以前のある記事に関するあまり関係のないコメントで、気づいたことがあるので、今日はそれを記事にしてみようか、ということを考えてみた。


あるコメントから
 そのコメントとは、以下のようなものである。H様という方からのFacebook上でのコメントである。
 垣根を低くして分かりやすいメッセージに努めていたり、賛美コンサートを毎回する所もあります。単なる人集めに終わるのではなく本当に入ってもらうには心から聴く・・・
 これを見て、ふと思ったのだ。というよりかは、のらくら者日記の先生のFacebook上の記事だったと思うのだが、のらくら者先生のところでは、下記で紹介した、八木谷涼子さん著 『もっと教会に行きやすくする本』はいらないし、教会図書においてあるけど誰も読まない、ということであった。一度だけ、所用の途中にのらくら者先生の教会の日曜日にアポなし突撃訪問させてもらったことがあるが(先生、その節はありがとうございます)、確かにこの教会だったら、この本はいらないかも、と今になってみれば思う。しかし、こののらくら者先生のところの現実と、H様からのコメント、両者が合わさって、あることを思ったのである。

「もといき」が要らない教会
 八木谷涼子さんの「もっと教会を行きやすくする本」が要らない、誰も読まない、というのが本来の教会の姿であるのではないか?というご見解は、その通りであろう。ミーちゃんはーちゃんとしては、すべての教会が個人的にはそうなってほしい、と思っているが、現実には、八木谷さんの本で指摘されている小さな不親切や自分たちが当たり前と思っていることの結果としての行動の積み重ね(本人たちは善意でしてたり、あまりに習い性になっているので意識なしにそれをしているから困るのであるのだが)で意識せずに教会側が新来会者に対して無意識のハードルというか、壁を作っているというか、垣根をあげている例も少なくないのだ。全く初めての教会に一人で参加して見られたら、それが見えることもあるだろう。

 FacebookでコメントをくださったH様のコメントの御主旨は、コンサートとか、わかりやすいメッセージにして垣根を低くしても、傾聴をすると行った精神性がなければ、相も変わらず高いカベを構築したり、垣根が高くなったり、教会のハードルは相も変わらず高いままではないか、ということであり、世間から教会の中身が十分理解されていない、ということをご指摘なのだ、と思うのだ。

情報の非対称性の存在

 で、何が言いたいか、というと、実は教会内外での情報の非対称性が発生すると同時にその教会に対する認識の非対称性が教会の内外で生じているのではないか、ということなのだ。

 情報の非対称性というのは、ゲーム理論なんかでよく使われる概念で、金融・経済用語辞典と称するサイトのコピペをしておくと、
 情報の非対称性(じょうほうのひたいしょうせい)とは、市場取引における買い手と売り手の当事者同士が保有する情報が不均衡であることを指す。通常買い手は、商品に対する品質等の情報について詳しくは分からないが、対する売り手は詳しく把握している状態を指す。

 情報の非対称性が生じている場合、取引当事者のうち情報が少ない方が不利となる。このため、市場における取引自体が円滑にすすまない場合がある。

 なお、アメリカでは、情報の非対称性が大きい市場として中古車市場が挙げられ、こうした情報の非対称性が生じている市場を「レモン市場」と呼んでいる。

となっていた。まぁ、大体、これでいいと思う。要するに『あることを言っている人(話し手)』と『あることを聞いている人(聞き手)』との間で共有あるいは共通理解として合意されている情報とその内容が両者の間で違っているために、両者相互の間で誤解が生じやすく、その誤解に乗っかって、どちらか一方が、一方的に不幸(損をしたり、搾取が行われたり)が起きやすくなる環境を指す言葉である。中古車は技術に詳しくない人は、車の問題が見抜けないので、買い手側が損することが多いようである。アメリカでは中古車屋は、仕事上、事実を言わない(いわゆるウソをつくこと)が多いため、死後神と共に生きられない職業の一つであるとされている、という話をアメリカ滞在中、何度か耳にした。

教会における非対称性

 教会の例でいうと、『教会の中にいる人(教会員・牧師)』と『教会外の人(非教会員、普通の人)』の間で教会を巡って共有、あるいは共通理解として合意されていることが案外少ないために、教会を巡る不祥事や思い込みに基づく不幸、あるいは思い込まされたことから派生する不幸が起きやすいという現象である。

 例えばどんな不幸があるか、というと、
  • 最初に出会った教会が唯一正しいキリスト教だと思う思い込む
  • 最初に出会った教会群から違うかな、と思っても離れられない
  • 牧師の言っていることに疑問があっても、自分はよく知らないと思うので意見ができない
  • カルト化した教会では、牧師が聖書から言及していると言っていることと聖書が言っていることが区別できない
  • 教会内に長期間いる人の支配がある(年功序列やが当然である)
  • 日本のキリスト教会と帝國陸軍の類似性で触れた)先任主義が支配している
  • 変えたくてもなかなか変わらない教会文化が厳然と存在する
・・・・
という不幸ではないだろうか。

 これを不幸というか、悲喜こもごもというかは別として、後発である組織に加入した人は、その組織にいる期間が短いためにどうしても情報の不足気味であり、前からいる人に「この教会ではかくかくしかじかである」といわれると、「そんなものか」と思って黙ってしまうのではないだろうか。それを、「なぜなのだ?」「どうしてなのだ?」「どうしてそんなことを言うのだ?」と子供や、バカボン・パパのように質問したりする人は少ないと思う。しかし、旧約聖書は、過ぎ越しの祭りに関して、それを質問させ、そしてそれを子供たちにこたえてやれ、その理由はかくかくしかじかであると、ときちんと説明せよと言っているように思う。


こちらのダイハツムーブのCFキャラのように説明しろということではないですが…

 そして、「王様は裸だ」といった裸の王様に出てくる子供のように「教会にはわからないことがある」と正面切って言い放つ人は少ないだろうと思う。個人的には、教会とは何であるのか、ということに関する教会についてのメタ思考につながると思っていて、大事だと思うけど。

認識の非対称性
 では、「認識の非対称性」とは何か?ということに触れてみたい。これは、あまり言われてないことかもしれないので、少し触れておくと、教会の内部と外部で同じ事象に対する認識が両者の間で同じでないということことなのだ。芸術や、マンガを用いながら、ISOの通信における階層モデルで説明している記事があった。

 実際に即して平たく言うと、情報の発信者や行為の主体としての教会と情報の受信者(受容者)や行為を見ている側の主体としての社会の一般の人々との間に、教会が言ったり、教会で行われたりしていることの個別行為に関する認識や受け取られ方や意味が異なった文脈としてとらえられたり、その後が独り歩きしてしまい、世俗社会と教会の中で、その意味が異なってしまっている、という現実と指摘することができよう。

 いわゆる小説『羅生門』の世界であり、He said, She saidの状況が生まれている状態である。以下の動画は、B級コメディであるが、認知の違いがこれほどまでに生まれるのか、を映画的表現手法で、示したものである。



He said, she said situationを描いた映画 「He said, She said」

 ものすごく単純化して言うと、両者の間で誤解が生じている、ということでしかない。これをうまく2本の映画作品で映画化してみようとしたのが、Flags of Our FathersLetters from Iwo Jimaである。とはいえ、監督のクリント・イーストウッドはアメリカ人であり、完全に中立性は保証されていない、ということは認識しておくべきであろう。


父親たちの星条旗 米国本土と戦場での認識の壁を描いた作品にもなっている


硫黄島からの手紙 これも、一種日本本土と戦場での認識の壁を描いた作品でもある

 この連載の次回では、「認識の非対称性」をもとに、教会のカベを下げる試みとその課題について、少し例をとりながら、書いてみたい。





評価:
八木谷 涼子
キリスト新聞社
¥ 1,620
(2013-11-22)
コメント:お勧めしています。


 今月も、NTライト祭り 葉絶賛継続中ですが、アクセス・ご清覧いただきありがとうございます。今月は18949となり、平均で、日に611.3アクセスでした。ちょっと、夏枯れの雰囲気が漂っておりました。


 2014年第2四半期(4〜6月)  58171アクセス(639.2)
 2014年第3四半期(7〜9月)  39349アクセス(479.9)
 2014年第4四半期(10〜12月)  42559アクセス(462.6)
 2015年第1四半期(1〜3月)  48073アクセス(534.1)
 2015年第2四半期(4〜6月)  48073アクセス(631.7)

今月の単品人気記事ベストファイブは以下の通り

現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由

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チャーチホッパーについてなーんとなーく思うこと 現代の教会

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あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。

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キリスト教Evangelicals と Fundamentalits が形成されるアメリカの社会背景

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「仏教思想のゼロポイント」を面白く読んだ(7)

   アクセス数 282

でした。しかし、ベスト5の内トップ4が相当以前のブログ記事で、今月の記事で唯一トップファイブ入りしたのが、仏教との対話の記事。キリスト教系ブログであるにもかかわらず、仏教との対話をしている記事が先月に続きベスト5入りというのが、実に微妙ではあるような気がするけど、これはある意味重要だと思っております。一応、護教的な意味で。

 何より驚いたのは、上位5位(同率6位を含む)中、2月連続で4本が先月以前の記事であるあたりが、Webにおけるロングテールという意味を感じざるを得ない、と今月も感慨を新たにしました。

 今月も、先々月復活させた「富士山とシナイ山」(これはあまり、人気がない)をとりあえず完結に向けていきたいかなぁ、と思っております(多分、年内に完結の予定)。

 先月のご清覧感謝。今月もまた、よろしくお願いいたします。




 
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 本日も引き続き、『富士山とシナイ山』から18章、「なぜ神に背く者たちが繁栄するのか」の続きからご紹介していきたい。

機械的・客観的理解で神が理解できるか?

 近代という時代は、以前にも紹介したが、単純化し、機械的な理解で、様々なことを理解しようとする非常に聖書理解に問題が生じているように思う。そのあたりの事に関して、旧約聖書を引用しながら、小山先生は次のようにお書きである。
 エレミヤは神の前に不満を訴え出た。それほど親密な神との人格的関係のうちに彼は生きていたのだ。神は正義の機械的、客観的機能の見方ではない。神は正義を創造する。それ故預言者イザヤは次のように預言するのだ。
 私はこの私は私自身のためにあなたの配信の罪を消し去り、もはやあなたの罪を思い出さないことにする。(イザヤ43:25)

 わがなゆえに、私は怒りを抑える。我が栄誉ゆえに、あなたのために、怒りを制する。あなたを絶縁しないために。(イザヤ48:9)
 原則としてではなく、人格的存在として歴史に身を挺している神は、ご自身のために自由でかつ責任の裏付けのある決断をする。神のこうした自由な決断は我々の倫理的決断と同一視されてはならないだろう。

 とはいえ、人間の倫理的決断に生命と意味を与えるのはこうした第一義的な神の決断である。これこそ今日われわれが傾聴しなければならない聖書的伝統の生けるメッセージである。上に引用したイザヤ書の詞章を、我々の国内政治および国際政治と軽くあしらうようなことがあってはならない。そうすることで、我々が自分自身とその言動を判断するうえでなくてはならぬ視座が用意されるからである。神の決断の倫理的意味は、われわれの「現実的な」政治状況についての思考に導き入れられなければならない。そうすることで、我々が自分自身とその言動を判断するうえでなくてはならなぬ視座が用意されるからである。神の決断の倫理的意味は、深遠な仕方で、我々の自己理解と世界理解に光を当てて、啓発しうるのである。(ヨハネ福音書1章9節)したがって、政治、経済及び統治の領域における我々の行動に批判的影響を及ぼすことができよう。(『富士山とシナイ山』 p.342)
 個人的にこの部分を読みながら、あぁ、そうなのだ、と思ったのは、「神は正義を創造する」という表現である。聖書の神は、義(ツェデク)の神ということは知っているが、それは存在そのものが正義あるいは義であることのみならず、人間の世界に介入して、神御自身の義を成立させていく、あるいは、神の義をこの地上の一部に闇に住まうわれらの一部にぶちこんでいくという側面をもっているように思うのだ。我々は、空間にせよ、時間にせよ、対象にせよ、人間にせよ、それ等が同質的なものととらえ、同質的であらねばならぬという理解で考える。正義にしてもそうであるし、公平とか、構成ということに関しても、その様に理解しようとする近代人の悲劇がある様な気がする。つまり、近代社会における「人はすべて同質であり、同じ扱いを受けることが公平であり公正である」という前提があるが故に、本来的に人間は異質なものであり、その異質なものが集まって社会が構成されるというその現実が見失われてしまっているように思うのだ。

 例えば、最近小学校や幼稚園しているのかどうかは知らないが、運動会で、全員が手をつなぎながらゴールして、皆等しく一等賞を取らせるということがおかしいとかいう議論があったような気がする。また、こないだわが子と話していた時に子供時代の経験として子供が語ったことから思ったのだが、学芸会で一人の主人公を一人の子供が演じるのではなく、多くの子供たちが入れ替わり演じさせることで、一種の「人間が考えた公平性、平等性という義」を実現するということは、近代における義の反映であるのだなぁ、と思うことがある。

 この(人間が考える)義の一つの側面である「平等性」、「公平性」の議論で神が捉えられないということは案外重要だと思うのである。実は、経済学や、マイケル・サンデル教授が言う正義論を考えるときにも、実は正義の実現のし方は一つでない。多くの人は、それは一つだと思っているかもしれないが。空間経済学ということを昔かなり真面目にやったので、そのあたりの事は非常に大事であると思う。というのは、空間というものがそもそも同質的、均質的なものでなく、差別的なものであり、そこが面白いと思うのだ。空間を扱うものとしては。


マイケル・サンデルの正義論の講義の一部

 考えてみればよい。山がちな地域と平野部では、そもそも人の生き方も、移動の仕方も違うのだ。その意味で、地形的な意味でも空間は差別的である。さらに言えば、均質の空間、一直線上の空間を考えてみよう。その中に一つだけ公共施設(市役所とか病院とか公園とか)があるとしたら、その施設に近い人はより大きなメリットを受けるが、遠い人は、メリットを感じるために、わざわざ移動して、費用を自己負担してその施設に行かないとメリットを受けられないという意味で差別的なのだ。その意味で、神が造り給いし空間というものですら、そもそも差別的な構造をもっている。この中で、正義を実現するというためにはいくつかの方法があるが、もし、追加で一つ施設を建設すると為るとどのような在り方が公平であろうか。全員の移動距離を最小化するような方法が正義だろうか、あるいは、最も不利をこうむっている人を改善するような方法が正義だろうか。答えは、簡単に出ないし、そのことに関して、どうやっても答えは出ないのである。人間としては。

 Justice Leagueの皆様のご登場では、解決しないのである。世界はアメコミの世界よりよほど複雑なのである。


アメコミの定番 Justice Leagueの皆様

 こう考え見れば、人間は、安易に「正義」という言葉をよく考えもせずに振り回すが、何が正義であるかすら、単純な設定のもとですら、決めかねるという現実に直面する。正義を振り回す場合、その正義とは所詮「私が考えるところの正義」程度のものでしかなく、その結果として、おそらくではあるが、自分が有利になることをもって「正義」と呼んでいるのであり、そのせめぎ合いをするのが政治ということになるのではないか、と醒めた見方をしている。シニカルだなぁ。

 しかし、キリスト者として現実世界を生きるということは、この政治的問題(それは教会政治かもしれないし、現実の国会や地方議会で行われている政治家政治かもしれない)とは、神と共に生きるものとして無縁ではありえないが、その際の視野や視座、あるいは原点にあたるものを聖書を通して考えることが、キリスト者として出来るのではないか、と小山先生はお書きなのだろうと思うし、また、そのことが案外重要であるのではないか、政治の事は世の中の事とすねた見方をしてそれに一本も触れようとせず、ひたすら天国と称しておられるところに行くことのみを考えているキリスト教ってドヤさ、っていうことをご指摘なのではないか、と思う。リベラルと呼ぶならお呼びなされ。リベラルのラベルを張ってわかった気になったところで、預言者ナタンがダビデに対して預言者の本領を発揮し、神からのことばによる現実的な政治への神の介入があった事実は変わるだろうか。あるいは、エレミヤが嘆き節を投げながら、現実の王政に口を挟んだ事実は変わらないのではないか、と思うのだ。

愚かさと弱さのうちに権威を発揮する神

 神の支配の逆説、つまり弱さのゆえに強いということに関しては、連載が続いている『「弱さ」のむこうにあるもの』の中でも触れたが、これは聖書の中にあって、非常に重要な概念であると思うのだ。
【口語訳聖書】申命記
 7:6 あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。
 7:7 主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。
 この弱きものを宝とするという概念は現代のキリスト教の中の一部では忘れられているのかもしれない。より豊かになり、より強くなり、より高いレベルを目指すという、近現代の社会のひずみが反映されたようなキリスト教というのもどうもないわけではなさそうである。このような事例は、ダビデの神の選びにおいてもそうであったし、それ以外でも、このような事例は旧約聖書に数限りなくみられる。そもそも、木にかけられ呪われたものとなったが故に、全人類の救済となったナザレのイエスの十字架そのものが、その神の逆説を示すものなのではないかと思うのである。この辺りの事に関して、小山先輩は次のように書いている。
 先に引用したイザヤ書の詞をエレミヤの問いに対する答えと解してはならない。あの問いに対する簡単な答えを聖書の中に捜しても無駄である。第一義的な決断は「十字架の言葉」(コリントの信徒への第1の手紙1章18節)としてキリスト者のもとに来る。十字架の言葉はエレミヤの問い「背信の徒のすべてが繁栄するのはなぜですか」に対する簡単な答えを与えてはくれないが、問いの見方に新たな方向付けを与えてくれる。十字架の言葉は上に引用されたイザヤ書からの言葉に表現された神の心の深みにいくつかのヒントを与えてくれる。
 「わが名ゆえに、私は怒りを抑える」。この言葉の真意は、コリントの信徒への第1の手紙章25節「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」の光に照らして理解されなければならない。神の名は、人よりも「賢く、強い」その「愚かさと弱さ」のうちに真の権威と力を発揮する名である。この名が言及されると、歴史はカルマの機能する磁場でもなければ、いくつもの偶発的出来事の連鎖でもなくなる。カルマと偶発的出来事は、その主権が十字架につけられたキリストのうちに「愚かに、弱弱しく」表現される神によって支配されている。我々は歴史を、激しく動かされる神の心を通して、神が経験するように見、経験するように導かれる。カルマの冷静な作用を通してではなく、また無思慮な偶発的出来事の連鎖のイメージを通してでもなく。(同書 p.343)
 聖書は単純な近代人がよしとして来た様な知の体系で理解を超えたものであるし、その世界の中に押し込めてはならないと思うのである。そもそも近代という時代は、わずかこの数百年、高々300年ほどの時代である。

 「いやいや、その間に人間の理解は進歩してきたし、進化してきた」とおっしゃる向きもあろう。本当にそうであろうか。確かに、ある面、人間は長生きはする様にはなったし、様々な国際的な問題解決の方法論はつくりだされはしてきたが、長生きに伴う問題を産んではいないだろうか、あるいは、国際間の戦争や難民の問題は解決がついて、そういう状況は生まれなくなっただろうか。あるいは、我々は、時代が進むに応じて、より正確な神の理解に達していると言えるのだろうか。現実の変化につれ、神の理解は変化はしているが本源的な部分で、より正確な神の理解に我々は達していると言えるだろうか。個人的には、そうは思えない。ある面、自分たちが理解できるような形にして理解した気分に浸っているだけだとしか思えないし、そして、そういう思いから、他のキリスト者を批判、非難しあっているにすぎないと思うのだ。実に無益ではないか、と思うのである。

 非常に面白いなぁ、と思ったのは、「この名が言及されると、歴史はカルマの機能する磁場でもなければ、いくつもの偶発的出来事の連鎖でもなくなる」という部分である。現代の政治学にしても政治経済学にしても、基本的にこの名(YHWH)を言及しない世界に問題を押し込め、議論をするためか、基本的にカルマの機能する磁場となり、偶発的出来事の連鎖としてとらえている部分があることは否めない。

 しかし、神が存在するとしたら、神がこの世に関与し、この世の世界の中に御自身の存在を見せるということを考えるとすれば、将にカルマが機能する場、作用と反作用の場として世界を見ることが妥当であるのか、あるいは、主の祈りにおいて、「天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈る時、我々は、本当に神の出現、神のこの地上の出来事への関与、あるいは、この地上における神の国、あるいはこの地の事に関する神の支配をどう考え、どう思っているのか、ということをもう少し考えたほうがいいかもしれない。

 まだまだ続く。







評価:
小山 晃佑
教文館
¥ 4,104
(2014-09-12)
コメント:お勧めして居ります。

評価:
木原 活信
いのちのことば社
¥ 1,728
(2015-07-08)
コメント:ご紹介して居ります。


 
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 今日も、木原活信 著 『「弱さ」の向こうにあるもの』の第7章「社会的排除と福音」から、紹介し、少し考えてみたいと思う。

ナザレのイエスの名
 美しの門の続きである。前回の投稿では、人間が依存に陥りかねないということについて触れた。この美しの門のところにいた乞食の前にペトロが指し示したものについて、木原さんは次のように書いておられる。
 真にエンパワーされて自立するためにも、頼るべきものは何かという核心に迫る必要がある。3つの陥りやすい依存について触れたが、ペテロが示した「私にあるもの」は、通常の「もの」とはちがって、「ナザレのイエス・キリストの名」だった。

 ナザレとは、イエスが育った町の名であるが、これが歴史上(地理上)の具体的なものであることが大切である。それは、観念論ではなく、実体のあるものである。神が神である限り、人間はそれ自体として実感するのが難しいが、神が肉を纏った人間の姿(身体)として歴史上に登場することによって、我々は神が初めてわかると実感できるのである。
 ナザレから他に判ることは、それは、弱さの根本であるということである。(中略)とりわけ、「ナザレから何の善いものが出るであろう」と一種差別されていたことを示す言葉が新約聖書に記録されているように(ヨハネ1:46)、周辺の土地であったようである。(中略)ナザレという響きには何か侮蔑したかのようなものがあったようである。
 ナザレは「悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53:3)イエスの象徴であった。それは先述した人間の住む宿屋ではなく飼い葉おけで生まれたイエス、「枕するところもない」イエスの「弱さ」の根源そのものを象徴する言葉であったであろうと思われるからである。それは底辺であえぐ者たち、社会の終焉で嘆く者たち、疎外され蔑まれている人たちに、真の意味でコンパッション(共感共苦)できる鍵となる言葉、それが「ナザレ」であったからである。(「弱さ」の向こうにあるもの pp.105−106)
 ここで、重要なのは、名前が持つ個別性と具体性であると思うのだ。地理学関係をやっていると、個別の地点識別子として、緯度、経度とかの識別子の体系として数次の体系を使うことが多い。ところで、緯度経度であれば、まだ理解できる方は多いであろうが、日本平面直角座標系とか、普通の人にはわけわからん識別子の体系を使うこともあるし、最近では、ジオタグという技術もないわけではない。要するに地点特定の方法としては、どこかを起点とする数字による方法を使うことが多いのである。

 個別性といえば、農家さんとお付き合いするようになって感じることだが、場所を特定する方法としての農家さんのジオタグの方法は、あそこの○○という工場の角を曲がって、川上に上がって3枚目の田んぼ、というタグ付け方法なのである。この方法は、大変困ることが多い。まぁ、田んぼ自体には、番地表示もなければ、地域名の表示すらないのである。しかし、そうであっても、農家の皆さんは、あそこの田んぼはコンバインが沈むとか、水はけが悪いだの、田んぼ1枚1枚に名前がついている。



手前が山田錦 奥側がおそらくキヌヒカリ

機械工場でも、産業用ロボットや製造機器に、女性名をつけることは少なくない、らしい。

人格と名前

 個人的に、名前というのは識別子でしかない、と思っているので、別にどうでもいいとは思っている。しかし、そうでないという主張はある。それも理解できなくないが。
 スイスの医師ポール・トゥルニエ(Tournier, Paul)は「名前はいのち」であるという。確かに強制収容所では、名前ではなく、敢えて番号によって人々を識別した。これは相手を人格化させないための巧妙な方法である。(pp.106−107)
 番号を使った非人格化はナチスの強制収容所の発明ではなく、ヨーロッパでの監獄での習慣であると思う。刑務所に関する小説や書籍にはいくつかあるが、その中での代表的なものを下にいくつかあげておく。中でも、加賀 乙彦先生の死刑囚の記録は、死刑制度を考えるという意味でも、極めて重要な書籍の一つであると思う。一読をお勧めしておく。

 そもそも、刑務所や強制収容所は、そもそも人権を剥奪するということが刑罰の一つであるという側面もあるが、日本の刑務所はその中でも人権への配慮がないことで世界的に有名であるらしい。特に一番問題なのは、留置場での対応や取り調べ中の人権保護が十分でないことである。アメリカだと、ミランダ条項というのがあり、
  1. You have the right to remain silent.(あなたには黙秘権がある。)
  2. Anything you say can and will be used against you in a court of law. (供述は、法廷であなたに不利な証拠として用いられる。)
  3. You have the right to have an attorney present during questioning.(あなたは弁護士の同席を求める権利がある。)
  4. If you cannot afford an attorney, one will be provided for you.(もし自分で弁護士に依頼する経済力がなければ、弁護人を提供する。)
ということをいうのである。この辺、疑わしきは犯人説とする傾向が、江戸以来1950年代(いや、現代もという傾向はある)位まで続いた我が国と、合理的疑い(Reasonable Doubt)があると、判断を保留する習慣が強い国とは大分違うのだ。疑わしきは罰せず、とは言うが、それは単に鼻で生きするものである人間が完全に判断しえないという立場から、判断を保留するに過ぎないのだ。

 名前といえば、個人的には、改姓、改名が印象深い。アメリカの場合、割と名前が呼びにくいから、という理由や別に理由を言わなくても比較的簡単に改名ができる州がある。たいがいの州ではそう難しい話ではない。確かにスカンジナビア系の名前や、ギリシア系の名前は読みにくいのだ。あとは、愛称で呼びやすくする手はあるけれども。個人的には母音の多い国の言語での名前であるので、アメリカ人には発音が難しかった経験もある。そのことから、外国人には、名前の一部をとって、愛称を提示することにしている。

 アメリカで大学院の講義をしていたころに、共同で講義をもった教員の皆さんの打ち合わせの時に、アルファベット表記された名前でも、非常に呼びにくい名前の中欧系の御家系の背景をもつ方らしい学生がいた。その学生の名前を間違えないようにしないと、という努力をしているのを見て、あぁ、この人たちの精神性というのは、人格と名前がついているってのは、こういうことなんだ、と思ったことがある。

 ユダヤ的な名前の由来には非常に面白いものがある。有名な例は、ナバルの例である。
【口語訳聖書】 サムエル記 上
 25:25 わが君よ、どうぞ、このよこしまな人ナバルのことを気にかけないでください。あの人はその名のとおりです。名はナバルで、愚かな者です。
となっている。ナバル(נבל)とは萎れた、とかかれたといった様なものであり、どうしようもないほど、無作法という言葉ではないか、という意味と理解できなくはないらしい。大学時代のオリエント史を教えてくださった池田裕先生によれば、結構こういう不吉な名前がついたユダヤ人は多いらしい。要するにそういう状態にならないように、あるいは病気にならないようにするため、尚、池田裕先生の御著書に「わが名はベン・オニ」というベニアミンの名前の由来をもとに書かれた非常に印象深い本がある。その関係で考えれば、以下の木原さんの記述は非常によくわかるかもしれない。
名前というのは記号ではなく、人との関係性の中で意味をおぼさせるものであり、人格の宿る所なのだろう。そうすると、ここでいう「ナザレのイエスの名」とは、イエスの人格、その本体そのものであり、それによってあなたは立ち上がりなさい、というメッセージになる。(同書 p.107)
つまり、「ナザレのイエスの名によって」ということが人格、本体あるいは実体を指し示すとすれば、ナザレのイエスの名と人格的な関係、すなわち「知る」という関係に入るということなのだと思う。在る面それは、単に「対象としてイエスを認識する、識別する」という意味ではなく、J.I.パッカー先輩が、Knowing God(『神について』)でお書きになられたように、人格的な交流があり、一体となるという意味を含むのであると思う。ここで、シモンは、シモン・ペテロにおいて宣言したわけではなく、ナザレのイエスにおいて宣言したという点は少し着目して良いかもしれない。

包括者としてのナザレのイエス
 ここで、木原さんは「イエスは排除ではなく包摂をこころみた」とお書きになっている意味は案外重要であるし、実はこれがローマの政治制度とも深い関係に在ると思うのだ。
ペテロにあったもの、それはペテロだけがひそかに持っている独占物や秘技ではなかった。当時はユダヤ人だけが神の選びの対象であったと考えられていたが、聖書によれば、ナザレのイエスという名は万民に及ぶものであった。「すべての人を照らすまことの光」とあるように、すべてを包むものであり、排除の論理ではなく社会的包摂の論理である。とりわけ、悩めるもの、自ら立ち上がることすらできないもの、絶望するもの、苦悩するもの、そこに光を与える方、これがナザレのイエスの名なのである。(p.108)
これに関して言うと、次のような記述がある。
【口語訳聖書】マルコによる福音書
9:38 ヨハネがイエスに言った、「先生、わたしたちについてこない者が、あなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちについてこなかったので、やめさせました」。
 9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
 9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。
 9:41 だれでも、キリストについている者だというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれるものは、よく言っておくが、決してその報いからもれることはないであろう。
 9:42 また、わたしを信じるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海に投げ込まれた方が、はるかによい。
 ここで、ナザレのイエスが行っていることは、キリストに反さないもの、キリストにつくもの、ナザレのイエスにつくものは、幅広く神の仲間、同僚であると言っているように思うのである。案外ことの事は大事かもしれない。

 我々は、他のキリスト者が自分の行動パターンや価値基準とちょっと違うからと言って、それをもとにすぐ排除するものであるが、イエスはそのような排除を原則としなかったということがこのペテロの言明にも、またマルコ9章のイエスの言明にも表れている様な気がしてならない。

 共和制から帝政初期ごろまでは、ローマが領土的に拡大したこともあったという事もあろうが、自らが征服した民族を排除したり、根絶するのではなく、包括して仲間(クライエントとその後見人)関係にしていったようである。これは、ローマ帝国の安定のために非常に極めて有効に機能した様である。そして、その包括性は、ローマカトリック教会には一部にせよ、引き継がれているようである。しかし、プロテスタント各派自ら包括の論理に納得してこなかった部分があるように思う。その結果、それぞれの教派が、基本的には多くの共通項を持ちながらも、それぞれ独自の部分にこだわった聖書理解に立ち、「我らこそ正統的なキリスト教である」という構造があったと思う。その結果、キリスト教全体に対する理解がない多くの日本人に対してそれぞれのキリスト教のグループは、それぞれが、「我らこそ正統である」と一種の自己主張として繰り返し主張して来たと思うのである。

 もちろん、包括に伴う問題がないわけではない。小異を捨て、大同に付くとは言いやすいが過去の歴史があり、なかなかそれも難しいのも事実であるし、戦争時期に日本キリスト教団を政府に促されながら形成したり、教理的に越えがたい壁があったりとか、教理の違いが多いキリスト教界において、エキュメニカル運動には乗り越えるのが困難な大きな壁があることも事実である。

まだまだ続く



評価:
木原 活信
いのちのことば社
¥ 1,728
(2015-07-08)
コメント:絶賛ご紹介中である。

評価:
吉村 昭
新潮社
¥ 724
(1986-12-23)
コメント:昭和の頃に脱獄した囚人の根性をかけた脱獄の歴史と刑務官との関係を描いた作品

評価:
加賀 乙彦
中央公論新社
¥ 734
(1980-01-23)
コメント:案外知ることのない死刑囚の状況に関して医務官として勤務した経験に基づいた本

 
Pocket

  本日も、また工藤信夫著 『真実の福音を求めて』から引き続きご紹介したい。本日は第8章「いくつかの提言」から後半からについてである。今回で、この連載シリーズは最終回となる。

日本人にわかるキリスト教

 日本人に判るキリスト教、あるいは日本に現地化しながらも、日本の神道や日本型の仏教と習合しないキリスト教の問題に関して、工藤さんは次のようにお書きである。
 拙著『これからのキリスト教』(いのちのことば社)の中で、私は遠藤周作氏の二つの視点を紹介している。その一つは西洋型キリスト教ではなく、日本人にもわかるキリスト教理解であり、もう一つは人間のこころの探求である。
  前者に関しては、遠藤周作氏と並んでこのテーマをめぐって一生苦しんだ井上洋二神父が、新しいタイプの宣教を試されたことが知られている。(中略)そろそろ私たち日本人もいつまでも欧米型キリスト教の追従ではなく、日本人に相応しいキリスト教理解を志してよいのではないか。というのも、私自身も年齢を重ねれば重ねるほど、こうした先人の生き方に親和性を抱くからである。(もちろん、かつての日本型キリスト教になるということでは決してない。)(『真実の福音を求めて』 pp.125-126)
 この工藤さんの記載の中に言及されている井上司祭は、西洋型のキリスト教が日本人のからだや新体制に合わないまま、なかば無理矢理頑張って西洋型のキリスト教に合わせ続けてきたことに違和感を抱かれ、日本人が素直に依存できるキリスト教とは何か、ということで、探求された方であった。そして、法然の思想を参照点にしながら、「南無アッバ」と神を呼ぶことが神と共に生きることではないのか、ということを提唱されて、そもそも、日本人の体形に合わない西欧型鎧兜を無理やり着る、あるいはそれが合わなくてもそれを着なければならないとするキリスト教、着させることをよしとするかのようなキリスト教ではなく、最もコアの神の存在、神と共に生きるという部分を中心としつつ、何が本源的にキリスト教であるかを考えられた井上司祭の主張を取り上げ、土着化の必要性を説いておられる。

 とはいえ、西洋道徳・西洋倫理としてのキリスト教などではなく、本質的にキリスト教という部分、そして神が人と共に生きようとされ、わざわざ小さくなられたということを覚えるなどというキリスト教の本質部分を見失わないようにしつつ、土着化は進めていくべきであるし、「メイド・イン・ジャパンのキリスト教」に指摘されたような普遍的でない部分の多いキリスト教ではないように一定の配慮が必要かもしれない。

 実は、このあたり、アフリカの霊性というか、アフリカの土着化は案外参考になるのではないか、と思うのだ。このあたりのことは、「総説キリスト教」でマクグラス先輩も少し書いておられた。

キリスト教は外形ではないかも

 上でも少し触れたが、これまで何度かこの記事としても書いてきたが、明治期以降の日本社会におけるキリスト教は西洋倫理、西洋道徳として受け入れられてきたような気がする。その結果、キリスト教徒としての行動様式がかなり重視され、その行動様式に従うことがキリスト教であるというような理解の方が生まれ、その結果、教会からの人間疎外が発生しかけているような気もするが、そのあたりの事に関して、工藤さんは次のように述べておられる。

 これからのキリスト教は、教理や教義の大切さと並んで人間そのもののあり様にもっと注意深くあるべきではないだろうか。ところが、私が述べた「人間疎外」は、教義、教会、組織が優先され、その大きな流れの中に肝心の個人が埋没する。
  しかし、聖書の世界はあくまでも、”人が失われること”を危惧する世界である。つまり、個人の精神世界、その内容がおろそかにされる世界は信仰の名に値しないのではないだろうか。これではいくらその形や外面が強調されたところで、一人ひとりに届かないであろう。(同書 p.127)
 ここで、「聖書の世界はあくまでも、”人が失われること”を危惧する世界」というご指摘は非常に重要であると思う。ナザレのイエスの主張は、Rescue Mission(その人を人間としての神の前の特権を回復させる救出計画)であるとN.T.ライト先輩は、Simply Christian(日本語版 クリスチャンであるとは)で書いておられるが、日本では、そのあたりの理解がまだ十分でないのかもしれない。それよりもむしろ教理とか教義とかという概念、それ以上に行動パターン、教会内での所作や言動のあり方(これ、道徳とか作法であって、キリスト教そのものではない、と個人的に思うが)を重要視される向きもあるようには思う。

 本来、神に向かって真剣に主張し関与しようと誌たのが、信仰であり、神と共に生きることだと思うのだ。アブラハムだって、バナナのたたき売りよろしくではあるけれども、次のように神に訴え、神と真剣に交渉したようなのだ。
【口語訳聖書】 創世記
 18:20 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、
 18:21 わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。
 18:22 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。
 18:23 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
 18:24 たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
 18:25 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
 18:26 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
 18:27 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
 18:28 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
 18:29 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
 18:30 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
 18:31 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
 18:32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。
 18:33 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。
 この部分を改めて思いながら、ロトの救出ミッションということが創世記の中に出てくることは案外重要ではないか、と思うのだ。ロトの救出ミッションはいくつか創世期の中に出てくる。しかしロトは何度も救出されている。新約聖書の中で、また、ユダヤ的伝統の中で、アブラハムが称揚されることもあり、キリスト教の信徒の人々はアブラハムをご自身に重ねることが多いようであるが、個人的な感想から言えば、このロトの方に私自身は近いと思っている。何度も、何度も、救出を受けながらも、それでもなお、罪の中に生きてしまわざるを得ない弱さを抱えたものとしての性質を持つように思っている。それが、罪の中に生きながらも、神と共に生きるということなのかもしれない、と思っている。

「こころ」を忘れた近代からの回復

 近代化社会は、計測の社会でもあったことは、Against the Gods(日本語名 「リスク」)という本の中でも書かれているが、教会もそれに支配されてきて、計数(要するに教会員の人数とか教勢という語で示されるもの)に支配されてきたように思う。そのあたりの事に関して、工藤さんは次のようにお書きである。
(引用者補足 これまでの本の出版動機は)人の心が大切にされていない、尊重されていないのではないかという問題提起、宣教の対象である人々の人間理解の欠如ということである。しかし、明らかに日本人のメンタリティは「心のケア」に向かっている。戦前の日本は明治以来の富国強兵策であって、国家のため一心不乱に走っていた。それゆえキリスト教もその多くは教会形成に力を注いでいたと言えるように思う。バブル崩壊後は組織が必ずしも個人の幸福を保証してくれるものでないことに気付き、社会はようやく一人ひとりの大切さに目を向けつつあるのではないだろうか。(同書 p.128)
確かに人のこころの問題は大切である。だからと言って、個人的に思うのは、カウンセリングはある面重要であるが、キリスト教そのものではない、という側面はあるのではないか、と思うのである。

 確かに心の問題、一人ひとりの心の問題は大事であるが、それは、ナザレのイエス、ないしは、キリストのレスキュー・ミッションとは少し違うかなぁ、と思うのである。もっと、神との深い関与の問題だと思う。ただ、こころは、キリストのレスキューミッションと深くかかわる場所であるし、キリストのレスキューミッションが現れる場所であることも確かである。そして、それを忘れると、形式論だけが重視される様式論が幅を利かせるのは、ナザレのイエスが祭司や律法学者への批判としたご発言になられたことに現われているようにも思うのである。
【口語訳聖書】 マタイの福音書
 23:23 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。
 23:24 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
 23:25 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。
 23:26 盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
 23:27 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
 23:28 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
 23:29 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、
 23:30 『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。
 23:31 このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。
 23:32 あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。
 しかし、個人的には、このように批判を受けても致し方のないことをしてきたこともあるので、よそ様の事をご批判はできない。

コイノニア(交わり)の重要性

 教会とは何か、それはコイノニアである、と思う。建物でも、教団でも、組織でも、儀式でも、賛美歌でも、聖書の特定の翻訳でもなく、それを超えた存在である「コーパス・クリスティ」、あるいは「コルプス・クリスティアーヌム」、あるいは「キリスト共に生きる人々の世界」こそが、教会だと思うのである。工藤さんはフィリップ・ヤンシーの説をご紹介しながら、以下のようにお書きである。
 教会にもキリスト教式教育にも失望しつつ教会の大切さを主張したフィリップ・ヤンシーが、その多岐にわたる模索の中から、本来の教会があるべき姿を表現した言葉が二つある。それは、「交わり」、「関わり」の共同体、という概念である。ヤンシーはこの事をシカゴの教会とドイツの難病施設で実際に起こった体験から導き出している。(同書 p.132)
 先日、ある改革派教会を諸般の都合でご訪問した際に、たまたま、そこの礼拝説教の中で、このコイノニアの事が取り上げられていた。牧師の方は、ルターの教会論をご紹介しながら、まさに教会とはコイノニアであり、食事共同体(より正確には、聖餐共同体、平たく言えば、食事を一緒にする人々)である事をご提示なさっておられた。まさにその通りだと思う。

 その意味で、教会が食事(愛餐会)や聖餐式を大事にするのは、そういう背景からであり、伝統や昔から「おうどん」を食べてきたから、ではない。

 尚、関西では、教会の食事会には「おうどん」がつきものであることは、Ministryの大阪の出張講座で関西学院大学の中道先生もおっしゃっておられた。詳しくはこちら ざっくりわかる出張Ministry神学講座 in Osakaに行ってきた その2 をご参照賜りたい。


キリスト新聞社発行のカードゲーム 
「ピューリたん」の中のキャラクター

 余談に行き過ぎたが、元に戻すと、教会とはコイノニアそのものなのであり、そこで人間疎外、つまり交わりからの排除、コイノニアからの排除が起きるとすると、それは教会論的にどうなんだろうという疑問につながっているようにも思うのだ。イエスが語られた、次のことばの意味を考えたい。そして、カナン人の女の発言も。両方とも、食卓とコイノニアのことを言っていると思う。
【口語訳聖書】マタイによる福音書
 9:10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
 9:11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
 9:12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
 9:13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 9:14 そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
 9:15 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。
 9:16 だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。
 9:17 だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。
さらに
【口語訳聖書】マタイによる福音書
 15:22 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。
 15:23 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。
 15:24 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。
 15:25 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。
 15:26 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。
 15:27 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。
 15:28 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。
イエスのコイノニア(交わり・かかわり・共同体)は閉じた共同体ではなかったようである。

仕えるための共同体としての教会

 先ほど公開した匿名様のコメントへのご回答 匿名さんへのコメントにお応えして の記事ではないが、教会は偉くなるための組織や、ビッグになるための組織でもないし、夢を実現する組織でもないし、成功するためのプラットホームのようなものではないと個人的には考えている。そのあたりの事に関して、工藤さんは次のようにお書きである。
 そして、私はここで「村の小さな教会」と称して紹介した教会宣教のあり方は、牧師の経営戦略や、宣教的野心の支配する教会などでは全くない。むしろ、ポール・トゥルニエが『暴力と人間』の中で記した「神の貧しい人々」に属する人々であり、人々に教えることよりも仕えようとする教会の姿である。そしてそこにはヘンリ・ナウエンが『イエスの御名で』で明らかにしたような3つの誘惑、「自分の能力を示すこと」「人の歓心を買うこと」「権力を求めること」を旨とした宣教などとは、根本的にその方向を異にする。そしてこの誠実で地道な精神が息づいている。この方向性こそ新しい時代の、いや本来のキリスト教的教会のありかたではないかと私は思う。(同書 p.135)
 先日、これまた諸般の事情のために、縦乗りウェーイといった雰囲気のある若者の方が多い教会にご訪問したのであるが(見事に若者しかおらず40代以上の人はほとんどおられなかった)、そこでの牧師風の人の聖書説教や、賛美歌を歌いながら、アイドルグループにつきもののヲタ芸もどきの賛美の時間にはあまり違和感を抱かなかったのであるが、一つだけ気になったことがあった。


ヲタ芸の基本技らしい w

 それは、若い信徒さん(大学生や既卒数年の方々 この層が圧倒的に多かった)が、証(Testimony)として発言していることの中に、レベル(Level)や次のステージ(Stage)、次のステップ(Step)という語がかなり出てきたことである。まぁ、お若いので言語表現能力が限られるということもあるのだろうが、この後この概念がそのままキリスト教として理解されているとすると、いくつかの問題をはらむかもしれない、と思ったのである。つまり、キリスト教会の中のランキング化であり、序列化であり、序列順位を競い合うような形になっていくことである。

 このようなことは、オウム真理教でも用いられたし、残念なことではあるがキリスト教カルトでも見られたことだからである。つまり、ランキング上位に行くことが望ましいことであり、その結果として、上位にいけない人々に無理を強いてランキングの上昇を目指させたりすることが起きねばよいが、と老婆心ながら心配したのである。個人的には、キリスト教会というのは、そういうものと無縁のものであってほしいと願っている。

 特に、工藤さんの「人々に教えることよりも仕えようとする教会の姿」という表現を考えるとき、教会は、人々を教え、指導するところやレベルアップさせるところではなく、以下の連載でご紹介したような小さくされた人々とのコイノニア、そして、工藤さんがおっしゃるように、多様な人々が参加できるような誠実で派手さはない地道なコイノニアであってほしいと思う。近代の理念系とはだいぶん違うものであり、現状の教会に大きな変容を求める部分があるかもしれないが。

日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた

日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想

以上、長くなったがこの連載を終わりたい。


評価:
工藤 信夫
いのちのことば社
¥ 1,296
(2015-06-05)
コメント:お勧めしてます。

評価:
アリスター E.マクグラス
キリスト新聞社
---
(2008-07)
コメント:非常に良かった。あなたの知らないキリスト教の世界が垣間見えるかも。翻訳にはやや難があるが。

評価:
マーク・R. マリンズ
トランスビュー
¥ 4,104
(2005-04-28)
コメント:非常に重要なことが書かれている。おすすめ。

 
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 匿名さんという方からコメントを頂いた。非常に重要なことが書かれているので、少しレスポンス(応答)したいと思ったが、コメント欄では、スペースが限られるので、記事にすることにいたしました。お付き合いいただけたら、幸甚です。

信仰につまづいた?

 この匿名とおっしゃる方、非常に深刻なお悩みをお抱えになって、どういう経緯からかは存じ上げないのですが、拙ブログにご訪問頂いたようです。

 実に残念な傾向であるが、拙ブログには、未だに「教会やめたい」「信者やめたい」といったような検索語で来られる方が案外多いのである。実に残念な傾向であるとは思っているが、そういう形でのアクセスが多いということは、潜在的にこのようなお悩みの方は実は案外多いのではないかと思っております。
クリスチャンになったものの、信仰や教会員につまづき
信仰を捨てようか悩んでいたら、こちのブログに出会い
ました。
ここで、匿名様は、信仰につまづいたとお書きであるが、これは、「信仰」そのものというよりは、スコット・マクナイト先輩いうところの、「救いの文化」におつまづきになられたのではないか、と思うのです。

 それは、『福音の再発見』、英文では、The King Jesus Gospelで明らかにされているのですが、どのようなものかは、もう匿名様には 「救い」に関する誤解を考えるためのユニークな本 の記事などはお読みいただいているか、と存知ます。

 そもそも、この本『福音の再発見』を赤字覚悟で(実際に大赤字ww)出版した理由は、まさにこの匿名様のような、キリストに対する信仰とキリストが与えようとする希望にかけることにしたけれども、他の人がお持ちの『信仰』と称されるもの、他の方から『信仰』と称されて押し付けられる諸々にお疲れで、「そこまで言うんだったら、教会も信仰も、もういいや」というお気持ちになられた方が案外多いから、でございます。匿名様も、同様の状況と御経験をされた、ということだろうと思います。

 そして、お一人様キリスト者にでもなろうかなぁ、という状況に陥られているのかと思います。実に残念であると申し上げるとともに、そのような状況に陥らざるを得なかった匿名様に心からのご同情をまず申し上げます。

教会の闇?

 うーん、個人的には、教会の闇を批判的に書いているつもりはなく、神が不在の人間(=罪ある人間)の不甲斐なさ、当旧約聖書と通暁するテーマを自分自身のありようを批判的に考えながら書いております。
教会の闇を書いてくだっていましたが
私にはすごく共感できるものでした。
結局、罪ある人間(キリスト者になったとはいえ、闇を抱える人間)がすることですから、どうしても負の側面、あるいは闇の側面が出てくるのは致し方ないと思いますが、敢えて、そのことを批判する目的で書いてはおりません。その理由は、仮に特定のある地域にある実在の教会に問題があっても、教会にあって、キリストを信じる人々と共に生きる、ということの大切さは極めて重要であると思っているからでございます。

 とはいえ、ご清覧、御共感頂き、こころから御礼申し上げます。

程度の低い司牧?

 そして、匿名様は司牧の方の程度が低いと次にご指摘でございます。
私は、現在の教会で洗礼を受ける前、そして受けてからといくつかの教会に足を運んだのですが、正直どこの教会も牧師も魅力的に感じませんでした。むしろ、なぜこんな程度の低い者が牧師なんだろうか?と感じました。
個人的に、他の司牧の方に「程度が低い」と申し上げられるほどの人間ではございませんし、ミーちゃんはーちゃんがお付き合いいただいている司牧の方は、非常に魅力的で、尊敬できる方が多いように思います。そのような状況に関しては、それが例外的なことなのかもしれません。

 しかし、とはいえ、確実に、尊敬できる、魅力的な司牧の方は、日本のどこかにおられることは確かであると思っております。ただ、それらの方も、鼻で息されておられることは変わりないので、完全さはないとは存じておりますが。

子どもを遠ざける司牧?
聖書を読むから賢くなる?
 その証拠として、理解力もない子供たちに対してのある司牧の方の御発言をご紹介しておられます。
ある教会では、2歳児の子供相手に牧師が「うるさい、静かにしろ」と本気で怒鳴ったり「ほんま頭悪い子やわ」と言ったり(しかも、他人さんのお子さんです)、またある教会の牧師は、「クリスチャンは聖書を読むから賢くなるのです。そして神から頭の良さも受けるから、クリスチャンは高学歴が多いのです。バカはダメです。何の得にもなりません」と礼拝でも話し、教会に来る人、来る人に職業を聞き、それによって態度や扱いを変えるということをしていました。
 まぁ、これは「教会あるある」と申し上げてもよいかもしれません。このあたりの多数の事例については、I don't know who I am のFuminaru様にご紹介いただいて居る処でもありますが、割と普遍的に言われることもあるようです。その背景には、Fuminaru様が、

でご指摘の背景があるようにも思います。さらに、
上記はいづれも女性牧師ですが、男性牧師も同じようなものです。
とのご指摘ではございますが、匿名様のご指摘の通り、女性であるか男性であるかの性差はあまり関係ないかと思います。と申しますのは、神の不在、即ち罪ということは基本男性も女性も罪あるものであるということは、変わらないからでございます。

 「聖書を読むからキリスト者は賢くなる」ということや「聖書を読むからキリスト者はボケない」という根拠のない言説は、比較的普遍的にみられるものですが、これは、近代がもたらした不幸な誤解ではないか、と存じます。
 
 と申しますのは、庶民のキリスト者が「聖書を読むようになった」あるいは「聖書を読むようになれた」のは、イングランドなど西洋諸国においてもこの150-160年の出来事であり、日本でも小学校教育が普及した150年以降の出来事であったわけです。それ以前のキリスト者は洋の東西を問わず、一部の教育を受ける機会があった信徒を除いて、文字が読めないため、聖書を読みたくても読めない、聞くことしかできないという伝統があった人々の方が割合は多かったと思います。ルター先輩が、グーテンベルグ聖書でドイツ語翻訳された聖書を出版したということを想い、そのうえで現在の教育環境と重ね合わせ、多くのその時代のドイツ人キリスト者がルター先輩によるドイツ語聖書を読んだ、と誤解しやすいですが、恐らくそのようなことは起きず、商工業者等文字処理が必要な層のみ読めたのではないか、と思います。その意味で、社会の中の半数未満の人々のみが聖書や文字にアクセスしていたのではないか、と思います。

 多くの人々は文字が読める人々に聖書を読んでもらって、聞いていたのではないか、と思います。そして、それが現代の説教という形になったようにも思うのです。ルター先輩が95か条の提題を大学の掲示板にお祭りの日に合わせてお示しになられた宗教改革記念日の日にも、多くのドイツ人の農民たちは、耳学問としてルター先輩がご提示なられた疑問をご認識されたのではないか、と思います。


「ルター先生、大学の掲示板でもあった教会の扉に質問を張り出しました」之図

締め付けが厳しいキリスト教会

 個人的には、イエスがこの地上に来られたのは、次のような目的があるのだ、と旧約聖書のイザヤ書での苦難の僕と呼ばれる部分は言っていると思うのである。以下、その冒頭部分だけを引用する。

【口語訳聖書】 イザヤ書
 61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
 61:2 主の恵みの年と
  われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
 61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために
  植えられた者ととなえられる。

そして、そして、当時の人々を律法の本義を忘れ、律法主義的な概念に閉じ込めていた人々に対して、極めて激しい次のようなご批判をイエスはされたように思うのですね。
【口語訳聖書】マタイによる福音書
23:15 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。
しかし、このイエスの表現を読みますと、人が人間が作ったなにかに閉じ込めることをいかにイエスが望んでおられないかがよくわかります。イエスの死と復活から2000年もたつと、またぞろ、教会文化ができてきて、その中に閉じ込められているような気がする、と匿名様はお書きでございました。
ほんとクズだなと思い、そこの教会から私は離れ現在の教会に移りましたが、今のとこは今のとこで締め付けがきつく、同じプロテスタントであっても他教会の存在は認めていないので、自分とこの教会が絶対的という教えです。

他教会の読み物も一切タブーです。牧師先生に「ホームレスの炊き出しに行きたいです」と言ったら「それはあなたのすることではないし、そんな人らと関わりもつことを神様は願ってない」と注意を受けました。そして、ホームレスの話なんかしたことで牧師先生が一気に不機嫌になってしまわれました。
教会員さんたちも、かなり微妙な顔されました。
 私には、他人様をクズと呼ぶほどの聖さはありませんが、締め付けにかんしては、これ、結構あることはなるほどそのようなこともあるのだろうなぁ、とは一定程度、ご理解できるかと存知ます。私もそういうところで育ちましたから。

自派以外の書物読むべからず、 
貧者救済への不関与の背景

 自派の出版社以外読むのは時間の無駄、とか言われましてね。結構冷ややかな対応を受けたことがございます。まぁ、基本、私は平信徒主義のところで育ちましたが、長老という年長の信者さんが数十年前、聖書の学びと称するお話の中で、そのようなことを力説しておられた方がおられました。当時大学生でしたので、まぁ、ガン無視はしましたが。その方は、他のキリスト者集団の事を、「教派」とか「教団」と呼び、悪魔の手先扱いをしておられましたが、実際にミーちゃんはーちゃんが聖書の理解を深めるうえで、ご協力いただいた方々は、この「教派」とか「教団」と呼ばれるところの信徒さんであったり、司牧の方でした。

小さき人はメシア(キリスト)かも

 ホームレスや、弱った人への援助で教会外の動きへの参加も、私自身もしてはならないというような無言の圧力を感じておりましたねぇ。数十年前には。しかし、イエスご自身は、以下のようにおっしゃっておられることにハタと気づき、今では愚かしいことをした、と思っております。
【口語訳聖書】マタイによる福音書
 25:34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
 25:35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
 25:36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
 25:37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
 25:38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
 25:39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
 25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

(中略)

 25:44 そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。
 25:45 そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。
ただし、このような他者への奉仕、弱き人々への奉仕に対して、プロテスタントの一部で否定的な思いを持つその背景は歴史的なものがございます。まず、これらの弱き人々への奉仕に関してカトリック教会や東方正教会、アングリカンコミュニオン(日本では聖公会)の方々のなされてこられ、担ってきた部分があり、これらの否定としてのプロテスタント派であることもあり、このような働きのかなりの部分を否定したくなるプロテスタントの精神的狭隘さがあるものと思います。また、その結果、否定的な視点を向けやすいことがございます。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いではございませんが。

 あと、プロテスタントの中でも、福音派と呼ばれるキリスト者集団は、同じキリスト教のプロテスタント集団の中でも、リベラル派、あるいは社会は、あるいはメインラインと呼ばれる日本基督集団の持つ聖書理解とそれに基づく実践重視のキリスト教と福音派が持つキリスト教というものが違うのだ、と差異化及び差別化を図り、そのことで自己の存在の正統性を言い募ってきた部分がございます。

 この背景には、戦争前に存在したキリスト者集団は一度1940年頃に日本基督教団という形の政府主管の宗教団体に戦争遂行に協力するという名目で統合されてきたという歴史が影を落としておるものと考えます。つまり、政府の走狗のようになった日本基督教団とは違うのだ、という形で差別化することで正統性を確保しようとするあまり、日本基督教団とその後継団体に非常に否定的な目を向けていたと思います。このことから、他派の本を読むのは良くないというご主張につながったと思います。

 あともう一つ、この種の弱い人々、悲しむ人々に対応しようとしてきたキリスト教会は社会派と呼ばれておりました。この人々は、弱い人々を支援するという観点から、いわゆる左派、あるいは共産主義的な概念を持つ人々との連帯を行ってきたという側面があり、それが戦後の政治体制の、アメリカを中心とする自由主義陣営 VS ソ連(現ロシア)赤い中国と呼ばれた中華人民民主主義共和国を中心とする共産主義陣営との対立に問題がすり替えられ、アメリカから伝わった福音派の一部には、そういう現実の連帯、連携と神学への影響を避けるために、そのような弱さの内にある人々への対応をあえて行わない、という方法論的傾向がみられました。しかし、近年、プロテスタント派の中における福音派の一部においてもこれらの見直しに関して、検討され始められておりますが、まだまだ、十分とは言えないのではないかと思っておりますが、一朝一夕に動きませんので、祈りつつ忍耐をもって、静まりの内に待つ以外にはないかなぁ、と思っております。

愛という誤解を招く語
 以下ご紹介するように、匿名様は、愛の問題を取り上げておられます。
神様の愛って何?そもそも愛って何とか?
信仰って何?とか色々考えるようになりました。
勿論、人間なので完璧な人などいませんし
全部ひっくるめて相手を受け入れることが必要
なのでしょう。
 聖書の言語などは素人の手すさび程度のものでしかないのですが、聖書で主張されている「愛」という語と日本語における「愛」という語が一致していない、と思っておりますし、「信仰」という語に関しても、現代の日本語と聖書のもともとの言語が持つ語のニュアンスが相当違うようにも思います。その意味で、第1コリント13章も誤読しておられるキリスト者の方も相当数おられるように思います。
でも、現実には「神は愛です。私たちも愛を持って
日々生活しましょう」と言いながら、牧師が教会内
の人間を差別したり、上から目線で物言ったり
やることと言ってることがちぐはぐだっりします。
 その意味で、私自身もこの直上にご紹介した匿名様のご批判は甘んじて受けねばなりません。人間として神と共に居たいと思いつつも、神と一体となることができないということは認めざるを得ませんので。

不完全な人間のうちに働く神

私は人のアラが見えやすいし
それによってストレスを貯めやすいほうなので
無教会でもええのかな?と思うのですが
まだ決めかねているところです。
 無教会も、無教会でそもそもその運動をはじめられた内村鑑三先輩ご存命の内から、後に先生主義と批判される現象がはびこっていた部分も全くないわけではないようですから、どうぞ教会選びはご慎重に。

 是非、信徒共同体の内に働くナザレのイエスと聖霊なる神に思いをはせていただきますように。そのためにナザレのイエスとして、キリスト、救い主、メシアが地上に来られましたし、聖霊が遣わされているわけですから。聖霊がどこから来られたかに関しては、父からのみなのか、父と子からなのかはよくわかりませんが。

選民意識とキリスト者
 置換神学(誤解を恐れずに言えば、旧約時代のイスラエルは、現在のキリスト者であるという形で置き換えて、旧約聖書の預言は現代のキリスト者に対応し、そして実現するという理解)ということが言われたことなどがあったりするので、選民意識を持つ人が出てくる部分ともつながっているかもしれません。
クリスチャンは、大いにして上から目線な人
選民意識の強い人、ノンクリスチャンを裁く人が
多いので、そこが改善されるとまた違うのかも
しれません。
本当にそうですね。政治家もそうですが、人に仕える者であるのが政治家なのですが、選挙に通ると、選良と呼ばれることがあるのか、国民や市民に仕えるPublic Servantsであるということを忘れる方もおられるのと同様に、神に仕え、弱き人々に仕える者として招かれているということも、忘れないように個人的には致したいと思います。

 匿名様、大変重要なご指摘・コメントを賜り、こころから御礼申し上げます。ここまでご清覧いただいた皆様、こころより御礼申し上げます。




評価:
Scot McKnight
Zondervan
¥ 2,076
(2011-09-13)
コメント:よろしいと思います。英文が読める方には。

評価:
スコット・マクナイト
キリスト新聞社
¥ 2,160
(2013-06-25)
コメント:お勧めしております。


 最近、本の紹介ばかりなので、少し書いている当人が食傷気味になっているので、そうでないことも気分転換にしてみようか、と。

 身の回りで、明治や大正、昭和初期の過去の米国を中心とした海外への留学者のことが話題になることがあり、それらの海外留学者が、「行けばかなり何とかなる」ということで思っていたのではないか、ということを思うようになった。

 結論から言えば、『いっても何とかならないことは多い」のではある。

準備ができてます?

 まず、大木先生の「日本の神学」の記述で、次のような個所を思い出したからでもある。
 今日の指導的な聖書学研究者の多くは、欧米の当該研究を学ぶべく留学せねばならなかった。しかし、その中のある者たちはこの巨大な対象と取り組むために、ただ単に神学諸学科の学習について不備であっただけではなく、それとまったく無関係ではないが、少数のよい例を除けば、その様な対象と取り組むための 心構えもできていなかった。(日本の神学 p.290)
 厳しい物言いであるが、ある面、実際のところを突いていると思う。大体、英語でギリシア語やラテン語、ヘブライ語を学習するのは、日本人にとって、フランス語でJava言語とか、C++とか、SQL言語を学ぶ、に近いのではないか。対応関係が分かりにくいという意味で。無謀だと思う。仮に文法までは学べたとしても、それですらすらプログラムが書け、再帰ループがうんたらかんたらとか、Heapがどうたらこうたらとか言われた日にはつらいだろう。

 海外の学校で勉強するなら、英語で少なくともご自身の専門分野の文献は、このインターネットが普及したこのご時世、自由にスラスラ読め、自分自身で何か発言できるようにならないと、そして、その辺を抑えた上でクラスルームで下手くそで訛りのきつい英語でありながらも自分がどう考えたが述べられる程度でなければ、海外に行ったところで、どうなんだろうとは思う。

 要するに、その人が語るべきコンテンツを持っているかどうか、その人が十分に整理されていないにしても、語るべき夢とそれを実現する方向が見えているかどうか、とうことにかかっているような気がする。

翻訳の限界
 翻訳聖書の限界もその辺にあるように思うのだ。ギリシア語やラテン語はまだなんとかなっても、ヘブライ語におけるある語の持つ広がりとか、イメージとか、その語が持つ感触などに至っては、媒介に1個言語かますと、その言語そのもので語られた内容のイメージをつかむことはかなり厳しい、と思うからである。個人的に尊敬するロシア正教の神品の方が、フェースブックで、【腹筋痛いw】かぐや姫を翻訳して再翻訳した結果が破壊力抜群(画像)のサイトのご紹介でご自身の投稿が印欧語自動変換かけられた結果、誤解を受けるということをお書きになっておられたが、翻訳自体そういう限界を含んでいるということをもう少し知っておくことは重要ではないか、と思っている。

 要するに、神学の体系は、神学の体系だけで理解できるものではなく、当時の社会文化組織文化、生活の状態、様々なものを手掛かりにした方が、確実に豊かな理解につながるのではないか、と思っているからである。つまり、翻訳されたものを頼りに一朝一夕で理解できるものではない、と思うのだ。

 ところで、ミーちゃんはーちゃんは、高校の「古典」の授業が嫌いであった。意味不明の古代日本語を現代日本人が何で解析せんといかんのか、と高校時代は思い続けて来た。なぜ「をかし」が「お菓子」や「可笑し」ではないのか。日本語ですら、これである。聖書など外国語の古語に至っては何をかいわんや、である。



冒険主義もほどほどに

 最近視聴率が低迷しているといううわさがある聴取料金をかなり強制的に要請される放送局が放送中らしい大河ドラマがあるが、そこでは、海外に行こうとした吉田松陰君の話が出て来た。この吉田松陰君をはじめとして、江戸末期に非合法渡航をした井上聞多(のちの井上馨)は、まともに英語もしゃべれない中、渡航しようとしたことを思い出したからである。また、最近は新島襄に過去扮したオダギリジョーが、今度は高橋是清という経済人に扮してドラマをやっているらしい。一種の無謀な冒険主義が西洋でも東洋でも流行った時代である。


英国留学中の井上聞太(後の井上馨)とその仲間たち

 明治維新が革命であるというのは、個人的な信念ではあるが、18世紀から19世紀にかけては革命の世紀であるのである、フランスで革命騒ぎが起き、アメリカはその宗主国である独立戦争を仕掛け、独立を勝ち取る。その挙句にアメリカは市民戦争で、政権をかけて、まさに血で血と政権を争う革命が企図されたのである。そういう時代であった、と思う。

 行けば何とかなるは、太平洋戦争に出ていったときにも繰り返された。帝国陸軍は、食料等の現地調達を考え、事前の準備をほぼしていなかったからである。現地語の通訳すら、十分な数、まともに用意していなかった形跡がある。典型的には、そのむちゃくちゃな作戦計画の前提のために、単に将兵のいのちをすり減らしたどころか餓死させてしまったインパール作戦が典型である。こういう一種の冒険主義的なところが、どこかに潜んでいるような気がするのである。


砲車まで分解して手運びするって、ねぇ。

 漢字文化圏なら、吉田松陰のように、漢文の筆談で何とかなったろうが、それ以外の文化圏なら、もうアウトである。よくこんな状態で、海外に出て行った、と思うのである。勇気を越して、蛮勇だと思う。まぁ、その蛮勇は一概に悪いわけではないけど。

 まぁ、準備はきちんとされておかれた方がよろしいか、と思う。特に、海外で自分の意見を英語が訛りがきつかろうが、下手くそであろうが、文法的にむちゃくちゃであろうが、どう考えているのか、自分の見解は何か、というコンテンツが問われているのであって、何を知っているか読んでいるか論争が重要なのではなく、その人の中身自身が問われることが多いからである。

 1980年代までなら、海外書籍の独占企業さんが一手独占的に海外の書籍を取扱いされておられたし、それはそれで尊かったのであるが、今では、ネットで格安に、それもほぼ数週間の時差で入手できるのである。そのような時代で、なぜ、海外に行くのか、その意味を考え、そのうえで十分準備していった方が個人的にはよろしいのではないか、と思う。

 しかし、行かなければわからない、行って体験して初めてわかるということもまた、事実ではあるけれども。いずれにせよ、準備作業は、一種のロジスティクス計画であるので、作戦成功のための要であることは、洋の東西、時代の古今を問わない、と思う。


この項終わり


 今日も魚川さんの「仏教思想のゼロポイント」からご紹介してみたい。今回も引き続き、解脱・涅槃に関する部分、この本の主要部分である、また、テーマともなっている第6章 仏教思想のゼロポイント からご紹介したい。

解脱とは何か
 仏教、少なくとも仏陀が主張したことは、煩悩の消失であり、それが解脱であることは、多少は知っていたが、それが具体的にどういうことかに関して、テーラワーダ仏教の視点から魚川さんは次のように書く。
 そのような煩悩・渇愛の最終的な滅尽であり、また、それによる実存のあり方の決定的な転換でもある解脱・涅槃の経験とはいったいいかなるものであるのか。テーラワーダ仏教では、それを不生不滅である涅槃(nibbana)という対象をこころが認識する経験であると捉えている。(仏教思想のゼロポイント p.142)
 解脱とは、関係性から生じる苦悩(煩悩と輪廻のプロセスにより生じる苦)、そこへのこだわりや思い(喝愛)がなくなった世界が涅槃であるらしい。その状態に自分自身が達し、不生不滅である状態が存在する、ということが認識できた経験があれば、解脱したと言えるらしい。

 ここでいう不生不滅は、輪廻(相互の関係プロセス)によって変動するような状態から離脱していて、何も新しいものが生まれず安定している状態であるので、それゆえに何化がなくなったりもしないから、そのことで苦しんだり、悲しんだり、こだわりが生まれたりといったことのない、永遠の安定状態が生じていることが認識できたら、解脱ができたことになるらしい。

 ちょうど、完全な真空の下では、熱伝導すら起きないので、魔法瓶の中の状態が均衡状態ではなく一定の滞留が発生した後、完全に安定した、一種の安定状態に達している状態と似ているのかもしれない。

 ところが、聖書に示された終末はそう言った何も起きていないという意味での安定状態ではないかもしれない。あまり黙示録で詳しくは書いていないので、何とも言えないが、どうも安定状態ということではなく、人間がそこで、神とともに生き生きと生きること、ということらしい。確かに不生かもしれないが不滅ではないように思われる。むしろ、神とともに安定均衡状態で生きる、というダイナミックな状況としての表現の方が適切かもしれない。しかし、まぁ、聖書はそのあたりのことは書いておらず、そこは、神との関係性が発生している以上、仏陀が主張したとされる解脱とはかなり違うようである。解脱とは、関係性も切れてしまって、その結果の安定状態であると考える。

常とは何か、無常とは何か?
翻訳文の日用語による理解の限界
 我々は、文化的コンテキストや思想的コンテキストが違う対象にも日本語や他の言語で挑まなければならない。しかし、オリジナルの言語のオリジナルの環境下における文化的コンテキストで表現された古典的な宗教テキストを現代語の枠内でとらえることは案外難しいと思うのだ。
 縁生の現象である所業は無常だけれども、それを超えた涅槃は無常でないということだ。涅槃は縁生のものではないので、だから、原因や条件によって形成されたものでないという意味で、「無為(asankhata)」といわれ、従って無常ではなく「常」なのである。
 テーラワーダは厳格な無我説をとるので、常であり楽であるというけれども、「涅槃は我である」とは決して言わない。また、常というのも、楽というのも、私たちが(現象の「世界」の枠組みの中で)普通に思い浮かべる追うなそれとは性質が異なるというのは、しばしば説法などで注意されることである。(同書 p.143)
直上で紹介した魚川さんの上や無為、我、楽という概念は、仏陀あるいはテーラワーダの世界の言語のことばを現代日本語でかなり近いであろうと思われる言葉で表現したものであり、いわゆる仏教用語、仏教研究者の間では一定に意味に関する合意が形成されているとは思うのだが、通常の日本語の枠内では、意味の幅がかなりある語ではないか、と思うのである。つまり、話者に定義しているこれらに関するそれぞれの語がどのような意味で用いられているのか、つまり仏教学的な学術語の枠組みなのか、通常の現代日本語における日常語の枠組みなのか、江戸期あるいは英暗鬼における日本語の枠組みなのかで、味わいが違うというのは日本語における古語辞典の存在(古典には、理系人間として苦しめられた記憶しかない苦い思い出のある言語体系であり、現代日本語ではないのではないかと思うが、古典語にはけむに巻く効果もあるので、最近また勉強し始めている)を見れば明らかであろう。

 これは聖書研究においてもその通りで、我々は日本語で聖書を読んでいるのだが、そこで抜け落ちているオリジナルのギリシア語なり、ヘブライ語の意味合いがあることを忘れてはならないことに、もう少し気を使ってもばちは当たらないと思う。つい先日も、パウロが神を信じる人々という意味で使っている語が、人々という意味で民族と使っている翻訳があり、そのことで、いろいろある方からご教示いただいて、あぁ、なるほど、これは民族で理解したら、別の聖書理解になるな、ということを知る機会があった。こういうことを新設かつ丁寧に教えてくださる方がいて、実にありがたい限りである。

信仰と一種の論理的断絶

 ところで、もう少しこの楽とは何か、常とは何か、ということに関して、魚川さんが書いて居られることを引用してみたい。
常であり楽であって、煩悩を根絶する(つまり、煩悩の流れを「塞ぐ」)力をもつ涅槃の経験は、気づきの実践を行って現象の無常・苦・無我を観察し続けることによって生じるとされ、テーラワーダの教理では、その過程で生じる様々な観智(vipassana napa)についても詳細に語られている。
 無常であり有為(sankhata)である縁生の現象を観察し続けることで、無為の涅槃の経験が可能であるというのは、ある種の「飛躍」であり、合理的な説明のつけにくい、あえて言えば「神秘」であるが、とにかくそれは事実として起こることであり、それによって渇愛の完全な滅尽であるところの解脱は達成されると、テーラワーダでは考えられるわけである。理法(dhamma)が「現に証されるもの」であり、「来て見よと示されるもの(ehipassika)」であるということには、そういう意味もあるのだと彼らは言う。(p.144)
ここで、魚川さんはマインドフルネスとも呼ばれるアメリカのGoogle本社でも導入されているらしい気づきの実践を行って、現象がどうなっているのかという観察を行うことで、無為であると気づくことについて触れておられるようである。なぜ、コンピュータ系のシステム会社やソフトウェア製造会社がこのマインドフルネスにはまるか、というと、彼らは実際の社会の中にシステムを入れそれらが利用された結果クライアントからの要望がかえってくるので、否応なく現世の社会を見つめなければならないからなのだろうと思う。その意味で、コンピュータ屋は、無常であり、有為の世界である縁生の世界における現象を冷徹に見つめ続けなければならないのであり、そこらあたりが、テーラワーダ仏教におけるアプローチと結果的によく似ているからなのだろうなぁ、と思う。

 あと、ここで、涅槃の経験が神秘であり、一種の飛躍があると指摘されているが、それもシステム屋の世界とよく似ている。プログラミング言語数種類を渡り歩いた結果、チャンポンになるので時に非常に困るのであるが、ある問題に対応するのに、どの計算機言語を使うのか、とういのも一種の神秘でしかない。また、プログラミング開発の世界には、一種の神秘というのが存在し、非常に美しいコードが書けるかどうかは、かなり属人的な要素が大きく、Art(芸術というか才能というか)が働く部分があるのであり、一生懸命努力したからといって、いい大学を出ているかどうかとは無縁の職人芸的世界はあるように思う。

 まぁ、キリスト教信仰にも似たところがあって、それを前ローマカトリックの教皇は、「信仰は一種のかけ」であると表現していたように思う。個人的にも、そう思う。理解とか合理性を一種超えたところ、説明ができそうで説明ができないところがあるのだと思う。それもテーラワーダ仏教とも似ていることに、非常に面白いなぁ、と思った。
 「似ているから同じだ」にならないことは、日ユ同祖論に関する記事でお示ししたとおりである。三角定規とおでんのこんにゃくやコンビニのおにぎりは似ているが、同じではないとおりである。

ニルヴァーナの実現について

 涅槃への解脱、ニルヴァーナの体験について、魚川さんは次のように書いている。ここは、キリスト教と最も違う部分かもしれない。まず、魚川さんの記載を見てみよう。
「世界」形成の原因である渇愛が消滅すると、認知が実際に変わるから、そこで初めて、「なされるべきこと話された」と、人は宣言することができる。それは「比喩」であったり、「いま・ここが涅槃に違いない」と思いこむことであったり、あるいは教法の知識によって「考え方を変える」といったレベルの話ではなく、「現実」や「事実」の認知そのものを変革する「決定的で明白な実存レベルの転換」に他ならない。
 そして、その様な意味での「世界の終わり」を目指す行為、すなわち、これまでの実存形式の延長線上にはない場所に、決定的に到達しようとする試みが、縁生の現象によって、、同じ縁生の現象と対峙し続けた先に完結するとは考えにくい。(中略)その(煩悩の)流れを決定的に「塞ぐ」ためには、縁生の現象とは全く異なった、何か別のものが必要なのだ。(同書 p.146)
 魚川さんによれば、認知の変容ということが取り上げられている。価値観の変容というかメタ概念への移行ということが取り上げられているようである。他の信仰心厚いキリスト教徒の方はどうか知らないが、個人的には、このような信仰心を持つことで価値変容があったという経験はない。第1世代のキリスト者であれば、劇的な回心経験があるらしいので、あながち否定はできないものの、第2世代のキリスト者にとっては、このような劇的な回心経験はあまりない。

 どうも、涅槃経験とは、今風のことばで言えば、パラダイムシフトして、メタ概念からものを認知することで、従来の物事と違った見方ができ、煩悩の流れというかエネルギーの流入路に「蓋をしてしまう」、あるいは、水道のバルブを閉じるように閉じてしまって、煩悩の流れと切り離していくことらしい。

 反知性主義と呼ぶことが適切かどうかは別として、森本あんり先輩の「反知性主義」という本では、リバイバル運動の中にあるキリスト教の中では、大衆伝道において、多数の人が集まっての野外集会などで、この種の回心経験が一種の集団的ヒステリーのような形で起き、それはそれで、かなり気持ちがいい経験らしいから、その快感を求めて、一生涯に何度も回心する経験を持つ人や、英語が全く分からなくても回心する人が出てくるらしい。一種の神秘主義だと思っているが、それがキリスト教的本質かといわれたら、そういう人もいるという程度の話であり、キリスト教そのものではないような気がする。なぜなら、一生涯に何度も回心して、キリストに従う決心になるということが個人的にはどうなのかなぁと思うからであるが、まぁ、人間は鼻で息するものであり、バアルと神との間をよろめき踊るのが人間であるから、回心を神の前への立ち返ることである、と考えれば、それもありかもとは思う。所詮、人間とはその程度のものであるからではある。

 ところで、この解脱感を安易に味わう方法として、1960年代から1980年代までのアメリカのカウンターカルチャーの世界では、従来の枠組みを外す方法として大麻、LSDをはじめとした薬物が非常に多用され、それがアメリカ社会の暗部の一つである薬物依存者を大量に生んでいったし、未だにその社会的影響は多い。

 日本でも、この解脱感を信徒に味あわせ、本来的な思考とマインドフルネスの実践の結果得られるべきはずの涅槃体験、ニルヴァーナ体験への近道として(個人的には、疑似体験に過ぎないのではないか、とは思うが)、信徒へのLSD使用に走ったオウム真理教があった。それこそ、チープな涅槃であり、一過性のものに過ぎないが、人間はそれでも、そのような世界にひかれていくらしい。あまりにも安易に。

 まだまだ続く







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 本日も引き続き、『富士山とシナイ山』の18章、「なぜ神に背く者たちが繁栄するのか」の中からご紹介していきたい。

小山先輩版「カルマとは何か?」

 このブログでも紹介している魚川さんの「仏教思想のゼロポイント」でもご紹介しているところであるが、仏教思想の根幹にはやはりカルマがあるのだと思う。そこに関して、小山先生のタイ滞在時に学んだことの中から、次のようにお書きである。
 サンスクリット語のカルマン〔カルマの単数主格〕は、もともと「行為」を意味する。(中略)人間の行為は、反応と報いを作り出す見えざる力を生み出すと信じられている。インドの思想と宗教に浸透しているこの根本的洞察は仏教を介して日本人の宗教的人生観の一部と化している。
 業は非常に、正確に、客観的に作用する。「自らまくものを人は刈り取ることになる」というパウロのことば(ガラテヤの信徒への手紙6章7節)には業の教義の響きがある。バンコックの仏教学者ウァシン・インダサラは業についてこう解説する。

 全ての人に対して非常に正義を以て報いる固有の機能において自然的で、中庸で、かつ誤りをを犯さぬ業の法則を責めるいわれは何人にもない。(引用者による略)こうした因果の経験をすることは未払いの借金を返して、誰かに負っている借金の額を減らし、過去における何らかの財貨の償いをすることなのである。(引用者による略)生命の船を軽くして、より早く安全無事の岸辺に着くことである。別な見方をすれば、自分に来た請求書や当座貸し越し感情の決済をすることに、どんな災いがあるというのか。いずれにせよ、済まさなければならない決済ではないか。
 業の思想は、複雑で高度な発展過程を経るうちに、個人の一生に作用する業の力の足し算、引き算をすることによって、複雑に絡み合い困惑させる境遇や事情を解釈しようと努めている。善き業は悪しき業の力を和らげるのである。(『富士山とシナイ山』 pp.330−331)
 やはり、仏教の核に在るのはこのカルマ概念であり、業と因果応報の輪廻の世界であり、そこからいかにして脱出するのか、如何に解脱するのかが重要であることが分かる。つまり、業と作用反作用の世界から、どのように抜け出していくのかがカギであるというのが、テーラワーダなどの南に普及している仏教の特徴であるといえよう。

 特にここで小山先生が引用されておられるバンコックの仏教学者ウァシン・インダサラの発言に見られるように、結局因果の関係性そのものは、悪業は、さらなる悪業の作用反作用の世界を作り、一種のデフレ・スパイラルにも似た負のスパイラルを産むということであるらしい。逆に善業はさらなる善業をうむ、正のループというか正の好循環のスパイラルを生み出していき、社会全体に有る負のスパイラルと、正のスパイラルの影響力の総体が社会全体の業に関する相対を示すという、まさに、システムダイナミクスそのもののような概念らしい。

 ただ、この議論の問題は、すべて人間の行動が生み出す業(カルマ)を視点とすることで、結果的に人間がこのシステムダイナミクスの世界、つまり、業を生み出す世界を自分たちがコントロール可能な世界であると認識してしまい、人間以外のものが存在し、それが生み出す諸現象の可能性を積んでしまうことや、人間以外の存在(典型的には聖書の神)とその介在を排除してしまう可能性を含むことである。

ゲームのヒットポイント制?
カルマの善と悪
 いやぁ、案外面白かったのは、以下の小山先生のカルマ解説である。
 カルマ的生概念は、善は蓄積されうるものであり、死をもってしてもその累積値を抹消することはできず、(輪廻転生の法則にしたがって)生から生へと維持されていくという人生観である。逆に悪業は私が指示した肯定的累積地から差し引かれる否定的累積値である。そこには、強烈な個人的及び道徳的含意をはらむ、無慈悲な数学的原理が働いている。とはいえ、善悪の区別は、カルマにとって根本的な概念ではない。我々のすべての行動の結果は客観的に報いを受けるという思想が、カルマの中心的概念なのである。(同書 p.333)
 まさに、その昔遊んだことのあるウィザードリィのようなRPGの世界だというのである。どちらかというと、RPGのゲームデザイナーが、カルマの世界をゲーム(ボードゲームであれ、PC上でのゲームであれ)に持ち込んだだけ、ということなのだと思うが、それにしても、ゲーム中で善いことをすればライフポイント加算、ろくでもない悪行をするとライフポイント現象とは実にわかりやすいバランスオブパワーの世界である。実際にゲームとかでも無益な殺生すると、ろくでもないことが起きることがある。


昔懐かしのWizardryのオープニング画面


昔懐かし、ウルティマのオープニング画面


 ところで、聖書の中での最初の殺人者であることになっているカインは、悪行をしたがその報いとして放浪することになりつつも、神の守護と庇護の約束だけは取り付けており、神も、カイン君に対して次のように言っている。
【口語訳聖書】 創世記
 4:13 カインは主に言った、「わたしの罰は重くて負いきれません。
 4:14 あなたは、きょう、わたしを地のおもてから追放されました。わたしはあなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。わたしを見付ける人はだれでもわたしを殺すでしょう」。
 4:15 主はカインに言われた、「いや、そうではない。だれでもカインを殺す者は七倍の復讐を受けるでしょう」。そして主はカインを見付ける者が、だれも彼を打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしをつけられた。
 4:16 カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。
 そして、カインは神からの守護やゆるい庇護を受けつつも、神の前を去っていくのであった。これがある意味、人間の姿かもしれない、と思う。

やっぱ超越してた模様

 こういう悪業と善行のうずまくカオスのような世界から、自ら主体的地に自由意思によって独立してそういうものの影響を受けない世界にトラバーユ(天職)することが超越であり、入寂であり、涅槃を持つということであり、解脱するということなのであろう。つまり、この地で起きている作用反作用の世界からは、一歩おくってことなのだと思う。そのことを小山先輩は、宇井先生という方のことばを引用しながら、次のようにお書きである。
 偉大な日本人仏教学者、宇井伯寿教授は言う、最初期の伝承のうちに我々はカルマの全ての作用を超越した仏陀のイメージを認めうると。このイメージが現れたのは、仏陀がカルマならぬ自らの自由意思によって、伝道の全使命を成就した後涅槃に入った(入寂した)という理解においてである。(同書 p.336)
 どの程度有名な方なのかは、浅学の徒にはわからないが、Wikiを見ると、中村元 大先生の先生らしいから、むちゃくちゃ偉い人なのだと思う。大体、ドイツと英国に1945年以前に行ってインド哲学研究とか、過ごすぐる。

パウロ、カルマ主義者説?

 日本の仏教キリスト教半可通の人と話すとつらいことの一つに、パウロも輪廻に近いことを言ってんじゃねぇか?とかいうご意見である。そんなことはないのだが、こういう思い込みというか自己主張と言うか自己の結論が先にあって、それ以外の理解をはなから聞く気がない人は実に困ったちゃんなのである。日本には、同様のタイプの方に一部の日ユ同祖論者の方がおられる。

 ところで、日本人の悪業によるカルマと日本の近時の戦争での被害とのかかわりに関して、小山先輩は次のようにお書きである。
 パウロの発言は時にはカルマ説に言及しているかのように聞こえることがある。
 誰であれ悪を行うもには、ユダヤ人をはじめギリシア人にも艱難と苦しみが下り、だれであれ善を行うものには栄光と名誉と平安が、ユダヤ人をはじめとギリシア人にも与えられます。神には依姑贔屓がないからです。(ローマの信徒への手紙 2章9−11節)
日本は悪をなしたが故に1945年に「艱難と苦しみ」を経験した。ここに述べた事を単純に当てはめただけのように聞こえるかもしれない。しかし、本書の先の方で指し示したように、状況はそれほど単純ではなかった。日本国民が軍閥の犠牲者だったという見解は無視しえない。また日本は悪をなした故に「艱難と苦しみ」を経験したと単純に生きることもできない。むしろ常軌を逸した少数者の一団が見境のない非合理な傲慢に駆られて国をハイジャックしたが故に日本は苦しんだのだ。そして戦後の10数年間、日本を滅ぼした連中は羽振り良く暮らし、国民は苦しんだ!(同書 pp.336-337)
 今年はABCD包囲網と呼んだ、国連(United Nations)の国連軍(日本ではなぜか連合国軍)と日本という国との戦争が終わって70年になるが、結局日本国民も、広島、長崎の原爆とか東京大空襲、大阪空襲を含め、空襲で苦しんだし、インパール作戦という補給をガン無視の作戦計画で多くの招聘がマラリヤや食糧不足で餓死したり、同じくフィリピンのガダルカナルでもガダルカナル島を餓島と当て字をするほど、悲惨な経験をしたから、カルマ的なバランスの中でOKということをどこか考えている日本がような気がする。

 しかし、問題はそう簡単ではないし、日本人全体を日本国民として遺書タクレにして考えることができるほど、簡単ではないし、単純ではないと思うし、イギリス人をイギリス人としてひとくくりに考えることもできないし、アメリカ人をアメリカ人とひとくくりにできないのである。現実は実に多様で複雑だと思う。この辺は、以下で紹介するアーロン収容所を参考にされたい。

では、何が聖書の主張か?
神の存在とその正しさ、偏りのなさと悪
 直上で、聖書中のパウロの表記の中にカルマ説とも似ている表現がみられることを小山先生が紹介していることをご紹介したが、それについてさらに小山先生は述べている。

 しかし、聖書的信仰はあくまでも「神は人を偏り見ず、賄賂を取らない」と主張する。(中略)東方では「カルマは人を偏り見ない」といい、聖書的伝統では、「神は人を偏り見ない」ということによって信仰告白をするとき、我々は人類史における恐るべきあいまいさの問題を解決しつつあるわけではない。実を言うと、「カルマは人を偏り見ない」という立場は、この聖書的視点と比べてそれほど厄介ではない。エレミヤの苦悩の深さは、神自身の高潔さと関係があるのだ。
 主よ、わたしがあなたに不満を訴え出るときでも、あなたはやはり正しい方です。それでも私はあなたの御前で正義がどちらにあるか争いたい。邪悪な者の道がなぜ反映するのですが。背信の徒が安楽に暮らしているのはなぜですか。(エレミヤ12章1節)
 エレミヤはヒンズー教徒のやり方でカルマについて論じているのではない。彼の思想世界はヒンズー教的世界のそれと異なる。この弁論において預言者が尋問しているのは神の高潔さと正義についてである。エレミヤは神学的格闘しているのだ。神によって支配されているこの世界に不正が幅を利かせている現実に直面している。エレミヤの歌えが、カルマやカルマ原則の変わり種にではなく神自身に向けられているということは、人間の歴史と個人生活に内在する悪の神秘に深く触れている。(同書 p.338)
 東洋的な思想、特に仏教の中での悪の存在原理として、あるいは悪の存在理由として、カルマ説という概念があり、日本のキリスト教の側でも、この悪の問題をカルマ説的に説明する場面がみられる。

 例えば、「あの人が不幸になったのは、あの人が神から離れたからだ」とか、「この人がこのようにろくでもない目に合うのは、信仰の破船にあったからだ」とか、訳知り顔で説明するキリスト者のお話をお伺いしたことがある。ヨーロッパ人でも、あるいはアメリカ人でも、日本で東日本大震災が起きたのは、日本人が悔い改めをしないからである、とかいう訳の分からないカルマ説的な言説を携えて日本に震災後到着し、そして伝道と称して、既存教会内に入り込もうとした人々もいた。あるいは、それを積極的に再解釈し、「神を信じる信仰者になれば、必ず成功する」とかそういう再解釈を述べる方がおられるのも認識はしている。

 しかし、神はそんなカルマ説的な理解を超越しているのではないか、というのが小山先生の説だと思う。しかし、パウロと同時代人のイエスの弟子たちには、このカルマ説的な理解があったことを示す福音書のエピソードがある。ヨハネの福音書9章から全部引用したい。
【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
 9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
 9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
 9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
 9:4 わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。
 9:5 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
 イエスが生きて活動した当時のユダヤでは、盲目である、障害がある、不幸があるというのは、罪の結果とされた。特に重篤な皮膚病(ハンセン氏病であったのではないかといわれている)は罪の結果と理解されていたようでもある。上で引用したヨハネの福音書に記載されている弟子たちの「この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」という表現を見れば、明らかに一種のカルマ的理解に近い理解をイエスの弟子たちがしていたことがわかる。

 しかし、イエスは、それを否定している。彼本人が目が見えないとう不幸は、彼自身、または、彼の両親や親族の人生における神の不在や神への反逆という罪の結果ではないことを指摘しているのである。
 旧約聖書にヨブ記があるが、彼を襲う不幸は神に逆らうもの(サタン)から出ているがそれすら支配する神という形で、示されている。あくまで、サタンがそうするのを容認しておられるという表現が適切ではないか、と思うのだ。神は悪の存在を容認しておられ、その悪の存在する世界に自ら足を踏み入れ、そして、時に介入されるというのが、聖書の主張であると思うのだ。神は、衛生化(何も問題がないようにきれいに整えられた、あるいはサニタイズ)された空間であるようにしようとは思っておらないようにも思うのだ。神の力で無理やり地上にある悪や不幸の問題を常時補正して、適切な状態に保つためだけに、積極的に介入することはどうもされない、というのが聖書の主張ではないか、と思うのだ。悪や不幸の問題を通しても、神と向き合う、神への訴えでもよいので、神との関係の存在がある人のうちにあることを望み、神と共に生きることを望んでおられると思うのだ。個別案件的な不幸の除去は、どうも神のお仕事ではなく、不幸の中にあっても、共に神が人と共に生きることを伝えたいということが神の主な主張であるとは思うのだ。

では、仏教思想と何が違うのか?

 仏教思想との違いに関して、いくつか印象的な小山先輩による記載がみられる部分を以下ご紹介したい。まぁ、基本、これまで、このシリーズの連載でご紹介してきたことではあるが。
 神は人を偏り見ない。しかし神は不偏不党の戒めに縛られない。不偏不党自体は神ではない。神は原則ではない。(中略)仏陀の教えによれば、神(あるいは神々)に不満を訴えるということは全く無用の業である。有害な妄想にほかならない。超自然的存在に訴える暇があったら、その時間と精力をわれわれ自身の貪欲を滅却するために用いるべきである。緊急的問題は「神学的問題」ではない。それは、渇望(引用者註 多分、渇愛)の全き停止、渇望の放棄、廃絶」と関係がある。聖書の神にとって不偏不党性は非人格的で客観的な概念ではない。仏陀にとってカルマが人を偏り見ないということは、それよりははるかに重大な出来事、すなわち貪欲の破壊に従属している。あなたは神との関係のうちに生きているであろうか。聖書によればこれこそが決定的な問いである。あなたは己の貪欲を根絶しようと試みているか。仏陀の教えによれば、これが決定的な問いである。(同書 p.340)

 小山先生によれば、キリスト教、あるいは聖書の問いは、

 「あなたは神との関係のうちに生きているであろうか
ということである。

 仏教の問いは、

 「あなたは己の貪欲を根絶しようと試みているか

という問いであるという。
 この違いの指摘は、実に重要な意味を持つと思う。仏教の目的は自己内にある貪欲とそれから生まれるカルマからの自己努力による実現であり、その結果として涅槃(ニルヴァーナ)に達するという解脱であるのであり、その世界観の中に他者が入ってくる余地は本来はどうもないのである。ここで、「本来」とわざわざ書いたのは、日本では、子孫や関係者が読経する、僧に依頼して読経してもらうと他者としての子孫の尽力により涅槃に行けて解脱者となり、仏になれる、いわゆる成仏できるという概念に支配されているようであるからである。であるから、不幸な事件が起きた現場で関係者が読経することがよいこととされるらしいし、実際にそうする人々もいる。本来の仏教は生きているものである個人が貪欲を除去し、解脱しようとするかどうかであると古代の仏典はいっているとタイやミャンマーあたりの仏教者の方々はお考えの模様である。なお、ミーちゃんはーちゃんの知り合いの仏経典の研究者によれば、聖書のような聖典化、固定化、定本化は厳密な意味で進んでおらず、どうもこれが降るそうだ、という状況であるという。

 しかし、聖書の主張は、圧倒的な、また非常に隔絶的な他者性を持った神の存在があり、本来人間とは隔絶している神という存在と共に生きようとしているかどうか、を問うているのであり、自己の貪欲の問題とはあまり関係ない。

 前にも紹介したかもしれないが、エジプトでイスラエル人が神と共に生きながら、エジプトで食ったうまいもんがもう一度食べたい、といったとき、神はそんな貪欲にまぎれた生き方をするな、我欲を捨てよ、とは言わず、肉が食いたいなら、吐き出し、口から肉をもどすほど食わせてやると言って、実際に食べさせた、という記述になっている。

【口語訳聖書】民数記
 11:4 また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。
 11:5 われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。
 11:6 しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。
 11:7 マナは、こえんどろの実のようで、色はブドラクの色のようであった。
 11:8 民は歩きまわって、これを集め、ひきうすでひき、または、うすでつき、かまで煮て、これをもちとした。その味は油菓子の味のようであった。
 11:9 夜、宿営の露がおりるとき、マナはそれと共に降った。
 11:10 モーセは、民が家ごとに、おのおのその天幕の入口で泣くのを聞いた。そこで主は激しく怒られ、またモーセは不快に思った。
 11:11 そして、モーセは主に言った、「あなたはなぜ、しもべに悪い仕打ちをされるのですか。どうしてわたしはあなたの前に恵みを得ないで、このすべての民の重荷を負わされるのですか。
 11:12 わたしがこのすべての民を、はらんだのですか。わたしがこれを生んだのですか。そうではないのに、あなたはなぜわたしに『養い親が乳児を抱くように、彼らをふところに抱いて、あなたが彼らの先祖たちに誓われた地に行け』と言われるのですか。
 11:13 わたしはどこから肉を獲て、このすべての民に与えることができましょうか。彼らは泣いて、『肉を食べさせよ』とわたしに言っているのです。
 11:14 わたしひとりでは、このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます。
 11:15 もしわたしがあなたの前に恵みを得ますならば、わたしにこのような仕打ちをされるよりは、むしろ、ひと思いに殺し、このうえ苦しみに会わせないでください」。
 11:16 主はモーセに言われた、「イスラエルの長老たちのうち、民の長老となり、つかさとなるべきことを、あなたが知っている者七十人をわたしのもとに集め、会見の幕屋に連れてきて、そこにあなたと共に立たせなさい。
 11:17 わたしは下って、その所で、あなたと語り、またわたしはあなたの上にある霊を、彼らにも分け与えるであろう。彼らはあなたと共に、民の重荷を負い、あなたが、ただひとりで、それを負うことのないようにするであろう。
 11:18 あなたはまた民に言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすを待ちなさい。あなたがたは肉を食べることができるであろう。あなたがたが泣いて主の耳に、わたしたちは肉が食べたい。エジプトにいた時は良かったと言ったからである。それゆえ、主はあなたがたに肉を与えて食べさせられるであろう。
 11:19 あなたがたがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、
 11:20 一か月に及び、ついにあなたがたの鼻から出るようになり、あなたがたは、それに飽き果てるであろう。それはあなたがたのうちにおられる主を軽んじて、その前に泣き、なぜ、わたしたちはエジプトから出てきたのだろうと言ったからである』」。
 この記事に見られるように、人々の欲心、あるいは、仏教的用語を用いるなら、貪欲、渇愛をも認め、そして、それにまともに神は必要以上に余すほど対応されるのである。我欲や貪欲、渇愛に満ちた人々の姿そのままを受け入れ、そして、我(神)と共に生きよ、というのが神のご主張のように思えてならない。我に不満を言うな、とも言わず、我と共に生きよ、そして不満があるなら、我と共に語れ、我(神)の怒りは、神と共に生きているにもかかわらず、神から離れたエジプトでの生活を恋しがり、神から離れようとしたその思いにある」ということになっているように思われる。

 ところで、冒頭部分で、神は人を偏り見ないが、神は不偏不党に縛られない、と小山先輩はお書きであるが、これは案外重要な視点である。日本的なえこひいき概念は、1945年以降の民主化教育の中で、不偏不党性と理解されてきた。しかし、聖書はそうは言わない。民の中でもっとも小さき者であったイスラエルと深くかかわり、やもめや孤児のために落ち穂を残してやれといい、下の息子を偏愛したアブラハムやイサクに不幸をもたらしたり怒ったりすることなく、不平等に小さくされたもの、あるいは小さき者、力無きもの、他者に影響できないほど小さいものへの思いやりと愛情という形での優先的配慮を忘れるな、と言い給いし方であり、実際に聖書の律法の構造もそうなっている。そこらは、小さいものが哀れだから、善行としてそれをなせ、というのではなく、神の天秤はそちらに偏っているということを示しておられるのだ。献金でも、次の2コドラントの譬えは、どこぞの教会では、自分が与えられたものを全部捧げつくせ、なくても借金しても捧げつくせのような形で語られることもあるらしいが、どうも違うのではないか、と思っている。
【口語訳】マルコ
 12:38 イエスはその教の中で言われた、「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣を着て歩くことや、広場であいさつされることや、
 12:39 また会堂の上席、宴会の上座を好んでいる。
 12:40 また、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう」。
 12:41 イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。
 12:42 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。
 12:43 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
 12:44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。
このばしょは、生活費全部を入れた、あらゆる持ち物を入れたことが強調されて解釈すれば、全部捧げつくせ、ということになるが、このやもめは、神からいただいたものをお返ししたのであって、明日も神から与えられることを確信し、余った部分を献金としてお返ししたのであって、神が養ってくださるというその核心に生きていること、そして、金額の多寡ではなく、神と生きるというその制の在り方を問われている部分ではないか、と思うのであるが、そんな理解をするのは、私自身の理解が足らないからであろう。


まだまだ続く

評価:
小山 晃佑
教文館
¥ 4,104
(2014-09-12)
コメント:お勧めしています。

 
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  本日も、また工藤信夫著 『真実の福音を求めて』から引き続きご紹介したい。本日は第8章「いくつかの提言」の後半からについてである。次回で、この連載シリーズは最終回となる。

遅すぎたナウエンの紹介
 ナウエンは、カトリックの学問司祭であったが、イエール、ハーバードなどのアイビーリーグのプロテスタント派の神学校で教えていたのである。そこでの競争と偉大なものであることであることにつかれ、疑問を抱き、その後、ジャン・ヴァニエが構想して運営にあたっていたラルシュ(箱舟)と呼ばれる障碍者施設の中の一つ、デイブレイクで障碍者の人々と共に生きる生活をした人物である。

 ナウエンの後期の本は、柔らかくて読みやすいが、ナウエンの思想の背景には、やや激しい部分のあるジャン・ヴァニエに多く依拠していると思う。ナウエンは、社会の中で評価される人々であるアイビーリーガーと共に生きる世界から、社会の中で小さくされた人々である障碍者と共に生きる生活を過ごす中で、新たな聖書理解の地平へと視線を広げている部分があると思う。

 個人的には、勝利主義的な傾向が生まれやすいプロテスタントの聖書理解への一種のアンチテーゼとして重要であると思う。しかし、カトリックの世界の中で、まず、話題になったのではなく、ナウエンの紹介はプロテスタントから始まった紹介ことを工藤さんは次のように書いておられる。
 実際この遅すぎた理解に関して、先ほどのドン・ボスコ社の本(引用者註 坂井陽介著 『ヘンリー・ナウエン』)の中に次のような記述がある。
「北アメリカで彼の著作にであった日本のプロテスタントの人々が、日本の教会に非常に有益な内容だと判断して翻訳を始めた」(p.17)
 ナウエンと言う鉱脈を探し当てたのが、カトリックで言えばプロテスタントの教職であったと言うのは面白い事であるが、これはおそらく、北アメリカのプロテスタントの教職が自分たちのキリスト教理解に、何か著しく欠いたものがあることに気付いたためということができるであろう。
 それではいったいそれは何であろうか。私の理解した派に出言えば、その内容は多岐にわたるがここでは、人生の傷つきに対するキリスト者の反応の違いである。
 ナウエンは、傷つきや痛み、無力体験がキリスト者にむしろ必要なのだと主張する。(『真実の福音を求めて』 p.122)
 ここで、なぜ、ナウエンが関心を集めたか、ということであるが、一つは共同体性と包括ないし包摂の概念が強かったからと思うのだ。プロテスタント諸派は、それぞれの派が持つその派の固有の聖書理解こそが正しいとして、包摂や包括性の概念が弱く、「神様と私」の関係だけになってしまう部分があると思う。「神様と私たちとその中の私」という概念が18世紀以降に分離したキリスト教では、かなり薄いプロテスタントの諸派が多いような気がする。すべてではないけれども。

 この、カトリックやアングリカン・コミュニオン、東方正教会系で強調される概念が、プロテスタント派として大きく欠落するがゆえに、ナウエンの本が読まれるのではないか、と思われる。特に、「神様と私たちとその中の私」の問題は、教会論と聖餐論と深いかかわりがあり、正統性うんぬんよりも、日常的な教会でしていることは何か、あるいは教会とは何か、というあたりの事に関しては、その教派の伝統とその由来を考えることなく、そういうものだ、ということで受け入れられている側面があるのではないか、と思う。

 その意味で、痛みや傷つき、無力体験がありえないものとして語られ、勝利のみが賞賛され、称揚されるキリスト教が、プロテスタント派の一部の中にあるが、実はナザレのイエスはそういう勝利者と共に生きるのではなく、勝利者となるために地上時来たのでもなく、何も持たず、だれからも評価されない人、だれからも避けられるようなザアカイのような人や重篤な皮膚病の人、罪あるものとされた障碍者の人々に自らよっていったのが、福音書に記されたナザレのイエスであったと思うのだ。

仮想現実に逃れるキリスト者

 N.T.ライト先輩のご主張ではないが、聖俗二元論と天地二元論のような二元論的な理解はひょっとしたら本来ナザレのイエスが主張し、あるいはパウロが主張した理解ではないかもしれない。神にあるものとして、神と共に生きるものとして、この地に生きる様にキリスト者は招かれているのかもしれないと思うのである。

 しかし、聖俗二元論あるいは天地二元論に陥ってしまったキリスト教は、将来のみに希望を置き、この地の生き方を重視しなかったりする部分につながっているようにも思うのだ。あるいは、この地での成功体験を極端に求め、成功した人々は祝福の結果であり、成功していない人は、祈りが足らないとか、敬虔でないとか、聖書の読み(回数)が足らないとか、聖書を大量に理解しているしていないにかかわらず、とにかく量をこなすように読むのが良いとか、司牧や信徒指導者に従うのが良いとか、というキリスト教を自称する集団があることは承知しているが、それもまたキリスト教の一部であることは確かであるものの、個人的には、自分の聖書理解とは少し違うところがあると思っている。
 もしかしたら、キリスト者に妙な明るい輝きを求めたり、この世的な成功体験を求めたりする人々は、人生の真実より”仮想現実”にのがれている人々と言えるのかもしれない。そして私がこの点を強調したいと思うのは、藤木正三牧師の著作に再三見られるように、安心して悩む、安心して苦しむ、つまり苦しみや悩みを意味あるものとして完全と受け止めて生きるキリスト者の生き方に通じるように思えるからである。
 ところが多くのキリスト者は、信仰者に悩み、苦しみがあってはならないと教えられ、ある人はそれを吹信仰と決めつけられている。そして、A・W・トウザーの”安易なキリスト教”へと跳躍することになる。こうして宗教は一つの願望充足の手段と化し、ご利益的様相を帯びることとなる。(p.124)
 しかし、悩みや痛みを無視するキリスト教は影を持たない非常にわかりやすいかもしれないが、それはある面非常に平面的なキリスト教の姿なのかもしれない。イエスは、確かにこのような悩みの中に閉じ込められている状態からの開放を告げたが、それは、その悩みの内に孤独に閉じこもる状態からの開放であり、その悩みそのものがなくなり、その代わりに祝福が来るという単純化された神との関係を告げに来たわけではないのではないか、と思う。
 苦難の僕と呼ばれる以下の聖書の箇所がある。

【口語訳】 イザヤ書

 53:1 だれがわれわれの聞いたことを
 信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。
 53:2 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
 53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
 53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
 53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
 53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
 53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
 53:8 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。
 53:9 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。
 53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
 53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
 53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
 
 まさに上の苦難の僕と呼ばれるイザヤ書で示されるように、ナザレのイエスは、現実社会の中で、苦難の中で神と共に生きることが、そして苦難の中にいる人々の中に下ってこられたイエスと共に生きる事がキリスト者ではないか、と思う。

 ある意味、苦しみの中に降りてくる神、そして共苦する神ということは重要ではないか、と思うのである。まさに以下のスープキッチン(ホームレスの人々に食事を与える教会のキッチンでの給食)に並ぶイエスということの中にあるキリストのような姿である。

 このような小さくされた人々と接し、視線をかわし出会うことは、社会派がすること、あるいは、リベラルのすることであると、批判し、この小さくされた人々を無視し、ある意味故意に忘れようとしてきたキリスト教が一部にあったのではないか、と思うのである。そして、説教を聞くことこそが、あるいは宣教を聞かせることのみがキリスト教の宣教である、と無批判に考えてきたキリスト教もあったかもしれない。


スープキッチンの列に並ぶキリスト

教会内暴力と無知

 無知ゆえの暴力、ということはどの国でも起きる。日本でも、関東大震災後の東京でも無知ゆえの朝鮮半島出身者に対して起きた暴力、アフリカでは、ツチ族とフツ族の中で部族同士で起きた暴力、ドイツでは、ナチスドイツによるユダヤ人に対する暴力、英国でのアイルランド人やスコットランド人に対する暴力、キリスト教の中でも、ユグノーに対する暴力など、数えきれないほどある。
無知ゆえの暴力は私たちの日常にはいくらでもあることだが、同じことが信仰の世界において言えるのではないだろうか。私が”信仰による人間疎外”というテーマを考えるときヘンリ・ナウエンのキリスト教理解が甚だ重要であると考える理由の一つはそこにある。(p.125) 
 あるいは、プロテスタント派の中でのカトリックへの無知に対する批判などが日本でも見られ、霊性の違いを認めず、その違いをことさらに強調し、カトリックを批判したり、あるいはプロテスタントを批判したりする実に無意味な論争があると思う。

 日本の人口の中でカトリックとプレテスタント合わせても1%以下のキリスト者でありながら、お互いに関する無知から、論争し合い、罵り合い、尊敬もせず、軽蔑し合うというコップの中の嵐というより、猪口の糸底の中での嵐状態ではないか、と思うのである。それってものすごく不幸だと思うのである。


猪口とその茶色の糸底

 個人的には、ナウエンとマクグラス先生がカトリックと正教会、アングリカンコミュニオンの持つ霊性への窓口を最初に開いてくれた人物であっただけに、非常に印象深い。その意味で、プロテスタントの学校で教えた経験を持つナウエンであるがゆえに、プロテスタントとカトリックの間のブリッジとなった人物であるという意味で、非常に重要だと思うのである。

 また、教会全体として、プロテスタントとカトリックをつなぐブリッジチャーチとしての性格を持つアングリカンコミュニオン(日本では聖公会)の働きは案外重要であるが、あまり日本でその重要性が認識されているとは言えないのが残念である。ただ、マクグラス先生によれば、福音派(マクグラス先生の用法では、教義の福音派ではなくプロテスタント全体をさす模様ですが)における霊性の強調は、正教会やカトリックと霊性の点で共通理解を結べる可能性を持つことをご指摘である。

 その意味で、東方正教会の霊性の豊かさを知らず、カトリック教会の霊性の幅広さも知らず、アングリカンコミュニオンの歴史も知らず、プロテスタントの歴史的な背景の中で生み出されてきた幅広い教義の豊かさも知らず、というのは、実に残念ではないか、と思うのである。


 次回最終回に続く




評価:
工藤 信夫
いのちのことば社
¥ 1,296
(2015-06-05)
コメント:お勧めしています。

評価:
ジャン・バニエ
あめんどう
---
(2010-08-20)
コメント:ナウエンを理解するためには読んでおいた方が良い本の一つ。これを読まずにナウエンを語るのはやめた方がいいかもしれない。

評価:
ジャン・バニエ
一麦出版社
---
(2003-12)
コメント:是非読まれることをお勧めする。


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