が一気に解けたので、疲れがどっと出てちょっと休みたかったのだが、体調が悪い中、導入したシステムが動かないというトラブルを抱えた業務協力先からとにかくご協力いただきたいという電話が入ってきた。相当お困りで、緊急に対応されたいご様子だったので、その事業所でのトラブル対応のため、休みも取れずに10日連続で仕事をすることになった。そうしたらである。水谷潔さんという昔はブロガーで鳴らした方が、面白いスレッドを上げておられ、何やら賑やかしくなっているらしい。

               

              水谷さんの話題のスレッドから

              そのスレッドをまず御清覧いただきたい。一旦ご清覧頂いた上で、ミーちゃんはーちゃんが割と日常的に触れている学生の皆さんを見ながら思っていること、ちょっと違和感を感じたところを突っ込んでみたい、と思う。

               

              昨今の青年たちは、「生きる意味」とか「人生の目的」など求めていないし、必要ともしていないとのこと。真理を求めて教会を訪ねる未信者も、昔とは違いごく少数。(この事実はショックだったし、受け止めるのには葛藤もありました。30代あたりまで該当するようで、これが伝道困難の要因の一つのようです)


              それなのに「意味・目的・真理」を切り口に福音を伝えるスタイルから脱却しきれない自分がいます。もはや機能しない方法論と知りながら、モデルチェンジできない硬直した自分です。(最近は何とか、若い世代対象の伝道メッセージについては、人生論的説教や目的・意味提示説教は避けるようにしています)

               

               そうした中、最近、ムスリム伝道の経験を持ち、現在は日本の大学生伝道で実を結んでいる若い伝道者にお会いしました。

               彼は大学生に、人は誰も「宗教(偶像)」を持っていると伝えます。「自分は違う」と否定する学生たちに、彼はムスリムと日本の就活の共通性を指摘します。敬虔なムスリムの方々は、定時に礼拝をささげ、断食をしますが、彼の説明によれば、それは、神様により受け入れられるようになるため。このことは、学生たちが会社に受け入れられるよう就活に必死になるのに似ているわけです。

               

               日本では、断食で命を落とすムスリムの方々を「信じられない」と言いますが、海外では、日本の過労死や就活の失敗で命を断つ学生を「信じられない」と評価します。そこで、学生たちは自分たちが、社会や世間という偶像から、拒絶されることを恐れ、受け入れられることに命を懸けていることに気が付きます。まさに「受容と排除の神」からの受容を求めて生きる自分自身を発見するのです。

               

               そこで、自らが偶像礼拝者である認めた学生たちに、あるがままで受容し、共にいてくださる真の神様を紹介します。人は誰も神を必要とすることを理解した学生たちは、本物の神様を受け入れるわけです。(人生の意味や目的は信仰決心してから、本格的に教育されるとのこと。)

               

               対象に応じた柔軟な切り口、「意味・目的・真理不要の世代」への伝道モデルを示していただき、感謝するばかり。硬くなった頭を柔軟にしなくてはと思いながら、モデルが乏しかったので、これはありがたかったです。

               

               若い世代の伝道者から、「意味・目的・真理不要世代への伝道」の指針を教えていただけたのは大きな恵みでした。私の小さな経験が同様の葛藤や行き詰まりを感じておられる方々のお役に立てば感謝なことです。

              という文章である。

               

              若者が変わってきた、そして、その若者の変化に追随できてない日本のキリスト教の伝道の方法論が、現在のキリスト教世界の伝道不振の原因の一端ではないか、そして、未だに1950年代、1960年代的な伝道アプローチのままを無反省に繰り返しているかもしれない、ということを最近お出会いになった若い伝道者の方にであって、お気づきになったというのが、水谷さんの投稿での主要なご指摘である、と理解することができるであろう。

               

              ミーちゃんはーちゃん風の突っ込みしてみました。

              以下では、その記事に突っ込みながら、ちょっとミーちゃんはーちゃん風に考えたことを述べてみたい。完全に今回の企画、水谷さんの企画に悪乗りした記事であることは自覚的に熟知している。

               

              昨今の青年たちは、「生きる意味」とか「人生の目的」など求めていないし、必要ともしていないとのこと。真理を求めて教会を訪ねる未信者も、昔とは違いごく少数。(この事実はショックだったし、受け止めるのには葛藤もありました。30代あたりまで該当するようで、これが伝道困難の要因の一つのようです)

               

              真理を求めてきたとされる人々って、中二病患者の一種で

              周りから「ビッグ」って思われたいだけだったかも

              まず、昔は「生きる意味」とか「人生の目的」と言ったある種の真理を動機として、教会に来る人々がいた、というが、それは本当だろうか。個人的には、真理とか、意味とか、目的という用語の定義とかその用語の用法がおかしかっただけではないか、と思う。大学という組織は、本来、学問的真理の追及機関であり、ある種の真理を動機とした人々が来るところとして世間に理解されている部分があった。たしかにそうだろう。

               

              真理追及をしているはずの組織に人口の半分が行く時代に

              しかし、1945年以降、とりわけ大学進学率が15%を超えるか超えないか、と言った頃、すなわち1950年代後半の頃から大学という社会は大衆化の方向に進み始め、1970年代で一気に大学大衆化は進展する。一方で、その時代は安保闘争などが行われた時代でもあった。このような状態のなかで、大学に入学して、大学を卒業していった人々の中にどこまで真理追求動機があったかというと、それは現在とほとんど変わりがないのではないか、と思うのだ。

               

              先にも少し述べたが1960年代前半くらいまでの大学入学者は、男性人口の15%前後であった。1975年前後に40%を超え、1995年前後に男女にかかわらずもほぼ50%を超える。最近は60%に迫る勢いである。全人口の15%程度の変わり者が来る組織なら、本人に「お前は真理追及を自分でせよ」と言っておけばよかったのだが、人口の約半分が来るようになれば、その真理追及のやり方から、真理とは何か、とかをある程度消化可能な形にして渡さないといけなくなるので、本来真理なぞをそもそも欲しがってはいない人が、なんとか消化可能な形にするのは、かなり面倒な作業になってくる。大学人は、良かれと思ってであるのか、美しい誤解からなのかは知らないが、そもそも真理も欲しくない人たちに、建前上真理が欲しくなるようにする環境整備まで、教育の名のもとにしなければいけなくなっているのである。真理を欲しがっていない人は、正直にそのことを認め、自分に合ったことをするように社会全体で進めるようにならないかなぁ、と面倒なことが正直嫌いなミーちゃんはーちゃんは思っている。

               

              大学進学率の推移

              http://www.mukogawa-u.ac.jp/~kyoken/data/13.pdf から

               

              大学生を間近で見るものとして、「学生(あるいは若い人)、すなわち、真理動機を持っている人」という単純化には大きな誤解が含まれている様に思えてならない。若い人たちは真理動機を表面上は語るものの、それは、表面上のことでしかないのかもしれない、と思っている。要するに、モテたい、あるいは、社会と言うか世間からの一定の評価を受けたい、と言う思いから真理動機を語っているのかもしれない。もし、それほど真理動機が重要であれば、皆さんもっとマジメに勉強し、大学院に残るはずずだし、昭和30年代後半には、「加山雄三」氏の名前にちなんで「「可」山「優」三」(可[いまでいうC判定、合格すれすれの単位]が山ほどあり、優[今で言うA判定 良い成績の単位]の数が3つしかない成績の悪さを表現することば)という言葉が流行するとはいえない。昔からそういう人がいたのである。

               

              国民的アニメ『サザエさん』に見る大学関係者

              アニメの『サザエさん』の登場人物の一人、伊佐坂先生の長男の大学生甚六さんは、1970年代的な大学生の姿をカリカルチャー化して描かれている人物ではあるが、真理追求者として描かれているとはどうしても思えない。そもそも、海山商事にお努めのフグ田マスオさんにしても、どうも大阪大学の早稲田大学の出身者であるらしいし、盆栽いじりが好きで囲碁が好きな磯野波平氏は、京都大学のご出身らしい。

               

              アニメに描かれている(それも理想化されて描かれている)これらの人々を見ていると、1940年代後半から1960年代前半のこれらのサザエさんの登場人物を見る限り、真理追求をしようとした人びとであるとは、どう考えても思えないようなきがするのは私だけなのであろう。アニメに描かれている大学卒のこれらの登場人物の人びとは、本当に人生の一時期である、大学生や若い時代にも真理を追及をしようとしたのか、その後も真理追及をしようとしているのか、とか考えてみると、どうもそうでもないように思えてならない。

               

              確かに、人口の一定割合は、真理追及に走る人もいる。ただ、たいていの場合、人生の途中で息切れしてやめてしまう人が多い。真剣に真理を追求するとかいうのは、実体的にはかなり限られるのではないか、というのが、ミーちゃんはーちゃんの観測である。おそらく、人口の数パーセント、たかだか10%以下の人々が息切れ族を含めた真理追及をしようとする人々であるといえるのではないだろうか。もし、そうでないとすれば、大学院は人であふれているかもしれない。

               

              ほかの多くの場合、ネズミーランドのような楽しく若者としての時間を過ごすための組織としてレジャーランド化した学校では、要するに、真理追及をするふりをしたい人が多い(多かっただけ)のではないかと思うのだ。なぜ真理追及のふりをするかといえば、それは仲間の間で差別化を図りたいいう思いからかもしれない。そして、読めもしない、そもそも読む気もない日本語翻訳の本を片手に人生や真理を語るふりをして「大物ぶりっ子」をしたかった小物が多かっただけのことではないだろうか。実際に小物であるミーちゃんはーちゃんは、そう思うのだ。

               

              だからこそ、以下のような諧謔に満ちたウィスキーのコマーシャルフィルムが作られたのであろう。要するに、えらい奴、ビッグな奴にみられたくて、真理追及のふりをなんかをするのはやめタラいいじゃありませんか。そして、真理とかを大上段に語ってもいいけど、そんなことよりスピリッツの一種であるウィスキーを飲みましょうぜ、というCMなのではないかと思うのだ。それは、ある種の中二病、思春期特有のはしかのようなものであるのではないか、と思うのである。


               

              故野坂昭如氏が出てくるウィスキーのコマーシャルフィルム

               

              まぁ、ゲーテの若きウェルテルの悩みにしたって、意地悪な見方をすれば、結局色恋沙汰をめぐる悩み(ロマン主義だからしょうがないが)に関する私小説のようなものであって、真理追及の結果に悩み抜いた挙句の自死なのか、と言われると、個人的にはどうなんだろうと思う。

               

              人は、真理追及するはず、という幻影や思い込みに

              振り回される必要はないかも

              それで、真理追及をする若者を前提にして聖書を語ってきたご自身の姿を振り返りながら、次の水谷さんは次のように書く。こういう正直なところがミーちゃんはーちゃんが、この水谷潔さんという人から目を離したくない理由の一つである。

              それなのに「意味・目的・真理」を切り口に福音を伝えるスタイルから脱却しきれない自分がいます。もはや機能しない方法論と知りながら、モデルチェンジできない硬直した自分です。(最近は何とか、若い世代対象の伝道メッセージについては、人生論的説教や目的・意味提示説教は避けるようにしています)

              これを拝読しながら、真理なんか本来関係ない、と思っているけれども「フリ」だけで真理を追っかけているという日本社会で、「意味・目的・真理」を切り口に福音を伝えるスタイルでしてきたからこそ、日本の福音伝道の結果を今我々は目の当たりにしているのではないか、と不謹慎ながら思ってしまった。たしかに、戦国時代に来たパーデレたちが見たように、野蛮人の国と思ってアジアの東のはずれの国にきてみたら、高度に発展した文化国家であるジパングが存在したので、彼らは驚いていたのだ。同様に、異教徒であり、野蛮人、バルバロイ(バーバリアンの語源)の国と思って、ムスリム帝国に対峙したら、あちらのほうが数段素晴らしい文化を持っていたことに、素朴に驚いた西洋諸国の十字軍の将官たちがいたのである。日本では、欧米人たちである自分たちが基礎的なアイディアを開発したもののB級品のコピー商品作る感覚で量産しているのだろうと思っていたら、小型軽量化した製品を作って大量に輸入してくる日本に驚いたのが1980年代のアメリカ産業界であっ多様に思う。そのころには、ジャパンアズNo.1と持ち上げられることが多かった。げに思い込みとは恐ろしいことをこれらの3つの例は示しているように思えてならない。

               

              そもそも万代不易の真理とかいうのは存在しないという歴史的な事実を日本では中学校ぐらいの教育で国語教育の一環として教え込まれているのである。

              祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
                   沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
              奢れる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し
                   猛き人もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ

              そんな万代不易のものがないという理解が千年レベルで続いてきた社会の中で、真理、真理といったのは、オウム真理教とキリスト教くらいではないだろうか。その意味でポストオウム真理教の日本社会で真理真理といいつのることは、実はかなりナンセンスなことではないか、と思う。オウム真理教に関してはいろいろ言いたいことはあるが、彼らは真理にひかれたというよりは、この成立の出発点がヨガの研究会であったことを考えると、実際に目に見えてヨガが彼らの身体性に効果があったことからこそ、彼らは麻原正晃というグルに従い始める。真理に悩んだ結果のグルへの帰依というよりは、具体的に身体性を伴って効くということの体験をしたからこそのグルへの帰依であったのだと思う。もし麻原正晃というグルが、宙に浮いた真理性の議論に終始していれば、オウム真理教は社会の中で宙に浮いた存在であり続け、社会に対してほとんど影響力を持たない理念系の集団であったようにも思う。そのほうがよほどグルのお弟子のオウム真理教の関係者の皆さまと、犠牲者として不幸にして巻き込まることになった数多くの人々にとっては幸せだったのではないか、と思うのである。まぁ、グルの神通力はどうも普遍的な神通力出なかったために、のちにそのような体験ができない人には、L.S.D.とか言った薬剤が投与され、身体性の経験の薬物による疑似体験が提示されるようになったらしいが。

               

               

               

              そもそも、意味とか、目的というものは本当に普遍的で、確実で完全に善なるものであるといえるのだろうか。逆に近代社会の成立とともに成立した啓蒙思想とかにおいて重要視された、意味とか目的における前提に関する善性を無批判に設定し、そしてそれを追求することがより良い生き方であるというような前提をそもそも置いた議論ではないだろうか。個人的に体育教官室の教員から聞かされた「健全な魂は健全な身体に宿る(だから体育の授業で頑張れ)」という妄言(では、身体障碍者を含む障碍者や生得的な身体における不具合を抱える人々は、健全な魂を持たなくなることになるのでおかしいと思ったのだが)、「真・善・美」を人間が追及するとかいう現実離れした理想など、西欧からそのまま持ち込んだ舶来品としての思想や理解だからということで、価値があるとつい最近まで思い込んでいただけなのかもしれないと思うと、それこそ、近代という時代において適合的な一時的な近代思想や啓蒙思想の根底にあるものを、若者がもはや追求しないことをだれが責められよう。すなわち、近代という西欧型社会が生み出した思想と同様の追及をしないこと、それがポストモダン社会なのだと思うのだけれども、近代社会が単に終わってしまって、近代社会における用語で語っていたキリスト教の世界が現実の不適合を起こしただけなのではないか、と思う。だとすれば、若者は当然のことをしているに過ぎない。そもそも、近代社会というのは世界史的には、かなり特殊な社会であって、長らく続いてきた人類の世界から見れば、普遍でもなんでもなく、かえって極めて特殊な社会だったのではないか、と思う。たまたま、西洋の先進国なのか優等国なのかは知らないが、その社会型を西洋以外の世界に押し付けようとして失敗した理念系でしかないのではないか、とも思うのである。たまたま、それと不可分のかたちで提示されたキリスト教を、普遍的なキリスト教、そして普遍的な真理と呼ばれるものだ(実際西欧人はそういった可能性があるのだが)と思ってしまった日本の不幸であるし、当時の先進国であった西側世界、そして、西側世界でのちょっとだけ後進国であったアメリカ社会のそれを明治の日本、大正時代の日本、昭和時代前期の日本、1945年以降か1980年代にかけての日本が、西洋文明と不可分のものと誤解した西洋文明とそれの基礎を与えていると思えた特殊系のキリスト教の追っかけをしてきたことの反映にすぎないのではないか、と思うのだ。

               

              真理追及とかができる(そのためには真理に実際に人間が触れうる可能性が保証されている必要があるのであるが、それはたぶん無理だと思う)という幻影、人間には存在目的があるはずとか行った幻影、人間には存在意味があるはずとか言った幻影に踊らされていたのが、近代における西洋社会なのであって、それを人間の側で作り出そうとしていたのが近代西洋社会ではなかったろうか。ちょうど、現実に存在する自分のしっぽのようなものをそのまま受け止めるのではなく、それを捕まえようとして、必死になって到達しようと悪あがきをした犬のように悪あがきをしてきたのが、これまでの西洋近代という社会であったような気がしてならない。本来存在そのものを語るにあまりふさわしくない言語と用語とその用法と、そのためには課題が大きい論理体系を多用して、無理してそれを語ろうとしてきたのが、この300年ほどの間豊かで先進的であるとみんなから誤解されてきた西ヨーロッパ社会と、そこでの独自に適合するように展開されてきた哲学やキリスト教ではなかったか、とも思う。

               

              幻影を追い続けてきたのかもしれない教会

              西洋型のキリスト教に大きく依拠する形で日本で伝道してきたことが完全に無益であったか、というとそうでもないと思う。実際に、無理をしていることが多いかもしれない、とは思いつつも、それでもキリストに多くの人々が出会う機会を与えようとしたという意味での意味は確実にあったとは思っているし、その一端として生まれたキメイラ的存在としてのミーちゃんはーちゃんがあることは素朴に認めたい。

               

              グスタフ・モローが

              キメイラ

              https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A9

               

              宗教(偶像)あるいは人間に存在する信念体系とそれに踊らされること

              個人的に考えると、宗教とは、一種の信念体系であると思う。そう考えると、宗教とは、ある種人間が生きる上で必要となる信念その者といっても差し支えないだろう。人はこれなしに生きるとすれば、規則も何もないカオス状態の中で生きることになる。これまでの多くの宗教と呼ばれるものは、キリスト教、仏教、儒教、イスラム教、という外側から分類可能にするためにラベルをさまざまの張られているものが存在する。これらの宗教は、一種のそれぞれの文化の中で形成されてきた行動や信念に関する概念体系というか、信念体系と呼ぶのがふさわしいようにも思う。そうであるので、もう少し、このあたり、言語と概念と擁護の整理はもう少しちゃんとやったほうがいいと思う。

               

              ところで、ちょうどパウロが、汎神論的世界に住んでいたギリシアの人々に向かって、あなた方は信仰心とか宗教心にあつい人々だとアテネでいったことが新約聖書の中に記録されているが、人間は信念体系、それが、すべての時代に普遍的で共通であり、さらに時代を超えて、地域を超えて、すなわち、すなわち時空間を超えて受容あるいは共有可能なものであるかどうかは別として、何らかの信念体系を人々からなる社会が有することが多いし、その信念体系を社会の中において価値あるものとすることが多い。その意味で、誰しもが自分なりの個々異なる宗教を持っているといえる。また、同じキリスト教に分類されるとしても、その中での信念体系が万国共通か、時代的に共通か、と言われれば、かなり異なることが多いのではないかと思う。その程度のものである。

               

              ところで、個人の中に全く信念体系がないとすると、その人の行動には一貫性のあまり見られない、壊れた機械のような挙動をしめすか、ある種の乱数的な不規則性(実は計算機の乱数はある規則によって作られているので、実は乱数といいつつ規則性があるのだが)を示すような行動パターンとならざるを得ず、そのような人は、予測不可能性が大きすぎるために社会的生活がほとんど困難になることになる。まぁ、通常の日本語では、このような信念体系を宗教とは言わず、習慣とか常識ということが多いだけの話である。

               

               そうした中、最近、ムスリム伝道の経験を持ち、現在は日本の大学生伝道で実を結んでいる若い伝道者にお会いしました。

               彼は大学生に、人は誰も「宗教(偶像)」を持っていると伝えます。「自分は違う」と否定する学生たちに、彼はムスリムと日本の就活の共通性を指摘します。敬虔なムスリムの方々は、定時に礼拝をささげ、断食をしますが、彼の説明によれば、それは、神様により受け入れられるようになるため。このことは、学生たちが会社に受け入れられるよう就活に必死になるのに似ているわけです。

                日本では、断食で命を落とすムスリムの方々を「信じられない」と言いますが、海外では、日本の過労死や就活の失敗で命を断つ学生を「信じられない」と評価します。そこで、学生たちは自分たちが、社会や世間という偶像から、拒絶されることを恐れ、受け入れられることに命を懸けていることに気が付きます。まさに「受容と排除の神」からの受容を求めて生きる自分自身を発見するのです。

               

              この文章を読みながら、日本には社畜(会社に飼われている従順な家畜のようなサラリーマンのこと)と呼ばれる有給型の奴隷(その意味ではローマ時代の解放奴隷と同じ)がいるのだが、イスラム世界には、神に対して、従順に心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くすタイプの生き方の一つとして、神に従うもの、あるいは神の奴隷・神のしもべであろうとするムスリム(神の奴隷・神のしもべ アブドアッラーとして生きる人々という意味あいをも含む)がいるだけの話であって、両者とも、誰かの奴隷であろうとすることでは、実はあまり変わりないのかもしれない。

               

              誠実を尽くす先が違うだけである。確かに、サウディアラビア系のムスリム社会では、ムスリムの特殊系としての過激な宗教理解を生んだ世界の中では、神を追い求め巡礼のかたちなどで神を愛そうとして命を落とすことがあるかもしれない。しかし、神は神とともに生きようとする信徒の存在を喜ばれることになっているはずである。その意味で命を落とすことまで、他者の命を奪うことまでを容認する概念というのはムスリム世界に広く存在するかというと、かなり特殊な例らしい。あくまで神(アッラーフ)は人が神とともに生きることをのぞんでおられ、神が作り玉石存在が死ンで失われることまでを望んでいないという理解のはずであるし、死ぬことをもってどうのこうのするのは、先に述べたようなサウディアラビア系の特殊なムスリムに固有の現象であるのではないか、とは思っている。

               

              とはいえ、神に帰依するものとしてのムスリムが全体として、神の奴隷として生きることを理想としていることはありそうである(アブドアッラーという名前、時にアブダラと発音されることがあり、その名前は神の奴隷という意味であるが)が、その奴隷として生きる結果に関しては、人(信仰者)によって理解が違うし、それがムスリム流であるらしい。その意味で解釈には幅があるのである。あるムスリムがAの状態であるからといって、別のムスリムがBの状態にあるということは、実際に多く見られる形であり、近代の均質性同質性を重視する世界観ではとらえにくいものなのだと思う。その意味で、すべからくの統一性や普遍性を求めるということとはあまり関係のないのがムスリムの世界であるようだ。

               

              ところが、近代社会にどっぷり浸かってきた現代の日本では、外生的な統一性や普遍性、一貫性を、必要以上にその成員に求めることがある。これが残念なのである。個が無視される社会が近代社会における、ある特殊系としてそのような社会構造が成立している事例を日本においては、多く見ることができるようにも思う。

               

              例えば過労死問題なんかにしても、会社の利益を追い求め、一時的に採用してくれたのかもしれない鼻で息するものが作った会社に愛社精神や忠誠を死をもって示すような一種の殉死精神徒かは、ムスリムから考えれば信じられない世界であり信じられない信念体系であろうと思う。会社とは、個人に労働機会としての雇用と、その対価としての給料を与える社会的存在である。日本では、フリンジベネフィットとしての個人に対するソーシャル・キャピタル(人間としての人間社会で生きやすくするための関係性の束というか関係性が生み出す資源というかある種の資本)までも与えることが可能な社会的存在でもある。そして、そのような社会的存在である企業は、その企業を保有する株主に対しての配当の原資となる企業の利益確保を前面に出し、社員や関係者の人々を関与させようとする。実際、企業が提供する個人に対するベネフィットは多くの場合、未来永劫に保証されたものではない。その意味で、虚像に過ぎないのだが、雇用される者同士、雇用されようとする者には、その企業にしがみつくことができ、それがあたかも当然、あるいはそれが有利なことであるかのような幻想を与え、そして社員同士を無意味に競わせるに近いことが起きるようになる。ある意味で、過労死問題は幻影に踊らされた結果であり、人々が自分の姿を見失った結果であるように思う。

               

              世の中、前回のブログ記事『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (4) でご紹介した、山森論文に引用されているサンドの所論のように、「日本人であることから降りること」は現実的に可能なのだし、「会社員という生き方から降りて、自分の身を守ること」は福祉国家の中では、実際に可能なのだが、それに思い至らないほど幻影に踊らされているとすると、実に悲惨あるいは滑稽ですらあるかもしれない、としか言いようがない。

               

              「人間は弱く不完全である」という事実と

              「強くありたい」という幻影とキリスト教会

              人間は弱い。個人としての人間は弱い存在である。であるからこそ、組織を過剰に頼ろうとするし、その組織や集団に対して過剰な期待を抱くのかもしれない。本来、宗教組織は、ムスリムにしても、キリスト教にしても、ユダヤ教にしても、仏教にしても、道教にしても、その他多くの宗教でも、その弱い人間にある意味での非公式的な無形のソーシャル・キャピタルを弱さを抱えている存在の人間に対して提供し続けてきた存在であったのだが、今の日本のキリスト教には、その弱さを認める場と時間が教会の中でかなり欠けているように思う。その側面が最近はずいぶんよくなってきたようには思うが。最近読んだ、『精神障害と教会 教会が教会であるために』で向谷地さんが書いておられる文章が少し気になった。

              礼拝という場に恐れることなく自身の弱さをゆだねるときに、その弱さを通して、神様の言葉が私たちの心にしみこんできます。その意味で、教会とは、本来私たちが弱くかつ愚かになれる場所、まさしく「甘えられる場」なのです。(『精神障害と教会 教会が教会であるために』p.103)

              まぁ、ここで、向谷地さんの文章に「甘えられる場」という表現があるが、これは、「神に甘えられる」ということであり、おそらく、神のあわれみを希うことができる場というような意味であって、「人間に甘えられる場」「他者に甘えられる場」と目に見えるものから何らかのものを得ようとする人々や、人間に対することだとか誤解する人が少なくないのが、近代の困ったところなのかもしれない。そして、この神のあわれみを希うことと人間が弱い存在であると認めることは、伝統的にはキリスト教が本来重視してきたことなのであるが、この200年のキリスト教では、このような部分が消え去ってしまい、教会でも自らが祝福されたことを誇る場になってしまっているような側面が皆無とは言えないのが残念なのである。その意味で、「甘えの構造」はどうも日本的なものだという説が定着しているらしいが、「人間が弱く、教会が神に甘えられること、すなわち、神のあわれみを希うことができること」は、個人的には「真理」というよりは、人間の存在に関する実態としてのファクト(事実)だと思う。もし、このファクト、すなわち「人間が弱い存在であること、教会が神に甘えられることを提示する場であること、すなわち、神のあわれみを希うことができること」について、もっとお示しできたら、いいだけの話ではないかと思うのだ。それこそ、真理というよりはファクトの追及というのであれば、神から離れている人間の本来の状態において発生する真理としての弱さを、素朴に認めることを進めるべきなのかもしれない。ファクトとしての人間の弱さを覆い隠すための偶像に等しいもの(学歴とか、富とか、健康とか、コエンザイムQ10の服用による若さといったこと)を意識的にせよ、無意識的にせよ、多数身にまとっていると意味においては、人は偶像崇拝者であることを認めることができるのである、とすれば、それこそ、神の必要性や真理を根源的に説いたことになると思う。その意味で、以下の文章の指摘は重要であるとは思う。

               

               そこで、自らが偶像礼拝者である認めた学生たちに、あるがままで受容し、共にいてくださる真の神様を紹介します。人は誰も神を必要とすることを理解した学生たちは、本物の神様を受け入れるわけです。(人生の意味や目的は信仰決心してから、本格的に教育されるとのこと。)

               

              しかし、この部分を読みながら、「意味・目的・真理」の追求であるということを教えてきたキリスト教はたかだかこの数百年のことであり、キリスト教は、長らく「神とともに生きること」と、それがどうしてもできない人間の姿と、死という個人的な終末に向かって歩まざるを得ない人間の姿を見つづけ、そうであるがゆえに、「キリスト」と「神」のあわれみということを求めることが、人間には必要であることを示し続けてきたのであって、そもそも、自らが触れることも触ることもできない真理(こっちのほうと指し示すことぐらいはできるけれども)をあたかも自分が持っているかのようにふるまい、その神の領分にあるべきものである「真理」を教えようとかいうような、本来、神にしかできないはずのことを騙り、神の座を神の名のもとに簒奪してきたのかも知れない、と思う。個人的には、心理が何かとは、神の領分のことであると思っている。

               

               若い世代の伝道者から、「意味・目的・真理不要世代への伝道」の指針を教えていただけたのは大きな恵みでした。私の小さな経験が同様の葛藤や行き詰まりを感じておられる方々のお役に立てば感謝なことです。

               

              その意味で、先にも述べたように、「意味・目的・真理必要世代」というのは、近代的な時代における一時的な存在であり、現代では、それが「意味・目的・真理不要世代」になったのであり、考えるだけ野暮だと思い、考える必要がないと言い出した人々が出始めたのであるとするならば、それはそれで、堕落後の人間の姿に近い形に戻りつつあるということである、と思うのだ。であるとすると、それらのあきらめきった人々に、「あなた方にはできないのは当然のことであり、そうであるからゆえに神はあなた方をお呼びになっておられる。であるからこそ、不安がらずに、こころから神のあわれみを希うがよろしい。神はそれを与えるというのが聖書の約束だ」というファクト(事実)ことをお示しして差し上げるという、本来のキリスト教の在り方に戻すだけのことではないか、と思うのだが。神のあわれみはファクトであり、真理ではないのかもしれないが、そのファクトを単に示すことが大事である、というのは違うだろうか。

               

              そして、日本のキリスト者も、モデルやモデル的な演奏のような固まった生き方を追い求めるのはやめたほうがもういいのかもしれない。そして、いわゆる理想的なキリスト者の伝道パターンというかモデルに縛られるのではなく、もうちょっとプロセス志向で、神とのアドリブをもっと楽しめばいいのになぁ、と思うのは、きっとミーちゃんはーちゃんだけなのだろう。そして、それが、リングマが、『風をとらえ、沖へ出でよ』で主張している主要首長であると思うのは、ミーちゃんはーちゃんの理解力が足らないのではないか、とも思う。

               

              また、もうちょっと書いてみるつもりである。

               

               

               

               

               

               

               

               

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              コメント:1章が4ページで区切られているので読みやすいし、内容は日本の教会への示唆に富んでいるように思う。おすすめ

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              コメント:よい。

              2017.11.04 Saturday

              『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (4)

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                個人的に2017年11月号の『福音と世界』は、ツボにはまったので、しつこく紹介してみたい。今回は第3論文の山森みか論文『「ユダヤ人」を巡る議論と相対化の試みーいまイスラエルで語られていること』である。これもまた、いろいろと考えさせられることが多い論文であった。

                 

                世俗国家としてのイスラエルと

                日本との関係の質的変化

                まず、この論文では、近年の日本と世俗国家としてのイスラエルとの関係の変化について次のように概観したうえで、イスラエルという国家の実像にできるだけ迫るべく、サンドという人物の著作を追いながら、説明する論文である。

                かつて日本でイスラエルのことが報道されるのは紛争が激化した時だけであった。しかし今は、イスラエルがセキュリティ関連を中心にスタートアップの会社が多くあるイノベーション大国なのに、日本が他国に比べてイスラエルに注目してこなかったことが指摘され、ひいてはそのベンチャー精神の源は直接的には皆兵制度(とりわけ情報部のエリート部隊選抜と訓練)、間接的には聖書やタルムードに基づいたユダヤ式教育にあるのだという分析がしきりになされている。実際日イ両国間の経済発展を進める投資協定交渉が2015年末に合意されてからは、多くの日本ビジネス関係者が頻繁にイスラエルを訪れるようになり、イスラエルに来る日本人は宗教か紛争に興味がある人ばかりという、これまでの状況が一変した。

                (中略)私個人は、紛争解決には何の貢献にもならないむやみなイスラエルの怪物化やイスラエル・ボイコット運動には反対であり、日イ両国の経済的協力関係は好ましいと考える立場にあるが、それでも「ユダヤ最強説」といった記事の見出しやビジネス関係者たちの「イスラエル詣で」には戸惑っている。それは例えば「国民皆兵」という言葉から日本人が抱くイメージと、イスラエルで実際に運用されている制度の内実がかけ離れているため、認識のずれが蓄積されていくのではないかという懸念等に基づいている。(2017年11月号 『福音と世界』 pp.18−19)

                 

                日本とイスラエルの関係を、1970年代末から1980年代中葉にかけて、中学高校から大学の時期にかけて、ディスペンセイション主義というかなり特殊な終末論の立場から、それも強硬な立場の人々の言説を通して、イスラエルというものについての理解をかなり一方的に流し込まれる形で聞いてきた立場にいた。今は、そこからある程度自由になり、それらの言説を多少批判的に見ることができるようになった現在に至っている。結局現実のイスラエルに関する実像の知識がほとんどないために、マスコミや、自ら自称中東問題研究者を名乗る市井のキリスト教関係者によるいわゆるイスラエル最強説といった扇情的な言説を、積極的に見聞きしないまでも、その影響を受け、それらの人々からもれ伝えられてくる言説の一端に触れるたびに、「この40年余りほとんど変わらないし、様々な言説を自称専門家からの発言であれば、うのみにする人々が案外多いのだなぁ」という印象を持った。人は、本当に説得の技術でいう権威性に弱いということなのだろうなぁ、とは思う。まぁ、テレビでも自称専門家を名乗る元テレビキャスターが語ることをありがたく受け取り、それを再拡散する人々が一向に減らないのも困ったことであるが。まぁ、そのような人びとは「自分たちには調べる能力がないから、信じるしかないではないか」とか言い訳のようなことを、おっしゃるが、それは自らの生き方において、そして他人に語る上で、手抜きをしているということを言い立てているようなもので、努力不足を自ら言明しているようなものではないか、とも思う。

                 

                 

                行軍するイスラエルの陸軍の皆さん

                https://www.haaretz.com/israel-news/.premium-1.667152 から

                 とはいえ、このようなイスラエルに対する美しい誤解の背景には、一つにはイスラエルという国が日本からかなり遠い紛争地帯にある国家であり、その紛争地帯の中での小国であることがあるかもしれない。ちょうど、日露戦争の時に欧米人たちが日本に対して持った当時の大国ロシアに対峙する小国といった構造とそこから派生するある種の判官贔屓のような感情や、その結果小国側を応援しようとする意識と多少は似ているような気がする。いずれにしても無理解、知識の不在あるいは欠如により生じた美しき誤解のような気がしてならない。そして、必要以上に神秘の国として過剰に期待が高まっていることの表れではないか、とも思う。どうも人は身近にない存在に対しては、欠点もよく見えない分だけ、安易に美化しがちなのかもしれない。

                 

                シュロモー・サンドという人物とその著作から

                シュロモー・サンドという人物の『ユダヤ人の起源』という書籍の中で主張されたサンドの議論が内包する、国民国家という別種の仮構に依拠した議論の怪しさというか、その仮構にあまりにも依拠する懸念を批判的に触れておられる。国民国家という概念でほとんど多くの近代国家は出来上がっているが、その概念自体はフランス革命で生まれ、そして、現在もなお多くの近代国家において共有されている虚構であるように思う。そして、普段はあまり個人の生活と直接はかかわってはこないものの、国家と個人の立場が対峙するような際、例えば、戦争とか、公害とか、信仰と国家の問題とか、外交関係といったいくつかの社会における現象と時折衝突を起こすことがあるとミーちゃんはーちゃんは個人的に思っている。そして、サンドの近年の著作「私はいかにしてユダヤ人であることをやめたか」の主張を取り上げ、世俗派ユダヤ人(前回この連載でご紹介した改革派ユダヤ人とかウルトラ正統派を含む正統派ユダヤ人とはかなり違った生き方をするユダヤ人の人々)の立場を紹介しつつ、その人たちにとって、「ユダヤ人であること」とは、それらの人々にとってどのような意味を持つのか、ということを触れておられる。

                 

                世俗派ユダヤ人とその生き方

                まず、世俗派ユダヤ人についての山森先生の視点からのご理解を紹介してみたい。

                世俗派ユダヤ人とは、戒律を厳格に守る人々とは異なり、基本的に戒律や宗教共同体を重視せず、自由な生活を送っているユダヤ人のことである。イスラエルにおいては、ユダヤ人は一般的に宗教派と世俗派に分けられる。宗教派と世俗派は学校も別々で、居住地域が分かれていることが多い。(中略)厳格な宗教派のユダヤ人は兵役を免除されているし、子供の数が多い宗教派の人たちの社会保険料を払っているのも世俗派なのである。世俗派ユダヤ人はいわば、近代的で合理的判断ができる自分たちこそがマイノリティにも寛容で民主主義を理解しており、実質的にイスラエル国家を運営しているという自負を抱いている。(同誌 p.20)

                つまり、世俗派ユダヤ人とは、宗教とその戒律やユダヤ人としての共同体性とはあまりかかわりなく自由に生きるリベラルな人々のことを指すという理解と言っても良いだろう。ある面、東京を代表例とする多くの都市部に居住する日本人がそうであると同様に、宗教のことをガチ勢として考えるわけでもなく、地方部のように共同体に縛られて生きるのでもない人々とかなり類似する存在のユダヤ系のイスラエルにお住まい人々のことらしい。イスラエルの割と主要な部分を占める存在として、ユダヤ人とはいっても、この世俗派のユダヤ人が一定数はおられるということのようだ。ガチのウルトラ正統派のような人々は、社会における預言者的存在としては貴重ではあっても、結構めんどくさい存在なので、そんな人ばかりだと、国家は立ち行かず、国民国家という虚構はすぐに破綻をきたすので、社会の安定化装置のような存在として、これらの世俗派ユダヤ人が多いように思う。つまり、この社会のバックボーンを担っている世俗派ユダヤ人の皆さんは、文化に定着してしまって、もはや文化とは不可分になった宗教的な理解や生活に関する規定部分に関してはあえてあがらったりして、もめ事を意図的に起こしたりはしないけれども、かといって主体的にユダヤの宗教的な理解に回帰していこうとか、そのユダヤ文化とかユダヤの宗教行事の根底にあるようなヘブライ語聖書などに関する理解を積極的に深めることにあまり価値が見いだせないような人々なのだろう。

                 

                ところで、現代のイスラエルの中身を見ると

                リベラル派   世俗派ユダヤ人

                ーーーーー   −−−−−−−−−−

                        改革派

                 宗教派    正統派

                        ウルトラ正統派

                 

                というバリエーションというかグラデーションの中にユダヤ人の人々がおられる理解がおそらく実情に近いのではないか、と思う。ところが、ネット上で散見される日本でのユダヤ人理解、Facebook上で表明されている日本のキリスト者の一部の人々の間でのユダヤ人理解の表明をみると、どうも、イスラエルは、宗教派、特に、正統派ないしウルトラ正統派の人々のみでなっているかのような印象に誘導する人びともおられる。イスラエルは、ある種の宗教国家であるからこそ、何が何でもイスラエルの安全保障のために祈る必要があるという論調を見るたびに、この人たちはどこまでイスラエルの実情を知ったうえでこのような意見表明をなしておられるのであろうか、と思うことがある。このグラデーションと、そのタイプの人々の人口構成上のウェイトをかけていっ多様な理解についての認識を持ったほうがいいのかもしれないと思う。

                 

                イスラエル大使館のゆるキャラ、シャロウムちゃん。

                http://eedu.jp/blog/2013/06/15/israel_character/から

                 

                この世俗派ユダヤ人の代表的な思いを、山森論文ではサンドの書籍からそのエッセンスを次のように抽出している。

                サンドは問う。ユダヤ教を信じていない世俗派ユダヤ人が共有するものは何もない。世界に散らばる世俗派ユダヤ人同士が遭遇しても宗教的な基盤はなく、言語も文化もばらばらである。それを同じ民族といえるのか。(中略)ユダヤ教徒になるにはユダヤ教徒に「改宗」すればいい。キリスト教徒になるにも、イスラム教徒になるにも宗教的な手続きがある。しかし非ユダヤ人に生まれた無神論者が、神を信じない世俗派ユダヤ人になる手続きはない。とはいえ、自分にとってイスラエル文化は深く関わりのあるものであり、それを捨てることはできない。また世俗派ユダヤ人というカテゴリーは空虚で内容がないのに対して、イスラエル文化には、混乱状態ではあるがまだ実質がある。だから自分はイスラエル人から降りるのではなく、ユダヤ人から降りるという結論に至ったのだと。(同誌 pp.20−21)

                 

                世俗派ユダヤ人の自己のアイデンティティに関するこの記述を読んだとき、まずもって浮かんだのは日本のプロテスタントタイプのキリスト教徒のことである。宗教的な基盤は、イエス・キリストが神であるということはあるにせよ、それにしても、世界中のプロテスタントをとらなくても同じ日本のプロテスタントの中でも、実は、その教会の中での、言語も文化も実はバラバラに近くて、相互に話もできないし、同じ語を用いながら、(例えば、救いとか、罪とか、神とか、憐みとか)実はかなり違った内容やコンテキストで用いられているし、教会内の身体的なコード、動作のコードや文脈、意味もかなり違っているようである。

                 

                半年ほど前に、大阪でのルター派の3派合同礼拝に出たときにも思ったが、同じプロテスタント教会の同じルター派であっても、これまで相互にあまり交流がなく独立に礼拝をしていたという。まさに、同じグループに属するといっても、ルター派の中でも、教会群ごとの文化もばらばらのまま、並立的に存続していた、ということなのだろう。その結果、この違いが放置され続けてきた、ということなのではないか、と思う。

                 

                ルター派3派の中でもこのような状況であれば、数多くのグループを含む福音派全体、あるいは、日本キリスト教団を含むプロテスタント派まで拡げ、さらに、数多くの単立教会を含む福音派まで入れてしまうと、もはや、アイデンティティの一致性を担保するとか言うのはほとんど無理な作業ではないだろうか、と思ってしまう。

                 

                カトリック教会は、教皇様がおられるという点で、カトリック教会自体は個別教会を見れば、かなりそれぞれの教会ごとに個別性があり、特殊性があるけれども、教皇庁があるという点での一致はあるし、聖公会にしても、祈祷書(Common Prayer Book)における一致はあるというものの、先日の神戸教区の主教就任式で経験したことであるが、個別教会の伝統と個々人が表現する新体制の表現を含む文化は非常に独自である。しかしながら、祈祷書のテキスト自体は一致しているなどのある種の一致性があり、その一致を代表する代表者としての特定の個人に対して、多数の組織からなる組織を代表する組織の代表者として、組織により付託された代表性を持つ個人の存在があるが、そういう代表者をそもそも志向しないゲリラ集団的教会とか教会間組織を持たない組織群もあるので、同じキリスト教と言っても、プロテスタント派というのは、同じプロテスタントに分類されることが多いとはいえ、ある意味共有部分がかなり少ない存在なのだなぁ、と思う。

                 

                以前にも書いたが、コプト正教会の教会や、日本ハリストス正教会の教会、カトリック教会の礼拝ないし聖餐式での式文の文言は多少は異なるものの、式文の基本的な構成(テンプレート)と内容がほぼ同じであり、あまり戸惑わないものの、その種の共通性はプロテスタント派の教会ではあまり感じることはなかった。まぁ、プロテスタント派では、説教と賛美歌があることと、説教が割りと長めであること、という共通性はあるかもしれないが。賛美歌も、歌うとは言いながら、実は教会ごとに歌われる賛美歌とその曲や歌い方は、実はかなり違う事が多い。

                 

                世俗派ユダヤ人と世俗派日本人の類似性

                日本で、割と日本人論が流行る背景には、ここでの山森先生によるサンドの主張の要約のように、「世俗派ユダヤ人というカテゴリーは空虚で内容がないのに対して、イスラエル文化には、混乱状態ではあるがまだ実質がある」という指摘を援用するとすれば、世俗派であろうと仏教系であろうと、神道系であろうと、あるいは日本人がよくいう無神論(本当は汎神論的な世界観を持つ)日本人という全体としてのカテゴリーには、似たような動きを含め、内容における実に豊かな多様性が存在して、実際には議論することに困難を覚えるほどの混乱状態であるとはいえ、多くの人々が共有する何か日本的と思われるような実質があることが期待できるためであるからなのか、結構日本人論がメディアや政治家のことばなどでも一般化されて語られがちという傾向にあるという特殊性があるのかもしれない。実は、日本国内の実情としては、地域的にも社会集団的にも、その文化要素は多様であり過ぎて、それを一本か、一般化して語る行為そのものは実は空虚で内容がない言説である。そのようなことを考えていると、ある種の共通の日本人論と言ったような神話というか、その神話として美しい誤解が大手を振って歩いている社会に、長らく無自覚的に居住し、生活していると、たしかにカテゴリー分類された先が空虚という状態に生きている我が身を振り返ってみれば、確かに、カテゴリーとして空虚な世俗派ユダヤ人と分類され続け生きていかねばならない人びとの存在というのは辛いだろうなぁ、と同情してしまった。

                 

                 ところで、この世俗派ユダヤ人が多い、ということ、そして、キリスト教やムスリムとしての改宗にあたっては特定の儀式と手続きがあるということは案外重要なのかもしれないと思うから、これらの通過儀礼と手続きがキリスト教やムスリムへの改宗では維持されてきたのだろう。

                 

                しかし、特定の神社の氏子になるというのにはおそらく手続きがありそうだが、神道(特に国家神道)に改宗するという概念が神道の世界にあるかどうかは、よくはしらない。しかし、一般の日本人の持つ宗教性から考えて、日本人の多くの宗教意識は、この世俗派ユダヤ人の立場に近いのではないか、と思う。

                 

                そう考えると、日本のキリスト教の福音派の一部でもてはやされているメシアニック・ジューという存在とその背景ということはもう少し考えてみたほうがいいのかもしれない。ウルトラ正統派からの改宗は、あまり考えられないだろうから、正統派からの改宗なのか、改革派からの改宗なのか、あるいは同じユダヤ人でも世俗派からの改宗組なのか、ということは考えておいたほうがいいかもしれない。それによって、聖典へのの立場とアイデンティティと関与の度合いが同じユダヤ人であっても違うからである。それを一括りに、メシアニック・ジューが言ったから、と言ってその発言を鵜呑みにするとか言うのは、どうなんだろう、と思ってしまう。

                 

                ちょうど、ある程度配慮して発言される場合が多いものの、大阪人(泉州)一人の意見を聞いて、大阪とはカクカクシカジカであると断言するに近いのではないだろうか。泉州文化と摂津の文化は違うし、同じ泉州でも泉佐野と岸和田では大分文化が違うからである。

                 

                泉州岸和田名物 だんじり

                 

                ところで、イスラエルはユダヤ教徒のいる国であるからと言って、イスラエルを祝福するものは祝福されるという旧約聖書の表現を取り、宗教国家でもなく、神権政治国家でもな苦、ダビデ王家の最高の結果の王国でもない、現国家の世俗国家としてのイスラエルで、ウルトラ正統派からはガン無視され、その実際の運営を行っている人びとのかなりの部分が、かなり無神論的なユダヤ人からなる世俗国家をガチ勢のキリスト教徒である福音派の一部の人々が支援することに伴うある種の滑稽さを思ってしまうと、なんとなく残念かもしれないなぁと思ってしまう。

                 

                その意味で、次の記述はそれらのことを考える際に参考になるかもしれない。

                 

                だが、神を信じてはいないかもしれないが、ユダヤ教にルーツを持つ習慣に部分的であれ参加している世俗派ユダヤ人に、そのアイデンティティから降りろと要求するのは非現実的である。さらにこのような立場は、世界で反ユダヤ主義が激しくなると、成立し得なくなるだろう。ユダヤ人はその内面にかかわらず、外側からユダヤ人だと規定されてきた歴史を持っている。(同誌 p.21)

                 

                多くの世俗派ユダヤ人は、「ユダヤ教にルーツを持つ習慣に部分的であれ参加している」程度なのであり、それと同様に、日本人の多くの人々が「神道にルーツを持つ習慣的になんとなく参加している」というだけのことが日本でも発生しているにすぎないのではないかと思うし、そのことに対して、キリスト者として強行な異議申し立てをしてみることは全く無意味だとは言わないが、強行に異議申し立てを言われた側の人びとには、そんなに「何かを考えてやっているわけではないし、スーパーでなんかそんなディスプレイもあるから、われわれもやっているだけの事でやっているに過ぎない」はずだが、と当惑して終わるということではないか、と思うだけなのだ。ハロウィンにしても、クリスマスにしても、その宗教性の観点からの意味をかなり真面目に考えながらやっているとはいえないように思うのだ。

                 

                今年の渋谷のハロウィンパレードの模様

                 

                そのような異教の神への礼拝の場に世俗の関係上、存在せざるを得ないとしても、今風の表現をするとすればガチ改宗異邦人、異邦人ユダヤ教徒と分類されるであろうナアマンのようなスルー力の高い対処方法をキリスト教関係者の一部もうちょっと考えたほうがいいのかもしれない。

                 

                ユダヤ社会における多様性と議論

                日本では、あまり議論をするところが見られない。日本社会は、本当に静かだなぁ、と思う。いや、朝まで生テレビとかあるではないか、というご意見もあるかもしれないが、あれは仕組まれた議論であり、エンターテイメントとしてテレビで見せるための議論である。日本の教室は実に静かである。同じような授業を日本とアメリカでしたことがあるが、日本は、教える側のペースで授業を完全にすすめることができるが、アメリカでは、学生が遠慮会釈なく、わからないところは、小学生であっても、大学生であっても、突っ込んできて、議論を仕掛けてくる。こっちのペースで授業を進めようとしても進まない。予定通りの予定調和的な授業なんかできた試しがない。

                 

                また別の機会に滞在したアメリカでの経験であるが、同じアジアの民でも隣の朝鮮半島の人びと、さらに、その先の中国系の人びとはかなり議論をする。と言うよりは、自己の権利の主張はかなり激しい。最近は学生さんの中で、単位については、自己の権利(単位がつかないことに関してのみであるが)の主張はかなり聞かれるようになったが、日本人対象の講義で、中国系の留学生のような粘り強い交渉に辟易するという経験はしたことがない。そういえば、中国からの留学生が「結婚相手にするなら日本人がいい」と言っていたので、「どうしてなの?」と聞いたら、「いやぁ、中国の女性は性格が強くて大変だから」と苦笑いしていたことを思うと、日本人というのはウサギ小屋に住んでも文句を言わないうさぎのような存在なのかもしれない。それはそれで素晴らしいことなのかもしれない。

                 

                ユダヤ系の人々は、かなり議論が激しいことは、著者の山森先生からお伺いした。なんとなく声の大きな人の発言にサワサワサワとなびいていく日本の社会とは違うらしい。そのようなことに関して次の一文が参考になるかもしれない。

                 

                世俗派ユダヤ人というアイデンティティを共有していない私個人は、このような立場が表明され大いに議論が交わされること自体が、あらゆる可能性を吟味検討するダイナミックなユダヤ的伝統にのっとっているのではないか、と思う。(同誌 pp.21-22)

                とりあえず、発言してなんぼの社会、そして、指導教官だろうが、親だろうが、ラビだろうが、よしんば神だろうが、それに向かって議論し、自分の主張を貫いていくような生活パターンがユダヤ的伝統なのだろう。こういう状況の社会は日本にはあまりみられないように思う。

                 

                まぁ、そんな環境の中で鍛えられると、自分の主張を堂々と述べる度胸の必要性を感じるとともに、それに対して、個人の本領煮立ち、本人が持つ実力を議論において発揮して見せることの重要性を感じる。

                 

                パレスティナとイスラエルの壁を巡る議論

                 この山森論文では、さらに、アモス・オズという人の主張の概略を紹介しながら、現在のイスラエルとパレスティナ問題で、重要な問題になっているイスラエルの壁の問題について、次のようにお書きである。

                 

                オズは、イスラエルとパレスティナの紛争は宗教戦争ではなく領土紛争に過ぎないことから、困難ではあるが解決は可能だという。オズの言う解決は一貫して、二つの民族が二つの国を持つといういわゆるに国家解決である。そしてそのためには国境の画定のためには、イスラエルとパレスティナの双方が妥協しなければならないのだが、その妥協を妨げているのが狂気なのである。そしてオズは、いわゆる分離壁についても、それが通っている場所が問題なのであって、壁そのものは必要だという。(同誌 p.22)

                ここの記述で重要だなぁ、と思ったのは、紛争の実態と焦点を明確に捉えることではないか、と思った。異なる宗教同士であれば、すぐに宗教紛争と判断してしまいがちな部分がある。確かに、イスラエルの壁を巡る問題は、ムスリムVSユダヤ教という宗教観紛争という誤解がのべられることがあるが、このパレスティナとイスラエルの間に存在する壁の問題は、実態的に領土紛争であるという見極めではないか、と思う。そして、その紛争にまつわる狂気の問題である。この狂気が問題をややこしくし、そして、人が人を殺傷することの報復へとつながるというのだ。狂気がコントロールできれば一番良いのだが、狂気は理性でコントロールできないときている。そこが困るのだ。

                 

                ガザ西岸地区の境界壁

                http://gershonbaskin.org/insights/the-new-walls-and-fences-consequences-for-israel-and-palestine/ から

                 

                ある事柄をわかりやすく説明するために宗教とか人種を出してラベルを張ってわかった気になるということがもたらす問題は、ヨーロッパでの過去から現在までの紛争あるいは戦争やアメリカでのテロ行為の本質を考える際にも言える。ヨーロッパやアメリカでのテロ行為は、宗教観紛争というよりは、国民経済というパイに対する旧植民地民であるが故にその国に住んでいる人びとのアクセシビリティが制限されていることと、G.D.P.で測定されることの多い国富に関するその国に住む人々の間での配分が歪んでいるがゆえの問題であり、それを正当化するために正義とつながりやすい宗教や信仰の問題が口実として用いられているだけである。このように、ある社会的な問題の表面を見て終わるのではなく、その問題において、何が根源的な問題かを見分けることは案外重要なのである。

                 

                トランプ大統領は、メキシコとの国境にグレートウォールを作ると言ったが、この場合は政治的な問題でもなく、宗教的な問題でもなく、純粋に経済的な移民による、米国の経済的な利益(資金及び雇用機会)の流出を防ぐというための壁である。結局富の流出を防ぐ壁がなければ、利益の流出が激しすぎて国力が消耗してしまわざるをえないほど、深刻なんだろうと思う。特に、誰でもができる単純労働者は、英語を喋る必要が無いので、カリフォルニアあたりだと、その殆どは、ヒスパニックと呼ばれるスペイン語話者という現実はある。カリフォルニア州では、スペイン語は公用語の一つであるとはいえ。

                 

                 

                壁の建設を主張するトランプ大統領候補(当時)

                 

                パレスティナとイスラエルの分離壁について

                イスラエルとパレスティナの間の分離壁は、イスラエルからの経済的な利益のパレスティナへの流出の阻止を目指すわけでもなく、異なる信仰を持つ人々の国境を超えた流入を防ぐということでもなく、実は犠牲者を増えないようにするという必要悪の実現としての側面が強いらしい。そのあたりのことについてオズの所論を取り上げながら、山森論文では以下のように記述がなされている。

                 

                 分離壁そのものは、とにかく早期に物理的に両者を分け、死者の数を減らして事態をできる限り鎮静化させようという発想に基づいていた。交流のない冷たい関係であっても、多くの死者が出るよりはいい。当初分離壁の設置に反対したのは、左派ではなく右派の人々であった。壁を作るということは自分のものと相手のものを明確に分けるということである。(中略)そして実際分離壁が作られると、双方の死者の数は劇的に減った。私は、分離壁がもたらす弊害はもちろんあるし、また自分の住んでいる地域にそのような壁ができるのは到底承服しがたい政策だと思う。しかし分離壁のもたらすマイナス面と、どちらの側であれ死者の数の激増という二つを考えると、分離壁がある世界のほうが相対的にましだと考えざるを得ない。ここには理念はどうであれ、結果的に死者の数が多く施策と死者の数が多く施策のどちらかを選ぶのかという問題がある。もちろんオズも指摘しているように、分離壁が通っている場所は明らかにイスラエルに一方的に有利であり、その一は双方の合意が得られる場所に将来移動させるべきだ。(同誌 pp.22-23)

                こういう文書を読むと、とりあえず、これ以上の流血の惨事に耐え難いから、一時的措置として壁の建設に走ったとは、言えそうである。

                 

                たしかに、人は高邁な理念を掲げるし、宗教とか思想にその根源が存在する形の理想が実現することを期待するけれども、実は、完全に同じ理想が他者と自己の間で共有されることはほとんどなく、人々の間に存在する理想の微妙なズレが人々の間に混乱と不快感を発生させる。さらに、自分の理想をかなり精密に言語化できないし、現実世界には、様々な制約が存在するため、完全に理想世界を実現しきれない。そうなると、理想世界を目指しつつ、理想とは似ても似つかない理想の近似解が現実には生じてしまう。そのような近似解で理想ではないものができてしまうと、そんなものは頼んだものではなかったということで、理想を願った人びとは失望し、そして、理想の実現に向けて尽力した努力した人びとは、努力したにも拘らず全く評価されないため、これまた失意を抱えてしまう。そして、理想を作り出そうとする人びとは出来上がった理想を目指したが結果生まれてしまった醜い現実である「理想の成れの果て」の周りで、ため息をつくしかないという現実は、まま起こるのである。

                 

                宗教改革も似たようなところがあるかもしれない。本来のキリスト教からズレてしまった世界の中で、本来のキリスト教はこのようなものではなかったか、と思われるものを取り戻そうとして、多くの悲惨と思わぬ悲劇を伴う副次的効果が出たようにも思う。理想は素晴らしくても、現実が伴わず、予想しなかったことが多数起きるということなのだろう。その意味で、ユダヤ人居住区とパレスティナ人居住区の間に壁を作るという計画が、理想を掲げて具体的な政策立案にわりと反映させようとする左派の人びとから分離壁賛成したというのは、彼らが理想を置い続けた結果をよく熟知しているのが、左派の人々だったということの繁栄かもしれない。

                 

                空間や距離は分断も生み出すが、直接被害を防ぐための緩衝地帯の構築が可能になる。その意味で、社会の安全と相互の適切な環境の確保のためには、このような安全策というのは案外有効なのかもしれない。世界史の歴史を見れば、地域間交流や人的交流は、他の地域に関する知識と認識だけでなく、新しいもの(例えば、胡椒とか、丁字[グローブ]とかトマトとか、じゃがいもとか、とうもろこし)といった人びとの生活を豊かにするものをもたらすとともに、戦争や疫病などの災いをもたらすことも少なくないことを考えると、この辺のバランスは案外難しいのかなぁ、とも思う。

                 

                以上、山森論文の紹介は終わり。

                次回は別論文の紹介へと続く

                 

                 

                 

                2017.11.01 Wednesday

                2017年10月のアクセス記録とご清覧感謝

                0

                   

                  皆様、いつものように先月のご清覧感謝申し上げます。そして、さて、いつものようにこれまでの記録の要約と、先月の記録のご紹介と参りましょう。

                   

                   先月は、 16,076  アクセス、平均で、日に  518.6 アクセスとなりました。ご清覧ありがとうございました。

                   


                   2014年第2四半期(4〜6月)   58171アクセス(639.2)  
                   2014年第3四半期(7〜9月)   39349アクセス(479.9)
                   2014年第4四半期(10〜12月)   42559アクセス(462.6)
                   2015年第1四半期(1〜3月)   48073アクセス(534.1)
                   2015年第2四半期(4〜6月)   48073アクセス(631.7)
                   2015年第3四半期(7〜9月)   59999アクセス(651.0)
                   2015年第4四半期(10〜12月)   87926アクセス(955.7)
                   2016年第1四半期(1〜3月)    61902アクセス(687.8)
                   2016年第2四半期(4〜6月)   66709アクセス(733.1)

                   2016年第3四半期(7〜9月)   65916アクセス(716.5)
                   2016年第4四半期(10〜12月)   76394アクセス(830.4)

                   2017年第1四半期(1〜3月)    56858アクセス(631.8)

                   2016年第2四半期(4〜6月)   76117アクセス(836.5)

                    

                   2017年07月      18,416 アクセス (594.1)

                   2017年08月      16,262 アクセス (524.6)

                   2017年09月      20,547 アクセス (684.9)

                   2017年10月      16,076 アクセス (518.6)

                   

                  先月の単品人気記事ベストファイブは以下の通りです。

                   

                   

                  現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 アクセス数 572

                   

                  人口減少社会と地方部と教会の悩み(その1) アクセス数 368

                   

                  人口減少社会と地方部と教会の悩み(その3)  アクセス数 279

                   

                  シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語 を読んでみた(1)   アクセス数 206

                   

                  結婚相手としての牧師の厳しさ   アクセス数 202

                   

                  キリスト者のゴールは何だろう・・・ アクセス数 202

                   

                   

                  今回は、同率5位だったので、6つの記事をご紹介しましたが、今月の記事が上位6位中、4記事が最近の記事でしたが、相変わらず、上位を占めているのが、日本の若いキリスト者が教会に行きたくなる理由シリーズと言う状態。ロングテールにも程がある。

                   

                   

                  ということで、先月も御清覧感謝。今月もよろしければ、御清覧をばお願いします。

                   

                   

                   

                   

                  2017.10.31 Tuesday

                  『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (3)

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                    今日は第2論文の「ユダヤ教とシオニズムのもつれた関係」と題された赤尾光春論文について考えてみたい。この論文は、ユダヤ社会とシオニズムの歴史的展開を負いながら、日本人が想像するようなシオニズムの関する単純な構造がユダヤ社会の中にあるのではなく、さまざまな社会潮流や社会環境、そして、思想的な影響を概観した論文であり、その意味で、日本におけるキリスト教徒、とりわけ福音派と呼ばれるキリスト教徒の一部が想定する単純な見方では、当然のことながら現在のイスラエルとユダヤ社会について、かなり理解しがたいような多様な動きがあることを明らかにしている。

                     

                     

                    シオニズムに対するユダヤ社会の中での抵抗

                     多くの日本人、そして多くの日本人キリスト者は、シオニズムというときにヨーロッパ系ユダヤ人のイスラエルの移住(あえて”帰還”とは書かない。その理由は前回の記事で引用した早尾論文を参照のこと)運動を考えるかもしれない。しかし、その党のユダヤ人の中にも、シオニズムに抵抗感を持つ人々がいたことを、赤尾論文は明示する。

                    シオニズムに抵抗を示したユダヤ人は、リベラル派、「同化主義者」、社会主義者、共産主義者など多岐にわたるが、中でも最も呵責なき闘争を展開してきたのは、改革派と(超)正統派を双璧とするユダヤ教の信奉者に他ならなかった。本稿では、改革派と(超)正統派の半シオニズム闘争をめぐる思想的背景とともにその変遷の過程を辿り、ユダヤ教とシオニズムの間で展開されてきた一筋縄ではいかないもつれた関係について概観してみたい。(『福音と世界』 2017年11月号 p.12)

                     

                    少なくない人々が、この記述に驚くかもしれない。ユダヤ人なのにシオニズムに抵抗する人々がいたという記述であり、それが、改革派ユダヤ人とユダヤ教のトーラーを重視する人々であるウルトラ保守派の皆さんであるという。個人的には、ウルトラ保守派の皆さんこそ、父祖ダビデの地、父祖アブラハムの地にこだわっているのかと思いきや、そうではなかったらしい。この辺の事情は同論文でおいおい明らかになる。

                     

                     

                    改革派ユダヤ人の皆さんと ルーベン・リブリン 大統領

                    https://www.jta.org/2015/12/21/news-opinion/politics/how-israels-president-won-over-reform-jews-and-vice-versa

                     

                    正統派ユダヤ人の皆さん

                    http://religionnews.com/2015/03/23/brooklyn-hot-plate-fire-leads-orthodox-jews-re-evaluate-sabbath-safety/

                     

                     

                    ウルトラ正統派のユダヤ人の子供さん(髪の毛のびんを切らない習慣から おさげに見える)

                    http://www.independent.co.uk/news/uk/home-news/london-orthodox-jewish-schools-removing-images-of-women-and-the-mention-of-christmas-a6877941.html

                     

                    まぁ、よその国のことだからほっとくのが当然だが、これらのユダヤ系の人々の中での緊張関係があり、この写真のように並べておいてみると、イスラエル社会の中で、かなり必死で聖書の言葉通り守ろうとする正統派、ウルトラ正統派の皆さんと、世間の動きと一定の関係を維持しようとうとする改革派の皆さんとの違いが服装や髪の毛のお手入れの仕方からわかるのが面白い。

                     

                    改革派という存在とその特徴

                    この改革派についてであるが、次のように赤尾論文では書かれている。

                     

                    ドイツの改革派ラビたちは、プロテスタンティズムの影響も受けながら、「家では良きユダヤ教徒たれ、表では良き市民たれ」というモットーの下、ユダヤ教信仰を徹底的に合理化すると同時に、その普遍的要素を強調した。ヘブライ語聖書に代わるドイツ語訳聖書の導入、戒律の細目や食事規定の廃止など、その改革は多岐にわたるが、思想的に最もラディカルだったのはメシア信仰の否定、すなわちシオンへの帰還待望そのものを放棄したことだった。この決定は、居住国家から「二重忠誠」の嫌疑をかけられることに対する懸念にも端を発していたが、半永久的に先送りにされた救済への期待は今や、居住国家におけるユダヤ人開放を通してこそ真に達成されるると合理的かつ世俗的に再解釈されたわけである。

                     19世紀末になってアメリカへと中心を移していた改革派は、1885年にピッツバーグ綱領を採択し「我々は自分たちをもはや民族とみなさず、(中略)パレスティナへの帰還も・・・ユダヤ人国家に関するいかなる律法の回復も期待しない」と謳い、伝統的なユダヤ教の核ともいえる信仰箇条すら否定した。(同誌 p.13)

                     

                    このような記述を見ると、キリスト教における改革派がキリスト教の儀式や様々な祭具などを否定し、時に十字架を掲げることを含めて否定し、そして、キリスト教信仰を「徹底的に合理化すると同時に、その普遍的要素を強調した」を目指して徹底的に改革し続けようとするのが改革派の姿なのだろうなぁ、とみると、確かに、プロテスタントの宗教改革の影響を受けた運動が、ユダヤ教の改革派であることがよくわかる。キーワードは、合理化普遍性への強調である。まさに、このことばは、科学性と普遍性友置き換えがある程度可能で、科学性と普遍性と言うか、単一的な物事の味方を重視した近代社会に適合的な集団がユダヤ教改革派であり、キリスト教における改革派であったと思うと、確かに親類関係にあるというのはよくわかる。

                     

                    そして、この文章の中でのもう一つの重要なキーワードは、 「二重忠誠」 の問題である。ルター先輩の二王国論(おそらく、神の国としての教会、世俗政治国家としての王国の並立とその関係のある程度の断絶 )ではないが、極限では、この二王国論が世俗国家の側から疑われることがある。日本の戦争中に起きた一部の福音派(ホーリネスやキリスト集会派)にたいする政府からの圧迫は、彼らがこの問題を理屈で説明して、自分自身において、そもそも回避しきれなかったがゆえに、起きたという側面が強いだろう。つまり、世俗国家は世俗国家、キリストはキリストと そこまで割り切れるほど、複雑なのか単純なのかは知らないけれども、その辺の割り切りができなかった不器用な人たちが、あるいは素朴な人たちが、この世俗国家と自らの信仰におけるキリストの王権との関係におおいてうまく乗り切れなかった、ということなのだろうと思う。おそらくその朴訥さが、うまく乗り切れない原因なのではないか、と思う。この問題は案外重要な気がする。平和憲法を擁護するための議論することよりも、自分たちとして、この「二重忠誠」の問題をどう神学的に処理可能なのか、ということの研究のほうがよほど重要だと個人的には思うが。

                     

                    そして、挙句の果てに、ユダヤ教改革派は、「 パレスティナへの帰還も・・・ユダヤ人国家に関するいかなる律法の回復も期待しない」 、そして、「メシア信仰すら放棄する」に近いことと言ってしまったので、そうなると、基本的に現地の世俗政府に帰属、恭順する同化の道しかなかったのだ。とはいえ、ユダヤ教に祭儀や習慣、あるいは、名前に残るユダヤ系の形跡や痕跡までは消し去れない場合、完全に同化することができず、ナチズムのドイツでは、ゲルマン系市民に狙われ、ホロコーストの犠牲者となっていく。こちらは恭順、同化しようと努力したけれども、それは相手の都合によって、こちらの態度が理解されず、先方の態度がガラッと変えられてしまうという世界史によくある悲劇の一つであったように思う。

                     

                    そして、アメリカのユダヤ人の間でシオニスト的な理解が広まり、その支持者が拡大していく。そして、米国がイスラエルの独立の事後的に承認する中で、アメリカの改革派ユダヤ人の中でのシオニズム反対運動は下火になっていくことが書かれている。

                     

                    超正統派(ハレディーム)のユダヤ人の対応

                    超正統派ユダヤ人と我々が聞くと、旧約聖書の約束に従い、イスラエルに帰還することが重要だ、ということを強調した人々という印象があるかもしれないが、どうも現実は違うらしい。彼らの神学的理解が、人間の力によるイスラエル帰還ということにNo、否、ニェット、Nonを突き付けたようなのだ。そのあたりの背景に関して、同論文は次のように書く。

                     

                    ドイツや東欧・ロシアの正統派がパレスティナへの移住を推進したシオニズムに反対したのは、第1に、シオニズムの企てに見られた世俗的かつ政治的な性格が彼らが報じた伝統的なメシア待望論と真っ向から対立したことに起因する。(中略)

                    伝統主義的なユダヤ人にとってユダヤの民とは第1に神の選民であり、したがって神やトーラーとの関係を描いたユダヤ人などありえず、ましてや戒律を遵守しないユダヤ人による聖地の支配などもってのほかであった。(中略)

                    超正統派の多数派が「ユダヤ人国家」に対する非本質的アプローチをとることによって、伝統的な反シオニスト・イデオロギーを著しく弱めることになったとすれば、少数派はイスラエルに対して本質主義的なアプローチをとることにより、イデオロギー的な一貫性を保ってきた。すなわち異教徒にも等しいユダヤ人が政治的ヘゲモニーを握る国家とは、神に対する反逆以外のないものでもなく、したがって「真のユダヤ人」たるものはその解体に向けた努力を惜しんではならない、という戦闘的な立場である。(同誌 p.14)

                     

                     

                    ウルトラ正統派であるがゆえに、旧約聖書にある記述通り、神の主権により、イスラエルの民が神に率いられて、神権国家を建設するという立場にウルトラ正統派の人々は立つので、タナッハ(旧約聖書)の権威性を認めないような「異教徒にも等しいユダヤ人が政治的ヘゲモニーを握る(イスラエル)国家とは、神に対する反逆以外のなにものでもなく、したがって「真のユダヤ人」たるものはその解体に向けた努力を惜しんではならない 」ということになるらしい。その意味で、彼らにとって、現イスラエル国は、由緒正しく、紙に認められた国家ではない、ということになるらしい。

                     

                    ところで、「聖書にある記述通り」という表現は、どこかで聞いたようなセリフだが、キリスト教にもこれに対応する言葉があって、それが、現在あちこちで、キリスト教、ムスリム世界、あるいは日本型新宗教の世界でも、宗教にかかわらず、便利なラベルとして用いられる原理主義である。本来のキリスト教コンテキストとしては、原典原理主義、聖典原理主義とすべきではないかと思うが、そんなまどろっこしい表現を使うのはマスコミの皆さんは洋の東西を問わずお嫌いのようなので、簡単に原理主義と何でもまとめて読んでしまい、それが一般に広がるからかなわない。ただし、どうも何らかの権威性、とりわけ、神とか聖書とかの権威性を異様に重視する、この系統の人々はどうも現実の問題等のはあまり関係しないとか、あまり考えずに済む関係だと思われるが、一般に過激化しやすいようで、すぐ、次の記述のような行動に出る人々が少なくないようである。その神とか、聖書とかを持ち出して、正義を神ならぬ人間が振り回す行為というのが、ひょっとすると、神の主権性を侵害することになるとは、このタイプの方々は、神に近しい方々であるためか、あまりお考えにならないように思えてならない。パリサイ人と取税人の祈りのたとえ話ところで、イエスが言われたことを考えると、イエスは正義を人間が振り回して良い、とはお考えになっておられないように思えるが。

                     

                    そして、捕囚に関する次のような印象的な記述もあった

                    すなわち、世俗的な民族国家の再興を神による救済という文脈から切り離し、イスラエルの建国が宣言されようとも、またイスラエルの地に居住していようとも、依然として捕囚は続いていると解釈したのであろう。(p.16)

                     

                    この捕囚問題は、人間を、そして、ユダヤ人を神との関係で考えるときに重要な概念である。人間を捕囚から解放しうるのは神のみであるという立場に立つのか、それは人間にも可能であるという立場に立つのか、という問題ともつながる。N.T.ライトの『クリスチャンであるとは』の中で、すべての人間は「諸力としての罪」に捕囚されていて、そこからの開放が必要だという主張の記述があり、その諸悪からの開放が実現できるのは、紙だけであるということが書いてあるが、それと同じ構造で、人間的な力による多民族からなる地域の中でとどまるような捕囚からの開放ができるのは、人間ではなく、神だけであるというのがウルトラ正統派のご主張であり、政治的ヘゲモニーの結果、人間的な努力によって存続させているような世俗国家としてのイスラエルなど、世俗国家としてのイスラエルが仮に建国を主張したところで、それは、トーラーにおける神ご自身が約束されたとおりの世界の実現につながってない、という立場なのだろう。

                     

                    ところで、ウルトラ保守派の人々の生き方について、次のような記述も実に印象的である。つまり、秦のイスラエルは世俗国家としてのイスラエルを認めないということになるらしい。

                    彼らはまた、多数派とは違い、アメリカなどに住む裕福な同胞たちによる寄付金にほぼ全面的に依存することで、イスラエルの公共サービスや、宗教施設に関する政府の補助金といった恩恵を一切拒み続けている。(中略)ネトゥレイ・カルタ(引用者註 イスラエルの保守強硬派の一つ 詳しくは赤尾論文参照)は、イスラエル国旗を燃やすなどして、ことあるごとにイスラエル国家への反対を表明し、海外でパレスティナ人による反イスラエルデモがあれば連帯を表明するなど、イスラエルの占領政策に対する抗議運動を今なお継続している。(同誌 p.16-17)

                     

                    イスラエル国家政策への反対デモをすることが、反イスラエル行為をすることやパレスティナ人への支援を表明することが「あなた方の中の在留異国人に辛く当たってはならない」という律法尾を守ることで、極めて聖書的な行動であり、ユダヤ的な理念の実現にもなるという、一種のパラドックスがここで生じているようである。このウルトラ正統派の皆さんは、現イスラエルの国家の正当性を認めておられないので、もちろん上記のように公共サービスを受けたり補助金を受けることもない代わりに、現世俗国家としてのイスラエル政府の法律に従って納税することもなく、軍役につくこともないそうである。これがまた、税金も払うし軍役にも就く(軍役につくことを本来血税というのであって、重税であるために血を絞られるように感じるから、血税ではない)普通のユダヤ人、すなわち非正統派である世俗派や改革派系のユダヤ人からは、わしらの税金と血税によって守られていて、それでいて、守ってもらっている我々やイスラエル政府にたてつくとは、不逞の輩以外の何物でもない、という立場になるらしい。

                     

                    今回引用しなかった部分には、イスラエルの内省的、政治的な動向を含めて、非常に印象的な部分があるし、その部分は現在のイスラエルの政治情勢を考える際に重要な記述であるので、ご関心のある方は、ぜひとも、書店に在庫があるうち日本号を手に入れてお読みいただきたい。

                     

                    まとめの部分から

                    イスラエル建国の歴史とそれ以前のシオニズムの歴史について、同論文では、次のようにまとめる。本来、反シオニスト運動であった改革派と正統派ユダヤ人たちが、現実のイスラエル国誕生において、どのような対応をとったかの違いにより、現在の環境が生まれているという。

                    改革派と(超)正統派を双璧とするユダヤ教内部における反シオニズム闘争はその体制において、ナチス政権の誕生を境に大きく方向転換し、イスラエルの建国をもって「ユダヤ人国家」の樹立を事後承認する格好となった。第2次世界大戦中から戦後にかけて、アメリカ改革派の主流は親シオニストになり、超正統派は政教分離の原則を確立してイスラエルに対して非シオニスト的アプローチをとった(同誌 p.17)

                    結局、現実世界との調和を図る方向に聖書解釈の面でも重きがある改革派のユダヤ人の皆さんは、現実世界として、イスラエルという国家が建国してしまった以上、それをあえて無視することもできず、また、現実的合理的な対応として、それを改革はユダヤ人の皆さんは承認するしかなく、もともと国家との適切な関係をとろうとする改革派であるが故に、現実的かつ合理的な対応をしようとして現実にあるイスラエル国家を認めるしかなく、おまけに、自分が国籍を置き、市民である自国アメリカの国家が事後承認とはいえ、承認してしまった以上、その存在にあえて反対したり、抵抗したりする意味がないので、アメリカの改革は軽ユダヤ人の皆様は、どうしても親シオニスト的な立場にならざるをえず、神のものではない世俗の国家に覚めた目を向ける超正統派は、そんな怪しげな国家なんぞは、ユダヤ人国家と呼ぶに値しない、と冷ややかな視線を向け、非シオニスト的な立場を取ることになったのであろう。ここでも、ユダヤ社会の分断が置きている。ただ、それがおかしいというふうにはおそらくユダヤ人は考えないように思う。違った立場の人がいるほうが、自民族の生存の可能性を増すということを歴史上、何度もユダヤ人は経験しているため、内部に多様性を容認しながら、生存を図ってきた歴史があるからである。日本みたいに、一億総玉砕とか、一億火の玉になって、なんてできない民族性がユダヤ人の世界には、あるらしいのだ。

                     

                    そのあたりのことをまず抑えていただいて、以下の部分を読んでいただきたい。

                     

                    ボヤーリン兄弟が提唱した「ディアスポラ主義」のように、排他的なユダヤ人国家としてのイスラエルの現状に対するラディカルな批判を含んだ言説が広く受容されてきた。こうした批判的言説はリアル・ポリティクスの現場では往々にして無力だが、イスラエルの建国をもってユダヤ史のクライマックスとするようなシオニスト史観の批判や、イスラエルに暮らしてこそ「真のユダヤ人」足りうるといったイスラエル中心主義の相対化を通して、「ユダヤ人国家」をめぐる現状に対して論争的な介入を促すポテンシャルを備えていることも確かである。(同誌 p.17)

                    ここで触れられている、ボヤーリン兄弟の「ディアスポラ主義」のような、ユダヤ社会としての一体化と言った動きや、ユダヤ人は一つになろう、とか言ったような動きに反対するような動き、ある種預言者的な存在も含めようとするのがユダヤ的な世界観になるらしい。そういえば、東日本大震災のときには、「一つになろう」ということが言われたが、東日本大震災以降について、日本社会は一つにはなり得なかったのではないか、と思う。

                     

                    東日本大震災の際の「一つになろう」と言うスローガンで思い出したが、先日、仙台市のはずれの大学で学会が開かれたのだが、今なお震災の被災地の現実を抱え、原発事故の処理が一応にしても終わっていない現実を見ると、日本は、福島の被害を含め「一つになった」といえるのか、ということを考えると、どうもなっていないようにしか思えていない。被災地の痛みを、被災地以外は忘れ、次の新たな九州などの直近の災害の被災地の痛みは覚えるものの、とても、日本として東日本大震災後に一つになった、とはいえない状況が現実にはあるのではないか、と紅葉が美しい、そしてハローウィンの浮かれた気分のディスプレイがされている仙台の街を歩き、翌朝には、仙台市内の聖堂付属のチャペルでの早朝礼拝のときに配られた週報の代祷のなかに、福島原発関係被害者についての記述があるのを見ながら、自分自身がこの代祷のように祈っていないことを反省させられた。

                     

                    仙台の町外れの学校で出会った金属製のワンちゃんたちの群れ

                     

                    美しかった池 翌日は雨がざぁざぁ

                     

                    この雨の中(後に台風接近で結構な雨になった)大学女子駅伝をやったらしい

                     

                     

                     

                    次回へと続く

                     

                     

                     

                     

                    2017.10.30 Monday

                    『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (2)

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                      今回も前回に引き続き、福音と世界の第一論文である早尾論文「人種差別としての反ユダヤ主義とイスラエル国家」から紹介してみたい。前回の論文では、レコンキスタがイベリア半島に生活していたムスリムの皆さんに対する影響をもたらしたばかりでなく、ユダヤ人の中にもコンベルソ(いわゆるキリスト教に改宗したユダヤ人)と呼ばれるユダヤ人と、ユダヤ人にとって実に屈辱的な故障である豚、ないしムラーノと呼ばれるユダヤ人というかたちの差別が生まれたことをご紹介した。ユダヤ人に対する差別と、さらにそのユダヤ人の中での差別が生まれたことをご紹介した。

                       

                       

                       

                      1492年という記念すべき年号とレコンキスタ

                      我々は、レコンキスタがあったことくらいは、ミーちゃんはーちゃんでも、高等学校時代の世界史の教科書で学んだことはあるが(昔は工学部死亡者であったので、このあたりで知識は留まっている)、世界史を大学受験の科目とし、その中でも記述問題として取り組んだ人でないと、レコンキスタの終了年というか完結した年号をあまり正確には言えないのではないだろうか。

                       

                      この1492年は、コロンブスがアメリカに向けて出港した年号であることは我々は案外良く知っているように思う。なお、アメリカの子供向け番組では、ギャグとして、本来はインドを目指して出帆したにもかかわらず、事前にコロンブスがアメリカに行けると思って出港したかのような描き方になっているところが、アメリカ人の精神性というか諧謔を含んでいるようで面白い。
                       

                       

                      セサミストリートでのカーミットがニュース速報としてコロンブスの出航を伝える模様

                       

                      レコンキスタの完成は、しかし実はその外部にもう一つ別の人種差別を生み出すことになった。1492年という年号が世界史で持つ決定的な意味は、コロンブス船団によるアメリカ「新大陸」の「発見」(到達)にあることは言うまでもないだろう。ただ、このコロンブス船団が、レコンキスタを完成させたスペインから、ユダヤ人追放令の期限を迎えた日に、多くのユダヤ教徒船員によって出発したということは十分広く認識されていない。じつはいわゆる『大航海時代』は、追放されたユダヤ教徒たちが避難移住先を持たないために、新世界に安住の地を探し求めたことによって始まったのだ。(p.8)

                       

                      上の記述にあるように、このコロンブスがインドに向けて出向した日付こそ、イベリア半島からムスリムとユダヤ人がイベリア半島からでていく最終期限として設定された日付であった。そして、上に紹介するようにこのコロンブスの船団の中に、ユダヤ人の乗組員がいたらしいということが本論文で触れられていた。実際、どの程度の数がユダヤ系の乗組員であったのかは、調べられたら調べてみると面白いと思う。その能力は、ミーちゃんはーちゃんにはないけれども。

                       

                      その意味で、レコンキスタのときも、第2次世界大戦中のホロコーストのときのように、庇護してくれるユダヤ人国民国家はなく、戸惑い、逃げ惑う中で、まさに最後の希望(The last resort)としてコロンボ(コロンブスのイタリア語風の読み)の船に乗って新大陸に逃げ出した人々もいたのかもしれない。

                       

                      コロンボ警部(コロンブスのイタリア語名から来ているらしい(なお、コロンブスはイタリア人)
                      http://www.tvguide.com/tvshows/columbo/tv-listings/100092/ より

                       

                       

                      ヨーロッパとその延長世界で現在までも続く2つの差別
                      ユダヤ人差別とアフリカ系住民差別
                      コロンブスのアメリカ新大陸の発見というよりは、ヨーロッパ人とカリブ海諸国の人々との遭遇により、スペインとポルトガルは、その支配する植民地の領域を相争っていく。その結果、「西経46度37分から東経142度あたりまではポルトガルの領土と言うか植民地と言うか支配して良い領域、それ以外のところはスペインの領土というか植民地にしてよい領域にしようねぇ」とローマ教皇の仲介によって定められることになった。その植民地化してよい領域としては日本は、ポルトガルの支配下に入る可能性がある土地であった。それが故に、鉄砲を持ち込んだのは、スペイン系ではなくポルトガル系の商人であった。これは案外重要な世界史的現実だと思うのだが、日本史の世界ではあまりそのあたりのことをまともに聞いたことが無い。

                       

                      〈世界史〉の展開に目を向けると、「1492年」という年号が決定的な意味を持ってくる。この年号に象徴される二つの世界史的出来事は、外形的には異なる様相を持つ二つの別々の人種主義を生み出しつつ、しかしその二つの人種主義は必然的な相互関連を持っていた。
                      第一の出来事は、長くイスラーム統治下にありつつ、ムスリムとユダヤ教徒イスラム教徒が共存していたイベリア半島「アル=アンダルス」において、1492年、キリスト教が再征服(レコンキスタ)を果たすとともに、ムスリムとユダヤ教徒に対して「追放令」を出したことに端を発する。(中略)しかし、ユダヤ教徒の場合、大量のユダヤ教徒移民を歓迎するような「ユダヤ教国」は存在しなかった。(同誌 pp.6−7)

                       

                      ところで、このレコンキスタの結果、イベリア半島から去るように求められたムスリムたちは、北アフリカ、中東のムスリム帝国の各地へと移動していく。しかしながら、ユダヤ人はキリスト教に改宗するか、あまりそのようなことをうるさく言わない地域にほそぼそと展開していくことになる。というのは、「ユダヤ教徒の場合、大量のユダヤ教徒移民を歓迎するような「ユダヤ教国」は存在しなかった」からである。改宗しないことを、あまりうるさく言わない地域とは、ローマから見て辺境であったり、その他の理由のためにローマの教皇庁のいうことをあまり気にしなくてすむ都市国家の国々であった。

                       

                       ところで、イタリア半島の付け根にベネツィアという都市国家がある。今ではイタリアの主要都市の一つだと思われるかたがおおいであろうが、当時のベネツィアは地中海貿易での成功を背景に、地中海世界の国際決済通貨(今で言うドルとかEUROとか、昔ならポンド)として利用された通貨であるデュカードを発行していた国である。そのベネツィアという海洋国家は、ローマ法王がベネツィアに言うことを聞かそうとして、度々破門宣言がだされた。あんまり何回も出したら、そもそも「破門」の価値が下がるのだが、実際にベネツィアには破門宣言が何度も出され、その度に、破門宣言の価値はやはり案の定下がったようだ。破門宣言が出ても、ベネツィアでは一定程度の市民生活が過ごすことは可能であったようである。

                       

                       そして、ベネツィアには、当時の出版センターのような側面が有り、当時アルド社を始めとした出版社により、ルネッサンス文化の基礎となるような書籍がベネツィアでは量産体制にあり、新しい文化を形作るような書籍が出版され続けたようである。そうなると、このあたりも、亡命ユダヤ人の流れ着く先になる。

                       

                      ベネツィアあたりに流れ着いたユダヤ教徒が、文化的なことをしたいと考えるキリスト教徒の求めに応じて、トーラーやネビーム等のヘブライ語テキストを持ち込み、家庭教師のようなかたちでの教育(昔は教育とは、家庭教師というかチューターでするのが当然であった。未だに、英国などの古い大学では、このあたりの精度が行きている)や、ヘブライ語テキストの印刷をできるだけスクロールに近い形でやろうとしていたらしい。このあたりは、昨年のユダヤ思想学会でのご発表があったし、そのときにも手島イザヤ先生がご公演しておられたし、関西凸凹神学会でもお話をお伺いしたことがある。ヘブライテキストに関しては、コデックス版とスクロール版に考え方の相違があり、スクロール版の旧約聖書がヨーロッパに持ち込まれた意味というのは、どうも、宗教改革を考える際に念頭に置いておいたほうが良いようである。

                       

                      このルネッサンス前期あたりのテキストへの関心の深さなども、テキスト中心主義を採用することになる宗教改革の遠景なのか、背景なのかはよくは知らないが、宗教改革に対してかなり影響していることを考慮しなければならないのではないか、ということのようである。

                       

                      余談になってしまったが、ユダヤ人差別の問題は、このレコンキスタの完成、すなわち非キリスト教徒のイベリア半島からの追い出しによって、定位されていくことになる。

                       

                      レコンキスタの結果生まれたユダヤ人という存在

                      それで、早尾論文の話に戻したい。レコンキスタの結果生まれたのは、勿論、イベリア半島でのキリスト教国ではあったが、それだけではなかったと早尾論文は指摘する。そのあたりのことについて、同論文では次のように指摘する。

                       

                      アメリカ大陸の植民地のプランテーションや鉱山で不足した労働力を補うために導入されたのが、アフリカ大陸からの奴隷労働者であった。アフリカ先住民は、一目瞭然なその肌の黒さによって、プランテーションや鉱山労働者として管理するのに便利な存在であった。すなわち「ブラック=黒人」と言う呼称は、単に肌の黒さを示すだけではなく、奴隷であることを指示するものであったのだ。(同誌 pp.8-9) 

                       

                      このレコンキスタの結果、早尾論文が指摘するように、大航海時代が実質的に始まり(この部分は省略した)、そして、この大航海時代には、ポルトガルは、ラテンアメリカ諸国で、ブラジルのあたりでその拠点支配をする一方、スペインは先にも述べたトルデシリャス協定を根拠に、カリブ海諸国を始めとする、ラテンアメリカの大部分の領域に進出する。両国とも、そこで、現地のインディオを労働力としていくとともに、それだけでは労働力が不足するため、アフリカから一応は銃との交換で入手した一種の交易の形を取りながら、当時の極めて安価な労働力であるアフリカからの人々を強制移民させることになる。

                       

                      つまり、レコンキスタによって、単純労働力としてのアフリカ人がイベリア半島の両国の支配する植民地を中心とした社会の中に組み入れられ、単純労働力であるがゆえにその能力とは関わりなく、社会の中で差別される存在として定位された。また、イベリア半島内では、その改宗を疑われ続けたマラーノと呼ばれるユダヤ系市民が差別され、ゲットーなどに押し込まれることになったのである。つまり、かなり簡略化(高単純化してよいかどうかは議論があるが、わかりやすくまとめると)、以下の2つの人種主義が生まれたのではないか、というのが、早尾論文の主張である。

                       

                      ヨーロッパの外なる人種主義 (アフリカ系奴隷)
                      ヨーロッパの内なる人種主義 (ユダヤ人問題)

                       

                      この「ブラック=奴隷」という概念は、英国でも、また、もともとその植民地であった、アメリカでも継続される。特に黒人の場合は肌の色が記号となり、わかりやすい記号であったため、現在もなおそのような固定概念で割りと単純に物を語る人々がおられ、特にアメリカの極端な白人至上主義者の皆さんとかは、白人は優等民族で、黒人は奴隷の身分であるべきだ、とかろくでもないことを公式に発言してはばかられない方は、現在でもおられるように思う。実に残念なことだが。

                       

                      開放のはずが一周回って排斥に

                      フランス革命は、自由、平等、博愛を謳い上げ、すべての人々が平等であるという希望を人々に抱かせたし、その理想は今でも「レ・ミゼラブル」が映画化されるほど、当時の人々の精神を鼓舞するものであった。いわゆるアンシャン・レジームからの開放を、本来は国民国家の成立とともに、ユダヤ人を含むはずのすべての人々に約束するはずであった。そして、この際に、ユダヤ人も普通の市民扱いされるかと思いきや、どうもそうでなく、かえって、自分たちが排斥される状況に直面する。そのあたりについて、早尾論文では次のように記述する。

                       

                      「血」の思想、「血の純血規約」によって人種化され区別=差別されたキリスト教徒ヨーロッパ人とユダヤ人とは、フランス革命による市民社会・国民国家の展開の中で、人種主義としては第二弾会へと進んでいった。(中略)身分性が廃止されすべての国民が平等な市民権を持つという国民国家の思想は、ユダヤ教徒もキリスト教徒と同様に、その信仰に関わらず同じ市民権を有する国民とすべく、ユダヤ教徒専用居住区「ゲットー」から開放しようという方向に動いたはずだった。しかし、これはユダヤ人差別を根強く残す勢力による強い反発を生み、19世紀ヨーロッパ各地の市民革命の展開とともに「ユダヤ教徒開放論争」をへて、最終的にはユダヤ教徒を非国民として排斥する主張が優勢となり、それを正当化する人種主義が発達した。(同誌 p9)

                       

                      ここで書かれている状況以外にも、似たような事例としてドレフュス事件というフランス史上有名な事件があるが、フランス陸軍将校であったドレイファス大尉が出自がユダヤ人であることを根拠にスパイ活動に関与したという冤罪で、収監されてしまうという事件である。そして、その余波としてフランス各地で、ユダヤ人排斥運動がおきたらしい。

                       

                      ここでは、フランス革命がアンシャン・レジームの打倒という以上、本来ユダヤ人をゲットーから開放するはずのものであったし、当然のごとくユダヤ人はゲットーからの開放を期待したフランス革命の結果、結果として、ユダヤ人は非国民扱いされることになったと言う。まぁ、この種のことはヨーロッパでは度々起こってきたので、ユダヤ人の人々のかなりの部分にとっては、またか、ということだったかもしれないが、人間とは期待するとうまく言って当たり前、期待を裏切られたときの落胆は大きいものなので、中には絶望的な気持ちになったユダヤ人もいただろうとは思う。

                       

                      まぁ、似たようなことは、隠れキリシタン迫害とか、1942年から始まる対英米戦争中のキリスト教に対する様々な圧迫というか、一部には迫害と称するのがふさわしいような状態も、人種主義ではないものの我が国でも発生した。個人的には、そのような圧迫とか迫害に合うことは、無いほうが無論良いが、それでもまたか、というくらいの数百年単位で物事を見る生き方がしたいなぁ、と思っている。

                       

                      反ユダヤ主義の頂点としてのホロコーストとエセ科学主義

                      科学的根拠も妥当性がかなりいい加減でも、エセ科学というのは人々の間からなくならない。現代のエセ科学の代表例は、毎朝テレビで放送される星占いであったり、血液型性格判断であったり、中華系では風水だったり、友引とかの特定日に関する理解だったりする。まぁ、色々あることはある。知識の限界、データ処理能力の低さなど、様々な条件のため、ある時代には非常に合理的かつ科学的と思えたことも、時代の変化によって、その客観性、合理性に疑問が向けられているものが多いというのが実情であろう。ただ、すべてのものが非科学的と一刀のもとに切り捨てることはできない部分がないわけではないが。

                       

                      ユダヤ人差別の問題を考える際に科学的とされたことに関して、同論文では次のように書かれている。
                       

                      なお、19世紀に始まるこの科学的人種主義のピークは、周知のように20世紀ドイツにおけるナチス政権によるユダヤ人の大量虐殺、いわゆるホロコースト(ショアー)となる。ドイツの文脈においても「ユダヤ人」は、キリスト教徒対ユダヤ教徒よりも、ゲルマン民族対ユダヤ民族のニュアンスを色濃く帯びるようになり、そこに優等民族による劣等民族の支配・追放・迫害を正当化する優生思想も重なり、最終的に大虐殺が置きた。(同誌 p.10)

                       

                      ラウシェンブッシュという人の『キリスト教と社会的危機』という本があるが、その本の記述の中に、この人種主義の問題につながる優生学の話が出てきて、ちょっとびっくりしたことをこの記述を読みながら思いだした。そして、優生学とか科学的人種主義(どこが科学的ぢゃと、21世紀に生きる我々から、見たらおかしくてしょうがないのだが)は、100年ほど前までは、優生学にしても人種主義にしても大真面目に科学であったのである。そして、日本では、ハンセン氏病患者において、この優生学的概念に基づ着、断種術とも呼ばれる出生制限や英字殺害などに関連する対処が行われたし、ナチスドイツでは、障害者に対しても、劣勢を持つ存在として、ユダヤ人と同様のことが行われたことが知られている。本来人間の世界を豊かにしようとして、そして、その世界を理解しようとするはずであった科学の名を借りた、大虐殺がおきたことの意味を考えざるを得ないなぁ、とこの部分を読みながら思った。

                       

                      現代の近代国家としてのイスラエルの持つ複雑性とその成立過程

                      アメリカのキリスト教関係者でイスラエルをガチ推しする人々がいる。また、アメリカのキリスト教世界からの影響だ、とは思うのだが、日本のキリスト教徒野中の一部にも、イスラエルをガチ推しし、贔屓の引き倒しをするような発言をする方がたもおられる。何度も繰り返すが、言論は自由であるから、何を発言することも自由であるが、現実の実情を知らずに、勝手なことを言うと、恥ずかしい思いを後にするのは、発言者その人であり、その発言のしっぺ返しも発言者に返ってくるだけである。

                       

                      この手の恥ずかしい発言あるあるの一つは、「イスラエルはユダヤ人のみでできている純血型ユダヤ人による単一民族国家である」という理解がある。しかし、現実のイスラエルはどうもそうではないらしい。これは、本論文以外にも、現地在住でイスラエルの大学で日本語と日本文化を教えておられる先生から直接お聞きし、様々な本「乳と蜜の流れる地から」などに書いてある。

                       

                      1948年に建国され現在にいたるイスラエル国家は「ユダヤ人国家」であると自らを規定している。しかしこの規定は、国家が実現してもなお揺れ動く不確かなものたらざるをえない。第1に、建国時に追放してもなお先住パレスティナ人(ムスリムとキリスト教徒)が人口の約2割を占めており、規定の外となるアラブ人が「国民」であるという矛盾をはらむ。(中略)第2に、戦時中そして休戦前後にヨーロッパ(欧米籍)からパレスティナに移民してきたユダヤ教徒だけでは、先住パレスティナ人を圧倒する多数派となることができず、1950年代に入ってすぐに中東世界全域からユダヤ教徒の移民を政策的に強行したことが、国家規定を揺るがしている。というのも、中東出身のユダヤ教徒いわゆるミズラヒームの大半は、アラビア語を母語とするアラブ人である以上(東はイラクから西はモロッコに至る)、イスラエルのユダヤ人口を増やすという目的が、しかし同時にアラブ人口を増やす結果にもつながっているからだ。

                      (中略)第3に、ムスリム・キリスト教徒のパレスティナ人をそれでも少数派に押さえ込むために、1980年台からは、旧ソ連とエチオピアの政変に乗じた経済移民をそれぞれ約120万人と15万人受け入れたが(当時の総人口を二割も増やした)、旧ソ連からの移民のうちユダヤ教徒は約半数で、残り半数は親類にユダヤ教徒がおりかつ後で改宗するという名目で移民を認められた実質キリスト教徒である。また、エチオピア移民の殆どがエチオピア正教のキリスト教徒である。(p.11)

                       

                      読者の皆さんはもうお気づきであると思うが、イスラエルではアラビア語が確実に現役であるし、公的な道路標識などや公的機関の表記の大半も、ヘブライ文字とアラビア文字が併記されているようである。ミーちゃんはーちゃんはイスラエルに行ったことがないのでよくわからないが、最下部で紹介した山森みか先生の「ヘブライ語の世界」で、アラビア語も併用されていることを初めて知った。つまり、10年ほど前までは、そんなことも知らなかったのだ。このアラビア語が併用される背景には、もともとアラビア語を喋る現地の人が存在することに加え、上で紹介した引用部分にあるように、アラビア世界からの移民を大量に抱えこまざるをえなかった、近代イスラエルの政治的現実があるというのは、今回はじめて知った。


                       

                      イスラエルの道路の標識(ヘブライ文字、アラビア文字、英語)

                      https://972mag.com/how-israel-is-erasing-arabic-from-its-public-landscape/114067/ から 

                       

                      イスラエルの移民関係の役所の表記(ヘブライ文字、アラビア文字、英語、ロシア語表記)

                      このあたりのロシア語表記が見られることを考えると、それだけ近年のロシア移民の多さとイスラエルは多言語社会ということが感じられる)

                      https://en.wikipedia.org/wiki/Languages_of_Israel から(ここにはなかなか面白いことが書いてある)

                      ロシアからユダヤ人を大量受け入れしたことは、日本でもある程度知られているところだろうが、本論文で先にも触れられているわかりやすい記号としての肌の色が浅黒い人々が多いエチオピアから、経済移民としてエチオピア系ユダヤ人を大量に受け入れていることをご存じの方は、日本のキリスト教徒にどの程度おられるだろうか。その意味でも、本論文は読まれるべき論考の一つだと思ったりもする。

                       

                      エチオピア正教の聖母子像のイコン (おそらくエチオピア人にとって身近な肌の色として、マリアとイエスが描かれている)

                      https://johnbelovedhabib.wordpress.com/2017/03/22/my-intriguing-visit-to-an-ethiopian-orthodox-church-a-first-time-coptic-visitors-perspective/ から

                       

                      同じ画像でもロシアで制作されるとこのような聖母子像になるらしい

                      https://www.pinterest.jp/pin/505951339369247681/

                       

                       

                      本論文のこのような記述を見ると、現実のイスラエル国家は、高邁な理想を掲げながら、そして、現実的なユダヤ民族、ないしユダヤ人のための国家であろうとしつつ、ユダヤ人がとりあえず逃げ込める場所を作るという一種の避難地の建設を目指したとは言えるだろう。とは言え、それを実現するために、結果的にはなし崩し的に、ユダヤ人と思われる人々を世界中からかき集め、無理矢理に近代国家としての体裁を整えた、キメイラ的な国家形成がなされているように思えてならない。ある種の美しく素晴らしく見える理想がこの現実世界で実現されたときの同しようもない醜さというものをここにも感じる。

                       

                      理想世界には摩擦がないという世界が想定され、ニュートン物理学で想定されるような理想世界である。しかし、現実はそうは行かない。そんな都合の良い世界ではないので、どうしても、現実に合わせて対応していくうちに、一個一個は美しい部品であるとはいえ、その美しい部品を現実対応するためにガムテープで貼り合わせるようなかたちにならざるをえないのかもしれない。その結果、美しいものを寄せ集めた結果は、どうしても、ある種の醜さを持つものになってしまう。

                       

                      なお、なぜエチオピアなのか、ということであるが、それは、本論文を実際に読んでみてのお楽しみとしたい。案外、とんでもないお話(個人的には荒唐無稽な話あるいはナラティブ)に基づいているが、案外、現実世界が動いている世界の中には、こういうお話(ナラティブ)のほうが説得力を持つ世界もあるということの証左と思えてならない。すべての世界が、とは言わないけれども

                       

                      本論のまとめ

                      純粋なユダヤ人国家という幻想

                       

                      まず、四の五というまえに、この早尾論文の結論をまず、お読みいただきたい。

                       

                      この3つの要素を直視すると、イスラエルはその建国時から現在に至るまで、「純粋なユダヤ人国家」という不可能な幻影を追いながら、ますます矛盾を抱え込んでいるといえる。その矛盾を覆い隠す唯一の手段が「ユダヤ人種が存在する」というイデオロギーであるが、いつまでこの人種主義は効力を持つのだろうか。アラブ圏いついてだけみても、アブラハムの一神教の中で、キリスト教徒とムスリムだけはアラブ人だが、ユダヤ教徒はユダヤ人種であるなどという説明にもならない破綻した線引など、シオニスト以外にはそもそも通用しない。あるいは、ロシア人とエチオピア人が(どちらもユダヤ教徒であれキリスト教徒であれ)同じユダヤ人種(の縁)であり、それ故イスラエルに住む権利がある」としつつ、パレスティナの先住民はキリスト教徒かムスリムである限り本来の国民ではない、などという非論理もシオニスト以外には通用しない。

                      最後に付言すれば、こうした破綻をもたらした根源であるヨーロッパの人種主義であれ、その影響下で作られた現代イスラエルの人種主義であれ、「アブラハムの一神教」の観点から見直せば、どれも非論理的かつ非倫理的なものであることは、これまでの整理で明らかになった。(同誌 p.11)

                       

                      ここでの引用部分の3つの要素とは、ご紹介した、現地にアラビア語話者が一定数いた事、ただただ数合わせのために1950年代にアラブ世界からのユダヤ人のかき集めたこと、近年の政治的混乱に乗じた経済移民としてのロシア系、エチオピア系ユダヤ人の大量流入の容認ということになろうが、先にも述べたように、結局高邁な理念を掲げつつもどうしても、美しいものでありえない現実世界の如何ともしがたい醜さのようなものを生み出してしまう。

                       

                      そして、個人的にはキリスト教徒であるので、キリスト教が好きだし、キリストが勿論好きだし、キリスト教がいいとは思っているが、キリスト教が何においても一番であるとは現実世界のキリスト教の姿を見ると到底言えないし、案外キリスト教徒が見失いがちな視点として、キリスト教も客観的に外部の目から見れば、あるいは、ものすごい広角レンズで世界を捉えるように見た場合には、「アブラハムの一神教」というその幅広い世界の中の一部であるという側面があることは、忘れてはならないように思うし、そレを忘れた結果起きた事件であるのが、レコンキスタであり、ホロコーストであった、という、この早尾論文でのご指摘も忘れてはならないだろう。

                       

                      レコンキスタにせよ、ホロコーストにせよ、当時の能力で最大限考えて、合理的と思える理想を実現しようとした結果、多くの悲惨と直視しがたい醜い現実を高邁な理想を語りながら起こしてきたのである。

                       

                      また、現在のイスラエルも、高邁な理想を語りながら、世界各地からユダヤ人に近いと思われる人々を寄せ集めるようにして、結果として多民族国家風の国家を形成せざるを得なかった現実があるのである。理想とは、そもそも不可能な幻影似すぎず、それを追い回し、それに振り回されるのは、どう考えても無意味なように思う。

                       

                      高邁な理想を語る人々の理想はたしかに美しいが、それが現実化したときには、いとも無残に醜いものを生み出していく。これは、キリスト教界とて無縁ではない。これが鼻で息する人間の姿なのだと思う。だからこそ、我々は神の憐れみを希うことしかできないのかもしれない。その意味で極端に理想化された理念に振り回されるということは、もうやめたほうが良いのかもしれない。

                       

                      そんなことを思いながら、本論文を読んだ。

                       

                      次は、そのシオニズム運動との関連である赤尾論文を読んでみたい。

                       

                       

                       

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                      コメント:社会はキリスト教会の理論的基礎となった本。当時の世界に一大ブームを巻き起こしたらしい。

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                      山森 みか
                      白水社
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                      コメント:イスラエルの現地事情も面白い

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