最近、いのフェスで出会った、ルツさん(バイブルハンターのルツのレイヤーされてた方)が、この手のおふざけ系が好きだとおっしゃってくださったので、ご要望に応じて、調子くれて、一節ご披露申し上げ度候。

 内容は、かなり大げさ。JARO に通報されないようにしないとw。

 そもそもの発端は、最近、ある方のFB上の特売シールつきのお惣菜の画像を見ていて、

とく〜〜ばいに〜〜〜 まけた〜〜 (特売に まけた)
いいえ、シールに まけた〜〜   (特売シールに負けた)

という歌が思い浮かんで、それからの連想である。ふまじめ極まりないネタなので、まじめな方は読まないほうがいいかもしれない。


♪同人誌 ばれた
いぃえ (嵐の)オッカケばれた
この教会も追われた
いっそきれいに転会
力の限り 奉仕したから
未練などないわ
牧師さえも手を振る 私はキリスト者♪


♪このバルト(の教会教義学)を 捨てろ
なぜ こんなに好きよ
いのフェスは一緒と
あの日決めたじゃないのよ
教会の風に 冷たさに
こみあげる涙
苦しみに耐える 私はコスプレイヤー♪

 まぁ、同人誌が好きだから、教会を追われた人やアイドルオッカケで教会を追われた人、バルトの教会教義学が好きだから、教会を追われた人はまぁ、いないとは思うが、いないわけではなさそうな気もする。

 なお、いのフェスでは、同人誌で教会を追われた方も、追われてない方も、アイドルオッカケばれていずらくなった方も、そうでない方も、バルトの教会教義学を読んで、異端扱いされた方も、そうでない方も、どなたさまのご参加をも歓迎しておられるようです。

 所詮、いのフェス、文化祭・バザーのノリですから。

下は、さくらと一郎さんで、昭和枯れすすき


 どうもおあとがよろしいようで。

♪歌って笑ってホットブラザース♪

(以下の画像はこれをテーマ曲にしておられる関西のコミックバンド、横山ホットブラザースさんです。)







 今月も長い記事も多かったのですが、それにもかかわらず、アクセスいただきありがとうございます。
 2014年3月  20499アクセス。
 2014年4月  24200アクセス。
 2014年5月  22690アクセス。
 2014年6月  11281アクセス。
 2014年7月  13883アクセス。
 2014年8月  12202アクセス。
 2014年9月  13264アクセス。
 
 割と、おとなしめに推移するも、今月のピークは9月20日775アクセス。この日が大きくなった要因は、NHKこころの時代の福岡県の栄光病院医師 下稲葉先生登場の再放送のご紹介。公開当初はFacebookであまり反応がないものの、放送当日にFBで紹介したところ、68いいね!と一気に広がった模様です。従来型テレビメディア、最強〜〜〜って感じでした。


それでは、以下、今月の上位5位まで。

NHKこころの時代の視聴のお勧め  アクセス数 473

日ユ同祖論というトンデモ理論について その4(最終回)   アクセス数 414

現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由   アクセス数 294

教会に中学生の皆さんが減ったかもしれない理由
  アクセス数 274

続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1   アクセス数 249

なんか、こうやって見ていると、日本のキリスト教会には、若者がいないということの背景を描いた記事ばかりが上位に来るなんて…。そういうつもりで書いているつもりはないんだけど、それだけ日本のキリスト教会の若者不足は深刻というか、しんどい状況にあるのだろう。なんてこった。

 しかし、現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 の記事は結構受け、先月、今月と堂々の3位入りとなっているのが、何とも。

 そうこうしているうちに、Nobu牧師のブログでは、ありがたいご応答いただきましたし。しかし、痛いところを突かれてしまった。「やたらと文字数の多いブログ」って。グサグサグサッ。

 短くしてもいいんですが、ある程度まとまって書きたいじゃあな〜〜〜りませんか。



今日公開の別記事は、「お笑いネタ」なんで本ブログにあるまじき短さですが。

 先月のご愛読を感謝しますとともに、今月もまた、ご清覧のほどを。


Before "Left Behind"
Left Behind その前に
 ミーちゃんはーちゃんの周りで、ディスペンセイションを巡る問題がさわさわさわと話題になっている。ミーちゃんはーちゃんと同い年のNicolas Cageが主演するLeft Behindが間もなく公開されるというのもあるのだろう。そこで、今日は、Left Behindの裏側をちょっと説明してみようかと。

下はNicolas Cage主演のLeft Behindの予告編、英語版。 


 ハリウッド映画にとって、Left Behindはパニック映画の要素満載だし、ドーパミンとアドレナリン出っ放しになりそうなシーンが作りやすいので、まぁ、映画のテーマとしては、実においしい素材と言えよう。

「ノア 約束の舟」以上に非聖書的かもよ?

 しかし、この映画は、映画「ノア 約束の舟」が非聖書的であるというなら、映画「ノア 約束の舟」と同じくらい、あるいはそれ以上に「レフトビハインド」は非聖書的な映画ではあることだけは一言触れておく。というのは、聖書そのもののメインの物語でないからであり、『ノア 約束の舟』ではまだ、聖書のいくつかの物語が重層的に重ねられていたが、恐らく、レフト・ビハインドには聖書の物語を重層的に重ねるような工夫はないであろうし、聖書の中にない記述をこれでもか、あれでもか、と人々の恐怖をあおるような形で示していくと考えられるからである。

以下は、ノア 約束の舟 (英語版)である。


 しかし、なんですなぁ。上のLeft Behindの予告編で紹介されていたが、Left BehindがNew York Timesの読書欄 BooksでBest Sellers入りしたのは、SF、パニック小説風であるとして、受けたのである。アメリカ人は、この手のパニック小説というのか、パニックものが好きなのである。なんせ、オーソン・ウェールズ以来のエイリアンアタックが結構好きな国民性である。

Behind Left Behind

 レフトビハインドの背後にある神学は、ディスペンセイション説、天啓史観、経綸主義とか呼ばれる歴史理解の方法であり、1830年代まではほとんど見られなかった歴史理解であり、この歴史理解は、アイルランド生まれであるようだ。Bass(2005) Backgrounds to Dispensationalism: Its Historical Genesis and Ecclesiastical Implications によればであるが、もともと、この理解はプリマス・ブラザレン(日本ではキリスト集会と自称しておられる)でヨーロッパ大陸および北米大陸で広く活躍したジョン・ネルソン・ダービーというご仁が深くかかわっており、アイルランドでは、Powerscourt城で開催された終末論に関する1830年代初頭のカンファランスで、一気にプリマス・ブラザレン派に広がり、そして、1877年のナイアガラ・カンファランスでMoodyに伝わる。

D.L.MoodyとLeft Behind

 Moodyは今のテレビ局みたいな大衆伝道家で、一気にこのディスペンセイション説が世界中に広がるし、特に北米で伝わり、C.I.ScofieldのScofield Bibleと呼ばれるアメリカのOxford University Pressから出た注釈つき聖書で、西部開拓中の地域を巡回した巡回伝道者みたいな人に広がっていく。そして、中西部の前福音派の人たち、福音派の人たちにもこれが継承されていき、アメリカ南部、アメリカ中西部の多くの家庭で礼拝するキリスト者や、地域におけるほかのキリスト者の人たちと交流が少ない(隣の家まで約10キロとかは結構ざらにあった)人たちに、聖書と共にその解釈に触れられるこのScofield Bibleは愛用され、この概念が定着していく。

 そして、日本には、ムーディーのところで薫陶を受けた東洋のムーデーこと中田重治総裁が日本にお持込みになられる。そして、この特殊な終末論と再臨観は、一時的に愛娘ルツを失い、203高地攻防戦が有名で、多くの将兵を失った日露戦争で疲弊した内村先生が愛してやまない日本社会の実情を見、失意の中の無教会の内村鑑三先生にもちょっとの期間だけではあるが、飛び火する。

 戦後、ディスペンセイション説と信仰とが一体化したアメリカからの宣教師によってこの教理が日本にかなり持ち込まれてくる。そして、1960年代のイスラエル国建設、1970年代の中東戦争と、その余波としてのオイルショック、日本での狂乱物価などもあり、これに関する本が日本でも聖書パノラマというタイトルでいのちのことば社から出版されたり、あちこちから出版される。このディスペンセイション説がどのような経緯を経て生まれたかに関してはあまり知られていないようである。まぁ、Wikipediaなどには一応書いてあるけど。

Dispensation理解の問題点

 Dispensationによる聖書理解の問題は、非常に少ない聖書の言葉から将来を予測するという点である。つまり、少ないデータで、予測するため、将来予測のブレが非常に大きい点である。根拠になるのは、黙示録、ダニエル書の一部、エゼキエル書の一部がおおむね用いられるのであり、それ等のごくわずかの明確に表現されていない(黙示的な)預言の表現から、現実社会の予測や予想をしていってしまうがゆえに、かなり大胆に、どうにでも言えるかのような予測、ないし予想が聖書理解として語られうる点なのだ。面白いといえば、面白いが、間主観的な評価には耐えがたい理論というか聖書の読み方ではあると思う。

 この立場に立つ人たちは、聖書を字義どおりに解釈する(と主張しておられる)人々であり、聖書を聖書で解釈するという立場にお立ちではあるのだけれども、細かな部分については確かにそのような態度で解釈しておられるが、聖書全体の整合性から見てどうか、という検証はあまりされることはないようである。

 まぁ、全体像をつかむのは、誰にとってもむつかしい話なので、その意味で、自分たちだけがわかっているとか言い出さない限り、この人たちは責められない。ある面、一種の聖書理解に関する局所的部分適合度に関する最適化というか尤度の向上がなされている可能性がある。

 もう少しいうと、聖書にないことをどんどん入れていってしまったり、聖書の黙示的表現を黙示的表現として理解せずに、それを時に文字通りにとり、あるいはその表現されたものを現実社会の何か、国家とか、教会とか、制度とか、システムとかに当はめてしまって、それらを否定的に扱ったり、過度に過大視したりとかいう世界はある。まぁ、黙示録に出てくるイナゴがAH-64アパッチヘリだとかというお話というか解釈をお伺いしたことがある。



AH-64 アパッチ・ヘリコプター

 ここまででの賢明な読者はお気づきいただいたかと思うが、推測のレベルと精度がものすごくバラバラであり、厳密な聖書テキストの釈義という意味での聖書理解からは程遠い議論が、このディスペンセイション説の周りで繰り広げられている可能性があるのである。部分部分見れば、そこそここ合致しているように見えなくもないので、なんとなく説明力がある理解の方法論に見えるが、全体を通してみれば、推測モデルとして、かなり怪しく見えてくる。その意味で、近視眼的に聖書と現実を合致させていく傾向がある方の場合、説得力を持つように見えるかもしれないが、聖書全体から見れば、おかしげな理解の方法論に見えることは多いように思う。

 その意味で、かなり問題点を持つ聖書理解であり、聖書以外の知識を使ったり、聖書理解と称して、聖書に書かれていないものを挿入しつつ、聖書を理解していこうとする傾向があるという意味で、聖書的でない可能性が高い考え方なのである。

レフトビハインドの後ろ側にあるものは、
十分な検討を経ているか?
 その意味で、Left Behindの後ろには、このような理解があると理解した上で、聖書的であるかどうかを諸賢は判断されるようにお勧めしたい。どこかの偉い先生が聖書的だ、と言っているから聖書的だ、というのではなく。レフトビハインドの背景は、伝統的な教理に基づく聖書理解、というようなものではなく、そもそも、1830年代に突然降ってわいたように現れた聖書理解に大きく依拠しており、それは高々180年ほどの時代の中でしか、それも限られたキリスト者サークルのみでしか検討されていない、ということを一言触れておく。

 なお、関心をお持ちの方は、以下の拙ブログ記事をご参照いただきたい。

D.L.Moodyの後方乱気流

人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(1)

人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(2)

人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(3)

人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(4)

人生いろいろ、ディスペンセイション説いろいろ(5)最終回

ディスペンセイション説という終末論について

福音派が生まれたころの世界むかし話(5)(J.N.Darbyについて)




評価:
Clarence B. Bass
Wipf & Stock Pub
¥ 2,473
(2005-02-27)
コメント:英語は比較的読みやすくない。

評価:
価格: ¥2,376
ショップ: 楽天ブックス
コメント:良いよ。内村先生と大正期の再臨運動に関してだけ言えば。

  本日は例外的な緊急繰り上げ公開を致します。

 さて、前回は、矢口論文から正義の戦争をどう考えるのかを引用して、それから思うことなどをいつものようにだらだらと、紹介した。なお、これまでの過去9回の連載記事は、以下の通り。

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(6) (09/10)
 
Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(7) (09/22)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(8) (09/24)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(9) (09/27)

 今日は本シリーズのタイトルのもととなったメタ思考の問題を触れている、本書最後のネイション論文から引用して、メタ思考をすることの意義をネイション論文をもとにジョン・H・ヨーダーの主張から考えてみたい。

誤解されやすいヨーダー
 ネイション論文では、ヨーダーの主張が多くのキリスト者の間で誤解されているということを指摘している。
 既に述べたように、メノナイトを含む多くの人々がヨーダーを誤解した理由は、すでに主流となった考え方(トレルチやニーバー)の枠組みを通じて、ヨーダーを読んだことである。しかし、ヨーダーは枠組みそのものを変えようとした。問われている事柄への応答にヨーダーの主な関心があったのではない。問いそのものを書き換えたのである。(p.155)
 これと似たようなことは、イエスが語られたことでも起きていたように思う。当時のユダヤ人、特に、律法学者たちは当時の旧約理解の枠組みの中でのみ、イエスの言動を理解しようとし、イエスが神としてこの地を歩んだことで、その枠組み自体が変わったことを告げようとしたことに気づかず、イエスがおかしいと批判しすぎたことと似ているかもしれない。Meta思考ができない人は、Meta思考ができないがゆえに、従来の枠組みにしがみつき、従来の枠組みのみで、自己定義をしたり、自己の行動をするのではないだろうか。その意味で、Meta思考の結果出てきたものは、通常の人には理解できないものなのだろうと思う。つまり預言者的役割を持つ人には、どうも非常に高いコミュニケーション能力が求められるのかもしれない。

重要な「神の国」=「キリストの支配」

 ヨーダーの「終末論なしの平和?」という論文の中で、ヨーダーの議論の重要なポイントとして、ネイション論文では、次のように指摘している。
 わざわざ、字体を変えて〔英語では大文字〕引き立たせて書かれた「キリストの支配」という句を読み飛ばしてはならない。この「キリストの支配」という句はその書物の中心的な主題であり、同時に聖書が示す概念であることを忘れてはならない。それはまず教会の現実の中でなじみ深い概念だ。教会は、キリストの支配に対して「はい」と言った人の体である。(中略)新約聖書に従えば、歴史の中心的意味を担うのは ー帝国や国家ではなくー 教会である。(中略)聖書的概念として、教会はポリス、即ち政治的存在であることを私たちは理解しておく必要がある。(中略)教会は、社会に対して証する社会的存在であるからだ。
 このような事柄が注目されることはまれである。教会それ自体で社会的現実である、というヨーダーの主張を軽く扱ってはならない。忠実な弟子としてのあり方を通して、教会は現実社会の中で愛がどのようなものかを示すとヨーダーは述べている。この福音に対する証が不十分であったとしても、悔い改め、信仰、聖霊の力によってその証は可能となる。教会が歴史の意味の確信を担うのだから、最も大切な政治的な目標は、現実の生活を通してキリストの到来を宣言する教会が存在すること ー忠実にイエス・キリストに服従することー となる。(p.158-159)
 このキリストの支配ということは、神の国理解と深くかかわる。多くの人は、神の国というと天国のこととか、将来の死後の世界を想定するかもしれないが、神の国とは、新約聖書を丁寧に読むならば、決して将来の天国のことではなく、この地で実現した現実の神のこの世への関与であり、キリストの愛した教会(キリスト者から形成される存在)に満ち満ちていることなのだ。教会という建物や聖堂は、物理的空間において、このキリストの愛した教会を収容する建物である。そこは、本質の一部を表すが、一部に過ぎないのではないか。だからと言って軽んじていいものではないが、あまりにそれを尊いものとすることは、一種の偶像崇拝に近いものがあるのではないか、とも思う。


教会(エクレシア)は、建物ではないかも

 教会堂の建物よりも、人あるいはキリスト者の集合体としての「教会」を通して働かれる神が尊いものであり、聖なるものであるとおもうのだが、ちがうだろうか。そして、神が人間に対して示したもうた愛を示すキリストに従うものの集団としての方が、儀式の場、神の栄光が表れる建物としてよりも重要だと思うのだが違うかなぁ。

 そもそも、ナザレのイエスは、「人の子には枕するところもない」と自らを言い給いし方であるし、また、パウロにしても、シナゴーグや教会堂ばかりで礼拝していたわけではなく、町はずれの屋外で礼拝したり、他人の家の中で聖餐式を行っていたのではなかったのかなぁ、と思う。現在のような教会でばかり礼拝したり、聖餐を行っていたりしたわけではない。

 しかし、だからと言って、現在の教会堂や聖堂を聖なるとすることに異論があるわけではない。それは確かに聖なるものであるが、しかし、長老たちは天の国が完全に実現した時に、神から与えられたもうた冠を自ら投げ出すほど、将来の聖性は、現在の地上の聖性とは比較にならないほどのものではないか、と思う。

二元論的な理解のおかしさ
 本連載の最後として、孫引きになるが、ヨーダーの発言をネイション論文から拾っておきたい。
 信仰的だが不適切な二元論と、適切だが不信仰な妥協、この二つのいずれかを選ばなくてはならないという観念から解放されなければならない。それは、世とのかかわり方倫理主義との関係を断ち切ることによってなされる。受肉は世とかかわることを示している。イエスご自身は、軍事的占領と地下組織の戦争という政治的な大混乱の中に生きた―ただし罪は犯さなかったが。世とのかかわり妥協と同じとみなすこと、そして罪が人間の本質的な要素であるとして、妥協と同定することは、キリスト論的には正統と言えないばかりでなく、実のある考えを生み出さない。そのような考えでは、戦おうとしてきた律法主義にあらかじめ降伏していることになる。なぜならば、それでは罪を絶対的な規則に違反することだと定義していることになるからである。(The Christian Witness to the State pp.57-58)(p.163)(下線はジョン・H・ヨーダーの神学では傍線)
 現在のキリスト教の多くの世界で、問題を考えるときに、「信仰的だが不適切な二元論と、適切だが不信仰な妥協、この二つのいずれかを選ばなくてはならないという観念」から現実を考えるのに慣れきってしまっていて、創造的に考えることができないのではないか。神が人に与え給うた創造性を十分発揮できていないキリスト者とかキリスト教会は多いのではないか。また、「そのような(世とのかかわりを妥協とみなすような)考えでは、戦おうとしてきた律法主義にあらかじめ降伏していることになる。なぜならば、それでは罪を絶対的な規則に違反することだと定義していることになるからである。」ということは、非常に重要な指摘をしていると思う。

いのフェスで考えてみた

 先日参加したいのフェスについて、教会堂でアイドルが歌ったり、怪獣ショーが行われたりすることに憤慨する向きもおられたようであるが、それは、ある面、ヨーダーの言をかりれば、「戦おうとしてきた律法主義にあらかじめ降伏していることになる。なぜならば、それでは罪を絶対的な規則に違反することだと定義していることになる」といえるのではないだろうか。あえて、人間が設定してきた規則ギリギリのところを乗り越え、普段教会に来ない人たち、そのことに触れないままその生を終えるかもしれない人たちにも、キリストの存在と愛があの日の早稲田奉仕園では示されたとは考えられないだろうか。あなた方にも、そして、このふがいないミーちゃんはーちゃんにも、キリストはその愛を豊かに示されたのと同様に、あの日バンパイアをスコットホールで自称した少女にも、「戻って来い、我が子よ」と我らに言い給うイエスの存在が示されたとは考え得ないだろうか。まぁ、十字架の前でも消えなかったので、バンパイアであることは彼女が生きようとしている物語、または、彼女が演じることを求められていると考えている物語のキャラクター設定であることがよくわかるが。

 罪とは、恐らく人間が拵え、「絶対的だと考えている規則に違反すること」ではなく、「神の生における不在である」ことを考えるとき、そのことの解決策として、ナザレのイエスが「戻って来い、我が子よ」述べたもうたことが伝えられるのなら、それは一つのありようではないだろうか。

 バンパイアを自称する少女の理解のなさを責めるのもよいが、しかし、ふがいない我らも、あの少女とどの程度その理解に違いがあるのだろうか。ひょっとしたら、あまり違わないかもしれないことを思い出したい。

 そしてわれらが忘れてはならないのは、イエスが公生涯を始められるにあたって、高らかに宣言された際の次の聖書の言葉であろう。
 この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。(マタイ 4:17 口語訳聖書)
 この宣言は、「終末である天国行きが近いから、悔い改めが必要」なのではなくて、「天国、すなわち、神の支配が満ちている天の支配が、天の支配の側から我らに近づき給うが故に、すなわち、我らがそこに招かれているがゆえに、我らは、神の御座に近づくという本来的な悔い改めをする必要がある」と理解できるのではないか。悔い改めとは、自分の過去を反省したり、自己の不甲斐なさを認めるといったようなmそんな薄っぺらいものではないはずではないか、我らが神の前に立ち戻ることこそ、聖書の言う悔い改め(すなわち、天、即ち、神の御座への立ち返り)なのではないだろうか。教会という建物への集いではなく、天の御座の前への立ち返りをすべての人に求めておられるのが、神なのではないかなぁ。

 アイドルが聖堂で歌うのがけしからんというなら、ウィ●アム・フ▼ンク●ン・グ▼ハムが甲子園で、大人数集めて決起集会もどきをするなど、それこそ、高校球児や熱烈な阪神ファンにとって神聖なる甲子園に対する冒涜というそしりを受けなければならないかもしれない。個人的に野球はどうでもいい話の一つであるし、グラハム一族はミーちゃんはーちゃんにとって完全に賞味期限切れなので、いずれにせよ、どうでもいい話であるが。

勝利主義時代の伝道の誤り

 最後に、ミーちゃんはーちゃんの大嫌いな「勝利主義の信仰」について(世間的な勝利主義者であることを求める人々はかなわないと思うけれども、愛してはいる。しかし、イエスの教えを、聖書の理解を勝利主義で塗りつぶす行為は、聖書の主張からはずれていると思う)、ヨーダー先生の表現を引用して終わりたい。あいかわらずヨーダー先生手厳しい。
 勝利主義の時代の間違いは、イエスとのつながりを捨てたことではなく、自らの力を誇り隣人を軽んじることでイエスを否定したことにあったといえよう。(中略)その誤りは、この世にキリスト教を伝えたことにあったのではなく、伝えた内容が十分にキリストを証ししていなかったことになる。キリスト教世界が熱意と信用を喪失してしまったことの対処は、イエスについてより少なく、宗教について多く語ることではない。むしろ、その逆である。(The Disavowal of Constantine, in The Royal Priesthood, p.257.)(p.181)
 ヨーダー先生いわく、勝利主義の問題は、「自らの力を誇り隣人を軽んじることでイエスを否定した」とまで言っておられる。これはその通りだと思う。神がついている自らには力があり、隣人に神から与えたもうたもの(発展途上国の自然や資源、農産物など)を奪い去ることも神の計画だ、と聖書の主張を誤って読み込んでしまっているのだ。イエスは旧約聖書の2大概念を整理されて話された時、(マタ  22:37)『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』(口語訳聖書)といわれ、それと同時に、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』とも仰せられた方なのではないかと思う。

 その意味で、ミーちゃんはーちゃん自身、伝えようとしている内容が「十分にキリストを証ししていなかったこと」がなかったかどうか、「十分にキリストを証しするよう」に語っているか、生きているかは自ら問われなければいけないとは思っている。そして、教会の中心であるナザレのイエスが、何を語ったのか、をきちんと聖書の中から、パウロも旧約聖書の中から当時のギリシア人、ローマ人にイエスが神であることを語ったように、ミーちゃんはーちゃんもまた、今おかれた場所で、今あるメディアでナザレのイエスが神であることを伝えていきたい、とこの部分を読みながら思った。

 以上で、この長期連載を終わりたい。お付き合いいただいた皆様に、こころから御礼を申し上げる。長くて、だらだらしていて、スマソ。



評価:
価格: ¥3,024
ショップ: 楽天ブックス
コメント:高いけどいいよ。ヨーダーと共に読むことをお勧めする。訳文もよい。

評価:
ポール マーシャル
いのちのことば社
---
コメント:絶賛である。神の国に生きるとはどのようなことかを示す名著。

   前回は、矢口論文からヨーダーの平和主義を中心に、ヨーダーの主新教派とのかかわり、平和主義をどう考えるのかという矢口論文の視点を紹介した。

なお、これまでの過去8回の連載記事は、以下の通り。

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(6) (09/10)
 
Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(7) (09/22)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(8) (09/24)


 今日は正義の戦争をどう考えるのかを引用して、矢口論文が提起した問題などから考えたメディアと戦争等に関することをたらたらと述べていきたい。今日は長め。

正義の戦争と情報
 矢口論文では、正義の戦争問題と情報について、メディアとのかかわりで、次のようにご指摘である。まず、これをもとに、メディアの問題を考えていきたい。
 正義の戦争の基準を明確に理解しても、正確な情報がない限り、基準に照らした判断ができない。しかし、戦争や戦局に関する情報は、強力に戦争当事国によって操作されることを私たちは知るようになった。有事の際には情報操作が起きるのである。従って、教会が正確な倫理的判断をするためには、独立した情報収集のネットワークが必要となる。そこまで考えなければ、正義の戦争は抽象論になってしまう。(p.137)
 ここで指摘されているとおり、近代社会において成立した国民国家によって戦争にまつわる情報は、操作されることは、日本の15年戦争期の報道を思い起こせば非常に明確に知ることができよう。戦争推進本部でもあった大本営は、ミッドウェー海戦で帝国海軍にとっての虎の子部隊である連合艦隊がボロボロにされた時、アメリカ側の被害のみを意図的に伝え、それも過大に伝え、戦闘の実情を粉飾したとさえいえる。ガダルカナル島での戦争の際には、全軍バラバラになっての敗走で前線兵士たちが病役と絶望的な飢餓状態に陥っても、なおさらそれを「転身」と言ってのける粉飾をした。戦争期に国策としてメディア統合の結果生まれた現在の全国紙の前身である朝日・毎日・読売は国家総動員体制の下、大本営発表を垂れ流しにし続けたメディアでもある。今日で終わる「花子とアン」の舞台の一つであるJOAK(NHKラジオ第1の東京放送局のコールサイン)はもともと国の行政機関のノリで、大本営発表を流し続けたのである。それを反省して、放送法では冒頭で原則を述べている。
第一条  この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
1 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
2   放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
3 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。
 なお、放送法は、放送にあたるものであり、戦前は新聞法があったが、現在では新聞法はわが国にはないので、個別法の制約を受けることなく、憲法に記載された言論の自由が追求できることは付記しておく。テレビが不偏不党を謳うのは、この放送法第1条に依拠している。

アメリカの「正義の戦争」とメディア
 アメリカは、第2次欧州戦争、15年戦争終結後(いわゆる第2次世界大戦)、旧ソ連(現ロシア)及び中国(といっても、中国は影響力が限られたので、朝鮮半島とインドシナ半島で対決したのみ)との冷戦期に入り、世界各地で直接ソ連と対峙しないものの、間接的に対峙してきた。そして起きたのがベトナム戦争である。ベトナム戦争は、ベトナムに民衆的近代国民国家を確立するという点では、確かに「正義の戦争」であるかに開戦当時はアメリカ人には見えたし、統合参謀本部と当時の三軍の長(アメリカ大統領の別称)は、そのことを盛んにアメリカ国内世論に向けて語った。

 そして、「ベトナム(というよりはアジア)に近代的民主主義を確立する」という「正義」のための「正義の戦争」であるがゆえに、戦争当初はかなりオープンに取材チームを受け入れた。そして、最前線まで彼らを案内している。その雰囲気は、ワンス・アンド・フォーエバー We Were Soldiers という映画にちらっと出てくる。しかし、戦争が後期になるにつれ、悲惨な現場の雰囲気や戦闘状況がアメリカの家庭のリビングルームのテレビで放送されたり中継されたりするにつれ、厭戦気分がアメリカ社会の中に広がっていく。もちろん、その裏側ではヒッピーたちの運動や、ババ・クリントン(ビル・クリントン元アメリカ合衆国大統領)が徴兵拒否したりとか、徴兵逃れをしたりすることなど社会の両面から起きたことはあるのだけれども。

 なお、1960年代初頭のアメリカにおける『正義』は、コンスタンティヌス的キリスト教』であり、(共産主義への対抗としての)民主主義』であった。この二つはかなり別物であるはずなのだが、当時のかなりの部分のアメリカ人の頭の中では、同一化していた模様である。

ベトナム戦争後のアメリカの
正義の戦争とメディア

 アメリカという国家は第2次世界大戦開戦以来、国連部隊ないし、連合国部隊という位置づけの中で、世界各国に出て行っては戦争をし続けてきた国であり、国民とその予備軍(アメリカで一定期間軍役につくと、アメリカの市民権が得られる仕組みになっている)に負担を強いてきた国である。その中には、本当にそれをする意味があったのかと思われるような戦闘行為や、あやふやな「どこぞの国が大量破壊兵器をもっているかもしれない」という情報をもとに小ブッシュがはじめてしまったWar on Terror等という戦争もあった。

 このあたりのことを考えたい人には、ミーちゃんはーちゃんはかなり左巻きな人であるので、マイケル・ムーアの「華氏911」をお勧めしておく。ミーちゃんはーちゃんは体格と性格がマイケル・ムーアそっくりなのがねぇ。

 ベトナム戦争以降の戦争、特に、このWar on Terrorでは、部隊の作戦情報の漏えい防止と部隊活動の安全性の確保、取材チームの安全性の確保をもとに、戦闘地での取材は著しく制限されるようになった。米国と戦闘地での断絶は、インターネットの世界の前には意味をもたず、情報の非対称性がそもそも成立しなかったからである。近年は、軍事無線がなくてもiPhoneで連絡を取り、iPhoneでGoogle Mapsを見ながらゲリラ部隊の皆さんも戦闘に利用できる時代である。つまり、ゲリラがスマホで使える時代であるが故の現象でもあるのではあるが。

 この結果、本来「正義の戦争」であるがゆえに、従来は堂々と取材させていた統合幕僚本部と統合作戦本部の皆様方が、取材チームにそうさせなくなっていったのである。それに伴い、アメリカでは、教会が以前は期待できたメディアによる「教会が正確な倫理的判断をするための(政府とは)独立した情報収集のネットワーク」の役割を既存のアメリカ合衆国におけるテレビや新聞といったマスメディアに依存できない現象が起きた、ということなのであろう。その意味で、「倫理的判断をするための(政府とは)独立した情報収集のネットワーク」が存在しなくなった現状では、矢口論文の指摘する

「正義の戦争は抽象論になってしまう」

状態がアメリカでも、そしてわが国でも起きていると言えるのではないだろうか。もう、日本の教会にとって「正義の戦争は抽象論になってしまう」という経験を、わが国では15年戦争期にも経験したし、そして、現在もなおその様な状況を経験し続けているのではないだろうか。ガザ地区の悲惨やISISをめぐる空爆、ボスニア空爆を見ても。あるいは、一連のオウム事件に絡む松本サリン・河野さん事件を通しても。

  振り返って我が国のキリスト教メディアを見るときに、既存の大新聞等が「教会が正確な倫理的判断をするための(政府とは)独立した情報収集のネットワーク」ではない現況にかんがみ、キリスト教メディアがそれに代わるかというと、取材力(人員)や資源・資金力において実に心もとない現状にあるような気がしてならない。 

平和主義者としての
ヨーダーのユニークさ

 ところで、ヨーダーという平和主義者が平和主義者なのに、正義の戦争論にかかわっているのだが、その背景について、矢口論文では、次のように説明している。
 第1にエキュメニカルな対話を開くためである。ヨーダーは対話相手の論理と言語を用いて対話に臨んだ。正義の戦争の伝統に立つ教会と対話するため、対話相手と同等、あるいはそれ以上に正義の戦争のことを知る必要があったのである。第2に、正義の戦争は容易に十字軍的な聖戦へと流れてしまうからである。聖戦がひとたび起こると、集団ヒステリーの中で思考が停止し、あらゆる極端な軍事行動が始まりかねない。それが歴史の教訓であろう。結局、正義の戦争の見張り番となることで、無意味な被害者を生みださないことにつながる。(p.137)
 まさに、アメリカで、War on Terrorが叫ばれた2001年の911のころ、アメリカという近代国家も、大概は能天気なカリフォルニア人も集団ヒステリー状態であった。2002年にカリフォルニアで1年過ごしたのだが、そこで、在外研究者対象としたセキュリティ関係の講習会で、2001年には、ロサンゼルスでもパスポートを持っていないのと、発音がおかしいだけで警察に通報され、コーカシア系(白人)でブロンドの北欧人の留学生がパスポート不所持で逮捕されたというような話を聞いた。普段から外国からの観光客の覆いロスアンゼルスでもそんな感じだというのだから、もうこれは集団ヒステリー以外の何物でもない。2002年から2003年もまだそのヒステリーの残滓は残っていた。

 以前にも触れたが、小ブッシュ政権は、イラク戦争を始めるにあたって、十字軍(Crusader)という用語を使っている。その時のホワイトハウスのブッシュ元大統領の発言記録はこちら。まさに、十字軍的な聖戦に流れてしまっていた感じがある。カリフォルニアの現地校の熱心なキリスト者の先生と仲良しになったのだが、その先生によると、キリスト教的な観点から平和を維持すべきだと思っていたが、学校の先生用ラウンジで戦争の是非についてすら話すことができない状態であった、と言っておられた。

 カリフォルニアにいた頃通っていた、割とリベラルな教会でも、元軍人が多かったこともあり、「イラクに行っている兵士のために祈ろう」とか、「我らが大統領は、日々神への祈りをもって政治決断をしている。こんな大統領のいるアメリカは素晴らしい」とかいう年長の信徒さんなんかもいて、普段の柔らかい物腰の皆さん方だったんで、「この人たちの頭の中は、こうなんだ」とちらっと驚いた記憶がある。

対話における他者理解について
 個人的に重要だと思うのは、ヨーダーの対話の手法であるとされた「第1にエキュメニカルな対話を開くためである。ヨーダーは対話相手の論理と言語を用いて対話に臨んだ」という矢口論文の指摘である。

 我々が他の宗教的背景を持つ人や他の宗教者の方々と対話するときに、国家総動員法における一体化を目指したエキュメニカルではなく、多様性と他者を尊重しながらの一致点tの相違点を求めるようなエキュメニカルを目指すものとしてのヨーダーのような対話の技法を持っているだろうか、という点である。つまり、相手の論理と言語を理解して、自分自身で消化した上で対話というか護教的な対話に臨んでいるか、弁証しているか、と言われたら非常に心もとないのではないか。自分の論理を自分の言葉で振り回し、「これが真理であるぞよ、恐れ入れ、聞く耳もないものも聞け」とやっていることは、ないだろうか。

 それこそ、情報の非対称性(話している相手が話者の主題が十分理解できていない、そのことに関する情報が十分ない状態)を悪用して、対抗できない人たちに、無理やり自分が福音であると思い込んでいるものを無理やり他者に突っ込んでないだろうか。それは、どうもヨーダーの方法論ではないようだ。現代のポストモダンの世界において、このようなヨーダーの対話の技法、対話のアルテは重要なのではないか。それは、他者の意図と意味をくみ取るという、傾聴の精神にもつながるように思うのだけどなぁ。

次回、最終回。大団円へと続く。




 
評価:
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コメント:高いんでレンタルで借りてみてね。

 さて、前回からは、「ジョン・H・ヨーダーの神学」の第4章矢口論文を紹介しながら、キリスト教と平和運動、「この世に平和をもたらすものは神の子と呼ばれる」とナザレのイエスが言ったにもかかわらず、平和をもたらすことができなかったキリスト教会についてヨーダーがどういっているのか、ということをたらたらと考えて来た。
 
Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(6) (09/10)
 
Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(7) (09/22)

ヨーダーとイエスの政治経済学

 そして、ヨーダーの主著とされているイエスの政治について、矢口論文は次のように評している。
 『イエスの政治』の2章は「近づく神の国」とい う表題がつけられ、そこでヨーダーは「ルカによる福音書」の社会倫理的解き明かしを試みている。ヨーダーによると福音書のイエスは国や義、法、金、敵を話題にする。それは社会倫理にかかわるものである。政治にもかかわる。イエスが神を語る時のことばは抽象的なものではない。イエスの祈りさえもが政治的な言葉遣いによる。従って、福音書のイエスから社会倫理を排除すること、つまりイエスを非政治化することには、イエスの言葉と行動自体が反対する。 (p.119)

この記述を見る限り、ヨーダー先生にとって、神の国とは、死んだ後行く天国の話では全くなくて、この世にもその一部が反映されるものであり、それは、「義、法、金、敵」といったこの地上の物事と深くかかわる具体的な事柄となっていて、それを、神の民がどう考えるかを問うていると議論しているようである。ヨーダー先生にとっては、神の国(のその一部)は、もっとリアルなものだということらしい。もう少しいうと、ヨーダー先生の議論は、「クリスチャンは、神の民として、この地上の生において、様々なものとかかかわる中で神の国を不完全ながらも実現する存在」ということなのだろう。つまり、この世でキリスト者として生きるということは、これらのものと距離をとり、教会や信仰の世界に立てこもり、世捨て人のように生きることではない、という理解のようだ。そして、自分のおこころではなく、神の御思いを政治的にも神と共に実現していく存在だということらしい。

ヨベルの年と神に造られた人間としての回復


旧約聖書にあるヨベルの年と基督にある社会の再編、人間の回復、教会論として、ヨーダーが述べていることを矢田論文は次のように整理している。

 「主の恵みの年」を旧約聖書のヨベルの年と結びつけることによって、それが経済的、政治的再編成をもたらすことをヨーダーは見抜いた。12名の選出、つまりイスラエルの初穂は新しい社会的実現の確立として読める。それは信仰共同体の形成である。社会政治的行為である。(p.120)

 この辺、NTライトなんかが、ヨベルの年ということで途上国の債務放棄を先進国はすべきだ、を言いだしたことと深い関係がありそうだ。つまり、ヨベルの年として、先進国が後進国に化している開発援助関係に関する債権を一部放棄することで、人々の自由な動きや生き方を制限するような拘束となりかねない借金から解放するべきだと主張したようだ。それは、我々が、神の前に払いきれない借金をイエスという神を通して棒引きしてもらったから、ということもあるようだ。つまり、イエスのいう「救い」とは、「罪からの脱出」ということだけでなく、「より自由な神の人として生き生きとした生の回復」ってことなのだろう。


教会の政治的役割について語るNTライト

社会的権力をも支配するイエス

 多くの場合、誤解されていることではあるが、イエスは、社会的権力を直接自分自身が振り回すことを拒否しているものの、しかしその社会的権力をすら支配する神の国の支配者としてこの地に来られたというのが旧新約聖書を通してのメシアの姿だと思う。
 社会的権力をイエスが拒絶したことが、社会性や政治性、経済性の否定を意味するのではないということである。力や権力、暴力を基盤としない「イエスの政治」性、「イエスの経済」性、すなわちイエスの社会倫理が新約聖書の中に現存するのである。(中略)ヨーダーの意図は福音書と新約聖書の他の部分、とくにパウロ書簡とが社会倫理に関して断絶していないと示すことにある。「イエスの示した生き方が[新約聖書の]多様な語義的・文化的様式の中に継承された事実」(イエスの政治117頁以下)を示そうとするのだ。(p.121)
ここを読みながら、思ったことはヨーダー先生が、「イエスの政治」性、「イエスの経済」性が新約聖書の中に書かれているということを指摘しておられる点である。特に、これから就職しようとする若い人々に対して、信仰が重要であり信仰が重要であるがゆえに実業である労働とか就労することを否定的にいう人々がキリスト教界の中にいないわけではない。しかし、そもそも、イエスの福音書における言動を見る限り、この世界と分離的に生きておられるわけでなく、無視しているでもなく、それと共に生きる生活が示されているし、パウロにおいても、そのことが継承されておられることをヨーダー先生はご指摘である。その意味で、キリスト者であるがゆえに、社会に生きる意味があるのであり、キリスト者であるがゆえに教会やキリスト教業界に立て篭もることだけが、キリスト者の生き方でないことを示しておられるようである。

持続的メシア共同体としての教会
 そして、持続的メシア中心の共同体としての教会について、矢田論文では、次のように言及がなされている。

 生活を共有する中で、神の国さきがけを体験している共同体である。個人的問題としての善悪や人格的向上が否定されるわけではない。しかし、メシア的共同体の生き方は、社会のための生き方なのである。それが共同体であるのは、契約を交わした人たちが教えあい、赦しあい、重荷を分かち合い、互いの証を強めあうからである。
 新しい驚くべき
生き方、即ち敵を愛する生き方を具現する共同体の存在は、それ自体新しい社会現象である。個人的レベルで問題提起したり、人々の関心を集めたりすることを否定しようとしているのではない。ただ、世の中を変えることができるのは、この世とは異なる価値体系を堅持する持続的共同体だけなのだと言いたいのである。(p.126)
ここで、おもしろいのは、「教会の生き方は社会のための生き方」という指摘であると思う。これまで、ミーちゃんはーちゃんのいるキリスト者集団では、社会を否定的に扱うあまり、教会共同体での生き方は社会のための生き方というものではなかった。社会は伝道の対象のみとして見ていたり、社会は悪魔の支配するろくでもないもの(→自分たちだけはまともである、ということが暗黙に想定されている)としてみる見方が支配的であった。しかし、ヨーダー先生はそうではなく、社会と共生する、社会にいる人々にキリストと共に生きる価値観を持つ集団、そのような共同体が存在することで、社会の中で、神の存在を示し、そして、伸ばされた手を示すとともに、社会からのばされた手を受け入れていく場として、神という教会の中心におられて、神を価値体系の根源に据える教会があるということの重要性を説いておられるようである。

 次回へと続く
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コメント:抵抗運動のなかで生きたキリスト者の生涯の比較と抵抗活動の源泉についての本

 いやぁ、いよいよやってきましたね。今年もあの季節ですよ。

 あの季節って、「お・は・ぎ」の季節や墓参りの季節ではなくて、「い・の・フェス」の季節ですよ。そう、ウルトラ超教派のキリスト教業界最大の若者の集い、「い・の・フェス」ですよ。

 お約束通り、ミーちゃんはーちゃんもHomer SimpsonのTシャツにBlue Pantsで、参加するしぃ。



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いのフェス2014
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それでは、明日、早稲田奉仕園で。

  前回は、藤原論文を中心にヨーダーの教会論を中心に、教会と社会とのかかわりと、結論として、日本の教会としてどうヨーダーと向き合っていくのかという藤原論文の視点を紹介した。

なお、これまでの過去6回の連載記事は、以下の通り。
 
Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(1) (08/23)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(2) (08/25)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(3)(08/30)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(4) (09/03)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(5) (09/08)

Meta思考ができる人、できない人 ジョン・ヨーダーから考える(6) (09/10)


 今日は、第4章矢口論文「J・H・ヨーダーの平和神学、平和倫理」から紹介しながらいつもの如く、たらたらと考えてみたい。

平和主義はキリスト教で一般的ではない?

 ジョン・ハワード・ヨーダーは平和主義の立場に立つ神学者として知られている。そのこと自体がヨーダーをユニークな存在とする。なぜならば、平和主義はキリスト教の一般的な考え方ではないからである。(pp.109-110)

 一瞬、「平和主義はキリスト教の一般的な考え方ではない」という部分を見たとき、「・・・・」となってしまった。確かに、キリスト教は、これまで、神学論争を繰り返してきたし、キリスト教の一部に、黒い革表紙のHoly Bibleって書いてある本の一部の記載を先頭マニュアルもどきに使う人もいるし、ネット業界では「戦闘民族説」まである。それだけ、弁証論というのか、自己の聖書理解の発展を追求する先鋭化が進んできたことは間違いない。

正義の戦争はあるか?
 2002年にアメリカにいたときは、2001年にニューヨークに民間航空機を使って、テロが行われたいわゆる911事件があったために、アメリカ国内がWar on Terrorという見方一色に包まれて、あれ、アメリカ人の皆さんも「超ご機嫌ななめ状態?」なのか「集団ヒステリー状態?」になっていた。もう、「ウサマ・ビン・ラディンをぶっ潰せ」モードになっていたのが、いつの間にか「打倒フセイン」モードになってしまって、「大量破壊兵器を持つ国はぶっ潰せ」モードになっていたけど、そういうんだったら、まず、アメリカ合衆国とロシアをまず破壊しないといけないんじゃないか、と素直に思ったものであった。ただし、そんなこと言ったら、強制送還されかねない雰囲気があった。これに関して、矢口論文では、次のようにご指摘である。

 「正義の戦争」は聖書的裏付けをもたない。イエス・キリストのことばとは無関係である。一般にはキケロなどにだ表されるローマの政治哲学がそのルーツとされる。現在のパレスティナ地方で帯同したキリスト教は、1世紀のローマ帝国の中で展開し、その過程でギリシア・ローマの言語、思想、文化、風種と接触し、ある時はそれを拒絶し、またある時はそれを受容し、さらにはいろいろなものを融合していった。(中略)キリスト教内部で、「正義の戦争」が大きな批判にさらされることなく継承されてきたことは注目に値する。キリストの中心性を固持する伝統においても、戦争の問題だけは見逃される傾向が認められる。戦争を問題視してきたのは、キリスト教内の少数派なのである。(pp.111-112)
 下記リンクで紹介するPreston SprinkleさんのFightでも指摘されていたことだが、戦闘するのは、「神の義の実現として当然だ」とされすぎていて、「戦争をするのは当然だ」、「国家の権能として戦争をするのは妥当だ」と言われてきて、「正義の戦争」はキリスト教の世界の中で当たり前のものとされてきたらしい。残念な傾向である。それは、普通の世間の人が持つ、『羊のような温和で柔和なキリスト教徒』の皮を一枚めくると『狼のように凶暴で、戦闘的なキリスト教徒』が待っていて、このあたりどう処理していいのかわからなくて、日本の多く人々が突然怒り出したり、突然、神の名を口にし、決死の形相で伝道するキリスト教徒に当惑することも少なくないのだろう。

「羊」の皮で偽装した「虎」?
 キリスト教のかなりの部分では、確かに、『羊のような温和で柔和なキリスト教徒』の皮を被った『狼のように凶暴で、戦闘的なキリスト教徒』がいないわけではない。特にこの傾向はアメリカのキリスト教界の中でかなり強いような気もする。

 ところが、キリスト教における平和主義を主張する、ジョン・H・ヨーダーさんが、実は、そもそもその少数派の中のアナバプティスト派のメノナイト・ブラザレンのご出身だったものなので、今一つアメリカ社会の中でもメジャーでない雰囲気はある。まぁ、少数派で変わっていて、かなり閉鎖的な社会をつくるアーミッシュとも関連が深い、メノナイト・ブラザレンの代表的神学者であるヨーダーさんは、メノナイトの出身だというので、自動的にセクト的(分派的・分離派的)というラベルが貼られてきたような気がする。

キリスト者としてカトリックに求められる
平和を生み出す民として生きる
 そういうこともあって、彼が言ったこともほとんどのキリスト教徒や神学者からは、わしらと直接関係ないし、と思われてたし言われたらしい。残念な傾向である。しかしである、

 ヨーダーは自分の立場がカトリックであることを主張する。この場合の「カトリック」はローマ・カトリックのことではない。ラテン語の原義にある「普遍的」という意味である。(中略)イエスを、メシアと認めるすべての信者の耳に響かなければならない内容だと主張する。(中略)ヨーダーは一歩踏み込んで、平和を生きることが、ディサイプルシップが、すべてのキリストを信じる者にとって「規範」なのだという。それは信仰の核心部分にかかわる、と。(p.114)
ということらしい。本来的に、キリストの弟子であることは、普遍的に平和的であることをもめられ、神の国の支配を表す、そして平和を作り出すことになるのではないか、というのがヨーダー先生のご主張のようである。まぁ、これはそうなのだろうと思う。だって、山上の説教の中で、イエスはこう言っておられる。

マタイ福音書
 5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
と書かれているのである。我らが神の子であるならば、平和を作り出すものであるはずであるし、もし、我らが平和を作り出すものであるとするならば、神から「我が子らよ」と呼ばれるのではないか、というのが、イエスのご主張なのではないか、というのがジョン・H・ヨーダー先生のご主張らしい。その意味で、神に造られしものである他者を尊重するものとして、神に造られし我らが生きるべきではないか、共に生きる在留異邦人を軽んじてはならない、と仰せになった旧約の神を我らがどう考えるのか、を問うておられるようである。

 次回へと続く
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コメント:アメリカの福音派の海兵隊出身の若手の神学者のPreston Sprinkleの書いたキリスト教徒戦闘をどう考えるか、の本。

 これまで、続 教会学校にお小さい皆さんが減った理由というヘビーな連載がそれも毎日!、続いたので、ちょっと軽めで短めの記事を。でも、深刻だけどね。

この記事の出発点

 教会学校にお小さい皆さんが減った理由(もともとの生活時間編と続編)というシリーズのきっかけをくださって、いつもいインスパイアリングな視点をくださるS先生がある図を紹介しておられた。それが以下の図1であり、これまでから今後に至る日本の人口構成を示したものであった。

 図1 日本の将来推計人口の変遷

 この図でもいいのだが、これを地図にできないか、ってことを考えてみたのだ。それで、ミーちゃんはーちゃんが持っている技術で立体地図GIFアニメを作ってみると、こんな感じ(図2)である。なお、データはここから頂戴した。

国立社会保障・人口問題研究所のサイト
 『日本の地域別将来推計人口』(平成25年3月推計)

なお、このデータは、中位数(ちょうど真ん中ぐらい)のあまり悲観的なデータでなくても、実情としてはこういう感じになりそうらしい。人口予測はこんな楽観的なものではないはずだとか、データに関して、文句があったら、国立社会保障・人口問題研究所に直接ご連絡いただきたい。地図への文句は受け付けてます。

首都圏における若年人口の推移の動画

 図2は2010年を100とし、そのあと、5年ごとにどの程度変化するのかを、高さと彩色で示してみた図である。

 なお、以下の図2での彩色は、

 緑は100以上
 薄い緑は80₋100
 黄緑は60₋80
 黄色は40-60
 茶色は20-40
 赤色は20以下

である。


図3 首都圏の2015年から2040年に至る15歳以下の人口推移

 首都圏で、2010年前後の15歳以下の人口を2040年でもかろうじて維持できるのは、都心付近とそもそも人口が少ない自治体と、都心から比較的近い江東区や、埼玉県吉川市、千葉市中央区、特殊要因(転勤による流入者の多い)茨城県つくば市、千葉県成田市等である。

 人口減の影響の比較的軽微な首都圏ですら、この状況である。他の地域については「ご同情申し上げる」としか言いようがない。また、最新のデータは、2011年以降の推計データらしく、この市町村別予測統計データについては、福島県に関するデータはそもそも存在していなかった(あるいは非公開であった)ことを申し述べておきたい。

首都圏における高齢者人口の推移の動画
 図3は2010年を100とし、そのあと、5年ごとにどの程度変化するのかを、高さと彩色で示してみた図である。

 なお、以下の図3での彩色は、

 緑は60以下
 薄い緑は60₋100
 黄緑は100₋140
 黄色は140-180
 茶色は180-220
 赤色は220以上

高さ表現は、若年層の半分に抑えている。そうしないと飛び出し感がハンパないので。


図3 首都圏の2015年から2040年に至る65歳以上の人口推移

しかし、高齢者層の増加は、中央線や西武線沿線の郊外地区で始まり、そして、2040年ころには、東京西部の多摩ニュータウン、東京の東郊外の千葉県幕張市、白井市、印西市、千葉市緑区、守谷市あたりでも急速に高まり、これら地域での急増は、ニュータウン開発のツケであり、このニュータウン開発によって持たされるツケを、これらの市町村とその市民がいずれ、何らかの形で支払うことを意味している。

 まぁ、館山や南房総市や群馬県下仁田町や南牧町などのように、将来、高齢者自体の減少も予測されている市町村もあるけれども。

人口の急激な変化が地域教会にも影響
 いずれにせよ、ニュータウンで15歳以下の人口減少と65歳以上の人口増加が予測されるとすれば、その地域にある教会やそれを取り巻くキリスト教業界は、構成員の点でも、この状況に直面することをぼちぼちご覚悟召されたほうがよいと思う。

 従来ならば、「大学生クリスチャンがはつらつと賛美をささげる日本の成長する聖書的教会」ということが関心だったかもしれないが、「高齢者クリスチャンがかつて流行した丘歌(Hill Son**)の礼賛歌謡を民謡のような節回しで讃美をささげる日本の成長する聖書的教会」と言う特集記事が、日本のキリスト教業界メディアで取り上げられる日もそう遠くない未来かもしれない。冗談ではなく。

 アメリカで、そういう教会見てきたから、個人的にはそういう大きい方がかつて流行したノリノリの讃美歌を礼拝で歌うってのはありと思う。ものすごいおっきい方がノリノリで讃美歌歌う。個人的には、そういうのはめちゃくちゃ好きかも。むしろ。






 さて、これまで、ソーシャルネットワークや、人間関係ネットワークの基礎を見て、伝道とネットワークとのかかわり、子供のソーシャル・ネットワーク構築と都市空間、キリスト者家庭のお小さい方々のソーシャルネットワークの脆弱性、生育過程の友人関係の中での制限とお小さい方の交友関係の制約、そして、キリスト者家庭の子供が、あまり意識してないかもしれないが、ダブルバインドに直面している可能性などにさらっと触れてきた。今回最後のテーマとして、個人に頼る伝道方法の危険と現状の打開策について触れて、本シリーズを終わりたい。

そもそもの出発点。 生活時間編

日曜学校におちいさい皆さんが減った理由

教会に中学生の皆さんが減ったかもしれない理由
 
このシリーズ。

続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その1

続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その2

続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その3

続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その4

続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その5


続 教会学校におちいさい皆さんが減った理由(人間関係編) その6


個人に伝道を頼る危険性

 確かに、キリスト教がこれまで伝播拡散する際に、ネットワークの影響力の大きいノード(たとえばコンスタンティヌスとか、大友宗麟とか)への伝道をして伝わってきたことは間違いないし、明治期以降の日本においても、当時のハイテクであった雑誌メディアを駆使した内村鑑三先生やら、社会運動にもひるまずに向かって言った賀川豊彦先生やらがおられた。それは影響力を持ったし、また、信徒も急激に増加したであろう。

 それは悪いことでもない。一定の評価はされてしかるべきであろう。

人はメシアにはなれません

 しかし、それは、そういう際立った働きをする個人とその信仰を痛める可能性があるのだ。それは、人間は、神ではないし、メシアではないからだ。限りあるいのちがあるものだからなのだ。いずれ、如何に際だった働きをしても、この世から消えていかねばならない。モーセ先生であっても消えて行かれたのだ。だからこそ、教会の指導者の継承が絶対に必要なのである。

カルト化の危険と個人依存

 それと、個人に頼った伝道をすることは、教会という共同体自体が多様性を失うことに他ならない。というのは、個人に頼った伝道となってしまえば、本人は意図してないとは言え、どうしても似たような人が集まってしまうのだ。その結果、何となく、雰囲気のそろった人しか来なくなってしまって、本来神が愛したもうた世界の多様性を反映しないものになるからである。それは、これまでの連載でチラチラ触れてきたが、本来、多様性を持つ人々が公共空間であるべきはずの教会を単一的な社会となる一種の社会クラブのような存在にしてしまいかねない危険性を持つのだ。そんな存在は、クラブという飲み屋か、イギリスのパブだけにして置いていただきたい。

 また、同質性がきつくなると、社会集団の構成員に同化を求める精神性が強くなるので、カルト化の問題を生む素地となりやすいような気がする。その意味で、教会が多様な人々が多様な人々と、神と共に歩む社会であるとええのになぁ、とミーちゃんはーちゃんは思っている。

どうすればいい

 では、「どうすればいいのか」、「もう一度子供たちが教会に集まるにはどうすればいいのか」と諸賢はお尋ねになるかもしれない。そんなものわかれば、ミーちゃんはーちゃんも苦労はしない。

 答えはないし、特効薬はない、と思うのだ。

 なぜかと言うと、それぞれの教会ごとに特性や徳性が違うし、味わいが違うし、性質が違うのだ。教会は家電製品やコンビニのおにぎりのようなマスプロ製品ではない。神が個別に働きかけ、作り上げられていくものだと思う。また、一つの教会であっても、時間的にも同質性は保証されない「生き物」あるいは、『生かされているもの』ものであることを、我等はもうちょっと考えたほうがよいかもしれない。

 少し考えてみてほしい。ボルトという現在、100m走での世界記録保持者がいるが、彼にマラソンを走らしたところで、世界最速になれないのだ。そもそも、マラソン選手と100m競争の選手は求められているものが違うのだ。それをいっしょくたに一般化して議論して何になろう(と、一般システム理論の徒が言うなって?でもそうなんだから仕方がない。一般化しようとすると、「人はそれぞれそもそも違う」という観測によってはじめて、メタ概念としての観測結果である「世の中のものに個別性が存在する」という一般理論が成立する、という事実は指摘できる。ww)。


ボルト ジャマイカって好きだなぁ

人と出会い、共に生きるものとしてのキリスト者
 お小さい方々が教会にあつまるにはどうすればいいのか、という一般的なお答えはない。ただ、共に生きようとする人と共に人はともに生きようとするということだけは忘れてはならないし、少なくとも、教会人が自分と違う他者と出会い、受け入れることを恐れてはならないのではないだろうか。

 このことを、ジャン・ヴァニエは『人と出会うこと』で指摘していたように思うし、そのためにイエスは、自らの神の座を捨て、そして、この地で人として人と共に生きられたのではなかったか。人を支配するでもなく、人の指導者となるでもなく。そして、ボンフェファ先生は、ナチスドイツ支配下のドイツで、若者と共同体を作りながら「共に生きる生活」を実践された方である。そして、教会が神と共に、そして神とともに生きる人々とともに生きる者の集合体であることを「共に生きる生活」で示されていたと思う。これらのことを考えたい向きに最下部のリンクにて関連書籍を紹介する。

 宣教地として、人を獲得する、人をとりあえず集めるという思考法から脱出し、人と出会い、神と人ともに生きるという思考法に移行するキリスト者とキリスト教界に移行して行ってくれたらなぁ、と素朴に思う。キリスト者が社会のメジャープレーヤーとなって、コンスタンティヌス的教会形成を目指すのではなく。

 それは、お小さい方の伝道というか、お小さい方々と我々が出会っていく中で、我々とお小さい方とのちっちゃなアイスブレーカーをたくさん積み重ねていき、時間とともに変わっていくお小さい方とのコミュニティの中で、そこにおられるナザレのイエスを共に見つめることなのだと思う。イエスやパウロを教えるでもなく、イエスやパウロの言ったことのみを教えるでもなく。

キリスト者の大きい皆さんや、
もっと大きい皆さん方にお願いしたいこと

 そして、キリスト教界の大人の方にお願いしたいことが一つある。皆さんの身近におられるお小さい方を皆さんの道具や、宣教のための手段にしないでほしいと言うことです。彼らの生き方や彼らのいのちは、親のものではないし、周囲の大人のものではない。子供たちを無理強いしないでほしい。

 お小さい方の生き方やいのち、それは、そもそも、神のものであり、神からお小さい方一人一人に委ねられ彼らのものである。その神のものをあたかも自分たちのものであるかのように流用や自分たちの伝道という目的の為に利用するのはお止め頂きたい。目的が伝道であり、仮に崇高なものであると仮定したとしても、それは神の権限と尊厳を教会の大きい方が侵害することになるのではないか、と思う。

Jusus Campから ボーリング場で、神に示されたと大人に伝道する少女



子供をミニ伝道者とすること

 そして、子供が子供らしくお小さい方が生きることができるといいなぁ、それを神は喜ばれるのではないかなぁ、と思う。こまっちゃくれたミニ伝道者、伝道にいのちをささげるミニキリスト者として生きるように仕向けることは可能であるが、その様に子供に強いることを神が望んでおられるのだろうか、ということは考えてもいいかもしれない。

 そんなのは、ミーちゃんはーちゃんはいやで御座る。それは、神が与えたもうた選択肢を大人の都合で選択肢を本人の理解や意思とは関係なく狭めてしまうからだ。そして、西洋だと、子供十字軍、日本では、陸軍少年航空兵、お隣の中華人民共和国では紅小兵、近年のアフリカでの少年兵、クメールルージュ下での子供に犯罪性の判断をさせたりする黒歴史とどっかつながっているからである。

 さて、ここまでこの長い連載にお付き合いいただいた皆様に、心から感謝いたします。

 業務連絡
  Nobu先生  
    御要望にお応えして、このシリーズ作成しましたので、先生のブログで
   感想などお聞かせいただけたら、幸甚です。



評価:
ヘンリ・J.M.ナウウェン
女子パウロ会
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コメント:いい本だけど、英語の方がわかりやすいかも


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