2017.02.22 Wednesday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その36

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    まぁ、いい加減同じような話を繰り返しているので、呆れられている方もおられるとは思うが、ミーちゃんはーちゃんにとっては、面白いんだからしょうがない。今日も、いつものようにN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』から読んでオモシロイと思ったあたりのことを書いてみたい。


    聖餐式のコップ論争
    プラスティックのコップなどうのこうのというところについて、前々回少し議論を拡げたが、アメリカにいる時、あるキリスト教書店に行った時に、こんな商品がおいてあったのでびっくりしたのである。

     

    ホスティア付き聖餐式キット 

    http://www.celebratecommunion.com/prefilled-communion-cups-with-wafers-free-sample-box.html 

     

    プラスティックカップのみならず、聖餐式のパンまですでに封入されて、これだけ貰えれば、一人で聖餐式ができるようになっている。アメリカ人らしい発想の商品だなぁ、と思ったことがある。ぶどうジュースとパンをセットにして封入しているのである。

    おそらくは、ラジオで説教聞きながら、会堂に入らずに礼拝をするような教会とか、メガチャーチとかで、パンを配るのがものすごく大変な教会とか、そういう教会のために開発されたものではないか、と思う。まぁ、ここまで、やるか、と思ったけれども、行き着く先はここなのだろう。

     

    お友達のミゾタさんが調べ上げたところによると、聖餐式のコップを分けて、銘々皿ならぬ銘々コップにしたのは、どうもアフリカ系アメリカ人差別が関係しているのではないのか、ということであった。一種人種差別と関係しているかもしれないというニュアンスがあるのである。本当にそれが原因なのかどうかについては、今のところ保留している。

     

    以前、同信会さんというエクスクルーシブ・ブラザレン系の教会の歴史が同信会関係のサイトに上がっていたところでは、割と古くから、別々のコップ(と言うよりは個人専用の湯呑み)がそこでは使われていたことが記載されていた。それは、どうも、昔は日本人の死亡率の堂々の第1位出会った結核(労咳)の感染を防止するためであったと書いてあったようなきがする。

     

    このような伝染病を始めとする社会的な問題と聖餐の問題はキリスト教の礼拝の儀式の様式に影響を与えていることは少なくないと思う。ただ、問題は、どのような方法でするかとか、どのようなスタイルでやるかということよりも、その象徴的なものが何を指し示しているのか、ということの理解であって、かたちそのものではない。ともすれば、どんな様式でするかにばかり、我々は目が行きがちであるが、何を見るべきかに関して、ライトさんは次のように書いている。

     

    ぶどう酒のグラスとプラスチックカップのことに戻ってみよう。ある教会では、(いわば)最高級のグラスを購入しても、ぶどう酒の質を誰も気にかけないことがある。同様に、グラスをやめプラスチックに変えたことを誇る教会でも、実質的な意味より、外見に注意が向いていることがある。 (クリスチャンであるとは p.221)

     

    外形的なものも重要だとは思うけど、問題は必要以上に外形的なものに拘って、実質的、本質的なところに目が行かないことが多いことかと思う。

     

    個人的に、昔ある方の結婚式記念で頂いた、錫(ピーター)製のコップでの聖餐が非常に好きであった。どっしりとして、夏でも冷たい重たい肉厚の錫のコップ派、実に口当たりも良く、硝子のコップのように肌をさすところがなく、安心感が漂っていたのであった。ただし中身は、ウェルチのぶどうジュースであったけれども。

     

     

    錫製のカップ こんな感じのものでした。

     

     

    プラスチックカップの聖餐とミーちゃんはーちゃん

    もともといた教会でも、新型インフルエンザが流行したことを契機に、開拓した宣教師の希望もあり、もともとのピーター製の一つのコップを回し飲みするかたちの聖餐式から、小分けしたプラスティック製のディスポーザブル・カップに変えたら、もとに戻らなくなった。変えてしまうと、もとに戻らないこともあるように思う。

     

    ところで、プラスティックではなく、ガラスカップという説もあったのだが、誰が洗うのか問題が出て、これは実務を担う婦人会の皆さんからの大反対で、ガラスカップではなく、いきなりプラスチックカップになった。まぁ、儀式的なことや象徴性をあまり重視しない(それはミーちゃんはーちゃんにとっては残念なことであったが)教会であったので、その意味では似つかわしいカップだったかもしれないと思っている。しかし、今、こういうことを大事にする教派にいるので、その意味で、今はかなり幸せである。

     

    赤玉ポートワインを使っていたなぁ

    禁酒運動の影響を受けて、もともといた教派での教理が形成された経緯もあったので、厳格な禁酒を是とする教会で育ったため、お酒は飲まない人になった。そのため、ミーちゃんはーちゃんには、ブドウ酒の善し悪しがわからない。最初は、赤玉ポートワインを使っていたが、いろんな議論を経て、未成年者とアルコール不耐症の人がいたため、ある段階から、最終的にぶどう酒ではなく、ぶどうジュースとなった。ぶどう酒は酸化が激しいので、サントリーのぶどう酒の代替品として日本国内で作られた、赤玉ポートワインを利用しているところは多かったのではないか、と思う。1週間で、ぶどう酒一本を開けるような教会も少ないから、赤玉ポートワインのような実質発酵をさせないようにしているワインとならざるをえないのはわからなくもない。

     

    ところで、完全に余談になるが、最近でこそ、国産ワインなども出回るようになり、輸送技術の変化もあり、海外さんワインなども大量に入ってくるようになり、日本でのボジョレヌーボー騒ぎにも見られるように、それなりにワイン文化もかなり変形しながら持ち込まれるようになってきたようであるけれども。教会でどんなワインか、ぶどうジュースがつかわれているのかは、一度調べたら面白いかもしれない、と思う。

     

    前回紹介した土の陶器製の聖餐式のコップというのがいいなぁ、と思ったのは、あのコップは、正に天と地が一つになっている、ということを表しているからかも、と思ったのである。人間という土の器が、神の霊をいだき、イエスをうちに抱くその姿を示しているという意味でも、いいなぁ、と思ったのである。
     

    ここで、「プラスチックに変えたことを誇る教会でも、実質的な意味より、外見に注意が向いていることがある。」ということは、象徴とその指示すもの、という関係をよく捉えていると思う。結局象徴とその表面を見るのではなく、象徴を指し示してしているものや、指し示し方の段階で心や思索が止まってしまい、本来見るべき象徴が指し示している存在、その象徴の奥にある存在であるべき、神や、神の臨在、神ご自身の関与、と言ったことに目が向かないことは多く、その表面的なレベルでしか他者に関与していかない底の浅さのようなもの、本来見るべき神の姿と神の似姿や、神のかたち、ないし、神のかたちのかたちに現れる神の姿に目が向けられず、本質的な議論がなされないのは、実に残念ではないかなぁ、と思ったりはしている。

     

     

    本末転倒・・・
    教会改革というのはあちらこちらで起きているし、試みられている。しかし、そこでは、本来取り分けるべきものも、古いから、と言ってゴミのように捨ててしまう例、あるいは、お湯と一緒に赤子を流してしまった事例が結構見られるように思う。その辺のことについて、ライトさんは次のように書いている。

     

    何れにせよ危険性は、いわゆる「カトリック的な儀式」に限定されるわけではない。十字を切るにあたって、正しい時に正しい仕方ですることに拘る人もいれば、礼拝中に手を上げることにこだわる人もいる。また、十字を切ったり、手を上げたり、その他の動作を何もBしなくてよいBと主張する人もいる。私はある時、全く見当違いに驚かされたことがあった。ある教会では、ガウンを着た聖歌隊とオルガニストを、あまりに『プロフェッショナル』に見えるからと廃止したのだ。その後、その教会では6名の人を雇った。彼らは礼拝中ずっと音量のダイアルを回し、レバーを調節し、音質と照明とプロジェクターを操作している。(同書 p.221)

     

     

    確かに、伝統教派は儀式的で良くないとかいう方々がおられるが、そのような方々は、ご自身たちが、聖書を毎日読むという儀式、聖書を開けるという儀式、そして、読んだ気になるような儀式にとらわれているとも言えるかもしれない。前位にもここで書いたかもしれないが、ミーちゃんはーちゃんの出会った御高齢のご婦人方の中に、自分は聖書が読めないからキリスト教徒としてだめなんじゃないか、と言い出した方がおられた。それを思った時に、結局聖書を開けて文字を読むという儀式にとらわれておられたような気がする。聖書を読むことがその方にとって目的化しているのではないか、と正直思ったのである。聖書信仰派的な儀式ができていたり、○○派的な儀式ができているんじゃないか、と思う。その意味で、かたちにとらわれるのではなく、その奥にあるものを追求することこそが大事なのではないか、と思う。

     

    礼拝と静まりの意味

    礼拝と静まりの関して、上のようなことを思っていると、ナウエンのThe way of the heartという本の中にこんなことが書いてあった。

     

    We have become so contaminated by our wordy world that we hold to the deceptive opinion that our words are more important than our silence.  Therefore, it requires a strenuous discipline to make our ministry one that leads our people into the silence of God.  That is the task Jesus has given us. The whole of Jesus' ministry pointed away from himself to the Father who had sent him. (中略)

    In order to be a ministry in the Name of Jesus, our ministry must also point beyond our words to the unspeakable mystery of God.(The way of the heart, Henri J.M. Nouwen p.49)

     

    ある面で、プロテスタント派の教会の多くは、ことばで語ることにひどく汚染されていて、その枠内でしか、神を礼拝することができなくなっているのかもしれない。沈黙に耐えられない教会とか、沈黙に耐えられないキリスト教徒とか、というのもあるのかもしれない。


    今ほぼ毎週通っている、聖公会に行くと、聖餐式で跪く人もいるし、聖餐のパンを受ける前に十字を切る人もいるし、十字を切らない人もいるし、いろんな聖餐のパンを受け取理方があり、それが併存している。個人的には、抵抗感はないのだが、まだまだなれていないので、適切な切り方ができないので、そのまま、頭を下げて受け取ることにしている。まぁ、そういう多様な受け方を許してくれている今の教会のあり方が非常に気に入っているのだが、先日、退職した司祭が司祭としてではなく一信徒として、聖餐式に参加された時、ずっと跪いたままで受けておられたのを見て、あぁ、美しいなぁと思った。

     

    おんなじようにボタンはいっぱいついてるけど・・・
    あまりにプロフェッショナル風に見えるからと言って、そして、オルガニストと、コンソールを弄る人は、キーボードをいじったり、ボタンを押したり、引いたりと、似ているといえば似ているが、同じものではない。ガウンを着た聖歌隊とオルガニストを廃して、プロジェクタとシンセサイザー、音響や照明のレベルのコンソールをいじるという形に変わったのは、実に残念だと思う。と言うのは、壊してしまうと、もとに戻らないことのほうが多いのだ。ミーちゃんはーちゃんが経験したように、ピーターの器からプラスチックに変わったあと、ピーターには戻らなくなったように。まぁ、だからといってプロジェクタとシンセサイザーを駆使している教会が、伝統のある教会の真似をして、聖歌隊風の格好をしたりするのは、なんか板につかなさを感じることがある。チグハグな感じというのか、バランスが取れてない感じがするのだ。

     

    パイプオルガンのボタン類 https://en.wikibooks.org/wiki/Organ/Operating_the_Console

     

    今教頭のコンソール類 https://jp.pinterest.com/pin/2251868534100449/

     

    お友達のミゾタさんが伝統教派の様式を、別の福音派の教会で全体像を思いつきや、あまり深い考えないで復活させよう、という動きに対して、常にかなり厳しい反対のご意見をお述べになられる。それは、この辺の板につかなさというのか、チグハグな感じが残るからだろうし、その儀式や様式が含んでいる意味とそれが指し示しているものを、十分に考えずに導入してしまうと、あるイシュ言い方は悪いがフランケンシュタインのような礼拝になるからだろう。とは言え、現実とのバランスを取らないといけない面もあるので、現実とのバランスをどのように取るのか、そして、それを聖書の全体と合わせて考えていくのか、ということは、くれぐれも慎重に考えていくこと、広い意味での神学をすること、真剣に神学し、それを時間をかけて、会衆に伝えていくこと、そして、納得してもらうことは大事なのではないか、と思っている。


    今まで見学させてもらった日本ハリストス正教会、コプト正教会、カトリック教会、聖公会などの伝統教派の教会では、聖餐式のパンも残さないし、ぶどう酒も残さない。全部食べきり、飲みきるのだ。そして、それが完全に空になったことを会衆に見せる所作をする教会がある。その所作の意味が最近になるまでわからなかったのだが、完全にパンと盃が空になったことを示すのは、あぁ、イエスが、復活されて、墓が空になり、天に昇られたことを示しているということに最近になって、気がついた。

     

    コプト正教会の聖餐式の最後で殻になった皿を高く上げる司祭(ミーちゃんハーちゃん撮影)


    あぁ、なるほど、このような伝統教派の所作には、本当に細かいところまで考えられているのだなぁ、と思うようになった。儀式を異様に軽視するキリスト者集団で育ってきた身としては、なるほど伝統教派の新体制を伴った儀式には、一つ一つに指し示すものがあり、そして、礼拝全体が全て聖書の物語と神と人との世界を表している、ということを知ることになった。これは、伝統教派でだけ感じられたように思う。そして、礼拝の中での沈黙も含め、その沈黙の中で、神との向き合う時間、そして、そのことを通して感じられる、自分のうちにある神の不在の意味に向き合う意味ということを日々感じている。


    次回も聖餐についての、ライトさんの記述から、引き続き考えていきたい。

     

    次回へと続く

     

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    コメント:大変面白いです

    2017.02.20 Monday

    N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その35

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      本日もいつものように、N.T.ライトさんのクリスチャンであるとは、を読んで考えたことをタラタラと書いてみたい。今日は聖餐についての続きである。

       

      聖餐式の受け止め方
      まず、ライトさんは、聖餐式についてのものの見方やよくある無理解があるのではないか、と思われることについて、懐疑的な三つの視点からの聖餐式の受け止め方のポイントを取り上げ次のように書いている。

       

      はじめに三つの点に触れたい。第一は、共にパンを裂き、ぶどう酒を飲むときは、イエスとその死の物語を語っているのである。イエスが私たちに、「私を覚えて、これを行え」と言われたからである。それほど単純なことである。それだけではなく、なぜなぜイエスがそのように語られたのか、私たちはよくわかっている。(中略)

      第二は、プロテスタントの懐疑的な人がよく心配するように、同情を引き起こすための呪術ではない。その行為は、古代の預言者によってなされた象徴的行為のように、天と地が出会う契機の一つとなるのだ。(中略)

      第三に、それ故パンを裂くことは、時にカトリックの懐疑的な人が、それをプロテスタント信仰と思い込んでいるが、昔起こったことを単に思い起こすだけの機会なのではない。私たちがパンを裂き、ぶどう酒を飲む時、私達も最後の晩餐の二階広間に弟子たちとともにいる。私たちはゲッセマネでのイエスと一つになる。(『クリスチャンであるとは』 p218−219)

       

      まず、それがイエスの命令であるというのは、聖書の中に、次のように書かれていることに跡付けられる。

       

      【口語訳聖書 ルカによる福音書】
      22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
       22:20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。


      正に、この命令があるからこそ、聖餐式をやる意味があると思うのだ。ただ、毎週やれ、とも書いてないし、日曜日にだけやれ、とも書いてないし、日曜日以外の日にやってはいけないとも書いていない。また、聖餐式がどのような形のものや、どのような受け取り方の所作によるものであるべきだ、とも書いてはいない。この二年余りの間、コプト正教会、ハリストス正教会、カトリック教会、聖公会、改革派、改革長老派、福音ルーテル派、バプティスト派、フリーメソディスト派、(外資系)ペンテコステ派などなど、あちこちの教会巡りをしたが、聖餐式がない教会も、結構多くて、それは聖餐式マニアとしては、かなり残念だった。また、聖餐式の進め方も、教派ごとに、色々の教派や教会で、違うし、使うパンの種類も、でっかいパンの場合もあるし、ホスチアの場合もあるし、クラッカーを砕いたようなものもあるし、食パンを切り刻んだ場合もある。まぁ、実にいろいろであった。

       

      ギリシア正教での聖餐式

       

       

      カトリック教会の聖餐式(初聖体のときの模様)

       

      聖公会の外人中心の教会というか、出島のような教会で、いつもではないが、式文の中で、聖餐式の前に、かなり頻繁に、このような表現が、司祭によって唱えられる。

       

      Blessed are you, most holy, in your Son;
      On that night before he died
      he took bread and gave you thanks.
      he broke it, gave it to his disciples, and said:
      Take, eat, this is my body
      which is given for you;
      do this to remember me.


      After supper he took the cup;

      and gave you thanks,
      he gave it to them and said:
      Drink this, it is my blood of the new covenant
      shed for you, shed for all,
      to forgive sin;
      do this to remember me.

       

      もちろん、これに関する聖書の部分、例えば、先に引用したルカの福音書の部分でも良いが、まぁ、聖餐式の前に、これを言われるとたしかに、あの、最後の晩餐とこの聖餐式のつながりを強く感じるよなぁ、と思うことしきりなのだなぁ、これが。

       

      概念ではない、この地に生きている人間としての身体性をもって、神の業である聖餐に招かれていること、そして、神ご自身の臨在を味わうことは実に重要なのだなぁ、と思うのである。

       

      プロテスタント懐疑派の心配 呪術では? 

      次に第2の点であるが、プロテスタントの懐疑的な人が心配していることとされているのが、「同情を引き起こすための呪術ではない」ということと、として指摘されていたが、ミーちゃんはーちゃんがもっている英文では、it isn’t a piece of sympathetic magic となっていた。この部分の意味は、英文でもわかりにくい。誰の何に対する同情なのかが今ひとつはっきりしないのである。

       

      神の人間に対する同情を引き起こすということなのだろうか。ミーちゃんはーちゃんは、自分自身では、結構懐疑的な人間だとは思ってはいるのだが、聖餐式をやったからと言って、父なる神が、ナザレのイエスとしてこの地を歩いた神に同情したりとか、そのナザレのイエスへの同情の延長線上で、神が人間に同情したりとか、そんな神概念って、これまで全く考えたこともないので、そのような理解はわからない。

       

      ただ、ライトさんが、「その行為は、古代の預言者によってなされた象徴的行為のように、天と地が出会う契機の一つとなるのだ」という部分はよく分かる。預言者および祭司によってなされた象徴的行為は、確かに、天と地が一つになったとしか考えられない時に出てくる。例えば、エリシャが死んだ子どもの上に体を伸ばしてみたりとか言った行為は、まさに象徴的な行為であった。

       

      【口語訳聖書 列王記 下】

       4:32 エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、
       4:33 彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。
       4:34 そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。
       4:35 こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。

       

      また、エリコの周りを主の箱の前で行進しながら、エリコの町の城壁を七回回って、そのあと祭司が角笛を吹くなどは、神から命じられた象徴的行為ではあったように思う。

       

      【口語訳聖書 ヨシュア記】
      6:6 ヌンの子ヨシュアは祭司たちを召して言った、「あなたがたは契約の箱をかき、七人の祭司たちは雄羊の角のラッパ七本を携えて、主の箱に先立たなければならない」。

      これらは、確かに象徴としての意味を持ったように思うのである。

      ところで、天と地が一つになるというライトさんの表現は、アングリカン・コミュニオンで聖餐式の前の祈祷文の文章などを思い起こさせる。主がここにおられる、ということを、この文章を司祭が読み、それに、太字のように信徒が応答することで、確かに、ここは、天と地が一つになる。

      The Lord is here.
      God’s Spirit is with us.

      Lift up your hearts.
      We lift them to the Lord.

      Let us give thanks to the Lord our God.
      It is right to offer thanks and praise.

       

      そこで聖霊が大きな役割を果たしている、ということを思うのだ。正に、神がここに、そして我らとともにおられて、そしてそのことを、心から喜びつつ、神の臨在に感謝しつつ、その臨在に対する賛美をするという意味は、実によく分かる構造になっている。確かに儀式的で、同情を引き起こすような魔法や呪術や呪文のように、全く意味がわからない、意味を解そうとしない人には見えるのかもしれないが、儀式で用いられる式分とその儀式そのものが指し示そうとしていることは、正に、教会が神と人が出会う場であり、共にいる場であるということを言っているようなきがする。

       

      カトリックの懐疑主義者の心配 単なる儀式

      次に3つ目の誤解とういのか、聖餐式を記念のための象徴としてプロテスタントが理解していると言うカトリックの方々の一部の方々がお持ちの誤解についての部分については、一部のプロテスタント側が、カトリック側の聖餐理解と言うものを過剰に否定して、カトリック教会のやり方を否定しすぎたことにあるのだろうと思う。その一部の言説が一般化されて誤解されて定着したようにも思う。とは言え、ミーちゃんはーちゃんにも、実体変化の話は、よくわからない。よくわからないものの前には、沈黙するしかなく、神の領分の前では、ただただ、モーセ先輩に倣って、靴を脱いで神を礼拝するしかないのではないだろうか。語り尽くしたり、説明し尽くせないものがあるから、神なのではないだろうか。我々は、チラ見をしているにすぎないのに、あまりにそれで全てをわかったかのように語りすぎる悪い癖があるように思う。それは、カトリックの側も、またプロテスタントの側も同じであるように思う。

       

      神の過去と神の未来の現在への侵入

      先に、アングリカン・コミュニオンの礼拝で、

       

      The Lord is here.
      God’s Spirit is with us.

      Lift up your hearts.
      We lift them to the Lord.

      Let us give thanks to the Lord our God.
      It is right to offer thanks and praise.

       

      という式文を、声を出して読み、上のような告白することがあることをご紹介したが、これなどは、神の支配が完全に明らかにされた段階で起きることをこの地においてもやっている、あるいは、神の支配の先取りをしているという感じがある式文である。声を出してこの式文を読むのは、実になかなか、リズム感にあふれていて気持ちがよいものなのではある。賛美歌ではないけれども、ある種のリズムを感じるのである。

       

      しかしそれは、過去が現在に侵入してくるだけではない。もしパンを裂くことが天と地の間の薄い膜が透明になる瞬間の一つであるなら、神の未来が現在に入り込む重要な契機の一つである。(同書 p.219)

       

      パンの場面はいくつか聖書に出てくる。例えば、出エジプトでのマナも関連付けられる。有名な聖書の箇所であるので、皆さんもよくご存知であろう。

       

      【口語訳聖書 ヨハネによる福音書】
      6:30 彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。
       6:31 わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。
       6:32 そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。
       6:33 神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。
       6:34 彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。
       6:35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

       

      あるいは、イエスの復活後に弟子たちと一緒に食べたパン、エリアが食べたカラスが運んできたパン、荒野のマナ、アブラハム(当時はアブラム)に差し出された義の王メルキゼデクのパン、五つのパンと2匹の魚の奇跡、エマオの途上での食卓のイメージ、これらのイメージが重層的に重なるように感じる、あるいは直感的に理解するときが時々ある。まぁ、これもライトさんの本を読んでからのことであるし、その意味で、ライトさんの書いたものにかぶれているのだろうと思う。ただ、この重層的に重なって迫ってくる感じは、多分にアングリカン・コミュニオンの式文を読んでの聖餐式においてではあるのが、今ひとつ謎なのだが。

       

      多分、式文の中に散りばめられた聖書の中から抜き出したことばから、そして、時間をかけて編み出された式文の中で、同じ言葉を重層的に繰り返していく中で、そのような神と人が出会っている世界、すなわち、「天と地の間の薄い膜が透明になる瞬間の一つ」の瞬間にいざなわれているのかもしれない。

       

       

      この陶器製のコップはいいなぁ、と思った。

      http://www.ocalawestumc.com/ministries/worship-and-the-arts/holy-communion.htmlより

       

       

      5つのパンと二匹の魚のモザイク画 http://www.holylandchristiansouvenirs.com/loaves-fishes-mosaic.html より

       

      エリアのイコン http://www.iconsandechoes.com/2013/12/holy-prophet-elijah.html

       

       

       

      次回はプラスチックコップの話にもう一度触れます。

       

      次回へと続く

       

       

       

       

       

      評価:
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      コメント:おすすめしてます。

      2017.02.18 Saturday

      N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その34

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        本日もいつものようにN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』から、タラタラと思ったことを書いてみたい。

         

        がっかりだよ・・・
        個人的には、陶器を集めるという習慣が今もある。町の陶器屋で出会った器と目があってしまうと、その陶器を買って帰りたくて、買って帰りたくて、仕方がなくなって、買って帰ることがある。個人的には、そんな昔の名人作の骨董まがいの陶器ではなく、日用遣いの陶器に目がないので、陶器屋に行くと買って帰ってしまうことがある。


        フェイスブックでお友達の太郎先生(一部には目利きともよばれる)は現代家具、モダンデザインマニアでいらっしゃって、お買上げになられたモダン家具や、時々、オーディオマニアや西洋実用茶器マニア垂涎の逸品などの写真がアップされているが、それらには、どうした関係化心があまり動かない。あるフェイスブックの投稿で、その先生を示すのにくいだおれ太郎の画像を貼った人がおられた。あまりに安易な発想で、唖然としてしまった。

         

        くいだおれ太郎(大阪名物) https://www.amazon.co.jp/dp/4838718861 から

         

        個人的には、日用遣い向きの雑陶、普段使いの陶器に目がないのである。あるいは、ちょっと高級な店に連れて行ってもらったりすると、そこの料理も去ることながら、そこの料理屋がどんな料理をどんな皿というか、陶器で出してくるか気になってしまい下手をすると料理は二の次で、陶器を眺めて過ごすという幸せでそれで満腹してしまうところがある。料理を食べ終わるやいなや、皿を持ち上げ、皿の後ろ側も眺める、糸底などの銘の有無を確認するなどとやってしまうのだ。

         

        料理と皿、その入れ物としての陶器の関係というのは、実に面白いもので、両方揃ってバランスが取れているというところはあると個人的には思うのだ。皿が主張しすぎて料理を殺してもいけないし、料理が主張し過ぎて、皿も味わう余裕のないというのも、個人的には、残念さが漂ってしまう。

         

        聖餐式で使うカップとぶどう酒について、そして、礼拝での聖書の位置づけについてライトさんは次のように書く。

        良質なぶどう酒を、色や香りやゆたかな風味を味わうグラスに変えてプラスチックカップに入れるなら、それはぶどう酒に対する侮辱となる。同じように機会が与えられているのに、聖書を開き、その伝えていることを祝い、創造者であり、救出者であるある方の力強い行動を再現する場を作り出さないなら、それは聖書に対する侮辱である。(『クリスチャンであるとは』 p.215)

         

        ここでは、ぶどう酒と容器の話が出てきて、めちゃくちゃ風味のあるぶどう酒をプラスティックコップで飲むのはどうか、ということを行っておられる。お酒は飲まない教派で育ったので、お酒の話はよくわからないが、玉露が、紙コップで出てきたら、興ざめ、というのはある。あるいは、京懐石のお店に行って、出てくる器がカップ麺の入れ物で出てくるとかいうのは、ほとんど京懐石や板長への冒涜だと思ってしまう。場所と、空間と、対象間との関係に適切な対応関係がないと、今はなき桜塚やっくんではないが、「がっかりだよ・・・」と言いたくなってしまう。実に興ざめなのである。

         

        桜塚やっくんの「がっかりだよ・・・」

         

        フランス料理の映画で、分子料理が出てくるシーンがあって、「こんなの料理じゃねぇ」とジャン・レノ演じる有名シェフが怒り出すシーンが有るのだが、まさにそんな感じで、調子が狂ってしまう感じがするのだろう。その意味で、聖書が記述し、指し示していることに関与させてもらっていることを喜ぶ、心底、そこに関与し、心ゆくまでその体験を享受する場が、聖書なんだが、それが添えもののように扱われたり、それがおまけのように扱われたりするのは耐え難い、という側面はあるのだろうと思う。

         

        ジャン・レノが出てくる、フランス映画「Comme un chef シェフ! 〜三ツ星レストランの舞台裏へようこそ〜 」の分子料理を日本人に化けて食べに行くシーン

        日本人男性のふりをしているジャン・レノが、とてもおかしい

         

        その意味で、蝶理や料理、それに使う織機、その店の雰囲気、全部揃って楽しむのが食事の醍醐味だと思う。やすい、うまい、ボリュームがあるというお店が、高級店の真似をしたらおかしいし、高級店が、いくら儲からないからと行って、低級路線に走るのは、違和感はある。多分それは間違いだし、一時期のマクドナルドの低迷は、実にそれだったのではないか、と思うのである。

         

        分子料理 http://www.molecular-cooking-lab.net/から

         

        Facebookのお友達で、この手の話になった時に、部分的に伝統教派の何かをプロテスタント派の教会で一部回復させようという発言に対して、ことごとく反対するお友達がお一人おられるのであるが、その方の論理は、想像するに、マクドナルドみたいなお店ならマクドナルのみたいなお店の料理の出し方とそのような料理を提供するのが一番良いのであり、人々はそれを求めてその形式にたどり着いたのであろう。そうであるとするならば、いくら人気が一分にあるからと言って、古臭い京都の、一げんさんお断りの料亭の料理をちょっとだけ、豆皿にもるように出すのは、バランスを欠いているのではないか、それはいかがなものか、ということを仰りたいのだろうと思う。それであるがゆえに、「そんな一部だけ、つまんで取り込んでもダメだ」と厳しいご発言になっておられるように理解している。本来の教会としてのバランスと一貫性を追求しないでどうするのだ、というご批判なのだろう。


        教会もそんなところがあるのではないか、とライトさんは言いたげなような気がする。実際に緊急避難的にプラスチックコップには使い手があるとも言っておられる。しかし、ちぐはずな状態を常態化する、緊急避難的な状態を状態化させるのはどうか、と言っておられるようである。高級路線には高級路線の良さがあり、「やすかろう、はやかろう、うまかろう」にも、ミーちゃんはーちゃんのようなそれなりの需要層がいて、それなりの重要性があるのだろうと思う。

         

        聖書が読まれ、聖書が語られ、地上に神が来たこと、そして、もう一度来られるという約束を祝う場が、そうでない場所になるのは、やはりどうしてもおかしいような気がする。本来の姿を取り戻される必要はあるのではないか、と思うだなぁ、これが。
        教会の礼拝の時間と場が、牧師の一週間の出来事と経験の報告の場になったり、牧師の先週の業務報告の場になったり、大声で歌うことだけを追求するようなカラオケハウスとしての機能だけになったりするというのは、ミーちゃんはーちゃんにしても、たしかにいかがか、と思う。

         

        時々。京都にあるカトリック教会の黙想の家での研修会に参加するときは、そこでの聖餐式に見学で参加させてもらうのだが、そこでの儀式のすすめられ方と、そこでの司祭の動きを見ていると、所作を通しても、あぁ、神の子イエスの地上での生と、聖霊の働きと、神のこの地においての関与の状態を、司祭がそれぞれ役割分担しつつ示し、ライトさん風の言い方をすれば、「天と地が噛み合った」ということを表そうとしておられるのは感じる。なお、その表し方は、ハリストス正教会での礼拝では、もっと具体性をもって表現されており、より強く感じる。その中心性を古臭いとか、偶像的だとか言うこともできるが(正直言って、そう思っていた時期がかなり長かった)、その意味がわかってしまえば、その大切さはすごく感じる。

         

        主食としての聖書、メインディッシュとしての聖餐
        では、礼拝と聖書との関係について、もう少しライトさんの主張を見ていこう。ライトさんは次のように書く。

         

        聖書は簡単にいえば、礼拝の主食である。単なる教えのためではない。しかし、聖書の中で最も有名な物語の一つが明らかにしているように、聖書も礼拝の中心ではない。あるときエマオへの途上で、よみがえられたイエスが二人の弟子たちに聖書を解き明かした時、彼らの心がうちに燃えた。

        ただし、彼らの目が開かれ、イエスを認めることができたのは、イエスがパンを裂いたときであった。(同書 p.217)

         

        ここで、主食と書かれているのは、Staple Diet、日本人風にいえば、キリスト者生活のコメ、あるいは日本人にとっての熱々の白ご飯、とでも言うところであろうか。ぬくぬくの白ご飯は、何よりも美味しいものだと思う。その意味で、聖書を主食と表現するのは、非常にうまい表現であると思う。

         

        白ご飯 http://www.asahikei.co.jp/zero/recipe/best20/recipe_03.php から

         

         

        ある面、主食である聖書には、確かに、味がそんなにあるわけではなく、単調ではあるが、無くてはならない、豪勢さはないものの、なくてはならないの食物という感じだろう。そして、礼拝のメインディッシュ、そのピーク、あるいはその日で最も良いもの、落語で言えば、真打ち登場と言ったところが聖餐だ、と言っておられるのであろう。聖餐は、正に、キリスト教史で言えば、イエスの十字架のシーンと重なっているし、聖餐自体、イエスの十字架を表しているものではある。それと同時に、聖餐は、礼拝の中で、いちばん大事なところなのだと思う。大皿になみなみと、溢れんばかりに楽しまれるべきはずのものが、おちょこのようなものや、豆皿にかたちだけ申し訳程度に載せられたのでは、どんなものか、とも思うし。それは、心いくまで楽しむ、Celebrateしたことにならないだろう。そして、下手をすると、空腹感もとてもひどいものになる、という感じなのだろうと思う。

         

         

        豆皿 http://www.diningpottery.jp/mamezara.html

         

         

        個人的には、毎週聖餐式をするキリスト者集団で育ったので、毎週聖餐式する習慣がついてしまったから、ミーちゃんはーちゃんが、単に聖餐マニアだけなのか、と思っていたのだが、聖餐式マニアでよかったんだと思ったし、やはり、聖餐式は大事なのだなぁ、とこの部分を読みながら思った。この2年余り、あちこちの境界をジプシーのようにめぐってい足し、今も時々あちこちに出没しているが、結局、毎週聖餐式をしていて、聖餐式に参加させてくださる教会に通っている。実にありがたいことである。


        以前いたキリスト者集団と違うのは、手前勝手に回ってきたパンを取るのではなく、司祭が咲いたパンを、日本語の場合、これはイエスの体と言い渡して下さるし、英語の場合、

         

        This is the body of Christ, Broken for you.

        とか、

        The Body of Christ, the bread of heaven.

        とか

        This is the body of Christ, keep you in eternal life

        とか色々言って渡してくださる。

         

        一度、素朴に疑問に思ったので、「パンを渡すときのことばに、色々バリエーションが有るようなんだけど、なにか、そのパンを渡すときの言い方に季節とか、時期とか、なにかあるの?」と仲良くしている司祭にお聞きしたことがある。その司祭の答えは、「とくに規則は何もないし、その時の雰囲気だ」と教えてくれた。

         

        ただ、最初にそこで聖餐式に参加させてもらった時に、This is the body of Christ, Broken for you.と言われたときには、感動が止まらず、確かにイエスは私のために神が割かれたのだ、ということを明確に意識したことだけは確かであった。

         

        また、Rachel Held Evansの"Searching for Sundays"の中に、彼女が聖餐のパンを、そのように言いながら配った時の話で、それを言いながら渡すことが、非常に重要なのだ、という認識を改めて持った、という記述があったが、確かに、聖餐とその言葉による表現は、本当に切り離せないと思うし、切り離さないほうが良いなぁ、と思った。

         


        次回聖餐の詳細の記述の部分に入っていく。

         

        次回へと続く。
         

         

         

         

         

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        コメント:めちゃ面白かったです。

        評価:
        ヘンリ・ナウエン
        あめんどう
        ---
        コメント:大変良い。表紙は、エマオの食卓での聖餐式の様子のはず

        2017.02.15 Wednesday

        N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その33

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          今日もいつものようにN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読んで感じたことを、たらたらと述べてみたい。今日は、礼拝と神と人間という関係についての部分である。

           

          『断層』というメタファーと人間
          ライトさんのこの本には、断層というメタファーが何度も出てくる。この断層というのは、もともと一つであったものがずれて、何らかの外力により、隔たりやズレが存在することをを示す語だとおもう。人間と神との関係を表すのに、この語はまさにふさわしいと思う。単に違いがあるというだけでなく、もともと一体であったものが、何らかの外力でずれてしまって、それで一時的に固定化されている、というところが重要で、もう一度外力が、それも大きな外力が加わることがあれば、もとに戻る可能性を持つところが面白い。ただ、地球上の断層における外力のかかり方は、一方向的であるので、不可逆的ではあるのが残念であるが。また、断層は、裂け目であるという意味を持ち、また、この断層というごは、ラザロと金持ちの中で、アブラハムが言っている次の言葉を思い出させる。

           

          【口語訳聖書】ルカによる福音書
           16:25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
           16:26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。

           

          死後の世界と生きている者の世界の間に、大きな淵があるということをこの例え話は示しているようにも思う。そして、この淵を越える存在がナザレのイエスという存在であるのだと思う。そして、その淵を超えた存在が、神と人の間をつなぐ存在としてその役割を果たした、系図なき大祭司としてのイエスという存在なのかなぁ、と思う。

           

           

          賢明なクリスチャンによる礼拝は、創造がひどく悪い状態になり、堕落し、腐敗し、そのため、大きな断層が真ん中に走っている事実を真剣に受け止める。さらに、神のかたちを担う人間として創造物の世話を任された私達自身の真ん中にも、その断層が走っている事実を真剣に受け止める。ゆえにクリスチャンの礼拝は同時に、メシアであるイエスのうちに神がして下さったことを祝い、その成就された約束がやがて完成されることを喜んで祝うのである。(pp.212-213)

           

          このように、神のかたちを担うべき人間が、神と人が一体になっていた状態からずれてしまい、人間が、神との関係の断層をうちに持つものとなっていることをここで書いている。


          ここでの断層というメタファーは非常に面白い。断層が断層であり続けるということは、妙な力が、断層そのものにかかっていることでもあるのだ。人間と神の間に引っ張られる力という意味での緊張や、押し合う力という意味での対抗力というテンションという存在は、人間には見えないだけで、地質学的にはかかっていることを思うと、感慨深い。そして、断層そのものは、一時的な安定あるいは、一時的な均衡状態であり、地質学的には、そのような状態を別の状態に移行していくとなされている。ただ、この断層の動きは長時間をかけて起きるので、その変化の状態をすべて見られる人はいないのだが。

           

           

          様々な断層

          http://www.sms-tsunami-warning.com/pages/fault-lines#.WKOZX3-WG5E から

          断層についてのかなりわかりやすい動画


          しかし、我々が礼拝で神の前に出ていくとき、神の前に自分自身のあり方や神との関係の断層状態を内に抱えたまま、また、時にその断層の状態をいっそう悪化させたことを神の前に反省し、神の愛による一方的な和解を求める時に、神がその和解を既に成し遂げてくださったし、現在においてもその和解を神が成し遂げられ、神との間について、若いと安定状態が成立していることを覚えることが礼拝であるし、であるが故に、我々は、神に賛美し、その和解を成し遂げてくださった方の存在そのものを心から喜ぶのではないだろうか。そして、その瞬間だけかもしれないが、引っ張られる力なのか、対抗的にぶつかり合う力なのかは別として、その断層をより歪ませる方向に働く諸力が神の前に停止していることを覚え、心ゆくまでじっくりと味わうのが、礼拝が行われている時間なのだと思う。

           

          掛け言葉で遊んでいる・・・

          ところで、英語の断層Faultという語には、別の意味として、欠陥とか、誤りとか、短所という意味があって、おそらくこれにかけている言葉遊びなのだろう。ライトさんは、この種の複数の意味のある語を使って、遊んでいることが多く、個々でもそんな感じなのだろうと思う。この期を意図的に用いるとこで、そもそも、人間には、欠陥とかかけがあるということを示したいのではないか、と思うのだ。


          聖書と礼拝
          聖書を声に出して読まれる、聞かせてもらえる経験は、伝統教派のほうが残っているようなきがする。それも、新約聖書の書簡集だけでなく、必ず、旧約聖書(詩篇)、福音書、書簡集からバランスよく礼拝の中で読む習慣は、いわゆる、正教会系教会、カトリック教会、聖公会では経験があるが、多くのプロテスタント派の教会では、この三つをバランスよく読む集会というのは、この2年半では経験したことがなかった。たまたま、ミーちゃんはーちゃんが参加した、そのタイミングが悪かったのかもしれない。


          そのあたりのことに対して、ライトさんは次のようにかく。

          聖書を声をあげて読むことが、つねにクリスチャンの礼拝の中心となるのだ。このことを切り詰めてしまうと、どんな理由があろうが(例えば、朗読を切り詰めれば礼拝が長引かない。音楽の一部として歌えばよい。説教者が取り上げる箇所だけを読めばよい、というのでは)、大切なことを見落とすことになる。
          礼拝の中で聖書を読むことは、うろ覚えの聖書箇所やテーマを教えたり、思い起こさせたりするためではない。また、説教への導入以上のものがそこにあるのである。(中略)礼拝の中で聖書を読むことは何にもまして、神がどのような方であり、神が何を成したかを祝うことの中心にくる。(pp.213-214)

           

           

          もちろん、聖書を読むという意味では、A)文字を目で追う事や、黙読するのと、B)声を出して、誰かが読んだのを聞く、あるいは、聞かされる、のA)とB)とでは、予想外の違いがある。これは、個人の木の精、と思われるかもしれないが、聖書の言葉をそのものとして、自分の感想を混ぜる余裕なく、一方的な宣言として聞かされる、という経験にしかないものがあるように思うのだ。

           

          牧師の説教の場合、牧師の理解がどうしても出てくる側面はあるように思う。しかし、何も加えることもなく、何も覗かずに、ただだた素朴に読まれる聖書の場合は、そもそも聖書の言葉であることはそのまま認識されるため、あぁ、確かに聖書の言葉だなぁ、とおもうし、神の言葉という側面があり、読み終わった後に、This is the word of God, と読み手がいった直後に、素直に、Thanks to be God.と神に栄光を帰すことを次位牌の時間で毎週、繰り返す中で、やはり、これは神の言葉であるし、その言葉を与えられたのは神なのだなぁ、とThanks to be Godと声を合わせて言いながら、思う、という経験は、伝統教派以外の教会では、あまり経験をしたことがない。それは、何かあれば、聖書を開こうとしてしまう近代の文字に慣れ親しみすぎたミーちゃんはーちゃんの弱さなのだろうけれども。その意味で、我々は、ことばに、文字に、あまりに縛られすぎているのかもしれない。そして、神の息吹でもある神の言葉ということを忘れているのかもしれない。そして、もともと、文字を持たない人々にとって、聖書に触れるということは、主に、音声言語を通してであったのであり、割と古い時代の教会の人たちがイエスのことを聞いたのは、弟子たちの音声言語によった、ということも忘れられてはならない、ように思う。イエスは文字を書くことをコミュニケーションの中心としたのではなく、コミュニケーションの中心は、音声で語る事によっていたように思う。

           

           

          山上の説教の画像 

          http://experimentaltheology.blogspot.jp/2010_11_01_archive.html から

           

          そういえば、ロイドジョンズの『説教と説教者』の中だったか、と思うが、ロイドジョンズさんが、ラジオ説教がどうも合わなかったことがかいてあったことについて、この部分を読みながら思い出した。

           

          神の霊が導いておられる時に、勝手に人間の都合で説教の時間で切られるのは…とロイド政樹さんは、書いておられたような記憶がある。当時は生放送、録音技術などがなかったから、一回コッキリの生放送だっただろうから、ナントカ時間内に収めてくれと、かなりしつこく頼まれたのではないだろうか、と思う。今なら、録音されて、適当に切り詰められ、編集されて、終わりになるんだろうなぁ、と思う。いまなら、録音技術や放送技術が進んでいるから、ほぼノーカット、無編集で流すことも多いが、それでも、その現場のみにある、何かがあり、ライブにいたときにだけ感じる、ライブの独特の雰囲気は、伝わらないなぁ、と思うものがある。この辺は、何がどうなっているのかよくわからないけれども。

           

          電話よりは、スカイプなどの対面型のメディアの方が情報量は多いし、それでも、ライブのフェース・トゥ・フェースで生まるものが、このタイプのネット会議では、うまれないものがある。その意味で、ライブで間接的に時間を共有しているとは言うものの、それは同じではない。コンサートやミーティングですら、何か伝わらないことなどが起きるのであれば、教会などのネット配信では、その何かがより起きにくいように思う。とは言え、まぁ、こういう通信手段を使っての放送は、補完的な手段とはいえ、無いより、ある方がいいようなきがするが。

           

          ただし、聖餐に直接的に参加できないことを考えると、このタイプのインターネット中継の意味、ということは、あんまり考えても仕方がないことなのかもしれないけれども。


          次回へと続く。

           

           

           

          2017.02.13 Monday

          N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その32

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            今日も、いつものように、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』の本を読んで考えたことを書いてみたい。今日も、礼拝の部分の続きから思ったことについて書いてみたい。


            礼拝が指し示すもの

            礼拝(Worship)とは、祈りとか、賛美とか、聖書の説教を聞くこと、とか行動で見れば、それに参加することではあるが、その先にあるもの、それが指し示しているもの、その目的とはなにか、について、ライトさんは次のようにかく。

             

            礼拝とは、あるもの、もしくはある存在に価値があることを、文字通りに認めることを意味する。あるもの、もしくはある存在が、誉め賛えられるにふさわしいことを認め、そのように語ることを意味する。あるもの、もしくはある存在が、自分よりはるかに優れているため、すべてのものはただ、そうした価値を認め、それを祝わずにおられないことを意味する。(『クリスチャンであるとは』 p.205)

             

            自分を超えた存在に価値があるからこそ、そこでは頭を下げる、跪く、地に伏す、体をその前に投げ出す、あるいは、そのことの前に黙る、自分を遥かに超えたものであることを認めることになるのだと思う。ここで、ライトさんは、その存在を祝う、ということを言っておられるが、祝うとは、原文では、Celebrateということばではないか、と思う。日本人の感覚としては、Celebrateというと、結婚式など人間が人間に祝福すること、上位のものが下位の者に起きた出来事が喜んでいることを示すこと、という雰囲気があるが、ここでのCelebrateとは、上から目線でよかったね、というようなものではなく、そのものに関して爆発的な喜びを示す、ということなのだと思う。大喜びするとか、欣喜雀躍するとか、頭がおかしいと思われるほど身体性をもって大喜びするという感じの言葉なのだと思う。この辺、日本人の感性にはあまりないように思うので、どのように表現するのかは案外難しい。

             

             

            http://www.huffingtonpost.com/michael-feeley/what-is-the-power-of-celebration_b_5371668.html から


            そもそも、日本人キリスト者の語彙の中に、喜ぶとか、大喜びするとかは、あまりないのではないか、と思うのだ。残念なことだと思う。日本人キリスト者があまりに真面目というか、義務的に考えすぎるというか。日常、顔をしかめているようなところをよしとするところがあるように思う。


            その辺が、福音と言った時に、そこに大喜びをするような雰囲気のなさともつながっているように思う。福音とは、本来大喜びするようなことのはずなのだが、それがなんだか、助かった、というようなイメージが強い言葉になっていないだろうか。これは実に残念なことだと思う。

             

            先日、普段よく行く教会で、カナの結婚式のところがその日の聖書箇所だったことがあって、そこでイエスが水をぶどう酒に変える有名な話となったところから、ぶどう酒にイエスが変えたことは、喜ぶことも、大喜びすることも、神が良しとされている、あるいは、積極的に人間が喜ぶことを認めておられる、という側面からの指摘が説教の中であった。まぁ、カナの事件に関しては、酔っぱらいをもっと酔っぱらいにする側面があるとかも、触れられたが。

             

            いずれにせよ、神のご臨在されたことを喜ぶ、神ご自身がそこにもおられることを、それこそ、欣喜雀躍するかのようにして喜ぶことが礼拝なのだ、ということではないか、と思う。その表現方法は、色々あるだろうけれども。まぁ、随分、ミーちゃんはーちゃんも大分年齢が進んできたので、神がこの地に来られたという、その喜びを静けさの中で噛みしめるような礼拝のスタイルになっているけれども。飛んだり跳ねたりは、流石に身体的に厳しくなっている。


            神の招きとしての礼拝

            英国国教会の聖餐式の祈祷文で、このような祈祷文がある。これを読むたびに、ミーちゃんはーちゃんには、聖餐式に参加するのに、その資格やその価値がないにもかかわらず、この聖餐にイエスが、神が、聖霊がミーちゃんはーちゃんを招いておられるということを感じずにはいられない。


            その式文とは、こんな感じ

             

            Jesus is the Lamb of God
            who takes away the sin of the world.
            Blessed are those who are called to his supper.


            Lord, I am not worthy to receive you,
            but only say the word, and I shall be healed.

             

            主の聖餐に招かれている事、そして、それは神ご自身によってさいわいなるものとされた故であるというのは、この式文を読むたびに強く感じる。


            ある面、聖餐式の参加は、神のみまねきに対する応答という側面もあるとは思う。そして、礼拝に参加することは、神のかたちが、回復されるために、神によって変えられていくために必要だ、神によって本来の姿、神のかたちが回復されるために必要であるがゆえに、そこに招かれているようなきがする。これは、神の側から差し出された、ということは重要かもしれない。そのあたりについて、ライトさんは次のようにいう。

            しかし、真の神、創造者、贖い主を礼拝するためのチャンス、招き、招集が、私たちに差し出されている。真の神を礼拝することは、いっそう真の人間になるためなのである。礼拝は、クリスチャン生活のすべての中心にある。神学(神がどのような方かを正確に考える試み)が重要である理由の一つは、心を尽くし、思いを尽くし、魂と力を尽くして神を愛することが私達に求められているからである。だから、神はどのような方かを学ぶことが大切になる。そうすれば、神を正しく誉め賛えることができるからだ。(『クリスチャンであるとは』 p.211)


            ここで、ライトさんは、「真の神を礼拝することは、いっそう真の人間になるため」と言っている。人間のためではなく、人間としてでもなく、神と人間との関係として、紙と、人間とその隣人との関係として、「今以上に真の人間になるため」に「真の神を礼拝すること」が必要だ、というのは非常に面白いと思う。神を覚えること無しに、クリスチャンではありえないし、神とともに生きること無しにクリスチャンではありえないし、それは、本来良きものとして作られた人間が、更に神のかたち、創世記の最初、全ての秘蔵世界に対して、それらは良かったと言われた神のかたちに近づけられていくためには、礼拝が必要であるということだろう。

             

            いま、有賀鉄太郎という人の書かれた、少し古い本であるが(と言うよりは、クラッシックという方が正確だとは思うが)、『キリスト教思想における存在論の問題』という本についてオンライン読書会をしている。有賀さんの本でこんな印象深い表現があって、少し議論になった。それは、理解において理性の役割と神学の役割をどう考えるか、ということであった。

            果たしてキリスト者が神学的前提を棄ててキリスト教思想の問題を追究することができるであろうか。そうすることは彼にとって不真実であり、したがって不正直ではないか。従ってまた、学問研究の出発点としての真実性を放棄することになるのではないか。けれどもまた信仰的主体性が、果たして、それだけで、学的追究の正確さとその立論の妥当性とを保証するものであろうか。誤れる理性の使用が信仰を消し去ることが可能であるように、またそれ自体としては純真な信仰であっても、それが理性の使用についての偏向を生むこともまたあるのである。ここには信仰と理性に関する根本問題が横たわっている。信仰も立ち、理性も立って、しかも両者がたがいに作用し合うような関係が求められなければ、その問題は解決されないであろう。だが、信仰がそれ自体の純粋性を保ちながら、しかも理性に充分の機能を発揮させるにはどうすればいいのであろうか。それには聖書的また教会的信仰の自己省察としての神学だけで足りるであろうか。もとより、その自己省察は理性の媒介によってのみ可能とされるものであるが、そのとき理性にどれだけの自由を与えるかが問題である。(有賀鉄太郎 『キリスト教思想における存在論の問題』pp.13)

             

             

            先日の読書会では、この理性の自由さについて議論がなされた。信仰が理性に制限をかけるということなのか、ということが議論になった。当日、かなり寝不足であったため、その場では議論はうまく言えなかったのであるが、それは、理性に対して信仰が制限をかけるのではなく、理性がすべてのことを語り尽くせるのか、という問題であるようなきがする。理性ですら、その時の観測技術、観察方法、数学を始め関連諸科学の制約を受けざるを得ない事を考える時、誓約がないといえるのか、という問題ではないか、と思った。ある面、有界や有限なものによって、無限が定義しうるのか問題と似ているように思う。

             

            理性は理性で独自の論理を持つことになるので、もともと始めた出発点とその限界を忘れて、独自の理解に向かっていくことがあるのは、確かである。典型的には、科学自体が、その経緯を考える上の例として面白いかもしれない。科学は、もともとは自然神学として始まったものであるが、一部不確実性を内包するはずの科学の論理で、不確実性に対して、十分な検討もせず、突き進んだ結果、ある時期、信仰の問題と対立的な関係を生み出す時代もあった。個人的には、それは科学の誤解に基づく科学という語の誤用であったとは思うが。典型的には、遺伝子なのか、聖書なのか、進化論なのか、創造論なのか、創造科学なのか否か、と言ったような誤った問題の定義がなされ、それは無益な議論を巻き起こしたように思う。創造科学により、科学的に聖書が解説されたからと言って、必ずしも人は信仰を持つものでもない、ということは見てきた。それを思うと、そのような議論のあり方が本当に有益であったのかどうか、ということは、もう少し考えられても良かったのかもしれない、と思っている。

             

            信仰の側も信仰の側として、近世から近代において、科学が大きな顔をしてきたし、人々がそのことを十分も考えもせず、人が言うまま、人に言われるまま、価値の保留をしたまま、一方的に褒めそやしてきたという側面もあったのではないか、と思う。それを苦々しく思う信仰の側が、まともな批判ではなく、対話するという姿勢をもみせず、切って捨てるかのような知性的な批判とは言えないような方法で、批判してきた部分もある。

             

            まぁ、お互いが対話する姿勢もなく、相手を切り捨てるためだけの議論が両者の側で繰り広げられてきたのは、両者にとって無益な時間と労力が、不幸にして費やされたなぁ、と思わざるをえない。わからないものは、分からない、という方がよほど素直ではないか、と思っている。

             

             

            とは言え、個人的には、どんなにおろかであっても、不完全であっても良いので、素朴に神を求める、神のことを考えるという意味での、テクニックによらない神学をすすめることは大事だと思う。ちょうどライトさんが、「神学(神がどのような方かを正確に考える試み)が重要である理由の一つは、心を尽くし、思いを尽くし、魂と力を尽くして神を愛することが私達に求められているからである」という、ライトさんの表現は、非常に重要であると思う。おそらく、この部分を下に引いての書きぶりだとは思うけど。

             

             

            【口語訳聖書】 マルコによる福音書
             12:32 そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。
             12:33 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。
             12:34 イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。

             

             個人的には、神学にまともに取り組むことは、理性に限界があるのを知りつつ、それでもなお、理性という共通の土台に依拠しつつ、他者とともに、神に近づく努力、神を愛する方向性の一つなのだと思う。

             

            次回へと続く。

             

             

             

             

             

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            2017.02.12 Sunday

            こころの時代  「弱さを絆に〜行き詰まりと絶望の中で〜」向谷地生良 さんの回を見た

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              今朝のこころの時代で時々身近で話題に出る向谷地 生良 さんの回を見た。

               

              向谷地さんご自身の行き詰った経験と浦河べてるの家

              向谷地さんの人生を追いながら、向谷地さんが浦河べてるの家という精神障害者がともに住む家というあり方を模索することにたどり着いたのか、その中で、向谷地さんがたどり着いた、べてるの家の住民の皆さんの姿とともに放送している番組であった。

               

              非常に印象深い番組であった。社会の中での疎外の問題、生き難さが時に煮詰った人々の存在という問題、そして、それは誰しも抱えているかもしれないこと、そのいきづらさの問題への気づきが、ご自身が疎外された中学校時期の経験がその基礎にあることなど、そして、何らかの事情で生きづらさを抱える人々が、個別の存在として人として生きる事ができるわけではなく、人々と切り離され、通常の人々とは異なった人々として、あるいは、客観的な対象として取り扱われることに対する異議申し立てとして、浦河べてるの家があり、リングマの本が言うオルタナティブなあり方を模索したのが、浦河べてるの家の目指すところなのかもしれないなあ、と思った。

               

              ご著書は拝読させてもらったこともあるし、ご一緒させてもらうことが時々ある工藤信夫さんから「浦河べてるの家」の話をお伺いすることも多いのだが、この番組を見て、ああ、なるほどなあ、とおもうことが多かった。その意味で、視聴してよかったと思った。

               

              オルタナティブな生き方の

              ある実現としての浦河べてるの家

              そして、お話をお伺いしながら思ったのは、先にも紹介した、リングマの本『風をとらえ、沖へ出よ』という本で、オルタナティブな生き方を創造的に考える、という本で取り上げられていた、既存の支配的な理解に基づく現状のあり方にとらわれず、精神に障害を抱えた方々の生き方として、オルタナティブな生き方という方法を考えられたのだろうなあ、と思った。

               

              ただ、それは、浦川べてるの家で実現していることであって、それを他で文脈を無視して、そのテンプレートをそのまま持ち込もうとしてもうまくいかないだろうなあ、と思った。

               

              「正常」とはなんだろうか

              あと、もう一つ思ったのは、グリューンの『従順というこころの病い』という本のことであった。これまでの精神科医療は「正常に人を戻す」ということだったのかなあ、と思った。そして、「社会システムに従順な人々」が「正常な人」とされたのかなぁ、また、「社会システムに従順な人々」にしていくことが、これまでの医療だったのかもしれないなあ、と思った。

               

              ただ、キリスト教的な世界観は殆ど出てこない。ただ、イエスご自身の生き方とその発言が逆説的な物が多いこと、成功に向けて、登りつめていく生き方をしたのではなく、弟子たちに裏切られ、無視され、落ちていくような生き方をしたしたことなどは触れられていたが。

               

              そして、不安を抱えながらぐるぐるとじっくりと生きていくことの大切さを最後のあたりのご発言で感じた。ちょうど、それは我々の生き方なのかもしれない。そのことを旧約聖書の出エジプト記のときのイスラエルの民がそうしたように、情けなさを抱えながら、不安を抱えながら、神に導かれながら、フラフラと歩むことが非常に大事なのかなあ、と思った。

               

               

              一度、ご覧になることをおすすめしたい。

               

              再放送は、2017年2月18日 土曜日 午後1時から2時 E-テレ(NHKテレビ教育放送)で

               

               

               

               

               

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              コメント:読みにくいけど、めちゃおすすめ

              2017.02.11 Saturday

              N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その31

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                今日も、また、いつものようにたらたらと、N.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』からご紹介してみたい。本日からは、クリスチャン生活の核でもある礼拝について、同書の第11章 礼拝 の部分について書いてみたい。

                 

                ことばでは説明し尽くせない礼拝という行為

                先程述べたように、個人的には、クリスチャン生活の核は、礼拝であると思っている。まぁ、世の中にはいろんな礼拝がある。式文を中心とした礼拝、祈りを中心とした礼拝、静まりの中での礼拝、音楽にのせて賛美歌を中心的にしながら、声に出して神を賛美するような礼拝、大声で祈るような礼拝、みことばによる礼拝、聖餐中心にする礼拝、説教中心の礼拝、まぁ、世の中にはたくさんのキリスト教のグループがあり、それぞれの伝統に従い、様々な礼拝が行われている。

                 

                個人的には今は、無言の祈りを中心としながらの礼拝、式文に沿って、聖餐を中心とする礼拝が、一番気に入っている。年を取ったというのもあるだろうし、ブレがない、というのもあるだろう。

                神の臨在を一瞬でもありありと感じたとき、自ずと出てくる反応は神を礼拝することである。そのような反応がなかったとしたら、神はどのような方でなにをなしてくださったかについて、ほとんど理解していないことが明白になるだけである。礼拝とは何かを知る最良の方法は、礼拝に参加し、自分の目で確かめることである。(『クリスチャンであるとは』p.203)

                 

                この2年間弱、いろいろな種類の教会に言って、いろいろな種類の礼拝と呼ばれるものに参加した。わかりやすいもの、わかりにくいもの、わかりやすくしようとしてわかりにくくなっているもの、人々に近づこうとしてうまく行っている教会、人に近づこうとして、かえって、人を遠ざけているかのような教会、様々なものがあった。

                 

                腰痛持ちには、参加が困難な教会もあった(流石に若者と一緒になって、クラブで若者がやるように飛び跳ねることはできなかった)。賛美歌も、グレゴリア聖歌に近い賛美歌もあれば、シャウトに近い賛美歌もあれば、祈りのことばも、式文に従って、落ち着きを持った祈りもあれば、式文の言語が翻訳時に固定されているために、わかりにくい祈り(よく聞けば、あるいは、慣れれば分かる程度ではあるが)、シャウト系の祈りの場合には、絶叫に近い祈りもあり、それ故わかりにくい教会、あるいは突然みんながブツブツと祈り始めるような祈り(これは、何度か体験したが、個人的にはドン引き感が強かった)をするような教会もあった。

                 


                特に、正教会とカトリック教会、聖公会の伝統教派での礼拝については、ことばでは伝わらない部分があるのだなぁ、と思うことが最近何度かあった。だいたいことばは伝わらない。古くから、隔靴掻痒という言葉もあるほど、ことばではその重要な部分が伝わらない部分があると思うのだ。時々、キリスト教徒の方で、これらの背景のない方々に、ご説明を求められて、説明をすることはあるのだが、いくらことばで説明しても、最も大事な部分が伝わってないなぁ、と感じることがある。まさに隔靴掻痒という感じが常につきまとうのだなぁ、これが。

                 

                 

                とくに、それは聖餐について、伝わりにくいような印象があるようなきがする。聖餐とその場全体がもたらす霊性のような何かが確かにあるように思うのである。もう少しいうと、聖餐には、一種の霊的共同体としてもたらされるものがあり、大の大人が共に集まり、共に神の前に頭を下げ、あるいは跪き、パンと杯に与るというのは、一種、独特な雰囲気がある。その場にいて、それで、与っていく時、そして、パンを渡される時、これはあなた方のために割かれたキリストの体、(英語では、 This is the body of Christ, broken for you)として渡されるときのゾクッとした感覚、本当に私のために咲かれたのだ、ということを口の中にパンを入れる時に経験する感覚は、非常に独特のものがある。あるいは、カトリックの司祭が、手を高く上げ、感謝を捧げつつパンを裂いてみせる(正教会では、これは、イコノスタシスの後ろ側で行われるようである)のを見る時、そこにキリストの十字架が重なっていることを考えるときの印象など、独特のものがある。また、正教会系で、鈴が鳴り、香が焚かれ、香の煙が流れてくる時に、神の霊が人々の間を動くことを表彰しているのだなぁ、という理解を思うときなどに、非常に印象的な経験をする。これは、確かに参加してみなければわからないところではある。正教会の礼拝は1時間半、ほぼ立ちっぱなしなもので、参加時間としてはかなり長く感じられるかもしれないけれども。

                 

                 

                イコノスタシスの例 http://www.newbyzantines.net/byzcathculture/iconostasis.html より

                 

                ビザンチン様式の教会での聖餐式のパンの取扱

                 

                 

                カトリックの聖餐式の時にパンを取り上げて祈る司祭

                http://www.aboutcatholics.com/beliefs/the-eucharist/


                慣れ、習慣化に潜むもの
                確かに、礼拝では素晴らしい経験をする。それはそのとおりだし、そこで神と出会うという印象を保つ場合も多い。素晴らしい経験をすることもあるだろう。しかし、いくら大変豪華でおいしいごちそうでも、さすがに毎日食べ続けてくれば、新鮮味がなくなるのも確かである。1年や2年は目新しいことばかりで、感動することが多くあっても、次第に新鮮味が薄くなるのは、牧師や司祭だけが原因ではなく、信徒側にもその原因があるかもしれない。どっちが悪いというものではないだろう。

                しかし、しばらく礼拝に集ったとしても、生涯集い続けたとしても、どこかで行き詰まりを感じる。礼拝に一体何の意味合があるのかを、どうして参加しなければならないのかと、より深い問いが浮かんでくる。そこに集わない多くの人も、しばらく続いている人も、そのうちいかなくなる多くの人も、礼拝の何がそんなに重要なのか困惑したままでいる。(同書 p.203)

                 

                ここで、「礼拝に一体何の意味合があるのかを、どうして参加しなければならないのかと、より深い問いが浮かんでくる」とライトさんは書いておられるが、これは、重要な問いであるし、これは、教会とはなにか、教会とは、そこで人が、何をするところなのか、教会と個人の関係を考える上で重要な問いである。これに簡単な答えはない。これについて思いを人は、信徒は巡らせ続けることになると思う。


                「礼拝の何がそんなに重要なのか」に関する個人的見解を言うならば、それは、イエスがインマヌエル、神が我らにともにいてくださる方である、ということを確認する場であるから、ということではないか、と思う。本来、我々とともにいる必要のない神が、その方ご自身のみで、「あってある」といえるものである方が、わざわざ、我らのところにまでやってき、我々とともに語り合おう、我々とともにいようとされるのである。その神秘に驚きを覚える行為が礼拝であり、それを通して、神が神であり、その御方が我々を遥かに超えた方である、と再確認することが礼拝ではないか、と思う。神との関係の確認と言ってもよいかもしれない。そして、それは日曜日だけに限らないと思う。


                以前、身体的障害をお持ちの方から、その方は奉仕することができないし、礼拝という教会内の時間で何かすることが礼拝なのか、と問われた事がある。あるいは、神のことを思えない知的障害をお持ちの方はどうなるのだ、と問われた。


                その時の答えは、神に息を、神の霊を吹き込まれしものとして、生きることも礼拝なのではないか、とお答えした。間違っているかもしれないが、神が愛されたものとして息をすること、生きることも、個人的には、礼拝だと思う。神のかたちとして欠落、あるいはかけあるものでありながら、神とともに生きるものでもあることは、息をしているだけで神の関与があると考えうるわけで、生きることは礼拝ではないか、何かすることだけが礼拝なのではない、のではないか、と思う。決して、神のために何かをすること、祈る、聖書を読むことだけが礼拝ではないのではないか、と思うのである。もし、そうでなければ、礼拝ができなくなれば、死ぬしかなくなってしまうではないか。


                こういうことを書くと、万物救済論的、万人救済的と誤解されるかもしれないが、個人的には、そう簡単ではないように思う。たとえ、障害があろうが、何かができなかろうが、その人が神の被造物である時、神がその人を創造し給うた、ということを考えれば、神は、その人を慈しみ給うのではないだろうか。イエスの弟子が「この人が盲人に生まれついたのは、この人が罪を犯したからですか?それともその両親ですか?」とイエスに問うた時、イエスがなんと答え給うたか、ということには着目すべき事があるのではないだろうか。この「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」という表現は、重要だろうと思う。ここでは盲人の例が上げてあるが、それは他の知的障害、精神障害を含めても、その障害の程度の大小は人により異なっていようとも、「インマヌエル」としてその人に神が臨在なさろうとされる「神のかたち」ないし「神のかたちのかたち」であるからなのではないか、と思うのだ。罪を犯さなかったから、回復があった(救われた)のではないように思う。神が愛されたからこそ、盲人の回復あるいは悲惨な状態からのレスキューがあったことを、このヨハネの福音書の記述は私達に示そうとしているのではないか、と思う。

                 

                【口語訳聖書】ヨハネによる福音書
                9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
                 9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
                 9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
                 9:4 わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。
                 9:5 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
                 9:6 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、
                 9:7 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。

                 

                 

                次回へと続く

                 

                2017.02.08 Wednesday

                リングマ著 『風をとらえ、沖へ出よ』 をよんでみた 下 感想と、この本は誰のための本か

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                  さて、リングマ著  『風をとらえ、沖へ出よ』 も、今回が最後であり、本書をよんでみた感想めいたものを書いて、本書のご紹介を終わりたい。

                   


                  時間をかけて放浪、模索することの重要性
                  本書で大事なこととされていることの一つに、十分時間をかけて放浪すること、模索することの大切さが、以下のように書かれていた。

                   

                  物事が変わるためには、その出発点としてまず、人々の生活の中で伝統のなめらかな流れに裂け目が入るような、何かが起こる必要があります。疎外や失望の経験、より良い道の模索、教会市場のラディカルな運動について知ること、聖書に新しい答えを求めること、これらの、そしてまた他の多くの触媒が聖霊に用いられ、痛みを伴う模索が始まります。つまり、変革が一つの可能性となるのは、慣れ親しんだものがもはや信頼できなくなるときです。旧い選択肢がもう満足できないものになると、私達は新しい問いと選択肢を模索し、物事を新しい視点から見始めます。


                  新しさを求める多くの人々の模索は、残念ながら正にその段階で終わってしまいます。伝統を問い直せば、自動的にオルタナティブなものが実現すると誤解しているからです。こうしたことは往々にして、ひどく勘違いされています。真に新しい答えやアプローチは、早々簡単に向こうからやって来ません。また、旧きをふるい落とすことは、私達が考える以上にずっと難しいのです。旧きは私たちの現在の価値体系の一部になっていて、それ故私たちの分別の一部であるため、そうとう執拗で頑固です。(『風をとらえ、沖へ出よ』 p.135)

                   

                  前回の記事でご紹介した、クリティカル・シンキングの関連リンクとして紹介したウェブサイト クリティカル・シンキングの3つの基本姿勢: テクニック以前に必要なこと という文章の中に、次のような文章がある。

                  これは、自分自身、あるいは相手の思考のクセを意識しながら考えようということだ。たとえば、人は誰しも、何かを考える際には暗黙の前提 ――個人的価値観や過去の経験からの教訓―― を置いているものだ。それを認識したうえでコミュニケーションや問題解決をしていかないと、いつまでたっても議論がかみ合わなかったり、非常に狭い範囲で問題の解を求めてしまいがちになったりする。
                  (中略)

                  こうした思考のクセを見抜くコツ、特に気がつきにくい自分自身の思考のクセを見抜くコツは、自分自身を客体化し、客観的に眺めてみることだ。自分自身を第三者の目で見ることと言い換えてもいい。そのうえで、「自分の判断に影響を与えている価値観や好き嫌い、思い込みはないだろうか?」と自問してみるとよいだろう。

                   

                  こうした思考のクセを客観的に把握することができれば。議論のすれ違いや、解の見落としは格段に減るはずである。また、そもそも自分の考えが常に最善であるとは限らないし、むしろ隔たっているのではないかという前提のもと、他者との対話や、自分にない視点に触れることを通じ、互いに建設的に考えを高めていくことに議論する意義がある。クリティカル・シンキングは他者の批判あるいは自己の正当化を目的とするものでは決してないということである。

                  ここで、リングマさんが言うように「旧きは私たちの現在の価値体系の一部になっていて、それ故私たちの分別の一部であるため、そうとう執拗で頑固」ということがあると言うのはその通りであろう。我々の思考枠は、あるパターンにロックインされており、それを相対化しづらいからなのだ。ある思考法に取り憑かれてしまうと、そして、その思考法から開放されずにいると、本来見るべきものを見失ってしまうことが起きてしまいかねないようである。思考法、の代わりに神学的思惟、と言ってもいいかもしれない。つまり、人は何らかの思考枠や思考のパターンや、神学的思惟のパターンに捕囚されているし、されざるをえないのだと思う。

                   

                  十分に時間をかけて変容していくことは重要だ、と思う。何より、変革は革命型、急進型の運動体をどうしても、目指していきがちで、その意味で、非常に近視眼的(Miopic)である。近視眼的で急進的な運動体は社会と共同体と組織とに多くの悲劇をもたらす。典型的には、これまで数次にわたって行われてきた宗教改革しかり、フランス革命しかり、市民革命しかり、明治維新しかり、昭和維新を模索した226事件しかり、ヒッピーやサイケデリックムーブメントしかりである。

                   

                   時間をかけて変容を目指すというのは、急進派からすれば許しがたい行為に見えるが、ショックを緩和するというメリットは大きいし、社会全体の痛みは少なくて住むようには思う。そのあたり、変革をもたらそうと思う者、試みようとするもののノウハウと社会理解、共同体理解にかかっているかもしれない。

                   

                   

                  フランス革命のときの事件

                  https://global.britannica.com/event/French-Revolution から

                   

                  ところで、イスラエルの民は、荒野で、40年たっぷりと時間を掛けて形成された運動体である、と考えても良いだろう。それを、神は大リーグ養成ギプスをつけるようなかたちの促成栽培のように、神は人々を育てたか?形成させたか?、というと、そうではないと思う。インスタント食品のような、イスラエルの民の形成を神はなされなかったし、それは我々現代のキリスト者も同じではないか、と思う。その意味で、曲がりくねったPrayer Labyrinthのようなものなのだろう。それはじっくり、丁寧に、着実に生きる、ということなのではないかなぁ、そして、じんわりと神の臨在の中に生きることの中で、やんわりと聖神(聖霊なる神)が内在されて、変化していく、ということなのではないかなぁ、と思うのだなぁ。これが。

                  Prayer Labyrinth 祈りの迷路と呼ばれる施設

                   

                   また、短兵急な理解は、本来の重厚な理解をだれにでも簡単に使えるようにマニュアル化はしてくれ、便利にはしてくれるが、本来神秘の化学反応である可能性があるものまでもパターン化し、薄っぺらいものにしてしまう。ちょうど、ディズニーランドのシンデレラ城の内部が、コンクリートとぶ厚めのベニア板でできたほぼ書割のようなお城であるように。

                  シンデレラ城
                  https://en.wikipedia.org/wiki/Cinderella_Castle から

                   

                  新しい選択肢も、旧い選択肢に・・・

                   なお、ここで旧い選択肢と翻訳されている選択肢は、Optionと言うよりは、おそらくalternativesと書かれている可能性が高いように思う。もとの英語のテキストでは。今ある教会も以前は新しい選択肢であったが、いつの間にか旧い選択肢となってしまったのだ。オリジナルであったものが、パターンに変わり、固定化されてしまったのである。旧い選択肢ももともとは新しい別の選択肢であったのではある。オルタナティブなものも、実は、旧い選択肢と同列の選択肢の一つなのであるのである。


                  そして、ここで指摘されていることは、変革の出発点には、破れ、不幸、疎外や失意が必ず生じていることが指摘されている。これは案外大事なのではないだろうか。それらがないと、そもそも、何も問題がなく、順調で、誰も疑問を持たないからだ。現状に不満を抱くからこそ、オルタナティブなあり方が必要になり、それが変革として、現実の状態が、新しい状態に、移行する場合がある。

                   

                  オルタナティブな選択肢に対する抵抗
                  ところが、このオルタナティブな提案に全員がすぐに賛成できるか、というと、そうではない。なぜならば現状に全く不満を抱かない人の方が、案外多いからだ。というよりは、人は現場のまま、変更しないほうが良い場合のほうが多い。一旦あるシステムにハマった人は、そのシステムから抜け出せなくなってしまっているのである。


                  日常生活でも新しいシステムや新しいオルタナティブに抵抗感や都合が悪い、ということを感じる状態、不具合を感じる人々がすぐに出てくるのであれば、その忌避感は大きなものになる。その新しいオルタナティブに対する忌避感の対象が、聖書理解がかかわるようなことなら、なおさら抵抗感は大きなものになる。

                   

                  オルタナティブなあり方を求めることは、もともとの旧いあり方とそれをやり続けてきた人々が間違っていたかもしれない、ということを指摘することを意味するように思うのだなぁ、これが。自分自身が間違っていたことをしてきたかもしれないという恐怖を、旧いシステムに慣れ親しんだ人々に与えるかもしれないからである。ちょうど戦後すぐの墨塗り教科書にしてしまうようなものだ。小学生の男子は、ほっておいても墨塗り教科書に近いことをすることがあるが。

                  墨塗り教科書
                  http://www.kushima.org/is/?p=25446 から
                  内部の組織として、部分的に非公式組織でやる、という方法も

                  何かしようとする時に、何でもかんでも、教会全部を巻き込むのではなく、既存の教会体制はガッチリ残しつつ、特定のことだけに限って、オルタナティブな生き方ができる場所を確保するという方法はある。例えば、カトリック教会の中に自然発生的に発生したオルタナティブな共同体の組織化を目指した、コンフラリア・デ・ミゼリコルヂアなどのコミュニティを共存させるやり方は一つのやり方だし、現在のカトリック教会の大阪教区などでのホームレス支援のあり方(教会とは独立にN P Oを立ち上げ、教会と併存するようなかたちで活動をするようなかたち)などが参考になるかもしれない。

                   


                  現在、ミーちゃんはーちゃんは、明石でこじんまりとした、オルタナティブな集まりを、そして、参加者が安心して発言できる環境が伴ったディスカッショングループを開催している。読んでいるのは英文のナウエンの本であり、参加者は4〜5人なので、大して多くはないけれども。ナウエンの本を出発点にしながら、参加者が気づいたことや。時に、本文から離れて、個人的に抱えている質問や話を、適当にディスカッションする時間をもつことがあるが、これも、教会外におけるオルタナティブな共同体の一つと言って良いかもしれない。

                   

                  これまでにも触れた、お友達の大頭先生が書かれた本である、『聖書は物語る―一年12回で聖書を読む本』や『聖書はさらに物語る―一年12回で聖書を読む本』などを読む読書会が、公民館などの施設や教会など、各地で開催されているが、それも、オルタナティブな共同体の例としてあげることができるかもしれない。そもそもは、宣教、伝道の一部として行われている所もあるようであるが、個人的には、オルタナティブな共同体として教会内部にインフォーマル組織を形成する契機になると言う意味でも、一種のオルタナティブを提供している、とはいえるだろう、とおもっている。

                  従来、青年会、婦人会、読書会などがオルタナティブな共同体を形成される動きもあったのではあろうけれども、その運用方法を間違うと、教会内に固定化された教会活動のミニチュアを作り出すだけに終わってしまう。問題は、牧師ないし、そのようなことを始めたい人のファシリテーション能力と、その参加者が他の参加者を受け入れていくようなオープンな対話能力と、参加者の関与していこうとする態度と言うか精神が重要なのではないか、と思う。


                  1年12回で聖書を読む会のサンプル動画(長いので、適当に…)

                   

                  また、ミーちゃんはーちゃんの近所で、ある施設の一室を借りてやっている教会もある。そこに、何度か参加したことがある。そこも信徒さん中心で、牧師が年に数回(第5日曜日だけ)来られたときにのみ聖餐式をし、それ以外は信徒さんで運用している教会がある。リングマさんが言う、ある種のオルタナティブな共同体ノイッシュだろうとは思う。ただ、聖餐式の神秘が大好きなミーちゃんはーちゃんは、聖餐式の魅力には勝てないので、後ろ髪惹かれつつも、聖公会の中に入っている感じがする教会に通っている。

                   

                   

                  リングマのこの本は誰のために書かれたのか?
                  この本は、一体誰のために書かれたのか、というと、おそらく教会の変革をもたらそうとする人々や現場の教会で行きづらい思いを抱いている人々に向けて書かれた本である。そのあたりのことに関してリングマさんは次のように書いている。

                   

                  本書は主な読者層として二つのグループを想定しています。第1のグループは制度的教会の中で生むことなく変革を働きかけたものの、最後に諦めてしまった人々です。彼(女)らは立ち往生してしまいました。(中略)彼(女)らは戦いで打ちのめされ、置き去りにされています。
                  第二のグループは、オルタナティブな教会のあり方を試みてきた勇敢な少数派です。(同書 p.13)

                   

                  本書の読者層としては、この第1のグループと第2のグループがメインであるように思う。そして、主要な読者となるのは、第1のグループではないだろうか、と思う。とくに、教会内改革に疲弊した人々は多いと思う。

                   

                  個人的には、キリスト集会派という、英国国教会から1840年代にアイルランドで分離したプリマス・ブラザレンという運動体で育った、英国人、米国人の宣教師による開拓伝道により始まり、日本で独自に形成された集団に長くいた。本書を読みながら、我が国でオルタナティブな教会を目指したのが、キリスト集会派だったといえるかもしれないなぁ、と思った。それこそ『福音と世界 1月号』に寄稿した小論で説明したような、万人祭司制に近い形で、信徒が関与していく、まさしくオルタナティブな教会の理念を追って形成されてきた集団にいた。とは言え、そのキリスト集会派ですらも、一つのキリスト集会派的なテンプレートが幅を利かせている場合があり、主流派のキリスト集会派の人々が標準的と考えている、キリスト集会派のテンプレートに合致していないと、主流派のキリスト集会派からは、キリスト集会派としては認識してもらえない、というような場合も、何例か発生している。このあたり、教会政治をどのようにシステム論的に見るのか、ということ、メタの視点、次元を変えた視点で見られるかどうか、自己についても、批判哲学の観点から見られるかどうかに関わっているなぁ、と思っている。

                   

                  ミーちゃんはーちゃんは、今の段階では、この第1のグループのほうが近いかなぁ、と思っている。まぁ色々やりすぎて、結果的に疲弊してしまったので、今は、神との出会いの機会は、確実に保証してくれている聖公会の出島のようなありがたい教会に週2回、通っている。

                   

                   

                  第三のグループとは、教会とのつながりを断ってしまった人たちです。彼(女)らは今も信仰を持ち、祈り、奉仕していますが、教会からは疎外されてしまっています。(中略)
                  第四のグループは、教会に強い不満を持っているものの、腰を上げない人々です。彼(女)らは教会の中で変革のために働くこともなければ、オルタナティブなあり方を試すこともありません。単に現状に満足せずに過ごしています。(同書 p.13)

                   

                  教会に、傷つき、愛想を尽かしている人は案外多い。キリストは好きだが、教会と固定化された教会はどうも好きになれないといった人々も多い。あるいは、小嶋先生の造語である、「お一人様クリスチャン」的信仰の持ち主の方々などがこの第三の分類に入るだろう。多分、小嶋先生の「お一人様クリスチャン」の記事は、ひょっとして、この本に触発されての記事だったかもしれない、と一人ニヤニヤ妄想して遊んでいる。


                  日本では、第四のグループ、不満を持ちつつ、それをFacebookやツイッターで呟いている、あるいは他の人のコメントでそれを書いている人々が、案外ミーちゃんはーちゃんのお友達に多い。まぁ、日本では、出る杭は打たれるだけではなくて、地中深くに埋められて、存在すら忘れるようにすることが多いから、それなら、最初から目立たないほうが良いということは知られているので、まぁ、不満を抱えつつもグリューンの本の記述ではないが、現在の教会の形への『従順という病い』に冒され、動きが全く取れない状態になっておられるのだろう。日本では出る杭は地中深く埋めて見えなくするけど、NYのマフィアなら、ハドソン川の川底遊覧させてやる、とか、いいそうだけど。

                   

                  まぁ、第5のグループは、読者の楽しみのために残しておこう。ぜひ、本を手にとってお読みいただきたい。

                   

                  ということで、本書の紹介は終わりである。後は、本書を手にとって、ぜひ、ご自身でお読み頂き、リングマさんから刺激(パンチ)をうけたり、かわしたりしながら、ご自身の教会で、生き生きとした、オルタナティブな取り組みに取り組んでいただきたい、と思っている。結構自己にも批判的な目を向けることを強いられるので、この取組は、そんなに簡単ではないし、つらいとは思うけど。やる勝ちはあると思っている。

                   

                   

                  次回は、N.T.ライト著 「クリスチャンであるとは」 のご紹介に戻ります。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  2017.02.06 Monday

                  リングマ著 『風をとらえ、沖へ出よ』 をよんでみた 中 用語と概念のご紹介

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                    今日もリングマさん著の『風をとらえ、沖へ出よ』 をよんでみた中で思ったことで、理解が困難そうな概念について紹介したい。前回の記事では、本書の主要な主張がどのようなものかを紹介した。本書をわかりにくくしている用語の特殊性について、今回触れていきたい。当初は上下の2連載で簡潔であったのだが、用語解説部分が長くなりすぎてしまったので、ミーちゃんはーちゃん風の用語解説と概念整理で一回を過ごすことにした。申し訳ない。

                     

                    では、早速、用語紹介に移ってみよう。

                     

                    エンパワメント
                    本書でのエンパワメントとは、人間としてその人がその人らしく生きるように支援する、ということであり、神から与えられた能力や才能がその人らしさをもって発揮できるようにすること、というような意味だ、と思う。その意味で、神が創造された個別の特性と豊かさと創造のわざが現れる本来のその人として、その人らしく生きることができるようにする、スピリチュアル・ディレクションという概念と深く結びついているように思う。

                     

                     

                    あるいは

                    エンパワメントの図解

                     

                    https://clipartfest.com/categories/view/c5ea7abba88923d4eb08fbf8c71ff7abad56bae9/empowerment-clipart.html から

                     

                    自己決定権
                    自己決定権とは、なんでも自分自身で好き勝手に決めるということではない。被造物である人間であるとはいえ、神が主権を委ねられた人間として、生きること、神の主権を尊重しながら生きることを選び取っていくという権利であり、グリューンが別の本で指摘したような生き方のことである、他人から強いられた幾つかのオプションとしての生き方を選択するというスタイルや、この中から選んでください、という、他人から生き方を強いられたような生き方ではない。ある意味で、その人らしい、生き方ができる権利と言えよう。他人が与えようとする生き方、いや、正確に言うなら、他者が押し付けようとする生き方、かくあるべし、他人もこうだからあなたもこう生きるべきだ、と言うような生き方(他者から与えられる選択肢の中から考える)ということから、自由な生き方、あり方を求めることができる、ということなのだろう、と思う。

                     

                     これが、本書で多数出てくるオルタナティブな生き方(他者が決めた生き方の中から選ばない、それ以外を含めて考える、という生き方、従来にないかも知れない、新しい生き方)ということか、と思う。したがって、オルタナティブな共同体とは、これまでにはなかった共同体、人々と共に生きる生き方、ということなのである。これについては後に詳述する。

                    つまり、オルタナティブな生き方は、これまでにない生き方であるわけであるから、既存の社会で、当たり前とされてきた生き方と対抗的な部分を持ってしまうのである。その意味で、多くの人から理解されないかもしれないし、場合によっては拒否反応を示す人々も出ると思う。その辺が、この本が諸手を挙げて受け入れられない人がいるだろうなぁ、という所以である。この本は、生き方や教会理解の再考を迫るため、厳しいことを言っているという本と思った所以なのである。

                     

                    最近医学分野ではすっかり定着した感のあるセカンド・オピニオンやインフォームド・コンセントなどは自己決定権が具体化したかたちである、と言ってよいだろう。

                     

                    https://www.theodysseyonline.com/denying-self-determination-intolerance-towards-freedom-seekers

                     

                    ファシリテーション
                    ファシリテーションとは、おもてなし、ないし、接遇をする心あるいは思いに基づく他者への対応のことであり、霊的にも接遇(おもてなし)をすることと理解するのが良いだろう。その人をその人らしくしていくのがファシリテーションの基本ではないか、と思う。

                     

                    つまり、単なる人間という対象として認識せずに、神の栄光が隠されている(現れていないかもしれないがそれが内在する、本来人間は神のかたちないし神のかたちのかたちとして創造された存在であるという認識を持っているはず)という認識に立った上で、向き合っていく、ということなのだろうと思う。そして、霊の交わりを豊かにするための環境整備の役割を果たし、その人が神のかたちを十分に表すことができるように、そうなる場を生み出していくことのことがファシリテーションの意味であろう、と思う。より具体的には、対話を通して、もう少し、ハーバーマス風の言い方をすれば、公共圏(パブリック・スフェアの訳語 人々がそれぞれが尊重されながら、相手を信頼できる親密な環境の中で、その意見を無視されることなく受け止められ、建設的な対話がなされていくという理想的な環境)をどのレベルかは別として、親密圏(人々が個人として認識され、信頼に基づく親密な関係が成立している状態)において、対話を生み出していくということだろう。

                     

                     

                    http://www.advancedconsultingfacilitation.com/facilitation


                    冥土喫茶 ぴゅあらんどで実施したニクタンさんによるファシリテーショングラフィックスの実例
                    (ユダヤ教のときのファシグラ) 右上に超正統派のユダヤ人の漫画がある

                     

                    インフォーマル組織
                    この語はフォーマル組織、公式組織と対応関係で使われることばで、ある組織ないしは人間集団内で公式には定義する文書とか規範は存在しないけれども、実際にはその組織やその人間集団の中には、厳然と存在し、組織のパフォーマンスに大きな影響を与える組織であり、本来インフォーマル組織であっても、時に公式組織として形成されることもある。会社の場合は、会社の役職や部署割、事業部と言った公式組織であるが、インフォーマル組織には、同期会とか、出身大学別の人間のつながり、県人会などの個人属性をキーにした人のつながり、現在はバラバラであるが、過去業務を一緒にこなしたプロジェクトチームのメンバーからなる組織などがある。教会の場合は、教会の総会で定義されるメンバーからなる組織、青年会、壮年会、婦人会、読書会、などの組織は公式組織であるが、家庭集会は、一種の非公式組織(インフォーマル組織)に近い場合があるだろう。なぜならば、家庭集会には、そこに来ている、あるいは通過していく信徒以外の人々も内包することがあるから、という意味において、である。


                    システム論の視点から、あるいは、組織コンサルタントの知識として、共有されていることの一つに、すべからく世の中の公式組織(例えば、企業や教会や、ボランティア団体…)は、そこに内包される人々から、アドホック(一時限りの)に機能したり機能しなくなくなったりするインフォーマル組織のバランスが取れていることが重要であることが、知られている。1980年代後半以降の組織論、組織システム論などでは、このような視点から組織が議論されている。公式組織だけ、命令系統の基礎となる公式組織だけに着目していたのでは、組織が機能しなくなるということは、現在では広く知られていることではある。インフォーマルな組織は、モラル(メンバーのやる気というか、士気)を規定する事が多く、会社の外側からの見た目を規定する公式組織では、解決がつかないことが多いのである。その意味で、ポストモダン社会において、組織をうまく運用しようとするものは、公式組織がこうだから、という公式論理の論理を振り回すだけではなく、非公式組織の存在と機能にも十分目を向けておく必要がある、とされていることが多いように思う。

                     

                     

                    フォーマルな組織構造 と (フォーマルな組織の中の)インフォーマルな組織 の比較の図

                    https://plus.google.com/+DaveGray/posts/SA8ARg7A9v3 から

                     


                    批判的
                    これは日本語になりにくい語であり、英語ではCriticalという単語で表現される内容である。この批判的とは、自分以外のものに対して、問題点や改善点を指摘する、あるいは長所に関して評価判定するという意味で取られることがある。あるいは批判的であるというと、他者に対して非常に冷たく、裁くような、その行動や言動を云々するというようなイメージが付きまとう語であるが、本書で言う批判とは、批判哲学の意味で言う批判に近いように思う。

                     

                    それは、正当に評価するとか、きちんと物事見て、自己をもよく考えることで、その自己を含めて、よく思いを巡らした結果に基づき、それらに応じて自己の言動や行動の変容をもたらすという意味があるように思う。他者をおかしいというだけが批判ではないが、一般によく用いられている意味での批判は、冷ややかな視線を浴びせながら、他者の揚げ足を取ったり、他者の箸の上げ下げに対して一々文句をいうというような状態や言動の形容詞として批判的という語が用いられることが多いようである。クリティカルという単語は、臨界的判断というか、状況に応じて適切に判断すると言った意味のクリティカルである。クリティカル・シンキングCritical Thinkingという概念が1980年代に確立し、システム論の分野で議論の蓄積があるけれども、それと共通する意味でのCriticalだと思う。この辺のことは、他の本に乗っているので、それを参考にされたい。最下部で紹介するクリティカル・シンキングの本は手軽な入門書である。

                     

                     

                    なお、この記事 クリティカル・シンキングの3つの基本姿勢: テクニック以前に必要なこと は、事前に読んでおかれると、良いように思う。

                     

                     

                    オルタナティブ(オルタナティブな共同体)

                    オルタナティブとは、これまでのものに変わるとか、これまでのものを補完するもの、従来は考えられなかったもの、と言った意味がある。その意味で、作り変えてしまうのではなく、別の活動ができる場を教会内外に作り、そこで信徒が自由に制約なく発言できたり、関与できる、あるいはエンパワーできるための考え方や存在のことである。例えば、日本にキリスト教が伝わる直前、カトリックには、コンフラリア・ミゼリコルヂアという組織confraria da misericórdia などがあったらしい。このコンフラリア・ミゼリコルヂアは、教会内のインフォーマル組織として、司祭たちをほっぽっておいて信者たちが勝手に始めた組織であるらしく、医療や社会福祉のような特定の業務を、教会内で請け負うものとして、教会内の一種のソーシャル・キャピタルとして機能したことが知られているし、日本にも、キリシタン時代、この非公式組織、あるいはオルタナティブ共同体が慈悲の組(コンフラリア・ミゼリコルヂア)としてすでに導入されていた、と聞いている。それが、カクレキリシタンを支えるインフォーマル組織として機能した、という論者もおられるようである。

                     

                    お友達の大頭さんが書いた『聖書は物語る 1年12回で聖書を読む』という本を使って、広く社会に開かれた読書会のようなものが、日本各地で開催されているが、それも、伝道を正面切って目的としていないかたちで、行われるところがあるらしい。これなども、オルタナティブな共同体をインフォーマル組織として形成しているように思う。その意味で、非常にこの議論に近い形の一つかもしれない。ただ、実際には、色々のようであるけれども。

                     

                     

                    オルタナティブってこんな感じ

                    http://www.teaching-certification.com/alternative-teaching-certification.htmlから

                     

                    なお、日本語で読めるキリシタン時代の こんふらりあ に関する記事はこちら。 

                     

                     

                    次回へと続く

                     

                     

                     

                     

                     

                     

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                    コメント:まぁ、ポイントはつかめると思います。

                    2017.02.04 Saturday

                    リングマ著 『風をとらえ、沖へ出よ』 をよんでみた 上

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                      音声ファイルダウンロード先

                       

                      今回は、リングマさんという方が書かれた、最近翻訳が出た本を紹介したい。この本は非常にいい本だし、この本で述べられていることは、きちんと考えておきたいことばかりである、と読みながら思った。そして、個人的には楽しみながら、読んだ本であった。

                      とはいえ、普通のキリスト者である人にとって読みやすい本か、というと、そう読みやすい本ではないように思う。いや、むしろ、読みにくい本ではないか、と思う。なぜなら、ギリギリをついてくる大事な質問をぶつけられてくるからである。

                       

                      本書はある一部の方には、読みにくいかも…

                      と言うのは、我々が常日頃、常識だと思っていること、こういうことが教会で行われることだと思っているものや、思い込まされている状態が、そうではないのではないか?という疑問を、正面から、ぶつけてくるのだ。ある面、西洋の、そしてその影響を受けた日本の現状の教会のあり方に対して、疑いをもたせルノではないか、と思わせる本である。なぜかといえば、本来教会がもっていたみずみずしさ、信徒の関与のあり方が失われ、限定されたものになってしまっていて、教会に信徒は、座りに来て、説教を聞くだけの人ということになっていることがおおいのではないか、信徒をそのようにさせているのではないか、とリングマさんが一ページごとに迫ってくるのだ。ある面、強烈な連続パンチをぶつけてくる。その意味では、読むのが辛くなるかも知れない、という意味では、読みやすい本ではないように思う。

                       

                      本書はハウツー本ではありません

                      まず、タイトルは『風をとらえ、沖へ出よ』であり、従来の枠組みからの脱却を匂わすタイトルではあるが、そのサブ・タイトルは、「教会変革のプロセス」である。このサブタイトルで誤解する人がいるかもしれないなぁ、と思った。

                       

                      この本を読めば、とりあえず教会変革がわかる、とかこの本を読めば現在の多くの教会が抱える沈鬱な状況や沈滞状態から脱出できる、とか、沈滞した教会の雰囲気が吹き飛ぶ、というタイプの本ではない。よくある”成功する”教会のために、と言ったタイプの本や、よくある教会成長の本でもない。その真逆、ハウツー本の真逆を行く書籍である。それを求めて本書を手にした人は、確実にその思いは裏切られると思う。

                       

                       

                      この本は、厳しいことを読み手に問う意味で、ある意味でバンバン売るのが難しい本だと思う。と言うのは、先にも述べたように教会の現状に順応している人々にとっては、「なんとおっしゃるリングマさん」と言いたくなりそうなことがたくさん書いてある本だからである。著者の方も、また読まれないこと、売れないことはご本人も十分にわかっておられ、本文中にもそれを匂わす文章もある。とはいえ、この本は、結構海外では売れた本であり、そして、今も読み続けられている本らしい。

                       

                       ハウツー本でない証拠としては、例えば、教会成長論が盛んにご議論されているようにミーちゃんはーちゃんには見える、カリスマ系の教会運動体に関して、リングマさんは、割と早い段階で、こんなことを書いている。

                       

                      ここ最近の話でその失敗例として最も目立つのが、大半のカリスマ派刷新運動です。その神学の核心は、神の民全員が聖霊によってミニストリーのためエンパワーされる。そして、個々の貢献が教会を立て上げるために必要になるというものでした。その結果、それぞれに与えられた賜物を表すあたらしいあり方が見出され、人々は礼拝に参画するようになっていきました。しかし古い決まりごとは手付かずで、依然として牧師が教会のあり方と方向を決める強大な力をもったままでした。(『風をとらえ、沖へ出よ』  p.18)、

                       

                      このようなカリスマ派刷新運動とリングマさんが呼んでいる教会群と、そこでの諸般の対象だけに、批判は向けられているのではない。これまでのありとあらゆる教会のあり方、体制に対しても、かなり厳しい視線が向けられ、幾つかの厳しい表現が見られる。厳しい表現とは言いながらも、教会とその教会のあり方を潰せと言っているのではない。現状を疑え、現状に批判的(Critical これは誤解されやすいごでもあるので、次回、ご説明する予定)であってほしい、常に見直せ、と言っておられるのだ。あるき続け、変化し続けよ、と言っておられるのだ。そして、もともとその運動や教会群が始まった段階でのオリジナルの姿を取り戻せ、というのでもない。それぞれの教会の現状についても、これまで形成されてきた教会のあり方にも、批判的(Critical)であるべきであるし、その結果として聖書を基礎としたダイナミックな教会というコミュニティーを新しく作り続けたほうがいいかもしれない、というご主張を展開しておられるように思う。

                       

                      その意味で、教会は「絶えざる改革をするべき存在である」あるいはリングマさん風に言うと教会は「絶えざる変革をすべき存在である」ということをおっしゃっておられるのだと思う。あるいは、大頭さん風の表現を用いると、外に向かってはみ出し続ける神に倣って、世界にはみ出し続け、そして、人々の世界にはみ出していくことを模索し続ける教会、ということではないか、と思うのだ。

                       

                       

                       

                      本書の主張の整理

                       

                      本書の主張を一言で言うならば、

                      【口語訳聖書 コリント人への手紙 第1】
                      4:20 神の国は言葉ではなく、力である。

                      と言えるかもしれない。

                       

                      力にある、ということを強調する傾向があるグループでは、異言や癒やしの強調、目に見える力が確認されることを上げる人々がおられるが、本書で言う”力”はそうではなく、日常生活の中で、それぞれの信徒が地に足をつけて生きる中で、神の民として神の力を受けつつ、いきいきと生きる、ということであろう。力が表象するものとして、奇跡を求めることでもなく、神とともに素朴に生きる中で示される神の力、我々の願いや思いとは無関係に、我々を通して示される神の力のことだと思う。それが聖神(あえて、聖霊が神であることを強調するために、正教会風の言い方をミーちゃんはーちゃんはここではしているが、聖霊のこと)が臨在されることによる力なのであろう。

                       

                      ある教会群では、ことばが数多く語られ、みことばの聖餐という言われ方もすることがある。教会で語られることばを聞くことが、教会に参加する、聖餐に参加することだ、神の計画に参加することだと理解している、あるいは、そのように教え込まれているキリスト者もおられるようであるが、それで本当にいいのだろうか、と疑問を出しているのが本書である。その意味で、本書の主張はポール・マーシャル著『 わが故郷、天にあらず: この世で創造的に生きる』 やグリューン著『従順という心の病い』という書籍の主張とある面良く似ている。

                       

                      これまでも模索されてきた教会改革

                      それと当時に、これまで多くの本書が勧めているような、オルタナティブな共同体や、カリスマ運動の運動体のような存在が模索されてきたし、方向性としてはそれは妥当な方向性ではあるものの、本当にそれでとどまっていて、良いのだろうか、ということをも本書で問うている。ここまでの紹介では、おそらく何がなんだか、この本の著者が何を言いたいのか、と迷いを感じられる方もおられるだろう。その点が、本書を多くの読者が遠ざける部分であるように思うのだ。多くの方は、「これをすればうまくいく」的な方法論を求めておられる場合が多いように思うが、本書の主張はそれとは大きく違っている。

                       

                       

                      著者の言いたいことを、N.T.ライトさん風の表現すると、

                       

                      キリスト者である人々が、日常生活において、天とこの地が交わっていることを具体的に示す存在とするように支援するのが教会の役割だし、人々の人生が地に属するものであり、聖霊の臨在がそれらの人々にある以上、神の生きるしるしとして、この今の世界で、生きる事ができるようにするのが教会ではないか

                       

                      ということになるのではないだろうか、と思う。

                       

                       

                      人間が観測可能な、ある具体的なしるし、奇跡のみにとらわれることなく、そして、本来集合的な神の民が集まる神の宮でもある既存の教会を否定するのではなく、それについても、ある面、良好な関係を持ちつつ、歴史的に作り出された固定化された教会内部にある理想化された行動の枠組みにとらわれることなく、キリスト者として生きられるようにしようというのが本書の主張である。さらに言えば、現実のこの地に生きている信徒の現実的な生き方や状況に配慮しつつ、教会自らと信徒を作り変えていく(神のわざが起きる器として整え、教会も信徒も神と共に歩んでいく)教会であってほしい、ということなのだと思う。

                       

                      とは言え、当初は、そのような教会像を求めて、オルタナティブな進め方を始めようとした教会群であったにも関わらず、何処かでズレが生じてしまったり、誤った方向性での固定化が生じたりした教会の事例や、悲劇的な最後を迎えた教会の具体例もいくつか取り上げられている。

                       

                      本書の中でも触れられていたWaco事件を起こしたブランチ・ダビディアンに関する動画

                       

                      よく考えてみれば、これまで行われてきた宗教改革(今年は予定通り宗教改革500年記念の年を迎えたが)やカトリック教会改革(反抗宗教改革)運動、フス派の宗教改革、ルター派の形成、改革派の形成、再洗礼派運動、バプティスト派、ウェスレー派などの形成、日本での無教会派の形成、ペンテコステ派の形成、、解放の神学…という様々なムーブメントがキリスト教世界にこれまで発生してきた。ある場合には、その動きを起点にした教会集団や教会連合、いわゆる教派の形成がなされてきた。これらは、オルタナティブな教会形成を目指しつつ、結局ある神学理解やある教会のあり方として固まってきたように思う。そして、それが脱皮したあとの抜け殻のようなものとして、固定化される中で、生命を持つものが持つ、躍動性と柔軟性を持たなくなっていった場合もあるように思う。

                       

                      とは言え、よく考えてみれば、抜け殻というのは少し言い過ぎで、種みたいなもの、という方がいいかもしれない。種は、条件が揃うと発芽するけれども、条件が整わない限り、発芽もしなければ、大きくもならない。そのような意味で「種」のほうが適切な対比と言うか比喩と言うか、メタファーかもしれない。その意味で、種、というのは非常に面白いメタファーだと思う。

                       

                      一見すると『種」生きていないようだが、どっこい生きているのである。

                       

                      様々な種

                      https://karamoses.com/published-writing/primary-seed-dispersal-by-the-black-and-white-ruffed-lemur-varecia-variegata-in-the-manombo-forest-madagascar/ から

                       

                      本書をわかりにくくする幾つかの用語

                      ハウツー本でない、トイウ以外に、もう一つ本書を読みにくくしているのは、日本語になりにくい、また、一般的な用語とはいえないけれども、いくつか重要な概念を示す用語が出てくる、例えば、エンパワメントとか、自己決定権とか、オルタナティブ(オルタナティブな共同体)とか、ファシリテーションとか、インフォーマル組織、批判的という語である。これらは、これらの概念に馴染みのない方には、おそらく「何それおいしいの?」に近いタイプの語や別の意味が思い浮かぶことが多い。このため、かなりわかりにくいと思うし、これらのことについて書き始めたら、本が1冊かけるほどの内容はある。詳細は、本書で上げている参考文献に目を通すか、幾つかの組織論の本(社会学に近い)や、一般システム論などの書籍を読んでもらうのがいいかもしれない。

                      とは言え、次回、その概略を触れてみる。

                       

                       

                      エンパワメントのイメージ

                      http://www.espace.cool/the-empowerment-of-espace/ から

                       

                       

                       

                      そして、本書がどんな人のための本か、ということをリングマさんのほんの一部を、ほんの少し引用しつつ紹介することにしている。

                       

                      次回へと続く

                       

                       

                       

                      評価:
                      ポール マーシャル
                      いのちのことば社
                      ---
                      (2004-12)
                      コメント:めちゃくちゃ良い。おすすめ

                      評価:
                      価格: ¥ 864
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                      コメント:枠にはめようとする近代からの脱却を目指すことの重要性を問いた本

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