2017.06.26 Monday

もしかしてだけど〜 教会に誘われる編

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    一部のマニアックな方に受けはいいようなので、久しぶりに不謹慎系の替え歌を。どぶろっくの「もしかしてだけど」に乗せて「もしかしてだけど 教会に誘われる編」 ということで教会で見られるシーンについて、書いてみよう。


    もしかしてだけどぉ もしかしてだけどぉ、
    それぇってオイラを さそってるんじゃないの。

    こないだ近くのバス停で、ぼぉっと都バスを待っていたら
    後ろで待ってる女が、これ読まれませんか、って紙を渡してきたんだ

    もしかしてだけどぉ もしかしてだけどぉ
    それって、オイラの携帯番号聞きたいんじゃないの

    ♪ 
    もしかしてだけどぉ もしかしてだけどぉ、
    それぇってオイラを さそってるんじゃないの。

    もらった印刷したものを 何気なくちらっとひらいてみたら、
    教会でやるイベントの案内が書いてあったんだ

    もしかしてだけどぉ もしかしてだけどぉ
    それって、オイラにもう一回会いたいっておもってるんじゃないの

    ♪ 
    もしかしてだけどぉ もしかしてだけどぉ、
    それぇってオイラを さそってるんじゃないの。

    それで教会でのイベントに、暇だしちょっくら参加してみたらぁ
    入口のところで、にっこりされちまったんだ

    もしかしてだけどぉ もしかしてだけどぉ
    それって、オイラに惚れちまったんじゃないの


    もしかしてだけどぉ もしかしてだけどぉ、
    それぇってオイラを さそってるんじゃないの。

    突然みんなが賛美歌を、歌い始めたんで戸惑ってたら、
    隣にいた女が、讃美歌集を開いて渡してくれたんだ 

    もしかしてだけどぉ もしかしてだけどぉ
    それって、オイラとハモりたいんじゃないの

    そういうことだろ!

     

    大阪府の合唱コンクールでのもしかしてだけど(これをやるのが大阪ノリw)


    -----------------------------------------------------
    教会関係の皆さんへ

    リアルにこういう勘違いされる男性の方はほとんどいないと思いますが、時にこういう誤解が発生しやすいかなぁと思われる方々が教会に来られることも事実。そういう事実が分かっても、サワサワサワ・・・ヒソヒソヒソ・・・ 「ボクシフジン先生~」とかいきなり言わずに、ご丁寧に対応いたしてほしいもの。

     

    チラシを配るということはどういうことか
    教会員の皆さん、チラシを配って、「誘っている」あるいは「お誘いした」のは私たちです。教会の視点からは、「誘っている」のではなく、「伝道している」と読み替え、あるいは、自己に都合よく「伝道活動」とご理解されていることがおおいわけですが、教会外部の人から見れば、実態としては、「誘われた」という事実は一面あるわけです。時々、困った方の中で、「誘われた」とご自身に都合よく誤解される方としては別物(たぶんに「異性間における自由恋愛関係」)に誘っている、と勘違いされることも、皆無ではないわけです。教会の側でも自己都合で読み替えがなされますが、受け取りての方としても、自己都合最優先といいますか、自分に都合よくご解釈なさる男性諸氏も一部にはおありかもしれません(まぁ、めったにないけど)。

     


    その点を、不必要に恐れる必要はありませんが、まずもって、私たちが何もので、何を伝えようとするのか、ということはまず最初の段階で、できれば、看板や、インターネット時代における看板のようなものであるウェブサイトなどで、明確に自分たちの存在の目的がどのようなものかを、まず持って明らかにしておくべきでしょう。

     

     

    いや、教会の牧師先生、教会員の皆様、お誘いしても、誰も来ないのにひょっとして慣れっこになってしまっていて、「誰かがほんとうに来てしまったら…」とか言うことは考えなくなって十数年、とかはないですよね。

     

    確かに伝道したい。それは大事です。教会の看板に、「どなたでも起こしください」って、書いていませんか。それを真に受けてきた人を責めることはできません。だって、どこかに書いてお招きしたのは教会の側のことが多いのですから。

     

    リアルな表現こそ大事かと・・・
    本来の目的をお隠しになってお誘いを述べられることがまれにある、ちょっとカルトっぽい某団体のような変化球的なお誘いの仕方は、受け取り手に誤解を生みかねないので、やめておいた方がよいでしょうね。ヨガサークル(過去の『某A○M真○教』のアプローチ)や不幸から解放するつぼや印鑑の販売、足裏診断(あったなぁ、あの団体、どうなったんだろう)とかはいかがか、と思割れることと存じます。

     

    どこぞの国の某大統領の発言ではございませんが、Fake Newsも問題ですが、Fake 広告 Fake チラシは問題です。きちんと自分たちの現実を伝えるように心がけたいもの。このご時世、人の目はたいへん肥えてきておりまして、面白くないもの、本物でないものには人は集まりません。

     

    また、書割のようなシンデレラ城には、ほんまもんに見えるミッキーちゃんやミニーちゃんや、シンデレラに見えるような人がいるからこそ、お客様(某テーマパークではゲストと呼ぶそうですが)が来られるのです。とある東アジアの国のパチもんのミッキーちゃんやプーさんがいれば、二度とそういうところには、ゲストの皆様はお越しになりません。

     

    You are fake newsって言ってるよw

     

    http://livedoor.blogimg.jp/sekaiminzoku/imgs/1/5/1537d7e2.jpg

    http://blog.livedoor.jp/sekaiminzoku/archives/37124673.html より

    実にミッキーの高度な現地化のお写真が何枚も。

     


     

    教会員の皆様にお願いしたいことがあります。案外忘れがちなのは、私達が人々を招いているのではなく、招いておられるのは、神ご自身です。大事なことは、ご自身との関係の回復にお誘いになっておられるのが、神ご自身だということです。そのことをよもやお忘れではないと思います。上記の替え歌のような誤解をする人々を含め、神はその憐れみゆえに神のもとに戻ることを誘っておられるのですから。我々がお誘いすべきは、上記の替え歌の歌詞のオイラ君の誤解のような「異性間における自由恋愛」へのお誘いをしているのではなく、それよりもはるかに規模とスケールを越えた「神とのアモーレ」「神の燃えるような愛」「神の国からの愛」ゆえでございます。その神との関係の回復へのお誘いを教会はすべきか、と思います。そして、来られた方に、ようこそ、「神の国へ」と言うべきではないかなぁ、と思っております。

     

     

    お耳直しで

    あまりに下品な替え歌でしたので、最後に神の国からの招きを大変美しく、そして、核心をついた賛美歌で本記事をおわることにいたしましょう。



    最近お気に入りの賛美歌 All are welcome

     

     

    次回の記事からは、しばらく、最近参加した京都ユダヤ思想学会のご報告をしてみたい、と思っております。 

     

     

     

     

     


     

    評価:
    晴佐久 昌英
    教友社
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    (2009-12)
    コメント:晴佐久神父殿が「天の国へのお誘い」をお話になったものでござる。

    2017.06.24 Saturday

    これからのイベントのご紹介2017年6月篇

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      来週月曜日 ナザレンの大阪桃谷教会で午後6時から、ある意味で神学的プロレスごっこをやった(そもそもプロレス自体ごっこという節はあるけれども)『焚き火を囲んで聴く神の物語 対話篇』という本の出版を記念して、南の国のコメント王子(水谷潔尊師が命名)こと、鹿児島の笛吹(オカリナ)吹き王子こと、久保木聡さんと、ミーちゃんはーちゃんにIT系の仕事を投げてくる(おまけに青田で頼んでくるからすごい)大頭眞一さんと、ミーちゃんはーちゃんとで、「テロ」と「聖書」と「神」という、これまた無謀なテーマで、トークイベントを実施します。テロを入れたいと言い出したのは、自分がマンチェスターが第二の故郷と勝手に思い込んでいて、公言をはばからない大頭眞一さん。まぁ、大事な話だと思ったんで、載ったんだけど。

       

       

      個人的には、日頃のIT系雑用のお返しを金利を分単位でつけて返してもらうつもり。w

       

       

       

      日時 2017年6月26日 18:00−19:30 開場(17:30)

      場所 日本ナザレン教団大阪桃谷教会 http://momodani.net/

      費用 投げ入れ型献金システム(段ボール箱に入れるスタイル) 大半は、開場をお貸し出しくださった桃谷教会に

                                    残金は、貧者のための献金に

      その他  イベント関係者や関連書籍の即売あり        収益は、貧者のための献金に

       

      お問合わせは、メールにて kawamukaihajime@gmail.com まで

       

       

       

      基本的にこのトークイベントの予習ができるように、過去3回にわたって、連載

       

      『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(1)

       

      『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(2)

       

      をしたので、ミーちゃんはーちゃんの主張は、それらをご覧いただきたい。

       

      まぁ、なんと各フォーマットは決まっているので、後は当日どうなるか。蛇が大蛇が出るか、サーパントが出たりするのか、案外面白いものが出ればいいかなぁ、と思っている次第。

      当日はツィッターでも音声のみ童子中継する予定である。

      2017.06.24 Saturday

      実際的な貧しさと聖書

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        イスラムの貧しさへの視点、旧約聖書の貧者への視線

        こないだイスラム地域の経済システムを研究しようとしている家人と少し喋った。家人によれば、イスラム研究をしている人の中で、イスラムが持つ貧しいものへの保護というか庇護が何より優先される話をしていた。そして、イスラーム経済の中では、研究に着手したばかりのか人の発言によれば、その貧しさへの視線は、かなり重要な要素になっている模様であるという。

         

         

        それについて、それは、おそらく、レビ記規定によるものであり、そのような内容がヘブライ語聖書(いわゆる旧約聖書のかなりの部分)の中にも出ている、貧しいものたちへの配慮の話であるので、そのあたりの理解から始めるというのはどうだろうか、というようなことを話した。

         

        このことに関しても、つい先日読んだ本の中に、ユダヤ世界でも、ペンテコステのときには、そのことをきちんと律法の実現を考えるらしい。それは、最近出た、R.ボウカムの『聖書と政治』のこんな一文にも現れている。この本は、聖書と政治のハウツー本と誤解されかねないような部分があるが、それは、この本の本来の目的ではなく、聖書のテキストにどのように現代という状況から迫っていくのか、の解釈学に関する書籍である。

         

        レビ記19章9−10節の立法は、23章22節で、祭儀的な祭りの律法の文脈において繰り返されている。そこではイスラエルの収穫の祭りの一つに対する律法がある ーー 小麦の収穫(ペンテコステ)である。祭りにおいては、土地とその産物は神から与えられたという感謝のゆえに、貧者のためにのこすのである。(『聖書と政治』 p.74)

         

        ラマダーンの夕食の大盤振る舞いと共産主義
        このような律法の実現の一つとして、貧者に対する施しがイスラーム社会においては行われており、それは、イスラームの大義の一つでもあるらしい。これらの貧者に対する施しの話は、特に現在のラマダーンの時期には、かなり豊かな人はけち臭いことは言わずに大盤振る舞いするらしい。このラマダーン時期にモスクに行くと、晩御飯が毎日大盤振る舞いされるそうである。

         

        このように、イスラム世界では旅人をもてなすことや、返すべきものを持たないような人びと、ホームレス(というよりは、ムスリム的には旅人としての扱いらしいが)を始めとして、この喜捨の概念は、そもそも家畜以外の資産をあまり持たない遊牧民にとっても当然のごとく行われるようなものであるらしい。確かに、さすらいのアラム人の典型のような、父祖アブラハムの時代からこのような喜捨の行為はなされていたようで、実際にアブラハムは、どこの馬の骨かもわからないような3人の旅人に対して、大盤振る舞いをしている記事が旧約聖書にはある。

         

        【口語訳聖書】
        創世記
        18:1 主はマムレのテレビンの木のかたわらでアブラハムに現れられた。それは昼の暑いころで、彼は天幕の入口にすわっていたが、
         18:2 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼はこれを見て、天幕の入口から走って行って彼らを迎え、地に身をかがめて、
         18:3 言った、「わが主よ、もしわたしがあなたの前に恵みを得ているなら、どうぞしもべを通り過ごさないでください。
         18:4 水をすこし取ってこさせますから、あなたがたは足を洗って、この木の下でお休みください。
         18:5 わたしは一口のパンを取ってきます。元気をつけて、それからお出かけください。せっかくしもべの所においでになったのですから」。彼らは言った、「お言葉どおりにしてください」。
         18:6 そこでアブラハムは急いで天幕に入り、サラの所に行って言った、「急いで細かい麦粉三セヤをとり、こねてパンを造りなさい」。
         18:7 アブラハムは牛の群れに走って行き、柔らかな良い子牛を取って若者に渡したので、急いで調理した。
         18:8 そしてアブラハムは凝乳と牛乳および子牛の調理したものを取って、彼らの前に供え、木の下で彼らのかたわらに立って給仕し、彼らは食事した。

         

        しかし、3セヤの小麦粉で作る一口のパンって、どんな大きさだろうか、と思うと思えて

         

        Abraham and three Angels - Marc Chagall:
        Marc Chagall, ( 24 June 1887 – 28 March 1985)
        Abraham and three Angels, c. 1966
        oil on canvas

         

        https://painting-mythology.blogspot.jp/2015/12/88-works-religious-art-story-of-abraham.html から

         

        家人との話によると、資本主義も限界、共産主義も限界があることを20世紀をかけて実証してしまったので、イスラム主義経済の研究者の中には、このイスラム経済視して無が新しい経済システムとして見る一方、イスラム主義経済の関係者(ペルシャ語話者やアラビア語話者たちの論文での研究者)の中には、結構共産主義への関心が見られるような書籍があるという。

         

        そのことについて、少し話したが、イスラム世界の旅人や困窮するものに対する歓待や喜捨が行われることで、富の再分配が行われているということを前提としているあたりの精神性というか、文化構造がそもそも、イスラームの世界観の中にあるので、イスラーム経済の世界観の中での共産主義との融和性があるのではないか、というような話をした。そういえば、イスラム法学者の中田考先生は、時折、ツィッターの中で、労働戦士とか、マルクスの資本論とか、わけわからないことを昔は時々つぶやいておられたことなども話した。

         

         

        とは言え、20世紀がかなり明らかにしたのは、共産主義が、農業が経済の主体であった当時のロシア(当時はソヴィエト)に適合的であったように、共同体で何でもこなさなければいけない状況下に共産主義は適合的であったことなどを考えると、更に、現在のイスラム世界の大半が関係していた中東地域における産業の中心が遊牧であった時代に形成されてきたイスラム世界では、土地というものの所有の概念の意識が薄いこともあり、共産主義との親和性は一定程度考えられるかもしれないよねぇ、という話をした。そして、我々の社会が所有という概念に縛られすぎているということも。

         

        宗教世界と共産主義
        確かに、イスラーム世界においては、一種共産的な主義主張とイスラーム的な弱き者への保護(庇護)の関係は、ある程度類似構造があり、一定の親和性が有るのではないか、などといったことを話していた。まぁ、キリスト教も本来、弱き者への保護という関心はある程度はないわけでない。なお、この200年にどこぞから分離したプロテスタント諸派では弱者や社会の枠外に置かれた人びとへの視線や行動が弱いところが多い、というかほとんどであるように思う。

         

        なんちゃって労働組合に騙されて加盟させられたときには、がちの共産党系の方から、無理やり組織票をくまれて、書記長をやらされて、胸痺したけど、結局政治活動しないから、ということで引き受けたものの、政治活動に噛まされかけて(赤旗もって、どこかに馳せ参じ、ということはしないですんだが)、おまけに上位の全国組織は未加盟組織には、愛想を振り向くものの、加盟組織には冷淡な対応を取り寄ったので、こんな嘘つき集団とは馬鹿らしくて付き合っていられない、と啖呵を切って、組合を抜けたら、あとで、我も我もと続々と抜ける人が何人も出たので、ちょっとびっくりした。組合潰し、といってミーちゃんはーちゃんを批判したい人は、ミーちゃんはーちゃんを騙した共産党員に文句を言ってくれ。

         

        他の宗教(新宗教も含む)と貧者への視線
        そして、先日、冥土喫茶ぴゅあらんどで講師の白波瀬さんがお話になったことの中で印象的だったことの一つは、「ホームレスのおじさんたちは生きている間はキリスト教で(説教付きで、でも食わせてもらい)、死んだら仏教で(お経をあげたり戒名を付けてもらったり)面倒を見てもらおう」という、実利志向をホームレスのおじさんたちがお持ちである、ということであった。家人との話の中でも、この話を取り上げた。

         

        そして、なぜ、こうなるか、ということの背景に、生活保護受給者が増えているとは言うものの、これらの公的補助が嫌な人もいる上に、仏教者による炊き出しというのがこの地域では限られるので、仏教にすがるだけでは、生存に足るだけの食事が得られないばあいもあるかららしい、ということも話した。それで、ホームレスのオジサマたちは、あるときはカトリックのしている炊き出しで食事を取り、あるときは韓国系キリスト教会(この界隈では奇抜なデザインで目立っている教会らしい)での説教付きの食事にありつくらしい、ということも話した。

         

        すると、家人いわく「そしたら、他の宗教はどうなん?」とすかさず聞いてきた。なかなかセンスがよろしい。

         

        そこで、他の宗教の話、いわゆる新興宗教系の対応について、白波瀬さんの本や当日お伺いした話などを引きながら、結局その宗教がどこに向いているかが鍵になるらしいということを話した。

        基本的に仏教系の各種団体も、基本的には、もともとその地域にいた地主さんといった檀家さんのためのお寺という側面があるらしいし、新宗教系の宗教組織も、どうも、そこの地域の元々の住民の信徒さんと行った人たちのための施設という話があり、普段の日は方苦悶を閉ざしている事が多い、というのが実態に近いらしい。そもそも論として、世界各国共通であるが、こういうホームレスの方々や、いわゆる寄留の民、流動生活をしている人びとがその地域に流れ込んでくると、旧住民と新住民の間で対立や摩擦が増えたりもするので、神様扱いして触れないようにする(海神や山神はそのような対応)か、あるいは差別の対象として、自分たちよい劣った人や自分たち以下のもの(自国民中心主義や自己正当化などの傾向もある結果だと思うのだが)として、ウエメセで望むことが多いのではないだろうか。しかし、それがあるがままの人間の姿ということなのかもしれない。

         

        というのは、こういうことはどこの世界でも確認されるので。フランスの事例としては、ロマの人びとを扱ったジョニー・デップが出演している礼は、チョコラという映画に見られる。

         

         

        映画ショコラ

         

        こういう問題は、低住民と漂流民の間で起きるだけではない。旧来の住民と新住民の間では、このような対立はかなり起きる。そういえば、ミーちゃんはーちゃんはもう数十年前の高萩行きの常磐線の中で、「お前らなんかが(この列車に)乗るから、酒盛りできなくなるじゃないか」と随分お酒をきこしめしている建設労働者の方から、絡まれた記憶がある。

         

         

         

        こういう、定着民と漂泊する民に関しては、網野善彦さんというかなり左巻きの日本史の先生の著作集があるが、『中世の非人と遊女』とかいったあたりの本に詳しい。

         

        日本社会における社会の流動性の向上とその副作用
        現在では日本社会では、農業中心時代であった頃に実現していた人びとの定住性が薄れてしまっており、人口の流動性がかなり高まっている。その結果、地域崩壊が四国や山陰ではほぼ、時限爆弾の時計がカウントするかのような状態で、現実化に向かっている。これらの地域での地域の崩壊はもう目前という状態であり、まともに選挙しようにも、選挙に立候補する人がなく、選挙ができなくなることを想定しないといけないほどになっているのであるが、これも人口流動化の反動であるし、新幹線を通し、ジェット機が離発着できる空港を作り、高速道路を建設していった余波である。当初は、交流圏を拡大し、移動の自由度を改善することで、地方部での経済的な豊かさを一定程度確保しようとした結果、現在あるのはぼろぼろになった地方、ということのようである。それでも、地方は必死になって、産業振興に励んでいる人びとを批判するわけではないが、かなり壮絶な消耗戦が待っている。厚生労働省発表のデータを元に、それを3年くらい前に地図にしたのが、以下の図である。

         

         

        UHエリアマーケBlog

         

        立候補者がたらなくて、議会が機能しないため、町村総会に移行しようにも、大川村のような場合には、お年寄りの交通弱者が大量にいるために、町村総会すら開催が、危ぶまれる自体が、実は日本の地方では起きているが、しかし、それは将来の日本のかなりの部分での姿であるし、だからこそ、平成の町村合併が急がれたという部分もあるだろう。人口減が社会制度自身の息の根を止めてしまいかねない状態まで来ているのである。

        大川村についての報道

         


        人口定住を必死になって図っておられる島根県海士町

         


        徳島県神山町の必死の努力(これはある意味で総務大臣のちょっとIT知識がかなりなさそうという雰囲気がわかるという意味でも、面白い動画であるが、総務省がこれを出しているのがちょっと笑える。なお、IT業界は、総務省の管轄でもあり、総務省と経済産業省なんかのバトルの場でもある。

         

         

         

        政府や各地方自治体、上記の動画のように色々お取り組みであるが、経済原理だけで行けば、東京に集中することになる。これはいかんともしがたい。中には、ICT(情報通信技術)をもとに地域定住人口をIT屋を呼び込んで実現しようという壮大な実験もあるが、その有効性に対して、計算機屋としては、かなり疑問に思っている。もともと愛媛県で生まれたIT系の会社でグループウェアの開発会社でもあるサイボウズという会社は、創業から数年で大阪に移動し、そして、今は東京にもオフィスを構えておらえる。なぜ、サイボウズがこのような行動を取ったのはなぜだろうか、ということを少し考えれば、地方においてライフワークバランスがうんたらかんたら、と言いながら、地方への企業の定着が進まない現状の分析がどうにもこうにもできていないんじゃないかなぁ、と思う。

         

        そう思っていたら、ろくでもない記事を先日の日経新聞で見た。農地転用に関する政府の方針に関する観測気球記事だろうと思う。IC付近の耕作放棄地がウンタラカンタラ、そこを商業施設や物流拠点に転用して、そこで働けるからワークライフバランスがウンタラカンタラ、と絵に描いた餅の話をしている。

         

        大体、物流拠点に使えるような農地は基本的には平たいわけであるから、耕作放棄地にはならないし、農地をまとめるということが現実的な解とは言い難いことをご存じない方が鉛筆ナメナメを政策をメモ帳に書いてみた、ということだと思って、なんというアホなことを、とは思った。現場を知らない、机上の数合わせの空論、という感じがした。なに、これは今に始まったことではなく、明治以来の日本の伝統の一つである。

         

         

         

        朝のNHKの連ドラで考える中心と周縁
        定住社会と漂泊する人びととの関係から、地方部における定住社会の変容に話が横に飛んだが、日本の高度経済成長期の社会は、交通計画(昔、このタイプの授業を必要十分に受講した)の恩恵なのか、呪いなのかはしらないが、交通の利便性をあげることで、国民の漂泊民化することを進めたといえるし、ちょうどその交通改善がなされて時代についてやっているのが、今の朝の連続テレビ小説「ひよっこ」である。あれは、有村架純女史がいい味出しているのと、彼女の茨城方言がちょっとおかしい(あんなに茨城方言ネイティブは聞き取りやすい発音はしていない)ので、それを突っ込むためだけに見ている。なお、茨城県は美人が少ない県でもあるようである。事実かどうかはよくは知らない。

         

        NHKの朝の連ドラ「ひよっこ」の予告編

         

        「ひよっこ」の企画をした人が、周辺あるいは周縁と中心ということをどこまで意識しているかは存じ上げないが、あのドラマは紛れも無く、周辺と中心との力学関係がドラマの背景にあるように思う。

         

        実は、このことは、キリスト教にとって、と言うよりは、聖書にとって、現代も、過去の歴史上の一時代においても重要なテーマの一つであり、それをどのように考えるのかが問われている、ということなのだろうなぁ、と思っている。周縁と中心を考えることは、ある面で言えば、それは貧しさについて、どのように聖典文章から考えるのか、ということでもあると思った。現実の力学関係では、中心が周縁を支配するということが起きているようでもある。その支配、被支配の構造を、中心による周辺の捕囚という構造について、聖典文章から同解釈を導いていくのか、ということを時々考えている。

         

        ところで、イエスは周縁に行った人物であった。福音書の中にイエスは、「静かなところ」「荒野」に行って祈っていた、という記事が多数ある。そもそも論として、神の支配の中心地から、悪を滅ぼすためという大目的があるにせよ、この地に来られたわけであるので、この地上で歩んだことそのものが周縁に行くというイエスの性質を表している様に思う。大体、家族からも、こんな周縁で喋ってないで、「エルサレムに行けば?」とまで言われている。

         

        とは言え、その周縁であるところに行っているところもあるとは言うものの、弟子たちには、「サマリア人の地に行くな」ともおっしゃっている。その意味で、イエスの言動や福音書は線形的にわかりやすくできているわけではない。だからこそボウカム先生の『聖書と政治』で示されたような解釈学(Hermeneutics)が大事なのだろうと思う。

         

         

         

        キリスト教書で考える中心と周縁
        その後、家人との話の中では、同人誌よりも発行部数の少ないキリスト教書のこと、地方部でのキリスト教書の振れる機会のなさ、そして、キリスト教書の購買層の時間的(というよりは10年単位の時代的)変遷、そして、今後のキリスト教書の問題などと合わせながら、また、キリスト教書の流通状況のおかしさ(まぁ、現状長年そうやってきたのだから仕方がない、という部分はあるにせよ、それでいいのか、とは業界外の部外者ながら思っている)や、それと比較したときの、現代の一般書店の生き残り作戦との関わり、キリスト教書の電子書籍の現状などについて、青少年向けラノベ(別に恋愛モノでなくてもいいとはおもうが、ホルモンドバドバ出ている時期の若者の恋バナ好きは萬代不易の事実なのであるから、ギリギリの線を守りつつ、そういう本を出してもいいと思うのだが。それに、聖書には雅歌という究極の恋愛の書があるが)など、思いつてもそれを出せないキリスト教出版業界の問題などを含め、すこし家人と話して盛り上がった。

         

        そして、それらのキリスト教書に触れることもできず、東京では当たり前に開かれる、様々な講演会にも振れることができず、さらに、地方地震が社会として崩壊しそうな地方搭乗橋で、その中にある教会という現場の中で、人びとから時に冷たい視線を浴びながら、絶望的な状態の中で、牧会に黙々と取り組んでおられる先生方のことなどを話した。そして、それらの人々のことを思いながら、神の祝福があるように(祝福されよ、あるいは幸いあれかし)、と祈ることしかできないミーちゃんはーちゃんの現状ということ、そこをどう自分自身の問題として対応していくのか、ということを何人かの牧会者の方々のお顔を思い浮かべながら、祈らずには居られなかった。

         

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        コメント:大変よろしいか、と思います。初版なんで、時々あれ、と思う表現はありますが。

        2017.06.21 Wednesday

        『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(3) 一応完結

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          今日は、 テロ(戦争)と神(神のようなもの)の関係について、触れてみたい。一応、本日でこの連載を終わりたい。お付き合い頂いた方には、心より御礼申し上げる。

           

          神のかたち(こころ)を凍らせ、こころを押しつぶすテロ

          テロは、笑い事ではない。無辜の民が被害に合うだけでなく、どうにもならない絶望を日常を生きる人々に経験せしめるのであるから、個人的には、怒りすら覚える。それと同時に、その原因を作る無差別爆撃ないし、圧倒的な物量で行われる爆撃行為には、何より怒りを覚える。自軍の被害を最小化するという側面では致し方ないことはわかる。しかし、そうだからといって、職業軍人が民間人を攻撃していいわけではない。ただし、現代の戦闘状況で、民間人も安易に戦闘に参加する状況下では、職業的戦闘員と民間人との境が極めて曖昧であるために、自軍の被害の最小化のための有効な方策としては、まず、大量の物量を投入し、安全を確保してから、職業的軍人を投入するということになるのだろう。倫理的妥当性は別として、職業的軍人が考える現実的な解としてはそうならざるをえないだろう。しかし、それは、本当にまともな対応策なのだろうか。他国で戦闘を行う際の、このような方策の無効性はベトナム戦争でかなり、明らかになったのではないだろうか。しかし、そうであっても、他に方法がないためか、このような一般人を巻き込んだ戦闘行為が行われる。そして、被害者は、以下の動画で出てくる少年のように、恨みをもちながら、敵兵に当たる人びとと共生することを余儀なくされるになる。


          Good Morning Vietnumのワンシーン

           

          その意味で、ヴェトナム戦争のころから、テロと現代の近代軍の特殊部隊のするような戦闘のみならず、通常軍の戦闘であっても、民間人を否応なく巻き込んでいくという意味で、殆ど変わらなくなっているし、テロにしても、現代の戦闘にしても、報復に次ぐ報復という不幸な連鎖を生んでいる。

           

          戦争やテロの背景にあるもの

          前回の記事でも少し触れたが、戦争や戦闘の背景には、人びとのどうしようもない怒りがあるように思う。そして、テロの背景には、絶望がある。絶望があるからこそ、そして、言語によるコミュニケーションにおいての、どうしようもない絶望があるように思う。そして、言語でコミュニケーションができない、相手に自分と自分たちの主張を聞かせるための最後の手段として、自爆テロやテロが用いられる。

           

          非常に後あじが悪かったエピソードであるが、Law and OrderのSVUのエピソードに、アフリカの少年兵だった青年が、NY市警の警官隊と銃撃戦状態にあえて陥り、それをメディアに報道させることで、メディアを巻き込んで、アフリカの内戦状態の悲劇に無関心なアメリカ国民たちの目を向けさせようというエピソード(Season 10 Episode 17)がある。結局、彼は自ら警察部隊の市民への誤射事件を意図的に起こさせることで、自殺的行為を通して、自分の主張、いや、自分たちの国家に起こっている悲劇にアメリカ国民の目を向けさせようとした、ということを描いたエピソードであった。そのときに、このエピソードの一人に、「君たちはこうでもしないと見ようとしないだろう」といわせていたことが印象的であった。たd,この元少年兵は、他人を被害に巻き込まなかったとして描かれているものの。

           

          これはテロではないが、一種のテロ的事件ではある。平和なアメリカ社会の中での抗議行動としてのテロの一種であるが、そうでもしないと気が付かない、完成の鈍さのような部分が人間にはあるのではないだろうか。

           

          神の名を騙っての戦争

          尊敬するものがディスられて起きる争い

          ところで、過去、神の名を騙った戦争が多数行われてきた。実は、自国の領土欲であったり、富を求める思いであったり、経済的な回復であったり、あるいは、国家としての名誉が原因、つまらない自国優位主義だったりするのに、それでは、流石に市民の戦争遂行の士気(モラル)を鼓舞できないので、神の名が騙られることがある。要するに、名目として神や信仰、宗教を持ち出しているだけなのだ。

           

          人間はこういう崇高な目的とか、名目によってでも、戦争をしようとする人びとの裏の意図が覆い隠されてしまうと、つい、その挑発に載ってしまうのだ。あるいは愛するものが貶められることでも争いは起きる。

           

          今の悪童はどういっているかは知らないが、昔の悪童は、「お前のかぁちゃんデベソ」と挑発したものである。子どもにとって、生活がかかっている母親を悪く言われたら、人間は突然常識やユーモアが消え去って、「あぁ、デベソだけど、それが何か?」とは言えなくなるのである。それが、自分の信仰する神となれば、何をか言わんや。

           

          こういう挑発の事例は、旧約聖書にかなりの数、出てくる。

           

          戦争に勝利するということは、自分たちの神や王が相手の神や王よりは、優れているということであり、敗者の神や王は、基本的にその能力を少なくとも疑われるという目に合うのである。まさに、「お前の母ちゃんデベソ」ならぬ、「お前の王は無能」、「お前の神は無能」、ということを戦争での勝利によって示すのが、古くからの地中海世界の戦争であり、戦闘に関する理解であった。その意味で、王や皇帝はもちろん、民が信仰する神の沽券に関わるので、負けるわけにはいかなかったのである。

           

          列王上の18章におけるバアルの祭司と対決してみせたエリヤや、以下に紹介するギデオンの事例は、その意味で、その世界の世界観をきわめてよく反映したものといえるだろう。

          【口語訳聖書】 士師記
           6:25 その夜、主はギデオンに言われた、「あなたの父の雄牛と七歳の第二の雄牛とを取り、あなたの父のもっているバアルの祭壇を打ちこわし、そのかたわらにあるアシラ像を切り倒し、
           6:26 あなたの神、主のために、このとりでの頂に、石を並べて祭壇を築き、第二の雄牛を取り、あなたが切り倒したアシラの木をもって燔祭をささげなさい」。
           6:27 ギデオンはしもべ十人を連れて、主が言われたとおりにおこなった。ただし彼は父の家族のもの、および町の人々を恐れたので、昼それを行うことができず、夜それを行った。
           6:28 町の人々が朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は打ちこわされ、そのかたわらのアシラ像は切り倒され、新たに築いた祭壇の上に、第二の雄牛がささげられてあった。
           6:29 そこで彼らは互に「これはだれのしわざか」と言って問い尋ねたすえ、「これはヨアシの子ギデオンのしわざだ」と言った。
           6:30 町の人々はヨアシに言った、「あなたのむすこを引き出して殺しなさい。彼はバアルの祭壇を打ちこわしそのかたわらにあったアシラ像を切り倒したのです」。
           6:31 しかしヨアシは自分に向かって立っているすべての者に言った、「あなたがたはバアルのために言い争うのですか。あるいは彼を弁護しようとなさるのですか。バアルのために言い争う者は、あすの朝までに殺されるでしょう。バアルがもし神であるならば、自分の祭壇が打ちこわされたのだから、彼みずから言い争うべきです」。
           6:32 そこでその日、「自分の祭壇が打ちこわされたのだから、バアルみずからその人と言い争うべきです」と言ったので、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。

           


          その意味で、神とか見の戦いを、人間と人間の代理戦争でやって示してみようとする世界理解であるが、傭兵が戦闘能力の大半であった古代社会の戦闘においても、近代戦時代においても、こういう牽強付会的な、というよりは、屁理屈のような理由が戦争の際には用いられるが、実態は、結局自分たちの経済的、あるいは領土的な問題が、宗教や、信仰や、正義と言った、単純には解決付かない問題にすり替えられ、持ち出されているだけにすぎないと思う。

           

          数年前、コーランを焼いた米国のテキサスの牧師の方が居られたが、その方は、エリヤ気取りだったのかもしれない。コーランを焼こうとして見せれば、それがアラーの神の神秘によって止まるとでも思ったのだろうか。もし、エリヤ気取りだとしても、実は、その焼こうとするコーランの中にイルヤースという名前で、エリヤは登場するのである。そのあたりのこともご存知で、コーランを焼こうとしておらえるのなら、どのようなお考えであったのであろうか。よくわからない。

           

           

          コーランを燃やしたテリー・ジョーンズさん@テキサス

          http://www.dailymail.co.uk/news/article-1372442/Pastor-Terry-Jones-defiant-Koran-burning-led-2-UN-staff-beheaded.html から

           

          問は簡単でもその答えは簡単ではない

          N.T.ライトさんは、『シンプリー・ジーザス』のまえがき部分で、簡単な質問ではるが、答えるのはそう簡単にはいかない問題があるということを明確に述べている。戦争の際に持ち出される理屈というのか、理由(例えば、民主主義社会を守るとか、人民を守るとか、自国民保護とか・・・)は、簡単で、明確で力強く見えるが、その実情は本当にそうは言えないような歴史上の戦争の事例は少なくない。その意味で、神と戦闘の問題は実に多様であり、単純化して語ることができない問題の一つでもある。

           

          いや、世の中、よく考えて見れば、質問はシンプルであるけれども、その回答がシンプルとはならず、複雑になるもののほうが多い。複雑なものをあえて単純化しようとすると、かえって、単純化しすぎて誤解を生むことが多いようなきがする。しかし、テレビなどの番組では、それでは視聴者に納得感がないので、あえて単純化して伝えることが多く、その意味で、きちんと考えずにものごとを単純化してラベルを貼っておしまいにすることは実はかなり危ないことなのだ。それは、聖書理解においてもそうであると同様に、この世界で起きていることについても同様である。

           

           

          ところで、キリスト教国は、同じキリスト教同士で戦闘して来たことは事実であるし、さらに、神学の世界でも、キリスト教界は互いに自己の神学の優位性を巡って論戦しているような部分がない訳ではないことも、事実である。そこには、流血と分断が、神の名、聖書解釈によって起こされているのだ。実に複雑な気分にもなるし、もうちょっと余裕を持って、お互いを思い合うことができないのか、とも思う。ただ、先にも述べたように、同じキリスト教同士であるが、民族の違い、信仰形態の微妙な違いにおける互いの優位性、経済的な比較優位を巡って、分裂を繰り返した歴史を、キリスト教の世界は繰り広げてきた。最近同じ聖書信仰という単語をつけたタイトルの書籍が同じ出版社から、2冊出たが、あれは、基本的にはきっとものすごく有益な議論のための出版であり、建徳的な目的のために、後発の書籍が出されたのだろうと、個人的には思っている。

           

           

          社会の不満が爆発する時

          さて、余談はさておいて、このような戦争に巻き込まれ、そして、その挙句の果てに神を持ち出す、ということの社会的意味を少し考えてみたい。どうも、社会に不安がある時に、人々は血の気が多くなるのか、社会の中の不満や不安のプレッシャーが大きくなるのか、混乱をあえて起こすようである。

           

          先日のこの連載でご紹介した、冥土喫茶ぴゅあらんどでの今回のゲストは、白波瀬さんで、大阪のスラム地区とも呼ばれた釜ヶ崎(あいりん地区と現在は総称される)について研究者の立場からのお話をしてくださった。こういう話が聞けるから、冥土喫茶ぴゅあらんど通いはやめられない。

           

           

          あいりん地区での騒擾事件

          http://www.koueisyasin.com/portfolios/docu/08/kama/01.html から

           

          その中で、現代までの直近、すなわち、記録に残っている最後に起きた暴動というか騒擾事件は、大阪府警本部は暴動とは呼ばず別の呼び方をしているらしいが、2008年6月の第28次暴動の原因は、行政との対決や、警察との対決ではなく、飲食店の支払いを巡る争いが、多くの人を巻き込んだ、騒擾事件に発展したのである。世界金融危機由来の経済的な不況が、これらの単純作業をしていた社会を底辺から支えてひた人びとの収入の機会を奪い、その結果、不満が社会に充満していたのだろう。その社会に渦巻く不満が引火性ガスのようなかたちで充満しているところに、火花のような小さな事件である、飲食店の支払いをめぐる揉め事が起き、景気のいいときなら、適当に処理できていたものが、対応の不味さなどもあり、爆発反応を起こして、炎上し、暴動に発展したのであろう。ツィッターなんかの炎上も、どこかに社会に対して、あるいは、世の中に対して、あるいは他人に対して、八つ当たりをしたくなり、そして炎上につながるのだろう。その意味で、暴動が起きるための理由は、社会の不満が高まっている場合には、理由なぞ、実は、なんでもいいのである。

           

          日本人は割とおとなしいというか、エネルギーが他の国の国民より明らかに低い気がする。アメリカなんかで生活していると、彼らのテンションの高さ(結構中高年でもテンションが高い人が多い)に参ってしまうことがある。日本人だと、70歳以上の高齢者が30代の人と同じくらいのような気がする。

           

          聖書の中の騒擾事件

          実は旧約聖書にも、暴動事件ではないが、暴動事件に似た騒擾事件はある。

           

          【口語訳聖書】
          出エジプト記
           32:1 民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。
           32:2 アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。
           32:3 そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。
           32:4 アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。
           32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。
           32:6 そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。
           32:7 主はモーセに言われた、「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。
           32:8 彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」。
           32:9 主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。
           32:10 それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。
           32:11 モーセはその神、主をなだめて言った、「主よ、大いなる力と強き手をもって、エジプトの国から導き出されたあなたの民にむかって、なぜあなたの怒りが燃えるのでしょうか。
           32:12 どうしてエジプトびとに『彼は悪意をもって彼らを導き出し、彼らを山地で殺し、地の面から断ち滅ぼすのだ』と言わせてよいでしょうか。どうかあなたの激しい怒りをやめ、あなたの民に下そうとされるこの災を思い直し、
           32:13 あなたのしもべアブラハム、イサク、イスラエルに、あなたが御自身をさして誓い、『わたしは天の星のように、あなたがたの子孫を増し、わたしが約束したこの地を皆あなたがたの子孫に与えて、長くこれを所有させるであろう』と彼らに仰せられたことを覚えてください」。
           32:14 それで、主はその民に下すと言われた災について思い直された。
           32:15 モーセは身を転じて山を下った。彼の手には、かの二枚のあかしの板があった。板はその両面に文字があった。すなわち、この面にも、かの面にも文字があった。
           32:16 その板は神の作、その文字は神の文字であって、板に彫ったものである。
           32:17 ヨシュアは民の呼ばわる声を聞いて、モーセに言った、「宿営の中に戦いの声がします」。
           32:18 しかし、モーセは言った、「勝どきの声でなく、敗北の叫び声でもない。わたしの聞くのは歌の声である」。
           32:19 モーセが宿営に近づくと、子牛と踊りとを見たので、彼は怒りに燃え、手からかの板を投げうち、これを山のふもとで砕いた。
           32:20 また彼らが造った子牛を取って火に焼き、こなごなに砕き、これを水の上にまいて、イスラエルの人々に飲ませた。
           32:21 モーセはアロンに言った、「この民があなたに何をしたので、あなたは彼らに大いなる罪を犯させたのですか」。
           32:22 アロンは言った、「わが主よ、激しく怒らないでください。この民の悪いのは、あなたがごぞんじです。
           32:23 彼らはわたしに言いました、『わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセは、どうなったのかわからないからです』。
           32:24 そこでわたしは『だれでも、金を持っている者は、それを取りはずしなさい』と彼らに言いました。彼らがそれをわたしに渡したので、わたしがこれを火に投げ入れると、この子牛が出てきたのです」。

           

          しかし、ここでのアロンのモーセの事情聴取への説明は、まるで小学校低学年の男子か幼稚園児のようないいわけである。思わず笑ってしまった。アロン先輩にはちょっと申し訳ないが。

           

          新約聖書の中の記述であわや騒擾事件もどきは、イエスの時代の出来事としてもいくつか記載されている。

           

          【口語訳聖書】
          マタイによる福音書 
           21:8 群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。
           21:9 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。
           21:10 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。
           21:11 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。
           21:12 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。
           21:13 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。
           21:14 そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。
           21:15 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、
           21:16 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。

           

          あるいは

           

          【口語訳聖書】
          マタイによる福音書
           27:15 さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。
           27:16 ときに、バラバという評判の囚人がいた。
           27:17 それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。
           27:18 彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。
           27:19 また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。
           27:20 しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。
           27:21 総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。
           27:22 ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。
           27:23 しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。
           27:24 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。
           27:25 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。

           

          また、パウロに対して、次のような事件が起きる。

           

          【口語訳聖書】
          使徒行伝
           14:11 群衆はパウロのしたことを見て、声を張りあげ、ルカオニヤの地方語で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお下りになったのだ」と叫んだ。
           14:12 彼らはバルナバをゼウスと呼び、パウロはおもに語る人なので、彼をヘルメスと呼んだ。
           14:13 そして、郊外にあるゼウス神殿の祭司が、群衆と共に、ふたりに犠牲をささげようと思って、雄牛数頭と花輪とを門前に持ってきた。

           

          それだけではなく、さらに、パウロに関する暴動としての他の礼としては、次のようなものをあげることができるかもしれない。

           

          【口語訳聖書】使徒行伝
           19:24 そのいきさつは、こうである。デメテリオという銀細工人が銀でアルテミス神殿の模型を造って、職人たちに少なからぬ利益を得させていた。
           19:25 この男がその職人たちや、同類の仕事をしていた者たちを集めて言った、「諸君、われわれがこの仕事で、金もうけをしていることは、ご承知のとおりだ。
           19:26 しかるに、諸君の見聞きしているように、あのパウロが、手で造られたものは神様ではないなどと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説きつけて誤らせた。
           19:27 これでは、お互の仕事に悪評が立つおそれがあるばかりか、大女神アルテミスの宮も軽んじられ、ひいては全アジヤ、いや全世界が拝んでいるこの大女神のご威光さえも、消えてしまいそうである」。
           19:28 これを聞くと、人々は怒りに燃え、大声で「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と叫びつづけた。
           19:29 そして、町中が大混乱に陥り、人々はパウロの道連れであるマケドニヤ人ガイオとアリスタルコとを捕えて、いっせいに劇場へなだれ込んだ。
           19:30 パウロは群衆の中にはいって行こうとしたが、弟子たちがそれをさせなかった。
           19:31 アジヤ州の議員で、パウロの友人であった人たちも、彼に使をよこして、劇場にはいって行かないようにと、しきりに頼んだ。
           19:32 中では、集会が混乱に陥ってしまって、ある者はこのことを、ほかの者はあのことを、どなりつづけていたので、大多数の者は、なんのために集まったのかも、わからないでいた。
           19:33 そこで、ユダヤ人たちが、前に押し出したアレキサンデルなる者を、群衆の中のある人たちが促したため、彼は手を振って、人々に弁明を試みようとした。
           19:34 ところが、彼がユダヤ人だとわかると、みんなの者がいっせいに「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と二時間ばかりも叫びつづけた。

           

           

          社会に渦巻く不満の影響を受けた民衆とその民衆の圧力がかかった状態(ブースト状態)の社会というのは、ちょっとした反応が、暴動に繋がったり、金の子牛を作ろうという動きになったり、ダビデの子にホサナという幼子の声を聞いた、祭司長や律法学者を苛つかせ、あるいはピラトによるバラバの釈放に繋がったり、パウロはゼウスと呼ばれたり、エペソでの騒動のような事件が起きたりするのだ。その意味で、ふつふつと爆発を待つ火山のマグマのような人びとの不満の渦というのは怖いのである。少しのきっかけで爆発するのは、古今東西変わらない。最近では、ロスアンゼルス市警察のアフリカ系市民への不当な暴力(ロドニー・キング事件)を端緒に暴動が起きているし、ハリケーン・カトリーナのときにも、商店島の略奪騒動が起きている。

           

          実は、このような人びとのふつふつとした心理的圧力を社会にとって被害が軽い形となるように、コントロール可能な形で放出するのが、実は、盆踊りや、夏祭り、秋祭り、春祭りや十字架行や、イースターなどのパレードであり、それを、定期的に行うことで、社会にこれらの社会の暴走のコントロールの方法を社会の中に蓄積していくのが、祭りの役割として、社会の中に制度化されているようにも思うのだ。

           

          戦争が引き起こす神のかたちの圧縮と停止

          戦争でも、テロでも、暴動でも同じことだと思うのだ。戦争やテロや暴動に関与するのはその場の雰囲気とかがあるにせよ、個人としての関与として、始まるように思うのだが、基本的には、ある物事にとらわれてしまい、心が柔軟さを失って、集団的ヒステリーを起こし、常軌を逸する事があるのではないか、と思う。本来人間は神のかたちであるにも拘らず、その神のかたちが、一時的に完全に圧縮され、変形された状態で、固化してしまい、神のかたちであることを停止してしまうことがあると思うのだ。

           

          このあたり、ヨベルの『従順という心の病い』が参考になるだろう。

           

          ロドニー・キング事件をきっかけに発生したロスアンゼルス暴動時の写真(被害総額 3億2千万ドル)

          http://www.chicagotribune.com/chi-insurance-civil-unrest-riots-bix-gfx-20141126-htmlstory.html から

           

           

          そして、人は争いに巻き込まれ、暴動や集団ヒステリーに関与していくことになる。では、これは、防ぎうるか、と問われたら、これまた、簡単な質問であるが、答えは複雑とならざるをえない問題である。個人的には、結論だけ言ってしまえば、可能であるが、困難である、ということだと思っている。その答えを考えるためには、深い黙想が必要である、とだけ申し上げておく。

           

           

          みなさんも、聖書と向き合う中で、そして、神と向き合う中で、たまにはこのようなことを、お考えになられると良いかもしれない。

           

          以上で、このシリーズは終了である。

           

           

           

           

           

           

           

          評価:
          N・T・ライト
          あめんどう
          ¥ 2,970
          (2017-03-20)
          コメント:イエス時代のユダヤの社会状況の整理の入門書として、大変参考になる

          評価:
          価格: ¥ 864
          ショップ: 楽天ブックス
          コメント:薄いけど、きわめて重要な本

          評価:
          Henri J. M. Nouwen
          ¥ 879
          (2009-09-22)
          コメント:薄いけれども、きわめて重要な黙想の断面が描かれている

          2017.06.19 Monday

          『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(2)

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            本日は、 テロ(戦争)と聖書(聖典) の第2回目、テロと聖書(聖典)の関係を考えてみたい。

             

            抜書き聖書と自己正当化
            実はこの問題は非常に根が深いように思う。なぜなら、テロや戦争、リンチの正当化に聖書ないし聖典から抜き出された言葉が使われることもあるからである。要するに、聖典からの言葉を自己正当化の権威性の根拠として使うことがときどきあるからである。アメリカの南部諸州では、聖書の言葉が奴隷制の正当化に用いられた。このように、ときに聖書が、自己の行為の正当化に使われることがあるが、個人的には、それは本末転倒ではないか、と思う。神の絶対的な主権に逆らう行為ではないか、と思うのである。

             

            聖書の中に、次のような記述がある。これは案外重要な記述であると思う。これは、国家や社会に対するテロではない。しかし、ある種聖書の語を用いて自らの集団リンチを正当化しようとした事例に近いのではないか、と思う。

             

             


            【口語訳聖書】
            ヨハネによる福音書/ 8章 1節−11節
            イエスはオリブ山に行かれた。
            朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
            すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
            「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
            モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
            彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
            彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
            そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
            これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
            そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
            女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。

             

            ここでは、当時のユダヤ人にとって絶対の基準、カノン、否定のしようがないトーラーが用いられている。そして、この絶対の基準、カノンを用いてイエスを試みるのである。それは、神を試みることでもあったのであろう。ある面、我々の側から見れば、神に対する律法を用いたテロ行為に近いのではないか、と思う。

             

             

            姦淫の場で捉えられ、石打にされる直前でイエスの前に引き出された女性

            https://en.wikipedia.org/wiki/Christ_and_the_Woman_Taken_in_Adultery_(Bruegel)より

             

             

            主の祈りの中に
            【口語訳聖書】
            マタイによる福音書 6章 13節
            わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。
            という表現があるが、これは、我々が、神に対する挑戦、テロをしないように、ということなのかもしれないと、N.T.ライトさんがお書きになられた主の祈りに関する記述を読みながら、思ったことがある。『福音の再発見』というスコット・マクナイトの本の中に、我々人間は、最初の人間のアダムとエバの時代から、「簒奪者」である、という語が出てくる。アダムとエバの段階で、我々は神の権威と神の王権の簒奪者になり、王であるべき神をその聖座から追い出し、本来その権威も権利もないのに、そこにどっかと座り込んでしまったのである。そして、自らを神の如きものとしていることが時々ある。それは、自分自身を含めてそうである。気がつけば、正義を扱う能力も知恵も権利も、権威もないのに、それを振りかざしているところがないわけではない。

             

            以前このブログで、悲しむクリスチャン二世から、本ブログ記事にご応答いただいたことをご紹介した記事(あるクリスチャン2世のコメントからたらたらと考えた。)がある。そこでも触れたが、たましいとこころを開放し、本来の神のかたちに回復させるために聖書の言葉が用いるのではなく、ある人達の価値観に閉じ込めるために、その価値観にはめ込んでしまうために聖書を用いる人々がいる。実に残念なことではないか、と思う。本来、聖書は、人をあるかたちにはめこむためにあるのではなく、本来のその人の神から与えられた神のかたちを、本来の人の姿を取り戻すために、神が与えたもうたものなのに。

             

            このあたりのことを考えたいかたには、地引き網出版から出ているオートバーグの「 神が造られた「最高の私」になる 」を読まれたい。

             

             

            聖書の解釈(聖典の解釈)とテロリズム
            先に、聖典の言葉を抜書きしたものを元に、他人を一定のかたち・姿・行動パターンに無理やりさせる人々もおられる、ということをご指摘した。たしかに、最初の段階で、聖書などの聖典の理解は、非常に複雑なので、一定の理解にできるだけ多くの人ができるだけ早く到達するには、このような方法論が有効であることは論をまたない。別に、これは、聖典理解だけに限らない。技術教育でも、数学教育でも、語学教育でも、そう変わらない。それは、このようなパターンに従った基礎を形成する手法が、極めて有効だからである。しかし、それはあくまで基礎についてである。

             

            そして、多くの人の場合、このようなパターンにしたがった教育で十分な場合が多い。普通の人は、連立微分方程式が、突然日常生活で浮かんだりはしないし、河川のコンクリート堤防を見たときに、ナビエ・ストークスの方程式から得られる水の摩擦力の大きさが視覚的に感じられたりはしない。しかし、専門家になるとそれができる人がいないわけではないのだ。こういう人になると、基礎的教育での基礎に縛られるようになるとあまりにも不充分であると感じることが多くなると思う。

             

            個人的に基礎教育は重要だと思うが、その方法のみが正しいとし、その方法論で全ての人を縛るようになるのは、どこか不幸であると思う。

             

            ユダヤ世界、イスラム世界での聖典と人間
            ユダヤ教(ヘブライ思想)もそうだし、イスラム教の世界もそういうところがあるように思うが、それは、聖典(正典、カノン)を現実世界に合わせて動解釈をするのか、自分が定められた基準とすべきテキスト(聖典、正典、カノン)をどう解釈していくのかを議論する世界のようである。どんなに知識が不足しているにせよ、どんなに論理が稚拙であるにせよ、テキストと対話し、他の同じカノンとしているテキストを読む、理解しようとする人々との間で、対話する、討論する、議論するということが求められるということになるらしい。その意味で、聖典を現実世界において、他の人の意見を聞きながら、解釈し続けるということが、ユダヤ教の世界でも、ムスリム世界でも、決定的に重要なのである。

             

            それをやるのが、ユダヤ教の世界ではラビ(現代英語圏の呼び方では、ラーバイ)であり、律法学者であり、ムスリムの世界では、イマーム、ないしイマムと呼ばれるイスラム法学者なのである。ユダヤ教徒の全員が、ラビではない。イスラム教徒の全体がイマームではない。普通の人は、ある程度自分自身で考えて、わからなくなると、ラビやイマームに相談(あくまで相談)しているのであり、その指示に盲目的に従っているわけではなさそうだ。あくまで、参考意見なのであり、本来的にどう行動するかは、神のみ思いを神の奴隷である人間が、一個人として、あるいは、集団として、どう考えるか、ということのようである。

             

            ちょうど、いま、ラマダーンの最中である。陽光が地上に差している時期には、真面目なイスラム教徒は、食事はおろか、水分も取れない。そのかわり夜になるとその条件が開放されるので、晩御飯は明日一日持つことを考えてやや多めの量を食べる。そして、早朝に起きて、陽光が地上を照らすまでの間にも、少し多めに食事をすると言う。しかし、このラマダーンの規定を守っているのが原則であるが、そう行っても、それが守れない場面も出てくる。イマームも手近にいない場合などもあり、そのような場合、イマームに相談するわけにも行かない。その時、ある面、一人のムスリムとして、この聖典解釈を個人として迫られる場合が出てくることは、時々起きる。そのときにどう考えるかの際に、聖典を読むその人の解釈の基礎的能力とその基礎が問われるのである。つまり、それは、アラーに対して、自己の正統性を聖典に基づきながら、どう主張するのか、ということが問われていることになる。

             

            それは、ユダヤ教徒でも同じらしい。トーラーとネビーム(律法と預言者)の記述に基づきながら、神とどう格闘するのか、という基礎的スキルをどうつけているのか、が実生活では問われることになる。

             

            イエスと律法学者との聖典をめぐる対論
            その意味で、いかに新約聖書から引用するイエスと青年の金持ちとの対話は、まさに、この聖典を元にした彼らの対話、言葉を介したユダヤ的伝統に則った、神学的バトルだった、と思うのである。この青年がイエスを人としてみていなかったゆえの若気の至りの嫌がらせ、という側面も多少はあったであろう。しかし、それに対して、聖典からどのような理解を引き出してゆき、そして、実際の生活の中で活かすのか、というタイプの単なる聖書のテキストに関する細かい知識におけるバトルというよりは、聖書のテキスト全体に関するバトル(それが証拠に、イエスは律法学者に向かって、これらの2つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっている、とおっしゃっているように思うのだ。

             

            マタイによる福音書/ 22章 34−40節
            さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。
            そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、
            「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
            イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
            これがいちばん大切な、第一のいましめである。
            第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

            これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

             

            そして、その聖典全体の理解の体系に沿って、現実世界での出処進退、行動を決めていく能力を新体制にまで消化させていくための作業が、本来、「聖典を読む」ということなのだと個人的には思う。それでも、人間は、神のみ思いに沿って生きることはできない。だからこそ、大贖罪日があるのであるし、あるいは、だからこそ、自分の不甲斐なさを反省するためにモスクに行き、シナゴーグに集まり、自らの日常の不甲斐なさを神に心から詫び、神との関係の和解、そして隣人との関係の和解を確認するのである。

             

            翻って、我が国のキリスト教、特にプロテスタント系教会を考えてみれば、神との関係の和解、神との関係の回復の確認をも含む、という側面までは否定はしないが、自分自身の信仰の表明、信仰の充実のため、教会に参加したり、自分自生が誰かから与えられた(それは神から与えられたということでもあるのだが)聖書理解を確認するために、その教派で築き上げられたその教派では通用する完璧な聖書理解の体系から、乖離しないように聖書講演会に行っているのではないかと思いたくなるような教会も少なくないように思う。それで、本当にいいのだろうか、と個人的には思う。

             

            ひどい場合は、個人の悲しみや怒りと行った個人的な感情と言うよりは、感傷をなだめるために、干渉に対する慰めを得るために行くところ、として教会を見ている人もいなくはないと思う。まぁ、それも、一つの教会へのアプローチの仕方ではあるが、それだけにとどまっている人が多いとすると、それでは、骨身にしみたキリスト教には到底なりえず、その人のうちから出てくるはずの霊的変容、霊的形成はおろか、そもそも、本来人間が、神の形であることへの回復がキリスト教の中核的テーマであると思っているが、その中核的テーマに達することは、ほとんど無理ではないか、と思うのだ。せいぜいできたとして、キリスト教の衣を単にまとっている偽物にすぎないように思うのだ。かなり言葉はきついが。まぁ、単にまとっているだけでも、そのうちに本物になる人も出てくるから、その衣をまとっていることも否定はできないことは確かである。

             

            その意味で、問題は、人間形成と神との関係の形成をどうするか問題である。

             

            テロ集団と狂信
            たしかに、ムスリム過激派の中には、青少年の純粋さを悪用して、青少年を自爆テロの実行者に仕立て上げる人々がいる。本当のジハーディスト(聖戦で殉教者と自らなる人々の総称)なら、まず、自らがジハーディストになるはずであるが、そうはならず、色々理屈をこねながら、青少年をジハーディストに仕向けている段階で、そもそもおかしいし、年寄りのジハーディストや年寄りのムスリム過激派でテロ行為に関与する人々は、よほど絶望的な状況に追い込まれ、視野狭窄した人以外には、殆ど見られず、現実にはかなり限られる。つまり、お年寄りになるまでムスリムであり続けた人、そして、ムスリム、あるいは、神の奴隷であり続けようとする人は、聖典理解がある程度、バランス良くでき、そして、それが行動や思想の隅々にまで行き渡っているので、神の被造物であり、神が気にかけて、あるいは神が愛しておられる他者を傷つけ、そして、自らをも傷つけるような行動は、何らかの原因でバランスを崩しているのでない限り、起きないはずなのである。

             

            ISIS団が教育している子どもたち(こういうのを見ていると、怒りを超えてとてつもなく悲しくなる)
            http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/islamic-state/11208990/How-Isil-jihadists-beat-and-brainwashed-boy-hostages.html から

             

             

            考えてみれば、年寄りばかりのジハーディスト集団、というのも、結構怖いようなきがするが。

             

            最長老の中国系ジハーディスト
            http://www.dailymail.co.uk/news/article-3110022/Is-ISIS-oldest-jihadi-Elderly-man-flees-China-family-fight-alongside-terror-group-Syria.html より

             

             

            なぜ、こうなるのか、というと、若者はきちんと聖典を全体として受け取れていないからこそ、解釈できていないからこそ、起きるように思う。きちんと聖典が理解できていたならば、神を愛するが故に、神の愛し給うた他者をもてなすことこそが、ムスリムの至上の課題の一つであるという理解に反することくらい、すぐに思いつくからである。

             

             

            このような、変な青少年だけのジハーディスト集団に近い存在がキリスト教の世界にないかというと、これが結構あるのだ。代表的な例が、少年十字軍という世界である。他にも現代の少年兵の問題の背景にも、この若者特有のバランス感覚の無さの悪用の雰囲気があるし、中国の紅小兵やクメール・ルージュの少年兵問題もあるので、宗教や思想に関係なく、この種の青少年のバランスの悪さにつけ込む人々は発生するようである。

             

            少年十字軍 https://www.catholic.com/magazine/online-edition/the-real-story-of-the-childrens-crusade より

             

            ところで、このように、振り返ってみると1960年代から70年代というのは、暴力テロかどうかは別として、権威への若者のチャレンジが世界各地で起きた時代とは言えると思う。

             

            紅小兵のみなさん
            https://kknews.cc/history/m2pzpz.html より

             

            http://www.master-insight.com/%E6%AF%9B%E6%96%87%E9%9D%A9%E5%85%A9%E6%8B%90%E9%BB%9E-%E7%B4%85%E8%A1%9B%E5%85%B5%E6%89%93%E7%A0%B8%E7%87%92/ から

             

             

            ラストエンペラーからの紅小兵が活躍した頃の文革のシーン

             

             

            ある種のテロ計画に参加しようとした神学者
            前世紀(もう20世紀は前世紀という恐ろしげなる事実…)の個人的にその著作が好きな神学者の一人にボンフェファーという人物があり、現代の代表的な殉教者の一人として、ウェストミンスター寺院の西側の壁に彫像がある人物の人でもある。この人は、ナチス支配下のドイツにおいて、国家支配の中にない、独自の地下教会を作り、ナチスへの抵抗運動をした人である。そして、ヒトラー暗殺計画(ナチスドイツにとっては、まさに、要人暗殺テロ以外の何物でもない)に加担し、刑死する人物である。ある面、悪への抵抗権へのボンフェファーなりの行動を通しての表明であったのであろう。ミーちゃんはーちゃんは、ボンフェファーの著作は好きだが、ボンフェファー研究者ではないので、このあたりの詳しい事情は、日本語訳されたボンフェファーの著書を読むか、その筋の関係の方からお話をお伺いされるなりすると、良いのではないかと思う。
            ボンフェファー先輩

             

            そして、ボンフェファー先輩は、おそらく、ボンフェファー先輩なりの骨身にしみた聖典のテキストの読みの中から、そのような行動に関わっていったのだろうとは思う。

             

            ウェストミンスター大寺院の西側の壁の現代の殉教者の像
            https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Westminster_Abbey_-_20th_Century_Martyrs.jpg から

             

            逃げるは恥だが役に立つ・・・メノー派の人々
            ところで、前回も少し触れたが、言語によるコミュニケーションが成立しない場合がある、そうなると、暴力に対抗するには暴力を持ち出すか、その暴力から逃げるしかないのである。前者の場合は、まさに暴力的コミュニケーションとなるし、後者の場合は、暴力の発生源からあえて距離を置くことで、これまた、神の被造物である自分自身を、暴力的なコミュニケーションの原因者と距離を置くことで守るしかないのである。これについては、大頭さんが、焚き火本の中で、106ページから107ページで書いているアーミッシュの話(とはいえ、あれも、MBの田中先生が関西凸凹神学会2年ほど前に、お話になったときのネタがその起源だとおもうが・・・「なんで知っているのか、って?」ミーちゃんはーちゃんもその場にいたからである)のが参考になるかもしれない。

             

            逃げるは恥だが役に立つ のCM

             

            ところで、アーミッシュの先人たちは、たしかに大頭さんが書くように、殉教をした人々も多数いたが、アーミッシュの先人たちは、殉教者を大量に出すと同時に、殉教をもたらす暴力が近づいたら、鳥が台風が近づくと安全な領域に逃げ出すように、被害を避けて逃げ出したのだ。そして、逃げ出していった先がペンシルヴェニア州の現在アーミッシュがいる地域であり、その地域で定住したのだ。これは大事な話だが、大頭さんは何故か書いていない。実に残念なことである。

             

            その意味で、問われるのは、現実世界について、聖典に対してどう問うのか、聖典と現実世界の観測に基づいて、自分たちが、そして、自分たちの行動をどうしたらよい、と考えるのか、ということなのだろう。このことは、古代からも現代に至るまで、聖典を取り組むものに問われているのではないか、と思うのである。

             

            次回へと続く

             

             

             

             

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            コメント:ボンフェファーに興味が深い方の著作

            2017.06.17 Saturday

            『テロ(戦争)と聖書と神』のための基本理解(1)

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              この企画に望むミーちゃんはーちゃんの思い

              まぁ、ポスターは、Provocativeでないとインパクトがないので、インパクト重視で作ったが、個人的には、この企画、かなり真面目に取り組むつもりである。どうせやるなら、真面目にやらないと面白くないではないか、と思っている。ふざけている。この時期に何だ、と顔を顰める人も、眉をひそめる方もいるだろう。それはそうかもしれない。そして、ぜひ眉をひそめるなり、顔をしかめるなりしてほしい。それが、言論の自由が保証された世界だから、である。

               

              ところで、この企画の企画段階で、思いつきのようにテロを持ち出した人物が誰かは、もう、このブログ読者の皆さんならお察しのこととは思う。ただ、それにミーちゃんはーちゃんが乗ったのは、この問題は、聖書理解の観点から言っても、現代において避けて通れない重要な問題だからであり、それを、真剣に語り合う必要があると思っているし、その価値があると思っている。やる以上は、きちんとしたい、というのが正直な気持ちである。それが、参加者の皆さんにとって、どの程度興味深いと感じられるかは別として。

               

              ただ、2時間では語りきれないので、ここに、基本的な理解は書いておく。誰も読まないと思うけど。いつものように長いので。

               

              暴力と暴力装置を介したコミュニケーション

              戦争でも良いし、テロでも良かったのだが、実は、この現在の状況下において、戦争とテロとの両者の間は明確な差があるようで、現実のリアルの世界では、ほとんど両者の間に差がなくなっているのが現実ではないか、とは思う。以前ならば、テロは要人テロに限られたが、今は一般人が被害者になる例が多い。被害者がだれか、という意味でも、テロも、戦争も、あまり変わらなくなっている。特にコミュニケーション論の観点から見れば、実は両者は構造として、かなり類似しているのである。それは、恐怖を介したコミュニケーションだからである。

               

              戦争が暴力装置を介したコミュニケーションであることがよく出ているのが、映画『13Days』のマクナマラ国務長官(当時)とガチの職業軍人である海軍長官の間についてのワンシーンである。このシーンは純粋な創作なのかもしれないし、実話か実話に基づく創作なのかもしれない。それはわからない。作り話であるにせよ、しかし、コミュニケーション論的な観点からこのシーンを見ると、これが何より印象的なのだ。

               

               

              映画『13Days』から マクナマラと海軍長官の論争のシーン

               

               

              テロってなんだっけ?

              テロとは、そもそも、近代世界が作られるエポック・メイキングな事件であったフランス革命時代の恐怖政治に由来する。人々を恐怖させることで、ある特定の主張に無理矢理に従わせるという政治体制が執り行われる中で、その恐怖政治を指してテロルと読んだのが、そもそもの起こりである。

               

              フランス革命というと、レ・ミゼラブルの美しい世界が思い浮かぶ人も多いだろうが、その実は、かなり血なまぐさいものであった。確かに、すべからく革命というものは血生臭いものではあるけれども。その意味で、宗教改革も革命の要素を持つので、結構実態としては、実に血生臭いものも含むことは、宗教改革500年だからこそ、今年は覚えたほうがいいだろう。フランス革命が血なまぐさいものであったことは、現在もなお、フランス国歌であるラ・マルセイエーズの歌詞が何より雄弁に物語っている。

               

              レ・ミゼラブル の 日本語予告編

               

               

              初音ミクによるラ・マルセイエーズ(日本語訳詩つき)

               

               

              フランス革命とテロ(テロル)

              このあたり、ジョセフ・フーシェやロベス・ピエールなどが、混乱を収集するためとは言え、物理的暴力を持って、人々を支配し、自分たちの重いのまま動かすために、暴力とそれに対する恐怖を起点に、政治行為を執行したことにテロ、ないしテロルの由来があることは、先にも書いた。現代ではテロというと、ある程度広く一般市民に被害を及ぼすような物理的な暴力である爆弾事件や、911のような一般市民生活を脅かすような暴力行為のことを一般にさすが、本来的には、人々の正常な感覚を麻痺させ、恐怖で縛ってしまう(聖書的な表現を用いるなら、恐怖で人々の心を捕囚する)行為のことをいう。2002年7月から2003年7月まで、米国のそれも超脳天気なカリフォルニア州に滞在したが、その時期はあのカリフォルニア州であっても、911テロ事件が引き起こした米国人の正常な感覚の麻痺を感じた。そして、危険レベルが、毎日変わり油断も隙もない状態というのを経験した。あの時、アメリカはまさにアメリカ合衆国の国土内で戦争をしている、という雰囲気であった。

               

              ジョゼフ・フーシェ

              https://fr.wikipedia.org/wiki/Joseph_Fouch%C3%A9 から

               

              ロベス・ピエール https://fr.wikipedia.org/wiki/Maximilien_de_Robespierre から

               

               

               

              忘れもしない2012年の8月末の海外からの訪問者を集めた大学のオリエンテーションで「君たちは、どこに行くにもパスポートを持っていきなさい。と言うのは、ロスアンゼルスのダウンタウンで、金髪碧眼のスカンジナビア諸国出身の女子学生が、話している英語が変だということでテロリストの扱いを受け、3日ほど警察に拘留された事件があって、その女子学生の開放に非常に手間がかかったのであり、我々は最大限努力は惜しまないが、それでも、そういう不愉快な事態未然に防いでほしい」と事務の責任者からのっけに宣告され、あぁ、この国は、臨戦態勢に入ったんだ、ということを強く感じた。そして、マンザーナというカリフォルニアの地名とあの荒涼な風景が目に浮かんだ。

               

              マンザーナの強制収容所での日系人の生活のワンシーン

              http://yosemiteblog.com/2010/07/06/ansel-adams-at-manzanar/ から

               

              そして、英語がまともに話せないだけで、敵性外国人って判断されるということになったのだから、この国は以前とは変わった、と感じた。そうこうしているうちにブッシュが宣戦布告をテレビで国民に語るのを現地時間で時差なしに見ることになった。そしてこの国は、本気で正気を失うほど怒りに狂っている、と心底感じたのである。

               

               

              War on Terrorともメディアが呼んだ、対イラク戦争の国民への通告(Announcement)

               

              アメリカは西側先進国で、ほぼ唯一と言っていいほど、従軍者以外の一般市民が戦争被害にあってこなかった珍しい国の一つである。たしかにハワイで戦艦を攻撃された(開戦通告が遅れたために、だまし討の格好になった)ことをいまだに言われる。12月の最初の頃は、小学校でボランティアをしていても、実に肩身の狭い1週間であった。

               

              対イラク戦争中の厳しい雰囲気

              ミーちゃんはーちゃんの息子が通っていた当時の息子の小学校の担任の先生は、ガチ勢と言って良いタイプの英国系米国人のクリスチャンであったし、そこにインターンとしてきていた研修中の教師(教育実習生だが、半年くらい共同で授業をしていた)もガチ勢に近い米国人クリスチャンで、家内は英語の勉強を兼ねながら、そこでボランティアをしていた。「3人のクリスチャンが公立学校でそろうとか、って珍しいよねぇ」という話もあったらしいが(カリフォルニアの公立学校の現実はどうもそうみたいである)、割りと、ピーカン脳天気なカリフォルニアであっても、割りと自由で、ヒスパニックの人々も普通に混じっている民主党支持層が多い地域ではあったが、職員室とかの公の場では、戦争反対とかはおろか、戦争のことを話題にすることすらできない雰囲気が漂っていたのである。

               

               

              教会に行っても、半年に2回だけではあるが、特段教会員で、戦争に行った若い信徒がいたわけではなかったが、戦地で従軍(これまたServiceと呼ぶ)している兵士のために祈ってから、礼拝(Service)が始まった日があった。軍のプレゼンスが日常生活でも強いのが米国の特徴であると肌感覚で知った。

               

              同じスモールグループに、空軍の退役将校(将官クラス)や海兵隊の退役軍人(工兵)もいたので、あぁ、教会もこうなるんだなぁ、と現実を前にして、当時はちょっと違和感を持ったこともたしかである。平和ボケしていたところに、アメリカ人とアメリカ社会に割りと普遍的に生身の暴力性が紙一重で存在しているのを見て、当時は、かなり当惑していた。そのことを、書きながら思い起こしたのである。その意味で、2002年頃のアメリカ合衆国滞在中には、暴力的コミュニケーションが起こしたろくでもない事態の渦の端っこに個人的には直面した。

               

              そのように大きく変わったアメリカ社会を見ながら、911のテロリスト達は、アメリカ人を思考停止させ、アメリカ合衆国を理性的コミュニケーションから、暴力的コミュニケーションにフェーズを移行させるという意味では、成功したといえるように思う。

               

              暴力的コミュニケーションとしてのテロと戦争

              テロの語源となった恐怖政治もコミュニケーションであるし、その意味でテロもコミュニケーションであるし、戦争もコミュニケーションであると同時に外交もコミュニケーションである。親切も愛もこれまたコミュニケーションである。要は、相手の行動変容につなげるのに、どのようなものを用いるか、ということが違うし、そして、コミュニケーションにおいて、用いるものの後々までの影響がかなり違うようなのである。

               

              戦争にしても、テロにしてもコミュニケーションなのだ。どのレベルでやるか、どのようにやるか、どのような規模で、何を使用してするかが違うだけであり、暴力でやるコミュニケーションという意味においては、効果においても実態においても、テロも戦争も結果的には変わらない。特に第1次世界大戦以降、一般市民が戦争に巻き込まれることになった。国民全部を巻き込んだ総力戦になり、人口を含めた国民国家のすべてのシステムを総動員するタイプの戦争になった。その結果、一般市民の被害はある面で当然視されることになる。

               

              特に第1次世界大戦では、フランス、ドイツ、大英帝国の両国は、完全にその総力戦の被害を受ける。ドイツと大英帝国、ロシアなどの支配者層は親類同士であるものの、それが国民を巻き込んだ無益な消耗のみをもたらしたのである。その意味で、非戦闘員が巻き込まれるような近代戦は、それが職業軍人(戦争のプロフェッショナルとしての雇われ軍人、傭兵)同志の敵と味方に分かれての戦闘行為ではなく、一般人を巻き込むのが当然になってしまった。プロ同志なら、お互い命を取り合ったら、商売上がったりになるので、その辺手加減して動くことになるのが、アマチュアの場合、この辺の加減を知らないから、バランスを失ってひたすら激突することになる。

               

               

              ところで、なぜ、暴力的コミュニケーションになるかということを考えてみれば、言葉が通じない、言葉がほとんど無意味になっているという世界が存在していることでもあるし、理性が通じないという世界になってしまった、ということなのかと思う。その意味で、バベルの塔は、ある面で祝福であったが、かなり呪いの側面が強いと思うのだ。相互に言葉が通じないとなると、あとは、モノ(金銭を含む)か暴力だけしかコミュニケーションの方法は、現実的に残っていないことになる。

               

              ナウエンは、The way of the heartの中で、キリスト教世界でも、牧師や司祭ですら、現代社会の中での言葉の無効さ具合に現在打ちのめされているし、絶望していることに繰り返し触れている。そして、世俗社会の中で、言葉が溢れる世界の中で、ことばのインフレが起こり(特に広告業界)、言葉が価値を持たなくなっていることを同書で指摘している。それだけ、言葉が軽いというこの現実世界の普段は意識しない恐ろしげなる現実がテロや戦争という形で現れているのだと思う。

               

              イスラエルとパレスティナの壁と両者の共存

              従来、テロといえば、中東、特に、イスラエルとパレスティナの間で起きているものとしてしか理解されてこなかった。それだけ、その地域での混乱が激しかったからである。

               

              1年くらい前、第3回冥土喫茶ぴゅあらんどのゲストが、現在のイスラエル、テルアビブ在住の旧約学者のレヴィ先生がゲストだったときのイベントで、ガザ地区の壁のお話が、個人的に今も忘れられない。

               

              というのは、ガザ地区の住民やパレスティナ自治政府と融和的な政策を取っていた、リベラルというのか、自由、博愛、平等ということを重視しようとした理想主義者だった政治家が、度重なるテロの被害の故に、とうとう、現実的になって、より平和的にイスラエルとパレスティナがある程度平和的に共存しあうためには、適当な距離を取って共生することしかないということになり、両者の分離政策や分断政策を嫌っていた政治家自らが、ガザ地区との間に壁を作る政策を主導的役割を果たしたという、なんとも情けない実態があったらしい。

               

               

              ガザ地区の壁

              http://www.presstv.com/Detail/2016/09/07/483652/Palestine-Israel-Gaza

               

              こういう話が聞けるから、冥土喫茶ぴゅあらんど参りはやめられない。このガザ地区の壁の周辺事情が指し示すように、理念だけでは世の中上手くいかないのである。

               

              なぜ、警察官は武装するのか

               どの国でも、何らかのかたちで警察官は武装する。この警察官が武装するのか、ということは、重要である。パウロの剣は警察権、治安維持活動のための武装としての剣という解釈もあるらしい。この辺はこのあたりの神学をプロパーでしているわけではないのでよくわからないが。

               

              なぜ、軽武装することが警察官に認められているかというと、話しても通じない、分かり合えない状態も生まれるからである。「話せば分かる」と言った戦前の大政治家がいたが、その大政治家はそう言っている先から、武装した軍人に暗殺されてしまったのである。世の中には、心と頭が固まってしまったり、あることに捕囚されたりすると、めんどくさくなるのか、人間、神のかたちとしての機能が停止するのか、すぐ安易な暴力に訴える人々が出てくる。実に残念なことであるが。そういう意味で、我々はカインの子孫でもある。

               

              そういう理性やこころや言葉が通じない場合に最後のコミュニケーション手段として用いるために警棒だったり、棍棒(米国沿岸警備隊の常用武装)だったり、ハンドガンだったりを警察官に支給するのである。そして、あまりに相手が常軌を逸していたWakoの基督教のカルトであるブランチ・ダビディアンのようなキリスト教徒とはいえ、重武装し、マシンガンを連射するような相手の場合は、重武装して、装甲車を導入してでも、この不幸の連鎖を防ぐのが、市民の安寧を保証する法と秩序を維持するための組織の宿命なのだと思う。

               

              Wacoでのキリスト教系カルトがFBIなどの法執行組織と銃撃戦を繰り広げたブランチ・ダビディアン事件

               

              通常よりやや重武装の通常仕様のロンドンの警察官
              http://www.dailymail.co.uk/news/article-2166111/Police-bust-Romanian-gamblers-double-decker-bus-Westminter-Bridge-London.html

               

              重火器で武装するロンドンの警察官
              http://www.whenthenewsstops.org/2016/01/london-met-police-to-train-600-extra.html から

               

               

              そして、治安の回復のためには、治安維持当局が根性入れて治安を回復させようとすることを示すために、英国では、警察の重装備の警察官部隊を動員する。アメリカでは、治安出動は、州軍の役割とJurisdiction(法治権の及ぶ範囲)が決まっているので、それぞれ状況に応じて動員がかかる。

               

              ファーガソン暴動で動員されたミズーリ州軍

               

              たしかに、イラクとかアフガニスタンに現在派遣されているのはアメリカ軍でもあるが、それはアメリカ陸軍本体というよりかは、より正確にはアメリカの州軍(これがアメリカ軍の一部になる、という構造になっている)であり、彼ら州兵が、イラクに展開させられているのは、彼らが本来的に治安出動を担っている組織だからである。

               

              ただし、アメリカ人は、州軍による出動なので治安出動だとは思っていても(思い込んでいても)、現地人にとっては、そんなことは知ったことではなく、米陸軍兵士と、州軍兵の厳密な区別がついていないために、イラクの諸国民にとっても、アメリカ合衆国国民とアメリカ合衆国州軍と州軍兵にとっても、悲惨なことが起きているように思えてならない。

               

              公民権運動の紛争で、当時のアラバマ州知事ウォレスに対し大統領令によって、州知事を大学キャンパスから強制的に排除することを告げる司法省職員時代のカッツェンバックとその後に出てくる州兵の長

               

               

              次回、テロ(戦争)と聖書(聖典)、次々回テロ(戦争)と神(神のようなもの)の関係について

               

               

               

               

              評価:
              Array
              David C. Cook
              ---
              (2013-08-01)
              コメント:かなり参考になった。

              2017.06.17 Saturday

              小島聡著 『ヨハネの福音書 と夕凪の街 桜の国』について思ったこと・・・(下)

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                前回のご紹介に引き続き、今回も小島聡さんの『ヨハネの福音書 と夕凪の街 桜の国』について、思ったことを述べてみたい。

                 

                近代戦と総力戦と国民の悲劇

                近代における画期的な出来事の一つは、いわゆる近代戦の登場であり、近代国家にとっての戦争の多くは、国家と国家、国民と国民の間の総力戦になったということである。近代以前の戦争は、戦争とは言うものの国民全員を巻き込むという形での総力戦ではなかった。戦争屋ともいうべき傭兵ないし、職業軍人による戦闘行為によって、どちらの国力が強いかを明らかにしようとするものであった。そのために武器が作られ、職業軍人は、職業軍人同士で戦場で戦ったのである。

                 

                しかし、古代においても、王権が成立するまでは職業軍人というものは存在せず、領域争いは村人と村人、自分たちの権利の確保や、自分たちの権利を蹂躙する強盗団や誘拐する拉致集団への自営的戦闘であったのではないか、と思われる。イスラエルの民がそれでも王がほしい、とねがったときに、神はサムエルを通して何と言い給うたか、そして、民はどのように主張したか、というと、こうであったと聖書は記述する。

                 

                【口語訳聖書】サムエル記 上 8章4-20節

                イスラエルの長老は全員集まり、ラマのサムエルのもとに来て、 
                彼に申し入れた。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください。」 
                裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った。 
                主はサムエルに言われた。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。 
                彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。 
                今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい。」 
                サムエルは王を要求する民に、主の言葉をことごとく伝えた。 
                彼はこう告げた。「あなたたちの上に君臨する王の権能は次のとおりである。まず、あなたたちの息子を徴用する。それは、戦車兵や騎兵にして王の戦車の前を走らせ、 
                千人隊の長、五十人隊の長として任命し、王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車の用具を造らせるためである。 
                また、あなたたちの娘を徴用し、香料作り、料理女、パン焼き女にする。 
                また、あなたたちの最上の畑、ぶどう畑、オリーブ畑を没収し、家臣に分け与える。 
                うの十分の一を徴収し、重臣や家臣に分け与える。 
                あなたたちの奴隷、女奴隷、若者のうちのすぐれた者や、ろばを徴用し、王のために働かせる。 
                また、あなたたちの羊の十分の一を徴収する。こうして、あなたたちは王の奴隷となる。 
                その日あなたたちは、自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶ。しかし、主はその日、あなたたちに答えてはくださらない。」
                民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。「いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。 
                我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです。」 

                 

                王など持ってもろくなことが起きないということをイスラエルの民にサムエルを介して告げさせて知らせても、イスラエルの民は王がほしいと強弁して、王を獲得する。最初の王であるサウル王は一見まともに見えたものの、嫉妬心に狂うし、尊敬をある程度今なお集めているエッサイの根のダビデ王であっても、ろくでもない王様となっていくし、時々賢い王様は現れるものの、それは至極少ないし、まともであっても権力の座に就いた結果、狂わない人はいない、ということの例証のようなリストが、歴代誌と列王記には、延々と並んでいるのだ。

                 

                割とのんびりとした古代であってもこのような状態である。巨大な殺戮のための道具を得た現代の戦争は、ものすごく悲惨な悲劇を数多くの戦争とは本来関係のない人々であるはずの人々に多大な影響を与えてしまう。もともとは、給料やボーナスをもらって戦争する、ある種、戦争屋とでもいうべき職業軍人、傭兵だけでなく、一般市民を巻き込んだ悲惨な総力戦にいやおうなく巻き込まれるようになったのが、近代戦の悲劇と言うか悲惨である。

                 

                戦闘が始まると見境がなくなる人間という存在

                人は、武器を持つと見境なくなるのは、古今東西万代不易の現実であり、そもそも、職業軍人として訓練されていても、見境なくなる時には見境なくなって、やってはいけないことをやるのだ。

                 

                そのあたりの微妙さを描いた、米軍の海兵隊の軍事法廷劇でもあるSamuel L. Jackson 主演Tommy Lee Jonesの出演のRules of Engagement(交戦規程)という映画があるが、

                 

                Rules of Engagement 予告編

                 

                まぁ、この映画は大きな問題を示しているのである。どこまで、職業軍人でないのか、どこからが職業軍人同士の戦闘なのか、ということを考えることが求められることになるのである。しかし、現在もなお、自軍の損害を最小化するための事前爆撃を多数行った上で軍事行動をとる事が多いが、それが顕在化したのが第2次世界対戦中のドレスデン空爆や、ゲルニカ空爆や、広島と長崎への原子爆弾投下である。

                 

                 

                ピカソのゲルニカの複製タピストリー

                https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AB_(%E7%B5%B5%E7%94%BB) から

                 

                近代を支配した時空間理解は、相対性理論や核開発などにつながり、そして、その原子物理学が生み出したのが原子爆弾である。著者は、現代の支配的な時間概念に対して、批判的である。そして、現代社会とその社会を縛っている支配的なその時間概念のもと生み出された原子爆弾の問題に対しても批判的な視線へとつながっているようだ。この原子力の問題は、本書のタイトルに含まれる、『夕凪の街 桜の国』のテーマでもある。

                 

                 

                諸力としての悪が人間を蹂躙し、そして、

                人間が神のものである人間を蹂躙するという悲惨

                諸力としての悪や罪の結果、神のかたちであるべき人間が、その神の似姿を既存させることになる。この諸力としての悪や罪が人間の中にあり、多くの人間そのもの、そして人間と神との関係、その結果としての人と人との間の関係が、ただでさえ傷ついているのに、更に、戦争や原子爆弾で、どのような人も罪や悪の支配下にはあるので、無辜の民とは完全に言い切れないかもしれないが、少なくとも幸せに非戦闘員としてのんびり暮らしている人々が、物理的に、身体的に、そして、精神的に更に破壊され、傷つけられる問題についての示唆を本書で試みられているようである。

                 

                 

                1年ほど前、本書の前段階の原稿について、お話ししたことがある。かなり読みにくい、何がおっしゃりたいのかわからないような、原稿であったことについて、著者の方とじっくり数時間に渡って話し合った事がある。その時に、問わず語りにお話になられた、ご自身の来歴も、この原子力の問題が本書が取り上げていることに影響しているかもしれない。ご自身はあまり明らかにしておられないようであるが、著者の小島さんは、原子炉材料の研究者でご活躍であったようだ。原子力の平和利用ということに貢献されていたのだと思う。しかし、平和利用のためとは言いながら、かなり危険性を含む技術利用の欠落、欠陥を、東日本大震災は示してしまった。福島の地は、いや、本来神の地であるはずのこの日本列島の大地、そして、太平洋という海洋、そして、福島の大地は、原子力で汚染されてしまったのだ。これは、研究者として、かなり厳しい反省を、小島先生に、陰に陽に与えていると思う。お会いして、このあたりのお互い、技術者(小島さんは原子炉材料の研究者であり、ミーちゃんはーちゃんは空間情報技術者)として、フランクなお話をしているときに、その過去の来歴をお聞きしたので、これは相当つらいかもしれないなぁ、と思ったのである。

                 

                 

                人々の幸福のためと思って研究しても、

                不幸を生み出すことになる、という如何ともしがたい現実

                人々のためと思って、一生懸命研究したことが関連する技術として構想したことのが、人々を苦しめ、傷つけるということは起きるのだが、それは、自分自身の技術者の基本的な概念にかなりグサグサとくるとは思う。この本には、そのへんの反省も含まれているのかもしれない、と思った。そして、本校の前の段階の現行では、それを少し感じた。ある面、意図はしなかったとはいえ、おきたこと、また、これまでなしてきたことに対する反省と告解の告白を、おおっぴらではないものの、どこかあちこちにそれを示した本でもあるのではないか、という印象をミーちゃんはーちゃんはもったのであった。

                 

                 


                その意味で、この本はある面著者の半生についての反省が投影された印象深い本であるように思う。

                 

                そして、小さな本ながら、時間の問題、人が人として生きる中で、どのように意識しなくても、人を傷つける可能性があるのか、に関する重要な示唆を多くのクリスチャンに与える本であるように思う。

                 

                その意味で、広く読まれること、そしてできる限り多くの若者に読まれることを期待したい。そのためにもできるだけコンパクトで読みやすい本として出版されたのであるから。表現がまだまだ固く、若干整理されてない、と思われている部分もあり、読みやすい本とは言い難い部分もあるようなきがするけれども。おそらく、それは著者が真面目な方であるために、ミーちゃんはーちゃんのようなマッドサイエンティストではないことに由来するのかもしれない。

                 

                 

                素朴にそう思う。良くも悪くも、日本の技術者のプレゼンテーションの下手さ加減が明確に現れた本でもある。

                 

                以上で本書についてはおしまいである。

                 

                 

                 

                 

                 

                国井 桂,こうの 史代,佐々部 清
                双葉社
                ¥ 1,296
                (2007-07)

                2017.06.14 Wednesday

                小島聡著 『ヨハネの福音書 と夕凪の街 桜の国』について思ったこと・・・(上)

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                  さて、ここまで、いくつか本の企画や雑誌などでは、書き手の一人として、関与してきたけど、そういうかたちではなく関わってきた本が出版されたので、その出版をお祝いし、ここでもご紹介してみたい。この本については、この本のミーちゃんはーちゃんの書評が次回の『本の広場』ででるが、そこにかききれなかったことを、その原稿の基本的な線をもとにしながら、もうちょっと書いてみたい。

                   

                  時間という次元をどう認識するか…

                  現代人にとって、時間とは、人間とは関係なく、あるいは他のものとは独立に、一方的に、それ自身のリズムで進んでいくというか、この社会を規定する次元の一つ、空間をX軸、Y軸、Z軸が支配するように、時間軸もこの社会を規定している次元の一つであるが、X軸、Y軸、Z軸のようなこれらの軸とは異なり、戻ることのできない次元として人間とその行動を規定している社会の軸として考えられていることが多い。現代人にとっては、先に述べたような社会や環境を考える上での、一種の前提となっている、過去から未来に向かって一方的に流れているという時間理解にある種チャレンジしている本ではある。たしかに時計の針は戻ることはない。それは確かだ。しかし、それは我々、人間の観察の限界であるのかもしれない、とは思う。ひょっとすると、X軸、Y軸、Z軸が、人間にとって、ある程度前後左右上下に自由に移動ができるように、時間軸も人間にとっては1次元のあるベクトルにそって、一定の速度で進行しているととらえているのは、人間の認知の限界であるかもしれないと思う。元同僚の数学者の友人なら、少なくともそんなことは考えそうな気がする。ミーちゃんはーちゃんですら考えるのだから。

                   

                   

                  実は過去との関連で生きている人間…

                  現代の我々は、ある意味で常識で縛られている。過去起きたこととは、ある程度、無縁に生きていると考えがちである。しかし、よく考えてみると、必ずしもそうではない。現代人の世界は、ある種時間断面が大量に集まった集合体として、ある時代の状況、現代の状況を考えているが、実はどうもそうではない。歴史性、少なくとも時間の連続性の上に我々の現在があるのである。現在の法律は、過去に作られたものである、現在の政策は、過去の出来事の上にできたものであるし、現代の人間理解は、過去の誰かの人間理解をちょっとづつ作り変えながら、できているからだ。

                   

                  哲学だってそうだし、神学だってそうだと思う。我々は、アウグスティヌスなしに神学を考えられないし、パウロなしに神学は考えられないし、ヨハネの記述なしに神学はできないし、イエスの存在なしに神学は考えられないし、イザヤが記述したとされることを無視して神学は考えられないし、ダビデの存在なしに神学は考えられない。それは、哲学でもそうだ、ギリシア哲学なしに現代哲学は存在しないのだ。なかったこととして始めることはできるけれども、それは非常に迂遠だと思う。大抵ある人が考えることは、すでにギリシア時代の先人たちが考えているし、自分たちが考える神学のようなものは、既に過去の人達もそれなりに考えているのだ。だからこそ、古典や過去の著作を読む意味があるのではないか、と思う。

                   

                  ところで、一方向的に、単調に進んでいくような時間管理をヘブライの民はもっていなかったようで、螺旋的に進行しながら、過去とある断面ではときに交差するようなかたちの時間理解をもっていたような気がする。この辺は、ヘブライ思想研究者の手島イザヤ先生にもちょっと聞いてみたら、そんな感じとも言えると教えていただいた。ありがとうございます。

                   

                  この本の本論とは関係ない話題はさておいて、その一方向的に直線的に進んでいく時間理解で聖書を読んでしまうと聖書理解が歪むことがある。少なくとも、その問題を、この本では、現代人と違う時間理解をもっている人びとの一人であり、そのうえで、ギリシア思想をかなり深いところで知っていると思われるヨハネが書いた、ヨハネの福音書を素材としてとりあげ、聖書が多様な重層的構造を持っていることを明らかにしようとした本である、という印象を持っている。

                   

                  ある言語とその背景にある何か…

                  ところで、言語、とくに外国語という対象について日本語から考えてみると、外国語を支えるなにか、というか、外国語の背景にある思想とか、文化とか、ライフスタイルとか、世界観とか、ものごとのみかたをある程度肌感覚で知っていないと、その外国語での表現が歪んだ物になってしまうようなきがする。英語で書くときには、英語で考えるという習慣がないと、意味自体は通じるけれどもなんか妙な表現になってしまうのである。外国人が日本語で話すときの窓ロッコさを感じるのである。他には、テレビの外国映画を見る時、う~~~ん、これ、ちょっと感じが違うんだが・・・と思うような翻訳に出会うこともある。昔自分が書いた英語の論文があるが、今見たら、「ぎゃ~~~」と叫び声を上げたくなるような文章だと、我ながら思う。

                   

                  聖書を読むときだってそんな感じである。誤訳とは言わないが、もともとの言語がもっていた感覚というか、雰囲気が失われているんじゃないか、って思うことが時々ある。特に思想的なもの、哲学を含む文章では、それを強く感じる。

                   

                  福音書はそれぞれ独自の味わいがあるのだが、中でも、ヨハネの福音書は、他の3つの福音書とは明らかに異なった味わいと手触りを持った福音書である。ヨハネの福音書は、ギリシア語が単に話せるだけではなく、その世界の哲学思想やギリシア語世界での、ものごとのみかたができる人物でありながら、ユダヤ人でもある人物であるヨハネが書いたようにしか思えない。

                   

                  古代ヘブライ的な重層性を持った福音書、そして、螺旋的に進行していく時間や過去の歴史との重なりをかなり重視し、重層的に表現しているようなきがするのである。まぁ、このゆにさらっと、書いて分かる人は、案外少ないのではないかと尾もう。この辺の関係というのは、案外理解するのが困難だと尾もう。なぜならば、現代は過去から未来に向かって一直線に線形的に進むと考えられているようだし(例えば、歴史の年表なんかがそういうスタイルでできている)、ガムやスマートフォンだって進化するらしい。個人的には仕様変更、仕様改善がなされたということなのだが、それを進化というあたりが、我々が、このような概念にいかに毒されているのかの何よりの証左だとおもう。

                   

                   

                   

                   

                  マンガを用いて、わかりにくい概念に挑戦している本

                   しかし、このようなことを、単にこれまでよくあるタイプのキリスト教書のように、理論的、抽象的に示したのでは、大人の一般読者、あるいは中高生くらいの若い一般読者には、理解が困難だろうなぁ、と思う。日本のキリスト教書は、ガイドブック的入門があって、後は、牧師先生方や、こういうのを読むのが好きな大人受けを目指して出版される。昔は、入門と専門の間の中間的な本や、小説仕立ての青少年向けのキリスト教書が数少ないながら存在したが、今は、出版事情もあるのだろうが、このような中間的な存在がない。となると、もう、中高生などに読ませる本がないのが実情なのだ。とは言え、このような聖書理解に関する内容は、重要な割に、助けがないと、容易に理解できないため、かなり思想的な文章であるヨハネ福音書などは、結構、自分にとって都合がよいように、拾い読みしているキリスト者は少なくないのではないだろうか。

                   

                  そこで、著者の小島さんは、『夕凪の街 桜の国』というコミック作品に着目し、そして、映画化された作品を引用しながら、それをメタファーとして、過去と現在が交差する状況、そして、螺旋的な時間の進み方、人間関係のつながり、ネットワークが存在し、それが生み出す歴史的重層性の中に生まれるものがあるということを示している。そのうえで、実は、聖書の世界は、そのような重層性が多数あることを示し、聖書自体が、ある種時間と空間的制約を超えたものであり、従来の直線的、線形的な時空間理解とはかなり異なる螺旋的な時間の中で、重層的な関係性のなかで、読まれ、話され、理解され、受け取られ、これからも受け取られていくものを示そうとした本である。

                   

                   

                   

                   

                  まぁ、こういうクロスオーバーとか、カットバックが利用された脚本には幾つかあるが、個人的に見て面白かったのは、Julie and Juliaとか、めぐりあう時間たち (The Hours)などがある。

                   

                  映画 ジュリー アンド ジュリア のワンシーン

                   

                  めぐりあう時間たち の予告編

                   

                   そして、近代を支配した、いわゆる科学的とされる、直線的で一方向な一定の時間の流れが小学校の社会科における教科書の歴史記述や、理科の時間記述から、社会一般の歴史理解に至るまで時間記述の支配的な概念となっており、その先験的な仮定に強固に支配されたままでは、創世記から黙示録に至る聖書記述が十分に理解できないのではないか、という重要な問題提起をこの本を通して、小島さんはしようとしている。

                   

                  従来のキリスト教書では、大人の用語で、専門家の用語で、かなり抽象的に表現することが多かったと思う。それでは、中高生や、若い人々は置き去りにされて行くことになる。この問題を回避すべく、比較的若者にも読みやすい題材であるコミック作品をも絡めながら、聖書を読むときに、現代社会を縛っている直線的、単層的、単一平面的な時間軸、空間軸で理解するのではなく、重層的な螺旋状の時間の進行と出来事の関わりと人間との関係が、現代社会においても十分意味あるものであり、特に聖書を読んでいくうえで重要であることを示そうとしている。

                   

                  次回へと続く

                   

                   

                   

                   

                  評価:
                  小島聡
                  ヨベル
                  ¥ 1,080
                  (2017-06-01)
                  コメント:ヨハネ福音書と夕凪の街 桜の園 を素材に使った聖書の世界へのガイドブック

                  2017.06.12 Monday

                  『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その4(宗教改革500年の年に…)完

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                    さて、今回で悪役レスラー篇も第4回である。なぜ、この『焚き火を囲んで聴く神の物語』の応答で、場外乱闘気味の応答の文章を書いたのか、場外乱闘しているように見える羽目になったか、ということの弁証(言い訳、説明)を少ししてみたい。

                     

                    書式でもはみ出した大頭さん

                    この本で、確かに主著者の大頭さんの悪行三昧を、悪役レスラーのマイクパフォーマンスよろしく悪口大会をしたか、というと、この本では、たしかに、あまり悪行三昧の跡形が残っていないのではあるけれども、元になった雑誌の段階では、文章の途中でフォントサイズは変える、やたらと脚注がある(それも小さい)…というD.T.P.の版下作成の人にとってはあまりに面倒くさいため、美味しい仕事ではない(さらに、出版社にとってはコストアップ要因)ような原稿となったと思っていたからである。基本、ミーちゃんはーちゃんは技術者でも在るので、これは、あまりに酷い、と思い、それこそ場外乱闘だ、と思ったのである。だとすれば、こういう場外乱闘には、それにキチンと応答して差しあげるべきだなぁ、と思ったのである。大頭さんが、従来の神学系の書籍や雑誌のスタイルにおいても、枠外からはみ出てきていると感じたので、そこはそれ、悪役レスラーらしく「そんなもんあかんやんか」と言ってみただけなのである。

                     

                    神学のリングは、本当はどこか

                    牧師しか行かなようなところに、平信徒としてフラフラ出没(まぁ、昔は牧師の真似事のようなこともやっていたので、研修のためと思って参加し、牧師の関連業界を割りとそばで見る機会を作ってきたが、元いた教会から、暫く来るなと言われたのをいいことに、教会巡りをしはじめ、今は、聖公会の出島のような教会に寓居するようになり、牧師の真似事もしなくて良くなったのでそろそろ、このような牧師関連業界とのおつきあいも、もうそろそろ、やめてもいいかなぁ、と思っている。趣味としてする分には、あまりお金もかからない割に面白いので、もうちょっと付き合おうか、と思っている。

                     

                    ところで、この本の素材になった雑誌の連載で、理念的なことを理念的な言葉で語るのが定石であったこの種の雑誌のスタイルを破る形で、つまり、牧師が自分の理解をまとめて、牧師に語るというスタイルで書くのではなく、信徒たちにも考えてほしいと思ったのか、連載の段階で、神学そのものを抽象化・結晶化して語るのではなく、神学を生み出した過去の神学者について語るのでもなく、妙なことをし始めたなぁ、と思ったのである。そして、信徒にもこの世界の幅広さ、奥行きのようなものがあり、その面白さの一端を味わってもらおう、と書いているのかなぁ、と聖なる誤解をしたので、「おお、そこまで挑戦状を信徒に突きつけるか」それならば、信徒として、主に、社会の学問の側に足場をおくものとしての哲学的反省(パスカルの意味での反省、深く考えること)から応答するのが、私の役割とおもったので、やや場外乱闘気味にやって見せたまでのことに過ぎない。

                     

                    この連載の最初に書いたように、神学は教会の学であるとはいうものの、それは、信徒がきちんと聖書を読み込んで、神のみ思いが天において実現するように、地においても実現するための道具というか、存在となるようにすることが本来の神学の役割ではないか、と思っていたからである。神学のための神学ではなく、信徒が、この世界において、神のみ思いを聖書から知り、神のみ思いに関わる、神のみ思いを馳せるために信徒の方々とともに考えるためのものが、神学だと思ったからである。その意味で、信徒に仕えるためのものが神学だろう、とミーちゃんはーちゃんは思っている。

                     

                    その意味で、神学の本当のリングは、信徒の生活であると思っている。信徒の生活の場において、貢献するのが神学の真骨頂であるとは思っているし、その意味で、神学は同時代性とある種の時代生を反映したものにならざると思えないし、過去の神学者たちの生み出した思潮も、結局は、固定されたものではなく、ダイナミックなものであったのではないか、と思っている。

                     

                    信徒に仕えるための神学

                     しかし、学である以上、業界用語、あるいは、ジャーゴンとよばれるものが出てくる。大抵、これが理解できないとある特定の学の世界に触れることはかなり難しい。それが、本来、多くの人々に仕え、多くの人々の生活に貢献し、その成果を伝えるための学として出発していても、結果的に専門家の学になってしまうゆえんである。

                     

                    この辺は世俗の学の世界でも全く同じで、ある学問の隣接の学問分野に行くためには、ある程度時間をかけて、その世界固有の言語を学ばねばならない。同じ日本語であっても、驚くほど、ことばが違うし、同じ語でも用法が違うことがある。これで戸惑ってしまうのだ。つまり、ことばにそれぞれの分野ごとに独自の手垢、あるいは、味わいがついており、その手垢や味わいを無視して、ある言葉を使うことができなくなっている。神学でも全く同様である。

                     

                    このある業界の用語の手垢というか味わいの部分と、ある学問をするために知っていなければいけないことの多さが、学問から人が遠ざかる理由であるので、それを、なくそうとして大頭さんは書いていることはわかった。そのような態度のことを大頭さんは、神学ジャーナリストという言葉で表しているが、それはちょっと本職のジャーナリストとして、いいのだろうか、とは思う。確かにテレビに出てくるような、自称ジャーナリスト、あるいは、テレビ局がジャーナリストとラベルを貼り、ありがたがっているような人には、その後発言を聴く限り、この人あまりまともに勉強していないのではないか、と思われる人も交じるが、マジメな学識に基づいて仕事をしているジャーナリストの方のほうが、実は多いとは思うのだ。

                     

                    ジャーナリストとは、何かというのは、これまた難しい話であるが、学術誌がJournal of Political EconomyとかInternational Journal of Systems Scienceとか言うように、もともとものをきちんと書く人が書いたものが載る定期的に発行される媒体が、Journalの本来の意味に近いのだとすると、大頭さんがご自身を神学ジャーナリストとしておられるのは、学術雑誌(多分)にも何点かは書いておられるから、そうなんだろうなぁ、とは思う。なお、ミーちゃんはーちゃんも、最近も共著ではあるが、こういう学術誌には論文を寄稿してはいる。このブログに駄文を書いていることだけをしているわけではない。神学系の学術論文は今のところ、書く気はないけど。数理系の実証分析系の研究が中心なので。

                     

                     

                    Journal of Political Economy の表紙 https://library.idfr.gov.my/index.php/en/journals/1229-journal-of-political-economy-april-2015.html から

                     

                    International Journal of Systems Science
                    http://explore.tandfonline.com/page/est/tsys-international-journal-of-systems-science-editors-choice

                     

                    余談に行き過ぎたので、元に戻すが、信徒が生きているのは、過去の神学的理解が成立した世界ではない。日本に持ち込まれた欧州や米国の神学的文化コンテキストと違う世界である。だとすれば、単純に何処かでできたものをそのまま持ち込んだのでは、一部の特殊な人はそのまま受け取れるかもしれないが、大抵の場合、そのまま受け取ったのでは消化不良を起こしてしまうことは言うまでもない。

                     

                    真理を追求しているはずの哲学の世界でも、哲学的思惟や哲学の理解は一つではない。なぜ、そうなるかというと哲学が対象としている人びとの思想や理解の世界が常に変動しているからであり、哲学も時代と人々が生きる社会からしか生まれないのではないか、と思っている。そして、ある学問は、他の学問に影響を与え、そして、また別の概念が生まれてくる。どうも、神学もそうではないか、とおもう。いま、牧師先生方の神学会などの集まりや、キリスト教の関連学会にもちょこちょこ顔を出していて思うのは、神学の中だけを見て居られ(もう少し言えば、アメリカの神学の世界での動きだけを見て居られ、というのは少し言いすぎかもしれないが)、世俗の学に目配せして、世俗の動きも日本やアジアという空間に軸足を起きながら、なしておられる方がどの程度おられるのかなぁ、と素朴に思うことがある。

                     

                    大頭さんが、平信徒のミーちゃんはーちゃんにあえて、対論を頼んできたということは、世俗の神学というリングの中なのか、象牙の塔なのか、金字塔の中なのかは、よく知らないが、信徒の生きている世界は、そのような狭い枠内や領域で終わっていないはずなので、神学という限定された枠内(公共圏)では収まらない世界に生きている人間の立場から対話を求められたということは、神学というやや狭い対話のための空間や領域(これを、ハーバマスという人は、公共圏と呼んでいる)という枠内に留まらない対話のための空間や領域での対論を頼んできたということなのだなぁ、と思ったので、それに応答したまでである。

                     

                     とはいえ、いきなり、マジで、世俗の学の世界の概念であるシステム論とか、科学思想の歴史理解とかからかい始めると、人は読む気なくす(これは、授業している時に経験済み)ような気がしたので、最初は、軽く自己紹介がてら、大頭さんとの関係を書いて、ちょうど、ボクシングの試合の前に記者会見でボクサーがやるように、そして、観客を巻き込むために悪口大会をしたのである。そもそも、当初のヨベルからの依頼原稿の文字数は、7000字である。楽の世界からの応答として、世俗の学の発展の歴史的経緯などは書けなくはないにせよ、かなり荒っぽい議論になる。とすれば、どうせ与えられた資源ならば、面白おかしく、リングに上る前の記者会見のように、悪口を言ってみるほうが面白そうだと思ったし、そのほうが読者というか、ギャラリーも面白がるのではないか、と思ったのだ。

                     

                    売上を確保するための販売協力として

                    スポーツ新聞とかいう駅売りの新聞や、タブロイド紙と呼ばれる夕刊だけしか発行しない新聞があるが、駅の新聞販売スタンドでそレラの雑誌やタブロイド紙のトップ見出しにあふれているのは、バトルのことが多い。こういう揉め事は、スプリングセンテンスと呼ばれた、文藝春秋や、週刊新潮とかの見出しに多い。あまり、こういう週刊誌の広告がついていない電車にのることが多いので、時々、出張で山手線とか中央線とかに乗ると、「え、こんな広告するんだ」と思うようなどぎつい広告を見ると、目のやり場に困ってしまうことがある。女性誌だって、男性誌や一般誌とくらべても決して負けていない。

                     

                     

                    週刊女性 中吊り広告  http://blog.8bit.co.jp/?p=6457 から

                     

                    なぜ、こういう広告をするか、揉め事に関する記事が大量に記載された広告をするかというと、売れるからである。揉めている方が売れるのである。だからこそ、あえて揉めているようなことを書いておくと、それだけで本が売れるのではないか、と思ったのだ。ある面で、あの文章は本を売るための方策である。なにせ、キリスト教書は、あまり売れないのだ。だとすれば、筆者としても、売れるための工夫を少ししてみようと思ったのためである。

                     

                     

                    世紀の揉め事であった宗教改革

                    今年は、宗教改革から500年を迎える。今では500年も経ったので、それなりに固定化されてしまったが、宗教改革とは、動乱であったし、庶民の熱気をも受けた当時の一大ムーブメント、ブームであったのだ。固定化した当時の教会の姿、抑圧される領主や庶民、国家(と言っても今の近代国民国家ではなく、都市国家と国民国家の中間的な存在の国家政体と一体化したような教会の姿に対して、庶民の渦巻く情熱の高まりの中で、ちょこっと文句を言ってみた、というのが、そもそもルター先生がやったことであり、それは、当時の教会(カトリック教会)をディスってみた、あるいは学術系の言葉を使うと、批判してみた、ということだったのではないか、と思うのだ。

                     

                    まさか、大爆発を狙って、生命狙われるようなことになるとは思っていなかったようである。それが、カトリック神学という閉鎖空間の中で、あるいは、限られた人たちの神学公共圏で行われている限りは、現在知られているかたちの宗教改革にならなかった。ルターが当時の庶民、農民や領主階層といった社会の様々な階層の人々の渦巻く不満とマッチしたからこそ、ヨーロッパを大激動の海に巻き込んだのだと思う。一大事件になったのである。彼がしたのは、当時のカトリック教会をディスった紙を、大学の掲示板である教会の門にみんなが教会に来る日のAll Saints Day(全ての聖人の日)にぶちつけたことだけである。

                     

                     

                    この宗教改革の例のように、改革というよりは、大変革、革命のようなものとは、最初はほんの僅かのことで起きるのかもしれない。ルターの前にも、フス先輩や他の先輩方も居られたのだが、どうもタイミングが合わなかったらしく、ヨーロッパ全体を巻き込むかたちにならずに終わっている。大きな波になるかどうかは、どうもタイミングが重要なのかもしれない。

                     

                    初参加した「いのフェス 2011」の記念すべきポスター

                     

                    宗教改革が、大騒ぎになったのは、それがエンタメ要素満載だったからであろう。エンタメ要素があったからこそ、社会の多くの人々がみんなじっと、ルター先輩の動きを見ていたのだろうし、そして、当時のルターが生きた時代の人びとはそれに巻き込まれ、関与していったのではないか、とは思うし、それが、社会の大変動期にあった社会に結果として大変動をもたらしたのだと思う。

                     

                    エンタメこそが正義などというアホなことは言わないが、今の日本の福音派系キリスト教界、あまりに真面目でお行儀が良すぎで、良い子ちゃんが多くて、エンタメ要素がなさすぎのような気がする。そら、お行儀のよい、良い子ちゃんたちのよいこちゃんのための、良い子ちゃんによる信仰という側面が在るのは確かではない化、と思う。だからといって、無意味に不良ぶってみたり、過去の黒歴史を誇るために良い子ちゃんが本当はない話を持ち出すのは、もっとおかしいが、素朴に考えて、「そうでないんじゃないか」と思うことはそうでない、ともっと正直に、フランクに言ってみたほうがいいのではないか、と思うのである。

                     

                    良かったかどうかは別として、カトリック教会に向かって、ルター先生は、かなりの悪態ついている。え、こんなこと言ったの、と言いたくなるようなかなりひどい悪態もある。その意味で、ミーちゃんはーちゃんの悪態は、とりあえずは、大頭さんが言ってきためんどくさいお願いをネタあたりを最初のきっかけにしながら、今の信徒のためとは、ミーちゃんはーちゃんには、ほとんど思えなかった日本の福音主義関係の先生方のご議論の現状に対して、「それ、ちょっと狭い世界に凝り固まってませんか」「ブログでもなんでもいいからさ、もちょっと、信徒の世界にも出てきてくださいな」と言いたいがためにちょっと悪態をついて挑発してみた、ということである。その意味で、愛のある悪態でもある。挑発したら、4人の先生方が庶民向けにブログを書き始めた。一発目はあまり庶民向けとはいえないけれども。まずは成功である。とは言え、まだ、なかなかちょっと高踏的であるので、もうちょっと庶民よりにしてほしい気はしているが。

                     

                     その意味で、この本が、当時のカトリック教会に悪態をついたルーテル先生の宗教改革から500年に出たという意味は大きいと思うのだなぁ。これが。その意味での記念論集としての価値の幾ばくかはありそうな気はあるようなないような・・・そう言ってしまうと、単に遊んでいるだけにすぎないものとしては、ちょっと大げさではあるが。

                     

                     

                    以上で、悪役レスラー編は終わりである。

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                     

                    2017.06.10 Saturday

                    『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その3(人を人らしく、教会を教会らしく・・・)

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                      さて、ここのところ、プロレスでいえば、反則技すれすれ、水谷尊師のお好きな野球でいえば、暴投気味、内角高めギリギリといえば、聞こえはいいが、実際には、あわやビーンボールともなりかねない危ういところを突いた記事ばかりで恐縮であるが、今日も気を取り直して、いつものようにまた、危険球ギリギリのところで勝負してみたい。

                       

                      大暴投だとは知っているけど…
                      大体野球は見ないし退屈する(そもそも見慣れてないから…)傾向にあるので、野球のことはよく存じ上げないが、基本的には退屈なゲームだと思っている。前にも書いたが、こういうビーンボールも時々混じるようなスリルあふれるのがないと、面白くないではないか。大体、日本の朝のニュース、それは、朝のニュースショーとは言えないような気がするが、ニュースがちょっと入るバラエティショーでも、盛り上がっているのは、こういうラフプレーやそのあとの乱闘騒ぎのほうである。であるからこそ、今日も悪役レスラーとして、書いてみたい。

                       

                      以前にも登場した口の悪い同僚によると、「野球場に行くのは、大声をあげて、ストレスを発散するため」だそうである。ということは、である。実は人は、このような乱闘騒ぎや危険球といったようなスリル要素が案外お好きなのであって、静かな茶室で、じっくりと抹茶椀を延々30分も1時間も愛でながら、「結構なお茶碗で・・・」とかはあまりお好きでないのかもしれない。個人的には、茶道具は見るのも使うのも好きなので、椅子席ならば、じっくりとお付き合いしたい。デブな年寄りなので、正座は無理だから椅子席なら、という条件付きなのである。

                       

                      計算機がつくる説教を、信徒がドローン飛ばして聞く教会って…
                      前回、IBMの計算機Watsonで古今東西の有名説教を集めて、機械学習させ、会衆の希望を織り込みつつ、クロラーで集めた世間の情報を織り交ぜて、適当なウェイトを用いて作り上げらた説教も、そのうち、理性(Mind)重視派には受けのよい、かなり完成度の高いといってもいい説教が出来上がり、それを、お好みのボカロイドに読ませて、説教者はイケメソ風のアンドロイドで、会衆は、ドローンを飛ばして、そのイケメソ風のアンドロイドの説教を聞くということが起きるかもしれない、という無茶な投稿をしてみた。それなりに反響があったので面白かった。とはいえ、大した反響があったわけではないが。

                       

                      ドローンっていっても、(Boeing Phantom Eye) みたいなのが来たら怖いかも http://www.boeing.com/defense/phantom-eye/

                       

                      教会では、IBMのワトソンが変えないとかいうご意見もあったが、そんなもん、インターネットがあれば、時間で借りるレンタルをすればよいのである。インターネットで、説教を作るためのパラメータ(改革派の要素**%、メソディストの要素**%、バプティスト要素**%、お笑い要素**%)とかぶち込めば、勝手にそれなりの説教になって読み上げ用の説教原稿が出てくるなんてことも、相当カラン未来に、ソフトウェア的にはが可能になるだろう。

                       

                      予定調和で行けば、これでもいいはずである。

                       

                      でも、それで、説教か、それが、説教か、それが、教会か、それで、教会か、と言われたら、ミーちゃんはーちゃんはそうではないと思っている。今は聖公会の英語部の出島のような教会に寓居していることにしているが、もともとは清め派であって、前回も今回も書きながら、清め派のの血が騒いで仕方がなかったし、それは説教といえないと思っているし、そんな機械仕掛けの説教をありがたく拝聴しているのが、教会と思えない。そして、個人的には、そんな予定調和の説教や、教会なぞ、詰まんないと思っていることは、間違いない。もっとダイナミックなものが説教だと思っているし、もっとダイナミックな存在が教会だと思っている。

                       

                      でも、以前キリスト新聞の連載小説になった架空のコピペ牧師の説教って、古今東西の名説教を用いているわけではない、と思うので、仮に可能であるとして、機械学習して、適切なパラメータから計算機が生み出すような説教よりは格段にひどいはずである。過去の説教を参考にするのならまだしも、いろんな教派の説教をでたらめにとってきて、説教が作られているとしたら、もう、聞いているだけで、頭が割れそうになったりするだろうし、悪酔いするのではないか、と思う。帰って、人間が手抜きをして恣意的に何かするほうよりは、バカまじめな計算機がガシガシやって出してくるもののほうが、格段にましなこともあるのではないか、と思うのだ。

                       

                      まぁ、よく考えてみれば、理神論でやる教会って、こういう教会を究極に目指していたのかもしれない。そら、もう、キリスト教といえなくなるのは当然である。

                       

                       

                      それで、考えてみると
                      では、教会を教会とする○○とは何か、ということを考えてみたい。それは、人を人とする○○とは何か、ということでもある。もう少しいうと、人間を神のかたちとする○○とは何か、ということである。

                       

                      このブログの長い読者なら、もうおわかりのはずである。同じことを手を変え品を変え何度も書いてきたからだ。それは、リングマの本でも強調されてきたし、N.T.ライトのクリスチャンであるとは、でも強調されていたことである。○○とは、聖霊(聖神)のことである。これなしには、キリスト教はキリスト教になりえないものであり、先週の日曜日は、ペンテコステであったが、そのペンテコステの日に人々に臨み、聖霊が人に臨在されることが起きた、とういキリスト教にとっての大事なできごとを記念する日であった。

                       

                       

                      人間には聖霊が内住するようにできている。神とともに生きるようにできている、聖霊が与えられる約束が与えられている、同表現するかは多様ではあるが、神とともに、聖霊をうちにいだき、生きることこそ、神が我々に望んでおられることなのだ。かっこよく生きることでも、人から賞賛されるように生きることでも、人の基準や世間一般が当たり前とすることでもなく、ただ、神に従い、神とともに、神の御前に生きるということこそ、神が我々に望んでおられることなのだ。神にあって不甲斐ないながらも、生きているということこそが、神のみ思いなのだろうと思う。

                       

                      重きは神の側か、人間の側か…
                      この点、この200年の外国から来たキリスト教は、どこか、人間の視点が中心になりすぎていて、神に従って生きるとか、そういうことは、教会の中ではすっかりと人気のない考えになってしまっているようだ。まぁ、こういうことを勧めているキリスト教の一つに、正教会があり、正教会では、キリストに従うこと、神に従って生きることがかなり大事なこととされている。

                       

                       

                      プロテスタントでもそうだ、と言われるだろう。ある面、それはそうかもしれない。しかし、神に従っているとは、言いながら、聖書に従っている、とは言いながら、神がこう思っておられるだろうなぁ、と自分なりに変換した神のみ思いに従っている、といっていることはないだろうか。あるいは、聖書に従っていると言いながら、自分が受け入れ可能な部分だけに限定した聖書の文言にのみ従いながら、聖書に従った生き方をしていると言っているようなことはないだろうか。あるいは、人間には、できないことはないという、一種のバラ色の理想、ロマン主義の影響を受けた人間観に従って、自分自身の不甲斐なさを認めず、自分自身が最大限努力することでなんとかなると自分自身も、他人もどっか騙しつつ、自分のすることは神の御心と一体化しているのだ、と強弁していないだろうか。

                       

                      そもそも、人間には、神のみ思いを完全に実現することなどできないのに。

                       

                      でも、そのようなロマン主義的な新校舎の姿でも、いいのかもしれない。神の哀れみの深さを感じ、そのことを知ることができるのだとすれば。そして、もし、その人間の力でなんとかなるという思い込みをもって過ごしてきたことを、神の前に悔い、神のもとに戻ろうとするならば。神の前に自分がいろいろなことができる、自分がこんなよきこともした、あんな神の栄光を帰すこともした、と言い張り、自分の努力や成したことを以下のイエスの祈りについてのたとえ話に登場するパリサイ人のように並べ立てるようなことをせず、かえって、取税人のように神の前に自分の不甲斐なさをさらけ出そうとするならば。

                       

                      【口語訳聖書】ルカによる福音書
                       18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
                       18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
                       18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
                       18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
                       18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
                       18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

                       

                      かたちだけこの取税人のようなふりをしているのではないか、とかご批判される方もおられるだろう。それも一理はあるが、イエスは、どう言われたであろう。

                       

                       

                      【口語訳聖書】マルコによる福音書
                       9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
                       9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。

                       

                      と言わなかったろうか。それを我々は、反対はしないが創造者である神を信じないものを、手前勝手に、「わたしたちの味方」とはせずに、「わたしたちの敵」としてきたのではなかったろうか。

                       

                      この企画の出発点となった『焚き火を囲んで聴く神の物語』の著者の大頭さんという人は、すぐに、「〇〇という人は敵ですか、味方ですか?」と以前はよくミーちゃんはーちゃんに問い合わせてきていた時期がある。個人的には、このような単純化がなされたものの見方は、おやめになりませんか、と以前くどくお諌め申し上げてきたところではある。最近は、ミーちゃんはーちゃんがあまりにうるさいことを言うからか、敵か味方かみたいなことは聞いてこなくなった。なぜかは知らない。

                       

                      単純、素朴な信仰者の姿

                      息子の勉強に付き合う関係や、最近日本に来るムスリムの方の全体のボリュームとしても、増えていることもあり、ムスリムの人びととのお付き合いが増えた。日本だとムスリム=過激派=原理主義者という構図が出来上がりがちであるが、近くによってじっくりとその姿を眺めていると、実に多様な人々であることがわかる。国や出身地域、言語によって、世俗の仕事、その信仰のスタイルや微妙なところは違うのであり、イスラム、あるいはムスリムということばで一括りにするのが難しい人びとの多様な群れなのである。それは、キリスト教でも同じである。正教会系の人々の姿と、アメリカの福音派の人びととは、姿も行動パターンもかなり異なる。その意味で、キリスト教一括りにするには、実に多様な人々と教会の集合体なのである。

                       

                      ただ、ムスリムのある部分の人々、ムスリムの良心と言って良い人々とお付き合いしている限り、彼らは、信仰と行動が分離しておらず、信仰は信仰の世界、日常は日常の世界という切り分けをしないで生きている方がたの姿を見ていると、在る面、美しいなぁ、自然だなぁ、と思うのである。それは彼らが、発展途上国の人だから、というわけではどうもなさそうである。所謂これから発展する余地があるから、あるいは、伝統社会から来ているからこそ、割と単純、素朴な信仰者の生き方、というわけでもなさそうである。

                       

                      どうも、イスラム思想、あるいはヘブライ思想の中にある、ある概念が、このような単純、素朴な信仰者のあり方を可能にしているようなのだ。それは、自分が誰のものが、自分を含む他人が、自分を含む環境が誰のものか、ということと、実は深く関わっていて、それが、神から与えられているテキスト(アラビア語のクォラーン、ヘブライ語のトーラーあるいはタナッハ、日本語での旧約聖書あるいはヘブライ語聖書及び新約聖書、あるいは、ギリシア語聖書)をどのように理解するか、とかなり深く関わっているようなきがする。

                       

                      いわゆる旧約聖書、あるいは、学術語としてのヘブライ語聖書でも、いわゆる新約聖書、あるいは、福音書から始まり、黙示録が最期にあるギリシア語で書かれた聖書でもそうなのであるが、そもそも、人間とは人間のものではなく、人間とは、神のものであるというのが、基本的な理解である。環境にしても、土地にしても、水にしても、空気にしても、生物にしても、人間が作り出したもの以外の全ては、本来は、神のものであるのである。

                       

                      それをいつの頃からか、人間はこういう環境や土地や、水や、野生動物が無主物であるから好きにしていい、ということをやり始めた。無主物とは、所有者、権利者が人間の世俗の法で定義できないもののことである。このような無主物、あるいは無主の土地は、最初の発見者が好き勝手に、何をしてもいいと勝手な理論をつけて、ネイティブ・アメリカンから土地を勝手にものすごい不当な廉価で合法的に奪っていったのが、アメリカに最初の頃に入植した開拓者の皆さんである。

                       

                      だからこそトランプ現大統領が選挙戦中に、「不法移民は出て行け」と言ったときに、以下のような画像が、ネットに出回っていたことを覚えておられる方もおられるだろう。

                       

                       

                      https://www.pinterest.jp/frybread7/native-funny/ から

                       

                      https://imgflip.com/tag/native%20american?page=6 から

                       

                       

                      ムスリム系の人々でよくある名前に、アブダラ(アブドアラー)という名前があるが、それは、「神の奴隷」という意味である。その意味で、彼らは、自分の思いで生きるのではなく、神のみ思いに従って生きる奴隷であるということで、アブダラ(アブドアッラー)という名前などでも、彼らの生き方の方向性を示しているのであり、神への絶対服従、すなわち、神に従って生きる奴隷、主が何を求めているのか、ということを求めて生きる生き方をしようとしているといえるのだろう。

                       

                      イエス様も次のように言っておられる。

                       

                      【口語訳聖書】 マタイによる福音書
                       24:45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。
                       24:46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。

                       

                      また、神の奴隷になり、天の父のみ旨を行うもの(すなわち、神の奴隷、あるいはしもべとなること)を選ぶことの大切さを、別の表現で次のようにイエス様も言っておられる。

                       

                      【口語訳】マタイによる福音書
                      7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
                       7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
                       7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

                       

                       

                      ということは・・・

                      人間が人間になる、人間を人間にする、ということは、人間が神のものになる、あるいは、人間が本来のその目的に従い、神とともに生きるような姿となることが、人間が人間らしくなるために必要になるということと言っていいと思う。そして、人間らしくなった人間が、集まるからこそ、人間が神が造られたものであり、人間が神のものであることを認め、それらの呼び出された人びとの集合体(カハル構造を持つ集団)が教会なのである。つまり、教会すら、人間が集まってできているとはいえ、人間ためのものではなく、教会員のものでもなく、ましてや、牧師のためのものではない。教会も神のものである。

                       

                      神のものは神のもとに

                      その意味で、カイザルのものはカイザルのもとに返すべきであり、神のものは、神に返すべきということばは、実はかなり重要なことを含むのである。自分を含め、神のものであれば神にお返していく。つまり、神の奴隷として生きることが、アラビア語で言えば、アブドアッラー(アブダラ)として生きることが重要なのである。

                       

                      【口語訳聖書】マルコによる福音書

                      12:17 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。

                       

                      ムスリムのかなりの部分の人や、ユダヤ教世界や正教系の世界のある程度の部分の人は、神の奴隷として生きておられるが、プロテスタントでは、自らそのものも含めて、この被造世界が神のもの、神の支配に服すべきものであることを忘れ、神がご自身の権利を今ご主張になられないことを言いことに、この世界を、そして、自分自身も、あたかも無主物である家のごとく考え、自分の思うがままになるものとして、扱うようになってしまったのではないだろうか。

                       

                      人間が人間らしく在るために、

                      教会が教会であるために・・・

                      人間が人間らしく在るためには、教会が教会であるためには、まず、人間にせよ、教会にせよ、神のものであるという神の主権を認め、神にその主権を返納していくところから始めるべきかもしれない。人間が握りしめている自分自身、人間が他の人間を握りしめているその手を開き、そこに臨済される方、聖霊なる方を握りしめるのではなく、それを受け取ることができるように手を上に向かって開いておくことが大事なのだと思う。そこに吹き込まれてくる神の霊、神の息吹、精神の働きをふわっと受け止める事が大事なのではないだろうか。このあたりのことをある程度書いたのが、リングマの『風をとらえ、沖へ出よ』なのだと思う。

                       

                       

                      ところで、計算機には、機械には残念ながら、聖霊を受ける部分はない。聖霊が内住される場所がない、聖神が臨在される場所でもある”こころ”(Heart)がないのである。コンピュータは泣いたりしないし、怒ったりはしない。人間はコンピュータの単細胞さに怒ることが在るけれども、コンピュータは、人間に対して、正しくない操作をしたので動かなかったとは画面上に表示させたり、プリントアウトしたりはするけれども、人間に対して殺意を抱いたりはしないし、人間のギャグに反応して、大笑いしてくれたりしないのである。感情と似たような反応を画面に表示させたりすることはプログラムで、ある程度できるけれども、それは、心からのものを真似しているにすぎないのである。もう少し言えば、計算機はアルコールを飲ませても、酔っ払ったりはしないで故障してしまうが、人間はアルコールを飲むと酔っ払ってしまうのである。だから、酒に酔うな、とパウロは書いているのであって、一滴たりとも飲んではならないとか書いていないように思う。アルコールに本来、神のものであるべき人間が奪われてしまうからこそ、本来の神のものが失われないように、「酒に酔うな」と書かれているのだと思う。

                       

                      その意味で、神の霊を求め、神の息吹を求めることこそが、人間的ななにかと神の霊が相まって、存在することで、人間や教会が神のものとなり、神がともにおられることになり、神の奴隷樽にん気んが、神の奴隷の集まりである教会が、活性化が起きるのだろう。それを、近代の社会では、リバイバルとよんだのではないだろうか、と思う。

                       

                      リバイバルとは、人間が運動として起こすものでもないのだろうし、人間が必死になってつかもうとするものではないと思う。リバイバルとは、受け止めるものなのだろう。そっと受け止める。そっと手のひらで受けた時、本来の活性の状態を回復できた状態になったのがリバイバルなのではないか、と思う。その意味で、すリバイバルは人間が起こせたりするようなものではないのだろうと思う。このあたりは、ロイド・ジョンズの『リバイバル』を読んでもらうと、ある程度は、わかるのではないか、と思うのである。

                       

                      次回へと続く。

                      一応、このシリーズ、次回で終わりにしたい。

                       

                       

                       

                       

                       

                       

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                      D.M. ロイドジョンズ
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                      (2004-10)
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