ある関西のキリスト集会の信者のブログです。とりあえずテスト的に運用してみます。
 
日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた


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 すみません。この記事は異様に長いです。中身がいいので、切るに忍びないので、今回は一気にご紹介。

日本宣教学会第10回全国研究会で、本田哲郎さんのお話を聞いてきた。本田哲郎さんは、聖書学者でありながら、釜ヶ崎でホームレスのための奉仕をされた知る人ぞ知る方である。

 では、そのお話をご紹介したい。見出しは、読みやすさのためにミーちゃんはーちゃんが適当にいれたものである。

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 宣教の途中で、いろいろ野次が飛んでくることは多い。しかし宣教にあたって、皆さん方は、飛んで来る野次に負けないでほしい。本日のお話は、物議をかもすかもしれないけど、一度受け止めてほしい。


物議をかもす発言連発の本田司祭


宣教といいつつキリスト教を伝えてませんか?
本来伝えるべき福音ではなく?

 ところで、宣教というとき、我々は、福音をつたえようとしているのか、キリスト教を伝えようとしているのかを考えるべきではないだろうか。現代において、宗教としてのキリスト教を述べる意味があるのだろうか。イエスが言われたのは、「行って、福音を告げよ」ということである。しかし、キリスト教では、それがいつの間にか、「行って、宗教としてのキリスト教を述べ伝えよ」という具合に転換しているのではないか。

 宣教は種まきだろうか、刈り入れだろうか、を考えると、小さくされている人たちとの連帯し、刈り入れをすることが本来の宣教ではないだろうか。そして、信者にすることだけが宣教なのだろうか?これを考えてみたい。

 現在、聖職から、信徒にゆだねられていく傾向は、広く一般にみられる傾向である。牧師、司祭、宣教師だけが伝道・宣教する人だったものが、現在はそれに信者も関与していくことになっているのではないだろうか。

(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
 確かに、Missionalという概念はこれに属するだろう、とおもう)

 しかし、信徒の側にしてみれば、どこからするのか戸惑うばかりであり、いろんなことで心配している。例えば、質問に答えられるだろうか。宣教のために、神学講座を受けるとか、聖書注解を読んだ方がいいのか、どのような聖書注解を読むのか。では、信徒が今から勉強して間に合うか、と聞かれると、それは無理であろう。特に、ギリシア語、ヘブライ語、ラテン語など、基本的には、間に合わないだろう。3年やって、漸く辞書を引きひ聖書が読める程度にしかならない。専門家が行き詰って、どうしようもなくて、アマチュアに渡している感じがある。しかし、専門家が行き詰っているのに、その専門家がやった方法を模倣しようとする信徒たちが多い。これでは息づまるに決まっているのではないか。専門家がやってダメなことをアマチュアがやってもうまくいかないのではないか。

 ところで、イエスが望んだ神の国の実現とはなんだろうか。ローマ書によれば、正義(義)であり、よろこびであり、平和であるはずなのだが、教会内でどこまで浸透しているだろうたか。

(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
 この辺、NTライト「クリスチャンであるとは」の前半と深いかかわりがありそうである)

 これまでの宣教というのは、一種の教会と他宗教、教会間の一種の陣取り合戦のようなものでしかなく、その結果を自慢げに言うようなものではなかったか。 

 伝道、宣教とは何か。本講演では、それを問いたい。キリスト教を広めること、受洗者を作ることだろうか。そうであるとすると、これまで専門家がやった方法で、失敗した方法論をやればいい。行き詰まりは解決しないし、状況はよりひどくなる。

搾取する側にいたキリスト教

 ところで、キリスト教が幅を利かせてきた西側の先進諸国は発展途上国を搾取し、現地の文化と社会を破壊しなかっただろうか。銃器を売り渡し、死の商人をし、途上国の民の労働のみを奪ったたのがキリスト者でなかったか。これらのことをやった所謂先進国の指導者はその大半が幼児洗礼受洗者であるキリスト者の一部ではないか。

 先進国は、経済発展と称し、抑圧の経済を教えているが、それでいいのだろうか。

 宣教、伝道とは本来福音を知らせることだろう。では、福音、聖書とは何かを考えてほしい。宗教枠を超えた会衆の救済のことを伝えるものではないか。キリスト教の枠なしでも、人々はわかるのではないか。マルコ福音書15章において、マルコはイエスの肉声とそれを記録しようとしたのではないか。

【口語訳聖書】
マルコ
 15:2 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは、「そのとおりである」とお答えになった。
 15:34 そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
悔い改めとメタノイア
 ところで、神の国は近づいた、は完了形である。ちょっと手を伸ばしたら、そこにあるのが神の国という理解である。イエスは、神の国はあなた方の間にある、とはいわなかったろうか。福音を受ける唯一の条件はメタノイアである。このメタノイアという語は従来、悔い改めと訳されてきたが、この言葉の語源から考えると、メタは、「こえる」、「かえる」、「うつす」を示す言葉メタに由来しており、ノイアの原型ヌースは、筋道を立てて行動しはじめる始点のとこである。私は、ぬーすを視座と主張したい。これらの語から考えるに、メタノイアとは、低みに身を置き、そこから見つめ直すことではないか。

 つまりメタノイアは、低みに自分自身をおき、その低みからの視座に移ることであり、「悔い改め」としたのはまずかったかもしれない。福音を受けるためには、メタノイアすることが重要である。メタノイアとは、「低みに身を置くこと」であって、悔い改めとして、それまでの信仰を棄てたり、強制的に捨てさせることをするのはまずいのではないか。例えば仏教徒に関しては、仏教の所属教派から他の宗教であるキリスト教に移させるのは、まずいのでないか。本来、その人の過去の履歴は、問わないものが福音というものだろう。

本当に現在のキリスト教は普遍的か?
 キリスト教が普遍だという説があるが、そんなウソを言うってはならないのではないか。普遍ならば、他の宗教とケンカは起きないはずである。しかし、現実には、これまで喧嘩し続けているではないか。他の宗教と争ってばかりいる。その意味で、キリスト教に普遍性があるわけではない。我々は、キリスト教こそ全世界に広がるという希望を持っているが、イエス自身はそのようなことは求めてない。福音の普遍性を求めているはずなのに。もう一度虚心坦懐に聖書を見直すなら、福音がわかり、それに従って、わかるようになるのではないか。メタノイアを「悔い改めよ」という訳にしてしまったために失ったものがある。実際には、メタノイアが実践されてみて初めて、あることの重要性が見えてくる場合がある。その意味でメタノイアは、物理的な視座の移動を伴っていると言えるだろう。

 洗礼も受けてない民衆を山上の説教で、天国はその人たちのものであるとイエスは言っているものではないか。天国は教会の信徒のものではないだろう。イエスは新しい宗教を起こしたわけではない。あくまで、ユダヤ教徒の自覚のうちで、イエスは神の国を述べたのではなかったであろうか。

ユダヤ教徒と思っていた初期キリスト者

 クリスチャンの語源のクリスティアノイは、もともとラテン語のギリシア語変換で、そもそも教会外の人が言い出した言葉である。聖霊降臨があっても弟子たちは、ユダヤ教の自覚のままであったであろう。今思っているキリスト教は、コンスタンティヌス期以降のコンスタンティヌス型のキリスト教であり、ローマの国教化以降の話であり、その意味で初代教父もイエスの視線とずいぶんずれた上から目線の話であったのではないだろうか。

 イエスが、ユダヤ教のアブラハムの神、イサク、ヤコブの神の枠組みで律法を守れと言ったイエスがいるのではないか。その意味で、イエスは、ユダヤ人として、ユダヤ教徒としての祈りをしていた。特に、エロイ・エロイ・レマ、サバクタニ、という語は明らかにユダヤ教の線に乗っている。

 使徒たちにしても、使徒言行録をみると、彼らはそのままユダヤ会堂におり、ユダヤ教徒として伝道している。しかし、紹介したのは、従来のユダヤ教を超えた立場であるイエスキリストである。その意味で、明らかにユダヤ教徒のユダヤ教からの改宗をもくろんだわけではなく、宣教したのではないか。つまり、新しい神でも新しい宗教でもなく、彼らが信じている神を説いた。三位一体の説明は、イエスのヨハネ福音書に記載されている、で十分ではないか。

【口語訳】ヨハネ
 14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
 14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
 14:18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
 14:19 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
 14:20 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。

 イエスご自身は、このようにも言っておられる。
【口語訳】
ヨハネ福音書
 10:37 もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもよい。
 10:38 しかし、もし行っているなら、たといわたしを信じなくても、わたしのわざを信じるがよい。そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」
信仰のみって・・・
 ヤコブを藁の書だとかいう人々もいるが、パウロとヤコブは同じことを言っている。信頼して歩みを起こすことがピスティスである。信仰があると言いながら、困った人々に何も手だてをしないのは本当に信仰といえるのだろうか。パウロは信じるだけで救われるとは言っていない。イエスが歩んだように自分もやってみることを進めているのではないか。歩み始めてみて始めて、そこで、気が付くことがあるのではないか。

 実践してみるとき、その時信仰が分かるのではないか。いうだけ言って、あとはよろしくではわからないものがあるだろう。しかし、この行いも、人間の知恵から出たものではない。神を信頼して歩みを起こすことが大事だろう。ピスティス・ピスティオーとは、体をゆだねるように信頼すると言えるのではないだろうか。

福音と現代のキリスト教の分離

 福音を今のキリスト教と切り離して考える必要があるのではないか。キリスト教と福音は別物ではないか。今ここでは、少し切り離して考えてほしい。福音そのものとは、世界各地の土着の信仰を切り捨てて、イエス・キリストを出発点とする信仰に切り替えるものとは思えない。

(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
 この辺、スコット・マクナイト「福音の再発見」の前半と深いかかわりがありそうである)

 民族の宗教を奪い、そもそもの信仰を切り離し、隠してしまうと、自分のアイデンティティを失うことにもつながる。それぞれの民族宗教を否定することは文化破壊、アイデンティティを失わせることになっているだろう。それはイエスが主張したこととは違うものではないか。ヨーロッパ型キリスト教がアメリカで変容する中で、もともとその地方で信じられていた、地元の宗教からキリスト教へ改宗を求めるようになった、そして、それが宣教と思われるようになったのではないだろうか。

(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
 この辺、創世記の神のかたちに造られた、ということと、かなり深い関係がありそうな気がしている。そして、神の息が吹き込まれた、ということと、後に出てくるが、神の種がまかれるということ、NTライトが「クリスチャンであるとは」の第2章隠された泉を慕って Hidden Springに示されている霊性の泉の話あたりと関係しそうである。)

 先進国は、発展途上国を先進国の奴隷状態に陥れただけではないか。主の祈りでは、「私たちが天国に行けますようにと祈れ」と主張していないのではないか。主の祈りのイメージから言えば、御国が地上に来るはずなのに、我々は、天国に行けるようにと、勝手に読み替えている、あるいは、切り替えているのではないか。

天国理解について

 十字架にかかっているときに、強盗に「今日お前は楽園(パラダイス)にいる」としか言ってない。天国理解にかかわる記述は、それだけではないか。死んでからの事は、よくわかっていないわけであるから、それは、主の御手に任せたらいい。死んだら天国に行く、ということには子どものうちは騙されるが、理性が発達した大人はそうはいかない。

(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
 この辺、N.T.ライトのSurprised by Hope(現在翻訳作業中らしい)で触れられた死後理解の話と、かなり深い関係がありそうな気がしている。そして、それが西洋社会でずれているというライトの指摘と重なるものを感じた。)

臨死体験と死後の世界とは別物じゃね?

 死んでからその世界を見てきた人がいるのか?確かに、臨死体験はあるが、それは臨死であって、死んでない体験である。死ぬ前の話でしかない。コロサイの手紙のキリストにあって( エン クリストゥー)で、天にあるものも、地にあるものも、見えないものも見えるものも、キリストと一体だ、といっているのではないか。
【口語訳】コロサイ
1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
 1:17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
 この御子にあってつくられた、ということが復活ではないか。まさに、この世のいのちで終わりでない。見えない神のかたち(エイコーン)、それがキリストではないだろうか。

(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
 この辺、スコット・マクナイトの福音の再発見でも出てくる。そして、神のかたちという理解と創世記理解との重なりを考えていくと、終末論は従来のものと違うのかもしれない。)

異教の民の宗教と信仰とイエス

 イエスは、わざわざ、フェニキア生まれの異教のカナンの女性の中に彼女の信仰を認められたのではないだろうか。彼女はユダヤ教徒ではない。彼女の踏み込んだ行いがあなたを開放した、ということではないだろうか。

 狂気につながられたゲラサ人を開放したのち、ゲラサ人がイエスについていきますと言ったのに、彼に「家に帰れ、そして、異邦人であり、別の信仰を持つ家族のもとに帰れ、そして自分の身に起きたことを話せ」といっている。イエスは自分のところに残り、イエスと一緒にいなくてもいい、とまでおっしゃっておられることの意味は何かあるのではないだろうか。

 ゲラサ人は豚を飼う人々である。つまり、ユダヤとは宗教も異なる人々であり、癒された人をその人が持っていた宗教に返したことは着目すべきであろう。

 家人が病気であった百人隊長に対しては、イエスは言って直してやろうと言ったのに、「お言葉だけで十分ですと」という百人隊長に、これほどの信仰を見たことがない、とイエスは異教徒の信仰を認めている。我々は、キリスト教徒だけが本当の信仰がある、と勘違いしていないか。本来、その人が抱えている問題からの開放、即ち福音を告げ知らせるのが、伝道なのではないか。

宣教とは小さくされたものへの呼びかけと関与

 宣教とは、宗教としてのキリスト教の伝達ではなく、貧しく、小さくされたものへの呼びかけとそれらの関与と参入が福音であろう。

 皆さんには、虚心坦懐に福音書を読み直してほしい。イエスは、特定の宗教に属する人に呼び掛けているではなく、すべての人に呼び掛けてはいないだろうか。キリスト教は普遍的な真理を語る宗教であるということは、一種のウソといっていいだろう。普遍という言葉の通りやってない。なぜなら、自分と違う考えの人を認めないことをしている以上、普遍ではありえない。

(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
 この辺、定義の問題からして、普遍は一部の中の普遍は、特殊でしかなく本来の普遍ではないよなぁ、言葉の定義から行ってそうだよなぁ、と本田司祭のことばの鋭さに、驚いてしまった。それだけ、ミーちゃんはーちゃんは、思い込みで、混乱してしまっているのであろう。)

 福音宣教とか、宣教とかいう、その中身は何か。 福音を知らせることなのか、キリスト教を伝える伝道なのか、ということは考えた方がいい。もう少しいうと、種まきの発想であるのか、収穫の発想であるのかを考えた方がよい。

種まきの譬えをどう理解するか?

 よく伝道は種まき型の発想をする人がいる。この形の伝道を考えると、芽生えるための種を入れることから始まる。つまり、持っているもが持たないものへという上から目線の構造を持っている。

 この種まき型で、自分が種まく人になっちゃう上から目線の考え方は、キリストの価値観とは大きく違う。福音宣教は種まきです、と我々は聞かされてきた。この考え方では、持っている人は持たない人に憐れみと、御言葉を分け与えることが務めだ、とこれまで理解してきた部分があったし、自分自身そうであった。


(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
 この辺、バーバラ・ブラウン・テイラーの「天の国の種」の話を思い起こしてしまった。丁度、このあたりの事に関して、非常に興味深い、また印象深い解釈をバーバーラ・ブラウン・テイラーは述べている。お勧めする。)


 つまり、教える(種をまき)、育てる、守るが教会のしてきたことである。あるいは、学校、幼稚園、福祉施設を作り、囲い込んどいて、しっかり種をぶち込む形が宣教だったのではないか。この囲い込みの枠から出るな、というやり方で宣教をしてきたと言えるのではないか。これで福音が本当に伝わるのだろうか。

 ところが、神の国、神の正義=抑圧からの開放であるはずではないか。ほっと一息、ため息が付ける、ほっとするのが、福音だろう。ローマ書の中現われた福音とは、正義、よろこび、平和として示されているのではないか。

【口語訳聖書】ローマ書
14:17 神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。
14:18 こうしてキリストに仕える者は、神に喜ばれ、かつ、人にも受けいれられるのである。
14:19 こういうわけで、平和に役立つことや、互の徳を高めることを、追い求めようではないか。
 キリストの宣教は種まく人のイメージで語られてきた。ソウワーという聖書協会の雑誌があるが、それが示すように、宣教とは、これまで、種まきすることだ、というがいねんが植えつけられてしまったのではないだろうか。そもそも、この場所のギリシア語では、種に区別がなされていないのである。落ちた場所が違うにも関わらず、原文をきちんと見ると、全く同じになってなっている。

 しかし、このたとえ話では、道とか荒地とか、いばらの中とか、まさかこんなところに、撒くはずがないところに、この種まく人はまいているのである。その意味で、そんなあほなことをする人はいないだろう。そう考えると、この譬えは、農作業の譬えではない。御言葉、神の受肉は、これっぽっちしかないようなところにも、御言葉の種はまかれたことを示しているのではないか。

 イエス、父である神、聖霊なる神が、すでにすべての人に種を撒かれているのではないか。どこにでも撒いておられるのだ。すべての人のところにまかれているのではないだろうか。

(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
  先にも述べたが、この辺、創世記の神のかたちに造られた、ということと、かなり深い関係がありそうな気がしている。そして、神の息が吹き込まれた、ということと深い関係性があり、さらに、NTライトが「クリスチャンであるとは」で主張している、第2章 隠れた泉を慕って Hidden Springに示されている霊性の泉の話あたりと関係しそうである。)

 種まきのためにキリスト者は派遣されているのだろうか。正義と平和と喜びということは、普遍的に存在するのではないだろうか。キリスト者がしないと絶対にできないことではないのではないか。釜ヶ崎の新左翼がしていることがすごく、他の労働運動関係団体が来てもらって困るというような新左翼集団が義を実現しようとし、人をものすごく大切にしている。

(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
  先にも述べたが、この辺、NTライトが「クリスチャンであるとは」の第1章 この世界を正しいものに Putting the world to rights で主張しているあたりと関係しそうである。)

愛するとは何か?

 われわれは、愛すると言葉に騙されてきたのではないだろうか。確かに、敵を愛せとイエスは言った。しかし、キリスト者として、それを本当にしてきたことがあるか。自分を愛するという感覚を持っているだろうか。私たちがしているのは、自分を大切にしたい、大切にされたいということではないだろうか。愛すると訳されている語は、大切にされることであり、それが、アガペー、アガパオーの意味であり、16世紀に日本に来た伴天連たちは、聖書の部分訳で、御大切と言い換えた。気仙語訳では、お大事(おでーじ)と訳出されている。山浦さんは「愛」という語があるのをわざわざ知りながら、お大事という語を使ったのだろうか。愛さなきゃダメなんだ、となるから苦しむことになる。愛することなどできないから、苦しみを倍加させる。そして、教会に来て苦しみを抱える。これが福音であるのだろうか。そんなことはないだろう。

 Iコリント13章は、愛に関して書かれているが、愛は耐えることがないと訳されているが、本当に愛は途絶えてないと言えるだろうか?

 人を大切にすることならできるかもしれない。しかし、愛は途絶えることはないと実現不可能な表現に訳し続けてきた教会の責任は大きいかもしれない。愛せないということで悩む必要はないだろう。むしろ、人を、他者を大切にしているか、しようとしているかが問題である。

(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
  先にも述べたが、この辺、NTライトが「クリスチャンであるとは」の第3章 互いのために造られて Made for each other で主張しているあたりと深く関係しそうである。)

 過激とみなされる組合活動の中にも、ザビエル以降の福音の効果が表れているのではないだろうか。日本には、キリスト教や聖書やナザレのイエスと接触することのないまま過ごした人の方が多い。しかしその中でも、良い実があったし、よい実を結び木があったし、今なおあるのである。日本においては、むしろこの方が圧倒的に多いと言えるだろう。神の国は種まきは要らないと言っているわけではない。神が種まきをしてくださっている。

 聖書の中に多種多様な種の譬えば多い。よい種、毒麦の種、からしだね、が出てくる。教会ができるはるか以前から、教会とか宣教師によらず神の国の種は撒かれていたのではないか。種まきとは、神の子が人となった受肉の事であろう。それを種まく人の譬えで語っているのではないだろうか。マタイ福音書では13章の中に出てくるが、この部分は神の国の見えない神秘を語る部分である。マタイ福音書10章が、どう伝道するかの方法論である。

種とは何か?
神の受肉したことば、ナザレのイエスではないか?


 種をまく人は神の御言葉を撒くのである。神のみことばとは、聖書のことばというよりは、言葉である方、ホ・ロゴスを撒くのである。

 ヴァチカンの聖書研究所の研究者は、“ことば”というのは、人間となったものであると言っている。わたしたちが目で見てわかる、聞いてわかる、触れてわかるからことば。言葉というからには受肉した存在なのである。受肉しているものが言葉である。“ことば”にあたるギリシア語に対応するヘブライ語は、ダバールであり、ダバールは、できごと、この世界で実現したことであり、歴代誌はダバールから由来する語から来ていて、彼らが実際に体験したことなのである。その意味で、ホ・ロゴス、すなわちダバール、日本語で“ことば”とされるものは、受肉したナザレのイエス以外になく、ヨハネの福音書1章は、はじめにことばである方、受肉した言葉、出来事となった方があった、と理解するのがよいのではないかと思う。即ち、種は、ホ・ロゴスであり、受肉したナザレのイエスで、このお方はどこにでもある方でもあるのではないか。

(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
  この辺、NTライトが「クリスチャンであるとは」の第1部でも散る表現 声の響き、という語で主張していることは、ナザレのイエスの声でもあるし、ナザレのイエスからの呼びかけであると思う。)


 種まく人の譬えは、受肉の神秘を通して、すべての神秘の中にすべての人の中に種として撒かれている、ということを表しているのだろう。ローマ書の中で、イザヤ書65章を引用しながら、次のように言っている。

口語訳聖書ローマ書
10:20 イザヤも大胆に言っている、
「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、
 わたしを尋ねない者に、自分を現した」。
 
口語訳聖書イザヤ書65:1
65:1 わたしはわたしを求めなかった者に
問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に
見いだされることを喜んだ。
わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と。

口語訳聖書 エレミヤ
31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
 31:34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。
宣教とは何か?
 では、宣教としており組むべきことは何か。それは、連帯であろう。小さくされている人々との連帯ではないか。

 小さくされている人々に関してであるが、努力して小さくされることはないし、努力で小さくは、なれない。周りの人の評価が下がってきて、他者によって小さくされているのである。しかし低くされることで、鋭い感性を持って立ち上がる、しっかりと両足で経って、低みから見直す。何を悔い、何を改めるべきか見出すことが大事ではないか。苦しむ人々に対して連帯し、連帯、差別に対決する人々との連帯をするとき、私たちは、大いなる実りを見るのではないか。彼らとの連帯により、彼らの立ち上がりと彼らが直面する構造についての気づき知らせることが宣教ではないか。神と共に働く働きこそが刈り取りであり、福音宣教といえるのではないか。社会の底辺にいても、すべての人にみのりの時が来ているわけではない。底辺に立つことの理解の深化を認め、平和と喜びと正義を実現することが重要ではないか。

 もちろん、福祉や救済という上からのかかわりにとどまる人もいる。社会正義や人権に関する感覚が研ぎ澄まされておらず、援助によって差別行動を強めることもある。メタノイア(低みに身を置き、視点を移動させること)が徹底していないことも多いかもしれない。

(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ
この辺、木原活信著 「弱さ」の向こうにあるもの とつながるような気がする。)

 
 このメタノイア(つまり低き所からの視点への異動)を行うために、すでに実りをもたらしている人から学び、実を刈り取ることが重要ではないだろうか。連帯とは相手と同じ立場に立つのではなく、できるだけ歩み寄ることだろう。ただし、絶対に他人と同じ立場にはなりえない。他者の立場には立てないのである。他者の立場に立ったつもりでの言動、これが差別と抑圧を生むのではないか。立ったつもりで寄り添わせてもらうしかないと言える。

 相馬司教という方が、理解するとは、understandingなんだよなぁ、とカラカラ笑っておられた。人の下に立つ、低みに立つことで、理解ができると言えるだろう。同じ水平的な位置のところではダメなのだ。 Stand under othersができて初めて、理解ができ、コミュニケーションが成立すると言えるだろう。




前方に陣取るキリスト教出版関係者w

 感想は、次回 質疑応答と合わせて掲載予定。


評価:
Tom Wright
SPCK Publishing
¥ 1,530
(2011-05)
コメント:文句なしにいい。日本語訳が、『クリスチャンであるとは』あめんどう刊

評価:
スコット・マクナイト
キリスト新聞社
¥ 2,160
(2013-06-25)
コメント:中の人だけど、実に良いと思うから、出版した。

評価:
バーバラ・ブラウン テイラー
キリスト新聞社
¥ 2,376
(2014-03)
コメント:絶賛である。

【2015.07.04 Saturday 19:51】 author : Voice of Wilderness
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ある方のコメントへのご回答

 工藤信夫著 真実の福音を求めて その6

を先日、本ブログで公開いたしましたところ、ツィッターで、ある方から、コメントを頂きました。ツィッターで返すのは、少しどうかと思いましたし、大事な内容が含まれていると思いましたので、記事にしてお返しすることにいたしました。
とても深く、頷く事ばかりです。はっきり言うと私は孤立心が強く日本には住めない日本人だと理解して日本を出た変な者です。アメリカの教会で救われ、うん十年もメガチャーチでクリスチャンという席に座ってました。
こういうご指摘をいただいた一番の理由は、工藤さんの視点が深いのだと思います。実務家(精神科医師)ならではの分析力と言葉の選択が適切だと思います。
8年前かそこを去り、家族で聖書を1行1行読み始めた事からそれまで重荷となっていた偽の宗教から解放されたのです。
これは大事ですね。基本、私たちにまず直接神ご自身が語りかけられるのは聖書ですから。それを読みやすい得意な言語で、じっくり味わうように、周辺を含めて読む、味読する、あるいは思いをめぐらす、ということはとても大事だと思うのです。
だからと言ってホームチャーチクルセーダーでもありませんので誤解しないでください。と同時に、この度の最高裁判所の決断により、今後はアンダーグラウンド集会が増える時代は近づいているとも思っています。
はい。誤解はしていません。まぁ、もともと、パウロは町はずれの川のほとりで祈ってたところから始まっているんですから。それでもいい、と思っています。
私も外見はすっかり日本人ですが中身はかなりアメリカナイズされてます。元からの変わりモン性質+アメリカ生活25年となるとすっかりアメリカン並に大きく口を開き、こちらに住む日本人からも一歩置かれるんです。
私は日本に住む日本人ですが、基本頭の中は、すぐWhy Not?って言いたくなるアメリカ人型性格なので、在日日本人にも時にドン引きされますし、海外にいたときも、在留邦人の皆様方とは距離を置きLoneliest Lone Rangerみたいな生活してました。だって、1年しかいる機会ないからこそ、現地情報知りたい訳ですから。
はっきりと物事を言わない日本人にはイラつきます。 自分の意見を言う事で反対意見を持つ方に失礼だという姿勢をとって黙るのが日本人ですね。だから聞かれるならしっかりと自分の意見を放つ私みたいな人間は、アメリカに住みながらも失礼な人、キリスト用語では愛がない人まで思われてたり。だからと言って日本人の神経質っぽい部分が全て嫌だとは思いません。
確かに、発言求められても、一言も言わない方には困りますね。学生と対話型で現在講義を行っているのですが、反応がないのが一番困ります。アメリカ人の学生には口から生まれてきたような人(中にはそうでない方もおられますが)が多いのですが、それがないとさびしくって。w

 結局愛がないとか、失礼だ、という方々が、どの程度自分の持つ文化に批判的であるかあるいは他の文化にオープンマインドであるか、ということにかかっているかと思います。あと、どういう社会的状態(短期現地駐在員、短期留学者、長期駐在員、一生そこで住む人・・・)で滞在されているか、によっても態度は少し違う感じがしますが・・・。
When In Rome…という諺がありますよね。アメリカで日本カルチャーを押し付けようとするのは間違いで、日本でアメリカカルチャーを押し付けようとするのは無理だからアメリカで通用する教会作戦は日本では通用しないで当然かもですね。
 まぁ、基本文化が違うわけですから、それは仕方がないか、と。戦後アメリカの影響は受けましたが、それは割と日本の現代文化の上に載っているだけ、と思うのです。基層文化は、歴然として、以前のまま、変わっていない。そんな感じかと思います。

 しかし、戦勝国で、占領国であったアメリカは、自分たちの論理と手法がユニヴァ―アルに受け入れられるものだと思い込み、日本人は西洋というものをあまり深くとらえた経験がありませんでしたから、アメリカは西洋の代表だと誤解し、それに追随した部分もあろうかと思います。とりわけ、産業界は、アメリカ型生産制度に追随しました。それが、効率的であり、アメリカ軍の物資提供要請と合致しており、朝鮮半島、インドシナ半島での戦役での物資供給にも有効であったからです。

 また、キリスト教会は占領軍の支援もあって、広がった部分もありましたから、基本的にアメリカ型のメソッド(このことばを聞くと、Method Actingを思いますが)を導入することになったわけですが、ほとんどあまりうまくいかなかったかなぁ、と思います。

 コメント、ありがとうございました。長くなりそうなので、記事にしてしまいました。



【2015.07.04 Saturday 18:35】 author : Voice of Wilderness
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木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの を読んだ その1


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 本日から、木原 活信著 いのちのことば社刊『「弱さ」の向こうにあるもの』をご紹介したい。



著者らしさがよく現れた本
 基本的にこの本は、著者が弱さを抱える人々との関わりあるいは支援に実務家として、そして研究者としてもあたってきた経験から、キリスト教的な意味で、「弱さ」をどう受け止めるか、ということに関して、学術的ではなく、かなり具体的な日常の視点でまとめた本である。また、本書は、一種著者の自叙伝的な側面を持ちつつ、聖書と社会福祉とのかかわりを、ナウエンなどの所論を下敷きにしながら、弱き人々と共に生きるとはどういうことか、他者を愛するとはどういうことか、をコンパクトにまとめた書物であると言えよう。また、時々に引用されるPopsやJ-Pops(といっても、最近のものというよりは著者らしく、いまやクラッシックになりつつあるPopsであるが)が著者が無類の音楽好きであることを示している。ただ、惜しむらくは、ナウエンをかなり読んだ人をならば、あぁ、これはナウエンのこの辺の思想を受けたものだ、ということは類推がつくが、そうでない人にとっては、もう少し詳しく知りたいと思っても知ることができないという意味では、少し不親切な本ではある。まぁ、ナウエンの研究書に関しては、別の書物があるので、それを読んでくれ、ということであろうが。

 詳細はおいおい、いつものように引用しつつ、紹介していくが、強さを絶対善と暗黙に仮定する現代社会の社会通念の中で、弱さの問題、人間のはかなさの問題をどう考えるかを著者の経験などに基づき、具体的事例なども示しながら、示唆を与える本である。この本は、来年のオフィスふじかけ賞の有力候補ではないか、と思う。

弱さの逆説
 木原さんは、弱さの問題をパウロの視点から次のように説きおこす。
 私は個人的に、使徒パウロという人物にあこがれる。あんな勇敢で大胆で聡明で、そして強い信仰の人になってみたいと本気で思ってきた。しかしパウロの人生のカギになっているのは、この勇敢さや強さではなく、むしろ「弱さ」そのものであったと気づく様になったのは、実は最近の事である。推測するに、パウロという人が人生をかけて格闘したのが、この「弱さ」であったようである。(『「弱さ」の向こうにあるもの』p.15)
 確かに、パウロには、障害ある種の弱さの問題に付きまとわれたといえよう。これは木原さんがご指摘のように、肉体のとげ(それがなんであるかはわからないし、それを詮索することは知的スポーツとしては面白いが、結論が出ない問題の一つである)がその一つであると同時に、パウロ自身が認めるように、イエスと同時代・同一空間を共有しながら、しかし、使徒的役割を果たしながらも、直接的には弟子であることはなかった、あるいは、なれなかったという弱さを抱えつつ生きた人物である。その意味で、パウロは、非常に大きな働きをしつつも、その心のうちにイエスの直接の弟子であった12弟子たちには、常にどこかで引け目を感じ続けて生きていた人物でもある。

弱さにおいて働く神
 繁栄の神学とか、反知性主義的な社会が生み出した強さの神学はある面で、自己中心的な聖書理解(ミーちゃんはーちゃんの用語で言う「オレ様神学」)になりかねないものがある。その自己中心的な聖書理解は、神の前に自分自身を明け渡していることになっているかどうか問うたほうがよいのではないか、ということに関して、次のように木原さんは書いておられる。
 神の恵みが完全に表れる姿、それはむしろ「弱さ」の中にこそあるという、このパウロのメッセージは、そう簡単に実感できないばかりか、理解すらできないかもしれない。物理的には、人間が無力であると、つまり無力の状態の器であると、それだけ神の力が増しやすい。つまりからの器であればあるほど、神の力が宿りやすいということで、ある面理に適っているともいえる。
(中略)
 「○○力」の形成・獲得というのは、メディアを通じて我々の中に飛び込んでくる。現代の力や強さへのあこがれは相当のもので、その前提にあるのは、強くなければならないという「まなざし」である。(中略)しかし、強くありたいというのと、強くならねばならないというのは、別問題である。(同書 pp.18-19)
 この部分を読み「○○力」の表現を見ながら、今の大学の置かれた即戦力型の能力開発を重視しようという類の話しを思い出してしまった。結局、パスカルが言うように、人間本来が「考える弱き葦」であることを忘れ、問題に対して、当座5年とか10年位のクイックフィックス(短期的な解決策、安易な解決策)を当てはめる力を持ついわゆる社会にすぐ役に立つ「強い人間」を促成栽培で育てる事ばかりに目が言っているような教育が求められている気がしてならない。「弱き葦でありつつも、柔軟性を持つ人間」を育てることではなく、「堅くて強さをもつ一種融通のきかないコインの様な人間」を育てることが今は大学にすら求められているのかもしれない。まぁ、コインは通貨以外にも使い道がないわけではないが。


近代の教育システム批判の漫画


勝ち続ける人生、
陽のあたるところだけを歩もうとする人生
 個人的には、繁栄の神学、強さの神学が好きではない。正しい間違っているかどうかは知らないが、このブログの中で何度も好きでないことをふれてきた。なぜ、個人的に好きではないかはあまり真面目に考えたことがなかったのだが、その理由が木原さんのお書きになられたもので少し感じるところがあった気がした。
 亡くなられたミュージシャンの尾崎豊さんは、当時の若者にカリスマ的な影響を与えた歌手であるが、「僕が僕であるために勝ち続けなければならない」といった。それは、ある面で、現代社会の風潮や世相を彼なりのことばで反映したものだと思う。自らを自らの力で生き抜くこと、つまり、自らが人生の主人であり神であると考えると、確かに勝ち続けることによってしか自分を正当化できない。(中略)そういう人にとって弱さを認めることは、自己否定以外の何物でもない。(同書 p.19)
 繁栄の神学、強さの神学は、下手をすると、「自らを自らの力で生き抜くこと、つまり、自らが人生の主人であり神であると考えると、確かに勝ち続けることによってしか自分を正当化できない」強さこそ正義であり、正義であるが故に、自分の本来の主人であるべき神を忘れ、一人の弱き葦であるべき人間という自分自身が神として正当化されうることにつながりかねない危うさを持っているからである。つまり、自己反省というもののない、反知性主義とつながっているからである。

 そのため、藤掛さんがオフィスブログで触れられた「背伸びした生き方」「強行突破型の生き方」「神が祝福してくださるから何も心配はいらない」という、「塔を建てる前にその費用を考えないような生き方」に突き進んで行きかねないものを持っているからではないか、と思っている。そのことを本書を読みながら感じた。

 個人的には、尾崎豊よりも息子が幼稚園の頃好きだった下側の動画、ジャム・ザ・ハウスネイルの挿入歌「猫が猫であるように、犬が犬であるように、全身、全霊(神が造りたもうた)ボクでありたい」(3分10秒あたりから)と思っている。


勝続けなければならないと主張した尾崎豊


ジャム・ザ・ハウスネイル
猫が猫であるように、犬が犬であるように、全身全霊ボクでありたい という歌詞が印象的だった

人間存在の意味
 人間の存在をどう考えるか、というと、近代の社会が産業社会であることを要請されたこともあり、産業社会にどう貢献できるか、ということだけが課題になってきた。その面で、人間の評価は、生産性とそれにどう貢献できるかということで評価されることが大きかった。

 最近はあまりこの分野をしていないのであるが、世俗の仕事で過去教えたこともある、Operations Research(作戦計画に由来する語)や経営科学などは、この生産性をどう企業や組織内であげていくかということに血眼になる学問体系であったし、これらの学問体系は社会から需要されていることもあり、無批判にこの生産における価値を人間の価値のかなり大きな部分であるとして、Presumption(暗黙の前提)やAxiom(公理)としてきた側面があると思う。まぁ、そこに焦点を絞ってのみ、研究をしていた、という位の側面はあると思う。そのあたりの事に関して、木原さんは、次のように書く。
 そもそも生産性のみが役に立つということが、すべてを図るモノサシかというと、これには疑問がある。いや、もしそれしかないというのなら、そこには問題が生じるように思う。役に立つということを考えるには、多様な基準があってしかるべきではないかと思う。
 我々の現代社会は、ただ行動や能力(doingやhaving)で評価してしまう。しかし果たしてそれが絶対の基準なのか。いやむしろ、ただ存在すること(being)を見つめると視点とまなざしを持たなければならないのではないか。これこそ現代社会が最も忘れてしまっている視点ではないだろうか。(同書 p.26)
 経営科学やOperations Researchが日本に初めて入った1960年代は、計数可能な生産性の側面にばかり目が行っていたが、現代では若干、この辺の暗黙の前提に関してかなり緩和されてはいるような気がするが、しかし、これらの学問分野の多くの前提自体は、計量化、定量評価可能なものにかなりウェイトを置いて着目し、その最大化を図るという側面がある。

計量志向を揶揄するマンガ

 実際には、企業の役割や意味は、こういう社会に対する生産によるアウトプットのみで評価できるわけではない。それは、公害という不幸な経験を通して、企業活動や生産の社会への負の外部性、あるいは、フィランソロピーのような活動による社会への正の外部性なども評価されねばならないと考えられるようになってきたからではあるが。

多様な価値観・創造の多様性

 ミクロ経済学の生産理論や生産関数論で取り扱われるように、近代は均質性、同質性という大きな前提を置き、人々に関しても、財やサービスという市場で取引されるものも、同質性を前提とした大量生産、大量消費による規模の経済(たくさん作れば、平均生産費用と限界生産費用が減るというメリット)が享受されることにより社会はより豊かなものになってきたし、それが、近代社会発展のからくりでもあった。大雑把に言えば、であるが。

 しかし、それは、リスクの拡大という負の外部経済を社会に残したことは、企業コンプレックスの撤退に伴い財政的にも経済的にも疲弊している地方の企業城下町を見れば明らかである。典型的には、あてにしていた工場が企業の生産物市場の国際化に伴い海外移転した町では、シャッター通りが広がる。あるいは、トヨタの経営状況が悪くなると、税収が一気に激減し、年度途中で予算が回らなくなった事案に直面した、愛知県内の公立教育機関の先生の話をお聞きすると、実にこのようなどこか一つに地域経済が大きく依存しているということの危うさはわかる。もっとわかりやすい例でいえば、何らかの理由で、東海道新幹線が止まると、東京駅がマヒするという日本社会の危うさは、近時もリアルで経験された方もあろう。
 単一な価値観ではなく、多様な価値観が認められる世界、このことは役に立つということ、弱さを考える上でもキーになるように思う。冷静に考えてみると、案外、役に立つと思っていたことは大したことではなく、むしろ役に立たないと考えがちなことが役に立つことは大いにあるのではないだろうか。(同書 p.27)
 その意味で、複線的な社会であることが望ましいにもかかわらず、真理は一つ、解は一つしかなく、自分の持つ理解以外は不正解とする視野狭窄を生み出しかねない近代の概念に我々は毒されているのかもしれない。




神に出会う場所
 自分自身に自信がある人は、神そのものを必要としないのではないかと思う。そもそも、自分自身では何とかならないことがある、というある種の弱さが認められなければ、神は本来的には必要なくなる。神に出会うためには、この弱さが必要なのかもしれない。

 農業社会から工業社会に変容し、サービス化社会に変容する中で、社会生活がある程度予測可能、制御可能になってきたのであるし、社会に潜むリスクを回避する仕組み(FX市場などや証券および商品先物市場など)や、社会的弱者の救済方策も不十分ながらも、一定程度整備がされてきた結果、昔の人なら、その声を聴きたいと願ったか細い声である神の声の必要がなくなるということである。人間の力ではどうしようもない大きな変動(メタ概念が支配する変動)に対し、「神よ、なぜこのようなことが起きるのですか」と問うのは、ごく自然かつ日常的なことであったであろう。それが、大概のことが予測可能になった、制御可能になったと思い込んでいる社会(本当はそうであると強弁できないことは、技術者としては良く思う)においては、このように自分の弱さを思い至るのは、地震や火山噴火、災害などが発生した時だけ、となりかねない。この結果、この災害や、人間の力を超えた現象に直面し、どうしようもない時にのみ人間にとってもメタ存在である神の名が持ち出される(日常的に人間にとってのメタ存在である神のことを普段考えていないわけだから、持ち出されるという表現がふさわしい)ことになる。

 現在の世俗の仕事では、農業者の方とのおつながりもあるので、農業者の方とお話ししていることも多い。農業者の方は、日常的に、気象など、この自分ではどうにもならない環境に直面しているが故に自分自身の弱さを感じておられるのだなぁ、と思うことが多い。なに、農業者を理想化しているわけではないが、自分を超えたものの存在はより身近に感じる機会は多い、というだけのことではある。

 ナウエンは、With Open Hands(日本語訳では、『両手を開いて』 女子パウロ会)で、人間は、コイン(自分の努力や成果)をしっかり握りしめた状態で、そして神に向かっているという表現がある。如何にそのコインが神の目から見たときに、無きに等しくても、それを手放すことが難しいことを指摘し、本来、神が差しのべた手を受け止めるためには、その握りしめたコインを手放す必要があるにもかかわらず、それを離せないことを指摘した文章がある。それと同じことを、木原さんは、弱くもろい器であることを自ら認める、という表現でご指摘になっているような気がする。
 弱さを通して私たちが学ぶことは、結局は、誰かが弱いというのでなく、私たち人間は、共通に弱くもろい器だということではないかと思う。そして、それは決してマイナスではない。むしろ逆説的ではあるが、「役に立つ」とは何なのか、それ自体にも改めて疑問を持つことで、生命や生きることの神秘を教えられる気がする。弱さに目を向け、ケアし、ケアされ時に、役に立つ、役に立たないということを超越させる存在そのものに目を向ける何かがある。
 そして弱さとは、人間の深さと同様に奥深い。そして、その深い井戸のかなたには、人間を超えたスピリチュアルなものがある。私の場合、それは弱さを受け止め担うイエスそのものである。「弱さ」こそ究極の神に出会う深遠な場所、そう思えてならない。(p.29)
 しかし、「深い井戸のかなたには、人間を超えたスピリチュアルなものがある」という表現は、最近刊行されたN.T.ライト著「クリスチャンであるとは」(あめんどう刊)の冒頭最初にあるか細い声、声にならない超え、残響としての声を思い出させる。

 人間が様々な方策を弄し、これぞ完璧な社会、問題がない社会を造ろうが造るまいが(個人的には、それは神がなければ、結果的にはバベルの塔と同じことであると思うが)、我々にその残響のような声として、私はここにいる、ということを神は我らに語りかけておられるし、それが十字架の上で見る影も無くなった姿をさらしたナザレのイエスがその弱弱しい姿、そして、裂かれた姿をさらすことで、私はここにいるということをナザレのイエスは神の人間に対して開かれた姿を示しておられるのだと思う。ナウエンと読む福音書のイエスの死と十字架に関する部分は、これらのことを如実に示していると思う。下記リンクで示す、『ナウエンと読む福音書』、『クリスチャンであるとは』も、是非お勧め致します。

 ところで、ここで、木原さんは「井戸」という概念を取り上げておられるが、これは上沼昌雄さんの著書『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』で取り上げられているメタファーと通じるものがある。

 続きは来週土曜日公開予定。これまた、長期連載覚悟である。お付き合いいただけたら、これ実に幸甚。



評価:
ヘンリ・ナウエン
あめんどう
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(2008-04-30)
コメント:絶賛致して居る。

評価:
上沼昌雄
いのちのことば社
¥ 1,944
(2008-09-24)
コメント:村上春樹の小説などを引用しながら、闇の中にいる我等、そこに訪う神のみ姿で示されている。非常に印象深い。

評価:
木原 活信
いのちのことば社
¥ 1,728
(2015-07-08)
コメント:お勧めしてます。

【2015.07.04 Saturday 00:57】 author : Voice of Wilderness
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公開講座のご案内

兵庫県立大学公開講座のご案内



兵庫県立大学の公開講座として、以下の要領で、公開講座が開かれる模様です。



もし、よろしければ、ご参加されてはいかがでしょうか。
(↑ ステマw)


http://prezi.com/lpbvwm54no9p/?utm_campaign=share&utm_medium=copy

こんな感じのプレゼンがどうも簡単に作れる模様ですよ。


詳細はこちらからPDFファイルをダウンロードして、熟読していただき、ご検討されてはいかがでしょうか。こちらに細かい情報があるようですよ。

兵庫県立大学 経営学部向け エリアマーケティング論特設資料室 内

公開講座のご案内
 をご覧ください。


先着10名様らしいので、お早めに



【2015.07.01 Wednesday 22:32】 author : Voice of Wilderness
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工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その6
 
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 本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第7章「日本人のメンタリティと疎外」についてである。

自己の意見表明をしない日本人
 海外に行ってみて思ったのは、自己の意見や意思を表明しておかないと、完全に置いてきぼりされてしまうし、それで苦情を言おうものなら、「あんた、私が聞いた時に、自分の意見を言わんかったじゃないか」と言い返されてしまうのが落ちなのだ。察する、とか、惻隠の情とかいう言葉は問答無用の「主張したかしなかったか」が全ての世界である。

 「自分の感じていることや自分の考えていることを説明するのをタブー視する傾向」、またそれをよしとしない性向が、今日の日本社会のみならず、教会にも厳然とあるのではないだろうか。(p.89)
 もう、自分の思いを言わない、これは平安朝の貴族社会からの伝統ではないかと思うくらい、自分の意見を言わないなのが、日本の社会なのであり、まぁ、非常に長期間維持されているので、仕方のないことなのかもしれない。そのあたりは、以下にお示しした「なんて素敵にジャパネスクでもご覧いただければ、わかりやすいかもしれない。


院生時代に悪友から読まされたが、読んで良かったと思っている

 アメリカの教育では、基本的に自分たちが思ったことを小学校1年生から、Show and Tellという形で教育する。国語教育としての一環として、Oral Presentationとそれを通した表現力を教育という形で、展開していくのである。


Show and Tellの重要性に触れた動画


実際の幼稚園児が魔法の箱のおもちゃを紹介するShow and Tell
先生の驚きっぷりがとってもアメリカン

 この本心を言わない文化の中にある日本の教会に北アメリカ大陸で自己表現を徹底的に求められる社会の中で教育を受け、そういうものだと思っている帰国者クリスチャンが入ってくるとどうなるか。それは以下の図のようなものではないか。
http://dg.galman.jp/img/00gr6_86304/%E3%81%A9%E3%82%88%E3%83%BC%E3%82%93.gif

 それを迎え入れた教会の方は教会で、日本社会や自分たちの文化の破壊者となりかねない存在として帰国者クリスチャンを迎え入れることになる。そして、教会内文化不適合が起きかねないようである。

 北アメリカ大陸でものすごいコストをかけ、世話をし、さぁ、これから実を結ぶ稚苗として、日本の地に根を下ろせ、そして、きっと何十倍、何百倍の信徒へと…という思いで北アメリカ大陸の教会から日本に若いキリスト者を送り返すのであるが、大抵の場合、その文化的ギャップに苦しみ、まぁ、教会に行かなくなってしまうし、行っている人はそれなりに大変な思いをされている模様である。いわゆる立ち枯れを起こしてしまっているように思う。

 この日本人の顔した外人は結構日本社会で面倒な存在なのである。実は、ミーちゃんはーちゃんは、この日本人の顔した中身外人なのではある。w敢えて、日本語通じないふりをすることもある。

口から生まれたアメリカ人
耳から生まれた日本人
 日本人の多くの方は、聞いて、それで満足し、わかった気になってしまう。しかし、それにはいくつかの問題があるのだ、聞いたことを受け取った側が誤解し理解して再拡大されてしまうことがあるのだ。その意味で、聞いたことについて話すというリパーカッションというか、振り返りが案外重要であるのだ。そのことについて工藤さんは以下のようにお書きである。

自分の本心を言わない「物言わぬ文化」、これは、アメリカにわたったらすぐに直面する課題である。向こうの大学の講義は、とにかく何か言わないとだめなのである。教授が冒頭短く問題提起すると、すぐ学生はディスカッションを始める。自分の意見を言わない学生は置き去りにされる。また、人と同じようなことを言うと評価されない。斯くして昔からよく言われているように、日本人は何を考えるかわからないという事態が現実のものとなる。つまり、日本人の分かは、その多くが腹芸といわれる世界なのである。何を言うかよりも、何を考えているかの腹の探り合い、人の話は聞いても、自分の意思、感情を言わないのである。
 これは教会の講演会でもよく経験することである。私の場合、午前中に礼拝で話をした後、その内容を深めたり分かち合って広げたりした方が良いと考えて、午後に話し合い、分かち合いの会を設定するのだが、半分以上いや4分の3は帰ってしまう。つまり日本人は話を聞く方に親和性があっても、話す、分かつこと、そしてそれを人に知られることに抵抗がある。しかし自分の感じていることを話す、分かつことは自己確認のためにも大切なことである。(pp.89₋90)
アメリカワシントン州で教えた経験でいうと、アメリカのかなりの学生は、現地の大学教員をして「奴らは口から生まれてきた」と言わしめるほど、しゃべることに熱心で、人の話を聞くことに慣れてない。大体聞いていない。そして、隙あらば、突っ込んでくる。油断も隙もありはしない。

 まぁ、口から生まれてきたアメリカ人学生の間で鍛えられたので、議論へのカットインの技術だけはついた。All right, All right, you said that, but… ってカットインすれば、議論には割り込めるのだ。ただ、後いう内容を考えてないと自爆する結果に終わるので、きちんと関連性があるように見せながら、カットインすることがコツであるが。


13分辺りから、アメリカでのディスカッションってこんな感じになる。

 しかし、彼らの人の話を聞いてなくて、勝手に議論する時に、こういう画像を表示したくなるほどである。

http://sd.keepcalm-o-matic.co.uk/i/stop-talking-and-let-me-speak.png
しゃべるのをやめて、私に話させろのポスター

http://sd.keepcalm-o-matic.co.uk/i/keep-calm-and-carry-on-8044.png
パロディされてしまった大英帝国の第2次世界大戦中のポスター

そういう大学のシーンは、この映画の中でよく表れている。

映画「大いなる陰謀」から学生によるクラスディベートのシーン

 日本人は聞いているふりをしているが、案外、コアの部分で聞いていないものである。いや、説教なんか、特にそうかもしれない。そして、おまけに自分の意見を言う機会とその表明方法を知らないからこそ、説教とか、授業とかはほとんど、ひまつぶしと思っているみたいである。試験とかで脅さないと、聞いていないみたいなのだ。

 最近、学部の講義では学生の近くによって、学生の意見を聞きまくりながら授業をするのが習いになっている。まぁ、このメリットは、学生の注意と関心をスマートフォンの画面から講義に向けさせるという側面はある。すると、彼らがいかに聞いてないか、他の授業で習っているはずの知識が、自分自身の中で整理されていないかがわかるので、面白いのだが。w

 日本人の「聞く」ということは、聞いて終わり、得た知識は個人の中で退蔵させて、腐らせて終わり、ってあまりに残念ではないかなぁ。それがあるから、文系学部廃止論とかわけわからんことが声高に主張される背景なんだろうけど。w

信仰をエンジョイしないキリスト者
 しかし以下の工藤さんの記載は、実に深刻であると思う。
 私の友人がイギリス遊学で得た信仰体験である。彼女は、チェコから来たクリスチャンの友人に、「日本人はとてもpolite(ポライトー丁寧で礼儀正しく、周囲に気配りしながら、自分の行動をとり、発言するという意味)だけれども、私たちから見ると信仰をenjoy(エンジョイ―楽しむ)しているとは思われない…」(今を生きるキリスト者 p.161)といわれたという。
 この発言は、私たち日本人の信仰は同質性、均一性を重んじる文化の上にあると告げる。だから、「一人ひとりが違って当たり前、むしろ違っていることが大切」という、個性を重んじる西洋型キリスト教は、その深いところで容易に日本人には浸透しないのではないだろうか。(pp.92₋93)
 本来、NTライト先輩がお書きのように、本来、福音とは、Simply Good Newsであったはずで、Enjoyableであるはずなのに、いつの間にか、どよ〜〜〜んとした空気感が漂っていて、生き生きとしてないというのか、死体と同居したような信仰のようになっていないだろうか。まぁ、日本では、仏教もそうだが、葬送儀礼と宗教の結びつきが強すぎ、宗教が本来持っている生の側面、生き生きとした側面があまりに軽視されているような気もする。

 これまでの繰言になるのであっさりとすますが、産業革命以降、人間の同質性が洋の東西を問わず、平均値的人間をよしとする(これは、製造の側面、供給サイドからの論理であるが)ことが問われた中で形成されたキリスト教という側面も無視できない。なぜかというと、明治から昭和初年にかけて当時の最先端と思われていた、大量生産、大量消費社会実現のために構想された、社会の均質化のためのシステム(学校、軍隊、産業組織、生産システム…)という欧米文化と一緒に日本国内に流れ込んできたため、キリスト教も、この社会の同質化のシステムの一部と理解された可能性が高く、日本型のキリスト教として定着していったのだと思う。西洋型のキリスト教は、ある面、西洋という土壌に土着したキリスト教であるし、日本型キリスト教も、日本という文化土壌に土着したキリスト教であるから、どっちもどっちであるとは思っていて、真偽論争するだけ、無益であろうと思っている。ただ、日本で、本来福音が持っていたみずみずしさのようなもの、Simply Good News性とでもいうか、とらわれ人からの解放感がなく、解放されるのではなくある概念への閉じ込め感の強いのは、イエスの主張とは真逆だとは思っている。

徳治政治が支配するキリスト教界

 基本的に中国文化圏の政治論は、政治学の教科書を見れば、徳治政治であることは描かれている。徳治政治とは、儒学に伝統に言う仁徳を有する者が全てを丸く収め、社会の論争を治めていくタイプの政治的伝統の概念である。アジア圏の中国文化圏には、この形態の政治体制が多い。
 今形を成しつつある教会も、そのルーツをさかのぼれば、信仰熱心な信徒の家庭集会からスタートしていることが多い。その場合、長老格の人物は影の実力者という形で教会の実権を握っている。そして若い牧会者もその人の意向にかなっている間は、良き牧師として受け入れられているが、それこそ長老の怒りに触れたら、たちまち左遷の憂き目を見るのである。そのうえ、そこに集う信徒も、義理、人情にまつわるような様々しがらみによって、支配者になかなか逆らえない。同調性と変化の確執である。(pp.94₋95)
 この徳治政治は、日本国内でも昔の自民党(今もだ、という説もあるが)派閥政治、領袖政治などにもみられ、さらに言えば、ご近所の国の将軍様も、基本的にこの形である。方向は違うとはいえ。


いやぁ、将軍様は実に仁徳に満ちた方の御様子である。

 しかし、最近思うのだが、あまりに西洋型の建物付の教会のイメージがあり、それがあまりにも前提とされること、さらに公共施設がオウム真理教事件を契機に宗教系団体への貸し出しを渋るようになり、建物付でない教会運営は考えることが難しい人々が多いが、本来的にはそんなものではなかったのである。それは以下の使徒行伝の記事に見られる。
【口語訳聖書】 使徒行伝
 16:13 ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。
 16:14 ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。
 16:15 そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。
そもそも、降水量が極端に少なく、気温の温暖な地中海地方では、教会とは、人けのない、町の外側のごみ溜めもどきの川のほとりで行われていたものであって、今みたいに巨大な霊廟を持つようになったのは、ローマ帝国の国教化前後であり、特に、北ヨーロッパの冷涼な気候地帯や、北西ヨーロッパの降水量の多い地域に進出するまでは教会堂を持つなどという概念はさらさらなく、ごみ溜めのようなところで集まっていたのである。これなら、だれも文句は言われまい。
 しかし、現在、多くの日本の教会でも、西洋の教会でも、教会員の数が少なく教会がどんどん売りに出され、転用されている。まぁ、それも仕方ないし、それに合わせた教会運営の形も模索されていいと思う。アメリカでちょっと前に話題になったHouse Church運動なんかはこの種のものだろう。

http://static2.stuff.co.nz/1320953958/902/5948902.jpg
売り出されたNew Zealandの教会

http://swipe.swipelife.netdna-cdn.com/wp-content/uploads/2009/06/church-home-northumberland.jpg?aec60b
住宅に転用された教会(内部映像)

愛について
 「愛」というラテン語Amorを日本語に最初に訳す時に、神の御大切と16世紀に日本で伝道していたパードレたち(伴天連の皆様)が翻訳していたことはよく知られていることであるが、もともと古代仏教における愛は、愛憎という意味が含まれるため、かなり否定的にとらえられている語である。渇愛、愛は苦の原因と考えられており、美しいものとされていなかったためである。それほど”愛”という感じとそれが指し示すものは、古い日本では情念うずまく世界に関する語なのである。今では、すっかりサニタイズされてしまったが。その”愛”という言葉に関して工藤さんは以下のようにお書きである。
ところが年齢とともに、時代に日本人には愛という言葉より「慈悲」「慈愛」の方に親和性があるのではないだろうかと思うようになってきた。「石の文化と木の文化」の譬えが適切かどうかはわからないが、日本人の使う「愛」という言葉の中身には柔らかさ温かさが含まれているような気がする。つまり、西洋人の使う「愛」といいう言葉に含まれる明確さ、強さ、激しさが内奥に感じるのである。日本人の使っている「愛」(love)は「好き」(like)というニュアンスに近いのではないだろうか。(同書 pp.95₋96)
 いつのころからか、恐らく、明治のころから、西洋文明とキリスト教の到来とともに、愛はき良いもの、柔らかいもの、温かいものとしての積極的な読み替えが我が国において行われ、そうでなければならないという形で、ギリシア哲学やギリシア思想を背景とするキリスト教というフィルターを通してヒューマニズムでサニタイズされた結果、本来、聖書の持っている愛のどろどろしたような部分が、きれいさっぱりサニタイズされてしまったのではないか、と思っている。

 そもそも、聖四文字YHWHなる方は、ご自身について次のようにイスラエル人にお語りである。
【口語訳聖書】出エジプト記
 20:1 神はこのすべての言葉を語って言われた。
 20:2 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。
 20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
 20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
 20:5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
 20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
 聖書の神は、サニタイズされた愛の神ではなく、激情の方であり、修造とは比較にならない程濃い方なのである。現代の日本人には暑苦しすぎる方であり、まぁ、古代仏教の方からすれば、「だから苦に陥るのである」といわれても仕方がないほど、激情型のご性質をお持ちなのである。まぁ、時につらいことはあるとは思うが。


シジミをとるために冷たい水の中でちょうどいい感じの修造君

 なお、熱いといっても、個人的には、松岡修造氏的な、こういう根性論は大嫌いである。問題の根本的解決にならないことがあるし、これが特攻作戦というろくでもない計画、精神論で何とか現地でせよという大本営の無謀な作戦参謀の作戦立案につながり、多くの資源と人命を奪ったからであるが。

 また、本省の最後の工藤さんの指摘が痛い。
 私はこの山浦氏の、日本人のメンタリティに「愛という概念はなじまないのではないか」という指摘は、「信仰による人間疎外」というテーマを考えるとき、ないがしろに出来ない視点を提供してくれているように思う。というのは、キリスト教は愛の宗教であると強調されるあまり、愛の共同体と思って近づいたものの、非常な仕打ちを受けて苦々しい思いでそこを去った人々が決してすくなっくないと思うからである。換言すれば、人は愛(love)によって受け入れられると思ってキリスト者、あるいは教会に近づいたのに、そこにあったのは愛とは名ばかりの支配、干渉、さばき、争いの支配する世界であったという悲劇があまたあったのではないだろうか。
 ”愛”という言葉の吟味が必要な気がする。(同書 pp.97₋98)
 キリスト教は、愛の共同体を確かに語る。しかし、日本で一般に普及している愛は、19世紀に日本にアメリカから伝わったヒューマニズムというフィルターを通した愛として普及しているのであり、また、キリスト教はそれを語ってきた部分がある。聖書の言う根本的な愛の理解、とりわけ、ヘブライ的な愛の理解を十分に持たないまま語ってきたのではないか。まぁ、これは、キリスト教側の問題は多いにせよ、同じ語が実に多様な意味を持つ現代社会の問題であるとは思うが。

 しかし、一糸乱れぬ行進を理想とするようなことを教会が言うようになったら個人的にはお終いであると思っている。なぜならば、それは本来人間的な理想という神ならぬものを神としているに近いのではないか、と思っているからであるが。

 まだまだ続く




評価:
工藤 信夫
いのちのことば社
¥ 1,296
(2015-06-05)
コメント:絶賛おすすめ中

評価:
N. T. Wright
HarperOne
¥ 2,468
(2015-01-06)
コメント:良い。

【2015.07.01 Wednesday 05:18】 author : Voice of Wilderness
| 工藤信夫さん関連 | comments(0) | - | pookmark |
2015年6月のアクセス記録とご清覧御礼
   今月は、NTライト祭り と Ministry祭り と 工藤さん祭りになる予定でしたのですが、アクセス・ご清覧いただきありがとうございます。22000弱。 平均で、日に700アクセス超。

 2014年第2四半期(4〜6月)  58171アクセス(639.2)
 2014年第3四半期(7〜9月)  39349アクセス(479.9)
 2014年第4四半期(10〜12月)  42559アクセス(462.6)
 2015年第1四半期(1〜3月)  48073アクセス(534.1)

 2015年4月  18271アクセス
 2015年5月  17612アクセス
 2015年6月  21600アクセス

今回の、アクセス数の向上は、もう、完璧にLove Wins祭り。アメリカの連邦最高裁が、同性婚の州間にわたる有効性を認めたことをTwitterでにまつわる検索結果である。それでは、先月よく見られた記事をご紹介いたしたく。

アクセス順は以下の通り

天国と地獄についてのユニークな本  451 アクセス

NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その1
  390 アクセス

NTライト著 上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その2
  382 アクセス

工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その3  377 アクセス

現代の日本の若いキリスト者が教会に行きたくなくなる5つの理由 
353 アクセス

 トップは、Love Wins祭りの結果、天国と地獄についてのユニークな本の記事であった。段違いである。あとは、NTライト祭りと、工藤さん祭りであった。”ざっくりわかる出張Ministry神学講座 in Osakaに行ってきた” 祭りになるかと思いきや、相変わらず、2012年10月の記事の現代の日本の若者が教会に行きたくない理由がトップファイブ入り。実に悩ましい状況である。

 今月もご清覧感謝。戻すと言いながらもどせていない、『富士山とシナイ山』やその他の書籍の紹介にも取り組んでいきたい。



【2015.07.01 Wednesday 05:16】 author : Voice of Wilderness
| ごあいさつ | comments(0) | - | pookmark |
『クリスチャンであるとは』発売記念 懇談会


 ミーちゃんはーちゃんも参加する大阪でのN.T.ライトのイベントがあと2週間後に迫ったので、ご紹介。あと数名程度の参加の余裕があるようですので、よろしければ、どうぞ。



 内容は、『クリスチャンであるとは』の訳者である上沼昌雄さんをお迎えして、N.T.ライト先輩の著作、専門家向け書籍から一般向け書籍まで、読んだ読まないにかかわらず(聞いているだけも歓迎の模様)、どう思うか、自分はどう思うか、この辺はどうなの?ということお聞きしたり、とのんびり、ゆったりと語る会の模様です。よろしければどうぞ。

 会場が狭いので、残り席数7人分(2015年06月29日現在)は先着順だそうです。事前にご連絡をば、ということだそうです。 連絡先は、上記画像をご参考に。



【2015.06.29 Monday 21:20】 author : Voice of Wilderness
| ごあいさつとご連絡 | comments(0) | - | pookmark |
工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その5


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 本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第6章「宗教者の暴力」についてである。

キリスト教の社会的影響と
キリスト教による疎外

 キリスト教は日本では、西洋の世界標準の評価の高い倫理を含むものとして受け入れられてきたし、それと同時に、その倫理であることが多くの人々を教会から排除してきた。
 確かにキリスト教は数多くのすぐれた人物を輩出してきた。それは歴史的事実であり、そのことが私たちの誇りとなって今日の信者を励まし続けているのは承知のことである。またキリスト教が日本の教育・思想に与えた影響も枚挙にいとまのないほどである。それで「キリスト教」「クリスチャン」といえば、権力、暴力などとは程遠り世界のように人は考えてしまう。しかし宗教の世界こそ、目に見えない暴力の働くところである。(中略)
 ヘンリ・ナウエンは『まことの力への道』(あめんどう)の中で、次のように述べている。
 『経済的、政治的力よりも悪質なものが存在します。それは宗教上の力です。神がこの世界を見られる時、涙を流されるだけでなく、怒りをも覚えられます。というのは、神に祈り、賛美をささげ、神に向かって『主よ、主よ』と叫ぶ人のうちの多くもまた、力によって腐敗しているからです。
 (中略 ミーちゃんはーちゃんによる)
 もっとも狡猾で、分裂を引き起こし、人を傷つける力は、神への奉仕と称して使われる力です。私は、『宗教によって傷つけられた』というおびただしい数に私は圧倒されます。牧師や司祭による心無い言葉、ある種のライフスタイルをとる人への教会内の批判的意見、交わりの場に歓迎されない雰囲気、病気や死に瀕している人への無関心、その他のことで受けたこころの傷。こうした傷はこの世界から拒絶されたことにより、長く人々の記憶に残ることが多いものでう。…の家族である教会の兄弟姉妹から歓迎されてないと感じ、神のもとを去っていきました。愛を持って迎えられることを期待したのに、実際は宗教の持つ力にさらされてしまったのです。『真の力への道』pp.14−15 太字は工藤さんによる)」
 (真実の福音を求めて pp.74₋75)
 クリスチャンこそ、戦闘民族的であり、クリスチャンとそれ以外の皆さん(ユダヤ系の人々とムスリム系の人々)、クリスチャンとクリスチャンで、血で血を洗う様な事件をやたらと起こしているのは歴史を見れば明らかである。まぁ、宗教が騙られて、素朴な激情型(劇場型かもしれない)の人々を大量動員するために、実態的には政治的闘争に宗教をコーティングしました的な紛争、利益を巡る経済紛争に宗教をコーティングして、アラモードに仕上げてみました、というところがある。

 まぁ、明治期以降は、日本ではキリスト教とは幸いにして圧倒的少数派に甘んじたので、キリスト教側から積極的に日本国内で、ケンカを売り歩いたということはあまりないが。しかし、もし、社会のマジョリティなら、キリスト教徒は率先して喧嘩を売り歩いたのではないか、と歴史家には絶対に許されぬあらぬ想像もしたくなる。

 上記のヘンリー・ナウエンの文章内でミーちゃんはーちゃんが最も気になった部分は、「ある種のライフスタイルをとる人への教会内の批判的意見、交わりの場に歓迎されない雰囲気、病気や死に瀕している人への無関心、その他のことで受けたこころの傷」という部分である。この部分は、Finding My Way Homeを、明石のヘンリーナウエン研究会で読んだ時に、実に刺さってしまった部分で、一瞬その解釈と解説を口ごもりそうになった部分である。

 そうなんですよね。ちょっと人と変わっていることや、その人が持っている一時的条件のため、教会から受け入れられないのではないか、ということ思い、他の人と比べ変わっていることや、自分の価値観が言い出せない、あるいは受け入れられていないという思いを持つ方も多いのではないか、と思う。そのうち、ちょっと変わっていることを表明できない方々は、エサのいらない猫被って生きないといけないことになる。実にそれは、その人らしさを殺すことになりかねない、と思うのだが。


Comic Twitter !さまから 川原泉 『笑う大天使』 白泉社刊 第1巻より

 こういうマンガを思い出していたら、キリスト新聞絶賛連載中の伝道十宣隊キョウカイジャーの中に、United Church of ChristのFacebookページで紹介されていたGive Out Dayの映像の話があった。

 どうもアメリカのテレビで流れたCMらしい。どこまで流れたかは知らないが、以下の動画で紹介する映像は非常に象徴的である。個人的には、赤ん坊を持つ母親や、障碍者、老人、恐らくヒスパニックの人々や、同性愛者が跳ね飛ばされるのは、実に印象的である。ナウエンが言っているのも以下の2つの動画と同じことではないか、とは思った。

 こういうことを書くから、リベラルというラベルを有難くも張っていただけるのであるが、それは甘んじて、受けよう。ミーちゃんはーちゃんは自分自身がリベラルだとはこれっぽっちも思ってないけれども。あなたがラベルを張るのも勝手なら、ミーちゃんはーちゃんが剥がすのも勝手なんじゃございませんこと?


UCCの教会のTVCM 教会から天へ編



UCCの教会のTVCM 教会門前の教会内に入ってよいかを判断する用心棒編
(アメリカのバーには入口を管理するバウンサーと呼ばれる人がいるらしい)

神の名を騙る教会内暴力

 神の名を借りて人々に自分の希望を押し付ける宗教者の言動について、ナウエンの著書から引用しながら、次のようにお書きである。
こう指摘して、ナウエンは、神の名を借りて人々に力を行使する宗教者の暴力を次のように表現する。
 「今日のように、経済的にも政治的にも不透明感の大きい時代で、最も大きな誘惑の一つは、他の人々に力を行使する手段の一つとして信仰を利用する事です。そして、神の名を借りて人間の命令を押し付けることです。ですから多くの人々が、少しでも宗教と関係していると聞くと、うんざりして背を向けてしまう理由がよくわかります。福音を述べ伝えるためにこうした力が使われると、善き知らせはすぐに悪しきもの場合によっては最悪の知らせに変わってしまいます。それこそが、神を怒らせるものです。(同書 p.17 引用者註 太字は工藤さんによる)
(同書pp.76₋77)
 神の名を借りて、と工藤さんやナウエン先輩はお書きであるが、ミーちゃんはーちゃんに言わせれば、神の名を騙って、である。「あたしゃ、キリストの弟子になったのであって、牧師や長老の弟子になったんじゃ、ありませんぜ。特定の教会で確かにバプテスマを授けてはもらいましたが、その教会のメンバーになる為じゃなくて、神の民になるために受けたんですぜ」って時に言いたくなるって、それは乱暴だろうか(まぁ、乱暴だと思うが)。この結果、お一人様クリスチャン(この記事と過去の記事参照)になっている方もおられると思う。

 以前このブログに天国の記事にかんして、コメントくださった方があったが、まぁ、牧師にいいように使われて、牧師は献金巻き上げてドロンされて行方不明という事案をご紹介くださった方があるが、まさにこの事例などは、神の名を騙って自らを太らせた聖職者が福音を述べ伝えるためにこうした力が使われると、善き知らせはすぐに悪しきもの場合によっては最悪の知らせに意図的な取り替え工作の被害にあわれたんだなぁ。これが。特に、献金や奉仕を巡って、このような問題は案外多いのではないだろうか。

教会運営と献金にまつわるアレコレ

 下手をすると、こういう被害にあって、他の教会に行って、さらに追加の被害にあう事例も結構あるから、これが日本のキリスト教界がいまだに発展途上期ではなく、揺籃期ですらないかもしれない、と思うゆえんである。文化財への油散布事案にしてもね。

メサコンという罠

 以前にもこのブログのこの記事(メサイアコンプレックスの防ぎ方)で、メサイアコンプレックス(メサコン)を取り上げたことがある。
 私がトゥルニエのこの指摘を拙著『援助者とカウンセリング』や『こころの病とキリスト者の関わり』(いのちのことば社)に引用したのは、人と人との間に働くこうした暴力が人間関係に普遍的な現象であるだけでなく、宣教という場で心の援助に携わる人々にもことさらに気づいてほしい事実と思ったからである。実際こうした心理は昔から”メサイア・コンプレックス”などとして問題視されてきたテーマである。(同書 p.78)
 先に紹介した記事(メサイアコンプレックスの防ぎ方)で、ちょっとくらいキリスト教徒の一部であるからといって、他人をさばきまくる人々の話をご紹介し、本来われわれが何を見るべきかのお話を申し上げたのであるが、明治期以降、キリスト教が西洋の最新の道徳基準、世界基準(大体そんなものはない、あると思う方がどうかしている)だと思い込み、それを聞きかじったくらいで、「これがキリスト教であるぞよ。イエスの主張であるぞよ。神のみ思いであるぞよ。一同の者控えおろう。この聖書が目に入らぬか?」ってやった人々はおられたのだろう。かなわないことであるが。ちなみに、水戸黄門は完ぺきなメサコンドラマである。


水戸黄門 印籠のシーン

パワハラと教会内暴力
 まぁ、ミーちゃんはーちゃんも何度か教会内暴言やらは拝見したことがある。生身でも何回か直接言われたことあるし。基本、ミーちゃんはーちゃんは交流分析で言うFree Child(自由な子供のエネルギー値が常時異様に高いので、素面でも酔っているようなものである)状態であることが多い。だからこそ、前回の冷凍ミカンは美味しいが、凍った空気は食えないとは知りつつも、正論Bombを平気でやる。基本、大学院に入院した連中は、これができるから、研究者で生きていける。
 さて、教会内のコミュニケーションと言語的暴力の話を見てみよう。
『信仰による人間疎外』を欠いた25年前には、まだこうした”力の行使”は問題視されなかったが、今日ではこうした間違った力の行使はパワハラ(パワーハラスメント〉としてとらえられて来ている。これからキリスト教の世界の中では、立場が上にあるものが下のものに向かって行う暴言暴力は息をひそめるかもしれない。しかしこれまでキリスト教の世界の中で、ナウエンが言う、神への奉仕と称して使われる様々な力によって自由また対等であるべき言動が封じられてきたという現実を踏まえておくことは大切なように思われる。
     (同書 p.80)
 教会内でのパワハラもどきの手口に関しては、先にも紹介したI don't know who I am のサイトに詳しいので、そちらを参照してもらいたい。まぁ、あれも、これもと、実に悲惨な事案のオンパレードである。本来、ナウエン先輩が言うように教会内では、「自由また対等であるべき言動」であるべきものが、秩序維持・治安維持という美名のもとに、国家総動員体制もどきの相互監視体制なんて、あぁ、やなこってである。
 個人的には、残念ながら、教会では言語による暴力、暴言は無くならないと思う。

権威に逆らうキリスト者
 本来、キリスト教はローマ帝国という権威に逆らった人々であった。しかし、コンスタンティヌス帝以降のキリスト教は、国家であり、国家を超える存在としての教会であり、権威であった。それは意図せぬ副次的効果であったとしても。しかし、それで、キリスト教がヨーロッパを席巻することになったのであるが。
 もう一つ、トゥルニエが主張した「神の貧しい人々」とは、力を謳歌する社会ときっぱり袂を分かち、お金とも学歴の力とも縁を切った人々の事である。そしてトゥルニエが注目したのは小さなグループに属する人々で、彼らは長年歴史を動かしてきた権力構造に本能的に反発し、背を向けた若者たちであり、私たちの世代には懐かしい「ヒッピー族」の出現にさかのぼると言う。トゥルニエはこうした世代の出現も新しい期待の星であるという。組織も巨大化すれば力の誘惑が働き、金銭もたくさん集まると妙な誘惑がうずまくことは明白の事だからである。こうしてトゥルニエは次のように言う。
 「教会は、あまりにも長い間、一方的に教える立場をとってきた。一方的に騙り、教義を定め信仰もう問答を人々に暗唱させてきた。しかし教会のこの絶対的力の時代は過ぎ去った。こうした新しい状況を教会が受け入れるなら、教会は人々との対話に入ることができ、その子どらの真理探究を助けることができるに違いない。しかし、そのやり方は以前とは異なろう。もっと謙虚に、教会全体の利害を忘れ、魂を征服することを求めず、魂に仕えることを求めてゆく以外に方法はあるまい」(暴力と人間 p.262)
 (同書 pp.83₋84)
 ヒッピー文化自体、アメリカのベトナム戦争や公民権運動と表裏の関係にあり、一種の反体制運動としての側面を持った。基本、アメリカの支配層の文化を体現する教会文化であるものへの反抗でもあったのだ。
 こういう構図になる。

  ベトナム戦争を遂行しているのはだれか
     米国政府である
  ベトナムで、無辜の民を殺しているのはだれか
     米国政府である
  アメリカ国内で、アフリカ系市民を迫害するのはだれか
     米国政府である
  これらをアメリカ国内で協力に支持しているのはだれか
     教会ではないか

ということで、一種の政体的、政治的オルタナティブの提示を求めたのが、ヒッピー文化であり、ヒッピー運動であり、戦争遂行に反対であるという意味で、別のキリスト教的オルタナティブを提示しようとしたのが、いわゆる福音派左派、ないしリベラル派の運動であったと言えよう。その信仰の味わいはかなり違うが。

 そのヒッピーの彼らが、一種アジア的、ネイティブアメリカン的な風貌になるのは、行き過ぎた西洋モデルに対するアンチテーゼとして、思想性を持っていた、持っていたように見えたのが、アジア、とりわけ、インドであり、アメリカ国内では、ネイティブアメリカンであり、そこにあるスピリチュアリティに彼らがオルタナティブ(代替案)としての手直にある、経験した、あるいは経験が少ない代替案の一つであったということはあろう。

http://blog.denimtherapy.com/wp-content/uploads/2009/08/woodstock.jpg
昔懐かしWoodstockのHippie風ファッション

 キリスト教内で、このヒッピー文化的な背景を持ち、福音派左派的な運動をしている人物に、ソジャーナーズ(寄留の民)と呼ばれるキリスト者集団のジム・ウォリスがいるが、彼の人物像を示す文章を後藤敏夫さんの本からもう一度、ここで引用しておきたい。

http://westernjournalismcom.c.presscdn.com/wp-content/uploads/2013/02/Jim-Wallis-SC.jpg
空手チョップを披露するジム・ウォリス先輩 
(空手チョップを披露しているように見えるだけでした)

 私自身の歩みと響き合うものがありますので、もう少し具体的に彼のこころと信仰の旅を紹介します。ジム・ウォリスは、デトロイトで、ブレザレンの信徒説教者の子供として模範的に育ちます。しかし、黒人問題をきっかけに教会を離れ、大学では新左翼のような立場で公民権運動やベトナム反戦運動に没頭します。 (中略)
  ウォリスが、学生時代、週末に帰宅した際のことです。大学の騒動の中心人物として息子の名前が新聞に出ていて、父親は怒っていました。そこで、ウォリスは 自分の現在の思いや行動に最も強い栄光を与えた二人の人の名前を上げるというのです。父親や新聞に出てくるような急進的な人物か、大学の左翼的な教授の名前を聞くつもりでした。しかしウォリスは、それはお父さんとお母さんというのです。人の痛みに心をかけること、苦しんでいる人に思いを寄せること、真実を大切にして人を差別しないこと、困難な課題や問題に対しても臆せずに立ち向かうことーこれらはみんなお父さんとお母さんから学んだことだ、自分はお父さんとお母さんが大切にしている価値を、お父さんとお母さんが見ようとしない世界に当てはめようとしているのだ、とウォリスはいいました。私は、ここに福音派が考えるべき大切なことが示されていると思います。
後藤敏夫(2007) 改定新版 終末を生きる神の民 いのちのことば社 pp.75-76.



マイケル・サンデル教授(日本でもハーバード白熱教室で超有名)との対談

弱さの神学のもたらすもの

 このブログの反知性主義シリーズでも紹介してきたが、基本、アメリカの神学は、基本的に神の祝福を求めてアメリカ合衆国の建国が始まったこともあり、基本、”強さの神学”である。そのことの限界について、工藤さんは次のように述べておられる。
私が彼の言う「弱さの神学」に心惹かれるのは、私たちが目指したのは”強さの神学”ではなかったと思うためである。つまり、”神の力を借りてでも強くなろう。強くあろうとする”信仰姿勢である。しかし、そこにあったのは力を求める人間のあくなき欲望、貪欲、そして身の程を知らない高慢さであったような気がする。(p.85)
近頃ネットのキリスト教クラスタで香ばしい香りを撒き放ってくださった、神社仏閣での油脂散布事件を起こしてくださった油男さんの事件にしても、なんか、”弱さの神学”がもたらした事件ではなく、どうも彼の講演を見ていると、明らかに”強さの神学”が日本というある文脈で行きつくところまで行きついてしまった残念な結果のような気がする。力を誇示し、征服し、討伐しようとしておられる御姿には個人的にある種耐えがたいものを感じている。

 しかし、油男さんのシュールな画力には、実にある種の感動を禁じ得ない。


油男さんの講演会の模様
57分辺りから下手くそな運転の難の動画が出てくる。このあたりからが秀逸
60分辺りからのシュールな画像が超秀逸

 まだまだ続く。



評価:
ヘンリ ナウエン
あめんどう
¥ 1,620
(2005-07-20)
コメント:絶賛しております。

評価:
---
The Crossroad Publishing Company
---
(2015-04-27)
コメント:英語版。明石のナウエン研究会では、2015年2月から読み始め、ほぼ2015年7月中に読み終わる予定。

評価:
後藤 敏夫
いのちのことば社
¥ 918
(2007-08)
コメント:絶賛している。

【2015.06.29 Monday 06:28】 author : Voice of Wilderness
| 工藤信夫さん関連 | comments(0) | - | pookmark |
Love wins AKA アメリカ連邦最高裁同性婚祭り ワズw

Love Wins祭り?
 本日は、当ブログや他のブログもLove wins祭りであった。4年ほど前に書いた記事にアクセスが集中し、Google先生にこちらはどうですか、とコンシェルジェされた皆様方が一気に当ブログのLove winsというRob Bell先輩がお書きになられた本の紹介記事「天国と地獄についてのユニークな本」に集中した。この24時間だけで400アクセス越えと集中したのである。それまで今月トップのN.T.ライト先輩著の「クリスチャンであるとは」の紹介記事をダークホースさながら大外からの大追走、一気にごぼう抜きしてしまった感があった。


Love winsという今回の事件とは関係のない本の販売プロモビデオ

 このアクセス集中にビビって、なんでだろう、とお昼頃Facebookで投げてみたら、さっそくはちこさんが、ご親切にアメリカ連邦最高裁での同性婚を他州が認めているものであれば、それは全ての州において共同体としての共有財産権における合法性を認めるべきであろうとした判断を5対4の僅差で認めたからですよ、とご教示くださった。ありがたいことである。
 なお、このLove Winsという本に関して、日本語で取り上げているはちこさんの記事や、巣鴨の御大の大和郷の教会ブログ記事もアクセスが集中したらしい。

同性婚についての連邦高裁裁定

 この連邦高裁の裁定は、あくまで、他州で認められ共同体としての共有財産権にまつわるのを尊重し、勝手に無効にするな、ということであり、すべての州でそれを直ちに法制度上整備せよ、とまで言っていないないことは、覚えておくべきではないだろうか。

 これまでも何度か紹介してきたように、アメリカはそれぞれの州政府の力が強いのであり、その州政府よりも、市などのより小さな自治政府の権限が強く、連邦高裁の裁定を一部無視したコミュニティも形成することが可能であることは付言しておく。


Love Winsという語がつかわれた、連邦最高裁における同性婚に伴う財産権が法の目において平等に取り扱われるべきという裁判結果に関するCNNの報道

同性婚がなぜアメリカでここまで問題になるか?
 基本的に、アメリカがキリスト教を背景として国家建設されていることを無視できないからである。基本的に、アメリカという風土に土着したアメリカ型キリスト教はそもそもがピューリタン国家の建設を目指して建国の基盤がかなり意識されているということもあり、非常に尖鋭化されたある種のキリスト教的宗教意識のもとに建国の理念があるからである。つまり、通常の世俗国家としての側面を見せながらも、かなり宗教的な国家だからである。このあたりのことは、このブログでも積極果敢にご紹介した、森本あんり先輩の反知性主義反知性主義をめぐるもろもろ)に詳述されているので、そちらをご覧いただきたい。
 確かに同性愛者にまつわる批判的な記述は聖書の中にあり、地獄ネタと同性愛者はキリスト教徒のうちに無関係ではないと思っている人々もいる。同性愛者は地獄に行くと主張される(そういう思い込みの)向きのキリスト教徒の方もおられるので、恐らくそれらの方々が根拠としていると思われる聖書の記載部分をあげておく。
【口語訳聖書】ロマ
 1:19 なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。
 1:20 神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。
 1:21 なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。
 1:22 彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、
 1:23 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。
 1:24 ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。
 1:25 彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。
 1:26 それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、
 1:27 男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。
 1:28 そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。
 1:29 すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、
 1:30 そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、
 1:31 無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。
 1:32 彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。
  ここで注目しなければならないのは、1章25節の「創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えた」という部分とその結果として、「それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた」のであって、偶像崇拝が第1の最重要問題となっているのかではないかという疑惑である。しかし、一般には、27節の「その乱行の当然の報いを、身に受けたのである」だけが、必要以上に強調されて、ここでは、当然の報いとしか書かれてないことを、地獄行きとして理解され変えている聖書読みにおける一種の読み込みすぎ、聖書テキストの本分の主張を超える推測、乃至、かなり疑問の残る推量が行われている可能性がないか問題があるようにも思うのである。

 確かに、同性愛ではなく、偶像崇拝の結果の部分として、「不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている」とは書かれているが、神から絶対に赦されないということまではパウロ先輩は書いておられないように思うのだが。それよりも、むしろ、神への立ち返りを進めておられるとは思うのである。まぁ、この問題は香ばしい問題を起こすので、この辺でやめておこう。

同性愛者を批判したテレビ牧師が
実は同性愛者だったという残念な事案
 同様の主張から同性愛者へのバッシングに相当する内容をご主張になられた方がおられる。以下の動画にあるテレバンジェリストであったTed Haggard先輩である。ハガード先輩は、以下に紹介するJesus Campというドキュメンタリー映画の一部としても採録された放送の中でご自身が同性愛者をご批判したにもかかわらず、男娼を買ったということで、その権威を失墜されてしまわれた。残念なことである。


Jesus Campの中で同性愛者をバッシングした時のTed Haggard先輩の映像


自己の同性愛傾向の存在を告白されたTed Haggard先輩の映像

同性婚を巡る重要な見解

 ミーちゃんはーちゃんは、同性愛者ではないし、その傾向もない。個人的には、神が与え給うた性差は大事すべきではないかと思っている。基本、以下の動画で示した、NTライト先輩の意見に賛成である。
 


同性婚について語るN.T.ライト先輩
相補性に関する議論からお話である。


香ばしいついでに、Tim Keller先輩の見解もご紹介

 どうもN.T.ライト先輩の概念にKeller先輩のご見解も近そうである。まぁ、このあたりが、極めて常識的な対応ではないかと思われる。





評価:
森本 あんり
新潮社
¥ 1,404
(2015-02-20)
コメント:アメリカを理解するには必読本

【2015.06.27 Saturday 23:31】 author : Voice of Wilderness
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工藤信夫著 真実の福音を求めて を読んだ その4

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 本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第4章「信じ方の問題」についてである。

独善と教条化と疎外
 よく考えてみれば、これのみが正しいとかいうことを避けられれば、独善も起こらないし、教条化も起こらない。しかし、これのみが正しいという言説はかなり見られる。では、なぜそれのみが正しいか、という根拠を十分に詰めることなく、意外と安易に「この辺がデファクトスタンダードだよね」ということで、「正しい」という主張がなされやすい。深い思索もなくある主張が勝手にデファクト・スタンダードであるとして、独り歩きときに、結果的に、非常にまずいことが起きるような気がする。計算機業界では、案外このような傾向があるから、困ることが多い。
 疎外の問題は、信仰の絶対化、独善と、教条化に密接な関係があるといって良い。なぜならば、この3つは異なるものを排除するという構造を持っているからである。そして困ったことに、教条化も独善も、そう簡単に分かったつもりにはなってはいけない真理を、自己流の狭い解釈で絶対化するばかりでなく、それを他人に押し付けるという暴力性を帯びている。(中略)人にはそれぞれ見方、感じ方があって、”みんな違って、みんないい”などと考えるいとまもなく、他者尊重も地道な自己反省も吟味も伴わない。これは、宗教者の本来あるべき謙虚さ、求道心からは程遠い姿勢である。(真実の福音を求めて pp.63-64)
 まぁ、こういうことを考えると、「そして困ったことに、教条化も独善も、そう簡単に分かったつもりにはなってはいけない真理を、自己流の狭い解釈で絶対化するばかりでなく、それを他人に押し付けるという暴力性を帯びている」という工藤さんの指摘は極めて重要であると思う。更に、このような暴力性が狭い集団で発揮されると大変困ったことになる事が多い。

 真理はそんなに簡単にはわからないのだが、自分が分かる形で提示されると、あぁ、それが真理か、と思い込み、そして、それを他人に押し付けてしまうのだ。そして、社会が狭ければ狭いほど、その集団での反響が常に起きるため、その安易な図式化、あるいは安易で省略された真理と呼ばれるものの真理性がさらに強化されることになり、そして安易な省略さえた心理と呼ばれるものが絶対視化されていく。単純化された真理を真理として受け止めてしまうという状況の場合、その暴力性ゆえに被害者であると同時に、単純化され先鋭化・絶対化された真理を他人に押し付けるという意味で、加害者となっていく。これがカルトにみられる基本的構造である。そして、その単純化されたものはさらに先鋭化・絶対化されていく。

 そして、それにわずかでも疑念を差し挟もうものなら、そういう疑念を持つ方がおかしいとされ、その社会から排除される傾向を持ちかねない。その意味で、そもそも一種同質的な人が集まっていることの多い教会という極めて同質的な世界で、その教会社会の人口規模問題が小さければ、より異質な人々は、どうしてもその教会という社会の隅におかれる傾向があるのは、実に残念な構造である。

自己批判、疑うことの重要性

 自己批判するためには、批判意識がいる。その意味で、批判や疑う心というのは、非常に重要なのである。そして、自らしっかりと考えるという作業は丸呑み・丸受けという作業に比べて、人にもよるが、よほど時間がかかるし、困難な道であると思う。このあたりの事に関して、工藤さんは、藤木さんの断想を引用しながら、次のように書いておられる。 
 無限の添削
 人を試みながら徐々にその姿を現してくるのが、宗教的真理でありましょう。試練に会い、誘惑にさらされ、混迷に陥り、その中で確信していたものが崩れたり、分らなかったものがわかってきたり、そういう手間のかかる道を通って出なければ、それは現われてきません。だからそれに対しては明快と性急は禁物です。不明確さに絶えて自分の問題点に気づき、緩慢さに耐えて自分と改めていく、その今期の良い自己添削こそ、それにたしてふさわしいのです。信仰は、自分に対するこの無限の添削でもあります。(『灰色の断層』p.34)
 この断想で注目すべきは、信仰の道は本来”手間のかかる”という性格を持ち、その世界では、”明快と性急”は大いに警戒すべきものであると言われていることである。(中略)藤木牧師は、信仰の世界は手間、暇をいとわない地道な努力の積み重ねだといわれる。ところが、私たちはこの地道な努力を好まない。”独善と教条化”の方が動きやすいからである。(同書 pp.64₋65)
 現代社会は、明快と性急で満ちている。単純明快という意味では、自動販売機のボタンを押したら、その商品が出てくるのが当たり前の社会である。日本の自動販売機は、実に単純明快である。アメリカの自動販売機は、そのあたり、実に複雑で、25セント(クォーター)硬貨二つで、ソフトドリンクのペットボトルが1本出るのが標準だとボタン付近で主張しながら、時に、ソフトドリンクのペットボトル2本出てきたり、ある場合、お金だけ持っていかれて以上終わり、という目にも合う。実に非常に複雑な気持ちにさせてくれる。日本の自動販売機は、それに比べ、非常に単純明快であり、勝手に日本出てくるということがないように出来ている。

 その伝でいけば、日本の新幹線は、まさに、明快で性急である。駅に行って、乗れば、性急に目的地に連れて行ってくれる。時速300キロ近い鉄道車両を最短4分間隔で確実に運行する技術なんて、他の国は持っていない。こういう明快で性急な技術は日本のお家芸なのである。

 最近、こういう、明快で性急な、というよりは、明快で短兵急な成果だけが求められる研究ばかりがもてはやされ、国立大学の文系学部廃止論などが一部で声高に叫ばれているが、明快で短兵急な成果だけを求められた犠牲者が、オボちゃんだったことは忘れられてはならないと思う。彼女は、実にマスコミ受けの良い明快で性急な結果だけを求める日本社会が生み出したかわいそうな犠牲者に見えて仕方がない。そもそも、人間自体がよくわからない気色悪い存在を、単純化して分かった気になる方が、どうかしていると思うし、それを自分がさも分かった気になれるからと、安易にもてはやす方がどうかしていると思うのだが。

 この事件も疑うことが足らなかった事件であると思う。


オボちゃん

カリフォルニアの青い空のような脳天気な信仰

 この藤木さんの断層をお読みになられたある所の読書会での信徒の方のレポートが面白い。
 私たちが神から与えられていた人生を歩むとき、神への疑いや不信を抱かずには過ごせないと気が多くあります。このような思いを抱くのは決して自分だけではないと思うのですが、『信仰』を共にする方々との交わりの中でこの自らのうちに潜む『不信仰』や『疑い』を打ち明けることを拒む雰囲気が教会内にはあるように思うのです。
 例えば、私が信仰や神に対する疑いの思いを打ち明けると、『信じていればいいのですよ』という聖書の言葉で切り返されたり神を信じていながらも不安を抱くことについて訴えると、『まだまだ信仰が足りないね』と返答されたりすることもありました。そのような聖書的正論で切り返されると、自分は『不信仰』であるという『罪意識』にさいなまれる負の連鎖に陥ってしまいます。(同書 p.66)
 しかし、神はいるのか、この苦難は何だという問いを発生し続けたのイスラエルの民である。しかし、ヨブは、疑ったのである。そして疑い尽した挙句に、神と出会う。そして対話する。サラは笑ったのである。しかしイサクをその手に抱くことになる。ヨナに至っては、神の言うことなぞ聞きたくないといいタルシシュに向かっていく。神に逆らい続けながらも、しかし、イエスが直接言及された数少ない預言者の一人となる。

 神が降りてくるかどうかを見てみようといったのは、信仰深いはずのユダヤ人たちであったというのは、非常に面白い。まぁ、実際に手を下したのはローマ帝国なのであるが。ヤコブは神の言葉をそのまま受け取ることなく、祝福を求めて神の使いと戦ったのではなかったか。

 澄み切ったカリフォルニアの夏の青い空のような、一点の曇りもない単純な信仰はそれはそれでよいのかもしれないのだが、しかし、そこには、カリフォルニア的脳天気というようなものも一緒にあって、なんとなく陰影とか、味わいとかのあまりない大味な風景が広がっているように思うのだが。まぁ、好みの問題である。こういう大陸的な光景がお好きな方は大陸的な大味さを楽しまれたらよいのだと思う。最初はいいが、個人的には飽きた。特に運転するとき、つらい。こんな感じのところを運転するときには、クルーズコントロールが絶対に欲しい。



たかが知れている人間
 工藤さんの本を読みながら、人間とは実に厄介な存在だと思った。所詮、神の目から見たら、たかが知れているのだ。しかし、ちょっとの差を見つけては、どっちが正しい、どっちが熱心、どっちが聖書的って、もう誤差の範囲のことを競い合う。実に残念な存在であると思う。
 『福音は届いていますか』という本で多くの読者が楽になったという項目は、私たち信仰者の心を悩ます、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい」(I テサロニケ5:16−18)というみことばの解説である。多くの信徒にとって「いつも」「絶えず」「すべての事について」というこの3つの勧めが心の負担になってしまっているのである。しかしそれは努力目標であって、必ずしも現実的ではない。人間はそれほど高尚なものではないし、人間の集中力など、たかが知れているからである。(同書 p.69)
 上の文章のように、「人間はそれほど高尚なものではないし、人間の集中力など、たかが知れている」と実に清々しい。それが少しの違いでさも高尚だと自分自身を思い込んだり、牧師や伝道者や宣教師をそうだと思い込みたくなったりと、まぁ、実に残念な存在だと思う。

 まぁ、そんな風に勝手に推測されて、身動きが取れなくなった、牧師や宣教師や伝道者は、そして、その牧師や宣教師や伝道者の御連れ合いやお子さんこそいい迷惑ではないか、と思う。Ministryの最初の方の号に牧師館からのSOSや、牧師の家庭に生まれて、という特集があったが、そこで語られているその勝手な信徒の推量や了見や基準を割り当てられ、それに沿って生きなければならないとしたら、実にお可哀そうな存在である。

 人は泣きたいときに泣き、笑いたいときに笑うものだと思う。エサのいらない猫被った生き方なぞ、窮屈でしょうがないではないか。

 あのパウロ大先輩だって、
【口語訳聖書】ローマ書
12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
とお書きであったような気がするが。

コントロールするのが好きな時代の赦しと受容

 先に、現代人はあまりに安易で、それも性急に理解したがる性向があり、それも、具合が悪いことに、自分の好むような解決の結果を欲する(あるいは時に神に強要する)傾向にある。忍耐力がないのである。ナウエンは、Finding My Way Homeという本の中の最後のセクションの中で、そのようなこらえ性のない現代人の信仰ではない、Waitingの信仰について書いており、それは、Open Endedな信仰であるという。
A waiting person is a patient person. The word "patience" implies the willingness to stay where we are and live the situation out to the full in the belief that something hidden there will manifest itself to us. Patient living means to live actively in the present and wait there. ... Patient people dare to stay where they are. Waiting, then, is not passive. It involves nurturing the growth of something growing within.

There is more. Waiting is also open-ended. Open-ended waiting is hard for us because we tend to wait for something that we wish to have, but we do not know it or when we will have it.

Finding My Way Home Henri J. M. Nouwen, pp.97-98
われわれ現代人は、基本的に自分が望む結末の受容を望むし、そのことがあるがゆえに”赦し”が言及されることがあまりに多いのではないか。Open Endedではなく、Targeted Endsを求めるのではないか。しかし、神の関与の不思議さは、人間が結末を定めようとしても、そうはなってないことを示しているように思う。マリア(イエスの母の方)は、神の使いに対して、「それがどのようなものかはわかりませんが、あなたがそうおっしゃるなら、そうなりますように」といってたような気がするし、それが主の祈りにおいて、「みこころが天においてなるがごとく、地においてなりますように」の祈りなのではないかと思う。その意味で、次のことばを個人的には深く思いめぐらせている。
 教会人にとって”赦し”と”受容”がそう簡単ではないことをわきまえ知ることは、忘れてはならない信仰者の要諦であるような気がする。
(同書 pp.72₋73)
 現代人は、下のコントローラで遊ぶタイプの予定調和にあまりに慣れ過ぎているのかもしれない。


任天堂さんの昔懐かしコントローラ




評価:
工藤 信夫
いのちのことば社
¥ 1,296
(2015-06-05)
コメント:絶賛おすすめ中。

評価:
Henri J. M. Nouwen
Crossroad Pub Co
¥ 2,127
(2004-09)
コメント:問答無用に良い

【2015.06.27 Saturday 02:07】 author : Voice of Wilderness
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