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 これまでの連載は以下の通り。

 さて、これまで、第1種の過誤(正しい可能性が高いものを、間違っていると判定したり、正しい可能性があるものを間違っているというために必死になること)や第2種の過誤(正しくない可能性が正しいと判定したり、正しくない可能性があるものを正しいというために必死になること)があり、第3種の過誤(間違った問題を正しく解くために必死のパッチで解くこと)の問題があり、結構この手の過誤は、キリスト教界で多いのではないか、ということについて触れてきた。第4種の過誤は、問題を必要以上の時間をかけて必死になって解いたころには問題は、もう問題でなくなっていた、あるいは遅きに失した、ということだろうと思います。これまでの投稿は、こちら。

キリスト教界を巡る第1種から第5種の過誤 (その1)

キリスト教界を巡る第1種から第5種の過誤 (その2)

キリスト教界を巡る第1種から第5種の過誤 (その3)

今日は、第5種(これは新種と思う)の過誤に取り組んでみたい。とはいえ、既にこの過誤は、ワインバーグ先生という方が既にご著書の中で提唱しておられるものだ。ひと呼んで、ダチョウの問題解決法の過誤ともいうべきものである。

問題はありません!それ、大丈夫?

 その過誤とは、「問題があるのに問題がないふりをする、問題を直視しない」というか語である。目をそむけるともいい、時間の経過とともに解決がやってくるのを待つ、という解決法である。

 ダチョウは危機が迫ると砂の中に頭を突っ込んで、意図的に危機を見ないようにするという。まさしくそれと同じような問題解決法である。

聖書にある解決法?

 それは問題は解決してないけれども、問題解決法としては存在するのだ。まぁ、言えば、なかったこと、見なかったことにするという過誤である。これはよくあるのではないだろうか。この話は、実に聖書的な話なのでもある。

 祭司やレビ人の問題解決法なのである。(ルカ10:30-37)

 まさに別の方を向いてガン無視すれば、問題はなかったことに出来る。これは問題解決法だろうか。そうではないと思う。

類例も多いかも

 他にも類例はたくさんある。


 どこぞの学校で、出来の悪い答案を見なかったことにする。

 他人の説教まる写しを、気がつかなかったことにする。

 教会内に問題があるが、問題を見ないことで見なかったことにする。

    以上に関しては、なんかこんなブログでの連載
    「小説 冲方晴男牧師 全話」があったような気がする。



 書籍は売れなていないが、卸に出荷して売れたことにする。

 教会の来会者は来るものの、定着せず、すぐにいなくなる。

 牧師の性暴力やDVをなかったもの、ありえないものとしてしまう。

 信仰があるから(神様が祝福してくださるから)大丈夫と、問題を解決しようとしない。

恐れるな、といたもう神

 神はたびたびイスラエルの民に向かって、イエスは弟子たちに向かって、「恐れるな」と言っておられることの意味を問いたい。問題があるときにも、神はともにおられると彼らに行っておられる。

 聖書が示しているのは、失敗してはならない、ということではないと思う。失敗してもいい、間違ってもいい、しかし、神のもとに立ち返れ、ということだと思う。何でも、反省の有無に関係なく人を赦せ、ということではないと思うのだ。

問題を直視する勇気を

 問題は問題として関係者が認め、その問題を神の民として、一人ひとりが考え、そして、神のもとに立ち返り、被害者にはきちんと回復をせしめ、不幸の拡大を防ぐということではないか、と思う。

 そのためにも、不幸が見えた人は、不幸を直視し、そして、そのことに対して、神の民として、神ならぬものでありながら、如何に考えるか、ということをまず思いめぐらす必要があるのではないかなぁ。

 そして、そこに問題がある、というだけでなく、問題を解決することにキリストの体の一部として、そして、そこに神からまねかれているものとして、一人一人が関与してほしいなぁ、と思っている。


この項終わり。 




  

 




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 さて、これまで、第1種の過誤(正しい可能性が高いものを、間違っていると判定したり、正しい可能性があるものを間違っているというために必死になること)や第2種の過誤(正しくない可能性が正しいと判定したり、正しくない可能性があるものを正しいというために必死になること)があり、第3種の過誤(間違った問題を正しく解くために必死のパッチで解くこと)の問題があり、結構この手の過誤は、キリスト教界で多いのではないか、ということについて触れてきた。

キリスト教界を巡る第1種から第5種の過誤 (その1)

キリスト教界を巡る第1種から第5種の過誤 (その2)

第4種の過誤とは

 今日は、お約束通り第4種の過誤をお話ししたい。

 第四種の過誤は、一言でいうと、「遅きに失する」という過誤であり、これは、下記の書籍の著者 H. Raiffaという先生がお話になっているらしい。なお、最下部のNegotiation Analysisの本は、どこぞの大学で、ずいぶん前に学部の授業で輪講した本である。内容的にはなかなか良かったと記憶している。1/4くらいしか半期で行かなかったが。

第4種の過誤の具体例


 具体例で話そう。

民間航空機の搭乗券の例

 例えば、この前、ずいぶん久しぶりに国内線の飛行機に乗って思ったのだが(ちょっと忘れ物をしたのでそれを取りに行ったら、結構チェックインがギリギリになってちょっと焦った)、格安券での飛行機の搭乗なんて、まさしくこれである。乗客の都合で搭乗時間に遅れていってしまうと、もう飛行機はのせてくれない。新幹線なら、自由席で変えるという方法があるが、飛行機は最悪、もう一回飛行機の搭乗券を買わないといけない。

 まさに、これなどは第4種の過誤の結果、飛行機代の2度払いという罰ゲームが待っている例である。

キリスト教などの業界の例

 キリスト教業界でも、似たようなことが起きている。いつも、ミーちゃんはーちゃんをやさしくかつ厳しく応援してくださる中京地区の牧師先生と同じく中京地区の神学校でご勤務の先生とFacebookでPost Modernを聖書理解の観点からどう考えるか、という結構高尚なお話の仲間に門前の小僧として混ぜていただいている。つい最近、そこで、40年位前に定義された問題を今頃になって「こういうことです」って出されてもなぁ、というのに近い話をしておられるのを拝見させてもらった。これなども典型的に、第4種の過誤のように思える。40年位前に定義された問題は、40年前には意味があったが、今では、社会や状況が変わっていて、いくら素晴らしいお考えでも、なんかかびが生えたようなものになっていて使いようがない、というケースもありそうな気がしている。

キリスト教書業界の例
 これから従来本を読んでいた層が、大量にこの地上からいなくなることが目に見えている。この地上におられれても、高齢に伴う視力の問題など、そもそも本というものが必要なくなる時期がやってくる。そうなると従来型のキリスト教書というメディア(インクと紙が必要になるメディア)は、そもそも市場規模として縮小するのが見えている。

 もし、それに十分対応できないとすれば、それこそ第4種の過誤である。あるいは、その末路は悲惨というしかない。一世を風靡したKODAKというフィルムメーカーは、フィルムにこだわりすぎ、経営が厳しくなったと聞く。

キリスト者個人の例

 これは個人としてのキリスト者も同じだと思っている。いろんなところで、ご老人の方相手の自主的学習会のようなことをしていて思うのだが、聖書を読め、聖書を読めと言われるが、聖書を読むのがつらい、といわれるご老人の方に出会うことが多い。その時、次のように言ったことがある。

 たくさんのものを一気に読む必要はないと思います。それよりも、1節か2節くらいをじっくりと味わうように読まれ、暗唱されるように読まれたらいかがですか。あるいは、それもおつらいなら、暗唱聖句の一つを思い出してください。それで十分だと思いますけど。


 これって案外大事じゃないか、と思う。聖書暗唱とは、子供の時のものや青年の時のためだけではなく、老年になっての備えではないか、と思う。
 

教会に若い人がいない問題の例

 同じように、教会の若い人がいない問題も、典型的に第4種の過誤のような気がする。これまた、西の方のお付き合いのある牧師さんが、「教会に若者が・・・」とおっしゃっておられるのだが、これまで、そこの教会が、昔からその教会に来ている人に都合のよいように教会運営してきた結果、「教会に若者が・・・」の状態になっているように思う。もちろん、教会を取り巻く社会環境自体、若者がいない社会になっていることが一番の原因であるが。もし、そうおっしゃるなら、ここまで放置しなければよかったのである。

 現在の教会のあり方は、これまで長きにわたって教会に集ってこられた方にとっては常識であったり、居心地のいいありかたであったりするかもしれないが、新しく来られた方にとって必ずしも常識ではないし、居心地のいいありかたではない。教会の将来を考えたいというのであれば、「このありようのみが正しい在り方である」ということに関する検証されえない仮定を少し外された方がよいかもしれない。


 狂言界も非常に古い日本の古典芸能の一つであるが、いい悪いは別として、NHKの子供番組「にほんごであそぼう」にご出演になられて、その懐の広さをお示しのようである。それくらいの懐の広さをキリスト教界も示していいのではないか。ガラテヤ3章にも、別々のもんじゃないぞ、ってパウロさんお話であるし。


「にほんごであそぼう」から ややこしや


 そういえば、似たようなことをこの間、水谷さんも書いておられた。

パ・リーグの営業努力から受けた子ども伝道の励まし

 また、現在活躍中の若い仏教のお坊様も、「現在のお寺は地域との関係をあまりに失っていて、地域の人々と関係を結ばないと、度し難い衆生の皆様を量産するのではないか」ということを真剣にお考えのご様子である。その危機感がないとすれば、そのこと自体、もう第4種の過誤ここに極まれり、という感じではないかと思う。

 なお、ミーちゃんはーちゃんは、日本からどんどん教会がなくなることに関して、あまり心配していない。減少するのは、残念なことだと思ってはいるが。なぜなら、教会がなくなったところで、神ご自身がおられなくなるわけではないからである。
 
年金問題も第4種の過誤かも

 年金問題も第4種の過誤かもしれない。なぜならば、一生懸命延命策を考えているうちに、どんどん年金が支給するのがきつくなっているからである。

 この問題に入る前に、明らかにしておきたいことがある。世間では、収めた年金を受給できないのはおかしいと声高に叫ばれる方がおられる。庶民感覚からすればそうなのかもしれないが、それは年金という制度とその理念を理解していないことを自ら明らかにしている。

 江戸時代人は、年金を納めていなかったし、受給もしてなかった。明治期に生まれた人は、年金をほぼ収めてないはずであるが、年金は受給した。年金を納めてないのに受給したのである。

 つまり、年金制度というのは、個人の預貯金ではなく、世代間の所得移転なのだ。つまり現役世代から、高齢者世帯への所得移転をすることで、経済のパイを大きくしましょうという政策なのである。もし、預金として考えければ、生命保険会社でも、証券会社でも、銀行でもよいから、年金積み立てをしておけばよい。それをせずして、年金を国営の預金かの如くいうのは、「私は年金制度を理解もしてないし、その理念というか背景も理解していません」ということを自ら明らかにするに等しい。大体、預金資産であれば、預入した分だけ死亡した時に国が返金しないことを怒るべきなのだ。それすらしないで、預金のような顔することはおかしいのである。

 たちが悪いのは政治家の一部に、こういう自らの無理解をテレビで晒す方々おられたり、テレビのコメンテーターとか、テレビのキャスターとか自称する人々に、この手の無理解な発言を放送で垂れ流しにする人々がいることである。専門家としてのコメンテーターならば、もう少し勉強して発言してほしい。まぁ、まともなことを言う人がテレビに出てないのは、そういう人では言うことがまっとうすぎて、視聴者から嫌われるので、視聴率が稼げないからではあるけれども。

 年金制度は、プレゼントなのである。丁度今は全人類へのプレゼントであるお方、神の御子(ヒーリヨ 隠れキリシタンのある方はこの音に肥料という字を当てたらしい)がこの地上に来られたことを待つアドベントの日であるし、12月24日等特定の日には来られなかったであろう。しかし、地上において神の剥き出しの壮絶な愛を覚える日がクリスマスなのだが、その点からも、年金制度がプレゼントであるということの意味を考えてほしい。

年金減額を訴える●世代老人の党ってのは、どう?

 子や孫のことを心配するご老人の方には、ぜひお願いしたい。年金財政健全化のために自ら受給しておられる年金額を減額する。将来にわたって、減額を続けるという政策を公約として掲げて、結党して選挙に出ていただきたい。そうしたら、そういう老人の方がたを若者はありがたいと思うし、「ご老公様、なかなかやるでござるなぁ」と思うのではないだろうか。それは、尊敬に値する高齢者としてのノブレス・オブリージュの一つの姿と思う。まぁ、それと当時に就業規則から、年齢規定の撤廃を含めた給与体系の前提の改変に関する合意なども必要であろうが。

 まぁ、ほっといても、いずれ国民人口が確実に減少するし、企業の海外進出が続く結果、GDPベースでの国民所得は確実に減少するので、現行の年金額が支払えなくなるのは時間の問題ではあるのだけれども。まぁ、インフレ起こして、支払額は同じでも、実質価値を減らすという裏技はないわけではないが、そんなことしたら、国家財政どころか、日本の通貨と国家への信用度は地に落ちる。目標インフレ論の怖さはそこだと思う。

 某公党さんも、将来の世代をまじめに考える政党です、次世代の●(その割に前世代の方がちょっと多かったような気がするが)って言うならさ、そういうことをきちんといってほしいかなぁ。

 別の公党も、痛車に乗って話題づくりしたり、秋葉原で街頭演説会開催したりばっかりしないでさ。まぁ、「日本を取り戻す」とおっしゃっておられるのだから、「年金(恩給 雀の涙ほどだったらしい)を公務員の退職者以外もらえなかった日本を取り戻す」ということを含めた、「日本を、取り戻す」なのかもしれないが。そうだとしたら、財務官僚は大喜びだと思うが。


某公党様の話題になった痛車仕様の街宣車

 次回最終回は、第5種の過誤(ミーちゃんはーちゃんによる提案)について触れる。
 
 
 
評価:
Howard Raiffa
Belknap Press
¥ 4,570
(2007-03-31)
コメント:いい本だったけど、確率論の知識とゲーム理論の知識がないと、しんどいかもしれない。

 
 2014年12月20日午後1時より、NHK E-テレでこころの時代の再放送があるので、一応告知しておこうかと。

 NHK Eテレ三のサイトこころの時代〜宗教・人生〜「“小さきたね”をまく」を張っておきます。

「人生は神と自分のコラボレーション」と語る坂岡隆司さん
お話しされている坂岡隆司さん


「小さな心のたねをまき続けている」という京都の社会福祉法人理事長・坂岡隆司さん。「聖書のことば」に支えられ「神と自分がコラボレーションしている人生」を聞く。

「街頭で配られた1枚のビラからクリスチャンになった」という、京都の社会福祉法人理事長・坂岡隆司さん(60歳)。「弱きひとたち」に寄り添う毎 日を送る。その取り組みは「小さな心のたねを、まき続けること」だと考えている。「世の中は、神が準備していることに、たまたま出会うことの連続。神と自 分のコラボレーション」と語る坂岡さんに、「聖書のことばで歩んできた人生」を聞く。

【出演】社会福祉法人理事長…坂岡隆司,【きき手】杉浦圭子



非常によかったので、お勧めしたい。

 事前に内容を知りたい方は、下記のアドレスをどうぞ。

こころの時代視聴記 「“小さきたね”をまく」
 坂岡隆司さん








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 今回は引き続き、小平先生の本が素晴らしかったのと、NHK E-テレのこころの時代が素晴らしかったので、ちょっと(かなり)回り道をした。

 今回もまた、キリスト教書業界における第3種の過誤について考えてみたい。特に今日は流通部門に関して話をしていきたい。

 第3種の過誤は、前にも御説明した通り、「間違った問題を一生懸命解いて間違った問題に対する正解を出す(要するに意味がないことをする)」という過誤である。 どうもキリスト教書流通業界にも、この第3種の過誤にはまっていると思われる。まぁ、他のキリスト教界でも、他の業界でも、この種の過誤に入っているところは少なくないが。

キリスト教書流通の問題

 例えば、キリスト教書業界の書籍流通では、以前にも指摘したように

 1)教会とか牧師先生に押し込み営業した時に確認せずに引き取って帰ってくる
 2)平信徒ガン無視体制(お届けは教会のみ)
   2a)教会のみはつけ決済(書店の発行する信用クレジット)で購入できる
 4)書店員は書籍を知らない(→ Popは基本つけない)
 5)売れ筋は書店員も卸もあまり把握していない
 6)既存流通ルートは与件(デフォルト設定)で、それから外れられない。
 7)欲しい本が客先に届くために時間がかかっても流通者は関係ない。

などなど、という慣行がまかり通っている。このうち、かなりのものが第3種の過誤から発生していると思う。いくつかのものを取り上げて、どこがミーちゃんはーちゃんにとって、第3種の過誤に見えるか、ということをお話ししたい。

 まず1)は論外なので、2)平信徒ガン無視体質 から。

平信徒ガン無視体質

 確かに、従来は信徒が本を読まなかったし、まぁ、読ませない派の教会もあった。ミーちゃんはーちゃんのところのキリスト者集団の出版社からは、「同社から出ている本以外読まないのがよい」と書かれた本も出ている。まぁ、それはそれでご意見として承っている。

 いま、地方部でも、都市部でも、司牧のいない教会、信徒のいない教会が陸続と出ているようである。そうなると、司牧がいなくても、一定水準の教会活動が運営できるように、信徒リーダーが一定程度のことができれるようにすることが必要なはずで、そのための信徒リーダーの育成が急務である。じゃぁ、そういう人たちが読むべき本が現在、十分そろっているか、と言えば実はかなり怪しいと思う。確かに、信徒リーダーに薦められる本は皆無でないが、バランス良くそろっているとは現状ではいえないように思う。

 そうなると、信徒にできることはただ一つである。玉石混交であることを知りながら、ネットの世界へGo! Go! Go!である。だって、必要なものが市場に存在しないんだもの。しかし、これはお金を生み出さない。つまり、ビジネスにはならない。

3すくみ状態のキリスト教書の
ステークホールダーたち

 何故、そのような本が出ないかと言えば、牧師は、信徒が本を読まないからだ、出版社がそのような本を出さないからだ、と言い、信徒は、読むべき本がないといい、出版社は、信徒が本を買ってくれないし、牧師がそういう本を書いてくれないからだ、と言い、という3すくみ状態になっているのではないだろうか。

 まず、その3すくみ状態の中で、キリスト教書流通(小売りを含む)は、今どうしていいのか、迷いの中にあると思う。毎月のように陸続と、多種多様な本が送り込まれてくる。それを店頭に並べ、あるいは見込顧客のところに持ち込み、発注のある本を卸商(取次)に注文し、あるいは教会などに訪問販売して、なんとか生き絶え絶え状態の中で営業しており、それが不可能であるから、どんどんリアルの店舗の閉鎖が相次いでいるように思う。

企画販売・慣行見直しする余裕もない卸

 キリスト教書卸はキリスト教書卸で、出版社からドカッドカッと送り込まれてくる書籍をとりあえず関係の深い書店に卸し、書店から陸続と返本されてくる書籍を今度は出版社に返本していくという作業に日々追われていて、現実にどういう流通が望ましいのか、最終消費者である読者の需要をどう喚起するのか、そこまでの流通ラグをどうすれば減らせるのか、現状の書店流通の改善や大規模な改革なんて考える時間も余裕もないほどの日常を送っていると思う。

 こういう現状を見ていると、卸は卸の役割を果たせていなくて、モノを右から左に流すだけの倉庫業者同様の作業舞台となっているとしか思えない。出版社との間でどのように物流改善を考えるか、複数の出版社の商品を組み合わせたフェアの開催、卸商同士の間でどのような提携がありうるのか、あるいは書店との間で情報流をどう考えるのか、どのようにフェアを組んでいくのか、等という本来の卸の役割に関すると思われること等はできていないのではないだろうか。まぁ、慢性的な人材不足なのであろう。

 書店も、出版社も、卸も、買ってくれる対象(教会と牧師先生方)にしか本を売らないって、どやさと思う。市場開拓という言葉は、新しい教会ができたときにその教会に訪問すること位しかないかのようである。

現行の流通ルールは何年前のもの?

 流通分野での第3種の過誤は、現状の流通のルールを前提に一生懸命問題を解いていることのように思えてならない。
 現状の物流のルールを示すとこんな感じなるだろう。

初版出版時

  出版社 → 卸商(取次) → 書店 → 読者(教会) → 教会員

取り寄せで買う場合

  読者 →(電話・訪問)→ 書店 → 卸商(取次)  → 出版社
  出版社→ 卸商(取次) → 書店 → (読者が買いに行く) → 読者  


 書店から取次が1日 卸商(取次)から書店まで本が運ばれてくるのに、1〜2日。書店からの連絡で1日、書店に取りに行くのに1日。これだけで、最低4営業日である。

 巡回販売の場合ついでに持ってきてもらうとした場合、さらに2週間から3週間である。地方部なら、さらに1から2週間かかる。急ぐ場合、郵送やらメール便で送ってもらったら、さらに、配送費まで読者負担という場合もあるだろう。

 ネット書店だと、最短2営業日、交通至便の地であれば、発注時間帯にもよるが、最短当日という日程で到着するのだ。

Amazonや楽天ブックスなど
ネット販売のバックボーン

 Amazonやネット書籍通販等が画期的なのは、実際にはかなりの書籍に関して卸(疑似的な取次の倉庫機能)と小売と物流を合わせた機能を持っている点である。つまり、自社が疑似的な卸商と小売流通の配送を兼ねながら、物流にかかる時間の短縮化が図られており、さらに在庫確認がすべての人に公開することで、図書の購入予測ができるということが可能である点である。その意味で、読みたいと思った本が、割と待ち時間なく読めるということなのである。1997年ごろにシアトルの南側の大学にいたが、その当時から、大学院生や教員の間でもAmazonで商品の取り寄せが割と普通になりつつあったが、個人的には、結構Barns and Nobleなど、いつもいくスーパーの近所にあったリアルな書店でも買っていた。

配送業者さんありがとう

 ところで、日本で、ネット通販が割と可能であるのも、まぁ、これもクロネコヤマトさんや佐川急便さん、日本郵便さんなどの運送業者さんのシステム化が図られたことが大きく寄与している。世界広しと言えども、本日出して、明日お届け、それもほぼ間違いなく、というサービスはあまりない。まぁ、FEDEXさんやUPSさんも頑張っているが、日本ほど、お客のワガママに答えてくれるような輸送業者をミーちゃんはーちゃんは寡聞にして知らない。だから、日本の運送業は職場環境が厳しいところが多い。

 しかし、現状の書店流通のやり方は、30〜40年前、鉄道便で運送していた時の運送ルールをいまだに前提としているのではないか、と思うほどの遅さである。いまだに、一般雑誌ではその時代のルールが守られているため、九州の大学の先生が、一般の月刊誌とか週刊誌、東京だとその日に買って帰えれるのに、九州だと、早くて一日遅れ、通常二日遅れなんだよねぇ、とぼやいておられたことを思い出す。

一生懸命でも駄目なものはダメ

 しかし、これって、なんかエクセルが使える時代に、わざわざ計算尺や、タイガー式計算機やパンチカードを使って、一生懸命やってます。どうです。すごいでしょ、と言っているのと同じではないか、と思う。これが第3種の過誤の典型例ではないか。



計算尺 「風立ぬ」で主人公が使ってたのが計算尺



タイガー計算機 その昔、大学に転がっていた



パンチカード 
一番最初のころ、これがハードディスク代わりだった。

 確かに一生懸命することで部分最適化は図れるだろうが、全体最適化は図れないのである。その意味で、従来のビジネスモデルを前提にせずビジネスを構想し たからこそ、Amazonは成長でき、従来のビジネスモデルを延々続けていた町の小さな書店は滅びてしまうことになりかねない。その予兆は、すでに、ユー・ガット・メールという映画の中でも感じられる。まぁ、町の小さな書店はできる限り応援しているが。


You've got mail の 予告編

ネット書店の利点でリアル書店にないもの

 ネット書店の場合、キリスト教や聖書などに関する多種多様な歴史や関連分野の書籍を含め、発注できる点は大きい。キリスト教は西洋の哲学や歴史と密接に関係しているし、それらの西洋詩や西洋哲学や社会にまつわる一般書籍、あるいは、専門書を含め関連知識も必要になる場合がある。そういう本をまとめて発注できる点は大きい。リアルなキリスト教書店の場合、キリスト教書がある程度そろっているものの、店頭在庫がない本もあるし、店頭に見つからないときには、店員さんに聞いて見つけてもらうことになる。店頭になければ、経営主体が同一の店舗(僚店)からの取り寄せができればいいが、僚店のない場合、取次に連絡が入り、と、もうその瞬間、入手できるのは最短4営業日はかかることになる。

 また、多くのキリスト教書店では、書籍の種類が多く、店頭滞留時間が短いので、売れ筋であれば、書店員さんの記憶や印象に在庫の有無が意識されるが、売れ筋でないものの場合、書店在庫情報は、かなり怪しいし、目的の本がどこにあるのか、ということも定かでないことも多い。在庫状態が、すぐに見えない、すぐにわからない、検索できないというのは、そういう世界に飼いならされたミーちゃんはーちゃんには、つらいところがある。

 リアル書店情報化してくださいとは言わない。もうちょっとリアル書店、本を探しやすくするか、在庫の有無聞いたら、この半年くらいに出た本は、在庫の有無を答えられるようにしてもらいたいなぁ、と思うこともしばしばである。

ネット書店になくてリアル書店にあるもの

 時々お伺いするキリスト教書店さんがあるのだが、そこではとんでもない出会いが用意されていることがある。それは、何をさておいても立ち読みの機会と雑誌である。最近でこそ、雑誌もAmazonなんかでも扱うものも増えたが、まだまだである。それがリアルな書店に行くと、そこにおいてくれている。また、ネット通販業者では、一部売れ筋で、出版社が提供しているものに関しては立ち読みができるが、基本、ほんの一部しかNGである。しかし、リアル書店では、それを全部見ることができる。
 また、もう入手不能だと思った書籍(人呼んで、デッドストックという)や地元のキリスト教関係のイベント(でも、毎週いかないと分からない…そこまで時間がない…)、そして、ごくまれに人との出会いである。本を探しているときに、書店員さん以外の偉い先生と思しき方(滅多にそんなことはないが)から、本のご紹介を受けることがある。まぁ、これは、リアル書店でないと無理な話かもしれないが、こういう機会はごくまれにしか経験できない。
 こういうところをもっとうまく活用してくれないかなぁ。

 次回以降は、第4種と第5種の過誤と、キリスト教業界にはびこる第4種及び第5種の過誤について説明していきたい。



価格: ¥1,545
ショップ: LAWSONほっとステーション
コメント:今になれば、2880bpsとかのモデムでAOLでネットしてた頃が懐かしい。



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御本との出会いは突然に

 こないだ、世俗の仕事で東京に新幹線に行くときにFacebookをだらだらと確認していたら、出版社ヨベルの安田さんが、面白そうな本の紹介をしていた。うちの近くでも積極的に活動しているニューコミュニティ教会の小平先生のお父様の御本とのことであった。いつも、拙宅にもチラシが配布されてくるので、チラシの内容を拝見していると、息子さんの小平先生の書かれるものは、表現は柔らかいながらも、コアの信仰の部分はなかなかガチな教会でいらっしゃるのだなぁ、と拝見していた。

 ミーちゃんはーちゃんは、結構コアな福音派のガチの信徒であるが、あそこまで物言いはやわらかではないし上品でもない。比較の対象が悪すぎる、という話はお認めしたい。

 仕事が早くはけたので、ヨベルに別件の仕事もあったのでお伺いし、小平照夫先生の本をおねだりしてもらってしまった。安田さまご恵贈いただき、ありがとうございました。

無い物尽くしの中での開拓伝道

 この本を読んで、すごいなぁ、と思ったのは、18ページあたりに書かれていた、1950年代後半の何もなかった茨城の羽島の神学校の姿や、神田の本部の紛争と混乱、女性宣教師を求めるところに夫婦者が派遣されたことに伴う混乱、高度経済成長前期の日本の貧しさ、また、西宮の下町地区での伝道の厳しさ、社会インフラの乏しい中での伝道と求道者家庭の無理解と誤解(明治期も実際には禁教に近いスタンスがとられているし、20年周期で繰り返される文化的開放と国粋化の波を受けているから仕方がない)、西宮戎(関西でも最大の戎神社の一つ。毎年の福男レースはニュースになるくらい)の氏子衆の中での伝道(これはあんまり書いてなかった)、などとおられた苦労は涙なしには読めない程である(相当ご苦労されたことは理解に難くない)。ガリ版(昔の印刷のためのグッズ、薄い謄写紙にやすりの上で字を書いて穴を開け、そこからインクをローラーで流し込んで印刷する孔版印刷、今のリソグラフの原型)のセットがほしいと祈ったとか、最初に買った備品が大型の薬缶とか、すごすぐる。



2013年の西宮戎神社での福男レース


 そもそも、関西は、人が住んで以来3000年くらい、そして日本人が文字を持って以来1500人が住んでいる地域なので、結構古い文化が残っている地域なのだが、西宮もその例に漏れない。

え、ハドソン・テーラーの影響

 一番驚いたのは、小平先生の時代の方は、結構中国インランドミッションをはじめ、現OMFの礎を築いたハドソン・テーラーがお好きなことである。この中国で、オリンピック選手の英国選手(実際はスコットランド人)リデル(空飛ぶスコットランド人と呼ばれた)は、中国で戦争に巻き込まれ、宣教地で日本軍に身柄を拘束されている中で病没する。


The Chariots of Fireの予告編

 ローワン・アトキンスン・バージョンのロンドン・オリンピックでのパロディ画像はこちらからどうぞ。個人的には、こっちも好きだけど。

中国インランド・ミッションとブラザレン

 実は、インランドミッションの基礎でもあるFaith Missionでは、日本では、松江バンドのバクストン(日本伝道隊)が有名であるが、世界的にはハドソン・テーラーが有名人である。しかし、このハドソン・テーラーに影響を与えたのは、ジョージ・ミューラーという、ユダヤ人伝道のためにイングランドにやってきた、ドイツ系の宣教師である。このジョージ・ミューラーは、プリマス・ブラザレンの教会の責任者(まぁ、牧師のようなもの)であり、彼が始めたアイルランドでの孤児院伝道は当時有名だったらしい。同志社に講演に来たこともある模様。このジョージ・ミューラーの存在はハドソン・テイラーにとって重要だったらしい(中国インランドミッションに行く前、ハドソン・テーラーはジョージ・ミューラーにわざわざ会いにいっている)。なお、このジョージ・ミューラーはある人物に影響を受けている。その人物とは、国教会系の伝道組織に断られ、歯科医の職をやめ、バクダッドにロシア経由で私財を擲って伝道に入ったプリマス・ブラザレン運動の祖、アンソニー・ノリス・グローブスである。これらの人物は、元をたどれば、このアンソニー・ノリス・グローブスの影響を受けているのだ。

 ディスペンセイション神学といい、Faith Missionといい、まぁ、伝染力の強いグループだといえよう。 相関図にするとこんな感じか。


Faith Mission関係人物相関図

 まぁ、プリマス・ブラザレンとキリスト集会群は直接関係がないようであるというのが公式見解のご様子なので、大変失礼なことを申し上げているとしたら、お許しいただきたい。

中国が霊的暗黒の地なら、日本は霊的ブラックホールかも

 照夫先生の本には、次のように書かれている。

 私はハドソン・テーラーの「回想」という本を何べんも読み返したことがあった。母親は彼を体内に宿した時から、この生まれてくる我が子がやがて、あの霊的暗黒の地、中国に宣教して出ていくように願った。生まれたテーラーは幾多の変遷の後、奇跡的な回心を経て、母親の祈りのように、中国大陸への宣教の召命を受ける。150年も前のことである。(p.23)
 この部分を読みながら、中国が霊的暗黒の地なら、日本はさしずめ、霊的ブラックホールかもしれない、と思った。正直なところ。

キリスト者が陥り易い
ゲットー・メンタリティー?

 後、最近香ばしい話題を提供しておられる日本を愛する会の皆さんに是非読んでいただきたい部分があるので、小平照夫先生の本(非売品なので)から引用しておく。

 初代教会の宣教は初めパレスティナのユダヤ人キリスト者によって行われた。しかし、その働きはだんだんとディアスポラ・ユダヤ人キリスト者にバトンタッチされていった。ステパノ、サマリヤ伝道のピリポ、説教者アポロ、そして使徒パウロ、この人たちは皆、ディアスポラ・キリスト者であった。何故、神は彼らを世界宣教に用いられたか。多くの理由がある。その中で大切なことは、彼らが異文化の中で生まれ、育ち、その中に住み、やがて主の御救いを受けたとき、異文化の受容すべき要素と、対決すべき要素とを、よくわきまえていたことである。
 彼らはキリスト者が陥り易いゲットーメンタリティーの中に閉じこもらず、福音のゆえに進んで自己の殻を打ち破って進んだに違いない。真の謙遜というものは、進んで自己を他に知ってもらい、自分も他を知っていくという広い心の中にある。この信仰姿勢がパウロのこの御言葉(引用者注 直前に第1コリント9章19₋23節が引用されていた)の中に表わされている。
 私たちは「伝統」の受容と対決、「異文化」との対決において、注意深くなければならない。西欧化されたキリスト教の目をもって無批判的に日本文化のすべての打ち捨てることはよくないし、その反対に内村鑑三、中田重治などに見られる西洋キリスト教への対決姿勢にも日本人的閉鎖性の影を見せられるようである。
 主の福音を民族主義、伝統主義、文化、風俗、習慣によって縛ってはいけない。私たちは聖霊の助けによって「大宣教命令」に忠実でなければならないのだ。「失われた一匹の羊」を救うために尊い血潮を流された主イエスキリストの御業に忠実であり続けたい。(pp.79₋80)
 小平照夫先生、

 真の謙遜というものは、進んで自己を他に知ってもらい、自分も他を知っていくという広い心の中にある。

 西欧化されたキリスト教の目をもって無批判的に日本文化のすべての打ち捨てることはよくないし、その反対に内村鑑三、中田重などに見られる西洋キリスト教への対決姿勢にも日本人的閉鎖性の影を見せられるようである。

 主の福音を民族主義、伝統主義、文化、風俗、習慣によって縛ってはいけない。

まさに、御意でござります。日本の伝統が深く残る地域で伝道の現で徹底的に現場からお考えになられた方からのご発言として深く受け止めたい、と存じます。

驚くべきすがすがしさ

 あと印象的だったのは、

 若いころからこのみことばが好きであった。
「幻がなければ、民は堕落する。」(新共同訳 箴言29:18)
 神の民は、いつも神のビジョンに生きなければならない。時の流れに流されて、惰性にしがみついたままで居てはいけないのだ。
 神のビジョンに生き、神の御業に参与していくためには、喜んで犠牲を払う覚悟が必要である。

(中略)

 私の妻・邦子が私たちの牧会伝道を振り返って、その伝記を書くとすれば、テーマは「楽しかったね。お父さん」であるといったように(後略)
(p.176)
という部分である。まぁ、すがすがしい。ここまで言ってのけられてしまうと恐れ入り谷の鬼子母神である。ビジョンを作るのを忘れ、キリスト者どうして内ゲバ(まぁ、これはヨーロッパでも同じようなことをやってきた黒歴史がいっぱいあるのでどうもプロテスタントのお家芸かもしれないが)をし、その責任追及するかのようなご発言を繰り返される方々に、「それするよりも、これからのちゃんとしたビジョンを個々の教会できっちり作り、それをおやりになりませんこと。共通化ではなく、それぞれの教会群ごとで」って笑ってお話になられそうな小平先生の雰囲気が伝わってくる。ちなみにミーちゃんはーちゃんはデブ症で出不精なので小平照夫先生とも小平牧生先生とも直接の面識はない。一度突撃取材を敢行できればなぁ、と思っている。

 小平照夫先生、楽しい御本をお書きいただき、ありがとうございました。ただ、返す返すも残念なのは、この本が非売品であることである。1500円なら日本の福音派の教会史の貴重な資料として売れると思うのだが。







 



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  今朝も、ここの時代を視聴していた。非常に面白かったので、ご紹介する次第。メモを取らずに拝見したので、おおむねご主張の主要部分はある程度の精度を以て記録、記憶していると思うが、足りない部分は再放送をご覧あそばされたい。

 NHK Eテレ三のサイトこころの時代〜宗教・人生〜「“小さきたね”をまく」を張っておきます。

「人生は神と自分のコラボレーション」と語る坂岡隆司さん
お話しされている坂岡隆司さん


「小さな心のたねをまき続けている」という京都の社会福祉法人理事長・坂岡隆司さん。「聖書のことば」に支えられ「神と自分がコラボレーションしている人生」を聞く。

「街頭で配られた1枚のビラからクリスチャンになった」という、京都の社会福祉法人理事長・坂岡隆司さん(60歳)。「弱きひとたち」に寄り添う毎 日を送る。その取り組みは「小さな心のたねを、まき続けること」だと考えている。「世の中は、神が準備していることに、たまたま出会うことの連続。神と自 分のコラボレーション」と語る坂岡さんに、「聖書のことばで歩んできた人生」を聞く。

【出演】社会福祉法人理事長…坂岡隆司,【きき手】杉浦圭子



 上に示すように今朝の放送は、京都の社会福祉法人理事長・坂岡隆司さんのインタビューが放送であった。以下、ミーちゃんはーちゃんが気になった表現を拾ってみる。

小さいということを認識していることの大事さ

 小さいということに対する認識、自分自身の小ささを受け止めていることが重要ではないか。

 これは案外重要な話だと思う。キリスト者は信仰をもったぐらいで、すぐ自分は何者か、重大な人物になった気がする人も少なくないと思う。それは本来、トラの威を借りるキツネどころか、トラの威を借りる飼いネコ状態であり、神の威を借りるクリスチャン状態であるのにすぎないのに、すぐ上から目線になる。そんなんあかんやろ、と思う。

 ミーちゃんはーちゃんこそ、「神の威を借りるクリスチャン」状態ではないかって?そうですよ、でも、個人的には、自分自身の至らなさくらいは何とはなく認識しているつもりではある。

第2コリント12:9
主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。
(新改訳第3版)
くらいは知っているキリスト者であるからである。

 ミーちゃんはーちゃんのお友達のブログが面白い。この方のブログを見ていると、大して内容のあることは書いてない。日常の雑事のみが書いてある。神学論文を書いたり、必ずしも神学論争をしているわけではない、日常に起きた瑣末事の連続がだらだらと記載されているだけなのだが、この人は神とともに生きているのだなぁ、と思うので、ちょっと紹介しておく。こちらからどうぞ。

全ては一枚の小さなトラクトから

 面白かったのは、この坂岡さんという方が神と出会ったのは日本聖書協会の薄っぺらい実に1960年代的なデザインの印刷物である「聖書を読みましょう」のトラクトを中学生時分にもらったことだという。そのなかに「聖書は変革する書です」(ここは記憶が定かでない)という表現があり、そこに引かれて教会に行き、お受洗(じゅせん)へと導かれたということであった。どうも、坂岡さんは当時お父様との確執(詳細不明)があり、それを何とか変えたいということで聖書に出会われたようである。

 個人的には、「もうトラクトの時代ではないかなぁ」と思っているが、キリスト者が何らかの形で、神が存在する、聖書を通して神が神との愛の相互関係の中に招いておられるということをその人なりの方法で示すことは大事だと思う。それが幼稚園で働くこと、保育園で働くこと、トラクトを蒔くこと、障害者施設で働くこと、ネットで発言すること、牧師をすること、信徒であること、日曜日に教会に行くこと、論文を書くこと、出版事業にかかわること、電書を出すこと、讃美歌をうたうこと、何であろうと。

荒野を放浪するキリスト者

 その後、大学受験となるが、入学試験に不合格となり、その後日本のあちこちを放浪することになり、そこで悶々とした時期をお過ごしになられたようだ。そこで当時阿蘇で活動されていた宣教師の方のところにたびたび訪れられたようだ。

 この放浪というのが案外重要だと思った。それは、ある面で、静まるためであり、鎮めるためでもあった、と思うのだ。イスラエルも、静まりのために荒野を40年間も放浪することになっている。国民として静まるためには、40年が必要だったのかもしれない。ナザレのイエスも公生涯をはじめるにあたり、40日間の静まりの時期をもっておられる。また、公生涯の途中でも、弟子たちを離れ、時々、静まりの時をもっておられる。それをデヴォーションという人もいるかもしれないが、今風のデヴォーションとは、ちょっと違うように思う。そのあたりを知りたい方には、最下部に示したナウエンの「静まりから生まれるもの」を紹介したい。

 旧約聖書に戻れば、たくさん事例がある。ヨナも、ヨブも、モーセも、エレミヤだってそんな節はある。

 神は時々、人に荒野に行かせると思うのだなぁ。神との関係を深めるための愛の招きではないか、と個人的には思っている。まぁ、荒れ野にいるときの現実は結構めんどいんだけどね。

 統合失調症患者の方の詩が紹介されて、その中に、非常に印象的な表現があった。趣旨としては、

現代の社会で、人は無言堪えかねてモバイルツールにしがみついている

ということであった(と思う)。ある面あたっていなくもない。この趣旨のことばを聞きながら、ナウエンが面白いことを書いていたこととがつながった。

 ナウエンが生きていた当時の若者は野原にピクニックに行くにも、そこで流れている神の自然の音楽を聞くのではなく、ウォークマンを持っていって、それを聞こうとする。自分自身を神との空白にさらすことに耐えられないのではないか、というナウエンの指摘である。我々は、現代人として、自分の意思を実現する傾向がありすぎ、神の意志を聞くことにどれだけ熱心なのかを問われたように思う。この記述が、どの本だったかは記憶にない。

 また、ナウエンは「両手を開いて」という祈りに関する本の中で、人間は銀貨を握りしめている状態であると言っている。本来神の前に手を開くべきであるにもかかわらずということを言っている。現代人は、神の前に両手を開く前に、モバイルツールを握りしめているのかもしれない。

 まさしく、荒野とは、この空白の中で、両手を神の前に開き、神と出会うということであり、その空白を埋めてはならんのではないか、ということに関するナウエンの指摘だったと思う。

 時々ミーちゃんはーちゃんがやる「レクティオディヴィナ」という方法がある。なかなか良いと思うが、そこでは空白、何もないということのようである。やり方を詳しく知りたい向きには、最下部の目からうろこシリーズの司祭の参考書をお奨めする。

たましいの自立

 個人的に重要だと思ったのは、坂岡さんが「たましいの自立」ということを考えながらケアされているということであった。坂岡さんがおっしゃっている意味をもう少し、ミーちゃんはーちゃんふうに言うと、「たましいの完成(Teleios)」というか、「神を受け入れ、神に受け入れられ、神と一体となった神の愛の関係性」あるいは、「神によって義とされた」ということだと思うのだ。ミーちゃんはーちゃんの終末というか最終的な神の計画の完成形の理解は、人が、神に愛され、神を愛し、神によって義とされることが完全になることである。

 本日、この後、午後の集まりで、クリスマスに関するお話しをするが、その焦点は、次の聖書に記載されている天使が語ったとされる次のことばである。

ルカ2章14節
「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」(口語訳聖書)


 これこそ、聖書の言う完成(あるいは終末)であり、坂岡さんのおっしゃる「たましいの自立」の姿だと思う。その意味で、通常日本語にいう「自立」というイメージが持つ、一人で頑張って生きられる意味ではなく、神と共に人が共に並立して、神に愛されたものとしての存在の尊厳を喜ぶような姿をお目指しなのではないか、と思った。それこそ、聖書にいう完成であり、Teleios なのだと思う。それを終末や携挙(ミーちゃんはーちゃんが使っている日本語聖書にこの語は一切出てきた記憶がないがそれは、ミーちゃんはーちゃんが聖書を十分読んでいないからであろう)という言葉から発想される地球崩壊話にすり替えたがる皆様がたが結構、ミーちゃんはーちゃんの回りに多いのが困りものだが。

たまたまと召命

 最後のあたりで、インタビュアーの方が、坂岡さんに「たまたま人生の転機にあってそれで選んでこられた」という趣旨のことを投げかけておられたが、ミーちゃんはーちゃんも齢50を過ぎて思うのは、「たまたま」こそ召命ではないか、と思うのだ。「たまたま」を偶然と取ることも可能であるが、「たまたま」は偶然というよりも神の介在を認識する場だと思うのだ。日常生活は、日が昇り、日が沈んでいく。世の中に多くの「たまたま」が起きていてもその大半は自分には関係がない。必然性もない。モーセやエレミヤ、ダビデをはじめとする旧約聖書の預言者たちも、平平凡凡と生きていただけである。しかし、それがあるときに「たまたま」というかある瞬間に神の地上への進出のような形で介在を見るのだと思う。英語で、Out of the Blueという表現があるが、まさしく青い空から突然降ってわいたような感じで、あとで見れば、あああれは神の地上への介在だったかな、と思える瞬間があるように思うのだ。それは、こちらの意図によらない。神の意図だと思うのだ。大体、そんな降ってわいた様なことの連続に耐えられるほど大半の人間は頑丈にできていない。まぁ、そういう降ってわいた様な事を求めることも本来はよくないと思う。それは神の支配というか神の領空にかかわることだから。神の領空に対する領空侵犯は、ろくでもないことだ、とミーちゃんはーちゃんは思っている。

拝見しての感想
 この番組は、あるところで開催された工藤信夫先生からのご紹介もあったので拝見したのだが、大変印象的であった。我々は、つい、大規模化、寮の追求、各町思考を目指すが、小さいものが小さいままでいることに案外重要な要素が隠されているのかもしれない、と思った。題を目指すのではなく、小ささとその限界を見極めながら、小さいものが小さいものとしてすることの重要性を改めてして考えさせられた気がする。

 昔読んだワインバーグというシステム思考の本に、白パン工場のたとえが出てくる。なんかその話を思い出した。噺の概要はこんな感じである。

 あるご婦人が、スーパーで買ってくるパンがあまりにまずいので、自分で家族のためにパンを焼くことにした。それをパーティとかで友人や近所にふるまったところ、あまりにおいしいので、お金を出して買いたいという人が出てきた。彼女はパン焼き窯を買い、家族に手伝ってもらいそして、どんどんパンを焼いた。そして、工場を建て、もっとパンを焼いた。また、配達の人を雇い、遠隔地にまで届けるようにした。長期保存に耐えられるよう添加物を入れて販売した。そして、さらに各地に工場を建てた。そうして、彼女の焼くパンもいつの間にか、彼女がそのまずさに腹を立てていたそのパンと同じような味になっていた。


 キリスト教も同じではないだろうか。数を頼み、コンスタンティヌス型のキリスト教を目指すような拡大志向でいるキリスト教って、どっかこの白パンの話と同じような感じもするのだが。昨日の記事で指摘したように。

 教会が少数者であり続けるべきだ、とは言わないが、預言者的性質を失ったキリスト教って、ヨーダー先生がいうようにナンセンスかもしれない。








評価:
価格: ¥810
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コメント:薄い、わかりやすい、読みやすい。が本質は外してないと思う。お勧めである。



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 これまで、このブログでも日ユ同祖論やら、それを契機にした日本伝道とか、天皇家はダビデの子孫として尊敬すべきとか、神道は基本ユダヤ教だから、神道をキリスト者はもっと学ぶべきとか、再臨(というか地球消滅)を契機としたリバイバルを目指してきた人々とそれに対する個人的な違和感がある旨を陳べてきた。なぜ、これらのことに関する違和感があるかということについて、今日は、それをまとめて、もう少し書いてみたい。

統計学での過誤概念

 統計学の検定論の中で有名な議論に第1種の過誤Type I errorや第2種の過誤Type II errorがある。詳しくは、統計学の基本的な教科書を読んでほしい。

 Wikipediaの統計的検定にまつわる過誤の記事でもある程度概要がつかめるであろう。そもそも、統計学的検証がなじむのか?という問題もあるが、少し考えてみたい。

キリスト教界の第1種の過誤Type I Error

 第1種の過誤(本当はある仮説が正しいのに正しくないとする場合)の例を考えてみる。

 「あるリベラル派の神学者は聖書を真剣に重視している」

という仮説に関して、一部の福音派の皆さんの理解は第1種の過誤状態になっているっぽい。なぜならば、一部の福音派の皆さんは、

 「すべてのリベラル派の神学者は、聖書を真剣に重視してない」

と思いこんでおられるようであるからである。

 つまり、「あるリベラル派の神学者は聖書を真剣に読んでいる」という事実が存在するのに、自分の無理解や思い込み(リベラル派の神学者は聖書を真剣に読まない)から、現実を無視し、特定のリベラル派の神学者のありようを、すべてのリベラル派の神学者全般に対して、一般化し、誤った結論を出しているように思えてならない。

キリスト教界の第2の過誤 Type II Error

 第2種の過誤(本当はある仮説が間違っているのに、正しいとする場合)の例を考えてみる。

 日本人とユダヤ人は同祖である

という仮説が無理っぽいことはすでに以下のリンクでお示ししたとおりである。


日ユ同祖論というトンデモ理論について その1

日ユ同祖論というトンデモ理論について その2

日ユ同祖論というトンデモ理論について その3

日ユ同祖論というトンデモ理論について その4(最終回)



 つまり、日ユ同祖論が妥当性は著しく疑問であるのに、普遍的に日ユ同祖論が成立するという結果を出すという点において、日ユ同祖論は第2種の過誤に近いと思えるのである。

第3種の過誤 Type III Error とキリスト教界

 現在キリスト教会近辺では、これは第2種の過誤も発生していることに加えて、第3種の過誤(Type III Error 正しい問題を解くべき時に、誤った問題を一生懸命解決しようとした結果、誤った結論を得る)という状況が生まれているのではないか、と思うのだ。なお、第3種の過誤等の過誤概念の拡張に関しては、こちらの過誤種別拡張の提案からまずはご覧うじられたい。

 個人的にこの第3種の過誤の概念を知ったのが、最下部で示すMitroffの本だったので、個人的には、Kimballの「間違った問題に正しい答を与えることによる過誤」の路線に乗っており、Mitoroff and Fotheringhamの第3種の過誤の路線「正しい問題を解くべきときに間違った問題を解く過誤」に則っている。

 実は、今回の「日本を●するキリスト者の会」の広告問題にしても、また、終末預言問題を起点にした伝道熱心さにしても、この第3種の過誤「正しい問題を解くべきときに間違った問題を解く過誤」に陥っているように思えてならない。それは、ミーちゃんはーちゃんが第2種の過誤を起こしているからかもしれないが。

 ところで、「日本を●するキリスト者の会」の皆様のご主張は、戦後の伝道体制、日本的なるものに批判的であったキリスト教の一部の皆様のあり方について、否定的なご意見を申されようとしておられ、伝統的(いつからか、ということは別として)とされてきている日本の道徳や行儀作法などの好意的な問題に対する美意識などの再回復や復興というか復古が想定されているようである。

何をもって理想の日本とするのか

 ところで、何をもって、日本的あるいは、日本の伝統、文化、歴史とするのか、という問題がまず問われなければならないのではないか。日本を●するキリスト者の会の伝統的な日本的な美意識とは、このようなものであろうか。以下のリンク先 http://d.hatena.ne.jp/naoshi11/20101020 でみられる画像は、日本の伝統絵画の日本画の作品の一つである。若冲ほどの名人ではなさそうだが、江戸期の日本画である。
20101021094415
 なお、元画像は、福島県会津美里町が権利を保有しておられる。なお以下の文章は、上記画像を掲示しているhttp://d.hatena.ne.jp/naoshi11/20101020 から転載している。

 岩手県胆沢町史によれば、「…牛馬の肉を食するのはふつうで、人肉を食する者さえあり、老母の死体を五百文で売買し、嬰児を食う母親もあり…」や「…幼き者の手を取り、老いたる親か母かとおぼしき者連れ立ち、さまよい行く姿、哀れなり。道具、身のまといの物一つ一つを売りて次第に食い果たし、ついには、ここかしこに倒れ伏し、飢えて死するこそ哀れなり。…」

という惨状であったらしい。こんな日本は果たして美しいのだろうか。極端な例を持ち出しているという意見もあるのがわかるが、しかし、これとて、過去の江戸期の日本の歴史というか現実なのである。例外であるといわれるかもしれないが、東北では、この種の惨状が、過去から現在まで繰り返されてきたのである。

 こういう日本が美しいか、というのは、戦後のマッカーサー体制で生まれてきて、日本教職員組合盛んなりしころ教育を受けた自虐主観主義者のたわごとといいたければおっしゃればよい。

 しかし、上記の天保の飢饉の絵画は、江戸期の日本画家が書いたものであり、その悲惨さを後世に残し、後世の教訓とするために描いたものではないだろうか。自虐史観主義者の江戸期の日本画をご存じであれば、ご教示、ご紹介願いたい。また、胆沢町史に記載されている記載内容も、自虐史観主義者のねつ造だろうか。恐らく江戸期の古文書を現代文に書き直したものであろうと思われるが。

 他人の論文の恣意的なカットアンドペーストは、おぼちゃんと呼ばれる。

 聖書の恣意的なカットアンドペーストはカルトにつながる。

 歴史の恣意的なカットアンドペーストは、何になるかは知らないが、バランスを欠く行為ではないだろうか。いいものも悪いものを含めて総合的に理解しないとまずいのではないかなぁ、と思う。


 ところで、ずいぶん以前読んだ、山本夏彦の随筆のどこか(たぶん「笑わぬでもなし」)に、大正期と戦後の違いは何か、という東北人のタクシー運転手との会話のなかで、戦前は、ちょっと不況になると、売春宿など(当時は合法の産業であった)に娘を売る家庭がいたけど、戦後はそれがなくなった、ということを山本夏彦氏にタクシー運転手がしみじみといっている文章があって、非常に印象的であった。まぁ、そういえば、永井荷風の廓通いは有名な話である。その雰囲気は、里の今昔という青空文庫所収の永井荷風の文章からもしられる。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49642_39418.html


明治初年頃の花魁
http://matome.naver.jp/odai/2135092862262301701 より


女性の人身売買を防止しようとする秋田県のポスター


 昭和初年頃の公文書で、この状況である。「日本を●するキリスト者の会」の皆様からすれば、戦前の秋田縣の行政官は、マッカーサー将軍支配が発生する前でありながらも自虐史観主義者や反動主義者であったのかもしれない。

 現在、京都の鴨川といえば、デートスポットで有名であったり、夏の川床で有名であるが、もともと、鴨川は、飢饉や戦役の時は遺体放棄スポットであったのであり、不吉、不浄な場所であった。三条大橋(まるで惨状大橋であるが)はさらし首をさらす場所だったし。京都に轆轤町という六波羅付近の古い町名があるが、それが、髑髏町が転訛した結果というのはわりと有名な話。

 まぁ、昔話はこれくらいにして。閑話休題

今回の騒動と第3種の過誤

 今回の某「日本を●するキリスト者の会」の皆様のご主張は、いろんな意味で、第3種の過誤を含んでいるのではないか、と思うのだ。

 Kimball先生の定義による第3種の過誤「間違った問題に正しい方法でアプローチすることによる過誤」で言えば、日本の歴史や文化、伝統(それがどこまで含むか、それが何かであるのかが、全く定かでないので、議論の前提条件とする日本の歴史や文化伝統が指し示すものや対象が人によって違うことになるので、また、これがまた面倒なのだが)の中に神が隠されている(この定義も明確でない)、という御主張らしいのだが、議論するにも、何が、日本の歴史や文化、伝統なのかで合意できるのか、ということがそもそも定義されていない以上、水掛け論に終わりそうだ。そこでいくら正しい答えである、日本人を愛する、あるいは、日本宣教を言ったところで、議論の前提がいい加減すぎて、結局何も言っていないことになる。これでは、泥仕合確実である。それでは得るものが何もないので、やめておいた方がよいと思う。

 某「日本を●するキリスト者の会」の皆様いわく、「所謂犲虐史観瓩妨納垢靴茲Δ箸垢觧兩は、日本のキリスト教界全体を覆っている誤てる常識」が同会の皆様が正しく取り除かれたところで、そこで過誤を生じると思う。だって、誤てる常識を除いた後に入れるのがYHWH以外の日本精神や神道賛美だったら、それは、もはやキリスト教ではない。日本教とでもいうべき存在ではないだろうか。日本教については 以下の二つの過去記事を参照。

 「わかりやすさ」がもたらすもの

 日本という国と信仰について考えた

 まぁ、リベラル派とののしられ、左傾化傾向が若干(前衛やあかはた新聞の愛読者ではないし、自分ところの日教組系の教員組合を大きく変質させてしまった経験がある)あるミーちゃんはーちゃんなどは、某「日本を●するキリスト者の会」の皆さんからは、日本人の内にも入れてもらえてないのだろうし、彼らにとってはミーちゃんはーちゃんはまっとうな日本国民ではないのであろう。なんか戦争中にも非国民という言葉を行った人が結構いたらしい。

 でも、レビ記では、上帝は斯く宣べ給っておられるようにおもうのだが。これは、古代の日本に来られたユダヤ人の方は、どこかで強奪されてしまって、ご持参になりそびれたのかもしれない。

 あなたのぶどう畑の実を取りつくしてはならない。またあなたのぶどう畑に落ちた実を拾ってはならない。貧しい者と寄留者とのために、これを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。(口語訳聖書 レビ  19:10)

 また、「日本を●するキリスト者の会」の皆さんは、

「私達クリスチャンが日本と日本人を高みから批判し、告発するのではなく」

とお書きであるが、なんか、ミーちゃんはーちゃんにしてみれば、

「私達日本を●するキリスト者の会」の皆さんから「自虐史観に毒された」ミーちゃんはーちゃんを高みから批判し、告発していただいた」
ような気分なんですけど。もうちょっと、丁寧なことばというか、論理を使ってほしいなぁ。プロテスタントの牧師先生方や学者の先生方もおられるなら。

第3種の過誤と「日本と日本人を愛する」の不明確さ

 冗談はさておき、第3種の過誤に戻ろう。Mitroff and Fotheringhamは「正しい問題を解くべきときに間違った問題を解く過誤」を第3種の過誤と呼んでいるが、某「日本を●するキリスト者の会」の皆さんは、どうも、日本のキリスト者として、第3種の過誤におちいっていない確率は0ではないと思うのだが。統計的検定はできないけど。

 設立趣意書を読む限り、

日本人の心を福音に向かわしめる

とか結構ウエメセ表現だと思うが、まぁ、それはよいとしよう(本当はあまりよくないと思うけど)。しかし、あたかも日本人で福音に心を向ける人がちっとは増えるためには、

日本と日本人を愛し、いとおしむ心を持つこと、そしてそのために執り成し祈ること
って、おっしゃっておられるが、「日本と日本人を愛し、いとおしむ心を持つこと」を示す手段としての神社参拝とかっていう手段が取られるとしたら、日本文化大絶賛、他国の文化否定だとかだとしたら、目があてられない。だって、あなたの隣人を愛せ、というイエスの言明に反することであるから。ここらの定義が明確でないと、それはまずいことになるようなきがするなぁ。

 リベラル崩れと既に一部で批判されているミーちゃんはーちゃんは、日本の米作農家さんや最近いろいろとうわさが絶えないJAさんとも御昵懇の関係であり、ご支援の形でお付き合いしているし、なんせ、白い炊きたてのお米は大好きであり、日本はうまし国だと思う。まぁ、アメリカ米も、田牧というブランド米だと結構おいしいけどね。

 日本はすごい国だとも思っている。なんせ、数分間隔で時速200キロメートル超の列車を同時に十数編成、1編成にピーク時2000人弱載せて、それもこれだけ曲線部分が多い日本の国土で、それも、線路を人が歩こうとしましたというたぐいの事故・事件以外の要因で年間の遅延時間がほぼ0に近い形で走らせられる国というのはそんじょそこらの国には絶対にない。

 今、新幹線を海外輸出する計画があるが、清掃メンテナンスや車両メンテにおける職人芸、乗客が無茶しない文化など含めて、どこまで輸出できるかが重要になるだろう。単に新幹線システムを海外に販売したとしても、うまくいかない。細かな運行保守・保線システムを含め、日本の職人芸が詰まったのが、新幹線なような気がしてならない。計算機だけでは、新幹線がうまく動かないことは計算機屋であるだけによくわかる。

 図面とマニュアルだけでは、新幹線はそのうちに動かなくなると思う。その意味で、日本というのは、大した国なのである。他国にまねのできないことができるという意味では。

日本文化を「愛」するのと聖書の神を「愛」するは
おなじ「愛」の字が使われているけど違うかも


 今回、日本を●するキリスト者の会のご発言で、一番危機感を抱いているのは、ご発言の趣旨や一部が、聖書を通して語ろうとする神と人との本来の関係である「愛」や「義」に関する錯誤を生み出すように思えてならないからである。そして、日本人の心情のみに訴えて、本来の求めるべき神との関係である「愛」や「義」であらわされる神と共に歩むことを別もの(たとえば、日本的な礼儀や礼節、文化、神社への尊敬とか)と取り換えてしまってしまうという可能性がある。

 そもそも、日本語の「愛」と聖書の「愛」とは完全に別物と考えたほうがよさそうである。このあたりは、鈴木範久先生の「聖書の日本語」を読んでお考えていただくのがよいと思う。

 あと、日本書紀などの神々の物語を見ても、どこに創造主やナザレのイエスの言う神の義と愛の究極的(テレイオス)な完成の直接的な言及があるのかがよくわからないので、この浅学菲才の徒にもわかるようにご教示願えると嬉しいのだが。参考文献特にその原点となる日本の古事記、日本書紀、続日本紀などの場所などを明示しつつ。

日本とコンスタンティヌス的キリスト教

 確かに、日本人に対して、これまで特にアメリカを中心とする海外の伝道単体の支援を得て伝道してきたが、それがうまくいかなかったことも確かである。西洋のキリスト教世界が曲がりなりにも体験した全員キリスト教みたいな世界は、これまで日本では実現していない。

 ただ、個人的には、そういうコンスタンティヌス的なキリスト教はまともでなくなることが多いことを思うし、ジョン・ヨーダーを読んでいる限り、何となくコンスタンティヌス的なキリスト教にまつわるの問題は想像がつくので、そんなものはいらないのではないか、と思っている。まぁ、もちろん全国民が結果としてキリスト教徒になってくれたら、楽でいいけど。それは、結果であって、目標にしてはならんもんだと思う。我々の力ではどうやったって、実現できないから。それができるのは神お一人だろう。


Master Yoda
これはヨーダ Master Jedi Yoda


これがヨーダー John H. Yoder

 しかし、どうしても、何でもいいから、どんな形でもいいから、キリスト教に目を向けさせよう、コンスタンティヌス的なキリスト教を日本で実現しようとするのは、どうも、これまで、一生懸命努力してきても、キリスト教がガン無視された、日本社会に対する一種、伝道熱心さの故のやけくそのものいひにしか思えないんだけどなぁ。それこそ、やけくそゆえに、何でもよいから伝道する、何でもよいから、やってみる、という、第3種の過誤を起こしているとしか思えない。

 本来、神の国が地上に来ていることをキリスト教徒と集合体としてのキリスト教徒(教会)は示すものである、ということをナザレのイエスはおっしゃったのであり(ルカ17等)、「無理からにキリスト教徒にしなさい」とか、「何でもいいからキリスト教徒にしましょう」とかおっしゃったのではないのだと思う。つまり、キリスト者が神の国が地上にその一部が来ていることを示すべき時に、別の「神国日本」を指そうとしているのではないか、と思うのだが、違うだろうか。

 この馬鹿なミーちゃんはーちゃんが分かるように丁寧にだれか教えてほしい。


 キリスト教界における第3種の過誤について、キリスト教書籍業界を例に考える。






評価:
Ian I. Mitroff
Berrett-Koehler Pub
¥ 11,092
(1998-01-15)
コメント:1997年にUWで買って衝撃を受けた本。

価格: ¥637
ショップ: オンライン書店 BOOKFAN
コメント:キリスト教の正義感って、茶の間の正義ではないか、と思う。


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さて、今回も、京阪電鉄沿線のK先生の教会で開催された工藤信夫先生のお話を聞きに行ってきたお話の続きをば。太字は工藤先生のお話のポイント。

教会は信徒を自由にしてるかな?

 真理はあなた方を自由にするのではなく、教会は信徒を不自由にする傾向があるのではないか。


 まぁ、今の教会見ているとそうですよね。これは、日本でもそうだし、アメリカでもそうだと思う。こう思ったから、「福音の再発見」を日本でも翻訳して出そうと思ったのだなぁ。

 出版の再発見に至る経緯は、こちらを 福音の再発見のミーちゃんはーちゃん的読書ガイド meekさんへの手紙

 本来、ナザレのイエスは、神の愛の中に我らを招くために、この地上に来られ、我らを閉じ込められた檻の中から、解き放つために、その御手を我らに伸べられたのだと思う。しかるに、別の檻を作って信徒をその中に閉じ込めている側面もないようなあるような。


意外と重要な繊細さ(バルナラビリティ)

 ナウエンはカトリックの司祭であるが、彼の本が大きく影響をしたのはプロテスタント教会群である。そして、彼の書いたものはプロテスタント教界の限界を示したから読まれたのだろう。

 それまでのアメリカの福音派の教会は、傷を恐れないキリスト教であったり、傷を大事にしないキリスト教で、ちょっとなんか、不都合があると、不信仰じゃないか。と言っちゃうところがあったであろう。ある面、キズの受けやすさ(バルナラビリティ)を認めてないキリスト教であったであろう。

 これはあるなぁ、と思う。必死のパッチできつくてもはくいしばっているキリスト教の美学みたいな儒教もどきのキリスト教はあったように思う。人間が弱さを持った存在であるがゆえに神を必要とするのに完璧でなければキリスト者にあらず、みたいなところはあったよね。鉄人28号は、鉄でできているから大丈夫か知らんけど、人間は鉄ではできてないし、鉄人でもないし、石でできた人でもない。その柔らかさを十分に評価していないといわれたら、そうかもしれないよね、と思う。


ファンタスティック・フォーのザ・シング(石男 この方は石でできているかも)

ちなみに、パウロの言葉を書いておこう。

IIコリント
 3:3 そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。
 3:4 こうした確信を、わたしたちはキリストにより神に対していだいている。
 この講演会全体でそうであったが、出版社 あめんどう さんと、そこの社主兼CFO兼CIO兼編集者兼倉庫係兼お茶くみのOBCさんの話が繰り返し出てきていたのが、非常に印象的であった。個人的に、あめんどうさんは一押しの出版社である。お買い物は是非あめんどうさんの直販サイト http://amendo.ocnk.net/product-list/1で。

キリスト教あるある 
祝福主義
 祝福主義に毒されたキリスト教になっているのではないか。
 これはあるかもしれない。病気になると喜びを失い、悲しみに合うと、自分が不信仰ではないかとオロオロする。人間とは所詮その程度のモノなのに、それにもかかわらず、祝福を求め、ちょっとのことで揺れ動くそんな信仰者が量産されているかもしれない。

 しかし、まぁ、ミーちゃんはーちゃんが好き勝手ほざいていても、ミーちゃんはーちゃんはキリスト教徒であるとは思っている。リベラルとお呼びになりたければ、リベラルとお呼び。そんな人にラベルはって遊ぶ人よりも、我の父は、すべての被造物をつくり給いし方なれば、我を無限の愛を持って愛されることを確信しておるので、気にしてもしょうがないとは思っている。


 闇よりも光、失敗よりも成功を現在の日本の教会は、求めてばかりいるのではないか。

 残念ながら、わがキリスト者集団でも、この手の方は多いので、困ってしまうのだが、ひかりばかりいるピーカン脳天気なキリスト者も深みがなくて困るような気がするのだが。もちろん光は尊いものであるが、闇があってこその光である。特に今、アドベントの時期であるので、そう思うのかもしれないが。

 カリフォルニア州でもないから、いつも光の当たる方にいるのは不可能ではないかと思うのだが。


Keep on the sunny sideを歌うカーターシスターズの皆さん
南部訛りがブルーグラス風でよい

教会に巣食う妖怪?
みんな妖怪のせいなのね?そうなのね?


 現在の教会は、レンブラントの放蕩息子の絵の背景に溶け込んだ厳しい顔をした放蕩息子の兄のような人物がいっぱいいる教会となっているのではないか、新しい出発したらどうか。

レンブラントの放蕩息子の帰郷
 
 上記の絵のぼろぼろの服を着ているのが放蕩息子、それを抱くのが父、そして、その父の後ろの暗がりの中に何人か化け物と見まごうような人物がおり、その右に黒い帽子を被った執事様の人物がおり、その右側に放蕩息子の兄がいると解されている。なおこのレンブラントの放蕩息子の帰郷は、あめんどうさんから出ているヘンリー・ナウエンの『放蕩息子の帰郷』のカバーに使われている。

 工藤先生は、教会には、このおっかない顔をした放蕩息子のような兄がやたらといっぱいいるという話をしておられた。また、背景の中にもぐりこんでいる亡霊のような人物、もう、地上やその教会にいなくなった過去の牧師や宣教師の影響が満ち満ちていたりはしてないだろうか、と結構厳しいことをおっしゃっておられた。

 教会の揉め事は、過去のやり方や過去教えられたことだけが事実だと思い込んでいるこういう亡霊や古狸(フルダヌキ って、工藤先生)のような人がいっぱいいるんじゃないか、そして、新来会者を遠ざけているんじゃないか、って、まぁ、強烈なことをおっしゃっておられた。

 そういえば、敬愛する藤掛先生も、現代日本社会と妖怪の話を書いておられたのでご紹介しておきますね。

「妖怪ウォッチ」から学ぶ心の世界(配布レジメ)

「妖怪ウォッチ」シンポでの質問に答えて

 この記事への、尊敬する鹿児島の久保木先生(南の国のブログ王子)の応答はこちら。こちらは教会とそこに巣食う妖怪とその対応がちょっこし出てくるよぉ。

妖怪のせいなのね♪ 外在化なのね! 前編
妖怪のせいなのね♪ 外在化なのね! 後編

カトリックに学ぶ教会のありよう


 森 一弘先生の「これからの教会のありようを考える」は参考になるかもしれない。

 この本は読んでないので、今度読んでみようと思う。これまでのカトリック教会の闇の部分にも踏み込んで、書かれているらしい。

プロテスタントは潔くない。自己正当化が多すぎる。


 はい。これはミーちゃんはーちゃんもそう思います。まぁ、プロテスタント(プロテスタティオ : しぇからしく異議申し立てをするもの)ですから、理屈っぽくって、自己の聖書理解を正当化しようとするあまりに結構、やいやいいうことに力入りすぎかもしれません。もうちょっと、肩の力を抜いていもいいのかもしれません。

「小さいこといいことだ」への転換


 人から話を聞くときには、小さいことは大事かもしれないし、本当に話が分かる人は少ない。

 このことは、非常に大事だと思う。教会や自治体で、なんか講演会とかやると、理解力のある人もない人も、関心のある人もない人も、とりあえずネームバリューで呼ぶことが多い。外部の人にとって見ると、如何に業界内で有名でも、「あのオジサン、だれ?」という名言で、うちのキリスト者集団の大物説教者について大声で尋ね、会堂内をアナ雪状態に凍り付かせた来会者の言うのと同様だと思う。

 それを、講演者に申し訳ないから、と動員掛けると、興味ない人まで来てしまって、話が拡散する。それよりも、真剣に聞いてくれる人とひざ突き詰めて話す方が面白いというのはある。カッティングエッジな話は、確かにそういう小さなグループで起きることは確かである。ビジネスとしては、少人数ではビジネスにはなりにくいのではあるけれども。

 類例については、いつも拝読しているミーちゃんはーちゃんに負けず劣らず捨て身のブロガーさんのブログ、I don't know who I amのブログで、この記事 教会とクリスマス で紹介されていた。

 まだ、プロテスタントは、産業社会の思考法である、規模の経済追及主義・規模拡大志向の陥穽(落とし穴)に陥っているのかもしれない。もう、山本直純さんもお隠れあそばらっしゃったので、なんかの一つ覚えみたいに「大きいことはいいことだ」を繰り返すのはやめたらどうかと思う。シヴィックなんかの名車を生み出した国民として。


森永エールチョコレートのCF 実に1960年代的である。


ガンバリズムからの脱却


これまでのキリスト教はガンバリズムが支配しており、脱皮することが必要ではないか。


 まぁ、日本はこれまで宣教地であった。宣教が先に立ち、信徒の充実という側面が見られなかったように思う。西洋型クリステンドムというのか、ヨーダーの言葉を借りれば、コンスタンティヌス型キリスト教が存在しておらず、そういうクリステンドムを経験したい、というその焦りがプロテスタント諸派にあると思う。それが、勘違いで出ると、ひょっとすると、某「日本を●するキリスト者の会」などの、日本の伝統宗教と習合したキリスト教につながるのかもしれない。それは、誤った伝道方法だと思うし、ヨーダー先生がおっしゃるように、キリスト教会とキリスト者は、国家に対して預言者の役割を果たすべきなのに、手段と目的が混乱し、日本にキリスト教を広める目的のために、手段として日本の伝統文化を正当に評価するはずだったのが、日本の伝統文化を高唱することが目的となってしまって、手段であったものが目的化してしまった例であろう。

老いの問題とキリスト教 これからの課題
 質疑応答で面白かったことをふれたい。

 如何に老いるか、を力説する必要があるだろう。老いの問題を信徒への聖書理解を示す中で伝える必要があるだろう。パウロの晩年のピレモンの手紙などが参考になるであろう。晩年のパウロが、老人としてのあわれみで育てる姿を見ることができるのではないか。
 その意味で、教会が人を信徒を生み出す力が衰えているのではないか。キリスト者のパッションとして、育てているのだろうかを再検討した方がよくはないか。素敵な老人がいる教会が増えるといい。


 日本は諸賢御存じの通り、高齢化が急速に進む社会である。日本のキリスト教界も急速に高齢化が進んでいる。その中で従来通り、若い人、若い人と求めることはいかがなものであろうか。現在のテレビCMでは、コエンザイムQ10だの、プラセンタだの若く見えることを売り物にするCMばかりである。元気な老人は、いいのかもしれないが、無理に若作りしたおばちゃんは痛いのである。


 また、小姑みたいな人がいっぱいいて、いちいち箸の上げ下ろしをご指導を受けるような社会って息がつまりそうではないか。そういう意味で、もっとのびのびと人を息をつかせる人間力に富んだ、素敵な老人がいる教会が日本でもちょっと増えるといいなぁ、と思う。その意味で、老人パワーに満ち溢れた、痛くない教会が増えたらいいと思うのだが。

あと工藤先生からの告知

 今度の日曜日の午前5時から、来週土曜日の午後1時から 工藤先生も関与されていた「からしだね」がNHK E-テレのこころの時代 http://www4.nhk.or.jp/kokoro/x/2014-12-14/31/28104/で放送されるそうです。ご清覧をお勧めいたします。

 以上おしまい。



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 お知り合いのO先生から誘われた研究会で、京阪電鉄沿線のK先生の教会で開催された工藤信夫先生のお話を聞きに行ってきた。個人的には、「あめんどう」さんの『トゥルニエを読む(上)』で工藤先生のご著書に触れ、そして、できる限りの図書は集めてきた。しかし、この『トゥルニエを読む(上)』が版元在庫切れなのは残念な限り。

 余談はさておき、当日の先生がお話になられた。印象に残った言葉とそれを聞きながら思ったことを記載してみたい。

誤解を生みやすい用語の使用
内部用語の問題

 日本のキリスト教界は、業界用語を使いすぎる。内部だけで通用する符牒を使いすぎではないか。
 まぁ、これはキリスト教界に限らない。学会でも似たようなものだ。ただ、一応、学会は、専門家同士が情報交換する場であるからこれでも構わないのだが、教会の場合、一般の方も来られるので、内部だけで通用する符牒(未信者、求道者、お交わり、お証しなどなど)を多用するのはまずいだろう。まぁ、これは、「もっとキリスト教界に生きやすくする本」にも書いてあった。

 この前、ナウエン研究会で、来会者の方で「祈り」とか「救い」っていうイメージが通常の日本語とあまりにかけ離れているので、困惑することが多い、というコメントを直後にもらってしまったので、このあたりのことを、丁寧に語る努力をしないといけない、と思った次第。選挙の名前連呼もそうだが、説明もなしに「祈り」とか「救い」とかを連呼だけしないようにしないとね。

 講演者に対する礼儀がプロテスタントでは十分なされてない。
 耳が痛いが事実だと思う。外部から講演者としてお招きするのに、その人の書いたものを読んでないとか、聞く気がない参加者ばかりの講演会だと、確かに講演のパワーが落ちる。退屈そうにされたら、嫌気がさす。大学の非常勤だと、学生になめられて、そういうケースが多いから、もう慣れたけど。明らかに動員されているのがわかるのはね。こっちは真剣勝負でやってんだからさ。

 禁書になりかねないタイトル「信仰による人間阻害」という挑戦的なタイトルの本を出したが、禁書になるような本は価値がある。大きなものにはならないけれども、水面下で生き続ける。そして、人を励まし続ける。


 まぁ、ミーちゃんはーちゃんのブログも、結構、乱暴な記事は多い。そんなこと言ったら、教会の恥、とかいう部分ギリギリ一歩手前(超えている場合があることも認めよう)のことまでやることがある。まぁ、「品は南鳥島沖でどっかの漁船が地引網で持って行ってしまったので、もちあわせてはいない。」からしょうがない。しかし、かえって、石を投げたような
現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由
あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた
などは、結構ロングテールで読まれているし。

人間を扱う割に
臨床という発想のない教会


 人を理解することにかけていたキリスト教があるのではないか。人の魂の問題を扱うという臨床しているにもかかわらずケースがない。


 おっしゃる通り。まぁ、これまで、結構信徒数が多いので、個別のことまでやってられなかったという側面と、医療の場合は、守秘義務ということをきちんと頭ん中に叩き込まれた医師・看護師・ケースワーカーを含めたチームで医療行為を通して、クライアント(患者)を支援するという体制がとられているけれども、これまで、牧師一人が対応ってケースも少なくなかったんだろうから、ケースの積み重ねもないように思うし、信徒に至っては万民祭司だといいながら、祭司職の義務である守秘義務について、分かってない人多すぎるし。祈り会で個人情報ダダ漏れというのは、どう考えてもあかんやろう。

 このあたりのことは、以下で紹介する「牧会相談の実際」が非常に良い、と思う。

達成・拡大志向のキリスト教
キャシャーン牧師?
 これまでのキリスト教は、クリスチャンになったら問題が解決するなど特殊な祝福論に影響されすぎではないか。繁栄することをよしとする聖書理解、達成・拡大志向を含む聖書理解が見られたのではないか。
 ミーちゃんはーちゃんは繁栄の神学とそもそも、そりが合わないので、こういうのを持ってないが、こういうことを臆面もなく語られる方々に結構出くわす。それは違うのではないか、と申し上げるのだが、なかなか理解していただけないことが多い。特に、このタイプの方は、「自分がやらなければ、だれがやる」というキャシャーン型の暑苦しい信者さんが多いので、かなわない。キャシャーン牧師もいそうな気がするけど(しかし、キャシャーンを知っているということで年がばれそう)。



キャシャーンの挿入歌 冒頭で有名なせりふ 「キャシャーンがやらねば…」が出てくる。

奇妙な熱心さ?
他人に熱心さを強いる非常識

 キリスト教会特融の奇妙な熱心さがあるのではないか。キリスト教界のでは当たり前でも、世間では非常識なことがある。
 あるなぁ、と思う。例えば、「伝道するため」という大義名分があると、結構無茶な依頼が飛ばされてくることがある。あるいは、「それはあかんやろう」というような依頼を飛ばしている場面に出会うことがある。
 例えば、ある信者さん(Aさん)に、「伝道のため、Aさんがよく知らない人(Bさん)のところに行って伝道してあげてください。」とか、「教会に誘ってあげてください。」とか、「Cさんというある教会の信徒さんの息子さんがお近くにいるので、訪ねてあげてください。」とかである。依頼する本人は悪気なく頼むのであるが、頼まれた方はどうしたもんだか、と思ってしまう。「Cさんは、日中訪問したがおられなかったようですよ。」とご回答すると、今度は、「深夜か早朝に行ってあげてください。」と言われたこともある。

 「はぁ?」である。

 そんな、マスコミの記者や芸能ジャーナリスト(これはジャーナリストという言葉に対して、かなり失礼だと思うが)が、話題の人をオッカケするような、夜討ち朝駆け(赤穂浪士や戦国武将ではあるまいし)を普通の人にお願いするって、「どやさ」である。

 今なら、ストーカーまがいで警察沙汰になりかねない。しかし、そういうことを言っても、伝道を依頼する相手が望んでいるかどうか(実際には、関わり合いになりたくないと思っておられることが多い模様)も確認しないまま、自分では手を下さない割に、若者にこの種の面倒な伝道活動を簡単にお願いしてくださる方の言動を見るたびに、次の聖句を思い出すことが多い。
 しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。(口語訳聖書 マタイ23:3-5)
 どうぞ、ご自分がまずおやりになってください。遠隔地で行けなくても、郵便やメール便を出すことくらいできるでしょう。Amazonや楽天から本を頼んで受け取ってもらうこともできるでしょう。不要なら、BookOffにもっていって、現金化することもできるのだから(買いたたかれることは確実だけど)、そっちの方がよほどメリットがあるではないか。苦境のキリスト教書業界も売り上げが上がるし。

『信仰』のためなら何でもOk?

 言うべきことを言うことは重要ではないか。信仰のため、伝道のためだから、という理由であれ、なんであれ、無料はよくないのではないか。要するに、話し手にも聞き手にも一種の適切な緊張感が生じる。


 まぁ、言うべきことを言うために、コンサルタントは金もらっているのであるから、コンサルタント料金をもらっているのにふさわしいことを言った方がよいと思う。医師なんかは健康に関するコンサルタントである。ミーちゃんはーちゃんもプロボノ(無料、ボランティア)で技術コンサルテーション頼まれることがあり、することもあるけど、プロボノだと、ずるずる引きずる、クライアントが甘えが出る、どんどん要求がエスカレートする、など、いろんな不都合が出ることもある。特に、共依存関係になってしまうことがあり、本質が見えなくなることもある。その意味で、少額でもいいから、有償というのは大事かもしれないなぁ、と思った。

 間違った理由で苦しまないように、という理由でこれまで本を書いてきた。


 これは大事だと思う。意外と善意とか、親切心から出ることが、非常に悪意に満ちた結果を生み出すことが多い。典型的には、借款型のODA(海外援助)などが典型である。このことはキリスト教界でも多々見られるように思う。キリスト教の信徒の方は、超がつくほど脳天気で、純粋で、無垢な方が多い。ミーちゃんはーちゃんはそうではないので、アザゼルか羊さんの中の黒ヤギさんになった気分になることが多い。善意なら、えられる結果がよいはずと思い込んでいる方があまりに多く、唖然とすることも多い。

 聖書の内容は神のことばとしての権威がある、と思っている。しかし、それが誤用(間違った理由の根拠として適用)されると、ろくでもないことが起きることは何度も見てきた。本来泣くべき葬儀の場で、「いつも喜んでいなさい」という言葉を根拠に、無理やり「故人は神のみ元に参りました」とにっこりすることを強いられるという、無理ゲーさせられるとか、聖書は大切だから、という理由で、あまり文字を理解する能力が十分でない方に「聖書は読まないといけない」と迫るとか、もう論外である。

 本当に間違った理由で人を苦しめるのを、特に、弱い人々、若者、知識のない人、気の弱い人々、キリスト者2世…を苦しめるつもりもなく、ご自分の思う、善や善意の押しつけの結果、他者を苦しめるのをいい加減やめてほしいと思う。自分がしていることがどういうことかをまず考えてほしい。そして、神とか聖書を持ち出すのを、まずやめてほしい。

Barbara Brown Taylorの名言をご紹介しておく。

"...Human beings never behave more badly toward one another than when they believe they are protecting God.” ― Barbara Brown Taylor



"人間は、自分自身が神のため、と思っているとき以上に、相互に対してろくでもないことすることはない"

 これに関してはキリスト者としてこころしなければならない。なぜならば、神は我らの手をそもそも必要としないからである。パウロ君も言っているではないか。


 また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。( 使徒 17:25)

 「神のために、神のためにと、人間ができること、人間がしたいことを、人間がしたいと思う方法で必死になって努力する」というクリスチャンほど、「神のために人間が何かをしなければならないのだ」ということは、「神は人の手によって、人間が適切だと考える方法で仕えられる必要がある」と主張することになるのではないかなぁ。その聖書理解って、大丈夫なのだろうか。

 次回へと続く。






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 いつも拝読している I do not know who I am と題しておられるブログで、ホームスクールの課題が挙げられていた。それを見ながら、近代の制度としての学校教育の果たした役割ということを考えてみたい。

ホームスクールに関する連載は以下の通り。

ホームスクーリングに関する疑問

ホームスクーリングに関する疑問・その2

ホームスクーリングに関する疑問・その3




我が国の教育制度の歴史的変遷
 日本の学校制度は、当時の西洋文明の花的存在であったフランスにたびたび戦争を仕掛けるだけの根性があった新興国家としてのドイツの学校制度が米国経由で輸入されたらしい。なぜ、米国経由なのかはよくわからないが。

 大学に関しては、つい最近まで旧大陸系のドイツ的な小講座制と呼ばれる制度や、非常に教授会の自治権の強い大学運営制度が取られてきたが、ここ20年くらい急速に米国型への変容があり、近年の国立大学の法人化や業績制度の導入など、大学はかなりの変革を強いられている感じがする。

 まぁ、これも日本の流行り廃りに敏感な軽挙妄動の一種だとは思って、あきらめている。その意味で、ミーちゃんはーちゃんが大学院に入院したてのころは、まだ、ドイツ的な講座制の雰囲気が残っていた学校が多かったが、現在は、そういう学校は絶滅危惧種だと思う。なお、この種の流行り廃りの激しいアメリカ合衆国内には、高等教育機関として、地理学を教える大学は現在、ほぼ壊滅状態である。

 いや、高等教育の話ではない。初等教育の話がしたかったのである。話をもとに戻そう。

 科目を細分化した教育は、どちらかというと、ドイツでの明治のころの教育体系に近く、ちょっと前まで流行していた(もうやめようかという話もないではないらしいが)総合学習なんかは、どちらかというと米国型の教育に近い。

戦争マシンだったドイツから輸入された
日本の体育教育かも?


 ところで、体育でラジオ体操やらせるのは、ドイツでの国民体操の名残であるし、跳び箱、平均台、鉄棒、マット運動とかを日本の小学校で否が応でもやらされるのは、ドイツの学制にもある体操の名残のような気もする。

 おそらくであるが、この跳び箱、平均台、鉄棒、マット運動は、軍事教練の一種の拡張系であるとは思うのだが、それが、戦後、何も考えずかどうかは知らないが、これらが教育内容として残ったのは、個人的にはドヤサ、である。まぁ、この背景には、「跳び箱、鉄棒、マット運動」がうまくできなかった、運動音痴でもあるミーちゃんはーちゃんの恨みもだいぶあることは素直に認めよう。

 アメリカの学校にわが子が行っていた時の体育は、こんなことは一切しなかったし、鉄棒で逆上がりができないから学校に残されるということもなく、児童が教室を掃除することも全くなかった。

 アメリカの小学校での体育(PE)は、せいぜいキックボール(野球のボールの代わりにサッカーボール等を蹴る野球もどき)か遊具のあるグランドで、遊ぶか、ドッジボールもどきをするかであった。あるいは、とりあえず走りましたって、雰囲気で、100メートルを走る程度であった。なんせ、厚底ブーツや厚底サンダル、ビーチサンダルで、100メートル走っても、どうぞどうぞ、ご自由にという感じで、「あ〜〜うらやましい」と思ったものである。

 閑話休題

英国での金持ち一家での家庭教育制度

 Facebookのやりとりで、英国の近代初等教育の話がちらっと出ていて、実は、英国の金持ち子弟の教育は、メアリー・ポピンズのようなナニーや家庭教師にさせている家庭や、もうちょっと高度なことになると、Public Schoolとも呼ばれる、公的な学校ではない私立学校で教育することになる。これに関しては、この記事で既に触れている。以下のリンクを参照されたい。
日本のキリスト教書業界の現状など思うこと(その4)
の中の

 クラブ財ってなんじゃらほい

の部分である。

 お金持ちは、中学生や高校生などに対しても、オックスフォード大学やケンブリッジ大学卒業生の父親の秘書兼家庭教師(チューター)が教育するのが、20世紀初頭までは見られたようだ。コナン・ドイルの小説に類例がいくつか出てくる。今はどうかは知らない。

 なお、メアリー・ポピンズでカリカルチュア化されているナニーは、この映画が描かれた19世紀ごろには、牧師とか司祭の娘がしていた例がかなりあったらしい。タイピストという職業が出てくるころまでは、女性が職業見つけるのは難しいので、女性宣教師として海外に出るか、ナニーとして教職に就くか、メードになるかくらいしかなかったといえよう。まさか、良家の子女がパブで、黒ビールをジョッキに注ぐわけにいかなかったからである。


Mary Popinsの映画から A Spoonful of Sugerの歌


 アメリカにもナニーがいるが、アメリカのナニー映画では、これが面白かった。


Nanny Story(私がクマに切れた理由) の予告編

 英国の現在の初等公教育の成立史に関しては、以下のリンク

http://repository.aichi-edu.ac.jp/dspace/bitstream/10424/3731/1/kenkyo60125133.pdf

を読んでもらうといいとおもう。

英国の初等教育の原風景
としての日曜学校

 実は、英国の19世紀の公教育制度は、救貧対策的な日曜学校、教会学校のキリスト教教育の延長線上に、のっかっているらしいのだ。もちろん、英国で公教育が始まった背景には、軍隊行動が、それまでの騎兵などの士官による突撃一騎打ち型の戦闘から、巨大砲の利用をともなう時間を共用した連動型の作戦行動や作戦命令に従った大部隊運動への戦術転換したために、文字や数字で表現された情報を兵士全体が扱えることが必要であったということもあるようであるが。

アメリカの遠隔地教育制度のモデルとしての
大草原の小さな家とホームスクール

 大草原の小さな家でも、学校教育の場面が出てくるが、あれは、日曜日には教会堂として利用される施設に、親たちが金出しあって先生役を雇ってきて、気に入らなければ、解雇したり、一応学があるとみなされている人が教壇に立っていたりする。オルソン婦人が教壇に立とうとしたエピソードもあったように思う。たぶんこれかな。


大草原の小さな家で学校のエピソード(英語版のみ)

大草原の農家で行われた
ホームスクールの原型

 今のキリスト者家庭の一部で行われているホームスクールの原型は、宗教的な背景からのホームスクールの上に載っているというよりは、大平原地域(プレーリー地域)などの大規模農業がおこなわれいる地域で、自動車交通などが不便で通学ができないほど、学校から距離が離れていて住民たちが自分たちで教員を雇って運営している学校に通わせられないために、あるいは、ボーディングスクールという寄宿学校に通わせるほど経済的に余裕のない家庭のために始まった制度がその原初形であると思う。読み書き算数ができないと近代社会では困るので、メールオーダーで教科書や教材を手に入れ、家庭教育がされていたものと思われる。

 制度としては、西部開拓時代からあったものを、登校拒否や、宗教的理由を根拠に現在流用しているのが現在のアメリカのホームスクール制度であると思うのだ。こんなことを書くと、ホームスクール関係者は怒り出すかもしれないが、もともとの制度的由来に宗教的な根拠性があるということがわかる公文書があれば、ミーちゃんはーちゃんの後学のためにご教示いただけたら幸甚である。

プラグマティズムと自家教育

 後、アメリカでは、Do It Yourself(DIYともいう)精神が、プラグマティズムと社会におけるマニュアル化で進んできた背景もあり、2×4工法(ツーバイフォー工法)に見られるように、マニュアルと資材を渡して、自分で何でもやりましょう、できないことはほとんどありません、ってところがある。だからこそ、マクドナルドのようなマニュアル化とか、フォード自動車のマニュアル化した自動車生産などがあるのであり、英国やイタリアのハンドメイド型のクラフトマンシップってのは、昔からほとんどアメリカの自動車にはない。おかげで、アストンマーチンとか、イタリアのブガッティみたいな車はアメリカの文化を背景とする生産概念の中では非常に生産するのが難しい。

 欧州に関してであるが、ドイツは、ドイツ語ができないし、フランスはフランスの教育制度をよく知らないので何とも言えない。

カトリックと初等教育

 ただ、カトリックに関して言えば、カトリック教育を語るほど、専門家ではないが、カトリックの中でも伝道大好きなイエズス会の皆さんは、イエズス会の司祭によると、宣教地では必ず二つのことをしたらしい。一つは知識の伝達のための出版事業と、セミナリオと呼ばれる現地人司祭の養成所というか学校を作ったらしい。詳しくお知りになりたい方は、上智大学の川村信三司祭の下記の本や論文を読まれたい。

 概要だけなら、こちらを参照。

上智大学大阪サテライトキャンパス公開講座参加記 戦国期と近代のカトリックと社会 川村信三教授 その2

 カトリックでは、今では、東京近郊の栄光、阪神間の六甲、鹿児島ラサールなど、神学硬が有名であるが、上記の拙ブログのリンクで示した通り、もともとは救貧対策の側面で明治のころには始められているらしい。


まとめ
 ここで、大西洋の両側の家庭での初等教育の自家教育(ホームスクーリング)の在り方議論を整理すると、こうなるかもしれない。

英国
 資産のある家庭の帝王学の一環としての家庭教師を雇った自家教育

米国
 遠隔地にあるなど通学困難と自活精神ゆえの親がする自家教育


ホームスクール(自家教育)の効果とか当否は別として、キリスト教、特にアメリカ由来のキリスト教における日本のホームスクールの伝統は、アメリカの過去の歴史的経験の中でキリスト教に定着し、アメリカ的な現実の中で理想化されたもの、そのものが持ち込まれていると思う、

 日本のキリスト教ホームスクールを持ち込む根拠にキリスト教の世俗社会からの分離主義があるように思えてならない。

 なお、この一文は、検証されてない作業仮説程度のモノであり、個人的感想の域を出ない程度のものである。ご了解賜りたい。ホームスクールが効率的であり、自分たちで全部教えられると思うなら、どうぞ教えられたらよい、と思う。ただ、日本という環境の中で有効かどうかは少し疑問ではないか、と思っているのだが。



 
川村信三、シリル・ヴェリヤト
ぎょうせい
¥ 3,780
(2009-12-09)

評価:
---
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
¥ 2,230
(2009-11-06)
コメント:最初の30分くらいがめちゃ面白い。


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