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本日も、また工藤信夫著 『真実の福音を求めて』から引き続きご紹介したい。本日は第7章「いくつかの提言」から前半の続きについてである。

既存教会文化と新任牧師

 既存教会であると、その教会の固有文化というものの影響は大きい。歌う讃美歌の種類から、祈りのパターン、だれが何を担当するかまで、どの家庭集会にどんな信徒がいて、どんな文化ができているかまで、実に細かいところまで文化ができている。まぁ、教会の歴史と共に文化は形成されるので、100年の歴史のある教会は100年かけて形成された教会文化が存在するし、10年ちょっとの教会でも、立派に教会文化というものができている。そこらの事に関しては、工藤先生は、次のようにお書きである。
 ドレッシャー博士はまず、すでに確立された教会に一人の牧師が招かれることは牧師にとって大きな挑戦であるという。つまり確立された教会はまさに「確立されている」のであり、そこに招へいされる牧師は、すでに形成される文化に直面することが予想されているという。
  そしてこまったことに、そこに安住してしまった古い信徒は成長する事を望まず、排他的になる傾向が在ると言う。また、伝道についても真剣に取り組むことはめったにない。つまり、彼らは自分の存在証明であり、自己存在の基盤の様になってしまっている自らの信仰に固執し、変化を拒み、保守的になるというのである (『若い牧師・教会リーダーのための14章』p.95)(『真実の福音を求めて』pp.109-110)
 この、教会文化の問題は、マクグラス先輩の『ポスト・モダン世界のキリスト教 −21世紀における福音の役割』でも指摘されているし、『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』のなかでも、F.F.ブルース先輩の記述を引用されながら指摘されている。

メイド・イン・ジャパンのキリスト教に関する拙ブログの記事
変容と具体的世界

 ある特定の文化的コンテキスト、ある時期集っていた属人的文化の中で形成された教会文化に固執し、それを変えられないというのは、日本の他の組織でもままみられることである。例えば、企業文化というのもそうであろうし(情報処理システムのコンペでの評価委員になったことが何度かあるが、こちらの要求要件書に対する各社の回答っぷりが違うので、おかしくてしょうがないことがある)、PTAなんかもそうであろうし、小学校や中学校でのクラブ活動で暗黙知として引き継がれる敬語文化なんてものその一つであろう。先輩が始めた(その先輩が生存しているかどうかは別として)ことは地震や火事、あるいは組織の廃止などでもない限りやめられずに、それがどういう合理性や意味を持ってたのか、あるいはどのようなコンテキストで生まれたのか、いいということは一切問われずに、形だけが文化として残るということはままみられるようである。その意義がわからず、形だけ続いていることに対して、「そんなもん、やめたらいいのに」というのは簡単だが、それをやり始めた当人がいる組織の場合はなおさらであるが、居なくても、それをやめるのは案外難しいのである。というのは、それを主張され、はじめた方への批判となりかねないだけでなく、それを他人に強いた人のレゾン・デートル(存在意義)にまで関係しているからである。

 まさに、工藤さんがご指摘のように、「彼らは自分の存在証明であり、自己存在の基盤の様になってしまっている」のである。つまり、既存の教会文化を否定することは、それを維持してきた人の人生や青春そのもの(あるいはそれを言い出した、伝えた宣教師、伝道師などの人々の存在意義)を否定することになるからである。似たようなことは神学や説教の現場でも起きる。「どう考えても、聖書が行っていることはこうなのだが、先人たちの言っていることには課題がある」と、ある人が思ったとする。それをそのままいうと、先人たちに育てられてきた人々からは猛反発を受けるのであり、時に異端、悪魔手先扱いされる。

 まさに、イエスがそういう扱いを受けたし、預言者たちもそのような扱いを受けたのである。実に残念なことであるが、「預言者はつらいよ」である。

 ただ、個人的になぜそうしているのか、ということに関しては、歴史性の由来(つまり、昔からそうなっている、そうなるものと決まっている)という理解だけでは不十分で、何らかの合理性や意味ということは常に考えたほうがよいと思っている事だけは触れておく。

専制君主制と化した教会?

 その具体例として、工藤さんは次のような事例を紹介しておられる。
 その教会は、農村地帯に大きな力をもつ地主がクリスチャンになって近隣の人を集めた家庭集会から出発したのだが、例にもれず専制君主的なその長の以降にかなっている間は若い牧師は婿養子のように歓待を受けた。しかし、その意向に反すると牧師はすぐに転任を命じられ、何人もの若い牧師が送られては去って行ったという。中には、そ の人物の強い圧力で精神に変調をきたした若い牧師もいれば、牧師夫人もいたという。(同書 p.110)
 しかし、ひどい話である。実は、割と仲良くしていただいている教会におられた牧師の方が、まさにこれに近い対応を受けておられた。どうもこういう教会は多いようである。牧師が長続きしていない教会とういのは、どこか不自然なものがあるのかもしれない。牧師さんの集まりに平信徒風情のミーちゃんはーちゃんが結構顔を出すことが増えたのだが、そこでお聞きするようなことに似たような例があまりに多くて、驚いている。

 以前、水谷さんのブログ記事でも人気記事の一つであった健全牧師シリーズにコメントとして付けたものが取り上げられた記事でもある

みんなで育てよう健全牧師(場外乱闘編)

という記事があったが海兵隊のしごきならず、教会設立者のしごきにあってあえなく、使い捨て雑巾よろしく追い出されていった牧師さんがおられるようで。辛いなぁ。

 Facebook上でお付き合いのあるロシア正教会のある司祭の方によれば、このようなこの地主的な存在によってつくられた教会ゆえの違う面での問題をお抱えになっておられる教会もないわけではないようである。例えば、教会敷地の法的登記が個人登記されており、信仰継承がうまくいかないがゆえに、教会の建物の所有権と使用権が問題になるとか、教会敷地に借家が立ってしまっており、建て替えなどの問題に差し障るとか、まぁ、いろいろおありのようである。しかし、こういうのは、精神に変調をきたしかねないとはいえ、まだ、現金が解決する(その現金があれば、の話であるが)部分も無きにしも非ずではあるが。まさに、Money Talks!というのが、資本主義社会のいいところではあるけれども。

 以前牧師先生ご一家が専制君主化した教会の問題を取り上げたが、

教会が牧会者のミニ王国となりやすい理由(1)

教会が牧会者のミニ王国となりやすい理由(2)


教会が牧会者のミニ王国となりやすい理由(3)完結篇

ということでも触れたが教会の成立史において、教会設立者がミニ王国を作り上げる、ということは案外重要であると思わされた。

イケイケどんどん型の宣教スタイルの限界
 現代は人口減少社会である。この中で、教会の教勢(教会人口)の拡大を地方部で目指そうなぞ、基本思いつく方が、現代の人口学的概念から言えばかなり無理であると思うのだが、第2次キリスト教ブーム(1950-1960年代)の頃教会生活を送った人からすると、若者や子供で教会があるれるという現象、それが起きないのが不思議、ということになるのだろう。そして、それは牧師が手抜きをしているという批判に直結しやすい側面があるようである。そんなことを言われても、地方部での、人口減少、少子化、高齢化があり、土台どうしようもない現実があることから、かなり厳しいことは間違いはないのだが。
 その教会はその人物とその親族の献金に支えられていたから、信徒は沈黙を守る他なかった。その君主的な人物の信仰は、戦後世代の多くがそうであったように明治時代以来の富国強兵策のあおりを受けて、追い付け追い越せの拡大思想で、若い牧師に強力な宣教を迫った。
  おぼろげにその辺の事情に気づいた私は、その若い牧師を応援すべくその教会に何度か出向いていたが、喜んだのは信徒の方で、私の協力はかの人と若い牧師との溝をますます大きくすることになってしまった。案の定2、3年して、その牧師はそこを追いだされてしまったのである。そして私の耳に入ってきたのは、 「あの牧師は事例研(引用者註 工藤さんが主宰しておられる研究会)に行ってからおかしくなった」という言葉であった。(同書p.111)
 こういう悲惨な現実は、結構日本の地方部の教会であるようである。自分が老人であるのを棚に上げ、教会が老人だらけではないか、もっと若い人がいる活気ある教会にならないのか、と牧師にだけ問われても、そんなの「無理ゲー」といわざるを得ないのではないだろうか。

 「そこまでおっしゃるなら、あんたの孫をテレビやゲームの前から引っぺがして教会に連れてきてください。あなたの息子のゴルフクラブを炎上させて、日曜日はゴルフ場に行かせるのではなく、教会に来させてください」と逆切れしてない牧師の皆様方を個人的に尊敬している。自分ができないことを牧師に期待するというのは、それは期待のしすぎではないか、と思う。昔は遊びといえば、ベーゴマにメンコ、紙芝居しかなかった世界と、テレビもあれば、衛星放送もあり、受苦もあり、PSPやニンテンドーDSもあれば、インターネットの世界もあるこのご時世を同列に扱うことの方が問題ではないか、と思うのだが、どうだろうか。

人権思想や民主主義とキリスト教会

 この前、木原活信 著 「弱さ」の向こうにあるもの その4 でも触れたが、人権思想の結末がどうかは別として、人権を言うためには、聖書の理解は欠かせないし、教会から生み出されていったものとしての人権はあったのである。森本あんり先生の『反知性主義』を巡って書いた反知性主義をめぐるもろもろ シリーズや深井先生の『神学の起源』を巡って書いた深井智朗著 神学の起源 社会における機能 を読んだ シリーズなどでもちょろっと触れたが、これらを生み出す土壌になった背景の一つとしてキリスト教は欠かせない。

 しかし、教会の属人的支配、封建領主的支配、専制君主的支配の問題は日本では深刻な問題を今なお徳地政治の問題とかかわり続いていることを、工藤さんは次のように指摘しておられる。
こうしたテーマはこれからの日本のキリスト教、そして教会を考える場合にないがしろに出来ないことのように思われる。民主主義や人権思想を土台とした西洋型キリスト教では通用しない問題を抱えているからである。(同書 pp.111-112)
 しかし、こう言う徳治主義的、家族経営的、あるいは専制君主的属人的支配は、神の支配(すなわち、神の国)とまともにぶつかるはずなのであるが、こういう支配したがる人たちは、自分こそ神を理解している信徒であり、神と共に在ると思いがちなので、自分の支配と神の支配が一致していると思い込む傾向はあり、それが大きな被害をもたらすことは多々あるようである。

 尚、ミーちゃんはーちゃんとしては、西洋型キリスト教が全てではないとは思うし、日本型キリスト教とか、温帯モンスーン型キリスト教というのはあってもよいと思うが、それが聖書全体の理解とどうバランスをとるか問題ということはもう少し考えられてよいと思っている。

 特に、この問題に関して、今現状の日本のキリスト教会で起きている問題は、多様性を積極的に評価し、包括的に吸収しようとするアメリカのキリスト教界で育った日本人キリスト者が、日本におあるキリスト教界に受け入れられないという異なるキリスト教土壌間の移植と定着の問題である。

 日本のキリスト教会側は、ここは日本におけるキリスト教会であるという論理を優先させ従来のその教会固有文化を重視するし、アメリカで信仰を持った日本人キリスト者は、自分たちがアメリカで出会ったキリスト教文化をキリスト教文化そのものであると思い込み、対立が起きたり、アメリカで信仰を持った日本人キリスト者が日本の教会から追い出されるというろくでもない現象が起きている場合もないわけではないようである。

 しかし、もし、アメリカ人やヨーロッパ人で日本語を話すパッと見アメリカ人やヨーロッパ人のキリスト者がアメリカで信仰を持った日本人キリスト者と同じことを言ったとしたら、どうなるであろうか。排除される可能性は案外小さくないと思うのだが。しかし、これは、パウロが主張した次の内容と同じかどうかをもう少し考えてみた方がいいかもしれない。この問題は、教会が何を重視しているのか、という価値の問題を問うからである。

【口語訳】ローマ人への手紙
 3:27 すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。
 3:28 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
 3:30 まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。
 3:31 すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法は確立するのである。
企業卒業者や女性と教会内問題
 同書の中で、工藤さんは、企業人が教会に入ると役員になりたがり、そこで繰り広げられる論理はキリスト教の論理と程遠い企業経営の論理となりがち、という日本のキリスト教の問題をご紹介されている。

 近年、退職された企業卒業者の男性信徒が教会に多少なりとも増えている模様である。それはそれで喜ばしいことかもしれない。あるいは、神学校にお伺いしても、学校卒業直後、あるいは、企業で数年すごされて神学生になられたお若い神学生の方よりも、だいぶん成熟された神学生の方が数多くみられる。これもまた喜ばしからずやであるが、世俗社会の中で失った肩書を教会内での肩書で代替しようとしている方がおられないことを願うばかりである。

 まぁ、献身者の方であるから、そういうケチなお考え(本田司祭のお言葉から借用)で献身されているのではない、と確信している。そして、東芝の役員会の内紛同様の内紛を教会で繰り返されないことを願うばかりである。


47News様より

 これら企業卒業後の男性信徒の方の問題に触れた後、工藤さんは教会と女性たちの問題について次のような記述をしておられる。
 女性の集まりにはどういうわけか男性社会とはまた違った形での仲間割れ、分派が生じやすい。いつの間にかその女性たちの力は温厚な老牧師を操作し、干渉しだした。
 その紛争に巻き込まれ、疲れ果てた女性の一人は私に行った。
 「私はあちこちの教会に行きましたが、この教会の女性たちのパワーを見て、ここはとうてい私のいるところではないと思ったのです。」
 聞けば、教会を助ける、宣教師を助けるという掛け声はいいが、その活動は自分たちの能力の誇示であり、何事かにつけ二つのグループの確執があって、疲れ果てたのである。
 (中略)そしてその女性の一言が私をどきりとさせた。その教会では、「元気のいいこと、輝いていることがよしとされるのです」と。
 教会活動が自己実現、自己顕示性の場と化してしまっては、「力と愛と慎み」の場であるべき教会がその本質をたがえた比較・競争の場になってしまうに違いない。(同書 p.114)
 女性信徒の問題は、結構ややこしいのである。ミーちゃんはーちゃんも、このあおりを食らって結構面倒なことに巻き込まれたことは一度や二度ではない。「小人閑居して…。勝手にもめて騒いでくだされ」と言いたくなることが多いのだが、相談が持ち込まれた時に、まかり間違ってもそんな対応したら、火に油どころか、火にガソリン、火にダイナマイトを投げ込むようなことになることは、経験知として申し上げられる。もう、こういうことが持ち込まれたら、ひたすら聞き役に回るしかない。まぁ、大概はそれで収まることが多い。おさまらない時が大変であるけれども。

 日本では、最近男女雇用機会均等法が始まってから30年近くになるので、だいぶん女性の社会進出の問題とそれに伴ういざこざの問題はある程度、解決がついてきたのであるが、60過ぎのご妙齢の皆さんほど、実力がありながら発揮できない人生を歩まれた人々もおられたりするので、女性が活躍できる場になると、嬉々として(時に鬼気迫る雰囲気で)ご活躍の皆様もおられる。そうなると、必ず普段は敬虔なことをおっしゃっておられる信徒の方々の中に、「自分たちの能力の誇示」される方々が出てくるのである。こういう方を皆さんがみている前で気軽にお諫めなぞしたら、あとでえらい目にあうから、ご注意召されたい。

 実は、カトリックのある司祭の方とお話ししていて、男女雇用機会均等法などがない昔、女子修道会は、まさにこういう女性実力者の方のたまり場のような感があった、というお話を聞いたことがあるが、そこにかかわらなければならなかった男性司祭は、結構大変だっただろうとは思う。まぁ、Sister Act(邦題 天使にラブソングを)に出てくる女性修道院長は、完璧にそんな感じがあるけれども。



天使にラブソングを 予告編

 尚、現代日本では、シスターの成り手がおらず、女子修道会の高齢化が極めて進んでいることは、上智大学の大阪公開講座にお伺いした時に、何度か経験させていただいている。

 ところで、工藤先生は、そしてその女性の一言が私をどきりとさせた。その教会では、「元気のいいこと、輝いていることがよしとされるのです」ということをお書きになっておられるを見て、ここにも繁栄の神学の影響がみられるのだなぁ、と素朴な感想を持った。そんないつも元気よく輝くなど、カリフォルニアの青空のような脳天気な生き方をすると、結構ハイストレス環境なのであるのである。しんどいのである。そのハイストレスな生き方で、自分自身が潰れてしまうと思うのは、私だけであろうか。

 まだまだ続く。





 
評価:
工藤 信夫
いのちのことば社
¥ 1,296
(2015-06-05)
コメント:絶賛お勧め中である。

評価:
A.E.マクグラス
教文館
¥ 1,944
(2004-06)
コメント:お勧めしています。

評価:
マーク・R. マリンズ
トランスビュー
¥ 4,104
(2005-04-28)
コメント:日本で特殊発展したキリスト教に関する著者渾身のフィールドワーク


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  『富士山とシナイ山』学ぶシリーズは本ブログの最長連載記録を更新が確実となっている中となっているが、本日もしつこく小山晃佑 著『富士山とシナイ山』から、本日も、引き続き同書の17章「神とバアルの間をよろめきつつ踊る」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ からどうぞ。

凶作と旱魃と信仰

 日本の神も、基本豊穣神であり、バアル神とは同一ではないが、その性質はよく似ている。基本、降水と豊穣の神とは結びついている。日本の神事でよくもちいられる注連縄についている白い紙(垂 シデ)は、雷の象徴であり、雨の象徴である。その意味で雷は”かみなり”であり、豊穣のため雨の神が鳴らしている太鼓の様なものと考えられてきた節はある。


注連縄と垂


横綱についている垂candy-botan.cocolog-nifty.com様から転載

 農業者にとって、降水の有無は旱魃と直結し、灌漑の有無にかかわらず、雨水による水分供給は農業にとって極めて重要なのである。
 前9世紀の北イスラエル王国のギレアドの人、預言者エリヤは、イスラエルの民とバアルの預言者集団と対決した。
 あなた方はいつまで二つの考えの間で迷っているのか。主が神ならば、
 主に従え、バアルが神ならば、バアルに従え。
  (列王記上 18章21節)
 物語の発端は長期間にわたる旱魃である。中国の皇帝だったら、このようなとき、天の信任を失って引退するだろう。 (『富士山とシナイ山』 p.317)
 中国古典史を読んでいると、政権の転覆というか王朝の変遷は、基本、この飢饉問題、民衆の飢餓問題と密接に結びついている。その意味で、王朝が変わる時、天命が古い王朝から新しい王朝に移る旨、下り、その結果政権の転換が発生することを革命(変革の命令が天から天命として下った)と理解されてきたようである。

 その意味で、干ばつや天候不順とそれに伴う凶作が東洋とりわけ中国文化圏や漢字文化圏では政権交代の大きな要因となってきたといえる。日本でも、平安期から鎌倉期の王朝の遷移や江戸期から明治期の王朝の遷移は、明らかにこの天候不順と密接に政権交代が結び付いている。つまり、凶作であるのは、天が現政権にお怒りであり、それが政権打倒の印だ、と理解されているのだろうと思う。まぁ、226事件の時も、凶作を発端としているように思う。

 つい最近まで、旱魃になると、ため池文化圏の農村地帯では、水盗りの問題等から血の雨が降りかねない(殺人事件が発生しかねない)雰囲気は結構見られたようである。それが、台風が雨を連れてくると、一気にその緊張が緩和するらしいことは、つい数年前に雨が降らず、農業用水ダムの水位が下がったときに農村地帯で調査した時にひしひしと感じたことが思い起こされる。

煩わすものと呼ばれたエリヤ
 エリヤは旧約聖書世界の中でも最大の預言者の一人である。イエスが十字架上で死にかけている時、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と読んだ時、エリヤを読んでいると人々は言うほど、身近な大預言者がエリヤだったのである。

【新改訳改訂第3版】マルコ
 15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 15:35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。
 それほどの預言者でありながらエリヤは、「イスラエルをわずらわすもの」と呼ばれてしまったのである。
エリヤはこうした態度(引用者註 主とバアルとを両天秤にかけるかのようなやり方)を断固として拒否した。それ故エリヤはアハブにとって扱いにくい存在であり、アハブはエリヤを「イスラエルを煩わすもの」(列王記上18章17節)と呼んだ。(中略)預言者エリヤはイスラエルの民の霊的及び文化的平穏をかき乱した。ここで用いられている「煩わす者」(オヘール)という語は、アラビア語的背景を媒介して、泥で真水を汚すことを意味した。(同書 p.317)
 預言者というのは、現状に不満をならす革命分子的存在なのであり、結構面倒な存在であるのである。それこそ、預言者はある意味、嫌われ者であり、支配者にとっては困った存在でもあったので、多くの預言者の血が流された、とイエスが行っている通りなのである。

 海の通商大国フェニキアと南の軍事大国エジプトに挟まれた小国イスラエルという国際政治情勢の中で、どのようにサバイバルを図るかに悩まされたイスラエル王国の国王アハブにとって、結婚も政治的(安全保障と関連が深い)なものであり、他国との国際関係で生きざるを得ない状況の中に預言者が「バアルに現をぬかすな」という預言者の存在は耐えられなかったし、オヘールという語が意図的に旧約聖書内でつかわれていることは、ある面、当時の国際政治においても、エリヤ先輩は、結構鼻つまみ者であったような印象を伝えているような気がする。

豊穣神バアル

 農業者にとって、豊穣というのは素朴な喜びの源泉であることは、最近になってようやく分かった。収穫がなければ、サバイバルも出来ないし、将に土地が産物をならせることは1年に1回の事であることが多い(二毛作とかは除く)ため、その年の収穫の寮・不良で、その翌年の生き方すべてが決まってしまうが、しかし、農業者にとってみて、現在のこの時代でも農業者自身が打てる手は少ないのである。その意味で他者(天候)に依存して生きざるを得ないのである。となると、豊穣神の存在ということを想定したくもなる気持ちもわからなくはない。
バアル(字義どおりには主人あるいは所有者を意味する)はカナン地方の豊穣神である。バアル心は特に植生に雨を送って成長させる神とみなされてきた。バアルは大地に雨(精液)を送って、収穫を保証する。(中略)バアル祭儀と関連していたのがいわゆる聖娼制度である(列王記15章12節、申命記23章18節)。聖娼たちは神殿で暮らしていた。(同書 p.318)
 土地の豊穣と生の問題のメタファーを重ねることに関しては、古来から行われてきており、北欧神話、ギリシア・ローマ神話にあっても、この地母神信仰は非常に大きな影響を与えていることは、神話学とかの基本的文献を見ることですぐに察知される。

 本記事冒頭でふれたように、日本の神事においても、この地母神的信仰はところどころに顔を見せて居り、女性神が割と多く日本神話においても女性神が豊穣神と結びついている例は案外多い様な気がする。日本で、聖娼制度があったかどうかは定かではないが、性行為と神事はかなり密接に結びついていることは、筑波山で行われていたとされる歌垣の伝説や筑波山自体が男体山と女体山からなっていることで、夫婦和合の象徴として理解されてきたこと、あるいは、信じにおける神子の数多くの登場など、様々な点で共通のものを持っているように思う。

豊穣神バアルとYHWH

 以下紹介している小山先生のお書きの文章を読んで、主の主とヤハウェを旧約聖書で呼ぶことの意味を少し考えた。
 エリヤはバアルが特定の機能の世話をするだけの並の神ではないと分かっていたが、バアルがイスラエルの礼拝するヤハウェと混同されるようなことは絶対にあってはならないことも分かっていた。イスラエルの神なる主、ヤハウェは民に穀物と雨と葡萄酒を与えるが、豊穣神として礼拝されることは拒否する。(同書 p.318)
 旧約聖書の中に、主の主という表現がYHWHを表す表現として多用されている。そして、先にも小山先生の書籍からの引用でご紹介したようにバアルという語も、そもそもは主または主人、所有者という意味があったのである。しかし、YHWHであらわされる方は、その主人と呼ばれる存在よりもはるかに大きく、それらを支配する存在であることを「主の主」と呼ぶことで示しているように思う。その意味で、「主の主」という呼び方には特殊な意味がありそうな気がしている。あくまで、気がしているだけである。より具体的に言えば、「主の主」というのは、偶像である神々を含め、すべてのものを包括する、あるいはそれらのものを支配する存在であることを主の主という表現は示しているように思われる。ただ、ここで言う支配は、通常日本語で想定される支配とは違う。包括的存在であるということであるが、これに関しての詳細は、後述する。

 更に、小山先生は、異教の神と聖書の神の違いを、性と生の行為者であるか、いや、むしろ性と生の創造者であるかの違いであり、その面で、両者の間に大きな違いがあることを示している。
 真の神は宇宙的活力の表示ではない。この神は生殖行為をするよりはむしろ創造する。神は性を創造するが、自ら性行為に参加することはない。自然の活動に対する神の関わり方は超越活動である。聖書的洞察は、創造者が真の神であるのに対して、豊穣神は偶像の一つだということである。生産性の増加が人間共同体において絶対的位置を占めてはならない。真の神の審判の下にとどまるべきである。エリヤは主張する、民の生活(歴史)に深い関心を寄せる神は創造者であり、自然内の万物の創造者であると。(同書 p.319)
 この記事を読みながら思ったことは、聖書の神は、自らが多くの神々の一つであることされることを拒否し、一つにして唯一の神であり、ここ個別の存在の自由な動きを受け止めつつ、すべてのものに関する責任を自らのものとして受け止める(支配する)存在であるということである。

 われわれは、支配するというと、結末まで神経を張り巡らせ、細かなことに関与し、口をさしはさみ、手を出すというイメージがあるかもしれないが、聖書で言う支配する、あるいは神の国という概念は、この地に住む人々や存在、被造物の自由な行動と生存、活動を認めつつ、その最終的な結末を自らのうちに受け止めるということであるように思う。この辺り、結構多くのキリスト者の中でも誤解があり、神の介在がかなり細かな点においても常時行われるという理解をお持ちの方も多いようである。ちょうど、スコア譜がありそのスコア譜通りに演奏を演奏家に強いるようなイメージをお持ちの方が案外多いと思うのであるが、どうも旧約聖書を読む限りそういうことでもないようである気がする。実は、事前に主旋律を提示しておき、後は演奏家に任せるようなカデンツァ的な取り扱い、あるいはジャズのセッション的な対応が多いような気がする。

 ある面、人間による、アドリブの縁起というかアドリブで行われるその演奏を関心をもって楽しんでおられるような神のイメージが個人的にはある。しかし、最終的な結末を自らつけるという威厳と尊厳をもちながら、ではあるけれども。

バアルと神の間をよろめく人間と歴史

 人間は、神を知っていても目先に見える豊かさに心動かされてしまい、それと神との区別や峻別が不可能になりやすいこと、それが現在もなお起きていることに関して小山先輩は次のようにお書きである。そして、それがキリスト者の中でも起きかねないことを。
エリヤはバアルを拒否する。しかしバアルは人間の歴史内に踏みとどまる。歴史考察法の一つは、歴史をヤハウェとバアルが対決する物語としてみることであ る。豊作経験は人類にとって第1義的関心事であり、神秘の感覚と産物の増加の喜びに包まれている。(中略)ホセアによる自然の豊かな産物を巡って湧き出る判断の混乱の記述は、前8世紀に劣らず今日のの世界にも応用されうる。
 彼女(イスラエル)は知らないのだ。穀物、ぶどう酒、オリーブ油を与え、バアル像の材料に使った金銀を惜しみなく与えたのが私だ、ということを(ホセア書2章10節)
  歴史において我々は常にヤハウェとバアルを経験するであろう。我々は両者の間をどっちつかずによろめき踊る儀礼を演じている。エリヤは我々を正視して、こ んなふざけた踊りはやめろと命じる。それでも我々は踊りをやめない。我々の知る歴史は常にこうした偶像崇拝の可能性と現実を含んでいる。偶像崇拝の全き除去の実現は、我々の知る歴史が終末を迎えたときに限られる。(同書 p.320)
 半端もののキリスト者として、ミーちゃんはーちゃんは自らが神のものであると知りながら偶像崇拝的な要素をもつことを否定はしないし、否定はできない。これは正直な感想である。であるからこそ、常に自らのうちにある、この偶像崇拝的なものに関して、正面切ってみすえないといけないと思っているし、対決するというか批判的にとらえないといけないと思っている。人間は鼻に神から息を吹き込まれた程度のものである。所詮その程度のものである、ということをこの前久しぶりに見たNHK教育テレビの「こころの時代」という番組で、内村鑑三に関して鈴木範久さんがお話しになっているのを見ながら、改めて感じた。 

 内村はぶれの多い人物であったことが知られている。右に左にという感じで、揺れまくった人物であったようでもある。しかし、彼は、そうであったけれども神に生涯と自らの生を賭けた、キリストに賭けた(預けた、寄り掛かった)人物であったと思う。

 このどっちつかずの態度、あるいはぶれのある態度を取り続けることは、この地上で続かざるを得ないことは素直に認めたい。しかし、キリスト者の希望はこの地上の生そのものにあるわけでなく、神が与える最終的な終末にあるというのが、キリスト者の希望であるというのが、聖書の主張であろうと思う。そのことは、このブログ記事で絶賛紹介しているN.T.ライト先輩の『クリスチャンであるとは』でも紹介されているところである。現在は店頭在庫限りとなっているらしいが、最新情報では再刷決定の模様である。

 小山先輩は「我々の知る歴史が終末を迎える」とお書きであるが、これは、「我々の知る歴史が完成を迎える」という意味であり、クロノスとしての時(原子時計だろうが、日時計であろうが、時計というもので測られるような時間そのもの)が意味をもたなくなり、歴史的時間と結び付けられた時間という概念があまり意味をもたなくなるということではないか、と思う。

豊穣崇拝と偶像崇拝と軍備

 聖書の神は増加と豊穣を喜び祝福される神であり、それを祝福される神である。それは、創世記1章の冒頭の次の言葉からもわかる。
【口語訳聖書】創世記
 1:22 神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。
 しかしながら、その増加、豊穣そのものを神とし、神の座に据えることは拒否する。さらに、生存権を超えて、自らを含め他者を小さくされたものとすること、圧迫すること、殺戮する様な行為に関しては神は激しく否定されなければならない事を聖書の神は、「あなたがたのうちにある在留異邦人を愛せ」ということばで示して居られるように思う。

 しかし、この命令を中世から近代にいたるまでのキリスト教は守ってこなかった。なぜならば、キリスト教世界の中にあった在留異邦人であったユダヤ人を守るどころか、小さくされたものとし、圧迫し、殺戮したことはよく知られていることである。ある面、キリスト教は、自分の都合のいい様にカットアンドペーストで、読んできたような気がする。

 そして、それは自国民優先主義の結果の自国民増加主義、自民族集団の権益増強のためであったことは、自国民、自民族、自グループ中心とする一種の偶像崇拝でもあったように思う。しかし、同じことをアジア大陸や東南アジア諸国で他人に勝手に名前を付け、資源を奪い、他者の文化と言語を禁じ、日本語をしゃべることを何の疑問もなく強いた国があったことを我々は忘れてはならないと思う。このブログでも紹介したが、踏んだ方は忘れるが、踏まれたほうは忘れてくれないのである。

赦しますが、忘れません を考えて

続々 「赦しますが忘れません」

 この辺りの事情に関して、小山先輩は次のようにお書きである。

 聖書の神は増加そのものを断罪することはない。増加が偶像崇拝的になるのは、増加が共同体の諸要素を抑圧あるいは圧迫することによって獲得されるときである。増加至上主義は極端になると人身御供を要求する。いかなる形式のものであれ、天皇崇拝は何らかの人身御供を要求する。天皇崇拝傾向が発現するのに、必ずしも天皇の人格は必要ではない。今日諸国が軍備増強に取りつかれていることが豊穣願望と偶像崇拝との相関性の明白な実例である。(同書 p.322)
 ここでふれられている天皇崇拝とは、「必ずしも天皇の人格は必要ではない。今日諸国が軍備増強に取りつかれていることが豊穣願望と偶像崇拝との相関性の明白な実例である」とお書きのように、所謂自国の防御とか、自国の権益の確保を言い募り、他国を小さくすることに関する技術でもある軍事技術を中心とし、自民族や自分たちのグループの豊かさ(経済的なものだけではない、価値があると思うものによって構成されるすべての豊かさ)確保のために、偶像となりかねない軍事技術や軍備そのものを依存してしまう(すなわち、崇拝してしまう)という、側面があるように思う。

 依存症が人間生活に破壊的な影響力を持つように、霊的、経済的、政治的・・・な諸側面における依存症は、人間に破壊的な影響をもつようである。残念なことであるが。それは、キリスト教徒であってもである。なぜなら、人間は不完全なものであり、それであるが故に安易に容易に手に出来る者に依存してしまうからである。

 このシリーズ、まだまだ続く。



評価:
小山 晃佑
教文館
¥ 4,104
(2014-09-12)
コメント:お勧めして居ります。


 今日も魚川さんの「仏教思想のゼロポイント」からご紹介してみたい。今回は、解脱・涅槃に関する部分、この本の主要部分である、また、テーマともなっている第6章 仏教思想のゼロポイント からご紹介したい。

日本社会と解脱
 日本で瞑想しておられる方、また、仏教徒の方は多いのだが、解脱をした、と役割として、立場として言う人は少ない。そのあたりの事情について、魚川さんは次のようにお書きである。
 現代日本には、「私は悟りました」とか「解脱しました」とか宣言する人は、僧俗を問わずあまり言ない。僧侶も瞑想実践者もたくさんいるのに、経典では次々と出ている解脱者が、現代日本ではほとんど見られないというのおは、考えてみると、どうも不思議なことのようでもある。
 もちろん、その理由の推測であれば簡単につく。第3章でも述べたとおり、日本では「悟り」と言えば円満な人格完成者としての仏の悟りのイメージが強いから、うかつに「悟りました」等と言ってしまったら、その意図背後の全ての行為に於いて、道徳的にも社会的にも完璧であることを求められることになり、面倒なことこの上ない。
 何より、「私は悟った」等の宣言するのは、どうにも謙譲の美徳を書いているように感じられるし、実際、珍しく「最終解脱者」を名乗る人物が現れたと思ったら、それがテロリストだったりする。要するに、「私などまだまだ道半ばです」と言っておく方が、あらゆる面で「よい」のだということである。(仏教思想のゼロポイント pp.131-132)

最終解脱者を自称した方

 しかし、日本のキリスト教も西洋倫理の一環として入ったこともあるのだろうけれども、この一種の悟りの境地を目指すようなキリスト教も案外多い。特に、ディスペンセイション説以降のキリスト教でこのディスペンセイション説に影響を受けたキリスト教は、この世界のことを悪、くだらないことであり、つまらないことであると理解する視座を持つため、この世界からの分離を強く求めていく傾向がある。その結果、「家族との関係を切れ」とか、「学問をあきらめろ」とか、「仕事をあきらめろ」とか、無茶を言うキリスト教の信徒集団もあるらしい。まるでカルトである。

 個人的に知っている範囲で言うと、警察官になりたくて、なりたくてしょうがない方が、キリスト者になったゆえに警察官の道をあきらめた、という逸話を聞いたことがある。警察官になると、「日曜日に教会に行けなくなる」から、だそうである。アメリカでは考えられないと思う。警察官にどの程度のキリスト者かは知らないが、日曜日に教会に行けないから警察官をやめるなどというのは、あり得ないことである。まさに、下記で紹介したマタイの福音書における「安息日は何のためにあるのか」というイエスとユダヤ人の問答でのイエスの主張から外れていると思うのは、多分ミーちゃんはーちゃんだけだろう。
【口語訳聖書】マタイによる福音書
12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
 12:2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
 12:3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
 12:4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
 12:5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
 12:6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
 12:7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
 12:8 人の子は安息日の主である」。
 12:9 イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。
 12:10 すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。
 12:11 イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。
 12:12 人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。
 12:13 そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。
 12:14 パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
 この世を軽く見るあまり、すべての地におけるかかわりから離脱しようとされた結果、仏教的な悟りの世界もどきに入り込み、この世とのつながりにバランスを欠いた人々も時におられると聞く。実に残念なことである。

 旧約聖書の民は、荒野でのどが乾いたら、のどが渇いた、腹が減ったら、腹が減った、こんなことならエジプトにいた方がましだった、とピーピー泣き言をいうのだ。挙句の果てに以下のようなことも言う。
【口語訳聖書】民数記
 11:4 また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。
 11:5 われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。
 11:6 しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。
これが旧約の民の姿である。まるで、あるく煩悩様のような人々であるが、それでも、それをよしとし、これらの人々に求めるものそのものではないが、ウズラがやってきて、同じ民数記の記述によれば、
「あなたがたがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、一か月に及び、ついにあなたがたの鼻から出るようになり、あなたがたは、それに飽き果てるであろう。それはあなたがたのうちにおられる主を軽んじて、その前に泣き、なぜ、わたしたちはエジプトから出てきたのだろうと言ったからである』」。(民数記 11:19〜20)
と限界無きまで、完膚なきまで、神はイスラエルの民に食らわせるのである。まさに、「食らえ、ウズラ攻撃」である。この話の歴史的事実性に関しては、キリスト教業界で議論があることだけは、一応触れておくが、まぁ、砂漠を歩んだ古代人としてのイスラエルの民、ないしイスラエルの子孫の民からしたら、こんなレトリックで言わないといけない程の経験であったのであろうと思う。

 その意味で、旧約聖書の人も、旧約聖書の神も、小山先輩が出会ったタイの高僧からすれば、うちの寺院によって、ちょっと瞑想したり修行してはどうか、といわれかねない神であり、人々であったのであり、仏教的な枠組みではとらえがたい、あるいはそれでとらえることをはなから拒否するような神なのである。

 このあたりの事に関しては、『富士山とシナイ山』に学ぶ、日本のキリスト教と歴史 (27) の悟らない聖書の神の下りで紹介しているのでそちらをご覧いただきたい。


実存の転換としての涅槃
実存の継続としての天の国
 先日、義父の葬儀説教を担当させてもらったのだが、実は、その前日に記念式をした時に、ちらっと天の国という話をふれたときにその場に居合わせた信仰者でない方が、天の国を明らかに死後行くところ、と理解していたようなので、翌日本番の葬儀説教で、天の国とは、神の支配の中名に生きるということであり、死後生きるところだけを指すのではなく、この地の延長で神と共に在ることであり、神と人共に生きることである、とN.T.ライト先輩のSurprised by Hope風の葬儀説教に急きょ切り替えた。

 案外、この「天の国」≒「天国」≒「極楽」≒「涅槃」≒「浄土」≒「西方浄土」という概念は日本人に広く受け入れられているようで、以前にも、このブログで、それはまずいんでないか、ということは触れた。これらの記事である。

天国と極楽と西方浄土
天国について (続)
めぐまぐま様へのお返事

 しかし、涅槃とは以下でご紹介する文中にある「行道の完成である」という魚川さんのご指摘を読んで、あぁ、この辺がキリスト教とは根本的に違うのだ、と思った。キリスト教では、行道の完成などということは考えず、基本的に不完全系のままこの地を歩むという前提というか理解がある。系(システム)として不完全な人間であり、最終的に神が完成されるとき、被造物世界全体を完成させるときに、はじめて完全な人間となるという理解ではないか、と思うのである。
 そして、涅槃とは、決定的な実存の転換という視点は重要だと思う。
涅槃を証得した者の実存のあり方は、その時点で決定的に転換するということであり、それは以降も変わることのない、行道の完成でもあるということだ。
 このように解脱、涅槃が本来はあいまいなものでは全くなく、決定的で明白な実存の転換であったと言う事は、現代日本人の好みにはあわないせいか、一応言及はされても、正面から問題化されて検討される事はあまりない。これは経典に於いて何度も繰り返し明示されていることである以上、少なくともゴータマ・ブッダの仏教について考えるうえでは外すことのできない、その教説の基本的な特徴であると考えるべきだろう。(同書 p.132)
 涅槃への移行や覚醒とも呼ぶべき解脱が、段階的なものやあいまいなものではなく実存の転換というのは、メタ思想を考えれば、非常によくわかる。次元が違うとでもいおうか。つまり、システム論の理解で言えば、サブシステムであるこの地上の世界からメタシステムであるこの地を包括したより高次の、あるいはより大域的なシステムへの転換が起きた、ということなのだとおもう。これは、空中写真測量またはGPS測量以前の測量(地べたをはい回って、三角関数使いまくりで三角測量する方法)と空中写真測量以降の測量(2枚の空中写真と写真ちゅに含まれる測量点をもとに、標高等を測定し、位置確定して測量する方法)の違い程の感じなのだと思う。あるいは、ドローン以前の風景と、ドローン以降の風景と、という理解でもよいかもしれないが。

涅槃の境地とスルー力

 そして、その涅槃の境地は簡単であるかもしれないということに関して、次のように魚川さんはお書きである。
 6世紀の中国に僧璨(そうさん)という禅僧がいた。禅僧第3祖と言われる人だが、彼の著作である信心銘の冒頭に、「至道は無難、唯だ揀擇を嫌う、但だ憎愛なくんば、洞然として明白なり」という有名な言葉がある。「最高の道なんて難しいものじゃない。ただよくないのは選り好みだ。あれが好い、これが嫌だというのさえやめさえすれば、実にはっきりしたものさ」というわけでが、これはゴータマ・ブッダの現法涅槃を描写した表現としても、そのまま通用するだろう。
 前章で述べたように、私たち衆生にはその将来の傾向として、対象と好んだり嫌ったりして、それに執着する煩悩、即ち、貪欲と瞋恚が備わっている。こうした煩悩の作用に無自覚であり続けることによって、私たちは「物語の世界」を形成し、それに振り回されて苦を経験するわけだから、この瞋恚と貪欲、即ち「憎愛」の働きを止めさえすれば、そこは直ちに現法涅槃の境地になるのである。(p.134)
 要するに好き嫌いをやめてしまえば、そのことで苦しむことも無くなるし、貪欲も無くなるし、そのことで神経すり減らすことも無くなるから、そんなしんどい作業はとっととやめてしまって、気にしない生き方、スルーする力量の高い生き方をすればいいんじゃない、ってことがブッダの言った主張であるということなのであろう。
 しかし、聖書はこの逆を行くようであり、聖書の言う天の国はこのあたりの涅槃の境地とは別物である。あくまで、神にこだわり、神に執着し、神と共に生きる、ということの希望を欠けてしまうのである。苦には解決はないかもしれないけれども、この苦の中にも神がともにおられるということを確信しそして生きていくこと、それがキリスト教というか、聖書の言う主張であっていきながら、所持スルーしていって、苦しみを避ける生き方ではないように思う。ある面、ユダヤ教にしても、キリスト教にしても、求めていく生き方(神を求めていく生き方)を重視するのである。丁度ヤコブが祝福を求め、神と格闘したように。

 その意味で、炎上覚悟なのがキリスト教なのであり、炎上と無縁の世界を目指すのが仏教なのではないか、と思う。

認識と無縁の世界か
 世界と認識は無縁か、という議論は科学ないし科学哲学にとっても重要な問題である。完全な客観という参照枠が存在するのか問題である。仏教は、基本的にはそんなものはない、といいのけているようである。そのあたりを魚川さんは次のように言っておられる。
 うまそうな料理を見れば食欲がわくし、毒蛇を見れば怖くて逃げたくもなる。そしてまた、机はやはり机だし、コップはやはりコップのままだ。つまり、いくら「そうしよう」と決めたところで、直ちに「ただ現象のみ」の認知への転換が起こったりはしないということである。
 そのこと自体は当然のことで、実際に私たちが「事実」と称している認識であり、その中で「ある」とか「ない」とか判断を行っている枠組みそのものが、仏教の立場からすれば、既にして分別の相(papanca)の所産なのである。そして、分別の相である「物語の世界」は、そもそもその形成の時点で、対象への貪欲と瞋恚を巻き込んで成立している。つまり、凡夫にとって「事実」であり、「現実」である「世界」というのは、最初から欲望によって織り上げられているということだ。(pp.134−135)
 基本的に科学というの現実への執着であり、執着である以上認識が生み出したものであり、認識の世界のトラップにはまっているということなのであろう。不確定性原理をうんぬんするまでもなく、そんなん、世界なんて認識の産物だから、そんなものを気にするのはおやめになったら、いかが?というのが仏教思想だと改めて感じた。つまり「世間虚仮」、すなわち、世界というものは、そもそも論からして、認識が生み出した次元の出来事であり、仮のものでしかなく虚構なのだ、日々虚構新聞の中に生きるのはやめて、もうちょっと苦しまずに生きられたらどうか、ということのおすすめがブッダのご主張ということになるのだろう。


虚構新聞サイトのある日の状態

 キリスト教徒としては、この世界も虚構ではなく、神がつくり給いし被造物としての実体であり、関係性もまた神が与え給いしものであり、神ご自身が関係性を持つ存在であるという理解であるので、関係性自体虚構ではない、フィクションではない、という理解である。日本語で言えば、ノンフィクションの中に生きるということなのである。

 魚川さんは、「物語の世界」という言葉をお使いであるが、恐らく意味としては「絵空事の世界」、「実体のない虚構の世界」、「フィクションの世界」、「認識上存在している世界」における絵空事、虚構、フィクション、認識そのものをさしておられるのだと思う。しかし、聖書関連でいう物語というのは、フィクションではなく実体験の認識されたものの言語記述という意味での物語であり、虚構ではなく実体であるというのが出発点にあると思う。このあたり、日本語でそれを明確に語る語をきちんと定めておかないと、無用の混乱が起きるような気がしてならない。

でも、脱却できない煩悩

 煩悩はどうもなかなか脱却できないものらしい。そのあたりの事に関して仏教的な理解からどのように考えるかに関して魚川さんは次のようにお書きである。
 実際、気づきの実践を行って、内面に生じる煩悩を自覚し、現象を観察し続けていても、確かに執着は薄くはなるが、根絶されるということはない。仏教の前 提に従えば、煩悩は過去無量の業の結果として生起しているものである以上、たかだか百年程度の一生の間、それを「堰き止め」つづけたところで、「煩悩の流 れ」が尽きてしまうことはないからである。いつまでも「道半ばです」と言い続けるのではなくて、「為されるべきことは為された」と言い切るためには、流れ を根絶させるための決定的な別の経験が、必要とされるということだ。(同書pp.135−136)
 この記事を読みながら、あぁ、やはり仏教というのは輪廻の世界を前提にしているのだ、ということはよくわかった。結局、輪廻の世界で号というものが相互に様々に連鎖しながら、動いている結果としての原罪があるので、煩悩は生じ続けるというあたり、なるほど、システマティックに考えるとそうなりそうだなぁ、という感じがしている。

 そしてそれを断ち切るたえに、あるいは、堰き止めるために、「為すべきことは為された」と認識して、それを主張するらしいのである。それが人間に果たしてできるかどうかは別として。

 亜流のキリスト教徒としてミーちゃんはーちゃんが思うのは、人間には、為すべきことが重すぎて為すべきことが人間にはできないので、この地に本来神である方が人間としての姿をとり、キリストあるいはメシアとしてわざわざやって来て、2000年前になすべきことである死後のいのちと復活があることを、自分自身の復活を通して示すということをやってしまったがために、そこに賭けることしかできないのだ、ということなのだろうとおもう。つまり、復活の存在であるナザレのイエスに仮託すること、それが信仰ではないか、と思う。自分自身が「なすべきことをなした」と思うのでもなく、主張するのでもなく、自分自身に代わってイエスが「為すべきことをなしちゃったもんね」ということを思うのがキリスト教の根本的な原理だと思うのだけど、違うかな。

まだまだ続く






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基本的人権とは何か

 世の中に、より高位(メタ概念)の公理系から導かないと、トートロジー(循環論法)担って、結局何も言っていないことになるという議論はいくつかある。典型的には、「人権」とか人間の「尊厳」とかいうものが、典型的にそのたぐいのものである。この辺りに関して、木原さんは次のようにお書きである。
 人間は特別な存在であり、人間にはあらかじめ備わった「尊厳」が在るからであると言うが、その尊厳とは何かがあいまいなのである。この人間の尊厳こそが、実は、自明のように言われる基本的人権の根拠である。これは、神聖にしておかしてはならない権利とも言われるが、なぜおかしてはならないのか、これもあいまいである。
(中略)
 この「尊厳」は憲法に於いても記載されているが、それが何かとあいまいにならざるを得ない。今日の社会福祉の規範、法律においても同様である。(『「弱さ」の向こうにあるもの』 pp.70-71)
 例えば、世の中の測定にまつわる度量衡に関する概念には、幅を利かせているものに、ポンド・ヤード法系とメートル系の二系統あるが、なんで、ポンド・ヤード系を選択するのか、その根拠は何か、と言われてそれは、実はそうであると決めたから、としか言いようがないのである。つまり、これがメタ概念である。つまり、ポンド・ヤード法からはどうこねくり回してもメートル系の体系には論理的に移行できないのである。移行するためには屁理屈というメタ概念を要する。


メタデータによるメタシステムの例
メタシステムは、いわゆるビッグデータとか、データベーススキーマと深い関係にある


メタデータとファイルの関係(日経ITProから転載)

 通貨の計数システムが12進60進であるのか、10進を用いるのかは、これも英やで決めるしかなく、クォータ(1/4)が日常言語でどの程度利用されるかによって、12進が便利か10進が便利かが決まる。クォータシステムが多用される英語圏では、12進の方が有利である。



クオーターシステムがとられているUS Map System

 これと同じように、メタ概念がなければ、メタの下位概念だけでは相互参照の世界になり、より高位のメタ概念に下位の概念からは移行できない仕組みとなっているとしか言いようがないのが、現実社会なのである。

 しかしながら、個別性が重視される世界では、このメタ概念がないという前提が暗黙に想定されるため、相対の議論に陥ってしまいメタ概念にすら到達できないという課題を持つことになる。

メタ概念がないとどうなるか
 メタ概念を導入するに失敗した事例が、木原さんの本には出てくる。なぜ、人を殺してはならないのか、という根源的な問いに対して、相対的な下位概念だけの論理をこねまわしても、結局トートロジーに陥るしかなかった大学教員の事例である。
 これは先のテレビ番組の某教授の論理形式や説明方法に問題があるのではなく、実は理路整然と歯切れのいい論理展開しようとすると、ある一定の仮説(前提)をもって来なければ明確に説明がつかず、無理に説明すると論理的には成り立たない話なのである。それは、動物や他の生物の中でも人間だけに特別に尊厳がある、という仮説(前提)である。(pp.72-73)
 もちろん、この背景には、対話相手との間に、メタ概念が存在するという共役部分があるかどうかが鍵概念になる。おそらく、このうまく説明ができなかった大学教員は、相手との間にメタ概念に関する一時的合意がないことを前提にせざるを得ず、その結果論理破たんを起こすトートロジーに陥ってしまったのだろうと思う。

人間の尊厳の起源としての聖書の概念
 人間の尊厳の起源は、人間同士の中からは出てこない。そういうことの中から出てこないから、人間が社会的な生産能力や社会への貢献だけではなられ、そういう生産性に寄与できない人や社会貢献できない人を評価できず、その結果、それらの人が社会の外側におかれる事が生まれるのではないだろうか。
 実際、人間の尊厳は、日本では明治以来から紹介されており、それを自明なものとして受け止めてきた。その際、「天賦」の原理、即ち聖書由来の原理である。人間の尊厳とは、普遍的な概念になり、社会福祉では法律の条文の根幹をなす用語にも登場するものとなっているが、そのもともとは聖書が起源であるといってよいのである。(p.73)
そうなると、障害者とか、病者とかは社会の重荷でしかなく、それらの人たちは尊厳がないかのように誤解されることになる。あるいは、社会の「平均的」でない人たち、飛び出した人たち、障害を持つ人々、奇人変人と呼ばれる人々や、セクマイと呼ばれる人たちや、ホームレスの人たちなどは、その尊厳すら脅かされかねないことになる。そのあたりのことを、一時期流行ったフォレスト・ガンプという映画はうまく描いていると思う。ガンピズムなんて言葉がありましたなぁ。今でいえば、このガンプ君、自閉症候群の可能性が高い。


フォレスト・ガンプの予告編
「ガンピズム」の画像検索結果
ガンピズム と題された本

聖書的人権論をめぐる欧米の理解
 Low and Order等のアメリカの裁判ドラマを見ていればわかることであるが、アメリカの場合、憲法に定められた人権というものが法曹界での基準となっている。それは、人間の間の法律論の世界の中で、前提になってしまっていて、そこは忘れられているのである。

 以下の動画で出てきているJack McCoyは一応アイルランド系の警官の息子で、カトリック信者であり、人権派で、過去学生運動にも積極的に関与してきた地方検事という設定となっている。



Low and Orderのワンシーン

 この動画で見られるように、ジャック・マコイ自体は、人権派の検察官であるという設定であり、人権は宗教問題と切り離し、あくまで法律の前提として考えているということになっている(あくまで設定上)。近時アメリカで同性婚が連邦裁判所で認められた、ということに関しても、他州で認められた同性婚に関して、同性婚を認めていない別の州政府が、他州でも止められた同性婚を否定することが憲法問題として争われたのである。他州が認めた同性婚者であるからと言って法の支配の観点から、社会から排除され得ないとしたのがその判決の意図である。この背景には、これらの同性婚者であっても法的には人権があり、 それを同性愛者であることを以て社会から排除するのは憲法修正第1条の観点から見て、適切でないという判断が下されただけである。同性婚の消極的容認で あって、同性婚を合法化する制度化が積極的に推進されていると誤解して騒いでいる人たちが居られるようである。それは筋が悪い議論である、と思う。

 ところで、この件に関しては、将に、木原さんが以下でお書きのとおりである。
 多くの日本人には意外に思えることであるが、人間の尊厳の根拠は、聖書に基づく前提に成り立っているものなのである。無論だからと言って現代の欧米人ですら、それほど日常的に意識しているものではない。(同書 p.74)
人権自体が前提になり、社会の前提として人権を想定することで、人権思想そのものを生み出した聖書理解から切り離されてしまったのである。そして、今回のように、同性婚をめぐる問題になったとき、聖書から導きだされた人権の問題が、同じく聖書が否定している同性愛の問題と正面でぶつかるから、国論を二分するかのような議論になるし、アメリカでは国を挙げてのから騒ぎとなるのである。

 しかし、この辺の部分を読みながら、N.T.ライト先輩の第2章冒頭の隠れた泉と水道の話しを思い出してしまった。ぜひ、『クリスチャンであるとは』もお求め下され。

人の尊厳に関するの聖書の根拠

 では、人間の尊厳に関する聖書的根拠はどこか、といえば、創世記の最初で人間がどのようにして人間になったか、という部分に帰着するしかない。
 「神である主は土地(アダマ)のちりで人(アダム)を形造り、その鼻にいのちを吹きこまれた。そこで人は生き物になった」(創世記2:7)という記載がある。先の説明と合わせて、人間の特殊性として、人間が土地からつくられ、神の「いのちの息」を吹きこまれて「生きものとなった」という特別な尊厳のある存在であると聖書に記されている。つまり、これもまた、神の尊厳が根拠となっているのである。(同書 p.76)
 人間の実に神の霊が吹き込まれ、いのちの息が吹き込まれたが故に人は人となり、人に唯一の尊厳が与えられている根拠になっているのである。

 しかし、このアダムの話を読むたびに、塩屋の神学校の大先生とキラキラネームに関してツィッター上で対話したことを思い出した。アダムというキラキラネームにどんな字をあてるか、である。
男でアダムも無理があるが、どうせなら、「土地」 とか「土」と書いて、アダムと読ませるのはありかも。
と書いたら、塩屋のオサレな先生からは
たぶん、ちょっと放送コードに引っかかるかも知れないけれども、土人アダムがもっともヘブル語にかなったキラキラ名か。
というお返事が来た。まぁ、しょせん我等は土人、土の人の末である。だからこそ、地理学は面白い(そこ持っていくかという突っ込みは御無用で御座る)。

 
おれたちひょうきん族のキャラクターだった『あだもちゃん』

 まだまだ続く。




評価:
木原 活信
いのちのことば社
¥ 1,728
(2015-07-08)
コメント:絶賛お勧め中である。



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 本日は、木原 活信著 いのちのことば社刊『「弱さ」の向こうにあるもの』をご紹介したい。今回で第3回目である。

コンパッションと小さくされたもの
 善きサマリア人の譬えからの部分で、木原さんは、次のように書いている。サマリア人とは誰なのか問題を考える際に極めて重要な視座を与える部分だと思う。
 つまり、このたとえ話は、嫌われ者で真の援助者になるには程遠いと思われたサマリア人だけが、逆説的であるが、苦しむ者の傍らに、ただ一人寄り添うことができたというストーリーである。(中略)ただ、「かわいそうに思って」(コンパッション −断腸の思いで共感、共苦して)近寄ってきたのである。祭司やレビ人と対照的である。
 この「かわいそう」と書かれた言葉は、ギリシャ語のスプランクニゾマイという特殊な用語で、相手の痛みに対して、自分のはらわたがよじれるほど、つまり自分の身体が痛むほどの強い反応を示すような表現である。聖書の中で、この表現はキーワードの一つである。(『「弱さ」の向こうにあるもの』p.46)
 この前の日本宣教学会の本田司祭の基調講演の内容(詳細はこちら 日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた )ではないが、ある面、善きサマリア人は、ユダヤ人から小さくされたものであったのであろう。勝利者として手を差し伸べるでもなく、成功者として手を差し伸べるとしてでもなく、やむにやまれず、手を差し伸べた感じではなかったか、と思われる。この弱さの中に、生きた人物がナザレのイエスでもあった。世間から打ち捨てられた人々、取税人や遊女と呼ばれた売春婦、サマリア人、羊飼いや遊牧民、病気の人々や重篤な皮膚病を抱えた人、物乞いや身体障碍者の人々と対話し、そして、挙句の果てに、「食いしん坊の大酒のみ」今でいえば「パーティピープル」とか「パーティフリーク」と揶揄された人であったのである。まぁ、その意味で下記の礼拝説教題の様な人々として当時のユダヤ人からは捉えられていたと思うのである。


ある教会の説教題

 主流派や成功者からは相手にされない群衆たちに対して、まさにかわいそうに思われたのが、ナザレのイエスであったのである。
新改訳聖書
マタイ 9:36 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

口語訳聖書
マタイ  9:36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
 上記二つの引用部分で新改訳聖書では「かわいそうに思われた」と訳出され、口語訳聖書では、「深くあわれまれた」と訳されている語がスプラングニゾマイ σπλαγχνίζομαι なのである。その意味で、イエスは、善きサマリア人のように、小さくされた人々であり、その小さくされたナザレのイエスが小さくされた人々とともに、生きることで、ここに神の国がやってきた、ということを示したのが、イエスが主張した、「あなた方のうちに神の国がある」宣言であったのだろうとは思う。

ウエメセ援助者とキリスト教会
 援助者としての教会や教会人と援助者の関係について、木原さんは次のように書いておられる。
 この「良きサマリヤ人」のたとえ話は、自分の正しさを示そうとして「私の隣人とはだれか」とイエスに質問した律法学者に語られたものである。「隣人とはだれか」と問うなら、自分を中心とした援助する側の枠組みでしか考える事が出来ない。しかしそれは、結果的に冷徹な傍観者と化してしまう。現代の教会やクリスチャンにも、何かこれと共通する点はないだろうか。その立場からは、援助される人、痛み苦しみなど、なかなか想像できない。自らを援助者と自負するものに、援助される側の真の苦しみを理解することはできにくい。(同書 p.47)
 明治期以降、日本のキリスト教は、海外の豊富な資源、豊かな神学的背景に依拠して伝道してきた。もちろん、明治期以降への日本の伝道者が全てそうだとは一般化して言う気もないし、そのつもりもないが、その一部やその精神性の中に、自分たちの持っているものがあまりに素晴らしいものなので、未開の東洋人(アメリカ人の目から見て)に憐れみの心で、それを是非とも分かち合いたい(分け与えたい)という思いがあり、文脈ガン無視の体系の中で、未開の東洋人に若干ウエメセで援助するという雰囲気になった人もあるだろうし、その感覚を持った人々もいたであろう。憐れみやかわいそうに思う、の意味が根本的に違うと思うが。

 NHKこころの時代で、先日再放送された筑豊田川で弱くされた、あるいは、小さくされた人々に長らく奉仕された犬養牧師の再放送で、犬養牧師自身が自分自身の伝道の方法論や態度の中に、この救済者の目があったことを素朴に認めておられた。一種のメサイアコンプレックスがあったことを認めておられた。

苦悩に向き合うことと安易に用いられる「がんばれ」
 個人的には、日本的な語感の中で用いられる「がんばれ」という言葉が大嫌いである。半分、時に未だに抑鬱症状が出るからかもしれないが、頑張れないものはがんばれないのであるし、頑張れという他人の意思に沿って生きることほど、つまらないものはない、と思っている。それで世の中が回らなければ、世の中が回らなければいいのであり、大体そういう時には、だれか困った人が勝手に言わなくても頑張ってくれちゃう、とあきらめてしまえば、かなり楽に生きられる。
 木原さんは、この辺のことを中島みゆきのJ-Popsを引用しながら、次のように書いておられる。
 シンガーソングライターの中島美由紀さんの楽曲の中でも異色の「ファイト」という一曲をご存知であろうか。この歌詞をよく吟味すれば、解釈が困難で、実に奇妙な詩であることに気づく。
 冒頭の歌詞の内容は、実話に基づく話だそうである。中島さんのラジオ深夜番組に”あの子は中卒だから仕事を任せられない”と言われた少女かあの悔しさに満ちた字で書かれた手紙が届いた。その日の放送で、中島さんはこの少女に「がんばりましょう、努力すれば道は開ける」というような、言ってみればありきたりの言葉をかけてその場を済ませていたという。しかし、その少女の本当の苦悩に向き合うこともせずに、きれいごとで済ませてしまっていたのではないかとの多いが、この歌の一つの通奏低音になっているようである。
 続く歌詞には、奇妙と思えるセリフが独白の様な形でつづられている。(同書 p.49)
 まぁ、中島みゆきさんの「ファイト!」は、こんな曲である。


中島みゆき ファイト

 大体中島みゆきの歌詞には、理解不能なものが多い(と思っている)。その昔、人生幸朗師匠が突っ込んでいる映像をテレビで見た記憶がある。その中でも、「責任者出て来い」といいたくなるような歌詞ではある。

 まぁ、歌詞の当否は別として、「がんばりましょう、努力すれば道は開ける」というのは、アメリカ型の反知性主義社会がもたらした負の側面である。この前提には、すべての人は等しく人権だけでなく、能力や才能や特性も同じであるという産業化時代、あるいは近代という時代が生んだもの、あるいは啓蒙思想の負の側面が含まれており、非常に反知性的な前提である。人はそれぞれ違う、という側面を無視しているため、逆上がりができない、したくない、その意味を理解できない人間に逆上がりをすることを強い、宗教的な理由でエビ・イカ・タコ・カニ・ポークが食べられない人間にもこれらを食することを強要する人々を生み出し、微積分学と全く無縁の生活を過ごす所謂文化人が、私は使ったことがないから、という理由のみでπ=3と全ての小学生に教えよと、ご主張になられる。そこまで言うなら、ネイピア数(e =2.71828....)も3にしてしまえばよい。実に反知性主義的なものも生み出した時代が近代であった、と思う。

 中学時代の教師が、「君たちには無限の可能性がある」とかいうことを卒業式付近に言っていたことがあるが、それは「君たちには無限の失敗の可能性がある」ということでもあるのだ。この成功するという方側面しか見ないこと、個人がその諸条件抜きに平等であるという悪しき前提を生んだのが、近代という時代であった。

 努力する機会すらない人に、まさにそれは失礼な話であるしそんな社会で生きることは、非常に劣悪な罰ゲームでしかない。

 しかし、ここで皆様にご質問したい。「神は人間に頑張れ、とのたもうであろうか?」と。

自己を愛しすぎる若者たち
自己が愛せない若者たち

 大学という現場にいると、まだ思春期の不安定さを引きずった学生たちに出会う。しかし、今の学生を見ていると意識高い系と呼ばれる自己肯定感、自己絶対感のある学生と、そうでない学生とに、ある程度分類できるような気がする。というか、中間層が減ったというべきか。

 中国人学生には、自己肯定感、自己絶対感のある学生が多く(例えば、プログラムが現実にできなくても、「プログラムはできます、簡単です」と言い放ち、ある程度できるのかと任せても、できておらず、できたとしてもプログラムのバグを指摘をしても、「これで問題ありません」とクライエントの意向と仕様をガン無視で言い放つ学生もいる)という例には、日本人学生の中でこのタイプの人々で出会う比率と比べると、5倍以上多い気がする。

 日本人学生の自尊心の低さを木原さんは次のように書いておられる。
 自己を大切にし、尊重することは人間にとって当然であり、その前提に立って、それと同様に他者を愛しなさい、ということなのである。
 だが改めてこの事を取り上げなければならないのは、その当然であるはずの前提が、今崩れてきていることを危惧しているからである。特に日本の若者の自尊心の低さの状況は深刻である。(同書p.53)
 意識高い系の人々のように自己を愛しすぎる学生、自己を大事にしすぎる学生は、それはそれでいろいろ珍妙な事件を起こしてくれるが、自己を大事にできない学生の方が、少し対応に困るし、対応のための時間はかなりかかる。まぁ、仕事なのでご対応はするが、かなり、手間をとられることは確かである。そして、本人は意図してないにせよ、違った意味で周りを振り回してくれるのである。大学に合格しても引きこもってしまう学生、論文を書けないと悩んでしまって一歩も進めなくなる学生など、カウンセリングの必要な学生がかなりの確率で発生するのである。これも大学が大衆化してしまった結果の一つであると思っているが。
 
意識高い系症候群

 最近、意識高い系の学生がいるという話を息子や娘から聞く。結構うっとうしいらしい。まぁ、学生を見てもこの手はうっとうしい。講義中正々堂々と、TOEIC600点攻略法とかいう本を読んでいて、意識高い系学生を演出しておられるので、こういう学生には、オヤジの実力を見せつけてやることにしている。なんかこんな本も出ているらしい。



 個人的には、ソーシャルメディアが発達してきてから、人とバーチャルにつながりやすくなって、この種の意識高い系症候群患者の皆様が増えてきたような気もするが、カルトではないかと噂が流れた、東京のどこぞにあった東京○○○○の教会は、この種の意識高い系患者の皆さんがたくさんおられたようである。そして、意識高い系症候群患者の皆さんで集まって、教会活動をしていたもようでもあり、最後の方は、意識だけが高く現実の処理能力が低いため、目が当てられない状態になったのではないか、と思っている。
 ある場合は、短絡的であるが、承認の量や数に自分の幸福感が直結していることがある。(中略)それ(Facebook)がなにゆえ多くの現代人の心をひくのかという理由の一つとして、承認要求というものがその背後にあるのではないか、と思っている。(中略)学生たちが言っているような、「いいね!」の数が気になって仕方がないということは実感できない。けれども、頻繁に利用している人の中にはそうなっている人が少なくないようである。また別のSNSのTwitter等では、自分の書き込みを定期的にチェックしているフォロワーの数が指標になったり、友達の数を競って「数友」という現象まで起きたりしているという。(同書 p.56)
 意識高い症候群患者の皆様の問題は、スイフトのガリバー旅行記のラピュタ人のような宙に浮いたことしか言わない、言えない人たちなので、構想力はあっても、結果的に実行力と実力が伴っていないので、生活が破たんしたり、計画が破たんしやすいという傾向を持っていることである。


天空の城ラピュタの原型のガリバー旅行記の挿絵

 こういう人への対応は、基本、皆さんご存知の『バルス祭り』をするに限る。しかし、ムスカ君は、結局意識高い系の原型なのね。昔は、こういう意識高い系のうっとうしい人たちを気障と当ててキザと読ませた。昔から意識高い系はうっとうしい、気に障る存在だったのである。


バルス祭りの模様


意識高い系にあるあるフレーズ

 個人的にFacebookやツィッターを使っているが、個人的には、広告宣伝のためのマーケティングツールだとしか思っていない。ピンポイントでピンポイントに必要な人への情報伝達ツールであると思って使っている。このブログは、その意味で、ピンポイントではない。ある面マスメディア的な広く浅くのメディアでしかないと思っている。まぁ、あと電子化しておくとだれかが予想外の単語検索で拾ってくれるので、一種の掲示板、ルターが贖宥状を張ったとされる大学の掲示板代わりの教会の扉の代わりだと思っている。ツイッターは、単語型のマスメディアの代替品だと思っている。

 しかし、Facebookはクローズドな世界で、かなり突っ込んだ議論ができるので、個人的にはバーチャルなディスカッションツールとして使う方がいいと思っている。

リアル世界での承認の代替品としてのヴァーチャル承認
 マズローが指摘するところによると、人間の基本的欲求(その順序は国や文化によって違うという批判はあるが)の一つに承認要求というのがある。この商人が現在は、SNSなどの存在によって代替されているのではないか、というあたりの事に関して次のように木原さんは書いておられる。
 承認は、人間の表面的な行為をはかるだけである。先にも述べたように、現代人の最も深刻な状況というのは、その人のなした「行為」(doing)ではなく、その人自身の「存在」(being)としてありのままの姿をそのままで受け入れっられ、愛される間隔が喪失されていることであると思えてならない。つまりその人の行為がもし認められなかったら、自分存在自体やその存在価値が危うくなってしまうことになる。これは深刻である。承認欲求の裏には、このような存在への承認とでもいうべき基本的信頼感が欠落している裏返しがあるのではないかと感じることがある。(同書 p.57)
 ここで触れておられるDoingとBeingとの概念の関連の深い概念として、八子さんが書いておられた記事を受け、Becomingという概念をふれた本ブログのブログ記事 Doing Being Becoming Creating そして Recreation  という記事で思うところを書いたことがある。

 ここで、木原さんは承認欲求の裏側に基本的信頼感の欠落の問題として書いておられるが、そもそもが、集団への帰属意識の希薄化とそれに伴うリアルな人間ベースでのソーシャルネットワークの衰退が背景にあるのだと思う。つまり、これらのサイバー空間上でのネットワークに依存する人々は、最後の希望の地 Last Resort として、このサイバー空間に依拠しているのかもしれない。リアル空間でこのソーシャルネットワークを形成できなかった人々なのだから。

 秋葉原で自動車で突っ込んで何人もの人々を傷つけた方も最後の希望の場は、教会でも、地域社会でも、仲間でもなく、ネットであったし、最近ドローン少年として知られることとなった中学生なども、要するにネットの動画配信が彼にとってのラストリゾート(最後の希望の地)であった可能性があるのである。



Last ResortというアメリカABCテレビのテレビドラマの予告編

 実に無益なことだと思うが、日本では、その個人が通過した、あるいは一時的に属する組織をあまりに過大評価する傾向を持つ人々が実は案外多いのではない か、と思う。学生の就職指導をしていて思うのだが、いわゆる一流企業を目指す学生が多いのである。そして、1回戦エントリーシート段階で、お祈りメールを 受け取ってしまい、そして、自信を無くす学生が多い。個人的には、経団連なんかと全く関係のない中小企業をまず選択し、協定を守る所がないところを受験 し、ある程度自信をつけておいてから、一流企業を目指す方がよい、と毎年繰り返し説明するので、最近は飽き飽きしている。

 大学入試でもそうで、大学の教育内容に関係なく、難易度ランキングや社会的評価だけを判断基準に大学が選択されているのである。それに何の意味があろうか。まぁ、大学人でも、この種のランキングで、おしり叩かれ、無意味な繁忙感だけが最近は続いている。

  いずれにせよ、会社と個人は内包関係ではあるが、等号関係ではないし、卒業大学と個人も内包関係ではあるが、等号関係でないのに、そのことが無視され、肩 書だけでものを語ろうとする人があまりに多く、看板倒れになっている方とお出会いすることも少なくない。そういう方とはお付き合いは避けている。

 大体出身校や所属組織で語ろうとする方ほど、案外その人に中身がないのである。その肩書きが外れたら、ぬれ落ち葉になっちゃう中高年のおっちゃんと同じではないか。企業をご卒業になられたら、大企業で、部長をしていようが役員をしていようが、関係なくなり、その人の内実が問われる点で同じである。このあたりの誤解が早く解けないか、と思うがなかなか解けないのだね。これが。

成功や業績と無縁の神の評価
 旧約聖書の神は、基本的に弱いもの、弱いものへと向いているのである。上智大学の

上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 前半

上智大学公開講座 「カインはなぜアベルを殺すのか」参加記 後半

でも触れていると思うが、旧約聖書のYHWHは、弱いものへと降りてくる神なのである。そもそも、アカンたれの小さいものと呼ばれるイスラエルという民族を選び、ダビデという末息子を選び、見映えの良かったサウルを人格崩壊させ退け、自国民中心主義自国民のみ繁栄主義をとるのではなく、トーラー(律法)において、その民の中にいる在留異国人を保護させ、やもめの保護規定を置くという神でもある。

 新約においても、ナザレのイエスは、人々が相手にしなかった反ユダヤ社会的勢力の一員であった人々、つまり、取税人や犯罪者、サマリヤ人やカナン人のところにイエスは行っているのである。その意味で、スコット・マクナイト先輩やN.T.ライト先輩がご指摘のように、旧約聖書とナザレのイエスに至る一本の連続体が聖書には存在するようである。
ここで大切な事は、人間の承認要求は、成功や業績という結果である行為を基準にすると、時として不充足感にさいなまれたり、結果的に果てしなく満たされない空虚感となってしまうことがあるということである。(中略)ところが神のまなざしは常に正確であり、不変である。しかも重要なことは、それは人間の行為ではなく、存在そのものに向けられるという点である。つまり成功しようがしまいが、その存在beingに対して、「尊い」と承認してくれるのである。(同書 p.67)
 繁栄の神学が個人的に嫌いであることは、これまで述べ続けてきた。それは、基本的に旧約聖書から連綿として続く神の正確と一致しないというか、そのある一部分だけを取り上げ、ものすごくバランスの悪い、人間よりの評価を重視する、世俗的な成功や豊かさを求め、それをもとに他者を評価し、そして、信徒を突き動かす性質を持ち、そして、本来人間を開放すべき福音が教会の公同パターンに閉じ込める呪いのようなものに変わるからである。

 このような囚われ人に開放を告げ知らせるはずの福音が、福音で無くなるのはどうかと思うし、すべての被造物の存在そのものが存在することに対して、「見よ、これらのものは良かった」と言い給いし神のイメージとは、繁栄の神学とその影響下にある人々が指し示しておられる神とはずいぶん違うかもしれない、と思うのである。

まだまだ続く。




評価:
木原 活信
いのちのことば社
¥ 1,728
(2015-07-08)
コメント:お勧めしている。

評価:
スコット・マクナイト
キリスト新聞社
¥ 2,160
(2013-06-25)
コメント:イスラエルから現代に至る一貫した神の性質に関して書かれていて、本来の福音とは何かと考える手がかりになる書物

 
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 本日も、また工藤信夫著 真実の福音を求めて から引き続きご紹介したい。本日は第7章「いくつかの提言」から後半についてである。

牧師のいくつかのタイプ

 牧師のタイプということで、いくつかのタイプがあることを工藤さんは、藤木正三著 『生かされて生きる』(いのちのことば社刊)から次のような引用をしておられる。現物がないので、以下はミーちゃんはーちゃんによる孫引きである。

 職人型と言うのは、職業としての牧師に迷いがなく、伝道、教会のプロとして教会にかかわることに誇りと責任を持っていてい、きちんと処理していく、信徒の側から言うと、一番安心してついて行けるタイプです。
 学者型と言うのは、信仰を相対的・理性的に批判しうる思考の幅を持ちながら、神学的にしっかり信仰を理解して、教会を導くタイプ。信徒の側から言うと勉強させられながらついて行くタイプです。この二つのタイプは両立します。
 芸術家型というのは、信仰に迷いが在り、牧師である事にも迷いが在り、それを告白する場として教会を生きているタイプ。信徒の側から言うと、信じるというよりは、生きることを考えさせられて、生かされている存在としての自分に深まって行くことを促されるタイプです(藤木著『生かされて生きる』pp.52-53 『真実の福音を求めて』pp.105-106)
 昔のキリスト教関係者には、植村正久にしても、賀川豊彦にしても、中田重治にしても、どちらかというと、親分肌というか、職人型のタイプが結構多いような気がする。その意味で、腕まくりしながら演説ぶっているというか、説教ガンガンやっているという雰囲気がある。まぁ、当時の時代背景から考えて、学生や失業者など暇を持てあましている大量の人々がいたので、こういう説教パターンは案外受けたのかもしれない。まぁ、この時代の説教パターンが結構いまだに残っている教会もあるかもしれない。なお、賀川豊彦先輩は、学者肌でありながらも職人肌の部分もある程度強いと思う。


植村正久先輩

中田重治先輩

賀川豊彦先輩

 この時代の説教者のうち内村鑑三は、学者肌でありながら、芸術家肌である様な気がする。このタイプの説教者を何人か存じ上げているが、これらの方々は、非常にナイーブなちょっと線が細い方が多いような気がする。そういう牧師さんたちの説教はなかなか魅力的なものがある。

 ミーちゃんはーちゃんは牧師ではないが、説教は時々するので、その意味で、完全にキリスト者としては学者型の人間であるといってよいだろう。まぁ、世俗の仕事が一応学者の端くれでもあるので、そうである可能性が高い。

 この辺の牧会者の分類は議論の前提でもあるので、ここに関しては、あぁ、何となくそうかなぁ、と思う、にとどめたい。

疎外問題が起きやすいタイプ

 工藤さんが述べておられる一種の教会内疎外の様な課題を抱えることが多いタイプの牧会者とはどのような人々であろうか。
 さて、このように三つに分けた場合、学者タイプや芸術家タイプの教会では本書が問題にしているような表だった疎外は比較的少ないのではないかと思われる。(『真実の福音を求めて』p.106)

 『真実の福音を求めて』の著者が問題にしているような親分肌、職人気質だと、問題を生むというのは、わかる気がする。基本、親分肌・職人肌のリーダーで有名な人物だと、立志伝中の人物でもあることも多く、創業期の本田宗一郎氏などのように一代で後の大規模な組織を形成するような人物であるから、まぁ、めちゃくちゃな部分はある。気に入らないことがあると、すぐげんこつが出るというか、スパナ持って社員を追い回したりとかである。ある面道理ではないから、困るのだ。牧会者が職人肌だとだめだとは言わない。しかし、職人肌だと、パッションが優先するので、学者肌のように話し合いができない人もいたりはするので、あわない人が出てくるのも確かではある。


学者肌の司牧の問題

 ただ、学者肌の司牧の問題は、感情的な対立ではなく、神学上や学問上、聖書理解の問題となりやすいことを次のような文章でご指摘である。
 学者タイプの教会には、教義をめぐっての論争、分裂が怒るかもしれないが、対人関係のトラブルは少ないかもしれない。というのは、っこういうタイプの牧師の関心は学問におかれているため、人間に対する関心は二義的なものになるかもしれないからである。(中略)と言ってもこのタイプの教会は、正論やその正統性をめぐっての議論に発展すれば、その内実たるや寒々としたものになる恐れがある。トゥルニエは『生の冒険』(ヨルダン社)の中で「神の名において語ると称する人々の争いほどしつこいものはない」と明言している(同書 p.223)
 これにはミーちゃんはーちゃんとしても多々思い当たる節がある。というのは、学者肌の人間にとって、いい加減なことを言われること、本当に理解していない可能性がある方が思い付きやその場でなんの深い考えもなく、物を言う人のその一時しのぎのような、あるいは深い理解に基づかない安易な発言に我慢できないのだ。普段、自分自身が、深く思いを巡らせていることがぞんざいに扱われたような気がして、それに耐えられないので、言わなきゃいいのに、言ってしまいたくなる、のではある。このことから、正統性を巡る議論に発展しやすく、そして、「内実たるや寒々としたものになる」という議論をやってしまうのである。

 学問の世界は、この理解を巡る研ぎ澄まされた刃でチャンチャンバラバラのチャンバラをやる世界であることが多く(特に欧米系ではそうである 朝まで生○○なんてのはおままごとに見える世界であり、レベルが低く見えてしまう世界であり、素人が手出しすると怪我しかねないのだが)、つい遠慮会釈なくそのチャンバラの技術をお見せしてしまうのである。そして、議論の切れをよせばいいのについ見せてしまうのである。つい本気が出てしまうのである。まぁ、それは学者としての善意でもある。

 そのあたりは、映画『大いなる陰謀』で、ロバート・レッドフォード扮する大学人とあほなお気楽脳天気な学生の対話などによく表れている。大学人の悪い癖は、自分の興味ある関心はやたらと詳しいが、それ以外はどうでもいい、と思っているところである。その辺が非常につらいところではある。


映画 大いなる陰謀 予告編

職人肌の牧師の問題
 職人肌の問題は、ある面で、教会に関与することをこまかなことまで、一生懸命やって、そして、教会運営を大事にしておられるように思われる。ところがこの熱心さや個のかかわりが案外問題を生むのではないか、と工藤先生はお書きである。
 問題は、職人タイプの牧師である。『生かされて生きる』に出ているような、「職業としての牧師に迷いがなく、伝道、教会のプロとして教会にかかわることに誇りと責任を持っていて、きちんと処理していく、信徒の側から言うと、一番安心してついて行ける」と言えば聞こえはいいが、実際は経営者であり、信徒管理、教会運営とい言う大きな問題をうちにはらんでいる。
 その一つは、牧会という名の干渉である。私がこのことに気づいたのには、二つの忘れがたいエピソードがある。(『真実の福音を求めて』p.107)
 なんでも皆さんのためにやってしまう司牧は、ある面、信徒の成長の機会と自由を奪ってしまい、信徒を依存体質にもっていく部分はあるかもしれないと思う。ある面、神に信頼して生きるという信徒の冒険の機会を奪ってしまうのではないか、と思うのである。

 ここで、経営者的要素、信徒管理、教会運営という語が牧会という語の代わりに出てくる。イエスは、少なくとも群衆を相手にしたし、その管理なんかは全く意に介さず、あまりに長時間一緒にいるのを見て、あぁ、この人たちはおなかがすいているので、弟子たちに何か食べさせてやりなさい、という程度のまぁ、ある面無神経男的な発言が結構見られる。そして、だれが来ているのか、だれが来ていないのか、ということもああ力にしていなかったように思う。まぁ、神であるがゆえに、それくらいのことはやろうと思えばできたはずだし、いとも容易に人ひとりに注目をなされていたとは思うが、そんなことはおくびにお出さず、過ごしておられる姿のように、福音書の中で示されたイエスを見ていると思えてしまう。子どもが泣いていても、騒いでいても、それを見て怒るでもなく、子供たちを追い出そうとした弟子たちに、「それって、どうなの?」とニコニコ笑いながら言っておられるような雰囲気がある。

 ここで引用した部分の最後の部分の続きに実に印象的なエピソードがあるのだが、それは、是非、『真実の福音を求めて』をお買い上げいただき、ご清覧頂けたら、と思う。ぜひそうされることをお勧めいたします。

まだまだ続く




 
評価:
工藤 信夫
いのちのことば社
¥ 1,296
(2015-06-05)
コメント:大絶賛、おすすめしておる。


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 『富士山とシナイ山』学ぶシリーズは本ブログの最長連載記録を更新が確実となっている中となっているが、今日は久しぶりに、小山晃佑 著『富士山とシナイ山』の17章「神とバアルの間をよろめきつつ踊る」から引用しながら考えたい。過去記事をご覧になりたい方は、コチラ からどうぞ。

中国圏における世界観
 中国文化圏では、陰陽理解がかなり支配的であり、日本でもこの陰陽概念はいろいろなところで修験している。そして、日本では、陰陽に加えて、吉凶ということが言われる。


陰陽を示す記号

 吉凶は、おみくじに見られるように占いと密接に結びついている。しかし、このような陰陽にせよ、吉凶という概念は割と聖書の中の概念とは違っていて、聖書の中の概念の中では、こういう吉凶が順繰りに回ってくるという概念はあまりない。むしろ歴史を通して神の介在があるという概念が支配しているような気がする。そのあたりの事に関して、小山先輩は次のようにおっしゃっておられる。
 古代の中国人は山岳の日が射す斜面と影の斜面を観察して、自然のうちに存在の全体性を構成する相対立する陰陽のリアリティの象徴を見た。彼らの全体性の認識は宇宙生成論的である。古代日本人は幸運な時と不運な時とが交互に来ることに気づいて、吉と凶の哲学を案出し、全体性への同様な関心を表現した。あたかも時に陽面と陰面があることを見定めたかのように。何らかの超歴史的見地から歴史を考察すると、救済を象徴する、包括的全体のうちにリアリティを包み込みある全体性を看取しうるというのは魅力的な思想である。しかし、実を言うと、歴史は宇宙生成論的イメージでは伝達しえないほど、はるかに複雑なものである。言うなれば歴史は、我々がその中にあって何が善で何が悪か、どの神が真の神で、どの神が偽りの神かを知るために努力してやまない「問題的時間」である。(富士山とシナイ山 p.313)
 ここで小山先輩がご指摘の歴史性は線形的、あるいは非線形であっても進化論的な概念や繰り返し概念、宇宙が勝手に自動的に生成するというようなものではなく、もっとダイナミックなものである、とご指摘である。

 農業者の方とお付き合いしていて思うことだが、ミーちゃんはーちゃんのように産業的、工業的というよりはサービス業的な外部要因からのある程度きり離され、安定した生活だと、生活の変動要因というのは限られる。しかし、農業者の皆様は、雨が降れば雨が降ったで、圃場の水位の上昇や河川の増水、日照不足やそれに伴う病気の発生を心配しないといけないし、晴れれば晴れたで農業用水が整備されているとはいえ、水不足を心配しないといけない。実に悩ましい事業に冒険的に取り組んでおられるし、それを見ると本当に頭が下がる。農産物価格の事を考えると。



ある農事法人のお手伝いをしているときの写真
井関農機の6条植えの強力マシン


ミーちゃんはーちゃんが出没し、お付き合いいただいている農業者の方の作業風景
三菱農機の6条植え 肥料散布装置付きの強力マシン

 こういう自分の力だけでなんともならない世界で生きていると、その分、自分の力など実に小さく、自分の力を超えた超越者、神であらわされるものに自分の生命と生活が依存していることを強く感じる。そして、その生命が超越者、神に依存している以上、その神が真実でなければとんでもない目に合うので、その見極めは真剣なものとなる。その意味で、歴史においてその真実性が試されているといっても過言でないのであろう。

聖書の言う天と地
 ここの所、N.T.ライト読書会で、あめんどうから出版された『クリスチャンであるとは』で、天と地の関係をどう考えるか、ということのディスカッションがかなり活発におこなわれているのだが、此の天と地、案外日本では、従来の日本語の語感での「天地」概念で理解されているような気がするが、実は聖書の天と地というのは、かなり別な概念であると思う。そのことについて小山先生は次のように書いておられる。
 しかし「天地を創造された主」から受け取る助けと「天地」から受け取る助けとを分つ線をどのように引けばよいのか。こうした微妙な区別がどうしてこれほど重要なのであろうか。(中略)「あなたの神、主の名を濫りに唱えてはならない」とある。もしもこの戒めがすべての文化と宗教に属する人々にとっての普遍的妥当性を持つとすれば、汎神論的な自然志向的文化に暮らす人々にとって、それはどのような意味をもつであろうか。(同書 p.314)
 N.T.ライト先輩によれば、天とは、地と一体で噛み合っていながら、地に関する様々なことに、ある程度地における現象を受け止めながら、地と協調しながら動いているという感じらしい。N.T.ライト先輩によれば、天は社長室のようなものらしい。そのあたりの講演の概要はこちら NTライト Kansasで語る(1)  から。

 しかし、日本の伝統社会のような、あるいは神道的な汎神論的自然志向文化の中にあって、何でも神にしてしまう社会(本ブログでも、日銀券と神と聖書的のインフレについて でもこのことに触れている)の中で、この「あなたの神、主の名を濫りに唱えてはならない」はガン無視されているし、人間に権威性を持たせる傾向は無くなっていないと思う。

天と地が噛み合うってのはこういう絵柄ではない


悟らない聖書の神?

 古代仏教や、ミャンマーで瞑想をしている魚川さんの「仏教思想のゼロポイント」(仏教との対話  シリーズで触れている)では、基本、ニルヴァーナに達し、解脱することが仏教思想のキモであるらしい。それは、すべての情念から解放されるということであるが、それは聖書の神と逆方向であることは、仏教との対話 シリーズで述べているところである。
第4部のテーマは、ホセア書11章8節「わが心激しく動かされ、憐れみこみあげて断腸の思い」(My mind is turning over inside me, My emotion〔emotionと訳されたヘブライ語ニフムは「憐れみ」を意味する。〕  agitated all together. アンカー注解付き英訳聖書)から取られた。「これは神の心理」についてのもっとも痛切な記述である。出エジプト記の言語ではこの紙は、すでにみたように(20章5節)、「熱情的な神」と呼ばれている。エイブラハム・へッシェルの用語を用いればパトスの神である。とは言え、時に憐れみが込み上げて胸が焼かれるような神はニルヴァーナ志向の民族にとって理想的な神ではない。かつてタイ仏教僧から教えられたところによると、かような神は仏教寺院で修業しなければならないそうだ。心が激しく動かされることは反ニルヴァーナ的価値であるがゆえに、克服されなければならない。(同書 pp.314-315)
 しかし、このあたりのことをきちんとご指摘になられるのは、古代仏教が割とそのままの形で残っているタイや東南アジアで長らく神の言葉を伝えようとされた小山先生ならではのご指摘である。激情の神、パトスの神は、仏教寺院で瞑想して修行しないといけないと、確かに言いそうな気がする。しかし、その情熱や激情こそが全ての被造物を創造し、その激情の中で「よかった(良かった、善かった、美しかった、好ましかった)」と創造の日々ごとに言い給う神であると思う。その激情ゆえに、イエスをこの地に下し、その激情ゆえに、神の霊(聖霊)を我らに与え給う神であるのだろうと思う。人間的な怒りとか、愛とかで表現できるものを超えたところの激情にあふれるお方、それが神であると思う。

あれかこれかの神となんでも受け入れちゃう人々

 日本人のかなりの部分は歴史観がないのではないか、ということが言われる。つまり、近代の歴史はおろか、近世の歴史も、我が国の他国の歴史も、その全体像を見ることなくその歴史の一部が部分的に取り込まれ、その一部に関して近視眼的に議論される傾向がある。歴史地震の文脈を割と無視する形で。この焦点化した議論というのは、議論の拡大を防ぐという点でメリットはあるのだが、歴史的な文脈からその焦点となった問題が切り離されてしまい、その意味とか後への影響とかが全く無視され近視眼的な議論が行われる傾向があるような気がする。これは、案外日本の神概念とか、歴史概念、歴史において働く神概念と多少は関係があるかもしれないと思う。その辺、山本七平氏が書いていたような気がする。

 歴史の複雑さとあいまいさとは、山の日当たりのよい斜面と影の斜面の宇宙生成論的イメージが解決できないほど強烈かつ深遠である。再び言うが、歴史は魅惑的な吉と凶の交代に応じて信仰することはない。日本の歴史理論は歴史のリアリティの前で挫折する。有名な申命記の選択、あれかこれかは歴史の畏怖すべき神秘を具体的かつ力強く表現している。
 私は今日・・・・あなたたちの前に生と死、祝福と呪いをおく。それゆえあなたはいのちを選択し、あなたと子孫が生きながらえることができるようにしなさい。(申命記30章19節)
もし、我々がしたいことをせず、宇宙生成論的全体性が我々の助けにならないのだとしたら、一体どこに行けばよいのか。しかしまず問おう、なぜ神はわれれわれの前に声明と祝福のみを置かなかったのか、と。なぜ神は生命とし、祝福と呪いをおいたのであろうか。16世紀の日本人がザビエルの福音を聞いた時、彼らを苦しめた問いはこれではなかったであろうか。またなぜ我々は生と死のどちらかを選択しなければならないのであろうか。「ゴッド」という英語が意味するものが果たして「それゆえ生命を選べ」でありえようか。
 なぜ我々は先に引用した申命記の言葉に述べられたような状況にみずからが置かれていることに気づくのであろうか。またなぜわれわれは「それゆえ生命を選べ」という命令を聞き、この混乱させる歴史において命令に従おうと試みるのであろうか。これは我々の理解力を絶する神秘ではあるが、歴史を我々が経験しているような歴史にしているのはまさしくこの神秘なのである。われわれの知る歴史は常に生命と死、祝福と呪いを有している。(同書 pp.315-316)
 日本のどうも古事記あたりにある神概念は、呪いというよりはむしろ現実的な世界において、悪事を働く神であり、悪事を働かないように、つまり吉凶の凶をもたらさないようにお祀りしているのが日本の祭りであると思う。吉から凶の連続体の中から、そのどれかを与える神であるから、この両極端のいずれかを選択せよという神、あるいは2極化された議論をする神という神との付き合いは案外薄いため、16世紀の日本人は、ザビエルが述べようとした「福音」にビビりあがったのだろうと思う。それは、何ら解放をもたらすものではなかったからである。もともと、このような呪いや凶を含めて、丸呑みするかのようにそのまま受け止める性質を持つ人々にとっては、どちらかを選べというような暑苦しいのは苦手なのだろう。

 生命はある面、必ず終わりを自然に迎える人々にとって、その命令に従おうというのは、実はかなり困難なことであるが、N.T.ライト先輩の言うように、天(神の支配)は地(人間とその他のものの支配)と一体となって動いている世界で理解すれば、神の神秘、ミュステリオンの中で、その神の支配を重視するのか、その支配を認めて生きるのか、そうではないのか、ということと、こういう自然のリズムあるいは他者に支配されることを何とも思わない日本人にとって、何から、あるいはどんなしがらみから解放されることが福音なのであろうか、ということをもう少し日本人にわかる言葉で説く必要があるのではないか、と思う。

 個人的には、他者から支配されることからの開放、そのことにおける自由度を得、主体的に生きることができる、ということが『福音」だと思っている。

 まだまだ続く。



評価:
小山 晃佑
教文館
¥ 4,104
(2014-09-12)
コメント:お勧めしている。


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 前回に引き続き、大阪で行われたN.T.ライトを自由に語る会の速記録を公開したい。速記録であるし、当日Ministry編集長からの写真撮影を、というご依頼が入ったので、急遽手持ちのiPhoneで撮影しながらの記録なので、抜け、落ち、ご本人の発言の意図と違う部分が多分にあると思うが、そこら辺りは、ご容赦賜りたい。

ではどうぞ


来会者
 福音と世界 2014年11月号の山口さんの論文で、自分自身の聖書理解、特に譬えの理解が変わった。

上沼先生から
 聖書理解を変える可能性があるというのは重要だと思うし、しかし、現段階で山口さんの福音と世界を読んでいないので何とも申しあげかねるが、今ご要約いただいたことをお聞きする限り、ライトの主張に近いように思う。

来会者 義認論をどう考えていけばいいのだろうか

上沼先生から
 義認論だけをやっていたらMe and My Salvationにしかならなくなるのではないか。そうなると、牧会的なケアが重要になり、それだけだけで牧師は参っちゃうことにならないか。そう言う環境を作ってしまったのは、神学校であり、牧師ではないか。信徒の心のケアだけを目指してしまうことになる。

パウロが議論した相手

 パウロが相手にしたのはストア派とエピキュロス派であり、両者とも魂の救いを問題にしている。そのギリシア哲学がキリスト教の中に入ってきたのだが、ライトはそれを取り戻そうとし、使徒時代の信仰ということをどう考えるのか、ということを考えている。アウグスティヌスの中にも、これらのギリシア哲学の影響が明らかにある。キリスト教がギリシア哲学の答えを出したと、ニーチェはそれを見抜いている。

 キリスト教は、民衆のためのプラトニズムであるといい、プラトニズムの答えがキリスト教となっており、それはキリスト教ではない、とニーチェは見抜いていたようである。民衆が求めた魂の平安、安寧をキリスト教として提示したにすぎない、とニーチェは理解しているようである。

キリストの信実(ピスティス・クリストゥ)

 パウロは、イスラエルの不信仰や不信実とイエス・キリストあるいは神の信実を対比させているし現在の日本語聖書翻訳でもその方向で動くと聞いている。

 (ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ 日本聖書協会もそっちの動向で動くらしいと聞いています。こないだの大阪であった日本聖書協会の講演会でも、そんなことを言っていました。)

大阪で行われた聖書協会の講演中のスライドの一枚


 となると、神の信実や義をどう考えるか問題になってくるだろう。Faith of Jesusを属格で取って、イエスを信じる信仰とやくすのか、イエスの信実と訳すのかでだいぶん変わってくる。ピリピ書2章におけるキリストの謙卑をどう考えるか辺りがポイントになるのではないだろうか。

ライトの言う救い

 ところで、NTライトはSalvationを使わない。Rescueという語を使う。奴隷状態からの開放であり、Rescue Operation 救出作戦という概念で福音を説明しようとするところがある。
 個人の救いの位置づけをどう考えるか?個人のレスキューの目標として定めるべきところは、どこかというと、それは神の国であり、御国に行くのではなく、御国の方からやって来るという概念でとらえているのではないか。

 ライトは、魂の平安のためだけでないものでなければキリスト教は本来的に回復しないのではないかと考えているようである。特に、ギリシア哲学の世界で重要視された平常心(Apatheia)とヘブライ語のShalomeの取違が起きたようである。そうなると、どこを目標として歩んでいるのかが混乱しているのではないか。この結果、西洋のキリスト教はダメになってしまう、といっているのではないか。

私の祝福を求めてきたこれまでのキリスト教
 聖書が言う内容として、N.T.ライトが提案しているのは、ミッションがはっきりしていれば自分の人生はどうでもいい、という主張のようにも思える。私の祝福が目的でなく、神の御業に関与していくことであると理解している。従来のキリスト教は、私の祝福を求めていたと言えよう。その縁で、ナチスはみんな安全だろうと思って、ドイツの多くの人たちはそちらの方に流れてしまったのではないか。

支配する、治めるとは?

 ここで、支配する・治めるということに関して考えていきたい。支配することが求められる、ということはどういうことだろうか。王としての役割の中に支配すること(ケアすること)が含まれている。王なる祭司という概念が、出エジプト記の中に繰り返される祭司の王国、聖なる国民という概念は非常に重要である。王なる祭司、祭司からなる王国、祭司として地を治めるというイメージが出エジプト記の中に出てくる。つまり、キリスト者はユダヤ人と同様、選ばれた種族、王なる祭司としての性格を持つことになり、このRoyal Priesthoodとなる。キリスト者の責任が重要になろう。王であり、祭司であるということは、神の礼拝の場を治める、整えるという役割が出てくると言えよう。

 After You believeという本は、三部作の最後の本があるが、この中で、どのようにキリスト者として生きるべきか、という話が出ている。ここまで、整理しているところがN.T.ライトの奥深さというか、すごみといえるのではないか。

 牧会の中でさまざまな状況の中で直面した中で判断したこと それが治めるということの責任の一部であろう。イエスをすべてのものがほめる場を整え、そこで行われることが礼拝であるし、その礼拝が行われる場が、教会ではないだろうか。

ユダヤ世界とキリスト教

 アブラハムに対して、あなたを通してすべての人が祝福されるため、といっているが。全世界、すべての国民に広がっているはずである。

 ところで、教会は反ユダヤだったり、自分たちの中にある異質な人々に対して異端という理解を作ったり、キリストが十字架ですべてを棄てたように、様々な概念を棄てないとだめでないのだろうか。その意味で、N.T.ライトが考えるこれからのキリスト教は、同じ次元にあることを前提としたパーソナルな世界を予期しているのではないだろうか?

会場から

 日本には他宗教があり、その他宗教との関係を考えないとまずいかもしれないし、また、それらの他宗教では、既に善行と称される社会への貢献活動が行われており、これらとの関係はどうだろうか。あるいは、他の唯一神の信仰と、対話を試みているのではないか。

上沼さんから
 唯一神信仰者としての責任がある、とライトは思っており、地をよりよいものとする、その善行がキリスト教の本体ではないだろう。『クリスチャンであるとは』の冒頭の第1部の中にある、ある声に響いているという点で、聞いているところではあるだろうが、それに目を向けすぎてはならないかもしれない。

N.T.ライト教?ないない

 N.T.ライトはライト教を作り出そうと思っていないし、それはN.T.ライトが最も嫌うことであるし、避け続けていることである。聖書が主張している世界を提示してそれぞれの教派がそれぞれの立場で、聖書理解を豊かにすることを主張しているようである。

 ある方が『クリスチャンであるとは』を読んで、自分の中のフレームでありながら、それに気が付かないところがあった、という指摘があった。(その感想は、こちらから)

 このようにN.T.ライトを読んでいくと、自分の中にあるフレームが壊されていく部分があるのではないか。

会場から
 福音派は、路傍伝道動で、人が通り過ぎる間に神の福音を語れるように、神の世界を簡略化してしまったのではないか。それが行き着いた先が「四つの法則」ではないだろうか。

上沼先生から

 After You believeで、信仰・希望・愛のみ、キリストのみでないキリスト教のあり方をきちんと説明しようとしている気がするが、なかなか、この本を訳せるか、出版できるか、という問題がある。

 この『クリスチャンであるとは』の本の中身は、牧師の方よりも、信徒の方がわかるかもしれない。ある所で、牧師さんはなかなか理解されていなかったが、この本を読まれた、奥さんの方がわかるとおっしゃっておられた事例もあった。世の中の知的な人の方がわかるかもしれない。  

会場から 
 ライトは、美という概念などを取り上げているようだが。

上沼先生から
 確かにそれは重要な部分であるが、それだけではうまくいかないことをライトはきちんと書いているように思う。

会場から
 理神論的な理解でこれまでキリスト者として生きてたことを想わされていた。神が近くにいる『クリスチャンであるとは』を読んでそのような感じがした。

上沼先生から
 『クリスチャンであるとは』p.280には、信ずることと愛することという部分があり、川と木のメタファーがある。そこで、木であっても、一粒の種から始まる、とされている。エデンの園と新しいイエルサレム、そして、教会と結び付けられたら聖書の読みが変わってくるのではないか。

 また、同書 p.200の最期の段落で、イエスを通してより真の人間になるように命じられている、と指摘しており、そのように生きることが、神のかたちを反映させることになる、真の人間Genuine Humanであることが、救済の目的であるし、キリスト教の目的と考えた良いだろう。

会場から
 それでは、日本の社会でどう説明したらいいのか。

上沼先生から
 ケアすることが王であり祭司であるものの役割ではないだろうか。不完全であっても、自分の中で責任を果たそうとすること、不信実であっても、神の栄光を反映させた姿を見せることができるかもしれない。神と共に生きるという意味で、真の人間として生きることを示すことができるかもしれない。

 農業とか、製造業などでも、神の栄光を示すことができるのではないか。外から見ていて教会やキリスト教も魅力ないと映っているのではないか。そして、過去の悲惨なことに、多くの教会が加担してきた。その中で、信頼をもう一度回復するのが大変である。迫害されているときにこそ真の姿を見せてきたのではないか。これまで日本では、外見上きれいなキリスト教を作っていたが、内実は問題が多い。どうしたらヨーロッパでもう一度キリスト教を取り戻すことができるだろうか。

会場から 
 人々が魅力を感じるような魅力を意識し、それで伝道が行われてきたのだが。

上沼さんから
 伝道と礼拝は一つであろう。教会の存在そのものや、それが宣教につながっているのではないだろうか。


感想
 しかし、1時半からギリギリ4時を少し回る時間まで、10分の休憩を挟んで2時間半以上にわたる非常に濃密な時間が流れた感じであった。まぁ、現在、重篤なN.T.ライト病の患者をしている(N.T.ライト教の教徒でないことは、批判的に見ている部分もあるので、そうではないとは思っているが)ものとしては、非常に面白い時間であった。

 今回改めて気付かされたことに、N.T.ライトの天(神の国とほぼ同義)と地とがこの地の上で重なり合っている、という意味の大きさと、キリスト教と反ユダヤ主義の深いかかわりとその黒歴史事案である。

 アメリカのネオナチともかなり重なる白人至上主義型キリスト教徒の人々、目出し穴の付いた白いシーツでコスプレするKKKの人々や、ドイツのナチなんかとキリスト京都は実は深いところでつながっている。なんせ、ナチスを応援したキリスト教神学者が掃いて捨てるほどいたのである。そのあたりは、『第三帝国と宗教 ヒットラーを支持した神学者たち』 に詳しい。この辺の黒歴史は、きちんとキリスト教徒は知っておいた方が良いかもしれない。陰謀論者になる必要はないけどね。なお、同署に関しての記事は、こちら ナチズムと聖書理解の関係を知るために から。

 また、反ユダヤ主義が案外割とキリスト教が始まって以来の事という認識もなかったが、よく考えてみたら、ローマ社会の中に定着していく中で、ローマ帝国に 言うことを聞かない、聞く気もない、神政政治(Theocracy)を意識しているユダヤ教徒とは違うのだ、ということをユダヤ会堂(シナゴーグ)から始 まったキリスト教会としては言わざるを得なかったし、それが、ホロコーストもどきの悲惨な事件を繰り返さなければならなかったのだと思う。

  この講演会から、戻って来てから、中東の言語と中東交流史を勉強している息子としゃべったのだが、結構、このユダヤ人問題は中東交流史に非常に影響して居り、とりわけ近世から近代の中東史を考える上で、このユダヤ人問題は、避け得難い問題があり、それが現代のギリシアの債務不履行問題やらウクライナ問題とも全く無縁でない事なども、しゃべりながら、この辺りの問題というのは、もう少し日本のキリスト教界隈でも認知されてもいいかもしれないと思う。明治期に おいて当時最先端の西洋道徳、西洋倫理として、キリスト教を導入したその裏で、自分が信仰するものを絶対とするがあまり、このような黒歴史というかダークサイドがなかったことにすることは、旧約聖書的な世界とは大分違うと思うのだが。



CNNの報道番組 この中では赤服のKKKの方がご登場である。

 それと、個人的に今回気づいたのは、キリスト者の祭司制とキリスト者の王であること、という意味である。何、ここでもご紹介しているので、既にご存知の 向きもあるとは思うが、改革長老派の皆さんとも仲良くしていただいている。しかし、あそこまでガチ勢のノリは、ミーちゃんはーちゃんにはない(そのあたり がミーちゃんはーちゃんのミーちゃんはーちゃんたるゆえん)が、その精神性は何となくはわかる。

南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(1) (05/23)
南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(2) (05/27)
南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(3)聖書と科学1 (05/30)
南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(4)聖書と科学2 (06/01)
南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(5)礼拝論と賛美論 その1 (06/03)
南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(6)礼拝論と賛美論 その2 (06/06)
南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(7)礼拝論と賛美論 その3 (06/13)
南長老派の歴史研究の講演会に行ってきた(8)礼拝論と賛美論 その4 (06/15)

 しかし、この王としての役割、祭司としての役割にキリスト者が招かれているのだ、とすれば、もう少しきちんと考えないといけないのではないかなぁ、と思わされた。

 天と地がかみ合っているという理解に関して、 最近思うことがある。今Henri Nouwen のThe Wounded Healerという本を読んでいるのだが、この本を読みながら、Articulate(はっきり発音された、明瞭な、分節的な、明確な、理路整然とした、 関節のある)ということばが気になってしょうがない。なんかこの辺りの事と、天と地がかみ合っているということは、つながっている様な気がしている。

 今回、ミーちゃんはーちゃんの配偶者も同行したのであるが、もう、今回のこの講演会を聞いて、長年の疑問が解消した、と大よろこびであった。この世でキリスト者として生きるということの理解がかなり解消した模様である。

皆様にも、是非、『クリスチャンであるとは』をお読みいただきたい。

以下、国内で、今後開かれる懇談会で一般にオープンな講演会の画像情報をご紹介しておく。なお、以下の二つは、ミーちゃんはーちゃん謹製ポスター画像である。あめんどうさん応援団でもあるので、謹んで製作させていただいた。


2015年7月23日分

2015年7月24日 開催分




京阪凸凹神学会で発表した時の資料


評価:
---
日本キリスト教書販売
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(2014-10-21)
コメント:この号は非常に良かった。キンドル版があるので、お買い求めを。

評価:
ロバート・P. エリクセン
風行社
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(2000-05)
コメント:ナチスに協力したドイツ人神学者を巡る本。読んでおいた方が良い一冊


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 本日も、木原活信著 いのちのことば社刊 『「弱さ」の向こうにあるもの』第2章 「弱さと居場所」から、引用しながらご紹介してみたい。

大学に居場所のない学生

 本章の冒頭、居場所がないということを訴える学生の話が出てくる。日常、この世代の学生に触れていても気づくことである。大勢の学生が楽しそうにクラブだ、サークルだと青春を謳歌している中で、一人ぽつねんと寂しそうに離れて座る生徒がいる。そういうのは大学の教員としては、案外気になるのだ。
 イエスは自分には場所がなかったけれど、私たちに居場所を用意するというのだ。
 この場所(トポス)という言葉は、不思議な響きのある場所である。端的に言うなら、社会福祉(実践)とは、「誰にでも居場所(トポス)を与えること、あるいはそれを作り出すこと、特に居場所のない人に場所を提供すること」である。(『「弱さ」の向こうにあるもの』 p.34)
 いま、世俗の仕事では、学生関係の世話(就職の世話から、お悩み相談(これはあまりない)まで)をしているが、最近のこの仕事関係での学内外会議の話題は、大学生の保健室登校である。大学のキャンパスには来るのだが、保健室によってからでないと、あるいは保健室で一休みして、それから、教室に出没する学生さんがいるのである。国公立大学でもそうである。

 そして文科省の肝いりで、学習に障害がある学生への支援を大学がきちんとすることが求められる時代になっているのだ。詳しくは、全国の国公私立大学長あて文書でもある発達障害のある児童生徒などへの支援について をご覧いただきたい。

 この居場所の問題は、N.T.ライトの最新刊「クリスチャンであるとは」第3章、互いのために造られて という部分で触れられている人間は人間と共に生きるようにつく荒れていて、そして、それは神が三位一体としておられるからこそ、その形に似るものとしてコミュニティを求めるのではないか、というあたりとの関係があるようにおも合われる。

誰しもがソーシャルキャピタルが必要
 居場所といえば居場所なのだが、個人を取り巻くソーシャル・ネットワークといってもいいと思う。FacebookやGoogle+やTwitterは、ソーシャル・ネットワークのメディアであるが、ソーシャル・ネットワークそのものではない。


昔のSNS(うまい)の道具

 ソーシャル・ネットワークとは、その人そのものの生活を支え、わずかではあるが個人では解決がしにくいような日常的な問題に対して、その解決の補助を可能するような人間関係の紐帯の事である。それが、R.D.レインという精神科医によると、普遍的な人間的欲求であるという。そのことに関して、木原さんは次のように書いている。
 独創的な思想を20代後半から次々と発表して「反精神医学」といわれた著名な精神科医RDレインはこのことを見事に言い表して、こう説明した。
 
 すべての人間存在は、子供であれ大人であれ、意味、即ち他人の世界の中での場所を必要としているように思われる。・・・少なくとも一人の他者の世界の中で、場所を占めたいというのは普遍的な人間的欲求であるように思われる。」(『自己と他者』志賀・笠原訳 p.167)
(同書pp.35-36)
 先の話で言えば、最近行政界隈で当たり前のことばになったソーシャル・キャピタル(社会的人間資本)はソーシャル・ネットワーク上に発生する資本であり、個人の生活をより豊かにするものである。ひきこもりなどの問題は、このソーシャル・ネットワークがなくなることを意味するのである。あるいは大きく毀損されることを意味するのである。この社会的資本があるから、個人は自己の存在意義を確認できるのであり、個人は自分自身の生における意味や役割を見出すことができるようには思う。しかし、本書の後半で出てくるが、これに依存しすぎて、依存関係になる場合がある。その場合は、基本的に境界線を明確にし、依存関係を適切なものにしていく必要がある。

居場所はありますか?
 個人にとっての居場所があるか、という問いである。これはリアル空間における居場所ではなく、どちらかというと認知空間における居場所であると思う。
 それでは、読者の皆さんには本当の居場所があるかと問われれば、どうであろうか。あるとすればどこに。先に引用したレインによると、もし居場所がないというなら、人間の本質的な欲求が満たされてないことを意味している。これが精神的な病の根幹にあるとレインは主張する。確かに、物理的な場所ではなく、他人の世界の中で、場所(意味空間)を必要としている感覚はわかるように思う。夫婦にとっては配偶者、子供にとっては親、学校では友人、恋人であろう。(同書 p.38)
 教会は家だと言われ、居場所だと教会は主張する。しかし、教会の主張としては居場所であるが、実際にそうでない教会も案外多いのではないか。いや、正確に言うとある特定の人々にとっての居場所になってはいるけれども、そこから外れた人々にとっての居場所になっていない教会はあるかもしれない。

 先日Love Wins祭り( Love wins AKA アメリカ連邦最高裁同性婚祭り ワズw ) のときにご紹介した動画を再掲しておく。この人は、私たちのメンバーなので、この教会に入ってよい、この人は私たちのメンバーでないので、入ってもらったら困る、とさすがに、海兵隊上がりや非番の警官をアルバイトで用心棒(Bouncer)として雇っているアメリカのダウンタウンのガラの悪いバーもどきの厳密な管理をしている教会はないかもしれないが、本人がカミングアウトした瞬間に、ボタンが押されて、戦闘機のゼロゼロ脱出システムのように、教会外に掘り出すことはないかもしれないが、じわじわと来会しにくくされ、追い出すような包摂力のない日本の教会は全くないとは言えないし、実際そのような被害にお会いになった方を何人か存じ上げている。そういえばこの間、コメントいただいたマダムLさんなんかもアメリカの教会でそういう目にお会いになられたかも、である。


ベトナム戦争期活躍したF104のゼロゼロ射出システム
 

教会の門の前に立つこわもても用心棒さん United Church of ChristのCF


どこぞの教会にはあるかもしれない、新来会者射出システム United Church of ChristのCF

 まぁ、高齢者ばかりの教会に若者は居辛いし、若者ばかりのノリノリ、ウェーイの教会は、高齢者につらいだろう。その意味で、教会は特定年齢層や特定の社会集団が固まってないことが望ましいのだが、キリスト教人口が異様に少ない、そして、個別教会の構成人数が少ない現実日本の教会はそうなっていないことが多いので、この辺が難しいところである。

弱さを知る必要
 まぁ、この前ご紹介した本田司祭の講演内容

日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた

日本宣教学会第10回大会@大阪 で本田哲郎司祭の基調講演を聞いてきた 質疑応答と感想

ではないが、受苦ということは非常に大きい意味があると思う。だからといって、「受苦しているから、はいそれバプテスマと同じです」ということまでは思っていないが、世俗社会からの隔離、排除などによる視線移動が苦しんだ人の内部で、起きている可能性は否定できない。それが理不尽なものであればあるほど、自己を超えた存在を訪ね求めることも考えられるからである。

 イエスは、徹底的に弱い存在になられ、死を通られたということ、そして休まれたというあたりのことは、ナウエンの美しい文章で、そして、翻訳者小渕さんの名訳で、「ナウエンと読む福音書」の最後の部分でうまくまとめられている。これもまた是非お勧めしたい本ではある。この部分を考えるためには読まれることをお勧めする。
 (引用者補足 イエスが弱い赤ん坊として生まれた)その明確な答えはよくわからないが、恐らく、いくつかの理由があると思う。
 その一つは、本当の理解者は、貧しさ、人生の辛さ(辛酸)弱さを知っている(体験している)必要があるということであろう。イエス自身は、最も小さいものになったことを通して、人間の弱さ、苦しみを理解できる、つまり、共感共苦(コンパッション)ができることを教えている。(同書 p.40)
 個人的には、最近まで、ピエタの意味があまりピンとこなかった。ナウエンを読むまで、本当にわからなかったのである。しかし、この受苦のキリストの意味、傷つき、痛んだキリストの意味をナウエンと読む福音書を読み、コンパッションを読み、わが家への道を読む中で、このことが少しづつわかるようになってきた。この裂かれたキリストと裂かれたパンは理念的に説明は受けてきたが直感的にあぁ、なるほど、となったのは、本当につい最近の事である。それだけ、外見的には幸せな人生を送らせてもらっていたのだ、と思う。


ミケランジェロ作ピエタ(Wikipedia様から)

支えられる体験
 信仰する、という動詞にπιστεύω(ピステオー)という語があるが、この後は他人に信頼して寄りかかるという意味がある。まさしく、弱くなっているからこそ、弱いからこそ寄りかかるのである。しかし、近代を支配した勝利主義的概念が支配する近現代においては、この弱くなることを許さない、老人でも若作りをする。その結果、以下の「とわに美しく」のようなスプラッター・コメディ状態になりつつある。プラセンタだのコエンザイムだののCF見ていると、もはやコメディである。70過ぎて30歳代に見えたら気色悪いではないか。


とわに美しく(もはやスプラッターコメディであった)

もう一つは、支えられるということそのものの中に深い意味があるのかと思う。本来、何物にも支えられる必要のないものが、あえて自ら支えられる状態になるということ、ここに深い神秘が隠されているのではないだろうか。(中略)このように支えられるという実践(実体験)は近現代には軽んじられるものであるが、人間の大切な神秘であるように思えてならない。(同書 p.41)
 まぁ、力学でもそうであるが、作用が動くためには作用点が必要で、作用点では、我々はある面で支えられているのである。そういうことを考えると、もう少し、最近復活させた富士山とシナイ山の連載ではないが、完全に訪問者として我らのところにやってくる神に我等はもう少し支えられ、神を信頼し神に依存するための知恵を深める必要があるかもしれない。



 まだまだ、続く。




評価:
木原 活信
いのちのことば社
¥ 1,728
(2015-07-08)
コメント:お勧めする。

評価:
ロバート・D. パットナム
柏書房
¥ 7,344
(2006-04)
コメント:名著である。

評価:
ヘンリ・ナウエン
あめんどう
---
(2008-04-30)
コメント:再版が出ないだろうか。その日を心待ちにしている。


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 今日は先日大阪市内で行われたN.T.ライトを自由に語る会の参加記録の概略(一部抜けがあります。スマソ)をご紹介したい。



当日会場の様子

 冒頭、それぞれの参加者による自己紹介が行われ、その後『クリスチャンであるとは』の翻訳をされた上沼昌雄さんのお話があった。見出しは、ミーちゃんはーちゃんがテキトーにつけたものである。上沼さんと来場者の方の御発言はできるだけ拾ったが、聞き間違い、メモ間違いの段は、ミーちゃんはーちゃんが悪いのである。ご発言の本意と違ってたら、ミーちゃんはーちゃんのメモ能力と聞き取り能力が悪いのであり、その点はご容赦願いたい。

アメリカでのN.T.ライトの広がりと今回の翻訳

 N.T.ライトがアメリカで流行り始めた。数多くの教会で取り上げ始めたし、牧師がN.T.ライトに沿って説教したことで、物議を醸した教会もあった。

 アメリカの大学のKGKに対応する組織が開いたVeritas Forumの中で、NTライトがSimply Christian(『クリスチャンであるとは』)とほぼ同等の内容を取り上げていたので、今回、それを取り上げるのが良かろうということで翻訳を始めることにした。

 この翻訳中、義父様の看病しながら、生きるとはどうなのかを考え、訳しながら、考えるという作業が続いた。この『クリスチャンであるとは』という本の主要な主張は、「クリスチャンであるとは真の人間として生きることである」ということである。

N.T.ライトと牧会上の視点

 N.T.ライトのすごいところは、概念的に神学的思惟として取り組むだけではなくて、実践的にやっているところである。

 牧会の領域でこの本をどう理解するのか、特に、神の国の譬えが何を意味しているのか、ということを取り上げている面もある。その意味で言うと、N.T.ライトを一言でいうならば、創造から新創造に至る大パノラマを展開させているのではないか。非常に大きな聖書理解の枠組みを提供しているのではないだろうか。

 我々は、新しい天と新しい地を信じている、とは言うのではあるけれども、N.T.ライトは黙示録の記述を文字通り信じている。神が目標を定めて働いている。これがNTライトの大パノラマを構成していると言えよう。

 The Mission of Godという動画(多分リンクはこちら)がある。 黙示録から始まり、創世記に戻っていくタイプの講演をしている。

英文で読んだ時のライトの面白さ

 ライトの英国人風の英語の遊びがすごいのである。
 13章 神の霊感による書(The Book God Breached)の冒頭部分が紹介された。上沼さんがお読みになられたその文章とは、こんな感じである。
It's a big book,full of big stories with big characters.  They have big ideas(not least about themselves) and make big mistakes. It's about God and greed and grace; about life, lust, laughter, and loneliness.  It's about birth, beginnings, and betrayal; about siblings, squabbles, and sex; about power and prayer and prison and passion.
(Simply Christian, HarperCollins, p.173)
 英語の遊びができる人であり、こういいう表現で遊んだりしている。この部分などは訳出しづらかった。

ライトにみられるアマチュアリズム

 フーストン先輩(オックスフォードで地理学を教え、今、リージェント)が言うには、オックスフォードの精神は、アマチュアリズムであるという。難しいことを語ることが学者ではなく、わかりやすく語るという側面は、CSルイスやトーゥルキンなどに典型的にみられるものである。

<ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ>

 失礼ながら、アマチュアリズムは、オックスフォードの伝統というよりは、基本英国貴族社会が余裕があった社会であったころからの伝統であると思う。名だたる技術者として知られる人物や科学者として知られる人物は、基本アマチュアで、それを本業にしていなかった人々が多い。例えば、古典物理学者としてのみ日本で知られているニュートンは物理学者として大学の中で生きたわけではなく、貴族のひまつぶしに近い感覚で物理法則を作った人である。造幣局長なんかもやっている。

 また、オリンピックゲームでアマチュアリズムの英国に対して、トレーナーをつけ、既にプロ化に近いことが始まっていたオリンピックパリ大会での米国勢とトレーナーを雇ったユダヤ人選手に対する微妙な批判意識が「炎のランナー」でも見られる。なお、あの映画をある種のスポーツ映画や、オリンピック映画や、キリスト教万歳映画としてみるのは間違いであると個人的には思う。19世紀から20世紀にかけての英国国内に内在する諸要因、つまり、反ユダヤ主義、英国の斜陽化の始まり、階級間文化の違い、スコットランドとイングランドの違い等がちりばめられた実に懐石料理的な映画なのである。

 ところで、第1次欧州大戦、第2次欧州大戦でも、このアマチュアリズムはいかんなく発揮され、その結果、オックスフォードやケンブリッジ卒業生がかなり士官クラスとして最前線の戦地に赴き、死去していることもまた事実ではある。あと、英国ではアイディア倒れの兵器というものに、このアマチュアリズム精神が遺憾なく発揮されるために、水陸両用戦車とか、実に珍妙な兵器が開発されることになる。そういえば、バトルオブブリテンで活躍したデハビランドモスキートは、ジュラルミンやアルミ合金製の機体の金属使用が進む中、ベニア板で構成された奇跡の機体である。


英国の水陸両用戦車

木材加工で造られたデハビランド・モスキート

デハビランド社が開発した世界初のジェット旅客機 コメット1型
翼内設置型のジェットエンジンが特徴的

<以上、ツッコミ>

創造から新創造へと広がるパノラマ
 創造と新しい創造がパノラマとすると、すべてのものが創造から新創造に移行することを含んでいる。我々は、聖書と一般の自然科学を区別してきたのではないだろうか。しかし、ライトが言うには、すべての事は創造と新創造の中に含まれていることになる。となると、日本の歴史も、自然もそれに含まれる。

 我々は、一般の世界と霊的な世界を分けていて、霊的な世界にのみ語ってきたのではないだろうか。被造物(Creature)とCreationを分けて考えているかもしれない。Creationでは、被造物と、その前に天(神の支配の座)と地(人間が住む世界)がつくられた。Creatureだと地の世界だけを言及することになるが、Creationそのものだと、被造物世界を含み、神の世界を含む全体システムの話になるのではないだろうか。

 N.T.ライトが言うのは、All Creationの贖いを言う。こう考えると、考えるべきこととやれる方向が見えてくるのではないか。実に多様な姿を見せる織物のように、様々な要素がパノラマの中に織り込まれているのではないか。

来場者から
 救済史と和解論(?)がまるまるが一致した感じなのだろうか。こころの中だけで義認の問題をしてきた。

上沼さんの応答

 義認論は人間に関するもので、和解論は、万物)に関するものとされてきた。和解論における救済論の代表論客はバルトだった。その意味で未だに拒否反応があるかもしれない。しかし、救済論一般で行けば、個人の心、霊の問題に縮約されてしまい、一般の歴史から離れてしまうことになる。

 一般救済とと霊的救済に関して言えば、霊的救済にかかわる義認論に関しては個人の内面を扱い、一般救済は万物の回復になっているが、この種の二分論と理神論とは深い関係にあり、この影響は現在でも強いのではないか。

天と地が噛み合い連動する世界
 しかし、ライトは、重なり合い噛み合っている。Overlapping and Interlocking(歯車のように噛み合っていると言っている。一種連動するような状況を想定するようである。NTライトは、奇跡が当然あると主張しているし、預言も異言も起こりうるとしている。しかし、そこが目標ではないと主張している。本来、奇跡や予言や復活の先にある部分が究極の目標点であり、この究極が復活なのであるとしている(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ このあたりSurprised by Hopeがくわしい。なんか現在日本語の翻訳作業が進んでいるらしい)。新しい創造が復活と非常に深く結びついている。

(ミーちゃんはーちゃん的言い訳
 このあたりから、Ministryの編集長からの特命指令が下って、写真を撮って送るように言われたので、記録がかなりいい加減になっている。参加者の方、申し訳ありません。しかしさぁ、読者と一緒に創る雑誌だからってさぁ。w)

来会者から
 教義学を見ているよりは神の物語へ我々が共鳴しうるものとしてみているのではないか?
上沼さんの応答
 歴史学者としてN.T.ライトは訓練を受けてもいるし、教理史も知ったうえで議論しているように思う。

来会者から
 ルター派のN.T.ライトの居心地の悪さがあるようにおもうのだが。そして、ルターの義認論はより大きなものであると思う。

上沼さんの応答

 ライトの学術書はフォートレスというルター派の出版社から出ている。むしろ、ライトは旧約聖書を起点に流れがどのようになって、新約聖書の世界につながり、そして将来になっているかを述べている感じがする。ライトは、ある視点から見るとある織物が見え、別の視点から見方を変えると別の織物の柄が見えてくるような感じがする。ルター派以降の二元論に対して、かなり挑戦的ではあると思う。

来会者から
 ローマ8章3節(律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。(口語訳聖書))を根拠にこれまで、2元論的に翻訳して理解してきたのではないかとは思うが。

上沼さんの応答

 我々は、聖書の世界と一般の世界を分けて考えてきたのではないか。創造と新創造がすべて含まれているとしたら変わってくるのではないか。
 このような考え方で行けば、イエスを信じて天国に行くことが究極の目的となってきたように思う。しかし、ライトは、新しい地を治めていく責任を持っていると指揮している。

来会者から
 新天新地というが、天とのかかわりが分からない。

上沼さんの応答

 聖書ははっきりとは書いていない。我々はちらっと垣間見ることができるだけだろう。聖書では、新しいイエルサレムも神のもとから下ってくるとされている。

主の祈りを大切にするライト

 さらに、ライトは主の祈りを大事にしている。特に、御国が来ますように、というとき、天というのは神がおられる場とし、そこが知覚にあることを願っているのではないか。天と地はちょうど薄い膜で隔てられているようなもので、垣間見ることができるような感じかもしれない。ライトは臨死体験否定はしないけど目的はそこにはない、と主張する。むしろ死後の世界ではなく、神の新創造の完成ということを考えているようだ。

ライトの主の祈りに関しては、こちらの拙ブログの2012年12月の「ライト読書会に行ってきた」の記事を参照。

来会者から
 
良いわざに関与していく、という意味では、ラウシェンブッシュと似ているかもそのあたりをどう考えるか。

上沼さんの応答

 6章で、イスラエルを取り上げている。ここで、イスラエルを独立して取り上げているところが特徴的であろう。律法と福音だけであれば、旧約聖書の途中の記述は必要ない。邦訳書6章103ページのホロコースト記念館訪問の下りが参考になるかもしれない。

ホロコーストまでのキリスト教
 恐らく、アメリカ人には、ホロコーストの救出の経験のみしかなく、ホロコーストを主体的に生み出していない関係があり、アメリカ人ではここまで書けないだろう。ある面、ヨーロッパのキリスト教(傍観者として、であれ、主体的にかかわったのであれ)は、ホロコースト事件に係ったために、信用を失い、死んでいる状態であり、それがそうは見えるかもしれないが、もう一度復活する可能性があるとどう考えるのか、ということは大事かもしれない。その意味で、もう一度キリスト教が社会に影響を及ぼすかという問いをこの本でしているようにおおう。キリスト教徒反ユダヤ主義の結びつきが実は非常に強い。(ミーちゃんはーちゃん的ツッコミ この辺は日本にいると感覚が鈍くなる)。ヨーロッパキリスト教2000年の歴史が実は、反ユダヤ主義的であった。キリスト教が形成された、ほとんど初めの段階から、少なく十アウグスティヌス時代から反ユダヤ主義であった。どこかでユダヤ人がイエスを殺した、という形でのユダヤ人の迫害をしてきたといえよう。

 アメリカの教会は50-60年代において、きわめて隆盛を誇ったが、ヨーロッパではその半面、教会が人々から信頼されなくなった。その後の状況(ポストキリスト教界時代)を経て、あえて、教会はインパクトを与えうるのか、を問うていると思う。その意味で、大変なことをやっているのではないか。

 反ユダヤ主義に関しては、カトリックもひどいし、ザビエルもインドのゴアでユダヤ人の火あぶり事案に関与し、ヨーロッパから逃げたユダヤ人を火あぶりしているという説もある。過去のキリスト教の黒歴史に関しても、旧約を読むなかで、考えることになったのではないか。つまり、人間が今一つでも、そこに働く神ということはあるかもしれない。

 次回へと続く



評価:
N. T. Wright
HarperOne
¥ 2,511
(2010-02-09)
コメント:是非、英書にもチャレンジを

評価:
N. T. Wright
HarperOne
¥ 2,693
(2008-02-05)
コメント:認識論や、天国理解の問題なども。良いと思います。間もなく日本語訳がでます。


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